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a day

2024. 11. 23

☆☆☆Address Unknownのアイミタガイ☆☆☆
 「Blowin' in the Wind」ですよね…とお会いしたことはないIさんから教えていただいた。ああ、そうか。そうだな。だから妙に懐かしく心に響くのか。もちろんそれが正しい答えなのかはわからないが、そういうことではない。心深く志高き拓郎ファンが世界にはたくさんいる。その殆どはaddress unknownで、そして寡黙だ。自分のように調子にのって自己陶酔でダラダラ発信しまくったりしない。静かに心を抱く人たちばかりだ。

 ということでいろいろな音楽的仕掛けに鈍感な自分だが、それでもこの「Address Unknown」は、胸にしみる空のかがやき。出会わなければよかった曲などないが、この曲には逢えてよかったと思う。

 Unknownな私たちに吉田拓郎は歴史の突堤で語りかけてくる。惜しむらくは、そのラジオを必死で聴いていた私たちの側の詞が無かったことだ。もちろん私には詞なんて到底書けなかったけれど、拓郎のラジオの語りかけを長年大切に受け取って来た側からのアンサーの思いがあればもっと良かったのになと思った。拓郎が詞を募集していたのはそういうことだったんだな…と勝手ながら思う。まさに、僕達はひとりぼっちどうしのアイミタガイ=相身互いである。

ということで…あいみょん…待っとれ、>知らねぇよ

2024. 11. 22

☆☆☆第一部 エルトン永田さん受賞めでたし☆☆☆
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 ご受賞おめでとうございます。ああ久しぶりにエルトンさんのピアノで歌う拓郎さんが切に聴きたいです。いつまでもお元気で…今年の冬は厳寒のようなので是非暖房を使ってください。授賞式には御大のように是非ジーンズ姿で!!

☆☆☆第二部 アイミタガイ☆☆☆
 映画「アイミタガイ」を観た。どんな映画かも知らず、主演の黒木華が映画主題歌であり私の大好きな「夜明けのマイウェイ」を歌うという断片情報を聞いただけで、たまらず観に行かずにはいられなかった。
 「黒木華」は一昨年、発泡酒の車内広告があまりにキュートすぎてひとめぼれした。これだ。
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しかしそのあと、これも神ドラマ「ブラッシュアップライフ」で不倫相手にキレ散らかす迫真のシーンが演技だけとは思えず…別ドラマ(「僕の姉ちゃん」)の黒木華のセリフを借りると
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ということですこし自重しております(爆)…いやでも今回も華さんの演技はすんばらしかったです。

 「夜明けのマイウェイ」は何度かサイトでも引用したが、桃井かおりの名作ドラマ「ちょっとマイウェイ」の主題歌(荒木一郎作詞作曲)で大好きな歌だった。ちょうど79年の秋「春を待つ手紙」が流れていたころだったんだよ。大してヒットもしていない曲なのになんで今この曲を持ってくるのか。運命的なものを感じた。
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 不覚にも知らなかったのだが、この映画は亡くなった佐々部清監督・脚本で準備されていたということだった。佐々部清監督といえばあの全編吉田拓郎音楽映画「結婚しようよ」の監督だ。急逝されたために一旦製作が中断していたらしい。脚本にも佐々部清のクレジットが残り、エンドロールは佐々部清さんを偲んでという言葉で結ばれる。まさかこんなところでお会いするなんて。あの映画にはさんざん悪態をついた私だった。しかし、今回この映画で私は故佐々部監督と心の底から仲直りした>何様なんだよ

 この映画にひとりで来ているジジイは私だけで肩身が狭かった。しかも最後にジジイは感極まって泣きながら、我慢できずにエンドロールの「夜明けのマイウェイ」を小さな声だが黒木華と一緒に歌わずにいられなかった。ポップコーンバリバリ喰う野郎よりはるかに迷惑だったろう。すまん。

 アイミタガイ=相身互い…俺は吉田拓郎と「ラジオの夢」のことを考えずにいられなかった。…せずにいられなかった…がやたら多いcannot help 〜ingな今日の日記だ。たぶん明日もつづく。

2024. 11. 21

☆☆☆そのまんま星☆☆☆
長女 「お父さん、武部さんのAddress Unknonのアレンジの仕掛けってわかったの?」
父  「…CD買ったけど、ま、まだ聴いておらんわい」
長女  (わかんなかったんだわ)
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 銘曲だ、いいなとは思いましたが、星は何回聴いても気づきませんでした。

2024. 11. 20

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☆☆☆「ラジオの夢」第一印象☆☆☆
 まだ聴きこんでいないし、グタグダ書くまい。簡潔に言う。BRAVO!! 私は小心者なので本作がずっと不安だった。最後のアルバムは2年前に既にキッチリと終わってしまっている。あの「ah-面白かった」が"ライブの圧巻のフィナーレ"だとすれば、さしづめ今回はライブ後の"出待ち"みたいなものではないかと予測していた。あまりに期待して傷つくのが怖かったんだよ。きっと終わってしまった収穫の…"落穂ひろい"のようなものを勝手にイメージしていた。
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 しかし違う。違った。なんだこりゃ、このみなぎる自由な躍動感は。一曲目は後奏もイイが、イントロからしてが胸ワシづかみでたまらない。詞も含めて感銘曲だよ。二曲目はまるで換骨脱胎だが「春を呼べ」に異曲のTとUがあるように、こちらもコントラストが見事な2パターンが揃って、あゝ長生きはするもんだ的なお得感。骨まで身体を揺らしながら、夜空を仰いで、あっという間に最後になってしまった。このノリの高まりでもう終わっちゃうのか。アルバムのA面を聴いてひっくり返したら、B面がツルツルだったみたいだ…俺には裏がない界隈である。あゝもっともっと聴きてぇ。
 あわせて先日の木村拓哉への提供曲「君の空気に触れた瞬間」も聴き直してみる。吉田の現在のトーンのようなものが結構見えてくる。それは、しめくくりなんかではなくて未来に向かってスコーンと開いてるんだよな。かすかな希望の光がさすような。"落穂ひろい"ではなく俺の心の中ではこんな感じだ。
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 まあ…私は自己満足、自己陶酔の小心者のエセ発信なので、たぶん違うのかもしれないけどさ。それが、私というひとりぼっちの第一印象だ。って、結局ダラダラと書いてしまった。もっと聴きこもう。ともかく終われねぇ。

 

2024. 11. 19

☆☆☆ぼくらは生き続けひとりぼっちだ☆☆☆
 谷川俊太郎さんのご冥福をお祈りします。詩のことは無明の私にはわからない。それでも小学生の頃はピーナッツ・コミックの名訳でお世話になり※タメイキ※、その後は、なんといってもフォーライフの専属作詞家かと思うほど…すみません…小室等とのたくさんの作品群を経験した。当時は設立後の勢いが止まって少し沈痛な雰囲気だったフォーライフだったけれど、そこに吹いていた涼やかな風のような歌たちでありました。個人の感想です。どうかやすらかにお休みください。

 それにしても1978年11月21日、谷川俊太郎&小室等の世界を味わった目黒の23区コンサートを思い出す。そうだよ、吉田拓郎もそこにいて新作「ローリング30」の発売日だった。

 奇しくもその日も近い本日、届いたぞ「ラジオの夢」。祝!新盤出来。こうして46年前も今も新曲が届くという、この旅はたった一度の夢でしょう。「ラジオの青春」とならんでお疲れ様でした。大切に聴くよ。どうかいつまでもいつまでもお元気で。
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2024. 11. 18

☆☆☆ライブという真実☆☆☆
 何というカオスな世界線なのだろうか。部外者ながらショッキングな選挙だった。私が、昔のあの忌まわしい事件から学んだことは、根拠も持たずに故人と故人のご遺族らに鞭打ち攻撃するような人間を信用してはならないということだ。もちろんそいつらをよくやったなどとは1ミリも誉めそやしたりすまい。ネットだからマスコミだからという問題ではない。しかし悲嘆にくれている場合ではなく、そっちに墜ちないよう、墜ちたら這い上がるようにがんばっていかなあかんとあらためて思う。
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 ということとは関係なく、久々に神奈川県民ホールにやってきた。こんなに美しいホールなのに、ほどなく閉館(改築か)の宿命らしい。自分としては生まれて初めて御大のライブを観た記念のホールだ。
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3.18…たまたま昨日の同行者のひとりの誕生日だった。当時のチケットの席にそっと座ってみた。おお、そうだ、この景色だ。なんで場末の蒲田のレコード屋にこんな良席のチケットがあったんだろう。
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 このまま待っていれば吉田拓郎とミュージシャンたちが登場してきて「春だったね」を歌い始めるのではないかと思ったが違った>あったりめぇだろ! ああ、でも唯一、島村さんだけはおんなじなのだ。

 「北の国から」以外はツウの方々にしかわからないという渾身の選曲。確かに俺にはわからん。「駅」がテーマらしい。隣近所の見知らぬ観客の方々は、ひとつひとつに、あ〜、う〜とか唸りながら、ハラハラと泣いていらした。タイトルは忘れたけど(爆)、何曲か俺も泣きそうになった。うねりながら、そこに漂う清浄な空気。それがライブにある真実だと思い出した。

 石川鷹彦さんについてのMCが面白かった。拓郎もよく口にする観音崎のスタジオで合宿してレコーディングをしていたところ一日だけ休みがあって、近くの浦賀に行って見たくなったSADAは嫌がる石川さんを無理矢理誘おうとしたらしい。
 石川さん「え〜、なんで浦賀なんだよ」
 SADA  「だって浦賀と言えばペリーが来たんでしょうが」
 石川さん「ペリーってもう帰っちゃったじゃん」
 ‥笑ったな。


 ラジオの青春最終回ですか。心の底からお疲れさまでした。
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2024. 11. 16

☆☆☆それはそれで私という密かな真実☆☆☆
 昨日の日記は率直かつ簡単に言うと「うるせぇよ(爆)」という気分で、かなりイキっており我ながら自分で自分が恥ずかしい。なにもそんなに俺ごときがもったいぶらなくても。てか何様なんだよ@自分。もういい。ひっそりとコソコソやろう、心の扉を閉じて偽り続けてみよう。夕陽は逃げ足が速いんだ。…あらためていい歌だぜ。
 それにしてもネットも刊行物ですらも信用できない中で、非力で無明の自分はどうすりゃいいのか思案橋。このささやかな推し活から選挙と民主主義の問題まで連なってかなり腹立たしく怖いことばかりだ。

 そんな中で、今日、流れてきた多分最新の石川鷹彦と幸拓の笑顔の写真…たまらんな。胸がほっこりと温かくなる写真だ。ああこれは少なくとも信用できる真実のひとつだと確信した。ちょっと安堵する。元気が湧く。そうやってあちこちに散らばっている真実を石橋を叩きながら探してゆくしかない。
 そういえば2016年に真実はステージにある、ステージにしかないと御大は明言していたのを思い出した。明日と来週と久々にあちこちのステージに出かけてみるぜ。

2024. 11. 15

☆☆☆乗るも乗らぬも船はひとつ☆☆☆
HOHOHO〜。えーっ。吉田、船に乗ってないってよ、新田さ〜ん。ということであれこれ調べ直したらムッシュのページに記載があった。
2/28 「我が良き友よ」ヒット祈願 神田川上り with ガロ+オレンジ(浜松町釣舟屋はしや↔東京湾↔飯田橋)
                  Webサイト「ムッシュかまやつWEB記念館」より
…ガロじゃん(爆)。あとオレンジって山本達彦がいたグループだよね。懐かしい。ということで、御大は船には乗っていないそうですので謹んで何日か前の日記を訂正します…何で私が(涙)。

 確かにお腹立ちごもっともの混沌とした世界だ。それに私は自己満足、自己陶酔の小心者の典型だが、それでも誤読を繰り返しながら問い続けることをやめない。休んだりしないで問いと推しを繰り返す。さもないと真実はたちまち時の暗がりに葬られてしまうに違いないからだ。「旅の宿」と「結婚しようよ」と「全部抱きしめて」がヒットしたフォークの神様なんて薄っぺらなパッケージで伝承されてゆくのは譬え自己満足でも我慢がならないのだ。…さてそろそろ最終回ということですがお疲れ様でした。どうかこれにお懲りにならず、

 これからも過ちを繰りかえしゆく私を
 あなたは時々 遠くで 叱って
 あなたは 私の青春そのもの

いつまでもいつまでもお元気でいらしてください。

2024. 11. 14

☆☆☆おきざりにしたあの悲しみは☆☆☆
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 もちろんタイトルに惹かれて読み始めた。わたしたちのあの名曲が大切な一曲として登場する。この小説のように本当に若者がこの歌に心を揺らしてくれるといいのだが。街角で仕事場で地下鉄の中で、一気に読んでしまった。泥臭く切ない話だったけど、最近なじみが深い武蔵小金井が舞台なのと、それでも65歳の老人にも希望の明日があるという話に救われた。映画化しやすい話だが、だったらトヨエツに一票。

 小説中の「スペインを目指せ」というアドバイスに背中を押され、思わずあのスペインの月刊明星を古書店で買ってしまう。

2024. 11. 13

☆☆☆なつかしくてあたらしい☆☆☆
 あゝ、月刊明星なのですか。ありがとうございます。諸先輩はすんばらしいです。さすがっす。やっぱスーパーアイドルだしスターだったんだな。いや、このスペイン・ロードは是非観たいので凸ろう。

 明日はBS12でドラマ「ありがとう」がある。懐かしドラマだが、いろんな意味で面白い。何がいいって、まず水前寺清子の主題歌がいい。曲もいいが、なんつってもチータ、のびやかなすばらしいボーカルだ。カラオケで恥を忍んで歌うのだが、とてもあのスカっ晴れのような歌いっぷりには程遠い。
 お爺ちゃん役の伊志井寛は、確かこのドラマの途中で急逝されて、途中で役者が変わったのを子どもながらに覚えている。
 もちろん石坂浩二と水前寺清子の恋愛が主軸なのだが、現在観るとそれよりなにより山岡久乃がとてもいい。よく"日本のお母さん"と讃えられるが、それはそうだが、そことは微妙に違う。たとえば、ドラマの中で、境遇が違うけれど同年配の乙羽信子とお互いの距離を守りながら心を配り助けあう。そういう大人の確固たる信頼関係のようなものを表現しているところがすばらしいのだ。男女問わず、大人はかくあるべしというものをきちんと描き出している。子どもの頃は考えもしなかったが、自分も大人になって観ると…ああ、今の俺にはない、足りないと痛感することしきりだ。
 ということで山岡久乃さんは本当に素敵な俳優だった。その彼女がこの20年後に「吉田町の唄」のプロモーションビデオにもご出演くださることになる>ちょっと違うだろ! しかしこの稀代の名曲に対してミツカンポン酢はねぇだろ!と当時キレかけたのだが、山岡久乃さんだったので我慢したものだ。

 ところで「ありがとうの歌」の二番で"やるせないモヤモヤを"、これはあれだなフォークルの「悲しくてやりきれない」の"このやるせないモヤモヤを誰かに告げようか"の伏線回収だったのか。それで加藤和彦はチータに告げたのか>ってそれも違うだろ

2024. 11. 12

☆☆☆ここじゃないどこか遠く…☆☆☆
 TAKE-SANの監修本にはロサンゼルスと書いているけれど(地球音楽ライブラリー「吉田拓郎」改訂版P.9より)。
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 確かに洋服と電柱が同じだ。もちろん俺にはわからん。こたえは風に舞っている。そもそもジーンズのCMって知らなかった。あったんだ。ますますベストジーニストの殿堂入りはもちろん永世総裁かなんかに処遇してくれよ…と言いたい。
 スペインに限らずヨーロッパではテーブルについて注文を取りに来るまで30分くらいかかって、みんなそれで平気だという話を聞いた。ヨーロッパ時間というものなのか。

※調べたら TURLEQUE ってトレドの街だ…っつうことはスペインが正解。ずっとロスだと思っていた。さすが本人。

2024. 11. 11

☆☆☆ニューヨーク恋物語☆☆☆
 ニューヨークというと1986年のサマルカンド・ブルーのレコーディングだよね。いつの時代にもその時代なりの魅力はあるけれど、あのときのデカダンスなカッコよさが写真に滲んでいる。85年のつま恋が終わって前線から姿を消してしまって、これからどうなるのか…なんか今の状態に近いと言えば近いか。背負っていたもの全部降ろして、あ〜もう何にもやる気がしねぇやと、やさぐれていながら、それでも音楽力は衰えず静かに漲っている、そういう姿から不思議な色香が立ち上っていた。
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 88年に再登場した時は、また雰囲気が違ってしまっていて、このニューヨーク近辺だけに漂う独特なオーラみたいなものを感じた。もちろん別に会ったことないし、ニューヨークに行ったこともない。すべては妄想だ。でもニューヨークはそういうものなんだろうなと幾枚かのこの頃の拓郎の写真からわかったような気になる。
 「人生キャラバン」の"炎にかざした 俺とおまえのこのぉぉぉ手には"のシャウトは何回聴いてもいい。ということでニューヨーク界隈のビジュアルもボーカルも作品もすべてお気に入りだ。…だから失敗作だなんて言わないどくれ。
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 田村仁さん、そんなにお蔵があるんですか。どうでっしゃろ、"TAKURONICLE"の写真を更新して蔵出しとか入れてくれまいか。

 それにしても御大、怒涛の更新だな。まるで千本ノックでも受けている感じがしてきた。

2024. 11. 10

☆☆☆プロジェクトN☆☆☆
 不覚。朋輩から教えられて、そうか、あの話のあの人、この話のこの人も新田さんのことだったのかと、パズルのように記憶がつながりはじめた。あらためて、つくづく知らないことがいっぱいあるし、知らないことがわかるたびに世界の見え方が違ってくる。そこがファン人生の妙味で楽しい。

 拓郎が最近のラジオでも話していた1975年9月の"オールナイトニッポン最終回爆弾発言事件"。拓郎がラジオの生放送で突然の離婚を宣言し、当時中学生の俺も含めて世界中を驚かせた。驚かせただけでなく「あんたら地獄に行くよ」とマスコミどもを怒らせ、そりゃあもう大騒ぎだった。そんな渦中にニッポン放送のNディレクターが、あとは全部オレにまかせろとすべてのトラブルを引受けてくれたことを拓郎は現在も大切に思っていることが昨今のラジオでも伝わってきた。
 話戻って当時の爆弾発言のラジオ放送を終えた拓郎は、これ以上マスコミの取材は受けないし、しばらく仕事は休むというパブリックコメントを出して、身を潜めた。
 その身を潜めた先が、東芝EMIの音楽プロデューサーだった新田氏のご自宅だったのだ。つながった。ツウには常識だったのかもしれないが遅まきながら俺にはここに来てようやくまたひとつ世界が広がったようだ。
…かまやつひろしさんの『我が良き友よ』に続く曲のデモテープを拓郎から受け取る予定だったんですよ。(略)それでニッポン放送に行ったら、すでにマスコミがたくさん来ていました。拓郎も番組が終わってからどこに行くか話し合っていて、結局「新田の家だったら分からないだろう」と(略)拓郎が「とりあえず今日はここに泊まろう」と(笑)。それから二ヶ月間、拓郎は僕の家にいたんですよ。(webサイト「Musicman」インタビュー第90回2011年2月13日より)
 すげえ。炎上する現場を収拾せんとするN(中川)さんに、避難場所へ救出してかくまうN(新田)さんという二人のNによる息詰まるような吉田拓郎奪還作戦。その媒介となったのが「水無し川」のデモテープだった…あゝふるえてしまう。…んまぁ、よく考えるとこの放送が75年9月30日で、そこでデモテープを貰ったとして、かまやつさんの「水無し川」の発売が11月5日って…まにあうのかヤマト!という疑問もあるが、いいじゃないか、はさらばのB面。
「新田は忙しいだろうし、子どもの風呂への入れ方知らないだろうから、俺が入れてやる」って拓郎が子どもを風呂に入れてくれていました(笑)。
 拓郎は一日中家にいて「新田さん、今日は早く帰って来いよ。暇だから一緒に飲もうよ」って会社に電話をかけてきて、僕も仕事があるんですが「一日中一人はかわいそうかな」と思って帰ると、家の中では拓郎のソロ・ライブですよ(笑)。そのときの音源は今でも家にありますよ。
 …ねぇ、お風呂にいれてたんだね。泣くとこ。そして、なんだその超絶お宝音源は。これは悶絶するとこ。
 「我が良き友よ」から「水無し川」へ。稀代の名曲二作を結ぶ、なんてドラマチックなタイムラインなのだろうか。いかん、酒飲んで泣きながらひっそりと話そうと思っていた話を先に書いちまったよ。

 「水無し川」…あらためて聴いてみたくなる。こっちも、あの演奏でガイドボーカルとかないんだろうか。デモテープでもいい。などと妄想したりする。詮無い妄想ばかりしていないで、現実的なことを考えよう。みんな、いつなんどき拓郎が居候してきても困らないように部屋をキチンと片付けておこうな(爆)。>それが現実的なのかよ。

2024. 11. 9

☆☆☆俺とおんなじあの星見つめてC☆☆☆
 石川鷹彦との肩を抱いたツーショット写真(ラジオの青春2024.11.8)は直覚で胸が熱くなる。少し泣きたくなるほどのいい写真だ。そのうえでこの写真はいろんなことを語りかけてくる気がする。
 例えば今読んでいるくだんの新田和長氏の本の「我が良き友よ」のくだりとも結びつく。
 レコード会社のいかにも昭和的な宣伝キャンペーンにも、拓郎は断らずに参加してくれた。(略)小さな船を何艘か借り切って真冬の神田川を上り下りする企画だった。一升瓶を何本も積み込んで、かまやつひろしと吉田拓郎が真っ昼間から神田川の船上で酒を酌み交わした。スピーカーから流れるカセットテープに合わせて「我が良き友よ」をふたりで声が枯れるまで歌いまくった。(新田和長「アーティスト伝説〜レコーディングスタジオで出会った天才たち」新潮社P.197)
 …驚きである。春のうららの神田川である。いや、そこではなく拓郎が船に乗ったことだ。吉田拓郎が船に弱いことはつとに有名である。"泳げない僕が船に乗るみたいに誰にもわからない勇気のいること"である。昔、吉田拓郎のハワイツアーで船上ホエールウオッチングを自ら企画してファンを動員しながら、当日現場で「船に弱いから俺は乗らねぇよ」と自分だけドタキャンしやがったなさったというヒドイ人伝説が残っているほどである。しかし、しかし、そんな拓郎もかまやつさんのためには敢えて船に乗るのだ。んまぁファンには時々ヒドイ人だけれど決して、友情と信義には背かない良い人なのだとあらためて思う。
 肩抱き、いきづいている命感じながら…というようなお二人の写真を観ながら思うた。「石川さん、吉田拓郎をよろしくお願いします!」そんな年初の国技館の声が脳内に響くってもんだ。

2024. 11. 6

☆☆☆アゲイン☆☆☆
 今日も教えていただいた新田氏の話を書こうと思っていたら、突然の楳図かずお先生の訃報だ。かなしい。それこそ小学校に上がる前から雑誌「少年画報」に連載していた恐怖マンガ「笑い仮面」をきっかけに怖いものみたさでずっと愛読してきた。そのまま「猫目小僧」、そして「おろち」とシフトしていった。とんでもない漫画だった。
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 主人公たちと同じ小学生の時に読んでいた超大作「漂流教室」も感動的に怖かった。それらの恐怖のタメがあったからこそ「まことちゃん」が超絶面白かったのだ。んまぁ、ひどい漫画だったけど。学生時代に高田馬場の喫茶店で何度かお見掛けしたことがあった。3〜4年前には、吉祥寺の街を飄々と歩いておられ、ああ、お元気なのかと嬉しかった。いつもホントにボーダーシャツを着ていらした。
 a dayにもつい何回か引用した「漂流教室」の最後のセリフ「僕らは未来に向かって蒔かれた種なんだ」を胸に刻み、心からご冥福をお祈りします。サバラ。

 なんだよ、吉田拓郎と全然関係ないじゃねーかよ、と悪態をつくヤツはこれでもくらえ!!(シンプジャーナル 1985年9月号より)
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おー、ちょうどかまやつさんと並んでいるぞ。松本隆のナナメ上だ。グワシ!!

2024. 11. 5

☆☆☆俺とおんなじあの星見つめてB☆☆☆
 拓郎はラジオで、この歌はよく聴くと俺の声が聴こえるんだ…とそんなような話をしていたことがあった。私の耳では聴こえなかったし、きっとコーラスが小さくかぶせてあるのかと思っていた。今回、その顛末が書いてある。
 ムッシュは歌いづらそうだ。僕は、コントロールルームで一緒に聴いていた拓郎の顔を思わず見た。
 「俺がガイドボーカルを歌ってもいいよ」拓郎は目で合図してくれた。
 大きなスタジオにポツンと立っていたムッシュのマイクの横に、もう一本拓郎用のマイクを立てた。まずは拓郎の歌を先にレコーディングして、その後で、ムッシュは拓郎の歌をヘッドフォンで聴きながら歌うことになった。(略)大音量で拓郎の歌を聞きながら歌っていたから、ヘッドフォンから漏れ聞こえる拓郎の声がムッシュが歌っているマイクに回り込んだとしても不思議ではなかった。(新田和長「アーティスト伝説〜レコーディングスタジオで出会った天才たち」新潮社P.194)
 なるへそ。拓郎のガイドボーカルが音漏れしてマイクが拾ったということなのか。初めて知った。感激だ。
 たぶん新田氏は、拓郎とムッシュの二人の信頼関係のようなものを描きたかったのだと思う。しかし、すまん、下種な私は、ついついさもしいことを考えてしまうのだ。
 するってぇと、あの高中と松任谷らの「我が良き友よ」のオケで、吉田拓郎の本人歌唱も録音されていたということじゃん。ガイドボーカルということだから、仮歌とかよりかなりキチッと本気で歌われているに違いない。しかもあの1974年の「今はまだ人生を語らず」の頃の拓郎のボーカルでだ。あゝ聴きてぇ!!身もだえするほど聴きてぇ!!
 わかってるよ、拓郎は、そんなものを決して公開したりしないことを。でも来年は、この歌も50周年じゃないか。これを機に…ダメか。
 ということで、私が書くととたんに格調というものがなくなってしまうのだ。

2024. 11. 4

☆☆☆俺とおんなじあの星見つめてA☆☆☆
突然ですが試験です。
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歌詞を考えると、バンカラな雰囲気を醸し出すバンジョーが欲しくなった。アレンジ全体から見れば、バンジョーにこだわることはないと言われても仕方がないところだが、瀬尾さんは「いいですよ」と快く引き受けてくれた。真夜中に急遽バンジョーの名手が来てくれた。(新田和長「アーティスト伝説〜レコーディングスタジオで出会った天才たち」新潮社P.194)

[問題]このレコーディングの「バンジョーの名手」を次の中から選びなさい。
 ア 石川鷹彦 イ 伴淳三郎 ウ 松任谷正隆 

[解答と解説] アの石川鷹彦先生はもちろんバンジョーに限らず超絶名手ですが、この「我が良き友よ」のレコーディングでは参加しておられません。イは"バンジュン"にひっかけてみましたが>知らねぇよ!…アジャパーです。吉田拓郎さんのラジオを聴いていれば、ウの松任谷正隆が正解とわかります。

[問題点] さて新田氏はなぜ「バンジョーの名手」とだけ書いたのでしょうか。それを次のくだりから、想像してみます。2022年9月のラジオ「松任谷正隆の…ちょっと変なこと聞いてもいいですか」に吉田拓郎がゲスト出演したときのことです。
拓郎) 実は松任谷正隆ってバンジョーとかフラットマンドリンとかうまいじゃん、みんな知らないよ。みんなは君のことはキーボーディストで車に詳しい人と思っているだろうけれど。かまやつひろしが歌った「我が良き友よ」のバンジョーも松任谷だよね。
松任谷) あれ俺なの?こないだ新田さんに会ったらあれは俺の弟だったとか言ってたけど。
拓郎) 違う、違ういや松任谷だよ。あれはオーバーダビングで松任谷に頼んだもん。エレキギターは高中だし、これもオーバーダビングだった。マンタ、高中の超豪華なセッション。あのバンジョーを松任谷だと知っている人は少ない。瀬尾が全体のアレンジしたんだけど、俺がバンジョー入れたいと言ったら、誰かいないと言われて「松任谷めちゃくちゃバンジョーうまいよ」と言ったら「えー知らなかった」って。
 この対談からは、新田氏の記憶では、このときのバンジョーは松任谷正隆の弟=松任谷愛介氏だったこと、また松任谷正隆にも明確な記憶がないことがわかりましょう。しかし一方で、吉田拓郎の記憶は、迫真的かつ具体的であり、そもそも盟友松任谷のことを間違えるはずがありません。それに昔からことあるごとにこのときの松任谷のバンジョーの話を繰り返してきたことからも首肯できます。
 おそらくは、新田氏もキーボーディストの松任谷正隆がまさかバンジョーを弾くはずはないという思いがおありだったのではないでしょうか。映画「トノバン」にはこの日の松任谷&拓郎のラジオの模様が使われていました。なのでこれを聞かれた新田氏もサスペンドにしたものと思います。
 また松任谷正隆本人も記憶がないということですが、そもそもライブ73に出演したことも忘れておられるような松任谷正隆の長期記憶です(瀬尾一三「音楽と契約した男」対談より)。すみません、悪意はありません。
 ということで、松任谷正隆のバンジョー姿を感激と感動を伴って脳裏に刻んだと思われる吉田拓郎の記憶の優位性から、バンジョーは松任谷(兄)正隆であると認定させていただきます。>裁判じゃねぇよ

 さて松任谷愛介氏については、吉田拓郎がらみでもうひとつ気になっていることがあるのですが、それはまた別の機会にいたします。

 それにしても、かまやつひろし、吉田拓郎、瀬尾一三、高中正義、松任谷正隆もはや華燭の宴のようなレコーディングではないか。さて、新田氏の話はこう続く。
真夜中に急遽バンジョーの名手が来てくれた。そのために歌入れの時間が大幅にずれ込んで、始まったのは夜中の2時を回っていた。(新田和長「アーティスト伝説〜レコーディングスタジオで出会った天才たち」新潮社P.194)
 ということで、そこから始まる深夜の歌入れが、また名場面なのである。つづく。

2024. 11. 3

☆☆☆俺とおんなじあの星見つめて@☆☆☆
 同志の方に薦めていただいて新田和長「アーティスト伝説〜レコーディングスタジオで出会った天才たち」を読み始めた。
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 映画「トノバン」でお見受けした新田氏の著作ということで気にはなっていたものの、「天才たち」といいながら目次に「吉田拓郎」の文字が無かったのでご縁がないものと敬遠していた。しかし読み始めてみると"吉田拓郎"は、トッピングにこそないものの、ダシが深く実にいい味を出している…と言う感じである。
 特に第13章の"かまやつひろし「我が良き友よ」「ゴロワースを吸ったことがあるかい"は、この文章を読めてホントに幸運だったと思う。同志よ、ありがとうございました。

 ヒットチャート1位狙いたいというかまやつさんが見事に「我が良き友よ」によってこれを達成するまでの顛末。拓郎ファンであればあらすじはおよそ知っているところだ。しかし、新田氏が拾いあげるディテールと考察が実に胸を打つ。生き証人ならではの文章なんである。

 まずは、はじめて吉田拓郎の「我が良き友よ」デモテープを聴いた時の新田氏の感想がいい。
 拓郎が弾くギブソン・ギターらしき芯のあるキレのいいストロークが聴こえてきた。マイナー・コードの曲だ。(略)ただ、マイナーコードを売り物にした普通のバラードではない。テンポは120くらいある。行進曲並みの速さだ。AメロからBメロの展開がなんとも言えない。(新田和長「アーティスト伝説〜レコーディングスタジオで出会った天才たち」新潮社P.194)
 これを読むと、つい最近の「ラジオの青春(2024.10.23)」を思い出してしまう。

吉田拓郎メロディ−は
メジャ−コ−ドでも哀愁があり(ル−ムライト・アンドゥトロワ・全部抱きしめてetc)
マイナ−コ−ドでも軽快な印象がある(ドンファン・私の首領・メランコリ−etc)
          吉田拓郎 [ラジオの青春 2024.10.23]より


 そうか「マイナ−コ−ドでも軽快な印象がある」その代表作にはこれもあったか。…と、わかったふうに感じ入る。
 しかし「我が良き友よ」のバンカラなテイストは当時からムッシュには不似合いだと言われていた。新田氏も「ハイカラなかまやつさんに、バンカラな歌が合うのか」という印象もあったようだ。そのことは、何より吉田拓郎自身が気づいていたらしい。デモテープの最後に「もし気に入らなかったら遠慮なく返してください。僕が自分で歌います。」とぶっきらぼうな拓郎の声が入っていた。新田氏はそこに吉田拓郎の深い気遣いを読み取る。このくだりがとても胸にしみる空のかがやき。
 誰よりも作った拓郎本人が、あの曲の本当の価値を知っていた。普通なら、ムッシュに書いた曲とはいえ、あんなにいい曲が出来上がったら、自分のために残して、別の曲を作って贈るだろう。しかし、拓郎は自分で歌いたい気持を抑えて、ムッシュに提供したのだった。(同P.195)
 新田、合格!!>失礼だろっ!!非礼、誠に申し訳ありません。
 感動した話は、まだまだ続くのだが、ネタバレも気にしつつ、とりあえず今日はこのくらいにしておきます。

2024. 10. 30

☆☆☆ファッション☆☆☆
 ラジオの青春(2024.10.29))での吉田拓郎のファッションの履歴を読んであらためて思う。吉田拓郎の最大の不幸は、これだけファッションにポリシーを持ちながら、世間の多くの人々は吉田拓郎は下駄を履いて手拭いを下げている人だと信じていることだ。そもそも拓郎さんはあのコシノジュンコさんとダチじゃないっすか。気の毒というより悔しすぎる。私たち推しも下駄と手拭いの世界を愛好している連中と思われているのだから他人事ではない。あゝそんな世間とすれ違うように時は行く。

 そういう私もファッションには無知かつ無頓着で、中年になってから、吉田拓郎のお陰で、バナリパ、GAP、BEAMSに恐る恐る入ってみることになった。似合っていたかどうか。私の周囲の評価は低い(爆)>ほっとけよ。

 何年か前、ライブハウスの終演後に観客と出演者が入り乱れている状態で、当時まだお元気だったベースの石山恵三さんが、ドラムス島村英二さんの奥様にご挨拶されているのを観た。例によって泥酔した石山さんが「僕は島ちゃんが大好きで、だからぼくの洋服は全部"しまむら"で買ってるんです!」と奥様を困らせていた。思い出すたびに笑う。そしてちょっと切なくなる。以来、私も"しまむらー"を自称している。

 そうだ、BEAMSでもなんでもいい、どこかのアンバサダーとかどうですか。カッコイイと思いますよ。下駄と手拭と思っている輩が生きている有象無象の町にあかりを灯しましょう。

 それといい機会だが言っておきたい。「ベストジーニスト賞」とか時々、巷間ニュースになるし、かつて拓郎もLOVE2の頃、特別賞をいただいたと思う。この賞は人気アイドルが次々と殿堂入りしていた。しかし歴史的に吉田拓郎がどれだけジーンズの普及に貢献したと思ってるんだ。吉田拓郎が殿堂入りしないジーニスト賞なんてものを私は信用しない。

2024. 10. 29

☆☆☆時代は変わったそうだから君の後ろに僕はいる☆☆☆
 選挙が終わるたびに気分が落ちる。別に誰かの後援会でもどこかの党員でもないのだが、選挙の結果を観るたびに「こんな世の中と自分を捨ててみた」くなる。でも捨てる勇気もないのですぐに拾う(涙)。僕が泣いているのはとても悔しいからです。人の尊さやさしさ踏みにじられるようで。チカラを示すものたちはしなやかさを失ってウソまみれ泥まみれじれったい風景です。…例によって本人とは関係のない引用ですまんが、自分の気持ちそのままだ。
 
 とはいえ他人のことや現在の状況を嘆くだけでは詮無い。ここのところ、若い…というか若めの人々の文章や発信にかなり触れ、あるいは尊敬する先達が昔OKだったことを現在になって省みている苦悩を読んだり聞いたりしながら、つくづく自分自身もかなりポンコツ化していることに気が付いた。あゝそうだよ、もともとだよ。正しいと信じてきたことを曲げたり、捨てたり、おもねったりはしないが、それでももっと別のアレンジや違ったサウンドがアリなのではないか、何ならインスパイアされた新しい曲が必要なのではないかと思い至った。ココも御大の受け売りっぽいけど、音楽に限らずそうだと思う。そうしてこそ原曲が通有するのではないかと思ったりするところだ。ということで俺はどこへ行こう、キミはどこへ行く。

2024. 10. 27

☆☆☆誰か母親を思はざる☆☆☆
 「ラジオの青春 2024.10.25」の吉田拓郎の御母堂の話は読むたびに聴くたびに深く魂に刺さる。
 小学6年の春だったか・・母が偉大なる前進力と無言の努力によって
 広島市内の新しく開発された住宅地に家屋を建てたのだ
 あの時代に、子供達を育てながら、女性が1人の力で家を建てるなんて・・
 あの時代に…というか今の時代でも大変なことだ。そのうえ子どもたちを私立大学に行かせることも同じだ。「吉田町の唄」では、影のように佇みながら涙を流す母、しかし実はその底力の凄さを教えられる。
 母はその頃、広島市内の盲学校で栄養士として働いていたが
 土地購入と自宅建設の費用で大きな借財を背負う事になり、収入の拡大を考えていた
 友人の誘いで覚えた茶道を、何とか活かしたいという情熱のままに
 茶道レッスン用の茶室を作り、自らも茶道教授の免許を迅速に得るべく
 市内の有名な茶道教室へ日参し・・またたく間に師範の免状をいただいて
 新築の我が家で「吉田宗朝」(母の名は朝子)による茶道教室が開催される事になった
 かくして拓郎はかつてラジオで「吉田家は吉田朝子の歴史である」と銘言し、 最後のアルバムでは"Mother"を見事に歌いあげた。
 こういう話を聞くと、私事ながら、90歳を超えた我が老母のことを思い出す。昔から現在まで私とはソリがあわない。もちろん宗朝さんの偉大さには及ぶべくもないが、それでも昼に仕事をし、夜は自宅の一角で子ども集めて学習塾を経営し懸命に働いていた姿を思い出す。今も頑として一人で暮らしているが、さすがに身体も完璧とはいえず、昨今の世間の怖い情勢も含めていろいろと心配なので足しげく通うようにしている。しかし私の顔を観れば、息を吐くように悪態をつくので殊勝な気持ちも吹き飛ぶ。そりゃ弟と違いアタシは私立で学費がかかったがもう半世紀近く前のことだろう(笑)。そもそも生まれてこの方、他人に謝ったことがないのが自慢という困った母なのだ(爆)。
 先週は、周囲の心配をよそに独りで銀座まで中学の同窓会に行ってきたが「男子は殆ど死んでて、やっぱ女子は強いわ〜」と豪語していた。松本隆先生の「風よりも透明な日々」のようには美しくはいかないものか。

 とはいえ、長崎と東京を結んだろくでもない魑魅魍魎の歴史を生き抜いてきたこと、おかげで私も息をしていられることを思えば、我が家の歴史も母の歴史かもしれない。

 長崎といえば、かつての親戚はほとんどいなくなってすっかり縁遠くなってしまったが、来年の夏には長崎に行く目的というか予定ができた。がんばらないかん。これが私にとっての最後の長崎でありエンディングだ。…いや、たぶん来年以降もちょくちょく行くと思うが(爆)、我が心のロールモデルに従って、これが最後のアウトロと言わないと恰好がつかないってもんよ。

2024. 10. 25

☆☆☆あゝ方便り☆☆☆
 「アンコ椿は恋の花」といえば「すばらしき仲間U」でのSATETOツアーのドキュメントを思い出す。ゲネプロの余興で御大がギターで弾いておられた。
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あの音色が頭に残っている。この歌にはそういう背景があったのか。
 それにしてもミニアルバム「ラジオの夢」発売に向けて、日々あふれくる情動が伝わってくる。少なくとも発売を祝してこのあたりでもう一本ラジオが必要なんじゃないか…と思う。そのためのWOWOWか…いろいろあってもそれはそれ、ラジオはラジオで。
 そうだ、WOWOWにも再加入しなくてはならない。確か2014年に加入した時は、吉田拓郎のツアーTシャツをいただいた。今回もこんなようなモノをいただけたら俺は喜ぶよ(※実在しません)
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2024. 10. 24

☆☆☆御大からのレッスン☆☆☆
 「ラジオの青春(2024.10.23)」…わかんなかったこと、ボンヤリと思っていたようなことがソリッドに言語化されている。

吉田拓郎メロディ−は
メジャ−コ−ドでも哀愁があり(ル−ムライト・アンドゥトロワ・全部抱きしめてetc)
マイナ−コ−ドでも軽快な印象がある(ドンファン・私の首領・メランコリ−etc)


 深い。当たり前のことなのかもしれないが、底の浅いアタシにはとっては深い。ここ数年の御大からのレッスンが私には貴重だ。例えば「危険な関係」〜「男達の詩」…これなんかは軽快なマイナーかな。あらためていろんな曲の魅力を再確認できる楽しみ。

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 娘「武部さんと拓郎さん、今日、スタジオで肩抱いた仲良し写真が出ていたわよ」
 父「…な、なにっ!?武部と…いや武部…さんと?」
  (苦渋まんが「一徹血風録」今度はいったい何の仕事をしてるんだろうの巻 つづく)
 

2024. 10. 23

☆☆☆YUZAWA、よろしく☆☆☆
 どうでもいいことだが、浮世の義理で手芸品のデパート「ユザワヤ」につきあった。だいたい手芸なんて全く無関係な自分はいつも退屈に時間をもてあますだけだ。しかし、その日はふと目にとまったインド刺繍ブレードのコーナーを見つけて心が燃え立った。
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 そうだ、1975年のつま恋の拓郎のバンダナだ。
 インド刺繍で愛娘の洋服の端切れを使った…と報道されていたのを記憶していた。よく見るとトランザムとの1stステージと瀬尾さんとの3rdステージでのバンダナは似てるけど違うよね。
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 ありそうじゃね? いや、もしかしたらあるかもしれない…ということでスマホで写真を出して、山のようなインド刺繍のブレードとやらを探してみた。…似てるけど…ないな。
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 しかし時間を忘れて熱くなってしまって、はからずも、あ、と気が付くとツレが後ろであきれて立っていた。「なにしてんの?」…もうこの爺には何も知らない人に一から説明する時間も情熱も残っていない。

 もし似たバンダナが見つかったら、長髪のウイッグつけて、素肌に白いベスト着て、「朝までやるよ」のプラカード持って、渋谷のハロウィンに突撃するつもりだったのに(爆)>誰も知らねぇよ!

2024. 10. 22

☆☆☆熱血まんが「シン・一徹青春期」…アイツからの挑戦状の巻☆☆☆
前回までのあらすじ(「ラジオの青春」10月21日号) いきなりですが・・そうなんです・・イントロ(曲の始まり)に実は大きな秘密が・・
武部君が意図的に「それをねらった」のか!彼なら・・あり得る
曲が始まった瞬間に「あ!」っと思った人は「リアル拓郎通(つう)」だと僕が認めます
ただし「始まった瞬間」・・・瞬時に「アッ」と・・・気がつかなければいけません(笑)
そして・・10秒経過しても・・何も感じなかった人は「そのまんま」の人だと・・(大笑)

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娘「お父さん、武部さんが今度の拓郎さんのアルバムになんか仕掛けたみたいよ!!」
父「なんじゃと?」
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うぬぅ〜武部ごときが拓郎ファンを試すとは100年早いわっ!!

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娘「お父さん、少しは食べないと」
父「…そのまんまの人だから、腹もすかんわい」
娘「(……自信がないんだわ)」
         (苦笑まんが「シン・一徹血風録」事と次第によってはつづく)

2024. 10. 21

☆☆☆50年後☆☆☆
例えば、古い曲だが、お気に入りだった「僕の唄はサヨナラだけ」は
アルバムで初公開したアレンジが、ほぼ完成形だったが・・
かなり複雑なリズムパタ−ンでの演奏が、聴く側の耳に馴染めなかったようだった
(ラジオの青春 2024.10.21)

…恥を忍んで言うが、あのイントロは間違えてリズムが一拍ズレているんだと思ってた。そんでもって75年のつま恋でそーっと直したんだと信じていた。我ながら情けないと思うが50年ぶりに真実がわかって嬉しい。>遅せぇよ 音楽家の御大は、漢字は読み間違えても、リズムを間違えたりするはずがない。すまん。わたしの修行が足りませぬ。

スタジオでベ−スの後藤次利と
ギタ−の矢島健が「変則的なノリのパタ−ンを作ろう」とアイデアを出し合って
ドラムの村上ポンタ秀一と共に、独創的な演奏をRecしたのだった

こんな話が聴けるとはなぁ、半世紀生きた犬の気持で。

 ああ、聴きたいなぁ。もう言っても詮無いけれど、瀬尾ビッグバンドの時に魂こめて演奏して欲しかったなぁ。原曲の正しいリズムを客席でやりなおすチャンスを!!

2024. 10. 20

☆☆☆わが心のジェイク・コンセプシオンA☆☆☆
 いろいろジェイクについて書きたいことがあったが、悲しい訃報が重なったり、飲み屋に行く途中の駅前でいきなり俺が大嫌いな議員立候補者ご本人が目の前に現れて直接ビラを手渡されそうになったりして、そのあと呑んだ奇妙な日本酒の酔いもあり
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…そうだ、カラオケボックスでなぜか「2019年のライブ'73years」の映像があって「今夜も君をこの胸に」からの最後は、ちあきなおみの「喝采」を泣きそうになって歌ったりとか、とにかくカオスのようにいろいろあって、何を書くつもりだったか忘れてしまった。落ち着け。とにかく憶えていることだけ書く。

 ジェイク・コンセプシオンのsaxソロが聴きたくて間奏用のコ−ド進行を新たにアレンジし直した____________________
  「ジェイク−!遅くなってもかまわね−からサ−俺は待ってるから○スタジオへ必ず来てくれよナ−」と無理やりに来てもらった事もあったくらいに・・間奏やエンディングのソロには、こだわっていたのだ(ラジオの青春 2024.10.13)


 これはわりと最近のラジオでも話してくれたけれどたぶん「ペニーレインへは行かない」のことだよね。
 あのペニーレインとの別れ。ファンにとってもこれほどの聖処なのだから、拓郎ご本人にとっては、その思いやいかばかりか。しかし"どうしてこんな悲しくないんだろう"と歌い、静かな別れるべくして別れる別れというように、惜別の悲しみを排そうとしているようにみえる。だからこそ、このジェイクの間奏からこぼれるようなほんとうの心情が垣間見えてくる気がする。ジェイクのためにアテ書きして頼み込んで入れたというこの間奏。そう思うとよけいに愛おしく感じる。まさにジェイクの匠の技だ。

 ステージのジェイクはお茶目だった。特にサックスの熱演が終わると自由なステップで踊ったり、他のメンバーのソロにエールを送ったりラテン系のノリの楽しさがあった。
 篠島の瀬尾オーケストラとのステージでの「今日までそして明日から」の時、演奏パートが終わるとホーンセクションのミュージシャンたちと一緒に揃ってサックスを幟のように左右に挙げ揺れながら踊っていたのが忘れられぬ。

2024. 10. 19

☆☆☆悼むこと☆☆☆
 西田敏行さんだけでなく中川李枝子さんの訃報も重なった。先達のサイト「見出し人間2024」(2024年10月17日付)「訃報 中川李枝子さん」を読んでいて泣きそうになった。たまらず、このサイトを読んでくれよ!と深夜、酔っぱの電車中から迷惑を省みず相棒にもメールを送った。
 私もその昔に読んだ「いやいやえん」の表紙はすぐに目に浮かぶ。ただサイト筆者の気持ちはもっともっと深く、自分自身と中川李枝子さんや「いやいやえん」との繋がりをていねいに綴ってある。子どもの頃の景色、気持ち、図書室のこと、夕飯までという時間、片っ端から読む気持ち、背表紙のこと、… そして何より本に対する思い。それらが結実するかのように自然に吉田拓郎にまでつながってゆく。追悼文の中に、この人が何を大切にしてきたか、そして大切にしようとしているかがたっぷりこめられている。追悼とは別れを悲しむことじゃなくてこれからも一緒にいきてゆくことだと教えてくれる。泣けてくるじゃないか…あんまりほめてもなんか怒られそうなので今日はこの辺にしておく。

 昨日、帝国劇場の前を通ったら歩道は観劇の人の列で溢れていて、係のような方に「最後尾はこちらです!」と誘導されそうになった。咄嗟に「いえ、私は通行人です」と答えた。通行人…いいじゃないか。♪あるこう、あるこう、わたしはげんき…これも中川李枝子さんだ。あるけるかい、あるこうよ。それは人生と言う名の謎だから。

2024. 10. 17

☆☆☆西やん、来いよ☆☆☆
 西田敏行さんの訃報に驚く。彼を表するには名優という言葉しかありえない。人によって好き嫌いはあろうが、心の内側から溢れてくる心情までも演じきるホントに稀有な役者だったと思う。好きな作品はありすぎる。あれもこれもそれも。池中玄太からゴーイングマイホームそして俺の家の話まで、枚挙に暇がない。観ていない傑作もきっと多々あるはずだ。かなしい。
 82年の元旦。武田鉄矢と西田敏行が子ども連れで吉田拓郎邸を訪れて、お子様たちが阿鼻叫喚、大暴れして拓郎邸をメチャクチャにする話が大好きだった。そこで「篠島のビデオ」を観た西田敏行が感動して泣き始めて、最後に拓郎と西田が「外は白い雪の夜」でチークを踊ったという…顛末を語るラジオでの拓郎の話がおかしくておかしくてテープに録って繰り返し聴いたものだ。帰りに西田が、酔いつぶれて寝てしまった拓郎に置き手紙を残した。当時拓郎も観ていたという西田の大河ドラマ「おんな太閤記」の秀吉のイラスト付きで「わしは最高の人に会えて幸せじゃった」と書いてあったという。
 いや、あなたも最高でした。最高です。心の底からご冥福をお祈りします。どうか安らかにお休みください。
 …スーパームーンだってよ。
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2024. 10. 16

☆☆☆わが心のジェイク・H・コンセプシオン@☆☆☆
 1979年の春ツアーのリハーサルに入る前だったけど拓郎がラジオ"セイヤング"で「今度のバンドは外国人のサックスが入るんだよね。どこの国の人だっけ?」と常富さんか陣山さんに尋ねるシーンがあった。この時点ではまだ拓郎とジェイクとはさほど親密でなかったようだった。
 私は私でサックスといってもピンとこない。強いていえば、演歌かムード歌謡のどんよりとしたイメージしかなかった。というより、わが友tくんならわかってくれるであろう、♪テナーサックスにうごめくヒップ〜というややもすると猥雑なイメージすらあったのだ。すまない。

 1979年。それは篠島を頂点に吉田拓郎の大いなる復活の年であり、歴史的なマイルストーンではあったが、私にとっては、サックスに打ちのめされ、その威力を胸に刻んだ一年でもあった。それだけジェイク・コンセプシォンのサックスは最初にして頂点だった。

・アルバム「ローリング30」の「英雄」…あの闘志溢るるような、たたみかけるプレイ。ああ。これがサックスでしかもジェイク・コンセプシオンだったんだと驚いた。ありゃ凄いよね。

・何より武道館公演'79の三曲目「されど私の人生は」での意表をつく、あの砲撃のようなサックスに打ちのめされた。こりゃあ何なんだ。すごい。の言葉も出ず呆然と立ち尽くすだけだった。

・「狼のブルース」は「TAKURO TOUR 1979」もイイのだが、篠島のビデオの2曲目で地鳴りとともに走り始めるスピード感あるテイクがとにかくたまらない。疾走するサックスソロが、やがてギター青山徹、ドラムス島村英二とデッドヒートをしはじめる。明日なき暴走のようなサックスに血沸き肉躍らせたものだ。

 そしてハードだけではない。圧巻は、アルバムもそうだがライブの「冷たい雨が降っている」の間奏のサックスだ。この歌自身がすんばらしいが、何十回も言うが、つげ義春の"海辺の叙景"のようだ。ジェイクのサックスが、この景色を見事に描きあげているんだよ。…またその話かよというヤツはメメクラゲにでも刺されてしまえ。
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 で、ジェイクの話はまだ終わらん。続くとよ。

2024. 10. 15

☆☆☆サマータイムブルースの間奏が聴こえる☆☆☆
 間奏だけ、聴きまくっているけれど、ホントにいいねぇ。幸せな気分になれる。珠玉のメロディー。個人的には西城秀樹への提供曲「聖少女」の♪とまどいランデブ〜のメロディ―と同じというか彷彿とさせるところ(爆)…あそこが特に胸が疼く。そして白眉のプレイ。拓郎の唄を聴きに行くと、もれなく松任谷、中西、エルトンの順列・確率・組み合わせが観られた若き日々…ああ幸福な青春を過ごせたもんだと感謝したい。
 さてジェイクだ。

2024. 10. 14

☆☆☆我が心のソロプレイ☆☆☆
 松任谷正隆の中西康晴のエルトン永田のピアノソロが嬉しくて間奏に聴きほれていた(ラジオの青春 2024.10.13)


 この3人の間奏といえば「サマータイムブルースが聴こえる」がすぐさま浮かぶ。名曲たる本編に比肩する間奏の美しさといったらない。この曲の甘美で切ないソウルが凝縮されて、入れ子かマトリョシカのように間奏のメロディーが埋め込まれている。あゝたまらん。
 曲のアレンジは松任谷正隆だが、この間奏は吉田拓郎の手になるメロディ―とのことだ。
 オリジナルは松任谷正隆のピアノで81年体育館ツアーで初披露された。当時、オールナイトニッポン、ヤングタウンTOKYOでオンエアされた。小さな声で叫びたい。Youtubeで聴けたぞー@広島県体育館ライブのこの曲。…この歓声の中からシングルも発売された(あのピアノは松任谷、中西どちらだろう)。
 翌82年にあの名盤「王様達のハイキング」では中西康晴が辣腕をふるって演奏している。
 そして2002年からの瀬尾バンドでは、エルトン永田のピアノをフィーチャーして(DVD「NHK-101」、CD「豊かなる一日」)…ということになる

 オリジナルの洒脱な松任谷のプレイ、中西の硬質な音色で刻みつけるような硬派なプレイ、そしてエルトンの永田プレイは思いきり抒情的、というように三者それぞれの表情がある気がする。
 自分としてはエルトン永田のプレイが胸にしみる空の輝き。間奏ここに完成みたいな決定版のような気すらする。そうだ拓郎さんも涙ぐんでおられたことがを忘られぬ。

 甲乙つけがたいし、そもそも自分なんかに順位などつけられるわけがないし、つける必要もない。この白眉の間奏のメロディーと三人のキーボーディストの名演がこうして聴けることにただただ感謝しよう。

 と言いつつ、公式音源にはないが、85年つま恋の松任谷正隆の間奏がまたすんばらしい。拓郎の「松任谷〜」の呼びかけのもとにオリジナルの洒脱なピアノとは打って変わって、「いつもより余計に弾いてます」という感じでゴージャスに弾いていたのを思い出す。間奏だけでなくエンディングのフェイドアウトまで煌めくように寄り添うのだ。あ〜良い、良いぞ。これも残して欲しいな。あれもこれも残しましょう。それが古典への道だと思うのだがぁあ。
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2024. 10. 13

☆☆☆月に届くほどもっと愛されたいなら☆☆☆
 ラジオの青春を読んでいて久々に胸が熱くなった。
ラジオの青春 2024.10.13より僕は高中正義のギタ−ソロが聴きたくて歌を唄っていた・・と言っても過言ではない
青山徹のアドリブが聴きたくてLiveでの間奏を長くアレンジした・・事実である
ジェイク・コンセプシオンのsaxソロが聴きたくて間奏用のコ−ド進行を新たにアレンジし直した
松任谷正隆の中西康晴のエルトン永田のピアノソロが嬉しくて間奏に聴きほれていた

 もう、あれやこれやが湧き出てくる、サマータイムブルースが聴こえる、舞姫'79、もうすぐ帰るよ'79、ぺニーレインは行かない、しのび逢い…ああたまらん、浜の真砂は尽きるとも、世に感動の間奏は尽きまじ。拓郎ファンはみなそうだろう。

 拓郎のいうとおり、そりゃあ経年とともに何かが古くなってくる。

 しかし骨董品と古典は違う。絶対に違う。


 すぐにいい例が浮かばないが、とりあえず夏目漱石と同じだ。かつて現役の人気作家であった夏目漱石はこの世にいないし、そりゃあ昔の人だが、彼をオワコンとか、骨董品と言える人間はおるまい。漱石は、今も骨董品としてして愛されているわけじゃない。現在に真剣にその意味を問われてつづけている古典である。

 私の古典の恩師高橋正治師>知らんよね…も「…古典は「汝自身を知れ」という自己の自覚、自立のために読むべきものである」(「古典とともに思索を」Vより)と言っておられたとおりである。とおり…かどうかは微妙化もしれないが、とおり!なの。

 今わたしたちが聴いて、推して、胸を熱くしているのは骨董品などではなく間違いなく未来の古典だ。そもそも新曲が生まれているんだからまだ古典ではないし。…ということで明日から、勝手に間奏月間いくぞなもし。

2024. 10. 12

☆☆☆闘い続ける人の心を誰もがわかってるなら☆☆☆
 日本被団協=日本原水爆被害者団体協議のノーベル平和賞受賞、心の底からおめでとうございます。喜びをわかちあいそうな私の長崎の親戚はもうほとんどこの世におりません。そのくらいの時間まさにLong time passingだ。そういう私も8月になるたびに広島と長崎の名のもとに平和を唱えるだけの薄情者である。孤独な闘い…しかし誰もがわかっているわけではないけれど、わかっている人々が世界中に確実いるということだ。はしくれのはしくれより自分もがんばらないかん。
 いつの日かこの世のすべてがひとしく平和であるように。…あ、これは浜田省吾だ。

2024. 10. 10

☆☆☆目が覚めた☆☆☆
 「ラジオの青春」で貴重な写真をいくつも観せてもらったが今回は出色・衝撃だね。どんよりと机に向かっていたところ目が覚めた。

  実写版「となりの町のお嬢さん」…いや"となりの町のお嬢さん"は実在した!!…かな、

 もう歴史発掘系だ。んー長生きはするもんだ。ピッタリとくっついちゃて、きっともうたまならなかったでしょう。廊下を平泳ぎしたくもなります。いみふ。素敵な写真をありがとうございます。ということでしみじみと「となりの町のお嬢さん」聴き直す、よろし。

2024. 10. 9

☆☆☆ON&OFFAうねり☆☆☆
これまでのあらすじ「センスの哲学」を読んでかぶれてしまった私は、これまで吉田拓郎について多発していた、嘘ついた!、矛盾してる!、あゝはアイツ変わっちまった!というコントラスト/対極のような事象は、すべてONと OFF、明滅のリズムとビートのようなものではないかと思い始めた。この変化が並ぶビート/リズムがうねってゆく生成変化にこそ吉田拓郎の魅力があるのではないか。矛盾だ、嘘だ、変わってしまったという嘆きの間に隠れているもの、ないしはそこから紡ぎ出されたものを考え直してみることにした。

 〇つま恋に燃えた
 ●つま恋で燃え尽きた

 つま恋75は凄かった。行けなかった私にも大事件だった。テレビのニュース、ラジオ、雑誌いろんな特集を集めては、tくんたちと毎日つま恋の話ばかりしていた。吉田拓郎=無敵の英雄だった。しかし、つま恋終了後の拓郎は燃え尽きたかのようにラジオでは"もぬけの殻"状態であり、ほどなくして例のラジオの離婚宣言事件があった。そこには打って変わって満身創痍で深く憔悴したような拓郎がいた。炎のつま恋の勇姿とのコントラスト、落差がショッキングだった。しかし当時中学生ながらも、燃え尽き憔悴した人間のしみいるようなカッコよさを感じた。男は…いや人間は決して強がらなくていいんだ、本当に大切なものはなんだろうか…てぃーんの自分にはあまりに深いメッセージの巨魁を貰った気がした。それが僕のブルース。

 〇"水無し川"を最後に他人に曲は書かない
 ●その半年後に"風になりたい"を書いた

 その憔悴の時期=75年秋。しばらく仕事を休む、拓郎はそうも語っていた。"水無し川"を聴くとあの重苦しい空気を思い出す。そんな雌伏の時間の中で、もう書かないといっていた提供曲を自ら詞まで書き起こした名作"風になりたい"。書かない⇔それでも書くという明滅の間に浮かぶうねりが、かくも美しく切ない名曲を創り上げた。どちらも名作だが「水無し川」から「風になりたい」…失意のビートを挟んでのこの2曲のつながりがたまらなくいとおしい。

 〇裏方に回って、もう歌は辞める
 ●裏方=社長を辞めて、また歌う

 フォーライフの裏方→社長という役員室午後3時の世界に去って行った拓郎。やがて3年後に歌手としてガッツリと復帰する。この二つのコントラストのビートの間にうねるのが名盤「ローリング30」だ。会社再建の苦闘の中の音楽への渇望が作品に結実してゆく、そして2LP+1という物量が閾値を超えて質に転化する。大型台風がぐいぐいと進路をかえてゆくようだった。これはまさに強烈なビートのうねりだ。

 〇"人間なんて"を歌うのはつま恋で最後だ
 ●やっぱり"人間なんて"を魂こめて篠島で歌いたい

  ひとつの楽曲としての"人間なんて"ってどうなんだという意見もわかる。阿波踊りを遠巻きに観ているような印象かもしれない。しかし、一度はリングを降りて会社経営者にまでなっちゃったオッサンが、狂熱の"人間なんて"に導かれて再び大舞台のリングにあがるのよ。会社の社長さんなど偉いと思うなよ、一番偉いヤツ、そいつは自分の叫びをいつでも持ったヤツ。導かれたのは拓郎だけじゃなく、多くの拓バカが船に乗ってひたすら孤島にわたるのだ。その魂のドラマがうねるんだよ。感動できなきゃ人間ヤメだ。

 〇古いを歌は全部捨てる
 ●そういうカタイ話は抜きにしてやっぱり歌う

 これも当時は嘘つき!と思ったが、さすがに拓郎も「今日はお祭りなので」と80年の武道館で断った。つまりあの日から今も45年間ずーっとお祭りが続いているということだ。景気をつけろ、塩まいておくれ、そらそらお祭りだ。富沢一誠に「僕らの祭りは終わったのか」という著書があったが、終わったのはオマエの祭りだけだ。>八つ当たりかよ!

 〇つま恋'85を最後にステージを去る
 ●SATETO…と言ってまたツアーを始める

 つま恋85で壮大にステージに別れを告げた拓郎は静かにご隠居されたかのように見えた。「小人閑居していると打ち込みをなす。」…失礼な。3年後に復帰した拓郎はコンピュターオタクみたいになっていて驚いた。しかし自宅の閑居の日々での打込みの熟達が、バハマの"Long time no see"でミュージシャンとの心をつなぎ大きく開花する。伏線回収の醍醐味のような"うねり"の壮大なドラマでもある。

 〇君たち立たないで座って聴きなさい
 ●君たち座ってないでノって来たら立ちなさい

  すまん、しかし拓郎に深い愛をこめて言いたい…うるせぇよ(爆)客の勝手だろ(爆)。

 〇テレビには出ない
 ●毎週多いときは週2でテレビに出る
 
 テレビ出演を拒否した人が毎週テレビに出てくる。これは強烈なビートで、世間的にもかなりショッキングだったようで結構揶揄されていた。
 かつてテレビに出ないことで、吉田拓郎はコンサートとラジオというコミュニケーションのパイプを開拓し確立した。おかげさまで私らは豊かなる音楽体験ができた。
 拓郎はただテレビに出演しただけではない。泳げない人が船から飛び込むみたいな、誰にもわからない勇気のいることだった。そこで若さのエキスを取り込み自己革命を達成し転生したのだ。拓郎はそのままズルズルとテレビタレントになったりテレビの奴隷にはならなかった。ライブとラジオと音楽の世界に戻って来てくれた。あのテレビ界隈の好き嫌いはあろうとも、あのテレビへの挑戦おかげでその後の音楽家としてのより豊かなステージ活動、ひいてはつま恋2006をも味わうことができたのだ。

 〇拓つぶを閉鎖し筆を置く
 ●超絶長いエッセイを日々書き始める

 拓つぶの閉鎖は、書く力が散逸しないようにするためだったと記憶している。その保全された書く力で最後のアルバムのために渾身の詞を書き上げた。"ah-面白かった"をものにした拓郎はのびやかに自由に語り始める。なんとすばらしい"うねり"だろうか。
 そのエッセイもまた終わるらしい。これからのことは本人もわからないという。意味を求めすぎず、次なるビートとうねりに身を任せようではないか。

 いつもわけがわからないことを書いているが今日は特にわけがわからなかったと思う。それでも書かずにいられなかったのよ。
 「センスの哲学」で、この本を読むとセンスが良くなる‥‥と著者は書いている。ホントかよ。しかし、せっかくのファンサイトなので言わせていただく。もともと現在のこの時期、この時代に吉田拓郎が好きで吉田拓郎という音楽をチョイスした人はもれなくセンスが良い人たちだ。センスのない人からは、変わり者とか奇特な人とか気の毒がられたりウザがられたりするかもしれないが、センスある人はセンスをもっともよく知るのだ。顔も知らないセンスの良いもの同士よ、ともにまいりましょう。歴史はきっちそれを見逃したりしないでしょう。

 

2024. 10. 7

☆☆☆ON&OFF@ビート&リズム☆☆☆

 拓郎ファンになって以来「飽きた」とか「これが最後」とか「もう歌わない」そして「なんだ嘘かよ」とかいう言葉は、時に季節風のように、時には嵐のようにファン人生にいつも吹いていた。そのたびに小者の私は右往左往しながら木の葉のように舞うだけ舞ってまいりました。

 千葉雅也の著書「センスの哲学」で面白かったのは「意味にとらわれる前にリズムを感じろ」というくだりだった。音楽はもちろん美術も文学も映画もひいては人生もすべては「リズム」だという。…リズムって何だ?

 「強いところと、弱いところが並ぶところ、その「並び」がリズムです。」(千葉雅也「センスの哲学」78ページ)

 強弱、存在と不存在、光と影、欠如と充足、…その対照的なONとOFFの反復がリズムでありビートである。その"リズム"と"ビート"が変化しながら展開する"うねり"が"センス"をカタチ作ってゆく。だから目先の「意味」からは一旦離れて、リズムやビートとうねりとして眺めてみよう、その美しさ、面白さを味わってみよう、と論ずる。なるほど。
 私が、ファンになってからだけでも、このコントラストな明滅=ONとOFFがいろいろとあった。雑に思いつくだけで例えば…

 つま恋に燃えた
 つま恋で燃え尽きた

 "水無し川"を最後に他人に曲は書かない
 その半年後に"風になりたい"を書いた

 "人間なんて"を歌うのはつま恋で最後だ
 やっぱり"人間なんて"を魂こめて篠島で歌いたい

 裏方に回って、もう歌は辞める
 裏方=社長を辞めて、また歌う

 古いを歌は全部捨てる
 そういうカタイ話は抜きにしてやっぱり歌う

 つま恋'85を最後にステージを去る
 SATETO…と言ってまたツアーを始める

 君たち立たないで座って聴きなさい
 君たち座ってないでノって来たら立ちなさい

 テレビには出ない
 毎週多いときは週2でテレビに出る 
……
 拓つぶを閉鎖し筆を置く
 超絶長いエッセイを日々書き始める

 えー最後なの? えー飽きちゃったの? えー嘘だったの?と言いたくなるのは「意味」にとらわらているからだ。ONとOFFの明滅として眺めてみると、歌う拓郎⇔歌わない拓郎、強烈な存在⇔長き不在、高揚と低迷、傲岸⇔シャイ…そういうコントラストがビートとリズムを織りなしている。しかもひとつひとつが魂のビートだぜ。文句を言いながらも、どうしても吉田拓郎から離れられないのは、この見事なまでのリズムとビートに身体ごと共感してしまうのだ。たぶん。
 今吹いている「これが最後」もホントに最後なのかどうかと意味に惑わされず、これまた強烈なビートを打ってきやがった、どんなリズムとうねりで生成変化をしていくんだろうかと静かに眺めていたい。

 たぶんひとりよがりの思い込みで書いているのでわけわからんよね。それでも"うねり"編につづく。
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2024. 10. 5

☆☆☆政ごとなどもう問わないさ☆☆☆
 というわけで「永遠の嘘をついてくれ」のデモver.とつま恋2006ver.の間を行ったり来たりさすらいながらの通勤電車。うーんドラマチックだわいと悦に入る。よく電車にいるでしょ、ひとりで楽しそうなオジサン…あれかもしれん(危)。

 ファンサイトといいながら、私は時には吉田拓郎のことを「嘘つき」と書いてきたし、明日からもこうして悪態をついて生きていくだろうと。しかしココにいう「嘘つき」は、世間でいうところの姑息だったり背信的だったりする「嘘」とは違う。例えるなら、一度は夢を見せてくれて、何もかも愛ゆえのことであり、出会わなくてよかったことなど何ひとつもないと心の底から思わせてくれる。そんな嘘のことである…どんな嘘だ。それはたぶん「生成変化」のごときもの。美しくて、ちょっとだけ悲しくもある人間の生成変化のことだ。…でもメンドクサイので「嘘つき」と言っているまでだ。

 さて「嘘つき」ときたら今度は「飽きた」が出てきた。"ラジオの青春"(9/30)では「飽きっぽい」と言われることに異議を唱えておられた。とはいえ、これまで「飽きた!」というたった一言のパワーワードで、コンサートツアーから何から撃破してきた吉田拓郎の歴史を思えば、仕方ないじゃないかとも思う。しかし「飽きっぽい」というのは確かに違うかな。
 御大の「飽きた」は、たぶん「魂の賞味期限」みたいなものだと思う。昔から御大は賞味期限にとても敏感な人であられるように思う。まだ食べられるからと賞味期間が切れたものを店頭に並べたりは絶対にしない。それはたぶん値下げシール貼って並べられるようなものだということが肌感覚でわかっておられるのだ。

 いや良い事ばかりではない。お陰様でこちら側のファンも鍛えられた。なのでときどきライブで「え、また、この曲なの?、もうよくね?」とある種の賞味期限に敏感に反応してしまうことも多い。いや他人事のようにいうのはズルいか、俺にはそう思うことがよくある。この"セットリスト"という永遠のアポリアを前に、すれ違うように時は行くのだ。
 
 ところで千葉雅也の「センスの哲学」読了。面白い本だった。読まなければよかった本などないと言ってくれ。これを読んでの感想の話のまえがきの話を書くつもりがずいぶん長くなりすぎたので、また。

2024. 9. 30

☆☆☆嘘をついてと願われる人とただの嘘つきとそしられる人☆☆☆
 んまぁ俺は堂々たる後者だが、そういう話ではない。かつて拓郎のコンピュータの打ち込みに対して、私は、やっぱ拓郎はバンドサウンドじゃないとなぁ…と聞いたふうな悪態をついたものだ。しかし、その成果物ともいえる精巧なクオリティのデモテープが、バハマでミュージシャンたちの心を掴み、あのサウンドが出来上がった。そういう話を聞くと、俺なんかに見えているものの狭さ、小ささをつくづく思う。

 とはいえ、"石破→やさしい悪魔≠その気にさせないで警戒説"は、早くも結構正しかったんじゃないかと自負している。ああ…そういう話じゃないか。

 嘘と言えば、あの曲だ。バハマ渡航の直前に中島みゆきのデモテープを聴いて発熱し、"バハマ"でどうしても完成しないまま、その後のロスに移動しても納得がいかず…結局、帰国して打ち込みでデモテープで作りあげ、観音崎でようやく完成したという、まるでバハマのアルバムの中にあだ花のように咲く名作「永遠の嘘をついてくれ」。
 "Long time no see"ツアーのコンサートパンフの一節で常富さんが「拓郎がボロボロになって蘇生しようとしている」と語るのはこの曲へのあくなき"打ち込み"の姿のことだろうか。

 「FromT」によくぞ収録してくれたこのデモテープ。このデモテープを中島みゆきに返歌のように贈ったという逸話が忘れられない。まさにデモテープにはじまりデモテープに最後に帰ってくるという展開もなんかエモい…っていいのか?、こういうこの言葉の使い方で。そこにしずかに咲く「嘘」のなんと美しいことよ。それはそこらに溢れている「嘘」とは違う。比べるのがダメだな。不粋な言い方だが、吉田拓郎という人のもてる人徳だ…時々ムカツクこともあるけれど(爆)

2024. 9. 28

☆☆☆バハミアン ラブソディ☆☆☆
 「バハマ」の話は何度聴いてもいい。
 "ラジオの青春"の話を読んでどこか空気感まで伝わってくるのは、ラジオ番組CLUB25とシンクロしていることもあるかもしれない。最初はバハマのスタジオでの様子や拓郎本人のレポートの録音を東京で女優の池田ナントカさんがナレーションして伝える番組構成だった気がする。レコーディングを終えて帰国してから、番組は拓郎のモノローグの形態になったはずだ。したがって結構、リアルにバハマの様子は伝わってきていたものだ。このときのラジオとはシンクロというかもっと不即不離のものがあった。

 後にいろんなところで吉田拓郎に音楽家としての大きな転機になったことが語られたが、もちろんこの時はそこまではわからない。それでも過去2回の海外レコーディングのときの拓郎の感じとは違っていた…観たわけじゃないけどさ。ナチュラルで、闊達で、なによりスタジオでの居心地がとてもよさそうだった。ていねいに、ていねいに音を紡いでいる様子が伝わって来た。

 そして、ああ、今の拓郎は、こういう歌を書いて、こんなに美しく歌うんだ…「君のスピードで」という新曲を迎えた時のリアルタイムの感慨が忘れられない。今や堂々たるスタンダード曲だが、生意気ですまんが、当時は「ぬけたな〜」と思うた。極北のトンネルを歩いてきた私にもかなたに灯りが見えてきたような気分だった。関係ないけど映画「駅」の中の根津甚八の句

    暗闇の彼方に光る一点を今 駅舎の灯と信じつつ行く

 こんな感じだったのよ。やっぱりバハマはどこか特別だ。なので、新婚旅行にバハマのコンパスポイントスタジオに行ったというもうひとつの老舗サイトの拓バカ氏の話を聞いた時は、感動した…というより、やりおったな〜…と唸ったものだ。愛のむきだし。推しかくあるべし、とってもって範となすべし。

 このあたりからの拓郎のあたらしい旅が始まる。歳とったとか昔の勢いがないとかという意見もあったが、これは「シン・ゴジラ」でいえば蒲田で陸に上がって品川で二足で立ち上がる第三〜四形態に進化した感じである。>しらねぇよ。

 そうだ、バハマで食事といえば、ひとりだけ拓郎とソリがあわないミュージシャンがいて、拓郎が「No need!」とダメ出ししまくって、その彼が最後に「メシがうまかったよ」とだけ言い残して去っていったというラジオでの話…好きだぁ。

2024. 9. 27

⭐︎⭐︎⭐︎それでも男は政治などあてにしないだろう⭐︎⭐︎⭐︎
 政治の話をしたい。石破茂は、かつてインタビューで「キャンディーズの楽曲の中で一番完成度が高いのは"やさしい悪魔"だ」と答えた。しかしその後に別のテレビ番組では「やっぱりキャンディーズはこれが1番です!」といいながら"その気にさせないで"をカラオケで熱唱していた。見過ごせない。この人はわかっている!と思う瞬間かあったとしても、決して油断してはならない。その気にさせられてはならない。と俺は思う。>政治の話ってそれかよ!

2024. 9. 26

☆☆☆むなしさだけがあった☆☆☆
 毎週中央線で中野駅を通るたびに見える"がらんどう"になった中野サンプラザの立ち尽くす姿がむなしい。あゝ解体工事がいつ始まってしまうのかしら…その日その日、鬱な気分で眺めていた。なかなか始まらないと思っていたら解体後に新築予定のインテリジェントビルが豪華すぎて予算が足りないので計画が停滞しているらしい。無責任ながらちょっと安堵する。このまま補強と改修工事を施してあと22年くらいは使って欲しい。いや、あと22年経つと俺の計算では築73年になるからだ。そこでライブ73再現コンサートをフィナーレに本当に閉館というのでどうだろう。えーと拓郎さんいくつになってるだろう。ま、そこで歌手もファンもみな引退ということでどうだ(爆)>勝手なこと言うなよ!
 サンプラザの美しいフォルム。特に背面、後ろ姿がとてもセクシーでそこが俺は好きなんだよ。
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2024. 9. 22

☆☆☆誰がために鐘は鳴る☆☆☆
 週末にあの日の大阪のことなどを語りながら呑んだくれていた。そのことでいろいろ悪態をつこうかと思ったが、この世界はまったく容赦がない。大地震のあとにさらに溢水、浸水これでもかと襲う能登半島々、母親の目の前での子どもへの凶行、そして聖地という名のもとに手段を選ばす無差別に広がってゆく殺戮と、あまりの惨事の数々に、さすがにノー天気な自分でも辛くなってきた。ふざけんなよ、ふざけんなよ、赤い血が見えないか。
 ともかく心の底から御見舞申し上げます。他人事のように日々を生きながら他人事ではない。「誰も自分ひとりで全てではない、ひとはみな大陸のひとかけら」という浜田省吾の詩を思い出す。正確には浜省の訳詩だが、これは浜省が書いたみたいなものだ>おい

 君の友人や君自身の土地が失われる
 人の死もこれと同じで
 自らが欠けてゆく
 何故なら私もまた人類の一部だから
  (ジョン・ダン「死にのぞんでの祈り」/浜田省吾訳)

 とにかく意識するとしないとにかかわらず自分自身も削れに削れてゆくのだ。じゃあ大阪問題など、どうでもいいことかというとそれはまた断じて違う。ということをまた。
 

2024. 9. 19

☆☆☆ああ憧れの☆☆☆
 吉田拓郎のハワイツアーはたぶん4回ほど催されたが、やはり第一回=初回は特別だよなと思う。もちろん俺は行ってない。自分が行けなかったから思うところもあるのかもしれないが、後にこのときの拓郎の述懐を聴くにつれ、あゝ行きたかったなと身もだえする。今回の"ラジオの青春"もそうだ。

 ハワイツアーはどれもラジオ番組と絡めて催行されている。なのでその時々のラジオ番組の雰囲気と不即不離なところがある。初回はあの伝説の深夜ラジオ番組"CLUB25"の肝入りというところが白眉だ。あのスポンサーもつかない深夜ひっそりと流れていた地味なラジオ番組。世間や歴史の外で消えいりそうな等身大の吉田拓郎がいた。そこがまた素敵だった。拓郎ファンにとっては、豪華客船が難破して助けも来ない太平洋にプカプカ浮きながら必死でつかまっている救命ボートのような番組だった。
 そんな番組から、ハワイツアーが立ち上がっていく。ラジオの青春にもあるとおり吉田拓郎にはひとつの大きな転換点であったかのようだった。拓郎にはまごころをこめて手探りと手作りツアーを組み立てようとする真剣さが感じられた。リスナーや参加者もせつなく拓郎を抱きしめるような心根の人々だったように思う。名著「教えてハワイ」は情報ガイドとしては古くなってしまったけれど、今も時々読み返す。そのスピリットは今も古びず新鮮だ。いいなぁ。

 第2回目以降ツアーのラジオはオールナイトニッポンやセイヤングというメジャーどころで、これらラジオの時は、既にLOVE2バブルの絶頂期で、世間や若者にも顔が売れた拓郎は「オジサンオバサンのファンはいらない」などと悪態をつく思い上がったイケオジになっていた。それはそれでスターチックで華やかな空気にこれまた別の意味で楽しかったのだが、やはり初回は、吉田拓郎の歴史の転換点にみんなで静かに立ち会ったような特別な空気を外野にいても強く感ずる。それが望ましうらやまし。

 俺は自分が行けなくても他人には行って欲しいなんて殊勝に願うようなガラではないが、それでも拓郎にはご夫婦で是非ハワイに行って欲しいなと心の底から思う。
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2024. 9. 18

☆☆☆私なりってことでいいでしょう☆☆☆
 どこまで続く「ラジオの青春」ぞ。"フォーライフレコード"といえばリアルタイムでは眩しい夢と憧れだった。中2の教室で毎日朝からフォーライフの話で盛り上がったものだ。これから音楽の流れが変わる。その瞬間に立ち会える興奮があった。
 しかし最近になって、拓郎の述懐を聴くにつれて真実はかなり違ったようだ。俺には少年の日の夢でもあったので、拓郎から語られる現実の話、拓郎の本当の思いの話は、寂しくて悲しくもあった。それでも「ラジオの青春」(9/17号)でも語られている倒れかけたフォーライフを先頭にたって再建するくだりはやはり胸が震える。再建王カルロス・ゴーンなんかより格段にカッコイイぜ。ゴーンなんかPAのトランクに潜んで銀河系まで飛んできゃいいのに。>そういう話ではないか。もっとも拓郎ご本人は思い返したくもない過去なのだろうが。

 「夢の話は終わった。俺も変わる。皆も変われ。」〜「両立なんて甘っちょろい事を言ってるようでは、この船は前に進まない。」

 …たまんねぇ。あんときゃ、この孤高の奮闘のことが、まだわかんなかったよ。だから社長の拓郎ってなんかカッコ悪いな…と思っていた。だからこそ今になり、その身を削るようなカッコよさが余計に胸にしみる空の輝き、今日も遠くみつめ涙を流す。まぁ当時は無理もないけれど…すまなかったな。

 ※そうそうまだ思い出したことがありました。「ラジオの青春」の一節

 「はしゃいでいた季節の終えんを突きつけられる」
 
 ああ「ガンバラナイけどいいでしょう」のココは、フォーライフのことだったのか?んまぁ真実は依然としてあの人のみぞ知るだけど。

  はしゃいでいた季節は 真実だったし
  風の行方なんて わからなかったし
  あの日皆が求めたものは 何だったんだろう
  僕等の行く先を 誰が知ってたろう

 あのフォーライフで身をすり減らした日々のことを思って歌ったとすれば、それはまた感慨深い。

2024. 9. 17

☆☆☆意味などないのさただ好きなだけ☆☆☆
 あれからアメリカン・ポップス25を行き帰りに聴いている。ラジオならではの粋な置き土産だと俺は思う。今日は、恋のダウンタウン/ペトゥラ・クラーク。なんかウキウキと弾む。この曲を聴いた拓郎がバンド名は"ダウンタウンズ"で行こう! なんかいい。たぶんいい。涼やかな風が吹いている。…俺は、吉田拓郎にあまりに意味を求めすぎたのではないかと、なんか思う。心がゆれていればいい、それだけでいい。それだけでいいわけないけれど、今はそれだけでいい。
 ここのところやはり行き帰りに読んでいる千葉雅也の「センスの哲学」が面白い。なんてポップな哲学書なのか。久々にハマる。すぐにかぶれる単純な自分なので、なんかこれで吉田拓郎がわかったような気になって、しばらくそういう話がつづきそうだ。

2024. 9. 15

☆☆☆最後の思いつきと感想☆☆☆
☆僕にとっての最後のフリ−ト−クのラジオ
 ありがとう、すべての吉田拓郎さんのラジオ。拓郎さんの人生がラジオとともにあったように私の人生も拓郎さんのラジオとともにありました。心の底からの感謝は、今日だけにあるのではなく、これまでとこれからの日々に生きてあるものだ。なので今日はあっさりといきたい。とにかくお疲れさまでした。

☆セッション
 最後の最後にバンドセッションの至福を味わえたことが本当に良かった。別に最後じゃなくてももちろん大歓迎だ。「最後」「嘘つき」という言葉にナーバスになっておられるようだが、吉田拓郎にしかわからない心根と境涯が、おありなことは胸に深く刻む。わかる。わからないけどわかる。それでもやっばりそのときは、心をこめて「嘘つき」とか「ひどい人だ」といちいち悪態をつきながら吉田拓郎のサイドにより深く寄り添ってまいりましょう。

 ♪変わる心も愛おしい そんな自由に気づいたよ

 これは拓哉さんより現在の拓郎さんに歌って欲しいかもしれない。変化については、なんとなく思うところがあるので、またいつか。

☆心残り
 誰にとっても忘れようのないあの日…とても悔いておられることがわかる。というか、2020年のTYIS会報の「行くぜ!OSAKA!」…これを読んだときには心が震えたものだ。この叫びに吉田拓郎の魂が十分に現れている。どれだけ悔いておられたかも伝わってくるというものだ。
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☆父叱る
 「気ままな絵日記ゴースト」にはかつてこんなことがあった。

おれが初めて本を出したんだな、『気ままな絵日記』っていうタイトルで。(略)おやじが怒ったね。「こんな文章で図図しく本を出しやがって、何十万も売りやがって」鹿児島男子が本気で怒ったな。(略)全部自分で書いたわけじゃなくて、半分以上はテープ起こし、それを全部話したわけよ。よけい怒ったね。そのときおふくろなんかに「拓郎を信じるな。あいつはもううちの人間じゃない」って(吉田拓郎インタビュー「PLAYBOY 日本版 1985年11月号」より)

 このインタビューだと「気ままな絵日記」の刊行日とご尊父様の逝去の時期が整合しないのだが、ともかく既に厳しく怒られたようなので(爆)、一事不再理、お詫びなどしなくとも結構だ。それより「ラジオの青春」を紙ベースの刊行物として上梓してほしい。

☆オールディーズ
 なんというか恋人の故郷と実家を訪ねていくような思いで、今回、これを機に、25曲を一曲一曲聴いて観た。聴き覚えのある曲もあったが、それもこれも、なんか胸がいっぱいになった。音楽は自由だと拓郎はいうが、聴きながら、あゝなんか青空にのぼってゆくようなそんな清々しい気分になった。すんばらしい。
 「涙が頬を濡らすとき」…これラジオでダウンタウンズで拓郎が歌った時のテープ聴いたけど、カッコイイな。観客の歓声も凄くて、やっぱり御大は稀代のボーカリストですぜ。

☆先達へのレスペクト
 フォーライフの社長時代の吉田拓郎について問われた泉谷しげるがこう述懐していた。

  「拓郎は歌謡界の先輩たちに対するレスペクトがとにかく凄かった」

 今日の拓郎の話を聞いて、さもありなんずと合点がいった。社長時代の拓郎の歌謡界への接近は当時かっこ悪いものとして映った。俺もなんだかなぁと不満だったし、世間もそうだったはずだ。あの頃は見えていなかったんだね。昭和歌謡というより、ジャンルを問わない音楽界の先人たちへの大いなるリスペクトだったのだとあらためて思う。換骨奪胎の「骨まで愛して」もそんなことを教えてくれる。…いいぞ。ボーナストラックで酒場で酔って歌っている本人歌唱の音源もつけてくれたらなお嬉しい(爆)

 …なので今は別にいいよ〜と思う韓流も近いうちにきっと沼深く入り込むに違いない、そんな気がする。

☆エンティング
 やっぱりグッとくる。また最後の曲が、Everything has changed って、かっこよすぎるぜ。
星紀行 最後の学び若いころは世の中を自分一色にしようと思っていた。吉田拓郎一色の音楽界にしてみせる、と思っていた。
OK!! 拓郎は若気の至りのように言うが、これこそが不肖私とこの拙サイトの世界観である。アタシは現在もなおこの世界線をゆくので、あらゆるものと馴染めないのかもしれない。しかしそんなの知ったことか。すべての道は吉田拓郎に通ず。
 なので安らぎのない旅を続ける22歳の見知らぬ若者よ、ひきつづき78歳の背中を追うがいい。サイのツノのように歩みながらあの広い背中を見失わないように追いたまえ。あの人はそういうところは優しい人だから、あなたのことを心配してくれているが、あの背中を選んだ自分を誇りに思って欲しい。そう時の流れに別れを告げてはるかな愛の旅に出ないか。I love you more than I can say.もっともっと心のままに。
…とにかく終わる感じがしないんだな。

2024. 9. 14

オールナイトニッポンゴールド たぶん最終回 2024.9.13

☆☆☆あらすじ☆☆☆☆☆☆
 こんばんは吉田拓郎です。お久しぶりです。お久しぶりではないか。坂崎くんと史上最悪のおバカ放送をしたばかりだ。あれ以来、声が枯れている。

⭐︎ひとりのバンドマンであったはずだと
 ここのところスタジオワークが久しぶり。僕は自分でいろんなことからリタイアするとして、ラストアルバムも創らせてもらい、2020年にかなりの本数のツアーを回ってお別れしようと思っていたが、コロナによって可能性がなくなり、最終的に2019年のツアーが最後となってしまった。
 スタジオでミュージシャンと接することもなかった。「ah-面白かった」も主にオンラインで鳥山と作って最小限ボーカルの時にだけスタジオに行き、そこでも最低限の人数でおかなった。

 今回のようにスタジオでセッションしてミュージシャンたちと楽しい笑顔であーだこーだいいながら楽しかった。そこで考えたのは僕は広島にいるときから一ミュージシャンだった。R&Bのバンドの一ギター弾きだったな、しょせんバンドの一員なんだという意識が強かった。
 バンドの中にいるのが生きがいで、ソロシンガーというよりバンドのこだわりが強かった。東京に来て経済的事情でソロのシンガーソングーライターとして売り出されたが、もともとバンド志向が強かった。
 テレビで懐メロとかフォークソングの特集番組から出演以来がくる。「フォークの第一人者として」というが俺はフォークの第一人者なんかじゃない、だからそんな番組に出れっこない。
 そう考えると、自分は一バンドメンバーの一ギタリストなんだと思う。今回のセッションも武部がメインだが、いろんなアイデアを出してセッションするのが楽しくて仕方なかった。バンドが好き、ギターが好き、アレンジが好き、ボーカルは?…歌えといえば歌ってもいいという感じ。今回はバンドメンバーと一緒で最後に嬉しかった。最後最後というと「アイツ嘘ついてる」といわれるから、今回もギターセッションの経験が幸せでした。

 いつもと同じように今日も自由気ままにお送りします「吉田拓郎のオールナイトニッポンゴールド」

⭐︎俺だけわかるさ俺を
 自分でもテキトーとかちゃらんぽらんとか…自分がわからなくなっている。70年代にちゃらんぽらんじゃないとやってられない。これは俺じゃないとわかんない。あの時代に広島から東京に音楽状況に放り込まれて、それがでマイナーな通信販売のレコード会社に、社員として、その後の扱い、居場所体験しているうちにテキトーにその場過ごすというか、その場から逃げる、テキトーにやっていないといちいち自分の気持に正直にやってるとかえって嘘になる。あれはあの当様の吉田拓郎を経験したひとじゃないとわからない。その経験したのは吉田拓郎ひとりだけだ。だから、この気持ちは誰にもわからない。73〜74年ころに、たぶん話しても他人には通じないなとわかり始めた。あの体験をしていなんだからわかりっこない。
 あるときは屈辱、ある時は怒り、腹が立って殴ってやりたい、ある時は嬉しくて愛情を感じた、涙ぐんで抱きしめたくなる、そういうこころの起伏を体験し得られたからこそ、テキトーにと言うか逃げるというか乗り越えることができた。そういうのは自分しかわからない。ただ一歩一歩、心に正直に生きていたとは思う。それを今回のアルバムで歌にしている。正直だったことを誇りに思う。

 それを、他人から見るとあいつは嘘つき、ホラ吹きとなるかもしれない。それでも若いころは世の中を自分一色にしようと思っていた。吉田拓郎一色の音楽界にしてみせる、と思っていた。しかし現実の中で、ファンが聴いてくれればそれでいいということに落ち着いた。大きな風呂敷 夢そことのギャップから、最終的に自分の着地する部分と言うかスケールが見えてきてここにいればいい、ここにいる幸せを味わっていこうと思うようになる。その時々に正直に発言している。トータライズすると、A といってたのが Bになって、AかBかと思ってたら 今度はCと言い始めた…となるかもしれない。
 胸に手を当てて考えてごらん。みなんさの中にずーっとAだったって言える人いるの?いないよ。正直に生きようとするとA→B→C→D→Eと人は変わってゆくものだ。最初から変わらないで貫き通すなんて人はいないと思う。そういうのは絶対嘘つき。美男子とかずっと素敵なわけないのに、いけてると思い続けている人いるじゃん。
 アルフィーの秋のツアーでのとある依頼があって、それについて物申したことがあったが、…それは言えない。年月と顔についての話。人間とはコロコロ変わっている。ひとつのことを言い通して守れる人はいない。

⭐︎心のこり
 ひとつだけある心残りは、とある場所のコンサートに行く予定だった。前の晩に電車に乗っていたら、当時はうつ病の気が合って、吐き気が出て、電車を降りてホテルで休んだりして、ようやく目的地に着いた。次の日の昼リハーサルも全曲やったが、まだ吐き気がして、これは本番直前にイベンターにやっぱり歌えないと頭を下げた。唯一の申し訳ない気持ち。その日帰る途中の表で会場の前を通って、中止になったファンの人がみんながいるタムロしているのが見えた。僕のことを思っているように見えた。僕だけが味わう、申し訳ない、情けない、辛いでも体調に勝てない。このことがどうしてもふっ切れない。あのひとつを残した心残り。それ以外はやり遂げた。…というと、またやるんだよとかいわれそう。そんなこというから嫌いなんだよ。おまえらそういうこと言うから嫌いなんだよ。僕のバックにはそういう秘密が詰まっているんだ。

M-1 ショルダーバックの秘密  吉田拓郎  

⭐︎気まずい絵日記

<ブログを本にしてくれませんかという投書>
 こういうことを言ってくると思った。このブログが果てしなく続く(笑)、なんでこんなに書けるんだろう。意外と記憶としてある、印象に強いものもある。
「ラジオとの青春」…人生のテーマだしやり残したこととして「ラジオの青春」にこだわって詞を書いて曲をつくりたいと思った。例えば、パックでいただいたリスナーのハガキにいい詞があって、それが「春だったね」「せんこう花火」というコンサートに欠かせない曲となった。

 オールナイトニッポンでは、人生の失敗の時に、中川さんが言いたいことをいっちゃえ  あとは責任とると言ってくれた。メディアとか信用していないから生でぶっちゃけたい。これを最終回にしたいと言うと「そりゃあ、ぶっちゃけちゃったら来週から来れないだろ」と最終回になった。中川さん、その後ケツまくってほったらかしだったけど(笑)、こうしてラジオがフォローしてくれた。

 石川県で言われなき事件で手錠をかけられたとき、みんなメディアがそっぽを向いて、いろんなことを言われて、曲もオンエアされなかったけれど、ラジオは真っ先に救ってくれた。こうしてみるといつもラジオがいてくれた。
 子どもの頃から アメリカンポップスに目覚めてずっとラジオと一緒の青春だった。リスナーの葉書やメールで日常がひしひしとわかって詞を書く参考になりました。御礼をいいたい。こういうことをいうだけ成長のあとがある。
 セッションしながら完成して一曲だけかける。僕はラジオとともに青春したな、

 このブログも本にするかというが、昔、一冊「気ままな絵日記」という本を出して、2〜30万部売れた。これを書いたの僕ではなく、ライターの人が書いた。あれって俺のマネしているけど違う。♪色っぽいということは、♪気ままに写そうおぬしのハート、気ままに写そう拙者のハート・・・とか歌ってころで、拙者、おぬしと言う言葉が使われているが、そんな言葉は使っていない。そのあとはちゃんと自分が書いた。たぶんゴーストライターの方が売れるんだな。もっと早く謝れよ。

M-2  純      吉田拓郎

⭐︎韓流だよ人生は
<韓流好きですという投書>
<韓流ドラマ「イテオンクラス」にハマった、「七番房の奇跡」を観ようと思う、「彼女はキレイだった」がお薦めという投書>
 「七番房」…泣くよ、「ドリーム」笑うよ。吹き替えか字幕か…だが、昔からテレビなどで映画は吹き替えを観ていた。野沢那智さんがアラン・ドロンとか男前の声をあてるけれど、本人は男前じゃない。ナッチャコは同じ時期だったし、愛川欽也とかよく会ったもんだよ。
 「恋のスケッチ〜応答せよ1988」が面白い。「半地下」のような貧しい家族、みんなで雑魚寝するような暮らしの高校生の男女に恋が芽生える。もう観ていて切ない自分の高校生活を思い出した。もてなかった、準ちゃん俺の事嫌いだったよな〜(笑)イ・ヘリちゃん、パク・ポゴム・・・いい役者なんだ。背も高いし、いい顔で持てない役。もう吉田拓郎そっくり(笑)
 今おすすめは、IUちゃん、女優でありシンガー・ソングライター。いいよ、美しい。是枝監督の「ベイビーブローカー」にも未婚の母で出ているし、「ドリーム」にも出ている。演技の幅が広い。アイ・ユーちゃん、あいみょん=「みょん」には悪いけど「ゆー」に浮気している。ステージの展開も凄い。

 パク・ウンビンの「恋慕」。王家に生まれた男女の双子だけど、女子は不要とされ。そこで運命がわかれてゆく。パク・ウンビンの方が好きかもしれない(笑)。これも泣かせる。

 「高速道路家族」・・・料金所で無心して生きている家族。 こんなのある? これが泣かせるんだ。韓国のエンタメの面白さ、シナリオの面白さ。韓国は素敵だ。行きたくなる。当分抜けられない

 BTS筆頭に韓国の音楽もよく聴いてごらん。あのエドシーランが書き下ろしたという

M-3  パーミッションダンス     BTS

⭐︎若者たち
<拓郎さんの背中を追う22歳。高校生の時ファンになった、大人になってコンサートに行きたいと思ってたら、もう終了していた>
 僕だって若かったら77歳のおっさんの背中は追いかけない。あの頃 絶対 どんないい曲唄ってても年齢だけで聴きたくない。おっさんにもいろいろあるけど、こないだのおっさんもまた違うし。参考になるおっさんもいるけど。
 おっさんとして考えた時、やっぱり若いあいみょん、米津玄師、流星が素晴らしかったMrs. GREEN APPLE、藤井風、こういう人たちと青春を歩くのがいい。70歳の背中を追いかけるのは不健康だ。いい歌をつくる若者がたくさんいるんだから。


 次の曲は、米津くんにしてはコード進行がオーソドックスで、詞は哲学的で、陽水もそうでわかりにくい。時代が違っているけど。わかんないのもあるけれど。毎日精一杯生きているけど変わってない〜僕はどうやって生きてゆくかなという詞。

♪まにあうかもしれない(生歌)

こういうのにも通じる。オールドタイマーとして通じるものがある。

M-4 毎日 (everyday)   米津玄師

23時

⭐︎アナザーサイド・オブ・オールディーズ25
僕はアメリカンポップス・オールディーズが好きになって、ボブ・ディランとかはその後だった。これを25曲をピックアップしてメドレーにしてみた。

(以下実演しながら)

1 リック・ネルソン “ヤングワールド”
2 ニール・セダカ  “カレンダーガール”
3 コニー・フランシス “夢のデイト”
4 デル・シャノン  “悲しき街角”
5 トーケンズ  “ライオンは寝ている”
6 ディオン&ベルモンツ “浮気なスー”
7 ペトロ・クラーク “恋のダウンタウン”
8 リトル・エヴァ  “ロコモーション”
9 マーシー・ブレーン “ボビーに首ったけ”
10 ジミー・ジョーンズ  “グッド・タイミング”
11 パット・ブーン “涙のムーディーリバー”
12 カスケーズ  “悲しき雨音”
13 シェリー・フェブレー “ジョニーエンジェル”
14 ダイアモンズ  “リトル・ダーリン”
15 ディー・ディー・シャープ “マッシュポテトタイム”
16 ジョニー・ソマーズ  “内気なジョニー”
17 ボビー・ビー  “ラバーボール”
18 スティーブ・ローレンス “ゴー・アウェイ・リトルガール”
19 アンソニー・パーキンス  “月影の渚”
20 ディーンマーチン  “ライフルと愛馬”
21 レイ・チャールズ “愛さずにいられない”
22 ボビー・ダーリン “ドリームラヴァ―”
23 ティミ・ユーロー“涙が頬を濡らすとき”
24 ザ・フリートウッズ “ミスターブルー”
25 エルヴィス・プレスリー “恋の大穴”


M -5  吉田拓郎選 アメリカンポップス・メドレー25   
⭐︎先達へのレスペクト
 音楽は音を楽しむ。音楽はフォーク、ニューミュージック、シティポップ、どうでもいい。ジャンルはレコードメーカーの売りやすさのため。本来、どこまでがフォークで、そんなのわかるわけない。70年代はフォーク時代だったので、フォークの吉田拓郎といわれるが、俺はホントにわからない。
 フォークソングじゃなきゃ、ロックじゃなきゃ、あれじゃなきゃダメというのは音楽を窮屈なものにしている。音楽はもっと自由なもの。もっているアジとかオリジナリティとかこそが音楽なんだ。そういうジャンル分けはよくない。これからはそういう垣根が取れますように、音楽そのものを愛する。あらゆる音楽の素晴らしさ、カンツォーネ、サンバ  ボサノバ、レゲエ、世界中を巻き込む。音楽は幸せだ。かつて「ぷらいべえと」というアルバムを作った。レコード会社の不調をフォローするためだけど、好きにやりたいというのがあった。いろんな歌、僕達以前の吉田正さんや浜口庫之助さんの音楽をやった。日ごろから口ずさんだ曲、好きだった曲へのレスぺクト。石原裕次郎の「夜霧よ今夜もありがとう」とか。筒美京平の曲もいい曲だな、カバーしたいと思った。♪よろしく哀愁(生でサワリ)

 浜口庫之助は、自分で詞も書く、唄も唄える…ハマクラさんの家に伺ったこともあった。当時、新人のにしきのあきらの「もう恋なのか」「空に太陽がある限り」は作詞作曲がハマクラさんだ。歌がうまい。シンガーソングライターのハシリ。
 だけどそんな彼にレスペクトしていないというフォークはよくない。どうして前の人にレスペクトがないのか。家に行ったら先生が歓迎してくれて、奥さんは元女優の渚まゆみさんで楽しかった。レスペクトは大事にしたい。
 アルバムでは、ラジオに対しての愛、ラジオと仲良く出来て塩飽だったことともに、僕は歌謡曲をも共有したい。

「ラジオの夢」…今タイトルを決めた。

 そんな先人の歌を自分で歌って、アレンジさせてください。全国ツアーで夜な夜な酒を飲んで、その先で歌ってといわれると必ず歌っていた。自分の歌は歌わないので、そういうときに助けてくれる一曲。この曲を歌うとバンドも喜んでくれたし、周りもいいじゃないといってくれ。

M-6   骨まで愛して  城卓矢

 武部といろいろ考えて、ドゥーワップなファンクになった。

M-7   骨まで愛して  吉田拓郎

⭐︎季節のない星
 今年の夏は、異常に熱かったし、体験したことない雨。まるで東南アジアのスコールのような亜熱帯気候になった。春や秋がなく、夏と冬だけのような。それに「夏休み」の夏ではないし、怖くてエアコンを切って寝られない、とても窓開けられない。恐怖の夏だ。こういうのは好きじゃないな。素敵な春夏秋冬ではない。風物詩もない。なんか違うな  このごろ。

 ハワイが好きで、カミさんともう一度ハワイに行きたいねと話していたら、マウイの大惨事で復興に10年かかるらしい。永ちゃんの歌にもなったラハイナ、僕の大好きなワイレア…大好きだけど当分行けない。昔のように行こうという気になれない。
 こういう今年どんな冬が来るのか、怖い。怖い夏と怖い冬。ダウンジャケットを着てショッピングに行ったり、マフラーの色を選んだりそういう冬が楽しみだった。加藤紀子に書いた曲。康珍化の詞がかわいくていい曲つけようと思った。   ライブで僕も唄ったことがある。

M-8   ふゆがきた  吉田拓郎

 ラジオと青春をテーマにしたコンセプトミニアルバム「ラジオの夢」11月20日発売で  
予約受付中です。レコーディングとかこの放送に密着したドキュメンタリー番組も11月30日WOWOWで。
エンディング 
 さて、みなさん本当にありがとうございました。
 心から思いをこめてありがとうと言わせてください。
 いっぱいわがままを聴いてくれてありがとうございました。
 いっぱい悲しみを隠してくれてラジオさんありがとうございました。
 いっぱいの怒りを背中を推してくれたラジオさんありがとうございました。
 いっぱいの涙をふいてくれたラジオさんありがとうございました。
 いっぱいの疑問に答えを導いてくれたラジオさんありがとうございました。
 そしてラジオ通じて一緒に歩いて、一緒に立ち止まって、一緒に笑い合って、一緒に涙して、みんな一緒に一緒にそこにいたラジオファン、リスナーの皆さん、これからの皆さんの素敵な日常を祈っております。みなさんの健康と平和であることを祈っております。願っております。この素晴らしい貴重な人生を是非是非有意義にお過ごしください。
 僕は本当に長い間幸せだったとラジオとつきあえて思います。 
 最後にラジオにもう一言いわせてください。本当にありがとうございました、ラジオ。
 ah-面白かった。

  
 お別れの曲は、テイラースイフトとエドシーラン、”エブリシング・ハズ・チェンジド”

M-9 Everything Has Changed   Taylor Swift &Ed Sheeran

☆☆☆最後の思いつきと感想☆☆☆
 明日につづく

2024. 9. 12

☆☆☆ゆれて ゆれて☆☆☆
「ラジオの青春/09.11」
「乗り物酔いする僕には」〜「飛行中は緊張の連続で、その頃の僕のスケジュ−ルは相当にハ−ドな毎日だったので九州や中国地方への移動手段として飛行機が使われる事も多く」

 この話を聞くとかつて武田鉄矢が語っていたエピソードをどうしても思い出す。1979年秋に"吉田拓郎のセイ!ヤング"に武田がゲスト出演したときのことだ。
 70年代初頭に福岡でのコンサート出演のために単身で福岡空港に到着した吉田拓郎を、主催者側でバイトしていたデビュー前の武田鉄矢が迎えに行ったそうだ。二人の初対面である。飛行機から降り立った拓郎は不機嫌で具合悪そうで、お迎えの武田にひとこと「…ゆれて、ゆれて…」とだけ言って口をつぐんだ。
 空港のタクシー乗り場でも不機嫌そうに黙ったままで、緊張する武田。やがて自分たちの車の順番がくると、拓郎は自分たちの後ろに並んでいた足腰ガタガタで立っているだけで辛そうなお爺さんに先にサッと順番を譲ってさしあげたそうだ。その姿を観た武田は心の底から叫んだそうだ「カッコイイなぁ〜」。私はこの話が大好きで大切に胸に刻んでいる。これが私にとっての吉田拓郎である。

 その日のライブでも拓郎は不機嫌なままで、自分ギターと客席の手拍子が合わないと曲を止めてしまったり、最後の曲になると「今日はアンコールしませんよ」と言って歌う前に片づけを始めて、歌い終わってとっとと帰ってしまったそうだ。それを観て武田はまたも心の底から叫んだそうだ「カッコイイなぁ〜」。イヤ、ファンの私が言うのも何だが、フツーにヒドイ人である。塩対応以前にビドイことするヒドイ人である。事実、後にプロになってコレを真似てみた武田はブーイングの嵐だったそうだ。これもまた吉田拓郎なのである。

 素晴らしい人なのだが、ときどきヒドイことする人。ヒドイことするけれど、本当は素晴らしい人。この大いなる微妙な"ゆらぎ"の中に私とこのt.y lifeは生きている。いちいちヒドイと頭にきたり、素晴らしいと感動したりする"ゆらぎ"という幸福なのだと思う。

 拓郎の「ラジオの青春」を同じ話ばかりして〜と悪態をついては見たが、それは自分も同じだ。この福岡空港の話も書いたり話しすぎたりして、一緒に呑んでいる人たちはウンザリしているに違いない(爆)。すまん。えーと曲です。常富喜雄(猫)で「飛行場」。

 さあて、ラジオは明日ですわね。
 

2024. 9. 10

☆☆☆Dr.ムッシュの不思議感☆☆☆
 クルマの話で浮かび上がってくる"かまやつさん"。拓郎さんはじめかまやつさんと懇意にされていた方々の深いお気持ちなや思いなど私なんかにはわかりようがない。それでもただの外野の一般Pの自分にも、かまやつさんは現在も普通に飄々と色付きで生きているような気がする。亡くなった方…という感じがしない。ちょうど私がやられているドラマ「海のはじまり」の古川琴音=水季みたいに亡くなっているけれど亡くなっていない。彼岸と此岸の併走感とでもいうか。そんな感じだ…といっても知らんがな。くぅぅ大竹しのぶウマイなぁ…そういうハナシじゃなくて。
 拓郎とミニクーパーとの貴重なショットがまるでかまやつさんとの仲良しのツーショットのように見えてくる。それこそ向こう岸で明るく手を振るかまやつさん。あゝ人生は回り舞台だ…とはよくいったものだ。私も"水無し川"を聴こう。


ところで、昔のラジオでナイトで語っていた歴代車両を振り返ってみるのもいいさ〜

🚗カーグラTY🚘🚘
第7回 2017.5.14
 車の話。高校卒業後免許を取ったがお金が無くて車が買えなかった。
東京に来て、収入を得てから車を買い始めておよそ16種類。
最初、CMの関係で@スバルレックスを貰った。
かまやつさんの乗っていたミニクーパーに憧れたけれど、高くて買えないので
Aホンダシビックに乗った。これがいい車だった。もう一度乗りたい。
三代目は、印税が入っていたので、中古だったが外車の
BジャガーXJ6。店で「これ、ちょうだい」って言って買った。
Cフォード・ムスタング
Dアウディ
EBMW320i
また同車のFオープンカーを買った このオープンでツアーの時、四国まで事務所の人間と一緒に行った。
Gベンツ450SL
H同車 白
Iポルシェ924 いたく気に入っていて、逗子に住んでいたころで、東京の仕事LOVE2あいしてる にこれで通っていた ゆっくり走らせてトラックに追い抜かれていた。
Jスズキ・ジムニー  Kinikiにすすめられた。可愛い。半年くらい乗ったか。
Kジープ・ラングラー 色をブルーに塗り替えたらハイライトと同じ色になってしまった
Lベンツのゲレンデバーゲン 堂本光一に推されて
MアウディA1 坂道発進で下がるのが怖い。
NBMW 116i
そして今は、O車種は言えないが、自慢の車。「きゃああ拓郎さん可愛い」と言われるような車に乗っている

http://tylife.jp/radio/radioty_01.html#20170514

そして最後のOがあのミニ・クーパーということで完結でやんす。

2024. 9. 9

☆☆☆車に乗った瞬間から☆☆☆
 吉見佑子さんが、20年くらい前の音楽番組でのコメントの中で「あの頃のフォークの人たちって誰も車なんか持ってなかった中で、拓郎さんだけが免許持って車に乗っていた。だからあの人だけ見える景色が違って、歌も違っていたと思うの」と語っていたのを思い出した。吉見さん、いろいろあっても(爆)こういう讃え方が素晴らしい。

2024. 9. 8

☆☆☆会いに行くのに☆☆☆
 with MUSICの録画を観た。あいみょん、ありがとうな。お心遣いが心の底から嬉しい。吉田拓郎から入った高齢者があいみょんファンになるというのは、ひとつの確立ルートなのだな。そのまんまだ。
 ということで今年の秋の楽しみは、いよいよ"あいみょん"のライブに行けるぜ!! 待っちゃいないだろうが、待っててくれ。いずれこのサイトで魂のライブレポート「あなたがしてくれなくても」をお送りします。>キモイぜよ。

2024. 9. 7

☆☆☆蒼い電気フォトグラフ☆☆☆
 田村仁さんの話を読んで、TAKURONICLEを引っ張り出してくる。動くか…動いた。動いた。この時空を超えてランダムに出てくるタムジンの写真がもう胸にしみる空のかがやき。あちこちと揺さぶられ…私のチンケだけれど「混乱する魂を静める」のに精いっぱいだ。バックに流れるエルトン永田のピアノのインストがまた煽情的で泣かせる。
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 安曇野かぁ…行ったな。そういえば拓郎が監督した"detente"のプロモーションフィルムを全編観たいと思い続けている。どこでも観れないなんて、そりゃあないぜセニョリータ。

2024. 9. 4

☆☆☆帝国への逆襲☆☆☆
 スタートレック推しとしては、宿敵スターウォーズがディズニー帝国の傘下に入り、お金のかかった豪華な展開を観るたびに羨ましかったものだ。まるで大富豪に貰われていった友達の豪邸をレンガの壁にしがみついて小さな背伸びで覗いているようだった。しかしそんな敵国も決して甘いものじゃなかったということはさすがによくわかった。わかったといえばAKB帝国で歌う"ロンリーストリートキャフェ"という例えは、これまたすげぇよくわかった。あゝ切なすぎるぜ。でも吉田拓郎は、そういう"ひとり"がよく似合う。
 思えば拓郎が"LOVELOVEあいしてる"の全盛期に、それを良しとしないファンの人々のことを困った守旧派みたいに俺は眺めていた。しかし実はあの巨大なJ帝国の家臣になってしまう危険を心配をしていたのかもしれない。そうだとしたら誠に申し訳ない。
 しかし拓郎は、テレビや芸能界の奴隷になったりせずに、基本はひとりの音楽家としての歩みを決して止めなかった。孤影悄然と行く。そのことを誇らしく思う。旧帝国関係との距離の取り方についていろいろ異論もあるかもしれないけれど。まぁ拓郎だって元祖アイドルみたいなもんだし、いいじゃないかはさらばのB面。あのあたりで拓郎は第三形態に進化してしまったのだと思うことにしている。

 そして、ここ数日「ラジオの青春」に拓郎の懐かしい息吹を感じる。昔からラジオで新しい曲が完成した時に拓郎から溢れてくるあの熱い息吹だ。いつもの思い出のタイムライン系の話("爺ちゃんその話何度も聞いたよ系"と俺は呼ぶ。すまん。でも素晴らしい話も写真もたくさんあったよ。)その行間を超えて、新しい曲たちを迎えるときの祝祭気分がこぼれる。このときめきは僕の胸を貫いてしまいそうだ。もうこんな気持ちを味わうことも二度とないんだろうなとあきらめていただけに心の底から嬉しい。

2024. 9. 2

☆☆☆あれから2年☆☆☆
 テレビドラマシリーズ「スターウォーズ・キャシアン・アンド―」があまりに面白くて週末に全12話をほぼ一気に観てしまった。ガチなスタートレック派である私はスターウォーズは門外の徒で無知と偏見のカタマリだ。それでも唯一、映画「ローグ・ワン」だけはいたく感動した。この映画の前史となるのがこのドラマだ。「ローグワン」も「アンド―」も、どちらもジェダイの騎士とかフォースとかライトセイバーのチャンバラとかの世界ではなく、ひたすら抑圧された貧しき市井の人々の物語だ。その虐げられし人々が、自由のため、仲間のために、帝国の圧政に対して武器も満足にないままに立ち上がる。あの宇宙ドンパチ戦争の背後にはこんな気高い民衆のドラマがあったこと、そしてまたその息詰まるような展開に惹きこまれた。
 舞台となる星では、住民は死ぬとその遺骨は小さな名前入りのレンガに固められて、町の建物の礎石となってゆく。だから故郷の町は自分たちを繋ぐ生命の結晶でもある。それゆえに民衆は帝国の専制に対する無力感や恐怖感に悩みながらも決して故郷を捨てない。最終回の蜂起は、レ・ミゼラブルの民衆の歌のようだった。

 そんなジェダイの騎士でもなければフォースも持たない、ただの人たちの物語…これを観ながら、後藤由多加の言葉を思い出していた。
 「唄も唄えない、曲もかけない、詞もかけないスタッフがどういうふうに頑張らなきゃいけないか、という所を僕に教えたのは拓郎でしたね。ボクにとっては原点なんです。原点というか、そこしか僕にとってはないわけです(後藤由多加T'sの会報第6号のインタビュー) 

 吉田拓郎をはじめ才能ある音楽家たちを支えた音楽家ではない人々がいる。小説「いつも見ていた広島」に登場するダウンタウンズのメンバーや後藤由多加、渋谷さん、陣山さんなどなど…吉田拓郎という音楽のフォースを持った騎士をみんなで支え押し上げて音楽業界と世の中を変えた、そんな音楽家ではないが気高い人々の物語があったはずだ。
 彼らが経験し、彼らの目から観たR&Bバンドでの音楽の覚醒、中津川の騒乱、エレックからの脱出、芸能界テレビとの確執、コンサートツアーというシステムの開発、金沢事件からの救出、そして民衆蜂起のようなつま恋コンサート…きっと凄いに違いない物語が想像される。
  
 さて「スターウォーズ・キャシアン・アンド―」のことを教えてくれたのは先達「見出し人間」のあそちゃんの記事の中だった。ずっと気になっていたのだが、このたび家人がディズニー+に加入したので可能になった。いつの記事かと思ったら2022年の10月だった。すまん。遅いな。2年かかった。空で輝いている星が、実はあれは何光年前の光だというのと同じだ。悲しみより遠くから届けられる星の煌めき。

 ともかく一片の煉瓦として悔いなくありたいよ。

2024. 9. 1

☆☆☆いつまでも青春☆☆☆
 自宅付近はギリギリ氾濫は免れたが、浸水は、あちこちで大変だったようで、心よりお見舞い申し上げます。まだまだ油断はできない。それにしても台風10号が屋久島にぶつかった衝撃で勢力が大幅に弱まったというニュースにも驚いた。ホントに神の島だ。屋久島、五島、篠島は、日本三大神の島といわれるだけある。>知ってる島並べてるだけだろ!
 台風、地震にかかわり、100年前の関東大震災の昔から亡くられた方々のご無念とご冥福をお祈りします。

 さて、もう最後かと思ったら8月末日まで怒涛の更新をする「ラジオの青春」。さよならを言いながらどこまでも歩いている感じがいい。それにしても「まだ僕の周辺は何となく、あわただしい動きもあるようで正直に言って・・もう・・いいよ・・と思う事もあるし・・」
 ホラそういうこと書くとこっちの心が「あわただしい動き」を始めるんよ。「もう・・いいよ」とはならないんだよ、こっちは(爆)

 アルバム「シャングリラ」の制作で再びL.Aへ向かう機内での貴重な写真。確かに確かにウォークマン…懐かしい。それより、なんか座席がエコノミーっぽいのが気にかかる。別にどうでもいいことだが。さらに着ておられる大きな水玉のシャツ。同じころの平凡パンチのインタビューのものと同じだ。当時は白黒写真だったが、ああこんな色だったのだと44年ぶりに知る。さらにどうでもいいことだが。
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 えーと、曲ですね。もちろん拓郎さんで「あの娘を待ってる街角」。帰国後のラジオの「セイヤング」で、陣山さんが、ガース・ハドソンは、たったこんだけのプレイで6000ドル(※確か記憶では)も持ってったと文句垂れておられたのも忘れられません。

2024. 8. 30

☆☆☆嵐の中でも焚火を燃やせ☆☆☆
 ということで台風(タイフーン)来たりで大変だ。皆様ご無事でしょうか。ここのところ九州地方は荒天遭遇のフロントになってしまって心配です。こちらも既に川の増水が激しく数年前のレベル5が思い出されます。進撃がこれからなので不安です。まったく日本列島縦断するのは吉田拓郎リサイタルだけで結構です。
 とにかくくれぐれもお気をつけのうえ、じっと風と雨をやり過ごしましょう…今は嵐の季節って…甲斐バンドじゃん。
 さすればあの曲もこの曲も新曲も楽しむ音はもうすぐだと信じてまいりましょう。

…ということで今日のスマートウォッチは、"見おさめている人を見おさめる"
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2024. 8. 28

☆☆☆9月になれば☆☆☆
 「ラジオの青春」の本編はこれで終わりなのだろうか。こんな風景も「見おさめ」といわれるとやはり切ない。私の人生だって常に吉田拓郎さんのラジオとともにありました。ファンとしての貴重な紐帯でありました。こちらこそありがとうございました。

 それにしてもこれが最後、ラスト、エンディング、アウトロとひとつひとつ万感の思いで過ごしてきて5年間が過ぎた。さすがに長い。長いよ。"さよならが言えないでどこまでも歩いたね"という歌があったが、"さよならを言いながらどこまでも歩いている"…感じだ。
 もうお別れと感謝の交歓はお互いもう十分に済んだ。勝手に済んだことにする。あとは「最後」「エンディング」とかの枕詞などなく、ただ自由気ままにいたり、いなかったり、歌ったり、歌わなかったりしていてほしい。こっちもいちいちお別れとは思わないし、おめぇーやめるって言ったよな…なんてもう言わないから。隠し味のように散りばめてまいりましょう。そんな感じで9月の新曲を含めたミニアルバムを楽しみにしています。

 関係ないが、いや自分としてはかなり関係があるのだが、ドラマ「海のはじまり」がもう好き過ぎる。生方美久、天才。これが月9でいいのか。もはや周囲じゃ誰も観ていなくて寂しい気もするが、「結局、好きなんてそういうものですよね」…と脳内の池松壮亮が絵本をいじりながらつぶやく。
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2024. 8. 27

☆☆☆悲しみより遠くから届けられる星の煌めき☆☆☆
 さよなら李香蘭…じゃなくて、ありがとう伊藤蘭。いみふ。昨年の紅白のキャンディーズ・メドレーに御大の作品がなかったとき、もっと遡れば、期待に胸膨らませて出掛けた2019年のファーストソロコンサートでも御大作品がなかったとき、その悲しみいずこに向けるだろう。やさしい悪魔よりやっばりチェリーズの私のサタンだよなとか悪態をついたものだった。>どういう悪態なんだ。
 しかし伊藤蘭の今季のツアーはなんと吉田拓郎作曲を3曲も歌ってくれたというニュースが入って来た。やった!!。ありがとうございます。どうかこれまでの非礼をお許しください。
 ということで行くぞ。行けるかわからないが行くぞ。蘭ちゃん、そんな僕をバックアップしてください。ん、どうした星、バックアップするぞぉ〜♡…なつかしい。

2024. 8. 26

☆☆☆わが心のスナップ☆☆☆
「J-45をダビングする事になり弦を新しいものに取り換えている」ご近影。あゝ、いいっす。たまんないっす。「こんな事も自分でやるのが当たり前な季節をむかえております」…そこがまた素敵です。昨日は左卜全さんと比べてしまって申し訳なかったです(爆)。いくつになろうとそのさりげない姿は唯一無二の美しさです。何かが始まるワクワク感が湧いてくるってもんだあね。

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2024. 8. 25

☆☆☆新曲という空を飛べばいい☆☆☆
 木村拓哉ってヤッパリうまい,うまいわ。アルバムもトータルにキチンと創りこまれている。音楽の内容について俺にはもう評価不能だけど、その一曲に違和感なく吉田拓郎作詞・作曲がおさまっている事に安心した。だって心配じゃん。2年前に最後のアルバムを出して世間の表面からは退いていた78歳のお爺ちゃんだぞ。
 関係はないが、左卜全さんが「老人と子供のポルカ」を歌ったのが76歳のことらしい。今の拓郎より2歳も若かったのだ。
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なので木村拓哉のアルバムに一曲だけ「ズビズバ〜」みたいな曲が入ってたらどうする?心配じゃないか>心配の意味がわかんねぇよ.

 安心したと書いたが、安心を超えてこの作品は十分に成功の領域に入っている。拓郎が70歳を超えた時に同じように新曲が作れるのか心配だったが「ぼくのあたらしい歌」と「この街」を聴いてOK!だいじょうぶだ!と安堵したものだ。こう書くとシロウトの分際で上から目線で偉そうに言いやがってと怒られるかもしれないが、違う、私は胸がただれるような思いで涙ながらに書いているのだ。
2009 コンサートツアーパンフレットより せめてもの僕の生きる姿として常に新曲を作り続けていく。音楽を傍らにおき続けながら次なる新曲の夢を見ることとしたい。 
 この拓郎の言葉が常に私の頭にある。とりあえず今回もクリアだ!幸いなるかな愛でる人よ、なんじの新曲の旅はまだ続くなり。

 さて前置きはこれくらいにして>なげーよ。この歌は、君に出会い過去の鬱屈した自分に訣別するポジティブな物語だ。

  わかった事はただひとつ 自分の空を飛べばいい

 木村拓哉も賛辞していたようにこのフレーズを最後に得たことでこの歌は成功している。このフレーズに向って勇躍飛翔するように木村は歌う、そういうアレンジで隙のない完成度に仕上がっている。
 しかし、当初の拓郎のデモテープのアレンジとこの木村バージョンはかなり違ってしまったという。拓郎本人の当初の意図はどうたったのか気にもなってくる。

 この詞だけを虚心に読み直してみる。長らく孤独で切ない旅路を、人生はそんなもんさと老いさらばえてきた人間…それは拓郎であり私のようなファンでもある。それが「君」に出会うことで、ああ無駄だったと後悔するような出来事も"すべてこの世に必要さ,要らない風は吹いてない"と教えられる。そして"変わる心も愛おしい,そんな自由に気づいたよ"と悟る。それなら自分の好きなようにそろりともう一度歩いてみようかね。…そんな詞に読める(個人の感想です)。
 言葉だけを読むと「君のスピードで」「歩こうね」の系譜のように思える。だとすれば、もしかすると拓郎が企図したのは、もっとしみじみとしたアレンジだったのではないか。しょせん邪推だが、ガチで行くぜ!というスター木村には適合しなかったのではないか。

 木村拓哉の「自分の空」は、やはりANAのジェット機で世界に向い広がる大空への飛翔だが片や、こちらは知る人だけが知る星川航空のセスナ機でゆく心地良い空の旅という感じがする。まぁ実際がそうかどうかはともかく、拓郎本人のバージョンを切に聴いてみたい。
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2024. 8. 24

 ひとつまえの「ラジオの青春」(2024.8.19)…ロックウェルの件がショックで書き忘れたがドラマ「俺たちの勲章」の音楽の話が貴重だった。 
ラジオの青春 2024.08.19より 松田優作のテ−マだが「彼が事件や犯人を追いアクションするシ−ン用」という注文で少し悩んでいたが・・・ある日、某テレビ人気番組からヒントを得て完成した・・・事を今バラス(笑) 
 某テレビ人気番組は少なくとも自分世代には必修科目みたいなものだった。学校や電車に遅れそうで全速力で走らなきゃならない時、当時の殆どの男子の頭に必ずこのテーマ曲か追跡のBGMが流れていたものと確信する。私もそうだった。
 しかしこの「俺たちの勲章」を観た中2の頃から脳内で流れる音楽を、松田優作用の「挑戦のテーマ」…こっちに変えた。確かに似てたので違和感なくスムーズに置き換えられました(爆)。おかげさまで、今はあまり走り回ることもないが、急いでいる時のテーマ曲でありつづけている。この曲を静かでスローなトーンのアレンジにして「恋人のテーマ」にするなんざぁ使い方が粋だぜ、たぶんチトやん。

 中村雅俊用の「いつか街で会ったなら」は言わずと知れた大ヒット曲だが、ドラマでよくある露骨な挿入曲ではなく「友情のテーマ」として哀愁と切なさ漂うところでかくし味のように使われるところがまたいい。なんと胸が疼く美しいメロディ―なのだろうか。それがかえって際立つ。

 惜しむらくは、もう少し長く続けて欲しかったな。まさに夏の終わりとともに陽炎のように終わってしまった印象だ。
 
先日のミュージックフェアでB'zの松本孝弘が「俺たちの勲章のテーマ」をガチなスタンダードとして弾いた時、どんだけ嬉しかったことか。

2024. 8. 22

☆☆文句いいません☆☆☆
 「水無し川」か「ひとりだち」じゃないの?などと野暮なことはよそう。すぐ文句つけたくなる性格が我ながら嫌…というか不憫だ。「一緒に作った感」をどこでいつ感じたかというスピリットの話を言っているのに違いない。
 つま恋の「あゝ青春」について「あの真夏の太陽が照りつける午後、数万の観客の大歓声を前に1曲目に選ぶには、やや空気が違う!と感じたのは」先日の8月2日の日記の再引用だけど
松本隆「新風街図鑑ライナーノーツ」より 「あゝ青春」は、拓郎が「つま恋(コンサート75)」のオープニングで歌ったことで特別な歌になっちゃった。…歌い手によって根こそぎ存在感が変わっちゃう…僕が書いた意図より4倍も5倍も膨らませてしまう。そういうライブの有り方もあるんだよ。 
 …どこにも前例がないんだから、起きたことがそのまま道になる。あの現場で「それどころではない!」という観客も含めた怒涛の中で作品が4倍にも5倍にも膨らむ。だから音楽は面白い。最高のロードじゃないか。
 ああ、でもひとつだけ言いたい。…私にいわせれば真夏の太陽が照りつける午後、数万の観客の大歓声を前に二曲目に「花酔曲」を歌っちゃうというのはどうよ。灼熱のシャウト…あれはあれでいいのかもしれないけれど。私にはわからないがあの曲にもっとふさわしい場所がどこかにある、どなたかが連れ出してくれると信じております。

2024. 8. 21

☆☆変わる心も愛おしい そんな自由に気づいたよ☆☆☆
 ホントは哀しみに満ちていたという箱根ロックウェルスタジオの逸話(ん「アジアの片隅で」はどうだったんだ…)に、昨夜は「なんで今さらそんな話を…」と久々に酒がすすんだ。あとになってちゃぶ台を返すような話をすることって最近多いよなと悪態をついた。どうもワインは身体に合わないのか、酔いつぶれ夜風と踊る街に足を運べば、ふと聴こえてきた音楽に心がつかまった。

  すべてこの世に必要さ 要らない風は吹いてない

 そうか、余計なことなどありゃしない。ちょいショッキングな事実が加わっても、それはより深く愛でるためのひとつのキッカケにすぎない。いい歌だ、誰の歌だ?…ああ木村拓哉だ、誰の詞だ…あゝアイツいえ拓郎さんの「君の空気に触れた瞬間」だった(爆)。わかったことはただひとつ、自分の空を飛べばいい。…うーん、結構いい歌じゃないか。

2024. 8. 20

☆☆☆笑顔の中にも悲しみが 愛を残して旅にでろ☆☆☆
 「ラジオの青春(2024.08.19)」…ついに「ローリング30」まで来た。来たけど、この箱根合宿の前夜の事件は初めて知った。ショッキングな話だ。箱根ロックウェルからのラジオ中継はアルバム本体と共に感動と爆笑の思い出深い番組だった。カセットを繰り返し聴いて聴く度に笑ったり感じ入ったりしたものだ。その前夜の件がスタジオに暗い影を落とし、あのハイペースのレコーディングはその事件が原因でもあったという話は…ああ、聴きたくなかったよそんなこと…と思う、反面、事実から逃げて勝手な夢を見てどうするという気もする。
 むしろ拓郎の語るとおりに、合宿前夜にそんなショックな件があったにもかかわらず、あの心に残る楽しい放送、そして何よりあのサウンドを創り上げてくれた吉田拓郎をはじめとしたミュージシャンたち、石川鷹彦、徳武弘文、島村英二、石山"うるせぇバカ"恵三、エルトン永田らの素晴らしさをより深く胸に刻もう。もしかすると石山さんの"うるせぇバカ"は沈みがちな空気を盛り上げんとする捨て身の行動だったのか…んなことはねぇか(笑)とあれもこれもあらためて感慨深い。

 おーサイパンの写真だわ。いまや老聖人のような松本隆が実に若い!ここで砂浜ナントカ運動(後に地中海遊びに改名)をやるんですね(爆)。

2024. 8. 19

 訃報が続く。アラン・ドロン…拓郎さんが何かとこだわって引き合いに出していた美しき名優。…すまない。何も語れないし意味すらもわからないが、これだけは中学生の頃から魂に刷り込まれていてソラでいえる。
  D'urban c'est l'elegance de l'homme moderne.
 どうか安らかにお休みください。

 高石ともやさんの訃報もショックだ。心の底からご冥福をお祈りします。小学校低学年の頃、家に長崎の親戚が大学受験のために居候していた。その兄さんは、いつもレコードで高石ともやの「受験生ブルース」とフォークルの「悲しくてやりきれない」をヘビーローテションで聴いていた。子どもながらに、あゝツラいんだろうなと思ったものだ。とはいえ「受験生ブルース」は子どもにも面白いコミックソングに聴こえて大好きだった。特にB面は同曲のライブバージョンで後の「オンステージともだち」みたく、観客の爆笑や拍手が入ってことさら楽しそうだった。
 
  ヒトヨヒトヨニヒトミゴロ、
  フジサカンロクニオウムナク、
  サイン・コサイン何になる
  おいらにゃおいらの夢がある

 意味もわからず喜んで歌っていたが、10年後、同じ地獄に落ちた時この詞が妙に胸に刺さって響いたものだ。三角関数で躓いた痛みバネにして歩いてきたけれどまだ痛い。やっぱり詞はその人の立つ場所によって意味が違って見えてくるものだ。

 と言う意味で聴き続けている「君の空気に触れた瞬間」は少し違ってみえてきた。それはまたたぶん明日。

2024. 8. 18

☆新曲の空気に触れた瞬間☆☆☆
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 そうはいっても家人が買ってくるかと思っていたが、その気配もないので、自分で買いに行った。いいな、店内でニューミュージックとかJ-POPとかその他邦楽とかを迷いながら、や・ゆ・よ…と呟きながら探さずとも、店頭にゴージャスにでーんと置いてある。まさに「SEE YOU THERE」だ。まさか自分が木村拓哉を買うとは思わなかった…というのは嘘でドラマHEROとGOOD LUCKのBOXは買ったことがある。

 なんたってもう会えないかもしれないと思っていた吉田拓郎の新曲、なんたって作曲のうえに作詞までしている。こりゃ貴重な一作ぞ。とにかく詞も曲もサウンドもポジティブ感が横溢しているところがいい。ホッとした。とにかく買って損はない…というかそもそも私の推しライフに「好き嫌い」はあっても「損得」という文字はない(爆)。

 率直に言わせていただくと木村拓哉…頑張って歌い上げてくれてありがとう。車種に関係なく力の限りフルスロットルですっ飛ばしてくれている気がする。イキのいい走らせ方だ。
 提供曲を聴くと拓郎の本人歌唱が切に聴きたいと思うことが結構ある。白鳥哲の「ひとりだち」とか片山誠史の「俺とおまえとあいつ」とか、ああ〜もうデモテープでいいからこれじゃないの聴かせてくれ〜と身をよじって願うものもある。でもこの曲は、これを聴く限り、これが目いっぱい、一番いいんじゃないかと思えるような盤石感がある。すまんな、もう少しキッチリ聴きこんで味わってみてから考えてみよう。

 とにかく逢うことができたみすみずしい新曲に感謝だ。

2024. 8. 17

 
ラジオの青春 2024.08.16より  有楽町、旧ニッポン放送の正面入り口の少し横のあたりに駐車する オ−ルナイトニッポンへは自分の車で向かっていた 夜9時頃にスタジオインしていたので、あの頃は駐車違反なども取り締まりが柔軟だったようだ? 
 それにしてもその駐車場所は警察の前、よりによって東京本署丸の内じゃありませんか。そこに路駐するなんて落合恵子さんではないが、んーカッコイイ〜(爆)。
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 その丸の内警察も建て替え中で旧庁舎は壊され、ニッポン放送のペニンシュラ側の駐車場には出演者の出待ち入り待ち禁止の張り紙がしてある。外の景色も人の心も変わってきたけど。
 それにしても拓郎の心に深く刻まれているような出待ちの東名追っかけカーチェイスの話、追っかけた側の方の息詰まる話を聞いたことがある。これぞ究極の「追っかけ」じゃないのか。どなたかマッドマックスみたいな映像で「狼のブルース」のPVを創って欲しい。いまごろだけどさ。

2024. 8. 16

 「ラジオの青春(8.14)」に人気DJ落合恵子(レモンちゃん)の名前が出ていた。確かに大人気だったが当時の中学生男子にはなんか縁遠かったかな。
 1985年ころ、文化放送で「落合恵子のチョットまってマンデー」という番組を聴いていた。そのころの落合さんは、もうレモンちゃんではなく作家であり、クレヨンハウスの代表であり、さまざまな社会問題について発信する硬派な文化人になっておられた。毎週、社会の事、文化の事、くらしの事を落ち着いたトーンで掘下げてゆく、大好きな番組だった。…ちなみに日曜日の夜は、このあとニッポン放送で滝良子のミュージックスカイホリデーを聴いて、そのあとTBSラジオで「五木寛之の夜」の"戒厳令の夜"を聴きながら死にたい気分になって日曜日が終わるのがルーティーンだった。

 話がそれた。その硬派な社会派系の落合恵子のラジオに、われらが吉田拓郎がゲスト出演したことがあった。新作「サマルカンド・ブルー」のプロモーションだった。

 拓郎が登場するなり、落合さんは普段の社会派トークの語りの三倍くらいのハイトーンになって「タクロォー♡、ひさしぶりぃ〜、昔六本木でダブルデートしたの覚えてるぅ? 懐かしいな〜」とテンションがいきなり上がって驚いた。片や85年のつま恋以降、隠居状態だった拓郎は、例のすべてに飽きました、やる気がありません、というダラダラとしたモードで「覚えてません…」てな感じのテンション低めで落合さんとのコントラストが面白かった。
 それでもせがまれて「もう指も退化したのでギターなんか弾きたくない」といいながら、それでも「旅の宿」を弾き語ってみせた。そしたら、落合さんは、きゃぁぁカッコいい〜、えーもう凄いカッコいいわよぉとテンションを振り切った。ラジオだけれどこんな↓状態になっているのがよくわかった。
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 そのあとの会話も「ニューヨークはどうだった?」「そんなこと聞かれてもわかんない」「サマルカンドブルーって?」「知りません…これ以上の青さはないって青らしいです」「これからの予定は?」「仕事したくありません、飽きました、なんもしないで生きていけないかな」「どんな気分で暮らしてるの?」「広島に帰ろうかな、田舎もいいなと…姉とだったら暮らせるかもしれない」「"パラレル"って私も同名の小説書いているの知ってる?」「まったく知りません」…てな感じでローテンションの拓郎だったがそれでも落合さんの♡はマックスハイテンションのままだった。

 吉田拓郎というひとの「人徳」というものを思わずにいられなかった。「人徳」という言葉は少し違うかもしれないけれど、そんなようなものだ。ただ少しわかってきたこともあるのだが、それはまたいつか。

2024. 8. 15

 黙祷。

  ふたりには声がない。
  ふたりにはぼくが見えない。


 youtubeで聴いたライブの「ブラザー軒」で高田渡はあの独特のボーカルで抑揚なく歌いながらも、最後のほうで声を少し詰まらせる。はからずも、そこもこの曲にとって大切な魂のパートとなっている。亡くなる数年前、この生歌を聴けたことは幸運だった。あのときも高田渡は涙ぐんでいた。

 昨日の日記で「誰も知らなかった拓郎」の20年の過去の記憶のことを書いたが、この本も戦後20年経って市井の人々の記憶を集めている。
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 暮らしの手帖の編集長の花森安治は前書きでこう記している。

 「思い出は一片の灰のように、人たちの心の底にふかく沈んでしまって、どこにも残らない。いつでも戦争の記録とはそうなのだ。…その数少ない記録がここにある。」


 20年経ったからようやく話せる場合もあるだろうし、まだ劣化してしまうほどの歳月でもなし。絶妙な時間なのかもしれない。寄せている人々は文筆のプロではないからこそ、みもふたもなく書かれた言葉は響く。
 例えば東京の空襲で両親とはぐれた当時の小学生は大阪の伯父に引き取られた。
「大阪へ行って、両親は死んだものとしたが、いつかは両親が訪ねてきてくれると信じていたかった。二十余年すぎ、親となった今日でさえ、そんな気持ちを信じていたい気がする。」

 当時、若い教師だった女性は空襲警報下の学校の夜の宿直が辛くて、そこから逃げるように結婚して東京を離れた。その直後、自分が宿直当番だった夜に学校が東京空襲で全滅した知らせを受ける。
「私の代わりは私と同年位の息子のいられたI先生だった。私の一生を通して祈らずにいられない高橋国民学校の宿直室の夜である」

 ひとつひとつその人の深い身の上話をひざ詰めで聞き入っているような気分になる。それじゃ次の話…と読み飛ばしてゆくことができない。つらすぎてこの辺でと止まってしまうこともたびたびだ。再び花森安治は書いている。

 君がどう思おうとこれが戦争なのだ。できることなら君もまた、君の後に生まれる者のために、そのまた後に生まれる者のために、この一冊を、たとえどんなにぼろぼろになってものこしておいてほしい。これが、この戦争を生きてきた者の切なる願いである。


 もう彼の熱は、曾孫の代まで届かんと及ぶ。ふと拓郎が85年つま恋の撮影中にコーラスのメンバーに「この映像は曾孫まで観ることになるんだから」とはっぱをかけているシーンが浮んだ。

 今年で仕事で会った二百人の若者たちにこの本を進めたのだが、たぶん読んじゃいないだろう。だいたい昔の自分がそうだった。人にすすめられて本を読むことなんて殆どなかったじゃないか。
 高田渡が魂をいれて「ブラザー軒」が生き継がれたように、何のチカラもないへのような自分でも自分なりの何かを入れないとものは伝わらないのかもしれん。今は俺、60歳超え、初めて知る行き止まりの路地裏で。>なんで浜省なんだ。

 たかがファンサイトでこんな中途半端にうすっぺらな社会派を気取るんじゃないという批判もあろうが、それはつくづく私のチカラ不足であって、ここで拓郎に繋がっていないものは何一つないつもりなんだよ。すべてが吉田拓郎に満ちているつもりなんだが、なかなかうまくいかない。

2024. 8. 14

 山本コウタローといえば「誰も知らなかったよしだ拓郎」である。名著というよりもはや貴重な歴史的文献だ。豊富な証言と記録に基づき、掲載写真も含めて貴重な拓郎の足跡をたどることができる。こうして拓郎の自伝的な「ラジオの青春」が進行している今、あらためてこれを補完するガイドブック的機能が注目される。…って知らないけど私は注目している。この作品は、山本コウタローという天才の才気と拓郎への深い愛情がなくてはなしえなかった仕事であることは俺なんぞがいうまでもない。

 で、独酌しながら考えた。もちろんしょーもないことだ。この本は1974年12月に完成している。名盤「今はまだ人生を語らず」が発表され「襟裳岬」がレコード大賞を獲得したその月であり、もっとスパンを広げると本日(2024.8.14)の「ラジオの青春」にもあるとおり、この74年初頭に拓郎はロスでボブ・ディラン&ザ・バンドのライブを観たあと1年かけて愛奴と全国ツアーを転戦していた。まさに破竹の勢いの1年、そんな1974年にこの伝記本は書かれている。
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 さて1974年当時のコウタローの時間軸で考えてみる。こっから先、何言ってるか分かんないとか怒られそうだけど、いつものことなので許してね。
 吉田拓郎がエレックレコードからプロデビューしたのは1970年のことだから、この伝記が書かれた4年前のことだ。これってさ、現在の2024年に置き換えると、2020年のことにあたる。2020年といえばコロナが蔓延し始めた年だ。忘れようのないまるで昨日のような時間だ。
 そして拓郎のダウンタウンズや広島フォーク村のアマチュア活動は、たぶん1967〜1969年ころのことなので、1974年の5〜6年前、これを今に換算すると2017〜2019年ころにあたる。すなわち"ラジオでナイト"やラストツアーとなった"Live73years"の頃のことに相当する。あ〜ら、これも俺には直近のことだよ。
 そうなると皆実高校で「準ちゃん」を創って歌ったのが、今に換算すると小田和正の「クリスマスの約束」に出演したころに相当する…これとてもメッチャ最近の感じだ。
 あゝもう勢いが止まらん、小学生の拓郎が谷山小学校で姉さん先生の背中におわれてみたのは、2003年ころに相当する。あのポンのあとにビッグバンドツアーに出たころくらいのことにあたる…私には過去のうちには入らない。
 ということで74年当時のコウタローが探求していたのはほぼ20年間前後の過去の出来事が中心であり、今に振り替えるとわりと近い過去のことだったんだなと思う。

 つまり何がいいたいかというと「誰も知らなかったよしだ拓郎」が書かれたころは、拓郎の過去の歴史の発掘といえども、それなりに直近、至近な過去のことであり、それだけ関係者の記憶も鮮明であり、各種の資料も豊富に残置されていたに違いないということだ。もちろんコウタローの才能なくして本著はあり得ないが、時期的に事実の再現や記憶喚起の精度が高かったということである。伝記や記録は、やはりできるだけ早めに残しておくことだと思う。もちろん早いからかすべてが正確、時間がたったからすべてが不正確という単純な図式は成立しないとは思うが、一般に、痕跡が多いほど再現率は高くなることはいえる。

 もうひとつ20年間と言う期間で考えれば、私なんぞは、ただダラダラと生きてきただけであっという間の時間だった。さして内実のないスカスカの時間だったが、それぐらいの短期間のうちにかたや吉田拓郎という才能は目覚め、開発され、開花し、あそこまで磨かれたという事実だ。ああ、すばらしい。というか比ぶべくもないが自分が情けない。

 「誰も知らなかったよしだ拓郎」は15年ほど昔に文庫化された。それは喜ばしいことだ。しかし残念なことに原著にあったたくさんの写真と拓郎のコメントがすべてカットされていた。で、原著をお持ちの方はおわかりでしょうが、経年とともに写真がとても見えにくくなってきていませんか。だから、ね、そういうことです。
 

2024. 8. 13

 
ラジオの青春 2024.08.12より  彼等の気づかいが痛いほど伝わって・・泣いた
 コウタロ−もワタルも本当に「いいヤツ」だった 
 この言葉を聞けて少しホッとしたし嬉しい気分にもなった。もちろんずーっとそう思っていたんだろうけど。こないだラジオのアルフィーへのダメ出しを聴いた時も思ったけど、あゝ,つくづくめんどくせぇ人だなぁ (笑)
 時節柄もあって、心安らかに「岬めぐり」(山本コウタロー)と「ブラザー軒」(高田渡)を聴く。歌が描く景色のみならず、それを歌っている人ごと追想になってしまうこのマトリョーシカ状態をどうしていいかわからない。

2024. 8. 12

 暑い、暑い、暑い。沈め陽よ沈め,めくるめく太陽よ。ここまで暑いともう日傘をさすことに何の迷いもない。勝手なもので自分が日傘をさすようになると、ささないで歩いているオジサンたちはもう死の行進をしているようにしか見えない。 
ラジオの青春 番外編 2024.08.09より  「病の時・悩める時・怒れる時・立ち上がる時・旅する時・愛する時」そして「生きる今」を感じる時 常にラジオが「そこ」にありました 
 こんなこといわれるとホラ聴きたくなっちゃう曲があるじゃん。その映像に見入る。85年のつま恋、あの日も暑かった。
 あれやこれやで仕事場だが休みの時は誰もいないのでいろいろ勝手にradikoや音楽をかけられるのがいい。
 「生きる今」といえば木村拓哉のラジオ番組「flow」で提供曲である「君の空気に触れた瞬間」の紹介のくだりを聴いた。木村拓哉はまったくソツがない。かなり良い意味でだ。拓郎のあの「はたらく細胞」のような寄稿文を静かに読み上げ、目いっぱい彼流のcheer upで歌い上げたその曲を披露し、最後にこの拓郎の詞「自分の空を飛べばいい」に勇気づけられたとしめくくる。意見はいろいろあろうと礼を尽くした歓待ぶりが嬉しい。あきらめかけていた2024年にやってきた貴重な新曲だ。この丁寧なラッピングにいい気分だ。

 それにしてもキムタクは何をやってもキムタクだとよく揶揄する発言をみるけど、例えば高倉健なんてそれ以上に何をやっても高倉健だけど、何で誰も揶揄しないんだろう。そういう話じゃないか。

 どうでもいいことだが、家人は、木村拓哉のファンクラブに入っており前回のソロツアーにも観覧に行っていたので、今度のCDも待っていれば家にやってくるものと思っていたが、ファンクラブの更新を忘れたうえに、彼のビジュアルの無いCDまでは特に買わないということで…ともかく自分で買わねばなんね。この淡泊ぶりもどうなんだろうか。ファンなんて資格試験があるわけじゃないし、みんな自称だから人それぞれである。それにしてもな。

   My Family My Family
   ひとつになれないお互いの
   My Family My Family
   愛を残して旅にでろ

 おー繋がった。とにかく孤独という親しい友とうまくやっていきたいものだ。「自分の空を飛べばいい」…えっ、いいかもしんない。

2024. 8. 11

 "ラジオの青春 8/9"…、カントリーについての拓郎の話は、自分もたまたま最近カントリーのライブを聴いていたので少しはわかるような気がした。

 ところで "後年に知りあって曲を書いた俳優の小坂一也"…といえば「春になれば」だ。1977年当時、たぶんお昼のテレビ番組で小坂さんがデカいフォーライフのロゴのステッカーのついたジージャンを着てこの歌を歌っていた。なんか曲が拓郎っぽいなと思ったらそうだった。"ぷらいべえと"の拓郎本人歌唱に慣れてから、この小坂一也バージョンを聴くと、なんか職場の上司のカラオケを聴かされているみたいだ(笑)。すまん。また小坂さんがレコーディングで自分の歌声のうえにさらに歌を重ねるダビングのとき、既に自分の声が流れてるのでもう歌わなくていいかなということで歌をサボる話も大好きだった。
 …いろいろ悪態をついたが、こうしてあらためて小坂さんの「春になれば」を聴くとなんとも深い味わいを感ずる。ああ、アレンジは萩田光雄さんなんだな。Youtubeにもあるぞ〜深謝。のどかな春のような…それでいて微かにさみしさの滲むような歌いっぷりだ。ジャケット写真のお人柄がにじみ出ている。
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 とはいえ小澤征爾の関連本では、小澤さんと成城学園高校で同級生だった小坂一也さんはラグビー部のチームメイトであり有能なラガーマンとして登場する。軽音楽部とかサイクリング部とかじゃないんだよ。いろいろ面白い。
 先のラジオで拓郎がカバー論について語っていた。
オールナイトニッポンゴールド2024.08.05より  坂崎のような拓郎ファンは、ミセスグリーンアップルの流星を認めていない。流星はああじゃないだろうと。ところが音楽はそうじゃないんだよ、音楽は音を楽しむと書くんだよ。いろんなアレンジによって別の曲に生まれ変わる。1曲が2曲、3曲、4曲に聴こえてくる。それが楽しいわけ。 

 いろんなカバーが豊かに広がることで1曲が、2曲、3曲、4曲にもなるという拓郎のカバー哲学が面白かった。
 昔、うじきつよしが「だどり着いたらいつも雨降り」をカバーしたときだった。原曲どおりのアレンジだったことに拓郎はうじきに対して「原曲をどこまてせ変えるかがカバーするものの愛情だ」と諭したという話を思い出す。拓郎は、あらたなアレンジの2曲目を待っていたということなのか。それが音楽を楽しむことただと、珍しく話が一貫していた(爆)
 ○○が一番とか○○を超えなきゃと競い合うことに疲れたのかな…とちょっと思ったりする。ということで何が来てもWelcomeと今はとりあえず思っているぞ。

2024. 8. 10

 「ラジオの青春」もいよいよコンサートツアーの話になった。吉田拓郎が「コンサートツアーの始祖」であることは拓郎ファンの間では常識だが、もっともっと世間に徹底して浸透させた方がいい。学校の教科書にも載せよう。若者たちよ、胸に刻んでおいてくれ。すべての音楽関係者よ「コンサートツアー」と口にするたびに心の中で「©吉田拓郎」と心の中で手を合わせてくれ(爆)。それぐらいしてもバチはあたらんよ。

 コンサートツアー当時は、いろいろ手探りで大変だったというエピソードを聞く。青森に行ってコンサート後に夜行で帰る…あれはツアー前夜の話かな…ともかくその強行軍ぶりはまさに全国縦断だ。昔は全国ツアーには必ず「全国縦断」という冠がついたが、あれはいつころからみんな言わなくなったのだろう。

 そうそうチケット代がツアー先各地現金払いで、ホテルで清算するのが大変だったと渋谷さんが述懐されていた。拓郎のギャラもその日の現金支払いだったらしい。ツアーバンドだった浜田省吾は語る
浜田省吾事典P.60より  当時、俺、ホテルの部屋でギャラを現金で渡してたのを見たことある。そのうちの15万くらい〜当時で15万円て相当な額でしょ〜ばかばかと取って革ジャンのポケットにビッといれて「飲み行こう」って(笑) それで三軒目くらいになると、拓郎さんが全部払う。その頃有り金全部使ってたんだろうね。
 あゝ、カッチョエエ〜先日の幸拓のラジオを聴いてしまった若者たちよ、坂崎と一緒だとギャラが半分になる、ほんなら7:3、8:2とかいうセコイ話題を誤解しないでくれ。吉田拓郎と言う人はケチな人ではなくかくも惜しみなく豪快な人なのだ。

2024. 8. 9

 宮ア地震に驚いた。宮アはじめ九州の皆様心の底からお見舞い申し上げます。能登半島が復興しないままそのうえ今度は南海トラフとはもう勘弁してほしい。田所教授、日本は沈むのでしょうか。

 地震は人間の手では止められないが、戦争は止められる…と昔、恩師のI先生は言われたが著しく困難であることは周知のとおりだ。
 去年につづいて長崎物産館で平和祈念式典の中継を少しだけ傍聴した。店内には、ココは彼しかおるまいとばかりに、さだまさしの「精霊流し」が流れていた。こういう所で聴くとあゝ胸にしみる空の輝き。本当に長崎は青空だ。店内スタッフの方々と私を含めたまばらなお客さんとみんなで静かに黙祷をさせていただいた。
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 昨日は怒り心頭だったが、長崎の祈りはたとえ不参加の大使らの国々でも、心ある国民、市民にはきっと届くに違いない。決してアメリカに、煮てさ,焼いてさ,食べられたとさっさ…なんてことにはなるものかというささやかな意気地をわかってくれる人々はきっといる。そう思うことにした。

 別にええかっこしいで言ってるわけでは…あるかもしれないが、それだけではない。被害者や被害者予備軍と加害者はつねに背中合わせだ。だから戦争は怖いのだ。つまりは↓こういうことだ。
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 最近若者に接するようになって、こっちがつい偉そうに話していると、こんな世の中にしたのはおまえたちだろ、え?ジジイ…という棘のある視線を感じる。昭和と令和どっちが良かったかみたいな話を喜ぶのは私たちジジババだけだ。若者にしてみれば、昭和を無責任に生きて勝手に令和みたいな世の中を作っちまったのはみんなお前たちだろう、どっちも知らねぇよ!と言う無言の圧を感じる。…こういう真実の刃がこちらを向いている。そこに天使なんかいるはずがない。

 こういう若い問いかけに答えるすべはない。せめて「すまん、アタシの人生はただのイカレタ追っかけだったけれど、でも追いかけた歌手と音楽のおかげで、推しちゃいけないヤツや、選択してはイケない一票、それだけは間違えなかったよ。それには心から信頼できる歌手と音楽を選ぶことが大切みたいですよ」…とひかえめに若者に答えられるような自分でありたい。

2024. 8. 8

☆☆☆風は向かい風☆☆☆

 僕が泣いているのは とても悔しいからです
 人の尊さやさしさ 踏みにじられそうで
 力を示す者達は しなやかさを失って
 ウソまみれドロまみれ じれったい風景でしょう


 拓郎さんの歌を拓郎さんの意図やお考えとは無関係にこうして引用するのは申し訳ないことだけど、本当に今の自分の気持ちにピッタリすぎるのでどうかお許しください。長崎の日を前に悔しくてなりません。怒りのあまり明日長崎に行こうかとも思いましたが、長崎の伯母から駐日大使たちが来なくても、その席にアンタが座れるわけじゃないから…ともっともなことを言われた。
 祈りなき人たちは社交儀礼やおためごかしで来てくれなくて結構だよ、空気が汚れるだけだ!と思う反面、ホントに殺戮にも原爆にもそんなふうに思っているのか、あなたたちの世界平和とはなんなのだ、と尋ねてもみたい。ああ、国は長崎の行事だから関係ないねと知らないふりを決め込むんだね。戦争と殺戮の禁止の前に立ちはだかるなんて厚い壁だろう。

 情をなくした奴はどけ 
 生きる者すべてが 愛でつながれる


 そんな世界のために俺はどこへ行こう、きみはどこへ行く…また引用しちまったよ。伯母からは、静かに祈っとって…と。とにかく明日の長崎の祈りが無事に届きますように。

2024. 8. 7

 仕事で定期的にバスに乗る。若者でいっぱいだ。炎天だが夏休みの若者は元気だな。ということでスマホを眺める。先達が書いておられた「ハチロク」…いい。バスの中の若者とシンクロした。確かに私はポンコツになりかけていると思った。
 そしてラジオの青春も読み直す。
ラジオの青春 2024.8.05 この時代は楽器も自分で列車に持ち込み、自分で会場まで手持ちで運んでいた(マネ−ジャ−氏は居る事は居るのだが・・) 
 きっと多くのファンの方が感じておられるだろうが、ギターケースを抱えた吉田拓郎の姿=シルエットは美しい。たぶん世界でいちばん美しいといってもいい。そういわなきゃ失礼なくらい美しい。マネージャーもあまりの美しさに敢えてギターを持たなかったんだと思うぞ。
 …あの歌が頭に流れてきて、ああ俺もバスを降りて歩かなきゃと一瞬思ったが、ギターケースも持っていないし、ここで歩いたら熱中症で倒れる自由しかないと思いとどまった。それに二十歳になるまでさ、って俺、三倍超えてんじゃん。
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2024. 8. 6

 これじゃラジオの書き起こしなんてできねぇよ。それにこのサイトにだって品格というものがある(爆)。
 前半、拓郎のアルフィーと坂崎に対するモラハラと愛情の制御ができない老上司みたいな物言いに冷や冷やした。拓郎ファンの自分だが、もし桜井さんがいたら遠慮なく「アルフィーのこといろいろ言うけど、アンタ自分はどうなんだ?」とか切り返して欲しいと思った(爆)。
 しかし後半のおバカな暴走ぶりには大いに笑った。ここまでくだらないともうすばらしい。確かに心に残るものなど1ミリもない、タメにならない…だからこそ尊いラジオ番組よどうか永遠に。アルフィーとアルフィーのファンが赦してくれればまた次回を楽しみにしている。

 それでもいろいろ貴重な話が散りばめられていたので感想は書いておきたいが、今日は広島の日だ。

 ♪八月になるたびに広島の名の下に平和を唱えるこの国…と浜省はシニカルに歌った。田家秀樹の「いつも見ていた広島」、石原信一の「挽歌を撃て」にも、広島に住んでいた拓郎たちにとって、この日だけ免罪符のように平和を喧伝したり、県外からズカズカと集まってきて広島を無神経に踏み荒らすような空気に対する敵意のようなものが記されていた。私とてこの日だけ平和と騒ぐだけの無責任な一人かもしれん。すまん。

 すまんついでに不謹慎/失礼だが、拓郎の2回目の離婚会見の言葉を思い出すのだ。離婚に際して別れる相手に対してどういう優しさを示されましたか?…という記者の愚問に拓郎は少し苛立ってこう答えた。
忘れじの一言  優しさというものは別れの時にあるものではなく、それまでの日常生活にあるものでしょ。 
 この言葉は名言だと少なくとも私は思っている。何で離婚と関係あるんだと言われれば、平和への祈りは今日のような特別の日に際してだけあるものではなく、普段の日常にありてこそ意味を持つ。そういうことと通底しているような気がする。とにかくそういう日常でありたいと思う。

 そして昨夜のような脳天気なラジオが日々あふれていれば、戦争は遠のくのではないか…そんなしあわせなラジオだった。今日だけでなく平和の祈りがつづけられますように。
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2024. 8. 5

☆☆☆今日は何の日ラジオの日☆☆
 そういえば幸拓は毎週月曜日だった。当時の生活パターンまで思い出して懐かしくなった。ということで私の場合、早く帰って最近深くハマっているドラマ「海のはじまり」を観て、たぶん沈んだ気持ちになってから(爆)、このラジオを聴きたい。きっと脳天気な放送に救われるに違いない(笑) そうやって世界を斜めに泳いでゆきたいものだ。
「ラジオの青春」8月2日〜原宿とは  それは青春の時間「笑い・悩み・泣き・怒り・叫び・黙り・飲み・走る」そのものでもあったのだ  
 拓郎は「笑い・悩み・泣き・怒り・叫び・黙り・飲み・走る」…ひとつひとつの出来事を想い起して胸に刻みながら書いていることが伝わってくる。その内容こそご本人しかわからないだろうが魂の言葉だ。
 ラジオ、本当はレミーマルタンの水割りを呑みながら聴きたいけれど、おいそれと飲める酒でなし。

2024. 8. 3

 「ラジオの青春」…吉田拓郎と高田渡のスリーフィンガー共演写真だけで泣ける。音色と笑い声が聴こえてきそうないい写真だ。
 「Another side」のライナーで、石川鷹彦を師匠に仰いで、スリーフィンガーの猛特訓して爆テクを身に着けたという話も思い出される。
ふと浮かんだ言葉  久しぶりに渡のスリーフィンガーが聴きてぇんだよな。
              (吉田拓郎フェイク)  
  
 1980年ころ吉田拓郎そっくりの声色で拓郎ゆかりの有名なミュージシャンに電話してくる「吉田拓郎ニセモノ事件」があった。これはそのニセモノが深夜に高田渡の家に電話してきて言ったという言葉だ。ニセモノの言葉を名言としてとりあげるのはどうかと思うが、あの素敵な写真で思い出してしまった。

 そう頼まれた高田渡はニセモノとは知らずに「しょうがねぇな」と深夜に電話口でスリーフィンガーを弾いてみせてくれたそうだ。なんて良い人なんだろう。後であれはニセモノだったと高田渡にお詫びするホンモノの拓郎。「スリーフィンガーありがとうな」というと「おめえに弾いたんじゃねぇよ」と高田渡。拓郎さんはいろいろ大変だったろうし、あってはならない事件だが、すまん、この話メッチャ好き。

 

2024. 8. 2

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 つま恋75記念日 毎年、毎年ずーっと
 「8月2日の太陽は拓郎に惚れていたのでつま恋の空で燃えてくれた(岡本おさみ)」
 を引用していたので、今年は松本隆でいこう。
松本隆「新風街図鑑ライナーノーツ」より 「あゝ青春」は、拓郎が「つま恋(コンサート75)」のオープニングで歌ったことで特別な歌になっちゃった。…歌い手によって根こそぎ存在感が変わっちゃう…僕が書いた意図より4倍も5倍も膨らませてしまう。そういうライブの有り方もあるんだよ。 
 
 もはや一楽曲としての存在感ではない。いまオリンピックがたけなわだが、私は国歌よりも「あゝ青春」を聴く方が胸アツで背筋が伸びる。つま恋に行った行かないに関係なく、このイントロだけで5万人の魂の荒野がくっきりと眼前に浮かぶのだ。こんなに力強い"陽炎"がどこにある。

 つま恋75の音源CDは、後にフォーライフからリリースされだが、松本隆作品集「新・風街図鑑」にも「あゝ青春」が収録されている。同じ音源だが、決定的に違うのは、松本隆の方には「元気ですか みんな元気ですか 朝までやります 朝までやるよ 朝まで歌うよー」のMCがガッツリ入っているところだ。
 うー風街帝国にやられたわい…悔しいがフォーライフに指導、松本隆に一本!!

 ともかくつま恋記念日おめでとうございます!!

2024. 8. 1

「僕が上京後に初めて出演させてもらったのは当時のラジオ関東だった パ−ソナリティ−は森山良子…とても気づかいの優しい語りかけでロ−カル出身の僕を和ませてくれた」(「ラジオの青春」7月29日より)

ふと思い出すこと 今日の吉田拓郎があるのは黒澤久雄のおかげである
                (吉田拓郎/セイヤング 1979.3)  
 
 1979年3月の文化放送セイヤングで、拓郎は、ゲストの森山良子に対して、デビュー当時にラジオでいつも自分の曲をかけてくれ応援してくれた。今日の僕があるのは森山良子のおかげであると感謝を述べた。
 一方このとき森山良子は森山良子で自分が成城学園高校時代、先輩の黒澤久雄に手渡されたジョーン・バエズのレコードがきっかけで友人らとフォークグループを結成し、久雄の父で映画監督黒澤明の応援もあってデビューのキッカケとなったことを打ち明ける。

 ということで三段論法により、拓郎は番組中に「今日の吉田拓郎があるのは黒澤久雄のおかげである」という定理を発見したのであった。「袖振り合うも他生の縁」「友達の友達はみな友達だ」という定理に近いと言えば近いのか。

 だからなんなんだといわれればそれまでだが、私はそういう常識的チャンネルではもう生きていないのだ(笑)。思い出しちゃうんだから仕方あるまい。1ミリも役立たないことを大切に行きたいものだ。

2024. 7. 31

☆☆☆風よ運べよ遠い人へのこのたより☆☆☆

 私も子どもの頃から山や小高いところに登ると「オ〜リンピア〜!」と叫びたくなります。ハーキュリー、力は強く、ああマイティ・ハーキュリー、元気が出ます。以上私信。

 田家さんの「いつも見ていた広島」は、登場人物の名前や設定が微妙に違うので、どこまでが真実かがよくわからない。感動的なくだりになると、読みながら「ああ、この話が真実でありますように」と願う。
 なので「ラジオの青春」で御本人の言葉で書かれていると安心するものだ。それにしても日々怒涛の勢いで更新されている「ラジオの青春」だ。これは日本経済新聞の「私の履歴書」なみの進撃ぶりだ。

 初上京で東京の音楽界の理不尽さに失望した拓郎。音楽への愛情と夢が大きければ大きいほど、それだけ挫折感は深かったに違いない。
 そんな失意の拓郎に、Mくんから、広島でバンドやるから帰ってこないか、吉田おまえか必要だ、と手紙がくる。御母堂からも、そろそろ帰ってらっしゃい、そして御師範を、と手紙が届く。どれほど心にしみたか勝手に想像してみるとなんとも胸が熱くなる。

 かすかに聴こえた やさしさの歌声は
 友や家族の手招きほどなつかしく
           
 「元気です」のいちばんすきなフレーズだが、拓郎がこの時のことを歌ったのかどうかは知らないが、この歌詞は、身の置き所のない孤独を味わった人にして初めて書くことができる言葉だと思う。
 拓郎は、ミュージシャンとして大成した後もよく「俺は一攫千金夢見て東京に来たわけじゃないんだから。いつでもやめて帰るよ」と啖呵を切っていたのはそういうこともあるかもしれない。

 さて「幸拓」が決まった。8月5日か。楽しみだ。

2024. 7. 30

☆☆☆パリは燃えているか☆☆☆
 最近、暑すぎたのと珍しく忙しかったので、ずーっと居酒屋というものに行っていない。忙しいといっても、日々あんなしょーもない手紙を書いていたくらいなのでたかが知れている。さすがにいろいろ鬱憤が溜まってきたので居酒屋で話すようなことを書く。

 学生時代にフランス革命1789年=「非@難F爆GH発バスチーユ」と暗記したものだが、本当に賛否爆発のパリオリンピック開会式だった。私も歌うマリーアントワネットの生首の件はけしからん、あれはマジンガーZのブロッケン伯爵のパクリだろ…と思ったのだが理由としては極めて少数意見らしい>あったりめえだろ!

 それにしてもエッフェル塔からのセリーヌ・ディオンの「愛の讃歌」は素晴らしかった。間違いなくエディット・ピアフも降臨しているような、心震える歌と演出だった。魂だよ。いろいろあってもフランスはすごい国だ。中学の国語の教科書で、ドイツに占領される直前に学校の先生が黒板に白墨で “Vive la France!" (フランス万歳)と書く話…「最後の授業」だったっけ。中学の頃はピンと来なかったがさすがにいまは少しわかる。

 白墨といえば「数年前、地下鉄神楽坂駅の伝言板に、白墨の字で「平田君は浅田君といっしょに、吉田拓郎の愛の讃歌をうたったので、部活は中止です。」で始まる車谷長吉の「赤目四十八滝心中未遂」を思わずにいられない。吉田拓郎の愛の賛歌ってなんだという謎はいまだに解けていない。「愛の絆を」間違いではないのか。
 「愛の絆を」といえばShangri-laよりも、ロスから帰って松任谷正隆たちと演った80年武道館バージョンの方が身も心も格段に好きだ。FM東京で放送したものがYoutubeにあったので聴いてみるよろし。

 熱唱と言えば、エッフェル塔のセリーヌディオンを何度も見返しながら、何かの開会式でライトアップされた東京タワーの上で、例えば吉田拓郎が何を歌ったら泣くか考える。なぁ、何がいいと思う?悩むよね。確実なのは、ちあきなおみが登場して「喝采」を絶唱したら俺は絶対泣く、セリーヌ・ディオンよりも泣く。>それって拓郎じゃないじゃん。すまん。引き続き考えさせてくれ。

 だいたい居酒屋に行くとこういう偏ったうえに散漫な話をしてしまうのだが、だから誰もつきあってくれなくなるのだな(涙)とにかくこの炎天下、部活は中止にした方がいい。

2024. 7. 29

25 気持ちだよ   「君」と「僕」も何だか不安定なままで「相手のことを思う」ことになる
 
拝啓
 吉田拓郎様
 ライナーに注記されているように「気持ちだよ」はフォーライフレコードの最後のシングルでした。フォーライフ最初のシングル「となりの町のお嬢さん」で、中学2年の頃に友達とお大騒ぎしながら買ったことが思い出されます。しかし最後のシングルはまったく素っ気ない試聴盤のようなジャケットでリリースされました。
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 「亀有公園前派出所」と言われてもよくわからない自分には、寂しい旅立ちに見えました。同時期に出た『吉田拓郎 THE BEST PENNY LANE』こちらもなんとまぁ何とも素っ気ないジャケットだったことでしょう。
 それが、こうして現在になって、豪華なベストアルバムがフォーライフによって作られて、その最後の曲に「気持ちだよ」が鎮座されるということには、まことに感慨深いものがあります。

 康珍化さんは数々の名作をものにされた稀代の作詞家であることは、私なんぞが言うまでもありません。なんたって「全部抱きしめて」を書いたその人であります。
 それでも申し訳ないですが、拓郎さんに提供されたの詞の多くは、私はどこか気恥ずかしく感じておりました(※つくづく個人の感想です)。
 岡本おさみ、松本隆、喜多條忠そして石原信一…彼らの詞にはある種の地獄を観てしまった人間だから持つ凄みや毒のようなものが隠し味のように潜んでいますが、康珍化さんの詞は、無垢で清廉すぎてなんか物足らないのです。いや康珍化さんのことを存じているわけではないので、あくまでも詞のイメージです。
  "重たい荷物は背負ってしまえば 両手が自由になるだろう
  その手で誰かを 支えられたら"
 とても良い教訓だけど、うわー、なんか恥ずかしい〜と悶絶してしまう。
  "空の神様よ聞こえるか 俺の頼みを聞いてるか
  俺の大事な友達を いつでも遠くで見ててくれ"
 これもいい詞だけど、なんか背中がぞわぞわとしてしまう。青春と友情のホームルームみたいに思えてしまうのです。すみません。…歪んだ私の根性のせいです。
 しかし拓郎さんは高く評価されておられます。揺れている感じが特にいいとライナーで評されています。むしろ"「君」と「僕」も何だか不安定なままで「相手のことを思う」ことになる"という拓郎さんのライナーの言葉の方が心に刺さりました。拓郎さんのライナーを読むと、康さんの詞には、オドオドしながら他人との距離を迷う若者の姿が浮かび上がってくるかのようです。繊細でいい詞なのかもしんない(笑)と少し思い始めました。宮ア駿で言えば、

 "サンは森で、私はタタラ場で暮らそう。共に生きよう。ときどき会いに行くよ。拓郎さんのメロディ―に乗って"。

  …それが私の今の正直な気持ちであります。

 さてこのAnother Sideの25曲、ライナーも含めて堪能させていただきました。思ってもみなかったフォーライフからの素晴らしいベスト盤をありがとうございました。そろそろTシャツかトートバッグが届くころかと思っていましたが、届く人にはとっくに届いているようで、きっとそういうことなのでしょう。2枚応募したのにな(爆)。でも、悪くない、悪くない、みんないい歌だったから、みんないいライナーだったから、みんないい写真だったから。

 あ、まだボーナストラックがありました。しかし、こんな手紙をウダウダと書いているうちに、拓郎さんのブログ「ラジオの青春」はハイペースで回数を重ねており、レコーディングの方も何やら進行しているご様子です。ここでやることは終わった、みんなメインステージへ行こう!…って、振り返ってみると誰もいないんだが。自分としてはもう十分であります。
           深謝永遠、ご自愛専一に。
                                敬具
                                    星紀行


 

2024. 7. 28

24 吉田町の唄    私が命を失うことになってもこの子は産む。  
 
拝啓
 吉田拓郎様
 「伽草子」のライナーノーツで「鹿児島で期待されずにこの世に生を受け」〜「父に・・母に・・兄に・・姉に・・何も発信できない自分」…その切ない言葉の後に「吉田町の唄」をあらためて聴くとグッときます。

 父に始まり、父の愛した場所で終わるこの歌を、拓郎さんは完成当時「家族の再結」の歌だといいました。あの愛憎に満ちた「おやじの唄」から時が流れ、アメリカであれば「フィールド・オブ・ドリームス」、日本でいうと「父帰る」…全然違いますかね。またとどめのような名曲「清流」も含めて父親を中心とした家族の「再結」物語の大団円と思うておりました。

 しかし、お父様の仕事の偉業が再評価されはじめたころ、拓郎さんはそれを拒むかのように「吉田家は吉田朝子の歴史である。」そう明言しました。この言葉、忘れられません。自分たちを独りで育ててくれたのは母であるという決然とした意思を感じました。そして最後にMotherの歌を書きたいということで、独りで子どものために奮闘された実母、義母のお二人を主人公とした「ah-面白かった」を創ってくれました。
  「吉田町の唄」には"母は陰のように佇みながら 健やかであれと涙を流す"…何も知らない人々からすると夫の後を影を踏みながら歩く、男尊女卑の古典的母親の姿ようにも読めてしまいます。それは拓郎さんの本意でないことはわかります。
 ライナーにあるとおり「命に変えてもこの子は産みます」と啖呵をきり、我が子の自由を見守りながら孤軍奮闘し家計を支え、そして「行ってきなさい、ダメならグズグズいわずに帰ってきなさい」と音楽界へ送り出す。母の強さというより人間としての崇高さという方が的確のように思います。
 ということで「影のようにたたずむ母」を私たちはそこまで深く味わうことができ、ファンとしても心からの感謝を捧げながら聴くことができます。
 
 ライナーノーツでは、拓郎さんがお会いすることなく、幼い日に天に召されてしまったご長女であるお姉様の話まで語ってくれています。家族とは、時空を超えて広がり深化してゆくものなのか…そう思います。恭子さんは「きょうこ」ではなく「ゆきこ」さんとお呼びするのですね。そのことは、お父様がその当時の家族のみなさんの頭文字Y,A,M,Tを家紋のような図柄にデザインして、ご自身の論文集の著書に記していたという解説のくだり(板根嘉弘「朝鮮総督府官吏 吉田正廣とその時代」)で知りました。大切な家族の名前で家紋を作る…拓郎さんには違うと怒られそうですが、「吉田町の唄」をはじめとした家族の歌を作る思いとシンクロする魂の刻印のような気がしてなりません。

 なんかまた余計なこと書いちゃったでしょうかね。家族とはなんなのでしょうか…振り返りわが身わが家族のことをも思います。そのことを考えるための大きな"よすが"として、「兄ちゃんが赤くなった」「おやじの唄」に始まり、この「吉田町の唄」そして「清流」からさらに「ah-面白かった」に至るまでの吉田家の物語はそこにあります。この家族の歌の結びのとおり、特にこの昨今の世界の中で、子ども嫌いな私ですら、本当に地球のすべての子どもたちよのびやかにしなやかに育って欲しいと祈らずにいられません。
 
                くれぐれもご自愛専一に。
                         敬具
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2024. 7. 27

23 車を降りた瞬間から   午前8時頃我が家を出発した僕達の車は途中4回ほどの休憩を入れて夜の11時前後東京に着いた
 
拝啓
 吉田拓郎様
 確か車は日野コンテッサ…とおっしやってましたよね。調べてみるとなんとオサレな車でしょうか、ルノーがベースなんですね。
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 その車で広島から六本木に乗り入れる。カッチョエエです。途中4回の休憩ってよく憶えていますね。なんか今にしてみればすべてが象徴的でドラマチックに思えます。

 拓郎さんがこれまでの人生行路を一気に歌う作品たちを私は勝手に「走馬燈系ソング」と呼んでおります。「大阪行きは何番ホーム」、「車を降りた瞬間から」そして裏メニューのような「後悔していない」。さらには「早送りのビデオ」もこの系統でしょうか。こういう走馬燈系ソングを歌えるのは、実人生がとことん激動なものだったからに他なりません。やっぱりこういう唄は拓郎さんしか歌えないのではないかと思います。おのづと喜怒哀楽に彩られて、「大阪」も「後悔」も「ビデオ」もどこか悲しみを湛えています。

 しかしこの「車を降りた瞬間から」には、悲しみよりも痛快な感じが漲っています。日野コンテッサを降りてから…と歌いながら、さらにレックス、シビック…と乗り替えながら車を飛ばして東名高速、夏の夜風にすべてをまかせてどこまでも〜というような爽快感が魅力です。私に起きた良いことも悪いことも同じこと(エディット・ピアフ「後悔していない」)というように喜怒哀楽をすりぬけながら、どこまでも流れていこうじゃないのという気分にしてくれます。背中を推してくれる走馬燈って、そんなものがあるのかどうか知りませんが。
 このしなやかなでスピーディーな流れは、かねがねライブで聴きたいと思っていましたが、ある意味で、無機質かつ非情に流れてゆくこの感じは、打ち込みだからこそ表現しえたものではないかとも思います。これがたぶん西田幾多郎先生の難解な学説「永遠の今」というやつかもしんないです。
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 わざわざ図まで引用しなくていいっすね。

 "流れてゆけとどまらずに 流れてゆけ時の彼方に"…こうして書いている今も、拓郎さんは日々長文のログ(「ラジオの青春」)を始め、レコーディング・スタジオに向い、松任谷正隆さんに声をかけている…というニュースが耳に入ってきます。どれだけ拓郎さんが、これが最後だ、アウトロだ、エンディングだ、と宣言したところで、また世間がこれで拓郎さんも引退だとお蔵入りにしようとしたとしても、結局、この世界を包む流れは誰も止められないのではないでしょうか。またウソをついたとか、つかれたとか、そんなことはてんで意味をなさない大いなる流れです。
 拓郎さんの歌う"人のたどりつく海"とやらまで、今は水面に浮かび、流れ流され、ともに流れてゆきたいと思います。いつも流れ流されて生きてきたんだから。それしかないようです。
                ご自愛専一に
                       星紀行

2024. 7. 25

 (私信)ねぇさん、お気持ちはとても有難いですが、その傘をさす根性はねぇっす(爆) 

22 伽草子    今しみじみと思う。生きてみなければ・・と。 
 
拝啓
 吉田拓郎様
 「鹿児島で期待されずにこの世に生を受け」「僕のような体力も知力も乏しい人間に未来なんか来るのか」というこの曲からは予想外の内容のライナーノーツです。「父に・・母に・・兄に・・姉に・・何も発信できない自分」…家族から深い愛情に育まれながら自分からなにも発信できないという懊悩は、まるであの「Contrast」の1番の心の叫びを聴いているかのようです。それが、なぜ「伽草子」なのでしょうか。夜空を眺めながら「ああ、もうすこし」と切ない思いを抱く…そんな心の深奥が通底しているのでしょうか。いや、しょせん私の下種の勘繰りでしかないですね。

 「人をひっぱる」、「人の道しるべになる」そんなチカラはありっこないと思っていた少年は、後にまさにたくさんの人をひっぱり、道しるべとなり、こういうlifeとまで言い出すイカレたサイトまで出来てしまうわけです。まさに拓郎さんの言うように「生きてみなければ・・」わからないものですね。
 それでも、拓郎さんは、かつての脆弱な自分を克服したとか乗り越えたとは言わない。むしろ敢えてかつての自分を切り捨てずいるような気がします。あの日の脆弱な自分も大切に残しながらループしているようにすら見えます。それこそが拓郎さんの真骨頂だと私は勝手に思います。だからこその道しるべなのだと思う次第です。

 それにしても、僭越ながらこの歌はやはり1973年の原曲が圧倒的に一番です。原曲のオルガンのイントロ、まろやかなサウンド、そして唄声…すべてが神様が創らせたとしか思えないような出来上がりです。幻想的な夜空がひろがるような美しさ。絶品ですばい。なんでこの原曲をこのベストに入れなかったという不満もあります。この「みんな大好き」バージョンのズンズンチャのアレンジが悪いというより、原曲があまりに素晴らしすぎるということです。

 しかしこのズンズンチャを聴いて心に湧くのはあの「LOVELOVEあいしてる」の全盛期の幸福感です。最初はテレビで固まってしまってる拓郎さんを手に汗握って観ていましたが、やがて閾値を超えたようにどんどん生き生きとスタイリッシュになってゆきました。LOVE2ALLSTARSの音楽的にハイクオリティな盤石感。それらの成果物としてのアルバム「みんな大好き」には原曲の方がいいとかあれこれ賛否両論ありましたが、拓郎さんのアルバムが生産が追い付かずに発売と同時に店頭から消えてしまうなんて事態がまさか起きるとは誰が想像したでしょうか。淋しかった80年代後半から90年代の初頭の日々を思い返すと、このアルバムは迷妄晴れたり!という祝勝感と幸福感に満ちています。これぞ「生きてみなければ・・」ということでしょうか。それがこのバンドの音もベストアルバムに刻んでおきたいという趣旨ではないか…といろいろ考えたところで、またしても真実はわからないのでこのあたりにしておきます。もともとわかったようでよくわからないのが吉田拓郎さんです。暑さ厳しきおり、くれぐれもご自愛専一に。
                         敬具   星紀行

2024. 7. 24

☆☆☆日傘がゆれる☆☆☆
 この猛暑。陽射しが強くてどうしてもまっすぐに歩けない。外回りが不可避の私は、今年からやるせないくらいの勇気を出して日傘を常用している。やっぱり町では少数派で孤独だ。ま、誰も気にしちゃいないだろうが。たまにすれ違う日傘男性は、圧倒的に若いビジネスマンが多い。私はそんな彼らを「日傘男子」と呼んで共感し、同志的な視線を投げかけるのだが、だいたい「うるせぇ傘ジジイ」って感じで目をそらす。昨夜の「マツコの知らない世界」で男子用日傘特集をやってくれたおかげでなんとなく気恥ずかしさが緩和された。前にも言ったが、ここはひとつ「TAKURO YOSHIDA」ブランドの"t.y日傘"を発売してはくれまいか。さすれば、意気揚々と町を歩けるぞ。今年はもう遅いので来年か。「幸拓」にメールでお願いしようと思ったが、あれ番組はまだなのかな?

2024. 7. 23

21 全部抱きしめて tropical    マウイ島よ! 大変な時がまだまだ続くと思われるがひたすらに復興の日を願っている! 
 
拝啓
 吉田拓郎様
 私のような人間は、拓郎さんのファンになっていなかったらハワイとは一生無縁だったと思います。それが「KAHALA」に始まり、クラブ25から立ちあがったハワイツアーが50歳を超えんとする拓郎さんの背中を押したこと、LOVELOVE収録の際に、モアナサーフライダーのビーチで皆が静かに心をつないだこと…拓郎さんにとってかけがえのない場所、それはファンにとっても大切な聖地であります。
 幸運にも参加できた三度目の"吉田拓郎ハワイツアー"で、拓郎さんを初めて至近距離で拝したのはあのマウイ島の美しい街ラハイナでした。あれは夢だったのか、天国の入口か。海、太陽そして音楽、ここは今若者のアイランド。それはあっちの島か。とにかくあたしゃ死ぬ前の走馬灯で絶対拓郎さんとのあのハワイの景色を観るでしょう、いえ観るまでたぶん死にません。
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 そんなマウイに起きた大惨事に、拓郎さんのショックはいかばかりか。私ですらも何かできないかオロオロしているときに、拓郎さんの天敵(爆)さだまさしさんもマウイがゆかりの地であり、この悲劇のマウイ島の復興のための基金活動をしていることを知りました。
 ところで、さだまさしさんといえば、数日前に三越デパートの「さだまさし展」に行ってきました。なぜ拓郎ファンなのに天敵"さだ展"に行くのか、奈緒さん流に言えば、だって、あなたがしてくれないから…私が言うと気持ち悪いっすね。吉田拓郎展…高島屋あたりでやりましょう。
 そこで展示されていた、さださんの「天を恨まず」というパネルが胸に刺さりました。もとにあるのは、あの東日本大震災の数日後に悲痛の只中に行われた気仙沼市立階上中学校卒業式の梶原祐太さんの答辞です。
 「苦境にあっても、天を恨まず、運命に耐え、助け合って生きていく事が、これからのわたくしたちの使命です。」
 今でもあの卒業式の答辞の梶原くんをYouTubeで観るたびに涙するしかありません。展示のパネルは「『天を恨まず』その一言に救われた人は多い 今でも応援しています」という彼に向けたさださんの言葉でした。今日また三越に行って書写してきました。
 マウイの話じゃないじゃん、さだの話かよと言う人は、よもやおりますまい。拓郎さんとの直近のハワイツアーが東日本大震災で中止になった話を上げるまでもなく、すべての災いはこの地球の上でつながっています。ありとあらゆる天災に翻弄され、木の葉のように舞うだけ舞うしかありません。地球はもう終わりでしょうか。
 拓郎さんが昔からラジオや著書やブログで、さまざまな天災人災に対して、そのたびごとにいつも心を寄せ、時に怒りに荒ぶる姿を観てきました。私はそんな拓郎さんに育てられ勇気づけられてまいりました。だからマウイ島に限らず現在も続くすべての天災、震災、事故に、拓郎さんがどれだけ胸を痛めておられるか、察するに余りあります。
 表現や行動のあり方はそれぞれ違えど、さだまさしさんを観ていてああ一緒なんだなと大いなる通底を感じました。だからこそこのお二人は信頼できるし信頼されてきたのだと思います。
 そんなことを思いながら聴くこの「全部抱きしめて〜tropical」は、敬虔な祈りの歌にも聴こえます。いいっす。
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         (原田泰治「ジャガランダの丘」より)
 ということで私は、拓郎さんに一日も早くハワイに行ける日が来て欲しいと切に願うものの一人です。もちろん私も行きたいけれど、まず拓郎さんご夫妻に行っていただき、そのハワイから拓郎さんのたよりが届き、みんなが胸を焦がす…それがまず最初のような気がするのです。
 もう一つ、拓郎さんがフォーライフを辞める時、盟友の後藤由多加社長に送った言葉が忘れられないです。
 「いつの日か、彼とはハワイのビーチで、二人でマイタイを呑みながら、お互いによくやったと言える、そんな日が来る。」
 勝手ながら本当にそんな日が来て欲しいと心の底から願っています。そこに至ってこその復興ではないかと勝手に思っております。tropicalの口笛のメロディ―が頭の中でずっと鳴っております。

                 敬具
                      ご自愛専一に
                               星紀行

2024. 7. 21

 勝手ながらこうして妄想手紙を書いていると…それはそれで妙な気分になってくる。消尽というか、なんかいろいろあったけれど、これでようやく俺もお別れできるかもしれない、お世話になりました…かどうかはわからないが。たかがファンの自分だがそれはそれなりの遺言めいた気持になってくる。何度でも辞める、これで最後と言ってしまう人々の気持ちが少しだけわかるような気がする。

 ブログ「ラジオの青春」は読んでいる。いまだに「フォーク歌手」といわれる、世間からのレッテルへの拓郎さんの苛立ちのようなものを感じる。今回のラジオの話にも出てくるけど、睦…陸奥田さん(田家秀樹「いつも見ていた広島」より)が「吉田ぁ『やさしい悪魔』はダウンタウンズでもできたなぁ」と言った話が俺はツボるくらい好きだ。whether Folk or notではなく、そこいらあたりが吉田拓郎の魂=ソウルのありどころなんだという切なる叫びがある。
 
 魂といえば、日本橋三越の「さだまさし展」に行ってきた。展示された直筆のメモやノート、貴重な品々にこれまでの発言を記した夥しい数のパネルたち。外野にいる自分でも圧倒的なものを感じる。いろいろあってもこの現在の憂世を悩みながら走り続けている不思議な気迫がある。
 展示は写真撮影が禁じられているので、ガチ勢は熱心に一言も漏らすまいと手書きのメモを取っていた。その姿を観ているだけで胸が熱くなってたまらなかった。どうしてもかつての「TAKURONICLE展」や「吉田拓郎英雄伝説展」なんやらを思い出す。おいらも目を血走らせてメモしまくったものだ。あなたがしてくれなくても、こういう魂の企画展はこれから何度でも欲しい。ところで…どうしても気になったことがあったので「さだ展」にもう一回行ってきます。
 
 
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2024. 7. 20

20 マスターの独り言   今だから明かすが…ムッシュは飲酒運転の常習者だった(笑)
 
拝啓
 吉田拓郎様
 「今だから明かす」じゃないです。昔から拓郎さんはラジオでもしょっちゅう吹聴していたし、あの「笑っていいとも」に出演した時は「おまわりさん、かまやつさんを捕まえてください!」って全国ネットで明かしてたじゃないですか。しかも、この出演時は、飲酒運転もさることながら、かまやつさんのパーソナルに大事なことも明かしてしまい(略)。私の周囲の人々はこのテレビの時にその事実を知ったという方が大勢います。

 このライナーの車とタバコの話は、昔、かまやつさんも話していました。かつて週刊プレイボーイで、かまやつひろし、写真家の沢渡朔、作家の牛次郎が三人で鼎談する連載がありました。「拓郎が車に乗って煙草に火をつけてから『ムッシュ!灰皿、灰皿ぁ〜』って騒ぎだしたので、洗面器渡して、これ使ってといったら拓郎が『あああああ』って」。三人で「そりゃ驚くよな」って盛り上がっていたのを思い出しました。

 悪くない、悪くない、こんな昔のささいな記事を思い出してみるのも悪くないです。みんないい男だったから、みんないい女だったから。

 原宿や表参道の拓郎さんの足跡や聖地はあれこれ追いかけましたが、六本木となると足が遠のいてしまいます。やはり私のような一般Pには六本木は魔界のようにみえて尻込みしてしまうのです。せいぜい頑張って仙台坂あたりまでか。そこいらへんが、スターと一般人を分け隔てる関所かな…と思うのです。
     
                           敬具
                     ご自愛専一に
                              星紀行

2024. 7. 18

19 とんとご無沙汰   LAのミュージシャン達と共に過ごした輝ける時が、その後の僕の「演奏し歌い続けるエネルギー」を再燃させた
 
拝啓
 吉田拓郎様
 80年代後半から90年代前半にかけてのこの道は寂しかったです。あんなにたくさんいたはずの同行者たちの気配も薄くなり、吹く風は冷たく、他人様のお祭りを遠く聴きながらフェイドアウトしてゆくかのような奥の細道。拓郎さんもそうだったかもしれないけれど、私たちファンの多くもみんなひとりぼっちでありました。

 そんな中にこの曲は訪れました。本当にとんとご無沙汰です。アルバム「ローリング30」にラジオ「セイヤング」があったように、このアルバム「Long time no see」はラジオ「CLUB25」と不即不離の関係にありました。深夜のFMでスポンサーもつかない拓郎さんのモノローグでつづられる地味な番組。遠くバハマでのレコーディングの様子とともに、逗子に戻られての拓郎さんがおだやかな日常をしみじみと語る、これこそが「等身大」というラジオでした。奥様と二人て空を見上げながらLuckを感じる話は私の宝物です。
 拓郎さんが現地のミュージシャンと心を通わせている様子から、拓郎さんに音楽のチカラが静かに漲り始めていることも伝わってきました。エリック・ワイゼンバーグのギターに「No need!」と拓郎さんがダメ出しする話も大好きでした(笑)。
 昔のような荒ぶる魂とは違うけれど、花鳥風月、晴雨曇風がこんなにも心にしみた拓郎さんの作品はありませんでした。吉田拓郎の新境地というものがあるとすれば今なんじゃないかと思ったものです。
 こうして暗夜行路に仄かな光が射してきたそんなラジオでありアルバムでした。ああ、結婚も海外レコーディングもすべては三度目からなんだなと勉強しました。すみません。そして拓郎さんはハワイとバハマはあざなえる縄の如し、この縄を掴んで拓郎さんはターザン…いやインディアナ・ジョーンズのように果敢に50歳の谷を超えてゆくのでした。

 アルバムの帯の「放っておいてくれてありがとう」…いいフレーズです。「いえ、こちらこそ放っておかれてどういたしまして」と答えるほかありません。あの極北の奥の細道を、お互いがお互いを放っておいた"信"ある時間という総括がなんかとても嬉しいじゃないですか。
          
                           敬具
                     ご自愛専一に
                              星紀行

2024. 7. 16

18 大阪行は何番ホーム    そこ・・をないがしろにする自分を許すことができない
 
拝啓
 吉田拓郎様
 2024年6月14日のオールナイトニッポンゴールドで、あの1975年9月のオールナイトニッポン最終回事件のことを語った時に「私生活を破壊した」と言う表現をされ、ドキっとしました。決して過去の美談にも思い出話にもしないという強い意思を感じました。

 誰もが衝撃を受けたであろうあの最終回の翌日、朝、中学の2年4組の教室に入るなり同級生のtくんが興奮して「昨夜聴いた? 拓郎、離婚するって、オールナイトニッポンも辞めちゃうって」。いてもたってもいられずに放課後にtくんの家で録音したカセットを聴きました。拓郎さんの沈痛な独白のに息を呑み、その合間に流された1曲目の「いつか街で会ったなら」から最後の曲の「流れる」までがまるでそのために作られたばかりの挿入歌のようで、とにかく壮絶な物語を見せられた気がしたものです。その日からtくんの家に行くたびに何回もカセットを繰り返して聴きながら、中学生坊主なりに真剣に「離婚とはなにか」「人生とは何か」…二人してわかるはずもない"君たちはどう生きるか"的な問題を考えたものです。

 それからおよそ10年後、あなたはラジオでなく記者会見場に独りで、たぶん拓郎さんが大嫌いな記者たちに囲まれていました。マスコミも世間も、拓郎さんの話を理解しようとすらせず、容赦なく言葉のナイフを投げまくっており混沌しておりました。とにかく拓郎さんがひとりでヒールを負うという覚悟だけが伝わってきました。その時期の歌です。そのことと分かちがたく結びついている歌です。

 もちろん、たかがファンの端くれにいったい何の真実がわかりましょうか。それでも身心を削って創られ、歌っていること、それくらいはわかりました。中学2年のときの先取り学習のおかげです。そして推しが心を削られる時に、どうしてファンが平気でいられましょうか。
 稀代の名曲でありながら、スタンディングしてBRAVO!とは叫べず、文字通り、疼くような思いを感じるのはそこから来ているのだと思います。すみません、曲調も状況もまったく違うけど、映画「砂の器」の最後で加藤剛が弾く「宿命」を聴いている時の気分に近いものがあります。

 たぶん最後に歌われたのがCountryツアーでしたが、鬼気迫る歌唱だったのをよく憶えています。二度とステージでは歌われなくともこれからたぶん何度となくリスタートを繰り返す私たちのお守りのような歌だと思っております。
                           敬具
                     ご自愛専一に
                              星紀行
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2024. 7. 15

17 Y   「いずれここも」と軽い気持ちだったはずだが 僕達夫婦はどうやらここに安住の空気を感じ始めている
 
拝啓
 吉田拓郎様
 数多くの拓郎さんのラブソングのうちで、私はこの「Y」が一番好きです。…と断言してしまうと「しのび逢い」じゃなかったのか,「たえなる時に」はどうなんだ,はっ。2019年の「今夜も君をこの胸に」を忘れてどうする…ということで混乱してしまうので「かなり好きな1曲」ということで勘弁してください。
 誰かを好きになった時、その人のことが気になってたまらなくなるあの気持ち。しかし、どういう距離の取り方をすればいいのか、なにが一番いい距離なのか、ひたすら戸惑うそんな切なさを繊細に歌いこんだ名曲だと思います。
 特にあの美しい間奏だけで私は泣きたくなります。あのアレンジは拓郎さんなのか松任谷正隆さんなのか、とにかく胸かきむしられるストリングスのフレーズ。もう私はサイレンで遠吠えする犬と変わりません。
 そういえばあの当時お付き合いしていた人とダイエー碑文谷店まであのソックスを買いに行ったけれど見つからず、二人で水色のスタジャンを揃いで買ったりしたことを思い出したり…超個人的にも胸が疼きます。
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 ライナーノーツが"いったい何回目の引越し"の話になってるのは、よくわかりません。ダイエー→碑文谷から過去の引越しの系譜を思い出したのでしょうか。
 不動産業者さんの言うように引っ越しと言うのは多くの人にとって人生のステップアップの象徴なのかもしれません。しかし、アップもダウンも関係なく、ただ移動したくなるという拓郎さんは、日々旅にして旅を住処とす、岡本おさみさんよりも旅人気質なのかもしれませんね。
 その景色に飽きる…と以前拓郎さんは言っておられました。なんなら離婚も人生の模様替えみたいなことまで話が及んでおいおいと思ったものです。違う景色を求めて次々とさすらう姿は一曲歌うごとに譜面を捨ててゆく、あの姿とかぶります。カッコイイなと憧れつつ、拓郎さんだから出来たんだよなと悔恨をかみしめてもおります。ただし、あの放浪の精神だけはへのような自分でも忘れないでいたいと思っています。

 そして拓郎さんがはからずもたどり着いたという安住。拓郎さんは大事な人との本当の距離を見つけられたのでしょうか。私にはまだまだわかりませんし一生わからないかもしれませんが、安住の地とは求めるものではなく、惜しみなくく執着を捨てた放浪の果てに「このままが一番に思えるものね」…そういう境地とともに静かに降りてくるものなのか、こちらも、いろいろ考えさせられます。
                           敬具
                     ご自愛専一に
                              星紀行

2024. 7. 13

16 夜霧よ今夜もありがとう   二人の「ソロバトル」が本当に美しいではないか、永遠に聴いていたくなる
 

吉田拓郎様
再拝啓
 二人のソロバトル。これが"ごんぎつね"だと「青山徹、おまえだったのか、あのとろけるようなギターは…」「ジェイク…あなたでしたかこの情感あふれるサックスは…」と兵十はつぶやくのでした…というところです。
 今も「夜霧」を聴きながら、確かに"永遠に聴いていたい"…この演奏にいつまでも浸っていたい、ああ、終わってほしくないと切に思います。昔から拓郎さんが毎晩「ぷらいべえと」を聴きながら3曲目で気持ちよく寝落ちされていたことが現在はよくわかります。もちろん今回のベストアルバムにチョイスしたこともです。

 しかしこの心境に至るまで、いくらかの時間と迷いが必要でした。思えばこれもラジオでした。伝説のラジオ番組「フォーライフ・フォーユー」の最終回に、新作「ぷらいべえと」をひっさげて登場した拓郎さんは、自信たっぷりにこの「夜霧」を紹介しました。しかし拓郎さんの熱き新作を待ち焦がれていた少年にとっては突然のムード歌謡の登場に「なんじゃこりゃああ」とラジオの前で悶絶しました。悪いけれどそこのところ察して欲しいです。

 当時「ぷらいべえと」を聴きながら、もう拓郎さんは曲が作れなくなってしまったのではないか? この鼻声は、もう声が出なくなってしまったのではないか? …もう31歳だしな…そのころの31歳といえばもう老いたる爺さんのイメージでしたから胸を痛めておりました。
 
 また世間は世間で容赦なく当時、「クリスマス」とか企画モノばかりで、金儲けのことしか考えていないのかなどという批判をする人もたくさんありました。富沢一誠、アンタのことだよ。
 先のラジオでも「このアルバムは全曲"Arranged by Takuro Yoshida"ということで 書けない楽譜を独りで書きました」「自分の音楽的楽しみのために作りました」と拓郎さんは笑っていましたが、そういうことでどこか孤高な感じもしていました。実際にココから厳しい社長時代が始まっていったのですよね。

 しかし1年後にライブで聴いた「夜霧」は、このアレンジにちょっとスイングがかかった感じで、松任谷正隆のオサレな味付けもあってか会場の空気があたたかく弾んでいました。あらためて「ぷらいべえと」でのあのアレンジがよく練れたもので、さらにこんな表情もみせてくれる…ああ音楽ってすごいな、ミュージシャンてすごいなと思ったものです。
  
 このように最初こそ面食らった「ぷらいべえと」でしたが、その"Arranged by Takuro Yoshida"の威力に少しずつとらえられてゆきました。それにあれからライブなどで青山、ジェイクの二人のガチのソロバトルに何度も打ちのめされ胸に刻んだ私は、あらためてより深くこのバトルの原点の「夜霧」を味わうことができるようになった気もします。

 
 その後に、たぶん石原信一さんの著作「挽歌を撃て」(1980年)あたりで、実は、フォーライフが傾いたので急遽突貫工事でアルバムを作らねばならず、深夜のスタジオを押さえたために体調を崩し鼻声になっていたことなどの事情が明らかになりました。そこから、ともするとやっつけ仕事のように言う輩もおりますが、"Arranged by Takuro Yoshida"をなめるんじゃないよと言ってやりたいところです。当時の制作事情、環境に関係なく、音楽は音楽として精一杯の丹精こめて創られていることは明らかなことです。そのことを年齢とともにひしひしと感じるのです。
 例えば一人暮らしの時、母親から荷物が届くと、ゴチャゴチャ入っててめんどくせーなーと悪態をつくけれど、ありとあらゆる場合を想定していろんなものが詰められていたり、ていねいな手仕事が施されていたりして、ああ、すまなかったなと思うことがありませんか? たとえは何ですがそれが私にとっての「ぷらいべえと」であり「夜霧」なのです。私としては、ただただこのアルバムを愛でるのみです。
 「骨まで愛して」のカバーが素敵なスタンダードになることを楽しみにしております。
                     
                    ご自愛専一に  星紀行

2024. 7. 12

15 冷たい雨が降っている 「ローリング30」は、忘れられない愛すべきアルバムなのである
 

吉田拓郎様
再拝啓
 「ローリング30」は、私にとっても忘れられない愛すべきアルバムです。そして「ローリング30」といえば"ラジオ"なのです。1978年4月に始まった深夜放送"セイヤング"は、初夏の頃に松本隆さん、大川装一郎さんそして常やんらとのサイパン島ジャケ写合宿のズッコケレポートを皮切りに、夏には箱根ロックウェルスタジオからの生中継、そして秋に東京での松任谷さんたちほぼティンパンアレイチームとの完成曲を毎週披露してくれる…という具合にアルバムメイキングの過程をつぶさに味わう体験ができました。そしてそのラジオの成果物であるアルバム二枚組と一枚のシングル盤をこの手にした時のあのズシリとした重さ。

 当時、もう歌手を引退して経営者になったとか、しょせん過去の人、終わった人とかなんとなく世間の風が冷たい中で、拓郎さんは真摯にこのアルバムを作りながら音楽的にどんどん覚醒しヒートアップしてゆきました。その力強い様子には、私までもがラジオを聴きながら一緒にどんどん高みに登ってゆくような勇躍感がありました。こんな経験をできた幸福に感謝します。

 「ローリング30」「英雄」「裏街のマリア」「外は白い雪の夜」などが収まった1枚目のうえに、2枚目にこの歌が入っているあたりでもう無敵感がマックスです。
 鈴木茂さんの悲しみの咆哮のようなギターに導かれ、灰色のまさに「海辺の叙景」が広がるような見事な詞とメロディ―…ああ、サックスがまたたまらないです。あなた、すてきよ、いい感じよとボート小屋から声をかけたいところです。
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 詞を書くそばから速攻で曲をつけてゆく。ロックウェルからのラジオ中継でも曲が驚くほど出来ていると興奮していましたね。後年のラジオ番組で、松本隆さんが曲を速攻でつけてゆく拓郎さんにつぶやいた心の本音「ホントにそれでいいのかよ、もっと考えないのかよ」…松本さんの当時のご心配はわかりますが、それでよかったんですよね。後日、松本隆さんは「拓郎と(筒美)京平さんは、もう身体ごと音楽の塊だ」と評してくださったのが嬉しくまた誇らしかったです。

 作詞→作曲の流れ作業にとどまらず、そのまま隣接するスタジオに持ち込んでアレンジしてあのサウンドに結実されてゆくという…まさに魔術のような箱根ロックウェルの奇跡を見る思いです。
 この箱根ロックウェルチームの作品群に、東京で、ほぼティンパンアレイチームが、ガチンコしているところもまたこのアルバムの層の厚さの凄いところです。

 個人的に忘れられないのはロックウェルのラジオの生中継で石山恵三さんが「うるせバカ!!」とカマすところ。45年経った今でも録音を聴き返すたびに抱腹絶倒します。言うぞ〜とわかっていても涙がでるほどおかしくて…もう古典落語の域でしょうか。音楽的名盤というだけでなく、ラジオのおかげでいろんなものが佃煮のように詰まっている、あらゆる意味でかけがえのない大作なのです。
                         敬具
                      ご自愛専一に  星紀行

2024. 7. 11

 拓郎のブログ「ラジオの青春」が始まった。貴重な写真付だ。 
 「あなた方の1人1人に、もしかしたら存在するかも知れない作曲能力をチェックしたいと思います」っていう中学の先生も凄いが、その教室に吉田拓郎がいたというのもまた凄い。で、先生はそれだけの才能を目にしながら見落としてしまうというのもさらに凄い(爆)。もっともそこでジュリアード音楽院とかに推薦されたりしたら、現在の私たちの吉田拓郎はいなかったかもしれないか。

 おもねるわけではないが、私の吉田拓郎推しの青春もやっぱりラジオとともにあるんだよ。当たり前か。ということで配達も読み手もない私の手紙は明日もつづく。

2024. 7. 10

☆さて、ここからDISC2になります☆☆☆
  
14 裏街のマリア 曲はアレンジによってその運命が左右される
 

吉田拓郎様
再拝啓
 この松本隆さんの詞は映画のシーンのようにドラマティックです。たまたまこのアルバムの発売と同時期にテレ朝で放映していた「判決」という地味だけど大好きだったドラマがありました。主演の高橋英樹さんが満員電車で不良女子高生に鞄の中身を抜き取られる回があって、最後はお約束で「キミはホントはいい娘だったんだ」という結末で、どこかこの歌と似かよったテーマでありました。その不良女子高生役がかの「森下愛子」さんで、私はどうしてもこの歌を聴くとPVのようにあの森下愛子さんの姿が浮かぶのです。
 そしてこの迫力あるダンサブルなサウンドにカッチョエエなぁ〜とシビレタものですディスコを意識したという拓郎さんの言でしたが、まさにナウなヤングにゃディスコティックですばい。

 編曲といえば、このベスト盤には、編曲者のクレジットがありません。原盤では後藤次利さんが編曲者となっていましたが、なんか最近になってラジオで、レコーディングの日に次利さんがスタジオに現れず、ヘッドアレンジで急遽創ったというような話をされていましたね。なんでスタジオに来なかったか…それは昭和芸能事件史のひとコマであり、もう遠い昔の東京メルヘンということでいいでしょう。

 萩田光雄さんと馬飼野康二さんのお名前がまぶしいです。本当ならラストアルバムに編曲をお願いしたいと熱望されていましたよね。コロナ禍のためとはいえ残念です。
 ここのところこのライナーに刺激され、拓郎さんの提供曲でお二人の編曲作品を聴いていますが、多数の名作ばかりで幸せな気分です。吉田拓郎のファンになるということはシンガー&アーティスト吉田拓郎の世界だけでなく、提供曲界というもうひとつの大きな宇宙を手にいれることになるのです。大いなる幸福です。そのもうひとつの吉田拓郎の世界を彩ってくださった編曲家の皆様に心の底から敬意を表します。

 たぶん「歌ってよ夕陽の歌を」が初タッグと思われる萩田光雄さんですが、太田裕美さんの「失恋魔術師」は白眉です。アルバムバージョンでの鈴木茂さんのアレンジも素晴らしいのですが、ここは萩田さんのひまわり畑をウキウキ弾んで走るようなPOP感に一票!!。ここまでくると「木綿のハンカチーフ」と「しあわせ未満」は萩田さんのイントロだけで泣く自信があります…やっぱ最高峰は久保田早紀の「異邦人」のイントロでしょうか…あ、話の方向が違いますね。

 馬飼野康二さんによる拓郎さんの提供曲の編曲はあまりに数が多くて、昨今通勤電車の中でベストテンをひとり脳内で絶賛投票中です。うっかりすると馬飼野俊一さん編曲(「襟裳岬」など)もあり、間違いやすいので受験生は注意です。
 かつて拓郎さんがラジオで言われていたことですが、キャンディーズと梓みちよの…それぞれのバージョンの「銀河系まで飛んでいけ!」は同じ馬飼野康二さんがアレンジしていながら各シンガーの特質に対応して全く異なるアレンジになっているところが確かにすごいです。それに馬飼野さんは拓郎さんのデモテープのギターフレーズを大事にしてくれる方でしたよね。「アンドゥトロワpartU」…最高です。
 
         ご自愛専一に。            星紀行


追伸
 なので提供曲を体系としてなんとか形にして残して欲しいのです。「よしだのうた」とか一、二枚のCDのセレクトではなく全曲/全集という覚悟のあるかたちで何とかならないでしょうか。拓郎さんは、みんな子どもたちだと言いました。どの子もわが子。有名どころだけではなく、それこそのシングルのB面だったりアルバムの一曲からとにかくぜんぶ。私たちも必ず大事にしますから。

2024. 7. 8

13 午前0時の街 さて…恋も酒も友も若さも何もかもが…あの生き方しかできなかった…か
 

吉田拓郎様
信啓
 「午前0時の街」…深夜の夜風の中をたゆとうような歌です。聴いているうちに本当に闇にまぎれてしまいたくなります。こういう歌を作った人が一番偉いですが、その次くらいに偉いのが、40年経ってこの歌を掘り出して世界に向かって放った人です。歌をつくることが仕事とすれば、それ受け取る側もひとつの大切な仕事だと教えてくれます。おかけでこの世界の片隅にいたこの曲はこれからも生き続けることでしょう。
 
 六本木もかまやさつんも町中華も時空を超えて、同じ星をあおぐすてきな午前0時がありました。この歌に導かれて私もはしくれで幾度か経験しました。最近はちょいとキツイです。

 この歌にからめ、ひとりひとり名前を挙げての「王様バンド」を追憶するライナーノーツが嬉しいです。東京駅で解散してもさよならが言えないでどこまでも歩くというか飲み歩く。この別れがたい身体がよじれるような思い。
 このバンドは、わたしにとっても永遠の憧れです。そのみなさんがこういう絆で結ばれていたことを知るのは嬉しい限りです。彼らは十分なスターですので、今でも、いろんな場所で観客としてお目にかかりますが、その一挙手一投足から、あの拓郎さんのバンドは特別だ!!という思いが知らず知らずに身体から溢れています。ひと声かかれば、すべてをなげうって馳せ参ずる魂が漲っているのです。

 昔、ジャイアンツの定岡正二投手が引退したあとも過酷なトレーニングを続けている理由を問われたとき「すべてはいつか長嶋監督が復帰したときのためです」と語っていました。人々はそれを嗤い話にしていましたが、一ミリもおかしくありません。身にしみついた愛に生きる人をわらうべきではありません。
 現実に帰ってくるか来ないかという問題ではないのです。帰ってきたらいつでも馳せ参じられるような日々の生き方をするかどうかというのその人の問題です。バンドメンバーだけでなく私も一緒です。たかがファンのはしくれですが、いつでもステージに立った時は馳せ参じ「人間なんて」だろうとなんだろうと対応できるだけの"独りグルーヴ"を保っておきたいと思って生きております。きっとこの世にそういうバカはたくさんおられましょう。なので、こっちはだいじょうぶです。いつでもどうぞ、やさしいあの娘と一緒に待ってます。
 ご自愛専一に。 敬具。
                           星紀行
                              

2024. 7. 7

12 あの娘に逢えたら そういう店にはかならず若い素敵な女性が働いていて「東京ひとりぼっち」を演じる僕の精神的支えになってくれた
 

吉田拓郎様
畏啓
 若き日の四谷三丁目〜新宿御苑〜新宿あたりが舞台ですね。ラジオやライブのMCで話してくださった、無名時代に深夜の中野坂上を息を切らして自転車をこぎ、新宿の双子の女性の店まで用心棒に駆けつけるというエピが好きでした。つい最近も、この娘がいるから東京で歌っていけるとまで思ったデビュー当初の女子高生のファンの話も胸にしみました。彼女がひとしれず消えていった話も切ないです。新宿ではないけれど京都の関西フォークの牙城で、周囲が敵ばかりの中のお店で、唯一中山ラビさんだけが優しくしてくれた話を思い出します。その後の安井かずみさんといい、拓郎さんの大切なところで素敵な女性が手を差しのべてくれるのですね。広島から出てきたなんのバックもない兄ちゃんがシンガーとして立ち上がってゆく見果てぬ夢を支えてくれた素敵な女性たち。いいなぁ、拓郎さんは「母性本能」ならぬ「姉性本能」に恵まれる。やはり天性のスターなんですね。

 「あの娘と逢えたら」1977年11月のアルバム「大いなる人」の一曲目。結構衝撃でした。時は社長全力投入期です。そこにいたのは、もう長髪にジーンズではなく、髪を切ってスーツにネクタイのいでたちの拓郎さんでした。そこに鈴木茂のゆったりとしたメロウなサウンドで、なんかとてもオトナの余裕を感じさせる作品群でした。また若者の旗手ではなくなった吉田拓郎さんは、もう歌手はやめて経営に専念するという発言もあり当時は悶絶させられたものです。
 
 「あの娘に夢を返そうと」…シンガーの夢はもうコンプリートして、今度は俺は裏方の経営者になる。だからシンガーとしての立志の夢はもういらなくなったんだよ。そう言っているように聴こえます。創ったご本人に講釈するのも失礼ですが、もともと失礼なことしか書いていない手紙なんですよね。

 さて爾来、半世紀も近くなり。そういうことも全部終わって、今聴くとめちゃくちゃいいです。なんてのびやかなボーカルなんでしょうか。シャウトする拓郎さんも素晴らしいけれど、この艶とゆとりと豊かさのあふるる歌声がたまりません。♪夜が明けまぶしさが目にぃぃぃしみる ここのボーカルの伸びと美しさがなんとセクスィーなのでしょうか。やはり今聴いても「詞を読みながらアレンジした」という鈴木茂さんのアレンジにはそこはかとない品格があります。

 吉田拓郎を支えたすべての「あの娘」のみなさんにファンとしても心の底から感謝を捧げます。ありがとうございました。そしてみなさまご自愛専一に。            星紀行

2024. 7. 6

11 いつか夜の雨が ブッカーTがアレンジしてくれるという嬉しいニュースに喜び勇んでロスアンジェルスに飛んだ
 

吉田拓郎様
畏啓
 ライナーノーツには「海外録音にさして関心がなかった」と書かれていますが、既にその3年前の1977年から吉田拓郎がモータウンでレコーディングする!!という企画があり、当時モータウンの意味もわからなかった自分もひたすら楽しみに待ち続けておりました。モータウンに限らず、R&B、フォーク、ロック、ボサノバ、ボブ・ディランにキース・リチャーズに城卓矢、バーボンにレモンスライスに砂肝のニンニク醤油炒めに至るまでみんなみんな拓郎さんから教わったのでした。そしてこの作品で私は"レゲエ"を教わったのです。

 ライナーには、広島時代の拓郎さんが愛していたR&Bの世界でブッカーT著名なアーティストだったことや「あの当時のソウルミュージックはほとんどの音源をキャッチしてギターの奏法を研究していた」というくだりがあります。つまりはこのときの海外録音は拓郎さんのルーツに向う旅であったことがわかります。
 そこで思いあたるのは、これからロスにレコーディングに行くという直前に"セイヤング"で聴かせてくれた「いつか夜の雨が」のフルサイズのデモテープです。拓郎さんがひたすらひたすらソウルなギターを弾きまくっており不思議な気迫がありました。当時はよくわからなかったけれど、これがライナーにいう若いころの拓郎さんが研究していたソウルの奏法だったのかと合点がゆきます。この放送の時に拓郎さんは「これはブッカーTがやったら良くなるんじゃないかという自信があります」と抱負を語りました。つまりこのデモテープは拓郎さんの出自にあるR&Bとソウルをどんだけ好きかという愛をブッカーTに届けんとする渾身のラブレターだったのかと思うのです。

 さてどうでもいいことですが、このデモテープをラジオで聴いた時、私は大学入試の真っ只中でした。高3の夏なのに篠島、秋になっても渋谷公会堂と騒いでいたおかげで私の大学受験は崖っぷちのズンドコ状態でした。そんな切ない日々、このデモをひたすら聴いたものです。

 やがて春になって、転生したようなシャングリラでの完成版を聴いて、ああ、これが"レゲエ"というものなのか、これが本場の"ソウル"というものなのか、米帝もやるもんだと唸りました。それでもあのデモテープは忘れられませんでした。どこか悲しく、どこかやりきれなく、心の深奥が疼いて、身体が揺れてくる。そこがしっかりと完成版と通底していると気がしました。
 例えば♪過ぎ去るものたちよ そんなに急ぐな…ここがデモテープの歌い方だと♪過ぎぃ〜去るぅものたちよ〜 そんなにぃ急ぉぐなぁぁ〜と切ない歌いまわしになっていてこれはこれで好きです。それこそがソウル、それがレゲエというものなのでしょうか。だとしたら私は最良の教科書から教えて貰ったのだと信じております。

 デモテープには作り手の無垢な思いとともに、さぁ、これから旅立つぞ、さらに良くなってやるぞという希望がみなぎっているような気がします。その不思議な気迫が、拓郎さんのデモテープの魅力だと思います。Youtubeでは聴けるのかな…いやなんとか「Tからの贈り物第二弾」でお願いします。
 そうそうその年、大学は奇跡というかまぐれで合格しました。あの篠島の復活のドラマが背中を推してくれて、この気迫のデモテープがお守りになったのだと思います。あまりに嬉しくて6年もいっちゃいましたが。
         ご自愛専一に。            星紀行

 

2024. 7. 5

☆☆☆Not foundからcoming soon☆☆☆
 エイベックスでブログが再開するのかな。昨夜は酔って「あんだけキッパリ閉じといて二度と帰ってくんじゃねぇ」と悪態をついた記憶があるが、周囲の心ある人に「今、拓郎さんがブログを始めることがどれだけ尊いことか」諄々といさめられた。御意。すまん、撤回する(爆)。楽しみにしているぞ。はじまりもおわりもないこの道をサイのツノのようにただ独り歩め。

2024. 7. 4

 ラビさんの命日。はしくれの私でも思い出すことがいっぱいある。あちこちでディランとかペニーレインとかユイとか凄そうなフレーズも飛び交いながら、素敵な賑わいで盛り上がっている。ああ、いい夜だ。ラビさんもこんな素敵な空気を信じて疑わなかったに違いない。そんな気がして、ちょっと泣きそうになるがオトナなので我慢する。
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 2004年の京都公演の拓郎さんのMCで「関西フォークはみんな敵だったけど、唯一中山ラビだけが優しくしてれた」…これをラビさんに伝えたら「フン!」と言いながら、まんざらでも無い嬉しそうな表情をしておられたことを思い出した。…やっぱり泣くかな。
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2024. 7. 3

10 この歌をある人に 彼から届いた作詞を目にした瞬間に僕はメロディーがあふれてくる楽しさを何度も体験した
 

吉田拓郎様
畏啓
 "苦しい胸の早鐘を 空が淋しく見ているね"…このフレーズがかなり好きです。そんな「この歌をある人に」は、名盤「アジアの片隅で」のラストナンバーですが、当時から私にはこの置き場所について微妙な違和感がありました。曲は好きなのですが、このアルバムのトーンからは浮いている、ぶっちゃけ取ってつけた感のようなものを感ずるのです。拓郎さんだって昔のラジオ「ヤングタウン東京」でこのアルバムの最後は「証明」にしようと思っていたと言っておられたとおり、当初の予定外の選択だったと思われます。

 違和感というとキレイですが、私には身も蓋もない感じすらします。このアルバムは「いつも見ていたヒロシマ」「アジアの片隅で」など岡本おさみさんとの久々に四つに組んだガチンコ盤です。なのにその最後の最後に松本隆さん。例えば勝負下着をつけてシャワーも浴びて臨んだ大事なデートで食事してワイン飲んでダンスもしてさあ!と店を出たら、相手は青山に住む慶応出身の都会の人とスポーツカーに乗り込んで「じゃ〜ね!」と消えてゆく…そんなおきざりにされた悲しみを感じます。あんまりじゃないですか。ということで私は40年間その理由を考え続けておりました。

 T 中和説
  このアルバムはシリアスで重たい社会派トーンになってしまったので最後に清涼感が欲しかった。
 U 引継ぎ説
 次回(「無人島で」)からは松本くんと作ります〜という最終回での新番組の予告のようなものです。昔、"オバケのQ太郎"の最終回に"パーマン"が出てきたり、"マジンガーZ"の最終回に"グレートマジンガー"が登場したのと同じ…って知らんですよね、とにかく引継ぎ予告ではないかと思うのです。
 
 決め手がないまま時が過ぎましたが、このライナーノーツを読んで新たな説を考えました。岡本おさみさんは字余りや字数がめちゃくちゃだが、松本隆さんはロックのドラマーだから字数が均一のうえ言葉にリズムがあると激賞しておられます。
 そういえば武部聡志が以前、"関ジャム"で「拓郎さんが『松本隆から詞が届くと読む前から良い詞だとわかる』と言ってた。文字の並び方からして美しいんだって。」と述懐しておりました。今回のライナーは、松本隆の詞は見るだけでメロディーが湧いて楽しかったとまで書いてあります。
 久々に岡本さんの歌詞のガチの字数不整合に苦闘したであろう拓郎さんは、最後に均整とれた文字並びで気持ちよくなりたかった、その快感が欲しかった…という「V 快感説」が正しいのではないかと思いました。
 このライナーだと字余り王の岡本さんがなんか気の毒ですが、別に拓郎さんは彼をクサしているのではなく、これは素敵な言葉を紡いでくださったすべての作詞家の方たちへの拓郎さん特有のバランスなんだろうと思う次第です。
             ご自愛専一に。            星紀行

 追伸  そう、喜多條忠さんのことも書かれていました。喜多條さんは歌謡曲畑でいろんな作曲家さん相手に仕事をしていたので、やはり歌詞の字数がキチンと整合していたのですね。先日の田家秀樹さんと重松清さんの蔦屋のシンポジウムで、かつて岡本さんも田家さんもラジオ局で若者担当だったけど、喜多條さんはガチの歌謡曲担当だったと述懐されていました。そういうこともあるのでしょうか。なお喜多條さんのフレーズが熱いものを湧きあがらせるという拓郎さんの評には心の底から納得です。ああ、Uramadoで書いた「メランコリー」の新幹線の電話事件を思い出すと…泣けて〜くるじゃな〜いかぁ〜。

2024. 7. 1

9 流れる 僕は最後まで「ステージではバンドである事」をミュージシャンたちに求め続けた。そして自分はそのバンドのボーカリストなのだ!と
 
吉田拓郎様
啓上
 350もの曲の中からこの「流れる」を選ばれたことを知った時、心の中で快哉を叫んだのは私だけではないと思います。いや、たくさんいたはずです。拓郎さんが以前に言ってらした「この歌が好きな人は"拓郎ツウ"です」という言葉のとおり、私の周囲でもこの曲が好きなファンは多いです。地味な小品ながら、心の深奥にふれる作品といえましよう。
 拓郎さんがどのような思いをこめてこの作品を創られたのかは一切謎ですが、私には、先日もラジオでお話くださった75年のオールナイトニッポンの最終回の最後の曲という鮮烈な印象がぬぐいされません。人は哀しみの中で生きている。時に極北のような嵐の中を黙って固く心を結んで乗り切って行こう。そう聴こえるのです。
 そのころ、設立したばかりのフォーライフレコードのフォーライフフェアで拓郎さん直筆のパネルが展示されていました。殴り書きのような勢いのある書体で大きなパネルに書かれていました。

   今は黙って静けさだけを愛せばいい

 これが忘れられません。いまでも辛いことがあったとき、拓郎さんがこのパネルを高く掲げて応援してくれる声が聞こえてくるのです。こだまでしょうか?いいえ誰でも。
 ライナーでは、拓郎さんがスタジオ人ではなく、Live人であると宣言しています。ライブで育てられた身としては嬉しい限りです。でも、この曲はライブ未演ですよね。かつてのかつてラジオで何度か「この歌(「流れる」)を今度ステージで演るかな〜」とおっしゃいましたが、ついぞ実現しませんでした。
 山田さんのペダルスチールが多用された2014年あたりには、こりゃ「流れる」の環境が整ったなと密かに思いましたが、残念。まだ残念というには早い。はっ。こだまでしょうか?いいえ、いつか最強のバンドで、最高のボーカリストとして。
                       ご自愛専一に。   拝具
                                 星紀行

2024. 6. 30

8 もうすぐ帰るよ 専門的にいうと「音が廻っている」状態なのである。実は僕はこんなサウンドが大好きだったのである。
 

吉田拓郎様
尊啓
 1977年の4月、山田パンダ&イルカのラジオ番組に新作「ぷらいべえと」のプロモーションのために出演した拓郎さんは帰り際にこう言い残しました。「こんど7月に久々のシングル盤を出すので、曲をつくりに明日から軽井沢に行ってきます」。それから4週間くらいして小室等の音楽夜話に出演した拓郎さんは完成間もない新曲「もうすぐ帰るよ」を史上初公開してくださいました。今回のライナーノーツは、その間のレコーディングスタジオでの制作プロセスと苦闘の様子が詳しく記されています。ちょうどプロモーションフィルムも残っているのでその様子が目に浮かびます。赤いラガーシャツも当時買い、これを着ていつか僕も軽井沢に行こうと夢を見ました。

 そしてここでのキモは、ミュージシャンを集めて、あえてLiveの現場のように音が廻っている状態を再現しようというトライだったのですね。私たちがこれまで幾多の拓郎さんの作品で味わい身体に馴染んできた臨場感あるサウンド。それを専門的にいうと"クリアなサウンド"="デッドなmix"ではなく、その対極にある「音が廻った」Liveのサウンドという言葉で表現できるのですね。勉強になりました。
 そういえばラストツアーの前後、拓郎さんはよく「バンド集めて一発録りをしたい」と言っておられましたね。2019年の名古屋、2022年のWANGANをあらためて聴きたくなります。

 さて、ここまで書いておいて何ですが、それでは正直に偽らず言わせてもらいます。そういうことで当時このシングルに期待していましたが、がっかり感が強かったです。前作の鮮烈なシングル「たえこMY LOVE」に続く期待の打席です。意気込み十分の美しいスイング、…ああ〜だけどセカンドゴロかぁぁという感じです。不遜にも高校生の私は、もうすぐ帰るよ…だからどうした、帰るなよ、どっか荒野に向かって旅立っておくれよ、と不満でもありました。あくまで個人の感想です。しかしあのオオタニさんだって凡打の日もあるじゃないですか。
 ただし、そのかわりと言っては何ですが、79年のLiveの「もうすぐ帰るよ」。こちらは超絶すんばらしいと思いました。アレンジは大幅に変わりましたが、Liveの現場で魂をこめて歌い上げるところ、そしてジェイクのサックスがこれでもかと拓郎さんのボーカルをガチで支えるところもたまりません。これは堂々とスタンド入りの傑作です。"のごころ"より"やしん"ですばい。
 やがて私達は「家へ帰ろう」という魂の熱唱に出会うことになるのですが、それはまた別のお話…でしょうか。
  ご自愛専一に。  暴言多謝。          星紀行

2024. 6. 28

7 たえこMY LOVE 暴走がいつの間にか「暴」ではなくなって単なる「走」へと変化して行く自分に気が付いていたのも事実だ
 

吉田拓郎様
畏啓
 中学生の時、ニッポン放送のラジオ番組日立ミュージックインハイフォニックで当時発売したての「たえこMY LOVE」を初めて聴いてちょっと驚きました。拓郎っぽくない…なんてドラマチックでスタイリッシュな歌なんだろう…あ、"スタイリッシュ"なんて言葉は当時知らないや、"カッコイイ"だった。まるで映画みたいな様式の歌に感動したものです。特に「若かったころの自由さが今も…」という歌詞が印象的で、ああ若者だった拓郎さんもオッサンになったんだ…もとい成熟したオトナの歌だなぁと感じ入りました。

 それにしても、このライナーノーツは、どこが「たえこMY LOVE」と繋がるのかもよくわからずトテモ難解で…わかんないです。曲を聴きながら読み返し読み返し、それでもわかんなくて「たえこMY LOVE」の姉妹作「雨の中で歌った」とそのライナーノーツを含めて行きつ戻りつしていたので手紙がずいぶん遅れてしまいました。遅れた…って誰も待っていませんが。まあ急ぐわけなどあるじゃなし。

 そもそも「たえこ」というと私世代はどうしても「フィンガー5」がチラついてしまうのですが、拓郎さんの「雨の中で歌った」のライナーの解説に従って女優エルケ・ソマーの写真・映像を脳内にジュッ!と焼き付けました。神秘的でクレバーでそして強そうで…私なんぞ話し相手すらなれなそうな女性です。
 この難解なライナーは、六本木のエルケ・ソマーと過ごしたころの拓郎さんの側の心情と境涯を記したものなのでしょうか。そう思うと少しはなんかわかる気がします。いや、わかんないけれど勝手に映画でも観るように思い込みます。

 新旧がせめぎ合う東京になかなか馴染めず、それでも負けまいと心を燃やす「ローカル」な若者。いろんなものと闘い「暴走」しながらも決して誰かと肩を組みたくない孤高の若者。「東京って失礼な街なんだよね」…「時代の先端を疾走するような」彼女の言葉が、ローカルな若者の胸をわしづかみにしたであろうことは想像に難くありません。「いつか消えるかもしれない」という隠された心の傷跡や家族との愛憎らしき彼女の闇…きっと、その若者=あのときの拓郎さんだったからこそ、音叉のように響き感じ取り、静かに共鳴したのに違いありません。そしてやがて拓郎さんの暴走の"暴"が消えてゆく変化に呼応するようにぷっつりと消えてしまう人。すべてがわかるからこそ黙り込む人々。
 拓郎さんの言う「パーソナルな揺れ」…たぶん家族の末裔でありたいし、家族に関係なく独りの自分でありたいという意味でしょうか。社会的な自分の証明とは何を言うのかわかりませんが、ひとつだけ確信するのは「パーソナルな揺れ」があるからこそ拓郎さんの歌は私たちの胸に刺さり「取り返しのつかない財産」なのだということです。

 「雨の中で歌った」のライナーでは、恋心のことはハッキリと書かれていなかったけれど、今回のライナーには仄めかすように記されています。そう、恋。恋というしかありますまい。ってお前が言うなと怒られそうです。人の恋路を覗くものは馬に蹴られて死んじまえと言われますし。とはいえ「たえこMYLOVE」「雨の中で歌った」を行きつ戻りつ深く味わう今日このごろ、雨の中でエルケ・ソマーが「バイ」と消えてゆくシーンが不肖私の頭にも浮かぶのです。

 末筆ながら石川鷹彦さんのアレンジも素晴らしいです。フォークギターの名手とばかり思っていると、このぶっ飛ぶようなゴージャスなアレンジに打ちのめされます。「作詞・作曲:吉田拓郎 編曲:石川鷹彦」、なんだフォークかよ…とこの曲を聴いてもへーきで言えるヤツも馬に蹴られて雲の上に旅立ってしまえと思います。

 追伸
 石川さんとアコギをいくつも重ねて創ったというB面の「チークを踊ろう」これも絶品です。是非入れていただきたかったです。いつかまたどこかで。

  ご自愛専一に。            星紀行
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2024. 6. 25

6 I'm In Love  「極悪バンド」この時代の僕のRec・ツアーメンバーほど心優しく、熱く、人間味のあふれた連中は居なかった
 

吉田拓郎様
恭啓
 "バンド"という言葉を聞くと、この「極悪バンド」「王様バンド」のことが反射的に浮かびます。特に正式に結成されたバンドではないですが、それでもどこのバンドよりも最強のバンドとして心に刻まれています。
 私は、拓郎さんのファンとしてはライブ73もつま恋75もリアルで体験しておらず、世代的には遅れてきたという思いがいつもつきまとうのですが、それでもこのバンドを若き日にどまんなかで体験できたことは大いなる幸せだと感謝しております。
 ステージの真ん中に島村英二さんが座しドラムで砲撃し、両側にエルトン永田さんと中西康晴さんがダブルキーボードを奏で、ものすげえ存在感の青山徹さんがギターを縦横無尽にうならせ、そしてどこか飄々とした武部秀明さんがベースを刻んでいる…もちろん常やんもジェイダも忘れちゃいません。そのバンドの風景が実はとてつもなく贅沢なものだったのだとあらためて思います。
 サウンドが固まりになってステージから押し寄せてくるあの波動。そにに全幅の信頼のうえすべてを預けてシャウトする吉田拓郎の姿。ライブを観るたびにバンドの「心・技・体」がどんどん練り上げられ成長していっているのがよくわかりました。もう82年の後期では、中西さんがギター型のキーボードを抱えてステージ中央に躍り出て、拓郎さんの目の前で青山さんのギターとバトルするあたりは、もうすげえのなんのって。

 そしてバンドが絶好調のときの作品がこの「I'm In Love」でした。珠玉のラブソングと現在は言えるのですが、申し訳ありません。1983年当時、吉田拓郎を人生の師と仰ぎ、その唄を人生の羅針盤にして生きていた私はすんなりとこの曲を受け入れられませんでした。世間的にはスキャンダルですっかりヒールになっていた拓郎さんが"みんな自堕落に生きようぜ"とうそぶき「このまま世界の終りが来ても構わない 君と一緒にに死んでゆけるならすべてを許そう」と歌うことがどうしても腑に落ちなかったのです。生硬で青臭かった自分を思います。こんなファンばかりだったとしたら拓郎さんもさぞや孤独だったでしょう。とにかくどんどんバンドが練りあがってゆくものの、皮肉にも拓郎さんの歌と聴き手の私とのすれ違いの交差が深くなってゆくのが切なかったです。
 しかし、拓郎さんは身をもってこの歌を大切に歌い続け、この歌は歳月をかけて深められ変化していったものと少なくとも私には感じます。2019年のラストツアーに至るまで、歌うたびに輝きが増してゆくようでした。不肖私も人並みの経験を経てラブソングの美しさがわかるようにもなったのかもしれません。あああの頃はガキですまなかったなと思いますが、人間というか自分はそんなもんです。後悔はありません。
 しかしこのライナーノーツを読んで、唯一後悔のようなものがあるとすれば、フィルインから始まってイントロ、間奏、アウトロのギターソロを作りあげ、弾きあげた青山徹さんのステージでのプレイに、もっともっともっともっと惜しみのない拍手を贈りたかったということです。何度も青山さんのプレイを目にしていたのにもっと魂を込めて絶賛すべきだったと思うのです。いまごろどうしておいでだろうか、今夜は煙が目にしみます。この後悔は、拓郎さんが「ペニーレインでバーボン」のライナーに書いたとおり、あの時でしか解決できないものなのでしょうか。それともどこかで遅ればせながら表すことができるものなのでしょうか。
                ご自愛専一に。       謹白
                                 星紀行
              

2024. 6. 23

5 風邪  初めて目の当たりにする石川鷹彦の奏法はまさに華やかでメロディアスでそして時には力強くてスタジオにいた僕のハートを激しく撃ったのだった


Monsieur Takuro Yoshida,
 昔の雑誌記事で若き日の拓郎さんが「高田渡のスリーフィンガーはウマいよな〜」と絶賛しているのを読んですこし不思議でした。そりゃそうでしょうが、拓郎さんだってフィンガー奏法が超絶ウマいじゃないですか。このライナーノーツはそんな私にとってその謎解きの物語でもありました。
 
 R&B系のロックバンドでエレキギターを抱えていた若き主人公には、縁も興味もなかったフォークギター、フォークソング、スリーフィンガーという違和感の世界。しかしそこで神=石川鷹彦の華麗なるフィンガー奏法に出会い、師のアドバイスのもと猛特訓に励み、たちまち超テクを身に着け、さらに誰もやっていない自己流のスリーフィンガーテクを確立する…このくだりがドラマのようです。ちょうどキリストに出逢ったパウロ、スナイプ先生とハリーポッター、丹下段平と矢吹ジョーの物語みたいで…んーちょっと違うかもしれないが、とにかく胸熱です。私がファンになった時の拓郎さんは既に神技を会得した後で、もはやかつてのスリーフィンガーへの憧れを卒業していたのですね。

 その後、アコースティックギターのフォースと魔法を我がものにした拓郎さんは、R&Bのコード転回のメロディ―やアドリブを多用した歌唱を持ちて打つべし、打つべしと席巻します。私がリアルに体験したのはこの独壇場だったわけですね。かくして私たちを虜にした、もはやフォークの枠からははみ出した数々の名作たちやあのギター一本でロックンロールのようにドライブする弾き語りが生まれたのだ…そう思うといっそう感慨深いというものです。ああ♪生まれてくれてウェ〜ルカ〜ム〜
 その成果物のひとつのこの「風邪」は、流れるように美しく、それでいてけだるくてどこか不安をも感じさせる異世界なメロディーとギターテクを感じます。それがディミニッシュとオーギュメントなのだというご拓宣は、音楽音痴の自分もしかと胸に刻みました。
 それにかねてより思うのはこのメロディーと演奏にはなんかフランス語が合いそうなそんな気がするのですがシルブプレ。さすが自称アランドロンですメルシー。
 ということでまさに「吉田拓郎はいかに創られたか」(The Evolution Of Takuro Yoshida)、フォークに拠りてフォークをの上へ行かんとする吉田拓郎の明日はどっちだ。ご自愛専一に。
                    Au revoir. フランス語ゼンゼン知りません。

2024. 6. 22

外回りで桜坂。紫陽花の咲きたる。ここを通る多くの人々の頭の中には福山雅治の歌声が流れるそうだ。しかし「その人は坂を降りて」を口ずさみながら坂の下まで歩いてやった。…勝った。
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2024. 6. 21

4 ペニーレインでバーボン あのときの後悔はあの時でないと解決できない…It's too late.

吉田拓郎様
  一筆献上
 ライナーノーツにはペニーレインの"ぺ"の字もなく「人間ってのは後悔する生き物だと思う」という話で「後悔」との格闘のことが綴られております。「ペニーレインでバーボン」とこの「後悔」との関係がよくわかりません。
 得意の下種の勘繰りをしてみると@この時期に話が立ち上がった「フォーライフ設立」のことかAあるいはもっと深く切実なプライベートのことかBもしくはこの歌を自粛・封印したことか…あれこれ無い頭で考えてみますが、どれも拓郎さんに「違う!」と言われそうです。何で読み手にわかんないことを書くのかと文句を言おうものなら「何を書こうと俺の勝手だろ!」と返されるにきまっているので言いませぬ。

 こちらも勝手に言わせていただくと「ペニーレインでバーボン」は私の運命の一曲でした。他人様にはどうでもいいことですが私の推し人生はココから始まりました。その前にシングル「シンシア」は聴いていましたが、このペニーレインの時のカミナリに撃たれたような衝撃はまさに空前絶後の体験でした。その日、珍しく歌番組に登場した拓郎さんは、付添人のようなかまやつさんに見守られながら、唐突に「ペニーレインでバーボン」「暮らし」「襟裳岬」を絶唱しはじめました。当時、わけわかんないながら、すげーもんが始まったことは感じました。カメラを一瞥もせず怒ったように拓郎さんは言葉をマシンガンのように叩きつけていました。早口でこの世界のすべてに異議申立てをしているようで、ああ〜この世にはこんな歌詞があるんだ、こんなことを歌う人がいるんだと驚きました。歌が波動になって押し寄せてくるのを固唾をのんでただただ見つめるしかありませんでした。一体これは歌というものなのだろうか、いや叩きつけられた言葉たちが躍っているし弾んでいる…ってことはこれは間違いなく歌なんだ。ああ、すげえ。この世にはこんな歌があるんだ。
 後日、学校でこれを観たtくんと二人で「すごかったね」「すごかった」と貧弱な語彙で確認しあいながら、tくんからこのテレビの録音を聴かせてもらいました。カセットで聴いてもやっぱり凄かったです。聴く度に胸がしめつけられるようでした。そこから私たちの旅が始まったのでした。

 なので吉田拓郎の最大の不幸とは最高傑作が廃盤になっていることだと思っていました。この曲を一曲目に頂く最強アルバムが廃盤という極北に私たちは長い事おきざりにされていました。しかし、おかえり!ただいま!どこに行ってきたの?ということでアゲイン、アゲインもう一度…ようやく再発に至りました。拓郎さんはラジオで生きてるうちに再発されてよかったとしみじみと感激し既に齢60歳を過ぎた私も本当にそうだなぁと心の底から思いました。しかしこのアルバムにとっては50周年のこれからがまさに再スタートで世に出でるわけです。まだまだ冥途の土産には早く、このアルバムを宣揚してできる何かがありそうな気がします。It's not too lateであります。

 ということでこの曲に導かれファンになったことに私は一ミリも後悔なぞありません、というより僥倖を手にしたと誇っています。しかし、いちファンとしての来し方とあり方については数多くの後悔があります。懺悔の値打ちもないけれど。そんなとき是枝裕和のドラマ「ゴーイングマイホーム」に出てきたフィンランドの古いことわざ
  「後悔とは かつてそこに愛があった証明である」
 これが静かに背中を押してくれるのです。拓郎さんがハワイに行きたいと願っているように、私は生涯に一度フィンランドに行きたいと願っております。拓郎さん、一緒にフィンランドに行きませんか。>何様だよ。失礼しました。
             ご自愛専一に。       
                            星紀行

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2024. 6. 19

3 君が好き そろそろ我々がレスペクトしながら聴いていたR&B風のロックテイストな演奏も聴いてみたい

吉田拓郎様
前略
 中学生のときに家でライブ73を大音量で聴いていたら、ちょうどこの「君が好き」のあたりで「やかましい!」と父に怒鳴られ「こんなのが歌なの?」と母にも罵られました。♪初めの敵になるのは両親だ(「家族」)とはそのとおりでよく歌ったものです。音楽のことなどわからない両親でしたが思えばこの二人が「やかましい」と耳を塞いだことは吉田拓郎がフォークソングなどではなかったことのひとつの証明といえましょう。

 このライナーによれば、ビッグバンドによるライブ73の実現は、ダウンタウンズのリーダーMさんのリクエストが頭にあったのですね。拓郎さんは自分のキャリアの出自を語られるとき、プロとしてのレコードデビューではなく広島のダウンタウンズからはじめることがほとんどです。

 僕がもの心ついた時から拓郎さんは過去のいろんなことをバッサバッサと切り捨てながら進んでゆく人でした。もう「人間なんて」は歌わない、「水無し川」を最後にもう他人に曲はかかない、もう歌は辞める、古い歌はもう歌わない…そのあざやかなまでの切り捨ての度にヤキモキしながらも、ああ〜かっこいいな〜と憧れたものです。あとでよく考えてみると捨てたものをいつのまにかちゃんと拾ってたりすることも多いのですが、そこもまた人間らしくていっそう好きになるのです。話がそれました。

 しかし拓郎さんはダウンタウンズという起点は決して切り捨てたりせず、むしろ大切なキャリアとして今日までブレる事はありませんでした。そしてそれがライブ73にマイルストーンのように結実していたのですね。

 いうまでもなくライブ73は奇跡のようなアルバムです。年齢にして拓郎さん27、瀬尾26、松任谷正隆22、高中正義20、田中清司25、岡沢章22、石川鷹彦30、後藤由多加24、恐るべき若造たち。そう考えるだけでこのアルバムがよりいっそう愛しく思え、力が湧いてきます。
 すこしまえにこのライブの完全版をブートで売っていたという事件がありました。法律違反そりゃいけません。拓郎さんのアーティストとしての意向に反するそれもいけません。ましてやそこで金儲けなんて唾棄すべきことです。
 しかし、しかしこのライブ73の全部を聴きてぇ、死ぬほど聴きてぇと私の魂は何度でも叫びをあげます。今回のライナーを読むと、一日目と二日目という一晩で演奏はどう進化したのかそれを肌で感じたくて仕方ありません。ああ二日間とも聴きたいと悶絶するのです。

 これはひとつのライブアルバムという作品であると同時に、もはや文化財であり制作プロセスも含めて一大叙事詩といえましょう。コッポラ監督がゴッドファーザーの三作品をアウトテイクもすべて入れて時系列で再編集した壮大な「サガ」という作品がありますが、そういうのもアリではないか、どうなんでょうかと野ウサギのように怯えつつ申し上げます。そんな壊れやすい午後に。
                                   草々
              ご自愛専一に
                         星紀行

2024. 6. 18

 いや怒られるとかそういうことではなく、私にとって「拝啓吉田拓郎様」とあの文章群は不可分一体のものなので、タイトルがかぶるということは例えば藤井フミヤが「落陽」という題で別の曲を歌ったのと同じで、それはないだろという気がするのです。

2 せんこう花火 あーそうか、じゃあ、おまえのは本物のフォークじゃないんだな

吉田拓郎様
謹啓
 本道はずっとR&Bのロックバンドだったが、余技のフォークでひょんなことからこんなことに…と告白した時の前田仁さんのリアクションが素敵です。ぶっきらぼうながらも、すんなりと拓郎さんの心情というか本質を理解してくれているのは小学校の同級生だからでしょうか。

 私がファンになった1974年ころには、既に拓郎さんは超絶うまいアコースティックギターの名手として有名でした。R&Bという出自のことなど知るよしもなく、きっと学生時代からフォークに傾倒しアコギの鍛錬をされていたものと信じて疑いませんでした。それがプロになってから石川鷹彦さんのようなギターを弾きたいということで取り組みが始まったという話は実に意外でした。

 そこで今回観直した93年頃のテレビでの石川鷹彦さんと拓郎さんとの対談。これまで拓郎さんの七三チックな髪型がなかなか強烈でそっちに気を取られて話が入って来ませんでした。きっと河合楽器のピアノのセールスマンになっていたらこんな感じだったのですね。すみません、話がそれました。
 拓郎さんのJ-45を懐かしいなと手にした石川さんに、拓郎さんが加藤和彦から譲ってもらった話をすると、石川さんはドノバンのカラーズを嬉しそうに弾いてみせます。まさに昨日の手紙「どうしてこんなに悲しいんだろう」のライナーでエレックに現れた加藤和彦さんがこのギターでドノバンのカラーズを弾いて魅せてくれたという姿と重なります。音楽家はこんなふうに時空を超えて繋がることができるんだとうらやましく思いました。

 中学生の時、同級のtくんとこの「せんこう花火」を聴いて「短いな」「短い」「なんかいいよな」「いいよな」としかお互い言えなかったのを思い出しました。中学生のボキャブラリーの限界です。
 短い詞なのに言葉の行間が奥深くて、短い曲なのにメロディがドラマのように展開して、短い曲にもかかわらずサウンドが豊かで情感に溢れている…なんでもないのに〜ああ泣けました。

 石川さんはずいぶん経ってからラジオのインタビューで、アルバム「元気です」のときにスタジオに拓郎と二人だけで入り、ギター、マンドリン、ドブロ、バンジョーあらゆる楽器をチューニングしてズラリと並べて、拓郎と二人で音を重ねていった、拓郎も嬉しそうだったけれど、石川さんもこんなに楽しかったレコード作りはなかったと述懐されていました。この曲もその成果物のひとつと思うと感慨深いです。

 そのレコーディング中、ずっと卓球をしていたという前田仁さんが亡くなった時、多くの関係者の追悼の声を読んでアーティストに愛された名ディレクターだったことをあらためて思い知りました。そういえば80年のNHK-FMの「拓郎105分」の収録当日の明け方まで前田仁さんと倒れるまで飲んでいたという話をしておられましたね。バディ感がいいなぁと勝手に憧れました。そんなお二人が谷山小学校の同級生というご縁は驚きましたし、そこにさらに西郷輝彦さんまでがいたとなるともう鹿児島の堀越学園と言ってもいいでしょう。

 吉屋信子さん、田口淑子さんは市井のリスナーだったかもしれませんが、この言葉運びの世界はあらためて超絶天才と思います。ライナーには「リスナー全国の若者たちも多くの才能が眠っていた」とあります。そこに加藤和彦がいたように、そこに吉田拓郎さんがいてラジオがあったこと、だからこそ歴史が見逃さなかったのだと思います。来るべきラジオのアルバムの完成を祈っております。
             ご自愛専一に。       謹白
                            星紀行

…手紙が長すぎですね。次回よりもう少し簡潔にします。

2024. 6. 17

 せっかくのAnother Side。一曲一曲とそのライナーノーツに手紙を書こうと思う。
タイトルは「拝啓 吉田拓郎様」…って老舗サイトのパクリだろ…うじゃ「配達されない25通の手紙」…これもどっかにあったかもしれない。それでは「あの人への手紙」…いろいろダメだろ(爆)。ということでタイトルもなく心をこめて手紙を書きたい。

1.どうしてこんなに悲しいんだろう あの時、加藤和彦との出会いがなかったら…僕の音楽人生はどうなって、どこへ向って行ったのか

吉田拓郎様

拝啓 僕はとても残念でした…すまん、避けて通れないお約束だ。

 そうなるとあなたの姿だけ追いかけてきた私の"へ"のような人生もどうなって、どこへ向って行ったのか、と不遜にも考えてしまいます。

 加藤和彦さんがJ-45を見つけてくれた話はもはや伝説ですが、具体的にお二人の間でどのような会話がなされ、どのような顛末で届けられたのかはこのライナーノーツで初めて知りました。映画「トノバン」を観たばかりなので、あのヒョロッとした若い加藤和彦がエレックを訪れて拓郎さんの前でギターを弾いてみせている絵が浮かびました。
 この「どうしてこんなに悲しいんだろう」を聴きながら、加藤和彦さんが亡くなった時の追悼のラジオで、松任谷さんのピアノにつづく加藤和彦のギターのテクニックのうまさを絶賛していたことを思い出します。そのまま、この時のレコーディングの斬新さに目を開かれた話を熱心に語っておられました。
 私もずっと加藤和彦さんが、拓郎さんをフォークソング業界の不遇な片隅から連れ出してくれた恩人と思っていました。恩人の恩人はもはや偉人としか言えますまい。しかし、加藤和彦のサディスティックミカバンドの復活に寄せた文章にこうあります。


 僕達は、数多くの偶然と幸運が重なって成り立っているのだ
 70年代初頭にロンドンで幸宏に初めて会わなかったら
 拓郎のレコーディングで小原に最初に出会わなかったら
 成毛滋と見に行った「アマチュアなんとか〜」に高中が出ていなかったら
 ロンドンでブライアン・フェリーニ会い、クリス・トーマスを紹介されていなかったら
 …僕達はあの夜NHKホールにいなかった


 加藤和彦さんにとっても、拓郎さんという貴重な原石を見出したこと、高中正義や松任谷正隆という天才を見つけ出したこと、そして彼らを結びつけたことは至福であり、大切な偶然と幸運だったに違いないと勝手ながら思います。要はかつて富澤一誠も珍しく誉めていたあの歌(「街へ」)です。

   時代を変えるのは常に青春で
   老いた常識よりはるかに強く
   例えば嵐に呑み込まれても
   歴史はそれを見逃さないだろう


 結局、たとえあなたが、この世界の片隅のどこにいようと、どんな極北にあろうと、決して歴史は見逃さない。見出されるべくして見出されたのだと思います。貧しく不自由で不遇の極みにいた一少年の野口英世がちゃんと世界に見出されたように、見えない歴史のチカラの法則を「野口英世理論」というらしいですが、たぶんそれです。エラそうに申し訳ありません。そんなお二人の音楽の風景を垣間見れたそれこそが私の人類はしくれとしての幸福でありました。

 そうそうまだ思い出したことがありました。あのギターはもともと西岡たかしのところにあって、それを加藤和彦が貰い受けたという話はホントなんでしょうか。まぁいいや紙が残り少なくなりました。またお手紙します。
                   ご自愛専一に。敬具
                                星紀行

2024. 6. 16

☆☆☆陰に日向に女子高生☆☆☆
 東京ではじめて自分のファンとなってくれた女子高生たちと新宿御苑に行く話は何度かラジオでもしてくれた。いい話だ。しかしエレックの社長からそんなふれあいを反対されたという話、その瞬間にこんな会社やめてやると思ったというくだりは初耳だった。

 そこで思い出すのは、昨年12月1日の日記で取り上げた「ラジオデイズ」の拓郎の話だ。

「売れない頃のミュージシャンを支える女の人って必ずいるでしょ。…有名になると、その人と切れちゃうっていうパターンがあるよね。」
「僕もいましたもん。『結婚しようよ』を出す直前あたりは『帰れ!』が結構あったんですよ。その頃ね、僕を支える女の子がひとりいて、名前も忘れちまったけども、僕のレコードが売れた瞬間に忽然とね、姿を消したんですよ。高校3年生だったですね。それはもうホントに陰になり日向になり、支えてくれてるなって気がして『東京にこの娘がいてくれれば俺、大丈夫かな』っていうのが、あったね。」
「その娘が例えば『結婚しようよ』みたいな詞を書いた時に『こういう明るいのってイイかもしれないね』とか言うと、そうか…っていう気になって、何万人が「帰れ」って言っても怖くないっていう」


 拓郎の告白に、武田鉄矢が
「歌っていうのはたった一人、よき理解者である女性がいれば成立する世界なんですね。」
とめずらしく的確なリアクションをした(爆)。失礼だろ。

 女子高生ファンとの交流を禁止されたからエレックをやめようと思ったという言い方は
ともするとなんかいかにも"ナンパ"で"軽い"印象にとられがちだが、この拓郎のかつての語りとあわせて考えると、もっと拓郎の心の奥底にかかわる切実なことだったのではないかと思えてくる。大切な理解者のことを無神経に踏みにじるようなことを拓郎は何より嫌う。おまえに拓郎の何がわかるかと言われても、そんなことは歌を聴いていればわかるんだよ!

 みずから姿を見せなくなった女子高生の心はいかばかりか。そちらから電話を切ったから君はもっと他のことも言おうとしてたんだろう。そちらから姿を消したからこそ、いろんなあふるる思いがあったのだろう。今はあの"花嫁になる君に"のあの歌詞がとてもよくわかるよ。私も少しオトナになった…ってもう老人だろ。

 そういえは安井かずみは、きっと岡本おさみの歌詞を酷評したんだろうな…なんとなく察しがつく(爆)

 あとさ「春だったね」という詞のすごさをあらためて思うよ。あれは、女子高生のリスナーの投稿かもしれないけれど、あんな詞は100年に一度しかないような、もう神様が作らせたとしか思えない。若きよしだたくろうに起きたひとつの奇跡ということで。まとめてどうする。

 

2024. 6. 15

オールナイトニッポンゴールドのあらすじ
 2024.6.15 吉田、アルバムつくるってよ 

脚本裁断事件
 ご無沙汰しました吉田拓郎です。コロナの時二年間自宅で録音していたとき、何を話すか自分で台本を作っていた。今回もライターではなく自分で作りたいとメモを持ってきた。エイベックスのディレクター竹林君に会った瞬間に自宅からゴミも一緒に持ってきたのでこれを処分してくれ、自宅では捨てにくいのでとお願いしたら、すぐ実行してくれる人なので一分も経たないうちに裁断してくれた。そのあとすぐに台本がない、廃棄物の中に入っていたことに気が付いた。「馬鹿野郎、竹林」、冨山もみんなで張り合わせること五時間。やっとよみがえった。番組の三倍くらいの時間をかけた。それだけで感激して涙が出た。
 ここにその台本が再現されている。それには「ご無沙汰です吉田拓郎」と書いてある。

 冨山が届けてくるクリームソーダが抜群にうまい。どこのだ。いつもは垣花のまずいものなのに。

早朝の異景
 早朝ゴミ捨てに行く習慣になっている。生ごみ、燃えない、プラスチックとゴミを分別してそこから外に出て5分から10分くらいウォーキングする習慣ができた。近所は緑ゆたかなので、いい空気を肺に入れて「Hi!」(笑)。

 そこで僕が観た世間の景色を話したい。僕にとっては不思議。朝八時半、幼稚園が二つくらいある。子供たちを手をひいて連れたパパがスーツ着た景色に出くわす。こういう風景はあまり見たことがなかった。

 チャリで子どもを幼稚園に届けるママ。自転車の前と後ろに乗っているのもある。チャりがすべて電動。子どもを幼稚園に届けている。パパは子どもを連れて、ママは自転車で届けて帰る。坂道なのかな。
 こういうのは俺の時にはなかった。ママチャリに二人乗っけてビニールシートでガードされている。毎朝、そういうのがたくさん走っているとここは何処かと思う。
僕の子どものころはあり得なかった。
 家内・・・佳代じゃなくて家内だって、どうかない(笑)と話すと結局「時代は変わったんだろうね」ということになる。

 ゴミ捨て場の風景もあんなに細かく分けなくてはいけないことはなかった。現代はどうなの。例えば歯磨き粉のチューブ、蓋はプラスチックとチューブはどっちだろう。残った中味はどうなの? 管理人に相談する。東京に来た時はひと袋でポンと捨てていた。もちろん地球環境のためとはいえ、あそこまで細かくしなくてはならないのか。うちのマンションでもゴミ捨てはだいたいお父さん。奥さんと会わない。すげーな。

タイトルコール
 いろんなことの景色が変わったなということで今日も自由気ままにお送りしたい<吉田拓郎のオールナイトニッポンゴールド>

僕がエレックを辞めた理由
 広島から東京に来て、東京中心の音楽でいいのかというテーマというかだいそれた夢を持っていた。それでも生きてみなけりゃ、やってみなきゃわからないという楽観主義に押されて、友だちの車で上京して最初にマイナーな会社入って心身で疲労する不安な毎日となった。その頃にたった三回だったけれど、マンスリーコンサートというのを会社がやらせた。三か月やって、四か月目には持ち歌がそんなにないというのでやめた。

 1回目が紀伊国屋ホール・・・まだあるのかな。2回目がホール安田生命、どっちもキャパ200〜300名くらいかな。3回目が新宿厚生年金会館の小ホール。これで400人くらいかな。最初のチケットは会社の連中がタダでばらまいた。誰も吉田拓郎のことなんて知らなかった。そこで面白いと思った人が第2回のチケット買ってくれるようになって、そして3回目になると拍手が違ってきた。「拓郎〜」と言う女の子のかけ声と熱い拍手が起きるようになった。「あ、俺のことわかっているな」ということで俗にいう所の人気が出てきた。3回目のチケットが売り切れ「ファン」が出来つつあった。吉田拓郎に興味を持ったのは女子高生だった。当時の女子高生10人くらいの固定のグループが、当時、四谷三丁目に訪ねてくるようになった。社長らも嬉しく思って、もちろん 僕も気持ちが喜んで嬉しかった。彼女らと親しく話すようになって新宿御苑という素敵な公園に出かけて、10人くらいの女の子とくっちゃべってギターで歌ったりした。

 ♪喫茶店に彼女と二人で入ってコーヒーを注文することああそれが青春

 彼女達も喜んでくれて「ファンクラブを作ろうか」と言ってくれた。広島では人気があったけど東京ではさっぱりだったから、嬉しくて、新宿御苑で時々集まるようになった

 ある時に社長から話があると言われて、おまえはこれからヒットシンガーを目指しているんだろう、当分は女の事は忘れろ、あんなふうに女の子と会うことは控えろ、音楽だけに専念しろといわれた。ここ2〜3年は女子禁制だと。その瞬間、この会社やめようと思った(笑)。世間的には音楽的なこと、音楽わかってくれない、変なミュージシャン呼んでくるとかいい音楽が出来ない、そういうことをメインにしているが実は女人禁制・・・そんなことを言う社長のもとでは働けないということでこのマイナーな会社をやめることになった。

ハワイを祈る
 ご存じのように大好きなハワイだが、愛してやまないマウイのラハイナが全焼、キヘイの町も復活に時間がかかるようだ。なかなかマウイにも行けない悲しい思いをしている。みなさんに是非頑張って欲しいということで、ハワイアンバージョンになっております。

M-1 全部抱きしめて トロピカル  吉田拓郎  

(CM)

<コロナ時代の毎回の佳代さんの声を思い出しましたという投書>

 あと三回くらいありそうだから考えてみる。

<整形はやめてくれ、昔ツアーで濃い化粧はあったけどという投書>
 なんで整形と決めつけるんだ。

また来て幸拓
<坂崎とやるラジオ「幸拓」が楽しみという投書>
 幸拓で坂崎が先でいいのかと当時言われたが、別にいいと思っていた。
 石川鷹彦、今、病気で身体が不自由になっているけれど、先日二人で尋ねた。目の前で漫才をやって鷹彦もすげー喜んでくれて、ご家族もまた来て、「幸拓」で来てと(笑)

生き物たちの進化論
 東京から1000キロの小笠原諸島の話を知った。日本列島と小笠原諸島は離れていたので、島は固有の進化している。動物が日本列島とは違う生き方をしている。例えばウグイスは、小笠原には天敵がいないのでこの環境に特化している。
 ホーホケキョと鳴くところ、小笠原では、スズメのように「チュッ」、またメンドクサイのでホーだけ(笑)そういう暮しをしている。 生き物はそうだよな。僕も鹿児島から広島に来て感化されて鹿児島人間が消えてしまったし、今度は東京きたら広島県人の生き方がわからなくなってしまった。そういうもんだな。進化が違っちゃっている。
スイーツの思い出
<スイーツ会、好きなスイーツは何ですかという投書>
 ショートケーキを買い集めて いろいろ品評しつつ 糖尿を気にしながら続けている。「あんみつ」が好きなんだ。あの寒天。みんな自分で作んな。昔、家でお茶会のときにおふくろに頼まれて作った。寒天を溶かしてみかんやパインや桃の缶詰の身をいれてかき混ぜて冷やす。これがうまいんだよ。お砂糖とかは入れない。果物の甘みで十分。それを冷蔵庫で冷やしておくとうまいよ。あと中華料理の杏仁豆腐・・・好きなんだ。 冨山 あれでもいいぞ。
 なんでこんな甘党になったのか。若いころは大酒のみで甘いもの食べているのを張り倒そうとしていたのに 女子もデザート食べだすと、そんなんじゃなくてもっと飲みに行こうという感じだったのに。先日、篠原と食事に行ったらチョコレートをくれてこれが美味しい。甘いものに目がない。趣味嗜好が変わってきたな。俺って軽いな。

M-2   雨の中で歌った   吉田拓郎

(CM)

ギタリスト礼賛/矢島健
 広島の学生時代。R&Bをメインとするロックバンドを作っていて、どっちかというとギタリストをしていた。ボーカルはMくんだった。何かとサム&デイブとかを歌っていた。うしろで僕はギターを弾いてテクニックを覚えた。グループサウンズではなくて、ちよっとツウぶっていた。岩国の米軍キャンプで好評だった。アコースティックギターではなくて、リッケンバッカーの改造モデルを弾いていた。あのギターどうしたかな。

 東京でソニーに入ってレコーディングが本格的にできるようになっていろんなギタリストに逢うようになってギタリストにいろいろ注文が多かった。ギタリストばかりと仲良くなった。
 一番最初にギタリストとして真価を発揮してくれてテクニックとかメロディメーカーとしても魅せてくれたのが矢島健ということで今もう天国ですが、非常にテクニックがあって小柄でギタリストには見えなくて髪だけは伸ばしてたけど。すごいテクニックがあった。

♪髪と髭を伸ばして

 ちょっと聴いてみようかな。矢島健の不滅のギター。

M-3 ビートルズが教えてくれた   吉田拓郎

 懐かしいツインリード。これはその場で弾いてくれた。あの頃は予備知識なくその場で作ってくれた。今は面倒くさい。鳥山も(笑)

ギタリスト礼賛/高中正義
  文句なしに天才だと思ったのは高中正義だった。当時19歳だったと思うけど、こんなにうまいのか。びっくりした。彼はベースも弾いていた。とにかくフレージングが粘るのが凄く良くて天才的だったな。いろいろな作品で聴けるけれど、彼らの作った例えば「春だったね」の高中のギターのフレーズは今のギタリストもみんなコピーしたくなるくらい。
 アレンジではなくその場でギタリストが作ってくれていたフレーズだから。
 ここ20年だと鳥山と仲良くしているけれど、この鳥山を引き合わせてくれたのが加藤和彦だった。ある日CMソングで加藤に高中を呼んでと頼んだが、忙しかったので来れなくて、高中っぽいギターをオーダーしたらそこに現れたのは鳥山雄司だった。なるほど、当時はまだ高中の域ではなかったが、「ぽいな」と思った。先見の明があったんだね。

トノバンの先見性
 鳥山もそうだが、最初に松任谷正隆、ミッチー林立夫、小原礼もまだ学生だったものを連れてきた。加藤にはそういう先見の明はものすごいものがあった。
 私生活の面ではいろいろ不満あったのだが、もう言わないが、一生秘密、もっとなんとかしろ!というのはあった。

 音楽のブロデューサーとして見つけてくるのは凄かった。

わがこころの青山徹
 もっとも癖の強かった、忘れられないギタリスト、僕はその癖が凄く好きで愛していた。長い人生で忘れられない。青山徹というギタリスト。もともと浜田省吾たちと愛奴と言うグループだったのだが、いろいろあって脱退してフリーのギタリストとして凄い売れっ子になって、青山だとすぐわかるギターだ。
 ある日「拓郎はんもうやめます」とギターをポンと置いて突然やめて広島に帰ってしまった。
 ツアー中に王様達のツアーの頃、ツアー先で僕と青山と中西がムッチャ酒が好き。中西が一番強い 僕と青山はすぐ酔う 酔ってからが長い。酔った時に青山が歌う時歌うのは演歌なんだ。コブシがぐるぐる回る。カラオケで青山あれ歌えとみんなが言うと
歌い始めると涙が出るくらい。うまい。おまえギターじゃなくて歌手になれよというくらい。俺は原曲を知らなかった。その曲を青山が旅先で歌う。大演歌歌歌手大メジャー北島三郎さんの歌だけど、酔った時に聴くとうまいんだっ。泣くよ。ステージのギターなんてもんじゃない。

M-4  ギター仁義      北島三郎

 これなんだよ。想像つかないでしょ。髪と髭を伸ばしていたあの青山がこれを歌うとうまいんだ。これが好きだったな。北島さんよりうまいかもしれない。ライブも楽しかったが、これも楽しかった。

午前0時の街
 ちょっと俺も唄おうかな。これテレビのある番組のテーマソングになっているんけどさ。

 M-5   午前0時の街 (生歌)

 そよぐ風が僕の髪を通りすぎて
 街がいつもの静けさにつつまれる頃
 思うがままに足をはこべば靴音のメロディ−
 やさしいあの娘の店はもう近い

 顔なじみのお酒好きで女好きな
 愛をふりまいて のし歩く あこがれの君
 今夜はどの娘の腰に手をまわしてうかれて踊る
 楽しきかな今宵夜がまわっている

 疲れた街並みに お酒を一滴
 胸のかわきが うるおったなら
 可愛い君を さそってみよう
 闇にまぎれちまえ

 想い出話も聞かせてやりたいが
 時が行くのも何やらおしく くちびる寒い
 心はいらない街にとけこんで男と女
 夜ふけの恋なんて誰かの落とし物

 疲れた街並みに お酒を一滴
 胸のかわきが うるおったなら
 可愛い君を さそってみよう
 闇にまぎれちまえ

 午前0時の街はいかがですか
 似合いの服をえらんで着るように好みの店に
 ブラリと歩けば体も足まかせ今夜をどうぞ
 やさしいあの娘といっしょに待ってます

六本木と言う交差点
 どうだったかな?「午前0時の街」は、場所が六本木がテーマで、かまやつさんが主人公。かまやつさんと一緒に六本木にいることで、文化に触れて良いことも悪いことも。教わることが 東京人に広島人/鹿児島人が刺激になった勉強させられた  
いわゆる人生の交差点を彼が引っ張って行ってくれた。
 原宿しか知らなかった僕に六本木を教えてくれて、かまやつさんのおかげで作詞家の安井かずみがいて、ZUZUの出会いもあった。それは大きくて安井かずみからもいろんなことを教わった。

 当時の相棒の岡本おさみの詞の視点についての彼女からの話も聞いた。なるほどと思った。都内のZUZUが住んでいた高級ラグジュアリーアパートでの深夜パーティ  これがもう空前絶後 この世とは思えない。プールがあって夜中に飛び込む…もう映画の世界だった。
 ZUZUとかまやつひろしから聴いた男と女エピソードや体験を教わってため自分にとってはためになった
 人とももうこの世にはいないけれど今頃二人で遊んでいるでしょう。時々ふと思い出して会いてぇなと思うのはこの二人。

 (CM)

ラジオとの絆
 ニッポン放送は、今年で創立70周年ということだ。ラジオの青春ということで、僕にとっての青春もラジオとともにあった。特に深夜放送をやっていたので、大きな存在だった。
 ラジオからもらった勇気とか涙とか希望とか現実も含めてラジオから助けられたというのは大きな要素だった。

 70年代フォークソングのブームでメディアが突然取材にくるようになった。僕なりに勉強したフォークの説明をする。正直フォークというのはよくわからない。広島時代、アコギも弾いていなかったし、それでも僕なりに勉強して答えた。
 例えばアメリカではボブ・ディランがシンガーソングライターとして若者たちを引っ張っている。新しいリーダーになっている。そういう話をしたのに、雑誌には雑誌に載っていない
 なぜなの?一生懸命に熱弁ふるったのに吉田拓郎のプライベートの話ばかり。ディランのことを書けよ。一生懸命話しても無駄になってしまう。そういうことから、だんだん嫌気がさしてきて取材拒否をするようになった。するとマスコミが自分の敵となった。非常に良くない印象を持ち始めた。
 ヨーロッパでパリの空港で撮影があったが、いちいちあの場所でこういうポーズでと注文されたので、そんな好き勝手しているところを勝手に撮ってくれよと言った。するとカメラマンが、コラおまえな、みんなの有名人がパリに来たらそうして写真撮って有名になっているんだから、そうしろよ、と言われてぶざけるなとケンカになった。結局、写真は撮らせなかった。
 ローマの和食レストランで、自分はあまり美味しくないのでそう言うと、あんた誰?  ここはメディアの人がたくさんくる、みんな美味しいって言ってるよと、あんたも美味しいと言わなきゃダメだよ。
 なのでヨーロッパは印象が悪い。芽の出てきたフォークというものをバカにしまくっている。

 ニッポン放送、バイタリスフォークビレッジ、TBSバックインミュージックの深夜放送ゆやるようになってラジオの生放送を信用するようになった。生放送だし、嘘をついたらばれるし。ラジオで本当のことを話すことにした。そういうラジオが好きになって、ラジオとの関係を大事にするようになった。そうなると他のメディアから総スカンとなった。
 その後ある事件にまきこまれて、また私生活を破壊してしまったこともあったが、
それをボロクソに書かれた。あいつをやっけよう。シロだとわかっても誰もフォローしない。ラジオが一番の救いの場所だった

 家庭が壊れた時に、悪意あるメディアがたくさんいたので、当時のディレクターの中川さんに、記者会見いやなのでラジオですべて本当のことを話したい、そのかわりこれを最後に番組はやめるからと頼んだ。
 すると中川さんがやめていいよ、言いたいこと言って、あとは俺に任せてと言ってくれた。いろんなことがあって家庭を破壊してしまいますと話して放送が終わってそのまま逃げるように家に帰ったけれど、それから中川さん取材陣に囲まれてえらい目にあったと言われた。
 だからラジオが俺を助けてくれた。だから宝物だった。そもそも広島でラジオはFENで音楽を知った。ラジオが青春だった。テレビじゃないの。だからテレビに出なくてもいいし、ラジオで音楽がかかればいい。

 ラジオと付き合いながら来た。ラジオは友達だし、そのラジオに対して何か歌をつくりたい、70周年にラジオと僕との思い出のために作っている。

吉田、募集やめるってよ
 みなさんにも詞を募集した、みなさん「春だったね」のような詞が書けませんか、あれはTBSのパックインミュージックで来ていたある女の子の詞だった。
 ですが、みんなの詞を全部読んだ。読んだんですが。例えば「やさしい ラジオ」 さとしくんという人の詞。長すぎる。ブログみたいに長い。みんなとめどもなく長い。時代も変わったんだから。こいつの詞にいいフレーズがある。

 机の右にあるラジオ

 あのころひとりできいていた

 寂しがりやが聴いていた

 もう聴かなくても平気だね

 机の右にあるラジオ

いいフレーズだね。でも前後がとてつもなく長い。惜しいな。補作して俺がつくろうかな。

 ピカデリー沖縄と言う人の「名もない橋まで」。これもイイの。だけどオマエの歌も長いのなんの。

 君にいつ告白したかなんてまったく覚えていない

 君にあげたカセットに誰の曲が入っていたかまったく覚えていない

 名もない橋の手すりにもたれて 君と何を話したかも覚えていない

 ウチに帰ってごはんを食べて君にダイヤルしたけど何を話したかも覚えていない

 約束に遅れてどうやって謝ったかも覚えていない

 彼女のいろんなことを走馬灯のようになんも覚えていない  

 これは目のつけどころはいいよ、面白いよ。でも惜しいんです。前後が長くてフレーズを中心に前後短くまとめてほしい・もう時間的に無理です。みんな却下です。長いんだよ おまえら。

アルバム構想
 こんどのアルバムのレコーディングがいよいよ始まる。必ず入れたいのが、「バイタリスフォークビレッジのテーマソング」。当時は1番か2番しかなかった。そのあとに3番まで作って、他のCMソングとあわせて鳥山とレコーディングした。しかし、バイタリスフォークビレッジ単体で4、5番も作って今のサウンドにしてもう一回レコーディングしたい。

 「ぷらいべえと」で青山徹がギターの「夜霧よ今夜も有難う」・・・浜口庫之助さんが作りましたがこれをカバーした。ああいうのをカバー一曲したい。旅先で必ず歌う。

 ♪生きてる限りは どこまでも

 (鼓舞し回さず、「骨まで愛して」をロックバージョンで歌う)。後ろに僕のコーラスをつけて楽しいアレンジにしたい。

 新曲も作ります。かつて加藤和彦に詞だけ書いた「5月の風」という作品だが、加藤和彦が僕の詞とあっていない。当時加藤に、こういうの?と聞くと、こういうのしかできないということだった。ということで「5月の風パートU」ということで詞も曲も書き換えて作りたい。

 いろいろアイデアがあるので楽しみだ。近々発売したい、このラジオでも聴いてもらいたい。

あいみょんのシャッフル
 それから時代が変わってしまって日本のテレビって面白くない。誰かとやりとりするのに同年代の人はいない。メールも使わない。ショートメッセージとかライン。ショートメッセージを使うのが、菅田将暉、 あいみょん、堂本光一それと篠原ともえ。先日は、篠原と光一とはゆうごはんを朝までたべたけど。

 あいみょんが変わった曲を作った。おもしろいことやったねとメールした。リズムでいうと4拍子、3拍子、16拍子。そしてレゲエのリズム。
 3拍子  (吉田町の唄)   こういうのはない。若い人はつくらない。
 16拍子  バラードも作らない。
 今の人はヒップホップのダンサブルなものばかりだ。なのにあいみょんが新譜を送ってくると、いわゆるシャッフルのリズム。楽しいリズムでこれを使っている人は今殆どいない。おまけにあいみょんはその中に楽器としてバンジョーを使っている。
 シャッフルとバンジョー。これは6-70年代のアメリカンのカントリーだよ。
 あいみょんのシャッフル+バンジョーを聴いてベッドに倒れた。「わーやりやがったー」とすぐにあいみょんにメールした。すぐに「ベッドに倒れた拓郎さんが好きです」というメールが来た。夏だしあいみょんとビール飲みに行きたいな

M-6  眠い    あいみょん

(CM)
俺が愛した韓流
 最近テレビが、面白くない。ついついネットに行ってしまう。我が家もそう。連ドラはあまり見ないが、佳代さんが出ている関係で観ていたクドカンは面白い。映画は昔から好きだけれど、ハリウッド映画も最近は面白くない。例えば「バービー」、ライアンゴズリングも出ていたけれどあんまり面白くない。

 かつて韓流ブーム、おばさんたちが大騒ぎするヨン様ブームがあったけど、何がヨン様だ、こっちは拓様がいるじゃないかと、わりとセンス悪いなと思って観ていた。最近、大いなる反省、おばさんたちはなんて先見の明があったのか。

 韓国ドラマ、映画、音楽という韓流エンタメが凄い。二人で朝からいろいろ探して観ている。夫婦で一日中、韓流の話になっている。寝る時も明日何見ようかという話をしている。皆さんにもおすすめしたい。韓流なんてと言ってるのは、だいたい頑固で意地っ張りの人だよ。

行きつけのヘアサロンの女性から騙されたとおもって観て欲しいといこうとで推薦されたドラマ「梨泰院クラス」。これは日本でも「六本木クラス」ということでドラマ化された。日本が韓国をマねているんだよ。これは想像できなかった。負けを認めたくなかった。

 オープニングで、大金持ちのバカ息子がおとなしい子をイジメている。主人公がその
バカ息子をやっける。バカ息子のお父さんが主人公の父に「土下座しろ」という。
主人公の父は自分の息子は間違っていない、土下座はしないと断るが、その父がバカ息子の運転に轢き殺される。・・・バカ息子とその父親に仕返しをする。全16話のドラマ。

 主演のパク・ソジュンが好きで、吉田パク郎と呼んで欲しい。

 その出演映画でサッカーがテーマの映画「ドリーム ねらえ人生逆転ゴール」という
ブラジルでホームレスのサッカーチームの実話映画。面白かった。

 映画「七番房の奇跡」これは泣かされる。最初から最後まで泣かせる。

 国家権力が間違って実刑となった男と小さい娘との物語。獄中の仲間がなんとか娘と会わせてやろう。いいやつなんだ、その娘が弁護士になって父の無罪を晴らす。これが涙無くして観れるかよ。

 あり得ない話だけれど、あり得ないからこそエンタメだと思う。日活映画で石原裕次郎が出る映画もあり得ない話から楽しかったけれど。あまりにリアルになってしまう。「不適切にもほどがある」というクドカンのドラマがあったけれど、今の時代はテレビがこういうことを言ったらいかん、こういうテーマはいかんということでドラマが作りにくい現実があると言っていた。それが韓国にはないのではないか。あれだけ国家権力をボロクソにいうドラマが作れるか? 無理だよね。エンタメ王国ハリウッドが勝てないものを作っている。騙されているかもしれないけど遅れてきた韓流ブームだ。

 (CM)

旧友再会
 広島でギター教室をやっていたときスリーフィンガーとか弾けなかった。東京へ来てもフォークと事務所を作ったりしたけど、やっぱりR&Bが好きだった。
例えば、事務所も一緒に作ったけど南こうせつ・・・神田川、妹、赤ちょうちん・・・暗いな。好きじゃない。
 実は、それでも70年代のある曲にハマっている。いま生きていたらどうやってパクったんだといいたいが、どこからもパクっていない。
 正真正銘いい曲だ。詞が凄いというより、このメロディーをよく作ったな。大ヒットしたのもわかる。その頃は高く評価していなかった。いい曲作っているじゃない。今は天国いるけれど、あれいい曲だな、アルバムに入れると思ったら大間違い。寝る前に必ず  これを聴いている。

M-7 岬めぐり   山本コウタローとウィークエンド

エンディング 次回は幸拓 

 長かった全国ツアーが終わったけれど全国各地を知ることができた
札幌ラーメンうまいなと思った。長崎の皿うどん、チャンポン、東北に行くと炉端焼きホッケがうまいな
 沖縄の島焼酎…シークワーサーを入れなければ二日酔いしないと信じて
次の日にステージ出られなくて、座って歌った。
関東のうどん。  関西だと透明なのにまっくろでうどんが見えないのにのびっくりした
いい思い出だ

 これから僕の人生の中ではハワイ、マウイにもう一度だけ行きたいと思っている。


 次回は幸拓。11年ぶり。石川鷹彦のご家族も拍手して喜んだ。僕の番組で3年9か月の史上最長記録。松田聖子の知らない曲を歌ったり、どうしようもない、とにかく楽しみの反面、なんでやんなくてはならないんだという気もする。とにかく坂崎は、そのあとどこで飲むんですか?とかメールがうるさい。なんか一緒にいようとするのが気持ち悪い。
 最後の曲は、いま好きなテイラー・スイフトとエド・シーラン

M-8   エヴリシング・ハズ・チェンジド  エド・シーラン、テイラー・スウィフト

☆☆☆思いつきと感想☆☆☆☆☆☆

☆ご無沙汰も何もいきなり竹林君が可哀そうだ。そのうえシュレッダーの復元て、警察か国税の査察か。凄い。

☆そうか高級住宅街では珍しい光景なのか。一般Pにとっては、子どもの手をひき、チャリで町を駆け巡る、あまりにあたりまえすぎる光景だ。下町の蒲田あたりに来てみろ、チャリ同志のデッドヒートしたり、登園が嫌で父の手を振りほどいて脱走する子どもたちがいたりとマッドマックスのような光景が観られるぞ。

☆それにしてもお元気そうで何よりだった。何より「朝まで夕食を食べた」「夏だからビールを飲みたい」こんな言葉は久しく聞けなかった。心身のフットワークの軽さを感じる。

☆韓流がどうというより、韓流にここまで心酔できること、またあいみょんのシャッフルで思わずベッドに倒れてしまうというそのみずみずしいまでの感性がすばらしい。すばらしく元気である。

☆幸拓復活か。石川鷹彦さんのお話も嬉しかった。昨年の大晦日に国技館で、石川鷹彦さんとご家族のお姿を拝して、雨畑が「拓郎さんをよろしく」と言う声かけに皆さん笑っていただいた、あの姿が忘れられないので感激ひとしおだ。幸拓でまた来てくださいって(笑)

☆坂崎君と一緒だと拓郎はまた別のスイッチがONになる。南こうせつを前にしたときに入るようなスイッチだ。結構これが大きいのだ。それも楽しみだ。

☆「午前0時の街」…ついに即興とはいえはじめて違うバージョンが出来た。すんばらしい。町中華に足を向けて寝られない。しかし、せっかく唄ってくれたことは心の底から感謝するが…もうちょっとちゃんと唄ってみようか(爆)、もう少し頑張ってもいいぞ!!

☆確かに、あのときはあまり考えなかったが、中川さんはじめあの時代のラジオ関係者のある種の気骨はすばらしいと思う。マスコミの多くが忖度と提灯持ちのようになってしまった現在に「あとは俺にまかせて自由に話せ」といえるメディアはあるのだろうか。そのすばらしさも是非音楽にしてほしい。

☆そうかみんな応募していたのか。ま、俺が応募していても速攻で没だったことは明らかだ。紹介された詞は確かに面白い詞だった。心に響いたフレーズならご本人たちにリライトして貰えばいいのではないか。とにかく御大のこれから書かれる詞はどうなんだ…頼むぞ。

☆老舗の先達が、今回のライナーノーツで青山への愛を確認していちはやく指摘していたが、まさに青山を愛していたと明言した。そりゃ嬉しい。
 それ以上に、山本コウタローの復権が嬉しかった。良かったな。何があったのかはわからない。こうしてコウタローが拓郎の中で再評価される。寝る前に毎日聴いているとは天国で喜んでおられよう。

☆ハワイに行けますよう、マウイが1日も早く復活しますよう祈っております。

☆あんみつかぁ、加賀まりこ行きつけの老舗神楽坂「紀ノ善」は閉じちゃったしな。

☆☆☆今日の学び☆☆☆
 もはや吉田拓郎は引退したり、隠居リタイアした人ではなく。自由に歩きだしている。老いたりとはいえ、その自由な感性で動いているのだ。爺さんを静かに見届ける態勢に入ろうと思っていたが、とんでもねぇ、古いのはこっち=私やこのサイトの方だ。うかうかしているとこっちが置き去りにされるな。ということで元気を出してまいりましょう。

2024. 6. 13

☆☆☆豪華化粧箱入出来☆☆☆
 豪華箱盤の装丁からして素晴らしい。これがかつてあの試供品のような手抜きジャケットの「ザ・ベスト・ペニーレイン」を作った会社だろうか。とにかく嬉しい。
 「FromT」も素晴らしいベスト盤だったが「FromT」になくて「Another Side」にあるもの。それは写真集。初見の魅力的な写真が満載だ。これだけで気分があがる。爺の夢は身体を離れ故郷のような日々をさまよう。こんなに写真があるんだったら、いつも同じ写真ばかりでなくもっともっといろいろ使ってほしかった。吉田拓郎はビジュアル系のアイドルであることを忘れてほしくない。個人的には81年の体育館の初見写真たちが嬉しい。もっと個人的には、フォーライフ社長になって篠島で復活するまでの'77〜78あたりの雌伏の時の写真たちが好きだ。特に2010年のTAKURO展で買って毎朝祈りを捧げているご尊影のパネルと同じ写真が胸アツだ。
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 ベスト盤についてはいろいろ意見はあろうが、これはコメンタリティーのついたディレクターズカット盤の映画みたいなものか。「FromT」とこの「Another Side」は、選曲、曲順、ライナーまで渾然となったひとつの作品のようにガチで訴えかけてくるものがある。私としては、知ってる、何回も聞いた、を脇に置いてゼロの気分でいきたい。しょせんは音楽という冥土の旅の一里塚じゃあないの。

 それにしてもこのライナーノーツ、誰か朗読してくれないかな。Youtubeで就寝前に聴いている小川未明の朗読番組のアナウンサー窪田等さんとか(知らんよね)。落ち着いた声で静かにライナーを読みあげてもらってそれにつづけて曲を聴きたい。そして恍惚と眠りたい>寝るのかよっ!

2024. 6. 12

☆☆☆心が届いた☆☆☆
 置き配には一瞬肝を冷やしたが無事に手に入った。特にカラスと野良猫という宿敵も行き交うのがわが玄関先だ。安堵。考えてみれば人生とは運命という置き配の連続のようものではないだろうか>意味わかんねぇよ。
 美しい音源、初物も多い写真集、そして拓郎本人が書くUramado(おい!)とこのベストアルバムはガチ勢に向かっての吉田拓郎からの置き配みたいなものかもしれん。取るも取らないもあなた次第。お客さん、もうすぐ初夏が来ますね。とりあえず銀の河で踊ろうじゃないか。
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2024. 6. 11

⭐︎⭐︎⭐︎おきざりにした悲しみは⭐︎⭐︎⭐︎
 置き配の写真届きて わが心 乱れに乱れ もうすぐ帰るよ
[解題]
 好きな歌手のアルバムが、はからずも置き配で届いてしまい、早く聴きたい、盗まれたらどうしよう、早く帰らなきゃ、と乱れる心根を謳った作品である。
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2024. 6. 10

☆☆☆感激のテーマ☆☆☆
 あまりに感動して「俺たちの勲章のテーマ」を繰り返し繰り返し観てしまった。原曲を邪魔しないように添えられる松本孝弘の独自のギターワークがまたたまらない。Bravo!!このテーマが「あゝ青春」とは全く独立したスタンダードであることをあらためて確認させてくれた。俺たちの勲章のテーマが細胞分裂するように両曲が生まれそれぞれの旅をしている。この名曲の旅路が誇らしい…観ながら仕事のレジュメ作っていたら手につかずこんな図を作っていた(爆)
あゝ.png

 この図、試験に出るから覚えろと若者たちを脅してやろかいな>ヤメロ!最低だよ!

 そして松本氏のギターを聴きながら詮無く思ってしまうのだ。頼む。あゝ、この感じで「ローンウルフのテーマ」,「黒いウルフのバラード」を弾き倒してくれまいか。

2024. 6. 9

☆☆☆ああ青春は燃える陽炎か☆☆☆
 いろいろ悩んだ末、アナザーサイドの予約を完了した。遅い。ホントは予約しないでフラリとレコード店に入り「すみません、吉田拓郎の新作ありますか?」とわざとらしく尋ねて「あ、あれが拓郎の新作だ。アナザーサイドだ。…ください!」という粋でいなせなファンを演じたかったのだが>バカなのか やはり特典に目がくらんで予約した。予約したお友だちのみなさんはどの特典を選びましたか。

 かくしてアルバムもライナーもそしてラジオも静かに待つだけとなった。

 昨日のシオノギ「ミュージックフェア」。B'zの松本孝弘の"俺たちの勲章のテーマ"。いやあ、泣きそう。ギターの音色に涙しながら、やっぱり吉田拓郎は天才だよなと確信する。それにしてもインストなんだし「作詞 松本隆」は要るのか。もう何も考えまい。愛することのわずらわしささえ。この魂にしみとおるような演奏を抱きしめよう。

 ではみなさま良い初夏をお迎えください。

2024. 6. 8

☆☆☆会いに行くのにU☆☆☆
 吉田ルイ子さんのご冥福をお祈りします。写真家としてご高名のようだが、あの映画「刑事物語」の同時上映だった映画「ロングラン」の監督をされていた。主演は永島敏行。当時まだ森下愛子さんとご結婚前の吉田拓郎は永島敏行のことを大変嫌っておられた。理由は共演が多すぎて羨ましいというただそれだけのことだった(爆)。その彼が独りでアメリカ大陸をローラースケートでひたすら走るというロードムービーにもほどがある映画だった。「刑事物語」の最後の「唇をかみしめて」のあのシーンを何度でも観たかった俺は、その分何度もローラースケートの永島敏行を観なくてはならなかった。
 ところで私の老母の昔話で学生時代に同級生だった吉田ルイ子さんと一緒にデパートにアルバイトに行った「ルイ子さん話」をときどき聞かされていた。そこにチラ、チラと石原裕次郎が出てくるのだが、ホンマかいなと思う。それはそれとして。しかし同級だったルイ子さんの亡くなった原因が「老衰」と読むとぞわっとした気持ちになる。しばらく足が遠のいていた実家に帰ってみるかなという気分になった。帰るときっとまたいろいろとむかつくに違いないのだが(爆)
 ああ、そうだ「ロングラン」の主題歌は悲しいけどいい曲だったな。時任三郎の「ウェディングリバー」だ。♪朝からの雨が俺を昨日に走らせる…

2024. 6. 7

☆☆☆さよーなら、またいつか☆☆☆
 NHK「虎に翼」は激熱で観ているのだが、これについて言い始めると止まらなくなるので控えてきた。かといってこの魂の共感を語りあえる人や場所があるわけでなし。
 「確かに私は家制度に守られてきましたが、個人の尊厳を抜きにした保護は大きなお世話です」…寅子、よく言った。「個人の尊厳を抜きにした保護は大きなお世話」…たぶん吉田拓郎はこのことを手を変え品を変え歌い続けているといっても過言ではない。過言かもしれないがたぶん殆どそうである(爆)。そんなふうに僕は思う。

 恩師であり恩人である穂積重遠先生。普通のドラマのように100%の完全な人格者とは描かず、差別の残滓や凡庸な悪から自由ではないところを残しているところがいい。彼ほどの素晴らしい人間にも拭いきれない差別意識が残っている。いわんやおや…と身に詰まされる。

 そして今ココ→花岡…おまえだったのか。いや、あなたでしたか。言葉がない。
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 個人の自由も尊厳もどうしようもない絶望と悲しみの中から立ち上ってくるものなのだということをあらためて教えてくれる。

   安らぎのない旅を終えた 見知らぬ若者よ
   愛に飢えた獣のように牙をむかないで
   今日からおまえのからだはおまえ自身のものだ
   今日からおまえの心はおまえのからだに戻るさ
   もう争はないで もう戦わないで
   そう自由の風に酔え そうすべてを解き放て

 今日の自分だけのテーマ曲。

2024. 6. 6

☆☆☆会いに行くのに☆☆☆
 それにしても医療ドラマが多すぎといいながらもドラマ「アンメット-ある脳外科医の日記」を観てしまう。…交通事故後、常に記憶が一日で消えてしまうという不幸を背負い込んだ脳外科医。杉咲花、安定の名演だ。
 「私が記憶障害になってひとつだけ良かったのは、記憶の蓄積がないだけ今の気持がよくわかることです」
 刺さる。その直後、田家さんのラジオのAnother side of Takuro Yoshidaの特集を聴きながらもそのセリフが頭から離れなかった。そんなふうにAnother side を聴いてみようじゃないの。今さらネタバレもありますまい、どこまで深く味わえるかがすべてどす。紹介を聴きながら垣間見えるライナーノーツが楽しみになってきた。記憶の蓄積なんぞは横に置いて、曲とライナーを行きつ戻りつしながら、聴きこんでみよう、読みこんでみようじゃないの。

2024. 6. 5

☆☆☆幸せな結末きっと見つける☆☆☆
 昨日は言い過ぎた。同じ吉田拓郎でも1位はあれだろう、これだろうと同志の異論があるかもしれない。いやファンたるもの最新作こそ最高傑作であるという見識もあろう。どれもごもっともだ。この点について同志と議論するつもりはない。なので訂正したい。みんな同率一位としたうえで10位くらいじゃダメですか?>そろそろ怒られるぞ。すまん。
 永い廃盤期間から満を持して再発売されたのが2022年。私は愛で方が足りなかったかもしれない。愛しても,愛しても,愛しても,愛しても,愛しすぎることはない。50周年の今年老人は何かをせずにはいられない。何をしていいのかわからないが。
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 とはいえ光一くんのインスタのあの幸せそうな笑顔を観ていると、もういい、もう静かに眺めているだけでいい、それだけでいい…かとも思う。

2024. 6. 4

☆☆☆誤解なきように☆☆☆
 私は決してアンチ「はっびいえんど」ではない。むしろ逆だ。自分ごときが言うまでもない神のごときミュージシャンたちを心の底から尊崇している端くれだ。音痴ではあるが昔からカラオケの十八番はずっと大瀧詠一だ>知らねぇよ 
 ただ「はっぴいえんど」🟰「風街ろまん」🟰「JPOP/邦楽史上最高の名盤」という風潮にちょっと言いたいだけだ。
 名盤だけど2位じゃダメなんですか?だってそうじゃん。例えば最近ようやく廃盤から再発になった、お兄さんがアンプに腰かけているジャケットのあのアルバムを凌ぐとはとても思えんのだよ。

2024. 6. 3

☆☆☆この道が大好きだから☆☆☆
 田家秀樹とスージー鈴木の対談記事を読む。かねがね音楽評論家であるスージー氏の慧眼に感服していた。思っていたより若い、後輩なんだな。しかし当たり前だがそのプロとしての見識と面白さには平伏するばかりだ。
 最近彼の発言や文章を読むたびに彼の中での吉田拓郎に対する評価が高まり深まってゆく気がしていたが、ことここに至れりという感じだ。
 「世の中に残した功績が語られていないというギャップの度合いは吉田拓郎が一番大きいと思います。あれだけ多くの人にギターを持たせて、あの歌い方を発明して。」
 ありがとうございます第1位に選定していただき。それになにより以前から「はっぴいえんど史観」に疑問を投げかけているところも胸アツである(爆)。…とはいえお好きだったのか…いや、だからこそ説得力がある。
 ともかく先日の田家&重松のシンポジウムといい、この対談といい、最近孤独になりかけていたこの道をゆくものに元気と勇気をいただいた。どんな道だよ。

2024. 6. 2

☆☆☆don't worryと言ってくれる人☆☆☆
 80年代のバブル経済の隆盛とともに一線を退いていった吉田拓郎とそこからまさに栄誉栄華の世界に突入したユーミン。眩しかったですわ。そのあたりで筑紫哲也による「若者たちの神々」のインタビューでユーミンは、こんなふうに拓郎のことを語った。
 「同じことをしているのだけど拓郎はその社会の時代によって、もの凄くアグレッシブに見えたり、反対にもの凄く低迷しているように見えたりする。頑張ってほしいけどね。」(記憶だけで引用しているので少し不正確かもしれない)
 2〜3年前のオールナイトニッポンゴールドのユーミン特集で拓郎は意外にも「守ってあげたい」をベスト曲に選んだ。いわく自分が辛かった時「悩まなくてもいいのよ」と歌いかけてくれた気がしたからというものだった。

 神々のインタビュー発言と悩まなくていいのよと聴こえた守ってあげたい…関係しているかどうかはわからないが、自分の中ではなんとなくつながった気がした。何の確証もないので自分の中だけでつなげただけだ。

 後年になって薬師丸ひろ子が「守ってあげたい」をカバーしたけれどこれが最高で、これを聴くと俺にも「悩まなくていいのよ」と歌いかけてくれているような気になる>おめぇの話はいいんだよ

 インタビューといえば、昔、吉見佑子が雑誌の企画でユーミンに対談をオファーしたらユーミンが「対談じゃなくてインタビューだろ」とクレームした話、俺すごく好き。レスペクトという言葉が氾濫しているけれど、ホントのレスペクトというものはそんなにはない(当サイト調べ)。だいたいが政治と経済のツールにしか思えない。

2024. 6. 1

☆☆☆トノバン☆☆☆
 映画「トノバン」。不世出の天才。超絶なカッコよさ。次々に多くの天才ミュージシャンを見出し、惜しむことなく手を差し伸べる。そもそも推しの恩人はこちらにとっても大恩人である。仰ぎ見るように観て胸に刻んだ。ついでに小学校1年の時、家に下宿していた浪人生の親戚の兄さんが、コレが「帰ってきたヨッパライ」の次の歌だよと買ってきたばかりの「悲しくてやりきれない」を聴いていた姿を思い出した。B面の「コブのないラクダ」がメッチャ怖かったのも思い出したよ。そんなことはいい。
 それにしても…この映画を観てもよくわからない。ものすごい才能と卓抜したセンスを持ったこの人はいったいどういう人で、何をしようとしたかったのか。なんであんな悲しい言葉を残して去って行ったのか。映画の深浅の焦点が定まっていないからか、常人にははかりしれない謎の人だからなのか。もう少し違う方向からの光も当てた方がより良かったような気もする。んまぁ俺ごときにはわからなくて当然なのかもしれない。ただ北山先生のミュータントと言う表現が一番よくわかった。あと映画にはなかったが、亡くなった直後に拓郎がこうせつに言った言葉は、ちょっと物議もあったが、拓郎の言うとおりかもしれないとも思った。

 この映画の最後はどうしたもんだか。前後左右の見知らぬオジオバ、涙すするか、小さく唱和するか、あるいは両方か…だった。ヘタレの俺もそっと口ずさんだ。加藤和彦よ、永遠なれ。

 えーと、曲ですね。家帰って思わず聴き直したサイモン&ガーファンクルで「ボクサー」。
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2024. 5. 31

☆☆☆過ぎてゆくばかりだな僕の旅☆☆☆
 迫る初夏と思っていたらホントに初夏だった。6月14日(金)22:00 オールナイトニッポンゴールド。そのあと坂崎くんと一緒を含めた何回かのラジオも企画されているようだ。めでたい。まさに六月の春が一度に花開くとはこのことだ。
 それにしても「ラジオのアルバム」企画はまだ生きているのだろうか。送り場所の告知もなかったので詞を書いていない。不覚。もちろん詞なんか書いたことないが、拓郎さん、箱根で一緒に合宿してくれたらなんか俺も書けそうな気がするんだけど(爆)>何様なんだよ。すまん。そういうくだらねー話ではなく、ともかくご本人が忙しい日々を送っているというのが何よりの朗報なのだ。自分が歌うこと以外はあらゆることをやっているというのもちょっと複雑ではあるが(^^ゞ
 
 今日は5月の最後の風。今日からだ。映画館行くよろし。
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2024. 5. 30

☆☆☆心臓の底からの本音☆☆☆
…ああ、デモテープが聴きたい…
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2024. 5. 29

☆☆☆肺でみる夢☆☆☆
 「心臓」,「肺」,「胃」,「呼吸器」,「消化器」,「血液」そして「脳波」と人体の諸器官のはたらきの意味についてこれほどまで真剣に考えた日はなかった。考えても結局よくわからなかった。難しい。安倍公房のシュールな小説を読んでいるかのようだ。

 確かに二人とも世の中から過重な期待を背負わされてきた。栄誉栄華の時が過ぎると、容赦なく叩かれる。胃もたれどころではないかもしれない。そんな二人の音楽を通じてのmind melld〜以心伝心が出来たのだろうか。

 吉田拓郎が提供曲で作曲だけでなく作詞まですることはとても珍しい。思いつくだけだが「チークを踊ろう」(1973),「風になりたい」(1976),「あなたを愛して」(1977),「いいじゃないか」(1978),「放課後」(1979),「危険な関係」(2012)>…あの…なんか不安なんですけど。 大丈夫だ。必ず名曲・名作に決まっとるわい。なんであれ冥途の旅の一里塚。新曲に導かれて僕らの音楽の旅も続く幸福。こういっちゃなんだがベストアルバムよりはるかに希望の脳波が出てくる。いいのかこういう使い方で。

2024. 5. 28

吉田拓郎、木村拓哉のニューアルバムに作詞・作曲で提供と言う超絶なニュースが届いた。
 ニューアルバム「SEE YOU THERE」 2024.8.14発売。
    "君の空気に触れた瞬間"
 おいおい提供曲ながら吉田拓郎の新曲が聴けるんだぜ。ああ、生きていて、生きててよかったと。



☆☆☆OKな日々☆☆☆
 シンポジウムの話題に出た「NHKサウンドストリート」…これも懐かしいな。

 確かに松任谷正隆、森永博志、甲斐よしひろ、渋谷陽一。渋谷陽一なんかムツカしくては聞かなかった。アルバム「ローリング30」の発売のときに森永博志の担当日に拓郎がゲスト出演した神回と甲斐よしひろが「破れたハートを売り物に」のデモテープをかけてそのカッコよさに感動したことが特に忘れられない。

 それとなんといっても松任谷正隆先生だ。サウンドストリートの番組内で、吉田拓郎のツアーでの出来事を愚痴ると、それをリスナーが拓郎のセイヤングやオールナイトにチクって、拓郎の怒りを買う(笑)という黄金のパターンがあった。例えば…

→松任谷(NHKサウンドストリート)
 仙台の打ち上げで30人の女の子が集まるということで、拓郎もバンドもみんなそそくさとお風呂に入ったり身だしなみを整えたりしていてあきれた。しかしいざ打ち上げが始まると女子たちは全員彼氏連れだった。それをいいオトナたちがみんなで奪い取ろうと大騒ぎ…ついてゆけない、ツアーのあり方を考え直したい。

→拓郎(セイヤング)
 そんなこと言ってましたか、許せませんですね(笑)。松任谷、そんならおまえはもう打ち上げに来るな。いつもいつも率先して打ち上げに参加して来て最後まで帰らない…昨夜も最後までおりましたよ。最近ユーミンが言ってるらしい「いつ電話しても出ない」って…ハハハハハ、知らんぞ(笑)

 30人の女の子というと令和の時代からすると不適切にもほどがあるのかもしれないが(爆)、この自由闊達な空気、悪いけれどそんな気持ち察して欲しい。

2024. 5. 27

☆☆☆俺たちのとんだ失敗は☆☆☆
 "ロールモデル"に励まされた若者は、やがて年齢とともにそのロールモデルから独立したり卒業したりして、年相応の距離をとってゆくのが一般的なようだ。それが成長というものかと思う。そう意味で自分は独立と成長に失敗してしまったわけで、考えはじめるとそこそこ凹む。「おめーいつまで拓郎聴いてんだよ」とあざけられそしられて理解を生まなかった経験はないだろうか。ある。私は日々ある。
 しかし田家さんはかつて、モーパッサンの『女の一生』に例えて「吉田拓郎は『男の一生』を歌おうとしているのではないか」という名フレーズをかましてくれた。そうだ生まれてから死ぬまでの「一生」という作品なのだ。それなら未知の途上で独立したり卒業したりしていった連中は落伍したり中退したりしたのも同然(爆)だ。ずっと推し続けることこそが成長なのだ。…とかなり都合よく牽強付会な解釈で自分を励ました。
 しかし何十年経っても蒸し暑い距離感のままのファンというのは、あのロールモデルご本人様もさぞやウザイに違いない。しかしこれもあなたの人徳、我慢してください(爆)。♪ここまで来たら一生しごとさ〜とあなたも唄っているではないですか。すみません。阿久悠に免じてお許しください。

2024. 5. 26

☆☆☆誰がために鐘は鳴る☆☆☆
 もうちょっとだけシンポジウムの話をさせてくれよ。田家さんが自身の大きな転換点として真っ先に挙げられたのが1975年のつま恋だった。6万人の「人間なんて」を観て足がふるえて仕方なかった、音楽のチカラを知ったと語ってくれた。
 その後の時代の変遷の中で、浜田省吾、そして尾崎豊に出逢ったことが、音楽ライターの田家さんにとって大きな事件だったことも語られた。なるほど。
 吉田拓郎詩集「BANKARA」(角川文庫)の小池真理子のあとがきを思い出した。
 「吉田拓郎は、時代の怒号と喧騒のあとににじみでるようにして生まれた、時代と時代を結ぶ若き熱血漢だったのだと思う」
 吉田拓郎、浜田省吾、尾崎豊、年代も音楽も違えど時代と時代を結ぶ若き熱血漢というと何かよくわかる。自称「難民」として居場所を探し続けてきた田家さんの魂のマイルストーンだったのかもしれない。

 大学教授でもある重松氏は、日々就活で心を削られている若者たちに接しながら、彼らに、どんなものでもいいから憧れのロールモデルがいて欲しいし、それが必要だと切々と語ったところが胸にしみた。御意。若いころこんなオトナが傍にいて欲しかった。「毎日毎日、拓郎ばかり聴いているとばかになるぞ」というオトナしかいなかった(爆)。しかし自分もあのお方がロールモデルとしていてくれたからこそ、ここまで生きてこられたとつくづく思う。
 昨日写真を載せた重松清氏の阿久悠の伝記ドキュメンタリー「星をつくった男」…これまた名著なのだが、その話はまた。その最終章のタイトルに重松氏はこの一節を引用している。
 
   あなたに逢えてよかった
   あなたには希望の匂いがする
   つまづいて 傷ついて 泣き叫んでも
   さわやかな希望の匂いがする
            (あの鐘を鳴らすのは あなた)

 ああ、これだよ。まさにこれがわが心のロールモデルの姿なのだよ。いつも和田アキ子の歌唱と姿に注意がもっていかれてしまうが、実にいい詞だったのだな。

2024. 5. 25

☆☆☆まだ足りない、まだ足りない☆☆☆
 田家・重松によるつたやの二階シンポジウムは実にいろんなことを思い起させ、また多くのものを教えてくれた。目に見えている世界の裏には俺なんぞが知らないものがわんさとある。当たり前といえば当たり前だが、なんか小さな元気が湧く。
 重松清氏が繰り出す愛の証拠物件提出に刺激されてオイラも手持ちのものを出してみる。
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 「オンザロード・アゲイン(上・下)」は、田家さんが1990年の浜田省吾の全国ツアーのすべてに同行した迫真のドキュメントだ。アルバム「誰がために鐘は鳴る」も90年のライブにも感動したのでリアルタイムで買って何度も読み返したものだ。田家さんの全箇所同行制覇の記録である。最初はツアートラックに乗って移動するのだがさすがにギックリ腰で電車移動も併用するようになる。とにかく身を挺しての取材だ。これは浜省の物語であると同時に、ミュージシャン、ツアースタッフや裏方さんの仕事や全国のコンサート会館の様子までつぶさに描かれる。これが「コンサートツアー」というものなのかということが魂でわかってくる。大作だ。この全箇所ドキュメントを91年のエイジツアーでやってくれればと思ったりもしたが詮無いことを言うまい。
 このドキュメントがずっと憧れで、身の程知らずにもいつか素人なりに真似事をしてみたいと心の片隅で思っていた。はからずも、あ、2019年のLive73の日記は、つま恋、篠島にも寄り、このオンザロードアゲインな気分で書くことができた(Reverence)。もちろん本家とは比ぶべくもない>あったりめぇだろ。そんなことはいい。

 とにかく一昨日のシンポジウムで、この「オンザロードアゲイン」の偉業のルーツがどこにあったかということが話題になった。
 さすがの重松氏がサム・シェパードがボブ・ディランのローリングサンダーレビューに全同行したときのドキュメント「ローリング・サンダー航海日誌: ディランが町にやってきた」なのではないかと指摘した。
 しかし田家さんによれば、ボブ・グリーンがミュージシャン、ボブ・シーガーに密着同行したドキュメント「アメリカン・ビート」の影響ということだ。うーむ、不明にもオリジナルを知らんかった。
 そしてそのうえ足立倫行のドキュメント「日本海のイカ」の影響もあることもカミングアウトされた。日本海側の各地の漁港を訪ね、イカ釣り船に乗り込んでイカを追う渾身のレポートとのことだ。これもまた知らんかった。
 そうかイカだったのか。大きなイカが手ですくえた気分だ。…ああ深い。オリジナルをたぐっていかずにいられない。さっそく密林をポチした。こうしてどこまでも防波堤を走っていきたい夜だった。

 えー、曲ですね。吉田拓郎さんで「都万の秋」。おやすみなさい。

2024. 5. 24

☆☆☆つたやの二階☆☆☆
 不肖この星紀行、蔦屋書店の田家秀樹と重松清のシンポジウムに行ってきた。
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 80年代に活躍したミュージシャンはみんな大嫌いだという小学生みたいな私と違って、80年代の音楽現場に生きたお二人の話は深く音楽愛に満ちていた。重松氏は数々の証拠物と時系列整理を見事に繰り出しながら田家さんの話を聞き出し、田家さんは田家さんで重松氏にいつもの感じでしみじみと問いかけ、インタビュアー同志が静かにぶつかりあった(爆)。おかげでお互いのとてもいい話がたくさん聞けた。
 一度は音楽ライターの仕事を得ながら、そこに違和感を感じ小説の世界に向った重松氏と放浪の末に得た音楽の世界を楽しみながら生きてゆく田家さんのそれぞれの違い。それでも二人とも音楽「で」生きるのではなく音楽「に」生きている、そんな感じがしてとても素敵だった。
 ウロ覚えですまんが、かつて村上龍が「ポップコーンをほおばって」の文庫解説で、テロルを決行するゲリラはみんな田家のような目をしているというくだりがあったと思う。民衆が海ならゲリラは魚。音楽界が海なら私は魚と…どんなに世代や時代が違おうとも悠々と泳いでゆくそんな田家さんの姿を垣間見たようだった。
 まだ配信があるようなのでネタバレになってしまうかもしれないので詳しく書かないが、重松氏のああ僕の時計はあの時のまま…ちょっと泣きそうになった。

 これから90年代ノートさらにその先へと続くらしい。お二人ともどうかお元気でご活躍ください。私もがんばろう。何をがんばるかわからないが。こんな風に歳を取りながら「見届け人」のはしくれに連なろう。

 マニアなツボとしては、話しながら「とことんマイウェイ」とか入れ込んでくる重松氏に田家さん気づかずにスルーするところがなんか面白かった。

 もうひとつツボは、田家さんが編集長だった「タイフーン」と言う雑誌。当時、創刊号のインタビューが吉田拓郎ということで、高校生の俺は、お茶の水の三省堂から地元の書店まで探し回ったが見つからなかった。見つからなかった理由が昨夜わかった気がした(爆)。

2024. 5. 22

☆☆☆80のバラッド☆☆☆
 数年前に新星堂で浜田省吾のベストアルバムに付された店員さんの手書きのPOPがあった。
 「バブルの絶頂期にバブルの崩壊を見抜いていた稀有のアーティスト」
 まるで経済書の書評みたいで思わず唸った。浜省といえば拓郎の言うナイーブなメロディーに裏打ちされた美しいラブソングも数多いために、そこばかりが目立たなかったのだが、世はあげてバブルの宴の中で現在のこの世の中のインチキさとそれに対する苛立ちが繰り返し歌われていた。反骨や反体制というのは少し違う、この身が削られるような悲しみが滲んでいた。そういうところが浜省の真骨頂だと門外漢ながら思う。この世の居心地の悪さを音楽的なハイクオリティを維持したまま体現していたところに当時アブレ者だった自分も惹かれたのかもしれない。

 1986年9月4日二枚組アルバム「J.BOY」がレコード店の店頭を席巻した。その翌日5日に静かに片隅にひっそりと入荷されていた「サマルカンドブルー」。忘れられない光景だ。世代交代をまざまざと見せつけられているようで拓郎ファンとしてはなんかさみしーな…と言う気持ちも確かにあった。しかし88年だったか、武田鉄矢のラジオにゲストで出演した拓郎は、浜田省吾がチャート1位にいてくれることが実に誇らしい、救いだとチカラをこめて話していた。そんなふうに拓郎は見ていたのか。
 今にしてみれば「J.BOY」と「サマルカンドブルー」が共にそれぞれ出航する。あれは80年代の美しい景色のひとつだったのかもしれないと思う。このあたりの話を涙ぐみながら呑んだくれたいんだよ。

2024. 5. 21

☆☆☆わたしの80年代ノート☆☆☆
 田家秀樹の80年代音楽ノートを読んでいる。私の勝手な妄言だが、読んでいて、なんかひたすら悲しい気分になる。80年代はまさに自分にとっても20代という青春時代であるはずだ。言うまでもなく80年代はいろんな音楽が成熟し開花した時代として高く評価されるのもわかる。しかしすまん。この80年代に活躍したミュージシャンたち、浜田省吾以外はみんな嫌いだ。大嫌いなのだ(爆)。>小学生かよ

 まさに1985年のプラザ合意の年に85年のつま恋を終えた吉田拓郎はステージを降りてゆく。つづくバブル景気の中、ずっと吉田拓郎は切なく低迷する。空を飛ぶより地を這うような雌伏の時が続いた。もちろん拓郎は別に意図して雌伏していたわけではない。その間も音楽の旅を誠実に続けていたことは、このサイトで振り返った1988年創刊の公式ファンクラブT'sにも記録されている。しかし時代と世間からは思い切りシカトされ続けた。師の不遇は即我が身の不遇と痛みでもある。
 
 かくして80年代というと壁の向こうの豪華で晴れやかなパーティーを横目でチラ見しているようなどうしようもない悲しみを感じるのだよ。

 やがてバブル経済が破綻し暗い世相の中、バハマから「Long time no see」を抱えて帰ってきた拓郎がLOVELOVEという異世界に果敢に飛び込んでいったとき、長かった雌伏の時は、静かに終わってゆくのだ。しかし、それはまだずっと先の話だ。もっともそれは別の意味でバブル時代の始まりだったのだが(爆)。
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2024. 5. 20

☆☆☆すべてのヒューマンに捧ぐ☆☆☆
       父「待てヒューマ、おまえのことじゃない」
       子「え!?」
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 アルバム「マラソン」の発売前日の1983年5月20日は武道館公演だった。このツアーで初めて「今夜も君をこの胸に」がコンサートのオーラス・ナンバーとなった。当時としては甘く軟弱な曲としか聞こえず、大いに不満だった。切ないすれ違いの日々の始まりだった。
 しかしその36年後。吉田拓郎最後のツアーLive73のオーラス。まさかこんな満ち足りた想いとともにこの曲に送り出されることになるとは予想もしなかった。それにしても36年といえばその時に生まれた子供が中年のオッサンになるくらいの時間だ。いろいろあっても楽しかったな。思えばいととしこの歳月、仰げば尊し我が推しの恩。今こそ別れめ いざさらば,はいいじゃないかのA面。
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2024. 5. 18

☆☆☆83年ものの極上酒☆☆☆
 私の偽アップルウォッチが現在どうなっているかというと>別に知りたくないんですけど…。
 確かに時計を出すたびに誰もが面倒くさそうな顔をする(爆)…んなことは構わない。
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 ということでこの頃は5.20〜21の「マラソン」記念日に祈り向けられております。自堕落でスキャンダラスな風に吹かれていた1983年に生み出されたこのアルバム…当時はなんだかなぁと思ったが、歳月を経るごとに、どんどん深くいい味になってきている。妙味の一枚だと思う。
 拓郎がステージで「マラソン」を歌うと神様が降りてくる率が高かった(当サイト比)。ああ、もう一度聴きてぇ。時が経てばわかることでもその時はもう遅すぎる。思いつきだが、二宮愛さん、渾身で歌ってみてはくれまいか。

2024. 5. 17

☆☆☆自由も平和も逃げ足が速いんだ☆☆☆
 ♪不味い酒飲みすぎた 嫌な事が多いから〜と久々にツラいな。酒が合わなかったのもあるが、ノー天気に生きているヘタレの自分なのだが、それでも"共同親権"はじめ、とんでもないとしか思えない法案が、超拙速で、ちぎっては投げちぎっては投げするかのようにどんどん通過している。せめてもうすこし熟慮というものをしろよ。

 急いでないのに いつの場合でも 通りすぎてるだけで
 見つめ直したり 考え込んだりする事だけがない

 おお、なんか歌詞がハマった。とにかく、流れ流される,泣かされる,涙は出ないが泣かされる。

 そんな敗残気分の昨今、よく存じ上げぬままYouTubeでしばしば聴いている二宮愛(AI NINOMIYA)さんの唄。いい声だ。多彩なカバーがあるが、今日は「ファイト!」だよ、全員集合。
 なんといっても吉田拓郎/中島みゆきと書いているところ。そこだ。ふるえてしまう。ファイト!/中島みゆき…じゃないんだよ。そこに吉田拓郎の魂をガッツリ入れこんで出来上がったファイト!を歌いこんでみました!(すまん俺の勝手な思い込みなのだが)という"気骨"がたまらない。こっちの方は涙が出ながら泣かされる。
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2024. 5. 16

⭐︎⭐︎⭐︎トノバンモード⭐︎⭐︎⭐︎
 昔のパイロット万年筆の加藤和彦が出演するCM。草原をサイクリングしている加藤和彦の絵に彼の歌が流れる

 One day
 One night
 今日こそは何かイイこと…(以下不明)

ポケットから万年筆を出した加藤和彦が

 「Enjoy yourパイロット!」

と笑顔でしめる。

 拓郎がアルバム「ぷらいべえと」のプロモでラジオ番組に出たとき、万年筆のCMでおなじみの加藤和彦という話をして「彼の歌ですが今回僕が歌っています。"悲しくてやりきれない"」と言ってたから、たぶん1977年のことだ。

  これがYouTubeでも見つからない。見つからないとどうしてももう一度見たくなるサガ(爆)
 それにしても万年筆って昔は憧れの一品だったけれど、とんと使わないよな。

2024. 5. 15

☆☆☆いつもあなたが灯す光が時を超えて今も☆☆☆
 昨夜のNHKうたコンの二葉百合子の「岸壁の母」。すんばらしかった。もうずいぶん前に引退されたと聞いていたし、失礼ながらご存命なのかも知らなかった。92歳で生放送のステージに降臨された。なんという声量、なんという歌いっぷり。横で静かに寄り添う坂本冬美。歌い終わったとき自宅でひとりスタンディングして拍手してしまった。引退して10年以上のブランクなのに、とか、92歳なのに、とかいうのと少し違う。身の置き所のないような愛と哀しみを全身で表現し切っているところなんだよ。ソウルだよ、おっ母さん。それが音叉のように伝わって坂本冬美もふるえている。
 …坂崎、もしその時がくることがあったら、そんときゃ頼む。坂本冬美になってくれ。

2024. 5. 13

☆☆☆なにもかも愛ゆえのことだったと言ってくれ☆☆☆
 紫式部と清少納言。前にも書いたが、この二人の大天才は、もう今で言えば、松任谷由実と中島みゆきみたいなものである。お互いの才を畏れながら認めつつ、決して張りつめた緊張感の糸を緩めあうことはない。紫式部が清少納言を厳しくこきおろしたことも有名だ。それは好き嫌いではなく、お互いの才能がぶつかり合う火花のようなものだと昔、古文の先生に教わった。もっともユーミンとみゆきの罵りあいなんて清水ミチコの芸でしか見られないけど(爆)。
 とにかくそんな二人の偉大な才女から熱い秋波を送られた唯一の男、それがわれらが拓ちゃんだ。ヒューヒュー! ああ光源氏かアナタは!!…何にしてもファンとしては誇らしい。っていうか吉田拓郎ファンであるということは、紫式部、清少納言、松任谷由実、中島みゆきに連なるセンスの持主だと言って良い。かぁぁぁ盛り上がって来たな、飲み行くかっ!!
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 そういう話ではない。大河ドラマ「光る君へ」以上に楽しみにしているのが、片渕須直監督が清少納言を描く映画「つるばみ色のなぎ子たち」だ。予告編というかパイロットフィルムだけで息を呑んだ。楽しみだ。かれこれ予告から1年だ。いつ公開なんだろう。
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2024. 5. 12

☆☆☆あの人のことをもう少し考えていたいから☆☆☆
 2013年の「クリスマスの約束」で、小田和正から「同時代のミュージシャンていうと誰?」と尋ねられた拓郎は間髪入れず「加藤和彦」と即答した。人と人との友人関係に他人の俺がどうこういえる立場にはない。それでもこれまでラジオで拓郎は、友人であり恩人でもある加藤和彦のことを何度も話してくれた。時に辛くなるような話もいくつかあったが、拓郎の深い愛情から発しているだろうことは聴いてるこちらにもよくわかった。
 広島から上京したての西も東もわからない同年代の男のために、ギブソンJ-45を見つけてきてくれたり、松任谷正隆らを引き合わせてくれたり、音楽テクニックを惜しみなく教えてくれた。松任谷正隆は「僕は加藤和彦に見いだされ、吉田拓郎でデビューした」といったが、それは拓郎も同じかもしれない。「希望の国のエクソダス」という村上龍の小説があったが、さしづめ拓郎にとっての加藤和彦はフォークからより広い音楽という希望の世界への脱出口=エクソダスへと導いてくれた恩人ではないか。とにかく推しにとっての恩人は、推す私のグランドな恩人でもある。

 いつも思うんだよ。こんな私ごときと比べるのもおこがましいが、自分が本業の仕事で、優秀な才能が傍らにあらわれたとき、つまりトノバンみたいな立場になったとき、私はそこまでできるか。器の小さい私は、きっと自分の食い扶持を持っていかれるかもしれないそいつ…邪魔してやるかもしれん(爆)。いや邪魔はしなくとも、ギターを探したり、才能ある誰かをどんどん紹介したり、いろんな手ほどきをしたり、そんな親切までするか自信がない。
 しかも加藤和彦は、これまた世間でよくあるような、面倒見た男を、自分のファミリーの子分、舎弟みたいな扱いをしたりもしなかった。繰り返すように吉田と加藤の関係は二人にしかわからないので、しょせん下種の思い込みでしかない。それでも世の中の損得のラインとは違うところで音楽の旅をされていたのだなと思う。なんとなく嬉しくなる。

 今「5月の風」を拓郎の唄で聴きたい…という言葉をいただいた。ああ、同志よ、まったくだ。おかげさまで原曲を久々に聴き直してみたけれど、でもきっと歌うも聴くも滂沱の涙になってしまいそうだ。昨今は「だいじょうぶマイ・フレンド」ですら昔のような平常心ではもう聴けない。

 とにかく生きてるうち、元気なうちに、いろいろやっておかなきゃならないし、感じておかなきゃならない。あらためてそう戒める。
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2024. 5. 11

☆☆☆黄色いロールスロイスと緑のジャガー☆☆☆
 加藤和彦のインタビューで一番印象に残っているのは、24,5歳の頃、ロンドンで観たビンテージのロールスロイスが忘れられなくて、わざわざロンドンに買いに行くところだ。ロンドンの車屋が驚くなか、いきなり「コレください」と買ってしまう。しかもトノバンは当時免許は持っていない。しかも彼が免許を取得するのは、その15年後の40歳のころというから、ハナから自分で運転するつもりはなかったらしい。運転は誰かがすればいいと思っていたとのことだ。すげえ。それ以来、免許ないままガンガン気に入った自動車を買うわけ。
 この感覚…根っからのプロデューサー感覚とでもいうべきものかな。わかんないけど。すんばらしい。

 やはり吉田拓郎が二十代の頃、通りすがりに、外車ディーラーの店頭で見かけたジャギュワー…後に唄にも出てくる"緑のジャガー"'( 今度はいったい何回目の引越しになるんだろう )を値段も聞かずに「コレください」買ってしまったというカッコイイ逸話も思い出させるね。

 ひるがえると私は、家族ともう遠出もしないし軽自動車にしよう、リースでいいんじゃないかとチマチマ話し合っているところだ。いや、それでいいのだ。心のふるえるままに、心ふるえる美しい自動車を買ってしまう。そういう人がこの世にいることはそれだけで良いことだ。ましてそれが自分の推しならなおのことなのだ。

2024. 5. 10

☆☆時が経てばわかることでも、その時はもう遅すぎる☆☆☆
 もうすぐ映画が近い。門外漢もいいところの自分だが、映画に向けて少しでもトノバンモードに近づきたい。思えば加藤和彦関連の本が家に結構ある。
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 これらの本のいくつかに加藤和彦の未完の仕事のひとつとしてセルフカバーアルバムのことが書いてある。例えば「パラレル」をトノバンの本人歌唱でレコーディングする予定だったらしい。いや、もう既に音源は完成しているかのような書きぶりでもある。
 トノバン曰く、拓郎のバージョンが先なのだが、拓郎が加藤和彦のオリジナルをカバーしたようなタイムパラドクス感を出そうと楽しんでいるようだ。

 加藤和彦が唄う「パラレル」って俺にはどうしても想像がつかない。拓郎のシャウティな歌いっぷりが決定版すぎて、あのヒョロヒョロの独特なボーカルに脳内変換できない。
 "もしも加藤和彦が「パラレル」を歌ったら"ってきっとラジオ番組にリクエストしたら坂崎幸之助はやってみせてくれるような気がするのだが、さすがに失礼というものだ。なんか勝手に気安く親しみをもって感じているが、坂崎幸之助という人は超スターであることを忘れちゃならない。

 加藤和彦ならサウンドも含めて拓郎とはまったく交わらないパラレルなパラレルを聴かせてくれたに違いない。ああ聴きてぇ。

2024. 5. 8

☆☆☆ただの感想だけどさ☆☆☆
 その1979年の篠島の世紀の復活の興奮冷めやらぬ翌1980年5月。80年代の幕開けの第一弾アルバム「Shangri-la」から「あの娘といい気分」がシングルカットされた。あくまで私の個人的感想だが「えっ?あの『Fの歌』をシングルにしちゃうの?」とひるんだ。もちろん佳曲だしブッカーのアレンジでオサレな仕上がりになっていたが、それにしてもこれを勝負シングルとするのってどうよ?
 しかもコンサート会場で配られたチラシには、タンクトップにホットパンツの女の子のイラストで「あの娘といい気分」の振付が描かれていて「あの娘といい気分イメージガール募集中!」とあった。あの頃は、不適切にもほどがある、拓郎いったい何がしたいんだ?と理解できなかった。すまん、こうして今考えてみてもよくわからないが、面白い時代だったな。…そういえば、イメージガールに応募したねーさんが近くにいらした。すみません、そういう意味ではないんですm(__)m。

 そういうことでいろいろ微妙な「あの娘といい気分」だったが、自分としては、82年の「王様達のハイキング」に所収のライブバージョンの歌と演奏を聴いて、おお〜こりゃすげぇ!!とそこでど肝を抜かれ見事に落とし前をつけられた感じがしたものだ。いろんな人に会うさ、いろんなことがあるさ、僕らの旅は過去に未来に果てしなく続く。

2024. 5. 7

⭐︎⭐︎⭐︎306は、と若い少女が⭐︎⭐︎⭐︎
 当サイトのわかりにくい地味なコーナー「僕の旅も小さな叫び」。その1979.7.26その3の篠島望郷編2005のくだり。
「旅館の仲居さんは、「はい、はい、はい拓郎さんね」と喜んで、御大の泊まった部屋を特別に見せてくれた。306号室という和室だった。」
 この記述に対して篠島グランドホテルには306号室はないはずだというご指摘をいただいた。
 早速この再訪のときのビデオを引っ張り出して見直す。ああ、仲居さんと番頭さんが「西の13」と確認しあっている。6階まで登り、拓郎さんの部屋は西館の一番奥ですと案内してくれている。ということで正しくは西館613号室だった。
 案内される途中でホテルの陳列ケースに飾ってある拓郎のサインを見つけて舞い上がってしまっている私の様子が残っている。いや言い訳はすまい。すまん。長らくご不安なまま惑わせてしまったか。この爺も306号という誤記憶を抱いたまま死んでいくところだった。
 まいまい様、ありがとうございます。
 それにしてもかくもお若いかたに教えていただけるとはなんとも心強い。未来は明るいかもしれないぞ。篠島よ永遠なれ。
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2024. 5. 5

☆☆☆♪今日から君はひとりじゃないんだね☆☆☆
 今日、5月5日は大安だ。
 私の知り合いの若い二人が入籍する日だ。
 奇しくもアルバム「Shangri-la」が発売されたのは1980年の5月5日だった。「Shangri-la」にはこんな歌があった(「ハネムーンへ」)。

 いずこも同じ 大安の日に
 めでたく生まれた ひとつがい
 夢にまで見たふたりの暮らし
 汝、生涯、夫と妻を誓うや


 なんか、この歌が初めて役に立った気がするぞ>おい。いやカッコいいレゲエサウンドと醒めた披露宴の詞がなんかミスマッチな気がしてあんまし聴かなかったのよね。若いお二人に贈るにはちょっとシニカルな歌すぎるか。
 
  二人の本当の行く先はね
  誰も知らない遥かな旅さ


 とにかく遥かなる旅のお幸せを心の底から祈っております。

※ところで5月5日ON SALEのチラシ。保存状態が良くなかったのでだいぶヘタっている。うつむいて歩いてるだけで、なんと絵になることよ。
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 田家さんのキャッチコピーが、なんかカッコイイのかダサいのかよくわかんないけどさ…いいぞ。とにかく、79年の復活の熱気のまだ冷めやらぬ中、さぁ!ゆくぞ怒涛の80年代という勢いがやたらといいのだ。

2024. 5. 3

☆☆☆水面に浮かぶ月影をすくうがごとく☆☆☆
 今日の「虎に翼」。良かったねぇ。判決理由を読む声で気づいたが、裁判長はドラマ「ER」のDr.カーターの声の平田広明さんだ。さすがにすぐにわかったのは森次晃嗣と古谷敏。今回のダンは黒幕の悪役で、かつて「アマギ隊員がピンチなんだよ」と命がけで馳せ参じたあの姿はなかった(涙)。こっちも年寄りだからあんまり悲しいダンの悪役は観たくないし、あと古谷敏は是非ともその美しい全身を映してくれ。
 …そういうオタク趣味だけから良かったのではない。「法は盾でも武器でもなく、きれいな水の湧き出るところなんじゃないのか」と主人公に言わしめたセリフだ。奇しくも今日は憲法記念日。改正こそ正義と叩かれ、またボブ・ディランの「戦争の親玉」みたいになっていきかねない世の中の空気の中で満身創痍の憲法。その憲法の誕生日に清々しい言葉を聞けた。それが拠って立つ究極の目的である「個人の尊厳」それを湧き出づるきれいな水という。湧水というと、なんとなく今日は「清流」を聴きたい。

2024. 5. 2

☆☆☆KK listening☆☆☆
 さすがに連休で仕事場も閑散としていたので、ラジオの「加藤和彦オールタイムリクエスト」を聴きながら机に向かってだらけていた。途中何本か仕事の電話がかかってきたが、すまん、そういうわけなので不機嫌なうえに話を早く切りたがって申し訳ない(爆)>最低だよ

 大好きな「だいじょうぶマイ・フレンド」のトノバンの本人歌唱は特にグッときた。加藤和彦と安井かずみが笑ってそこにいるかのようだ。俺は吉田拓郎になった気分で聴いていたら泣きそうになってしまった。すまん、怒られるぞ。
 そういえば昨年、某所で広田レオナさんをお見掛けして、俺がどんなにこの曲が好きかを言いたかったが、ヘタレなので何も言えなかった。とにかくこの曲が好きなのだ。映画はメチャクチャだったけど。

 だいじょうぶマイ・フレンド
 だいじょうぶマイ・フレンド
 あなたを信じてる人がいる
 だいじょうぶマイ・フレンド

 加藤和彦バージョンのシングルのB面に「街に風が吹くとき」と題するやはりトノバンとZUZUコンビによる同じテイストの曲が入っている。こちらの一節もつながって思い出される。

 時にはすれ違い
 時には淋しい
 おんなじ街に住み
 時代を共に行き
 それぞれの胸に唄流れて
 一日が終わる
 だいじょうぶ だいじょうぶ マイ・フレンド

 いいな。ラジオが終わってからも、慣性の法則であれこれとトノバンの曲を聴きたくなり中山ラビの「グッバイ上海」(中山ラビ作詞/加藤和彦作曲・編曲)を聴く。

 グッバイ上海 グッバイ上海
 ジャンク浮かべて 帰る日 遥か

 ちょっと裏返る声がとてもセクスィーだ。たまらん。ああ、みんなどこかに行っちまったけど。ということで、しみじみしながら、当然の如く机に向かえど仕事はしていない。してないけど疲れた。さて帰るか、ゴンジーゴーホーム。

2024. 4. 30

☆☆☆君の時計を止めてみたい☆☆☆
 さてゴールデンウィークといっても暦どおりで仕事には出にゃならんし、他に何もすることがないなんて。他人にはそれぞれの生き方があって誰もこっちを向いてはくれません。そんな立ちつくす私の最近のお気に入りの買い物。アップルウォッチとはいろんな意味で無縁の私だ。しかしスマホと連動するそれっぽいものをスリーコインズで買った。消費税込みで3000円ときたもんだ。これでつまらない日々に少しはハリが出る。
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 他人様に見せると例外なく「イイ歳してバカじゃないか」と嗤われる。しかし、いいじゃないか…は"さらば"のB面。人間の夢はそういうもんでしょう。
 これで随時写真を変えて日々の暮しの中でアルバムやライブの記念日を寿ぐ。これぞ明るい日常だ。
 とりあえず現在は5月5日(1980年)アルバム「Shangri-la」記念日に向けて生きております。あなたの人生はいかが、若さも老いもほろ苦いね。…大きなお世話だが。
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2024. 4. 28

☆☆サマープレイスブルースが聴こえる☆☆☆
 坂本愛江さんのお尊父様はカントリーシンガー坂本孝昭さんということだ。父伝来のカントリースピリットであられるのか。そして御母堂様は朱由美子(あけゆみこ)さんというエレックからデビューしたフォークシンガーであられる。以前、拓郎がラジオでチラッとエレックの同期として朱さんの名前をあげていたことがあった。伺うとデビューしたてのころ拓郎さんと一緒にキャンペーンを回ったという話を母から聞いてましたということだ、きっといろいろなエピソードをお持ちなんだろうな。
 奇しくもその坂本愛江さんは「避暑地の出来事(夏の日の恋)」をカバーしておられた。バシーフェイスオーケストラの演奏で我々の身体にしみこんだ名曲だ。この曲に歌詞があるとは不覚にも知らなかった。映画の主題歌なのかな。"本日のコンサートはすべて終了いたしました"…それは詞じゃねぇよ、アナウンスだよ。
 YouTubeで「坂本愛江」「避暑地の出来事」で検索すると出てくる。本場テネシー仕込みの英語とソウルで聴かせてくれる。いいな。バシーフェイスの定番とのローテーションで聴きながら散歩する。太陽がまぶしい。夏のような陽気だ。どうかみなさま良い連休をお過ごしください。
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2024. 4. 27

☆☆☆つながりゆくもの☆☆☆
 ときどき島村英二のドラムが無性に聴きたくなる。昨夜はカントリー、あ、カントリーといっても、八掛けのじゃなくて…ヤメロよ(爆)。
 カントリー・シンガーの坂本愛江さんの魂の歌声を聴きながら、島ちゃんのドラムで身体を揺らした。ああ、これがカントリーなら俺はカントリーが好きかもしれない。そしてまた坂本さんには特別なライブでもあったことがあとでわかった。

 島ちゃんは、中島みゆきの絶賛ツアー中で、大阪公演から帰ってきたばかりだそうだ。なんというタイトなスケジュール、なんという元気さなのか。相変わらず、あの曲前のカウントと笑顔がたまらなくいい。
 そういう時節柄か客席では中島みゆきツアーにご参加の方からライブの様子も伺うことができた。話を聴きながらつい涙ぐむ。大阪フェスに行きたかったな。てかもう一回来月のフォーラムに行きたくなった。

 図らずも昨夜のカントリーのステージも客席で話題になったみゆきのツアーの話も、どちらも大切な人を失った時、人はどう生きるのか…そういうことだ。坂本愛江さんの最後の歌のときにスタンディングしてカウボーイハットを胸にあてて黙祷しながら聴いておられた方の姿が忘れられない。また坂本愛江さんのことをよく知らないものの歌い切った彼女をそっとしっかりハグした雨畑、あなたはきっと正しい。
 大切な席は空席のままそれでも進まんとするみゆきツアーの話も一緒に思い出しながら、ああ音楽っていいな、人っていいなと久々に思ったわい。

 
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2024. 4. 25

☆☆☆男らしいはやさしいことだと☆☆☆

 今日の"虎に翼。九州出身の"男尊女卑のカタマリで武骨な大学生が、当初は忌み嫌っていた女子学生たちに心を開きはじめる。

 俺はあの女性(ひと)たちが好きになってしまった
 あの女性(ひと)たちは男だ
 俺が男の美徳だと思っていた強さ、やさしさ、すべてをもっている
 俺が男の美徳だと思っていたものは
 男であることとは関係ないものなのかもしれん

 …すんばらしい。これは吉田拓郎のスピリットでとあると俺は思う。
 男らしい男の代表のように祀り上げられることが多い吉田拓郎。反対に身勝手な男代表として中ピ連のような方々にも攻撃された(なんかなつかしー)。確かに拓郎は男らしさ、バンカラ、男のエゴ、男の甲斐性などを賞揚するような歌もたくさん歌ってきた。しかし、同時に男らしさというものの嘘臭さ、ずるさ、そして男らしさに酔ってしまった後悔のようなものも拓郎は歌っているし、何よりわかっている。そここそが吉田拓郎の魅力のツボだと勝手に思う。

 昔、区立の図書館に「よしだたくろう気ままな絵日記」があって、裏表紙に悪質な落書きで「この男いつでも発情中」って書いてあって、ファンとしては複雑な気持ちだった。いや正直に言う…ちょっと面白かった(爆)。ある時期の世間様の吉田拓郎像である。

 吉田拓郎のラブソングはずっと続いているが、同じラブソングの範疇の中で若いころの"発情系"から歳とともに"深い人間愛系"にシフトチェンジしていっているように思える。時に逆らわずに深まりゆく、そこが美しいし、またそれは自分の中にしみついている尊卑をも教えられる気がする。俺の道は遠いかもしれないが。

2024. 4. 24

☆☆☆さよーなら、またいつか☆☆☆
 NHK朝ドラ「虎に翼」。かなり本気視聴モードだ。好きすぎてドラマのウンチクと考察を頼まれもしないのに仕事で会う若者たちに語って多分トテモ嫌がられている。すまん。ドラマのストーリーもそうだが、特にディテールがいい。極北を行かんとする者たちだけでなく、そうではないものたちにもひとしく愛情と敬意が注がれている。
 でもって主題歌だよ。毎朝、米津玄師「さよーなら、またいつか」が流れるたびに躍り出したくなる。踊らないけどさ、身体は小さく揺れる。さまざまな女性たちがみんなで元気に踊っているシーンでうっかりすると泣きそうになる。同じように胸熱くなる既視感があったと思ったら、あれだよ、「いくつになってもHappybirthday」のPVだよ。胸が躍るこの感じっす。
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2024. 4. 23

☆☆☆この歌をあの人に☆☆☆
 同じ回の坂崎幸之助のラジオ(K's TRANSMISSION)で吉田拓郎本人歌唱の「メランコリー」(アルバム"ぷらいべえと"所収)を流したら、リスナーから「吉田拓郎さんの曲だったんですね!!」という反響がたくさん届いていて驚いた。布教担当者(>誰も頼んでねぇよ)としては、こりゃイカン、周知徹底が足りないと一瞬思った。しかし、しかしだ。2024年のこの時期にそういう発見に新鮮に驚いている人たちがおられる。梓みちよの「メランコリー」っていい歌だなと思っていたところ、はからずも、あ、これ吉田拓郎が作ったんだ!!という小さな心のふるえを感じている人がいる。そのこと自体が何かとても嬉しいじゃないか。

2024. 4. 22

☆☆☆僕はチークを踊ろうが好き☆☆☆
 坂崎幸之助のラジオ(K's TRANSMISSION)によれば、最近吉田拓郎と一緒に石川鷹彦宅を訪ねたらしい。その話を聞くだけで嬉しくなる。石川さん、拓郎のことをよろしくお願いします。嬉しい気分で"リンゴ"を聴く。もう無形文化財だ。その勢いで"チークを踊ろう"も聴く。"ラジオでナイト"で、石川鷹彦とアコースティックギターだけを何本も重ねてこのサウンドを作ったと教えてくれた。このサウンドのキラキラ煌めく感じのゆえんだろうか。いつ聴いてもウキウキしてくる。みなさんとにかくお元気でご活躍ください。

2024. 4. 20

☆☆☆股旅2024☆☆☆
 昨年、歌手を引退した橋幸夫が復帰するということで謝罪会見を開いて「反省しきりでした」とお詫びしたとのことだ。
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 私には何もいう権限も資格もないが、謝罪も反省もいらないと強く思う。考えて考えて決めた引退という決断も、再び魂が湧き上がってきて歌おうという決断も、私らの想像を超えた本人のみが知るものであり、反省・謝罪とは無縁のものだ。私はこれからまた音楽の旅を続けようとするお方をただひたすらに歓待するだけだ。ああ、なんて素敵なセニョリータ!!
 たとえ仮にそんな日が来ても拓郎さんあなたは反省も謝罪もしなくていい。心配しなくてもぜってー、あやまったりしないだろうけど(爆)。で、きっと俺も↓こんな悪態をついてしまうのだ。
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 橋幸夫といえば若き日の御大の"潮来刈り"の師匠であり、「メキシカン・ロック」とか「スイム・スイム」とか「シトシトピッチャン」とか「股旅'78」とか時にちょっと恥ずかしい歌(※個人の感想です)を歌う人というイメージだったが、すまん。しかし昨日、朋輩に言われて、そうだ名作「いつでも夢を」の御大のカバーがあるじゃないかと思い出した。
 例によって今になって聴き直すと武部聡志のアレンジが少しうるさいだけで、実に清々しくていいなと思うのだ。なんか昨今の私の心にとてもしみる。ちょっと泣きそうにもなる。これライブステージでみんなで歌ってもきっと楽しかっただろうな。「♪言っているいる お持ちなさーいなー」の原曲の譜割りを「…お持ちな、さぁーいなぁあぁぁ〜」と拓郎節をどこまでかまして歌えるかが勝負ポイントだ。何の勝負だ。

2024. 4. 19

☆☆☆正気のかけら☆☆☆
 ノルマンディー上陸の話をするまでもなく現代もガッツリと悲惨な戦争は続いている。最近イレギュラーの仕事で、たくさんの十代の若者たちと顔を合わせることが多くなった。ハッキリ言って若者は苦手だ。通じあうすべがなかなか見つからない。ああLOVELOVEに飛び込んだ拓郎はホントに偉かったなといまさらながら思う。それでも俺はついつい偉そうに「何よりも平和が大切でありました」とか説教を垂れてしまう。しかしもし若者たちから「アンタは60歳も過ぎて今まで何をやってたらこんな世の中になったんだ!?」と問い詰められたら何も答えられないな。🎵鏡に今の自分を写してみれば、人に何が言える、黙って俯けよ。…
 イランとイスラエルで報復の連鎖 中東情勢、さらに緊迫の恐れ…などというニュースが席巻するとやりきれない。イラン中部イスファハンと北西部タブリーズで19日、相次いで爆発が起き、イスファハンや近郊のナタンツにはイランの核関連施設があるという。
 イスファハンにあるのは金の腕輪とペイズリーじゃなかったのか。もう殺戮も破壊も止めてくれ。、この爺は、そう祈るしかないのか。

2024. 4. 17

☆too many people have died☆
 NHK「映像の世紀バタフライエフェクト〜史上最大の作戦 ノルマンディー上陸」を観た。「史上最大の作戦 ノルマンディー上陸」「史上最大の侵略(前編後編)」「史上最大のプロテストソング 基地サ」が私にとっての"史上最大"の御三家だ…すまん不謹慎にもほどがあるか。
 番組ではノルマンディー上陸にまつわる暗澹たる映像と淡々としたナレーションがひたすらつづく。もともと史上最大の作戦というと米英連合軍がナチスを討伐する勧善懲悪の物語のイメージがあった。しかしその後、映画「プライベート・ライアン」でそこがどれだけ凄惨な地獄だったかを知った。そしてこの番組はあの映画のショッキングなシーンが決して映画ゆえの大袈裟なものではなかったことをあらためて突きつけてくる。上陸前に一斉に掃射されてしまう若き米兵たち。遺体になって海に浮かぶもの、激痛で悶絶するもの、もう見ていられない。従軍写真家だったロバート・キャパは恐怖で手が震えカメラのフィルムの入れ替えが出来なかったほどだったと述懐する。

 この作戦は紆余曲折を経ながらも成功をおさめ、そこからナチスの敗走が始まる。しかし予想より少なかったとはいえ4500人もの米兵が亡くなったことが語られる。同時にこの作戦での連合軍の無差別爆撃により、占領された無辜のフランスの市民の4万人が亡くなったという事実も番組は告げる。ナチスの撃退のためとはいえ、いったいこの作戦は何だったんだというフランスの犠牲者の方々の叫びが辛すぎる。これは今につづく戦争にまつわる永遠の問いかけでもある。

 番組では当時の米兵のひとりとして若き日のJ.Dサリンジャーに注目する。作戦当時の写真も映る。ちょっと面長の端正な顔立ち…ああ、わが青春のサリンジャーだ。この戦争によるPTSDで彼は生涯隠遁生活を送ったのではないかと語られる。そして帰還後に彼が書いた短編「最後の休暇、最後の日」の一節を示してこの番組はしめくくられる。

 出征直前の若き兵士がかつての戦争で功績をあげた自分の父親に向かってキッパリと言う。

「そのおかげで青年たちが一人前になったみたいに聞こえる・・・。みんな、戦争は地獄だなんて口ではいうけれど、・・・戦争に行ったことをちょっと自慢にしているみたいに思うんだ。」
    (中略)
「この前の戦争にせよ、こんどの戦争にせよ、そこで戦った男たちはいったん戦争がすんだら、もう口を閉ざして、どんなことがあっても二度とそんな話をするべきじゃない〜それはみんなの義務だってことを、ぼくはこればかりは心から信じているんだ。もう死者をして死者を葬らせるべき時だと思うのさ。」
   (中略)
「でも、もしぼくらが帰還して、ドイツ兵が帰還して、イギリス人も日本人もフランス人も、だれもかれもがヒロイズムだの、ごきぶりだの、たこつぼだの、血だのと話したり、書いたり、絵にしたり、映画にしたりとしたら、つぎのジェネレーションはまた未来のヒトラーにしたがうことになるだろう」

 何を語り何を語るべきでないのか。語らずに行かねばならないときもある。誰もが口閉ざせ愛する者のために。もちろんこの拓郎の歌とは関係ないのだろうが、そんなフレーズが頭をめぐるのだ。

2024. 4. 15

☆☆☆80年代という同窓会☆☆☆
 田家秀樹「80年代音楽ノート」を読んでいる。世代的にはドンピシャで実際に青春時代に耳にした音楽ばかりだ。しかし何だろうか、このしみじみとしたアウェー感は。すべては"あの人だけが音楽だ"と思い詰めた青春を送ってしまった報いである。ちょうど友人も殆ど無く孤立していた高校のクラス会に何十年振りに出席したみたいな感じだ。みんなは盛り上がるが俺は誰とも話もできない。唯一のたのみは、80年代半ばで退職してしまった吉田先生と陰キャな俺にも優しくしてくれた浜田くんと坂崎くんくらいのものなのだ。

 でもさ、この80年代のノートの中で既にメインストリームから外れて退場しようとしている吉田拓郎がチラリと登場するのだが、そこがまた一番カッコよく見えるんだよ。降りて行かんとする背中がたまらんのだ。ということで私の病はあらためて深い。いや病なら治りもするが、これは性癖なので治療不能だ。…結論、それで本人がしあわせだから、そのままいくしかない。
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2024. 4. 14

☆窓☆
 「夏に恋する女たち」をダラダラと観ながらのつづき。言うまでもなくすべては俺の勝手な思い込みなんだけど「あいつの部屋には男がいる」と同じアルバムの「今夜も君をこの胸に」も当時は同じイキフンに聴こえた。

  窓からあふれる星の数
  君の白い身体によく似合う

 この「窓」はやはり六本木・青山あたりのただれた高級マンションの窓のイメージだった。濃密な夜を過ごした田村正和と名取裕子の二人が窓から六本木の街と夜空を眺める。どこかに自堕落な香りが残る、ぶっちゃけ、岡本信人な俺には"いけすかない曲"だった。しかもこの曲が「ファミリー」や「アジアの片隅で」に代わってコンサートのオーラスを飾るのも大いに気に入らなかった。当時はコンサートはシャウトとグルーヴの発散系で終わるものと信じていた。

 そしておよそ35年ぶりで、2019年のラストツアーのオーラスにこの「今夜も君をこの胸に」が返り咲いた。あんだけ悪態ついといて誠にすまないが、これがメチャクチャ圧巻だった。心の底から美しいと思った。最後かもしれないコンサートのいちばん最後に、この曲で会場から送り出してもらえたことがなんか誇らしかった。わがファン人生に悔いなし。
 2019年の「窓」は六本木とか青山とか祐天寺とかの高級マンションだけではなく、愛しあうすべてのひとに向って開かれた窓のようだった。どこであろうと、そして過去・現在・未来いつであろうと、大切な人と星を眺める窓の歌になっていた…と思う。

 いしいしんじの「プラネタリウムのふたご」の大好きな一節を思い出す。

"でも、それ以上に大切なのは、それがほんものの星かどうかより、たったいま誰かが自分のとなりにいて、自分とおなじものを見て喜んでいると、こころから信じられることだ。そんな相手が、この世にいてくれるってことだよ" 

 窓からあふれる星はそのアイコンだ。ということで個人的な思い込みで勝手に嫌ったり、持ち上げたりしてなんだが、現在にして思えば、よくぞこの歌を作っておいてくれました、また最後の最後によくぞこの曲を持ってきてくれましたと心の底から思う。その間歌い続けてくれた時間とともに感謝申し上げたい。

2024. 4. 12

☆☆☆#425☆☆☆
 配信で昔のドラマ「夏に恋する女たち」(1983年制作)を観ている。いわゆるトレンディドラマのハシリで、六本木の高級マンションを舞台に田村正和(ヌード専門カメラマン)、原田芳雄(ホスト)、津川雅彦(サラリーマンであり闇画商)らウサンクサイ住人たちの織り成すスキャンダラスな恋愛ドラマだ。いわゆるバブル時代の退廃した空気に満ちている。初見当時は学生だったのでまったく別世界のようなドラマだった。だいたい蒲田あたりに住んでたら六本木なんてニューヨークと同じくらい縁遠い。ドラマの登場人物の中で唯一自分が感情移入できたのはカタブツで小者のマンション管理人=岡本信人だけだった。
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 現在になって観なおすとそれこそ不適切にもほどがあるのオンパレードなのだが、それでも田村正和、原田芳雄、津川雅彦それぞれに異なる色香の溢れる男たちのカッコよさといったらない。そうだ、梓みちよも出ていた。ああ、もうみんな亡くなられてしまったというショックがじわじわと来る。まさに人生はビールの泡に浮かびはじけるうたかたの夢なのか。

 そういう話がしたかったのではない。このドラマを観るといつも「あいつの部屋には男がいる」を思い出すのだ。当時も今もだ。時期もほぼシンクロしている。そうだ劇中、津川雅彦が「僕笑っちゃいます」を口ずさむシーンがあった。そこいらも含めてこのドラマが体現するバブリーで自堕落な空気と「あいつの部屋には男がいる」の世界観は通底していると思うのだ。六本木と青山とちょっと場所は違うが、こういう背徳的な高級マンションに彼女の#425はあったに違いない。そんな一室で津川雅彦に背中から抱きつかれながら萬田久子が受話器に向かって「今日は遅いからまた明日…」と困ってる様子が浮かんでくるのだ。かぁぁぁぁこのイカレタ不道徳なヤツらめが!!という嫉妬もこもった思いが頭をよぎる…俺はやっぱり生涯岡本信人だったのだ。それでも観終わるとポケットに手を突っ込んで歩いている自分が切ない(涙)。
 この曲は結構ポップな名作ではないかと頭では思いつつ、いまひとつ心で共感できないゆえんではないかと思う。
 ということでスキャンダルの中で「自堕落に生きよう」とうそぶく吉田拓郎を遠く感じ始める、すれ違いの80年代中盤の幕開けのような曲でありました。
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 ああ原田芳雄が第6回でガッツリと「僕笑っちゃいます」を歌っておった。

2024. 4. 10

☆欲望〜Another Side Of Desire☆
「Another Side Of Takuro 25」予約特典クリアファイルTypeA〜TypeDとか言われても心は動かなかった。さすがにこの爺はもう枯れました。そういうあざとい特典商法に燃える気力は残っておりませぬ。
…と思って、公式から出揃ったA〜Dの見本を観てみた。
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 なんだこりゃ、全部欲しいぞっ!!…手に入れるまでは死ねない強欲爺なのだ。それにしても、おい4枚セットとかにできなかったのかよ。そんなにこの世界は甘くはないか。どうすりゃいいのか思案橋。かくして欲望をめぐる熾烈な戦いは老いようと倒れようと白い灰になるまでつづくのだった。

 あれフォーライフ時代の写真が無くね?

2024. 4. 9

☆記憶のありかを確かめている☆
 このTOUR79の「伽草子」の思いっきり振り切ったアレンジもカッコ良すぎてシビレた。篠島の3曲目、ようやく日はとっぷりと暮れたところだった。この換骨脱胎のようなドラマチックな「伽草子」を聴きながら当時の俺は心の中で叫んだ。勝った。ああそうだよ、音楽に勝ち負けなんて馬鹿らしい。でも勝ったと叫んばずにはいられなかった。時はニューミュージック全盛時代、このときもつま恋でアリスのイベントが耳目を集めていた。もう拓郎は古い、そんなの聴いているオマエはダサイという有象無象の空気。そんな極北にいた俺の思いを見事に吹き飛ばしてくれた。吉田拓郎のボーカルだけではない。鈴木茂と青山徹のギターにジェイク・コンセプシオンのサックス、微笑して揺れながらアシストしている松任谷正隆とエルトン永田、島村英二の重厚なドラム…今ここに最高至福の音楽がある。ここが天国だ。この曲を聴きながらそう確信したのだった。忘れられへん。

 この話は何度かしたし書いた。また書いてるだとかネタ不足とかいわば言え。ホントにそうだし(爆)。しかしこれは記憶のありかを確かめる大事な点検作業なのだ。ガスの元栓、水道の蛇口の締め忘れを昨日点検したから今日はしないという人はおるまい。ガス水道の確認を毎日点検してるヤツがいると嗤う人がいないのとおんなじだ。大切な記憶こそ何度も何度も表現して確かめなくてはならない…と作家の吉田篤弘が教えてくれたとおりだ。

 ということで過去に今日に明日に何度もループしながら元気にまいりましょう。

2024. 4. 8

☆☆☆振り切る感じ☆☆☆
 なので「Another Side Of TAKURO」に文句つけているんじゃなくて「伽草子」(1973)ってやっぱりいいな〜そこだ。久々にしみじみと聴き入ってしまった。もうマイブームの小川未明の世界のようだ。そしてこの「伽草子」(1973)からのTOUR1979の「伽草子」(1979)への思い切り振りきる感じ、このスイングがまたたまらないんだよ。ああ至福。感動できなきゃ人間ヤメだ。
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2024. 4. 7

☆人にはそれぞれの☆
 「Another Side Of Takuro 25」所収の「伽草子」は"みんな大好き"(1997)のバージョンなのか。やっぱり「伽草子」はシングル/アルバム「伽草子」(1973)でしょうと思う。いや「みんな大好き」の♪ズンズンッチャンという武部聡志のバージョンが良くないという意味では…ある。大いにある。ってすまん、もうそういう悪態をつくのはやめにしたんだ。なので言い方を変えれば「伽草子」(1973)はあまりにも素晴らしい。あのイントロの音色からして別世界に誘われるかのようだ。奇跡のように美しい演奏とボーカルは、もう神様が作ったとしか思えないのだ。そんなふうに僕は思う。
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2024. 4. 6

☆☆☆未明☆☆☆
 昨夜は拓郎ファン3人と集まり、拓郎の誕生日を寿ぐ乾杯のあと「武蔵野未明読書会」(仮称)をおこなった。なんだそりゃ。「未明」といっても「7月26日未明」でなく作家の「小川未明」である。未明全集を所有している彼の指導のもと不可思議な短編作品たちについて語り合った。もはや童話の域を超えた「なんなんだこの話は!?」と時に苛立ちが胸を突き身体をねじらせるような謎の短編たちの虜になってしまった私たちなのである。
 吉田拓郎は、今回のベストアルバム「Another side of TAKURO」のために300曲を聴き直したという。未明も1200作ともいうべき膨大な作品がある。共通するのは、代表作、著名作以外の作品に魂の作品が散りばめられているところだ。だから気が抜けない。得体のしれないダンジョンに入ってゆく感じがなかなかよい。
 なぜか拓郎ファンたちが読む「未明」と言うことで通底するものが見つかったらまたお便りします。
 そうそう「未明」というのはずっと明け方に近い夜中だと思っていたが、午前0時から3時の間のことだと昨夜教わった。ちょうど御大が深夜放送をやっていた時間なんだな。

2024. 4. 5

☆Happy78years☆

  お誕生日おめでとうございます!

 この日があるから現在がある。追いかけましたあなたの姿だけ。だから一線を退こうが、何歳になろうが、私の人生のフロントラインは、あなたの現在いるところ…そこだ。ここで一首

   退けど 旅する背中
        いつだって
           そこが私の最前線

                   星紀行、心の短歌

 ん〜我ながらイイ歌だなぁ(爆)…イタくてすまんな。 
 とにかく拓郎さん、また拓郎さんだけでなく拓郎さんに深くつながるすべての皆様、どうかどうかお元気でお過ごしください。

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2024. 4. 4

☆背中合わせのランデブー☆
 桜が咲き始めた。老いも若きも、住民も旅行者もみんな一様にツルツルしたものを掲げて写真を撮っている。裸眼でただ眺めている人がいない。異様といえば異様な光景だ。
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 >っておめぇも撮ってるんじゃないかよっ。
 桜の下を通ると、どうしたって毎年、太田裕美の「花吹雪」が脳内で流れる。「拓郎さんが作ってくださいました」と太田裕美のヤンタンでのアナウンス付きだ。

 桜吹雪が散ってます こころの画面いっぱいに
 卒業式で泣く人が このごろんほんの少しね
 淋しい顔で あなたが言った
 ともだちでいようよ ともだちでいましょう

 それにしても松本隆は"卒業後の遠距離悲恋"で何曲書けば気がすむんだ。悔しいが、どの曲を聴いても胸が切なくなるんだよ。

2024. 4. 3

☆語りかけてくるSONG LIST☆
 自選ベストといえば2018年の"FromT"。この選曲は凄いなぁと唸ったものだ。それは今、見返してみても選曲の妙味が凄すぎるとしか言いいようがない。曲の選択から曲の順番からその行間のようものすみずみまですんばらしい。
"FromT"
disc 1
1 春を待つ手紙
2 僕の道
3 流星
4 いくつになっても happy birthday
5 恋の歌
6 金曜日の朝
7 Oldies
8 シンシア
9 ウィンブルドンの夢
10 水無し川
11 清流 (父へ)
12 花の店
13 戻ってきた恋人
14 アゲイン (吉田拓郎 LIVE 2016)
disc2
1 風の街
2 ガンバラナイけどいいでしょう
3 おきざりにした悲しみは
4 君のスピードで
5 消えていくもの
6 春だったね
7 元気です
8 歩道橋の上で
9 歩こうね
10 朝陽がサン
11 夏休み
12 慕情
13 マークII’73
  "Another Side of TAKURO"も同じ妙味を感じる。これはもしかして"FromT"に対して"Another Side"なのか。なんかリスト自身が語りかけてくるよね。この二つのベストアルバムのソングリストを眺めているだけで一晩お酒が飲める…いや飲まずとも語り尽くせそうだ。って、それは拓郎はファンはみんな同じだと思う。
"Another Side of TAKURO"
disc1
1 どうしてこんなに悲しいんだろう
2 せんこう花火
3 君が好き
4 ペニーレインでバーボン
5 風邪
6 I’m in Love
7 たえこMY LOVE
8 もうすぐ帰るよ
9 流れる
10 この歌をある人に
11 いつか夜の雨が
12 あの娘に逢えたら
13 午前0時の街
disc2
1 裏街のマリア
2 冷たい雨が降っている
3 夜霧よ今夜もありがとう
4 Y
5 大阪行きは何番ホーム
6 とんとご無沙汰
7 マスターの独り言
8 全部抱きしめて
9 伽草子
10 車を降りた瞬間から
11 吉田町の唄
12 気持ちだよ
ボーナストラック
13 純情(吉田拓郎・加藤和彦)

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2024. 4. 2

☆☆☆発送をもって発表にかえるということ☆☆☆
 フォーライフの告知。
 6月12日にリリースされる吉田拓郎のALBUM「Another Side Of Takuro 25(FLCF-4536)」の
“初回生産分”にのみ封入されている専用応募ハガキに必要事項をご記入の上、ご応募ください!
  Another Side Of Takuro 25 オリジナルTシャツ
  Another Side Of Takuro 25 オリジナルトートバッグ
を抽選でそれぞれ30名様にプレゼントいたします!
 これを見てふと思った。
 2022年12月21日にリリースされる吉田拓郎のALBUM「COMPLETE TAKURO TOUR 1979 完全復刻盤(FLCF-5089)」の“初回生産分”にのみ封入されている専用応募ハガキに必要事項をご記入の上、ご応募ください!
TAKURO TOUR 1979 オリジナルTシャツを抽選で20名様にプレゼントいたします!
 …これは結局、俺、ハズレたってことだよね。>あったりめぇだろ!!

2024. 4. 1

☆☆☆"後悔していない"と"新しいこと"☆☆☆
 高円寺にバレエ公演を観にいった。昨年、もう踊りきったからとヨーロッパの州立バレエ団を退団し帰国してきた彼女の最後の踊りだ。開演前にとなりの席の安曇野から駆け付けた家具職人Pさんとボソボソと話した。あの小さかった子がなぁ…とか、よく一人ドイツに渡ってプロになったものだとか、最後に日本で見た時は後ろの席がエルトン永田さんだったとか、ローザンヌのネット中継を二人でしがみつくように観たこととか、いろいろと話してみたが、今はそういう話しをするときじゃないというのがなんとなくわかった。これから始まる舞台に魂がすべて持っていかれた状態だった。

 公演が始まるとそこだけが光り輝いて見えた。ちょうどフォーラムで客電が消えて拓郎がゆらりと登場した時のように胸がしめつけられるオーラだ。アーティストが凄いのは、それまでの歴史とかドラマとかそういう思い出やストーリーもその短い時間で凝縮して表現しえてしまうところだ。巻けば数十分、広げりゃ十何年という技ができるのが藝術というものだ。Pさんもそして俺もそれぞれの時間を思っていた。近しい方々には何十年分ものもっともっと深い万感だったろう。おっかなびっくり"Bravo!!"と叫んでみた。"タクロー"と同じ要領だ。彼女はすべての結晶のように見事に踊りきった。それは素人の俺にもわかった。

 しかしご本人の言葉のニュアンスは少し違う。
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 本人は清々しく言い切る「後悔していない!」。そして驚いたのは最後といわれるステージなのに「新しいことした!」と言う喜びの叫びだった。全然、自分のこれまでの歴史とか思い出とか後ろを観ていないんだよ。
 思いきり感傷でいっぱいになって観ているこちら側と違って、ステージ上のアーティストには全く違う景色が観えているようだった。
 そうなのか、そういうものなのか。まだできる!とか、もう一度観たい!とかではなく、心の底からありがとう、どうかあなただけに観えている景色を大切に!と言って差し上げたい。…あのお方に対してもそう言えるように俺もがんばってみよう(爆)。これがダメなんだよ、よーしスバラシイ選曲だ、そのanother sideの25曲でライブやってみようかっ!なっ!とか言いたくなっちゃうんだよ。
 

2024. 3. 31

100分de名著「マガジンT(第12号)」を読む  第10話(最終回) さらば は いいじゃないかのA面
 
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☆さよならが言えないで☆
 アルバム「吉田町の唄」が完成し、さあ!これから"ALONE TOUR"に出るぞっ!!と立ち上がった吉田拓郎。加えて会報最後の”続挽歌を撃て!”の最終回にこんなくだりもあった。
「50歳になった時、つま恋でもう一度歌うのも悪くないかもしれない」きらりと拓郎の目が光った。
 OK松任谷!!いいじゃないか!はさらばのB面。こうして吉田拓郎の新たなる旅立ちを祝福しつつ公式ファンクラブT'sは終了した。いや正確には、ニフティサーブのパソコン通信「自分の事は棚に上げて」として切り替わるのだが、当時PCなど無縁だった私はココで脱落してしまった。面目ない。めくるめくような電脳ファンクラブが展開していたのかもしれない。もしそうだったらどなたか教えてください。

☆わが心の暗夜行路☆
 ずっと書いてきたようにT'sは、1988年〜1992年というぶっちゃけ"不遇な時代"をともに生きた公式ファンクラブだった。そしてこの不遇の時代は、このT's終了以後もまだまだしばらく続く。例えば、水差すようですまないが会報最終号で自信と期待のもとに送り出されたアルバム「吉田町の唄」について、翌93年の別雑誌のインタビューで拓郎はこんなふうに振り返った。
いくら自分でこのアルバムは気に入っているといっても世間の評価をあまり受けなかったものを後生大事に聴いていても、ということには気づくようになっているよ。(略)僕は「吉田町の唄」のアルバムは好きなんだけど、いつまでも言ってても仕様がないし
           ぴあBOOK「吉田拓郎ヒストリー1970-1993」
 悲しいだろうみんな同じさ。この身の置き所のないような悲しみ。その悲しみいずこに向けるだろう。スポニチのニュース記事にもなった"50歳になったらつま恋"企画もいつの間にか沙汰やみになった。どこまでも暗夜行路は続くように思えたものだ。このまま吉田拓郎がフェイドアウトしてしまうのではないか。真剣にそんなことも考えたものだ。

☆いつでもどこでもおまえがいたのさ☆
 しかし、そんな心配は一ファンの思い上がりに過ぎなかったことはその後の歴史が証明してくれた。いつでもどこでも吉田拓郎はファンの思い入れや思い込みを飛び越えてやってくる。…まさか2024年になってフォーライフからライナーノーツ付きのあんなツボな選曲のベストアルバムを出すとは。…って、その話じゃない。
 拓郎は不遇だろうと何だろうと音楽を愛する旅をずっと続けてくれたのだ。長い歳月の中の日常・非日常、好調・不調、順境・逆境、ハレの日・ケの日、どこを切り取っても吉田拓郎は吉田拓郎だった。いつだってその深奥にはいきいきとした音楽があった。90年代に駄作無し、それ以後もたぶんほとんど無し(爆)。あのつま恋だって15年かけて60歳を超えてから約束を果たしてくれた。

☆雌伏と至福、二つの"しふく"☆
 今頃、昔の会報なんか読んで何になるという勿れ。今この会報を振り返って教えられたのはそんな不遇な時代の心の持ち方、処し方だ。いや楽しみ方といっていい。雌伏のときもまた至福のときに変わることを教えてくれた。
 渋谷さん陣山さんはじめ新旧スタッフの方々、ミュージシャン、音楽ライター、写真家の皆さんがよってたかって吉田拓郎という灯火を支え、そして何より拓郎本人の総力をも結集して出来た12冊の会報。当初のマリクレール路線から魂のファン路線への進路変更に試行錯誤された、あなたの苦闘が今になってよくわかります、藤井てっかん氏。楽しゅうございました。今頃に申訳ありませんが、心よりご冥福をお祈りします。中学生の頃からさんざんお世話になりながらいつの間にか消えてしまった「八曜社」。あらためて深謝申し上げます。
 拓郎がリタイヤしてしまった今は不遇な時というのかどうかはわからないが、ハードな時であることは確かだ。それでも音楽の旅は続いていると拓郎は明言する。だったらおまえも信じて旅を続けることだとこの会報たちは語り掛けてくれる。ベストアルバム…御機嫌じゃないか。映画「駅STATION」の中での根津甚八の辞世の句

   “暗闇の 彼方に光る一点を
        今 駅舎の灯と信じつつ行く”
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 カッコつけるとそんな気分だねぇ。まだ辞世したくないけれど。

 ということで、こんなウザイ拙文にお付き合いくださった方、励ましてくださった方、心の底からありがとうございました。これからなにかきっといいことがあることを信じて、この道をご機嫌でまいりましょう。

2024. 3. 28

☆another side☆
フォーライフからの拓郎自選ベストが出るというニュース。ライナーノーツまでも書いてくれるのか。嬉しい。あ〜「流れる」が入ってる! 以前"ラジオでナイト"でどういう曲だったか思い出せない…と口走っていたが、思い出したんだな。良かった!!(涙)

2024. 3. 26

100分de名著「マガジンT(第12号)」を読む  第9話 ほんもののアコースティックを抱きしめる
 
☆前回までのあらすじ☆
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 えーっと何の話だったっけ? おお、そうじゃ、会報マガジンT最終号の最後の特集記事"吉田拓郎インタビュー"じゃった。観音崎スタジオで、シンプジャーナルの大越元編集長がインタビュアーだったぞな。ダウンタウンズの再結成でリフレッシュし何かを掴んだ吉田拓郎はここ観音崎でニューアルバムのレコーディングに入った。言わずと知れた名盤「吉田町の唄」である。このアルバムは石川鷹彦と二人三脚で制作された。"元気です"、"ローリング30"と石川鷹彦が重要な役割を果たした参加作品はいろいろあれど一枚のアルバムをフルでつきあったのは、この「吉田町の唄」が初めてだそうだ。楽しそうなこぼれ話がたくさんあったようだ。
 今度のこのアルバムの「あれ宣伝したい」とか「これ売りたい」とか「ここ、俺のコマーシャルな部分」というのは何にもないけれど、石川鷹彦ですよ。
===ああ大活躍ですね
うん、石川鷹彦がいい。で、石川鷹彦はやっぱり、改めて言うのもおこがましいくらいのギター弾きで、言うのがおこがましいくらい歴史を持ってて、そりゃ俺なんかが太刀打ちできないくらいのいろんなノウハウ持っているんだけど、でも俺に言わせると、みんな石川鷹彦を使えていないんだよね。石川鷹彦を全然使いこなせていない。
 このアルバムは吉田拓郎が石川鷹彦を存分に使いこなした作品ということだ。無限の音楽引き出しを持つ石川鷹彦とのドラマは、これまでラジオでも何度も語られてきた。あ、最近、同じような無限の音楽引き出し対する絶賛を聴いたことあるなと思ったら松任谷正隆だった(ラジオ「松任谷正隆のちょっと変なこと聞いてもいいですか?」)。
 拓郎は、いつも彼らの自在な音楽の引き出しから次から次へと出てくるものが嬉しくて嬉しくてたまらない様子だった。そこには拓郎のスターとしてのマウントや高慢なものは一切なく、ひたすら石川鷹彦や松任谷正隆らの豊富な音楽の引き出しをレスペクトしながら楽しんでいることが伝わって来た。この人は本当に音楽のことが大好きなんだなぁと思うところだ。アコギ、エレキ、ドブロ、マンドリン、ブズーキ、バンジョー、シタールと八面六臂の活躍だ。石川鷹彦さんの活躍ぶりは次のとおりだ。
  イントロダクション:Bouzouki, Acoustic Guitar
  夕映え:Acoustic Guitar, Dobro
  夏・二人で:Acoustic Guitar, Mandolin, Bouzouki
  いつもチンチンに冷えたコーラがそこにあった:Acoustic Guitar, Electric Guitar
  そうしなさい:Acoustic Guitar, 12-Strings Guitar, Mandolin, Dobro
  今度はいったい何回目の引越しになるんだろう:Acoustic Guitar
  ありふれた街に雪が降る:Acoustic Guitar, Bouzouki, Electric Sitar
  想ひ出:Acoustic Guitar, Banjo:
  吉田町の唄:Acoustic Guitar, Banjo, Dobro, Mandolin, Bouzouki
  僕を呼び出したのは:Acoustic Guitar
 多彩なサウンドの中で石川鷹彦がレコーディング中に拓郎に言った言葉が意味深だ。
「だいたいアコースティックということをみんな勘違いしてんだよな」
 もちろんこの私に何がどう勘違いしてるのか説明できるものではない。ただ生ギターで弾き語ればアコースティックという定見は間違いだと仰られているのかと…それぐらいはわかる。

      今までのアコーステック
      あれは
      マチガイでした


 …あ、このコピーは怒られちゃうんだっけ(爆) 裏を返すとこのアルバムにこそ「ホンモノのアコースティック」があるということだ。石川鷹彦先生のこの言葉を胸に、あらためてこのアルバムをじっくりと聴き直してみようではありませんか。とにかく聴きどころ満載なのだ。例えばほんの一例だが「ありふれた街に雪が降る」の間奏のブズーキはもうすんばらしく胸にしみる空のかがやき。今日、山手線で聴いてて泣きそうになったよ。

☆時はためらいもなく夕映えに燃えて☆
 「ソウデス、ワタシガ"ブズーキ"デース」という自己紹介のように奏でられる"イントロダクション"。これはアルバムのイントロダクションなのだろうが、私は次の"夕映え"のオープニングのように聴こえてしまう。イントロダクションと夕映えを一体として聴くとこの曲のスケール感がより一層アップして聴こえる。ちょうど「ローリング30」の「英雄」の前の松任谷正隆の鎮魂のピアノイントロと同じくらい効果的だ。
 インタビュアーの大越元編集長が、この"夕映え"(発売前なので「あの曲」とボカシている)に感動しシングルにするように進言しているが、拓郎も力作であることを認めている。シングルにゃせんかったけど。最後にこの会心の詞作をものにした石原信一は、会報の連載「続挽歌を撃て」最終回の…は最後に「夕映え」の全詞が載せられている。そのあとのしめくくりの石原信一のキメフレーズがたまらない。
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そして海に一面の赤を投げかけて、今日のなごりの陽が燃え広がった。拓郎の唄は、その海の赤を突き抜けて、明日より遠い彼方へ向って行った。(石原信一「新挽歌を撃て/「夕映え」」マガジンT P.21)
 キャーっ!!カッコいいったらありゃしない。石原信一先生、素晴らしい連載、そして最高の詩作をありがとうございました。

☆少しねじれたけれど☆
 とはいえ蛇足を承知で言いたい。「夕映え」とともにこのアルバムで忘れちゃならない名作は「僕を呼び出したのは」である。私の近くにいる拓郎ファンでもこの曲を強く推す人がたくさんいる。まったくだ。この凄絶で切なくてそれでもどこか誇らしささえも感じる魂の傑作である。この当時、いつもお世話になっていたT'sのテレフォンサービスに電話すると、自動音声告知のうしろに「夕映え」が流れていたが、そのうちに「僕を呼出しのは」に変わった。それだけ高評価だったのではないか。
 さて名曲揃いのアルバムだが、その中の筆頭格の「夕映え」「僕を呼び出したのは」の2曲の扱いは、いまひとつだ。「そうしなさい」なんて2019年に見事に蘇生したというのに。 この二曲はガッツリとコンサートで歌いこんで欲しかったし、練り上げられたライブバージョンも残して欲しかった。いや、欲しいところだ。

 こうして石川鷹彦とともにガッツリ組み合って名盤出来。90年代に駄作無し。終わりゆく公式ファンクラブT'sへの最後のはなむけとなった。

 さて次回はいよいよ最終回>今回じゃなかったのかよ。
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をお送りします。

2024. 3. 24

100分de名著「マガジンT(第12号)」を読む  第8話 いつも遠くからヒロシマ
 
☆誰も書かなかった吉田拓郎☆
 この当時は世界全体が政治の季節だったし、また被爆地広島だったこともあるのだろうか、社会は殺気立ち、それはただ音楽と青春を謳歌しているだけのダウンタウンズにも容赦なく押し寄せた。この小説では、吉田拓郎たちの音楽活動だけでなく、例えば山本コウタローの「誰も知らなかった拓郎」でも書かれなかった当時の社会との軋轢にまで話が及んでいてとても興味深い。

☆深い祈りと深い悲しみ☆
 前々回に書いたとおり、拓郎たちのバンド(このときはバチェラーズ)は「若者の新しい音楽こそが亡くなった人々に対する慰霊になる」という拓郎の発案のもとに平和記念会館で前代未聞のスタンディングライブを打った。その結果、平和記念館を出入り禁止となってしまう。しかし拓郎たちの心情は決して薄っぺらな若気の至りなどとは違う。そのことは例えば石原信一「挽歌を撃て」の一節からもわかる。
 拓郎は自分が育った町、広島で幼い日に見た戦争を思い出した。それは原爆記念日のことだった。毎年日本中の平和主義者が集まって来た。だが何万人もの集会で拓郎が見たものは社会党、総評系の原水禁と共産党系の原水協との激しいなじり合いであり、いさかいだった。「おれの街を直接関係のない奴等が何故荒らすんだ…」(石原信一「挽歌を撃て」P.135)
 このような拓郎の子供の頃の思いが、やがて成長して音楽を始めたころからひとつの信念のようなものに成熟する。
 「愛する広島を『原爆を落とされたかわいそうな街』と見られることが拓郎さんには許せなかった。彼は広島をビートルズが生まれたリバプールのような音楽の街にしたいと願っていました」(2020.11.17「女性セブン」)
 前にも書いた通りこの平和記念館のライブに向けた拓郎達の心意気には感動する。痛快な気分にもなるが、しかしこの小説では単純な武勇伝では終わらせない。
 バンドの面々もそれぞれに家族・知人に原爆にかかわる経験や思いを抱えている。例えば睦月さんがライブ演奏中に窓の外に夕暮れの原爆慰霊碑が目に入って「こんなことして大丈夫か?」と一瞬ひるむ様子も書かれている。
 また平和祈念館は「出禁」になったものの怒鳴られたり面罵されたりしたわけではなく、最後に会館の担当者が静かに告げたという。「私は若い人のやることには反対しないようにしているつもりだ。でも、ここはエレキには二度と貸さんけ。」…この担当者には彼なりの深い思いがあったことが想像される。なので公権力vs若者という武勇伝ではないし、勝者も敗者もない。どちらの人々にも共通して流れる悲しみのようなものをきちんと拾い上げているところに感動する。

☆誰が国を売るのか☆ 
 第1回のライトミュージックコンテスト広島大会で優勝したダウンタウンズは、本当なら秋の全国大会に出場するはずだった。しかし大会関係者=YAMAHA側から辞退を強いられた。山本コウタローの「誰も知らなかった拓郎」でもこの全国大会辞退の事実はスッポリと抜けている。翌年も広島大会に優勝し、全国大会で4位になった事実しか書いていない。この小説にはその事情が悲しみの光景とともに記されている。
 ダウンタウンズが岩国の米軍キャンプで演奏していたことを大会主催のヤマハ側に抗議したものがいた。時はベトナム戦争の時代だ。その戦地ベトナムに赴き侵略戦争の手先となる米兵たちのところに入り浸っている奴等は「売国奴だ!」という中傷が大会側に届いた。全国大会が混乱することを怖れたヤマハ側からダウンタウンズに対する出場辞退の要請だった。このときの拓郎たちの怒りと悔し涙のくだりは、読んでいるこっちも心が痛い、心がつらい。
 吉田拓郎という人は誰よりも戦争を憎み、何よりも戦争を嫌う人だ。何の権限もない私だが断言する。そんなことはファンだったらわかる。歌を聴けばわかる。魂でわかる。だからこそ悔しい。悔しすぎる。僕が泣いているのはとても悔しいからです。人の尊さやさしさ踏みにじられそうで。

☆このアジアの片隅に☆
 小説では拓郎たちの怒りと悲しみだけではなく、米軍キャンプの米兵たちの様子にも触れている。米軍キャンプでのダウンタウンズの聴衆は、明日にも戦地ベトナムに送られるかもしれない米兵たちだ。だが兵士たちも生身の人間である。ベトナム戦争でのアメリカの大義も地に堕ちていたし、戦況は厳しく帰還できる可能性も高くはない。そんな米兵たちの不安と混乱と悲しみも描かれている。ダウンタウンズの音楽を評価してキャンプでの演奏に抜擢してくれたFENのDJもやがて戦地に応召されることになる。祖国から遠く離れたアジアで、ダウンタウンズのライブが人生最後のライブとなった米兵もたくさんいたと思われる。ここでも単に加害者、被害者とか、侵略者、被侵略者という対立軸ではなく、戦争という蛮行によって、立場の違いを超えたあらゆる人々の身の置き所のない悲しみが描かれている。

☆人の自由ってなんだったい?☆
 反戦、反核兵器は切実かつ大切な人類の願いである。しかし、それが政争の具となったり、大きな運動体に組織化されたりすると、ときに排他的になりそこからアブレた人々を排撃することがある。ひとりひとりの人間の自由と平和を守るために始まったはずが、かえってその人間を攻撃するという"ひずみ"が生ずることを歴史が証明している。ダウンタウンズはその"ひずみ"に痛めつけられたのだ。
 これは俺のまったくの思い込みと勝手な憶測だ。吉田拓郎は戦争を憎みながらも反戦歌や例えば広島の名のもとに平和を唱えるイベントとは距離があるように見える。まさに"いつもいつも遠くから遠くから見ていたヒロシマ"というフレーズのとおりに見えるのは、そのせいもあるのかもしれない。
 また拓郎が昔から常に少数者のことを気にかけ、音楽は自由なものだと口にすることもすべては一筋に繋がっているような気がしてならない。1986年のことだが拓郎のこんな言葉を思い出す。
 反戦わかる。反核わかる。全部わかるよ。そんなの人間だからわかる。戦争は。いやだよ、わかる。わかるけど、だからといって俺の最後の自由くらい許してくれというさ、おれとしてはこれが普通なんだよ(月刊PLAYBOY 137号/1986年)
 この小説の中で一番好きな場面は、工場で働く小松さんと年長の班長さんとのくだりだ。かつて原爆で家族全員を失ってしまった班長のおじさんは毎年8月6日が近づくと目に見えて憔悴する様子を小松さんは目にする。それでも今は小学生の子どももいる班長さんは、ザ・タイガースが大好きだという小学生の息子の写真を小松さんに見せて目を細めながら語り掛ける。
       「音楽はええのう、平和の象徴じゃ」
 ホントの自由も平和もそして音楽もこのオジサンの魂の言葉の中にこそ生きている…そのことを拓郎は肌でわかっているのだと思う。

 最後にもう一度、ダウンタウンズを語ったあの文章をかみしめたい。
 語り、遊び、悩み、ギターを弾き、歌い、そして成長する何と素晴らしい季節だった事か。毎日がまさに風のように流れ僕たちを包み込みながら「どうだい、自由っていいだろう?」と語りかける。
    (吉田拓郎「広島という季節がその時そこにあった」中国文化賞受賞に寄せて/中国新聞)


 ということで思いっきり会報最終号の話からズレて、いつの間にか"100分de名著「いつも見ていた広島/ダウンタウンズ物語」"になってねぇか。もっとキチンと読みこんでから書くべきだった。とはいえ、いよいよ…って誰も読んじゃいまいが、"100分de名著「マガジンT(第12号)」を読む"も次回で最終回だ。たぶん(笑)

2024. 3. 21

100分de名著「マガジンT(第12号)」を読む  第7話 色あせなかったのは四人の若者だけ
  
☆これまでのあらすじ☆
 しょせんは他人様の友情とか真実などが私ごときにわかるはずもない。ましてや「小説」なのでどこまでが事実かもわからない。いや、すべてが事実であってほしいけど。勝手に実在する人たちの姿に重ねながら、勝手に感動し勇気や元気をいただくしかない。なので物語を読み進むうちに、拓郎のみならず、ダウンタウンズのメンバーの方々にも熱い親近感と共感が湧いてきてしまう。

☆リーダーよ、永遠なれ☆
 昔からラジオなどで拓郎はダウンタウンズの創設者にしてリーダーの睦月さんのことを広島大卒の秀才だと喧伝していたのでクールな優等生タイプを想像していた。しかし広島商業高校からの初の広大合格というユニークな経歴と、自分でアンプや機材を作れる器用さ、そして拓郎にR&Bを指南するなど音楽ツウでもある。ちょうど後の松任谷正隆のようなポジションなのかとも思った。東京で失意の拓郎に「広島に帰ってきてバンドやろうぜ!」と睦月さんが言ってくれなかったら、拓郎は河合楽器に勤めるお茶の先生のまま、私たちは「吉田拓郎」に逢えなかったかもしれないのだ。そう考えると感謝してもし過ぎることはない。
 睦月さんが大学の4年生のときに女手一つで育ててくれた御母堂に初めて広大のキャンパスを案内して歩く。そのときにプロの音楽の世界ではなく企業に就職することを自然に決意する。このシーンがまた深く胸にしみる。

☆彼の背中と夢枕☆
 中学生のとき虚弱な拓郎を後ろに乗せて毎日自転車通学をしてくれた親友にして、後に銀行員ひいては支店長になるベーシストの小野さん。最後のオールナイトニッポンゴールドで、中学生のとき孤独だった拓郎は「この小野君とずっと一緒に友人でいたいと思った」とその思慕の気持を述懐していた。その意味が今はよくわかる。また彼は彼で早くにご両親を相次いで亡くし若いうちから天涯孤独の身となった。だからこそ後年、拓郎は、彼の結婚を応援する。しかし、それがゆえに彼もまた音楽の世界からは離れることになる。それでも彼を祝福する拓郎がとにかく素敵なのだ。
 拓郎の母朝子さんが小野さんの夢枕に立って「ギター一本のライブが観たかった」という拓郎にアローンツアーを急遽決行させたエピソードがあったが、なんで小野君の夢枕なのか?とずっと思っていた。拓郎が上京で長期不在の時も小野さんは拓郎のお母さんを心配して見舞っていたし、拓郎の母も息子の親友で両親を亡くした小野さんのことを我が子のよう大切に気にかけていた。そんな様子がうかがえる。夢枕に立ったという話もむしろ自然なことに思えてくるのだ。

☆夕焼けに向って走ってゆく、あいつ☆
 家柄も裕福で喧嘩も強い藤井さんと拓郎の二人が、バチェラーズ時代、広島のクソバンドのメンバーたちから急襲され大立ち回りのフルボッコ状態になる。さしづめ鶴田浩二と高倉健の世界と思いたいが、腕っぷしの強い藤井さんは相手を叩きのめしていくものの、拓郎の方はいとも簡単にやられてしまう(爆)…なので俺は思った。これは「0011ナポレオン・ソロ」のロバート・ボーンとデビット・マッカラムなのではないか。拓郎はハンサムだけれど、すぐやられてしまうイリヤ=デビット・マッカラムだ。そんな頼もしい藤井さんの活躍を読みながら"AKIRA"が脳内に流れ始めるのだ。

☆チャンプ小松☆
 この小説を通して俺として小松さんに惚れたね。年下の小松さんにとっては拓郎たちはバンド仲間であると同時にあこがれの先輩たちでもある。ボクシング部出身で一匹オオカミだった小松さんは、このバンドで仲間の素晴らしさを知る。先の拓郎、藤井の乱闘に加勢に現れ最後に全員を叩きのめしたのも小松さんだ。かといって極度のあがり症でステージ前が大変なことになるのもかわいい。失礼ながら、小松、なんてイイやつなんだろうと唸るシーンが何か所もある。
 ドラムの素人だった彼は、レコードの回転数を落として、どんな音を叩いているかをつぶさに聴き取り、毎日家の布団を叩きながら練習する。それから工場の夜勤の時以外は、深夜に河合楽器の練習場で朝までドラムを叩くこともたびたびあった。これは映画「ロッキー」で冷凍肉の倉庫でぶら下がってる肉を叩きながらトレーニングしていたロッキー・バルボアと重なる。実際、小松さんは、ライトミュージックコンテストで、ドラムで優秀賞を貰うのだ。
 そして最後にメンバーの就職、結婚で解散の風が吹いてきたダウンタウンズの将来に対して、拓郎に泣きながらバンド愛を訴えるところが、もうこっちももらい泣きしてしまう。

☆蒼いフォトグラフ☆
 松本隆の作詞で松田聖子が歌った「蒼いフォトグラフ」と言う作品がある。松本隆はイケ好かないと悪態をつく俺だが、カラオケでこれを歌うたびに泣きそうになる>情ねぇ

   みんな重い 見えない荷物
   肩の上に 抱えていたわ
   それでも なぜか明るい顔して
   歩いてたっけ

 ダウンタウンズの面々もそれぞれにそれぞれ大変なものを負っていたようだった。それでも明るく音楽に打ち込む…というか音楽があるからこそ彼らは明るくいられたのかもしれない。

 とにかく魅力的な登場人物がバンドメンバー以外にもたくさん登場する。わたしたちファンの元祖的大先輩にあたるダウンタウンズの親衛隊のねーさんたちの推し活は気骨に溢れていてすんばらしい。またマネージャーだった泉さんの誠実さも心に残る。そんな泉マネージャーの姿を観ていたからこそ、拓郎は、2〜3年後にコンサートに行っても何にもしないで寝ている後藤由多加に対して「おまえマネージャーに向いてないんじゃないか」と言えたに違いない(笑)

 すっかり会報から離れてしまった。しかし、ここまで読み込むと、当初はわからなかった会報最終号の拓郎インタビューのこのくだりの意味が身に染みてわかってくるのだ。
僕等の感覚でいうと下手とかつまんなくないわけ。「うん、いいな、悪くないな」ってところがあってね。それはやっぱり一個一個の楽器が巧いとか下手とかいうのと全然関係ないところでさ、なんだろうな…なんか4人、俺達4人だからね、4人だったら4人の気が知れているいうかも気分が合っているっていうか、そういう問題なんだろうなと改めて思ったわけ。(会報第12号)

                          次回につづく。

2024. 3. 19

100分de名著「マガジンT(第12号)」を読む  第6話 独身&下町組血風録
  
☆これまでのあらすじ☆
 そこまで吉田拓郎の深い思いがこめられた「ダウンタウンズ」とはなんなのだろうか。主が姿を見せなくなり、この世の闇路をひたすら迷う今の自分にとって、そこには何か希望の光があるかもしれない。「いつも見ていた広島/ダウンタウンズ物語」は、吉田拓郎のデビュー前日譚、今的には「TAKUROストーリー "エピソード0-ZERO-"」みたいな前史の物語だ。スター誕生前だから旧約聖書みたいなものか(爆)>怒られるぞ! 神よ、さもしい心の私を許したまえ。

☆バチェラーズの船出
 1960年代の広島は、時代的にも地域的にも音楽情報が圧倒的に足りなかった。12弦ギターなど河合楽器ですら取り扱い無しの楽器も多く、ビートルズの新曲ですらも満足に手に入らない。そんな苦境の中でも、若者たちは音楽を愛し求めて、ひたすら練習と演奏を繰り返す。しかしそれは悲壮な努力とか苦労とかではなく、音楽への憧れが彼らを生き生きとつき動かしている。そんな清々しい風が全編に吹いている。
 拓郎が大学生になって最初に組んだバンドである"ザ・バチェラーズ"は、腕を磨き広島での人気をほしいままにする。バチェラーズとダウンタウンズの関係がよくわからない…という方には、俺もわからないが、たぶんそれは"エイプリルフール"と"はっぴいえんど"みたいなものだ。何ならシャネルズとラッツ&スターみたいなものか…>ってどんどん遠ざかっているだろ。
 
☆慰霊と希望とロック
 バチェラーズ編で、胸を打たれたのは、広島の平和記念館でのライブのくだりだ。聖地平和公園の中にある記念館でロックバンドのライブをするなんて前代未聞のことだったことは想像がつく。広島を被爆した悲劇の街ではなく音楽の街リバプールにしようと拓郎は発案した。
「広島の象徴ともいえる場所で、新しい広島の若者たちの音楽を演奏する。それが亡くなった人たちに対しても、もうあの時代には戻らないという意思表示にもなるだろうし、追悼になるのではないか」(田家秀樹「いつも見ていた広島」小学館文庫P.61)
 そこで座席を取っ払いスペースを作り、狂熱のスタンディング+ダンシングライブを挙行した。その結果、バチェラーズは平和記念館から思いっきり出禁をくらう。誤解をおそれず言ってしまえば、なんて素敵な若者たちだろうか。この若者のファンになれて幸せだったとをあらためて誇らしく思うのだ。
 
☆かすかに聞こえたやさしさの歌声は☆
 広島での破竹の勢いそのままにバチェラーズは東京の渡辺プロに売り込みに行く。しかし無念な結果に終わり、バンドはそこで自然解散となってしまう。
 それでも音楽に目覚めた拓郎は止まらない。ひとりコロンビアレコードのフォークコンテストにも応募して「土地に柵する馬鹿がいる」で入賞する。そして拓郎は単身上京し、もはや伝説となった千葉のお寺・広徳院に居候し、日々曲を作りながらプロの音楽界に挑む。しかし、ここでも残念ながら好機は訪れず、かわりに東京でもてはやされるクオリティの低いグループサウンズやウサン臭い音楽業者たちに失望する。
 おそらくは挫折感と孤独で失意のドン底にあったであろう拓郎に対し、"帰っておいで"という母からの便りと"帰って来いよ、広島でまたバンドやろうぜ!"という友である睦月さんからの手紙に帰郷を決意する。切なくも読んでるこっちも胸が熱くなる。後年の名曲「元気です」(1980)の"友や家族の手招きほど懐かしく"という歌詞が浮かぶんだよな。当時から、なんでこんな泣ける詞が書けるんだろうと思ってきたが、その答えが垣間見えたような気がする。また拓郎は気に入らないことがあるたびに「だったらオレは広島に帰るよ」と啖呵を切る、そのルーツもここにあるのか(爆)

☆ダウンタウンズという無双☆
 これがダウタウンズができるまでの前史だ。つまりダウンタウンズ結成の時点で、既に吉田拓郎は幾多の試練を経て音楽家としての大いなるフォースに覚醒していたのだ。プロの音楽界デビューには挫折していたが、それは自分たちが未熟だったからではなく、覚醒したフォースの持ち主から見れば、プロの音楽界の魑魅魍魎どもの薄っぺらさが透けて見えてしまったことによる失望に違いない。自分たちの音楽がダメなどとは1ミリも思っていなかったはずだ。わからないけど勝手に断言する。ということで、ダウンタウンズはある種の覚悟においてもテクニックにおいてもハイスペックなバンドだったのだ。
 実際に、ヤマハライトミュージックコンテスト広島大会で2回連続で優勝し、全国大会でも4位と言う実力だった。これまでのラジオやYouTubeの当時の貴重音源を聴いてみる。ハング・オン・スルーピー,渚のボードウォーク、ホールド・オン・アイ・カミングなどなど…うまい。拓郎のシャウトも若竹のように強くしなっているし、ドラムもビシッとキマッてる。もはやアマチュアバンドのそれではない。
 岩国の米軍キャンプからも声がかかった。日本の中にもアメリカがあってさ、国内で海外遠征していたようもので、アメリカンポップスもR&Bも、本場アメリカ人からもその演奏とフィーリングが受け入れられたことの証でもある。本格的ガチウマバンドだった。
 オリジナル曲もあり代表曲「好きになったよ女の娘」は今やロックのスタンダードである「たどり着いたらいつも雨降り」であり、もう無敵である。

☆その深みと高み☆
 拓郎が竹田企画の「拓つぶ」を閉鎖するときの最後のエッセイにこんなくだりがあった。
キャンディーズ「やさしい悪魔」を聴いた時に睦月からの手紙
  「タクロウ、これダウンタウンズでもやれたなあ」
  …嬉しかった
 この何気ないやりとりにこのバンドの深みと高みが覗ける気がしてならない。そして小説の中で、ドラムの小松さんが、ザ・タイガースとダウンタウンズが後楽園で共演する夢をみる場面がある。吉田拓郎と沢田研二が二人並んで、瞳みのるとのアイコンタクトで小松さんがドラムセットに座る。ここが泣けるぜ、小松さん。でもそれは決して夢の絵空事ではなかったということだ。ザ・タイガースに比肩してプロとして遜色ないクオリティだったのである。
 「ダウンタウンズ」は分類こそアマチュアバンドであったが、吉田拓郎にとっての魂の音楽キャリアなのだ。広島フォーク村がプロデビューの大切な基点だったことはわかるが、それはダウンタウンズから広がった音楽キャリアの音叉みたいなものかもしれない。広島フォーク村=吉田拓郎前史というこれまでの俺のような理解は不本意なことなのだろう。「ダウンタウンズがすべてのはじまり」ということは「俺はフォークじゃないんだ」という叫びと表裏のものだ、たぶん。

 もちろんこの本が語り掛けてくるものはそれだけではない。つづく

2024. 3. 16

100分de名著「マガジンT(第12号)」を読む第5話  広島という季節

☆若者のアマとプロにかける橋☆
 吉田拓郎のアマチュア時代というと"広島フォーク村"一択のように思ってきた。アマ活動の集大成"古い船を今動かせるのは古い水夫じゃないだろう"が評価されデビューに至るというイメージだ。とにかく"広島フォーク村"があまりに有名なので、"バチェラーズ"や"ダウンタウンズ"については勝手に部活や趣味の延長みたいなものかと軽く考えていた。これが大間違いだった。面目ない。

☆ダウンタウンズの季節☆
 しかし最終章のラジオ(ラジオでナイト、オールナイトニッポンゴールド)でも、広島フォーク村の話に比べてその軽く100倍は広島時代のロックバンド、R&Bバンド時代の話が頻出していた。そして極めつけは、2020年に中国文化賞の受賞で吉田拓郎その人が中国新聞に寄せたエッセイだ。
 僕が広島で過ごした高校、大学時代こそが その後50年以上も続けて音楽をやって行く事になる 言わば「すべての始まり」であり「僕を生み出した季節」である。
 (略)…ある日、中学時代にできた数少ない友人の通う県立商業高等学校の文化祭へ招かれた僕の目に映ったのは彼らがエレキバンドを組んで演奏している姿だったのだ。
 僕は自分の心に「火がついた」のを覚えている。
 「これだ!」と確信したのだ「僕もこれをやろう!」
 その後僕は広島商科大学(現広島修道大学)へ進学したが学業や就職の事などまったく頭の中に描く事なくひたすらに「バンドをやりたい、作りたい」の一心で心の通じ合える仲間を募るのに時間は要らなかった。
 ビートルズを真似た4人編成のロックバンド「ザ・ダウンタウンズ」は僕のその後を決定づける事になる素晴らしい出会いとなるのだ。
 僕たちは「音楽を通じて心を通わせる友人」となった。
 青春という「面映ゆい」言葉も、このバンド時代には通用する。
 ポピュラー音楽に「異性との交流」は不可欠である(僕の持論だ)
 お互いに多くは語らなかったが僕は彼らの「秘密」を知っている(笑)
 語り、遊び、悩み、ギターを弾き、歌い、そして成長する何と素晴らしい季節だった事か。
 毎日がまさに風のように流れ僕たちを包み込みながら「どうだい、自由っていいだろう?」と語りかける。(略)
  (吉田拓郎「広島という季節がその時そこにあった」中国文化賞受賞に寄せて/中国新聞)
 読み返すたびに涙ぐみそうになるこの文章は、吉田拓郎の魂の置きどころが「ダウンタウンズ」であることを全力で訴えているような気がしてならない。
 先日、ダウンタウンズだ、広島フォーク村だというわれてもわけわかんないと言われた。俺だってわかんねぇよ。なので極めて雑にだが年表にしてみた。この矢印の部分がダウンタウンズの時代だ。もっと広くバチェラーズとかも含むのかもしれない。
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☆積読本を引っ張り出す☆
 ということで自分としてもよく理解をしていない時代のことなのでこの作品を読んでみることにした。
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 田家秀樹著「いつも見ていた広島 ダウンタウンズ物語」(「ダウンタウン物語」と聞いて桃井かおりと川谷拓三のドラマが思い浮かんだ人はそれはそれでどこか別に熱く語り合いましょう)。この本は、確か田家さんの執筆が遅れたため「田家は裏切り者」と拓郎やダウンタウンズのメンバーに謗られながら(昔、ハワイツアーで聞いた)出来上がった作品だという。単行本は引っ越しで行方不明で文庫を買い直してもさらに積んでおいた。もうデビュー前の昔話はいいやと放っておいたのだ。ほうっておいてくれてありがとう…じゃないよ、不孝者にもほどがある。今さらすまん。
 だからといって別にヨイショするつもりはないのだが、読み始めたら止まらなくなった。黄昏に、真夜中に、明け方の空に、街角で、仕事場で、地下鉄の中で読み耽った。もう重松清のあとがきまでがいとおしい。「誰も知らなかったよしだ拓郎」(山本コウタロー著)が歴史の教科書としたら、こちらは歴史の大河ドラマみたいだ。
 …ドラマといえばこれって、登場人物の名前が微妙に変えてあるけれど殆ど実話(based on true story)ということでいいんだよね? もうそう信じちゃうからね。読みながら、知らなかったこと、誤解していたこと、そして何より昔話ではなく、今日と明日につながるスピリットが漲っていた。 その話はつづく。

2024. 3. 14

 中島みゆきは凄かった。2階席の自分にまであの歌声がストレートに届いてきて心がふるえた。無敵。衰えというものがない。瀬尾一三が指揮をとり、島村英二がドラムを叩き、古川望、富倉安生、宮下文ちゃんのプレイを観ていると違う世界にトリップしそうになるが、おおっとイケねぇ。それにしてもあれやこれやの定番を極力外して、ご本人の歌いたい世界を作られているのが、門外漢の自分にも何となくわかった。そして門外漢であるがゆえにふるえるようなサプライズが起きてもウロタエない心の準備もして行った。だって体温だけが頼りなの。サプライズはなかったが途中でホンモノノ地震はあった(爆)。やっぱりライブは素晴らしいな。フォーラムのステージも帰りの長すぎる階段も何もかもがいとおしい。
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2024. 3. 13

⭐︎ライブ⭐︎
 久々のライブ、久々の東京国際フォーラムが嬉しくて、前呑みが過ぎた。久々過ぎて、もはやライブというものの勝手がよくわからない。もう体温だけがたよりなの。ああ、楽しみだ。>もう呑むなよ! フォーラムでスパークリングワインを飲まずして私のライブはない。
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2024. 3. 11

 黙祷。Under Cotrolなど程遠く、科学の糸に操り釣られ悪魔の斧にふるえて眠るこの国はJapan。そんな中でも"君たちはどう生きるか","ゴジラ−1.0"の受賞は嬉しい。奇しくも両作品とも"オッペンハイマー"のアンサーみたいな映画になっているのが希望だ。個人的だが、tくん、今度はいったい何回目の鑑賞だろう?

2024. 3. 10

100分de名著「マガジンT(第12号)」を読む  第4話 恋のダウンタウンズ

☆大越元編集長リターンズ☆
 会報最終号の中心記事である「吉田拓郎インタビュー」。最後にふさわしくインタビュアーには大越正実シンプジャーナル元編集長が降臨する。競馬の世界から帰ってきてくれた(爆)。拓郎も「よぉ、ひさしぶり」とか言ってて阿吽の呼吸が感じられる。

☆リフレッシュなんて☆
 まずインタビューの最初に、前年に全国45か所を回ったエイジツアーのことから問いかける。
拓郎 …その土地でみんなやってるんだなーって思うじゃない? くるもんあるよね…
---そういう面のリフレッシュっていうのは?
拓郎 ところがリフレッシュはしないんだな、これが(笑) 
 こういう拓郎のミもフタもないところが好きだ。いいじゃないか。そこですかさず大越編集長は、ダウンタウンズの再結成に話を向けると拓郎は急にイキイキと語り出す。

☆ダウンタウンズへ繰り出そう☆
 91年の11月5日にエイジツアーが終わると拓郎はすぐに毎週末に広島へ帰郷し、12月のダウンタウンズの再結成公演を目指してリハーサルに励んでいた。いわずと知れた吉田拓郎が広島時代に組んでいたR&Bのバンドだ。
---皆さんは「かたぎ」っていうか普通の仕事を
拓郎 うん。医者を開業しているヤツ、銀行の支店長、ひとりは不動産屋とか無茶苦茶よ(笑)
---今でも楽器は
拓郎  全然やってない。もう大変だった。
 拓郎以外みんなアマチュアで、旧交をあたためる同窓会のようなものなのだろうが、それでも拓郎はリハも真剣に積み重ね熱く取り組んでいた様子がうかがえた。拓郎は、自分としてはズルいかもしれないが…と前置きして言う。
あいつらと練習して一か月位するとなんか忘れてたものが出てくるかもしれないって…。で、あったんだよ、これが。彼らからは「こうすれば?」ということは別になかったんだけど、あいつらと一緒にいただけで「なーんだ」みたいなことって結構あったんだよ。
 拓郎はその一例として、自分がアルバム作っていても、たとえば10曲中随分Gの曲か並ぶな、なんて思うと「こりゃマズイや」って「一曲Aにしよう」とバラエティさを意識してしまうという。しかし、このバンドではまったく勝手が違った。
 俺は東京来てからFの曲って結構あるんだけど、プロのミュージシャンでFの曲を嫌がるヤツはいないけど、Fのキーってアマチュアはやっぱり嫌いなんだよね。「あれ?Fもなかったっけ?」って調べたら一曲もなかった。(略)「たいしてギター弾けないんだからやるわけがない」(略)「馬鹿タレが、俺達がFなんかで曲やるわけがないだろう」てその通りなんだ。しかもそれでアマチュアの頃は世界を制覇しようとしていたんだぜ(笑)。
 自分の音域に曲をあわせるのではなく、既成のキーに自分の音域を必死にあわせてゆく。拓郎は苦笑しながらそんなバンドの姿を振り返る。
…違うキーの曲を入れてバラエティつけて…でも、もうそんなもんあまり関係ないな、と。そんなことで神経使うヒマがあったら、いい曲創れっていう感じだな(笑)
 エイジツアーよりも今回の再結成で得たものが、より直截的に拓郎を揺り動かしているのかもしれない…と僭越ながら思った。

☆ひとりシンポジューム/ダウンタウンズとはなんなのか☆
 この会報の記事を読んていた当時は、ああ、プロ野球選手が昔の仲間と草野球したら新鮮だった的なハナシかと思っていた。しかし腑に落ちないものもあった。なんたって天下の吉田拓郎である。石川鷹彦をタカヒコと呼び、高中正義、松任谷正隆、武部聡志らをアゴで使い(爆>すまん使ってないよね)、島村英二、エルトン永田らがいつでもバディのように馳せ参ずる。そんな最高の音楽環境を手に入れた拓郎が、なんでアマチュア時代のバンドに執心するのかという不思議もあった。その後のラジオ…特に後年の最終章という"ラジオでナイト"."オールナイトニッポンゴールド"でも「広島のロックバンドの時代」というフレーズが繰り返し繰り返し登場した。
 これは単なる青春時代の懐古というだけではおさまらないではないのかと遅まきながら思うようになった。最後の会報を読み返しながら、実は大切な部分を俺はまったく理解していないのかもしれない。いやもともと俺に理解なんかできないが、理解できないものがあるということすら理解できていないのでないかと思うようになった。ややこしいな。ということで連載日記もそろそろ最後だというのに、まだまだつづく。

2024. 3. 9

☆不存在にもほどがある☆
 ずっと観ていたけれど第5回で完全にハマってしまった。いいドラマだ。それはそれとして、1986年=昭和と2024年=令和をタイムリープといわれても、進歩のない私にはあまり隔世の実感がない。そればかりか、1986年はワンラストナイトつま恋85で拓郎がステージを去った翌年だし、2024年は"ah-面白かった"を最後に拓郎がリタイア状態なのは周知のとおりだ。どっちの時代も拓郎いないじゃないかよ(爆)。阿部サダヲが「え、なんだ?、この時代でもまた拓郎は休んでいるのか?」と目をむいている姿が浮かぶ。

 そうはいっても、いないけど、いる、生きている。そして音楽の旅がまだ続いているという希望をかみしめよう。
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2024. 3. 1

☆☆☆ありがとう若子内悦郎さん☆☆☆
 拓郎のコーラスに参加されたとき、かつて「ステージ101」をご覧になっていたねーさんたちは、ああ「ワカ」だ!!とときめいていらした。私は観ていなかっただが、そんな私世代には「はじめ人間ゴン」のエンディングでかまやさん作曲の「やつらの足音のバラード」の歌声が若子内さん初体験だった。いい歌だったな。
 ビッグバンドでは本当におなじみになった。つま恋のジョインでとなりのテーブルになったことがあった。コーラスグループの皆さんに、ものすごく専門的な「歴史」の話を語っていらした。歴史がお好きなんだと知った。
 2003年のドキュメントで拓郎の病後復帰のリハの初日に、拓郎と握手しながら「もし歌えなくなったら私が歌います」「OK!」と二人笑っていた姿が大好きだった。
 ありがとうございました。心の底からご冥福をお祈りします。「やつらの足音のバラード」を聴いたらなんか泣いちゃいそうなので、「真夜中のタクシー」を聴くけど、こっちはこっちで泣けそうだ。

2024. 2. 27

100分de名著「マガジンT(第12号)」を読む  第3話 日本の父よ、母よ、拓バカたちよ 今も「吉田町の唄」

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☆それを創れば彼は来る☆
 前年の91年に新潟県の若者共和国の依頼で「吉田町の唄」を創った拓郎は映画「フィールド・オブ・ドリームス」に魂を射抜かれる。亡父の声なき声を聞くために鹿児島に出かけた。この経緯は、当時連載中のビックコミックオリジナルの「自分の事を棚にあげて」(オヤジの言い分が聞きたくて)に詳しい。当時、私も父親を亡くしたばかりだったのでこの映画にはメチャメチャ泣かされたものだ。
 僕の父だが、テレ屋の彼としては、遠回りなようだが、新潟に住む若者たちを使って僕への接近を試み、まず歌を作らせる。ちょうど映画も封切られ、いやがおうでも関心がさっちに向けられる。予定どおりこのテーマに気づいた僕は、故郷を三十年ぶりに訪ねることになる。
 そんな拓郎にさらに母の声が時空を超えて届く。かつてご母堂が、親友のダウンタウンズのベーシスト小野さんの夢枕に立たれて「いつかギター一本のコンサートを観たかった」と呟かれたことを知る。まさにアローンツアーの啓示である。
 そういう流れだと思ったのね。もうそれをやるしかないって
                 (「吉田拓郎ヒストリー1970-1993」Pia Mook)
 とうもろこし畑を掘り返すように、チケットまで刷り上がった2日間コンサートをキャンセルして、あの拓郎が宇田川社長に頭を下げて頼んだということだ。ということで企画変更に悪態をついたが、この事情を知れば、俺がどうこういうものではない。それがどちらであれアナタの決断以外に正解はない。
『吉田町の唄』を創った時からすべてが運命的にさえ感じる
                 (「自分の事は棚にあげて」親父の言い分が聞きたくてA)
とまで拓郎は語っていた。それにしてもご両親ともに本人に対してダイレクトにメッセージを送るのではなく、まるでピタゴラスイッチの仕掛けのように遠回りしながら運命に影響を及ぼすのが面白い。そこがまたいい。送り手がそっと忍ばせたメッセージを受け手が思わぬところから見つけ出す。送る方にも、それを受け取る方にも深い信頼と愛情があればこそだ。運命とはストレートではなくツイストなものなのだろうか。

☆再結しようよ☆
 「吉田町の唄」が完成した時に、ビックコミックオリジナルの91年春のTAKURO NEWSで拓郎はこの歌は人と人との「再結」がテーマだと語っていた。「再結」なんて言葉は調べても辞書には出てこない。拓郎がその時の自分の想いをこめた造語だと思う。父、母、そしてダウンタウンズとミニバンドの友たち。それが拓郎にとっての過去を真正面から振り返るということだったのだろう。アローンツアーで、意表をついて歌われた「おやじの唄」の後で「今まで家族はロクなもんじゃないと歌ってきたが、申し訳ないがこの際全部撤回したい」と会場を笑わせた。
 ということで、とにかく92年はどこを切っても「吉田町の唄」である。この歌はやがて「清流」にそして「ah-面白かった」にまでつながる。このとき拓郎は「過去を振り返る」と言いながら実は未来に向かって壮大な種を植えていたのだ。さすが私たちが人生を賭してファンになったその人だ。たぶん私たちの営みはその大きな成育の流れとともにある。苗木が育ちこっちも歳をとるたびにより深く心にしみてくるゆえんだ。君と君を好きなやつらが100年続きますように…

 さて「幻の2日間コンサート」「大河ドラマコンサート」のアイデアは、その12年後に2004年に「precius story この貴重なる物語」に生かされた。あのコンサートも実に長い盛りだくさんのすんばらしいライブだった。確かに1992年では早すぎたかもしれないと思う。とはいえ2004年も20年の昔である。だから、今こそ、やってくれてもいいっすよ(爆)

2024. 2. 24

 昨夜のドラマ「不適切にもほどがある」(第5回)は不覚にも泣いた、泣いたこらえきれずに、泣いたっけ。背広の採寸と肩幅のリフレインだけで人はここまで泣けるのだ。特に阿部サダヲの表情だけで語る名演技がたまらなかった。たぶんこの展開を予測していた人も多かったんだろうし、あざとい展開だと感じた人もいたと思うが、それらをすべて巻き込んで、それでもあんなふうに泣かせてしまうドラマはさすがクドカンすごいなと思ったよ。
100分de名著「マガジンT(第12号)」を読む  第2話 幻の2日間公演始末記
☆正面から振り返る人たち☆
  91年のエイジツアーの打ち上げでオールナイトニッポンの拓郎担当だった中川公夫氏と拓郎と石原信一たちのこんな会話があったことが記されている。
 打ち上げを終えるときに彼(中川氏)は「俺達が作っていた文化や時代というものがあるのなら、それを振り返って残すべきなんじゃないだろうか」 彼の言葉を受けて僕(石原信一)は「真正面に自分の過去の姿と向かい合うのはいいかもしれない」というと拓郎も「ありかもしれない」とうなづいた(石原信一「続挽歌を撃て」P.18)
 「真正面に自分の過去の姿と向かい合う」という言葉を思いながら石原信一は「夕映え」の詞を書いた。拓郎の答えともいうべき92年の総力企画「吉田拓郎2日間コンサート」が発表されたのは春のことだった。当時のT'sのテレフォンインフォメーションサービスのテープで「全国6大都市で、2日間連続、1日目が古い曲、2日目が新しい曲で合計40〜50曲、うち1曲も重ならず「2日間聴いてこそ吉田拓郎のすべてがわかる!」というアナウンスが耳に残っている。田家さん曰く"男の一生"を歌い上げる「大河ドラマコンサート」である。

☆企画は変わる☆
 東京はNHKホール2日間公演だったが、当時、静岡に住んでいたのと東京でのチケット激戦が予想されたので名古屋市民会館2日間公演に挑むことにした。挑むといっても当時の同僚の兄が静岡のテレビ局に勤めており、91年の浜松も彼からチケットを取ってもらったので、再びなんとかならないか同僚を通じて頼み込んだ。
 同僚「そのコンサート2日間両方とも行くんですか?」
 俺「そう。これは2日両日じゃないとダメなの。絶対。そこんとこくれぐれもお願い。」
 同僚「星さんて、ものすごい吉田拓郎ファンなんですね」
 俺「えっ!?、いやいや、別にファンてほどじゃないけど…」
 …ああ、人間は、いや俺はどうしてこういうとき瞬時に嘘をついてしまうんだろう。しかも明らかに嘘とバレるみえみえの嘘だ。
 …およそ一か月後
 同僚「なんか…1日しかやらないみたいですよ、しかも浜松で。」
 俺「いーや、そんなことはない、2日間なんだ、それに浜松ではやらないんだ。それは誰かの違う公演だ、俺は公式ファンクラブの情報で動いているんだ、俺が間違えることは考えられない(俺を誰だと思ってんだ!)」
 同僚「…星さん、怖いですよ、目が血走ってますよ……」
 …ほどなくしてこの会報の最終号の巻末にはこんな記事が載った。
         CAUTION!
先にお知らせしました2日間コンサートは、企画変更により会員の皆様にはご心配とご迷惑をおかけして誠に申し訳ありませんでした。新企画は「TAKURO YOSHIDA ALONE TOUR'92 90分一本勝負」全ツアー弾き語りコンサートで全国20か所を回ります。
 オーマイガー!!ホントにご心配、ご迷惑このうえねぇよっ!…俺は穴があったら入りたい気分で同僚に陳謝した。すまなかった。以来チケットのお願いはできなくなってしまった。

☆僕の想いはむなしく☆
 なぜ急遽企画変更になったのか、この時点では理由はわからなかった。吉田拓郎の弾き語りライブといえばそりゃあ楽しみではあるが、全50曲の大河ロマンライブとの引き換えと思うとがっかり感も残った。しかもアローンツアーは「90分一本勝負」と謳ってる。要は「90分歌ったらボクちゃん帰るからね」ということだ。もともと量こそすべてのセコイ俺にとってはただでさえ短すぎる。「企画変更」というからには、変更前後で質量保存の法則みたいなものがないか? 楽しみにしていたホテルの一泊二日の"超豪華食べ放題バイキング"が、行ってみたら突如企画変更されて"流しそうめんの夕べ[90分入れ替え制]"になっていたらどうだろうか。いや、流しそうめんはかなり大好きだが、それでも、ええーと思うでしょうが。
 「真正面から過去を振り返る」という話はどうなったんだ。しかし後にその変更理由を知ることになる。それこそがこの1992年だったのだ。
                                 つづく

2024. 2. 23

100分de名著「マガジンT(第12号)」を読む  第1話 それでもなんとか絵にはなりますぞい
 
 いよいよ泣いても笑っても最終号だ。泣きこそすれ笑うわけないだろ。当時は終わってしまったらもう公式FCも会報も今生の別れだと思っていた。まさか、後にマハロだタブロイドだとあれこれ生まれては消えるにぎやかな時代が来るとは思ってもみなかったのだ。その最終号はエイジツアーが終わってから半年後の初夏に届いた。
 この時期が、どんな時期だったか、ひいては1992年がどういう時期だったか…喋り疲れてしまいました、何もかもに疲れて今日が来ました。なので、図解してみた。

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 俺の文はクドくてウザイとよく言われ申し訳ないのだが、図は図で中学生の文化祭の発表みたいで情けないな。そもそも今さら1992年を図にして何になる>って、もともとこのサイトは何にもならないんだよ!
 とにかく会報最終号は、間近に迫って来た新作アルバム「吉田町の唄」の発売と弾き語りのアローンツアーに夢を託すかたちで終わりを告げる。最終号の中心は、吉田拓郎のインタビューである。ということでつづく。

2024. 2. 22

☆☆☆旅立つ人☆☆☆
 "ひとりgo to"を久々に聴く。いいな。いいぞ。やっぱり91年ばかりでは生きていけない。
  黄昏の1日を 僕は今日も生きている
  遥かなる旅人は 終わりなき夢の中で
 二人がセッションしているプロモ映像とかが欲しかったけど…いや今からでも遅くはないか。時は過ぎる命短し。残念ながら亡くなられてしまった山本陽子さんがなぜか両国予備校を応援していたように、おじさんも遠くから応援しております。

2024. 2. 19

☆もやい綱を切るなら、それは「夜明け」☆
 村上春樹が朝日新聞に書いた小澤征爾の追悼文「夜明け前の同僚」が達意の文章だった。さすが春樹先生。最近はこの文章を寝る前に読み返している。私の場合、誰も読み聞かせしてくんないし。お酒が好きだった小澤は夜は酔っぱらってしまうので、いつも夜明け前に起きてスコアをさらっていた。村上春樹もこれにならって夜明けに小説を書いていたという。
「僕がいちばん好きな時刻は夜明け前の数時間だ」と征爾さんは言っていた。「みんながまだ寝静まっているときに、一人で譜面を読み込むんだ。集中して、他のどんなことにも気を逸らせることなく、ずっと深いところまで」 そんなときの彼の頭には音楽だけが鳴り響いていたのだろう。
 会報第10号でつま恋で合宿していたときの吉田拓郎はひとりとんでもない早朝から起きていてアレンジや譜面のチェックをしていたという鎌田清&裕美子夫妻の言葉があった。また後のFC会報「マハロ」ではフォーライフの南ディレクターが深夜明け方近くに「起きたらご覧ください」とレコーディングの情報をFAXしたら速攻で「もう起きてるよ」と拓郎から返信が来た話をしていた。同じだ。
 その昔、俺が受験生のころ、早朝の小澤の話を別の本で読んでいたので、夜は酒を飲んで早起きして勉強してという小澤スタイルをマネていた。ヘタレなので眠すぎてはかどらなかったし、結局、俺は音楽家にも小説家にもなれなかった。それでも「夜明け前の同僚」の端くれのつもりだ。
 そういえば拓郎がラジオで口走っていたペンネーム「入江剣」は小澤征爾の奥さんベラさんのモデル時代の「入江美樹」から拝借したそうだ。とにかく拓郎好きな「夜明け前の同僚」よ、みんなでなんだかんだで夜明けに目覚めたら心つながろうじゃないか、おまえだけが命あるものよ。

2024. 2. 17

100分de名著「マガジンT(第11号)」を読む  第8話 今日までそして明日から

☆ああ愛しきものよ☆
 会報第11号では、エイジツアーの総括&打ち上げの様子について、石原信一と田家秀樹が競作のようにレポートを書いていてなかなか濃ゆい。
 原宿で打ち上げがあった。その時彼はポロリと「地方ではボロボロなこともあった」と話していた。つまり客が入らないということだ。そんな時彼はイベンターに「いい曲を書けなくてゴメン」と謝ったのだそうだ。いい曲をたくさん書けば、こんなこともなかったのにということだろう。(田家秀樹・会報第11号「ライブレポートin NHKホール」P.25) 
 仙台の中止も単に客の不入りだけが理由でないことは、拓郎のイベンターに対するこの親身な心の寄せ方からも明らかだ。むしろ全ての原因はいい作品を書けなかった自分にあると一身に引き受け、他の誰かや何かのせいにしていない。そこに吉田拓郎の気骨を感じる。

☆闘う君の歌を☆
 それでも切ないのは次のくだりだ。
 打ち上げを終えるときに彼は「いい曲を書く、絶対にいい曲を書くからな」と何度か口に出していた(田家秀樹「会報第11号「ライブレポートin NHKホール」P.25) 
 私はこれを読むたびに泣きそうになる。少し酔って歩く拓郎の孤独な背中が目に浮かぶようだ。♪…やりきれないね、一人で酒におぼれた夜 ふらつく〜♪と「古いメロディー」が勝手に私の脳内に流れる。
 だって、そうだろ、いい曲は書いてるじゃん。例えばチョイと思いつくだけで「俺を許してくれ」,「車を降りた瞬間から」,「星の鈴」「たえなる時に」「裏窓」そして「吉田町の唄」…枚挙にいとまがない。30年経った今も色褪せず輝いている曲たちがこの当時にたくさん生まれている。世間様、他人様にわかっていただけない事に慣れてはきたけれど、われらが身内である拓郎ファンの間にまで、たちこめているフェイドアウト感がたまらなく寂しかった。いや、私だって偉そうに言えたもんじゃない。もっともっとこの素晴らしさを宣揚できたはずだ。リクエストハガキを書くとか、リクエストハガキを書くとか…リクエストハガキを書くとか。しかし結局何にもしなかった。もちろんこの暗夜行路にも不滅の灯火をともしつづけた多くのファンの方が多くおられたことも確かだ。私もそんなにいさん、ねぇさん、同志らに支えられてここまで来られたようなものだ。

☆君が先に背中を☆
 だからこそ今さらながら私も声を大にして叫びたいのだ。90年代に駄作なし。順風満帆とはいかない長い暗夜行路だったが、それでも拓郎、あなたはいい曲をたくさん書いて歌ってくれた。そして私は救われた。そのことを世界に訴え、何より吉田拓郎に心の底からエールを贈るために、私はこのサイトを始めたのだ。…始めたのだが、こと志と違い、ダラダラと悪態をつくウザいサイト、たぶん吉田拓郎が一番嫌うだろうサイトになってしまった。いや、もうそんなことはいい。だって拓郎は後に決然とこう言い切っているのだから。
 1000人いると思ってたのに500人に減っていると思ったときは、ショックを受けるし悩むけれども、1000人に増やせばいいじゃん、また、と思っているから。1000人に増やすための曲を作っていないということでしかない。いい曲を作ってないということでしょう。大いに反省しろってこと。(大いなる明日 P.465)
 私ごときのおこがましい思いとは別に、拓郎は引きずることも屈折したりもせずにただ新しい歌をつくることで清々しく前に向わんとする。本当にこの人は音楽を愛し音楽と結縁されているのだ。たかがファンの端くれとしては、それがいつかはわからないけれど常に「新曲」という背中を追い続け待ち続けることしかできることはないのかもしれない。

☆この胸いっぱいの「ありがとう」よ☆
 会報11号の石原信一は地方の最終打ち上げでの拓郎のスタッフへのあいさつを拾っている。
拓郎はツアースタッフの前に正座していた。「こんなことを言ったことはないが、45本のツアーも無事終了できそうなのは、みんなのおかげ。そしてみんなもえらいが俺もえらい。」と頭をさげた(石原信一「続挽歌を撃て(会報第11号)」P.18)
 このくだりが大好きだ。そしてツアー最終日の1991年11月5日の朝刊には次のような広告が載った。
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 その意気やよし。明日から勝手にしますって1991年もじゅうぶん勝手だった気もするが(爆)どうか思い切り勝手になさいまし。拓郎さんはこのツアーのことがきっとあまりお好きでないかもしれないけれど、それでも素晴らしい91年だったことの感謝と、本当に魂の底からお疲れ様でしたと言いたい。ということで会報第11号はおしまい。次回からいよいよ最終号である会報第12号につづく。

2024. 2. 15

100分de名著「マガジンT(第11号)」を読む  第7話 エイジ −2.0

☆幻の2公演☆
 会報第11号のツアーの総括記事で、45歳=45か所のツアー日程だったが「途中、天候などの理由で43本になった」(石原信一「続挽歌を撃て」P.16)と記されていた。調べてみると中止になったのは、8月2日の仙台サンプラザと9月28日の那覇市民会館の2本だ。那覇は台風直撃のためだったが、仙台の理由はずっと不明だった。んまぁドタキャンが珍しくて拓郎ファンはやってられない(爆)。

☆奥の細道をゆく暗夜行路☆
 しかし時が経ち2010年の田家秀樹のドキュメント「大いなる明日」の中で、東北のイベンターの代表の佐藤寿彦氏と拓郎が二人で過去の吉田拓郎の東北公演の歴史を振り返るくだりがある。
 "中止"と記されていたのが91年8月2日の「detente」ツアーのサンプラザだった。(略)「前の晩、みんなで飲んでいたら、明日、チケットが売れてないんですよって、イベンターが言うんだよ。バカヤロー、こんなところで飲んでる場合かって怒って、次の日リハーサルだけやってクルマで帰ったんだ」(略)佐藤寿彦は廊下に出てから「マネージャーに対しての教育的措置だったそうですよ」と付け加えた。(田家秀樹「大いなる明日」P.175-176)
 教育的措置とかいろいろ事情がありそうなので、客が不入だから中止にしたという単純な話ではないようだ。しかし集客が厳しかったという事実はショッキングだ。自分が行った浜松市民会館は超満員だったし、行こうと思った和歌山紀南会館も即日完売だった。何より私には2003年の手術復帰後の美しい半円形の仙台サンプラザでの公演、そこでの満員のスタンディングオベイションの景色があまり鮮烈に焼き付いてるので不入りの想像ができない。拓郎は続けて打ち明ける。
「LOVELOVE」をやる前までは東北は結構大変だったんだ。札幌も危なくて2階席が空いているのが見えたりしたこともあったよ。LOVELOVEの後からだね、また変わったのは(同P.176)
 …そうか、そうだったのか。こういう厳しい事実までをも率直に話してくれる拓郎に敬服する。それを忖度することなく活字する田家さんに対してもだ。田家さんは次のようにトレースする。
 浮き沈み、というほど大げさではないかもしれない。でも吉田拓郎といえども常に順風満帆だったわけではない。もし50歳を機にテレビに出たりしなければ、どうなっていたのだろうか。(同P.176)
…ホントにどうなっていたのだろうか。順風満帆ではなかった時代…この会報の発行期間は頭から尻尾までこの時期にスッポリとハマっている。会報は、吉田拓郎の精力的な活動を応援してきたが、どこか言いようのない悲しみがつきまとうと私が何度も書いてきたのはそのためだ。

☆俺だけ、わかるさ俺を☆
 考えてみると同僚ともいうべき田口清氏を亡くし、場所によっては観客動員とも戦わなくてはならない全国ツアーというのは、きっとご本人にしかわからない孤独な道行だったのではないかと勝手に拝察する。2003年の翌年、2004年の"この貴重なる物語ツアー"で超満員の仙台サンプラザに参加した知人の話では、拓郎はこの仙台サンプラザのステージに立てることについてのしみじみとした感慨を述べていたという。当時は病気や体調不良のことかと思っていたが、かつての仙台中止のことが頭にあったのではないかとも思われる。わからん、結局はすべてあの人の頭の中だ。

☆幻の道はいくつにもわかれ☆
 それにしてもLOVELOVEの持つ大きな意味をあらため思い知る。もちろん当時はそんなこと知る由もなく、LOVELOVEという灯りも見えない暗夜行路をゆく私たちだった。そんな中で拓郎が非難覚悟で何の保証もないテレビの沼に果敢に飛び込まなかったら、たぶん私たちはつま恋もその後の活躍も得られなかったのである。これまで「テレビ(LOVELOVE)に出てる拓郎は認めない」と上から目線で宣うベテランファンの方々と何人も会った。その思いは各人の自由だが、じゃあおまえ二度とライブに来るなよと思ってきた。いや、他人に何が言える、黙って俯けよ。自分だってこのエイジツアーはファンとしてもっともっとできることがあったはずだと悔いる。
 切ない話になってしまったが、さらに切ない話が明日もつづく。

2024. 2. 12

100分de名著「マガジンT(第11号)」を読む  第6話 あなたが教えてくれた季節

☆突然の訃報☆
 このdetenteツアーの前半にあたる1991年7月17日にあの田口清氏が交通事故で急逝された。あの「猫」の田口清、あなたは回るルーレットの田口清、ライブ73で手だけ動かしていた田口清、その後はユイ音楽工房のスタッフとして活動していた田口清氏の突然の訃報だった。特に拓郎ファンには気のいい兄ちゃんのような親近感があった。
 アルバム「デタント」は拓郎の作曲した「猫」のヒット曲「地下鉄にのって」が入っていた。田口氏は自分達の曲の復活を喜んで渋谷公会堂に駆けつけ、打ち上げの堰にも同行して拓郎と久しぶりに話をしたばかりだった(会報第11号/石原信一「続挽歌を撃て」p.16)
 渋谷公会堂の公演は6月30日だからそれから僅か2週間ちょっと後のことだ。なんてことだ。そして今回のツアーパンフにはこんなことを想像だにしていない拓郎がインタビューで話している。●はインタビュアーで〇は拓郎だ。
 ●「地下鉄にのって」と言う曲はどうして収録することになったんですか?(略)田口(猫のボーカリスト)さんが好きだったとか?
 〇田口はね、好きなんだよ(笑)
 よりによってまさかこんなときに、突然…というのが拓郎やご関係者のお気持ちだったろう。

☆死んでしまうに早すぎる☆
 田口氏が病院で意識不明だった7月16日の神戸国際会館のMCで拓郎は「今、田口が死にそうなんです。ありったけの念力をつかってなんとかしてくれと祈っているのですが…」と真剣な面持ちで語ったことを後に教えて貰った。そしてその甲斐もなく17日に亡くなる。
 ツアー先で拓郎は田口氏の死を弔った。神戸のステージでアンコールの弾き語りでは「地下鉄にのって」をワンコーラス歌い、名古屋では田口氏のために「祭りのあと」を歌った。(石原信一 同P.18)
 当初のセットリストにない「祭りあと」が記録されているはそのためだ。

☆君は流れて☆
 フォーライフの新人として1977年にデビューした小林倫博氏。78年の拓郎のツアーのゲストだった。その小林倫博氏のブログに田口清氏の最後のくだりが記されていた。
  ある日、昔のマネージャーから電話をもらい、田口さんの死を知った。亡くなってから1週間ほどたっていた。当然、葬儀もとっくに終わっていた。「 なんですぐに知らせてくれなかったんだ! 」 わたしは元マネージャーにつかみかからんばかりの剣幕で言った。言い訳など一つも受け入れたくなかった。

  田口さんの死因は自転車での事故死だった。子供用補助席に我が幼子を乗せ、坂道を下っている途中、なにかにつまづいて自転車ごと、親子ごと転倒したのだ。田口さんは子供をかばい、無理な姿勢のまま倒れ込み、その結果頭を強く打って亡くなった、ということだった。
  らしいなあ……といえば故人に失礼になるのかも知れないけれど、じつに「 いい人、田口清 」らしくてわたしは柔らかい気持ちになって涙をながした。
 この魂が悶絶しているような小林倫博の文章を読むたびに私も何度も涙を流す。ファンというのもおこがましい遠巻きにいた私までもが田口清氏のことをいっそう好きになってしまう。あってはならない、いかなる意味でも承服できない不慮の死だったが、それでも「地下鉄にのって」がまるで手向けのように用意されていたような気もしてしまう。深い徳のある人だったのだな。

☆あなたが教えてくれた季節☆
「猫」解散後の田口清のソロシングル「あなたが教えてくれた季節」(松任谷正隆先生のアレンジだ)の一節を思う。

  あなたを見て季節を感じていた私
  今は逆に季節を感じあなたを思い出す

 ああ、つま恋75の「雪」は一番田口清、二番拓郎の歌唱だったよなぁとか、2019年の「わたしの足音」には天国の田口清もびっくりしたろうなとかふと思ったりした。何より、町で子どもを乗せた親子の自転車を見るたびに…見るたびというのは大袈裟だな、時々だけど田口清のことを思い出して、うかうかすると泣きそうになったりもする。30年以上も経ってしまっているけれど心の底からご冥福をお祈りします。

 会報第11号が記したように、この全国ツアーは祝福と祈りを交えながらの長い歌の旅だったのだ。
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2024. 2. 11

100分de名著「マガジンT(第11号)」を読む  第5話 愛でない場所はあるはずがない

☆浜松セレナーデ☆
 それならさぞや浜松は良くなかったのかと問われればそれは断じて違う。
 "町起こしソング"というから「オバQ音頭」みたいな歌を想像…いや、せいぜい「アイランド」くらいかな>って失礼だろ。そんな先入観をはるかに超えて「吉田町の唄」があまりに感動大作であることに驚いた。歌う前のMCで拓郎は「これを聴けばきっと泣いてしまうに違いありません」とか言うので、これまでの経験上「んなわけねぇだろ」(爆)と思っていたらホントに初めて聴くそばから涙ぐんでしまった。さすが期待しないときに名作を書く男である>怒られるぞ!
 クソ恥ずかしい詩だな〜と敬遠していた「青空」がライブ空間で共鳴するギターとともに心に染み入った。
 「アジアの片隅で」ではスタンディングしなかった観客たちも「男達の詩」の鎌田清のオープニングのドラムソロで突き上げられるように立ち上がり、ノリノリの激しいロックに燃えていた。CDよりワイルドで数段スバラシイ。
 ワイルドといえば「裏窓」の荒くれた歌いっぷりにも痺れた。粗忽に歌えば歌うほど魅力的になる歌というものが拓郎にはある。これはそれだ。
 そしてなんといっても「たえなる時に」は圧倒的だった。"愛でないものはあるはずがない"で始まった歌が、最後に念押しのように「愛でないものはあるはずがない」に還ってくるこのところでなぜか泣きそうになる。"今 君はあの人を心から好きですか"のリフレインが会館帰りの坂をおりるときも頭から離れなかった。ちょうど91年秋、静岡けんみんテレビのCMになっており、毎朝テレビで流れていたので特別に感慨深かった、
 ビッグコミックオリジナルの"自分の事を棚にあげて"で、このコンサートは「胸がキュッとなるから」とご本人が言っていたのはまさにそのとおりだったよ。
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☆深謝、ツアーを支えてくださった素晴らしき方たち☆
 会報11号には、コンサートスタッフの方の感想も載っている。
▽ライティングプランナー&オペレーター 堀井義春
 大倉山のライティング・テーマとしては、自然を感じるようなものにしたかったことと、自然の中にも調和するようにと心掛けました。結果的にも大自然に負けないくらいの素晴らしいものが出来たと思います。
▽ライティングオペレーター 大西哲郎
 メニューはツアーと同じでしたが、「この指とまれ」はすごく盛り上がりましたね。
 くぅぅぅ、どこまでも観たかったと悶絶させてくれる。大自然に負けない「この指とまれ」…こりゃあたまらん。
▽トランスポートマスター 大野重勝
富山のコンサートの弾き語りで「落陽」をやったときにサビの部分で会場が大合唱になったとき胸がジーンとしましたよ。あー。この仕事やっていてよかったと。
 そこまで言わせるか富山・新湊市中央文化会館。このたびの被害の息災とご復興を心からお祈りします。
▽舞台監督藤丸昌也
今回のツアーで特に印象深いのは10月30日の高知県民文化ホール。とにかく良かった!!感動しました。
▽楽器チーフ 吉村和幸
地方最終公演の高知県民文化ホールは実に感慨深いものがありました。
 そんなに良かったのか、高知県民文化ホール。…ありゃ浜松の僅か10日後じゃないか。

☆あしたのために(その2) とにかく行くべし!行くべし!☆
 あらためて、それぞれの地にそれぞれのドラマがあふれていたことを知る。1か所だけとは実に惜しいことをしてしまった。このころは、1ツアー1か所が当たり前だと思っていたし、これまでフリーターで受験生だった俺はなぜかこの頃は国家公務員になっており、配属の静岡から出るのには庁の届出手続きが必要だった。いーや、そんなのは言い訳に過ぎない。「拓郎を観なきゃ死ぬ!!」という拓バカ魂が赤々と燃えていればなんの障害もなかったはずだ。俺にはやはり何かが足りなかったのだ。ああ行きたかった自分と行けなかった自分と2つに引き裂かれながら永遠に悔いよ、自分。

 なあ、みんなの参加公演はどんなだったんだい?黙り通した年月を拾い集めて温め合おう。そんな気分になる。

2024. 2. 10

100分de名著「マガジンT(第11号)」を読む  第4話 このアジアの〜さらにいくつもの〜片隅で

☆吉田、アジア歌うってよ
 当時、どっかの音楽誌に載ったツアー序盤の渋谷公会堂の最新レポートで、久しぶりに「アジアの片隅で」が歌われ観客が総立ちになったことを知って驚いた。えっ!?「アジア」を歌うのか!?。いわずと知れた煽情的な歌詞に拓郎のシャウトと観客の唱和のグルーヴが織りなすソウルの塊だ。少し遅れた拓郎ファン世代の自分にとっては「アジアの片隅で」はソフィスティケートされた「人間なんて」だった。燃え立つ渋谷公会堂の客席が目に浮かび、野外の札幌大倉山を想像すると85年つま恋で観客の振り上げた拳の壮大な波が脳裏をかけめぐる。覚悟を決めて私のその日を待った。

☆失われたシャウト
 ようやくライブに参加できたのはツアー終盤の91年10月20日の浜松市民会館だった。いきなり三曲目に、あの聴きなれたギターのカッティングとともにそれはやって来た。急なことすぎて俺もたぶん他の客席も即効でスタンディングしそこなった。歌い始めた拓郎はあのサビ♪このままずっといきていくのと思うのだがぁあぁあぁあぁあ(叫)のフェイクのシャウト部分をまるっと歌わなかった。4番まで全部シャウトの前に寸止めだ。ええー。拓郎のシャウトもなく、そのまま観客の唱和もないまま、最後のアジアの片隅でのリフレインもあっさりと流しそうめんのように終わってしまった。こんなアジアは初めてだ。観客が即スタンディングしないから拓郎が流し運転にしたのか、反対に拓郎が流したから観客がノらなかったのか、とにかくあの魂のグルーヴはなかった。頭の中でさまざまな妄想が駆け巡った。

 @拓郎が体調不良だった説
 A地方の小会場だったので手を抜いてみました説
 Bさすがに日々40回も唄ってきたに飽きたし疲れていた説
 Cこの歌に情熱がなくなってしまったアジア・オワコン説

 どれひとつとっても幸せにはなれそうになかった。しかし後に田家氏も会報11号のツアーレポートにはこう書いてあった。
「アジアの片隅で」が歌われたときの「おお」という客席のざわめきや一気に加速されてゆくようなステージの勢いもそうだ(田家秀樹「会報第11号「ライブレポートin NHKホール」P.25) 
 ホラどうやら熱狂の会場もあったようだ(爆)。それぞれの会場にそれぞれの様相の「アジアの片隅で」があったということだ。とにかく浜松のあの夜の俺はもう終わりゆく「アジアの片隅で」の死に水をとったような気分だった。これが私にとって最後の「アジアの片隅で」となってしまった。各地のアジアはいかがでしたか? 

☆終わりなき日々
 しかし誰がなんと言おうとこの歌は決して色褪せた古きオワコンにはなっていない。
 「アジアの片隅で」の歌詞が、91年の今になって、以前よりもリアリティを増して聴こえる事にも驚いた (同P,25)
 激しく御意。それからさらに33年経った現在もそれは変わらないことにさらに驚く。
 すげ変わる政治家の首とあわてふためく子分ども、闇で動いた金…って今、毎日毎日、新聞が書き立てているじゃないか。国境の戦火も止まる気配がない。道路に座り込みたくなる働く人々がたくさんいる。どうやら年寄りに乾杯の朝はやってきそうにない。この身が滅ぼされてもそれでも政治などアテにしない人々。ああ悲しいくらいピッタリじゃないか。
 他方でツッコミどころもあろう。噂の鳥を放つのは女たちだけでなく男たちもそれ以上であるとこは明らかだ。女まがいの歌と言う表現は不適切にもほどがある。性別の問題ではなく薄っぺらな愛の歌があふれ出して安いやさしさが叩き売られているという意味では正鵠を得て居る。それに甘ったれた子ども達だけでなく大人達も含めてみんな何かに忖度して権利主張すらできなくなってしまっている気がする。いろいろあるが、それでもこの歌の大切な核心は揺らがない。

☆あしたのために(その1)シャウトに備えるべし
 この歌は、今こそ必要だし、今のために作られていたと言ってもいい。誰かがカバーできるかって絶対できやしないし(すまんm(__)m、川村ゆうこ)、誰かが似たような歌を作れっていっても誰も作れやしまい。こんな歌を作って音楽的なクオリティと迫力と高揚感をもって歌いきれるのはこの世界に吉田拓郎ひとりだけしかいないのだ。で、この歌に不可欠な魂の唱和ができるのは、なぁみんな、俺達だけだよな(爆)。拓郎がスタジオ録音盤を残さなかったのもそういうわけだ。

 限りなく可能性が少ないが、もし拓郎が発心して「アジアの片隅で」を歌うぞなんてことなったとき、私達ジジババの拓郎ファンの存在は不可欠である。きたるべきXデーに対応できるようにとにかくみなさん心身ともに元気でいようではないか。自分もいつでも浜松市民会館のお返しが出来るように常に怠りなく生きていたい。

 ということでそれならさぞや浜松市民会館のライブは良くなかったのかと言われれば断じてそうではない。それについてはつづく。
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2024. 2. 9

☆☆☆あなたの旅は大いなる叫び☆☆☆
 小澤征爾氏がご逝去。音楽ましてやクラッシックなんかちんぷんかんぷんの私もこの人にはずっと憧れていた。
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 特にこの本は、失意の受験生だったころ何十回も読んだ。日本の音楽界でサッパリ評価されなかった若き小澤はやむなく海外を目指す。さりとてお金もコネもスカラシップもない。そこでスクーターで世界を旅するという条件で富士重工から宣伝名目の資金を得て片道旅費だけで海外に飛び出してゆく。これは、あれよ、無名時代にパイオニアのステレオのCMの前座で全国を歌って回った、あの人みたいなものよ。あ、富士重工って共鳴レックスだ。僕らの旅ははてしなくつづく。そして海外のコンクールを転戦してその名をとどろかせてゆく。その旅の過程の清々しさとみずみずしさに圧倒的に元気づけられるのだ。もちろん海外に修行など行ったことのない無才の私も、オイ!人生って捨てたもんじゃないぞ!と肩を叩かれるような気がするのだ。
 なのでジャンルを問わず海外に挑む若者は俺にとってはみんな若き小澤征爾で、心の底から応援したくなるのだ。
 どうか、ゆっくりとおやすみください。魂の底からご冥福をお祈りします。

2024. 2. 8

100分de名著「マガジンT(第11号)」を読む  第3話 虹と雪ととっぽい男のバラード

 ツアー日程表をみると名古屋市民会館が7月24日で、次の札幌大倉山競技場が7月28日ということで間隔が中3日間しか空いていない。この間に名古屋から札幌に移動して野外コンサートの設営と準備をする。しかも天候は大雨だった。その準備の苦闘の様子が会報にはドキュメント形式で載っている。プロジェクトXみたいでチョッと胸を打つ。スタッフの皆様、実に大変だったのだな。つま恋2006と同じで最後には"晴れ男"吉田拓郎の念力でギリギリコンサート当日に冷たい雨があがったのだった。
 個人的には、なんてったて大倉山ジャンプ競技場と聞くだけで笠谷のジャンプとトワエモアの「虹と雪のバラード」が脳内に流れだす。自然に身体が前傾姿勢になる。札幌五輪の最中に小学校の音楽朝会で音楽担当の痩せたD先生、"通称ドレミファがいこつ"💀>知らねぇよ!の指導の下で「虹と雪のバラード」を歌わされた。しかし小学生には上パート・下パートの区分が難解過ぎてガタガタになってしまった。するとドレミファがいこつがタクト叩いて怒りだして結局一回だけであきらめたはずだ。でも難しいけれどカッコイイ曲だと思っていて、それ以来大好きな心の名曲なのだ。それにしても何で91年にココに行かなったのか、人生で後悔していることのひとつだ。
 会報11号に札幌のセットリストつまりはこのエイジツアーのグランドメニューとなる曲目表が載っている。
札幌大倉山セットリスト1991.7.28
 冷たい雨が降っている
 シリアスな夜
 アジアの片隅で
 ひとりぼっちの夜空に
 レールが鳴ると僕達は旅をしたくなる
 友あり
 恋唄
 素敵なのは夜(メンバー紹介)
 神田川
 青空
 裏窓
 放浪の唄
 吉田町の唄
 悲しいのは
 男達の詩
 enc.1(弾き語り)
 準ちゃんが今日の吉田拓郎に与えた多大なる影響
 enc,2
 この指とまれ
 たえなる時に
 「春だったね」もなければ「落陽」もない。「外は白い雪の夜」も「今日までそして明日から」も「人生を語らず」だってない。そしてオープニング三曲目になんと大作「アジアの片隅で」がセットされている。乾杯のあとにいきなり1350gの3ポンドステーキの肉塊が出される結婚披露宴みたいなものだ。…おっふ!食えねっす。そのくらいとにかく攻めてるセットリストだぜ。文句を言い出すと「ウェーイ神田川」はもうたくさんだとかあるが…いろいろあってもそれはそれ。
 しかも最後の本日のデザートは弾き語りという日替わりメニューだ。「蒼い夏」、「こうき心」、「ハートブレイク・マンション」、「Voice」、後半は「落陽」も弾き語りで加わった。
 このメニューに基づいて実際に出された料理はどうだったのか。札幌の地はかなりドラマチックに盛り上がっているように見える。なんたって野外だし。この映像は全編観たいものだ。しかしセットリストはほぼ同じでも俺の実際に観た浜松市民会館とはずいぶん空気は違っていたような気がする。
 この重量級のメニューとは裏腹にこれに基づく実際のライブはその土地と状況に応じて独自の独特な雰囲気が展開していたのではないかと思われる…ということを考えてみたい。つづく

2024. 2. 7

100分de名著「マガジンT(第11号)」を読む  第2話 なのにあなたはハワイへ行くの

 ツアー日程表をみると7本目の福岡サンパレスが7月5日で、次の神戸国際会館が7月16日ということで間隔が11日間も空いている。この貴重なひとときを拓郎は何かをせずにはいられない。会報11号で石原信一は書いている。
7月に拓郎はツアーの途中でハワイに飛んだ。所属する宇田川オフィスの宇田川幸信社長の結婚式だった。拓郎夫妻が挙式の際の立会人になったのだ。…拓郎がハワイに行ったらもうツアーを続ける気がなくなるかもしれないと言って宇田川社長をおどした。45本という拓郎にとって前代未聞の長期ツアーが、自分の結婚式のため、早々に緊張の糸が切れる可能性が多分にあると宇田川社長も不安がった。しかしハワイから拓郎は元気で帰ってきた。(会報第11号 石原信一「続挽歌を撃て( TIME)」より)
 当時、若かった俺は、この記事を読んでこの大変なツアーの途中に行くか?、終わってから行けばいいんでねぇの?と思ったものだ。あれから30年…歳をとった今は、しみじみと素敵なことじゃないかと思う。陰口いってる人もいるでしょうね、長い休暇を取りました休んでいると落ち着かないってのは知らぬうちに病んでるんですね…というのと同じ世界ではないか。
 わりと最近になってこのころのことを拓郎はラジオでボソッと語っていたことがあった。媒酌人を頼んできた宇田川氏に対して、拓郎が俺を媒酌人にしたいなら、ハワイへ連れてゆけということで、このツアー中にハワイ挙式を押し込んだらしい。
 こっからは俺の想像と妄想だ。媒酌人をお願いした宇田川社長は、まさかそんなツアー中にめっそうもない…せめてツアーが終わってからというと固辞したに違いない。
 もちろんハワイ好きの拓郎だ。半年間もの長いツアー、途中でハワイでも行かにゃあやってられんという気持ちもあったろう。
 でも結婚という人生の祝福を、遠慮したり、先延ばしにしたりするのではなく、ベストシーズンのハワイで迎えてあげたい。その深い愛情がツアーの途中にぶっこんでもやろうじゃないかということになったに違いない…と思いこむ。
 音楽、コンサート、生活、祝福と祝祭、そしてハワイ、すべてが人間にとってひとしく大切なものなのだという吉田拓郎の人生観のようなものを感じる。また音楽はそれだけ日常の傍らにあったことの証左ではないか。ああ素敵だなと今は思う。これはあるべき働き方改革の先取りだったのではないか(爆)。なぜにあなたはハワイへ行くの、ハワイの島はそんなにいいの…YES!と拓郎は答えるに違いない。この頃の私はこれからの吉田拓郎の歴史においてハワイがかなり重要な場所になってゆくことを当然まだ知らないわけである。
 

2024. 2. 6

☆☆☆ありふれた俺にも雪が降る☆☆☆
 雪だ。大変な思いをされている方々を思えば手放しでロマンチックだなどと言えない。それでも窓から眺める深夜の雪あかりの景色は胸にしみる。こういう時に一緒に聴くのが"青春の詩"の「雪」だと厳しかったが、現在の私には"ah-面白かった"の「雪さよなら」がある。イイ。ちょいとおしゃれな気分になる。そのうちに「あぁ、しばれるねぇ」と言いながら倍賞千恵子の小さな居酒屋で熱燗を呑みたくなる…そして歌い出すのさ「舟唄」を〜>結局、舟唄なのかよ。
 ♪Shimijimi drinking, Shimijimily Only memories go on by

2024. 2. 5

100分de名著「マガジンT(第11号)」を読む  第1話 はーしれ、はしれ、ツアーのトラック

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☆さよならだけ残して
 会報第11号の巻末の小さなお知らせが刺さった。
 誠に勝手ながらプライベートマガジン「T」は次号のNO.12をもって終了とさせていただきます。
 …運命みたいに僕にも悲しみが湧いてきた。正確にはこの後でニフティサーブのパソコン通信「自分の事は棚にあげて」として継続してゆくという告知が続くのだが、当時パソコンなんかとは無縁だった俺にはこれにて終了と言う宣告にしか聞こえなかった。そちらから刊行を切ったから、君はもっと他の事も言おうとしてたんだろう。
☆気をとりなおして…あと2号
 さてラス前の会報11号は、91年エイジツアーの総括特集号だ。特に7月28日の札幌大倉山ジャンプ競技場での野外ライブのドキュメンタリーが中心記事になっている。前代未聞の45本ツアーは、6か月にわたり挙行された。11号の裏表紙に注目。ツアートラックがあった。SATETOの時にはサッポロ★ドライをデザインしたツアートラックがあったが、それに次いでこれが最後のツアートラックではなかろうか。
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 私が参加した浜松市民会館の公演の翌朝、浜松コンコルドホテルの前にこのツアートラックがでーんと止まっていたのを発見した。会報の写真は、残念ながらモノクロだが、コンテナ部分は水色に近い青地にペイントされていて白抜きの文字でデザインされていた。それが朝の光に輝いていてそれはそれは美しいツアートラックだったのよ。
 運転席のフロントガラスのところに無造作にコンサートパンフが立てかけてあった。当時、いまの世に普及している あのツルツルしたもの(阿部定@「不適切にもほどがある」)があったら写真撮りまくっていたのだが。
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 もし現在の世の中だったら、きっと誰かが、全国45か所のツアートラックの写真をスマホで撮影して集めて写真集を作ってくれるかもしれない。かもしれないじゃない、絶対そうする、ある種のクォリティーをもってそうするに違いない拓バカを個人的に何人か知っている。吉田拓郎のツアートラックが全国を走り回る…想像するだけで素晴らしい。もう私のような爺ちゃんが死ぬ前に観る走馬灯なのだよ(爆)。

2024. 2. 4

☆☆☆ひとりごとです 気にとめないで☆☆☆
 いま、TYで有名な東横線に乗っているのだがミッフィー一色だった。
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 すごい。ミッフィーといえば、「うさこちゃん」なのか「ミッフィー」なのかという問題があるのだが、福音館が「うさこちゃん」で講談社が「ミッフィー」と呼び分けられている。そもそも「よしだたくろう」と「吉田拓郎」みたいなもので別に排斥しあうものではないのでどっちでもいいといえばいいのだが。原典のオランダ語の「ナインチェ」が最初の福音館版では「うさこちゃん」と訳され、英語圏では「ミッフィー」と訳されていたところ、日本でも英訳のミッフィーが広く定着してしまったようだ。私は福音館というブランドが好きだし体験的にも「うさこちゃん」派なのだが、今ではアメリカと講談社という帝国と巨大資本に屈服してミッフィーなどと口走る、何か違うと悔やみつつ。
 ムーミンの人気キャラの「スナフキン」も原典は「スヌス・ムムリク」といい、日本では最初「嗅ぎタバコ君」とか直訳されていたものもあったが、英訳の「スナフキン」が完璧に定着している。こっちはアメリカと講談社に最初から従っており、我ながら一貫性がない。…って何を書いているんだ。

 そうだ、講談社版のミッフィーの翻訳者にして「魔女の宅急便」の原作者の角野栄子のドキュメンタリー映画「カラフルな魔女」を先日観に行ったばかりだった。御年89歳にして溌溂とした美しさ。現役であられる。小さな勇気が湧いた。
 2014年の吉田拓郎のライブのMCで「歳をとって引退とか言ってる人も、まだ今からできる何かがあるかもしれないですよ…」という拓郎のメッセージを思い出した。そうだ、もう残り少ないようで、まだ先は長いかもしれない、欲しいのは答えじゃないんだ。…そうじゃなくてとにかく大切に過ごそうという殊勝な気持ちになった。この貴重なひとときを老人は何かをせずにはいられない…と思うたまでだ。そうそう拓郎、おまえもな(爆)ああ〜フェイドアウトしないでと願いたくなるようなすげえソロをまた聴かせておくれよ。

2024. 2. 3

100分de名著「マガジンT(第10号)」を読む  第6話 愛でないソロはあるはずがない

 さて会報のインタビューは続いておなじみのギターの稲葉政裕の登場だ。最近では2009年のHave A Nice Dayツアーと2002年のNHK101での活躍が忘れられないところだ。しかし、おなじみといえば、むしろ小田和正のツアーや「クリスマスの約束」の方がよっぽどおなじみかもしれない。一昨年、大分県の日田に行った時に「進撃の巨人」に関わっていらしたことにも驚いたものだ。
 1991年当時30歳そこそこの若さだった彼は、アルバム「detente」のレコーディングも全国45か所のコンサートツアーもたったひとりのギタリストとしてフル回転してみせてくれた。先日も引用した「ギターの稲葉君はいっぱいダビングがあって一日中弾いてた日には手がボロボロになって…(鎌田裕美子)」とあるとおり大変だったようだ。本人も語る。
バーッてリズムトラック録ってその後に「ギター何かイントロない?」っていうシリーズがいっぱいあって(笑)(稲葉政裕のインタビューより 会報10号P.12)
 この音が欲しいっていうことになれば、ギター持ってきてアンプも変えて、そのチューニングにして合わせて、で歪みもこのくらいっていうのにあわせて、でソロになったらまた違うアンプを持ち込んで違うギターでやり直すんですよ。だからギターでいうとあのアルバムで6本から7本のギターが入ってますよ。全部機種の違う、同じ機種でも年代が違ったり、アンプが違ったり。(同P.13)
 まさに、八面六臂の活躍だ。やっぱりイナバ、何本あっても大丈夫、わーー>意味わかんねぇよ! しかしもちろん拓郎はムチャぶりしていたわけではない。コンサートの最後の「たえなる時に」のリハーサルで拓郎はこんな言葉を稲葉にかけた。
 「セミアコを弾こうよ」っていうのはありました。…最後は二人でセミアコでっていうのはありました。そういうのは最近はみんなナンセンスだと思って考えたりしない人が多いじゃないですか。でも、結構、大切だったりするでしょう。拓郎さんはそういうこだわりを持っている人ですね。
 フルアコやソリッドじゃないセミアコだと音的にどうなるのか…そこいらは悲しいが俺にはよくわからない。しかし拓郎と稲葉のプロ同志の心がしっかりと結び合っていたことはよくわかる。それだけで嬉しい。それに、わからないなりに大倉山の「たえなる時に」のギターを観ていると少しだけわかった気にもなる。それでいいのだ。その稲葉が拓郎の教えをさらに語る。
 拓郎さんに「メロディアスじゃないとだめだ」って最初に言われたんですよ。「ギターソロっていうのは"ホテル・カリフォルニア"みたいなのが頂点にあって、それに、あーっ、もうフェイドアウトしないでっていうものがないとだめなんだ」って。「メロディがしっかりあって、そこにいくと何度でも感動するっていうものじゃないといけない」みたいなプレッシャーをどんと与えられて…」(同P.13)

 拓郎はラジオでも"ホテル・カリフォルニア"は何回も流してそのたびに大絶賛していた。ソロプレイのイデアのように拓郎の頭の中に理想形としてこの曲があるのかもしれない。思わずdetenteや大倉山の映像を聴き返し観返したくなる。すぐに頭に浮かぶのは「時には詩人のように」…あのギターは顕著にたまらん。
 このアルバムに限らず拓郎のあまたある楽曲のソロプレイの中で、
 ・メロディアスなメロディがしっかりある
 ・聴くたびに何度でも感動する
 ・ああ〜もうフェイドアウトしないで、いつまでも聴いていたい

…そんなソロってあるだろう、君たちだって。あぁあぁ君の好きなソロはなんですか。
いろいろ考えてみるだけでなんかしあわせだ。そのうちそんなソロが泣ける、こんなソロがあるもんねーとお互いに語り合いたいものです。
 ということで素敵なソロに思いをめぐらせながらよい週末をお過ごしください。次回からはいよいよラス前の第11号、怒涛のエイジツアーに突入した吉田拓郎の明日はどっちだ!?

2024. 2. 1

100分de名著「マガジンT(第10号)」を読む  第5話 いなたい雨が降っている

 アルバム「detente」についてのインタビューで、拓郎はミュージシャンらに対して「余計なことはさせなかった」と言い「"いなたい"ことをどれだけやるか」などと語っていた。直接は読んでいないが、田家さんや藤井てっかんの文章に、このことが繰り返し出てくる。どっかで言ったんだろう。鎌田清も言う。
 「いなたいことを平気でやる」っていうのを僕もインタビューの記事で読んだときに初めて「ああ、そうだったんだ」って分かった…(鎌田清のインタビューより 会報10号P.10)
…そもそも「いなたい」ってなんだ? どういう意味なんだ?私はそこから始めなくてはならない。ネットで調べると「いなたい」とはミュージシャンの間で「泥臭い」「ブルージー」さらに「へたうま」といったニュアンスで使われる俗語である。関西のミュージシャンや音楽ファンを中心に良い意味での田舎臭さを表現した…と記されている。わかったような,わからぬような。今までのコンピュータの打ち込みを中心としたレコーディングからシンプルなバンド演奏中心に転換したことが関係するのだろうか。続く鎌田清のインタビューから少しだけ見えてくるものがある。
「70年代っぽいああいう感じ」っていう、そういうアドバイスを受けながらできる限り近づく努力をして。こっちはさそれこそ「あ、いなたいな」と思いながらやってるんですよ、本心は。「あーいなたいな、いいのかなー、こんなんで」っていう。」
 この"いなたさ"に戸惑う夫・鎌田清の発言を受けて妻・鎌田裕美子が先日も引用した答えを投げ返すのだ。
 私なんかシンセのダビングの日とか、ギターを拓郎さんが入れている日とか歌入れの日とかずっと居たから、拓郎さんがギターをダビングしていけばいくほど、何故そのドラムを入れたかっていうのが非常に明確になるのね。あとで拓郎さんがこれを入れたかったからこれが入ってるんだなっていう。
 いいな〜素敵な夫婦だな。やっぱり喜びも悲しみも幾歳月を捧げよう(爆)。鎌田裕美子の言葉からは、拓郎の緻密な設計や計画…という言葉は少し違うかもしれないが、その種の深い考えが窺える。考えに考え抜かれた音楽センスとその格闘によって完成するものが「いなたい」ということなのかもしれない。
 いなたい…というとダサいイメージにも受け取られがちだが、拓郎の「いなたい」はそういうものとは違う。いなたいがゆえに誤解され損したこともあれば、いなたいがゆえに誇りたくなるようなすばらしいことがある。かなり深い言葉ではないか。この「いなたい」の深奥を極めるのがこのサイトに残された仕事ではないか、なーんて、思いつきでテキトーに言ってるだけだが。人間のい、いなたいのい、これからもい。

2024. 1. 28

100分de名著「マガジンT(第10号)」を読む  第4話 喜びも悲しみも幾歳月

 会報10号には、ドラム=鎌田清と一緒に伴侶のキーボード=鎌田裕美子のインタビューも載っている。たぶん、好きな人はみんな大好きだった鎌田裕美子。しかし彗星の如く現れた鎌田夫妻のことについてはいまひとつよく知らなかった。もともとは女性キーボードグルーブCOSMOSのリーダーであられた(旧姓は田中であられる)。キーボード界のキャンディーズあるいはキーボード界のジェイダか、どっちかでずいぶん違うけどさ。
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 いずれにしてもどうりで東京ドームで拓郎と一緒にステージを疾走した魅惑のステージングは、ただのキーボーディストのものではない。納得だ。
 夫はSATETOツアーから、妻はひまわりツアーから参加したが、このインタビューでは鎌田家の食卓にお邪魔しているようなアットホームな感じで、拓郎と鎌田夫妻との出会いから今までが語られている。
 主人から「結構優しい人だよ」とか「みんなに気をつかってくれるんだよ」とか、そういうのを家で聞いていて…すごい気さくにいろんなお話とかしてくれて、おもしろい人だなぁって(会報第10号 鎌田裕美子インタビューP.8)
 主人が実際に会う前に吉田拓郎に対してどんなイメージを抱いておられたのかが何となくわかる(爆)。それにしても気遣いのある優しい人柄…というのがファンとしても嬉しい。
 最初とにかくびっくりしたのが、自分でコンピュータを打ち込んでデモテープを作っているというのを聴いた時に「えっ、そういう人だったの!」って。昔のフォークのイメージだけを持っていたから。シンセの音色もこんな音とかあんな音とかって、そういうのもすごい詳しい…(同P.8)
 人柄の次に音楽家としての琴線に触れる。拓郎の精巧なデモテープや音楽の知識の深さのことはファンにとっては当たり前のことだ。しかし「フォーク」というレッテルによって音楽家吉田拓郎の真の姿が世間からはとても見えにくくなっていることがわかる。「俺はフォークじゃない」という何万回も聞いたこの言葉の意味をあらためてかみしめよう。
 自分の譜面というのも意外だったし…最初はびっくりして「直筆の譜面よ!」とか言いながら感激してたんですよ。「えーコード譜なんて書くんだ」とか言って二人でもう家で盛り上がっちゃって(同P.8)
 いいな。楽譜を書く拓郎のことが嬉しくて盛り上がっちゃうご夫婦がとても素敵である。
 ピアノの音色、シンセの音色、あとダイナミックスとか、プレイもこういう感じのニュアンスのことも「あまりここはジャージーにいかないでほしい」とかっていう時もあるし…とりあえずはプレイヤーが好きな自分のいいと思っているやり方でやるんだけど、それに対しての「僕はもうちょっとこうして欲しい」っていうのは言われる…(同P.9)
 ミュージシャンの個性と自由をきちんと認めたうえで、自身の要望を伝えてゆく…なんかとても理想の上司じゃん。こういう話が聴けることも嬉しい。
 私なんかシンセのダビングの日とか、ギターを拓郎さんが入れている日とか歌入れの日とかずっと居たから、拓郎さんがギターをダビングしていけばいくほど、何故そのドラムを入れたかっていうのが非常に明確になるのね。あとで拓郎さんがこれを入れたかったからこれが入ってるんだなっていう。(同P.10)
 もう拓郎への尊敬の念がにじんでいる。怖いイメージ→やさしい人柄→音楽家としての驚き→そして尊敬・敬愛というようにインタビューの中に吉田拓郎に対する心境の発展的プロセスがキチンと現れているのが面白い。勝手な思い込みだが、読みながらこちらもまるで鎌田夫妻と心を打ち解けていくような柔らかな気持ちになるってもんだ。
 とにかく鎌田清・裕美子夫妻は人柄的にもサウンド的にもある種の安心感と頼もしさがあった。この頃の音色も大好きだ。このご夫婦の事を考えると俺は佐田啓二・高峰秀子の灯台守の夫婦の映画「喜びも悲しみも幾歳月」を思い出す。しかも映画の舞台は観音崎灯台だぜ(爆)。ぴったりじゃないか。あー♪オイラ岬の〜灯台守は〜主題歌もイイのだ。カラオケで練習して鎌田夫妻に捧げたい>いらねぇよ!
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2024. 1. 27

100分de名著「マガジンT(第10号)」を読む  第3話 なかなかたどり着かない雨降り

 会報第10号は、アルバムdetenteとエイジツアーに参加したミュージシャンへのロングインタビューがメイン記事になっている。最初はドラムス鎌田清だ。SATETOツアーから参加した彼は、キーボードの鎌田裕美子とご夫婦であられる。今回のツアーミュージシャンは、鎌田清が選抜したというバンドマスターでもある。
 矢沢永吉のバックをはじめロックンロールご出身で、1957年生まれというので武部聡志と同年でありんす。初めてのドラム体験についてこう語っていた。
 高校の時に初めて叩いた曲が「たどり着いたらいつも雨降り」だったんです
         (鎌田清のインタビューより 会報10号P.8)
 これを聞くともう一人思い出す人がある。
 拓チャンを初めて意識したのは「たどり着いたらいつも雨降り」だった。ビアガーデンでやり始めた時…彼らのステージであの曲だけ叩かせてもらったことがあったの。
       (島村英二のインタビューより 田家秀樹「豊かなる一日」ぴあ P.147 )
 奇しくも二人ドラマーとの縁がある。しかし二人とも拓郎と組んで以後、ついぞそのプレイの機会がなかった。いや、鎌田清は、SATETOツアーのメドレーの中で部分的に叩いたが完全なプレイではない。島村英二は、「拓郎と出会って以降何度となく「あの曲叩かせてよ」と言っているそうだ。」(田家秀樹「豊かなる一日」ぴあ P.147)
 …これはあれだね真正"天邪鬼"だね。叩かせてと言われるたびに、そこまで言うなら絶対叩かせてやるまいと思っちゃうんだよ、きっと(爆)。

 なるほどロックの古典ともいうべき「たどり着いたらいつも雨降り」だ。ロックンローラー吉田拓郎の入り口の機能を果たしている。ちなみにフォークの入り口は「今日までそして明日から」あたりか、ポップ・アイドル系の入り口は「結婚しようよ」…多彩なジャンルに向って扉が開かれている吉田拓郎だ。
 ロックンロールとしての「たどり着いたらいつも雨降り」は意外と吉田拓郎による決定版がない。「みんな大好き」はシャウトと怨念が足りないのよ(※個人の感想です)。俺はつま恋75がベストだと思うが、FMで放送されただけで公式ではない。やっぱりこれって瀬尾ビッグバンドでガッツリ演っておいて欲しかったな。どうでっしゃろ島村英二と鎌田清のツインドラムで。

2024. 1. 26

100分de名著「マガジンT(第10号)」を読む  第2話 日々旅にして旅をすみかとす

 これまで私はエイジツアーだ!、45公演だ!、と軽々しく口にしてきたが、会報にも載っているツアースケジュールをいまいちどしっかりと眺め直してみる。怒涛のツアーだ。ビッグコミックオリジナル連載エッセイの「TAKURO NEWS」で拓郎本人が「あまりの本数と長さに驚きました」と書いていたように、よくもまぁここまで公演旅程を組んだものだ。あらためてこのスケジュール表に宿っている魂、そして語り掛けてくる魂の発露に耳を澄まし目を見張ろう。
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 TAKURO YOSHIDA TOUR '91 〜detente〜 
 1991/06/16 (日)鹿沼市民文化センター (栃木県)
 1991/06/20 (木)サンシティ越谷市民ホール (埼玉県)
 1991/06/26 (水)藤沢市民会館 (神奈川県)
 1991/06/28 (金)浦安市文化会館 (千葉県)
 1991/06/30 (日)渋谷公会堂 (東京都)
 1991/07/03 (水)長崎市公会堂 (長崎県)
 1991/07/05 (金)福岡サンパレス (福岡県)
 1991/07/16 (火)神戸国際会館 (兵庫県)
 1991/07/18 (木)京都会館 第一ホール (京都府)
 1991/07/20 (土)紀南文化会館 (和歌山県)
 1991/07/23 (火)土岐市文化プラザ (岐阜県)
 1991/07/24 (水)名古屋市民会館 (愛知県)
 1991/07/28 (日)大倉山ジャンプ競技場 (北海道)
 1991/08/03 (土)白河市民会館 (福島県)
 1991/08/05 (月)花巻市文化会館 大ホール (岩手県)
 1991/08/08 (木)三沢市公会堂 (青森県)
 1991/08/09 (金)青森市文化会館 (青森県)
 1991/08/20 (火)熊本市民会館 (熊本県)
 1991/08/22 (木)宮崎市民文化ホール (宮崎県)
 1991/08/26 (月)新潟県民会館 (新潟県)
 1991/08/27 (火)佐渡市会館・公民館 両津文化会館 (新潟県)
 1991/08/30 (金)立川市市民会館 (東京都)
 1991/08/31 (土)茨城県立県民文化センター (茨城県)
 1991/09/05 (木)伊勢崎市文化会館 (群馬県)
 1991/09/07 (土)新湊中央文化会館 (富山県)
 1991/09/13 (金)神奈川県民ホール (神奈川県)
 1991/09/17 (火)千葉県文化会館 (千葉県)
 1991/09/19 (木)調布市グリーンホール (東京都)
 1991/09/20 (金)大宮ソニックシティ (埼玉県)
 1991/09/24 (火)鹿児島市民文化ホール 第一 (鹿児島県)
 1991/10/03 (木)岡山市民会館 (岡山県)
 1991/10/05 (土)広島郵便貯金ホール (広島県)
 1991/10/07 (月)徳山市文化会館 (山口県)
 1991/10/12 (土)舞鶴市総合文化会館 (京都府)
 1991/10/14 (月)長浜市民会館 (滋賀県)
 1991/10/17 (木)大阪厚生年金会館 大ホール (大阪府)
 1991/10/18 (金)浜松市民会館 (静岡県)
 1991/10/21 (月)知多市勤労文化会館(愛知県)
 1991/10/23 (水)名古屋市民会館 (愛知県)
 1991/10/26 (土)徳島市立文化センター ホール (徳島県)
 1991/10/29 (火)高松市民会館 (香川県)
 1991/10/30 (水)高知県立県民文化ホール (高知県)
 1991/11/05 (火)NHKホール (東京都)
…首都圏日帰り5公演に慣れてしまった昨今(いやそれはそれで素晴らしかったよ)、どうしたってこのラインナップには圧倒される。こういう時に、したり顔で昔はもっと本数やってたよとか他のシンガーはもっと公演数やってるぜとか言う人もいるかもしれないが…うるせぇよ。1991年の吉田拓郎その人の話をしてんだよ。
 本数ももちろんだが、札幌大倉山の野外ライブもあるし、佐渡ヶ島に渡ってのアイランドコンサートまでもある。それに公演ではないが、7/5の福岡から7/16の神戸の間に、拓郎はハワイに渡航して宇田川社長の結婚式に出席している。もう吉田拓郎のすべてが象徴的に収められているツアーだ。…いやそんなヘリクツを無理して付け加える必要がないほど、このツアー日程だけで十分にすんばらしいことが伝わってくる。
 あぁ現在だったらどうだろうか。これだけのツアーをもっともっと楽しむことはできたかもしれない…と悔やまれる。しかし後悔とはかつてそこに愛があった証拠である(by 是枝裕和)。とにかく33年も昔のことだが、今あらためて心の底から誉めよう、そして讃えよう。拓郎あなたはホントによくやったよ。ありがとう&お疲れ様でした。

2024. 1. 24

100分de名著「マガジンT(第10号)」を読む  第1話 ツアーが決まると僕等は合宿がしたくなる

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☆選抜と合宿の91年
 会報の終りが見えようとも、世間の風が冷たかろうとも、さあ、拓郎が、いよいよニューアルバム「detente」をひっさげて怒涛のエイジツアーに進撃するぞ。Go for it!

 91年の特徴として少数精鋭ミュージシャンたちとの徹底的な合宿があげられると思う。鎌田清が中心になって集めた若手ミュージシャンつまりは…
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   鎌田清(ドラム・34歳)
   鎌田裕美子(キーボード・31歳)
   稲葉政裕(ギター・31歳)
   青柳誠(キーボード&サックス・30歳)
   榊原雄一(ベース・27歳)
           ※年齢はツアー当時のもの
 彼ら五人がニューアルバムのレコーディングから全国45本のコンサートツアーまで一貫して回してゆくことになった。あの伝説の王様=極悪バンドと同様のフォーミュラである。そして制作・リハーサル・準備活動がすべてが長期合宿形式でおこなわれた。合宿大好きの拓郎さん…ということもあるかもしれないが、吉田拓郎を体解したあの極悪バンドの境涯に達するためには、文字通り寝食を共にする共同生活が不可欠だったのではないだろうか。14日間であなたも名ドライバー!!伊豆大島・波浮港自動車教習所の合宿免許みたいなものだ。>知らねぇよ

☆突貫レコーディング合宿
 1991年3月、アルバムdetenteレコーディングのため観音崎スタジオの隣接ホテルで20日間の合宿が挙行された。観音崎マリンスタジオで全13曲のオケ録りからトラックダウンまで20日間でを一気に完成させた。早朝から深更まで世界記録並みのレコーディングスピードだったらしい。タイムテーブルはとにかく怒涛のレコーディングだったようだ。以下は会報10号のあちこちから拾って整理したものだ。

 9時 朝食(ワカメの味噌汁)
 10時 スタジオ音出し
  〜以後18時の夕食までぶっ通し、1日3曲ペース
 深夜1時ころ スタジオ終了
 その後もチェック・修正作業


(人々の感想)
・レコーディングはしんどかったよね…とにかく朝から夜までやってますからね。次の日は全然違う曲が3曲待ってますからね。僕は凄く頭が混乱したな。(鎌田清)
・ギターの稲葉君はいっぱいダビングがあって一日中弾いてた日には手がボロボロになって…(鎌田裕美子)
・拓郎さんのギターに対する情熱がヒシヒシと伝わってきて指がとても痛かったです…精神的には一日が長かったですね(稲葉政裕)
・拓郎さん!朝が早いんですよね 夜遅くまでべったりおって、朝が早いんです(青柳誠)
・いいかげんワカメ(の味噌汁)ばかりじゃ飽きるよね(石原信一)

☆そして聖地つま恋リハーサル合宿
 1991年5月〜6月、コンサートツアーリハーサルがつま恋でおよそ30日間かけて挙行される。

 午前中 各ミュージシゃン音色などの調整
 11時30分 食事
 12時 リハーサル・スタート
   ぶっとおしで、途中10分程度のトイレ休憩を挟んでつづく
 18時 夕食
 19時 リハーサル再開
 21〜22時まで
 23時から飲み会


(人々の感想)
・5日間くらい合宿してあと都内でというのはあるんですけど、全部合宿というのはなかった(榊原雄一)
・拓郎さん朝早起きだからちゃんと日光浴して(鎌田裕美子)
・ 僕らとはもう5時間くらい生活の時間差があるんですよ(鎌田清)
・ 楽器によっては音色作ったりするから リハーサルの前の午前中をキープしたり
スタッフは朝から晩までリハーサルスタジオにいて(鎌田裕美子)
・夕食の時に拓郎さんが酒の誘惑に負けちゃうとその日はないですね(鎌田清)
・拓郎さんが「まぁ飲めまぁ飲め」とい言うんですけど…甘えて飲んでいると記憶がなくて(稲葉政裕)

☆合宿の帝王
 会報のミュージシャンインタビューでは、ハードな完全合宿にみんな戸惑っているようだが、それでも率先して切りまわしてゆく吉田拓郎の真摯な凄さに惹きこまれてゆく様子が窺えた。
 吉田拓郎の合宿好き、合宿力の凄さが伝わってくる。そうそう雲仙普賢岳のスーパーバンドのドキュメントで、つま恋で合宿でリハーサルしようと提案して、苦笑されつつ却下されるシーンも思い出す。どんだけ合宿が好きなんだ。
 しかし私たちは知っている。古くは「ローリング30」の箱根ロックウェルのレコーディング合宿、ライブ/イベントのメイキングビデオなどでの恒例のつま恋など名作、名ライブの歴史は合宿によって作られてきたのだ。
 典型的なインドア派で外出嫌い、旅嫌いという拓郎だが合宿は別のようだ。合宿においていかんなく発揮される才能の瞬発力たるや凄まじい。きっと合宿には何かが降りてくるのだ。ちょうど神楽坂の旅館にカンヅメになって書き上げる夏目漱石か伊集院静みたいなものだろうか?それともいつかラジオで言っていた「モータウンスタジオ」が理想としてあるからなのか。とにかくここは仰ぎみて吉田拓郎を合宿の帝王と讃えたい。
 
 とりあえず言っておく。今度ライブをすることがあったら、つま恋でファンも含めて合宿をしよう。リハから何から全部つきあう、合宿つきライブというのはどうだ。

2024. 1. 22

☆☆☆パリピ後藤☆☆☆
 自分で書いといてなんだが、2023年10月22日のa dayの会報5号の後藤由多加のインタビュー。学生時代、借金が膨らんだ後藤が起死回生、大学でフォークイベントを催す話。

「後藤は早稲田大学内の数十ものサークルを回って、サークルの人が呼びたいミュージシャンをリサーチし、そのミュージシャンを呼ぶから、チケットを捌くよう依頼する。その際、採算ラインを計算したうえで500枚以上売ったら、一枚につきチケット代のおよそ25%を取っていいという条件を取り付けた。これによって、各サークルはお目当てのシンガーが観たいため、また利益のためにチケット捌きを頑張り、それによってコンサートの制作コストの回収を確実にできるという計画だった」

 なんかメチャメチャ既視感があるな(爆)。

2024. 1. 21

100分de名著「マガジンT(第9号)」を読む  第8話 すれ違うような時が行く

☆背中合わせのランデブー
 さて、この会報にはあと3号で廃刊となる運命が待っていた。この時はまだそのことを知る由もなかった。それでもなんかしっくりいかないものは感じていた。
 前にも少し触れたが、会報第6号の巻末に「編集部ステイトメント」と題して藤井てっかん氏が、次号から紙面刷新を図るので会員の声を聴かせてくれと呼びかけていた。しかし翌7号の編集後記はこう記されていた。「悲しいかな本誌に関する反響は一通も来なかった。どうなってんだ、いったい。変革をとげようとする「T」に皆さんは何も感じないのでしょうか!?」…怒ってはる、てっかんはん、えらい怒ってはる。ファンを叱るファンクラブの会報って言うのも凄いな。
 しかしつづく会報8号では次号で「どうなる来年の巨人軍」という特集記事のために会員のコメントを募集したところ、会報9号では「悲しいことにほとんど集まりませんでした」ということで、イベンターの宮垣さんとか、こすぎじゅんいち、石原信一、ユイのスタッフとか身内のコメントで紙面を埋めていた。まぁ敢えてこの会報で巨人軍を特集してどうすると言う気もする。
 とにかく公式ファンクラブの会報と会員とのまるで背中合わせのような空気…これはいったい何だったのだろう。

☆祭りのあと
 公式ファンクラブの会員数とかその増減はまったくわからないが、ともかく会報と読者の間に静かなすれ違いが見え隠れしていた。その理由を思いつくままに勝手に考えてみる。

 @会報がスタイリッシュ≒よそよそし過ぎて参加しにくい
 Aファンの多くが仕事、結婚、子育て等々で日々拓郎どころではないライフサイクルに突入していた
 Bバブル真っ盛りで世界はもっと楽しい宴に溢れていた
 CたぶんAとBも関連して「何が何でも拓郎一択」という拓バカの絶対数が減少した
 Dファン同志の交流・情報交換は、さあくる、軍団という私設FCの方が充実していた

…他にもいろいろあるだろう。当時、俺みたいなヒマだったフリーターとは違い、大人のファンは切実に忙しかったのかもしれない。もうかつての"拓郎祭り"はあらためて終わってしまったことを痛感する。そしてこれは公式会報とファンとの関係だけではなく、吉田拓郎とファンとの間の熱度をも反映している気がしてならない。そこいらあたりが91年前後に漂う切ない哀しみの要因のひとつではないかとも思うのだ。

☆黄昏彗星群あらわる
 そこに彗星のように登場したビックコミックオリジナルの「自分の事は棚に上げて」によって会報はトドメを刺されたのではないか。なんてったて2週間に一度、毎回、吉田拓郎本人のエッセイに加えて最新のご尊影写真と「TAKURO NEWS」なる最新活動情報までがもれなくついてくるのだ。特にTAKURO NEWSは小さなはみだしコーナーだが、拓郎本人によるレコーディング、ツアー、メディア出演、最新提供曲などの告知であり「元祖拓つぶ」といえる。当時、私は雑誌を買うと真っ先にこのTAKURO NEWSからチェックし、次に写真を味わい、それからエッセイ本文を流し読むというかなり失礼なルーティーンだったことを思い出す。いずれにしてもこの雑誌連載は普通のファンクラブの持つ情報の速報性と充実を凌駕してしまっている。ということで公式ファンクラブへの期待は、チケットの会員優先販売があればいいということで矮小化してゆく流れが加速していったのではないか。

☆それでもついてくわ 手を離さないで
 しかし、例えばスポーツ観戦を楽しむには、スポーツ新聞だけなく、雑誌Numberのような考察系・掘下げ系解説媒体も不可欠であるように、この会報の存在意義も大きかったはずだ。実際にこうして読み返してみると素晴らしい記事や貴重な論考が満載だった。これらを熱く歓待できなかった状況こそが、やはり90年前後のそこはかとない哀しみなのだ。
 というわけで、この会報のリアタイでの「不幸」と受け手側の側のいたし方ない「不孝」を悔やみつつ、もう別れが近づいていった。止めないで!と八曜社に励ましのお便りを書きたいところだ。でも、あなたの読者でいたことを誇りに思える今だから、かなわぬ願いは求め過ぎず運命の河を流れよう。
 さて、あふれる涙いをぬぐいもせず、次回10号からはエイジツアーの開始である。このロングランツアーどんな内容でどう展開してゆくのか楽しみだ…けどもう知ってるよな(爆)。ともかく頑張れ、会報、骨は私が拾う。

2024. 1. 19

100分de名著「マガジンT(第9号)」を読む  第6話 思い出そうよ、あの時の君

☆おしえてハワイ、思い出してマウイ
 "暫定マウイ島"とか、会報9号の表紙やdetenteのジャケットがどこであろうと、マウイといえば吉田拓郎だ。あれから拓郎はハワイに行けたのだろうか。なんなら剛くんがハワイで挙式して拓郎夫妻が…ん…それはいいや、撤回。でも拓郎はハワイに行って欲しいなと心の底から思う。
 昨年末、さだまさしのカウントダウンコンサートin両国国技館に行った時、入り口では、さだが旗を振る「風に立つライオン基金」を始め、いろんなチャリティが広がっていた。その中に、マウイ島の復興のための基金があった。原田泰治のマウイのジャガランダの木の素敵な絵がチャリティのシンボルだった。
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 昨年のマウイの大火災は記憶に新しい。新しいとはいえ、あのときは募金をしたり悲しんだりした俺も、国技館に行った時にはすっかりその惨事を忘れていた。面目ない。しかしさだは忘れずにマウイのために復興の運動を静かにしっかりと続けていた。おかけで俺も思い出すことができた。
☆忘れかけたこと、忘れないこと
 今も能登半島のことはショックだし怒ってもいるしできることは他にないかとあれこれうすっぺらな頭で考えてみてはいるが、そんなことも僕はきっと忘れるだろう、それでもいつか〜ではなく、そういうとき昔の吉田拓郎の文章の一節を思い出す。
 何でもそうなんだ。当事者以外が、その場では目の色を変えても、次の何かが起きると狂ったようにそっちに飛びつく。大韓航空機撃墜事件はいまどこへ行っちまったんだ。亡くなった人たちの悲しみをいまでも同じように憤っている人間ているのか。
        (吉田拓郎「俺だけダルセーニョ」集英社 P.162)」
 拓郎にガッツリ怒られているような気分になる。文豪カミュもたぶん吉田拓郎のこの文を読んで小説「ペスト」にこんなことを書く>読んでねぇよ。ペストが大流行した死の街で闘ったリウー医師の心根をこう描く。
リウーが勝ち得たのは、ただ、ペストを知ったこと。そしてそれを忘れないこと。友情を知ったこと。そしてそれを忘れないこと。愛情を知ったこと。そしていつまでもそれを忘れないに違いないということだ。ペストと命の勝負で、人間が勝ちえたものは、認識と記憶だった
       (カミュ「ペスト」新潮文庫 P.431)
 何もできないが、せめて、できるだけ忘れないでいよう。忘れないことそれ自体が何かのチカラなのかもしれない。
☆懐古趣味と人はいう
 昔のことばかり書いている、特に33年前の昔の会報をまたダラダラと誰も読みやしねぇのに書いている。バカじゃねぇの。あざけられ、そしられて、理解を産まない。そのとおりだ。しかし、忘れないこと=記憶こそが、自分の何かだ、言えない何かだと思う。俺ごときの記憶だけでなく、ひとりひとりの頭と心の残っている例えば拓郎の記憶それこそが人間を生かしてゆくんじゃないのか。自分が体験した吉田拓郎のいる世界のこと、そしてマウイのことも今起きている悲痛事もせめて忘れないで記憶しておこうぜ。>馴れ馴れしいんだよ…すまん
 なんか今日は引用が多すぎるが、いいのだ、そういう日なのだ。
   記憶とは、死に対する部分的な勝利なのです
        (カズオ・イシグロ『動的平衡ダイアローグ』木楽舎)
 ということで、それぞれの忘れない拓郎の記憶を抱えてがんばって生きてまいりましょう。いつかパッチワークのように糾合できたらいいですね。つづく。
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2024. 1. 18

100分de名著「マガジンT(第9号)」を読む  第5話 教えてハワイ
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 会報9号の表紙の海辺でスラリと伸びた長い脚を投げ出している拓郎、アルバムdetenteのジャケットの海をバックに空がこんなに青いだなんて…と見上げる拓郎、91年のツアーパンフの風吹く丘に立つ拓郎…たぶん同じ場所だと思うのだが、これはどこだろうか? 今回ちょっと気になって調べても
みたが、調べ方が悪いのかどこにも書いていない。気になりだすと気になって仕方がない。そこで、旅行代理店で仕事していた経験のある知人に見せて意見を聞いた。

(旅)これは野生のポインセチアでハワイとかによく観られます。よくはわかりませんが、なんとなくこれは昔のマウイ島じゃないかなと思います。
(星)そんな昔じゃないんですよ。
(旅)いつごろの写真ですか?
(星)1991年です
(旅)…思いっきり昔じゃないですか、33年前ですよ。
(星)………<ちょっとショックで絶句>
 私の脳内で"かまやつひろしさんが♪古き時代と人が言う、今も昔と俺は言う…"と歌い始める。求む!アルバム「detente」をわりと最近のアルバムじゃんと自然に思っている感覚の人。

…ということで、確証はないが、暫定マウイということで、本当のところをご存じの方いらしたら教えて欲しい。つづく。…つづくのかよっ!

2024. 1. 16

100分de名著「マガジンT(第9号)」を読む  第4話 個人的なことに感じる個人的なこと

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☆さまよえるファンごころ
 会報9号に「個人的なこと。」と題する田中ぜんとうよう氏のエッセイが載っていた。"男達の詩ツアー"武道館公演の感想文だが、"田中ぜんとうよう"…誰なんだ。しかしその文章から拓郎に歴戦の熱いファンであられることは十分にわかった。そしてその熱き拓郎ファンの田中氏が苦しんでおられることもヒシヒシと伝わってきた。曰く、いつの頃からか拓郎はファンの恋心には応えてくれなくなり、自分のデスクには仕事が山のようにたまり、世界は戦争の殺戮や政治の危機で煮えくり返ってる。「疲れた」という田中氏の言葉がやるせない。
 当時はこの記事のセットリスト部分だけしか読んでいなかったが、こうして現在あらためて読んでみると切々と胸にしみる。それは時も人も違えど現在とまったく同じ状況だからだと思う。還暦過ぎての仕事はキツイし、肝心の拓郎は第一線を退いてしまい、世界は殺戮と命の危機に満ち、気持ちの悪い政治家どもは勝手なことを言い合うだけでは足りず、自由な批判すら封殺しようとしている。毎日能天気な日記を書いているだけの俺がエラそうに言えたものではないが、それでも田中氏の懊悩は心に響く。
 もういい加減にしてくれないかな。それがそのまま武道館に向う気持ちだった。日本に生まれたこと、東京で暮らしていること、そして自分がここにいることすらすべてがネガティブなことだった。期待するもの、期待できるものが思いつかなかった。ねぇ、拓郎もういいよね。そんな風にして僕は武道館の門をくぐった。(田中ぜんとうよう「個人的なこと」会報第9号P.8)
……なんかもう悲鳴のようにも聞こえる。
☆人は人の生き方をすればいい
 そんな田中氏が武道館のステージで短髪のいでたちで歌いまくる吉田拓郎の姿を目にする。「されど私の人生」「もうすぐ帰るよ」「ひらひら」「東京の長く暑い夜」「ロンリーストリートキャフェ」「春だったね」「ペニーレインでバーボン」「君去りし後」…一部だけどいいセットリストだね。「自分の居場所」をテーマに選曲されている。このライブを味わいながら田中氏は雲の切れ間の光が照らすように何かを掴む。
自分が信じたことをやればいいんだと拓郎は叫んでいた(ように思う) この馬鹿馬鹿しさの真っ只中で犬死しないための方法はひとつしかないんだと、拓郎は教えてくれた。人は人の生き方をすればいいんじゃないか。(同P.10)
 「馬鹿馬鹿しさの真っ只中で犬死しないための方法」…ああ、これは俺が高校生の時ボロボロになるまで読んだ庄司薫「赤頭巾ちゃん気をつけて」の一節に出てくる「馬鹿馬鹿しさのまっただ中で犬死しないための方法序説」のことだ。"みんなを幸福にするにはどうしたらいいのか"という問いを抱えた主人公薫くんは、馬鹿馬鹿しい世の中で犬死しないために悩み、そして闘う決意をする。その問いと悩みが多くの若い読者に投げかけられ導きとなった。しかしやがてその庄司薫も沈黙してしまった後、たぶん多くの人々が精神の路頭に迷うことになったはずだ。だから村上春樹は庄司薫の後継として書き始めたという説もあるけれどそこまではわからない、やれやれ。しかし、その庄司薫の永遠の問いの答えを吉田拓郎に見つけた人がいるということになんか妙に勇気づけられた。
☆たぶん旅はどこからでも始まる
 見ず知らずの田中氏に深く共感するが、たぶん当時の田中氏は20〜30代だろうが、今さら気が付いた私は60を超えてしまっている。でもいいのだ。さまざまに生きるだけ。人は人だもの。喜びも悲しみも遅れないうちに確かめろ。ということで、いかに現在の世の中が混沌として危うかろうとも、こたえはたぶん吉田拓郎の唄の中にある。わからないが、たぶんきっとある。だからこそ私の旅もまたここから始まるのだ。>さっぱり意味がわからないかもしれないが、すまんな。何を謝ってるのかもよくわからないが、やれやれ。
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2024. 1. 14

100分de名著「マガジンT(第9号)」を読む  第3話 振り出しに戻る旅に馬が飛んでゆく

🌟永遠の音楽雑誌と永遠の編集長

 音楽雑誌「新譜ジャーナル/シンプジャーナル」は拓郎ファンにとってバイブルだった。巨人に報知新聞、阪神にデイリースポーツ、吉田拓郎にシンプありだ。何が何でも吉田拓郎という80年代当時ですら既に偏った音楽雑誌だった。日本の音楽界は吉田拓郎と浜田省吾とふきのとうで回っているという世界観に浸ることができた。大越正実編集長は「この方針で一定の数字を掴んでいるから編集方針は変えない!」と啖呵を切り、吉田拓郎偏愛の旗を守ってくれた偉人いや神だったのだ。そのシンプジャーナルが廃刊してしまって1年以上経って、会報9号に久々にその大越正実元編集長の署名記事が載った。しかし…
 音楽雑誌の生存競争に敗れ去り、そしていささか音楽”業界”ってやつに疲れてしまった情けない僕は、全仕事量の7割がたを 競馬雑誌や書籍づくりにあてている。もともと競馬には並々ならぬ打ち込み方をしていて(略)かけた費用(つまり損した馬券代)は計算している途中に気持ちが悪くなるほどだった。(大越正実「拓郎の単勝をありったけ」会報第9号P.26)
…実にショッキングな告白だった。あのシンプの大越編集長が、音楽雑誌の競争に敗れ、音楽業界に疲れてしまったというのだ。こんな悲しいことがあろうか。その記事は競馬の調教師で熱心な拓郎ファンのKさんと知り合い、二人で飲んだくれ拓郎の話で盛り上がる内容だった。私は競馬をせずギャンブル一般に偏見があるので、すまないが、勝手に競馬に溺れ、やさぐれたイメージを描いてしまい余計に切なかった。
🌟すってんてんのあのじいさん
 ホラあれだよ、賭け事に身をやつして、有り金無くして、すってんてんのあの爺さんが出てくる歌があるじゃない。あの世界だよ。失礼お許しを。呑んだくれながら、二人は、いよいよ迫って来た@フォーライフが総力をあげプロモーションするというニューアルバム(detente)の発売とA本当に実現した45歳45本のエイジツアーに熱い思いを馳せる。いつだって、どこにいたって新作とツアー決起は眩しい眩しい希望なのだ。
🌟ボビーに首ったけ、単勝にありったけ
調教師の最後の言葉が熱い。
 拓郎って、やっぱり肌にあうんだよ。地ベタはいずってさ、耕して収穫しているじゃん、拓郎って。ドロンコになって失敗したりさ…そういう血みたいのを感じちゃうんだよ。血とか性とかさ、宿命でもいいんだけど…(前同P.29)
 やさぐれた空気にちょっと引きながらも落陽を聴いているようなソウルを感じた。確かに、この国ときたら賭けるものなどないさ…これを書いている今現在も本当にそのとおりだと思う。こんな世の中と自分を捨ててみたくなる。だからこうして競馬の事がわからない自分も
    拓郎の単勝をありったけ
 という叫びに妙に共感してしまうのだ。大越正実さん、どこかで逢おう生きていてくれ。
 というわけで今日は久々に「落陽」を聴く。'93の石川鷹彦とのアコースティックバージョンでどうでっしゃろ。
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2024. 1. 13

100分de名著「マガジンT(第9号)」を読む  第2話 魂のReverence

🌟"エンディングおじぎ"の史的展開
 会報9号に載った石原信一による90年年末の「男達の詩ツアー」の最終公演のレポートにこんなくだりがあった。
 彼のフィナーレはこのところ長いおじぎだが、この日は本当に時が止まったかと思えるほど拓郎は深々とおじぎをして動かなかった。「あのおじぎ、ツアーの最初の頃はギャグでおってると思ってたんだ」ギターの松尾一彦が髭をなでながら言った。「ギャグか、まいったな…
       (石原信一「横浜ベイブリッジの畔で」会報第9号P.16)
 俺はこの公演を観てはいないが、それに関係なくすべての拓郎ファンにはその姿がありありと瞼に浮かぶに違いない。今となってはもうおなじみすぎる"フィナーレのおじぎ"だ。この記事を読み、目が覚めてふと思う。もうこの会報のころ(1990年末)には定着していたとすれば、拓郎はいつからフィナーレのおじぎをするようになったのだろう。
 75年のつま恋では「春だったね」のエンディングでおじぎをしているシーンがある(エンディングとあわなくて大変だったと後日拓郎談)が、最後の「人間なんて」でおじぎしている様子はない。70年代後半から80年中盤までは、コンサートの最後は、両手を高々と挙げてヒラヒラ振って投げキッスというのが基本だったと思う。85年のつま恋のフィナーレがその意味では圧巻だ。
 映像でフィナーレのおじぎがしっかり確認できるのは、東京ドーム`89のオーラスの「英雄」の最後だ。ここで深々と頭を下げる。次の90年の"人間なんてツアー"も「俺を許してくれ」の終わりにていねいなおじぎをしてステージを去る。となるとやはり88年の休暇明けの「SATETO」あたりがフィナーレおじぎの転換点だったのではないかと推測される。
🌟美しき芸術品
 いやいや大切なのはいつからおじぎが始まったかではなく>ってオマエが言い始めたんだろ!、コンサートと歳月が重ねられてゆく中で、いかにこれが深化していったかということだ。
 コンサートのたびにあのフィナーレおじぎは胸に刺さる。その日のライブの拓郎の気持と観客の思いの結節点みたいなものだ。最高のライブだった時には、あそこでガッツリと絆のようなものが結ばれる。そうでもなかったとき(爆)…陳腐なセットリスト、客に対する悪態などで多少不満があったときでも、あのフィナーレのおじぎで、すべてOKな気分に説得されてしまう。
 そして歳月がすすむにつれて、怒り、喜び、哀しみ、そして病などいろんなことが起きた。それによってどんどんおじきにこめられるものが深められて、おじぎそれ自体が美しい作品のように彫琢彫拓されていった。
 そしていわずと知れた2019年に頂点に達する。「今夜も君をこの胸に」のリフレインの流れる中、文字通り時が止まったような深い深いフィナーレのおじぎから顔を上げたときの吉田拓郎のあの表情…ああもうたまらん。続きはそれぞれお好きなDVDで。
🌟わたしたちの幸運
 今の世の中でおじぎという所作は、形式的なポーズだったり、謝罪会見のお約束だったり、はては支配者への服従だったりと、なんかいろいろ微妙なものであることが多い。しかし、私たち拓郎ファンは、魂のこめられた美しい所作としてのおじぎというものを確かに知っているのだ。
 拓郎はいつからか拳を振り上げる分をおじぎにかえたのではないだろうか。その頭を下げる姿は決してへつらってはいない。歌い切ったものが胸を張るのではなく、内側に思いをこめて観客にアピールしているのだ。あの長いおじぎをしている間、何を考えているのだろうか。(同上)
…それは誰にもわからない。でも観る者それぞれの中にたぶん無数にあるのだ。
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2024. 1. 12

🌙🌙🌙月下氷人🌟🌟🌟
 さすがにびっくらこいた堂本剛&百田夏菜子お二人のご結婚のニュース。年始に国技館の「生さだ」で「生百田」を観たばかりなので感慨深い。心の底からおめでとうございます。剛くんもついに結婚か。結婚のご報告文に「世界平和」が出てくるところがなんともいいな。
 吉田拓郎が応援してきた堂本剛、さだまさしが推してきた百田夏菜子…もし結婚式があったら媒酌人は吉田拓郎&さだまさしでどうだっ!>どうだじゃねぇよ。私も端くれから、お二人のお幸せと世界の平和を魂の底からお祈り申し上げます。

2024. 1. 11

100分de名著「マガジンT(第9号)」を読む  第1話 1991年とはなんだったのか

 会報第9号の発行は1991年だ。73年とか75年とか79年とか85年とか教科書に載るような年号と違い「91年」と言われてもピンと来ない。地味にスルーされてしまいがちな91年だが、この年の吉田拓郎の活躍は概略こんなんだった。

<通年>
 まず年明け早々"ビックコミックオリジナル"91年3号(1月19日)から、見開きでエッセイ「自分の事は棚に上げて」の連載が始まった。キャッチコピーは"時代に選ばれた男"だったと思う。この連載はなんと3年以上もつづき2冊の単行本にもなった。当時、毎号100万部を超える人気雑誌の豪華執筆陣となり、おなじ1946年生まれの景浦"あぶさん"安武とレギュラーチームメイトとなったのだ。
<上半期> 
 1月からホテルに缶詰めになって曲を作り始め、3月にアルバム「detene」(全13曲)を打ち込みではなくバンドサウンドによって一気に3週間で作り上げて6月に発売。いろいろ意見はあろうがこのアルバムの代表曲は名作「たえなる時に」だ。俺は「裏窓」が好きだが。とにもかくにも名盤ばい。テーマは「男が空を見上げる時」。なんたって13曲も入っているところが嬉しい。「ひまわり」なんて8曲だぜ。量ではない質だというご意見もあろうが、量だって(笑)。スーパーで100g増量と書いてあるとそれだけで買ってしまうじゃないか。それに量が閾値を超えて質に転化するものだとあのクボリ先生も言っておられた。いみふ。
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<中期>
 これらの上半期と下半期の狭間に若者共和国の依頼であの名曲「吉田町の唄」が完成して、レコード未収録曲としてエイジツアーでも歌われ、この曲が翌92年にブリッジをかける。
<下半期>
 エイジツアー。といっても島村英二はいない。エイジツアーってなんじゃい。手っ取り早くこれだ。
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 6月から11月までの超絶ロングランで45本(予定)のコンサートツアーを完走した。実際は43本になってしまったことにも注意だ>なんの注意だよ。まぁ、今日まで生きてきた拓郎ファンにとって2本の中止くらいはかすり傷だ(爆)。とにかく旅が嫌いな拓郎がむっちゃ旅をしまくった1年間だ。
 当時、和歌山に住んでいた友人から「1000人ちょっとしか入らない田辺の紀南会館に拓郎が来るらしいが、そんなに困ってるのか?」と心配の電話があった(爆)。またある時は佐渡ヶ島にも渡ったらしい。ジェンキンスさんか。何気にアイランドコンサートここに再びである。そんぐらいの気合をこめて拓郎は旅をしていたのだ。

 まさに「歌は労働だぜ」というかつての拓郎の口癖を思い出させる働きぶりだった。この1991年1年間を漢字一文字で表すと「旅」だと思う。 物理的な旅だけではなく、父親の声を聴かんとする時空を超えた心の旅があったからこそ「吉田町の唄」も生まれた。
 このように名作を発表し、精力的なコンサートツアー、人気雑誌の連載という「91年の旅」は破竹の大進撃といえる。しかし、しかしだ。それと同時に俺には,91年の旅は、そこはかとない悲しみと背中合わせになっているような気がしてならないのだ。あのとき、世間を吹く風、ライブ会場の空気、それは拓郎だけでなくファンも含めて言葉にできないさまよいの中にあったように思う。このことをなかなか共感してもらえないのだが、求む、居酒屋で涙ぐみながら91年の愛と哀しみを話しあえる人(爆)…そこら辺をそろそろエンディングが近い会報から読み取って書いておきたい。
 しかし現在に思えば、その悲しみも含めて本当にすばらしい旅だったのだとあらためて思っている。では、つづく。

2024. 1. 10

☆☆☆しばれるね☆☆☆
 今年は年明け早々に両国国技館で石川鷹彦先生の笑顔にお会いできて最高にハッピーだった。なのに、その後はなんともやり切れない事態が続く。
 そんな中に八代亜紀さんの訃報に驚く。俺もいちばん好きなのは映画「駅station」の「舟歌」だな。でも、あそちゃんの追悼文があまりにすばらしすぎてもうそれ以上に言うことはない。映画の主題歌なのか映画が舟歌のプロモーションフィルムなのかわからないくらい印象的だった。

 1980年の春に拓郎が夜のヒットスタジオに「あの娘といい気分/いつか夜の雨が」で出演したとき、司会の芳村真理が「拓郎さんて凄くチャーミングなのよね」とつぶやくと横から八代亜紀がいきなり手をあげて「ハイ!私もそう思う!」と切り込んできた姿が忘れられない。嬉しかったなぁ。

 2017年の阿久悠トリビュートコンサートで生の「舟歌」を聴けたのが私の冥途の土産のひとつです。遠くからですがありがとうございました。心の底からご冥福をお祈りします。

2024. 1. 7

☆☆☆闘うキミを嗤うヤツら☆☆☆
 昔、吉田拓郎は「馳せ参ずる」という言葉をよく口にしていた。魂をもって駆けつけるという意味で使っていたように思う。
 ただ現場に行けばOKというわけではないが,やはり魂をもって現場に「馳せ参じた人たち」がいる。彼等を嗤うな。ましてやホントは馳せ参ずべきだった連中と一緒になって石を投げるんじゃないよ。
 「偽善」なんて言葉も目にするが、そんなとき泉谷しげるの「おい!さだ!一緒に偽善に行くぞ!」という言葉を思い出す。胸がすく。いいぞ!泉谷☆。そんな泉谷のもとに拓郎も馳せ参じたんだよな。ということで当然、曲は吉田拓郎の「ファイト!」。よくトチってしまうので(爆)完成版は意外と少ない。やはり'96の感度良好ナイトかな。ふるえながら登ってまいりましょう。

2024. 1. 4

☆☆☆文春砲☆☆☆
 拓郎ファンの朋輩から元旦に発売中の週刊文春最新号のキャンディーズ特集のことを教えて貰った。スージー鈴木とマキタスポーツの対談で、キャンディーズにおける拓郎メロディーへのレスペクトが凄く良かったということだ。今世間で話題になってる例の記事が載っている号なので残っているかと心配だったが、一般書店で余裕で買うことができた。
 朋輩はきっと俺が新年早々仕事場で「紅白のキャンディーズ観ましたかぁ」とか話しかけられていきなり相手をぶん殴ってしまう「とんび」の"ヤス"になってしまうことを心配したのだと思う。すまん。
 だいじょうぶだ。わが心のキャンディーズ。拓郎メロディーが無かったからって、文句や不満などありえない。しかしもちろんこれが森進一紅白スペシャルメドレーでもし「襟裳岬」が入っていなかったら、そのうえ「冬のリビエラ」だけは入っていたりしたら俺は川内康範先生以上に骨まで怒るに違いない。そんときゃ虎屋の羊羹でも許さない。ま、俺が怒ったところで「ヘ」にもならんが。

 しかし、この文春の記事は運命の出会いと思うくらい嬉しかった。私にとってこっちの方がよっぽど文春砲だ。朋輩に感謝したい。昔から思い続けていてこのサイトで何回も書いたが、殆ど共感を得られなかった「夏が来た」=拓郎節そのもの説。同じことを胸に強く抱いておられる方に会えた。しかもこのスージー鈴木は「ペンタトニック」という音楽理論を用いて「年下の男の子」も拓郎節であるという…俺も思ってはいたが怖くて言いだせなかったことを見事に喝破している。なんとクレバーな。
 なので拓郎のメロディ―であろうとなかろうとキャンディーズの楽曲は、鰹節のように拓郎節がいい出汁を出している世界なのだ。拓郎の曲が無かったから不満だとか、そういう小さいところじゃ俺は生きていないよ(爆)

2024. 1. 3

☆☆☆運命のひとひねり☆☆☆
 地震の被害がどんどん詳らかになってゆく切迫したニュースのうえに、航空機が羽田で炎上したニュースをリアルタイムで観て、もう器の小さい俺はキャパ超えでわけがわからない。しかも被災地救援のために海保の方々を乗せた飛行機だったというからもう神も仏もありゃしない気分になる。それに観えないところで原発は本当に大丈夫なのかということも不安になってくる。まさにわたしたちは運命のひとひねりの中で木の葉のように舞うだけ舞うしかない。

 これを超える悲痛事があちこち盛大に頻発してゆくのが戦争だと思えば、戦争は許すまじだとあらためて思う。何といわれようと命を救う営みこそすべてだ。

 お世話になった和倉の旅館はかなりの被害だったようだが、従業員たちが宿泊客を身を挺し庇うようにして的確に避難させてくれたという書きこみをいくつも読んだ。
 すごいスピードで鉄道や空港を回復させる人々、乗客を一人残さず守った航空機の乗務員の方々、現地の救援のために走り回る人々、関西からも駆けつける消防隊、やっぱ人は人でしか救えない。冗談ではなく日本トレーシーアイランド化計画(>なんだそりゃ)に向けてがんばりたい。 
 ジェフ・トレーシーのように資産も救助隊装備もないので、今のところ僅かの募金くらいしかできていないが、これも多種多様過ぎて、どこにどう配分してゆけばいいのか謎が多い。ともかくみなさまの息災を祈ります。

 今日はこの曲かな。T&ぷらいべえつ「運命のツイスト」。なんか活力が湧いてくる。

2024. 1. 2

 地震で被災された皆々様に心の底からお見舞い申し上げます。だれもが新年を迎えて希望に満ちたおだやかな日にこういう事態が待っているというのは全くなんというこの世なのか。
 われらが吉田拓郎も必ずや深く深く心を痛めているに違いない。勝手に断言するが、あの人はそういうお方だ。
 さだのコンサートに行ってみて、あらゆる悲痛事に対して何といわれようと自分にできることからどんどんカタチに実行していく姿にも恐れ入ったばかりだ。
 おれは何処へゆこう君は何処へゆく…何もできないがそれでもヘタレの自分にも何かを感じ何かできることはあるのか。とにかくご無事をお祈りします。

2024. 1. 1

☆☆☆僕らの音楽の旅ははてしなくつづく☆彡☆彡☆彡
 新年おめでとうございます。ここのところ初夏、初夏とウルサ過ぎたか。ともかく昔から正月は冥途の旅の一里塚、めでたくもあり、まためでたくもなしなどと申します。

☆だって日本青年館がないんだもん
 年末年始、いろいろあって行き場所のなかった私は、さだまさしの両国国技館のカウントダウンライブに初めて参加した。大晦日夜8時開演で、落語、紅白の中継、カウントダウンを経て、そのまま「生さだ」観覧に至り、結局元旦午前2時30分までという長丁場だった。しかしながら一瞬たりとも飽きさせなかった。「元・色男」島村英二先生もお元気で踊りまでご披露されていた(爆)。そこでは、ホームもアウェーも何もなく、門外漢の私も含めて音楽に歓待されている気分で最高に楽しかった。またジジババのファンがメインなのだが、彼らが子孫や若い世代を連れてきて思い思いに升席で和んでいる様子はそれだけで素敵なものだった。

☆ホントのエースが出てこない
 なので、紅白での伊藤蘭のキャンディーズメドレーの内容を知っても穏やかな気持ちでいられた。ただ「ラストシングル『微笑がえし』を除くとキャンディーズ一番の売上枚数シングルは『やさしい悪魔』なんだぞオラぁ!」とチョッと思っただけだ。>怒ってんじゃん。いや、いい。それでもいいのだ。

☆石川鷹彦先生の背中
 私が書きたかったのは、昨日生さだの中でさだ本人も話していたようにこの日の国技館には石川鷹彦さんが観覧にいらしていたことだ。
 たまたまツレが、カウントダウンが終わって生さだ収録が開始する前のインターバルの時にちょうどお帰りになられる石川鷹彦さんとご家族をみつけた。飛んできて私に教えてくれたので転げるように玄関口に走った。ああ、石川鷹彦さんだ。出口に向かわれる石川さんの背中におそるおそる声をかけさせていただくと笑顔で振り返ってくださった。顔色もよくて、あの石川鷹彦さんだった。先日の拓郎のラジオの話が忘れられないツレが「拓郎さんのことをお願いします!」と叫ぶと今度は大笑いして頷いてくださった。ご家族も会場の係の人もさすがに笑っていらした。ここはさだのコンサートだ。でも、いいじゃないか…はさらばのB面。玄関口で石川さんは振り返るとまた手を振ってくださった。嬉しさ、感激、言葉にならない純粋経験だ。俺らも涙ぐみながら思いきり手を振った。書いている今もまだ気分が高揚している。

 とにかくSPも一般Pも拓バカもすべからくみなさんお元気でいらしてください。心の底からそう思う。音楽のことなんぞわからない無明の俺だが、端くれとして音楽とともにいたい。それが生きる"よすが"だ。ということで今年もよろしくお願いします。
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2023. 12. 31

☆☆☆また歳月が行ってしまうから☆☆☆
 年始年末はただの通過点と言っときながら大晦日は感慨深い。ホントだったら、大晦日は、日本青年館に行って、篠島アイランドコンサートの映画を観たあとで、ライブを満喫して「ファミリー」を泣きながら唱和する予定だったのに残念だ>いつの大晦日だよ。で、古い唄は捨てたといって、すぐ翌年、お祭りだからと言ってまた拾うのだ>よしなさいっ!…だからこそ今日まで、そして明日の初夏があるのだ。
 ということで拓郎が唄ってくれないのでちょっと音楽の旅に出ます。探さないでください>探さねぇよ!知らねぇよ!

 ホントに皆様、平和で自由な初夏が迎えられますよう心の底からお祈り申し上げます。よいお年をお迎えください。
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2023. 12. 30

⭐️⭐️⭐️バックアップするぞ〜⭐️⭐️⭐️
 紅白の伊藤蘭「キャンディーズ50周年 紅白SPメドレー」はどんなメドレーだろうか?予想してみる。

 やさしい悪魔〜あなたのイエスタディ〜銀河系まで飛んでゆけ〜アン・ドゥ・トロワ

 どうだっ!>どうだじゃねぇよ、ありえねぇよ。…あぁ、笑わば笑え悟りし人よ。こんな馬鹿なことが言えるのも明日になるまでさ、それでいいよね。

 しかしメドレーでまとめて聴くとこの拓提の4曲。まったくカラーが違う名曲4曲を見事に描きわけている。並べ方によって起承転結になったり序破急になったり組曲になったりと多彩だ。天才かおまえは(爆)。
 「あなたのイエスタディ」だけはチョッと今ひとつかなと思ってきたけれど、メドレーに落とし込んで聴くとこの曲のたゆとうような美しさが映える。もうミキちゃんが拓郎のメロディーを切なく歌っているだけで魂が震える。って、出るのは蘭ちゃんじゃん。

 えーい、かまわん。外れてもかまわん。拓提も非拓提も含めてすばらしい世界がそこにある。GO!GO!キャンディーズ!

2023. 12. 29

☆☆☆ゆく年、くる年☆☆☆
 結局、忘年会もせずに今年も暮れてゆくが「初夏」が頭に刻まれた奇特な私には、年始年末など単なる通過点にしかすぎない。吉田拓郎が何年も前から「元旦の朝からウチはトーストを食べる」とラジオで語っていたが、そういう感じでゆきたい。
 映画監督の小津安二郎が

  どうでもいいことは流行にしたがい
  重大なことは道徳にしたがい
  芸術のことは自分にしたがう

 という名言を残したが

  どうでもいいことも重大なことも芸術のこともすべて吉田拓郎にしたがう

 ということでシンプルに生きたい。いいのかそれで。いいじゃないか…はさらばのB面。ということで、ちょっと早いが、ええ唄やね。

     「夏が見えれば」(作詞・作曲 吉田拓郎)

 七月が見えたら 言葉にしてみよう
 もう一度この僕に 時間をくれないか

 夏が見えたら あなたに逢いたい
 見つめたい 話したい 生まれ変わって

 夏が見えれば あなたをこの腕で
 今一度抱きしめて 夏が見えれば
 夏が見えれば 窓を開けて
 あなたに逢いたい 夏が見えれば

 みなさまも御身体にご留意のうえ、良いお年を…じゃない良い初夏をお迎えください。明日も書くけど。

2023. 12. 28

☆☆☆風は向かい風☆☆☆
 森永卓郎氏の病気のニュースがショックだ。ごく最近のインタビュー記事で、老後の楽隠居生活を捨てて、この世界の闇と命がけで闘うという決意を読んだばかりだった。以前、俺は「ポンコツな"人間なんて"をラジオで歌うなよ」とか悪態をついたこともあったが誠にすんません。自由や命が粛々と削られてゆく理不尽な世界の堰にならんとする森永卓郎の覚悟に勇気を貰ったところだった。どうかご快癒され、活動が存分に続けられますように。吉田拓郎のフォースとともにあらんことを。そして長寿と繁栄を。

 最近はこればっかだな。もうこの曲、好きすぎる。

       純

 僕が泣いているのは とても悔しいからです
 人の尊さ優しさ 踏みにじられそうで
 力を示す者達 しなやかさを失って
 ウソまみれドロまみれ じれったい風景でしょう
 より強くしたたかに タフな生き方をしましょう
 まっすぐ歩きましょう 風は向かい風
 どけ どけ どけ 後ろめたい奴はどけ
 有象無象の町に 灯りをともせ
 どけ そこ どけ 真実のお通りだ
 正義の時代が来るさ 希望の歌もあるさ
 僕の命この世に 捧げてしまっていいさ

 どけ どけ どけ どけ 情をなくした奴はどけ
 生きる者すべてが 愛でつながれる
 どけ どけ そこ どけ 正直のお通りだ
 アナタの為の僕さ 悔し涙のままさ
 たぎる情熱の僕さ ゆれる心のままさ
 僕の命アナタに 捧げてしまっていいさ
 僕の命この世に 捧げてしまっていいさ

2023. 12. 25

100分de名著「マガジンT(第8号)」を読む  第9話 街を出てみよう 汽車に乗ってみよう 
 
 NACK5の9時間ぶっとおしラジオ放送の最後に拓郎はこう語った。
 ツアーを生まれて初めて60本か80本やってやるよっていう。死ぬかもしれませんけども、80本やってみようかっていう気分でいるんですよ。
 続くツアーの武道館でも「来年は歳の数だけやる!」と宣言したというニュースがこの会報にも記載されている。その発言聴いた四国のイベンターデュークの宮垣睦男社長の文章が寄せられている。拓郎のラジオの話題にもたびたび登場し、先日(2023.12.15)のラジオでも小田和正とも深いつきあいがある名物イベンターとして名前があがったお方だ。 
  吉田拓郎は嘘つきです。「古い歌はもう歌わない」「アンコールなどやらない」「コンサートはもうやらない」等など数え上げたらキリがありません。その度に僕はがっかりしたものです。がしかし御存知のようにそんなこといつ言ったのかなんて顔しながら元気にステージをやってます。
 最近は真面目になったのかと思っていたところ、先日の武道館でナント「来年は歳の数だけコンサートをやる。」「俺の行ったことのない街でもコンサートをやる」などと大嘘をつくではありませんか、しかも一万人のファンの前で。ツアー本数45本以上、終演後の夜の街が寂しくてもかまわないなんてことは今までに一度たりともあったでしょうか。僕は不安でたまりませんが、本人の決意は固いようです。
 いろんな意味で心に染みいるような宮垣さんの文章だ(爆)。ということで会報8号は、怒涛の91年のエイジツアーへの期待を盛り上げて終わる。いよいよ会報も大詰めだ。どうするどうなる1991年、吉田拓郎と俺達の明日はどっちだ!ということで、会報9号につづく。

2023. 12. 24

☆☆☆星は光っちゃう☆☆☆
 「諸人こぞりて」聴いてますか? 何百回聴いてもすんばらしい。このボーカルの艶とカッコよさ。しぼめる心の花を咲かせ、めぐみの露を置く、主は来ませり、主は来ませり、主は初夏の頃には来ませり

<これまでのあらすじ>
 さてT's会報シリーズをつづける。1990年、デビュー20周年を迎えて短髪になった拓郎は"自分の居場所"というシンボリックなテーマのコンサートツアー「男達の詩」を挙行し、自身の20年を振り返る9時間連続ラジオ、ライブビデオボックス'70-'90の発売など祝祭モードにあった。会報でもライブビデオボックスをガッツリ応援する特集記事が組まれた。その中のひとつを拾う。
100分de名著「マガジンT(第8号)」を読む  第8話 音量を下げるな

 会報のライブビデオボックスの関連記事に吉田拓郎のコンサートのPAを長きにわたって務めた伊沢俊司氏のショートインタビューが載っていた。

1.ホントは怖いユイ音楽工房
「アメリカで32チャンネルのミキサーを買ってきた」という誘いに設立間もないユイ音楽工房に入社した伊沢氏だが、入社してみたら「アメリカ製だけどオモチャみたいな8チャンネルのミキサーが4台あるだけで、(8×4=32)ということでだまされた(笑)」という結構悲惨な入社経緯を語っておられた。
 また83年の豪雨で中止になった後楽園球場サウンドマーケットでは、球場の排水溝にまでシートを敷いたため雨水がたまり溺れそうになって死を覚悟したという。
 わたしたちの憧れとは裏腹に実はとんでもないブラックじゃないのかユイ音楽工房(爆)。

2. PAに望むものは
 伊沢氏は、当時の拓郎はPAにどんな注文をしていたのでしょうかという質問に対してこう答えた。
 とにかくドラムのキックとベースが体にズン!とこなきゃ嫌だって人です。それから激しい曲が続いたあとでスローな曲になっても「音量を下げるな」って注文されたのを覚えています。静かな曲でもガーンて声が聞こえていましたね。
 いいねぇ。なんかとてもよくわかる気がする。ああ、拓郎のライブってそうだったよな。伊沢氏は例えばどのライブのどんな曲かは言ってないので想像するしかない。なんとなく思いつくのは、「王様達のハイキング」→「悲しいのは」→のあとの「S」。 これなんかそうじゃないのかと思う。王様バンドの砲撃のような演奏が終わって、中西のピアノが流れて
  とても長い間君は 愛なんて嘘ッぱちだわと
  強い女が一番似合うんだからと
  意地っぱりでいたんだよね 一人で居る時は
  きっと涙も隠して 空を見ていたんだね…

 まさに上気した武道館で「静かな曲でもガーンて声が聞こえていた」。ああ、いいよな〜ライブは。いろんなライブにあちこち出かけてはみるけれど、結局どこにいってもアウェーなんだもんよ。悪魔のひとやを打ち砕きて捕虜を放たんと主は、主は来てくださらんか。 

2023. 12. 23

☆☆☆季節の花☆☆☆
 ドラマ「いちばん好きな花」が終わった。ドラマの世界に没入するには年齢的にちょいと難しかったので静かに黙っていたが、毎回、誰かと感想を語り合いたくなるような実に深いドラマだった。人の自由って何だったい?、少数派よ魅力的であれ!という昔からの私にとっての教えをゆるやかに表現してくれていた傑作だった。脚本も演者も申し分ない。今後も繰り返し観つづけてしまうドラマに違いない。
 最終回で出てきた「いちばん好きな花は、ひとつでなくていい」というフレーズは、吉田拓郎が2003年の春先に語った「思い出はひとつでなくていい」「あの思い出が一番で、それを超えるとか超えられないというのでなく、思い出はたくさんあればいい」という言葉を思い出させるね。
 好きになればなるほど「いちばん好きな曲」「いちばん好きなアルバム」「一番好きなコンサート」「いちばん好きなサポートミュージシャン」…ひとつになんか絞れなくなってくる。それでいいのだ。それがいいのだ。たぶん好きになるということは「いちばん好きな」何かを選別し突き詰める作業ではなく、「いちばんすき」と言いたくなるようなものでこの世界を敷き詰めてゆく作業なのではないか。
 「明日の前に」は松任谷正隆のアレンジと瀬尾一三のアレンジがある、「リンゴ」は石川鷹彦と鳥山雄司のバージョン、「落陽」は高中正義と青山徹、どっちが好きか、なにがいちばんかではなく、これだけ多様多彩ないちばんがある世界こそが幸福なのだと思うのだ。
 そうそう"バラ"でも"スイートピー"でも"さくら"でもなく「季節の花」とするのもそういうことなんでねぇのか。

 拓郎がご推奨の藤井風の歌う主題歌も良かった。最終回でピアノを弾いている姿…なんか原田真二かティモシー・シャラメかという感じで…んまぁ、なんだな。

2023. 12. 22

☆☆☆初夏の頃☆☆☆
 寒波が押し寄せてきたが拓バカの頭の中はたぶん「初夏」一色である。初夏とはいつなのか? 暦を調べたりしても無駄である。大事なのは、あの人の頭の中にある「初夏」がいつなのか?だから。ということで次のとおりライブ73のライナーノーツが手がかりになる。
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 「1974年初夏…新しい唄を聴いてもらう事になるだろう」と記されている。これはシングル盤「シンシア/竜飛崎」のことだった。「シンシア」の発売は1974年7月1日。ということで、あの人にとっての初夏とは7月1日あたりのことを指すものと思われる。…もし違っても知らねぇけど。
 ということで泣きたい気持で冬を超え気がついたら春も過ぎていた六月の風の中で、せまる初夏、地獄の軍団。わが友よ、イヤ、どなたさまも、それまでは、がんばって生きてまいりましょうぜ。
 ということで聴くべき曲は「初夏'76」なのだろうが、頭の中では愛奴/浜田省吾の「初夏の頃」がずっと鳴っている。好きだあ。

   蒼い雲が河を流れる
   此処は僕等の最後の世界
   木立に透けて見える
   初夏の陽差しと甘い憂鬱
 

2023. 12. 21

☆☆☆半世紀生きた犬の気持ちで☆☆☆
 NHK「ジブリと宮ア駿の2399日」を観た。盟友であり師である高畑勲を失った宮ア駿の苦闘の様子には門外漢の私でも涙ぐんだ。あと宮ア駿と鈴木敏夫Pとの間で写真を撮ってもらっただけで泣いてしまう、あいみょんの気持ちも痛いほど刺さってもらい泣きしてしまった。あれはきっと例えば吉田拓郎と小田和正の間に入って写真を撮ってもらう犬の気持ちだ。>いや違うだろ

 不謹慎だが、このドキュメントの興味のもうひとつは、引退宣言と撤回を繰り返すアーティストの心情とそれに対する周囲の人々の接し方にある。あの方のことを考える時にいろいろ参考になる。
 なぜ毎回、これで終わり=引退だというのか。宮ア駿はこう答えた。
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 …使える。あの方にはこんなサイトもタタリのひとつかもしれないが。宮ア駿のインタビューでは「引退は引退なんだよ」と答えながら「忘れちゃう」「どうでもいいこと」とうそぶく。
 側近中の側近である鈴木敏夫Pは「宮さんは嘘つきだもん。もう辞めると言っておいて、またやる」「でも作る人ってそうだよね。それも才能のひとつなのよ。」という魂のアシストをする。…そういう言葉にかぶせて、作業中の宮ア駿が♪平気でウソをつく〜と鼻歌を歌うシーンが映る(爆)。そういうものなのだ。生まれ出ずる作品を前にウソもホントもない。しかし、ちっ!またウソつきやがってと思う時が不肖私にはある。宮ア駿と吉田拓郎は違うが、同じと言えば同じだ。「吉田拓郎は嘘つきだ」と他人から言われたり、自分で思ったりした時の便法としてひとつの参考にするよろし…

2023. 12. 19

 寺尾関=錣山親方が亡くなった。相撲には疎いが、男前の"つっぱり"力士の勇姿はもちろん知っていた。5年ほど前に生まれて初めて友人に連れられて国技館の相撲見物に行ったことがあった。このときは相撲協会の特別な時期だからか、受付の切符のもぎりがなんと寺尾関=錣山親方ご本人だったので驚いた。当然ガッツリ両手で握手してもらった。慣れない様子で、はにかんだように「中で引き換えて、どうぞ楽しんでいってください」と言う姿がとても素敵だった。
 間近で見てもやっぱり男前だった。そのとき「あ、この人、顔が後藤由多加に似ている」と思った。いや似てねぇよという反論があるかもしれないが、少なくとも後藤由多加系のハンサムだと思った。寺尾と拓郎ってなんかゆかりがなかったろうか。
 それにしても若い。早すぎる。身近な方々、ファンの方々のお気持ちはいかばかりか。心の底からご冥福をお祈りします。
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2023. 12. 18

☆☆☆愛と哀しみのワンハーフ☆☆☆
 ワンハーフでしつこく書いておきたい。同じ1975年、堺正章が吉田拓郎の提供曲「明日の前に」をテレビで歌う時は、必ず「ワンハーフ」というか「中抜き」で1番と4番を歌っていた。なのでそういうシンプルなサイズの歌なのだと思っていた。これまたtくんが「今度のマチャアキの歌、拓郎は手を抜いてるよね」「だよな」と教室で話したのを憶えている。

    明日の前に(テレビサイズ)

 どれだけ歩いたのか 覚えていません
 気づいた時は 風の中
 涙がひとしずく 頬をつたう頃
 淋しい夜だけが むかえに来ました
 あ〜あ人生は 流れ星
 いつ果てるともなく さまようだけです

 時には自分をふりかえります
 話しかけます 涙のままで
 あふれる悲しみを笑いに変えて
 さすらう心根を 歌にたくして
 あ〜あ人生は めぐりめぐる
 いつ安らぐのかも夢の彼方へ

 あーそうっすか、と言う感じの歌として聴いていたのだが、後になってアルバム「明日に向って走れ」を完全版を聴いて、ああああ、実は2番と3番があったのかと知ってすんげー驚いた。鎌倉の大仏が立ち上がったくらいの驚きだった>見たことあんのかよ。フルサイズで聴くこの歌の全容に感銘を受けた。

     明日の前に

 どれだけ歩いたのか 覚えていません
 気づいた時は 風の中
 涙がひとしずく 頬をつたう頃
 淋しい夜だけが むかえに来ました
 あ〜あ人生は 流れ星
 いつ果てるともなく さまようだけです

 いろんな言葉にまどわされました
 枯葉の舞う音も 覚えています
 一人でいてさえも 悲しい町で
 愛をみつけても 言葉がないんです
 あ〜あ人生は 一人芝居
 いつ終わるともなく 続けるだけです

 貧しい心で生きてみます
 こわれた夢も抱きしめて
 傷つけあうよりも たしかめあって
 やさしい鳥になり 空へむかいます
 あ〜あ人生は はぐれ雲
 いつ消えるともなく 流れて行きます

 時には自分をふりかえります
 話しかけます 涙のままで
 あふれる悲しみを笑いに変えて
 さすらう心根を 歌にたくして
 あ〜あ人生は めぐりめぐる
 いつ安らぐのかも夢の彼方へ

 あ〜あ人生は めぐりめぐる
 いつ安らぐのかも夢の彼方へ

 素晴らしい。テレビサイズとは別曲といっていい。この2番と3番があることで、4番の「さすらう心根」が実に深みをもって迫って来る。これは最初はワンハーフだったからこそ一層深く味わえた感激なのかと思ったりもする。

 昨日、ワンハーフの不本意な引き合いに出した「外は白い雪の夜」。これもセイヤングのロックウェルスタジオの初お披露目の時には3番までで終わってしまい、そういうサイズの歌だと思っていところ、完成版にはあの4番があって驚いた。長年3階建てと思って住んでいた家に実は広大な地下室があったことを知ったような驚きだ>ってそれ怖い話だろ、そういうのもういいから。んまあ、だからこそ4番がいっそう愛おしく感ずるのかもしれない。

 「ワンハーフ」「中抜き」のケガの功名とともに、拓郎が言うとおりキチンと全力でつくりこんである楽曲はやはりそれとして味わうべしというお話でした。

2023. 12. 17

☆☆☆O.Hは恋のイニシャル☆☆☆
 あの事件で特によくなかったのは司会者が「ワンハーフ(One+Half)は岡林だってやってんだよ!」と他人を引き合いに出したことだと思う。他人を引き合いにモノを言うことがいかに人を悲しくさせてしまうかということをこの歴史は教えてくれる。「あの人はこうなのにあなたはどうして…」…俺もつい言いたくなってしまうが注意したいものである。…そういう話ではないか。
 とにかく昔は一番+サビの「ワンハーフ」が多かった。「ワンハーフ」がよくないのは、例えば「外は白い雪の夜」をワンハーフにするとよくわかる。たぶんこうなる。

      外は白い雪の夜

 大事な話が君にあるんだ 本など読まずに 今聞いてくれ
 ぼくたち何年つきあったろうか 最初に出逢った場所もここだね
 感のするどい 君だから 何を話すか わかっているね
 傷つけあって 生きるより なぐさめあって 別れよう
 だから Bye-bye LOVE 外は白い雪の夜
 Bye-bye LOVE 外は白い雪の夜

 席を立つのはあなたから 後ろ姿を見たいから
 いつもあなたの影を踏み 歩いた癖が 直らない
 だけど Bye-bye Love 外は白い雪の夜
 Bye-bye Love 外は白い雪の夜
 Bye-bye Love そして誰もいなくなった
 Bye-bye Love そして誰もいなくなった
                           (以上)
   
 なんかミもフタもない唄になっちゃうでしょ。

 ワンハーフやフェイドアウトが当たり前だった1975年秋のラジオで「全曲最後までかけます!」というのを売りにした音楽リクエスト番組があった。ココで、当時のヒット曲「となりの町のお嬢さん」が流れたのだが、なんと2番をカットして1番と3番をつなげて編集した曲を「最後まで」流したのだった。たまたま一緒に聴いていたtくんと「あれ二番歌ったか?」「オレ意識失っていたかもしれない」と中2の俺たちはショックを受けた。
 何日か後の朝日新聞にこの番組が全曲かけるといいながら実はカットしていたということで苦情が殺到し、吉田拓郎さんサイドから番組にクレームがあったとの記事を読んで得心したものだ。
 それにしても「となりの町のお嬢さん」で2番を抜いてみ? ♪となりの町のお嬢さんが僕の故郷へやってきた(1番)の次に♪となりの町のお嬢さんは僕を残して行っちゃった(3番)〜早っ!となりの町のお嬢さん通過しただけかっ!早すぎだろ。
 
 ということで「ワンハーフ」も「中抜き」も誰も幸福にしないものなのでいけません…という話だが、明日につづく…って、つづくのかよ。
         

2023. 12. 16

オールナイトニッポンゴールドのあらすじ
 2023.12.15 僕の音楽の旅はまだつづいている 

<おかえりなさい、待ちわびていました、深夜ラジオといえばTHE ALFEEの覆面バンドのビートボーイズ、40周年記念の時の拓郎さんの温かなお言葉、最近のコンサートのグッズが「おかきのうなぎあじ」、拓郎さんからのTHE ALFEEの曲のコメントが欲しいという投書>
 コンサートグッズでおかきとか作るなよ(笑)。アルフィーについて音楽的コメントは言いたくない(笑)、差し控えさせていただきたい。高見澤の楽曲は勝手にすればと言い
たい(笑)

カポタストのハメ方わからない、チューニングはこれでいいのかな

M-0  僕らの旅 (生歌)
 ふりかえってみるのもいいさ
 道草くうのもいいさ
 僕らの旅は
 果てしなくつづく

 時には疲れたからだを
 木かげによこたえて
 想いにふけるのもいいさ
 旅はまだつづく

 いろんな人に逢うさ
 いろんなことがあるさ
 僕らの旅は
 果てしなくつづく

 知らない街で愛をみて
 ふと立ちどまり
 心の置き場があれば
 それもまたいいさ

 なんでこの歌を歌ったかと言うと、自宅で何もしない生活が始まって約1年。ぜんぜん何にも変わらないんだ。

 家でいろんな人からメールが来たり電話がかかってきたり、曲作ってくれないかという依頼があったり、あまりヒマになっていない。相変わらずPCに向って打ち込みをしたり、 後に話すけれど、あるギタリストの家を訪ねて懐かしかったり、あるヤツとスイーツ会をして散歩してみたり、僕の音楽好きの旅はまだつづいているなと言う気がして、振り返ってみるのもいいさ、道草くうのもいいさと歌ってみた。

 何も変わらないというが・・・自分の顔が変わってきた。自信があったわけではないけど、顔がよくない。こんなはずがないくらい顔がよくない。嫌だなー年齢か。

 久々のイマジンスタジオ。好きだな。この広〜いところで冷たい自家製クリームソーダを食べながらやるのが嬉しい。

 深夜放送やラジオが何周年という時を迎えるらしい  

 開局70周年って、そんなにあらたしいの?広島から東京に来たのが50年だし。深夜放送はどのくらいだろう?概ね50数年かな。
 ラジオにご縁があった。当時のマスコミには不信感のかたまりで、テレビも取材も嫌だったラジオだけがそばにずっといてくれて、僕はラジオからは裏切られていない。
テレビ、雑誌からは裏切られたけどラジオはずっと愛していた。
 そういうニッポン放送が70年、深夜放送も何十年というならば、ご縁があるし自分の青春もあるので、何にもしないのではなく、なんかしようかな?と思い、冨山プロデューサーやエイベックスの竹林君になんかやりてぇなと言ったら、アルバムやるしかないじゃん、ツアーやるしかないじゃんといわれて、ツアーするのはツアーはアレだけどライブ?
まずは、深夜放送とかラジオをテーマについてアルバムを作ってみようかな 詞を書いたり曲を書いたりしたら楽しそうだ。ここのところミーティングしている。

 ラジオは僕の青春そのものだし、僕を裏切らなかった、僕はラジオでいっぱい嘘もついたけれど被害届が出るほどのものではない(笑)。思い出深いのは、後半テレビにも出たけれどやはりラジオだ。ラジオをテーマに何か作ってみたい。

 今夜も自由気ままにお送りします吉田拓郎のオールナイトニッポンゴールド


<深夜放送といえば中島みゆきの玄関少年少女の出待ちをして、数秒間、幻の中島みゆきさん、私服にメガネで「おはようございます」という生声を聴けて大興奮したという投書 >
 中島みゆきは普段はわからない。スターのオーラ消しているね、溶け込んでいる。
 出待ち入り待ちって、待っていて楽しいのかな。あちこちくっついて出待ち入り待ち…楽しいのかな?俺にはとてもできない。すげーな。ファンになるってそういうことなのかな。他人事だよ(笑)
 解散したあとのオフコースの清水と松尾とバンドに入れてツアーをやったことがあった。 二人とも唄うまいし。どこに行っても僕の出待ち入り待ちはないなのに、松尾と清水にはいる。くそったれだったな(笑)。なんで俺にいないのに、おまえらの出待ちがいるんだよ。

 一度だけ青森県で楽屋からホテルまで何キロにわたって雪道沿いに列が出来ていて手を振りながらタクシーで通ったことがあった。あれ一回こっきり。

<スイーツ会しましたか?小田和正さんと拓郎さんは後期高齢者とは思えないという投書>
 後期高齢者…小田はこういうハガキ読まないな、アイツはカッコつけているから。夏の終わり小田和正の事務所にスイーツ会に行った、アイツとはほぼ同じ歳で僕の方が少し上なのかな、だけど向こうは拓郎と呼び捨て(笑)。デビューもほぼ一緒だけど僕の方が先にヒットした。小田はなかなかヒットしなかった。ここはハッキリさせよう(笑)。
 そのころは小田と鈴木のデュオだった。三人いたらしいけどそれは観ていない。TBSの深夜放送で、この曲をかけてくれとこのフォークデュオのシングル盤をスタッフがよく持ってきた。綺麗なハーモニーだけど、ビートやリズムは弱いなと思って「売れないだろうな」と思った。ごめんね小田君。当時は男性デュオだと、BUZZとかビリー・バンバンとか、あの弟は六本木の交差点とかで車が止まると窓を開けて歌うという有名な話がある。フォークデュオが流行っていたが、深夜放送の頃は下火になりつつあった。
 ある日、違う友人が「新生オフコース」のレコードを持ってきた。それを聴いた時、ぶっ飛んだ。これ小田達たちなの?ロックバンドに生まれ変わっていた。この展開に驚いた。小田やったな!と思った。これはカッコイイな。コーラスをきかせるロックビートというのは日本にはない。外国だとイーグルスくらいか。それでライブにも行ってみた。コンサートで男は俺くらいで全部女性だった。「いいな〜こいつら〜俺もオフコースに入れば良かった」と思った(笑)

 四国のイベンターのデュークの主催、ここの社長は小田とも親しいが、野外フェスを一緒にやってことがある。あとは前代未聞のIYYというフェスのオープニングでオフコースと「YES  NO」を一緒にジョイントした。♪君を抱いていいの〜が歌いたかったんだけど、そこを小田は歌わせてくれない(笑)ガックリしたのを覚えている。

 泉谷の普賢岳、日本をすくえ!も小田とやったり、それからLOVE2にもスペシャルゲストとして出てくれたし、NHKの対談番組YOKOSOも出てくれた。あとは「クリスマスの約束」…今年はやらないみたいね。そういう二人がスイーツ会をやるようになった。

 で、あいつの事務所でスイーツを食い過ぎて気持ち悪くなって、「運動がてら歩いて帰る」と言ったら小田が一緒に歩こうということになって、小田の事務所から僕んちまで歩いた。港区を二人で歩く。凄い光景。犬を連れたおばさんに「あ、小田さんと拓郎さんですか?」と気づかれて「写真撮っていいですか?」と言われてOKしたら、おばさんが僕と小田の間に犬を入れて、犬と俺と小田スリーショットを撮った(笑)。こんなときに俺はどうするの?犬と一緒の(笑)。小田のマネージャーもいたので一緒に写真も撮れたんだけけれど、おばさんは私はいいんですと言って去って行った(笑)。笑ってーって笑えないよ(笑)。この記念すべき写真をコンサートの一か所で出したらしい。客席は湧いたらしい(笑)。年明けまたスイーツ会をやろうな。

M-1  雪さよなら    吉田拓郎(cho小田和正)

(CM)

 熊本うささんの投書<長年、拓郎さんのラジオ、ずっと聴いてました。熊本から東京のラジオを聴くのは本当に大変でした。拓郎さんのラジオ、まずはパック・イン・ミュージック。途中から聴き始めたのですが、中学時代でした。兄がカセットテープに録音してくれて、翌日聴くというパターンでした。その中で拓郎さんの本プレゼントがあり、忘れもしない1972年9月14日、土砂降りのなか学校から帰ると届いてました!「気ままな絵日記」サイン入りです。
 そして、待ちに待ったオールナイトニッポン。こちらは地元でも聴けました。毎週ノートにオンエアメモを書いてました。オンエアした曲名、何を話したか、ゲストのお名前などです。
 次はセイヤング。
これは聴取するのに苦労しました。でも、セッセと聴いてましたよ。リスナーとの電話募集で選んでもらったときは突然だったので、動揺しまくり。全身ガクブルで、声も震えてたので、篠島行った話に「遠くからありがとう」と言ってくれました。ただ、その前のリスナーが10代だったので「年齢的にちょっとー」と笑われたのは心外でしたよ(笑)まだ21歳だったのに>

 「篠島遠くからありがとう」そんなこと俺が言うかな? すごいいいやつに聴こえる。 21歳なのに「年齢的にちょっとー」、ひでーやつだな(笑)。それはいかにも言いそうだな。

 深夜放送は、TBSパックインミュージック、ニッポン放送オールナイトニッポン、文化放送セイヤングと三つをやった節操のない男だけれど、三つは記録だ。各番組で味が違う。

 TBSは頑固な感じで実直なんだという姿勢をみせようとする
 文化放送は冒険しないよ、普通でいいというジェントルマンな感じだった
 ニッポン放送は、歴代のディレクターが、やってみないとわかんないよ 一か八かやってみようという感じだった。
会社のキャラなのかしら。

 僕も広島で、ゲルマニウムラジオだとさっきのメールのように聴くのが大変だった。でも東京のラジオと比べると広島では音楽の選び方が物足りなかった。
岩国のFENがあったので広島の歌番組は違和感があり、その点では東京のラジオは先をいっている気がした。コニーフランシスの「可愛いベイビー」を中尾ミエが日本語でトレースするように、当時の日本はまだアカ抜けない。ディランやビートルに影響を受けてシンガー・ソングライターが登場して活躍するにはまだまだ時間がかかる。そういうところに僕の音楽の入り口がある。


<つま恋のあと精魂つきはてて泉谷にラジオを任せているときに神田広美を知って学園祭にも来ていたという投書>
 神田広美…ドンファン好きだな。松本隆が原宿で飲んでいる俺をイメージしていたというが、オレは違うよ。

 冨山の結婚式での坂崎との生歌披露というのがあった。「IF I FEEL」を歌っているけれどハモれていない。ヤッコといわれていた冨山さんがNHKのテレビで部下を引き連れて出世したなと思った。出世した人、出世に失敗した人いろいろといる。あの結婚式から今の部下を従えたプロデューサーの姿は想像しにくい。
小池さんはすげー偉くなっていめけれど、歴代で一番ダメな人だった(笑)、クビになると思ってた。人間は好きなんだけど能力とは別問題。でも、小池さんトントン拍子で出世した。

 ニッポン放送のバイタリス・フォークビレッジのテーマ、この番組の佐良直美との引継ぎニンニクの臭いが忘れられない。

M−2 バイタリスフォークビレッジのテーマ   吉田拓郎

(CM)

 70年代の初期にソニーに移籍して、そこで才能あるミュージシャンと出会い、それで磨かれた。
 例えば松任谷正隆の「どうしてこんなに悲しいんだろう」のオルガンのソロ。また大学生  なのに、びっくりしたな。こういう若者がいるんだ。こいつとつきあいたいと思った。
 高中がアドリブで「春だったね」のフレーズを弾いて魅せる。彼も18か19歳だ。こんなアドリブが弾けるなんて、ああ、コイツとつきあいたいなと思った。
 また加藤和彦の「結婚しようよ」のアレンジのウマいこと、アイデアの豊富なこと…これをやればいいんだともの凄い勉強になった。
 自分の望んでいたレコーディングが出来た。スタジオ・インすることで幅が広がった
いろいろな財産となった。

 先月、ある方の自宅を訪問した。音楽の友人であり、恩人であり、時には先生だった。酒飲み友達だった。アコースティックから、ドブロ、ブズーキ、エレキも弾ける。俺は彼のギターで勉強してスリーフィンガーを引けるようになった。

 ※ガラスの言葉(実演)

 スリーフィンガー奏法のお手本で、ベース、ピアノのキーボードもこなす石川鷹彦。2016年に脳梗塞に倒れて大変な思いを体験された。現在も右半分は不自由 、言葉も自由に発するのは困難という日常を過ごしている。みんな石川さん、鷹彦さんとか呼ぶ中で、僕はいつしか「鷹彦」というようになった。そういう気分でいたい人なんただ。そういうやさしい人だった。笑顔が素敵だ。「元気です」というアルバムは、松任谷正隆と石川鷹彦という中心人物になってくれて二人の現場でのヘッドアレンジでできた。タカヒコもマンタも本来やりたかったレコーディングを実現してくれた。

 彼の紡ぎ出す音色のあたたかさは天下一品だ。アコースティックギターを弾く人はたくさんいたけれど、鷹彦みたいにスムーズ、なんというか極意を見せてくれた。凄いアイデア。いろんなヒット曲、あの素晴らしい愛をもう一度、神田川、旅の宿のドブロかフラット・マンドリンとか、こんなに弾ける人もアイデアのある人もいない。彼がいなければ、今の日本のシンガー・ソングライターの文化はないというくらい。僕はエレキギターしか弾いてなくて、広島のギター教室では、スリーフィンガーが弾けないのでピッキングで女子高生に教えてウケていたけど。東京に来てたら石川さんに本格的にアコギを教わった。
 倒れた時にファックスを送った。「早く良くなってブズーキ…ギリシャの楽器で、フラットマンドリンを大きくした感じで、『拓郎これいい音がするんだ』…かまやつひろしの水無し川で活躍している…あれはフラットマンドリンだったかな、ドブロかな。
 数年前に、電話もしたが、言葉は発せられなかったけども、オーと言う言葉に、ああタカヒコ変わってないなと思った。家に行ってみたいなと思って行った。

 出がけに、ファッションに悩んだ。タカヒコの奥さんはなんかファッションにうるさそうな気が勝手にして、これでいいかなとカミさんに見せたりして、プラダのロングコートを着て行った。
 プラダとかグッチなんだコートは。下は相変わらずGAPのジーンズ。俺GAPのジーン素好きだな、カタチが好きだな。ミスマッチで行った。
 「鷹彦来たぞー」と言うと鷹彦は、オーオーと迎えてくれた。人となりが以心伝心で奥さん娘さんも心優しい人で楽しい三時間だった。ここでも美味しいスイーツ、スイーツばっかり食べてる。甘いものが大好きになっていた。
 ずっと鷹彦の横で肩組んだり、こづいたりしていて「俺はアイツ嫌いだったんだよ、あのギタリスト嫌いだったんよ」と言ったらアイツもオーって意気投合していた。やっぱ俺達浮いていたんだな。嫌いなものが一致していた(笑)。右手が不自由なので、左で打ち込みをしていて聴かせてもらったら、スイートなインストルメンタルだった。これが出来るんだったら、PCでやりとりしようというと娘さんがパパにメールを教えますと。今好きなアーティストの情報を交換しようと。このことを坂崎に伝えたら、僕も連れて行ってくださいよと言われた。
 次回はグッチのジャケットで下はユニクロ、GAPかな。鷹彦がいっぱい楽器を弾いてくれて大ヒットしました。

M-3  旅の宿    よしだたくろう


11時

<あいみょんとやりとりしててますか?という投書>
 あいみょんとは時々ショートメッセージのやりとりをしていて映画の話していた。映画がすごく好き。映画の「ハウス・オブ・グッチ」で、息子がアダム・ドライバーその奥さんがレディ・ガガ。大熱演のベッドシーンは一度見ておくといいと言ったら、「凄かったっです」って。
寝癖があると何だか生きてるって感じ。こういうのをめっけるんだ。電柱に初恋がぶら下がっているとか。あいみょんの現実的な景色の中に展開してゆくところが絶品だ。

年齢的に顔が違ってきている。
まず朝の髪の毛がペタッとなっている。寝る前はふわってしているのに。
量も減っているしボリューム感がない。もともと多い方じゃないけど、まとまらんな。

奥さんに念をおしたけど、眉毛が、もともと西郷さんのように男らしい眉ではないかったものの、眉毛がタレ目になっている。目じりが下がっている。

それから鼻の穴が気にいらない。若干大きくなってきている気がする。そんなに突っ込んでいないのに。そのうえ鼻の穴が少し正面に向いつつある。

口も笑顔な自身あったけど、 最近はへの字になって笑ってる。洋服を買った時など、奥さんと写真とりっこするとき、いくらニッコリでも口がへの字になっている。
とにかく一個一個の個体がヤダナ。
かといって整形というのも、「拓郎さん整形やりましたね」と冨山に言われるの嫌だな。

自分のこと棚に上げてなんだが、テレビのCMは、特にBSやCSで、お年寄りが多くて、あれを飲め、こうしろとか俺の勝手だろと言いたい。しかも、そのジジイ・ババアが素敵でない。心躍るようなものをやってよ。つまんねーよ。だからテレビ離れするのかな。あいみょんの寝癖は救い。

M-4  あのね   あいみょん

(CM)

 家では二人でテレビを観ながら悪口を言う。ウチの奥さんは、テレビで好きになるという癖がある。古くはサッカー遠藤ヤットさん。アッと言う間に醒めて、スケボーの堀籠くん、バドの桃田くん、アダム・ドライバーそしてサッカーは三苫、田中くん。最近は、相撲の熱海富士よくない? チャーミングでいい。相撲観に行ったらきっと手を振ってくれると言っている?   


 来年は、アルバムを作ってみようと思う。ラジオと深夜放送の青春をテーマにした
アルバムを、例えば松任谷正隆に頼んでアレンジしたりプレイして貰ったり
ということで、みなさんも詞を書いてみないか。もともと「春だったね」「せんこう花火」は、リスナーの書いてきた詞だった。自分とラジオの青春テーマに書いてみてください。

 来年もその進行状況についてのラジオをすることに、40%位あるな。思い出青春を書いてみませんか  

M-5 ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン シンディ・ローパー

<深夜放送で往復葉書を送ると拓郎さんのサインをくれるという企画があって今でも家宝ですという投書>
昔、オールナイトニッポンで、引っ越し記念としてガラクタをプレゼントしたことがあった。 洗濯バサミとか引っ越し出てたガラクタをあげた。こういう企画をするのは名前言わなくでもわかる。

<矢沢永吉、浅川マキ、遠藤賢治…拓郎さんの会話を引き出す術が職人的だったという投書>
 別に聞き出すのがうまくはないと思う。ただインタビュアーが音楽はわかっていない
なと思うことはあった。おまえそんなこともわかんないで聞いているのかということもあった。
 その時代に全国ツアーを始めることになった。それまでは地元の有志とか鑑賞団体が主催していた。終演後、楽屋に集められてミーティング反省会をさせられたことがあった。席上で拓郎さんの「イメージの詩」はよくわからないとイチャモンつけられて大いにシラケた。

 全国の音楽好きに声をかけて、もっと俺たちのためになる団体ができないのかということでイベンターが登場して全国ツアーに出られるようになった。このイベンターたちに感謝している。
 彼らは同年代だし、旅先で打ち上げも楽しい。飲んで騒いで遊んで、でも気が付くとそういう馬鹿なことをしているのは僕だけになってしまった。みんなファーストフードで食事して帰るらしい。それなら俺は迷惑かと尋ねたら、そうはいわないけど拓郎さんだけなんですと言われた。
 だんだん打ち上げをしなくなって健康を大事にするようになった。打ち上げが楽しくてツアーをやっていたので味気なくなってしまった。そのことが全国ツアーから足を洗う原因にもなった。時代の推移。昔は、売上を散財してしまうような気持ちでいたが、後半はホテルから出ないでルームサービスで食事をするようになっていった。旅から足も洗って終わっちゃったな。健康的になっていいことかもしれない。しかし、ちっとも面白くない。撤退もやむなし。全国の美味しい空気を吸って回ることが楽しみだったのに。

ニッポン放送は来年で70年。なんで有楽町なんでしょうね。

M−6   有楽町で逢いましょう  フランク永井

 ワンハーフと言う言葉がある。東京のテレビの歌番組はみんなそれだった。一番を歌った後二番を飛ばして三番のサビに行く。そうすると一人の曲が一分半でおわる。これがすっげー嫌だった。「イメージの詩」とかどうすんだよ。
なので歌謡曲・演歌は一番しか知らないとか二番、三番が韻を踏んでいるだけの手抜きだったり、吉田拓郎さんテレビ出てくれないかと言われてもそれでは嫌だった。ヒットするようになってフルコースが徐々に増え始めてきた。シンガーソングライターたちが強く言って変わってきた。当時の歌番組がいかに息苦しいかったか。 

M-7 かくれましょう

<坂崎と拓郎のオールナイトニッポンが好きだった、北京放送と混線していたという投書>
 坂崎とのオールナイトニッポンゴールド。あんな馬鹿な番組はないね。なんにもポリシーのない。でも一番長い4年間も続いた。真面目にやってたら疲れるのに、ああいうのだといくらでも続くんだ。いまいちばん聴きたくないラジオ(笑)
来年あたり坂崎を呼んでやるかな。石川さんのところに一緒に行きたい言ってるし。
今夜は久しぶりでキツかった。70周年ということで敬意を表して、作詞を募集します。  今決まりましたが、来年の…初夏にもどってくる。今決まるわけはない…前から決めていました。それまで生きてるかな

 目じり、まゆげ、鼻の穴、口いろいろ変わってきている。みなさんの詞も待っています。レコーディングも総動員で、曲づくりも頑張ります。
 みなさん良いお年を。最後の曲。

M-8  Cruel Summer テイラー・スイフト

オールナイトニッポンゴールド 2023.12.15 
 とりあえずの思いつきと感想 

☆おかえり ただいま どこに行ってきたの♪…お疲れ様でございました。
 実はどうせ「24年の展望」なんかありゃしねぇよとやさぐれていたのだが「展望」…確かにありました。
 なんら遜色のないボーカルで「僕らの旅」をフルコーラス唄ってくれて、
「僕の音楽好きの旅はまだつづいている」…もうこの言葉があれば他に何も要らない。いや、よく考えたらいろいろ要るのだが、今はこの言葉の前には、何も要らないといわなきゃ失礼にあたる。

☆ そしてニューアルバムの胎動。松任谷正隆…名前を出すと言うことはもうガッツリ密約が出来ているのだろう。「おい去年"ラスト"アルバムって言ったよな」という皆様、私が代わって平伏してお詫びします。ごめんなさい。どうか作らせてあげてください(爆)。

☆ うささんの投書。いい話だった。深夜放送がただの一方的なコンテンツてはなく、それを聴いているリスナーのひとりひとりの日常が、不即不離でひとつに溶けあっていることがよくわかった。つまるところラジオってそうものだよね。

☆ 石川鷹彦さんの話、拓郎は明るいエピソードのトーンで話てくれたけれど、どれだけ鷹彦さんに対して深い思いを抱いているのか、もちろんそれは拓郎しかわからないことだが、とにかく行間からひしひと溢れて伝わってきて、それだけで胸がいっぱいになった。肩抱き合う二人。新しいお二人の関係の展開や新しい作品が聴ける日が来ることを楽しみにしていたい。
 あと話を聴いていてとにかく石川鷹彦のブズーキが聴きたくなった。すげー聴きたいけどブズーキというものが俺にもよくわからない。ひとつ確かなのは「ありふれた街に雪が降る」の間奏。とりあえずこれだ。いい。

☆オールナイトニッポンの引っ越しガラクタプレゼント…おれは吉田家の「ヒューズ」に応募したのだが外れたのを思い出した。洗濯ばさみ、植木鉢、歯ブラシそしてヒューズ。浅野さんではなく拓郎本人が喜んで率先していたように思う。「君はヒューズさえもくれない」という詞を書くことにした。昔、さだまさしの作詞通信講座ってなかっただろうか。受講したいと思うのだが。

☆コンサートの時に私に限らず多くのファンが拓郎の出待ち入り待ちをしてきたのだが…きっとあれじゃ足りないということなのだな。わかった。めくるめく出待ち入り待ちをやってやろうじゃないか。先日観た永ちゃんファンの白いスーツの背中に縦書きで{吉田拓郎}と大書したヤツを仕立てて、犬を連れて、沿道を埋めてやりましょうぞ。

 それにしてもチラッと「ライブ」と口走ったのを聞き逃さなかったぞ。今は聞こえなかったふりをして生きよう。いつかは開き直る時が来る時期を待ちましょう。

「ワンハーフ」といえば布施明だ。「バカヤロー、ワンハーフだよ!」。単に曲がカットされるだけではすまない怒りが拓郎の言葉ににじみ出ていたのは、それが理由ではないかと思う。やはりこの世界に布施明がいる限り、歌いつづけようじゃないか。>面白がってるだけだろ!

☆とにかく拓郎の音楽の旅が続くことは否応なしに推しの旅も続く。 ああ推せば命の泉湧く。がんばっていきまっしょい。

2023. 12. 15

☆☆☆街をゆく背中☆☆☆
思わず「かっけー」と見とれてしまった。愛と自信と幸せのオーラが出まくっていた背中。きっと最高のライブだったんだな。いいなぁ。こちらも今夜である。
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2023. 12. 14

 あれから1年。死んだも同じの今になり、つまづくことを恐れてる なぜだよ 未練じゃないかよ それもこれもこの番組があるからだ。
 吉田拓郎『オールナイトニッポンGOLD』 12月15日 22時

「ニッポン放送から吉田に、2023年を振り返り、24年の展望を語るラジオ特番をオファー。吉田もいろいろ考えていることがあるとのことで、オファーを受諾した。」というふれこみだが「24年の展望」…ああ身もだえするような眩しいこの言葉。拓郎、この戦乱の世の中に魂のキックバックを頼むぞ!…んなもの頼まれねぇよ。…ともかく楽しみにしております。

2023. 12. 13

☆☆☆ラジオのつづき☆☆☆
 小泉今日子がゲストの浅田美代子にいきなり「『あこがれ共同隊』が大好きでした」と切り出してビックリした。(え!?それ言う?)と叫んだリスナーは少なくなかったはずだ。もっと凄かったのは浅田美代子の返答「あ、キョンキョン、出てたよね?」。(出てるわけねぇだろ!)とキョンキョンと一緒にさらに大きな声で叫んだリスナーも多かったに違いない。たぶんその地雷に気づいていない小泉今日子は「主題歌が山田パンダさんで…」と深堀をはじめて(あぶねー)と緊張したリスナーもたくさんいたことを確信する。そういう魔送球の投げ合いのような臨場感が最高だった(爆)。

 それから蘭ちゃんはシンガーとしての新しい今を生きていることがよくわかった。キャンディーズ時代を大切にしているものの、目線は現在の現在にフィットしながら歌おうとしている。その落ち着いたエレガントさが素敵だった。

 とにかく面白いラジオだった。いいなぁアイドルは。そうだよ「純愛」だよ。いちいちの小泉さんの選曲に共感する。ということで今日は山田パンダの主題歌を聴こう。

2023. 12. 12

☆☆☆まだまだラジオは途中だが☆☆☆
 70年代アイドル…やっぱりいいなぁ。小泉今日子GJ!!。久木田美弥…いた!、いた!ど懐かしい〜。やっぱり木之内みどりは"東京メルヘン"もいいが"横浜いれぶん"でしょう。すまん。あの時代のことがテーマになると名前こそ出なくとも、確実にそこかしこに吉田の存在というか君臨が透けて感じられる。たまらん。
 それにしても石野真子よ、幻のデビュー曲候補の「ぽろぽろと」をこんなにも大切に思っていてくれたとはありがとう。そもそもフォーライフの社長で音楽から離れていたといいながら石野真子のデビュープロジェクトだけでも実にたくさんの曲を作っておられる。誇らしい実に誇らしい。…つづく。

2023. 12. 11

☆☆☆航海日誌☆☆☆
 代々木体育館でユーミンのライブを観た。50th Anniversary 松任谷由実コンサートツアー「The Journey」。デビュー50周年…航海をテーマにしており、アリーナ中央に巨大な海賊船型ステージが設置され、ドラマチック&サーカスチックに展開するユーミンらしい豪奢なコンサートだった。航海といえば、どうでもいいがココは「体育館」というがそもそもオリンピックプールだったし、さらにどうでもいいことだが俺が小学生の時、水泳の東京都選抜大会の男子自由形で出場し、ぶっちぎりで最下位になって世界の広さを知った場所でもある。

 そして世界を知ったといえば、やはりユーミンのライブはひとつの「世界」を魅せてくれる。ああ、凄いもの見たわ〜と言わしめる。と同時に俺になんかいわれたくないだろうが、ここまで必死で生きてきた…というしみじみとした情感が滲んでいた気がする。
 個人的には、かつて某歌謡祭で毎月Yねーさんが歌って聴かせくれたおかげで楽曲はかなりフォローできていたので特に味わい深かった。
 「守ってあげたい」を聴くと、もはや「ねらわれた学園」の薬師丸ひろ子ではなく、御大のことが浮かんでくるようになった。「傷つかなくたっていいのよ」…あの拓郎が翻案していたフレーズを思い出す。
 個人的な圧巻は、最後の最後。いやスペシャルアンコールがあったので、ラス前か。わが故郷の島に刻んでくれたあの歌。曽爺さんから繋がるあの島のガサツな親戚の人々を思い出しながらしみじみと泣けた。
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 こうして俺みたいな不埒なアウェー者まで歓待してくれたユーミン。この混沌とした世界。「最後は人の知性を信じる」と言う言葉が刺さった。俺も信じるよ。今からできることをしたい。

 ※それにしても拓郎ファンの人は、客席とかで「松任谷が」とか「武部が…」とかつい口にしてまいがちで注意が必要だ>おめぇだけだよ あちらの世界の人々は会長、社長くらいの深い敬意を抱いている…あの世界以外でもフツーにそうだよな。なんかイキっているおぢみたいになっている俺が恥ずかしかった。

2023. 12. 9

100分de名著「マガジンT(第8号)」を読む  第7話 わが魂の玉手箱

1 フリーター、ボックスを買う
 90年初冬に長丁場だった試験がようやく終わると、すでに90年秋の"男達の詩"コンサートツアーも拓郎関係の催し物関係もすべて終わってしまっていた。俺はもう抜け殻の燃えカス状態で、それでも地を這うように新宿駅西口のNSビルの新星堂に向かった。予約してあった吉田拓郎ビデオボックス「吉田拓郎79-90」を受け取るためだ。俺と吉田拓郎をつなぐ唯一のものがシワシワになったボックスの予約票だけだった。
 「ボックス」…ああ、この重厚な響き。この頃は拓郎に限らずいわゆる「ボックス」モノはかなり珍しかったと思う。わけてもこの拓郎のボックスは、拓郎ファンの俺にとっては魂の玉手箱というくらいもの凄かった。
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 当時は家庭用ビデオデッキの普及から日が浅く(少なくとも俺には浅かった)、映像ソフトが1本2万円前後と超高価で少なくとも俺には手が出なかった。ボックスはほぼ同じ金額でビデオがたっぷり5本分だ。なによりこれで自分の部屋で好きな時に好きなだけ吉田拓郎のライブが堪能できるのだ。
 しかも伝説のビデオグラフィーの映像特典集がついている。72年の神田共立講堂から、セブンスターショーからごく最近の短髪ツンツンの"男達の詩"のプロモまで恐悦至極。ありがとう!やればできるんじゃんかフォーライフ。あるとこに行けば、ちゃんとあるんじゃんか各種秘蔵映像。

2 至福
 現在、これだけ映像、動画のソフトや配信が溢れんばかりに普及した社会で、この当時の至福をどうしたらわかっていただけようか。いつ実施されるかわからない「動く拓郎」の上映会を観るために、あるときは電車を乗り継ぎ、あるときはドブの中に身を潜め、およそ犯罪以外のすべての手を尽くさねばならなかった日々。それを思えば「いつでも家で観られる」ことは、もうワットの蒸気機関を超える発明いや革命である。…いいや、わからなくていい、とにかく爺ちゃんは幸せだったんだよ。必要もなく朝から「もうすぐ帰るよ」のPVを観てみたり、眠いのに深夜に起きて「篠島」を観始めたりして、そのたびに、おーーーホントにいつでも家で観られるよぉと涙ぐんだものだ。拓郎三昧、酒池肉林。このボックスのおかげでたちまち心身ともに拓バカの私は蘇生した。これまで何十回観ただろうか。もう暴れ方も覚えたのでパイプ椅子を持ってエキシビションホールに行きたくて仕方なかった(笑)。

3 年号という管理の功罪
 このボックスのひとつの特徴としては、ライブを1979,1982,1985…年号で統括していることがある。それまでは「篠島」というが「1979」という人はいなかったし「ハイキング」「武道館」と呼んでも「1982」とは言ってはいなかった。このボックスあたりからライブを通し年代で年号管理することが一般的になり始めている気がする。この道をゆくものには便利なカスタマイズである。
 ただ、制作側は、データ管理という感覚が徹底されすぎたからか、それぞれの映像ソフトから、MCやバックステージの様子といったドキュメンタリーという生々しい部分がそぎ落とされてゆくという困った傾向が始まる。あたりまえだが、混然一体すべてを含めて一本のライブ映画である。削るな。戻せ。なんなら増やせ。例えば、79年というタグを使うのだったら、篠島に限らない79年のすべてをここに寄せて来ておくれよ。

4 会報もがんばる
 ボックスには、貴重写真満載の吉田拓郎クロノロジーとコンサートデータの解説本がついていた。写真が結構というよりかなり良い。本文は、ここで田家秀樹の"男の一生"というフォーマットが完成したのではないか。読みごたえがある。
 他方で会報も頑張っている。5ページものボックス特集を組み、藤井てっかんによる各ビデオに即した詳細な解説や逸話も載っていて、これはこれでボックスに付属させてほしい出来栄えだ。

 家に吉田拓郎がやってくる。ダサいキャッチコピーのようだが、ほんとにそのとおりであり、それはものすごいことだったのだとあらためて思う。しかし、それは至福であると同時に、いろいろ功罪もあったのかと思ったりもする。それでもいいじゃないか。とにかく「吉田拓郎'90」をはるかに超えて「吉田拓郎'23」…思えば遠くへきたもんだ。
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2023. 12. 6

100分de名著「マガジンT(第8号)」を読む  第6話 自分の居場所
 さて追い詰められた試験のためにすっ飛ばしてしまったコンサートツアーはどうなったのだろうか。この会報などを手掛かりに探り、妄想するしかなかった。会報には、「続・挽歌を撃て」で石原信一氏がツアーの概略をレポートしており、これは当時の私にとって貴重な文献だった。
 珍しくもひとつのコンセプトを持ったコンサートであることに驚いた。これまでの拓郎のコンサートはどんな転がり方をするかわからないところが彼らしかったと言ってもいい。ところが福岡で「今日のテーマは"自分の居場所"です」と冒頭MCでふられてしまったから、こっちも拓郎の唄を聴きながら自分はどのあたりに身を置こうかとついつい考えてコンサートを観てしまった。
 吉田拓郎、居場所を歌う。というテーマがツアーに行けなかった俺には眩しく降り注いできた。そうか。行けなかったライブほど眩しくみえるものはない。
 オリジナルの弾き語り「東京の長く暑い夜」で歌っているように<東京の長く暑い夜は私に消えちまえと言うんでしょうか>という、実態のつかめない自分への怒り
 そうか、弾き語りの新曲があって、それは「東京の長く暑い夜」というのか、そう思うだけで胸が震えた。<東京の長く暑い夜は私に消えちまえと言うんでしょうか>この一行だけで十分に泣けた。
 今のようなネット社会ではないし、私設FCにも入っていなかったので、次号の会報や他の雑誌で少しずつ情報を拾い集めて温めあいながらセットリストのピースがわかってきた。
 ■1990年男達の詩ツアー
  抱きたい
  爪
  されど私の人生
  もうすぐ帰るよ
  Life
  大阪行きは何番ホーム
  ひらひら
  旅立てジャック
  神田川
  中の上
  東京の長く暑い夜は
  ロンリー・ストリート・キャフェ
  春だったね
  ああグッと
  ペニーレインでバーボン
  君去りし後
  男達の詩
  encore
  ハートブレイクマンション
  男達の詩
 「自分の居場所」。セットリスト全体がひとつのメッセージになっているし、個々の曲も通底する何かを背負っていることになる。こうなるとセットリストはメニューであるとともに、大切なレシピでもあるのだ。このセットリストを眺めているだけで何時間でもひとりで酒が飲めるってもんだ。

 物理的、地理的な場所が居場所であることはもちろん、心魂の置き所という意味の居場所に、時空を超えた思い出という居場所。それに男女という性別もひとつのかりそめの居場所かもしれない。そして居場所を求めてさまようのもまたひとつの居場所だ。このリストは、なかなか行間が豊かだ。あなたはどんなふうに読み込むでしょうか。

 あと会報の中の貴重なショット。たぶん武道館のゲネの休憩時間にキャッチボールをしている拓郎。スローイングする拓郎の腕がしなっていて、なかなか美しいフォームだったりする。
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2023. 12. 5

☆☆☆今がその時、ためらわないで☆☆☆
 ということで砂漠でオアシスを見つけたが、もうひとつラジオの情報が。
『小泉今日子のオールナイトニッポンPremium』12月11日(月)18時〜21時50分 今回は、70年代アイドルソング特集 ゲストには小泉今日子自身が会いたいと熱望した3人、伊藤蘭、浅田美代子、石野真子が生登場。
 よりによって、すごい3人だな。あの人の話題が出るかもしれない…というかあの人のことに触れずに会話を進めるのが困難なくらいのお三方ではないか。いろんな意味でこちらもオアシスだと嬉しい。

2023. 12. 2

☆☆☆砂漠の都会に☆彡☆彡☆彡
 思えばこの1年間、吉田拓郎を失った私は、バルカ共和国の広大な砂漠にひとり放り出されてしまったようなものだった。日照りは容赦なく、砂の嵐の吹き荒れる砂漠をひとりさまよってきた。さすがに心も身体も渇き尽くし、古い会報の束を抱いたまま行き倒れようとしていたところに…ああ、水だっ!オアシスが見えたっ!…という気分である。ありがたい。神は必ず旅を許される。どうか紫の蜃気楼でありませんように。
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2023. 12. 1

☆☆☆"拓"朗報☆☆☆
 2023年12月15日、拓郎一夜限りのオールナイトニッポンやるってよ。え、2024年の展望って…え、あんの?

100分de名著「マガジンT(第8号)」を読む  第5話 「誰がために鐘は鳴る」

 ということで2023年12月15日のラジオが決まったところで、1990年のラジオの話は、おしまいにしたい。最後にもうひとつ心に残ったくだりがあった。吉田拓郎と武田鉄矢との会話の中で、デビュー間もない頃の苦節の時代のことが話題になった。

1 陰日向に咲く
「売れない頃のミュージシャンを支える女の人って必ずいるでしょ。…有名になると、その人と切れちゃうっていうパターンがあるよね。」
と拓郎が語り始める。
「僕もいましたもん。『結婚しようよ』を出す直前あたりは『帰れ!』が結構あったんですよ。その頃ね、僕を支える女の子がひとりいて、名前も忘れちまったけども、僕のレコードが売れた瞬間に忽然とね、姿を消したんですよ。高校3年生だったですね。それはもうホントに陰になり日向になり、支えてくれてるなって気がして『東京にこの娘がいてくれれば俺、大丈夫かな』っていうのが、あったね。」

 最近の"オールナイトニッポンゴールド"や"ラジオでナイト"でも、デビュー直後、女子高生のファンと一緒に新宿御苑あたりを散歩して、そこで新曲を聴いてもらったりしていた思い出を懐かしく語っていたことがあった。しかしその彼女が自ら忽然と姿を消したという話は初めて聴いた。彼女がどのような気持ちで消えたのか知るよしもない。しかし思うてみるだけでもう切ない。関係ない歌であるが♪そちらから電話を切ったから、君はもっと他の事も言おうとしてたんだろう…この意味が今は痛切にわかるよ。

2 たった一人の世界
 「その娘が例えば『結婚しようよ』みたいな詞を書いた時に『こういう明るいのってイイかもしれないね』とか言うと、そうか…っていう気になって、何万人が「帰れ」って言っても怖くないっていう」

 拓郎のいわば告白に、武田はしみじみと「歌っていうのはたった一人、よき理解者である女性がいれば成立する世界なんですね。」と応え、拓郎も「 そう。」と頷いた。
 この日のラジオでの、ささやかなれど忘れじのシーンのひとつだ。若き日に陰日向に支えてくれた女子高生がいたのと同じように、たぶん後年の高齢の拓郎も音楽も、たったひとりの女性の支えによって成立していたのかと思う。

3 二隻の舟
 リタイヤ間際の拓郎がインタビューで「僕はファンをあまり信用していない」と言っていて悲しかったが、他方で確かに…とも思う。総体としてのファンは海のようなものだ。愛に溢れながらも、ときに風が吹き波が高く嵐にもなる、水が浅くて座礁したり、クラゲにも刺されたり、サメだっているかもしれない…ああ、わかる。>メメクラゲのようなお前が言うな。すまん。いくら海が美しくてもそこに身を任せるのは普通に危険だし怖い。
 そんな中で、この人がいれば、この人の声さえあれば…という"よすが"だけが支えとなるのはただの一般Pの私にも少しわかる気がする。♪それだけのことで私は海を行けるよ たとえモヤイ綱が切れて嵐に吞まれても…ああ、なぜ中島みゆきになるのか、よくわからんがそういうことだ。

 それにしてもその女子高生の方、いまごろどうしておいでだろうか。               

2023. 11. 26

☆☆☆ライブ73記念日☆☆☆彡
 吉田拓郎ライブ'73から50年だ。…半世紀だよ。半世紀たぁ砂を吐いて横になりたいくらいの年月だ。振り返りながら走って半世紀、さよならが言えないで半世紀、手だけ動かして半世紀、てんではっぴいになれない半世紀、バネが軋んで半世紀、黙ってイカを洗って半世紀、何も思わず立っていよう半世紀、サイコロころがし半世紀、しっかりしてるよ半世紀、雨が空から半世紀、何十年に一度の半世紀、またくる人生の街角で半世紀、笑ったような笑わぬような半世紀、コップでお茶を飲んで半世紀、そのうち狙われ続けて半世紀、そしてホントに最後は嫌でもひとりになってゆく半世紀。半世紀たっても色はあせず聴くたびに胸はふるえる。

 あらためて年齢にして吉田拓郎27歳、瀬尾一三26歳、松任谷正隆22歳、高中正義20歳、田中清司25歳、岡沢章22歳、石川鷹彦30歳、後藤由多加24歳、渋谷高行23歳…恐るべき若造たちが作り上げた世界。中野サンプラザは解体され消えようともこの音楽たちは永遠のものだ。

 何度でも言う。これは完全盤を出すべきだ。ディランだって武道館の完全版BOX出したじゃん。このボーカル、このシャウト、このビッグバンドの演奏。もはや無形文化財の域である。
 そして当時のリアルを生きられた諸先輩のみなさま、どんな些細な事でもいい、あの日を語りつないでおくんなさいまし。それはもう単なる思い出ではなく、未来に向かって播かれる貴重な種なのだ。

 魂の底から記念日おめでとうございます。
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2023. 11. 25

 伊集院静氏が亡くなられた。熱心な読者ではなく申し訳ないが、とある機関誌のエッセイをずっと楽しみで読んでいた。美しい文章だった。ご病気で一時中断し、復帰されてからの文章はよりシンプルでその分、詩情が豊かで、ああ〜こういう文章が書けるようになりたいと身の程知らずに思った。心の底からご冥福をお祈りします。


100分de名著「マガジンT(第8号)」を読む  第4話 「ホントは怖い人たち、ホントに怖い人たち、ホントに怖いホントB」

 1 アイドル提供曲の怖いジンクス
 ラジオの話の中で今になってしみじみと"怖い"と思った話がある。それは拓郎が語った松田聖子への幻の提供曲の話に始まる。
 かつて(たぶん1984年ころ)松本隆から拓郎に「松田聖子が結婚するんで、拓郎、最後の曲作ってくれない?」と頼まれた。その時に松本隆から「しかしアナタが曲作る女の子ってみんな引退しちゃうね」と言われたそうだ。
 これは松本に指摘されるずっと昔から存在する有名なジンクス、今でいう拓郎あるあるだ。俺が思いつくだけでも、キャンディーズ、木之内みどり、石野真子…神田広美なんかもそうかもしれない。今回のラジオでも「おかげで女の子の作曲依頼がめっきりと減ってしまった」と拓郎は嘆いていた。

2 ジェットコースターロマンス
 しかしこの松田聖子の提供曲は複雑な運命をたどる。楽曲は完成したものの結局、レコードには採用されなかった。お蔵入り=アウトテイクというやつだ。拓郎はこのラジオでも不採用の原因は明言しなかった。
 そこでココからは俺の下種の勘繰りだ。ネット界隈や知り合いの松田聖子ファンに対して調査したところによれば、当時の松田聖子をめぐる状況が、拓郎の表現を借りれば"すったのもんだの状態"に激変してしまったことが原因らしい。
 最初の拓郎への依頼時は、たぶん結婚・引退の予定だったが、その後突然の破談。「生まれ変わったら…」は世間的にも衝撃的だった。そこで急遽、松本は切り替えて、薄っぺらな結婚の幸せに背を向けて一人で旅立つ女性の詞を書いた。これに拓郎が曲をつけて楽曲は完成しニューシングルの告知まで出されていた。ところがその発売前に聖子の突然の電撃結婚が決まり、状況は僅か数か月で「失意」から「幸福の絶頂」に激変した。まるでジェットコースターのような有為転変…たとえば後楽園ゆうえんちで乗ったジェットコースターが一回転して着いた時には富士急ハイランドだったみたいな感じだ>よくわかんねぇよ。もちろん松田聖子には彼女の切実な人生があって、彼女の切実な事情があったに違いなく、それをどうこう言うつもりは1ミリもない。
 とにかく楽曲が現実にそぐわなくなってしまって別曲に差し替えたというのが不採用の経緯だ。この経緯は最近まで松田聖子ファンの間では真偽不明の半ば都市伝説だったらしいが、現在は元スタッフ関係者も、経緯はともかくこのアウトテイク曲が存在したことだけは認めている。
 
3 ホントに怖いホント
 その松田聖子の幻の曲が「幸福なんか欲しくないわ」という作品で、これが後に酒井法子に提供されたことがラジオで拓郎の口から語られた。
 もちろんこのラジオの当時では、結局、幻の松田聖子の提供曲は今は人気アイドルのノリピーが歌ってます~ということで終わるのだが、21世紀の未来に生きる私たちはその後のマンモスかなぴー歴史を知ってしまっている。俺は例のジンクスについては、あまり信用していなかったけど、なんかこれはジンクスというより呪いのようで怖いなとすら思うのだ。

4 甦れ、入江剣 
 しかし21世紀の科学の未来に生きる私たちはジンクスだ呪いだなどと怖がっているのも恥ずかしい。そう思って「幸福なんかほしくないわ」、この歌をあらためて聴き直してみる。正直、楽曲のクオリティとしてはイマイチで特に松本隆にしてはこの詞はどうよと思う。でもこの詞からは、松本が幸せな結婚・引退に躓いてしまった当時の失意の松田聖子を応援しようとする温かい思いが行間ににじみでている。

  これが愛だと 自分の胸に
  嘘をついてる いつも"かわいい女"だった
  … 
  幸福なんてほしくない みせかけの
  幸福なんていらないわ 退屈な
  今は自由の風に
  今は風に吹かれていたいの
  …
  幸福なんてほしくない 偽りの
  幸福なんていらないわ ちっぽけな
  今は本当の愛を
  今は愛をさがしてみたい

 みせかけの幸福、偽りの愛から解き放たれて旅立ち、自由に生きようとする女性の姿が浮かんでくる。まことに大きなお世話で申し訳ないが、長すぎる人生の繰り返しの中で松田聖子も酒井法子もそれぞれ人に隠れて泣いて、泣きたい気持で冬を超えてきた人たちの一人だろうと思う。
 この歌は、一周回って、そういう極北を味わった彼女たちにも引き続きチカラ強いエールを贈っているように聴こえてくる。"あきらめという名の鎖を身をよじって解いてゆく"(ファイト! 中島みゆき)系のスピリットを感じる。こうしてひとり決起して進まんとする歌の前に、ジンクスも、呪いも、ホントに怖いもなにもない>っておめえが言ったんだろ!  …すまん。

5 全ての彼の子を抱くものたちよ
 かつて拓郎はすべての提供曲は「自分の子どもたちだ」と宣った。松田聖子も酒井法子も含めて、拓郎の子どもたちを抱くすべての歌手の方々には末永く頑張っていただきたい。あんなジンクスは嘘っぱちだと証明してほしい。特にかつてはジンクスの筆頭格だった、蘭ちゃんよ、できれば今年の紅白にt.yのメロディーを。今がその時ためらわないで。

※あ、思い出したよ。このラジオで拓郎が、提供曲(「今夜は星空」)を書いたのに、いしだあゆみさんはお会いしても知らんふりだった…と悲しんでいたが、それはきっとあなたが殴りあって曲を引き上げたショーケンの奥さんだったからではないだろうか。

 ああ、今日もダラダラ書いちまったよ。

2023. 11. 23

100分de名著「マガジンT(第8号)」を読む  第3話 「ホントは怖い人たち、ホントに怖い人たち、ホントに怖いホント➁」

 
「ホントは怖い財津和夫」につづいて「ホントは怖いオフコース〜海辺の殺意」(爆)という話もあったのだが、こっちはウィキペディアにも載っている有名な話のようだったので割愛するっす。

1 ホントに怖い人
 ホントは怖いどころかホントに怖い人が吉田拓郎だ。…昨今のKinkiらと一緒のときの好々爺な流通イメージのためについ忘れがちだった(爆)。このラジオでも拓郎自らが語っていた。昔、双子姉妹の新宿の飲み屋に迷惑な酔客がいると高円寺から自転車で駆けつけてぶっとばすという用心棒だった拓郎、日比谷野音で帰れコールを叫ぶ客をステージに引っ張り上げて殴り合いをした拓郎、そしてあの芸能界の暴れん坊と恐れられた萩原健一ことショーケンに「おまえになんか曲やらねぇよ」「ああ要らねぇよ」と殴り合い「さらば、うるわしのかんばせ」となってしまった拓郎…どの話を聴いてもフツーに怖い人じゃないか。
 武田鉄矢も「キャンディーズの蘭ちゃんが、拓郎さんのことを『怖かった』と言ってましたよ」とチクっていた。そのとおりで怖い人というイメージがかなり強固にあったのだ。

2 武勇伝を遠く離れて
 こういう話は笑えるし懐かしくもあるのだが、少なくともイメージ的に暴力的で怖い人だった=吉田拓郎はたぶんもういない。すべては昔日の武勇伝か。「ホントに怖い拓郎」に対してカッコイイな~と憧れていた自分もおなじだ。怖かった拓郎あるいは拓郎の怖さは歳月とともに変化していったのではないか。それがどんな変化だったのか。ただ年老いただけかもしれないし、よりおだやかな境涯に達したのかもしれないし、よくわからない。しかしもしかすると人類がいかに暴力を克服し進歩するかという壮大なテーマと細い糸でつながっていることかもしれない。そういうところから拓郎の歌を時代を追って聴き直してみるのも面白そうだ。

3 ところで蘭ちゃんだ
 そうだ、蘭ちゃんといえば、この放送でわかったのは、蘭ちゃんのことが大好きだった武田鉄矢は、最初、映画RONINの「うの」役に伊藤蘭をオファーしていたようだ。しかもこのラジオの放送当時は蘭ちゃんが出産したばかりで、そのことにも深いショックを受けていた武田鉄矢。…その赤ちゃんがさ、2023年いまやブギウギだ。時の流れを悔やむじゃないぞ。それにしても紅白は何を歌うんだ蘭ちゃん。ああ私たちの望むものは…。

2023. 11. 22

100分de名著「マガジンT(第8号)」を読む 第3話 ホントは怖い人たち、ホントに怖い人たち、そして怖いホント@


 生放送でしかも全国ネットでないからか、やや危ない話もいくつか出てきた。

1 ホントは怖い財津和夫
 武田鉄矢が語る福岡のライブハウス"照和"での逸話が面白かった。"照和"といえば陽水、チューリップ、甲斐よしひろ、海援隊らがデビュー前夜に集っていた伝説のライブハウスだ。中でも図抜けた天才だったデビュー前の財津和夫が、東京進出のためにチューリップをロックバンドに再編成しようと、博多のいくつかのバンドのミュージシャンたちを引き抜いた。武田曰く「チューリップの近代化のために潰れたバンドが少なくとも三つはあって海援隊もそうだった」ということだ。
 武田を始め財津から選ばれなかったミュージシャンたちはみんな恨み骨髄。「財津憎し」を胸に刻みそれがその後に音楽を続けるエナジーだったという。音楽に厳格だった財津は、アマチュアバンド時代、メンバーが演奏を間違えると終わってから平手打ちしていたという驚きのエピソードを披歴する(爆)。怖い。その話を聞いた拓郎の「…モップスだ」という反応、また鈴木千夏アナの「えーそんな話聞きたくなかった、先日ライブ行ったばかりなのに…」という反応が面白かった。たぶん武田鉄矢のかなり盛った話だと思うけど。

2  憎しみのエナジー
 私がこの話を聞いて思い出したのは1978年頃の武田鉄矢のラジオ番組"文化放送の青春大通り"でのことだった。ちょうど甲斐バンドが「HERO」でセカンド大ブレイクをしていたときだ。リスナーの葉書で「鉄矢さんの後輩の甲斐よしひろさんですが『オレは財津の考え方って間違ってると思うよ』とこれまた大先輩の財津和夫さんを呼び捨てでヒドイこと言ってましたが失礼だと思いませんか?」という趣旨の問いかけがあった。これに対して武田は「いいんですよ、そうしないとずっと財津に負けたままになってしまうから。だって甲斐クン、君はHEROなんだからっ!」と甲斐を擁護した意味が今になってようやく腑に落ちたワイ。

3 音楽という海のノーサイド
 拓郎は「財津さんて、とんでもない人ですね〜」と笑いながら、決して財津をディスるのではなく、財津の音楽的才能が起爆剤になって数多くのミュージシャンが誕生したことの素晴らしさをたたえていた。武田もあらためてそれが自分達のビューティフル・エナジーだったと賛同していた。
 
 俺も思うのだ。「歌う敵と歌う真実」(いつも見ていたヒロシマ)と岡本おさみは書いたが、不倶戴天の敵同士と思われたさまざまなミュージシャンたちも、時間の経過とともにゆるやかにノーサイドになってゆく。ファンも同じだ。最近流行の「クラウドファンディング」という言葉を耳にするたびに、俺は「シアターフレンズ」を思い出してムカついていたのだが、先日カラオケでアリスを歌ったらなんか胸が詰まり泣きそうになって困った。もう終わったのだ。いくつもの川の水が海に出るように心のままに〜…60歳すぎて偏った無明の俺もようやくそう思うようになれた。
 ひとつの大きな才能に触発されて次々と違う才能が思い思いに花開いていくのが音楽であり、またそれぞれがぶつりかあいながらもひとつの大きな海に収斂してゆくのもまた音楽のチカラなのかもしれない。音楽は自由なものなんだ、そして平和なものなんだという拓郎の言葉をかみしめる。ああ、戦争と殺戮よ一刻も早く終わっとくれ。

 ということ今日は甲斐バンド「ビューティフルエネルギー」を聴きたい。松藤さんには申し訳ないが、甲斐よしひろのボーカルバージョンで。

 次回も怖い話のつづきでまいります…

2023. 11. 21

100分de名著「マガジンT(第8号)」を読む  第2話 愛よ、こんにちは

1 わが心の小室等
 今日は11月21日で、1978年11月21日といえば名盤「ローリング30」の発売日にして、同年同日、小室等の23区コンサートの目黒区民センターで吉田拓郎がゲストで登場した日でもある。「君に会ってからというもの僕は」生誕記念日と勝手に呼ぶ。
 その小室等は、この9時間のラジオ生放送にも重要なゲストとして駆けつけていた。この頃も二人は深い蜜月にある。この関係がその後どうしてどうなったか、たかがファンには知る由もないし、ましてや二人とも仲良くしてほしいだのなんだのと言える立場にもない。しかし、俺には俺でいち拓郎ファンとしての小室さんへの思いは確実にあってそれは大切にしていたい。
2 この広島の片隅に
 このラジオでも例の金持ちのお坊さんの3億円から始まるフォーライフ問題について小室さんと拓郎は侃々諤々とやりあうのだが、何度聴いても面白い。まるで古典落語の域じゃないの。
 それはいいのだが放送途中で拓郎のお食事ブレイクの間は小室さんがひとりトークでつなぐというターンになっていた。小室さんは、当時つまりは90年の夏の原爆の日に拓郎の故郷広島に行った話をしていた。拓郎のご家族のお知り合いかけられて話をしたそうだ。  
 小室さんは、これは拓郎が聴いたら怒るかもしれないけれど…と前置きをして話す。敬虔なクリスチャンであられたお母さんのために、拓郎が教会にやってきてボブ・ディランの歌を歌ってくれたという話に、「そういうのを頑なに拒むタイプの人間」と思っていた小室さんは驚いたという。またあの例の事件のときには「拓郎はそんなことをする人間ではない」と教会で署名を集めたという話も仄聞したという。「誰が信じてくれなくても自分のお袋だけは信じてくれている」という思いがどれだけ大切なものかと小室さんは感じ入る。そして拓郎にとっての広島とは即ち「母」のことなのではないかという。
 確かにこの種の話は、拓郎としては余計なこと言いやがってと怒るかもしれないが、こちらには深く心にしみいる話だ。そしてこの話は、昨今2021年〜22年のオールナイトニッポンゴールドで拓郎が「吉田家は吉田朝子の歴史である」と断言した言葉、それを実写化したような名作「ah-面白かった」…とひとすじに重なる気がする。
3  愛よ、こんにちは
 そうそう面白かったのは、拓郎がラジオの最後に小室等について「小室さんてね、実は彼が兄貴分に見えるでしょ。ほんとは僕が兄貴分なんですよ。彼は僕を慕ってるだけなの」というくだり。ああ、そうなのかと言う気もする。ああいう広島の拓郎の話を聞きこみ、ちゃんと拾い上げるのは、確かにもう愛というか慕情の世界だもんね。ということで「愛よ、こんにちは」…小室等フォーライフレコード第一弾…なつかしい。♪愛よ、こんにちは〜微笑みの言葉は〜今日から明日へ〜明日から永遠へと〜続いてい行く言葉〜って何となく歌えちゃうぜ。しかしこれってアルフィーの前身コンフィデンスが歌っていたとは知らなんだ。

 ということで、会報からは少し離れてゆくが、もう少しだけこのラジオについて話させてくれよ。
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2023. 11. 18

100分de名著「マガジンT(第8号)」を読む  第1話 過去をたずねて三千里

1 会報8号の時代背景
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 会報8号が届いたのは1990年12月。KANの「愛は勝つ」が大ヒットしていたころだ。老若男女がみんな唄える最後の流行歌だったかもしれない。心の底からご冥福をお祈りします。
 ということで会報は90年の秋までの情報がメインである。9月に始まった"男達の詩ツアー"と10月10日NACK5で放送された吉田拓郎本人9時間ぶっ続け生放送番組が二本柱のトピックとなっている。
2 耐久9時間のマラソンラジオ
 「10月10日、ずっとラジオの前を離れられなかった者へ、そして運悪く聞けなかったみんなへ。NACK FIVEで行われた9時間ライブDJ「吉田拓郎20mアニバーサリー"元気です”」の模様をお届けします。」という会報のフレコミのもとにラジオのレポート記事が載っている。拓郎本人による9時間ぶっつづけラジオが実施されたのだ。すげえ。あらためてすげぇと感嘆する。

 にもかかわらず、当時の俺は翌週から始まる地獄の試験のためにリアルタイムのリスニングはあきらめてしまった。何度でも言うが、この時期コンサートツアーも参加せずラジオも聴けないという悔恨の日々だった。
 せめてもの善後策としてこのラジオの録音を弟に頭を下げてお願いしておいた。しかし、もともと仲の良くない兄弟なので(爆)真剣さに欠けていたうえに、9時間もの放送だったので、テープの時間を間違えて途中ごっそり録音出来ていなかったり、既に録音したテープに上書きしてしまったりというポンコツぶりでついに全編を聴くことはできなかった。当然に弟とは今も仲が悪いままだ。
 ずっと後になって、奇特なファンの方のおかげで、欠けた部分をあちこち補綴しながら全編を聴くことができた。深謝。結局、放送当時20代だった俺が全編を聴けた時は既に60代になっていた(爆) だから、とにかくこの会報8号のラジオ特集は貴重なものだった。

3  元気ですの心意気
 それにしてもこの時はコンサートツアーの真っ只中だ。翌々日が群馬公演なのに、9時間もの耐久マラソンみたいなラジオをよくやったものだ。ディレクターがわが心のセイヤングの田中秋夫さんだったからだろうか。
 前夜、大宮に泊まって"スナックふれあい"で自動車のセールスマンとして楽しんだというのハイテンションのまま番組は始まった。内容的には20周年ということで自分の半生を語りながらすすめるという、最近のオールナイトニッポンゴールドの長尺版というところだ。先達サイトの言葉を借りればまさに「元気です」の心意気がみなぎっている。
その番組、重厚長大につき
 番組の概要は次のとおりだ。
主演 吉田拓郎
アシスタント 斎藤千夏
ゲスト
武田鉄矢
小室等
松尾一彦
鎌田清、由美子夫妻
坂崎幸之助
(以上登場順、数称路)
 おなじみの安定ゲストで固められている。鎌田清、由美子夫妻は、浦和のスタジオの近くにお住まいということで、差し入れがてら生放送に遊びに来たらしい。
 そしてON AIRされた曲目は次のとおり。
M1.イメージの詩
M2. 青春の詩
M3. 今日までそして明日から
M4.マークII
M5.夏休み
M6. 友へ〜今、青春がくれてゆく
M7.結婚しようよ
M8.春だったね
M9.旅の宿
M10.ペニーレインでバーボン
M11.風に吹かれて
M12.マンボNo.5
M13.ハウンド・ドック
M14.小さい悪魔
M15.渚のデート
M16.シンシア
M17.我が良き友よ
M18.歌ってよ夕陽の歌を
M19.やさしい悪魔
M20.いつか街であったなら
M21.ルームライト
M22.雪
M23.たどりついたらいつも雨降り
M24.あぁ、グッと
M25.愛よこんにちわ
M26.明日に向かって走れ
M27.どうしてこんなに悲しいんだろう
M28.となりの町のお嬢さん
M29.たえこ MY LOVE
M30.面影橋
M31.人間なんて
M32.君が好き
M33.ああ青春
M34. 落陽
M35.冷たい雨が降っている
M36.つめ
M37.いつも見ていたヒロシマ
M38.ビートルズが教えてくれた
M39. I saw her standing there
M40. Can't buy me love
M41. Strawberry files forever
M42. Twist and Shout
M43. Starting Over
M44. Imagine
M45. There's no shoulder
M46.元気です
M47.あいつの部屋には男がいる
M48.唇をかみしめて
M49.ショック! TAKURO
M50.サマータイムブルースが聴こえる
M51.俺が愛した馬鹿
[m:461] 弾き語りのコーナー(花嫁になる君に)
M52.すなおになれば
M53.俺を許してくれ
M54.流星
M55.舞姫
M56.男達の詩
M57.落陽
M58.祭りのあと
…さすがに9時間というと曲もこんだけの曲数かかるのだな。しかし今だったらこれだけじゃまだ足りないだろう。斎藤千夏アナウンサーのしっとりしたいかにもFMな曲紹介は拓郎も絶賛しており「その曲が喜ぶような曲紹介」だった。しかし、斎藤さんは、その後、いつもの拓郎特有のガサツなノリに影響されてしまって大変そうでもあった。お疲れ様でした。
4 リアルタイムに宿るもの
 聴けなかったラジオで何を喋ったか、どんな曲をかけたか、行けなかったコンサートツアーで何を歌ったか…それは後で情報としてトレースできる。しかしリアルの空気はそうはいかない。怒涛のコンサートツアーの真っ最中という空気感や、その中でこういうデスマッチのようなラジオをやってのけ…最後に来年は歳の数だけツアーをやるぞと宣言までしてしまう吉田拓郎。間違いなく彼の中で大きな胎動が起きていた、そのエナジーまでをリアルに体感するのはむつかしい。そういうエナジーの躍動を見逃してしまったのではないかという悔いがあるのだ。だから、このときリアルタイムで拓郎のコンサートやラジオ体感した人よ、その具体的な空気や気分みたいなものを教えてくれないか?教えてくれなきゃ、こっちから尋ねてゆくぞ!>誰に言ってんだよ
 
 さて肝心のトークは、ファンにとっては既におなじみの話、今となってはおなじみになった話も多かったが、何度聴いてもそれはそれでまた味わい深いものだ。それでもえっと驚く話題やしみじみと心にしみるイイ話も多々あった。次回は、このラジオの聴きどころをメモしておきたい。

2023. 11. 16

🔥🔥🔥はらたつわー🔥🔥🔥
 そりゃあ毎日ノウ天気な拓バカ日記ばかり書いている俺が世の中にエラそうに言えたもんじゃない。それでも、それでも、ああ〜ほんなこと腹ん立つ〜。

 僕が泣いているのは とても悔しいからです
 人の尊さ優しさ 踏みにじられそうで
 力を示す者達 しなやかさを失って
 ウソまみれドロまみれ じれったい風景でしょう
 より強くしたたかに タフな生き方をしましょう
 まっすぐ歩きましょう 風は向かい風
 どけ どけ どけ 後ろめたい奴はどけ
 有象無象の町に 灯りをともせ
 どけ そこ どけ 真実のお通りだ
 正義の時代が来るさ 希望の歌もあるさ
 僕の命この世に 捧げてしまっていいさ

 どけ どけ どけ どけ 情をなくした奴はどけ
 生きる者すべてが 愛でつながれる
 どけ どけ そこ どけ 正直のお通りだ
 アナタの為の僕さ 悔し涙のままさ
 たぎる情熱の僕さ ゆれる心のままさ
 僕の命アナタに 捧げてしまっていいさ
 僕の命この世に 捧げてしまっていいさ
            (吉田拓郎「純」)

 2019年のライブverでは“より強くしたたかにタフな生き方をしましょう”の歌詞が
 ”したたかに強くなりタフに生きてみせましょう”
 と微修正されている。強(したたか)かに強くなり”生きてみせましょう”…思えば2019年のラストメッセージか。この心意気でまいりましょう。

2023. 11. 15

100分de名著「マガジンT(第7号)」を読む  第2話 きっと僕らに女神は微笑む

1 真夏の夜の夢
 会報6号の第2話で「1990年秋、サッバリ断髪した拓郎は、その髪をツンツンと逆立てて、"男達の詩"コンサートツアーに出ることになる。」と書いたがそれは嘘だった。その前の90年夏に、JTスーパーサウンド90の横浜アリーナ、南こうせつのサマーピクニック・ファイナル、武田鉄矢の軽井沢音楽祭にゲスト出演している。JTとサマピは10曲前後を歌う秋ツアーのパイロット版のような本格的ステージだった。これらのステージが短髪でのライブデビューである。
 
 他人様にはどうでもいいことだろうが、当時の私は背水の陣の試験が続いたため、この夏のイベントも秋のツアーもすべてを吹っ飛ばした。わが拓バカ人生の痛恨のひとつである。半年の間つづく試験の沼でもがきながら、遠く切なく拓郎のライブのことを思うていた。
 JTスーパーサウンドは「男達の詩」と「いつか街で会ったなら」、サマーピクニックは「神田川」、軽井沢音楽祭は「夏休み」が地上波で放映された。特にサマピとスーパーサウンドは繰り返し悶絶しながら必死で思いを馳せたものだ。会報の今号と次号の"男達の詩ツアー"の界隈は遠くから見ていた吉田拓郎となる。

2 女神の現場
 会報7号ではサマーピクニックのファイナルの様子が石原信一によってレポートされている。
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会報からわかるセットリスト
 1.春だったね
 2.あの娘といい気分
 3.抱きたい
 4.ああ、グッと
 5.今夜も君をこの胸に
 6.ペニーレインでバーボン
 7.君去りし後
 8.男達の詩
 9.神田川
 くうぅうう。行けなかったライブは特に眩しく見えるわな。この中からNHKで放映されたサマピの「神田川」を会報と併せて観ることで、少しでも当時の様子を知ろうとがんばったものだ。

 "ボウズ"頭の慣れない風貌、すまないがどうしても工事現場を思い出してしまう衣装(爆)
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そして歌うは"神田川"。そんなハンデがまったく気にならないくらい、素晴らしいプレイをみせてくれる。90年1月と比べるとはるかに機敏でしなやかな吉田拓郎がいる。動きがいい、換骨奪胎の神田川も魂のロックナンバーとして見事に転生している。後に90年ツアー、91年ツアーと重用されていく「ウェーイ神田川」の誕生である。

 やはり野外は特別だ。一瞬だが画面に映る野外の観客たちも実に素晴らしい。こうせつのサマピというアウェーでありながら、ちゃんと最前列にTAKURO旗(大型バスタオルか)を掲げてノリ狂う大勢の観客たち。ああ、ありがとう(涙)。もちろん俺なんかのためなんかじゃない。拓郎のために拓郎の野外を身体を張って盛り上げている人々がいる。それは希望でしかない。そしてそれがまた拓郎のことを大きく鼓舞しているのがわかる。テレビを通して垣間見るほんの一曲だけからでも魂の入り方が違うことが伝わる。それは、石原信一のこんな言葉に結びつく。
 だからもう僕はきっと拓郎に「オールナイトはいかが?」の安直な質問は投げかけないだろう。それよりも、拓郎が一曲をすさまじく歌いきることに賭ける、女神が微笑む下で拓郎がいつも歌っているならそれでいい。
 いつかまた女神が両手を広げ、拓郎をどこか巨大な場所に誘い込むことを遥か夢見ながら。
 石原信一はとても正しかった。そのとおり、やがて巨大な場所にまた誘いこまれる運命が待っている。但し、ちょーっと時間がかかるのよね…16年くらいかな(爆)。それまで、生きよ、生きて抗え、敷島>いみふ

3 そして、こうせつさんへ
 歌い終わると拓郎は珍しく南こうせつの肩に手を置く。するとすかさずこの貴重なツーショットを逃してなるものかと(※私の想像です)こうせつは肩にかかった拓郎の手をしっかり掴む。拓郎はちょっと手を置いてすぐに離れるつもりだったようだが、こうせつが握っているので離れられず、一瞬、ちぐはぐになる二人。このシーンがたまらなく好きだ。
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 この出演は、こうせつのサマーピクニックに拓郎がゲストにかけつけてくれたという図式ではある。1987年に続き二度目だ。しかし1987年の復帰前夜、そして今回の90年の短髪スタートという節目の拓郎のために、こうせつが前哨戦たる場所と時間を提供してくれたように俺は思う。いや違うと言うかもしれないが、俺はそう思うことにしている。だから南こうせつに対して、心の底からありがとうございましたという気持ちで常にいるのだ。

 ということで7号はこれまで。次回は会報8号で。

2023. 11. 11

 声優の北浜晴子さんが亡くなった。子どもの頃「奥様は魔女」が大好きで観ていたが、今俺の耳に残っている北浜さんの声は拓郎105分 いまなぜ拓郎か。ああリフレインが叫んでる。ご冥福をお祈りします。

100分de名著「マガジンT(第7号)」を読む  第1話 何処へ行くT's会報、何がしたかった藤井徹貫の巻
1 新装会報出来!
 会報7号は予告どおり版型も内容も刷新された。藤井徹貫の編集指揮のもとの改革だった。写真の通りデカくなった。
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2 拓郎がいない
 問題は中身だ。既に会報6号からその兆候はあった。特に吉田拓郎ファンではない各界のプロたちが、特に吉田拓郎と関係ないエッセイを寄せ、特に吉田拓郎とは関係ない音楽業界者が、特に吉田拓郎が関係していない現代の音楽業界のウンチクを語る記事で満ちている。実質的に拓郎に関係しているのは石原信一先生の連載「続・挽歌を撃て」だけだ。この赤枠以外は、ほぼ吉田拓郎は出てこないし、関係もしない。
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 吉田拓郎ファンクラブの会報でありながら、ここまで拓郎ファンの読み手をアウェー気分に落とし込むのはもうお見事というほかない。
 なんじゃこりゃあ、拓郎の記事が全然無いじゃないか!と頭にきたが、当時、個人的に90年夏から年末まで人生最後の賭けともいうべき事象に忙殺され怒るヒマがなかった。それは俺の個人的都合だが、それでも他のファンの間でも当時不満が湧きおこらなかったのは、既にT's会報よりも、別便で送られてくるT'sNEWSの会員チケット先行販売に会員の関心が集中していたからではないかと思う。
 それはそれで切ない。しかし、コアに拓郎を語り深めたいファンの方々は、たぶん「たくろうさあくる」か「拓郎軍団」に参加していたのだろうと推察する。
3 てっかんの決意
 このファン・アウェーの"てっかん"こと藤井徹貫の編集方針はどこから来たのか。会報6号の編集部ステイトメントと7号の編集後記を読むと少しわかる。当時は別に何とも思わなかったが、今になって読むと妙に心にしみる。
 基本的には個人の主義主張。それがたとえ独断と偏見と他人には思えても、それを一番大事にする。多勢なら言えるけど一人じゃ言えないことは一生言わなくていい。一人でも言えること、一人になっても言いたいことで満ちた誌面を志す(中略)
 哲学者であり思想家である鶴見俊輔氏は"政治のあらゆる出来事はすべて生活の中にもある"といった主旨のことを述べられている。つまり生活とはそれほど大きな存在ということである。発想はその氏の発言に起因する。

 ここからは私の勝手な解釈だ。一見すると吉田拓郎とは関係しないさまざまな世界を生きる個人の主義主張の記事を集める。それは世界であり生活の縮図だ。世界や生活にはどこかに必ず吉田拓郎的なスピリットが宿っているはずだ。拓郎ファンは小さな殻に閉じこもらずに、そんな世界や生活に目を広げよう、そしてそこに散在する吉田拓郎の結晶を見つけ、また結晶が無い所に拓郎のスピリットを散りばめてゆこう。
 俺の憶測だが、たぶん徹貫は、そうやって吉田拓郎と世界の紐帯を固く結びたかったのだと思う。世界とともに吉田拓郎もそして拓郎ファンも生きてゆく。そんな大胆な挑戦だったのではないか。
 私の座右の銘である「すべての道は拓郎に通ずる。拓郎があればすべての道を行ける。」と共振するような気がしてならない。
4 夢また一つ
 もともと藤井徹貫のことは良く知らない。しかも今年卒然と亡くなられてしまわれた。会報6号のステイトメントに読者の反応がなかったと7号の編集後記で嘆いている。今から魂こめて送りたいが>遅すぎるだろ!

   おまえが死んだ後で青空はいっそう青くなり
   おまえが死んだ後でようやく僕はおまえを信じ始める
   残された悔しさの中で僕らは生き続けひとりぼっちだ
             (おまえが死んだあとで 谷川俊太郎作詞/小室等作曲)

 さて次回は、会報7号の中で唯一の拓郎記事「続挽歌を撃て」を深堀してみたい。

2023. 11. 10

🌟🌟🌟武道館よ屋根の梁を高く上げよ🌟🌟🌟
 なので自分は1978年の武道館(ライブアルバム"Bob Dylan at Budokan"も含め)でボブ・ディランにとりあえず入門した。武道館では弾き語りやアコースティックセットはなく全曲ソリッドなバンドサウンドだったので、ああそういうものなのかというのが初印象だった。
 そこからさかのぼって原曲や他のバージョンを聴くことになった。例えば、武道館で初めて聴いた"I Want You"は、聖歌のような美しいバラードだったので、後に原曲を聴いて♪が元気に跳ね回るようなウキウキポップな歌と演奏にびっくらこいた。ああ、自由だ、と思った。なんという自由自在な振り幅なのだろう。…まるで吉田拓郎みたいだ。
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 こういう入門の仕方って、拓郎で言えば、例えばいきなりライブアルバム「王様達のハイキングin Bodokan」から入門するみたいなものかもしれない。実際、自分の身近にそのとおりの「ハイキングから入門」というファンの方がいらした。その方も拓郎の弾き語りとかアコースティックに対してはあまり執着がなく、アルバムでいえば「大いなる人」とかのサウンドにしきりに感激していた。同じ音楽であっても、どっから入門して、どんなルートを辿るかでずいぶん大きく好きのカタチが違ってくるものだ。面白い。

 「王様達のハイキングin Bodokan」における「王様達のハイキング」と同様に当時未発表でライブ初披露目の新曲が入っている。"Is Your Love in Vain?"
いい曲なんだ。もう大好き。居並ぶ代表曲の中に入っていても全く遜色はない。確かにアルバム「大いなる人」系かもしれない、ちょっと「未来」に似ている。美しいバラードだと、知らないなりにライブの現場でも思った。

 しかし"Bob Dylan at Budokan"に腰をおろしていたら、ディラン先生は、たちまちそこからあっという間に違う世界に旅立ってしまった。その背中を見失ってしまった俺は入門したはいいが、今も永遠の見習い中の研修生みたいなものだ。

2023. 11. 9

⭐️⭐️⭐️何度弾丸の雨が降れば⭐️⭐️⭐️
 やあ、みんな。毎日拓郎ばかり聴いてるとばかになるぞ。>おまえが言うか
 高一のとき、今は遠くで暮らしている叔母がそう言って心配して、ボブ・ディランの初来日公演のチケットを買ってくれた。もっと世界を広げなさいと。これが私の人生初のコンサートだった。武道館では10日間くらい公演があったが、このたび俺の行った1978年2月28日の音源がコンプリートで発売されるらしい。45周年記念だそうだ。
 まことに感慨深い。あのディランの武道館に行けたからこそ、翌79年の吉田拓郎の武道館では道に迷わずトイレの場所もわかり安心だったし(爆)、なにより魂を込めた吉田拓郎の歌いっぷりが世界水準でもどんだけすんばらしいものかがよくわかった。世界が思い切り広がった。吉田拓郎の世界が。余計ばかになってしまって叔母さん申し訳ありません。近く箱根にまた行きますね。もうディランのこともわかんないかなぁ。
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2023. 11. 4

100分de名著「マガジンT(第6号)」を読む第2話 髪を切ったら20年が過ぎていた…それから30年が過ぎていた


1 短髪ライジング
 前髪を気にしない人生っていうのかな。たかが髪だけど大きい。そこんとこあまり気にならなくなった分、少し楽になったような気がしてね
 石原信一のインタビューでは髪を切って身軽になった吉田拓郎の新しい始まりを予感させてポジティブに結んでいる。いいインタビューだ。ということで、今回の100分de名著もココで終わればいいのだが、すまん。そうはいかないのだ。

2 愛と哀しみの短髪ビギニング
 正直に言って、当時、私は短髪の拓郎にはかなりショックを受けた。例えば菅田将暉が長髪にしたり、アフロにしたり、そして坊主にしたりと頻繁に髪型を変えるのとはワケが違う。これはピンチだと思った。
 会報6号の石原信一によれば拓郎本人が短髪のイメージとして描いていたものを聞き出している。
 どう髪型を変えるかについては、オールバックがいいかとかジャック・ニコルソンやフィル・コリンズなどの頭を思い浮かべて美容院に行ったそうだ
 ジャック・ニコルソンは世紀の名優でありフィル・コリンズも偉大なミュージシャンであることは知っている。しかし吉田拓郎は、音楽家であると同時にアイドルでありビジュアル系スターでもあるのだ。とすれば、んーどうだろうか。
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 この2人とも、そのまま磯野波平に向ってカウントダウンが始まりそうな不安がある。もちろんそれは私も含めて誰にでも訪れる加齢変化であり恥ずべきことではない。仮にそうなったとしても吉田拓郎の音楽も歴史も人品骨柄も含めて決してゆらいだりしない。ファンの気概も同じだ。しかし、しかしだ。やはりビジュアル系のアイドルでもあるがゆえにファンとしてはどうしたって苦悶してしまうのも事実だ。吉田拓郎は、ジャック・ニコルソンでもフィル・コリンズでもましてや磯野波平などでもなく、吉田拓郎としてカッコよく美しいビジュアルでいてほしいと願う。

 あの長い髪をひるがえして肩で風を切って飛んで行く姿が鮮烈だったしその期間も長かった。なのでなかなか短髪に慣れないことも大きかったのかもしれない。そのうえ観るたびに短髪の状況がいろいろ変化し、それがまた私を戸惑わせた。ツンツンに立てる"男達の詩"はまだ良かったのだが、
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 その後、怖すぎたり、七三分けのリーマンみたいな意味不明な時期もあったりして私を苦しめた。
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そもそもファンが慣れないのだから、世間や市井の人々はもっと慣れていない。「あれ誰?」「え、吉田拓郎?すいぶん老けちゃったのねー」と容赦がない。うっかりすると「あの人は今」のアイコンになってしまいそうな短髪だった。…ああ切ないぜ。ともかくしばらくビジュアル試練の旅が続く。男達は黙って進む。

3 短髪ビジュアル系リターンズ
 この試練が解消されるのはいわずと知れた「LOVELOVEあいしてる」以降だ。毎週毎週、短髪の拓郎が登場することに目が慣れてゆく。短髪=拓郎という刷り込みが完成する。そのうえで全国の国民に観られているということが大きかったはずだ。新人アイドルがテレビに出て注目されることでどんどんキレイになってゆくのとたぶん同じ原理(「石野真子理論」とも言われている)だ。そして何より、精神的にあの若者たちの大きな薫陶を受けて転生したという拓郎だ。その内面に新たに湧き立つ生命感が容貌やルックスに現れ、どんどんスタイリッシュになっていった。特にLOVELOVE中盤あたりからのルックスの洗練されてゆく勢いはすばらしい。最終的にはあの若き長髪時代と比べても遜色なく、短髪は短髪なりに心の底からカッコイイと思えるようになった。
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 これこそがLOVELOVEの偉大な功績だと私は心の底から感謝している。KinkiKidsや篠原ともえにアタマが上がらないゆえんだ。その後の拓郎は若干の経年変化はしたものの、ビジュアル系スターとしてそのままステージを全うしたことは記憶に新しい。かくして私たちは永遠にあこがれ続けることができるのだ。

4 短髪フォーエバー
 「髪を切ったら20年が過ぎていた」…それから33年が過ぎている。拓郎のキャリアでは短髪期間の方がはるかに長いのだ。今も昔と俺は言う。それなりに衝撃な事件だったのだよ。

 さて1990年秋、サッバリ断髪した拓郎は、その髪をツンツンと逆立てて、"男達の詩"コンサートツアーに出ることになる。何度も言うように90年代に駄作なし。進撃は続く。しばらくビジュアル冬の時代も断続的に続くが、それももう少しの辛抱だ。大丈夫だ、必ずビジュアル系の吉田拓郎は帰ってくる、心配するな…当時の自分をそう励ましてやりたい。

 そして、さんざん文句を言った会報6号だが、次回7号から会報が大刷新されて新たなる展開をする。

2023. 11. 3

100分de名著「マガジンT(第6号)」を読む第1話 髪を切ったら20年が過ぎていた
 会報第6号は個人の感想だがあまり面白くない。ファンクラブ会報としては熱度が低すぎる。理由はシンプルだ。"吉田拓郎"がいないのだ。いや、いちおういるけど圧倒的に足りないのだ。

第1 会報6号がなぜつまらないか
 1  表紙
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 なんだこの表紙は。これまでは、表紙と裏表紙は、吉田拓郎の豪華な近影、ご尊影、スナップで飾られていた。いい写真も多かった。しかし、なんだこれは。区民美術展か。…こんなふうに大事な場面で、近影不在のジャケット等が時々ある。古くは「流星」「春を待つ手紙」、後には「心の破片」「気持ちだよ」もそうだった。それがどんなに優れたアートだとしても本人のご尊影に勝るものはない。なんたって、なんたって十八…ちゃう基本はアイドルのファンクラブというメンタリティの会報なんだから。違うか。

2 写真がない
 表紙同様、中身にもこれまで満載していた新旧の吉田拓郎の写真が殆どない。「男達の詩」プロモーションビデオ撮影レポートの2ページだけだ。石原信一のインタビューにも今まではいろいろな拓郎の写真が散りばめられていたが今回はゼロだ。↓こんなイラストだけが載っていて…私にどうしろというのでしょうか。
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忘れること勿れ、あくまでも吉田拓郎は元祖ビジュアル系スターなのである。

3 意味不明の特集記事
 ファンクラブの会報なのに、いきなり80年代と90年代の日本の音楽界の動向についての長い論考、その次はスペイン名所ガイド…吉田拓郎は1ミリも出てこない。そんな記事が巻頭から25ページも続く。意味がわからない。会報の総ページが48なのにだぜ(爆)。せめてバルセロナを散策する拓郎の写真と紀行文とか…それは無理か。

第2 それでもある会報6号の存在意義
 それでも会報6号はビジュアル系スターにとっての衝撃の事件をリアルタイムで記録している。…それは断髪だ。
 主力記事である石原信一の連載「続挽歌を撃て」の話題は吉田拓郎の短髪実施である。タイトルも「髪を切ったら20年が過ぎていた」。1990年2月ころ、吉田拓郎はそれまでの長髪、カーリーをバッサリ断髪する。石原信一の連載の冒頭はこのように始まる。
 拓郎が髪を切った。極端に短い。何というヘアースタイルなのかと聞いたら「ボウズだ」と彼は笑った。
 いまやベテランファンですらも髪の短い拓郎を当たり前に受け入れているが、劇的なイメチェンであり大事件だった。
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…当時は驚いた。書店の店頭で「男達の詩」のジャケ写を雑誌で観たのだが、最初誰だかわからなくて写真の下の「吉田拓郎」という文字を見つけ「嘘だろ」と思わず声を上げたものだ。

第3  断髪前後
 90年1月10日の武道館ライブのバックステージ・楽屋の会話で、よく聴くと拓郎は坂崎に髪を切る話をしている。この時は断髪は既に決定事項だったようだ。

 坂「いっぺんボウズにするのもいいですよ、髪のためにも」
 拓「いや髪のためじゃないんだ、気分が…」

 そして90年3月後半の男達の詩のレコーディングのドキュメント(放送は90年8月のNHK「吉田拓郎ライブ&トーク」)では、短髪でスタジオに姿を現した拓郎が「もう1か月経ったよ」「その間に3回切った、早いんだよ」とツンツンの髪をつまみながら談笑している。なので断髪は2月ころと推察される。

第4 後藤、長髪やめるってよ
 そもそも拓郎の説明では、後藤由多加が、#前髪をかき上げる人"と"前髪を押さえる人"では、見える世界も違ってくるのではないかと説得し、二人で一緒に髪を切ろうと説得したとのことだ。しかし後藤はこの約束をドタキャンしたため、ひとりボウズになった吉田拓郎。会報6号の編集後記では、その時間、後藤社長は六本木の寿司屋でおねーさんとしっぽり二人でイイ感じだったらしい…とのことだ。ホントだったら、やっぱりいろいろとすげぇ人である後藤由多加。
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 10年以上前に拓郎にパーマをかけた美容師に「パーマを落とすのも責任もってやってくれ」とまかせたところ短いカットの髪にされたという。
 この顛末はエッセイ集「自分の事は棚に上げて」の「もうやめた」に詳しい。この美容師は後のヘアスタイリスト益子さんの師匠である畑さんと言う方らしい。

 拓郎本人も語るとおり長髪は「歴史ある髪型」だ。やはりこの断髪にはご本人もとよりファンの俺もいろいろと気持ちが複雑にうねった。ねぇ、あの短髪観た時みなさんはぶっちゃけどう思いましたか? 俺にとっては愛と哀しみの短髪だった。「どんな髪型をしようが俺の勝手だろ」と拓郎は怒るだろうが、いや拓郎さん、そういうもんじゃないんだよ。それについてはまた次回。

2023. 11. 2

🌟🌟🌟今日も明日もあなたに逢いたい🌟🌟
 こんな自分でも国会中継をよく観る今日この頃。外出先の待ち時間などにスマホで観ていると"帰ってきたあの曲"の"あの一節"がどうしても頭に鳴り響く。

 テレビはいったい誰のためのもの
 見ているものはいつもつんぼ桟敷
 気持の悪い政治家どもが勝手なことばかり言い合って
 時には無関心なこの僕でさえが
 腹を立てたり怒ったり

 殺戮をやめろ、停戦しろという決議を棄権する我が祖国。Noと言えない。何がバランスだ…誰かの顔の色も気にかかるんだね。また輸出した兵器の使用態様を問われて、平和のために使っていますと薄笑いしながら答える。そこには苦渋の陰もない。
 たぶん今の多くの政治家が心の中では大嫌いな憲法。憲法の人権とは、どんなに強力な権威、どんだけ圧倒的な多数決をもってしても絶対に奪えない個人の尊厳のセットリストのことだ。政治家にはきっとメンドクサイことこのうえない。しかしあなたたちの仕事は、このセットリストを守り、誰もがひとしくセトリの曲を奏でられるよう尽すことだ。断じて自分勝手な都合でこのリストを削ったり切り刻んだりすることではない。任期中に改正実現とか血道をあげるところを絶望的に間違えている。
 反戦歌もプロテストソングもあんまり好きではないが、殺戮に対する態度も個人の尊厳についてもいろんな意見がありますよねぇ…と有耶無耶にしながら楽しむ音楽なんて俺にはありえない。

 …ということで腹を立てたり怒ったりしながらスマホで中継を観ていたので、声をかけられてもまったく気づかなかった。すまん。きっと拓郎の歌なら気づくだろうと"人間なんてララララララララ〜"と阿佐ヶ谷姉妹のように斉唱してくださったご婦人方(爆)ありがとうございました…不肖ワタクシとても幸せでした。

 「人間なんて」といえば、大黒摩季の名作「ら・ら・ら」は"人間なんてラララ"にインスパイアされて作られたということだ。諸説あるのかもしれないが、大黒摩季のプロデューサーである長戸大幸が自ら明言していた。長戸大幸…知る人ぞ知る幻のフォーライフ新人だった御方だ。
 なので「ペニーレインでバーボン」の"テレビはいったい誰のためのもの"と「ら・ら・ら」の"テレビやマスコミはいったい誰のもの?"はたぶん兄妹フレーズみたいなものだ。
 本当に誰のためで、誰のものなんだよ。そういう俺も気づくのが遅すぎたな。
  

2023. 10. 31

⭐️⭐️⭐️新曲の輝き⭐️⭐️⭐️
 ローリングストーンズの新作「Hackney Diamonds」が出た。今やネットでストーンズと検索するとミックでもキースでもない若者たちがズラっと出てきて戸惑った。今はこういうご時世なので尻馬に乗るみたいで心苦しいが、すまん、キミらはシックストーンズじゃダメなのか。わしにはストーンズはストーンズだけなのよ。…ひとりごとです気に止めないで時にはこんなに思うけど。
なんにしても新曲だ。80歳のロックバンドの新曲である。いや年齢もキャリアも捨象してとにかく新しい曲だ。ストーンズファンとして底の浅い俺でもワクワクする。新しい車に乗って、サンディエゴフリーウェイを南に走っているような気分になった。我ながら例えが嘘臭い。
 衰えないミックのボーカル、"Whole Wide World"で心が躍る。爽快。"Mess It Up"…おもしれえ。身体が揺れる。これがチャーリーワッツの遺作なのか。"Tell Me Straight "ああ、しみる。変わらないミックのボーカルに対してキースのボーカルは聴くたびに深く沁みてくる。そばよし本店のかき揚げうどんの出汁のようだ。

 これを聴いていると「ah-面白かった」の特にWanganが聴きたくなった。イイ。比べるべるもんじゃないが、比べても遜色はない。どちらも清々しい。

 なんだろうこの加齢な人々のピュアな自由さは。どっちも痛快。

2023. 10. 29

100分de名著「マガジンT(第5号)」を読む  第7話 [NG:3 ] あこがれ運動体 西へ


 …時々考える。金沢事件の時に、もし俺が拓郎ファンだったとしたらどうしたろうか。そりゃあ拓郎を信じてファンを続けたに決まってる…と断言したいが正直その自信がない。それは例えば戦争が終わってから、実は俺もあの戦争には反対だったんだと威張り出すオトナの姿とどこか重なる。ヘナチョコな俺には胸張って言える自信がないのだ。
 だからこそ金沢の嵐から逃げ出さずに、推しとしての極北をのり超えたすべての当時の
拓郎ファンの方々を俺は心の底から尊敬する。
 後にいろんなファンから当時の話をうかがった。例えば当時、女子高生だったファンの方は、拓郎の悪口で持ちきりの学校には行きたくなくて、金沢に駆けつけることもできず、かといって家にいるのも苦しくて、毎日、ずーっとユイ音楽工房のビル前にタムロしていたそうだ。そんなファンがたくさんいたという。こういう話を聴くだけで胸がしめつけられるようだ。
 いわば世界中が敵になるような中で、拓郎ファンでいつづける孤独の身空には、いろんなことがあったでしょう、人に隠れて泣いたでしょう。そして、そういう方々がいればこそ私はこうしてファンの端くれの末裔でいられるのだ。

□ いつも見ていた後藤由多加
 さて後藤由多加インタビューのつづきだ。普通は、事務所やプロダクションの社長は、フィクサーとして表舞台には姿を見せたりしないものだ。しかし後藤由多加はいつも最前線のフロントにいた。金沢事件の時だけでなく自らも前線に突撃していくイメージがあった。例えば拓郎や長渕の離婚記者会見等の時など荒れそうな場所には必ず横に座っていた記憶がある。表裏を問わずタレント=アーティストを守るために社長が身を運んで当然という気概が伝わってくる。
 少なくともタレントを矢面に立たせて自分達はその後ろに隠れ責任を逃れるようなことは絶対にしなかった。
 このインタビューに登場する70年代初頭の吉田拓郎の軽井沢での結婚式の逸話がまたいい。
G:あの軽井沢の教会で。…ボクはなんかの夏のコンサートで肩を脱臼して包帯をして軽井沢に行った覚えがあるもんな。これ片手だったら、何かトラブルがあったときやばいなぁっていうんでバットを持っていたんですよ(笑)
 この話もメチャ好きだ。普通、包帯してバット持って結婚式行くか(爆)? 俺が拓郎アニキを守りますという任侠の世界か。

❑ つま恋は燃えているか
 また、つま恋75のビデオで好きなのは、拓郎2ndステージのオープニング。「夏休み」のイントロが流れる舞台袖でスタンバっている拓郎。後藤は、その前にしっかりと立って、周囲を睥睨し、よし行けとばかりに先導して拓郎と一緒に階段をのぼっていく。うっかりすると後藤もステージに出ていきそうな勢いだ(笑) そもそも社長がボディガードみたいにそこにいる必要があるのか?という素朴な疑問を超えて、観る者を感動させずにはおかない。
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 つま恋といえば85年。午前2時ころか。騒音苦情が殺到したというときに、後藤は自らステージに上がってマイクを握りしめて「ここでやめるわけにはいきません、音量は多少下げるがわかってくれ」と啖呵を切った姿も忘れられない。後藤はいつも大事な場面のフロントにいてくれた。

 ユイは会社と言うより、後藤の語っていたとおり「運動体」だったのかもしれない。少なくとも70年代前半はそういう気持ちで後藤はじめみんなが動いていたのかもしれないと思う。石原信一の言う通とおり「運動体」だったと考えるといろんなことが腑におちる。

❑ そこにある原点
 会報6号のインタビュー後半の言葉の先取りになってしまうが、後藤のこんな言葉が刺さる。
 唄も唄えない、曲もかけない、詞もかけないスタッフがどういうふうに頑張らなきゃいけないか、という所を僕に教えたのは拓郎でしたね。ボクにとっては原点なんです。原点というか、そこしか僕にとってはないわけです。
 吉田拓郎を愛するように、たぶん多くの拓郎ファンが、渋谷、陣山、常富、そして後藤由多加に対しても深い敬愛を抱くゆえんである。前にも書いたが矢沢永吉の自伝インタビュー「アー・ユー・ハッピー?」を読んでその凄絶さに胸が苦しくなりながら、俺はユイ音楽工房のことを思った。あなたたちでよかった、あなたたちがいてくださって本当によかった。この胸いっぱいのありがとうよ、君に届いておくれ。

 結局、長話になってしまったよ。読んでいただいた方、すみませんね。でもありがとうございます。会報5号はこれまでです。

2023. 10. 26

100分de名著「マガジンT(第5号)」を読む  第6話 [NG:3 ] コロンブスのゆで卵

 このインタビューではやはり金沢事件のことは避けて通れない。
石:74年の金沢の時にはユイはつぶれると思いました?(※だから73年だって:星紀行注)
G:うん、最初は思いましたね。コンサートはできない、もうやけっぱちでしたからね。
警察を訴えてやろうと思ってましたからね。それで警察官に言ったしね、絶対に訴えてやるからって。あの時はホント大変だったなぁ。
 警察に啖呵を切り、権力&警察と戦う覚悟を固める後藤。もうこの言葉だけで俺は小一時間泣けるぞ。前号で連行される新幹線に同乗していった渋谷マネージャーからの連絡を受けて、自分も金沢に向かう。
 すぐ行くって、新幹線で大津かなんかに出て。春だったけどまた結構寒くても日本酒を一本電車の中で買って。それと卵ね。ゆで卵を買って。夜行だったのかな、一睡もしないで金沢に行きましたよ。拓郎の存在はどこかできり返さなきゃないけなかったし、それは何なのかっていう。具体的には権力を警察を訴えることをしなきゃね。
 最近まで借金を抱えた単なるペーペーの学生だった後藤には、自分の「生活の不安はなかった」という。しかし「拓郎の存在をどこかできり返すために」戦わなくてはならない。
 それにしても…「ゆで卵」。イヤミではなく、後藤氏は年号・年代は忘れても「ゆで卵」のことは覚えていた。多分、後藤にとって夜行列車で金沢に向かうその時の心象がいかに厳しいものだったかが窺える。その景色ごと強烈に心に焼き付いていたんだろうなと思う。

□ 帝国の逆襲(良い意味で)
 事件は、不起訴になったが、潔白が証明されたにもかかわらず、拓郎のイメージは酷く悪化したままだった。事実、由紀さおりの「ルームライト」は放送自粛となり、これひとつとっても拓郎のみならずナベプロもかなりの打撃を受けたはずだ。こういうとき芸能プロは、とっとと拓郎から手を引いて"干す"のが自然だろう。しかしナベプロは手を引かず、様子見すらもせず、事件直後の73年の秋に森進一のために曲提供を吉田拓郎に依頼した(後の「襟裳岬」)、それだけでなく小柳ルミ子の「蛍の河」「赤い燈台」と依頼を続けていった。ゆくゆくはキャンディーズに至るまで、ナベプロ主力スターへの作曲依頼を続けてゆくのだ。当時、森進一もいわれなきスキャンダルに苦しんでいたというが、普通だったらなおさらイメージの悪い拓郎は使わなかったはずだ。
 ここにナベプロの吉田拓郎に対する固い応援の意思を感じざるを得ない。矜持というべきか。後藤がアポなしで渡辺晋に挑んでいったあのときのエピソードが思い出される。ユイとナベプロの間にはそれこそ信頼の固い絆が出来上がっていたのではないか。
 この頃の音楽界は、新興ユイVSナベプロ帝国という対決図式で総括されがちだが、当時の音楽界で吉田拓郎の才能を誰よりも高く評価し支援していたのはナベプロだったんじゃないかとすら思うのだ…まー、しょせんシロウトの思い込みだ。

□ ちょいとマッチを擦りゃあ炎上しそうな

   用心しろよ、用心しろよ、ああ、そのうち君も狙われる
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 50年前の冤罪事件と思う勿れ。この危険な闇は、なんにも克服されないまま、インターネットだSNSだという高度情報社会の中で私たちの足元まで広がっている。今も誰かが炎上し、いわれなき中傷に痛めつけられる。ああ、何て事だ、何て世の中だ。

 警察が連行する新幹線に飛び乗る渋谷氏、警察と戦う覚悟で日本酒とゆで卵を抱えて夜行で向かう後藤氏、プライベートジェットで駆け付ける久保利弁護士、そして金沢中署を人間の鎖で囲み歌うファンの方々、すべては「吉田拓郎」奪還のため、青春の河を超え、青年は、青年は金沢を目指す。…あ、五木寛之、嫌いだったんだ。そして忖度も様子伺いもせず潔白なる才能を堂々と支援するナベプロ。
 どんなにネット世界、情報技術社会が偉そうな顔して高度化しようが、最後は人間の力だ。人間の魂に根差した言動でしか人は救えない。その当たり前すぎるくらい当たり前なことをこの事件をめぐる人々の一挙手一投足が教えてくれている気がする。

…あららら話がそれたな。いよいよ次回会報5号最終回。

2023. 10. 24

100分de名著「マガジンT(第5号)」を読む  第5話 [NG:3 ] 後藤由多加、天下をとったヤツまともににらみつけ

□ 君臨すれど仕事せず
 ユイ音楽工房の設立当時は、後藤由多加がマネージャーを兼務していた。その際の有名な伝説がしっかり実話だったことがインタビューで確認される。石は石原信一、Gは後藤由多加だ。
石:そういうとき(※注:地方のライブに行った時)の拓郎はどういう感じなんですか。
G: もう、すごくよく仕事しましたよ、自分で照明の打合せして、僕なんかが寝ている間に仕事が終わって。
石:全部そういう仕事を自分で…
G:それで仕事おわったら「後藤、おわったから帰ろうぜ」みたいな。ある時拓郎が「後藤おまえ、マネージャーに向いてないんじゃないか」って(笑)
 (笑)この話メチャ好き。おそらく拓郎は後年、渋谷氏がマネージャーになってつくづくと確信を深めたのではないかと想像する。

□ 天下を取った人
 メチャ好きな話といえば、マネージャーには向いてなかった後藤氏の名誉のために、このインタビューにはないけど一番好きな話を書いておく。出典は、野地 秩嘉「「芸能ビジネス」を創った男 ナベプロとその時代」(P.160〜)
 天下の渡辺プロの渡辺晋社長と後藤の初対面のくだりだ。
「(私=後藤は)芸能というより我々の世代だけを相手にした運動という意識だったのです。ところが仕事を続けていくうちに責任が芽生えてきた。事務所を作ってお金の出し入れをちゃんとやらなきゃならない。そんな時にふと渡辺晋さんを訪ねてみようと思いました。」
 長髪でジーパン姿の後藤は、…渡辺プロへ出かけた。受付で「ユイ音楽工房の後藤です」と名乗ったら誰の紹介でもないのに社長室に通された。
 ああ、もうカッチョエエと本屋で立ち読みしながら悶絶したのを憶えている。アポなしでナベプロ帝国に単身乗り込む後藤も、黙って社長室に通す渡辺プロもすげえ。両者の頭の中には名前を出さずとも、たった一人の若者の姿があったに違いない。たぶんこういう人↓
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 晋社長は室内に流れていた音楽を止めさせて二人の社長の話が始まる。
晋は、尋ねられるまま、何でもオープンに話した。著作権管理のシステムから、コンサートチケットの効率的な売り方、金を預ける都市銀行はどこがいいかまでざっくばらんに話した。後藤が驚いたのは「なんでも隠さずに教えてしまう」晋の懐の大きさである。…晋の仕事に比べれば自分たちがやっているのは「子どもの遊びみたいなものだ」と感じた。
 この息詰まる感じ。さらに凄いなと思ったのは次のくだりだった。
芸能ビジネスの話を晋から聞いた後、後藤は自分たちのビジネスについて、お礼のつもりで説明したという。後藤が強調したのはメディアの力だ。テレビ出演を拒否し、ライブとラジオ出演だけで、ファンを獲得していくことは、時間はかかるけれどファンとの間に強い絆を持つことができると、後藤は自分なりの考えを述べた。
 ああ、またまたすげーカッチョエエ。俺は立ち読みしていたこの本を迷わずにレジに持って行った。>どうでもいいよ。相手の懐の深さに感謝こそすれ決して卑屈にはならず、堂々と切り返す。ここに静かな真剣勝負がある。真剣勝負の果てにある信頼関係が窺える。そしてここから怒涛のニューミュージックの進撃が始まるのだ。ライブとラジオのおかげで絆をつないできた端くれとして心の底から誇らしさを感じる。

□おそるべし、向いていない人
 この後藤の無敵感はなんなのだろうか。借金を抱えて逃げ回りながら、起死回生のイベントを打つ胆力、後年に、後藤はロスアンジェルスに渡り、吉田拓郎のバックバンドに「ザ・バンド」をアサインし契約寸前まで事を運ぶ気骨。すげえ。それは「若さ」だというかもしれないが「若さ」だけでやりおおせられることではない。
 確かにマネージャーには向いていなかったのだろうが(爆)…後藤由多加、ああ、おそるべし。このインタビューはつまらないといいながら、すまん、あともうひとつだけ書かせてくれよ。つづく。

2023. 10. 22

100分de名著「マガジンT(第5号)」を読む  第4話 [NG:3 ] 後藤由多加、愛と青春の旅立ち

❑ 軍司・後藤由多加
 吉田拓郎のことを好きになればなるほど後藤由多加に対する敬意は深まってくる。もちろん俺はただの一般Pなので事実や実態はわからない。それでも、矢吹丈に丹下段平が、渥美清に山田洋次が、秀吉に黒田官兵衛がいたように、拓郎ありて後藤あり、後藤ありて拓郎ありとでもいうべき不即不離の関係を感じる。
 その後藤に対する石原信一のインタビューが会報5号の目玉企画である。しかし、残念ながら陣山氏(会報3号)、渋谷氏(会報4号)に対するインタビューと違って、年代とか昔の経緯と事情についてかなりグダグダしている。

❑ 明日はどっちだ、昨日はどっちだった
 例えば、インタビュアーの石原は、エレックがらソニーへの移籍に後藤とユイ音楽工房は関わっているのかどうか、エレックで録音された「結婚しようよ」の原盤がソニーからシングルで出たことの経緯はどのようなものか、前田仁の役割はあったのか、…このあたりを尋ねたかったようなのだが、どうも記憶がまだらでハッキリしない。

 それに年代についても時系列がごっちゃになって混沌としている。あの狂乱の「人間なんて」のフォークジャンボリーが72年、その72年の暮れに「元気です」、その頃にユイ音楽工房が設立、73年に全国ツアーが始まって、74年に金沢事件…というように年号が全部間違っている(爆)。マルチバースか。もちろん歴史のテストじゃないし、音楽と音楽活動の大いなる展開に正確な年号記憶は必要ではない。しかし、こういうのって気にならない? 俺は気になる。なので、つい第一印象でポンコツ認定してnot so goodに分類してしまった。

❑ エピソード・ゼロ
 しかし、このインタビューは、なぜ後藤がユイ音楽工房を設立したのか、よくある設立の理念とはまた別な運命のひとひねりのようなものが語られている。いわばエピソード・ゼロの部分を教えてくれる泪橋を逆にわたるような貴重なインタビューだった。NGに分類してすまん。

❑ この広い負債いっぱい
 ユイ設立当時、陣山氏も渋谷氏もまだ大学生だったように、後藤その人もまだ早稲田の学生だった。これは学生ベンチャーのハシリといっていいのか。「企画構成研究会」というサークルだったそうだが…実際にはダンパやフォークソングのライブを主催して小金を稼ぐ、軟弱なサークルだったようだ。後藤氏は、森山良子のコンサートを何度か催しては失敗し、その後に渡辺貞夫のコンサートを主催してはまた大失敗し(あの神田共立講堂で観客80人だったということだ)、実に数百万円からの負債を負っていたらしい。
 「渡辺さんのいた事務所にずーっと借金をおっかけられて、みんな家に住めなくなった…」というからかなりヤバい。後藤、奥山という、ユイの原始メンバーは、みんな借金から逃げ回っていたようだ。

❑ ラブラブ起死回生
 後藤は、追い詰められたあげくの借金返済のために、まだ無名だった吉田拓郎やフォーク歌手らの伝手を利用して、早稲田大学の記念会堂(8000人収容)の「ラブラブ・フォーク・カーニバル」という音楽イベントを打つ。まさに最後の賭けだ。ラブラブ=LOVELOVEとはなんか今にしてみれば象徴的だね。

 後藤は早稲田大学内の数十ものサークルを回って、サークルの人が呼びたいミュージシャンをリサーチし、そのミュージシャンを呼ぶから、チケットを捌くよう依頼する。その際、採算ラインを計算したうえで500枚以上売ったら、一枚につきチケット代のおよそ25%を取っていいという条件を取り付けた。これによって、各サークルはお目当てのシンガーが観たいため、また利益のためにチケット捌きを頑張り、それによってコンサートの制作コストの回収を確実にできるという計画だったらしい。…これって、後に全国にいる若者のイベンターの協力を仰いで、チケットを捌き、コンサートツアーをおこなうというシステムと通底しているよね。さすがっすね。

❑ 旅立てG
 その結果、いいようにハメられた早稲田のサークルのおかげで無事に記念会堂は満杯となり、拓郎の名司会もあってコンサートは大成功となった。資料によれば次のとおりだ。 
1971年6月27日 東京:早稲田大学記念会堂「ラブラブ・フォーク・カーニバル」
【出演】吉田拓郎(司会)、高田渡、加川良、遠藤賢司、加藤和彦、小室等と六文銭、浅川マキ、長谷川きよし、ジローズ、ソルティーシュガー、西岡たかしと五つの赤い風船
 このように記念会堂はまさに聖地といっていい。そして余談だが、この記念会堂は2015年に取り壊す前に卒業生の小田和正が報謝のライブを催したことでも聖地となっている。
 結局、後藤は500万円以上の利益を得て無事に借金を完済した。もっとも早稲田周辺の印刷所のチケット、チラシ印刷代金は、うやむやにして踏み倒したらしい。おい(爆)。…あと関係ないけど、この直後に中津川フォークジャンボリーでインチキなフライドチキンを売ったという話も面白かった。…早稲田大学、ぶっちゃけロクなもんじゃありません。拓郎が後に、松本隆、松任谷正隆、中村雅俊、鳥山雄司などの親・慶応派に傾いてゆくのもなんかわかるところだ。それはどうでもいい。そんなこんなで後藤は決意する。
 ボクは数百万あった借金を全部返して、それで手元に二百万円弱残ったんですね。…このままお金使っちゃうとまずいから早く会社作ろう

 ということでいよいよユイ音楽工房が誕生するのだった。1971年のことである。そこには音楽に対しての青雲の志とともに、どうしようもない借金苦という背景事情があったのだ。後藤が森山良子と渡辺貞夫のコンサートで借金を負わなければ、ユイ音楽工房はなかった。やはり「今日の吉田拓郎があるのは森山良子のおかげだ」という定説はここでも実証されるのだ。

❑ 新宿の空
 そして森山良子と渡辺貞夫とくれば、勘のするどい君だから何を話すかわかっているね。ユイ発祥の地でもある新宿で催されたTONYミュージックフェスティバルだ。http://tylife.jp/chiisanasakebi.html#19801004
 こうして考えるとこのイベントは後藤由多加が一番万感胸に響いたのではないかと思うのだ。
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借金を作り、追われ、返済した機縁の三人の揃い踏みを観て、どんな気持ちだったのか尋ねてみたい。忘れちゃってるかな。

 良子姐さんが唄うTONYのテーマ曲「TONY MY FRIENDS」、あの日、待ち時間に50回くらい聴かされて今でも歌える。なんかぴったしだな。

  お元気ですか? 幸せですか?
  Are you happy, My Friends?
  合言葉はそうよ“TONY”
  T・O・N・Y LOVE!
  つよく結んだ心の糸
  そのむこうには あなたが

…ということで、あまりに、いいインタビューだったので次回「一寸の闇にも後藤の魂」(仮題)につづく。>言ってること違うじゃん

2023. 10. 20

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☆☆☆サビシィ〜ッ&キビシィ〜ッ日々☆☆☆

 相次ぐ訃報、爆撃に殺戮と鬱々とした日々だ。なんだこりゃ。

 高校生の頃、テレビドラマのエキストラのバイトをしたことがあった。寒空にTシャツ&短パンで一日いなきゃならなかったが、ミーハーの俺は芸能人を近くで観られるだけで幸せだった。鈴木"たどり着いたらいつも雨降り"ヒロミツは、現場に外車で乗り付け、撮影をササッと終えると、頭を下げるスタッフたちを背にして、また車で風のように消えて行った。おお〜スターだと感激したものだ。
 出番の長かった坂上二郎さんと財津一郎さんは、カメラが回っていないときも、二人でミュージカルみたいに歌の応酬を繰り返していて実に楽しそうだった。ああ、歌が好きなんだな〜とても素敵な光景だった。
 やがて撮影が終わると財津一郎さんは、俺のようなエキストラのガキのところにもやって来て「お先に失礼します。寒いけど頑張ってチョーダイ!」と声をかけてくださってコレまた感激した。感激というか、高校生の俺はその時なにかを学んだ。それが何だかはわからない。少なくとも高校の化学や数学や保健体育の先生たちからよりもはるかに大事なことを教わった気がする。
 それ以来、ずっと財津一郎さんのファンである。i-Podには「花のピュンビュン丸」を必ず入れているし、"こてっちゃん"やあのピアノCMを観るたびに小さな元気が湧いた。「頑張ってチョーダイ」と言っていただいたわりには、ガンバッテないけどいいでしょう。ありがとうございました。どうか安らかに、心の底からご冥福をお祈りします。

2023. 10. 19

100分de名著「マガジンT(第5号)」を読む  第3話 [NG:2 ] もっと讃えよ、仰ぎ見る等身大

❑ 誰も話さない、語らない
 会報5号には新作アルバム「176.5」についての特集記事は見当たらない。最近の拓郎のアルバムでは、拓郎自身によるライナーノーツが載せられていたりするが、そういう拓郎自身の言葉も、音楽ライターなどがレビューしたり誰かが深く鑑賞したりするような記事もない。この「176.5」が名盤だと思うだけに淋しい。

❑ この素晴らしきアルバムに
  失礼を承知で何度でも言うが「マッチ・ベター」「ひまわり」がまるで試作品だったと思えるような完成度の「176.5」である。一言でいうとこのアルバムはシュッとしている。ああ、こういうのをスタイリッシュというのか。
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 10階のテラスの夜景が見えるような「星の鈴」はホントに胸に鈴が鳴るようだし、高速をひたすら走ってゆく走馬灯(>なんだそりゃ)に同乗しているかのような心地よさの「車を降りた瞬間から」、イントロから胸がしめつけられる「しのび逢い」、大人の恋愛映画のけだるい1シーンのような「憂鬱な夜の殺し方」そしてこのアルバムのスーパー・ヒトシ君ともいうべき「俺を許してくれ」…ファンとしては、このアルバムをもっともっと解題して欲しいし、この素晴らしさを誰かと分かち合いたかった。その思いはネットなど存在しなかった当時はひとしおだった。そうだ、ちょうどこの頃にシンプジャーナルは休刊になってしまったのだった。なのでもうこの会報しかなかろう。そこが今号のnot so goodなところだ。

❑ 冬の旅
 それでも会報5号の石原信一のインタビューで、拓郎はこの「176.5」について、短くこう語っている。
ミュージシャンてヨイショがなきゃやらないもんだよね。『いや、さすが』『天才』とか言われないと、やる気は起きないもん。まわりからもちあげられて、有頂天になってアルバムを作るわけ。今回それが少なかったな。でも今度のアルバム 俺 売れるかもしれないと思っている。すごくポップで聴きやすくてずうっと飽きなくて、次はどんな曲?って感じにさせる
 この拓郎の言葉が刺さる。心が痛い、心がつらい。ひとりぼっちで佇む拓郎の背中を観ているかのようだ。そうか…ファンクラブという媒体がありながら、ヨイショが足りなかったか。俺も「176.5」を聴くまではコンピュータの打ち込みはキライだったし、その打ち込みシングルの「落陽」も応援しようとは思わなかった。

 でもそんな中で拓郎が作り上げたこのアルバムは「売れるかもしれない」…と俺も当時は考えた。期待した。確かにポップだし新しい。なんといっても、いつもの土着的(Yuming said)ではない、前記のとおりのスタイリッシュさが真骨頂だ。そこに"とらばーゆ"の余勢や"世界・ふしぎ発見"のチカラも手伝って…世間からは新生・吉田拓郎として絶賛されてもいいはずだと思った。
 世間…が何かはわからないが、バブル全盛期の世間から吉田拓郎はもう終わった人としてゆっくりフェイドアウトしつつあったのだと思う。拓郎の新曲とかそういうのはとりあえず要らないからと(※個人の感想です)。こういうときこそのファンなのだが、ファンはファンで、それぞれのライフステージの中で人生の重大局面を迎えて(※その後の星紀行の調べによる)、推し活どころではなかったファンも多かったようだ。偉そうに書いているこの自分にしてからが、人生に思い切り蹴躓いていたころで、いろんな拓郎の応援機会を逸していた。

❑ 同行二人
 かくしてこの頃から、いかに名曲を作り、傑作を歌えども、誰もこっちを向いてはくれません、立ち尽くす私…な冬の時代が静かに始まる。いや既に始まっていたのか。ファンにとっては、木枯らしの道を歩くようだった。拓郎がどうだったかは、わからないが、君の歳月が僕と同じでないなら困ってしまう。

 しかし世間の冷たい風の中なれど拓郎は素晴らしい音楽を紡ぎ、ファンとしてはそれを身体に浴びて心は暖かった。いろいろあっても幸せな時間であったことに間違いない。
 若者よ、推し活にはこんな風雪のときもある。この風雪の貴重な記録としてこの会報の意味は大きいのだ。ということで、孤独な背中を追いかけてまいりましょう。我も行く蒼白き頬のままで。

2023. 10. 18

☆☆☆縁☆☆☆
 谷村新司氏の追悼の気持で「地球劇場」の吉田拓郎のゲスト回(2014年)を観なおした。こういうことになってしまったから、ということもあるかもしれないが、実にいい番組だった。よくぞこんな番組を残してくれたものだとあらためて思った。
 二人の距離をあざとく詰めたりせずに、そのままの自然体で二人が打ち解けて語り合う。ここの距離感が絶妙だ。どこかでしっかりと距離を守る拓郎もすごいが、そのままで心許した話を引き出してしまう谷村新司もまたすばらしい。
 谷村「やっぱり僕らは"縁"があったんですね」
 吉田「…いや縁はないよ」(キッパリ)
…笑ったわ。いいな。
 「純情」を歌う時、谷村が作詞の阿久悠さんも、作曲の加藤和彦さんも亡くなってしまったね…としみじみつぶやく。そのあとの話題にした筒美京平さんも現在は亡くなってしまったし、なにより、そう言っているアナタが。
 最後に谷村が番組進行表にその場で書いた詞を拓郎にプレゼントする。谷村が好きだという「おやじの唄」のアンサーソングだという。その詞が「弔辞」。なんてことだい。どんな詞で、谷村は何を考えたのだろうか。
 さっきは笑ったけれど、拓郎さん、これは縁だよ、やっぱり。

2023. 10. 16

☆☆☆帰らざる日々☆☆
 あの日の夢が浮かんでくるよ。高校生の頃、クラスの殆ど全員が「アリス」のアルバムを持っていて教室であーだこーだと語り合い、また全員が「チンペイのセイヤング」を聴き「天才・秀才・バカ」の話題で笑いあっていた。拓郎ひとすじだった俺はとても孤独で内心「けっ。こんな曲よりも…」と思いながら生きていた。
 それでも一度だけ拓郎がラジオにゲスト出演したとき、谷村は拓郎に敬意と人懐っこさをもって語り掛け、話は盛り上がった。少年時代の二人の『ヰタ・セクスアリス』話で谷村に乗せられた拓郎が「廊下の平泳ぎ」体験を告白させられて笑ったものだ。ああ、谷村新司…なんかいい人だなと思った。

 しかし、その後、思い詰めた拓バカの俺は、ハンド・イン・ハンドとかシアターフレンズとか、ずいぶんと彼に悪態をついた。篠島に行くときは、翌日におこなわれた宿敵アリスのつま恋コンサートに敵愾心を燃やし、アイツらにだけはに負けるもんか挑むような気概があった。
 この勝手に屈折した思いはその後もずっと続いた。でも「昴」を聴きながら「ああ〜ヤメロー!谷村、拓郎よりいい曲を歌うんじゃねぇ!」と悶絶したこともあった。浮世の義理という名目でアリスの再結成ライブにも足を運んでアウェーのスリルと感動を味わった。

 時を経て、2014年の東京国際フォーラムで、開演直前に、客席に谷村新司が入って来たとき、気づいた多くの拓郎ファンがスタンディングして拍手と歓声で迎えた。谷村新司は微笑んで深々と頭を下げてからゆっくりと着席した。
 その時、俺はちょっと驚いて「おめーらホントに拓郎ファンかよ」と一瞬思ったが「どっちがどうなのよ」。ああ、そうだ時代はとっくに変わったんだ、もう戦争は終わったんだと思い知ったものだ。

 そして突然の訃報。どうしてこんなに悲しいんだろう。わかんないけど。なんかすごく泣きてぇ。なんだこりゃ。カラオケ行って愛憎をこめて泣きながら思い切り歌いてぇ。喜びも悲しみも、悪態も称賛もすべて生きてこそあれ谷村新司。byebyebye私の貴方、不肖の私も片隅からご冥福をお祈りさせてください。

2023. 10. 14

100分de名著「マガジンT(第5号)」を読む 第2話:NG1〜ライブ記事が甘すぎ、もっとしなやかに、もっとしたたかに

❑ライブをしてライブを語らしめよ
 会報5号では、石原信一先生、大越元シンプジャーナル編集長、それから調べたらオリコンのお偉いさんだった垂石克哉氏という錚々たるお方が、このライブについていろんな視点から寄稿しているのだが、舞台裏とか人物論とか歴史論とかばかりで、こと「このライブのとてつもない醍醐味」についての掘り下げが薄い。ここが不満なのだ。

❑拓郎老いず、弾き語りは朽ちず
 「昔を思い切り懐かしんで明日から90年代へゆこう」という旨の拓郎のMCに導かれるこのツアー。拓郎にしては珍しく"懐かしさ"を解禁する。その圧巻は弾き語りコーナーの復活だろう。実に80年の秋ツアー以来だから9年ぶりである。前ツアーの「ロンリーストリートキャフェ」でその片鱗を見せたが、やはり拓郎の弾き語りは圧倒的でなおかつ懐かしい。
 しかしだからといって懐かしい=レトロなライブではないのだ。このライブではバンド部分の歌と演奏こそが真骨頂だと思う。

❑温故より知新
 「人間なんて」「イメージの詩」「落陽」「祭りのあと」=懐かしい系の曲は、コンピューターを使った"リアレンジ"でただの旧曲のトレースではない。拓郎が、コンピューターに通暁して作ったデモテープをベースにすることによって、一見すると懐かしさを感じるどの曲も、あらたな"生気"を得ている。新しい詞で哀しみを湛えて「人間なんて」も蘇生している。懐かしさとの「ズレ」が、好き嫌いは別として実に気持ちいい。

❑盤石のバンドで映える歌たち
 バンドは、松尾一彦、清水仁、鎌田清、鎌田由美子、小島俊司と少数ながらガッツリとした盤石感がに満ちている。特にいろんな曲で、小島俊司のサックスが厚みを加え表情はとても豊かなものにしている。
 例えば「パラレル」のアウトロにサックスがインサートしてくるところが超絶カッコイイ。
 また、レア曲「街角」。幻の曲がここで引っ張り出されてきて驚いた。アウトテイクではなかったんだ。ここもサックスのチカラで無敵の装甲で聴かせてくれる。
 そして個人的にハイライトと思うのは「ひまわり」だ。原曲や89年ツアーの初お披露目Verよりも情感に訴えてくる。イントロの松尾一彦のギターの美しさ、そしてアウトロでは松尾のギターを引き取るようにサックスがリリカルに語りかけるように響く。圧巻。これが「ひまわり」のベストテイクだと確信する。アウトロを静かに聴き言っているような拓郎の立ち姿もいい。
 さらに、忘れちゃなんねぇ「人間なんて」や「俺を許してくれ」の鎌田清のドラムソロ。このブレイクがゾクゾクするほどカッコいい。島村英二のドラムがボディーブロウだとすると鎌田清のは連続平手打ちのような…やめろよ暴力は。とにかくズシっ!ではなくスコン!スコン!と気持ちがいいのが鎌田系だ。

❑新しいクライマックス
 最後のアンコール♯2の「言葉」から「抱きたい」に昇りつめてゆくホップするような爽快感。そしてオーラス「俺を許してくれ」になだれ込む。最新の傑作が最後の最後にでーんと控えているところ…これがこのライブの肝だ。この曲に向かってセットリストがすべて収斂されていくようなそんな存在感がある。未知の新曲がオーラスであることになんの不満もない、観客も総立ちで歓待している。拓郎が、ただ懐かしいだけのライブなんてやるはずがない。

❑僕の欲しかったものは
 ということですまんがシロウトの感想では書き尽くせない。弾き語りのみならず、懐かしさのみならず、このライブは清々しい新しさに満ちている。これぞ大人の風格あるロックだ。せっかくの会報なんだから、ここんところをプロが掘り下げて欲しかったんである。

 いやあ、秋の夜長、90年武道館のビデオを観なおしてしまうぜ。いい。何度観てもいい。…あれ観るとチャーハンが食べたくならない? つけあわせのアレは"八宝菜"だろうか。町中華へ行こう。

 ということで次回「第3回 NG:2 "176.5"等身大を高く掲げよ」(やっぱり仮題)を

2023. 10. 13

100分de名著「マガジンT(第5号)」を読む  第1話 さよならカーリー&よろしく90's

 「100分de名著 T's 会報シリーズ」もあまりにダラダラと書き過ぎて、今どのあたりを歩いているのかサッパリわからなくなっている。今回の会報5号からは簡潔にビシッと行くことにしたぜ…たぶん(爆)。
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【会報5号当時の背景】
 1989年11月から始まった人間なんてツアーが90年1月10日の武道館公演を持って終わり、同月にはニューアルバム「176.5」がついに発売。その余韻と余勢のうずまく90年3月にこの会報5号は発刊した。さぁ90年代だ。

ということであくまでも全体的な個人的感想だ。

GOOD〜会報5号の良いところ
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 G1.ライブの写真が豊富(ただし凄く小さい)
 G2.ライブスタッフのほぼ全員の写真と一言が載っている
 G3.歴代スタッフインタビューでついに後藤由多加(上)が登場

(以上 第一話)

NOT SO GOOD〜会報5号の残念なところ
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 NG1.あのライブの素晴らしさが深められていない
 NG2.名盤「176.5」について解説もレコード評も全く載っていない。ほぼ無視。
 NG3.後藤由多加、渋谷氏とは異なり時系列がグチャグチャでいろんな史実がよくわかんね(爆)


[G1] ライブの写真が豊富だがどれも小さい。とはいえ良さげショットが多い。なんたって、あーた、これが長髪カーリーの見納めだよ。それと"人間なんてツアー"の進行表の写真があって拡大してみた。たぶん神奈川県民会館のものかな。
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 ・本編は11曲で、弾き語りからはもうアンコールという構成だったのね。
 ・高円寺〜リンゴのサブで僕の唄はサヨナラだけが用意されていたんだな。

[G2] ライブスタッフのほぼ全員の写真と一言が載っている
・森野さんもまだお若い
・ビデオで映るスタッフ人の名前と仕事がわかって楽しい
前から気になっていた原田真二にちょい似たスタッフ PAモニター小渕さんが語る「…60歳になっても素敵なLIVEを続けてください」…って73歳までやったんだよ、素敵なLIVEを。すごいっすね。

[G3] 歴代スタッフインタビューでついに後藤由多加
・これはNG3と一緒に第3回「がんばれ、ますらお派出夫会」でお送りいたします。なおインタビューにツッコミや文句を言うも、後藤由多加への俺の尊崇は揺らがないので念のため。

 会報5号は、これまでと違って、やや残念感が強い。しかし、いよいよ始まった90年代の新風は感じられる。いろいろなことが起きる90年代ではあるが、私はここで魂を込めて言いたい。90年代に駄作なし。

 次回は、第2回 「もっと掘り下げろ人間なんてツアー、もっと持ち上げろ176.5」(仮題)をお送りします。

2023. 10. 12

☆☆☆やりきった人たち☆☆☆
 前にも書いたがドイツで10年間がんばってきた知り合いのプロ・バレリーナがこの夏退団して帰国された。バレエなんぞ無縁の俺だったが、ローザンヌのネット中継に手に汗握り、オーケストラピット付の新国立劇場に感激し、舞台を降りると気が良くておバカなダンサーの兄ちゃんたちに来日の折に遊んでもらったりもした。この10年、無縁なりに存分に楽しませていただいた。

 引き留められ惜しまれつつの退団だったし、まだ20代なので、日本でもあちこちから踊って欲しいというオファーがくるらしいが、彼女は頑なに「踊らない」。踊れる喜びをいつも口にしていた彼女だけに、もったいない気がするのだが、彼女はもう「やりきった」そうだ。決心は固く結ばれている。
 俺も生活ができるなら仕事はとっとと辞めたいのだが、それはただ怠け者だからで「やりきった」などという境涯は全くわからない。「やり切った」と言える人の涼やかな心根を思うてみるだけだ。

 この日どこそこで踊ってくださいと言われて、当日チョコチョコと出かけて行って踊れるものではなく、何か月も前からその日のためにトレーニングし身体を作り上げて、リハーサルを繰り返し、当然、健康にも気をつけて、舞台環境も含めてその日にマックスの踊りを提供しなくてはならない。どんなに短い踊りでも、そういう全身全霊プロジェクトになってしまうとのことだ。その場で軽くでいいから、ちょっと踊って見せてよ…なんて、それはプロには到底できない相談だ。
 なので、彼女に会っても、ありがとう、お疲れ様という言葉を超えて「もう踊らないの?」「また踊るの観たいな」「これからどうするの?」のような無神経な言葉はとても投げつけられない。外野は静かにこれまでを胸に刻み、これから起きることを受け入れるしかないのだ。

…と、こんなふうに他人のことならよくわかるのだ(爆)。いや吉田拓郎も思い切り他人だ。しかしこれが拓郎のことになると「もう歌わねぇのかよ」「また歌うのが観てぇよ」「これからどうすんだよ」「シャウトしなくていいから軽く弾き語ってくれよ」という無神経なことをへーきで言ってしまう。言うだけでなく

  筆も使ひ果てて、これを書き果てばや。
                  (枕草子 清少納言)

 とことんしつこく書いてしまう、書き切ってみないとわからない鬼畜な俺なのだなぁ。

2023. 10. 11

☆☆☆今このときめきは☆☆☆
 「証明」というと奈緒だ。昨年1月のオールナイトニッポンで「凄い曲ですよ」といってこの「証明」をかけた。オフィシャルには「今日までそして明日から」が大好きで、この歌に励まされたと語っている奈緒。それはそれで本当なのだろうが、その彼女が「証明」をかけるところで、まるで本気で真剣を抜いてきたような殺気を感じたものだ。
 その奈緒が先月「徹子の部屋」に出演した際の録画を遅まきながら観た。生い立ちから経歴から知らないことばかりだった。苦労人なんだなぁ。亡くなられたお父様が名づけるあたりで「吉田町の唄」が浮かんだ。そしてもちろん拓郎の話は、ファンであるお母様の影響、今日までそして明日から、ah-面白かったのつま恋でのエピソードへと及んだ。
 そんな中で一番心に響いたのは、お母様と二人で拓郎のライブに行った話だ。開演前から二人でもうたまらなくて客席でボロボロ泣いてしまっていたという話だ。開演前のあの待ち時間に泣いたことはないが、あのときのファンの気持ちを純度を高めて増幅させれば、結局そうゆうことになる。…そうだった。開演前の客席での胸の高まり、そして開演して本人が登場した時の立ち姿のシルエットの衝撃、もう本人が歌う前からの、このいきなりクライマックスな盛り上がりこそがライブの醍醐味だ。ああ。
 あと、奈緒は、つま恋での拓郎との時間を「この一日があれば、これからどんな辛い事があっても生きていける、そんな一日」と評していた。奈緒ほどの体験はなかなかないが、それでもある、そんな貴重なとき。そんな僅かな時をつなぎせ合わせて僕は生きてる…それは浜省の歌か。
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2023. 10. 9

☆☆☆1970年のこんにちわ☆☆☆
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 このたびようやく初めて「太陽の塔」を見ることができた。「ようやく」というのは、この塔には20世紀少年の端くれである自分には特別な感慨があるのだ。小学校3年だった。ああ心の底から行きたかったぜ"EXPO'70"。"1970年のこんにちは"から53年。万感胸に迫るとはこのことだ。そうなんだよ、1970年だから、この塔は吉田拓郎のデビューと一緒なんだよ。
 近くで観ると適度に歳月感がにじんでいて、それがまた美しく、とにかくデカイ。ホラもう吉田拓郎と一緒じゃないか。昔、万博の開催中に、この高い塔のてっぺんの顔の部分に侵入して立てこもった男がいたよね。いやあ…この高さ、勇気あるな〜とあらためて思ったよ(爆)。私も吉田拓郎という高い塔に不法占拠しているみたいなものだ。あの勇気を見習いたい>見習うな、言ってる意味わかんねぇけど。

 そして後ろからのフォルムがまた素晴らしい。ぺギラみたいだ。知らんがな。
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 この背中はまた表の塔の威容とはまた別の何かを語りかけてくるような気がしてならない。太陽の塔に背を向けて…ああ今日の曲はこれで決まりだ。

 「証明」 (作詞・作曲 吉田拓郎 Sg「元気です」B面所収)

  太陽に背を向けて走れ
  風に向って逃げるもいいさ
  今を今と感じるならば 光も闇も 狂おしいほどだ
  闘えるだけでいい すべてを燃やせ
  負け犬になったら 路地へともぐりこめ
  消え入るような そんな生き方もある
  それも自分の何かだ  言えない何かだ
  確かめてみるがいい

  暗い暗い 路地が見える
  野良犬さえも臆病がって
  何処へ続く道かは知らぬ
  行ってみよう おのれの足で

 例えばいろいろ鬱屈した気分から聴いていたここのところの「Life」〜「純」〜「証明」。やっぱりすばらしい歌たちじゃないかとあらためて思う。それがまた砂浜に打ち上げられた流木のように殆ど知られずにひっそりとある。太陽のもとにあってほしい傑作たちだと心の底から思う。たとえ御大の旅は終わってしまったとしても、俺は拓郎とともに始まったこの太陽の塔の背中を見つめながら旅を続けるのだ>だから意味わかんねぇよ

2023. 10. 8

☆☆☆NG式☆☆☆
 もうカオスだな。まるで政治の劣化コピーじゃないか。そのうち自由なモノ言いもできなくなるような気味の悪さ。戦地動員の怖さも怒りも悲しみも表現できなくなった先達らの世を思い憂鬱になる。
 自分の気分を拓郎の歌に勝手になぞらえるのは、拓郎さんがどう思ってその歌を作ったかとは全く違うので、まことに失礼だとは思う。すまん。しかしイカレた俺の場合、金太郎飴のように、どこを切っても、ポキン、拓郎、ポキン、拓郎、拓郎の歌しか出てこないので許してくれ。ごきげんよう、達者でなァ。

 こうなってくると俺の気分は「Life」から「純」だ。過去何度かのトライの末よくぞ諦めずに2019年のステージでに歌ってくださった。いい歌だねえ。

 『純』  作詞 吉田拓郎

僕が泣いているのは とても悔しいからです
人の尊さやさしさ 踏みにじられそうで
力を示す者達は しなやかさを失って
ウソまみれドロまみれ じれったい風景でしょう
より強くしたたかに タフな生き方をしましょう
まっすぐ歩きましょう 風は向かい風

どけ どけ どけ 後ろめたい奴はどけ
有象無象の町に 灯りをともせ
どけ そこ どけ 真実のお通りだ
 
正義の時代がくるさ 希望の歌もあるさ
僕の命この世に 捧げてしまっていいさ

どけ どけ どけ どけ 情けをなくした奴はどけ 
生きる者すべてが 愛でつながれる
どけ どけ そこ どけ 正直のお通りだ

あなたの為の僕さ 悔し涙のままさ
たぎる情熱の僕さ ゆれる心のままさ

僕の命あなたに 捧げてしまっていいさ
僕の命この世に 捧げてしまっていいさ 

2023. 10. 5

☆☆☆この肩の重き罪を☆☆☆
 どうしたってあの記者会見のニュースには気持ちが萎える。俺ごときがエラそうに言ってもなんの意味もないが、かといって黙ってもいられないのでひっそりとコソコソ書く。

 とにかく478人という数は衝撃だ。もちろん数の問題ではなく、ひとりひとりの被害の深さこそが問題なのだが、それでもひとりひとりの深い被害が478人分というのは驚愕でしかない。全てが事実かわからないかもしれない。しかし全ての被害者が申告しているかだってわからない。だから怖ろしく、また心の底から気持ちが悪い。

 あそこで478人と聞いてまず記者団がひぇーっ!!とひっくりかえってどよめいて驚け。えらいこっちゃ、未来とかスマイルとか語ってる場合かよ!ともっと騒然となるべきだった。もっともっと取り乱す必要があったと思う。そうやって大人がみんなで阿鼻叫喚する姿をしっかり見せるほうが子供たちのためになるんじゃないか。しかし、さすが、多くの会見場のみなさんがルールを守って粛然としていらっしゃる。ルールというより脚本なのか?


 あれだけの巨大事業を営む大型企業だから、アーティスト/タレントに切り盛りできるレベルのことではない。昔、本気で会社の社長になったアーティストの大変な様子を一瞬垣間見たから想像がつく。あれだけ大規模の会社を動かすためには経営に熟達したオトナたちがガッツリ大挙して存在しているはずなのに、なんでアーティスト/タレントを盾にしてひとりも出てこないんだ。すべては裏にいる狡猾なオトナたちの描いた策略であるとしか思えない。
 
 とはいえ、この事件とは関係ない所属アーティスト/タレントには罪はないというが俺は全然そうは思わない。同じ事務所の仲間たちの悲劇を見て見ぬふりして、あるいは自ら口をつぐむこと、それはひとつの罪であり傷だよ。犯罪にあたるかあたらないかは別にしてそれは罪だ。もちろん情状は超絶あるんだろうけれど情状は罪の先にあるものだ。
 しかし罪人だから出てくんなとは思わない。アーティスト/タレントにはその罪と言うか傷を抱えたまま、なんというか活躍して欲しい。自分も被害者ヅラするのではなく、反対に被害者に寄り添うとか救済するとかそういう思いあがった上から目線でもなく、この罪とこの傷をどうしていいかわかんないまま抱え込んで右往左往したながら活動して欲しい。俺だって、いろんなことに見て見ぬふりをして生きてきてそうさオイラも罪人のひとりさ。
 それでも罪や傷を抱えてどうやって生きていゆくのか、それを模索する、それを心のどこかで忘れないアーティスト/タレントがいることは、たぶん俺のような罪人を含め迷える人々にとって、ひとつの大きな希望になるかもしれない。そこからより深い音楽やパフォーマンスが生まれるかもしれない。その結果、政治も世の中も含めて、少数派やひとりぼっちが脅かされない世の中に近づくかもしれない。だから今はこらえろ、いとしい君よ。ああ人生は回り舞台だ。

 それにもまして、被害者たちを守らなかったことはもちろん、その他のアーティスト/タレントたちをこんな見て見ぬふりの罪に追いやったオトナたちの罪こそ大きい。

 ここのところ、ずっと吉田拓郎の昔の会報を読んで、陣山さん、渋谷さん、そして後藤さんらスタッフの来し方を思うにつけ、いかに彼らがアーティストを守ろうとし、音楽のためにすべてを捧げようと奮闘していたかが伝わってくる。もちろんシロウトの俺には詳しい事情はわからないが、しかし少なくとも彼らは、アーティストを盾にしたり、アーティストを傷つけたり、アーティストとは別の帝国の権益を守ろうとするような姿には見えなかった。それはマネジメントだ、エージェントだという議論以前のことなのだ。彼ら先達のことを思うと、隠れているオトナたちに「アンタたちも音楽が好きでこの仕事に入ったんだろう!!」と言ってやりたい。ああ、亡くなったKくんの言葉だ。

 こんなときやっぱり聴きたくなる。この曲にすがりたくなる。ああ名曲ばい。そう、勝手なルールを押し付けないでくれ。人が人として息づいているんだ。もちろん作者の意図とかは別にして、なんか俺には妙にハマるのだが。

    Life

 僕は間違っていたんだろうか
 その日1日にすべてをかけて
 ただひたすらに走り過ぎれば
 生きる事くらいうまく行く筈だと

  河の水が海へ出る様に
  心のままに人ごみをすりぬける
  そんな自分を許し過ぎたんだろうか

 愛を巧みにあやつる人よ
 お前の心に住みついた悪魔は
 いともたやすく人生をもて遊び
 正義の仮面を素顔に塗り代える

  裏切りの日々に酔いしれて
  愛するわずらわしさも知らないで
  多くを語るな 何処かへ堕ちて行け

 思い通りに生きていたい
 誰もが願っているけれども
 ただ気がついたら肩を落として
 レ−ルに添って歩いているだけ

  横道にそれる者をあざ笑い
  仲間同志で傷をなめあって
  1人じゃ何も出来ない みんな美しいね

 仕組みがあるから生きるわけじゃない
 勝手なル−ルを押しつけないでくれ
 こちらを向けと言われて背いても
 人が人として息づいているんだ

  やるせなさも通わない世の中に
  いつまでも流されてなるものか
  悲しみの河に今漕ぎ出よう

 あゝ自由をこの身で感じたい
 失ったものは記憶の中にいない
 遥かな旅を今終えた人よ
 僕に逢って話してくれないか

  淋しさが今日も又
  一つずつ消えて行く
  誰のせいでもないんだろうけれど

2023. 10. 2

☆☆☆柿食えば杮落として時はゆく☆☆☆
 
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 急遽行けなくなったチケット持主に代わって"ゆず"の「横浜Kアリーナ」の"柿落とし"ライブに行った。新設された未来空間のようなアリーナ、2万人の若めの観客にすっかり気圧されてしまった。
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 今までは他のライブに行くたびに「ああ、ここで拓郎が演奏してくれたらな…」と必ず妄想したものだが、このKアリーナで吉田拓郎が歌う姿が思い浮かばなかった。もちろん聴衆としての自分も含めてだ。少し切なくなる。
 ということでアウェーもいいところで、淡い青の公式Tシャツで揃えた若い人々の間で、申し訳なくてホラちぢんじまってるだろう〜。はっ。このTAKURO YOSHIDAとYUZUが並んだこのTシャツ着ていけばよかったと後悔したがもう遅かった。
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 とはいえ、ゆずの歌はどれも涼やかな風が吹いているかのようで、アウェーの俺にも音楽が心にすんなりと入って来て気持ちよかった。そのうえ照明もショウアップも豪華で、俺までが歓待されているような気分になった。そもそも、ゆずはメジャーデビュー時は、松任谷正隆のプロデュースで島村英二のドラムという…いわばこの2万人の観客に対して俺は兄弟子みたいものじゃないか(爆)。なんとなく元気になり、長年培った兄弟子のライブ魂をみせてやろうと調子にのって、テンポのずれた手拍子とタンバリンを叩きまくって…多分周囲の顰蹙を買ったはずだ。すまん。しかし、楽しい…すげー楽しいじゃないか。いいなぁライブって。いいなぁ推しって。

 ♪だから友よ老いていくためだけに生きるのはまだ早いだろう(REASON)

 今夜、ゆずが俺に向けて歌ってくれているのだと確信した>いや、絶対違うと思うぞ

 最後の最後は「栄光の架け橋」。これも原曲は島ちゃんのドラムなんだよな。耳に馴染んだ名曲だ。このあたりでもうおっさんは泣きそうだった。

 悲しみや苦しみの先に それぞれの光がある
 ……
 いくつもの日々を越えて 辿り着いた今がある
 だからもう迷わずに進めばいい
 栄光の架橋へと
 終わらないその旅へと
 君の心へ続く架橋へと・・・

 これは、拓郎を失い(いや生きておられるけど)、自分もどん詰まりになり、やさぐれているこの俺へのまさに励ましじゃないか。俺に旅を続けろとゆずは伝えたかったのだ>いや、だから違うって
 2万人が魂に刻みながら歌っている。外様の俺にもよくわかった。ああ、こんな光景は久しぶりに観た。俺も一緒に歌いながら、勝手にあのライブたちの日々が走馬灯のように巡った。
 ここのところずっと渋谷氏のインタビューを読みながら、コンサートツアーの草創の時代のことを考えていたが、彼らが身を挺して撒いてくれた種が、しっかり生きていて、ここでも美しい花を咲かせている。感傷ではなくてそう確信した。そう思うと…ああ生きていて、生きててよかったと心の底から思った。俺はまったくなんにもしてないだんけどさ、我が人生に悔いはナシと誇らしく思うのだ。

 
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2023. 9. 30

100分de名著「マガジンT(第4号)」を読む
第四話 渋谷高行 あんたのバラードD 渋谷事件簿

☆こころに残る渋谷事件簿第1位 「事件としてのライブ'73」

1 ライブ'73の決心
 何から何まで一人で現場を切りまわす日常のうえに、例えばギター盗難事件、例えば金沢事件と災難のようなアクシデントが次々と降りかかる。しかも渋谷氏の当時の月給は3万5000円だったと本人が語っている。これだけ有能な大学生なんだから大企業の就職もたくさんあったはずだ。なぜ渋谷氏はマネージャーの道を選んだのか。まぁ大きなお世話だといえばそのとおりなのだが(爆)。インタビューから渋谷氏の言葉を探してみる。

 '73,'74,'75っていうこの3年間でなんか全部決まったんだろうね。きっとね。
 ただ'73年のその「ライブ'73」っていうのがきっかけだったことは確かだね。あれはなんかこう決心させるものがあったね。

 
 「『ライブ'73』」で決心をした」と渋谷氏は語る。この会報4号のインタビューは、では「ライブ'73」の何が渋谷氏を決心させたかを問い詰めていない。詰めが甘い。なぜそこを聞かないんだインタビュアー。
 …とインタビュアーに悪態をつく俺だが、2014年にライブスポットで渋谷氏をお見掛けし握手していただいたことがあった。突然のことにテンパッた小心者の俺は渋谷氏に「拓郎さんの亡くなったお父さんに顔が似てらっしゃるって本当ですか?」と尋ねると渋谷氏は「いや、もう今は似てないでしょう」と少し笑って去って行かれた。あ゛〜貴重な機会に俺はなんてくだらねー質問しちまったんだ、あ〜この会報を読んでいれば、もっともっとお伺いすることがたくさんあったのに、ムキーーーと後悔で悶絶した。

2 あんたがくれた愛の日々を
 まぁ俺の話はどうでもいい。インタビューに当時の渋谷氏の心根がうかがえる言葉を探してみる。

 やること、やることが全部新しくってさ…あの時加藤和彦さんが初めてPAを日本に持ってきてシステムでやり始めて、すごいなぁーっと。…じゃあユイでPA持とうっていう。…自分たちで考えて自分たちでやっていくそういう楽しみがあったんじゃないかなぁ。

 もしかするとライブ'73は、初めて本格的にユイのPAシステムが稼働し新しい音楽世界が広がった記念すべき事件だったのかもしれない。

 端的に言えば吉田拓郎のファンだった自分が吉田拓郎の仕事をしているってことなんだろうね。やることがみんな新しいっていうか珍しいっていうかなあ。トラブルひとつにもなんか新鮮だったというか、本質的に嫌いじゃなかったんだろうね


 12年を超えるマネージャー生活を経ても、なお自らを「吉田拓郎のファン」だと何のてらいもなく口にする。当たり前かもしれないけれど、吉田拓郎のことが本当に大好きだったんだという事実が胸をゆさぶる。そしてトラブルまでもが新鮮だったという言葉に心の底から打たれる。 

 照明にしてもPAにしてもねぇ舞台美術にしても拓郎の場合(略)3か月くらいしてツアーが終わるとね、ものすごく成長しているのね こりゃあやっぱり楽しみだったね、人が育つという…


 「成長」っていいな。同じ事象であっても渋谷氏の目に観えていた人や景色はまた違った輝きを放っていたのかもしれない。結局、マネージャーを本職として選んだ渋谷氏の気持はたぶんこんな↓だったのではないか(爆)。
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 日常が大変だろうが、困難な事件が起きようが、給料がいくらだろうが知ったことか。拓郎が目の前で真っ二つに切り開いてくれた新しい海…さぁこの海の中の国境を超えて怒涛の進撃を始めようぜ!…そんな気分だったのではないか。あくまで個人の感想です。それこそすべての根底にあるのは渋谷高行の「ah-面白かった」…なのかもしれないと勝手ながら思うのだ。

3 魂のワンラストナイト
「奥さんは変わってもマネージャーは変わらない」ということで、1973年から1985年まで渋谷氏は吉田拓郎のマネージャーとして勤めた。その最後の大舞台は"つま恋'85"だった。渋谷氏は拓郎にいわば最後の企画書を提出した。

 俺なりに「ワン・ラスト・ナイト・イン・つま恋」ってタイトルをつけて企画書作って出したら、このタイトルいいじゃないかっていってくれたしね、まぁこっちにしてみれば「どうだ!」っていう自分の意見がこの中で力になっている…


 「ワン・ラスト・ナイト・イン・つま恋」これはマネージャーの渋谷氏の命名だったのだ。

   あんたの歌う あの歌を
   今夜は あたいが 歌ってあげる
 
 これは渋谷氏の拓郎への渾身のお返しだったのか。渋谷さん、どうかいつまでもお元気でご自愛ください。ライブ'73の何かあなたの決心を結ばせたのか、いつかどこかで語ってください。♪あんたがくれた愛の日々を今さらありがとうと叫びたい。
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      (「Takuro Yoshida One Last Night In Tsumsgoi1985」八曜社 p.13)
 さて長かった「会報4号」も今回で終わりだ。4号はなかなか充実した記事が多くて時間がかかってしまったが、まぁこんな思い込みだけの長ウザ日記(謙遜だ)、別に先を急いだところで何が待っているわけじゃない。それではまた。

2023. 9. 29

100分de名著「マガジンT(第4号)」を読む
第四話 渋谷高行 あんたのバラードC 渋谷事件簿

☆こころに残る渋谷事件簿第2位 "翼よ、あれが金沢の灯だ"

1 新幹線はうんと速い
 すまん。事件といえば金沢事件は避けては通れない。言うまでもなく陰惨な事件である。何度も言うように当時の渋谷氏は、拓郎のマネージャーになったばかりの大学生だった。これまで観たとおり超絶有能な若者だったが、刑事事件であり社会的事件でもあるこの金沢事件に対峙するのはどれだけ厳しいことだったか。しかしそれでも渋谷氏はあえて突撃した。

 ある朝、本人から電話がかかってきて警察が来たって。「金沢に護送される」っていうからさ「なんだそりゃ」って。で、同じ新幹線で一緒に乗って行って、金沢までずっと一緒で…


 拓郎が護送される列車に果敢に突撃してゆく渋谷氏。マネージャー魂というか、もう魂のマネージャーである。車中で拓郎と話をするが、いったい金沢で何があったのか、何の容疑なのかが二人ともまったく思い出せない。渋谷氏は言う。

 (金沢では)一緒にいましたよ、ずーっと。芸能界でいう付き人みたいなもんだからね。あっちのステージのバラシが終われば、すぐに拓郎のところっていう、だからずっとべったり一緒でしたよ。そういう意味では一番状況はずっとみてたんじゃないかな。だから全然なんだかわからなかったのねあの金沢事件っていうのがね。


 結局、二人でいろいろ話してもわからない。きっと酔ったうえでのケンカじゃないか、だったら謝らないとなぁ…身に覚えのない二人だからそれほどの緊迫感はなかったという。
 しかし金沢中署に着いて拓郎は勾留され、渋谷氏も被疑事実を知らされ驚天動地の事態となる。「どう考えてもあり得ない話」だと渋谷氏は愕然として警察署に立ち尽くす。

2 吉田拓郎を奪還せよ
 すぐに夜行列車で後藤由多加が着き、他方でCBSソニーが依頼した久保利英明弁護士がソニーのプライベートジェットで警察署に駆けつけた。…ジェット機か、すげえ。高須クリニックの院長みたいだ。>あれはヘリだ。
 警察署で待ち続けていた渋谷氏は、久保利弁護士に会うなり、これまでの経緯と新幹線の中で拓郎とトレースした金沢での状況を伝えて、そんな容疑はあり得ないと久保利弁護士に訴えた。久保利も「なんだそれは!」と核心を理解し、弁護活動が開始された。

 俺が偉そうに言うことではないが、刑事事件は時間との勝負だ。まして遠隔地である金沢だし、久保利弁護士も拓郎たちとは面識はなかった。だから普通だと最初の事情把握には時間がかかる。しかし渋谷氏が新幹線に飛び乗って、拓郎と二人で金沢の状況の記憶を喚起して整理し、その情報をいちはやく久保利氏に伝えたことで、どれだけ無駄な時間が省かれたことか想像に難くない。何度でも言うが、それをひとりの大学生がやってのけたのだ。渋谷氏、アンタはなんて頼りになるヤツなんだ。>失礼だろ、すまん。

 新幹線に飛び乗った渋谷、追いかけて夜行列車で金沢入りした後藤、プライベートジェットで駆け付けた久保利弁護士、そして金沢中署を取り囲んで歌ったすばらしきファンの方たち…こうして「史上最大の吉田拓郎奪還作戦」が展開した。そしてその甲斐あって勾留満期を待たずに拓郎は不起訴で釈放された。そして釈放後の吉田拓郎が挑み仲間が迎えた神田共立講堂ライブとそれを支えた亀渕昭信氏そして拓郎からの逆告訴を諫めた御母堂の言葉…もうここでは書ききれねぇ…ああ…拓郎には怒られるだろうが、この顛末、だれか映画にしろよ。タイトルは「金沢は燃えているか」でどうだ。>どうだ、じゃねぇよ すまん。他人様の不幸を面白がるみたいでいろいろ不謹慎だとは思う。しかし、この件で垣間見えると人々のドラマは封印して忘れてしまうにはあまりに素晴らしすぎる気がしてならない。

3  ひとりぼっちの渋谷氏
 会報4号の渋谷氏のインタビューの金沢の話はそこまでだが、それとは別に石原信一の吉田拓郎ドキュメント「挽歌を撃て」の中に、渋谷氏に関する切ない一節があって、俺は忘れられない。石原信一が「事件後、金沢から戻った渋谷マネージャーと飲み明かした」というくだりだ。渋谷氏と石原信一は旧知の仲だったらしいが、それでも渋谷氏は事件の詳細については部外者である石原信一にもほとんど語らなかったという。しかし、その夜、渋谷氏はただひとつのことにしきりに苦悶していたという。

「女性週刊誌が、ぼくの拓郎に対するコメント、嘘を書いたんですよ、嘘なんですよ」

 酔っぱらった渋谷氏は何度もこの話を繰り返していたという。それは週刊誌の取材に「自分は拓郎のマネージャーになったばかりなので、すべてを知っているわけではない」と答えた発言を「拓郎の言動には時々理解できないことがある」と改変されて拓郎のマネージャーの発言として喧伝されたのだ。「こういうのは告訴できないんでしょうか?」…苦しんでいる渋谷氏の様子が痛々しい。

 若き敏腕マネージャーとして凄い仕事をやってのけていた鉄の男=渋谷氏だが、…それでもひとりの傷つきやすい脆弱な若者だったのだ。そんな素顔がのぞく。やはりひとりの大学生が背負うにはあまりに過重な荷物だったのだと思う。…渋谷さん、あなたは本当によくやってくださった。だから後世のファンがこうしてファンとしていられるのだ。渋谷氏はもとより史上最大の奪還作戦に関わられた方、応援されていたすべての当時のファンの方々に心の底から敬意を表するものであります。
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2023. 9. 28

100分de名著「マガジンT(第4号)」を読む
第四話 渋谷高行 あんたのバラードB 渋谷事件簿

☆こころに残る渋谷事件簿第3位 おきざりした楽譜たちは
 とあるツアー(1979年)で、スタッフが拓郎とバンドの楽譜を一式袋にいれたまま前の会場に忘れてきてしまう事件が起きた。気づいた時はコンサート当日で、これから送ってもらっても間に合わない。どうすんだこりゃとオーマイガー!という大事件だ。…これを読んでおられる大多数の俺を含めたジジババの皆様は>すまん、おわかりでしょうが、もし万が一、若い方が読んでいらしたときのために説明しよう。

Q: 楽譜がないのはそんなに大事件なのですか?

A:もちろん大事件です。特に拓郎の場合は大変です。お近くのジジババに聞いてごらんなさい。ステージで一曲歌うたびに譜面台からハラリと譜面を捨てるあの姿…すげーカッコ良かったんだから。たまに次の曲も一緒に捨てて拾う姿(爆)…これもまたチャーミングだった。とにかく譜面がないとダメなのよ。

Q: メールとかフアックスで送ってもらえばいいじゃないですか?

A: 時は1979年です。メールもファックスもまだありません。ファックスの普及は80年代の中盤以降になります。1989年の作品「30年前のフィクション」で"サヨナラがその後ファックスで届いたよ"という歌詞がありますが、あれはファックスが時代の先端をゆく文明のアイコンとして使われています。その10年も昔のことなので存在していません。当時はテレックスでしょうか。これで楽譜を送るのは難しいと思われます。"A♭、B♭、C、C"みたいな歌だったらよかったかもしれませんが、まだ26年も先のことです。


 楽譜は、電話で読み上げて書き取って本番までに総動員で全部再現したらしい。すげえ。ということで譜面が袋ごとまるっとない…この大事件は「吉田拓郎・終わりなき日々」 (田家秀樹著・角川書店/2007)でも、忘れたご本人ステージ舞台監督の宮下氏が、若き日のやらかしとして述懐している。楽譜がなく困り果てたバックミュージシャンに不穏な空気に満ちた。宮下氏は拓郎にぶっ飛ばされることを覚悟していたところ、なんと拓郎は彼を連れてミュージシャンたちに自ら深々と頭を下げてくれたという。宮下氏のみならず読んでいる俺までもが涙ぐんでしまう胸に刺さる話だった。

 それは現場でこの顛末を経験した渋谷氏も同じだった。

 その時に拓郎がそのスタッフをメンバーのところ連れて行って「申し訳なかった」って「俺のスタッフだから許してやってくれ」って。この人すごい人だなぁと思ったんだよね。


 四六時中表裏ともにアーティストを観ているマネージャー。とくに拓郎さんは大変そうだ(爆)。でもそのマネージャーが「この人すごい人だなぁ」とつぶやくその言葉の重さを思う。渋谷氏は続ける。

 みんなそれぞれあるんじゃないかなぁ、スタッフとしてついていることによって、あの人からなんか…

 きっと吉田拓郎の周囲と現場はそういう瞬間が溢れていたんだろうな。

 照明にしてもPAにしても舞台美術にしても、拓郎の場合(略)3か月くらいしてツアーが終わるとね、ものすごく成長しているのね こりゃあやっぱり楽しみだったね、人が育つという…


 拓郎の周りに集まって人々が拓郎をとおして成長してゆく、その様子が「楽しみだった」と渋谷氏は語る。あのおっかない怒れるマネージャーはそんなふうに拓郎のことを観ていたのだ。「事件」は「事件」として大変だったのだろうけれど、渋谷氏にとっては苦難や苦痛ではなかったのかもしれない。楽しかったって。飛躍するが、やっぱり僕らが吉田拓郎を選んだのは間違いなかったのだ…そういう晴れがましい確信が、渋谷氏の言葉と行間に満ちている。
 いいな。吉田拓郎っていい。たぶんすごくいい。
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2023. 9. 27

100分de名著「マガジンT(第4号)」を読む
第四話 渋谷高行 あんたのバラードA 渋谷事件簿

☆こころに残る渋谷事件簿第4位  篠島沈没事件
 79年の篠島アイランドコンサートの時に渋谷氏は、都合2か月間も島にいたらしい。とにかくステージ設営から島民、漁民との根回しや関係各方面の窓口業務に至るまで渋谷氏は大奮闘だった。
 それにしても人口2000人の島に、実際に3万人くらいの人間がうじゃうじゃ乗り込んできたのを目の当たりにしたときには島の皆さんは卒倒したらしい。

 「島が沈む」ってばーさんがいるしさー。お寺行って「なんみょーほーれんげーきょー」っているばーさんもいるしさー。「おばーさん島沈まないから大丈夫だよ」って


 ご苦労様でした。良かったです沈まなくて。渋谷氏がコンサートの制作とミュージシャンとファンと島民の方々とあらゆるものの板挟みにあったことは想像に難くない。思い出す渋谷集会 http://tylife.jp/chiisanasakebi.html#19790726
 これはセイヤングでの拓郎の話だ。篠島の準備会議で拓郎が、もう忙しくてテンパっている渋谷氏に対して「なあ、前乗りでやってくるファンの宿泊やトイレの世話とかどうするんだ?」と聞いたら、渋谷氏はそんなの知るかっ!!そんなやつらは野宿して一緒に働けバカヤロウ!とブチ切れたらしい(爆)。さすが怒れる渋谷。
 これもセイヤングでのハナシだが、篠島コンサートが終わっても、渋谷氏は一週間、島に残ってゴミをずっと焼却していたらしい。炎天と火に長時間あたりすぎて頭に血がたまって倒れて病院に行っているとのことだった。もはや笑いごとではない。わが心の篠島のことを思う度に心の中でありがとう渋谷さんと唱えることを忘れないでいたい。ある日、篠島の桟橋に渋谷氏の銅像が建立されていても俺は驚かない。

 今日の聴きたいこの一曲。「アイランド」(シングル「流星」所収)
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2023. 9. 26

100分de名著「マガジンT(第4号)」を読む
第四話 渋谷高行 あんたのバラードA 渋谷事件簿

[前回までのあらすじ]
 73年1月に大学生のままマネージャーとなった渋谷氏は、ユイの創設メンバーとともに新しい音楽の日常を構築するために奮闘していた。そこにさまざまな事件が吉田拓郎とマネージャーとスタッフに襲いかかってくる。このインタビューに出てくる事件だけでも数多いので小出しに拾ってゆくことにした。

☆こころに残る渋谷事件簿第5位  楽屋で拓郎のギターが盗まれる
 渋谷氏が初めて拓郎について地方に行った四国で本番前に拓郎のギターが盗まれた。マーチンD-35だ。渋谷氏が楽屋に戻ったら、子どもが楽屋の窓から飛び出していくところだったらしい。あわてて追いかけるが夜の闇に見失ってしまう渋谷氏。楽屋に戻ると「ギターがない」。拓郎は共演者の小野和子のギターを借りて歌ったという。ラジオの松山放送がギター盗難事件を報道してくれて、ギターケース抱えて走ったよ…というこの子どもは1週間後、母親に付き添われて返しに来たらしい。マーチンD-35は戻った。
 呼びかけてくれるラジオ、お母さんにつきそわれて返しに来る子供…なんかすごく昭和らしい落ち着きでうっかりすると心が和んでしまいそうになるが、初めてのツアーで起きたこの事件に渋谷氏は前途多難さを感じ空を仰いだらしい。がんばれ渋谷。

 今日の聴きたいこの一曲。
    「戻ってきた恋人」(アルバム「今はまだ人生を語らず」所収)
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2023. 9. 24

100分de名著「マガジンT(第4号)」を読む
第四話 渋谷高行 あんたのバラード@
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1  怒れる渋谷降臨!
 連載の歴代スタッフインタビューは、会報3号での陣山俊一氏に続き、渋谷高行(元)マネージャーである。俺にとってマネージャーといえば、どうしたって「渋谷」なのだ。「なぁ、渋谷」「おい、渋谷」…拓郎の声が耳に残っている。渋谷氏が♪あんたに あげ〜た〜愛の日々を〜 今さら 返せ〜とは言わないわ〜と歌いながら、意味もなく怒りまくる(爆)という深夜放送セイ!ヤングのコーナーも大好きだった。たった3回で終わってしまったけれど。
 鉄壁のマネージャー、怒れるマネージャー、死んだ父親に顔がそっくりだと拓郎さえも恐れるマネージャー、金沢、つま恋、篠島、草創期の数々の事件を最前線で戦ったマネージャー…もはや生きた伝説だ。しかしその素性と素顔は殆ど知らないままだった。その意味でこのインタビューはためになった。

2 若い人
 もともと拓郎のファンでもあった渋谷氏は立教大学法学部在学中の1973年に草創期のユイ音楽工房に入社し、大学4年生で拓郎のマネージャーとなった。えっ、あの金沢事件の時とかライブ73の時は、まだバリバリの大学生だったのか。思えば陣山俊一、後藤由多加、みんな学生だった。ただ渋谷氏だけはガサツな早稲田ではなくオサレな立教というところが意外だ。1974年2月の大学卒業試験と拓郎に同行するボブ・ディラン&ザ・バンドのロス公演が重なったために渋谷氏はそこでカタギの就職をあきらめユイに骨を埋めることになる。

3 道なき道を行くキャラバン
 陣山俊一のインタビュー(会報3号)にもあったとおり、前例のないところをごくわずかの若者たちだけで手探りで切り開いてきた、そういう気骨がヒシヒシと伝わってくる。道なき道をゆくアーティストのマネージャーもまた道なき道をゆかなくてはならない。しかも一人でだ。

 …会場は押さえました。神田共立講堂です、というとそれに目指して じゃあチケットはいつ発売していくらにしよう。ポスターは何枚作ってどういうポスターにしよう、チラシはどうしようっていうのを全部一人でやるのね。

 (拓郎から)こういう形でやりたいからっていうのをもらって、で電話をしてね。だから松任谷君のところなんかもよく電話したもんね。いついつからまたコンサートやるんでお願いできないかと。マンタがやってくれる場合は、じゃあドラムは誰、ギターは誰、ベースは誰とかいってマンタが集めてきてくれる…


 そしてライブの日の渋谷氏のa dayが俺には刺さった。胸が熱くなって仕方なかった。

 …一人で全部やらなきゃいけないってことがあるじゃない? まず朝全員起こして、羽田に集合させて会場連れて行って。会場に連れてく前にホテルとか旅館に連れていって待機させて、で自分は会場に行ってセッティング手伝って、セッティングが出来上がった頃にみんなを連れてまた会場にいって、でリハーサルをさせて、出前を取ってあげてごはん食べさせて、で、そんなことをとどこおりなくやって(笑)終わって着替えさせてホテルに連れて帰って、ちょっと30分ぐらいまってもらって、会場にもどってバラシをやって積込みをやって、それでホテルに戻ってね。その時はもう、主催者の人と食事に行ってるわけじゃない?で、あとを追っかけて行ってそういう生活だからさ… 

 後はチケットの販売とその精算。まだ全国すべてに今のような発券システムがないわけですから、事前にレコード店とかを廻ってチケットを預けるわけですよ。そしてコンサート終了時にチケットの精算。当時は現金精算でしたから、その日のうちにホテルで収支計算をするわけです。そんな日々の繰り返しでした。(※ヤングギタークロニクルP.180)


 一学生、一若者にここまでのことができるのか。自分の同年代の頃を省みてとても考えられない。

4  そして世界はつくられる
 現場の苦闘はやがて音楽界のシステム改革にもつながってくる。これは、会報のインタビューではない別の雑誌の渋谷氏のインタビュー記事からの引用だ。

 年間150本以上のコンサートやイベントに出演していて、それも、今日が北海道だったと思うと、明日は四国とかね。そしてその合間にレコディングする。と言うムチャなスケジュールだったんですよ。ようやく自分で拓郎のスケジュールを管理できるようになってやったことが、ライブを春・秋に『コンサート・ツアー』として組むと言うことと、夏に『レコーディング』というローテーションを決める事でした。(※ヤングギタークロニクルP.180)

 コンサートツアースタイル『演奏者やスタッフ、PA機材、照明機材、楽器などをひとつのパッケージにまとめて同じチームで各地を廻る』そんなスタイルをとったのは日本では拓郎がはじめてでしょう。機材の搬入、搬出の手順から全てにお手本がないわけですから手探り状態でしたね。また、ドラムを高くするとか、舞台上にステージを組んだ演出をはじめたのも拓郎が最初だったと思います。同じチームで各地を廻ることで日程的にも無駄のないコンサートスケジュールを組むことができるようになったんです。(同P.137)


 吉田拓郎が始めたコンサートツアー。但し、それは拓郎や後藤由多加の号令一下で作られたものではなく、アーティストとスタッフの現場で泥沼のような格闘の中から生まれ落ちたものなのだと思い知る。

 この渋谷氏のインタビューに胸が熱くなるのは"昔の人は偉かった"、"創業者一族"は素晴らしかったという美談だからではない。たぶんない。ひとりぼっち、アブレ者、少数派が、本気で描いた音楽と世界の美しさみたいなものに感動するのだと思う。
 そして、なによりも私たちが愛してきた吉田拓郎だけでなく、彼を粉骨砕身で支えた人々の営みもまた素晴らしいものだったのだということが嬉しい。数あるミュージシャンから"吉田拓郎"を選んだ私達は、間違いなく素敵なLuckを引いたのだ。誇らしいじゃないか。

 さて、このような熾烈な「新しい日常」の構築のみならず、数々の事件が吉田拓郎とマネージャーとスタッフにこれでもかと襲いかかってくるのであった。つづく。

2023. 9. 23

☆☆☆和菓子の足音☆☆☆
 私も"おはぎ"は"こしあん"です。ブログでお彼岸のしみじみとしたお話を読んで、私もたまらずに近所の和菓子屋に行ってみた。"こしあん"のおはぎはあったが、なんと"すあま"がなくなっていた。この和菓子屋では製造中止とのことだった。昔も書いた気がするが、私にとって和菓子の帝王は"すあま"だ。"すあま"が"吉田拓郎"だとすれば、"こしあんのおはぎ"は"南こうせつ"くらいに位置づけられる>意味わかんねぇよ
 和菓子屋の主人によれば売れ行き不振だったとのことだ。この近所で"すあま"を好むのは自分くらいだったらしい。子どものころから"すあま"好きの自分は変なものが好きな変なヤツだと冷笑され続けてきた。だから孤独なのは平気であるが消えるのは悲しい。数を注文すれば作ってくれるとのことだが、注文生産してもらったら、それはもう"すあま"ではない。やはり店頭にさりげなくあってこその"すあま"なのである。

 和菓子といえば吉田拓郎のかつての著書の一文で
 「ツルの玉子」という菓子がある。死んだ親父の土産物はいつもこれ一点ばり。そのせいで、いつの間にか甘いものがダメになったような気がする」(吉田拓郎「明日に向って走れ」より)

 というくだりがいつも気になっていた。
 実際に「つるの玉子」という岡山の銘菓がある。まさにつるの玉子のまあるいお菓子だ。これのことだろうと思っていたが、はたして鹿児島から広島にやってくるお父上が、岡山の銘菓を買うだろうか。時は昭和20年代である。デパートの全国物産展なども催されていたとは思えない。
 ここで博多に「鶴乃子」というこれまた銘菓がある。こちらも玉子を彷彿とさせるお菓子だ。これだとちょうど鹿児島から広島への中継地点である。どっちなんだ。それとも両者とも違うものだったのか。既にファンの間で議論された問題かもしれないが気になるところではある。

 ということでお彼岸だ。何はともあれ和菓子をお捧げして向こう岸に行ってしまわれた人々のことをしみじみと偲びたい。

追)…って、おーっとこの日がすぐに出てこないなんて、俺もヤキが回ったぜ。こっちは彼岸じゃなくて此岸だ。
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2023. 9. 17

100分de名著「マガジンT(第4号)」を読む
第三話 観音崎よ、どてっ腹をぶちぬかれちゃったね

1 謎の仮タイトルたちを追う
 会報4号には「観音崎日記」と題するレポート記事が載っている。観音崎マリンスタジオでのニューアルバム「176.5」のレコーディング風景が記されている
 気にかかるのは、完成した「176.5」では見ないタイトルの曲があることだ。たぶん仮タイトルかアウトテイクのどちらかだと思われる。

・「星の鈴/蜜の糸」…コレは「星の鈴」に違いない。

・「消えた街」…え?
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…それは「狙われた街」だろ>特定の人向けのネタはヤメロよ。すまん。たぶん"30年前ならSFの街〜"という「30年前のフィクション」のことだと思われる。

・「LAST SONG」…これはものすごく時間をかけて作られている様子だし、ステージのラストだったこともあって「俺を許してくれ」のことだと思われる。

・「DEAR MY FRIEND」…これがわからん。日記のヒントから探ると@森雪之丞の作詞A男同志の友情Bバラード…ということになるが、該当作はこのアルバムには不見当である。…この条件をクリアしそうな曲は、1994年にJリーグのサンフレッチェ広島のテーマ曲として西城秀樹に提供された「女神が微笑む時」(作詞:森雪之丞/作曲:吉田拓郎/編曲:渡辺格)〜おおー格さんだ〜ではないかと思うが、ずいぶん時間が経っているし自信はない。

2 DEAR MY FRIEND
 観音崎日記で胸が熱くなったのは島村英二のくだりだ。このアルバムはドラムはすべて打ち込みなので、島ちゃんのプレイするパートはない。それでも島ちゃんは激励にやってきた。

 この日、島ちゃんこと島村英二が突如スタジオ来襲。来る途中、車が第3京浜でエンコしたのにもめげず、なんと電車に乗り替えて夜11時過ぎに現れた。もちろんこのあとは深夜までパワー全開の盛り上がり。翌日仕事のため島村氏は午前中に東京に戻る。寸暇を惜しんで、わざわざ遠くまで来てくれた島村氏の拓郎さんに対する友情を感じました。


 このさりげないくだりがしみじみと心にしみて、うっかりすると泣きそうになる。翌日仕事なんだから、車がエンコしたら普通行かないだろ。
 そうだ、観音崎スタジオのことは「ラジオでナイト」でも語っていた(第73回 2018.9.23の放送より)。

 この隣のホテル、京急ホテルだったか、このスタジオからホテルのプールが見える。夏とかは、若い女の子の水着姿で溢れていて、みんなレコーディングどころじゃなくて、「おおお」とか言って、スタジオの窓にすずなりになって点数つけたりしている(笑)。

…はーーそれで島ちゃんは寸暇を惜しんで来たのかもしれない(爆)

 モータウンスタジオも、専属アーティストがいてサウンドが固定化している。そのサウンドを希望するミュージシャンがそこに行く。こういうのは日本にはないな。例えば島村英二、エルトン永田、中西が観音崎スタジオに住んでいたりとか。そこのスタジオでは、どんなミュージシャンでも、彼らが迎えてくれるという。そうなると観音崎マリンスタジオの音というのが歴史に残っただろう。どうして居座らなかったんだよ、自分じゃないから言うけれど(笑)、島村、エルトン、おまえら観音崎に住めよ。


 島村、エルトン、おまえら観音崎に住めよ。…俺なんぞにはわからない深い絆を感じる。拓郎の理想の音楽環境が垣間見える。拓郎はそういうスタジオが好きなのか…そういうスタジオにいる拓郎が俺も好きだ。
 まさに「DEAR MY FRIEND」…可能性なきにしもあらずということで「女神が微笑む時」を聴いてみよう。

 僕らはそっと星空に抱かれる
 未来に運ぶ箱舟のように
 ……
 Heart to Heart この胸に声は響く
 Dream to Dream 夢を信じあえば
 きっと 僕らに女神は微笑む

…とにかくすべての推しも推さるるも含めた吉田拓郎に関係する皆皆様に女神が微笑みますように。

さて会報第4号 次回最終回
  第四話 「渋谷高行…あんたのバラードに涙する」をお送りします。

2023. 9. 15

100分de名著「マガジンT(第4号)」を読む
第二話 "人間なんて"のとらばーゆA

 会報4号でのリメイク話ばかりに反応してしまったが、この時期、吉田拓郎は打ち込みリメイクの"落陽"や"人間なんて"に勝負を賭けていたわけではない。それだけ打ち込みに熟達してきたということであり「コンピューターの打ち込みに習熟することは、ただの技術の取得と向上ではなくて、音楽とのあらたな結縁だったのだ。」と自分で書きながら良い事を書くなと自分に感心した(爆)。
 この時はまだわからなかったが、私は、打込みの習熟の成果物にして、あらたな音楽との結縁としてのアルバム「176.5」という傑作にもうすぐに出逢うことになるのだ。

 「俺を愛した馬鹿」から「マッチベター」,「ひまわり」という長かった"打ち込み実験期間"。次から次へと凡打のようなアルバム(※あくまで個人の感想です)が続いたが、ようやくこの「176.5」に至って、スコーンと目の覚めるようなクリーンヒットを打ってくれた気がする。ココに、もどかしい打ち込みの実験時代を抜けて、あらたな音楽との結縁を感じるのだ。ここからの快進撃を私は「90年代に駄作なし」と総括する(※これも個人の感想ですが)。
 したがって「落陽」「祭りあと」、あと収録されていないが「人間なんて」のセルフカバー群はあまり関係がない。これらは凄腕のシェフが、休憩時間に身内をねぎらってササっとこしらえた"まかない飯"みたいなものだ。これらリメイクがなかったとしても「176.5」は 新曲だけで堂々たる名盤である。「星の鈴」「車を降りた瞬間から」「30年前のフィクション」「憂鬱な夜の殺し方」そしてああ我が心の「しのび逢い」…そうなると「はからずも、あ」までが愛おしい。そして何よりアルバムでメインを張り、コンサートのラストを飾る「俺を許してくれ」が素晴らしい。

 会報4号には「TAKURO SPECIAL ESSAY」という連載コーナーがあって、拓郎のショート・エッセイが載っていたのだが、会報4号ではこのコーナーに「俺を許してくれ」の詞だけがドーンと見開きで掲載されていた。これだ。これぞファンクラブの会報なのだ。「これが新曲だ、どうだ」といわんばかりのお披露目が嬉しい。今観るとなんか泣きそうになる心意気だ。
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 前にも書いたが、セルフカバー「人間なんて'89」はとことん切ない、なんでこん鬱な詞にしたんだと恨めしく思ったりもした。しかしこの鬱なところがまた胸にしみるのだ。

 からっぽになっちまう前に
 せつなさをあきらめる前に
 オイラの心を満たしてよ
 身体を何かで突き刺してよ
 人間なんてララララララララ

 はるかに叫ぶ声が届かない理由はなんだろう
 愛してるって答えてくれ 旅する人に伝えてくれ
 迷ってしまってもここにいる
 遅れてしまってもそこにいる
 はぐれるものを忘れないで 行方知らずを見捨てないで
 オイラの心はどこに捨てよう
 疲れた魂をどこに置こう
 昨日の風に預けた夢が かなわないものなら投げ返してよ

 …大きな何かに吸い込まれて
 やるせない隙間を埋められない
 何がどうしても足りないよ
 人間なんてと言えないなら
 オイラを命がけで殺してよ
 人間なんてララララララララ


 ここからは俺の思い込み&邪推だ。>これまでもそうだろ
 この人間なんて'89は、とことん心の奥底に沈んでゆく「鎮魂」のようでもある。しかし、そこで燃え尽きるのではなく、この魂の底から「俺を許してくれ」に繋がってゆく、いやもっと言うと新たに立ち上がってゆくのではないか。"人間なんて"→"人間と呼ばれてるけど"…これはバトンだ。"人間なんて"から渡されたバトンだ。あるいは燃え尽きた"人間なんて"の「とらばーゆ」といってもいいかもしれない。「俺を許してくれ」も「人間なんて'89」同様かなり悲観的な詩だが、それでも、この新曲には生きてゆくチカラがみなぎっている。聴けば一発でわかる。メロディー、サウンド、ボーカル、すべてに横溢している元気。

  この命ただ一度
  この心ただひとつ
  俺を許してくれ 俺を許してくれ

 ここだ。ここがたまらないのだ。中島みゆきの「ファイト!」の"あきらめという名の鎖を身をよじってほどいてゆく"のところと同じように聴く度に心が昂ぶる。なんで中島みゆを例にするかは横に置く。
 
 かくしてラストナンバーの殿堂だった「人間なんて」から魂を受け継いだ新しきラストナンバー「俺を許してくれ」を迎えたのである。ああ、だから原題は「LAST SONG」なのか。
 そして忘れもしない2019年のラストツアーの本編ラストをこの曲で締めくくったこともある意味でとても感慨深い。

 次回は第三回「観音崎よ、どて腹をぶちぬかれちゃったね」をお送りします。いやあ、会報4号…いろいろ充実しておるわ。あなどれない>あなどっていたのかよ。

2023. 9. 13

100分de名著「マガジンT(第4号)」を読む
第二話 "人間なんて"のとらばーゆ@

1 突然のCMカバー出来
 1989年には「落陽」だけでなく「人間なんて」までも復活して驚かされた。リクルート/とらばーゆのTVCMでいろんな就活女子の表情豊かなアップのバックで女性ボーカルの♪人間なんてラララララララ〜ラがお茶の間に突如流れだした。「落陽」のセルフカバーはパッとしなかったが、とらばーゆの「人間なんて」は世間を席捲してかなり話題にもなった。
 たぶんこれが起爆剤になって、秋の拓郎のツアーのタイトルは「89-90 人間なんて」と冠され、そのステージではこれまたセルフカバーで換骨奪胎の切ないブルース調の「人間なんて」が披露されることになったのだと思う。
 ただし自分にとっての"落陽"と"人間なんて"といえば、やはり血沸き肉躍る、こんな感じのイメージで↓まさに怒涛の進撃の歌なので、
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…CMのどこかコミカル調なカバーは少し寂しくもあったが、それでも世界が"人間なんて"で包まれているのは大変気分が良かった。CMはバージョンも曲調も微妙に変わっていって、いいCMだったなと今でも思う。
 ひとつだけ言いたいのは、この流行は、CFの巧さと楽曲の魅力もさることながら、俺は密かに"志村けん"のアシストのチカラが大きかったのではないかと思う。当時、志村は自分のコント番組でこのCMにあやかって"人間なんてララララ"というオチを積極的に多用していたのを覚えている。この当時の志村けんのお茶の間に対する影響力は絶大だった。この盟友の温かい援護射撃は観ていてとても嬉しかったし心強かった。今さらだが、ありがとうございました、志村けんさん!
…一度、心の底から御礼を言いたかった。

2  拓郎、セルフカバーするってよ
 で、コンサートツアータイトルが「人間なんて」と言うことは…すわ、ツアーで歌うのかよ!?、想像がつかなかった。このCMでちょっとした時の人になった拓郎へのサンデー毎日のインタビューがあった。「"人間なんて"が話題になっているし、今度のコンサートでは燃えているのですか?」との質問に「え、全然燃えてないよ、仕事していないと世間に肩身が狭いから歌っているだけ」と答えていて、あの狂熱の人間なんてが再現するとは思えなかった。実際にもそのとおり意表をついた内向的なブルースとしてステージで披露されたのだ。

 俺は会報4号をリアルタイムで読んでいなかったので、そのあたりの心情が今読むことでなんとなくわかってくる。

 「人間なんて」もリメイクやっちゃったんだよ。「イメージの詩」も今やってるの。全部打ち込みでね。
 気持ちいいよ。「人間なんて」って曲がえらく楽曲的。うちのスタッフはみんな喜んでいるよ。いいって。市場に出す、出さないは別として、遊びでいろいろ古い曲を打ち込みでやって聴かせてるの。


 打込みを自家薬籠中のものにした拓郎が音楽を楽しんでいる様子がわかる。そしてその手は禁断の"人間なんて"にも及んだ。リメイクに際して、あらたに"人間なんて"の詞を書き上げ、しみじみブルースな"人間なんて"の生誕である。

だって、あの曲 詞がないんだよ「何かが欲しいオイラ それが何だかわからない」って歌ったあと ワーッと言ってるだけだもんね(笑)だから打ち込みでやり直そうと詞を探したら、ない。それで詞が無い曲だったってわかったんだ。
 それでデモテープ作ったら評判いいから、ステージでもやっちゃうおうかなとも思っている。ギャーギャーいうんじゃなくて、サラっとね、


 なんか鬱な詞だな〜暗いな〜と当時は思ったけれど、本人はかなり清々しい気分でいたのだなというのが会報のインタビューからわかる。そしてその理由もなんとなくうなづけてきた。コンピューターの打ち込みに習熟することは、ただの技術の取得と向上ではなくて、音楽とのあらたな結縁だったのだ。しかしこの会報4号は懐かしのセルフカバーだけでは終わらない。つづく。

2023. 9. 12

☆☆☆それでも生きてゆく☆☆☆
 風間俊介…そうだ拓推しドラマだった「純と愛」に主演し、LOVELOVEの最終回では吉田拓郎の傍らで"硝子の少年"を踊っていた風間俊介だ。「まず被害者のことを第一に考えるべき、事務所が新たに生まれ変わったんだっていう姿をどう見せるかよりも前に、静かに冷静に、被害者の方々と向き合う必要があると、私は思っています」「今、被害があって訴えられていない人たちが話しやすかったり、話そうと思えたりする体制を、早くうちの事務所は整えるべきだと私自身は考えております」…苦悶しながらも少数派たる被害者への思いを語った。批判はあろうとも…まさにそのとおりだと思う。この難題、難状況。いまは真摯に苦しみ迷い迷える者こそ信用したい。…立派に更生したな三崎文哉!(爆)…ということで今日の頭の中のテーマ曲ベスト1は、昨日までの「人間なんて'89」から小田和正の「東京の空」に交代した。それでもファンなのか。すまん。

    自分の生き方で 自分を生きて
    多くの間違いを 繰り返してきた
    時の流れに乗って 走ったことも
    振り返れば すべてが同じに見える
    がんばってもがんばっても うまくいかない
    でも気づかないところで 誰かがきっと見てる

 …いい。悔しいけどいい。人間なんて'89に負けないくらいイイ。

2023. 9. 11

☆☆☆誰が音楽を殺すのか☆☆☆
 いろいろあって気分が落ちる。近いところでは例えば100年前の虐殺事件について記録がありませんからと軽くスルーする政府の記者会見、それとは反対に4時間以上もかけながら、忖度とポーズの佃煮のような記者会見。どちらも多数派のための段取りにすぎない。いつだって少数派やひとりぼっちの個人は実質的には置き去りにされる。
 「少数者やアブレ者は多数派によって排除され、やがて社会から抹殺される」…というかつての御大のお言葉を思い出す。俺が偉そうに言えたものではなく、自分もその多数派の傘の中に出たり入ったりフラフラしているだけかもしれない。そうやって指弾する人々もされる人々も、そしてまたそれを眺めているだけの人々もみんな一緒に深い沼に沈み込んでゆくような気持ち悪さがある。一億人が見せかけだけの豊かさのなか沈みゆく島とはまさにこのことか。

 こんな還暦過ぎのオッサンでさえ、あそこの若者たちを通じてかけがえのない思い出とある種の希望をいただいた。「音楽やアーティストに罪はない」というのは心の底からそのとおりだと思う。しかし罪はなくとも無傷、無垢ではいられないのも事実だ。自分や自分の思い出が容赦なく削られてゆくかのような気分になる。
 少数者やアブレ者やひとりぼっちの尊厳が守られてこそ、はじめて音楽は自由なものだ、音楽って素晴らしいと言えるんだとあらためて思う。そこにしか、そこからしか途はない。
 そういう鬱屈した気分で、次の"100分de名著・会報4号"のために89年ツアーのリメイク版「人間なんて」を通勤の電車の中で聴いていた。当時はこんな暗い鬱な詞で地味なリメイクをしやがって!と思っていたが、今こうして聴くと絶妙に心にしみいる。いや、かなり良くないか? 今頃遅いな、すまんな。

  人間なんて (refit 1989)
           作詞・作曲・編曲:吉田拓郎

 何かが欲しいオイラ それが何だかはわからない
 だけど何かが足りないよ  今の自分もおかしいよ
 空に浮かぶ雲は いつかどこかへ飛んで行く
 そこに何かがあるんだろうか
 それは誰にもわからない
 本当の事を話してよ 本当の声を聞かせてよ
 黙り込んでしまうなんて
 臆病者になってしまうよ
 からっぽになっちまう前に
 せつなさをあきらめる前に
 オイラの心を満たしてよ
 身体を何かで突き刺してよ
 人間なんてララララララララ

 はるかに叫ぶ声が届かない理由はなんだろう
 愛してるって答えてくれ 旅する人に伝えてくれ
 迷ってしまってもここにいる
 遅れてしまってもそこにいる
 はぐれるものを忘れないで 行方知らずを見捨てないで
 オイラの心はどこに捨てよう
 疲れた魂をどこに置こう
 昨日の風に預けた夢が かなわないものなら投げ返してよ
 人間なんてララララララララ

 かすかに震える声で 人間なんてと叫んでみるけど
 大きな何かに吸い込まれて
 やるせない隙間を埋められない
 何がどうしても足りないよ
 人間なんてと言えないなら
 オイラを命がけで殺してよ
 人間なんてララララララララ

 

2023. 9. 6

☆☆☆ブドウ畑でつかまえて☆☆☆
 浮世の義理で、同じ仕事をしている高校の先輩と甲州方面に車で出掛けた。先輩は年に2回しか運転しないと後に知ったが、免許を取ってから2回しか運転していないんじゃないかと思うような破滅的運転で、何回も命の危険を感じた。ガソリンスタンドの兄さんたちが一斉に後ずさりして飛び退く光景を初めて観た。ah-怖かった。おまけに虫が大嫌いな私が、昆虫採集の手伝いをさせられたり、イナゴを食べさせられたりして、そのたびに失神しそうだった。「男(の子)はみんな昆虫が大好き」と言う決めつけは立派な性差別だと思う(涙)。とにかく1秒でも早く帰りたかったのだが、先輩がどうしても知り合いの果樹園に寄りたいということでやむなくお相伴した。ブドウは好きでもないし嫌いでもない僕達見知らぬ他人のようだ。
 でも旬のシャインマスカットが実っている景色を見渡すと心が少し躍った。そんなことってあるだろう君たちだって。
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 ああ、あの方は今年もうシャインマスカットをお食べになっただろうか、ああ住所がわかれば送って差し上げたいとすら思った。
 キツネが王子に言った言葉。「ボクは小麦畑に何の興味がないが、キミがボクをなつかせてくれれば、キミの髪色と同じ金色に輝く小麦畑を見ただけで、ボクはキミを思い出すようになる。麦畑をわたっていく風の音まで、好きになる…それが絆というものだ。」…それな!
 それにしても無事に帰って来られたことを神様に心の底から感謝したい。

2023. 9. 2

 「T's会報」…ちょっと飽きたので、しばしお休み。映画「君たちはどう生きるか」の2回目を鑑賞したのだが、やはり私には難解すぎる。おまけにとなりのポプコーン野郎がうるさくて集中できなかった(爆)。ということでとりあえず浅い感想文をメモしておきたい。ああ思いっきりネタバレっす。

勝手に拓郎に結び付ける映画評
「君たちはどう生きるか」
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1 二人の"mother(母)"
 不肖ワタクシは映画「君たちはどう生きるか」を観ながら思った。これは宮ア駿の「ah-面白かった」ではないか。「君たちはどう生きるか」と「ah-面白かった」は通底している。…いきなり各方面から怒られそうだ。宮ア駿の集大成作品といわれているが、そもそも私は宮ア監督のことがよくわかっていない。吉田拓郎のことも知ったかぶりしているが結局のところそれだってよくわからない。えーい思い込みと言わば言え。だからこそ勝手に拓郎に結び付ける映画評なのだ。

 まず似ているのは、どちらも、もうやめる、もうやらないが口癖の両巨匠の最終章の作品(最終作とはあえて言わない)というところだ。
 次に、どちらも"mother(母)"が主題であり、"二人の母親"が大切な役割を果たす。そこから、そこはかとない心情において共通する点を感じてしまうのだ。

 映画の舞台は昭和18年頃の戦時中。主人公の眞人(まひと)少年は、火災で実母・久子を亡くす。その翌年には父は久子の妹夏子と再婚し、夏子は既に妊娠している。実母と継母という二人の母がドラマを動かす。吉田拓郎の場合は、実母の吉田朝子さんと義母の竹田美代子さんというお二人の母親の人生の旅路が歌われる。
 なお映画には守り神のような7人のおばあちゃんたちとキリコさんという頼りがいのある姉のような女性が登場する。このあたりも拓郎と同じで、主人公を庇護するように女系家族が回りを固める。
 そんでもって、どちらも父親はあんまし役に立たない。もちろん立派な人物だし、特に映画では木村拓哉に声をあてられているのだが、本編では役割が薄い。他人様の父親に対して役立たないなんて申し訳ないです。

2  母の声をたどりて
(1) 託された君たちはどう生きるか
 実母と継母の二人の故郷に家族で疎開したものの、眞人は再婚した父と継母に心を閉ざしたままやさぐれる。自損の怪我を装って学校もドロップアウトし孤独に沈む。どうしても断ち切れぬ亡き母への思いのさなか、母が残した一冊の本「君たちはどう生きるか」(昭和12年の初版本)を偶然に発見する。巻末には「大きくなった眞人へ」と母の署名があった。眞人は母が遺してくれた手紙だと思いむさぼるように読みふける。そしてポタポタと涙を流す。
 落涙箇所はたぶん「凱旋」の章だ。主人公コぺル君が友人達を裏切ってしまった罪悪感から苦悶のあまり病に臥してしまう「雪の日の出来事」、そんなコペル君に母がひとりごとのように語りかける「石段の思い出」につづく最終章だ。基本的にコペル君とおじさんの対話で進められていく本書の中で、唯一、母が苦しむ息子に静かに語りかける「石段の思い出」の章は白眉で、きっと眞人はこの章を自分の母の言葉として読み、感極まったに違いない。

「大人になっても、ああ、なぜあのとき、心に思ったとおりしてしまわなかったんだろう、残念な気持ちで思いかえすことは、よくあるものなのよ。潤一さんもね、いつかお母さんと同じようなことを経験しやしないかと思うの。ひょっとしたら、お母さんよりも、もっともっとつらいことで、後悔を味わうかも知れないと思うの。でも、潤一さん、そんな事があっても、それは決して損にはならないのよ。その事だけを考えれば、そりゃあ取りかえしがつかないけど、その後悔のおかげで、人間として肝心なことを、心にしみとおるようにして知れば、その経験は無駄じゃあないんです。(略)それから後の生活が、そのおかげで、前よりもずっとしっかりとした、深みのあるものになるんです。だから、どんなときにも、自分に絶望したりしてはいけないんですよ。」(吉野源三郎「君たちはどう生きるか」〜石段の思い出より)


(2) 拓された拓ちゃんはどう生きるか
 以上のシーンから、オールナイトニッポンゴールド2022年4月8日でのこんな話を思い出す。

 僕は、子どもの頃から非常に身体が弱くて学校も半分くらいしか行けなかった。家にいることが多い。母親が与えてくれた雑誌とか漫画とか小説を楽しみに日常を家にいて過ごしていた。一人で家にいる子ども時代。学友や友だちもいない。読み漁っている本の世界に入り込んでいくことが多かった。(略)時々病気の枕元に来て話をしてくれた。母親の信念、テーマとして常に自分に正直でいることだった。

「もし拓ちゃんあんたがみんなとは違う考え、違うなと思うとしても、みんなにおかしいと言われても、自分はこういうふうにしかできないと思う時がくる。できないことはできない、自分の心に嘘をつかない。できないこともできるといって仲良くする必要はない。できないから仲良くできないのならしょうがない。自分に正直に生きなさい。」

 当時は意味がよくわからなかったが、この言葉が後に大きな支えになる。


 なんとなく眞人と通じるような環境だし、ここでも拓郎少年の心にも母の言葉がいかに深く響いていたかが伝わってくる。

(3) 決起する子どもたち
 拓郎はアルバム「ah-面白かった」について語りながら、この母の言葉を反芻する。

 僕も紆余曲折ありながら音楽人生を歩いて来られた、これらはすべて母親が敷いてくれたレールだったと思う。母親への愛は非常に深いものがある…今日僕がここにいて歌っていること…その気持ちのもとは母の理解だったと思いたい。


 映画「君たちはどう生きるか」で母の託した本書を読んで決起した眞人も、妊婦のまま姿を消した義母を救おうと決意して、詐欺師のようなアオサギに導かれるままに、先祖伝来の不気味な幽鬼の塔の中へと挑んでゆく。この詐欺師で後のバディとなるアオサギの声が菅田将暉ね。二人の巨匠は、ともに父親の背中から学ぶのではなく、母親の言動の中に心のよすがを見出している。

3 若き日の母たちとの出会い
 眞人は、さまざまな時空とつながった大叔父の君臨する謎の塔の中で、この世界に迷い込んだ少女時代の自分の母親と出会う。"ヒミ"と呼ばれる彼女は火を扱う特殊能力を持った快活で心優しい少女だった。彼女の実妹であり眞人の継母でもある夏子の救出のためにこころよく協力する。その魅力的な少女ヒミの声が"あいみょん"なんだよ。なんか嬉しくなる。二人の心通わす冒険が始まる。

 いうまでもなく若き頃の母との出会いは「ah-面白かった」と通ずる。拓郎は「佳代と僕のお母さんが現代に今若者としていたら、若々しい希望に満ちて自分の未来を描きながら女性としていたら…」という同じコンセプトでアルバムを制作したと語っている。そしてこちらでは、そのヒミの役目をアナログ盤ジャケットでつま恋を闊歩している奈緒が見事に体現している。
…ついでに、この映画の若きキリコさんは篠原ともえではないかと思うのだが、まぁそれは置いておく。
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4   信頼という大いなる存在肯定
 少女時代の母親との出会い、継母の救出の大冒険とともに、この世を統べるという塔の住人である大叔父から、その地位の継承を求められる眞人。十三個の石をバランスをとりながら積み上げて世の中の平和と安定を目指してほしいという大叔父の頼みに対して、自分には「悪意」がありその資格はないと拒否する。現実世界で友達をつくり生きてゆくと宣言する。たぶん石は原子力=核の暗喩だと思われる。そうこうするうちに内乱によって瓦解を始める塔の中の世界。
 若き母であるヒミは眞人に、もとの現実世界に継母をつれて脱出するドアを教え、自分も別のドアから少女期の現実世界に戻らんとして別れを告げる。しかしヒミが現実世界に戻ればやがて火事で死んでしまうからと必死で止める眞人。しかしヒミは明るく答える「眞人おまえいいやつだな」「平気だよ、だって眞人を産めるんだよ!」とまるで遊びにでもでかけてゆくみたいに嬉しそうに自分の世界に戻っていった。ここで不肖星紀行は涙ぐんでしまう。となりのボブコーン野郎の雑音も聞こえなくなった。「だって眞人を産めるんだよ!」これは"ah-面白かった"というセリフに比肩する名シーンだと思った。
 若いころの母親は、成長した息子を観て、また自分のこれからの運命も知ったうえで、それでもあなたを産みたいと、もう一度自分のことを選び直してくれたのだ。これにまさる存在肯定はあるまい。

 他方で拓郎は二人の母のことをこう語っていた。

 佳代のお義母さんも僕のお母さんも既にあちらで楽しくしていると思う。夫婦で互いの母親のエピソードを話すが、なぜか笑ってしまう。想像できない苦労があったはずだ。時代が時代だから相当に大変だったはずだ。人知れず泣いたこともあったと思う。そういう厳しい体験はことさらのようには話さなかった。2人の母親は人間として苦しい人生を体験したにもかかわらず、できる限り伝えない人生を選んだのではないか。


 そして「ah-面白かった」のライナーノーツは最後は次のように締めくくられている。

 母たちは、それぞれの悲しみや苦しみを私達に見せる事なく心の中にそっとしまったまま永遠の地へ旅立たれた
 我々夫婦もいずれ同じ道を歩いて行くことになるだろう そしてその時もまた
「僕達は彼女達と一緒に笑顔で過ごしたい」と願っているのだ


 母たちとのお互いの幸福な信頼感とお互いに対する全面的な肯定感を感ずる。これはどちらの作者と作品にも通底していることだと思う。

5  前進する老巨匠たち
 大叔父の塔が瓦解するということは、現実世界には、混沌とした…核兵器や原子力のリスクという地獄のような現実が待っている。しかし、眞人は父、継母、生まれた弟ら家族と毅然と東京に戻ってゆく。そこで映画は終わる。

 拓郎の方はラジオで最後にこう語りかけた。
 
 あなたのご家族を思いながら、お互いの母上のことを話し思いながら、しょせんみんな人間はひとりぼっち。ひとりだからこそ誰かとの愛を、誰かとの言葉を、誰かとの気持ちを求めて生きてゆく。例えば僕は間違っていても〜と書いたけど、そのことを誇りにして今後は半歩でもいいから歩いて行こうと思っている。


 どちらもキャリアの集大成であるにもかかわらず、最後がポジティブで清々しい。大団円でもなければ、悲観でもない。懐かしの走馬灯で終わるものでもない。あくまでも前に進もうとする。やめる。やめると言う二人の爺ちゃんは実は最後まで前進せんとする。僕達はそうやって生きてきた〜君たちはどう生きるか〜僕達は…問いが答えで答えが問いになって連鎖してゆく。

 拓郎は「一人の人間の真実の景色、みなさんにエールを送るつもりで書きました。」という。この映画も同じだ。宮ア駿がどういう人かは知らないけれどたぶん同じだと思う。私たちへのエールでもあるのだと思う。

 それでもって、この映画を観たあとの心の叫び…
       あなたに逢いたい あなたの声を聴きたい

2023. 8. 30

☆☆☆行き止まりまで走ってみたい☆☆☆
 というタイトルのラジオの単発番組が1983年の春にありました。内容は「マラソン」のレコーディング中の吉田拓郎に対する田家秀樹のインタビューだった。これは私にとってかなり大切なインタビューだった。田家さんが「フォーライフは負けたんですよね?」と拓郎に突っ込んでしまい拓郎が一瞬絶句するやつ。それだけに限らない。父ちゃん(T)、出しゃばり(D)、買ってきた(K)、TDKのカセットテープが擦り切れるくらい聴いて、ホントに擦り切れて聴けなくなってしまった。最後に「もし行き止まりがあるのなら、行き止まりまで走ってみたい」という拓郎の言葉で終わる。全編に漂うどこか切ない空気が忘れられない。

 ということで、私はおかげさまで竜飛崎から無事帰還しました。ありがとうございました。
 道中、半ばおつきあいで太宰治の生家とか記念館をめぐりながら知った。彼の帰郷を綴った小説「津軽」の中に竜飛崎まで歩いて行ったというくだりがあったのだ。

 『竜飛まで海岸伝ひに歩いて行くより他は無い。(略)「竜飛だ。」とN君が、変った調子で言った。
 「ここが?」落ちついて見廻すと、鶏小舎と感じたのが、すなはち竜飛の部落なのである。兇暴の風雨に対して、小さい家々が、ひしとひとかたまりになって互ひに庇護し合って立っているのである。ここは、本州の極地である。この部落を過ぎて路は無い。あとは海にころげ落ちるばかりだ。路が全く絶えているのである。ここは、本州の袋小路だ。読者も銘肌せよ。諸君が北に向って歩いているとき、その路をどこまでも、さかのぼり、さかのぼり行けば、必ずこの外ヶ浜街道に到り、路がいよいよ狭くなり、さらにさかのぼれば、すぽりとこの鶏小舎に似た不思議な世界に落ち込み、そこにおいて諸君の路は全く尽きるのである。』(太宰治「津軽」より)


 こんな情景は残っていなかったけれど、かの歌に描かれた叙景に近い気がする。

 丸太で囲った家族が からだ寄せる
 この漁村には 寒く灯りがついている
 やさしい夕暮れ 賑わいうすい船着場には
 ああもう野良犬が住み着いた


 マントを羽織った太宰治とコートの襟を立てた岡本おさみの同行二人の旅姿を夢想する。おさむ&おさみ…それじゃお笑いコンビか。

 で本州の道は、どこまても歩くとこの竜飛崎で尽きるのだ。星紀行の大好きな「極北」のひとつだ。ちゃんと海辺に、ここが道の最端という行き止まりの碑が立っている。
 行き止まりまで走ってみたい…ったぁココのことか。今はオレ還暦超え初めて知る行き止まりの路地裏で…ってそれは浜田省吾だろ。
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2023. 8. 29

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🎵竜飛崎よ どてっ腹をぶちぬかれちゃったね…ということで青函トンネルの記念館にも行きたかったがさすがに時間がなかった。せめて、どてっ腹の入り口、青函トンネル隧道を見に行く。
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新幹線はうんと早い。高速でどてっ腹に突っ込んでゆく。付近には貫通石を祀った小さな神社があった。どてっ腹をぶちぬかれた竜飛崎とトンネル工事で命を落とされた34名もの方々に手を合わせる。岬は石川さゆりと阿久悠に先占されてしまったが、ここ現在地に岡本おさみの歌碑かあってもいいじゃないかと勝手に思う。
 🎵どてっばらぁぁあをぉぉ〜のかまやつさんの歌声が頭の中を流れ続ける。2007年のツアーのために二人でリハまでしながら、…ああもう言うまい。おかげさまで充分にしあわせだったじゃないか。さよならあなた私は帰ります。
 
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2023. 8. 28

☆☆☆悲しみでさえも海のシミか☆☆☆
 旅に出るとかカッコつけても実際のところは義母一族との旅行の最中に「死ぬ前にどうしても見たいんです」と親戚達に頼み込んでコースアウトしてもらったのだ。あまりに遠すぎるとブーイングの嵐の中たどり着いたこの岬には「津軽海峡冬景色」の巨大な歌碑(大音量の本人歌唱音源付)が待っていた。
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しかし、それ以外…ない。ないぞ。求めるものの痕跡すらない。なにもないのです。
 義母らに「そんなに石川さゆりが好きだったのか、ムコ殿」と笑われようとも構わない。孤独で結構。岬も私の心も最北端なのだ。
 49年前の夏に初めて買ったわが心のシングル盤。ひと夏聴きまくったこの曲。例の歌碑から離れて竜飛崎灯台の下で1人イヤホンで聴き込む。色褪せることなし。秋に咲く紫陽花、海峡の向こうの室蘭、どてっばらをブチ抜かれた青函トンネル。実写版人生である。ここまで生きて来られて、身と心を運ぶことができた幸せを噛みしめる。
 それにしても歌碑ってすごいよなぁ。歌碑のチカラをあらためて思った。吉田町にも、広島修道にも谷山にも歌碑が出来たことのありがたさがしみる。
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2023. 8. 27

☆☆☆旅に出てみた☆☆☆
しょせん帰りゆくこの旅なのに。
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2023. 8. 26

100分de名著「マガジンT(第4号)」を読む
第一話 あの落陽に抱かれたいA
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1 岡本おさみの気持ち 
 拓郎がどんな気持ちでこの「落陽」をリメイクしたのか。この会報第4号の石原信一のインタビューで少しうかがえる。

 岡本さんに電話して『落陽』入れ替えるよって話してね。作詩した岡本さんの思い入れとしては「落陽」というのは、前の曲は延々ギターソロがあってすごい歌になってしまって、自分の本意ではないところがあったんだよ。彼の思いとしてはしっとりとした情景が浮かんでくるものだったらしい。その分では今度の『落陽』は岡本さんの本意に大分近づいたというのはある


 そうか、リメイクに当たって岡本さんに連絡をしたんだ。岡本さんのためにアレンジを変えたとは思えないが、先の88年の日清パワステのMCでは「落陽」について「こんな(すばらしい)詩に曲をつけさせてもらえることが幸せ」と語り「その曲がひとり歩きして、いつから花見になってしまったんだろう。この歌は花見にするのはもったいない。」と語っていたことを思い出す。こっちには見えない二人の関係性のようなものが覗ける気がする。

 しかし、このリメイクバージョンでも後奏になるとギターはやはり元気にうねっている。岡本おさみの求めた「しっとりとした情景が浮かんでくるもの」…これは93年のNHKの101スタジオで石川鷹彦とのアコースティックバージョンによって実現されるものかと思う。この93年の落陽を聴き直してみたけれど、いいわねぇ。
 
2 そして拓郎の気持
 話を戻して、リメイクと原曲とどちらの落陽が好きかと問われた拓郎は答える。


「俺はもうどっちでもいいね、皆さんがお喜びなら(笑)」「そんなに大それた曲だと思っていないんだよ。岡本さんにもそんなにこだわるほどの曲じゃないよと言ったんだけどね」


 そんなふうに拓郎はうそぶく。これは俺の完全な思い込みだが、拓郎が「どっちでもいい」っていうときはどっちでもよくないし、「大それたことじゃない」「こだわるほどのことはない」というときは、実は大それたことで、こだわり続けてきた苦悩が横たわっている。"なんとか超えなきゃ"と拓郎はんの苦しんではる姿だったりする。

 石原信一が"とらばーゆ"のCMの「人間なんて」といい「落陽」といい、なぜ世間が89年になって、かつての楽曲をリバイバルするのか、若いころ聴いてたやつがオトナになって社内等で決定権を持つようになって、あいつらの若き日の追憶ではないかと考える石原に対して拓郎は言う。

 追憶よりも鎮魂だな。あんときは魂をなかなか休めることも出来なかったけど、これでもう俺は卒業できるって。あいつらそうだよ。
 もう俺はいらなくなる。あの頃のフォークだなんていうのもいらなくなるし、ギター覚えたって思い出もいらなくなる。


 ちょっと切なくなる答えに対して石原がたたみかける。

石原)リメイクして「落陽」を歌った吉田拓郎は、やっぱりこれも卒業式なのか。
 俺は駄目だよなあ。私は一向に変わらない。

3 音楽の自由と自由な音楽
 なんかこうしてこういう言葉だけ抜くと暗いのだが、むしろインタビューの次の発言の方が真意に近いのではないか…と思う。

「人間なんて」もリメイクやっちゃったんだよ。「イメージの詩」も今やってるの。全部打ち込みでね。
 気持ちいいよ。「人間なんて」って曲がえらく楽曲的。うちのスタッフはみんな喜んでいるよ。いいって。市場に出す、出さないは別として、遊びでいろいろ古い曲を打ち込みでやって聴かせてるの。


 コンピューターを自家薬籠中のものにした拓郎にとって、これまでの楽曲をアレンジしなおすことがかなり楽しかったんじゃないか。歴史やら因縁やら因業からも自由になって、ひとつの楽曲として音楽として歌いなおすことの御機嫌さ、明るさが伝わってくる。

 歴史的スタンダードナンバー「落陽」についても、かつての拓郎には「歌う」か「歌わない」という二択しかなかった。どちらも釈然としないものが残るのかもしれない。だいたいどちらにしても私のように鬼畜なファンから文句を言われるに決まっている。
 しかし、歌う、歌わないではなく、自由なアレンジをして歌ってしまう…という第三の選択肢をやってみせた。まるで呪縛を解き放つかのようだ。好き嫌いや優越を超えて「落陽」はひとつじゃなくていい。そんなゆるやかな快活さを感じる。

 あの時、俺がすべきことは、ライトな落陽のアレンジ変更に失望したり悪態をつくことではなく、面白れぇなあ〜と楽しんで、もっともっと違うアレンジでもカバーしてくれよ、と快哉を叫ぶ事だったのではないかという気がしている。すまなかったな…とちょっと思うがもちろん反省はしない。だって拓郎はこうも言っている。

 (レコード)買っといて、今度は良くない、とか最低とか言うなって(笑)。買ったらそっちの責任なんだから。買ったというところでもう絆が出来たと俺は思っているからさ。


 そうか…最低って言われたのか(爆)。いいじゃないか、何もかも「絆」が出来た俺たちの間のことじゃないか。

4 あの落陽に抱かれたい
 89年の夏は暑かった。親父の葬儀の日もそうだったな。個人的には失意に沈んでいたが、それでも空はくっきりと青く雲もむくむくとチカラ強かった。今もこういう夏空を見上げると、さんざん悪態をついた「あの夏に抱かれたい」のOPを思い出してしまう。するとあのホルンの「落陽」のイントロが流れ出す。
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 晴れた青空の落陽。矛盾しているか。しかし真夏に「外は白い雪の夜」に聴き入り、厳冬の中にも「夏休み」で盛り上がる。拓郎ファンはすでに時空も天候をも超えているのだ。
 そんな景色にもカスタマイズされた「落陽」がある。それでいいのだ。たぶん。 

 次回、第二話「わが心の人間なんて」をたぶんそのうちに。

2023. 8. 24

100分de名著「マガジンT(第4号)」を読む
第一話 あの落陽に抱かれたい@
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1  ひとりシンポジウム〜1989年の落陽を考える
 会報第4号が発刊されたのは秋だった。まったりとした会報3号の頃とは違って、11月下旬からのコンサートツアー89-90も決まり、ニューアルバム「176.5」の発売も見えてきて心湧き立つときだ。しかしそれらの全国ツアー&アルバムを待つ私の前に静かなる一波乱が起きた。思ってもみなかった「落陽」&「人間なんて」が、これまた思ってもみなかった姿で登場したのだ。

 超絶個人的な話だが、その頃の俺はといえば89年の夏に父親を亡くし、背水の陣で臨んだ試験にも落ち、アルバイトまでも失うという失意の時だった。しかも住まいを追われたドサクサでT'sの会報も届かなくなっていた。ということでリアルタイムでは会報第4号を読んでいない。なのでこの会報はつい先週くらい初めてキチンと読んだ(爆)。そういうわけでバイアスというか、思い入れ、思い込みで、この日記は歪んでるかもしれない。ま、別に客観的な評論をしているわけでなく、もともと個人的なイカレたことを書いているだけだからいいわな。

2 封印は花やかに
 88年のSATETOでも89年のドームツアーでも「落陽」は歌われなかった。つま恋85で高中正義&後藤次利の歴史的名場面が最後の「落陽」だった。SATETOのスピンオフの日清パワーステーションで拓郎は「落陽」の出だしだけを歌い、燃え上がらんとする観客に向って「この曲は花見で盛り上がるにはもったいない曲。もう二度と歌ってやるまい。」と言った。つまり拓郎は観客とのすれ違いの象徴ともいえる「落陽」を意図的に封印していたのだ。

3  いきなり主題歌
 それが突然89年の9月に日テレで野村宏伸、紺野美沙子主演のいわゆるトレンディ―系ドラマ「あの夏に抱かれたい」の主題歌として新録音の「落陽」が採用され、シングル盤として発売されることになったのだ。なんじゃそりゃ。「なぜいま「落陽」なんだ」と会報4号で石原信一先生も口走っている。
 とはいえトレンディドラマ隆盛期の当時だ。そこにリスキーな書き下ろしの新曲ではなく(>おめぇ失礼だろ)、不滅のスタンダード「落陽」が主題歌とくれば、もしかしたら…ヒットチャートを駆け上るのではないか、ああ、これからフェスティバルが始まるんじゃないかしら。鬱屈していた俺だったが、そう思うと胸が踊ってドラマの放送を楽しみになった。…んまぁこの道はそんなに甘くはないのだが。

4 そのドラマ微妙につき
 「野村宏伸」…イケメンとはいえ既に当時いろいろ微妙だった気がする(個人の感想です)。演技はお世辞にも上手ではなく、その彼がイキってバイクを乗り回すドラマは俺には辛かった。すまんな。しかしその24年後、重松清原作の日曜劇場「とんび」で野村が和尚の役で登場した時はしみじみと良かった。しかし24年も待てない>当時は知らねぇし。
 何より「あの夏に抱かれたい」は全5回だぜ…短っ!。「拓郎が主題歌だって聴いたから観てみようと思ったらもう終わってたよ」と友人が言っていたのを思い出す。話題になるもならないもアッという間に終了。そいつは突然現れてプツンと消えていっちまったよ。今Youtubeでかろうじて観られる主題歌部分の映像を観てごらんなさい。心の底から申し訳ないけれど、カラオケの背景映像みたいで「ロケ地 東京」というテロップを探してしまう。いろいろ切ないドラマだった。

5 シン・落陽の当惑
 それよりなにより驚いたのはこの「シン・落陽」の換骨奪胎のアレンジだった。原曲のドラマチックな勇壮感とはうって変わって、ここ数年馴染みの打ち込みサウンドだ。この機械感と電脳感、当時流行していた「マックス・ヘッドルーム」みたいな落陽だと思った。>知らねぇよ。
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 それに打ち込みチックでありながら、冒頭のホルンは新日本紀行のテーマを思い出してしまうような古色なイメージ。。あ〜なんなんだよ。
 そして肝心の拓郎のボーカルには、怨念もこもってなければ、シャウトすることもなく、淡々とそしてセカセカとテンポよく流れてゆく。どこにもひっかかりがない。なにもかもがミスマッチな気がして戸惑った。
 先の石原信一先生ですらシン・落陽を次のように評していた。
 以前のように前のめりに挑んでゆくような攻撃性はない。むしろ乾いた声が続くことによって、行き場のないような哀感と自虐性さえ感じる。

 ドラマは風のように消え、主題歌もヒットチャートを駆け上がることなく、祭りは一瞬で終わった。悪態をついているのではない。俺は泣きながら書いているのだ。

 89年の落陽。1989年に拓郎がショボいドラマの主題歌で、ショボいアレンジの落陽を歌ったことがあった…それでいいのか、それだけでいいのか。そういうことなのかもしれないが、個人的に失意のドン底にいたあの夏を一緒に過ごした落陽をそういうことで簡単にスルーしてしまっていいのだろうか。89年の会報4号は今になってそのあたりを突き付けてくる。 …Aにつづく。
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2023. 8. 23

☆☆☆野球ボールを手に握り観た☆☆☆
 慶応義塾高校が甲子園の決勝進出とな。テレビもそうだが、周囲にいる慶応関係者が大いに盛り上がって騒いでいて面白くない(爆)。ただ、松本隆作詞/松任谷正隆作曲という塾高の応援歌は歌われるのだろうか。それはちょっと聴いてみたい。
 慶応は野球部の監督を「さん」づけで呼ぶという話題が好感をもたれているが、関係者によれば、あそこは教師も教授も「さん」づけで呼ぶ。それは「先生」と呼ばれるのは福沢諭吉ただ一人だけだからだそうだ。
  けっ。そういうものなのか…と思いつつ、この世界で歌手とよべるのは吉田拓郎しかいないと信じている俺も似たようなものか。
 とにかく狂熱の炎天下、みなさんお身体だけは大切になさって、…でもって私からできるだけ遠くで盛り上がってください。

2023. 8. 20

☆☆☆なぜか寂しい夜だから☆☆☆
 すっかり夏バテ気味だ。「君たちはどう生きるか」の2回目鑑賞に行こうと思ったがよして、家でひとりダラダラと小津安二郎の映画「秋刀魚の味」を見てしまう。わが心の笠智衆。この映画には秋刀魚が全く出てこない。映像にもセリフにもモチーフにも1ミリも秋刀魚は関係していない。これって、あれだよ「マークII」にはマークIIはおろか自動車のことなんか全く出てこないのと一緒だ。天才たちはすごい。何が凄いのかわからないけど、たぶんすごい。
 
 ああ、80年武道館のマークIIを聴かせてくれながら、秋刀魚を食べさせてくれる店はないものだろうか>ねぇよ

2023. 8. 17

100分de名著「マガジンT(第3号)」を読む
第四回(終) フォーライフの真実
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1  あなたを呆れる日
 そうでした。「憧れのハワイ航路」は、岡晴夫の歌で、陣山俊一さんがレコードを出しているわけではありません。陣山俊一がセイヤングでエピキュラスの公開放送の余興で歌っている「憧れのハワイ航路」がある。これがどうしても聴きたくなってネットを検索したが見つからない。その流れの中でエピキュラスの公開放送の番組本編はあり、久々にコーナーの「陣山俊一の奥様お手をどうぞ」を聴いた。前回までの陣山さんへの尊敬と追慕の気持が全部ふっ飛びそうなくらい…陣山さん、アンタ最低だよ(笑)。

2 フォーライフの真実
  宇田川さんが執筆する編集後記「Mr.Uの路上観察日記」が面白かった。宇田川氏がフォーライフレコードの新入社員時代に社員の宴会があって、出席はしないけれどあの取締役の4名にカンパを求めに行った話が書かれている。

 小室さん「そうですか。皆で楽しんでください。」と会費8千円をキッチリ下さった。
 吉田さん「へぇ、いいな」と言いながら1万円札を出しツリは要らないとのこと、
 井上さん 何も言わずGパンの尻のポケットからクシャクシャの1万円札の束を出し「ハイ、ツリの2千円。」(この方の名誉のためにケチではなく、きっと5万円と言えば5万円出したのだろう)
 最後に泉谷サマ「バカヤロー、他人にくれる金があったら、唄なんか唄ってねぇー」と怒られて逃げ帰った。


 「フォーライフの真実」とか言っても所詮ネタみたいなものだし、それで人品骨柄を云々するのもなんだ。それでも俺は心の底から叫びたい拓郎ファンで良かったぁ!。あなたのいうとおりフォーライフは、あなたしかいなかった…と思う。さあ友よ、顔をあげて旅を続けよう。

2023. 8. 15

100分de名著「マガジンT(第3号)」を読む
第三回 君がそにいた風景こそが
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1 永遠の大学生
 セイヤングでは[早稲田大学中退の常富]と[早稲田大学を10年かけて卒業した陣山]のいがみあいというお約束みたいなものがあって面白かった。なにかにつけてこの二人が対立する(笑)。ちようど歌丸と小円遊…わからんか…Mr.スポックとDr.マッコイ…もっとわかんねぇよ…C3POとR2D2…アラシ隊員とイデ隊員…みたいな関係だ。ああ、もういいや。
 陣山さんが10年かけて大学を卒業したというのは大袈裟なネタかと思っていたが、このインタビューで真実だったことがわかる。除籍ギリギリの8年まで留年してその間に2年間休学したそうだ。まるでマカロニほうれん荘の土方さんときんどーさんのようだ>知らんがな。
 つまり陣山は1976年3月に大学卒業したことになる。1976年というと「セブンスターショー」で踊らされていた時だ。あの時、まだ陣山さんは28歳にしてギリギリ大学生だったのだ。

2  魂の船出
 インタビューの後半では、希望に満ちたユイの草創期の話から一転、現在(1989年)の音楽状況とそれに対する陣山さんの気持が語られる。

 今までの芸能界みたいなやり方の部分とか、体制みたいな部分にとって代わると確信していたね。それもすごく良い形でね。新しい形でのミュージック、ビジネスが確立するだろうとものすごく希望に燃えていたね。ところがなかなかそうはいかなかったけど。
…我々がうまい形で、それまでの芸能界に利用されちゃったとか
…取り込まれちゃったね。良かったのか、悪かったのかっていうと、僕はもちろん悪かったと思うけど…
 やっぱり歌が歌えない人が歌手として売れてるってこと事態がね、そういうミュージック・ビジネスっていうか、音楽産業楽って世界中にないんじゃないかな。


 切ない。桑田佳祐が「川の流れを変えて自分も呑み込まれ」(吉田拓郎の唄)と歌ったような、時代の変化の哀しみを陣山さんは率直に語ってくれる。そして陣山さんは、ユイ音楽工房を退社し、1987年に独立してZ'sというスタジオ経営を中心とした音楽会社を興す。時代の趨勢に沈まこまず40歳にして新たな旅立ちをする。

 レコードを作る為に必要なすべてのものを、クオリティーの高いものを、自分たちで持っててそれで質の高い音楽を作っていける集団になりたい。
 いいスタジオを設計したり、いい楽器を揃えて、いいマニュピレーター、優秀なプロデューサーを育てる。それからブッキング・マネージャーをきちんと育てる。そういうことをやっていければいいなと思ってる。そのための制作会社だって考えています。


 俺は音楽の専門的なことはわからない。悲しいくらいわからない。それでも、この陣山さんの言葉を今2023年の今日読んで泣けてくる。西も東もわからず吉田拓郎の音楽制作を始めたその日々をいかに大切にしているかが俺にもわかる。草創期の音楽のために捧げた魂をさらにすすめようと陣山さんは船出したのだ。
 不覚にも俺はそのような陣山氏の旅立ちもその後の航海も知りもしなかった。アルバム「ひまわり」は、陣山さんのスタジオで制作された。

3 陣山俊一という旅路
 インターネットで検索した株式会社ジィーズのHPには、陣山さんの簡単な経歴が記載されていた(株式会社ジィーズ Z's inc ホームページより)。

 1973年
 ユイ音楽出版 取締役として入社
 吉田拓郎、南こうせつ、イルカ、長渕剛各氏他多数アーティストの音楽プロデューサー
 1987年
 株式会社ジィーズ、株式会社ジィード設立
 最高の音を目指した制作集団とレコーディングスタジオを設立・経営
 2000年
 株式会社ミュージックエアポート設立
「より多くの音楽との出会いを」実現すべく、音楽配信事業開始
 2001年
 理学博士号取得
 アメリカの大学院にて音の研究、論文が認められ授与される
 2004年
 甲状腺癌発病
 2008年10月30日
 前日まで仕事に取り組み、自宅にて安らかに永眠

 博士号まで取得していたという陣山さんの旅路はどんなものだったのだろうか。社訓には、次のような言葉が捧げられている。

  音楽と共に 情熱と共に そして人と共に
 「一人一人がプロデューサーであれ そして音楽文化に貢献するプロフェッショナルであれ」
  創業者 陣山俊一の言葉を忘れず未来に進んでいきます。

 何の事情もわからない端くれのファンの自分だが、俺も忘れずに進みたい。どこにも行けやしないが。ということで万感の想いと敬意をこめて聴きたい。もちろん2019年のライブ・バージョンだ。歌詞refit版だ。

       あなたを送る日
               作詞・作曲 吉田拓郎
 あの頃わからなかった事が
 胸にしみるようになった
 君は人に笑われながら
 自分をつらぬいていた
 生真面目なんて流行らないと
 誰もが口をそろえたけれど
 気がついたら 今の時代
 君こそキレイに生きていた
 群れを作り 大きな声を上げて
 そうする事で強がっている僕は
 本当の自分さえ知らないで
 流されていただけのこと

 激しく恋に焦がれた時も
 叶わぬことに腹を立てて
 やさしいだけじゃ物足りぬと
 行方も知れない 船の中

 小さな春を見過ごしている 
 馬鹿な自分に気がついた時
 胸に溢れるこの喜びを
 今こそ素直に伝えたい

 流されないで心の思うままに
 君がそにいた風景こそが
 一番大切な事なんだと
 今日から心に刻み込む

 人は何を観てどこへ帰る
 たった一度の旅の中で
 君と知り合えて良かったよ
 今日の別れは辛いけど

 君が示したようには生きられないが
 もう求めすぎる僕もそこにいない

 あの頃わからなかったことが
 今は胸にしみる

 僕はきっとあの日、心の中を忘れ
 過ぎ去った日々を愛しすぎたようだ
 あの頃うわの空の夢が
 今は胸にしみる 
 今は胸が痛い


 陣山俊一さんよ永遠に…と〆ようと思ったが、それもらしくない。俺が一番好きだったのは、79年のエピキュラスの公開放送で陣山俊一が歌ってくれた「憧れのハワイ航路」だ。悲しいときにつらいときにあれをカセットで繰り返し聴いて一緒に歌ったものだ。もうカセットはないけど、それでもあの歌唱は焼き付いている。

   あこがれのハワイ航路 

            石本美由起 作詞 江口夜詩 作曲

 晴れた空 そよぐ風 港出船の ドラの音愉し

 別れテープを 笑顔で切れば 

 望みはてない 遥かな潮路

 ああ あこがれの ハワイ航路

 波の背を バラ色に 染めて真赤な 夕陽が沈む

 一人デッキで ウクレレ弾けば 

 歌もなつかし あのアロハオエ

 ああ あこがれの ハワイ航路

 陣山さん、ありがとうございました。

…ということで次回、100分de名著「マガジンT(第3号)」を読む「第4回 フォーライフの真実」をそのうち。

2023. 8. 14

100分de名著「マガジンT(第3号)」を読む
第二回 若い人
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1  そして歴史が始まる
 大学を留年しながらサークルで音楽活動を続けていた陣山俊一は、昭和47年に同じ大学の後藤由多加から勧誘を受ける。
 
 早稲田の校庭で後藤社長に会って、実は今度こういうかたちでプロダクションをやって 拓郎とかそういうのをやることになったんだけどそれについて原盤制作とかやる音楽出版会社を作るから一緒にやらないかと言われて。
 ユイ音楽工房に入ったというかまだ会社組織になっていなかったんですけど、ちょうど僕が入ったころに僕と奥山が書類を集めたりなんかして会社組織にしたんですよ。

 「早稲田の校庭」…キャンパスじゃないのかってそれはどうでもいい。このあたりの話は何度読んでもワクワクする。後藤由多加も陣山俊一もみんな学生だった。「よしだたくろう」というダイヤモンドの原石を見つけた、彼らの静かな興奮が伝わってくるような気がするのだ。学校の校庭の片隅で、音楽の歴史が大きくうねり出す。歴史はどこからでも始まる。そしていつだって等身大から始まるのだ。

2 歌う敵と歌う真実
 僕がユイに入ったのが昭和47年だったと思うんだけど その頃に並行してCBS/SONYと原盤契約を結ぶ契約をしていた。まぁいいようにだまされていた気がしますね(笑)  今思うと信じられない契約書だったけどね(笑)


 エレックでの扱いがひどかったという話は拓郎からよく聞くけれど、巨大資本のSONYはまた別な意味で手強かったのだな。しかし、彼らは学生ながら原盤契約とか音楽出版社という発想を持っているあたりで、エレック等とは違い、アーティストサイドいやアーティストと一体になった音楽ビジネスに挑もうとしている意思が窺える。
 このインタビューにはないが、学生だった後藤がアポなしで、ナベプロに乗り込んでいって、渡辺晋社長に、これからプロダクションを作るからビジネスのノウハウを教えてくれと挑む話も思い出される。若さの眩しさとともにそこはかとない勇気を感じる。時代を変えるのは常に青春で老いた常識よりはるかに強く…という歌詞が思い浮かぶ。
 同じくインタビュー外の余談だが、巨大資本のSONYを相手にアーティストの権利が確立したのは、もちろん拓郎らに対するファンの大きな支持みならず、久保利英明弁護士のチカラが大きかったのだと思う。彼の功績は金沢事件からの拓郎の奪還だけではなく、音楽界の権利システムの構築にあったものだ。その話はいつかまた。

3 すべてはアーティストのために
 組織・権利というだけではなく、その彼らが尽力した音楽の現場の話がいい。スタジオで音楽を制作する環境をどのように作り上げるのか。陣山らは苦闘する。当時からあったインペグ屋というミュージシャンの斡旋の専門業者や、楽器レンタル屋など楽器調達・配送業者なども知らなかった彼は文字通り手作りで奮闘する。


 スタジオ・ミュージシャンとは自分で電話して集めて、すべてそのギャラは現金払いでなくてはならないと思っていた。いつもお金をたくさん持って、領収書をもって、終わったらお金を払って領収書をもらうことをやっていた。


 原始的かもしれないが、この直接現金払い=取っ払いのおかげで助かったミュージシャンはたくさんいたと思う。若き日の松任谷正隆もそんなようなことを言っていた。この方法は、ミュージシャンの拓郎サイドに対する信頼感を深めたに違いない。

 スタッフとさ一緒に事務所の近くにあった御苑スタジオってところに自分たちで出掛けて行って、B-9というベースアンプ、ツインリバーブっていうギターアンプ、それにフェンダーのローズ、エレキピアノとハモンドオルガン、この4つは必ず車で運んでセッティングしていた、あの頃のディレククターって、インペグ屋と楽器レンタル屋なんかを全部兼ねてたね。


 本当にチカラ作業だったのだな。しかし、音楽環境を作るというところに身を粉にしている様子が伝わってくる。ただ愚直なまでに音楽のために捧げ尽くしている。

4 そして生まれ出ずる名曲たち

 (拓郎が)レコーディングの間際にならないと曲が出来なくてね、今でもそうだけどね(笑) そのうえスタジオで曲をどんどん変えちゃったりとかね。…それはそれで良かったんだと思いますけどね。
 自分たちだけのメンバーでヘッドアレンジ的にみんなでワイワイガヤガヤやっていくみたいなレコーディングって当時はほとんどなかったみたいね。そういう意味ではすごく新しくって変わったやり方をしていね。


 拓郎が「ラジオでナイト」のベストテイクや「オールナイトニッポンゴールド」でよく話していた名曲誕生のエピソードで「ヘッドアレンジ」だけで、ミュージシャンが自由に創意をふるって作品を作り上げていく様子を語っていた。ワイワイガヤガヤの中で、拓郎が熱弁するように松任谷正隆の天才的な発想や石川鷹彦、高中正義、青山徹の珠玉のプレイが生まれたという。そういうレコーディングは当時としては決して当たり前のことではなかったことを知る。確かに「制作コストの管理」という企業視点から考えれば効率的ではない。しかし、制作側はあえて何より音楽を最優先して自由な環境を捧げていたことが窺える。

 拓郎が『旅の宿』をレコード(シングル)にしたいと言い出したもんで、前田仁が「いやそんなのダメだ」って…えらい激論を交わしたことを覚えている。…弾き語りでやっているようなゆったりとしたレコードになるんじゃないかと思ってた。それじゃつまらないよって…
 でも拓郎はその時すでに頭の中に、もっとポップな仕上がりにするってあったと思う
(仕上がりを聴いて)すごいなーさすがだなーって思った記憶がある。

 
 すべて拓郎と音楽に対する深い敬意で動いていたことが陣山さんの静かな言葉の端々からにじみ出ている。かくして名作は誕生する。ここで、吉田拓郎、石川鷹彦、陣山俊一、前田仁などすべての方に心の底から感謝しつつあらためて「旅の宿」シングルバージョンを聴き直してみたくなる。

 すべては吉田拓郎の才能と音楽に対する情熱があってこそだ。しかしその拓郎と音楽を信じて、なんの前例も保証もない海に飛び込んでいった彼らスタッフを忘れちゃならない。何より音楽を第一に考えようとした彼らがいなかったら、僕等は拓郎の歌を味わえなかったかもしれない。
 もっとえげつなく言わせてもらえば、誰も吉田拓郎を騙したり食い物にしようとしなかった。矢沢永吉の自伝「アー・ユー・ハッピー?」を読んでいて苦しくなるのは、矢沢永吉という無垢の天才の側近に集った関係者の中から、彼を騙したり、不誠実な所業や、金銭を掠め取ったりする人間が一人ならず出てきて矢沢を苦しめ痛めつける…そんな歴史のくだりだ。 
 知りもしないでといわれるだろうが、自分が知る限りで、吉田拓郎支えたスタッフたちの素晴らしさと敬意を忘れないでいたい。なんか評論家気取りで書いてしまったけど、まだまだつづく。

 

2023. 8. 13

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100分de名著「マガジンT(第3号)」を読む

第一回 あなたを送る日、あなたに出逢う日

1 とくに何もないのです
 会報3号が発刊されたのは89年の夏。会報1,2号の主眼だった新作「ひまわり」と東京ドームも終わり、何もない穏やかな日々が続いていた。拓郎は次回アルバムの準備に潜航しつつ、NHK「愉快にオンステージ」に出演しTHE ALFEE/BEAT BOYSと共演したりしていた。とらばーゆの「人間なんて」の衝撃的なCMが席巻するのもそろそろオンエアされるころだったかな。
 とりあえず藤井徹貫の拓郎インタビューも拓郎が子どもの頃からの「テレビ」の思い出話や、自分が歌い始めたころテレビの向こうに巨大な芸能界帝国があったという話で、さして新鮮味がなかった(個人の感想です)。
 ただ何かを大仕事を終えて次の新作に向う、リラックスした吉田拓郎の姿が清々しい。大川装一郎氏撮影のイイ感じの写真が並ぶ。このあたりの写真を次作「176.5」に使えばよかったのに…とかねがね思う。あの「176.5」のジャケ写をみるたびに「拓郎さん具合悪いんですか?」と聞きたくなってしまうんだもん(爆)
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2 愛と善意に満ちた日々 〜歌手だったね
 で、今回の目玉は「陣山俊一インタビュー」だ(歴代スタッフインタビュー「陣山俊一氏に聞く」P.32〜)。そう、あのユイ音楽工房のディレクターの陣山さんだ。「セブンスターショー」で拓郎に騙されてヘンテコな衣装で踊っていた陣山さん、「セイヤング」では常富・陣山というお笑いコンビとして、毎週、くだらねーけど大爆笑のコーナーを担当していた陣山さん、ロックウェルスタジオで、石山恵三に「うるせ、バカ」と言われてしまう陣山さん…コメディリリーフとしての姿ばかりが印象に残る。でも私は陣山さんのことはよく知らなかったに等しい。このインタビューでようやく私は陣山さんに出逢うのだ。

 まず陣山さんが昭和22年生まれということすらも知らなかった。拓郎とほぼ同年だったのだな。早稲田大学のフォークソング部で常富嘉男、田口清、内山修と一緒で、そうそう後に東芝のプロデューサーとして加藤和彦やオフコースを手掛けて、ファンハウスの社長となる新田和長も在籍していた。このサークルを母体としたバンド"ザ・リガニーズ"の「海は恋している」がヒットし、これに続けと、陣山俊一がボーカルの"ジ・アマリーズ"を結成し実際にレコードを出していたことも知らなかった。陣山氏は拓郎との出会いを語る。

 拓郎がユイ音楽工房に入る前ですけどね、ニッポン放送のバイタリスフォークビレッジの司会をずっーとしていて、アマチュア団体としてゲストで出演させてもらったのが彼と話した最初かな。

 これが拓郎と陣山さんのなれそめのようだ。これとあわせて私が思い出すのは1982年3月の「ライオンフォークビレッジ」の最終週での拓郎の述懐だ。

 拓郎「陣山俊一っているじゃない。あれがゲストだったんだよ。」

 南こうせつ「ええ〜っ」
 かまやつ「あの人、歌ってたの?」
 拓郎「『にほんごのうたを歌う会』っていって女子大生を何人か引き連れて『会長の陣山です』って来たんだよ。」「で、陣山俊一は音楽の話をしようと思ってきたのに、のっけから俺に『やってますか?』と尋ねられてがっかりして帰った(笑)。でしばらくたってユイに行ったら、事務所にいるじゃない…あれぇーみたいな感じ」

 南こうせつ「やっぱり縁があったんだね」

 確かに「縁」のような出会いである。拓郎が大学生の音楽サークルをどんなふうに観ていたかもよくわかる(爆)。

 ということでとりあえず歌手だった陣山さん。後に拓郎はラジオで「陣山君は声が小さいんです。だから歌手として大成できなかったんです。」と言っていて、ああ、そんなもんか…と思ったものだ。しかし、陣山俊一さんの声は、落ち着いていて優しい。魅力的な声だ。誰よりもそのことをわかっているから拓郎は、後に"陣山俊一とoils"というコーラスグループを作り、拓郎のレコードのバックコーラスとして重用する。拓郎によれば、陣山がコーラスをすると売れるという逆ジンクスまであったらしい。
 
 ということで陣山さんのやさしいコーラスが偲べる一曲として聴きたい。

       「アイランド」(sg「流星」B面所収)

 …一回でサクッと終わらせるつもりが、終わらない。次回につづくよ、どこまでも。

2023. 8. 12

☆☆☆その名も故郷も静かに生きる☆☆☆
 谷山小学校に「夏休み」の歌碑が建立された。子どもたちの心に「吉田拓郎」「夏休み」が未来にわたって刻まれる。尊い。マウイのニュースのショックもあって切に思う。「夏休み」の歌詞が、郷愁とか詩情を超えて、もはや壊れゆく地球の最後の祈りみたいに聴こえる。
 ニュースでは「11日は建立式が行われ、吉田さんの「谷山小学校と姉さんのようにやさしかった先生は僕の中で永遠に生き続けています」というメッセージが紹介されました。」
 なんなら拓郎少年を背負った姉さん先生の銅像も建ててはくれまいか>よしなさい。すまん。↓写真はイメージです…ってあったりめぇだろ。
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 世の中は甲子園大会だ。谷山小と甲子園からダブルで思い出すのは、2005年の四国・九州シリーズのときに、谷山小学校の校庭の土を微量だが持ってきてくれたKくんのことだ。彼も僕らの中で永遠に生き続けています。

2023. 8. 11

☆☆☆生きていなけりゃ☆☆☆
 尋常とは思えない炎天下を歩きながら、スマホでマウイ島のニュースを知った。目眩がした。あのラハイナが、あの大木たちが、海岸沿いのfishが。なんてこったい。ささやかなれど大切な思い出が。心の底からお見舞い申し上げます。申し上げながらもう他人事ではない、このまま世界の終わりが来てもおかしくない気分になる。なんだこりゃ。それでも生きていなけりゃ、生きていかなけりゃ。

2023. 8. 10

☆☆☆穴を掘る人、捨てる人、それまた拾って喜ぶ人☆☆☆
 長崎といえば"さだまさし"だ。そのさだまさしが産経新聞のインタビューで吉田拓郎について語っていた。

 拓郎さんですか? 僕にとっては「最初に穴を掘った」人。その穴には、みっともないものを捨ててもいいんだ、と教えてくれた偉大な人です。( 産経新聞 2023年7月28日)

 穴を掘って、みっともないものを捨てる…とは面白い表現だ。さしづめ俺なんかは捨てたものをありがたがって拾っている奇特な人ってとこか。

 昔、フォークシンガーが多数集まるイベントに拓郎さんを出させようとして、武田鉄矢さんと南こうせつさんと一緒に口説きにいったことがある。「出ないよ」とゴネている拓郎さんに僕はとうとうキレて「穴に汚いもんを捨ててもいい、って言ったのはアンタでしょ。出ないのはおかしいだろう」と詰め寄りました。結局、拓郎さんは出てくれましたけどね。 その後、僕がパーソナリティーを務めるラジオ番組の代打≠ナ拓郎さんが、出てくれたことがあって、冒頭で「さだって、ケンカっ早いな!」だって。そんな拓郎さんが僕は好きです。向こうはそうでもないかもしれないけれど…(苦笑)。

 うーん、さだまさし、気骨がある。俺の長崎の親戚のジジババはみんな"さだまさし"のことが好きだった。いや好きと言うより尊敬に近かった。同じ長崎出身の福山雅治よりも"さださん"の方がカッコイイと絶賛していて、俺はアンタらみんなどうかしているよ、と密かに思ってきたが、わからないでもない。稲佐山の無料コンサートをはじめ、彼がやってみせたこと、やり続けたことは、それだけで人々の胸を打つ。

 そのさだの痛恨のミスは武田鉄矢と南こうせつと一緒に拓郎のところに行ったことだ。この二人を前にした拓郎には確実に変なスイッチがはいる。いじりモード、天邪鬼モードがマックスにふれる。
 武田やこうせつに対する拓郎のイジリや天邪鬼には根本にやはり愛がある。しかし、そんなものは、ユイ、フォーライフ、アルフィー等の関係者と一部の拓バカあたりにしか通用しない。さだの目には、さぞや尊大な、何様だよ、おめーな人と映ったことだろう。
 さだひとりで行くか、一緒に行くなら島村先輩と行けばよかったのではないか(爆)。「そんな拓郎さんが僕は好きです。向こうはそうでもないかもしれないけれど…」、俺には何の権限も資格もないが、拓郎は絶対なさだのことが好きだと思うぞ。きっとウチの親戚のジジババくらい一目も二目も置いていると思う。たぶん。

2023. 8. 9

☆☆☆長崎昼想曲☆☆☆
 今日は長崎の日だが九州は台風がやってくるようだ。どうかお大事になさってください。それしか言えず申し訳ない。

 長崎は母方の実家だから、広島の日のように敬虔な気持ちになれず、どうしてもいろいろ余計なことを思い出す。夏のお盆や法事に親戚が大勢集まると他の親戚縁者の噂話と陰口とともに決まって原爆の話になりそこから喧嘩が始まるのがお約束だった。
 大体が、原爆投下の日にたまたま五島列島に片思いの人を追いかけに行って難を逃れた大叔母と終戦の翌週に引き揚げてきて焼野原の長崎で放射線など知りもせずボランティアを続けその後長いこと原因不明の体調不良に苦しんだ伯父との「原爆手帳」の有無をめぐる嫌味の言い合いから始まる。
 別な親戚が「広島は平日の午前8時、長崎は午前11時、なんで子どもが学校に行きよる時間、みんなが仕事に行きよる時間に原爆落とすとね」と怒ると「日曜日の夜なら良かったとね?」とまた口論が始まる。
 ここじゃ書けないようないろいろな恨みつらみで盛り上がり、それでも最後は「生きててよかったい」という雑だけど、ごもっともな収束で、続きは次回となる。…子どもの頃から、この親戚の法事ライブが嫌でしかたなかった。

 それでも長崎に帰るたび、それぞれの親戚が原爆資料館や永井隆博士の家とかに子どもだった私達をマメに連れて行ってくれた。何かを解説してくれるわけでもなく、ただ自分たちがそこで泣いていただけだった。夏になるとザボンとカワハギの干物と一緒に長崎の学校の原爆の副読本「原子野のこえ」とか原民喜の「夏の花」とかを送ってきてくれた。
 ♪子どもらに俺たちがあたえるものはあるか〜、この歌に近いものが、あの人たちの頭の中にもあったのだろうと今は思う。もうその親戚も殆どいなくなってしまった。てか殆どじゃないゼロだ。

 といろんなこと考えながら歩いていたら、あらら11時に近い。思いついて職場に行く途中にあった「長崎物産館」に飛び込んだら、式典中継が流れていて、11時2分、お店の方たちと一緒に黙とうすることができた。…亡くなった親戚のジジババのおかげか。悪態ついてすみませんでした。心の底からご冥福をお祈りします。
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2023. 8. 7

100分de名著「マガジンT(第2号)」を読む
第四回(終) Thank you Monsieur, see you Cynthia

1 いつも見ていたかまやつさん
 会報(2号)にはムッシュ=かまやつひろしのインタビューが載っている。拓郎のコンサートツアーの大阪公演に観覧に行ったムッシュのスキマ時間に、これまた公式ファンクラブの強みでサクッとインタビューをしている。おなじみのムッシュなのだが、今回はコンサートの振り付けアドバイザーとして参与しているとのことだ。

 このコンサートツアーの衣装はジーンズでもスーツでもなく、まさにグループサウンズ系のきらびやかなもので、おそらくは東京ドーム=映像化を意識していたのかもしれない。メインが鮮やかなブルーのキンキラキンで、アンコールが少しシックなグレー系となる。…ところで竹林厳論先達の「藤正樹」には笑わせていただきました。確かに。あの娘が作った塩むすび。結構好きでした。

 ステージには自信があるが、ステージングは全くわからん、いつも怖い。
                              (会報No.2.p.26)


 拓郎は会報のインタビューにそう答えていた。…そうか怖かったのか。相談を受けたムッシュはその経緯を話している。

 初め「スパイダースみたいに」っていうから「やめてくれ」って言ったの。40男の動きと、あと、かわいさが出ればいいと思った。
 「この曲は息が切れるまで走れ」とか、あと「バックミュージシャンは若いから、あいつらをうんと動かして、自分は仁王立ちになってアイデンティティを出せ」とか
                               (会報No.2.p.9)


 ハイ、ハイ、ハイ。東京ドームの映像を観ると「春だったね」の間奏で、鎌田由美子と広いステージを端までむやみに疾走する貴重なシーンが観られる。おでこで風を切っている。…これはムッシュのアドバイスだったのか。

 結構かわいかった(笑)。でも動いたりするの、下手だねぇ〜(笑)器用じゃないね、不器用。その不器用さがかわいさに結びついたんだけど。あんまりあの人が洒落て動いてくれると困るんだよね。
                                (会報No.2.p.9)

 さすがムッシュ、すべてをわかっていらっしゃる。そのうえでの温かな見守り。「春だったね」のステージ疾走もどこかぎこちないけど、確かにかわいかった。不器用というか、拓郎はステージングにテレと迷いがある。例えば浜田省吾がステージでキレキレでことごとくビシっとポーズをキメているのに対して、拓郎のポーズは悪く言えば「逃げ腰」、よく言えば「恥じらい」がある。
 しかし、そこがいいのだ。ステージに登場した立姿だけで観客を打ちのめしてしまう稀有なお方だ。洒落て動いてくれないところに覗く「含羞」が魅力なのだ。かまやつさんはすべてお見通しだったのだな。
 ああ、こういうインタビューを読むと、ライブが観たい。「今」のライブが観たい。ムッシュのいう「70男の動きと、かわいさ」を体感したいと思えてくる。

2  ひとりぼっちのシンシア
 もうひとつムッシュ関連でいえば、アルバム「ひまわり」収録の「シンシア」の拓郎のひとりセルフカバーだ。当時はなんでこのアルバムで「シンシア」なんだと思ったものだ。経緯としては、その頃、拓郎がシンガポールで篠山紀信と会って一緒に酒を飲んで話していたときに、当然に奥様=シンシアの話にもなったらしい。そういえば東京ドームには篠山紀信、南沙織夫妻もいらしていて…そこから「黒い瞳」に繋がるのかもしれない。…話がそれた。拓郎は篠山紀信と話していて思うのだった。

 「そういやあ『シンシア』って、俺、かまやつさんと歌ってるんだ、やだな」って(笑)、俺の名曲なんだけど、かまやつの声が出てくるのは今となっては嫌だ、と。申し訳ないけど、かまやつさんには。ひとりで全部やりたい。
                        (会報No.1.p.13)

 ずいぶんなことを言う(爆)。しかしこのバージョンはアレンジも原曲と殆ど変わっていないので、確かにそうなのかと思えてしまう。同じ藤本真がインタビュアーだったので「拓郎さんがかまやつさんの声が出てくるが嫌だと言ってました」とチクる。するとムッシュはオトナな雰囲気で切り返す。

 あの時点で気づかなかったあいつが悪い(笑)。俺は気がついていたよ。
                              (会報No.2.p.9)

 (笑)いいぞムッシュ。それにこの「ひとりシンシア」はそんなに成功しているとは思えなかった。とはいっても、あのアルバムの不思議系の曲たちの中を漂うとき、唯一、救命ブイのようにしがみつくと安心できる曲ではあった。 

 「シンシア」は、俺が中学一年生の夏に生まれて初めて買った吉田拓郎のレコードだ。ひと夏、聴きこんで心に刻み込んだ魂のスタンダードだ。確かに拓郎が一人で歌ったらもっとカッコいいかなと思ったこともあった。しかし、実際の「ひとりシンシア」を耳にするとちょっと印象が違った。
 これは武田鉄矢のハナシだ。子どもの頃、ひとつのスイカを家族兄弟で奪い合って食べながら、いつか一人でたらふく食べたいと思い続けた武田は、大人になって単身上京していざ望みどおり一人でまるまるスイカを食べ始めたら、もの凄く寂しくなって涙が止まらなくなった…という話があったが、それにたぶん近い。ムッシュとシンシアは思わぬほど深く一体化していたのだ。

3  さよならムッシュ、さよならシンシア
 それから16年近く時間はかかったが、僕らはつま恋2006で「よしだたくろう&かまやつひろし」の「シンシア」を聴くことができた。ああ、こんな連中で悪かったな。でもこんな連中は最高に幸せだったよ。
 翌年の「Country」でもショット・ガン・チャーリーとしてツアーを伴走してくれて「シンシア」を聞かせてくれた。ホントは「竜飛崎」の予定が二人とも技術的に歌えなかったらしい(爆)。熊本公演の翌日のホテルの朝食会場で、ムッシュとすれ違った。俺はその一瞬に永遠の思いをこめて「かまやつさん、ありがとうございました、おつかれさま」と叫んだらムッシュは「ハーイ」と手を振ってくれた。これが永遠の思い出になってしまった。

 ずっと生きている人だと思っていたムッシュは2017年に卒然と亡くなられた。翌2018年のベストアルバム「FromT」には、ちゃんと「シンシア」の原曲が収録されていた。

 そして今年2023年、かまやつさんの七回忌公演に行った。森山直太朗が、ひとりでシンシアを歌っていた。これぞ「シンシア(独唱)」だ。やっぱり名曲だよな…と感じ入りながら、同時に拓郎がリタイアしムッシュも天に召されてしまって再現不能となった「今」をあらためて思い知った。
 直太朗の「シンシア(独唱)」を聴きながら、同時に頭の中では、別の歌が鳴っていた。

  さくら さくら 今、咲き誇る
  刹那に散りゆく運命と知って
  さらば友よ 旅立ちの刻 変わらないその想いを 今
  泣くな友よ 今惜別の時 飾らないあの笑顔で さあ

 まるで独唱が二重唱を送っているようだ。Thank you for かまやつさん、ありがとう「シンシア(二重唱)」。永遠にさんざめく光を浴びて さらば友よ またこの場所で会おう。

…こりゃ100分de名著じゃなくて、ただの感想文だな。すまんな。

2023. 8. 6

☆☆☆いつも見ていた さらにいくつもの ヒロシマ☆☆☆
 ロケ地MAPを観ながら広島の町を歩いた夏。映画の冒頭で描かれているにぎやかな街並みと同じ場所に現実に残されている呉服屋さんの地下遺構。ずいぶん時間が経ったが、今日は、すずさんの拡張版を観ようと言ってくるということは、心には残ってくれているのだな。子どもらに俺達が与えるものはあるか。すべては俺を含めた大人の責任だ。
 ご冥福をお祈りします。そして祈りがつづきますように。

2023. 8. 5

100分de名著「マガジンT(第2号)」を読む
第三回 ひまわり畑を超えてゆけ

1 吉田拓郎 3.12インタビュー
 アルバム「ひまわり」の発売直後、東京ドームの公演もあと3日と迫る時期で、コンサートツアーの移動中の新幹線でのインタビューだ。こういうスキマ時間にサクッとインタビューが出来てしまうというのは公式ファンクラブの強みか。
 短くてサラリと読んでしまっていたが、実にいいインタビューだ。そこでは「ひまわり」という楽曲をこんな風に語っている。

 (アルバム「ひまわり」には)「約束」とかいろんな曲があってね、でもこいつらって結局「ひまわり」という曲が無いと存在しないんじゃないかという気になる。
 …「ひまわり」が全てを支配してて、それが唄えるということは他の曲は何でも唄えるという自信とかにつながっててね。

 「ひまわり」という一曲が、また新しい曲を生み支え、さらに他の曲をも呼び寄せ、吉田拓郎にとってかくも大事な原動力になっていたことがうかがえる。この曲自体は、個人的には特別に好きでもないし、かといって嫌いというわけでもない。…たぶん俺だけではなく、概ね凡作の代名詞のように扱われることも多い「ひまわり」だが、この歌がSATETOから始まるストーリーをチカラ強く牽引していたことがわかる。好き嫌いというだけではなく「ひまわり」という楽曲のひとつの真価はそこにもある。

 (ひまわりは)唄ってて気持ちいいもん。とにかく「どうだ」って感じだもん。俺、唄ってて、これは気持ちいいもんだよ、そういう曲ってなかなかないもん。

 ということで俺もあらためてカラオケに行って歌ってみた。聴いていて難曲だが、歌ってみてもさらに難曲だ。歌えねぇよ。
     ゆうべのたわいなく わけもない
     いらだちが胸を突き 身体をねじらせる
 この早口言葉のような譜割りをつっかえずに、情感をこめて歌えればさぞや気持ちがいいだろう。
     ふり切った愛を 語りながら
     記憶のありかを 確かめている
     そこに 天使なんか いるはずがない
 今の環境に浸ったまま過去に生きて、動こうともしない死屍累々の人々に向って「どうだ」と言い放つような痛快さ。
 そしてこの「ひまわり」の牽引は、次回作への確信へと結ばれている。だからこそ短いけれど希望の光り射すようなインタビューになっている。

 ・次のアルバムも あれが出来れば出来ちゃう
 ・次のアルバムというのも どんな方向に向かっていくのかは分からないけど、いい曲はできると思う。
 ・5月くらいから、やろうかという方向に向かっているの
(曲は出来ているのですか?というか質問に)全然。でもほら、今上昇志向だからさ、すぐ出来るって。

 吉田拓郎にあふれる自信が漲っている。もちろんこの時はわからなかったが、この後に吉田拓郎はいよいよ名盤「176.5」を完成させる。なのでこの確信は本物だ。
 つま恋後の3年間の不在から、SATETOでスタートした拓郎。手応えのなさに彷徨いながらも、コンピューターによりてコンピューターの上に音楽を作り上げるべく「マッチベター」と「ひまわり」を完成させる。ぶっちゃけこの二作は壮大な実験作だったのではないかと思う。すまん。名盤「176.5」に至るための大いなるホップ、ステップみたいなもの。
 とにかくこのインタビューからは「見えた!」という拓郎の声が聴こえるかのようだ。このアルバムのひまわり畑の向こうに広がった青い空が見えたのではないだろうか。吉田拓郎の「上昇志向」と言う言葉の意味がなんとなくみえてくる。
 
2 カオスと上昇志向
 ここで、あらためてカオスの東京ドームである。カオスの主因は、東京ドームを例えば静岡市民文化会館などの会館のひとつとして使ってしまうこと、しかもそこで定番の人気期待曲をほぼ外してニューアルバムまるごと歌ってしまうところにある。
 例えば「ああ青春」あたりで幕開けして「落陽」「アジアの片隅で」でドームが揺れるような狂熱のドーム公演にもできたはずだ。実際、この翌年1990年の2月にローリングストーンズがこの東京ドームで初来日公演を打つ。"サティスファクション"など往年の名曲が中心にならぶセットリスト。大興奮した亀淵昭信元ニッポン放送社長がポツリとつぶやいたという「なぜ拓郎もこれをやらなかったんでしょうね」の一言が忘れられない。それと同じだ。
 反対にそれをしないということは、たぶんアーティストにとっては、不安で怖いことでもあったはずだ。しかし拓郎はそうはしなかった。その理由を語っている。

 今ステージでも『ひまわり』の中の曲は全部やっているわけじゃない。そんなことはまず無かったの。全曲やっぱり歌いたいという気分にさせているのは何かというとやっぱり「ひまわり」という曲なんだよ。

 利害打算ではなく、保険を掛けるのでもなく、自分の直観と心の向かうところに従ったのだと思う。カオスのドームで、しかし吉田拓郎は勇敢で、俺は臆病者だったのだ。
   こだわりだけは 残したままの
   抜けがらになれそうで 幸福だね
そんな「ひまわり」の歌詞が俺に対して向けられていたかのようで痛い。

3 上昇志向という名のもとに
  東京ドームの公演の特集を組んだ田家秀樹のFMラジオ番組で、アシスタントの女性が「拓郎さんが『上昇志向』なんて言葉を使うのにびっくりした」と言っていた。同感。このころには「天才に向上心はいらない」という拓郎の名言もある。「向上心」と「上昇志向」は違うのか。勝手な決めつけだが、拓郎のいう向上心とはつらいものを努力と頑張りで乗り越える克己心のようものをいう。また上昇志向とは、心がふるえる大きな流れがあったらそこに身体ごと飛び込んで全身を任せてゆくようなものではないかと思う。
 そういう意味で、ドームの拓郎は勇敢だったけれど、こうしなきゃならないという計算や努力と無縁で、思い切って信じるものに全身をまかせた、そういうものだと今は感じる。
 観る方も上昇志向の中に飛び込んでみないとわからないものだ。カオスに心揺れているような俺ごときにゃあわからんものだったと思う。
 ともかく「ひまわり」によりて「ひまわり畑」の向こうの青い空に僕らの旅はつづくことになる。

 次回は「マガジンT(第2号)」「Thank you for かまやつ」をお送りします。

 

2023. 8. 4

☆☆☆暑い☆☆☆
 尋常ではない暑さ。皆様ご無事でしょうか。さすがに外回りで死にそうだ。事件は現場で起きてるので現場に行かにゃあならない。
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久々にカラオケにいったらあった。やった。
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嬉しくて3回歌う。♪人生キャラバン〜の後の歌詞にはない"ウオウオウオウオ〜"を歌う自分に酔う
(爆)
 あとは「ひまわり」〜「雨の中で歌った」のメドレー。手強い。"苛立ちが胸を突きカラダをねじらせる".ほとんど早口のリハビリの世界だ。これをある種のゆとりと重みをもって与える吉田拓郎は凄い。「雨の中」は息継ぎがわからない。

2023. 8. 2

☆☆☆8月2日の太陽は拓郎に惚れていたので☆☆☆
 つま恋75行けなかったに行けなかった俺は、にーさん、ねーさんのあの日の数々の武勇伝を聴きながら、しみじみと思いを馳せるのが好きだ。♪あの日の武勇伝が五万本、サバ言うなコノヤロー、ってサバ言ってねぇっす。真実っす。

 あの日俺は中学生でt君らと裏磐梯のキャンプに行っていた。深夜のラジオで興奮したアナウンサーが「いま静岡県で大変なことが起きてます」ってアナウンスいた様子が耳に残っている。はるか遠い国に胸を躍らせた。行った経験には及ばずとも…

 行った旅行も思い出になるけど、行かなかった旅行も思い出になるじゃないですか
               (ドラマ「カルテット」…満島ひかり)

 つま恋よ、永遠なれ。
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2023. 8. 1

☆☆☆カミナリ☆☆☆
 仕事場の付近はものすごいカミナリだ。久々だな、こんなに豪快なヤツは。87年の南さんの海の中道のゲスト公演は観られなかった。しかしその後FMでの放送で一部を聴くことができた。カミナリの効果音のあとでたぶん拓郎の生ギターのソロが流れて「冷たい雨が降っている」が始まる。このカミナリの残響をぬうように流れるギターがなんとも素敵で繰り返し聴いたものだ。だからカミナリを聴くともう条件反射である。「冷たい雨が降っている」…さあ聴こうではないか。

2023. 7. 30

☆☆☆そこにも天使なんかいるはずがない☆☆☆
 <100分de名著 番外>

 T'sの座談会で酷評されていた雑誌ダカーポのアルバム「ひまわり」のレコード評がひっかかる心の狭い私だ。

「 …メッセージ・ソングにおいての言葉は全くといっていいほど時代の洗礼を受けていないし変容もしていない。マスターピースであるボブ・ディランはともあれ、歌詞のみを目で読んだときのメッセージ・ソングの現状は悲惨である。時が完全に止まっているのだ。」(ダカーポ 1989年2月15日号 より)

 しみじみとムカつくじゃないか。ボブ・ディランという権威の威を借りて、あとはみんなディランの劣化コピーだという態度が噴飯ものである。新人の歌手に対して「バカ野郎、フォークだか何だかしらないが、岡林だってちゃんとやってんだぞ」と罵倒したのと同じだ。
 ということで、あらためて「ひまわり」をじっくりと聴き返してみよう。

  ひまわり 
           作詞 吉田拓郎
これで いっそついでの事に
雨のひとつも 降ってくれるなら
ふさいだ気分のままで いられるさ
誰かと よろしくやっても いいんだから

ゆうべのたわいなく わけもない
いらだちが胸を突き 身体をねじらせる

こんな 意気地なしの 男達が
追いかけている あてどない長い夢
使い古し 赤くさびた言葉で
まだ時を器用に あやつれるつもりさ

女になればいい
愛されるのを 待てばいい
女になればいい
愛されるのを 待てばいい

まるで 少女の長い髪と たわむれる
毒のない花には なれるだろう
道化師は いつも涙を隠したままで
人生を おどけて演じ続ける

ふり切った愛を語りながら
記憶のありかを確かめている

そこに 天使なんか いるはずがない
現在を殺せば うそも一つ増える
目をつむるのは 聴きたくないからさ
真実の刀が こちらを 向いている

女になればいい
愛されるまで 待てばいい
女になればいい
愛されるまで 待てばいい

逃げもしないし 追いかける事もない
とどまる勇気など ましてあるわけがない
ただ偶然のような 外の景色と
降りそうな 雨のせいで そこに居るだけ

こだわりだけは 残したままの
抜けがらになれそうで 幸福だね

こんな 意気地なしの 男達が
追いかける あてどない長い夢
使い古し 赤くさびた言葉で
まだ 時を器用に あやつれるつもりさ

女になればいい
愛されるのを 待てばいい
女になればいい
愛されるのを 待てばいい

女になればいい
愛されるまで 待てばいい
女になればいい
愛されるまで 待てばいい


 ダカーポのライターは本当にこの詞を読んで、この歌と音楽を聴いたのだろうか。
 使い古し 赤くさびた言葉で
 まだ 時を器用に あやつれるつもりさ

 これはダカーポ、あんたのレコード評みたいなことじゃないのか? ディランをマスターピースとされる筋合いはないぞ。…おい、もう四半世紀昔のことだろ(爆)もう恨むまい、もう恨むのはよそう。

 そういうムカつきを離れて、あらためて聴き直す「ひまわり」…いいじゃないか。いろいろ思うところはあってもいい。それにアウトロもこってりとして素敵だ。http://tylife.jp/uramado/himawari.html
 つづきは、そのうち第三回「ひまわり畑を超えてゆけ」で。
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2023. 7. 29

100分de名著「マガジンT(第2号)」を読む
第二回 失われゆく媒体

1 「ひまわり」を眺める人々を眺める人々を眺める
 宇田川社長、こすぎじゅんいち、フォーライフの関係者、フリーライター、T'sの編集の方たちという親拓派メンバーが集まって、いろんな雑誌に載ったアルバム「ひまわり」のレコード評を品評するという座談会記事が面白い。

 個人的には中学生の頃から、拓郎のアルバムがリリースされるたびに、いろんな音楽雑誌のレコード評を書店で立ち読みしまくるのが俺の恒例行事だった。嬉しくて雑誌に頬ずりしたくなったり、逆に床に叩きつけたくなったり、どちらも犯罪ですが…とにかく書店の店頭はパラダイスだった。
 しかし時の経過と共に吉田拓郎のレコード評の扱いスペースが小さくなり、新作にもかかわらずスルーされることも多くなってきた。アルバム「ひまわり」はそんな頃のことだ。狭い字数制限の記事の中で次のようなレコード評が掲げられていた。

  [ダカーポ] 文芸作品と比べてディラン以外のミュージシャンの詞はみんな時代遅れ
  [オリコン]  好きな人には一生モノの作品、吉田拓郎を失ってはならない
  [AVハウス]  キング・オブ・フォーク「シンシア」のニューアレンジ 
  [CDでーた]  素朴で粗野で温かい余韻
  [月刊歌謡曲]  昔はフォーク小僧で拓郎が大好きでした
  [FMステーション] 気負いのない自然体、身体の中からポカポカと温まってゆく

 座談会ではこれらのレコード評に対して、ていねいにツッコミと議論が重ねられている。ダカーポはもはやレコード評たりえないと皆の怒りを買い、オリコン・ウィークリーの暑すぎる共感にほほえみ、AVハウスは「シンシア」しか取り上げないところ、吉田拓郎=キング・オブ・フォークというとらわれに対して宇田川社長が違和感を示す。なお宇田川社長は、みうらじゅんは昔話が長すぎるとまで言っておるぞ(爆)。
 フォークの過去の伝説に拘泥し、吉田拓郎の今の音楽を聴こうとしていない多くのレコード評に対して全員がやるせない思いを抱いている。

 なお座談会や記事では論じられてない、俺の勝手な意見だが、アルバム「ひまわり」は温かな余韻があったり、心がポカポカしたりするような作品ではない。体温は低めで、しかも難解で、なんだこりゃぁというのが当時の多くの印象だったのではないか。たとえば「このアルバムなんかショボくね?」という声も欲しかった。

 総じてこれらのレコード評を前にした親拓系の座談会には、どこか寂しい、切ない風が吹いていた。それには二つの原因があるように思う。

2  悲しみの原因@ 変質するレコード評論というフォーラム
 座談会のライターが、音楽雑誌でとある他のアーティストのレコード評で批判的なことを書いたら、スポンサーが広告を取下げ、記事が掲載されなくなってしまったと告白する。これは今にも通ずる忖度と圧力の根深い問題であり、息苦しさをひしひしと感じる。
 そうに考えると昔の音楽雑誌のレコード評は、辛辣なものも含めて多種多様だった気がする。昔は良かった…ではなくて、例えば俺が覚えているのは「ローリング30」の発売時、雑誌では「『ローリング30』は明らかにつまらない曲もあるので一枚に取捨選択して欲しかった」、「ミュージシャンが多すぎてサウンドが厚くなり、それが裏目に出ている」とか厳しく批評してあって大いにムカついたものだ。しかしそれも含めて音楽雑誌には思想の自由市場としての活況があった。
 悪口・批評は書けないという忖度の下で評論はどんどん広報に近くなってくる。いや俺が偉そうにいえることか。こんな場末のサイトですら、ヘタレてしまうこともある。そもそも表現というのはかくも脆弱なものであり、たちまち萎縮してゆくものだ…だからこそ「表現の自由」は死守されなくてはならないのだ…って話がそれた。

3  悲しみの原因A  忘れられてゆく人を忘れられない人
 「吉田拓郎」という存在が過去のものになってゆく…その大いなる流れの中にあった。世間も媒体も、みんなもう吉田拓郎に感心はもっていない。85年のつま恋を
区切りに「もう吉田拓郎はいないってことでいいんすよね?」という声なき声が聞こえてくるようだ。だから吉田拓郎を書いていても殆どの評論に脈打つものがない。魂のかけらもない。たぶんこの座談会では、みんなこれらの記事を読んで消えゆく吉田拓郎の哀しさを感じ取っていたに違いない。
 
  死んだ女より もっと哀れなのは 忘れられた女です
          LE CALMANT Marie Laurencin
  …これは「忘れられた男」も等しく同じことだ。

4 フランス人になりたい
 この座談会では、それでは、これからはどんな雑誌媒体が吉田拓郎にとって必要なのだろうかと宣伝会議みたいな話になる。
 宇田川社長がズバリ「マリクレール」だと宣言する。そうきたか。吉田拓郎の音楽だけははなく、着ているもの、身につけているものまでをトータルに評価する、そんな雑誌が好ましい。SATETO以降の拓郎がブランドなスーツを着ていたり、この会報がやたらおしゃれだったりするのは、宇田川社長の「マリクレール」戦略だと思われる。もしかしたら拓郎が「アラン・ドロン」でいきたいと言い張ったのかもしれない(爆)
 「マリクレール」かぁ〜。パリは燃えているか。翼よ、あれがパリの灯だ。

5 そして
 新聞は日々のことに流されて、君の名は片隅へと消えるけど、この会報には、世間の雑誌媒体がだめなら俺たちでやってやろうじゃないか…という気骨を感じる。だから会報の記事はかなり充実している。いろいろあっても、がんばれT'sと今も言いたい。

 ということで当時「忘れられてゆく男」を観ているのは切なく哀しかったが、この7-8年後、その吉田拓郎が、マリクレールどころか「ポップティーン」や「セブンティーン」にまで登場することになるとは誰が予想できただろうか。冬のリビエラ、人生ってやつは思い通りにならないもんだね。いみふ。だから面白い。

 次回、100分de名著「マガジンT(第2号)」「第三回 ひまわり畑を超えてゆけ」でお会いしましょう。



  
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2023. 7. 28

☆☆☆僕達もそうやって生きてきた☆☆☆
 映画「君たちはどう生きるか」は正直わかんないことだらけだった。ネットで読んだプロ・アマを問わぬ人々の評論の深さにおそれいった。やっぱり私はダメな人だと考えながら、それでも観て良かったと思うし、わからないなりに好きな映画だ。あれこれ読んでいたこの映画評論の中で、宮崎駿のこんな言葉を見つけた。

「ある種の気分、かすかな情景の断片、なんであれ、それは君が心ひかれるもの、君が描きたいものでなくてはならない。他人が面白がりそうなものではなく、自分自身がみたいものでなくてはならない」
(宮崎駿「発想からフィルムまで(1)」『月刊絵本別冊アニメーション』1979年7月号より)

 この言葉を読んで、ああココだと思った。昔から大好きだったあの一節。

「…まず肝心なことは、いつでも自分が本当に感じたことや、真実心を動かされたことから出発して、その意味を考えてゆくことだと思う。君が何かしみじみと感じたり、心の底から思ったりしたことを、少しもゴマ化してはいけない。…ある時、ある所で、君がある感動を受けたという、繰りかえすことのない、ただ一度の経験の中に、その時だけにとどまらない意味のあることがわかって来る。それが、本当の君の思想というものだ。これは、むずかしい言葉でいいかえると、常に自分の体験から出発して正直に考えてゆけ、ということなんだが、このことは、コペル君!本当に大切なことなんだよ。ここにゴマ化しがあったら、どんなに偉そうなことを考えたり、言ったりしても、みんな嘘になってしまうんだ。」(吉野源三郎「君たちはどう生きるか」岩波文庫P53〜54)

 宮崎駿はこの一節をきちんと胸に抱いている。なんか宮崎駿と友達になれたような気がした(爆)。そりゃ大きな勘違いだろうが。俺が何かというと「心の底から」と言うのは、このコペル君のおじさんの影響なのだと自分で気づいた。

 それはいいとしてこの一節は、吉田拓郎のスピリットともしっかり通底していると思わないかい?。違うかもしれないけれど俺はそう思う。そこからしか、ものは始まらないとこの文章は言っている。この一節を読んでいるだけで、あれこれと拓郎のいろんな歌が頭の中を交錯し収拾がつかなくなるくらいだ。
 
 そして薄っぺらついでの俺の感想なんだけど、映画「君たちはどう生きるか」を観て、ああこれはアルバム「ah-面白かった」だと心の底から思った。これらはお互いに、宮崎駿の「ah-面白かった」であり、吉田拓郎の「君たちはどう生きるか」だ…と思った。それは…なんかこれ以上書くと怒られそうだから、そのうちどこかでひっそりとこそこそやろう。
 
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2023. 7. 25

☆☆☆打ち上げ花火、上から観るか下から観るか☆☆☆
 燕市の花火。HPで拝見しただけだが、花火にもそのメッセージにもさらに先達サイトの名を冠したところにも感激した。ハラショ!!
 「しょぼい」というが、そうは思わない。メッセージの思いが、カタチになって空に打ちあがったことに比べればなんてことはない。それに長年拓郎ファンをやっていて、見事に空いっぱいに広がった豪勢な花火を何度か観たが、こういう花火も何度も何度も観せられたじゃないか。すまん。それだって吉田拓郎だ。
 なんか元気出たよ。ありがとうございました。来年、そうですか。
 

2023. 7. 23

☆☆☆おはようおやすみ日曜日☆☆☆
 本日は燕市の花火大会だ。天候が問題なさそうで良かった。今日は"吉田町の唄"を聴きこみながら、遠くから打ち上げをお祈りしております。
 懸案の映画を観た。ネタバレは禁止なのかな、よくわからんが。とりあえずテーマ曲にも挿入曲にも「僕達はそうやって生きてきた」は使われていなかったです>あったりめぇだろ
…観てよかったと思う。もう一度観たい。爺ちゃん割引が背中を押してくれる。
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2023. 7. 22

100分de名著「マガジンT(第2号)」を読む
第一回 一枚の写真とともに上昇せよ
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1 東京ドームというカオス
 今となっては自分が体験できたライブはどれも美しい思い出だ。わが谷は緑なりき。しかし、東京ドームはちょっとだけ違う。わがドームはカオスなりき。あらためて「カオス」の意味を調べたら「『混沌』、無秩序で、さまざまな要素が入り乱れ、一貫性が見出せない、ごちゃごちゃした状況」とあった。ぴったしである。

 まず、これだけ巨大でイベントフルな会場なのに、つま恋、篠島、武道館のときのように拓郎側からの心構えも気概も情報すらも事前に殆ど伝わってこなかった。どんな心持で行けばいいのか見当がつかない。どうしても場所柄からイベントを期待してしまう。「人間なんて」とか「アジアの片隅で」の心積もりもしとこうかとついついスケベ心が出る。
 実際には、アルバム「ひまわり」の全曲を含めた新曲中心のツアーのセットリストそのままで、もはやドームをひとつの県民会館として扱うものだった。今にして思えば拓郎の勇敢な気骨に感心するが、この特別な場所で特別な夜になることを全力で期待していたのは俺だけではなかったはずだ。
 しかもアルバム「ひまわり」の全曲をこんなに大勢の一般老若男女の前で歌っちゃうことの不安もあった。このアルバムが悪いというのではない。しかし例えば「今はまだ人生を語らず」の全曲を歌うというライブならば俺はあまねく全国民に見てほしいと思う。だが、この「ひまわり」は、わざわざ知らない人には聴いてもらわなくてもいいんでねぇのと思えた。…それ悪いってことじゃん。んーそうかもしれない(爆)。「最後まで新しい歌でやります」という拓郎のMCに俺の席付近からは失望のどよめきというか悲鳴が起こったのが耳から離れない。
 そういう意味では拓郎の孤高なまでの覚悟と観客の深い情念は例によって壮大にすれ違っていた。
 しかも拓郎が開口一番言ったとおり、音がワンワンワンワンと回ってさすがに音に無頓着な俺でも聴きづらいったらありゃしなかった。俺が辛いんだから拓郎本人の苦痛はいかばかりか。そのうえスタンド席2階は客さえまばらなのも気勢をくじかれるようで切なかった。43000人はいなかったと思うぞ。
 そして何より住友生命の招待チケットで来ていた多くの一般人=拓郎に興味ゼロ=完成間もない東京ドームの見学にきただけの連中の醸し出す雑念たるや凄かった。早く帰ろうよとぐずる隣席のどこかのお子さまたち、演奏中なのに切れ目なく通路を無神経にぞろぞろ歩く人々の列。そのうえ途中で堂々と帰り始める人の群れ。俺は、そのまま○○に行くがいいと呪った。すまん。とにかく雑念と怨念が空中でバトルしあいながら充満していた。…そうですか先輩はビール臭にも我慢なりませんでしたか。大変でしたね。
…『混沌』、無秩序で、さまざまな要素が入り乱れ、一貫性が見出せない、ごちゃごちゃしたという状況がぴったしのカオス状態だったのだ。

2 表紙の一撃
 スポーツ新聞等では「拓郎ドーム、熱唱、熱狂」いう無難な記事ばかりだったが、俺の心はかなり荒んでいた。ライブへの不満というよりも、このカオスの中で俺は味わうべきもの味わえなかったのではないかという悔恨というか自己嫌悪のようなものに近かった。
 このカオスに満ちたドームをファンクラブの会報はどう報じるのだろうか。もちろん期待などしていなかった。そんな君の会報第2号が着く。
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 この表紙の写真だ。俺は個人的にこの写真に打ちのめされた。会報には石原信一先生が特別寄稿された東京ドーム公演のレポート「Distance(距離)」が掲載されているが、すまんが、それよりもこの写真が圧倒的だ。但し、これまで何人かの身近な拓バカにこの写真を見せたけど「え、この写真がどうかしたの?」というクールな反応ばかりだった。なのでそこに主観と客観の違いがあることはわかっている。ここからはあくまで俺の思い込みに限っての話だ。

 本番前のゲネプロか音響や照明チェックをしているところだと思われる。苛立ちを含んだような真剣な眼差し、ロダンの考える人より深い沈思黙考、全身に漂う剃刀のような孤独感、声をかけるのは憚られるような強烈なオーラが伝わってくる。これって映画「ゴッドファーザーPARTU」のラストシーンで深い闇の一線を超えたマイケルが独り腰かけて、ありし日の家族の食卓を思い浮かべる鬼気迫る孤独を彷彿とさせる。拓郎の場合には、鬼気迫ると同時に透明な何かを感じる。あのカオスの泥沼から抽出された結晶体のようだと思った。この写真でいい、これがいい、これだけでいい。ということで、当時はこの表紙だけを眺めながら日々は過ぎてゆき、今日も暮れてゆくのだった。

3 表紙から始まった感慨
 時間の経過につれて「チェック・イン・ブルース」というOPの凄さ「夕陽は逃げ足が速いんだの」の重量感、「望みを捨てろ」「その人は坂を降りて」「Woo Baby」「七つの夜と七つの酒」「帰路」…カオスの中でもうずうずしたあの日の演奏曲たちをもう一度聴き直したいと思うようになった。「ロンリーストリートキャフェ」の弾き語りはドームを瞬間的に制圧するほどの凄いものだったが、あれは学校の先生が騒がしい教室で急に大声で怒って一斉にシンとするみたいなもので、このライブの真骨頂はそこにはないと俺は思う。それも含めてあのステージを是非、県民会館クラスのホールで体験しておくべきだったな〜と悔いた。当時の経済状況じゃ無理だったけどな。とにかく音楽的にしっかり聴き込んでみたかった。
4 くもの糸
 このときに「上昇志向」と拓郎はMCで言った。「天才に向上心はいらない」と言った拓郎が口にする「上昇志向」。向上心と上昇志向の違いも今はなんとなくわかる。
 「僕は上昇志向でいます。諸君も上昇志向でいてください。そうすればまたいつか会えると思います。それまで幸せに。」…このMCを思い出すほどにグッときた。カオス状態のドームの天井から垂らされた一本の蜘蛛の糸が思い浮かんだ。拓郎は独りでそれを悠然と昇ってゆく。昇りたいヤツはさぁ昇ってこい、昇れたらまたそこで会いましょう。ということで俺も後に続いてチカラの限りその糸を昇ってゆく。カオスの沼から抜け出すように。ああ神よ「打ち水を通過する」と言うのはなかなかハードなものなのですね。…昇るとまた次の沼だったりするのだが、まぁいろいろあってもそれはそれ。
 ということで第2号は表紙だけで十分だ。…というのもゴーマンか。すまん。中味もちゃんと読もう。

 次回「100分de名著:会報第二号」は第二回「ひまわりを眺める人を眺める人を眺める」…をお送りします。

2023. 7. 18

100分de名著「マガジンT(創刊号)」を読む
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第三回 残された悔しさの中で僕らは生き続けひとりぼっちだ
1 昔の会報が語るもの
 ファンクラブの会報に限らず、昔の文章を読む場合、読み手はその後の歴史で起こる事実を既に知ってしまっている。知っているからこそ、あらためて当時は凄いことだったなと感心することもあるし、また思わぬ悲しみを感じることもある。

 創刊号「TAKURO LONG INTERVIEW」のインタビュアーは藤本真氏によるものだが、このインタビューの最後に、こすぎじゅんいちの「インタビュー観察日記」という小さな文章が付されている。「こすぎじゅんいち」…俺のような一般Pにはご素性は詳しくは存ぜぬとも雑誌媒体でさんざんお世話になったお名前だ。拓郎ファンにとって「こすぎじゅんいち」と「田家秀樹」は助さん、格さんみたいなものだ。拓郎と同年齢の田家氏の文章からは同志的な共感が溢れ、年下のこすぎ氏からは「兄貴ぃ〜」的な憧れが透けている。
 この会報のコラムの中で、こすぎ氏の「あと二年も経って僕も今の彼と同じ歳になったら…」というくだりに目がとまり固まった。こすぎ氏は、このおよそ二年後に44歳の若さで卒然と亡くなってしまうのだ。当時も驚いた。T'sでも訃報が回ったし、さだまさしは、「聖域(サンクチュアリ) 〜こすぎじゅんいちに捧ぐ〜」という唄を書いた。
 こすぎ氏のエッセイで、氏が深夜に酔って歩いて帰る途中に、拓郎が車を止めて「おい遠慮しないで乗ってけよ」と声をかけてくれた喜びを静かにかみしめる話がとても好きだった。ああ、少し泣きたくなる。

 この会報の編集長として、また宇田川オフィスの社長として陣頭指揮をとっていた宇田川幸信氏も、もう天国に召されている。毎回の編集後記「Mr.Uの路上観察日記」も楽しみだった。

 あと思い出したよ。この会報の記事には出てこないが、このアルバム「ひまわり」は、あの陣山俊一氏の経営していたスタジオを借りて作られていたとオールナイトニッポンゴールドで拓郎は述懐していた。そうだった。「あなたを送る日」と「ひまわり」が静かにつながる。

 そして創刊号には、ブレイクする前の「ナンシー関」が小さなコラムを書いている。無名時代にせよ、あの寸鉄人を刺す筆致は既に顕在だ。ナンシー関を見出したのは、あの「えのきどいちろう」だ。だからかナンシーの文章には拓郎のことも「拓郎ファンの知り合い」の話も時々出てくる。

2 僕らは生き続けひとりぼっちだ
 あれこれ会報を読みながら、ああ、みんなみんな天国に逝ってしまったんだなぁと切なくなる。みんなみんな吉田拓郎よりも年下だぜ。拓郎ご本人はどんなお気持ちだろうかと勝手ながらに思う。大きなお世話だよな。
 1978年の11月、吉田拓郎がゲスト出演した小室等の23区コンサートの目黒区公演で小室等は「おまえが死んだあとで」(作詞:谷川俊太郎)という新曲を披露した。♪おまえが死んだあとで青空はいっそう青くなり〜で始まる追悼歌は、最後に
  ♪残された悔しさの中で、僕等は生き続け〜ひとりぼっちだ〜

 〜という絶唱でしめくくられる。このときからこのフレーズがずっと頭から離れない。慕っていた人の訃報の度にこのフレーズが脳内をめぐる。ということで昔の会報を読むのはそういうところが辛いな。

3 そして「ひまわり」ってなんなんだよ
 そういうことを考えていると思い致すのは「ひまわり」だ。こすぎ氏のインタビューでも、本編の藤本氏のインタビューでも拓郎は「なぜ、ひまわりかって俺にもわからないんだよ」と答えている。本人がわからないなんてことはあるのだろうか?…と下種ファンの俺は思い、当時いろいろと考えてみた。例えば「ひまわり、夕立、セミの声」とか「バスは今、ひまわり畑を」とかあれこれと無い頭で悩んでみた。もちろん正解がわかるはずがない。それに万万が一、それが正解だったとしてもあのお方は絶対に「違う」と認めないだろう。あのお方はそういう人だ。>ホントにファンなのかよ

 あのとき映画好きの拓郎なので、そこにヒントがあるかもしれないと思い、ソフィア・ローレンの映画「ひまわり」を観てみた。実は昔の雑誌フォーライフ創刊号のコラムで田口清が映画「ひまわり」を絶賛していていつか観たいと思っていたのだ。話しを田口清氏まで広げてしまうので俺の話は長いのだ。映画は、戦争ですれ違う恋人の悲劇だが、そこに出てくる一面の見渡す限りのひまわり畑の美しさはそりゃあもう圧巻だった。「この下にたくさんの兵士たちが埋まっているんだよ」と地元のロシアの老婆が教えてくれて、ソフィア・ローレンは立ち尽くす。
 そして、ひまわり畑と兵士というとどうしても映画「幕末青春グラフィティRONIN」の最後の方で高杉隊がガトリング銃で殲滅されてしまう、ひまわり畑のシーンを連想する。ひまわりの花とともに散ってゆく死屍累々の中に、へたりこんで動けない高杉拓郎。あの撮影は炎天下で長時間にわたったそうで、あの時の拓郎の目には、ひまわり畑が強く焼き付いていたはずだ。

 ということで、ひまわりは失われた命と失くした夢の「墓標」であり、同時にそのうえに咲きほこり太陽に向かう「生」をも象徴していると思う。死と生、悲しみと希望の間を回り続けるのが「ひまわり」…「神様、生きることはひまわりなんですよね」と問いかける…というのが当時の考えだったのだが、…えーい言うな、違うよな。それでもいいじゃないか、すべては冥途の旅の一里塚、神は必ず旅を許されるのだ。

 ということで「100分de名著マガジンT(創刊号)」を読む」はこれまで。長い、うざい、しつこい日記>いつものことだろ!をお読みくださりありがとうございます。

 不定期連載、次回から「100分de名著 マガジンT(第2号)を読む」をお送りします。>もういいよ
 ついにリリースされた不思議なアルバム「ひまわり」、前代未聞のカオスの東京ドーム公演をこのファンクラブ会報はどのように迎え、どのように報じたのか。ひまわり発売前から次のアルバム制作をぶちあげていたこの次回作はどうなってゆくのか、俺は知りたい。いや歴史は知っているのだが、もっと詳しく歴史を知れば歴史は変わるかもしれないじゃないか。

2023. 7. 17

☆☆☆そうだ忘れていた☆☆☆
 会報のLONG INTERVIEWで、アルバム「ひまわり」のレコーディングの際に、コンピューターの打込みとミュージシャンを入れてのスタジオ作業がしっくりいかない苦悩を語っていた拓郎。同じ問題を最近のオールナイトニッポンゴールド(2020.7.29)では、拓郎はこんな風に話す。

 コンピューターを使って打ち込みというのは、音楽的なセンス…アレンジ能力とかアンサンブル編曲能力が求められる。技術に熟練すると同時にどうやってデータに人間が実際に演奏する楽器をイメージしてミックスするか。コンピュータの打ち込みサウンドとヒューマンサウンドとどうミックスさせるかが問われる。


 いいね。「ひまわり」の暗中模索から30年余り、熟練した技術者のような語り口がカッコイイのである。

2023. 7. 16

☆☆☆はやく観に行きたい☆☆☆
 徹底した秘密主義によって、なんの事前情報もないので、とりあえず原作とこの歌を復習しておいた。>拓郎は関係ないだろ。いやいや、もし万が一アンサーソングとしてこの歌がテーマ曲に使われていたとしても驚かないよう用心のためだよ(爆)。>ぜったいねぇよ。いや、わからない、この世界のすべては網の目のようにつながっているのだよ、コペル君。
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2023. 7. 15

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100分de名著「マガジンT(創刊号)」を読む

第二回  暗中模索の打ち水を通りて

□肩透かしと打ち水
 記念すべき公式FC会報の創刊号のメイン記事は吉田拓郎ロングインタビューだ。しかも翌月にニューアルバム「ひまわり」のリリースと東京ドーム公演を擁する全国ツアーが始まる。ファンとしてはこのうえない盛り上がりの時だから、例えば"最高のニューアルバムをひっさげて東京ドームでつま恋を超えてやるぜ!"みたいな燃える系インタビューを期待してしまうところだ。しかし、俺の感想では、これが完全な肩透かしだった。まるで中途半端なカーリーヘアーのようにフワフワつかみどころのないもので、燃え要素はほぼゼロだった。個人的にはこの言葉だけが妙に印象に残った。

  お茶でお客さんを迎えるときに、きれいな水をまいておくわけ。
  その「打ち水」をしたんだ。この「打ち水」を通過してない客は、無礼な客なの。

 …結局、この「打ち水」の意味をずーっと考えさせられることになる不思議なインタビューであった。ということで、もう一度2023年の今にあらためて読み直してみたい。

□変われないこっちとあっち
 インタビューの冒頭で、前回のコンサートツアー'88 SATETOの感想を問われた拓郎は、活動休止直前のつま恋85の時に「まぁ飽きたな」「この連中ともそろそろ縁を切りたい」と思っていたファンたちと2年半ぶりに相まみえた感想をこう語った。
「それほど斬新な気持ちになれなかったし、こっちが新しかったのかといえば俺もそうでもなかった…こっちもあっちも大して進歩してないという確認ができた。」

 …オイ、それがこの3年間なんの保証もなく待ち続けたファンに対して言う言葉かっ!と大いにムカついたものだ。
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 しかし2023年の今この時にあらためてこの言葉を読み直すと印象がまったく違う。「なぁ、俺達は結局、変われなかったよなぁ」「これからどうするかねぇ」…なんとなく拓郎にそう語りかけられていたような気がしてくる。今ならわかる。こぶしを振り上げ「やるぞー!」「おー!」の時代はとうに終わった。そこにもう天使なんかいない。吉田拓郎も拓バカの私たちも、どんなふうに生きてゆけばいいのか、ひたすらの「暗中模索」状態で彷徨っていたのだな。

□打ち込みに打ち込む推し
 アルバム「ひまわり」はレコーディングが遅れ、当初の1988年11月発売日が89年の2月に延期された。「すごく優秀なレコード作り人間で、期限にはびったり間に合うようにしていた」「期限前にできる人なの」と無念を語るったそこかよ、と当時は思ったが、まさにそこだ。「ah-面白かった」の制作、前倒しペースは記憶に新しい。こういうところに吉田拓郎の矜持があることがわかる。
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 遅延の原因は、吉田拓郎が当時傾倒していた"コンピュータ"だったことを明かす。拓郎はコンピュータの打込みで精巧なデモテープを作り上げた。「デモテープを聴くとすごくいい」しかしそれをスタジオで再現しようとすると「自宅で作ったニュアンスが出ない」「死んだような音になってしまう」「なんでこのニュアンスが出ないんだ」と呻吟し難航してしまったようだ。
 スタッフからは精巧なデモテープそのままでいいじゃないか、スタジオでの作業は無駄じゃないかという意見もあったようだ。インタビュアーの藤本真氏(初めての吉田拓郎のインタビューとのこと)からもコンピュータが使いこなせれば、"人は要らないですよね"…との質問に対して拓郎はキッパリと「必要なのよ、人間は必要なんだよ、本当に必要な人間が最小限…」と切り返した。
 拓郎の言葉には、コンピュータの打ち込みだけではなく、そこに優れたミュージシャンの手をいれてこそ、より良き音楽が完成するんだという固い信念を感じた。
 そして苦闘のすえ「あれも欲しいこれも欲しい」とスタジオで加えた音から「贅肉を削ぎ落してゆく作業」に変えてゆくことによって、デモテープよりも良い作品にすることができたとその完成プロセスを語る。

…んん、俺にはムツカシイ。ただ俺は当時も何もわからないくせにコンピュータにも打ち込みにもかなり否定的だった。あの"俺が愛した馬鹿"の「風になりたい」や"マッチベター"の「いくつもの夜が」の機械音がたまらなく嫌だった。それにバンドを集めてセッションすりゃ全てすむことじゃないか。
 しかし今になってこのインタビューのくだりを読むと拓郎はコンピュータの虜や奴隷になっていたわけではなく、クールにより良い音楽のステップを登るひとつの過程に過ぎないと考えていることがわかる。よりよい音楽に近づくため、あるいは楽しむためのツールとして、コンピュータを自家薬籠中のものにしようと熱心だったのだ。コンピュータによりてコンピュータのさらに上へ。そんな拓郎の音楽的格闘が垣間見えた。

□ひとりぼっちの暗中模索
 気勢が上がらないため、たぶんインタビュアーが盛り上げなきゃということで"「マッチ・ベター」以降、拓郎さんは新境地を目指している気がするのですが?"…という質問に対して、拓郎は「暗中模索」しているだけで「新境地なんてめざしていない」とキッパリ答える。いいね、拓郎のこういう虚飾のないところがなんとも素敵だ。
 しかし、拓郎は、それだけでなくニューアルバムが完成したばかりなのに「今作っているLPもそう「これだあ」なんて思っていない」と言ってのけてしまう。「市場に出始めてある種の共感を得たとするじゃない…そこをバネにして何かやるかもしれない。これがまた共感がなくて(笑)ね そうするとまだ俺の暗中模索は続いていくんだな」…実際にそのとおりだっただけにちょっと切ない。
 インタビュアーは、たぶん困って「「マッチベター」ではそういう手応えはある程度なかったですか」と尋ねると「ないですよ」とこれまたキッパリ答えた。新境地とは無縁で、共感も得られず一人で暗中模索する拓郎。ああ、ひとりぼっち、孤独だったのだな…今になって思う。

□聖なる経年と老いに祝福を
 そして、「ひまわり」の意味は「自分でもわからない」と一蹴し、アルバムのコンセブとらしきものを語る。
 「「ひまわり」とか「約束」とかでいっこ気にしていることがあってさ、それはやっぱり『衰え』じゃないかな、肉体も精神も含めていろんな意味で、それが枯れていくってことをどう自分で処理していくかってことが結構あるね。衰えみたいなことが開きなおりではなくて、決してわるくないと。いいかもしれん。」

 この頃から拓郎は老いと衰えを率直に口にするようになる。もう自分には昔のようなバイタリティも才能の煌めきもなくなりつつあると自認することが多くなる。
 いくつになっても若くて元気なことが美徳であるこの国の呪縛の対極に立つ。しかし、そういう拓郎には暗さや哀しみはみられない。諦念もない。当時はよくわからなかったが、今読むと、堂々と坂を降りていきながら、それが同時にどこかへ陽の当たる高みへと上昇していくような、そんな清々しさを感じる。

 進歩しないファン(悪かったな)、見えてこない新境地、新しいツールを駆使して音楽の高みにトライしてもなかなか「共感」にも「これだ」という手応えにもたどり着かない、心身は否応なく衰えてゆく…そんな彷徨いの中、孤高に「暗中模索」を続ける拓郎。
 このインタビューの希望は、吉田拓郎がアルバム完成直後にもかかわらず、快活に「また春先にやりたいという気持ちがあって、また始まるでしょ」「3月くらいから俺は次のアルバムに入るよ」と心を決めていることだ。陽気でしたたかな暗中模索はつづく。今にして思うのは、この人はこんなにも本当に音楽のことが好きだったんだなというシンプルな事実だ。
 それにひきかえ、ここまで孤独な放浪を続ける推し、誠実に暗中模索の中にいる推しに対して、俺は誠実だったろうか。その音楽をちゃんと味わっていただろうか。今さら昔のインタビューを引っ張り出して、おそらく誰も読んでいないだろうこんな駄文をダラダラ綴る意味はそこにあると思っている。

□そして水は打たれた
 最後に、東京ドームあるいは「ひまわり」という「打ち水」を用意したことを語る。この「打ち水」を通過してない客は、無礼な客なの。と私たちに投げかけてきた。
 インタビュアーのコンサートの内容についての質問に「コンサートの事、全然考えてない…お正月に温泉つかって3〜4日で間に合うでしょう」…と答える。これは嘘だ。まずもって吉田拓郎は温泉が嫌いなはずだ。それに2月8日からツアーなのにこの時期に内容が決まっていないはずがない。
 このインタビュー時には、ああいう「予想外のドーム公演」の内容も決まっていたはずだ。あの公演が多くのファンの期待をあらためて突き放すことも決めていたに違いない。ファンクラブとはいえ安易な「共感」は拒否して孤高の道をゆく吉田拓郎。暗中模索とは決して気弱に彷徨うことを意味しない…断固として彷徨うべくして彷徨うのだという覚悟…吉田拓郎が撒いた「打ち水」の本当の意味が今はようやくわかりかけてきたような気もする。

 ということで万感の思いをこめてアルバム「ひまわり」を聴き直したい。34年前のニューアルバム、なんか曲が少なくね?、機械っぽくね?、暗くね? 、中身よりもジャケットが一番よくね?とさんざん悪態をついたアルバムを聴き直してみよう。

 次回第三回 「残された悔しさの中で僕らは生き続けひとりぼっちだ」

2023. 7. 14

☆☆☆ひとりぼっち☆☆☆
 いろいろなニュースがやりきれない。それらはすべて俺を含めた大人の責任である。だからこそ、やりきれないのだ。このことに関連するのかしないのかわからないけれど、昔(2020年)の吉田拓郎のオールナイト・ニッポン・ゴールドでのこんな言葉が思い出されていた。

 アーティストはワン・エンド・オンリー。孤独な生き物であることを感じ取ってほしい。僕も本当にひとりぼっちです。70何年間、僕らはひとりぼっち。
 僕らの仕事、生きざまはひとりぼっち、孤独で厳しい環境で音楽を作っている。孤高のメロディーメーカー。あの人もこの人もこうやっているんだからとそれが一番野暮で失礼なことだ。そういう言い方、あの人のようにというのは通用しないんだ。その人の世界観なんだから。その人の世界観を愛しているなら。みんなが左に行きました、でも私はこっちに行きたいということがある。それを、あの人はこうなのにどうなの?と非難するのは大きな間違い。ひとりひとりが孤高のアーティストなんだ。
 他の人との比較ではなく見つめてあげてほしい。映画とかのエンターテイナーに対してもそう。そういうのは失礼なことだ。(吉田拓郎のオールナイト・ニッポン・ゴールド 2020年11月13日放送)


 あなたもわたしもアイツもコイツもみんなひとりぼっちなんだと心の底に落としてからそれぞれの営みを始めたいものだ。「個人の尊厳」「個人として尊重される」という言葉は「ひとりぼっちの尊さ」「ひとりぼっちとして大切にされる」といいかえるとよく伝わるかもな。こっちのことですが。

2023. 7. 8

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100分de名著「マガジンT(創刊号)」を読む

第一回  SATETOから始まる物語(ストーリー)
 吉田拓郎初のオフィシャル・ファンクラブ「T's」。その名前には愛しさと共に一抹の哀しさも感じる。愛と哀しみのT's。今あらためて会報を読み返すとき、そこに何があるのか、あるいは何もないのか。100分de名著、今月はマガジン「T 」創刊号を読みこんでまいります。

1  遅すぎた春
 吉田拓郎初のオフィシャル・ファンクラブT'sが発足し会報のマガジン「T」が発刊されたのは1989年1月。デビューから約19年後のことだ。遅い。かなり遅い。
 遅くなった理由はたぶん明白だ。例えば78年ころのセイヤングで拓郎本人が明言していたように、吉田拓郎自身がファンクラブに否定的だったからだ。徒党を組んだり、肩を組んだり、そういう仲間意識が嫌いな拓郎のポリシーがゆえんだ。…とはいえ自発的な私的FC「たくろうさあくる」「拓郎軍団」に対しては温かい目で見ていた気がする。特に篠島なんかは「拓郎軍団」がひとつの大きな支えになっていたのではないかとすら思う。
 むしろ拓郎は自分が公式にFCを作ることで出来上がる「徒党」の加入者、非加入者というファンの分断を嫌ったのだと思う。ファンはひとりひとり自由であるべきだ、しかし自発的なファン同士の交流には何も言うまい…そんな拓郎の思想が覗けた。
 それにそもそも当時の拓郎には深夜放送という無敵のラジオ媒体があった。そこいらのFCなんかよりも拓郎を深く味わい、心を交わすことができたからFCの必要性も低かったのかもしれない。かくしてファンクラブのないまま19年が過ぎて行った。

2 1989年の吉田拓郎の実際 ある種の極北
 ということでFC不要の19年の間に、破竹の70年代が過ぎ、艶熟の80年代も本人自らつま恋85で終わらせ、その後3年間も世間の表面から消えていた吉田拓郎。世間も多くのファンですらも吉田拓郎はもう「終わった人」だと思っていた。
 そんな拓郎が1988年"サッポロ☆ドライ"のTVCMに現れ、打ち込みアルバム"Much Better"をひっさげて"SATETO"ツアーで復活を遂げる。その"SATETO"の後にこのT'sは発足した。
 しかし俺の独断だが、1988年のこの復活は、俺を含めた奇特な拓バカ達は喜んだものの、決して華々しい復活ドラマとはいえず、どれもこれも大してパッとしなかった。サッポロドライのCMはトットと広岡監督に交代し、打ち込み主体のアルバムに人々は戸惑い、ツアーも熱狂禁止=座って聴かにゃならん不完全燃焼なものだった。当時の音楽雑誌のレコード評で「もはや吉田拓郎に現役感はない」との悲しい言葉もあった。
 こんなにも世間の風が冷たく切ない時期に、公式ファンクラブは船出したのだ。これがもし70年代、80年初頭の時代だったら諸人こぞりて盛り上がり劇的に違ったものになっていただろう。とにもかくにも祭りのあと、そんな祭りすらも世間が忘れ、その名が過去のものになったとき、息をひそめ漕ぎ出るように始まったT'sというcaravanなのだ。

3 どんな会報だったのか
 かくして遅れてきたファンクラブと会報は、徒党を嫌う拓郎のポリシーを反映したように、ファンとの交流をシャットアウトしたアーティストのみからの発信=送り手本位という方針だった。それだけに会報には力一杯、活字が満ち溢れていた。こういうところはそこらの会報とは違う矜持があった。

[創刊号]1989年1月
[サイズ]13p×21p…小さい。老眼じゃ読めない。
[表紙]アルマーニを着た吉田拓郎の後ろ姿、裏表紙は同じく宇田川さんのスーツの後ろ姿。スタイリッシュな吉田拓郎を打ち出すという宇田川編集長の戦略が覗く。当時はなんかこそばゆかったし、今観るとバブルの香りがむんむんする。
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[メイン記事]吉田拓郎インタビュー。アルバム"ひまわり"の制作と来るべき"東京ドーム"に向けてのおはなし。写真も文章もここから抜粋されたものがそのままコンサートツアー1989のパンフに転用されている。これはこれで貴重なインタビューなので次回に読み込みたい。
[コラム]拓郎ファンからのおたよりとか交流とかを拒否し、一方的にニューヨークの話とか、吉田拓郎とは直接関係のない映画とか、クルマとか、ファッションとか、アートとかおしゃれな生活とかのコラムが提供される。…必要なのか。それはいいけど、どの記事も面白くない…特に吉田拓郎のエッセイを英訳した「TAKURO ENGLISH ESSAY」という英文記事に至っては誰が読むんだよ、宇田川さんアンタどうかしているよと叫びたくなった。ただし今になって読み返すと、創刊号にはまだ無名の頃の「ナンシー関」が小さなコラムを書いていてこれだけは嬉しかった。

4 SATETOからALONEまで
 会報の中でフリーライターの生方迷氏の小さなコラム記事で、「"SATETO"から始まる物語(ストーリー)」という言葉があった。イイ言葉だ。そういうことだ。結局このT'sは、1989.1〜1992.8までおよそ3年間にわたって続いた。それは"SATETO"から始まって3年後、"ALONE"ツアーに出掛けてゆくところで終わる。92年だから「LOVELOVEあいしてる」の夜明けまではまだ遠く、俺たちの孤独な雌伏の旅はまだまだつづく。でもそういうところがいい。歴史とは華々しいイベントや出来事だけで組み立てられているものじゃない。静かなる日々の営みを結んで続く歴史もある。地を這うように始まり、地を這いながら、地を這うように流れてゆく、それも愛しい歴史だ。それがT'sなのだ。

5 埋もれし魂の輝き
 あれれ、なんかさんざんディスってしまったみたいだが、誤解しないでくれたまえ。世間や多くのファンに見向かれなかったかもしれないが、断じてこの時期の吉田拓郎の音楽的クオリティ低かったわけではない。その真逆だ。このさまよえる時代に、数々の素晴らしい音楽を紡いでいたことは、ここを読んでくださっている先輩と同志の方々はおわかりでしょう。俺が読み込みそして書きたいのは、この切ない不遇の時代にもかかわらず、この時の吉田拓郎とその音楽がどれだけ美しくドラマチックでとことんすんばらしかったかということだ。
 SATETOから始まる物語(ストーリー)、それは光のあたらぬ行軍(caravan)の輝きをみんなで確かめ合うような、そんな道ゆきである。
 この時期は、ラジオのレギュラー番組もなく、ほどなくして新譜ジャーナルもなくなり、もちろんテレビにも出ない。ネットだってない、世間の話題にもならない。そこを単身バックアップしていた公式ファンクラブとその会報のおかげで、潜んでいた吉田拓郎の魅力をあらためて胸に刻むことができる貴重な文献なのだ。ということで「マガジンT」を読み直すことは、吉田拓郎を好きになり直すこと、ひいては吉田拓郎を選び直すこと、そんな旅路なのだ…と思うよ、たぶん。

 とはいってもリタイアした歌手の昔の会報を読み直してるイタイ奴だとバカにしてくる人々もいるかもしれない。じゃあそういうおまえに何がある、どこにある、誰がいる…一部おしまいです。

 第二回は 「打ち水を通りてわれはゆく」…創刊号のロングインタビューを読み解いてまいりましょう。読み解くなんておこがましい、読ませていただきましょう。

2023. 7. 7

☆☆☆7月7日☆☆☆
 今日は七夕かぁ。あまり気にしたことない行事だ。でもふと思い出した。1979年7月7日のセイヤングの冒頭で「流星」のピアノのイントロが流れて「えー今日は七夕ですが、僕も誰かに逢いたい…そんな気分ですな『流星』…」。あぁ、俺も誰かに逢いたい…そんな気分ですな。

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2023. 7. 2

☆☆☆あなたのdestinationはまだ遠く☆☆☆
 知り合いのドイツのバレリーナが今月で退団して帰国するそうだ。思えば12年前にわずか16歳で単身ドイツにわたり見事にプロとして身を立てた。いろんなことがあったでしょう、人に隠れて泣いたでしょう。
 16歳だ。本人も親も超絶心配で日本の家族とドイツで毎日skypeで生存確認を続けたそうだ。日本は午前6時でこれから出勤,ドイツは一日を終えて夜11時…とにかく毎日毎日skypeをつなぐ。ホームシックなお互いから、やがて自立をはじめると親が疎ましくなり画面はつないでも「ん」しか言わなくなる、しかしやがてそれも超えて向こうから日本の親の安否を心配するようになる。静かなる変化と成長。

 こんだけ遠く離れていても顔を見て話せる…skypeという文明のチカラにはおそれいるが、でもしょせんツールにすぎない。最後は毎日毎日そこに血を通わせた人間のチカラだ。向田邦子の「字のない葉書」や村上龍の父親が東京に出て行った息子に毎日葉書を書いた逸話の世界だ。

 そんな12年のskypeも最後となった。その記念すべき最後に彼女は記す。
   「始まれば終わる」
 ああ、あのお方の歌詞にもなった口グセと同じだよ。西田幾多郎先生に「時間はただ流れているものではなく、人が絶対的な自由意思をもって動く瞬間に初めて動き始めるものだ」という趣旨の言葉があった。俺のようにけじめもなくさしたる意思もなくダラダラと生きている人間にはピンとこないが、吉田拓郎にせよ、彼女らにせよ、何かを魂をこめて始めた人には深い実感として「始まれば終わる」と言う言葉がしみ出てくるのかもしれない。
 とにかくお疲れ様でした。「始まれば終わる」…あ、英語でそういうんだ。

  Everything has its beginning and ending.

2023. 7. 1

☆☆☆雨の中で並んだ☆☆☆
 駅前の雨のタクシー乗り場に並んだ。…なかなか来ない。結構長くジリジリと待っていた。こうしていると昔の武田鉄矢の話を思い出す。若き吉田拓郎が福岡でのフォークコンサートのゲストとしてギターケース抱えて単身でやって来た時、まだシロウトだった武田鉄矢が空港に迎えに行った。拓郎と武田が二人でタクシーのりばで順番を待っているとき、拓郎は、終始ずっとブスっとして口もきかない。武田はその不機嫌な様子に思い切りビビる。しかし、やがて順番が来て乗り込もうとすると、拓郎はすかさず自分の後ろに並んでいた杖をつきながらフラフラとようやく立っているお爺さんに「どうぞ」と順番を譲ったのだった。武田はその刹那…あゝ〜カッコよかね〜と思わず唸ってしまったというお話だ。
 俺も時々吉田拓郎にムカつくことがあるが>あるのかよ、その時にこの話を思い出すと気持ちが持ち直す(爆)。
 この話を聞いて以来、俺もタクシーに乗る時は、一応、後ろを振り返ってしまう。今日も振り返ってみたら後ろは俺より若くて強そうなご婦人二人連れだったので、オイラお先にちょいとゴメンと心の中で呟いて乗り込んだ。やれやれ。

 そうそう、武田の話の続きで、その日のステージで拓郎はずっと不機嫌なままで、客の手拍子があってないと怒って歌を途中でやめたり、最後の歌を歌う前に、とっとと片付けを始めたりして「今日はアンコールしませんよ」と捨てゼリフを吐いて、実際に歌い終えるとそのまま帰ってしまったという。やっぱりひどい人だなぁ(笑)

 もちろん昔日の話で、最近の拓郎はファンに基本的にずっとやさしかった。あくまで基本的な。これが結局、歳をとるとみんな好々爺になってしまう説が出てくるゆえんだ。あ、もちろん良い意味で。

2023. 6. 30

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☆☆☆歳とることは避けられぬから☆☆☆
 家人が小田和正のライブに行ってきた。思ったとおり美しい歌声だったと感激していた。観客の情熱も熱く燃えていて、最後、客席にヒト型の散華みたいなものが降り注いだ時には周囲にどつかれまくって死にそうだったらしい(爆)。とにかく堪能したようで良かった。それにしても肩で風切るオフコースの印象が強かった彼女には「あんなにファンにやさしくサービスするような人だったかしら…」と不思議がっていた。最近になっていろいろライブを観ている感想を突き合わせてみると、吉田拓郎、井上陽水、谷村新司、さだまさし、小田和正…結局、歳をとるとみんな同じような好々爺になってしまう説…が一瞬頭をよぎったが、何かミもフタもない学説なのでまだ確信はしていない。

2023. 6. 25

☆☆☆ロストフの長い一日☆☆☆
 まったく昨夜は下手したら核戦争が起きるんじゃないかと手に汗を握った。こんなロストフの14秒はごめんだ。まったく戦争は本当に勘弁してほしい。

 「八曜社」「マガジンT」というとなつかしの「T's」だ。デビュー約20年目にして初めてのオフィシャル・ファンクラブだった。その前にユイ・ミュージックファミリーというのもあったがあれは事務所会報だったし。

 やはりファンクラブといえば、私設の「たくろうさあくる」「拓郎軍団」だ。よくは知らないが、会報をいくつか見せてもらったが、その熱度、攻め方、そして長い歴史すべてにおいて素晴らしい。こんな弱小個人サイトとは根本的に質が違う。私が処女作執筆中の椎名桜子とすれば、あちらは紫式部と清少納言みたいなものだ。わかりにくいか。こちらが「日ペンの美子ちゃん」とすれば、むこうは「ガラスの仮面」と「ジョジョの奇妙な冒険」みたいなものだ。もっとわかんねぇよ。

 二大私設ファンクラブにはアンタッチャブルなので、初の公式ファンクラブ会報「T」を読み直してみる。昔の会報読み返すなんて他にすることねぇのかよ…ねぇよ!ねぇんだよ!
 ということで、近日中に「100分de名著 マガジンT 創刊号」(仮題)を開始する予定。しないかもしんないけど(爆)。

2023. 6. 24

☆☆☆電車がレールを鳴らすたび☆☆☆
 今日は仕事でかなり遠くまで行くために長らく電車に揺られていた。「太陽の子」を読み直しましたという、とある拓郎ファンの方の嬉しいお言葉に、自分も読み直したくなって何十年ぶりかで引っ張り出してみた。若い頃よりも明らかにいたたまれないツボが増えている。お父さんの発作の描写はもう胸がしめつけられるようで泣けた。最後の方で"ろくさん"という爺さんが戦争時代の自分の凄絶な過去を刑事に語り問い詰める場面がある。この話がショッキングで、これを描いたところがこの小説の凄みだと思う。映画ではこの鬼刑事は大滝秀治だったな、高飛車だった刑事が最後に打ちのめされたように「どうか服を着てください」とろくさんに言う言葉があの大滝さんの声で蘇えってきた。
 電車の中ではどこかの元気なお子さまたちがホントにお元気そうたったが、今日はこの本のおかげであまり気にならなかった(爆)。そうして、あれこれと思いも飛んで、そうか「太陽の子」は「理論社」だったのだなと気づく。子どもの頃、ずいぶんとお世話になった出版社だ。今も残っていると言えば残っているし小宮山量平さんの「理論社」はもうないといえばない。
 そして、いろいろ言っても結局は、ただの拓バカなので「理論社」といえば、そういえば「八曜社」ってどうなったのかなと思いが飛んだ。確か公式ファンクラブマガジン「T」までは八曜社を確認した記憶があるが。ああ、わが青春の八曜社はいずこへか。…ってまだあったら申し訳ないけど。
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2023. 6. 23

☆☆☆太陽の子☆☆☆
 沖縄慰霊の日だ。この日をついつい通過してしまうことも多い。申し訳ないです。沖縄といえば昔、灰谷健次郎の「太陽の子」という小説が好きで、大竹しのぶ他の出演で映画化もされて観に行ったことを思い出した。もうすぐお別れの聖地中野サンプラザでの上映会だった。小学生の一群が観にきていて、大騒ぎするクソガキお子さまたちを注意したりしていて十分に味わえなかったのが残念だった。最近の配信サービスでは「太陽の子」というと同題の別の映画しか出てこない。こっちが観たいのは「太陽の子 てだのふあ」だ。
 小説も映画も"ちむぐりさ"という沖縄の古い方言が心に妙に刺さる。"肝ぐりさ"…心が痛い、心がつらいという意味のようだ。市街が戦場になるとはどれほど陰惨なことなのか、そういう怖さの深淵を覗かせてくれた。そこに蓋をして自分の心の中だけで格闘しながら生きる人々。闘いつづける人の心を誰もがわかってるなら。自分の不明をあらためて思いつつ、心の底からご冥福をお祈りします。

2023. 6. 21

☆☆☆ちっぽけな花をひとつ咲かせておく☆☆☆
 「見出し人間2023」の打ち上げ花火の話には恐れ入った。ああ、思いつきもしなかった。書いたご本人は否定するかもしれないが、とてつもなく深い拓郎愛がうねっている。すんばらしい。比べて自分で解約したwowowについていまごろブチブチ言ってる俺なんぞとは器の大きさが違う。花火…来年こそは実現してほしい。

 花火…花といえば、去年、職場の引っ越し祝いで友人からいただいた蘭が一輪だけど花をつけた。仕事場のスタッフが一年間、密かに丹精をこめてくれたおかげだ。
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 これまで花になんか1ミリの関心もなかった俺だし、花もそんな俺のことが嫌いだったはずだ。それでもこの一輪はなんかとても嬉しくて、迷惑を承知であちこちに写真を送った。この花は私です、やっと綺麗に咲いたのです>ってヤメロよ。僕も少し変わったでしょう。

 そうなると名作「季節の花」だ。ああ〜この歌はライブで聴きたかったよな。いや、今からでも遅くはない、是非歌ってくれまいか。…って、いつまでもしつこいか。あなたがライブをしてくれなくても魂でCDを聴けばいい。はっ!あなたがしてくれなくても…そうか、タイトルを聴くたびに赤面していたが、そういう推しレスの意味のタイトルだったのか、さすが奈緒さん。ちげーよ。
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あなたがしてくれなくても
また雨が降り また風が吹き
またウソをつき また夢を見る
またウデを組み また歩き出す
あなたがしてくれなくても
また陽が昇る また涙する

あなたがしてくれなくても
また会えるまで また別れても
また迷っても また探す道
また背伸びして また立ち止まり
あなたがしてくれなくても
またほほえんで また口ずさむ

ん〜なんか繋がった。いま酔っぱらってるだけかもしんないけど。

2023. 6. 18

☆☆☆あとの祭り☆☆☆
 昨夜は、いちおうWOWOWにチャンネルをあわせてみたが映らなかった。あったりまえだ。DVDは持ってるし何回も観たし、もういいやと思っていたが、この今という時期にWOWOWが世界に向けてここまでのプログラムを催していることの重さを考えなかった。ありがたいじゃないか。…かくして仲間外れのような、Sold outで入れなかった渋谷公会堂の前にひとり立ち尽くしているような寂しい気分になった。
 ああ、持ってるし見たからイイだなんて。"僕は、正しく傷つくべきだった。本当をやり過ごしてしまった。"…と映画「ドライブ・マイ・カー」の西島秀俊になりきって悲しんでみた>バカじゃねぇの
 やはりWOWOWに入るべきか。…そうだ、今後は未公開カットを入れてくれるということで手を打とうじゃないの>何様だよ

"ah-面白かった"のリリースからもう一年だよ。なんだかなぁ。

2023. 6. 17

☆☆☆それほど豊かでもなくなった中、沈みゆく島☆☆☆
 その映画「日本沈没」で、東京大地震による大火災の中逃げ惑う被災者の大群が皇居の前に殺到して、入れろ!ダメだ!という緊迫状態になる。避難民の制圧という意見も出る地獄絵図のような中で、丹波哲郎演ずる山本首相が「門を開けてください、総理大臣の命令です。直ちに宮城(皇居)の門を開けて避難者を入れてください」とキッパリと指示をかますシーンは子どもながらに感動したものだ。…ああ、それに比べて(略)…つづきは居酒屋で。
 この映画の予告で正確な表現ではないが「日本にノアの箱舟は現れるのか!?」という趣旨のテロップがバーンと出てきたのも衝撃的で忘れられない。
…その2年後、名前は忘れたがとあるミュージシャンの歌の歌詞に"ノアの箱舟が笑って消えた"というフレーズが出てきてびっくらこいた。なんて詞を書きやがる。聴くたびにあの予告編のテロップが浮かんできて困った。このフレーズは、あの歌の持つ、そこはかとない悲しみを倍加させてくれる。
 ということで沈みゆく島を思いながら今日のソウルメイトな曲は「明日に向って走れ」(アルバム「LIFE」のリミックス・バージョン)でお願い。

2023. 6. 16

☆☆☆沈みゆくもの☆☆☆
 ここのところ仕事でよく逗子方面行の京浜急行にゆられる。途中で「本牧」の駅を通過するたびに「旅立てJACK」が浮かぶ。"♪でも本牧のディスコへ行けば アイツのステップに星もたじろぐ"…どんなステップなんだ。ということではなく、高2の時に初めて聴いて以来、"1億人が見せかけだけの豊かさの中、沈みゆく島"というフレーズが胸に刺さったままだ。松本隆の見事な一撃なのだ。

 「沈みゆく島」というと小学生の時に大ブームになった映画「日本沈没」を思い出す。大地震、天変地異が繰り返されボロボロになった日本から、散り散りばらばら海外に大挙して脱出してゆく日本人たち。どこの国も受け入れに嫌な顔をし、子どもながらにも行った先で幸せな生活が待っているとは到底思えなかった。それがたまらなく怖かったのだ。
 最近の一連のニュースを観ながら、例えばこの映画で、命からがら避難した外国の入管で難民申請が認められずに沈みゆく日本にドシドシ強制送還されたとしたら…と妄想したら再び鬱な気分になった。諸外国からはこの国のメリットになる日本人しか要らない、それはあなたがた日本の入管法と同じことしているだけだから問題はないでしょ…といわれたりしないか…ただの妄想だろうか。
 日頃から国際ツウとか国際化とかグローバル化とかをドヤ顔で標榜されているたくさんの専門家の方々よ、教えてくれ。端的にこの入管法でいいのか。私らが、日本沈没のように難民になったり、なんぞあったときに諸外国が、いつもフレンドリーでクールなジャパニーズよ、ウェルカム はあと…と両手を広げて迎えてくれるのだろうか。それとも鎖国には鎖国返しとか厳しい仕打ちをされないのだろうか。…俺は政治論をぶちあげたいのではなく、ひたすら怖いだけなのだ。

 1977年ころのインタビューで「日本が沈没したらどうしますか?」というインタビューで、拓郎はギターをつなげて船にして俺は絶対生き残ると豪語していた。んーやっぱり拓郎だけだな信用できるのは>ホントにそう思ってるのかよ。思ってますとも。
 

2023. 6. 13

☆☆☆それでも、生きてゆくH坂元裕二受賞記念☆☆☆
 名セリフを強引に拓郎関係に引き寄せてしまう牽強付会な罰当たり企画も今日が最後だ。それにしても坂元裕二さんには珠玉の名言がありすぎてとても絞れない。そんな中で個人的な第一位はこれか。

<第1位>
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                (ドラマ「大豆田とわ子と三人の元夫」…松たか子)
[解題]
 3回結婚し3回離婚した大豆田とわ子。「離婚も結婚も両方お好きなんですね」と相槌を打たれてしまう大豆田とわ子。娘が二番目と三番目の元夫のことをを「Season2とSeason3」と呼んでいる大豆田とわ子。そんな彼女が中学の頃の「一匹狼」という謎の習字を見つけてしみじみと呟くこのセリフがいい。
 ああ中学の卒業作文も高校の卒業作文も吉田拓郎だったことを思い出す。そうであろうとなかろうと、まさにこの道を来た私たちと重なる。私たちって、勝手に連帯しているが、私は違うというあなたは入っていないのでご容赦ください。私たちは、人生は一歩の道だったはずなのにそこで迷う。どこへ行くのかこの一本道、西も東もわからない…ってそれは友部正人だろ。そして一本の道がありました、一本の道がみえました。私は私だったんだから私はそこを進みます。

 坂元裕二さんには失礼ばかり書きましたが、あらためて受賞おめでとうございます。数々の名セリフに心の底から感謝申し上げます。レモンをかけてしまった唐揚げのようにもとには戻れない、この不可逆な一歩道をまいりましょう。
 

2023. 6. 12

☆☆☆それでも、生きてゆくG坂元裕二受賞記念☆☆☆
 今回はいよいよ第1位のはずだったが、いろいろ迷ったあげくとりあえず1位は次回で今日は
<第1.5位>
「前向きに生きよう」って言われると死にたくなりました。「人を愛そう。 前向きになろう」そう思った5分後に「みんな死ねばいいのに」と思ってました。

                  (ドラマ「それでも、生きてゆく」大竹しのぶ)
[解題]
 穏やかではないセリフだ。幼女を殺された被害者家族と加害少年の家族の間の凄絶なドラマ。なんでわざわざこんなものを観ているのかわからなくなるくらい、そんな身を切られるようなドラマだ。魂の脚本に大竹しのぶと満島ひかりという二大天才女優がかかわると、とてつもないものが出来上がる。
 このセリフは娘の死から逃れられない大竹しのぶが、彼女のことを気遣う自分の身内の家族に対して抑えきれない自分の本心を爆発させてしまう約5分間の長セリフのシーンだ。
  私、みんな私と同じ目に遭えばいいのに、と思ってずっと生きてきました。
  優しくされると「あなたに 何が分かるの?」って思いました。

…鬼気迫るとはこのことだ。このシーンに限らず何度観ても泣けてくる。それはこのストーリーはもちろんのこと、演ずる大竹しのぶにはもう神様が降りてきているとしか思えない、その演技の美しさに泣くのだ。満島ひかりにもそういうシーンがいくつもある。どうかしちゃってるような天才の美技に、ただただふるえるのだ。
 そうそう忘れちゃいけないのは、犯人役の風間俊介の背筋が寒くなるような演技もそうだ。静かな殺意と狂気が漲っていて心の底から怖い。昨年のLOVELOVE卒業スペシャルで、Kinkiのバックとして拓郎の近くでキレキレに踊っていたが、観ていて怖くて仕方なかった(爆)。あの冷たい眼で金槌握って「…拓郎さん『純と愛』での僕の事、好きじゃないって言いましたよね」とか言い出したらどうしようと心配だった>言わねぇよ

 で、また悔しいことに小田和正の主題歌の「東京の空」がまた神がかりに良いのだわ。

 ネタにするのは不謹慎かもしれないが大竹しのぶに背中を押され>押してねぇよ、でもわりと正直な気持ちで言います。

 「拓郎さん引退しちゃいましたね」と言われると「あなたに 何が分かるの?」って思いました。
 「始まれば終わる」「音楽生活のアウトロを弾いている」と言われると死にたくなりました。
 他の歌手をみるたびに「みんな引退すれはいいのに」と思ってました。
「俺はフォークじゃない、おまえたちはわかっていない」と説教されるたびに、うるせぇよと思っていました。あれ?

 

2023. 6. 11

☆☆☆雨の松本楼☆☆☆
 といっても松本隆のことではない。今日はお世話になっている鍼灸の先生の出版記念パーティーがあったので、雨の日比谷公園の松本楼に出かけた。
 雨だ。堂本剛君のレギュラーのラジオで

 「雨のときに車の中でワイパーを動かさずにずっと雨を眺めている…いいもんだ…そんな中で音楽を聴く…それは吉田拓郎さんに教えて貰った」

 と語っていた。ああ、拓郎と剛くんは、そういう話をするんだな。いいな。

 雨の日比谷公園…しかも六月というと「木田高介追悼ライブ」を思い出す。吉田拓郎がまだ公式発表前の「アジアの片隅で」を熱唱した伝説を思う。
 …しかしコレには俺は行ってないんだ(爆)。チケットを買えなかった。俺はああ行きてぇと悶絶しながらラジオにかぶりつき、雑誌の記事を読み漁り、行った人の話に耳をそばだて、6月の雨の日比谷公園の「アジアの片隅で」を俺の心に落とし込んだのだ。…ということで
☆☆☆それでも、生きてゆくE坂元裕二受賞記念☆☆☆

<第2位>
 行った旅行も思い出になるけど、行かなかった旅行も思い出になるじゃないですか
               (ドラマ「カルテット」…満島ひかり)

[解題]
 私は木田高介追悼ライブはもとより、ライブ73もつま恋75も行っていない。てか当たり前だが行けなかったライブの方が殆どだ。
 行くことができたライブは最上の思い出だが、行けなかったライブは行けなかったがゆえに一層強く思いを馳せる。どんな曲を,どんなふうに歌い,どんなMCがあって,どんな客席の空気だったのだろう。悶絶しながら思いを深める。
 最近、篠島に憧れる若い女性のSNSを教えていただいたが、彼女が生まれる遥か昔の篠島のことを、したたかな愛情をもって、とことん詰めていくその熱度に眩暈がした。すばらしい。彼女の魂は、例えば実際に篠島に行ったわれわれの経験を凌駕して、しっかり篠島にある。行けなかったライブであっても、ここまで深く堪能できることを彼女は教えてくれる。心の底から勇気が湧く。

 体験できた者は体験した珠玉のライブを語り、その眩しい片鱗をかきあつめて体験できなかったライブを追体験する。行ったライブも思い出になるけど、行かなかったライブも思い出になるじゃないですか。そういうことだ。

2023. 6. 10

 藤井てっかん氏の訃報を知る。詳しくは存知ないが、吉田拓郎のインタビューやかつてのT'sなどで健筆をふるわれた魂の人だということだけはわかる。お若かったんだな。心の底からご冥福をお祈りします。
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 さて第4位でもうやめる、こんな世の中と自分を捨ててみたが、やっぱり書く。

☆☆☆それでも、生きてゆくE坂元裕二受賞記念☆☆☆

<第3位>
 泣きながらご飯を食べたことがある人は、生きてゆけます
               (ドラマ「カルテット」…松たか子)

[解題]
 生き別れの父が危篤になり病院に呼び出される満島ひかり。しかし幼い頃から彼女の人生を台無しにしてきた毒父のトラウマに病院の前で立ちすくむ。彼女を心配してかけつけた松たか子が病院の前の蕎麦屋で「カツ丼食べたら病院に行こう」と説得する。毒父に苦しめられた日々を打ち明けながら苦悶する満島。すると松は突然、満島の手を握って「いいよ、行かなくていいよ、カツ丼食べたら帰ろう、みんなのところに帰ろう。そこがあなたの居場所だよ。」とキッパリと言う。安堵したように満島がハラハラと泣きながらカツ丼を食べる時に松のこのセリフが胸を打つのだ。

 「泣きながらご飯を食べたことがある人」。この言葉を言う方も、言われる方もどちらもきっと身の置き所のない悲しみを経験をしてきたに違いないことが伝わってくる。実に見事なセリフだ。

 俺のようなヘタレにはそんな経験はない。ない…けど、らしいものはあった。
 2007年8月、吉田拓郎の多摩センターのライブが当日中止になった。俺はショックでそのまま電車で折り返して新宿駅に戻った。そしてふらふらと新宿駅の小田急デパートの階上の食堂街に入り、確かヤキソバみたいなものを食べながらビールをあおった。我慢していたが、相方が「…大丈夫よ、大丈夫、拓はだいじょうぶ」というと俺は堰を切ったように泣けてきた。デパートの食堂街でひたすら泣く、もう明らかにどうかしているおっさんとなった。…あの夜、みなさんはどこにいてどうしてました?

 もちろん、このセリフが措定しているのは俺なんかより、もっと切実な苦しみかもしれない。吉田拓郎は泣きながらご飯を食べたことがあったろうか。何の根拠もないが、何回もあったんじゃないかな。そんな行間が拓郎の歌にはある。

2023. 6. 9

☆☆☆それでも、生きてゆくD 坂元裕二受賞記念☆☆☆
 大好きなセリフ、胸を打つ名セリフは、まだまだたくさんあるのだが、もう前回の第4位で終わりでいいかな。とりあえず今日は圏外の番外編だけ。

<番外@> 流れる星は
「カノンさん。今、流れ星が見えました」
「地球も流れ星になればいいのに」

          (ドラマ「anone」…カノン)
[解題]
 イヤ、なっちゃダメでしょ、それって地球最後の日ですから。「流星」は名曲ですが、実写化しちゃダメ(爆)「妖星ゴラス」じゃないんだから>知らねぇよ。

<番外A> どけどけどけ!
 負けんなよ。社会性とか協調性って才能の敵だからさ

               (映画「花束みたいな恋をした」…菅田将暉の先輩)
[解題]
 クリエーターを目指して苦闘する菅田将暉に対して同業のちょっとイキった先輩がアドバイスします。「天才に向上心はいらない」という誰かの言葉が身体をかすめます。

<番外B> ああ、それが行間
 絶対怒らないからホントのこと言って。」ってホントのこと言ったらめっちゃ怒られるでしょ?
それが「行間」。

[解題]
 自らラジオで「嫌いな吉田拓郎の歌」を募集しといて、いろんなハガキを読みながら、ごっつ怒ってる吉田拓郎、スタンディングしている観客に「座って聴け」と座らせながら、その後の別のライブでは「なぜ座ってる」と怒り出す吉田拓郎…いろいろ理不尽フェスティバルな吉田拓郎なのですが、それらはすべて私が「行間」を読んでいなかったからだ。…と思うことにします。

<番外C> 別離
 判断力が足りないから結婚する、忍耐力が足りないから離婚する。

                 (ドラマ「最高の離婚」…市川実日子)

[解題]
 「離婚の原因が何かわかりますか?結婚です。結婚するから離婚するんです。」という同番組の名セリフと相俟って胸にしみる空の輝き。とはいえ「一番最初に思い出す人だよ。一番最初に思い出す人たちが集まってるのが家族だよ。」という救われるセリフもあったりする。家族、この複雑なアポリアよ。

<番外D> ロマンチックを送って
 ロマンチスト最悪。ロマンはゴハンだと思ってるんですよ。ロマンはスパイスなんですよ、主食じゃないんだな〜

                   (ドラマ「大豆田とわ子と三人の元夫」)
[解題]
 わかる、わかる。吉田拓郎のロマンチックはスパイスなのよと俺も思う。切ない状況や殺伐とした風景やささやかな人と人の営みの中に、そこはかとなく効いている極上のスパイス。それが吉田拓郎。たまに「ロマンチック王道」みたいな歌があるけれど、だいたい松本隆あたりによるものである。主食にしない吉田拓郎の矜持を感じるのだ。

2023. 6. 7

☆☆☆それでも、生きてゆくC坂元裕二受賞記念☆☆☆

<第4位> 
 過去とか未来とか現在とか誰かが勝手に決めたことで、時間て別に過ぎていくものじゃなくて、場所っていうか別のところにあるものだと思う

 人間は現在だけを生きてるんじゃない。5歳、10歳、30、40。その時その時を懸命に生きてて、それは過ぎ去ってしまったものじゃなくて、
あなたが笑ってる彼女を見たことがあるなら、今も彼女は笑っているし
5歳のあなたと5歳の彼女は、今も手を繋いでいて
今からだっていつだって気持ちを伝えることができる。

人生って小説や映画じゃないもん、
幸せな結末も悲しい結末もやり残したこともない。
あるのはその人がどういう人だったかっていうことだけです。

           (ドラマ「大豆田とわ子と三人の元夫」…オダギリジョー)
[解題]
 ああセリフ長すぎたよな…だけどこのセリフをどこかだけ切り取ってチョイスすることができない。子どもの頃からの親友・市川実日子を失った松たか子がその後悔と苦悩から抜け出せないことを初対面のオダギリジョーにこぼすと、彼が静かにこんな話をする。このドラマの屈指の名場面だと思う。

 過ぎ去ってしまった消えモノではなく、私たちがそれぞれ経験した20代、30代、40代のあの日の吉田拓郎は、今でも歌っていて、そこで熱狂している自分は今も熱狂している。例えば、俺は今もt君と篠島の炎天下でジリジリと灼かれながら拓郎の登場を待ち、拓バカ達とつま恋のノースの前でバスに乗った拓郎に今も思い切り手を振っている。今からだっていつだって気持ちを伝えることができる。結末もやり残したものもなく、その人がどういう人でどういう唄を歌っていたか…そして私たちがどう聴いたかということだけである。…そう言われているかのようだ。

 このセリフに続いてオダギリジョーはこうしめくくる。

 だから人生にはふたつのルールがあって、ひとつは亡くなった人を不幸だと思ってはならない。生きてる人は幸せを目ざさなければならない。人はときどきさびしくなるけど人生を楽しめる。楽しんでいいに決まってる。

 そう、決まっている。

2023. 6. 6

☆☆☆それでも、生きてゆくB坂本裕二受賞記念☆☆☆

<第5位> 両手でこぼれるほどの

 だってこぼれてたもん。人を好きになることって勝手にこぼれるものでしょ?                 (ドラマ『カルテット』…満島ひかり)

[解題]
 「好きじゃない」と言葉では断固否定する松たか子に対して、満島ひかりはこう言って1ミリも動じなかった。溢れる好きは抑えても抑えても湧き上がりこぼれてくる。

 第6位で書いた通り、俺ごときが偉そうに言えることじゃないが、拓郎ファンは実に多種多様で、お互い様だが感じ方が対極な方々も少なくない。名作か凡作か、感動か,がっかりか、終わってしまったか,いやまだまだこれからなのか、拓郎ファン同士で話すとき往々にして緊張をはらむことがある。

 それでも俺が会った拓郎ファンはどんなに意見が違っても例外なくみんな「好き」があふれ出しこぼれていた。たぶんみんな日常で多かれ少なかれ拓郎好きを隠して生きているに違いない(当サイト調べ)。背中に鮮やかに彫られた「拓郎命」の透明なタトゥーを隠して生きているはずだ。しかしどんなに隠しても好きはこぼれる。めんどくせーヤツとお互い思いながら、そのこぼれているところに共感とか尊敬とかバディな感情が湧く。このこぼれた「好き」に嘘はない。
 ライブの魅力は、ステージの拓郎だけではなく、客席の前後左右、四囲上下、こぼれている人たちが、溢れるものを解放するところにある。WANGANは素晴らしいがそれがない。たとえ50人でも、こぼれている連中を入れるべきだった…と思う。もし次があるならよろしく哀愁。

2023. 6. 5

☆☆☆それでも、生きてゆくA坂元裕二受賞記念☆☆☆

<第6位> 同じだけれど違う曲

 音楽って、モノラルじゃないの。ステレオなんだよ。イヤホンで聴いたらLとRで鳴ってる音は違うんだよ。片方ずつで聴いたらそれはもう別の曲なんだよ。
               (映画「花束みたいな恋をした」…菅田将暉)

[解題]
 ファミレスでひとつのイヤホンに左右で耳をあててイチャイチャしている見知らぬ若いカップルに菅田君が「あの子たち音楽好きじゃないね」と文句をつける。ん〜カッコいいんだからもう。
 この名セリフで目が覚めてふと思う。同じ吉田拓郎ファンで、同じ拓郎の同じ歌を聴いているのに好き嫌いを含めて感じ方が正反対だったりすることがよくある。まったく別の曲を聴いているかのように反応や感じ方が別れることが多い。こういうことってよくあることなのだろうか。しかしたとえばマイク真木のファンの間で「バラが咲いた」の意見がわかれたり、小田和正のファンで「ラブストーリーは突然に」の好き嫌いでモメているという話を聴かない。
 結局、俺が変なだけだという気もするが、それを言っちゃおしまいよ。でもホラ、オールナイトニッポン・ゴールドで「嫌いな吉田拓郎の歌」をリスナーから募集したら実に多彩な曲が出てきて盛り上がったじゃないの(爆)。吉田拓郎という旗の下に集う人々はそれぞれ結構バラバラなんじゃないのか。
 これは、あらゆる感性を包容する吉田拓郎の音楽的なフトコロの大きさを示しているのではないか…って、まとめてどうする。

2023. 6. 4

☆☆☆それでも、生きてゆくセリフたち@☆☆☆
 カンヌ映画祭で坂元裕二が脚本賞を受賞した。おめでとうございます。このサイトでも再三力説してきた神ドラマ「それでも、生きてゆく」が彼の脚本だが、その後「最高の離婚」「カルテット」「Woman」最近では「大豆田とわ子と三人の元夫」、今をときめく菅田将暉の映画「花束みたいな恋をした」…俺が引っかかったドラマと映画はすべて彼の脚本だったと知る。どれも俺的には名セリフが多くてツボなのだ。…ていうかここまで揃うと、単純な俺は完全に彼の掌中で転がされていただけみたいな気がする。
 ということでカンヌ映画祭受賞記念「拓郎ファンだから心に響く坂元裕二名セリフベスト7」といきたい。…ほぼ、ひとりよがりだけどさ。

<第7位>   不在
 いなくなるのって消えることじゃないですよ?
 いなくなるのって、いないってことがずっと続くことです。
 いなくなる前より、ずっと側にいるんです。
             (ドラマ「カルテット」…松たか子)
 
[解題]
 夫役の宮藤官九郎が失踪してしまい、ひとりぼっちの松たか子。彼女が自分に心よせる松田龍平に決然と放ったセリフ。…そうだ、吉田拓郎ファンも大いなる不在を生きて行かなくちゃならない。推しは去ろうとも、その姿を側に生きていなけりゃ、そう生きていかなけりゃ。
 このセリフに続けて
「今なら落ちるって思ったんですか?いない人よりも僕を。捨てられた女舐めんな!」
 と啖呵を切る。いいぞ。「リタイヤされたファン舐めんな!」と誰だかわかんないけど誰かに向って叫びたい。

2023. 6. 3

☆☆☆Tからの贈り物☆☆☆
  iTunesで「オーボーイ」を聴こうとすると並んでFromTのデモバージョンも出てくる。いまさらだけど、いいねぇ、このデモテープの精度というかインパクト。リー先生はじめむこうのミュージシャンとの大いなる紐帯となったであろうことは想像に難くない。ミュージシャンがデモバージョンに対して深いレスペクトを持って演奏しているのがよくわかる。ということで、完成品とデモとの間を行ったり来たりさすらう。完成品とデモの照らし照らされ合う関係がたまらん。
 んまー考えれば、よくぞあの拓郎さんがデモテープを公式音源化したりしたものだ。そのレアさを思う。まさに贈り物か。

2023. 6. 2

☆☆☆師曰く…☆☆☆
 ということで電車の中でイヤホンを耳にさし、目をつぶって頭をしみじみと振っている男をみかけたら、それはリーランド・スカラーか俺のどっちかだ。例のYouTube以来、すっかり敬服している。「オー・ボーイ」を聴きながら高校時代のダンパに思いを致すリー先生。この曲をダンス・ミュージックとして聴いたことはなかった。そう思って聴くとまた格別な味わいを感じる。てか、すまん。そもそもリー先生にも高校時代があられたのか、どこの高校だ、ホグワーツか。
 96年秋のインタビューでリー先生が、あなたにとって音楽とはという質問に"Happiness"と答える。御意。それとは直接関係ないが「ハピネス」という曲があった。
☆☆☆今日のソウルメイトな歌☆☆☆
「ハピネス」(作詞:吉田建/作曲:井上慎二郎/編曲:武部聡志/アルバム「Hawaiian Rhapsody」所収)
 吉田拓郎作じゃないからか、あるいは吉田健の作詞だからか、わからんが何となく省みられることのないこの作品。実はかなりいい出来だと思う。聴くと元気が出る。空に向かって闊歩していくよう明るさは吉田拓郎の天性のボーカルの威力だと思いたい。リー先生のハピネスと通底しているような気がしなくもない。

2023. 5. 28

☆☆☆わけもなくリーさん☆☆☆
 あの外人バンドの髭のベーシストLeland SklarのYouTubeチャンネルで吉田拓郎のことを語っている回(1348 吉田拓郎)をVientoさんのVつぶで教えて貰った。ありがとうございます。
 リーさんは律儀に吉田拓郎のプロフィールと「Long time no see」のクレジットを英語で紹介している。…そうか。それにしても吉田拓郎は日本のジェイムス・テイラーなのか。よくわかんないけど、いいのかそれで。また日本でのツアーの思い出も語っている。俺の拙い英語力なので怪しいが、鎌田由美子さんはちっちゃくてキュートなのに大食漢で、ホットドッグ大食いコンテストに出したいし、ワディ・ワクテルは日本のホテルの初めてのシャワートイレで水浸しの惨事に遭ったらしい。彼らにも印象的で楽しいツアーだったことがわかり嬉しい。
 りーさんのセレクト
 @オー・ボーイ
 Aとんとご無沙汰
 B君のスピードで
 C淋しき街
 これらを聴き入るリーさん。目を閉じて、しみじみと揺れている。魂に響いているその聴きざまが素敵すぎる。涙ぐむ。ああ、こんなふうにしみいるように拓郎の音楽を聴きたいものだ。言葉と文化を超えて、なんか通じた、音楽で通じたぞ〜と思える。

2023. 5. 26

☆☆☆ネットを開けたらいつもの笑顔☆☆☆
 久々の吉田拓郎の近影は嬉しい。お元気そうな笑顔を眺めながらあれこれとひとり想えば時は行く。
 吉田拓郎のリタイアで俺の心にあいた穴は深くマントルまで到達しそうだ。しかしその反面で、最近はしみじみとした「自由」も感じるようになってきた。例えばユーミンのツアー開始のニュースで武部が変テコな衣装でプレイしていても,もう心は揺れない。俺はもう虎の穴の覆面ワールドリーグ戦(>知らねぇよ)にひとり挑むようなチケット争奪の戦いに身を削らなくてもいい。アレを歌ってくれよと悶絶したり、残念な選曲に居酒屋で荒らくれたりすることもない。新曲が微妙だった時に夜空を仰いで祈るようなあの気持ちも不要だ。何より忖度なくこんな無礼な好き勝手を言っても、ラジオやブログやライナーノーツで怒られたりすることもない。ああ自由をこの身で感じたい。
 そして当たり前だが吉田拓郎は亡くなってしまったのではなく、何よりあの写真のとおり、清々しく元気で生きておられることがあらためてわかる。だから追悼、追慕のような悲しい故人美化モードに縛られることもない。僕らは今も自由のままだ。

 それにもし拓郎が今も現役だったら、あんなふうに長渕の曲をしみじみ聴き直したり、THE ALFEEのペンライトが楽しかったりもしなかったろう。自由な気分で聴き直すときっと拓郎の聴き慣れた曲たちもまた違った様相と輝きを教えてくれそうだ。そう自由の風に酔え、すべてを解き放て。

 もちろんファンはどこまでもファンのままだが、個人的に昨日までのつづきではなく、まったく異質のファンとしての第二章が始まっているのではないかと思う。もう皇帝のいない第二章である。どう過ごすのかはわからない。前例のない道を行くアーティストの場合そのファンにもまた前例がないのだ。
 …「思えば第二章はまだ序章に過ぎなかった」とあとからほのぼの思うような、やがて僕達は不思議な夢を思い出すに日に向かってすすむのだ…ってこの歌を思い出した↓。
☆☆☆どうしたってソウルメイトな歌☆☆☆
「渚にて」(作詞/作曲:吉田拓郎 「detente」所収)
 この地味な歌もなんか妙に象徴的で心に響いてくるよ。それとこのとても丁寧なイントロが好きだな。

 渚にて  

 波がひいて行く 別れの時だ
 君は今日から きれいになれる
 短い夢を 急いだけれど
 このまま居ては 沈んでしまう

 偶然なのに 淋しいからと
 若い命を燃やした事が
 互いの道を せつなく しばる
 本当の事が 言えなくなった

 恋人達は どこへ行くんだろう
 3年前なら僕等も同じ
 男と女が 友達ならば
 愛し合うより 道徳的だね

 二人で歩く事は もうないから
 今 自分の足音は
 早過ぎはしない 遅過ぎはしない
 ふり返る 道もない

 僕のあやまちは 一人のひとに
 ひとつの愛を つらぬけぬ事
 君の悲しみは 愛があふれて
 とまどう男を 読みとれぬ事

 嘘をつくたび 言葉が消える
 許し合うから 心は痛む
 罪と知りつつ 抱きしめ合った
 傷つく夜が またひとつ増える

 二人で歩く事は もうないから
 今 自分の足音は
 早過ぎはしない 遅過ぎはしない
 ふり返る 道もない

 波がよせてくる 別れの時だ
 君は今日から 悩ましくなる
 やがて僕たちは 不思議な夢を
 思い出す日に 向かって進む

……んー魂だ

2023. 5. 25

☆☆☆推し帝劇にあらわる☆☆☆
 堂本光一くんの「Endless SHOCK」をご夫妻で観に行かれたという目撃情報が届いた。拓郎さんはどこから観ても拓郎さんで、背が高くシュッとしていたそうだ。これだけで私の胸は十分すぎるほどに震える。…そのニュースを聴いた時の私↓
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               (水島新司「ドカベン」第31巻・少年チャンピオンコミックス 秋田書店刊より引用)

2023. 5. 20

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☆☆☆東京ドームなう☆☆☆
 久々の野球観戦だあ。岡本以外の選手は殆ど知らないし、ドレッドヘアーの選手がいることに驚き、千円札振ってビールのおねーちゃん呼んだら現金が一切使えなくて恥かいたし、もう浦島太郎状態だ。ここで一首。
【心の俳句】

  試合より想うは彼(か)の事ばかりなり

【解題】
 ああ東京ドームは吉田拓郎がコンサートをしないときは野球場として使っているのだなぁという感慨を歌ったものである。>野球に失礼だろ

2023. 5. 19

☆☆☆カンゲキ☆☆☆
 「うたコン」の西城秀樹特集で、ゲストのTHE ALFEEを観ながら思い出していた。思い出したけど口にするとまた言っていることがうるせぇよと思われるので黙っていた(爆)。
 昔、アルフィーの三人が拓郎の横浜の家に遊びに行った時、拓郎が自慢げに「これから西城秀樹に作った曲(デモテープ)を聴かせてやる」といって自宅スタジオに連れていかれて機械をいじりだしたら…あれ音が出ない…というエピを思い出していた。いわずとしれた「聖少女/夕陽よ俺を照らせ」である。デモテープ、めっちゃ聴きてぇ。「聖少女」…これはなかなかイケていたのではないかと思う。メロディ、テンポ、カッコ良さどれも秀逸だ。なんといっても真骨頂は、詞では「Say it 少女」なのだが、メロディーと溶け合うと♪セイエイエイエイ少女…となるこの部分である。ああリンゴとハチミツとろーり溶けてる。「やさしい悪魔」の♪やがてひとつのォウオウオウオウくらい天才だと思う。なんともいえない心地良さを感じる。そこがひときわ輝いてみえるから拓郎ファンなのだ。
 この「聖少女」は身の程を省みず当時、大学生のころのカラオケの俺の持ち歌だった。よく恥ずかしげもなく他人様の前で歌ったものだ。でも俺にも若いころはあったのだ。爺になった今では「女神が微笑む時」のゆったりテンポがしみじみとあっている。いいじゃないか、きっと女神は微笑む。

2023. 5. 16

☆☆☆女神が微笑む時☆☆☆
 NHKの「うたコン」の観覧に行ってきた。5月16日は西城秀樹の命日だそうだ。前説でいきなり「YMCA」を練習させられて、もちろん俺は思いきり踊った。ああ、夕陽よ俺を照らせ。次に「THE ALFEE」が登場すると、会場に散在していたファンの方々が思いきりファン専用のペンライトを振り始めた。すげえ。俺も彼女らの振りをまねてNHKから支給されたペンライトを振った。いやあ、楽しかったんである。THE ALFEE…いいじゃないか。こんな高揚感は久しくなかった。ALFEEとそのファンが心底羨ましくて俺もライブに行ってみたいと思った。こんな俺を嗤えるのは、これから再び歌い始めた時の吉田拓郎だけだ。
 高揚した気分で原宿駅前の「さくら水産」に行くと、折しも代々木体育館のももいろクローバーZのライブがはねたあとのファンたちでいっぱいだった。このろくでなし感満載の盛り上がり。かつて俺達拓郎ファンとともにあった熱気だ。イイ。推しってイイ。たぶんいい。その熱気を孕んだ飲み会がたまらなく眩しく見えた。

 かくして推し去りし後、死んだも同じの今になり、俺ははからずも長渕剛や浜田省吾やALFEEや篠原ともえらに救ってもらった気がする…こんな感じで(写真はイメージです>あったりめぇだろ)。
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2023. 5. 15

☆☆☆どうでもいいっていえばいいのだが☆☆☆
 WOWOWは3月で退会しちまったぜ。もともと2014年のライブのために加入したが、もはや推し去りし後に用はない。それでU-NEXTに加入して小津安二郎三昧の日々を送っていたところだ。それに6月の特集放送は、もちろんソフトは全部持っていて繰り返し観たものだ。だから別にいいやと思うがどこか後ろ髪ひかれるものがある。頭が小津映画になっているので俳優たちが勝手に脳内で会議を始める。

 杉村春子「ちょいと兄さん、全部持ってるのにわざわざまた金払って観るなんて、どうかしているよ。およしよ。」
 有馬稲子「そうやって叔母様みたいに損得のそろばんばかりはじいているのってナンセンスだわ。拓郎さんが観たけりゃ観るしかないわ。」
 佐分利信「そうはいってもこないだ辞めたものを、失敬、また入ります…というのは何ともバツが悪いものだ。」
 中村伸郎「そうだよ、ボクなんか細君に何と言われるか。」
 加東大介「こういうときは未公開映像とか、せめて別アングルとかなんとかちょいとした工夫が欲しいわなぁ」
 原節子「ごめんなさい…あの私、思うんですの。観たことがあるかないかじゃなく、この星空のずっと上の衛星から拓郎さんの歌う姿が送られてくるのかと思うと(涙)…私、そのときそこにいてしっかり受け止めて差し上げたい、それだけで幸せだと思いますの。」
 笠智衆「…そうじゃなぁ。ほんに節子さんの言う通りじゃなあ。わざわざ拓郎さんを届けてくれる衛星が気の毒でならん。」
 杉村春子「また兄さんたら。衛星のことなんか知りもしないで。だいたい兄さんが衛星のことどんなに思おうが、衛星の方は兄さんのことこれっぽちも思っちゃいませんからね。」
 
……ということで悩んでいるのだ。

2023. 5. 12

☆☆☆ドライブ・マイ・カー☆☆☆
 長渕剛の「JEEP」を聴いていたら「車を降りた瞬間から」が聴きたくなった。まるで武部聡志が車窓から楽譜を投げ捨てるように(爆)、悲喜こもごも思い出を惜しげもなくふり捨てながら走る吉田拓郎が浮かぶ。そうなると浜田省吾の「夏の終わり」も久々に聴きたい。なんか免許を返納する前に、もう一度だけ車を運転してみたくなってきた。疎んじていた長渕が今さら心にしみたりするのは、推し去りし今、長渕とそのファンが羨ましいんだろう。推しが去った後は、てんではっぴいになれないんだよ。 映画「ドライブ・マイ・カー」の「僕は正しく傷つくべきだった。本当をやり過ごしてしまった。見ないふりを続けた」という西島班長のセリフが胸にしむ。

 拓郎も一時期JEEPに乗ってたよね。JEEPといえば、かまやつひろしさんも愛乗していたらしい。昔「ミエと良子のおしゃべり泥棒」にムッシュがゲスト出演した時に「荒れた道をジープでガタガタしながら飛ばすのが楽しい…」みたいな発言のあとで、森山良子が小さな声で「…ズレちゃったりして…」と呟いたのが忘れられへん。  

2023. 5. 11

☆☆☆本当の距離☆☆☆
 「JEEP」は良い曲だなぁ。長渕は珍しく情念をあまり表に出さずに、淡々と景色を描写してゆくその行間ですべてを表現する。少し投げやりな歌いっぷりがまた絶妙に素晴らしい。

 ところで、いつも思う。拓郎ファンである俺の陥りやすい悪弊というか勘違い。つい吉田拓郎本人のスタンスですべてを捉えてしまうところがある。長渕剛、浜田省吾をまるで自分がお世話した後輩のような感覚で観てしまう。あの桑田佳祐を「オー桑田君、相変わらず頑張ってるな〜」という気分で観ていたりする。坂崎幸之助なんかは殆どダチみたいな感覚でいる。松山千春よ「拓郎」じゃない「拓郎さん」と言え…んな勘違いは俺だけだな。いずれも俺なんぞは影をも踏めない超絶なスーパースターであることは言うまでもない。この身の程知らずの倒錯した距離感は心の底から戒めなくてはならないと思う。
 それは何よりたぶん吉田拓郎ご本人にしてからが、彼ら後輩に対してそんな尊大な距離感では生きていないと思われるからだ。そこだ。そこなんだよ。吉田拓郎の他者への畏れある距離感こそ学ばなくてはならない…と俺は思うのだがぁぁあぁぁ。

2023. 5. 10

☆☆☆拓郎ではない歌手☆☆☆
 このサイトのポリシーは簡単だ。この世界には「吉田拓郎」と「その他の歌手」の2種類の歌手しか存在しない。…偏愛を超えて,そもそも人としてどうかと自分でも思う。そんな人としてどうなのかな拓バカと二人で新しい行きつけの居酒屋で飲む。
 二人とも長渕剛は苦手なのだが、相方は先日NHKラジオで9時間にわたる「長渕剛」三昧を聴いてしまったという。僕はと言えば、篠島もあり、長渕剛は遠いようで近く、近いようで遠く、やっぱり遠くでいいやと思ってきた。この心情は、むかし子どもの頃遊んでくれた近所の優しい兄ちゃんが、しばらく見ないうちにイカツイ極〇になって現れた時の気分に近い(爆)。なので触らぬ神に祟りなし。すまんな。

 そんな門外漢二人でベスト50曲のランキングを眺め、放送内容をリフレインしていると意外にも妙にしみじみとした気分になっていった。俺たちを基準にしても何の意味もないが、そういえば大好きだった曲を見つけるたびに胸が疼いた。そしてそういう俺らでも知っているような有名スタンダード曲よりも上位には、俺らが知らない曲も多かった。それは長渕も長渕のファンもたぶん過去と苦闘しながらも新しい歌の旅を続けてきたことの証のように思えた。その知らない曲をその場でスマホで検索すると心に響く曲が結構あった。かつてのNHK出禁事件の顛末のくだりも、そりゃあ、あまりに長渕が気の毒だよな…となんか知らんが意気投合してしまった。
  
 ということでspotifyで「JEEP」と「素顔」と「何の矛盾もない」を聴きながらひとり夜道を帰った。長渕や長渕的なものを疎んじてきたことに後悔はないが、なんだろうか、寛解してゆくような,それでいてちょっと切ないこの気持ちは。気が付くと僕はいま何をしてるんだろう、夜空を見上げると、多くの夢が、星になり風になり踊って見える…最後はやっぱり拓郎か。ああ、なんかはかないぜ。

2023. 5. 8

☆☆☆色褪せなかったのは4人の若者だけ☆☆☆
 サイトでお世話になっているNinjin design officeの画伯から「ずうとるび」が再結成したことを教えてもらった。同時に1975年〜6年のアイドル雑誌「近代映画」のファン投票で「ずうとるび」は西城秀樹、郷ひろみ、沢田研二らをおさえて、女子部門の山口百恵、桜田淳子と並んで第一位に輝いている資料を見せていただいた。俺と同じ年齢の画伯から「当時、ずうとるびは新御三家を凌ぐ人気があったのだろうか?」という真摯な問いかけをいただいた。うん確かに「ベイシティローラーズ」は流行していたよな。そのころ俺は蒲田の日本電子工学院で収録していた「学校・そば屋・テレビ局」は観ていた記憶があるが、75年といえばフォーライフにつま恋にと拓郎ファンにとっては吉田拓郎しか見えないめくるめく日々だったため、そのあたりの記憶がない。
 2020年、もともと4人組だったずうとるびは再結成して5人組になっていた。山田隆夫が脱退して交代した池田喜彦メンバー(すまん知らなかった)も一緒に再結成に参加しているためだ。2013年のローリングストーンズの公演で、ロン・ウッドとミック・テイラーが一緒のステージに立っているみたいな贅沢さだ>ホントにそう思っているか? いや、それでも「ずうとるび」と聞くだけでどこか心はみかん色になってくるんじゃよ。それも自由だとずうとるびは教えてくれた。
☆☆☆どうしたってソウルメイトな歌☆☆☆
「ビートルズが教えてくれた」(歌:LISA 作詞/作曲:吉田拓郎「吉田拓郎トリビュート〜結婚しようよ」所収)
 LISAのこのカバーはすげえ魅力的だ。LISAといってもたぶん若者に今人気のLiSAとは違うらしいが、もう爺ちゃんにはLISAもLiSAも、な〜んもわがんね。とにかくピアノでの清冽な弾き語りの「ビートルズが教えてくれた」がたまらない。

2023. 5. 7

☆☆☆思い出になんかしないよ☆☆☆
 ウチの方は久々の雨だ。車の中でバラバラという雨音の中、遠くでかすかなクラクションが聴こえると♪た,え,こ,MY LOVEと歌い出したくなりませんか?>ならねぇよ。…そうですか。私は歌いたくて仕方なくなります。
 そういえばステージで「たえこ MY LOVE」を聴いたのは1981年の体育館ツアーが最後だったっけ?と考えていたら、そうだ1999年の20世紀打ち上げパーティーのメドレーでフルサイズではないものの結構ちゃんと歌っていたことを思い出した。2021年からの最後のオールナイトニッポンで、「もうこの歌は歌えないだろうな」と弱気な様子を見せた拓郎だったが、果たしてそうだろうか。試してみてもいいじゃないか,はさらばのB面。恥ずかしかったら、俺の前でそっと歌ってみなよ>知り合いかよ
☆☆☆どうしたってソウルメイトな歌☆☆☆
「たえこMY LOVE」(作詞/作曲:吉田拓郎 「セイ!ヤングでオンエアした1979篠島バージョン」) 
 出だしを2回間違えるところは伝説級の面白さだ。しかし、この時の最後のボーカルの岩石落とし=「のぉぉぉ〜なぁぁぁ〜ないやぁぁぁぁ〜おおぉぉぉぉぉ 」という絶唱の終わり方にも度肝を抜かれた。魂だ。最初だけでなく、最後もいろいろ凄い1979の「たえこMYLOVE」である。ココ大事。

2023. 5. 6

☆☆☆♪あなたに逢いたい、あなたの声が聴きたい☆☆☆
 石川県、能登半島の地震、知り合いは無事でしたが、被害はかなり大きかったようで御見舞申し上げます。いちはやく収束しますように祈るしかない。こんなときにいつも短くも心のこもった言葉を送る御大であった。表白しないだけで、今も変わらずおられることと思う。あなたもどうしておいでだろうか。

☆☆☆どうしたってソウルメイトな歌☆☆☆
「ここに幸あり」(歌:大津美子/作詞:高橋掬太郎/作曲:飯田三郎 ) 
 先日、同窓会の手伝いでつきあわされた飲み会で、私よりさらに爺な大先輩が歌うのを聴いて胸に響いた。ああ、これは拓郎推しの歌ではないかと。「女」を「推し」に変えたらぴったりだ。

 嵐も吹けば 雨も降る
 推しの道よ なぜ険し
 君を頼りに 私は生きる
 ここに幸あり 青い空

 命の限り呼びかける
 こだまの果てに 待つは誰
 君によりそい 明るくあおぐ
 ここに幸あり  白い雲

…いいじゃないか,いいじゃないかはさらばのB面。とにかくこの困難で理不尽な世の中、この歌を胸に推し無き日々を元気にまいりましょう>おまえひとりでいけよ

2023. 5. 5

☆☆☆私はありふれた恥ずかしい人間だから☆☆☆
 …気になることを話してみます。いつも考えるのだが「女たちときたら("FromT"のデモテープ所収)」と「東京の長く暑い夜(1990年男達の詩ツアーでのみ演奏)」との先後関係はどうなのだろうか。どっちもほぼおんなじ詞で、結局どっちもアウトテイクとなってしまっている。なのでどっちが先でも大きな違いはないので、まぁどっちでもいいかといつも考えるのをやめてしまう。
 どちらも1990年の夏が舞台だ。イラクがクウェートに侵攻したのは、90年8月2日だ、…なんて日に戦争しやがる。絶望的な世紀末のような悲しみに、拓郎は「東京の長く暑い夜」で苛立ちをぶちまけるようにステージでシャウトする。そしてツアーが終わって、たぶん「detente」の曲作りに向けて、かの歌を少しクールダウンして日常の景色に落とし込んで音楽的にまとめてみたのが「女たちときたら」になったものか。
 逆にあの夏と自分の暮しを最初に「女たちときたら」でデモテープにまとめたが、こりゃあ、なんかアウトテイクだなと判断して、ぶち壊すように換骨奪胎で弾き語りでシャウトしたのか。それにしてもこのデモテープのアレンジは秀逸だしな…
 というわけでどんなに考えたところで本人しかわからないし、どっちでもいいじゃねぇかというご意見こそごもっともだ。しかし、どっちでもいいじゃねぇかなこと、ここに幸あり白い雲。知らねぇよ。
☆☆☆どうしたってソウルメイトな歌☆☆☆
「東京の長く暑い夜」(作詞/作曲:吉田拓郎 ) メインロードには乗せなくとも、どこかでこういう魂の唄が聴けるような環境はできないものか、なんかとならないか。♪東京の長く暑い夜は 私に消えちまえと言うのでしょうか〜このフレーズがあまりに魂すぎる。

2023. 5. 4

☆☆☆箱根の山は天下の剣☆☆☆
 ♪箱根に行きたいと思っているよ、心が洗えれば幸せだから(「女たちときたら」)…ということで箱根に行ってみたが、連休の激込みでそそくさと退散してきた。芦ノ湖でボートも漕がず、大涌谷の黒いゆで卵も食べず、温泉も入らず…ロープウェイは最初から乗るつもりなく撤収した。あ、断じて高所恐怖症なのではなく、子どもの頃「ウルトラQ」(第2話「ゴローと五郎」)の冒頭で、ロープウェイに乗ってると、巨大猿のゴローがロープにぶら下がって近づいてくるというすげー怖いシーンがあってトラウマになっていまだに怖いのだ。>高所恐怖よりそっちが恥ずかしいだろ(爆)
 とにかく、どこもかしこも75年8月2日の多目的広場状態である…参加していないけど。よほどのこと=吉田拓郎が歌うのでもない限りもう人混みはなるべく避けたい。よほどの吉田はあるのだろうか。
☆☆☆どうしたってソウルメイトな歌☆☆☆
「Baby」(作詞:松本隆/作曲:吉田拓郎 「ローリング30」所収) やはり箱根といえばロックウェルスタジオだ。聖なる場所に祝福を。最近好きなのが「Baby」。まるで映画を観ているような叙景とPOPなサウンドに気分が弾む佳曲だ。昔は埋め草のようなテキトーな曲だと思っていたが、すまん。すまんといってもそもそも松本隆にしてからが「ローリング30」の殆どが捨て曲だと言っていた(ミュージックマガジン2015年7月号インタビュー)。当時の音楽雑誌のレビューでも一枚のアルバムに取捨選択しろと批判されたりして、当時はそうかもなと思ったりもした。しかしどうだ、今となっては、このアルバムに捨て曲が一曲もありゃあせん。どれを削っても成り立たないとさえ思う。ロックウェルの魔術は永遠なのだ。

2023. 5. 3

☆☆☆何十回目かの記念日☆☆☆
 「これは、どれだけ圧倒的な多数決でも絶対に奪えない個人の自由のセットリストみたいなものだ」だからこそ「少数者のための最後の防波堤なんだ」と熱弁していた恩師の授業を思い出す日。
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…もっと真面目に聴いておきゃよかった。多数派の政治家には鬱陶しく邪魔なものであることは当然だ。だから彼らの喧伝する改正の機運や大義など知ったことか。ささやかな個人の生命、自由及び幸福追求と並んだ平和があればこそ、それがすべてだ。
 …ということで若者よ、世界の果てで愛する人のために自転車をこげ! どこまでもひたすらにこぐべし!、こぐべし!。いみふ。
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☆☆☆どうしたってソウルメイトな歌☆☆☆
「Life」(作詞/作曲:吉田拓郎 「FOREVER YOUNG」所収) 
 しくみがあるから生きるわけじゃない
 勝手なルールを押し付けないでくれ
 こちらを向けと言われて背いても
 人が人として 息づいているんだ
くぅぅぅ、何度聴いても名作ばい。拓郎さんご本人の意図はわからないけど、自分の思い込みとしては、どこまでも個人の尊厳を体現した歌に聴こえ、ひたすら胸にしみる空のかがやき。先生の授業はあまり真面目に聴かなかったけれど、大切なことはすべて吉田拓郎から教わってきたのだ。

2023. 5. 2

☆☆☆女優系☆☆☆
 ということで俺一人で盛り上がっていた小津安二郎映画祭も昨日の「浮草」をもってほぼ終了した。「東京暮色」の陰のある有馬稲子も実に素敵だったが、この映画では若尾文子が素晴らしい。もうオーラが違う。
 仔細あって旅芸人一座の先輩である京マチ子から、真面目でカタブツな好青年の川口浩のことを誘惑しろと命じられて、ホントはそんなことしたくない若尾文子がしぶしぶ彼に接触する。もう川口浩がイチコロだ。たぶん観ている男性もみんな川口浩だ。まるでアマゾンの秘境でアナコンダに呑み込まれてしまう探検隊の隊長のようである。
 ということで吉田拓郎がなぜ若尾文子に惹かれたかがわかる気がする一作だった。共演できたときの拓郎の喜びはいかばかりか。…なのに怒らせちゃったんだよね(涙)
☆☆☆どうしたってソウルメイトな歌☆☆☆
「おはよう」(作詞/作曲:吉田拓郎 「今はまだ人生を語らず」所収) いいねぇ、爽快。
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2023. 5. 1

☆☆☆ウェルカムの心意気☆☆☆
 小津映画に出てくる言葉遣いで次に気になったのが「おいで」だ。笠智衆が娘や家族に朴訥だがやさしい口調で言う「こちらにおいで」「お父さんのところにおいで」。これは別に今でも一般的に使われる言葉だけど、ちょっとアレって思ったのは、笠智衆の職場に杉村春子演ずる妹が不意に訪ねてくるシーン。「兄さん,こんちは」、兄さんは笑顔で「あ〜、おいで」…この「おいで」はcome onではなくwelcome=歓待の意味になっている。「おいでやす」に近いのか。そもそも言葉というより笠智衆の言い方の温かみも大きい。
 ということで、ここまで書くとこの爺めが何の歌を聴きたくなってくるかがおわかりでしょう。そうだ。「おいでよ」(作詞/作曲:吉田拓郎/編曲:鈴木茂 「大いなる人」所収)。77年秋、毎日のようにラジオ番組にこの当時のニューアルバムのプロモーションに出演していた拓郎はこのアルバムで一番好きな曲だと宣っておられた。…正直、高校生の俺はそれほどの曲か?と当時は思った。
 当時拓郎は、かまやつひろしのレギュラーラジオ番組にも出演したが、ムッシュが「この『おいでよ』って拓郎の口癖だよね。『ムッシュ〜、これやってるから、おいでよ』ってよく言うよね」と話していたことを思い出した。笠智衆のしみじみとした歓待、吉田拓郎のウェルカムな思い、それをちゃんとわかっているムッシュ…ということで、たったいま、この曲はそれほどの曲に昇格(爆)>怒られるぞ
☆☆☆ソウルメイトな曲☆☆☆
「おいでよ」(作詞/作曲:吉田拓郎/編曲:鈴木茂 「COMPLETE TAKURO TOUR 1979」所収)
 Uramadoにも書いたが、"帰ればもとままさ 時計もあの時のまま"のあとの中華なメロディーで気が散ってしまうので、今日はTOUR79のライブバージョンを聴く…が,同じじゃん!…"すいません、サンラータンメンと春巻きお願いします!"と叫びたくなる。とはいえTOUR79には拓郎の「おいでよ」の肉声紹介が入っているところがおトクです。
"僕の部屋には小さいけれど 君が旅立つ何かがあるよ"…御意。

2023. 4. 30

☆☆☆ちょいとしたマイブーム☆☆☆
 ジャケ買いした「東京暮色」以来、小津安二郎の映画に超ハマりして10本くらいたてつづけに一気に観てしまった。ゆったりとしたセリフとその間あい、美しい構図、土間、縁側からの画角、そして昭和の街…ああ蒲田に多摩川に五反田だ、この雑司ヶ谷の坂は知っている…今さら俺ごときが言うまでもなく、いろいろ素晴らしい小津映画の世界。しかし人を見れば、君はいくつだ、嫁にはいかんのか、男なら身を固めて、申し分のない家柄…などなど70%くらいがセクハラと差別で出来上がっている気がする(爆)。武田鉄矢ではないが確かに昭和は輝いていたけれど、ひどいこともいっぱいあったもんだ。だからこそ笠智衆の孤独がいっそう胸にしみる。
 
 映画の中で、気になった言葉がいくつかあった。拓郎はかつてラジオで古い日本映画の「細君」という言い方に反応していたことがあった。そのひとつは「ちょいと」だ。映画のセリフに実によく出てくる。老若男女問わず、セレブたると否とを問わず、公式の場であっても、みなさん「ちょいと待って」「ちょいと考えさせて」「ちょいと時間が」「ちょいとさ」…当時はかなり広く深く浸透していたことが窺えて面白い。今は死後ではないもののあまり使わない。あの頃の人々は「ちょいと」の間合いにその時の気持ちをこめて暮らしていたのかもしれない。そして、あのお方の歌にはそこそこ登場する。ちょいと思いつくだけで…「吉田拓郎"ちょいと"ベスト3」

   第3位 ちょいと地球へ遊びにやってきた(たくろうチャン)
       遠い星から地球にちょいとだけ(together)

   第2位 気取って見せよう、ちょいとした気分さ(悲しい気持ちで)

   第1位 オイラお先にちょいとゴメン、オイラとにかくちょいとゴメン(この指とまれ)
 
 >「ちょいと」ベスト3に何か意味があるのか…ねぇよ。あっても、なくてもやるんだよっ(怒)     
☆☆☆どうしたってソウルメイトな歌☆☆☆
「悲しい気持ちで」(作詞/作曲:吉田拓郎/編曲:鈴木茂 「大いなる人」所収)
  地味ながら、いい歌です。幸福と不幸の紙一重の谷間。何を探してる魔法の杖かい? 足元の石ころでも拾え。結構元気づけられたものです。鈴木茂のアレンジの品格が素晴らしい逸作でもある。

2023. 4. 29

☆☆☆ゆうづうのきかぬ自由に乾杯☆☆☆
 拓郎の泉谷への手紙をどう思うかは個人の自由だ。しかしそこから音叉が共振するように「泉谷しげるの見た吉田拓郎」があちこちで浮かび上がってくる。それらは俺にはとても大切で必要なものなのだ。泉谷から見える吉田拓郎は、笑いの中にも、どうしようもない切なさとやさしさが満ちている。そんな泉谷の貴重なつぶやきを教えてくださった同志の方ありがとうございました。…なんとなく思い出すのが何回も引用したあの一節だ。

「ほんものを見る、ってのもな、むろん大切なことだよ」泣き男はつづけた。「でも、それ以上に大切なのは、それがほんものの星かどうかより、たった今誰かが自分のとなりにいて、自分とおなじものを見て喜んでいると、こころから信じられることだ、そんな相手が、この世にいてくれるってことだよ」(いしいしんじ 「プラネタリウムのふたご」より)

 それにしてもわかったようでわからない…と言いつつ、わかりかけたような気がしたけれど、やっぱり永遠にわからないのが吉田拓郎だ。だからファンはやめられないし終わらない。終わりようがないのだ。
☆☆☆どうしたってソウルメイトな歌☆☆☆
「街を片手に散歩する」(作詞/作曲:泉谷しげる 「クリスマス」所収) 作品もいいけれど、それにこたえるようなボーカルが実に素晴らしいっす。これが共振ってやつっす。

2023. 4. 28

☆☆☆ホームにて☆☆☆
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 中野駅のホームからサンプラザと並んだ中野区役所の垂れ幕を眺める。区役所もエールを贈っている。
 「最後の中野サンプラザはじまる」
 「さよならNAKANO SUNPLAZA」
 ああ、いよいよ終わってゆくのか。ありがとう中野サンプラザ。
 その下にある「憲法を生かそう くらしに まちに」…このエールも一緒に胸にしみる。そうだ、先生諸兄含めたすべての公務員の仕事は渾身で尊重し擁護することであって、改正に血道をあげることではない。なんだかんだで、ひとり胸が熱くなり、ああこのまま駅を降りて「第二力酒蔵」で昼呑みしたいと思った。聖なる場所に祝福を。
☆☆☆どうしたってソウルメイトな歌☆☆☆
「望みを捨てろ」(作詞:岡本おさみ/作曲:吉田拓郎 「よしだたくろうLive'73」所収)
 さよならNAKANO SUNPLAZA、この最高のシャウトと最高のサウンドを残してくれた聖地よ。

2023. 4. 26

☆☆☆あなたと私は子どものように☆☆☆
 拓郎の「好きだよ」で終わる手紙を読み上げられると、泉谷は一瞬の間のあと「…よく喧嘩したなぁ」とつぶやいた。そのしみじみとした感じがまた胸をうった。俺もしみじみと思う。
「吉田拓郎と泉谷しげるが喧嘩した」というニュースを聴くと原因も経緯もわからないが「…きっと拓郎が悪いんだろうな」と思う。そういうのない? 俺はある。きっと拓郎が何か言って怒らせたんだろうな…という(爆)。すまんな。なぜだろう。それもこれも、いいじゃないかと思わせてくれる素敵な手紙だった。
☆☆☆どうしたってソウルメイトな歌☆☆☆
「ああ青春」(作詞:作曲:吉田拓郎  「吉田拓郎ライブ コンサート・イン・つま恋'75」所収)
 何度でも書くぞ。かつて地球ZIGZAGにゲスト出演したとき、ロックミュージシャンを目指す若者のドキュメンタリーを観た泉谷が「ロックってこんなもんじゃねぇよ」と悪態をついた。高橋リナさんが「それでは泉谷さんにとってロックとは何ですか?」と尋ねたところ泉谷はキッパリと言った。
「吉田拓郎がよ、つま恋に6万人だか集めちゃってよ、本人は大観衆を目の前に緊張してビビっちゃってよ、目はうつろ、声はヘロヘロでうわずっちゃってボロボロなのよ。それでも、こうやってギター抱えて『歌うぞ』ってググッ、ググッて身体を前に出してゆく、俺に言わせれば、そういうところに本当のロックがあるんだよ」 泉谷、好きだよ。今日はこれを聴こう。

2023. 4. 24

☆☆☆二人の本当の距離☆☆☆
 昨夜は久々にtくんとサシ飲みしてご機嫌で帰って、ねーさんから教えて貰っていた「篠原ともえの東京プラネタリー☆カフェ TOKYO FM 2023/4/23(日) 」をradikoで聴いた。まだ聴けるぞい。吉田拓郎の泉谷しげる宛ての手紙が、昨夜のことだったので特に胸にしみた。

泉谷しげるさん
大変ご無沙汰しています。
私はずっと昔、あなたとはじめてお会いしたころから
この人は自分にとってきっと長い人生においても本当に数少ない
心を開いて話し合える存在となる人だと確信していました。
そしてそれはやはり現実になりました。
私は振り返るとその時々に数多くの仲間たちに囲まれて、それこそその時々に親しくお付き合いした人々が存在しましたが、結局はその時だけのビジネスライクな存在でしかなかったと断言できます。
今この瞬間につくづく思うことは、泉谷さんと私の説明不要の距離感こそが人生において実に大切なものだったということです。
お互いもう少人生を味わいたいですよね。
これからもこの距離感のままでもう少し楽しみましょう。

好きだよ。
                  吉田拓郎


「愛情が三倍か四倍になって返ってくる、ここまでも返さなくてもというくらい、愛情のかたまり」という泉谷の返しの言葉も良かった。

 説明不要の距離感。最後はそれしかない。そうそうセブンスターショーでこの二人は距離について話し合っていたよな。二人の姿を説明不要の距離感をもって眺めていたファンも勝手ながら一緒に祝福されているかのごとく嬉しい。
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☆☆☆どうしたってソウルメイトな歌☆☆☆
「寒い国から来た手紙」(作詞:作曲:泉谷しげる) オリジナルと吉田拓郎のカバー、両方聴くよろし。

2023. 4. 22

☆☆☆何もかも求めすぎずおだやかに☆☆☆
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 昨日、献杯のために初めて入ったお店で出てきた「フキとタケノコ」。これだけでどんだけ元気になるか、どんだけ嬉しかったか、おそらく料理を出したお店の人でもわかるまい。ありがとう。献杯。
☆☆☆どうしたってソウルメイトな歌☆☆☆
「フキの唄」(作詞:作曲:吉田拓郎 「午前中に…」所収)「何よりも平和が大切でありました」…この歌詞が尖ってきこえてしまうほど今の世の中はささくれだっている。ただの拓バカのヘタレおじさんだが、この多数派の流れにはのれない。ちょいとゴメン。

2023. 4. 21

☆☆☆何度でもアゲイン☆☆☆ 
 文字通り生涯をささげた真摯な拓郎ファンだったK君の命日がまたやってくる。昨年は拓バカが集まって盛り上がって楽しかった。ああやっていろんな話を聞くと、毎年殊勝なことを書いているこの俺も、いろいろ彼に気を遣わせたりして迷惑をかけていたこともあったようだ。すまなかったな…でもそういう話を聞くと後悔というより、いっそう彼のことを好きになる。これこそが彼の人徳だ。

 彼と二人きりでどこかに行ったのはたぶん一度きりだ。渋谷のライブハウスに甲斐よしひろを観に行った>拓郎じゃねぇし。会場で二人で開演まで缶ビールを飲んでいると館内にBGMで流れていたアグネスの歌。K君が「これ!これ!松本隆の作詞家デビュー作で、細野晴臣、鈴木茂、林立夫、松任谷正隆…キャラメルママの演奏なんですよね。」…彼が嬉しそうに言うとなんか俺も嬉しくなって周囲に客がいなかったことも手伝って酔っ払いの俺たちは小さく歌いながら揺れた。
 いつもはビッグバンドの「どうしてこんなに悲しいんだろう」を聴くのだが、今日はなんかこっちだ。よければみなさんご一緒に。
☆☆☆ソウルメイトのソウルメイトな歌☆☆☆
「ポケットいっぱいの秘密」(歌:アグネス・チャン/作詞:松本隆/作曲:穂口雄右/編曲 キャラメルママ、東海林修)

2023. 4. 19

☆☆☆ディラン暮色☆☆☆
 先達のブログに書かれていたが、ボブ・ディランの来日公演の絶賛記事があちこちに溢れている。「あぁ行けばよかったかな…」とちょっと後悔したがもう遅い。運命みたいに僕にも悲しみが湧いてきた。
 運命といえば今はすっかり呆けてしまった叔母が、当時高校生だった俺に「絶対に本人をこの目で観ておくべきよ」とディランの初来日のチケットを買ってくれた。初めての武道館に舞い上がり、ひょっとしたら吉田拓郎が来ているかもしれないと待ち時間の客席でも落ち着かなかったが、そもそも拓郎はこの時あえて観には行かなかったのだと後で知った。しかしその次のトム・ペティとの来日公演は堪能したらしい。そもそも拓郎は「血の轍」あたりからディランがわかんなくなったと言っていたが、むしろ自分は「血の轍」あたりからすげーカッコいいなと思い始めたので、拓郎の影響で聴き始めたとはいえ拓郎の思いとは俺はズレている。

 最後にディランのライブを観たのは2001年のパシフィコ横浜だった。ずいぶんライブのインパクトが変わっていた。偶然同じ公演に行っていた拓郎ファンの同志だった亡K君も「…ヘリウムガスを吸って歌ってたのかと思いましたよ」とちょっと悲しそうだった。ディランはステージで終始、笑顔もなくMCもなし、ご挨拶すらもしなかった。当時の大好きな逸話で、ディランが孫の幼稚園に行って園児らの前で歌ったことがあって、園児たちが「怖いおじいさんがやって来て、怖い歌を歌って帰って行った」と震えていたらしい(爆)。それと近いものがあった。
 ディランはとにかく音楽だけをキッチリ提供するつもりなのか、サービスとか客のグルーヴとかはとにかく完無視しているかのごとくだった。これが例えばストーンズのライブだといつだって熱狂してしまうのは、やはりそこにはあくなきサービス魂が漲っているからではないかと思う。…怒られるかもしんないけど。吉田拓郎もまたライブではサービスとグルーヴの人だ。というわけでなんとなくライブのディランは敬遠してしまうのだが、今年はどうだったんだろうか…と気になるが、拓郎がリタイアしてしまった今、あきらめられないものもない、現在の現在。
☆☆☆今日のソウルメイトな歌☆☆☆
「Sara」(歌/作詞/作曲:BOB DYLAN  アルバム「欲望」所収)
 叔母は昔から吉田拓郎のことが大嫌いで、当時高校生の俺を必死で更生させようと頑張っていた(爆)。"となりの町のお嬢さん"を「気の抜けたビールみたい」、"明日の前に"を「…ですぅ〜、…ますぅ〜しか耳に残らない空虚な歌」等と悪態をついては俺をいつも怒らせていた。しかし俺の部屋にあったディランのアルバム「欲望」を勝手に持ち去って「夕暮れ時にひとりで"Sara"を聴いているととめどもなく涙が流れてくるわ」としみじみと語っていた。だからチケットを買ってくれたのかもしれん。

2023. 4. 17

☆☆☆ジャケ買い☆☆☆
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 この女優さんがどなたで,誰が監督するどんな内容の映画なのかも全く知らずに、この写真にイチコロになって「ジャケ買い」してしまった。まだこの写真にドキドキする自分でいられて良かった>知らねぇよ。買ってからこの女優が若き日の有馬稲子さんであり、小津安二郎監督、原節子主演の「東京暮色」という映画であると知った。人は哀しみで出来ているという我がソウルメイトの口癖が思い出されるような映画だった。しかしこれを観ることができて良かったと心の底から何かに感謝したい。吉田拓郎がリタイヤし人生のお手本を失ってしまった今、笠智衆をあらたな目標に飄々と生きてゆこうと誓った(爆)。いみふ。

 ジャケ買いといえば、吉田拓郎ファンになってしまうとレコード・CDを買うことと呼吸することは同じ当たり前のことなので、ジャケットにつられて「ジャケ買い」をしたことはない。とはいえ最近ご無沙汰の居酒屋で、拓郎ファンのマスターは、中学生の時にアナログの豪華箱盤の「TAKURO TOUR 1979」のジャケットがあまりがカッコよすぎて思わずジャケ買いしたことがファンになるキッカケだったと語っておられた。また小中学校の同級生で南こうせつのファンになっていたHさんから「もう可愛くて可愛くてたまらなくて」ということでアルバム「ONLY YOU」を衝動買いしてしまったという話を聞いたこともある。
 しかし拓郎の場合、まるでジャケ買いを拒否するかのような残念なジャケットも多い(※個人の感想です)。アルバム「無人島で」をジャケ買いする人がいるだろうか。いたとしたらどんなヤツだ。「王様達のハイキング」もあのモデルの方にはすまんがジャケ買い拒否案件としか思えない。シングル盤でも「流星」,「春を待つ手紙」,「心の破片」あたりをジャケ買いする人はおるまい。…「気持ちだよ」に至ってはもうこりゃ試供品か何かかと思ったぜ。 あくまで吉田拓郎は元祖ビジュアル系の人だと思うので、本人のいないジャケットはかねてから認めたくない。
 しかし、しかしだ。本人がいないのに、それでも胸熱くなってジャケ買してしまった一枚があることを書きながら気が付いた。最後の最後のこれがあった。
☆☆☆どうしたってソウルメイトなアルバム☆☆☆
「ah-面白かった」[アナログ盤]
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これがなかなかどうして、最後がジャケ買いだったとはオツなものですな(笠智衆のフシで)

2023. 4. 15

☆☆☆ひとりよがり☆☆☆
 またマニアな話ですまんな。スタートレックピカードseason3の第9回「声」には泣けた。"All makes me cry!"ということで,どうやら世界中のオタクたちもみんな滂沱の涙を流したようだ。米国では今回と最終回の来週回はIMAXで劇場上映するらしい。さすが米帝、やるもんだ。うらやましい。…と言っても殆どの人がなんのことかおわかりにならないだろう。例えれば、今年、フジロック2023に行ったら、吉田拓郎がサプライズで登場し、しかもバックバンドで松任谷正隆、鈴木茂、高中正義、島村英二、エルトン永田、岡沢章という面々が揃って、拓郎の「さぁ新しいのを演ろう!」という一声のもと島ちゃんのカウントでバンドが鳴り出す瞬間…そんな感じだ。

 これもひとりよがりだが、昨日から個人的脳内ヒットチャート独走中の「海の底でうたう唄」。どうしたってモコ=高橋基子さんを思い出す。「マクセルユアポップス」とか「ニューサウンズスペシャル」とか…高橋基子と話す拓郎はよかったなぁ。話が弾んで面白かった。まるでおねえさんと話しているみたいに心を許しあう信頼感を感じた。それでいて結構、真剣な話もきかせてくれたりもした。安井かずみ、コシノジュンコ、落合恵子…母性ならぬ姉性愛の通底みたいなものを感じるのだ。モコさんお元気だろうか。

☆☆☆どうしたってソウルメイトな歌☆☆☆
「無人島で」(作詞:松本隆/作曲:吉田拓郎  「無人島で」所収)
「無人島で君を抱きたい」というけれどそれじゃ無人島じゃなくなるじゃないか(「俺だけダルセーニョ」P.204)というツッコミを拓郎に入れたのは「ニューサウンズスペシャル」でのモコさんだ。それじゃ矛盾していると。慌てた拓郎の「ムジュン島で」という切り返しも笑った。すべて幸福な日々よ。

2023. 4. 14

☆☆☆私たちが逢ったのは☆☆☆
 とはいえ私の身体もガタがきていて鍼灸の先生に定期的にお世話になっている。前にも書いたが銘医だ。毎回、待合室にある棋士の先崎学の「うつ病九段」(まんが版)を少しずつ読んでいる。それはまた。時間が来て施術台にあがると院長先生は必ず「拓郎さん」の話をふってくれる。だいたいが、「私も高校生の頃、初期の吉田拓郎さんを聴いていました」というお話からなので、思い切って「初期ってどの辺までお聴きですか」と尋ねてみた。すると「ペニーレインあたりまでは聴きました」「あ、ずいぶんお聴きになったんですね。お好きな曲は?」「…前にも言いましたけど『わしらのフォーク村』ですかね」…まだ言うか(爆)。「元気です」から「今はまだ人生を語らず」のソニー黄金期を聴きながら『わしらのフォーク村』をベストに挙げる。どれだけお好きなのか。やはり神は細部に宿るのだ。
 昨日は施術台に寝るといきなり「まにあうかもしれない」が流れていて、音楽をフォークチャンネルにしてくれていたとのこと。ありがとうございます。フォークチャンネル、拓郎はフォークが嫌いというものの,やはりすげーなフォークソングのめくるめく世界。例えば、何故このタイミングで山崎ハコの「呪い」なんだ。♪コン、コン、コン、コン釘を刺す、藁人形の釘を刺す…ただでさえ凄い歌だが、鍼灸の施術台で聴くとこりゃまた格別だ(爆)。君も経験するといい。
 あれこれフォークな世界の曲が流れたが、昨日一番胸にしみたのはモコ・ビーバー・オリーブの「海の底でうたう唄」。

 私達が逢ったのは静かな海の底
 私の長い髪を愛してくれた人

 私達のゆくえは誰も知らない

 釘…ちゃう鍼を打っていただいて陶然となったあと夢心地で聴いた。なつかしくて、幻想的で、コーラスがなんといってもうつくしい。
☆☆☆今日のソウルメイトな歌☆☆☆
「海の底でうたう唄」(詞:尾崎きよみ、曲:関口直人、編曲:青木望)。…ねぇ貝殻になりたいね、海の深くで眠りたい…そんな気分になる。

2023. 4. 13

☆☆☆一枚の写真☆☆☆
 奈緒さんがインスタに挙げたという拓郎の写真をネットニュースで観た。たぶん昨年のつま恋のものか。いい写真だ。当たり前だが俺が庵野監督がなんだとかダラダラ綴ったところで、すべてはこの一枚の写真でキレイに吹っ飛ぶ。この僕とつま恋と青い空なショットがたまらない。…青い空といえば、御腰の方は大丈夫だろうか。俺も腰痛持ちだが、俺なんぞよりはるかに重そうだ。どうかお大事になさってください。
 「腰」と言えば吉田拓郎も1993年ころからしばらくひどい腰痛に苛まれていたようだ。93〜96年は、ステージでは基本ずっと座って歌っていたはずだ。しかしその後、98年のツアーからはstand upに復帰する。ステージであの重量のギターを抱えて3時間くらいずっと立って運動をするくらいだから盤石で強靭なはずである。どうやって腰痛を克服したのか、昔から切実に関心がある。教えて拓郎。
☆☆☆今日のソウルメイトな歌☆☆☆
「ショルダーバッグの秘密」(作詞/作曲:吉田拓郎 「ah-面白かった」所収)…なんかこれかな、あの清々しいつま恋の写真のイメージは。

2023. 4. 11

☆☆☆Contrast☆☆☆
 そのNHKの庵野秀明のドキュメンタリーの中で庵野監督は俳優やスタッフらに敢えて詳細な指示は出さずに、現場で実際に作り出されるものから着想を得ようとする。庵野監督はアニメ出身だから詳細で秀逸な絵コンテを多々作り上げてきたはずだが、それでは自分を超える面白いものは出来ないということで新しい刺激の種を現場に投げかける。

 これを観ながらイカレている私は例によってついつい吉田拓郎のことを思ってしまう。拓郎も精緻なデモテープを作りあげる一方で、レコーディングやリハーサルではミュージシャンたちが現場で出す音を探りながら作品を作り上げてゆくシーンがしばしばみられる。
 例えば1990年4月の新曲「男達の詩」のレコーディングのドキュメントでスタジオに入ってミュージシャンたちに初めて譜面を渡す。「俺が描いたのは…」とギターを抱えて歌おうとして「あ、いいや、描かない(笑)」と思いとどまるシーンがあった。その後に現場のミュージシャンたちと「これは違う」「やっぱ戻そう」と右往左往しながらまさに心血注ぐようにサウンドを作り上げていたのが忘れられない。

 庵野監督と吉田拓郎はジャンルこそ違え現場のスタッフやミュージシャンのことを信じて現場に託す…という意味で同じことを考えていたのだと思う。

 しかし現場に委ねるということは、現場が四苦八苦して作ったものに監督が非情なダメ出しをする可能性も当然に含んでいる。実際に庵野監督は現場の作るものに「段取りにしか見えない」「必死さが伝わらない」と.とりつく島もなくことごとくNGを出しまくり多くのシーンが没テイクとなった。その結果として現場に大きな軋轢を生んでしまう。ドキュメンタリーの視聴者の中にはこれは庵野監督のパワハラだと非難している人も多い。このドキュメントだけでパワハラと断ずることはできないと思うが、重く沈痛な現場の空気であることは確かで、観ている自分も苦しくなってくる。

 単純な比較はできないが、これを観ているとテレビのドキュメンタリー番組やDVDで垣間見てきた吉田拓郎のスタジオワークでの魅力をあらためて思わずにいられない。すまん、庵野監督の現場が悪いという意味では断じてない。空気の明暗と陰陽がくっきり分かれているというそのことだ。拓郎にも時に厳しいダメ出しをしたり不機嫌でおっかなそうだったりするシーンが多々あった。しかしそれでも最後は拓郎の差配によってある種の明るい活気をもってスタジオの空気が収斂されていくように見えた。それは吉田拓郎という人の陽性な人柄とともに、彼がいかに人知れずに気配りとていねいなコミュニケーションを張り巡らせているかということを示している。そういう拓郎の人柄の威力なのか、それともそれが「音楽」というものの持つチカラなのか…たぶん両方だ。

 こうして天才たちの二つの異なる現場を勝手に比べながら、同じモチベーションであってもアプローチはずいぶん違うものなのだなと感じ入る。そうだcontrastだよ。
 昨日も書いたが庵野監督が舞台挨拶で「いろいろ言われるのは正直辛かった」とこぼしながら、それでも観客に心救われたことを素直に感謝し、あの長く深いお辞儀したところが深く刺さった。異なるアプローチの到着点が同じだったことがえらく感慨深い。

 そうそうこれが大事なのだが、庵野監督のこの映画は門外漢の私にも超絶面白かった。なんといってもヒーローである1号の池松壮亮がコミュ障で内省的なところが良かったし、対する柄本佑の陽気で明るいところも魅力的だった。まさにここでも明暗・陰陽のコントラストの魅力というべきか。

☆☆☆今日のソウルメイトな歌☆☆☆
「男達の詩」(作詞:作曲:吉田拓郎 )
 短髪の拓郎の初露出ということもあってあのドキュメンタリーは印象深い。そうはいってもデビュー20周年のシングルなのに目玉カップリングの「イメージの詩」をリハの途中で「これ止めよう、やる気がまったくしない」と放り投げるように却下して、宇田川さんが「弱ったな、このシングル」とショックを受けるところ…かなり好きです(爆)。

2023. 4. 10

☆☆☆シン・reverence☆☆☆
 週末に一番胸に刺さったのは、ニュース動画で観た庵野秀明の映画「シン仮面ライダー」の舞台挨拶(4月9日)だった。映画も観たし特に先週のNHKのメイキングのドキュメンタリーがかなり衝撃的だった。映画は賛否両論で、ドキュメンタリーでは庵野監督の所為についてパワハラではないかと騒がれていた。私は私でいろいろ思うところはあったが、なにせ庵野秀明も仮面ライダーも門外漢だ。今度詳しい友人と居酒屋でいろいろ教えてもらったり、とことん語り合ってからと思っていたが、昨日のニュースにはやられてしまった。
 ちょっと沈痛な様子も湛えた庵野監督は、胸いっぱいという感じで観客にていねいに感謝を述べ、退場の際にひとり残って、頭を深々と下げ、長い事その頭をあげようとしなかった。こういうお辞儀をする人をよく知っている。ああ、あの方のお辞儀だ。カタチだけではなく、あの方のお辞儀と同じ魂のふるえのようなものが伝わってきた。たとえ毀誉褒貶あろうともこの人を信じようと思った。 
☆☆☆今日のソウルメイトな歌☆☆☆
「S」(作詞/作曲:吉田拓郎 「王様達のハイキングin Budokan」所収)
 人を信じるってことは泳げない僕が船に乗るみたいに 誰にもわからない勇気のいることだから…んまぁ俺が信じたところで何の役にも立たないし、ヘのようなものだけどさ。
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2023. 4. 9

☆☆☆それでも誕生日☆☆☆
 昨日は森下愛子さんの誕生日だけではなくお釈迦様の誕生日でもあられた。あちこちの仏教のお寺では降誕会=花祭りがおこなわれていた。さすが阿弥陀如来の森下愛子さんである。
 99年のシングル「心の破片」がリリースされたときこのアレンジは花祭りをイメージしているという武部聡志だかの解説があった。当時の俺はなんでこの歌とお釈迦様の誕生が関係あるのかよく理解できなかった。そしたら仏教ではなくて、アンデスのフォルクローレの名曲「花祭り」のことだったのだな。随分あとになって知った。恥ずかしい。この音楽の「花祭り」を聴くと、むしろKinkiのあの曲「ボクの背中には羽根がある」が先に浮かぶ。とりあえず吉田拓郎と松本隆との最後の共作「心の破片」…これもいい曲だと思う。…ちっ。どっちも松本隆か。「花祭り」は「春の祭り」ということだ。今の季節にはぴったりではないか。
☆☆☆今日のソウルメイトな歌☆☆☆
 「心の破片」(作詞:松本隆/作曲:吉田拓郎  編曲 武部聡志)〜「ボクの背中には羽根がある」(作詞:松本隆/作曲:織田哲郎  編曲 家原正樹)
 つなげてループで聴くと結構いい感じだ。松本隆と吉田拓郎の最後の共作ということでしみじみとした殊勝な気分になるが、その後に確か二人で2004年に布施明のために作って何故かお蔵入りしてしまった幻の作品があったはずだ、ああ、どんな曲だったんだ聴きてぇ、そもそもなんでお蔵入りしたのか、どこまで続くワンハーフの呪い…というプラチナゴールデンな邪念が入ってくる。そんなことばかり考えている俺には羽根も生えやしない。

2023. 4. 8

☆☆☆誕生日はつづくよどこまでも☆☆☆
 今日は森下愛子さんの誕生日だ。おめでとうございます。
 何度も書いたが、学生時代、山手線の高田馬場駅のホームで赤いワンピース姿の森下愛子さんとすれ違ったことがある。バレエをされていたからか背筋が美しく伸びて姿勢がよく尋常ではないオーラがあった。生で女優さんを観た初めての経験だった。俺は茫然として立ち尽くし、振り返ったまま、階段を降りてゆく可憐な後姿をみつめていた。テレビ版「ああ野麦峠」に主演されていたころだ。そうそう「ああ野麦峠」は映画版の大竹しのぶも名演だが、森下愛子のドラマも傑作である。吉田拓郎ファンであれば両作おさえておきたい。

 それにしてもこれほどの女優でありながら、なぜか佳代さんという本名でも違和感なく親しまれている。こういうのって他に
ないよね。浅丘ルリ子のこと信子さん、松田聖子のこと法子さんて言わないもんね。

 ちなみに生で初めて観て握手してもらった歌手が小室等(爆)、生で初めて観た男優は、財津一郎だった、ギビシィィィィ。なので森下愛子で良かったと心の底から思う。すまん。
☆☆☆今日のソウルメイトな歌☆☆☆
「I'm In Love」(作詞/作曲:吉田拓郎 ビデオ「1996年 秋」所収」
 若いころ反発したこの歌に、今は聴いているこちらも見守られている気持ちになる。「96年秋」のバックステージでのご夫婦の姿が素敵すぎる。とくに最後の二人の後ろ姿がフラッシュアウトするところは涙ぐむような名ショットだと思う。久々に観てあらためて感動した。どうかお二人いつまでもお元気でお過ごしくださいと魂の底から思わずにいられない。

2023. 4. 6

☆☆☆どうしたってソウルメイトな歌☆☆☆
「いくつになってもhappybirthday」(作詞:作曲:吉田拓郎  「こんにちわ」所収)
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 昨日の誕生日はあちこちと賑やかだった。昔から拓郎ファンにとって4月5日はお祝いを表明するしないにかかわらず、ひとしく大切な日である。しかし今年はそれだけではなく、音楽関係者やライターやラジオ番組などで吉田拓郎の誕生日を寿ぐ人がことのほか多かった気がする。いいぞ、いいぞ、忘れるなよ、その気持ち(爆)。

 で何万回でも同じことを言うがこの誕生日ソングは超絶名作だ。拓郎ファンはきっと、4月5日のみならず、それぞれの大切な人の生誕の日が来るたびに心にこの曲が流れるはずだ。
 この歌が祝うのは、ただ君が君になったことそれだけだ。出自はもちろん、性別も才能も実績もルックスもチカラや資産の有無もなんにも関係ない。人に隠れて泣いたり、くじけないで生きてきたことそれだけをひたすらに讃えてくれる。嬉しいじゃないか。人生というのは本来そういうものであるべきじゃないか。
 そんなこの歌を拓郎ファンだけのものにしておくのはもったいない。拓郎に関係なく、広く世界の子どもたちからジジババに至るまで人類みんながこの歌を愛で、お互いの日に歌い合うようになれば、少しはこの世の中も風通しがよくなりそうな気がする。
 とはいえ私ら一般Pのファンには限界がある。こんなとこを読んじゃいないだろうが、音楽関係者のみなさん、なんとかこの歌をあまねくに広げていく試みをお願いします。あなたがたが、おべんちゃらじゃなくて本当に吉田拓郎をリスペクトしているならば>それが人にものを頼む言い方か!…すまん。とにかくお願いします、はあと
この歌はLOVELOVEの最終回で一度だけ歌われた。ああ、LOVELOVEがもう少し続いてくれたならなぁ…と詮無いことを思ったりもする。
 

2023. 4. 5

☆☆☆SUNRISE77☆☆☆
お誕生日おめでとうございます
 「77」ということは喜寿。ここまで来たらもう喜びしかありません。77…なんかいい数字です。77というと拓郎さんが昔のラジオでさらに昔のアメリカドラマ「サンセット77」が好きだったという話をされていたのを思い出します。ここは縁起ものなのでサンライズ77でまいりましょう。まだ見ぬ朝が来る、それぞれの日が昇る。
 それにしても今頃どうしておいでだろうか。どこかで逢おう生きていてくれ。どうかお元気でお過ごしください。
☆☆☆今日のソウルメイトな歌☆☆☆
「Contrast」(作詞:吉田拓郎 /作曲:吉田拓郎 「Live at WANGAN STUDIO 2022 -AL “ah-面白かった” Live Session-」所収)
 よくわかないままだが、ストリーミングというやつを購入してみた。これを聴きながら通勤する。ああ、花粉も胸もしみてくるぜ。まさにこの世に出でたあなたがこの一本の道を歩いてくれたからこそすべてがあります。あらためて吉田拓郎さんと吉田拓郎さんにつながるすべての皆様に心の底から感謝とともにおめでとうございます。
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       …いやそれ逆でしょう(爆)

2023. 4. 4

☆☆☆ラストエンペラー☆☆☆
 坂本龍一で思い出した。35年くらい昔のこと私が資格試験に立て続けに惨敗しどん底のとき、師匠の伊藤先生(知らんよね)が励ましてくれた。「先日、アカデミー賞を受賞した坂本龍一さんが受賞の感想を訊ねられて『賞とは終わった仕事に与えられるもので、私には次の仕事しか頭にない』と言っていた。さすがだ。合格も不合格も終わった過去のことだ、これから次に向って頑張ろうじゃないか」…確かに勇気づけられた。
 しかし坂本龍一に勇気づけられるというのも拓郎ファンとしてどうなのよと思って、直近の吉田拓郎のインタビューを読んだら「向上心が旺盛なヤツは才能がないんじゃないか?天才には向上心が要らないんだよ」と豪語していて、こりゃ役に立たねぇよと思った(爆)。
 勇気づけられるからファンになるわけではなく、勇気づけられるためにファンになるものでもない。そういう普遍の真理がただそこにあるだけだ。
☆☆☆今日のソウルメイトな歌☆☆☆
「人生キャラバン」(作詞:安井かずみ/作曲:吉田拓郎/編曲:加藤和彦 「Samarkand Blue」所収)
 あのインタビューを読むと紐づけられた当時のアルバム「Samarkand Blue」を思い出しその中で最高に好きなこの曲が聴きたくなる。慰められたり、勇気を貰ったりする実利・功利はなくとも例えばこの歌は生涯、俺のことを見守ってくれている気がする。目指す泉は枯れ、砂の嵐に、日照りは容赦なく、そして推しはリタイアしようとも(涙)、人生キャラバン道なき道を行く。

2023. 4. 3

☆☆☆♪過ぎ去るものたちよ、そんなに急ぐな☆☆☆
 坂本龍一氏の訃報。俺なんぞは思い切り外様なのでおこがましいとは思うが、忘れられない言葉がある。
 「彼とは一度会った。暴力的だと聴いていたが、そうは感じなかった。むしろ自分でもコントロールできないくらいのシャイネスを持っているように見えた。彼とはそれっきりだが、妙に記憶にあるのはよく通るダミ声。」(坂本龍一・ブックレット「"TAKURO"」FORLIFEより)
 「自分でもコントロールできないくらいのシャイネス」…素敵な言葉をありがとうございました。悲しいのは、音楽を始め、いなくなられてしまったことすべてにおいてだが、特にこのウサン臭くキナ臭い時代に「平和の大切さ」をきちんと発信し続けてくれた人がいなくなってしまったことだ。年齢もよく知らなかったが1952年生まれということは浜田省吾と同年なのだな。まだまだ若かったのだな。
☆☆☆今日のソウルメイトな歌☆☆☆
「ALL TOGETHER NOW」(作詞:吉田拓郎  作曲:小田和正とか)
 坂本龍一はあの日の「お前が欲しいだけ」のことを言っているのかもしれないが、坂本龍一と同じステージで歌われたというそのダミ声…あ、俺はダミ声でなく透明感あるボーカルと思っているのだが。
   でも君の瞳は美しい そう 君の命は永遠なのだ
 お疲れ様でした。心の底からご冥福をお祈りします。

※ブックレット「TAKURO」とは、アルバム「サマルカンドブルー」発売の時にフォーライフから出版されたブックレットというかパンフレットのことです。
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2023. 4. 2

☆☆☆腕から時計を…☆☆☆
 4月1日というといろいろ思い出すことがある。なにをなんで思い出すかは略す(爆)。
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 この時計は「ah-面白かった」の特典映像の中で拓郎が奈緒に贈った腕時計と同一モデルの時計とのことだ。持主の方がコロナに倒れたときの療養給付金で買ったらしい。倒れても何かをつかんで立ち上がるあくなきファン魂に頭が下がる。見せていただいて感謝です。写真を見ているだけでなんか胸ときめく時計だね。
 はずしたままの腕時計…というと浮かぶのはこの曲だ。
☆☆☆今日のソウルメイトな歌☆☆☆
「ソファーのくぼみ」(歌:テレサ野田/作詞:白石ありす/作曲:吉田拓郎  アルバム「彼が殺した驢馬」所収)&(歌:増田けい子 アルバム「戯れる魚達」所収)
 これは隠れた名作だよね。吉田拓郎のソングライティングの才がみなぎっている。そしてテレサ野田と増田けい子(以下「ケイちゃん」という)、この二人のねーさんの歌唱が放つ色香がこれまた甲乙つけがたくたまらないのだ。別に甲乙つけなくていいのだが、個人的には大事なワンポイントがある。
 テレサ野田は「♪あなたがつけたソファーのくぼみ〜」と歌うのに対して、ケイちゃんは「♪あなたがつけたソファーのくぼぉぉみぃ〜」という譜割りで転がすように歌うのだ。昔ラジオで流した吉田拓郎のデモテープではやはり「♪あなたがつけたソファーのくぼぉぉみぃ〜」とタメを入れて歌っていた。かくして拓郎のデモテープを聴きこんで歌いあげているのがケイちゃんというところで、優劣ではないが甲乙はつく。
 腕時計の写真を眺めながらながら「ソファーのくぼみ」を聴き比べる…だからどうしたと言われそうな日曜日の午後です。

2023. 4. 1

☆☆☆永遠に嘘をついてくれ☆☆☆
 某なるさんのつぶやき「高度なAI技術によって、AI拓郎と自然な会話ができるチャットサービス=膨大な歌詞やエッセイ等から拓郎の言葉を学習した[拓チャットGPT]…」ってマジで一瞬信じちゃったよ。あ〜もうこれが実現してしまったら、こんなサイトはおしまいだ、もうやめよう…とまで思いは飛んだ。やられたよ。うそがおじょうず@松本伊代。ということで今日から愛と哀しみの4月だ。
☆☆☆今日のソウルメイトな歌☆☆☆
「4月になれば彼女は(April Come She Will)」(歌:Simon & Garfunkel 作詞:/作曲:Paul Simon)
 TBSの「お喋り道楽」でゲストの細川直美が、拓郎に「ギター弾いてほしいですぅ」っとおねだりダレダレしたら、デレデレの拓郎が「いいですよ」と言ってこの歌を弾き語ったというシーンがあった。「けっ。」と思った(爆)。いろいろご意見はあろうが。それでも弾いたあとの拓郎の「…これが何にもならないと思うと悲しい」という言葉に救われた。それ以来4月になると「4月になれば彼女は(April Come She Will)」を歌う拓郎を思い出す。

2023. 3. 31

☆☆☆僕の好きな場所☆☆☆
 今日で八重洲ブックセンターが閉店だ。開店したのは僕が高校2年の秋、深秋のアルバム「ローリング30」の発売を楽しみにしていた頃だ。大型巨大書店のハシリで当時はすげー時代になったものだなと驚いたのを憶えている。あれから読書家ではない俺でもいろいろお世話になった。ブックセンターでサイン会をした作家たちのパネルコーナーに庄司薫さんの笑顔の写真が長い事飾ってあって行く度に眺めていた。たぶん同じ場所で、昨年の岡本おさみ「旅に唄あり」の写真展を観たのが最後の思い出だ。…そうだ永井みみの「ミシンと金魚」もこのブックセンターでやっと見つけたのだった。最後の砦みたいなものでもあった。
 町からどんどん書店が消えゆくのは寂しい。興味にあるなしにかかわらず書店に行くとたくさんの本と否応なく出会う。本屋に行かなければ、いしいしんじにも吉田篤弘にも会えなかった…俺が見つけたんじゃないけどさ。
 あたりまえだが本にはどれも「装丁」というものがある。いまごろになって思うのだが「装丁」はそれ自身がひとつの芸術作品だ。たくさんの背表紙や表紙やポップが思い切り語りかけてくる。そして「手触り」と「質感」がある。こうして書店が少なくなってみるといかに幸福な場所であるか心にしみてきた。遅い。とはいえAMAZONの利便性からはもはや逃れられない。やっぱり、すげー時代になったなと思うしかないのである。
☆☆☆今日のソウルメイトな歌☆☆☆
「ひらひら」(作詞:岡本おさみ/作曲:吉田拓郎  アルバム「よしだたくろうLIVE'73」所収)
 ブックセンターのあの写真を思い出したら、やはり無性に聴きたくなった。縦書きだったのですね。「用心しろよ、用心しろよ、ああ〜そのうち君も狙われる」…誰も彼も炎上し血祭にされる現代の世界を予知していたかのごとくの作品だ。
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2023. 3. 28

☆☆☆このオタク世界の片隅に☆☆☆
 殆どの方々には心の底からどうでもいいことだろうが、AMAZON PRIMEで配信中の「スタートレック ピカード season3 (final)」が毎週、圧巻すぎる。こちらもある意味でスタートレック・サーガの壮大なアウトロ=エンディングである。老いたピカード艦長をはじめ一緒に歳をとってきたクルーら関係者が再集結する。それは視聴者も同じだ。こちとらも一緒に歳をとってしまった共感、哀しみ、だからこそ感じるささやかな希望が混線する。さすがトレッキーといわれるマニアが全世界規模で佃煮のようになっている世界なので、庵野秀明どころではないレスペクトとオマージュのテンコ盛りに悶絶するしかない。
 これは譬えて言うのなら、拓郎が「ah-面白かった」で呼びたかったという歴代ミュージシャンたち全員をつま恋あたりに集めて、レコード未収録曲とライブ未演奏曲ばかりのマニアな曲のセッションを見せられているのとたぶん近い。>よくわかんねぇよ
 
 30年前のテレビシリーズでピカード艦長が可愛がってきたひとりの異星人の女性の部下が、いわば反政府ゲリラに転向して出奔してしまうという小さなエピがあった。今回、その彼女が役者もそのままに再登場する。かつての裏切りを責めるピカードとそれが自分の信念だったことをわかって欲しかったと超絶すれ違う二人。しかしやがて彼女の命を賭した恩返しを目の当たりにしてピカード爺さんは涙ながらに語りかける。「今はすべてを理解した。許してほしい、それが今で。(I do see you. Everything. Forgive me. It's only now)」このシーンは切な過ぎてもう涙も追いつかない。
 ちょっと待ってプレイバック、今の言葉プレイバック。「今はすべてを理解した。許してほしい。それが今で。」…ああ、そういう後悔を帯びた思いが何回もあったものだ。
☆☆☆今日のソウルメイトな歌☆☆☆
「今夜も君をこの胸に」(作詞:作曲:吉田拓郎  「Live 73 years- in NAGOYA」所収)
 今はすべてを理解した。許してほしい、それが今で。…2019年のライブの帰り道で心の底からそう思った。特にオーラスのこの曲。

 とはいえそのことを今僕は後悔していない。いや正直いえば後悔もしているが、このサイトで5万回は引用したとおり「後悔とはかつてそこに愛があった証拠である」(是枝裕和「ゴーイングマイホーム」より)。なので反省も悪びれもせず、そういうもんだということで歩いてまいりましょう。
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2023. 3. 24

☆☆☆一番が消えていたころ☆☆☆
 「今日までそして明日から」を聴いていると時々思い出す。といってもあくまで私の記憶なので、もし勘違いだったらごめんな。1983年の秋の「情熱」ツアーでバンドサウンドの「今日までそして明日から」が歌われたとき、拓郎はなぜか1番をカットしていきなり2番から歌い始めた…と記憶している。横浜も武道館もそうだったと思うのでミスではないと思う。あれは何だったんだろうなと今でも時折考える。どんなに考えても本人しかわかんないけどさ。

 つまりは1番の歌詞「時には誰かの力を借りて」「時には誰かにしがみついて」を歌いたくなかったのだと考えるほかない。あのツアーにはそこはかとない深い悲しみが満ちていたと思う。当時、スキャンダルの渦中にあり、自堕落がイイとうそぶく拓郎に俺はかなり不満だったし、拓郎もそういう口うるさいファンに相当に苛立っていたはずだ。ささくれだった日々だった。…これも俺の印象に過ぎない。そう思い込むと、1番のカットには「俺は誰の世話にもなっていない」「俺はひとりなんだ」という当時の拓郎の孤高な心の叫びが聞こえてくるような気がしてならんのだ。

 次にこの歌が歌われたのは…たぶん89年の人間なんてツアーの弾き語りだったが、ちゃんと1番から歌われていて安心したものだ。拓郎もスキャンダラスな香りが消えて、マイルドなおじさまになっていた。
 こうして1番がもしなかったらと考えながらこの歌を味わうとあらためて感じる。力を借りる、しがみつく、あざ笑う、脅かされる、裏切られる、そして手を取り合う、これらひとつひとつの人の営みのチョイスが絶妙であり、それらがすべて散りばめられているところでこの歌は世界の深奥を描き出している。ひとつでも欠いたらそれは違うものになってしまう。何を今さら当たり前のことをと思われる人もいるだろうが、ホントに今さらだ。そもそも超絶有名なスタンダードになったし、もう飽きたなと思っていても、それでもこの歌からは逃げられないゆえんだ。

☆☆☆今日のソウルメイトな歌☆☆☆
「今日までそして明日から」(作詞:作曲:吉田拓郎 『Forever Young Concert in つま恋 2006』所収 )
 個人的にはいろいろあって気分も体力も落ち気味だ。そういうときつま恋2006のオーラスバージョンを聴くのは体力がいるな…と敬遠していたが、聴きながら蘇えってくる気力と体力があるとわかった。この歌のシンプルだがマントルに届きそうな深みを感じる。

2023. 3. 23

☆☆☆いま生きてるということ☆☆☆
 ♪生きているということ いま生きているということ
  書店で思わず手に取ってしまうこと
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  1ミリも関係ないとわかること
  そそくさと書棚に戻すということ
  いくら凄い詩人でも一言くらい断ってくれないかとイジイジと思うこと
☆☆☆今日のソウルメイトな歌☆☆☆
「今日までそして明日から」(作詞:作曲:吉田拓郎  DVD「NHK101」所収)
 これを聴くと次の「流星」までつい聴いてしまう。イントロのエルトン永田のピアノで思わず拍手がわくところが好き。

2023. 3. 21

☆☆☆聖なる酔っ払いな夜☆☆☆
 吉川忠英、島村英二、中村哲、河合徹三・・・人呼んで「ドランカーズ」のライブを楽しむ。
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 伝説のギタリストとその名を聞く吉川忠英をはじめて目の前で観た。このお方か…と感慨深い。アコースティックギターもすばらしかったが、ボーカルもしみじみとよかった。なんという深い含蓄のある存在感。曲中で中村哲さんがサックスのソロをプレイせんと立ち上がっているのに、忠英さんがそれを忘れてすっ飛ばして歌ってしまい、戸惑った哲さんが…およびでない…とそのまま着席するシーンがあり(笑)、おちゃめな人でもあった。…惜しむらくは勇気がなく持ってったCD「岡本おさみアコースティックパーティ」にサインが貰えなかったことだ。
 門外漢の私なので申し訳ないが、それでもお世話になっている作品が数限りなくあることをあらためて知る。
 吉田拓郎のサポート作品で一番鮮烈なのは「英雄」。松任谷正隆の鎮魂のピアノのあとで狼煙のようにかき鳴らされるあのギター。この緊迫した煽情的な音色は初めて聴いた時から虜になった音だ。
 そして今回知ったのは、中島みゆきのあの「悪女」のイントロでなっているギター、ユーミンの「やさしさに包まれたなら」のオープニングの美しいギターも忠英さんの手になるものだった。やさしかったり、時にささくれ立っていたり、なんて表情豊かで素敵なプレイたちなのだろうか。この三曲をアコースティックギターの観点から今、ヘビロテで聴き直している。なんかこういう時って幸せだ。
 そういえば昨日のゲストのカントリーシンガー坂本愛江という方は、エレックで吉田拓郎と同期だったフォーク歌手、朱由美子さんの娘さんということだった。そうなのかあ。人類はみな親戚である>どういう結論だよ。いや親戚だから滅ぼし合ってはいけないのだ。
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2023. 3. 18

☆☆☆空よりも青い群青☆☆☆
 久しぶりに「卒業式」というものを見た。個人的に卒業式にはあまり良い思い出がない。小学校は別にして後はスゴスゴと逃げ出すような気分のものばかりで最後には出席もしなかった。
 だから卒業ソングの定番名曲たちにも,なんだかな〜といまひとつ燃えなかったのだが、昨日聴いた「群青」(作詞:福島県南相馬市立小高中学校平成24年度卒業生/作曲:福島県南相馬市立小高中学校音楽教諭 小田美樹)の合唱は心にしみた。ひとりの先生が、毎年決まっていた定番の卒業ソングの代わりにこの歌をどうしても歌いたいとさんざん頑張ったあげく、とりあえず今年だけ採用されたとのことだった。
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 東日本大震災で被災し、仲間の命も失い、全国に散り散りになっていった福島県南相馬市小高中学校の生徒たちの声を紡いで、同校の音楽の先生が曲として完成させたという。言葉に尽くせない出来事から作られている。そのため定番の卒業ソングにもありそうな言葉だけれど、ひとつひとつが背負う切実な思いが伝わってくる。
 これはあの悲痛事を経験した生徒たちの切実な言葉であると同時に、ひとしくこのコロナ禍での日常を生きた目の前の子どもたちの歌でもあると思う。すべてはつながっている。
 この歌を卒業式にと必死に格闘した若い男の先生は、合唱の時ボロボロと泣いていて、こっちもうっかり…でなく、しっかりともらい泣きしてしまった。話したこともない先生だが、アンタすげえよ、よくやったよ、と心の中でエールを飛ばした。卒業式で涙したのは初めてだった。
 群青とはどんな色だったかと思ったが、空よりも青いサマルカンドブルーの色のことらしい。空の青より青い青だ。

☆☆☆今日のソウルメイトな歌☆☆☆
「僕の一番好きな歌は」(作詞:作曲:吉田拓郎  未収録)
 「群青」に感動しながらもその歌詞の「あれから2年」というフレーズについ反応してしまう。すまん。1978年の3月18日にこの歌を神奈川県民ホールで初めて聴いた。「自分の叫びをいつでも持ったヤツ、自分のアワレを慰めたりしないヤツ」…座右の銘。「群青」を選曲したその若い先生に捧げたい。

 そして今日は、海の向こうで踊る若い友人の誕生日だ。おめでとうございます。震災の年に向こうに渡ったんだからもう13年目だ。よく頑張ったねぇ。ここでもエールを送りながら爺も頑張ります。
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2023. 3. 17

☆☆☆あいつの部屋は散らかっている☆☆☆
 これまでのいろんな発言や写真・映像から察すると吉田拓郎という人はかなりキレイ好きで整理整頓、片付け上手な人だと思われる。断捨離ブームのずっと前から引越しのたびに断捨離を繰り返し、家財や衣類などをラジオでリスナーに気前よくプレゼントしたりしていた。ああ、吉田家のヒューズを貰った方、お元気でしょうか。
 したがって拓郎は、松本隆の文字並びが整序されている、キレイに片付けられた部屋のような詞が本能的に大好きなのだと思う。きちんとリズムに裏打ちされて整序されているからメロディーがとてもつけやすいと絶賛しているゆえんだ。

 さて、これとは正反対に、字余り字足らずでメロディーがつけにくいと拓郎が不満をたれるあの作詞家のことを思わずにいられない。一番と二番で余裕でサイズが違う混沌とした吐き捨ての詞。松本隆の詞が片付けられた部屋ならば、岡本おさみの詞はさしずめ散らかり放題の部屋なのではないか。すまん。散らかってはいるがそこに光る原石がゴロゴロしている。その混沌とした詞にメロディーをつける拓郎は、あたかも子どもの散らかった汚部屋を「…ったく仕方ねぇな」と怒りながら必死で片付けるお母さんの気分に近いのではないか(爆)。

 松本隆が「外は白い雪の夜」の詞に拓郎が3分で曲をつけてたのを驚いたというが、それは松本の詞がリズム感をもって整序されていたことも大きいのではないかと思う。要するに、この世の部屋はいつも二通りさ、片付けが楽なキレイな部屋と片付け難い散らかった部屋と、君は両方扱ってるんだよね。
 
 しかし散らかっている部屋に住む、断捨離嫌いの私は切に思うのだ。拓郎のその片付けこそ絶妙なワザだと思う。思い切り散らかっている言葉たちを時にねじ伏せ、時に磨き上げるように愛でることで、言葉が躍動し、卓抜したメロディーとして整序されてゆく。そこにこそ吉田拓郎の真骨頂があると思う。この拓郎の片付けのワザは、もう、音楽界の「こんまり」と言ってもいい>いや、よくねぇだろ。
☆☆☆今日のソウルメイトな歌☆☆☆
「君去りし後」(作詞:岡本おさみ/作曲:吉田拓郎  「よしだたくろうLIVE'73」所収)
…かなり散らかり放題の部屋を見事にFUNKなブルースに昇華させた片付けワザの典型かもしれない。

2023. 3. 16

☆☆☆文字で描かれる絵☆☆☆
 昔、大江健三郎が小学校を訪れて子どもらに文章の書き方を教えるドキュメント番組を観たことがあった。ウロ覚えで残念なのだが「たくさんある言いたいことを、ひとつひとつ小さなカタマリにして…(と黒板に大小の〇を書いて)、それを接続の言葉でていねいにつなげて、大きなカタマリにして相手とどけるんだよ」と語りながら黒板にはシンプルでわかりやすい絵が出来上がていった。まだフローチャートもマインドツリーも一般的ではない時代に図・絵で文章の美しさを理解させようという説明は新鮮だった。

 で、一昨年のことだか、関ジャムの松本隆の特集の中で、武部聡志が「吉田拓郎さんは松本隆さんから詞が届くと『読む前から良い詞だとわかる』と言っていた」と語った。要するに「文字の並び方からしてキレイなんだって。それだけで良い詞だとわかると。」
 別の機会に拓郎も「松本隆の詞は、きちんとリズムに裏打ちされて並んでいる」とも語っていた。
 言いたいことのカタマリがきちんと切り分けられて整序された言葉の並びはそれ自体が美しいということだろうか。そう思うと松本隆の詞を言葉の並んだ絵として、眺め直してみるのというのも面白そうだ。そのうち酒でも飲みながら鑑賞会、品評会でもしましょうや。
☆☆☆今日のソウルメイトな歌☆☆☆
「恋唄」(作詞:松本隆/作曲:吉田拓郎  「ローリング30」所収)
…ということで、まず思いついたのがこの唄。字並びがとてもキレイだ。繰り返されてゆく「あなた」に途中で「面影」「この愛」「永遠」がインサートされてゆくこの見事さ。あ〜なんてあざとい美しい言葉の並び方なのだろうとしみじみ思う。

  恋唄  

あなたのくちびるの風と雨
あなたのまなざしの絹の糸
あなたのゆびさきの花の色
あなたのみみたぶの銀の夢
面影を描くのに筆はいらないよ
あなたが暗闇から呼びかけてくれれば
面影を描くのに筆はいらないよ

あなたのかなしみの青い海
あなたのさびしさの暗い夜
あなたのぬくもりのハンカチ−フ
あなたのよろこびの星の渦
この愛を告げるのに言葉はいらないよ
あなたがぼくの腕によりかかってくれれば
この愛を告げるのに言葉はいらないよ

あなたの細い手の逆さ時計
あなたの肩までの夏の服
あなたのせつなげな眉の線
あなたの舌足らずな言葉たち
永遠のまごころをあなたに贈りたい
あなたが伏せ目がちに微笑んでくれれば
永遠のまごころをあなたに贈りたい

2023. 3. 15

☆☆☆わが心のバックスクリーン☆☆☆
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☆☆☆今日のソウルメイトな歌☆☆☆
「チェック・イン・ブルース」(作詞:作曲:吉田拓郎 「情熱」所収)
 毎年、何度でも言う。この日のハイライトは「ロンリーストリートキャフェ」だという意見もあろう。確かに圧巻の弾き語り&シャウトであった。しかしこの大舞台のオープニングによりによってこの歌を持ってきたのにはびっくらいこいたものだ。よほど深い考えあってのことか、あるいは何も考えていなかったか(爆)、どっちかだ。それにしても今にして思えば圧倒的にカッコよすぎるオープニングである。吉田拓郎の本能だ…というのが自説。

2023. 3. 13

☆☆☆われらの時代☆☆☆
「ライブ作品を順次ストリーミング&アラカルトDL配信させていただきます♪」。ありがたい。ありがたいけれど意味がよくわからない(爆)。やっぱり「キミのスマホに拓郎がやってくる」とか「いつでもどこでも一曲でもライブ会場」とかダサイけれども,わかりやすい表現で説明してくんないと俺なんかはわからない。面目ない。
☆☆☆今日のソウルメイトな歌☆☆☆
「いつも見ていたヒロシマ」(作詞:岡本おさみ/作曲:吉田拓郎/編曲:青山徹  「アジアの片隅で」所収)
 作家の大江健三郎が亡くなられた。正直言って、小説は難しくてよくわからなかったし,その世界設定もなじめなかった。でもノンフィクションの「ヒロシマ・ノート」だけは別だ。いつも見ていたヒロシマ・ノート。徹底して平和を希求されていた姿はまさに仰ぎみる世代の代表のように見えた。ご冥福をお祈りしつつも、これから世の中どうなっちまうんだろという不安も大きい。安らかに笑う家はいつまであるか。俺の歌ではないけれど>あったりめぇだろ、この歌をお捧げします。どうか安らかに伊丹十三さんとゆっくりお酒を酌み交わしてください。

2023. 3. 12

☆☆☆僕達の大好きな場所☆☆☆
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 幻の1号車。その乗員予定だった人とは毎年のように話す。12年前の震災は身の置きどころのない悲痛事だったが、私達みんながハワイに行っているときではなかったこと,また拓郎が震災のほぼその日のうちにハワイツアーを決然と中止としたことが、せめてもの救いだった。不謹慎な言い方だが、それらは不幸の嵐の荒れ狂う世の中でのささやかなLuckのひとつだったと今でも思う。もしそうでなかったらと考えると暗然とするしかない。
 ウクレレもバウリニューアルも幻になったり、思い切り遠のいたりしてしまったけれど、おかけでハワイは今も変わらずにまぶしい憧れの場所としてありつづけている。だからこそ切に思うのだ。拓郎にはハワイに行ってほしい。もともと俺は自分のことをさておいて他人様のことを願うような殊勝な人間ではない(爆)。だけど俺は行けなくとも、拓郎、あなたはハワイに行ってくれよと思う,というより願う。
☆☆☆今日のソウルメイトな歌☆☆☆
「憧れのハワイ航路」(歌・陣山俊一 作詞:石本美由起作曲:江口夜詩  「セイ!ヤング 渋谷エピキュラス 公開録音」より)
「僕の大好きな場所」(作詞:篠原ともえ/作曲:吉田拓郎  「AGAIN」所収)
…この歌を聴きながら翻意した。やっばり万万が一にも機会があったら、そんときゃ万難を排してでも頑張ってみよう。推しを求めて三千里。その気概だけは持っていたい。そんときゃ、幻の一号車で逢ひませう。
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2023. 3. 11

☆☆☆今日の特別にソウルメイトな歌☆☆☆
「春を待つ手紙」(作詞・作曲 吉田拓郎 「FromT」所収)
 その出自とは関係なく,この歌は3月11日のための祈りの歌だ。何の権限もないが私は勝手にそう思う。震災の復興支援のオールナイトニッポンの特別放送で、吉田拓郎は人前で初めてこの歌を歌ってくれた。忘れられない。もともと吉田拓郎という人はこういう生放送の特別番組で、初めての歌を披露してくれるような殊勝な人ではない(爆)。たいがい歌い慣れ,聴き慣れた歌をチョロっと歌い済ますのが常だ(※個人の感想です)。しかしこの日の拓郎は違った。静かな決意を感じた。CMが入るたびに客席に背を向けてコードとフレーズを何度もそっと確認していた。緊張がヒシヒシと伝わってきた。かくしてあの魂の初演に至る。
 大した被害もなくのうのうと生き延びてきた私だが、たくさんのみなさんがそれぞれにかけがえのない大切なものを失われたに違いない。私とても遠いつながりだけれど,ひとつのご家族のことをずっと祈らせていただいてきた。そして、そのことと一緒に数えるのは不謹慎かもしれないが、わしらのハワイツアーもこの日消えたんだよな。
 泣きたい気持ちで冬を超えてきた人、心の底からお祈り申し上げます。
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2023. 3. 10

☆☆☆吉田拓郎「日本ゴールドディスク大賞」受賞☆☆☆
 受賞おめでとうございます。どういう賞なのかよくわからないけれど,くれるものはもらってしまえ、そして祝ってしまえ。ブラボ!!
 受賞のコメントがいつもながらまたいい。
「笑顔が困難な世界情勢は心が痛みますよね。音楽が少しでも人の心をやわらげる事ができれば・・小さな応援を続けたいと思います。」
 どこにもチカラが入っていない。飾り気もないささやかな言葉だが、魂がある。実は昨今テレビはいったい誰のためのものかとメチャクチャ腹を立てたり怒ったりしていて「ペニーレインでバーボン」をヘビロテしようと思っていたのだが、この受賞の言葉「小さな応援を続けたい」というくだりを読んですこし我に返った。自分はさらにこのうえなく微少だが、そんなこの一般Pにも続けられる応援があるに違いない。
☆☆☆今日のソウルメイトな歌☆☆☆
「ひとりgo to」(作詞・作曲 吉田拓郎 DVD「Live at WANGAN STUDIO 2022 -AL “ah-面白かった” Live Session-」所収)
 思ってた世界じゃない、傷つく夜もまだつづくけど、終わりなき夢の中、黄昏の中にあっても旅を続けてまいりましょう…という歌だと勝手な解釈をしながら愛でる。

2023. 3. 9

☆☆☆倶に☆☆☆
 「体温」のクレジットで「吉田拓郎」と「島村英二」が並んでいるとそれだけで心の底から嬉しくなる。理屈抜きで胸が熱くなるのだ。大谷とダルビッシュが並んでいるオーダーみたいなものである。ジャン・リュック・ピカードとウイリアム・ライカーが揃ったUSSタイタンのブリッジみたいものでもある>それは知らねぇよ。とにかく何も背負う必要はない、みなさんそれぞれ存分にご活躍を。
 こちらも、あと10年間は存分に活動できるような肉体改造というテーマで,とある鍼灸の先生にお世話になっている。久々に名師に逢えたという感じだ。施術の最中に先生が「ワタシも世代的に拓郎さんはよく聴きました」と言うので「どんな曲がお好きですか?」と尋ねたら「うーん」とさんざん考えたうえで答えられた。 
☆☆☆今日のソウルメイトな歌☆☆☆
「わしらのフォーク村」(作詞・作曲 吉田拓郎 「人間なんて」「AGAIN」所収)
 まさか予想外の選曲…ピンポイントで鍼がツボに入った感じだ。効く。もっと名曲はたくさんあるぞと拓郎さんは怒るかもしれない。イヤイヤ、2014年にrefitしたバージョンをぬかりなく出している拓郎さんアナタも凄いですからと思う。

2023. 3. 8

☆☆☆今は黙って風の音を聴け☆☆☆
 田家さんのラジオに出演した瀬尾一三さんは中島みゆきのレコーディングの参加について「拓郎さんが自分でバラしちゃいましたね。あの人ホントに黙ってらんない人で(笑)」と苦笑していた。確かに。こと音楽に関しては「ホントに黙ってらんない人」だと思う。
 しかし「黙ってらんない人」であるところに私の幸福があったのだ。曲ができるとデモテープの段階から聴かせちゃうアーティストってあんまり知らない。コンサートも決まるとリハの段階から自ら全力でレポートして何か月も前から私たちを燃え上がらせてくれた。79年の篠島のセットリストを事前にラジオで片っ端から読み上げていったのには驚いたものだ。そして、ゆっくりと時間を取って予告してくれたおかげでアウトロの旅路も私らは目に耳に焼き付けることができた。なにもかも「黙ってらんない人」のあくなきサービス精神のおかげである。

 なので密かに思う。「やってみなければわからないという今の幸せ」も深くなればなるほど黙っていられなくなるのではないか。それからサイトやSNSで私たちが奔放に語れば語るほど、ネットに真実はないと怒って黙ってらんなくなるのではないか。このまま悪態をつきつづけよう(爆)。「味方のいない世界なら将来だけが非常口(中島みゆき・体温)」とはそういう意味だっんだな、すげーな、みゆきねーさん>いや全然違うと思うぞ。
☆☆☆今日のソウルメイトな歌☆☆☆
「アウトロ」(作詞・作曲 吉田拓郎 DVD「Live at WANGAN STUDIO 2022 -AL “ah-面白かった” Live Session-」所収)
 そんなこんなの思いで聴くとあらためていい曲やね。拓友が、WANGANが出てからはこっちばかり聴いてしまうと言っていたが…御意。

2023. 3. 7

☆☆☆with Seo☆☆☆
 瀬尾一三といえば忘れられない言葉がある。2003年の拓郎の病=手術でビッグバンドのツアーが延期になった時だった。手術を終えリハビリをかねてラジオに復帰した吉田拓郎に瀬尾一三がメッセージを寄せた。「すべてがあなたが休まれる直前の状態に戻っていますのでどうか安心してください」と呼びかけた。前代未聞のビッグバンドのコンサートツアー、しかもそれを急遽リスケすることは大変な作業だろうと想像がつく。それでも全部処理したから大丈夫、安心して戻って来いと両手を広げるような瀬尾一三の言葉に涙した。俺もこの人に一生ついてゆこうと誓った>おめぇはただの一般人だろ.
☆☆☆彡今日のソウルメイトな歌☆彡
「今日までそして明日から」
(作詞・作曲 吉田拓郎 アルバム「豊かなる一日」所収)
 弾き語りからビッグバンドになだれ込むこの劇的な展開。その刹那、拓郎がサッと両手を広げる。病からの帰還でありビッグバンドwith Seoの船出の瞬間だ。ここを聴く度、観るたびに、俺はモーゼの「十戒」でモーゼが海を真っ二つに割るシーンを思い出す。真っ二つに割られた海の道をゆく御大のうしろから俺も着いていくようなそんな晴れがましい気分…妄想も大概にしろ言われるだろうが。
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2023. 3. 6

☆☆☆瀬尾爺の味わい☆☆☆
 大阪のラジオで瀬尾一三が、中島みゆきの「体温」のレコーディングの様子を話す部分を聴かせていただいた。すでに拓郎のラジオで、中島みゆきのレコーディングに参加して、中島みゆきにハグして、瀬尾にギターの譜面を書きかえさせて、思いついてウー、アーのコーラスを瀬尾一三とともに急遽付け加えた顛末は知っていた。同じ事実を瀬尾サイドから聴くとまた面白い。「俺ギター弾いてもいいよ」というメールに始まって、どうせまた来ないだろうと思っていたら本当に来ちゃって驚いたし、難しい曲だと文句言われるだろうから「悪女」とコード進行が似ている「体温」を選んだ。ご本人はハグするわ、譜面のコード変えさせるわ、コーラスまで一緒にやらされて、とにかくかき回すだけかき回して嵐のように去っていったとのことだ。引退なんて半分くらい信じていないとも言う。こういう肝胆相照らす愛のツッコミをしてくれる側近が数少ないので妙に嬉しかった。

 たぶん吉田拓郎にはツッコミが必要だ。拓郎という人はどこまでも孤高の人でOKなのだが、時々しかるべきツッコミがないと、まるで田中のいない爆笑問題の太田のように、行くあてのない才気だけが暴走して辛くなりすぎてしまう気がする。そこでは側近やファンという見えない相方のツッコミがあって初めてバランスよく建つ構築物みたいなものではないか。
 とはいえファンのツッコミをフトコロ深く受け止めてくれるような人ではない(爆)。みゆきねぇさん、拓郎に何もかも愛ゆえのことだと言ってくれ。

☆☆☆今日のソウルメイトな歌☆☆☆
「悪女」(歌・作詞・作曲 中島みゆき 「ラストツアー 結果オーライ」所収 ) ここに吉田拓郎のギターが入っていたのかと妄想し悶絶しながら聴くよろし。

2023. 3. 5

☆☆☆ソウルメイトの体温☆☆☆
 ということでムッシュかまやつモードから中島みゆきモードにゆっくりシフトしてゆく日々。中島みゆき&そのファンの方々には誠に失礼千万だが、中島みゆきの歌を聴く時、どの曲も吉田拓郎へのラブレターに思えてしまうし聴こえてしまう。いや思えなくとも無理矢理強引に読み込んでしまうのだ(爆)。その人のひそやかな恋心に気づいてしまった疼くような気持ち。ああ、そうだよ、それを「下種」というのだな。すまん。ただその思いは確実に推しにリタイアされてしまったファンの思いとどこか通底しているのだ。    

          「体温」
    あなたは確かに他人でも あたしはあなたが懐かしい
    生者必滅 さとってみても さみしさは羅針盤
    味方のいない世界なら 将来だけが非常口

  あ〜、みゆきねぇさん、またなんて珠玉の言葉を紡ぐのでしょうか。ただれるような淋しさとかすかな希望でしっかりと拠られていらっしゃる。

     体温だけが 頼りなの
     体温だけが すべてなの

 そうなのだ、リタイアしたけれど吉田拓郎は生きている。どこかでポジティブに体温を持って生きている。以前にも引用したファンの方の言葉が思い出される。

私たちが何といおうと拓郎は今生きているのだ。そのことにさえ私は感動する、と言ったら私の思い入れは強すぎるというべきなのだろうか…
           「吉田拓郎大いなる人」(P.89 八曜社 小久保明子さん )

 この方の言葉はこの道を行く私に>どんな道だよ、とにかく大切な言葉としていつも心の底にある。こんなふうにありたいと思う。この言葉を左とすれば、「体温だけが すべてなの」とこのフレーズは右ということでもしっかりと結びついている。

2023. 3. 4

☆☆☆春よ来い☆☆☆
 森山直太朗の「さくら(独唱)」が心にしみる。拓郎がリタイアしてしまった俺に、さくらは咲くのだろうか、春は来るのだろうか? んまぁ…とりあえず花粉だけはしっかり届いている。それにしても今年の花粉は凄くないか? どこかでマンモスフラワーが咲いて毒花粉を撒いているとしか思えない>知らねぇよ。官民学の総力をあげて阻止して欲しい。
 この「さくら」のタイトルには必ず「(独唱)」がついて「さくら(独唱)」と表記されている。このタイトル表記をみると「アゲイン(未完)」を思い出しませんか? そうですか、思いませんか。
 ☆彡☆彡☆彡今日のソウルメイトな歌☆彡☆彡☆彡
「アゲイン」(作詞・作曲 吉田拓郎  「From T」所収)
 思い出したんで聴く。2014年のアンコールでオール・スタンディングした客席にしみわたるように歌われたあの光景が忘れられん。スタンディングしつつ、みんな拓郎の「完」の歌詞を耳をそばだてて聴き入った。名場面のひとつと思う。"僕らは今も自由のままだ"…このフレーズの素晴らしきこと。

2023. 3. 3

☆☆☆直太朗胎教理論☆☆☆
 昨年のラジオで、拓郎は松任谷正隆に「これからもボーカリストが必要だったら声をかけてくれ」と言っていた。今回のムッシュかまやつの七回忌ライブは、松任谷正隆の演出で武部聡志の主宰だったから登場してもおかしくないと思っていたが…ココではなかったか。ムッシュかまやつ編の最後にこれだけは言っておきたい。ハーモニカホルダーまで下げて「シンシア」を歌った森山直太朗を観ながら万感の思いがあった。
 Uramadoにも書いたと思うが、1975年12月31日大晦日のNHK紅白歌合戦で、森山良子は「歌ってよ夕陽の歌を」を歌った。そしてマチャアキは「明日の前に」を歌った。森山直太朗は1976年4月生まれだから、この時に良子さんのお腹の中にいたことになる。これを胎教といわずして何という。その直太朗が「シンシア(独唱)」を歌う。拓郎ファンとしては感慨深かった。森山良子がわたしたちのねぇさんだったら、直太朗はわたしたちの甥っ子である。他人ではない>いや思いっきり他人だろ。
☆☆☆今日のソウルメイトな歌☆☆☆
「さくら(独唱)」(歌・森山直太朗/作詞・森山直太朗・御徒町凧/作曲 森山直太朗)
 もともと涙が出るほど感動的な歌であり熱唱であるのだが「吉田拓郎胎教理論」を意識してあらためて聴くとまた世界が違って見える>だから勝手な思い込みで言うなよ

2023. 3. 2

☆☆☆やつらの足音が聴こえてくるんだ☆☆☆
 ムッシュかまやつ七回忌ライブに行ってきた。渋谷公会堂はすっかり様変わりして現代的で素敵なホールになっていた。「ココは渋谷区役所があった場所で、渋公はもっと向こうにあって…」と頼まれもしないのに語る俺は「昔この辺はみんな畑だった」とか繰り返す爺ちゃんと同じだ。
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 こんな素敵な七回忌は観たことがない。老若男女それぞれのミュージシャンやリスナーの中に生きている"わが心のかまやつひろし"が自由に行き交う宴のようだ。特に,そんなにも大切な人だったのか、武部聡志。武部の言葉にうっかりもらい泣きしそうにもなった。
 それでも楽しい一夜だった。マスクこそしていたけれど、歓声、唱和も制約がなく、森山直太朗の♪シンシア〜に「Hu!Hu!」の合いの手も気兼ねなくできた(客席で自分もいれて4名ほど確認)。それだけで気分はアがる。ラストの「バン・バン・バン」「フリフリ」あたりでの久々のスタンディングは、ああ〜ライブに帰ってこられたのだと思えた。
 FUNKな「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」…そうかこの歌はこうしてソウルが歌い継がれてゆくのか。ああ、マチャアキと井上順。損得を考えない魂のサービス精神。期待していたことを全部やってくれた。「なんとなくなんとなく」も素敵だったよ。
 そして不在の吉田拓郎の歌は森山家で処理してくれた。なんでこの歌をといいつつ「我が良き友よ」を熱唱してくれた良子ねーさん。やはり今日吉田拓郎と私達があるのは森山良子のおかげである。
 音楽って自由なものなんだという拓郎の言葉が何度も身にしみた。君と会ったその日からなんとなく幸せ。もっともっとライブに行きてぇと叫ばずにいられない。
 ☆彡☆彡☆彡今日のソウルメイトな歌☆彡☆彡☆彡
「どうにかなるさ」(歌・かまやつひろし/作詞・山上路夫/作曲 かまやつひろし」所収)
 昨日のマチャアキの話。「これハンク・ウィリアムスの曲に似てない?」「いい曲はみんな似てくるものなんだよ(笑)」このやりとりも含めていっそういとおしくなるこの歌、このボーカル。

 WOWOWで放送するらしいけれど去年で退会しちゃったよ。
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2023. 3. 1

☆☆☆体温だけがたよりなの☆☆☆
 ということで今日はムッシュ=かまやつひろしさんの命日。七回忌だ。あなたは確かに他人でも あたしはあなたが懐かしい。すっかり中島みゆきとシンクロしてしまっている。
☆☆☆今日のソウルメイトな歌☆☆☆
「体温」(歌・作詞・作曲 中島みゆき アルバム「世界が違って見える日」所収)〜「なんとなくなんとなく」(歌・作詞・作曲 かまやつひろし アルバム「Classics」所収)
 行方知らずの願いのカケラ…ああ、聴こえた、聴こえたよ。なんとなくなんとなくしあわせ。

2023. 2. 28

☆☆☆らしい心で生きて☆☆☆
 セブンスターショーでユーミンが見守る中、ティン・パン・アレーをバックに「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」を歌うムッシュ。カッコイイったらありゃしない。「我が良き友よ」は自分らしくないと悩んだムッシュが、B面は自分の好きにやらせてくれということでこの歌が完成したという。確かに男臭いバンカラの世界とムッシュは対極のようだ。
 しかしムッシュはいいのだがこの言説がひとり歩きすると「吉田拓郎=バンカラ=下駄野郎」というイメージが根深く定着してしまう危険がある。せっかくのサイトなので強く言いたい。バンカラの世界がムッシュらしくないように、吉田拓郎もまたバンカラらしい人ではない…と俺は思う。この歌のおかげで吉田拓郎は下駄を履いて歌い、昨年末に下駄を履いたまま引退したと信じている国民がかなりいるという悲しい現実がある。
 そんな歌を自分で作ったから自業自得だと言う意見もあろう。しかし「宮本武蔵」を書いた吉川英治先生が剣豪だとは誰も思わないだろうし、石ノ森章太郎先生が改造人間かサイボーグだと信じている人もおるまい。たぶん拓郎が広島商大の応援団の時の一瞬の経験を膨らませたストーリーテリングがあまりに見事だっただけだと思う。
 なので吉田拓郎=バンカラというイメージはたぶん拓郎も不本意だろう。いや正直にいうとそれは吉田拓郎のためというより、俺自身が下駄と手ぬぐいの世界を愛してファンサイトまでやっている輩と思われるのが我慢ならんのだ(爆)。俺は、もっと耽美で洗練された世界を応援しつづけてきた、結構イケてる人のつもりなのだ(爆爆)。そうだろう君たちだって。

 この歌はバンカラの世界を描きながら実はその種の世界観とは違う。それは松任谷正隆や高中正義を配したサウンドも含めて。そしてやはりその種の世界にありがちなものとは違うムッシュのやわらかくて品のある個性的なボーカルが妙味を出している。事実「我が良き友よ」は演歌系の方々が競ってカバーしているがあきらかに別の曲になってしまっている。「らしくない」人が作って「らしくない」人たちが演奏して「らしくない」人が歌う。その結果できあがる歌にはバンカラの世界とは違う「煌めき」が宿っていると思うのだ。そのあたりはまたいつか。

 と、ここまで書いてUramadoを読んだら、随分昔におんなじことを書いていることに気づいた。http://tylife.jp/uramado/wagayoki.html ああ爺ちゃんは何度も同じ話を繰り返す。ちょっと悲しくなったが、大事なことは何度も指差し確認するように繰り返すのだ。昨日、戸締り確認したから今日は確認しないという人はおるまい。これでいいのだ。

 そうそう1999年の20世紀打ち上げツアーのメンバー紹介では、武部、鳥山、それこそ「らしくない人たち」が、それぞれ独唱させられていて面白かったな。

☆彡☆彡☆彡今日のソウルメイトな歌☆彡☆彡☆彡
「我が良き友よ」(歌・吉田拓郎&かまやつひろし/作詞・作曲 吉田拓郎  DVD「Forever Young 吉田拓郎・かぐや姫 Concert in つま恋2006」所収)
 つま恋2006のリハでムッシュが「拓郎、"我が良き友よ"の歌い方ヘタだよね」「ヘタだよ、でもアンタに言われたくないよ(笑)」という二人のかけあい、そして本番で歌うムッシュに寄り添う拓郎。…すべてがイイ。そして今となっては泣かせる。

2023. 2. 27

☆☆☆その狭き門☆☆☆
 そろそろムッシュかまやつモードに入ってゆく。このモードの入り口は、勝手知ったる勝手口から入ると意外と入りにくい。
 中学1年の春に聞き始めた「かまやつひろしのライオンフォークビレッジ」がきっかけで初めて買ったEPの「シンシア」は俺にとっては登竜門で、すぐに「我が良き友よ」という晴れがましい凱旋門が開いたし、「水無し川」は教育学部の裏の西門みたいなものだ>知らねぇよ。そんな門から入ったつもりが、気が付くと門外漢になっていたりするのだ。
 それよりもあのときは、うわ〜こりゃ難しい歌だな〜となかなか理解できなかった「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」。こっちこそが彼の深奥に向かってまっすぐに開かれた正門だったことに気が付く。裏門こそが正門だったのだ。ああ〜誰か私をパリに連れてって。フランス人になりたい(爆)。
☆☆☆今日のソウルメイトな歌☆☆☆
「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」(歌・かまやつひろし/作詞・作曲  かまやつひろし  シングル「我が良き友よ」所収)
 ♪君はたとえそれが小さなことでも 何かに凝ったり狂ったりしたことがあるかい?  そうだ何かに凝らなくてはダメだ。くるったように凝れば凝るほど、君は独りの人間として幸せな道を歩んでいるだろう。…かまやつさん、そのとおりでした。

2023. 2. 26

☆☆☆アイツのマシンは☆☆☆
 愛のスカイラインといえば、ケンとメリーのスカイライン。その名を聴くと、とある拓郎ファンの方を思い出す。リアル狼のブルースよろしく深夜放送帰りの拓郎の車を溢れる愛で追いかけて東名をカーチェイスしたという彼の武勇伝は、拓郎もラジオで忘れじの思い出として語っていた。追っかけと言えば、コンサートの入り待ち出待ちしか浮かばないワシらとはギアの入り方が違うな〜と感心したものだった。お元気だろうか。
☆彡☆彡☆彡今日のソウルメイトな歌☆彡☆彡☆彡
「狼のブルース」(作詞・松本隆/作曲 吉田拓郎 DVD「吉田拓郎アイランドコンサート」所収)
 これは個人的には、数あるバージョンの中で、篠島のバージョンがスピード、スリル、サスペンス揃い踏みで格別にイイんだわ。島村英二のドラム炸裂。ああ青春に続いてぐいぐい行きまっせ感が最高。

2023. 2. 25

☆☆☆それでもついてくわ手を離さないで☆☆☆
 ラビさんの「愛のスカイライン」は本当にすんばらしくて、YouTubeでも聴けるので、ゆかりの人たちとわかちあい聴きながら泣いている。うーん、もろもろ後悔あとをたたず。でも言いたい。「ありがとう、ラビ」って、それは昔の国語の教科書の「一切れのパン」だ。
 当然のことながら、だからといってBUZZが良くないというのではない。そうだ、BUZZといえば「あなたを愛して」を忘れちゃいけない。あの歌はさ、♪唇まどろむシーサイドホテル〜…このメロディーと詞と譜割りの快感。歌ってみてよし、聴いてみてよし、小気味よさ。この歌はココ一択だね。あくまで個人の感想です。
☆☆☆今日のソウルメイトな歌☆☆☆
「こんなに抱きしめても」(作詞・岡本おさみ/作曲 吉田拓郎 「COMPLETE TAKURO TOUR 1979」所収)
 BUZZは篠島でもお世話になりました。この歌はビッグバンドによる篠島バージョンがもう圧倒的にカッコイイよ。BUZZのコーラスが思いきりbuzzってる…ってしつこいぞ俺。

2023. 2. 24

☆☆☆今が通り過ぎてゆくまえに☆☆☆
 昨日にかけて身体のあちこちをメンテしていただいて、帰りに中山ラビさんの店「ほんやら洞」に立ち寄った。物静かな息子さんがあのままの状態で店を続けておられる。カウンターには常連さんが並んで談笑し、テーブルには若いお客さんがくつろいでいる。不在のラビさんは小さな写真で鎮座しておられる。不在は不在であの人の不在は埋めようがないが、みんなが折り合いをつけて、それぞれの日常を生きているようなそんな空気が素敵だった。ラビさんの思い出話の中に、たまに登場する若くてやんちゃでちょっとシャイな吉田拓郎を思い出しながらチョイ飲んだ。息子さんがなんかのインタビューで「おのが仏の三回忌」と語っていたが、あ〜今年はもう三回忌かな?
☆☆☆今日のソウルメイトな歌☆☆☆
 「愛のスカイライン」(歌・中山ラビ/作詞・山中弘光、高橋信之(補作)/作曲・高橋信之)ケンとメリーのスカイラインのCMでBUZZが歌ってbuzzったw名作だが、中山ラビバージョンもあるのだ。高中正義、小原礼、高橋幸宏という、おまえの足音が聞こえてきそうなサウンドだ。とにかくラビさんの歌いっぷりが素晴らしいです。こっちの方がいいと思います(当サイト比)。

2023. 2. 23

☆☆☆一人だけの流行語☆☆☆
 昨日の「天衣無縫」は、吉田拓郎の本質のひとつではないかと思っている。 「天人や天女の着物には縫い目がないことから、文章や詩歌がわざとらしくなく自然に作られていて巧みなこと」…この言葉が、ひとり自分の中だけで大流行している。

 この言葉が最初に浮かんだのは初めて"いくつになってもhappy birthday"を聴いた時だった。このメロディーには、こしらえたり、ツギハギしたりした縫い目がまったくない。そこから湧いてくる心地良い幸福感。吉田拓郎まもなく55歳の時だ。その歳でよくこんなにも素朴で屈託のない自然なメロディーが出てくるものだという衝撃があった。いや、歳を重ねたからこそ可能になる巧みなのか。もちろんこれより完成度が高かったり名曲だと胸を打つ拓郎のメロディーはたくさんある。ただこの「天衣無縫」というインパクトはまた別ものだ。

 二度目に「天衣無縫」を感じたのは"ぼくのあたらしい歌"を聴いた時だった。70歳を超えてもこんなのびやかなメロディ―が出てくることに今度は安堵したものだ。康珍化の詞は、まるで拓郎夫妻のラブリーな日常を描いているようで、拓郎はインタビュアーの桑子真帆さんに「歌っててとても恥ずかしい」と語っていた。大丈夫だ拓郎、聴いてる俺ももっと恥ずかしい(爆)。しかしこの縫い目のない自然なメロディーだけで十分に心をウキウキとホップさせてくれる。

 そしてアルバム「ah-面白かった」だ。これより凄いアルバムや凄い名曲はいくらでもある。ぶっちゃけどの曲も既存の名曲を超えるものではない。すまん。それでもなぜ妙に心に刺さってくるのか。ラストアルバムとかジャケットとかそういうバイアスを除くとやはり「天衣無縫」感が全体に満ちているからではないかと思う。自然に作られていて巧みがある。それが心を静かに弾ませてくれる。だからどの曲もいとしい。拓郎が、曲がどっからか降りてきたというのは本当ではないか、まさに天女が降りてきたんだと思う。

☆彡☆彡☆彡今日のソウルメイトな歌☆彡☆彡☆彡
「ぼくのあたらしい歌」(作詞 康珍化・作曲 吉田拓郎 DVD「LIVE2016」所収)
 映像しかないのでアクセスしにくいったらありゃしない。いちいち武部の顔から入らなきゃならない(爆)なんかのCDに入れとくれよ。
 そうか〜"いくつになってもhappy birthday"と"ぼくのあたらしい歌"は曲相もよく似ている。"岸井ゆきの"と"古川琴音"くらい似ている(爆)。この二人すっかり混同していたわ。…ああ老いを感じるわい。爺ちゃん、目を澄まして。

2023. 2. 21

☆☆☆合言葉は天衣無縫☆☆☆
 「たっちん」「ともりん」「なーたん」…いつもだったらオイラをナメちゃいけねぇよという荒んだ気分になるところだが今回は違った。ふっ切れたような拓郎の元気さがとても眩しかった。自由だ。歌で言えば
  ♪今、君は解き放たれて 自由へと翼広げる 
   英雄の名に縛られずに 閉じこもる館さえもいらない
 こんな感じだ。元気で生存している人に,この歌でなぞらえるのは失礼かもしれないが、アナタが自分で作って,さんざん歌ったんだからいいじゃないの。

 高齢化してからの吉田拓郎を観ながら「天衣無縫」という言葉がときどき浮かぶ。今回のラジオでもそうだった。「天衣無縫」とは、辞書によれば、 天人や天女の着物には縫い目がないことから、文章や詩歌がわざとらしくなく自然に作られていて巧みなこと 。人柄が飾り気がなく純真で無邪気なさま。天真爛漫なこと。

 そして自由で天衣無縫な吉田拓郎は「もう俺の後ろ影を追うな」そう言っているような気がした。たぶん言ってないだろうけど(爆)。でも、ひとつ言えるのは、こっちはこっちで解放されたのだと思う。こっちも自由だ。…解き放たれた歌手と解き放たれたファン。これからが面白いんでねぇの。
☆彡☆彡☆彡今日のソウルメイトな歌☆彡☆彡☆彡
「夕映え」(作詞:石原信一/作曲:吉田拓郎 「吉田町の唄」所収)
 けれど自分の後ろ影を責めるなよ、笑うなよ、僕は誰にも奪われない、愛する君のそばにいる…亡くなった大森一樹監督にはすまないが、あんな映画にゃもったいない珠玉の名曲だ。個人の感想です。

2023. 2. 19

☆☆☆そして誰もいなくなった役員室午後3時☆☆☆
 これは俺の勝手な思い込みというか妄想だ。これに限らずこのサイトはみんなそうだけどさ。
 これまで吉田拓郎がさまざまなインタビューでフォーライフの社長時代のことを語ってきたが、もっとも凄絶さが伝わってきたのは、経営危機のときにスタッフを整理=切らなくてはならなかったというくだりだ。
     「応援できない人には辞めてもらう」と言ったよ。地獄だったね、本当に。
      …全員辞めてもらった。それが大変だった。
             (吉田拓郎「もういらない」祥伝社・P.110〜111)

      切った。それはもう今でもほんとに悲しいくらい切った。
      その人は恨んでるでしょう、その家族もみんな。
             (「月刊PLAYBOY」第137号」"吉田拓郎インタビュー"集英社P.43)

 読んでいるだけで辛くなる。一緒にフォーライフに夢をかけて参加してくれた人たちを自ら切る。切られた人々が一番大変だったろうが、切る方も平気でいられるわけがない…赤い血が見えないか。その人たちの家族にまで思いを致す拓郎。どれほど辛かったのか、俺なんかには想像もつかない。そう思うと昨日のラジオで「こんなことをするために東京に出て来たんじゃない」という言葉も悲痛な叫びのように響いてくる。

 たとえ今、すべてが昔話になったとしても、偉業だったとか、革命だったとか、青春の思い出だったとか「吉田拓郎」が賛美されるような歴史には絶対しない、してはならないという、吉田拓郎本人の固い決意を感じるのだ。だからこそ完膚なきまでフォーライフへの参加を間違いだったとキッパリ断言するのではないか。…あくまで根拠なんてない勝手な邪推だけどさ。

 ともかく吉田拓郎はフォーライフについてはもうすべてを語り終えたに違いない。吉田拓郎が残酷なまでにキッパリと総括する背中を見つめながら、いや,それでもフォーライフの描いた夢も数々の素敵な音楽もそして何よりフォーライフのために苦闘した吉田拓郎の素晴らしさも、こっちにはちゃんと届いているぜ、と静かに心に把持しつづけたい。

☆☆☆今日のソウルメイトな曲☆☆☆
「流れる」
(作詞・作曲 吉田拓郎/編曲 松任谷正隆 Sg「となりの町のお嬢さん」所収)
これがはじまりの唄。思い出すな荒野の朝を、今は黙って静けさを愛せばいい。
「気持ちだよ」(作詞 康珍化/作曲 吉田拓郎/編曲 瀬尾一三)
 そして最後の唄。気持だよ、気持ちだよ、君から貰ったものは。

2023. 2. 18

☆☆☆オールナイトニッポン55周年記念吉田拓郎のオールナイトニッポン☆☆☆

 前番組の最後に山下達郎の「拓郎さんお身体お大事に、なかなかお目にかかれませんが」とのお言葉があった。そして始まった、たっちん、ともりん、なーたんのまとまらない三人のオールナイトニッポン。通りすがりのおじさんとおねーさんたちの井戸端会議みたいである。
 とにかく何事もなかったかのように極めて自然に始まった。相変わらず声がいい、滑舌もいい、そして何より自由闊達な感じがまたいい。まったく衰えていない。むしろ衰えたのは俺の方だ。書き起こしをしようと思ったらもうこの爺は手も頭もついていかない。もともとこの声の質感やゲストとの自由軽妙なやりとりは文章に起こせるものではない。なのであきらめた。

☆篠原がバラした色分けした台本を丹念に作っている吉田拓郎。どうしても昔の天衣無縫キャラの印象が強い篠原だが、実はかなりクレバーで、目ざとくて、それで結構しつこい(爆)。油断がならないタイプである。いい意味で、だ。

☆スポーツ、学業万能の好漢A君、C君。写真部、帰宅部、悶々として日々を送る今でいうと陰キャのB君とD君。映画「桐島、部活やめるってよ」が思い出される。若き日の残酷なヒエラルキーだ。やっぱり若いころのこういう鬱屈した気持ちって大人になっても引きずるし影響するのはとてもよくわかる。それでも吉田君は吉田拓郎になったからいいじゃないか。吉田拓郎になれなかった私も含めてたくさんのB君、D君が吉田拓郎に超絶あこがれてしまうのかもしれない。蜘蛛の糸を独り登るカンダタを追いかけて登ろうとする地獄の人の群れ、私もそのひとりだ…って陰惨な例えだな。

☆病弱な少年が立浪部屋の時津山にファンレターを出したら「大きくなったら訪ねてきなさい」…初めて聴いた話でちょっと胸が熱くなる。

☆「私が不健康だとお酒の印象を悪くしてしまう」,「ウコンのチカラを借りればどこまでもいける」…拓郎は奈緒さんとは酒を飲みたくないというが、特に半沢直樹とメフィラスが出てくるビールのCMの奈緒の飲みっぷりがいい。俺はかなり好きになってしまった。 

☆フォーライフへの参加を深く後悔する吉田拓郎。社長になるために東京に出てきたんじゃない。そこまで後悔しているのか。確かにあのままソニーの環境にいたら音楽もまた違っていたのだろうか。それはファンとしても気になるところだ。しかし、それでもフォーライフの設立そして再建に粉骨砕身取り組んだ吉田拓郎を誇らしく思う。もうそんな拓郎のことを喧伝したりはしないが、密かにあの素晴らしさは心の中で思い続ける。

☆「自分は何かを頑張った気がしない、ラックは持っていたが、なんとなくレールに乗っていた。ホメてやりたいような決断や努力はない。運が良かった、自分から飛び込んだ気もしない」
 私から見れば自分から荒海に飛び込んで抜き手をきって泳ぎ、身を削りながら頑張って、大いなる成果を成し遂げた立志伝中の人にしか見えない。たぶん世の人々もそう見ているはずだ。拓郎の主観と傍目の客観の大いなるズレ。そこで出てくるのがあの「天才に向上心はいらない」というかの名言なのだ。それは吉田拓郎が本当に骨の髄まで音楽家であり、魂の底から音楽を愛しているからなのだとあらためて思う。

☆「これからのことは佳代と二人で決めるのでここでは言わない。毎日楽しい、以前とは違う楽しみ方があるということをお伝えしておきたい。生きてみないとわからない。今は凄い楽しい」
 去年のadayに書いたけど映画「コーダ・あいのうた」は実にいい映画だった。確かに、主人公は、あいみょんに似ている。そしてあの父親は高田渡に似ていると思う。
 あいみょんの2018年がもう古いというこの感覚は確かにショックだ。LOVE2の開始も2006年のつま恋もつい最近のことだというのが肌感覚だ。だからリタイアして正解だったのか、本当にそうなのか、これは深めてみるに値する問題だ。

☆彡☆彡☆彡今日のソウルメイトな歌☆彡☆彡
 「僕の一番好きな歌は」(作詞・作曲・歌 吉田拓郎 1979年ラジオ音源)
 「僕の大好きな場所」を「僕の一番好きな」と言ってしまうから、久々に聴きたくなった。遠い昔の合戦を観ているような、いや今だからこそしみるものなのか、それはこれから生きてみなきゃわからない。しかしこのソウルは永遠のものだ。

 リタイア後これからどうなっていくのかわからないなかで、こんなふうに通りすがりのように突然あらわれる吉田拓郎がいる。推しがリタイアしてしまったファンの明日はどっちだ。さしづめ「吉田拓郎ファン」もやりつづけてみなきゃわからないということだろう。ということで、また通りすがってくれんさいや。

2023. 2. 16

☆☆☆原宿は今日も雨だった☆☆☆
 「たえこMY LOVE」といえば、あの雨音の効果音だ。クラクションが小さく鳴ると雨音を切り裂いて♪た・え・こ・MY LOVE 雨のぉ中をぉ踊るようにぃひぃ〜消えてい〜〜った…何度聴いてもこのドラマチックな導入がたまらんぜ。うまい。うますぎるぜボーカルが。
 「雨の中で歌った」のおかげで、たえこMY LOVEの舞台が原宿・表参道であることがわかった。そうするとどうしても思い出すのが、

 どしゃぶりの雨の中、タクシーを降りて僕は一人
 想い出のたくさんしみこんだ 表参道を歩いている
 あれはそうもう何年も前 やるせない思いを友として
 都会に自分を馴染ませようと 原宿あたりへやってきた
 その日も雨模様で かすかに山手線を走る電車の音は心地よく

 ああ〜町中華見逃しちゃったよ残念。それにしても名曲ばい。最初はたぶん山手線で西も東もわからず来た街に、数年後にはタクシーで乗り付けてやったぜという出世の歌だ>まったく違うだろ
 そう吉田拓郎の原宿は「雨」なのだな。雨の原宿…「雨の西麻布」は、とんねるずだった。あれもいい歌だった。♪双子のリリーズ〜 ザ・リリーズといえば10年くらいの前に原宿ラドンナで二人揃ったお姿をお見掛けした。ああ、サインをいただきたかった。ご冥福をお祈りします。ちゃんと原宿に帰って来た。  

☆彡☆彡☆彡今日のソウルメイトな歌☆彡☆彡☆彡
「街へ」(作詞・作曲・歌 吉田拓郎 編曲 ブッカー・T・ジョーンズ「Shangri-la」所収だが、セイヤングで流したデモテープを)
 「街へ」はデモテープがメチャ好きだ。キーもあっていないラフなデモテープなのだが、街も自分も雨の中にとろけてしまうような抒情的な感じがなんともいえずにたまらない奇跡のバージョン(※個人の感想です)。あと何万回でも言うが1980年の武道館のゴージャスな松任谷アレンジバージョンを公式音源化して欲しい。
 「好きよキャプテン」(歌・ザ・リリーズ/作詞・松本隆/作曲・森田公一)
…松本、おまえだったのか。中学の時、テニス部のキャプテンもちだ君が女子たちにこの歌を歌ってもらっていてすげー羨ましかったのを覚えている。拓郎の言うとおりスポーツできなきゃ女子にはモテないよな。…いちおう水泳をやっていたのだが、そんなんじゃダメ、やっぱり、やれ野球やれ、サッカーやれじゃないと。

2023. 2. 15

☆☆☆雨の中で俺も歌った☆☆☆
 冬の雨の中を仕事でトボトボ歩いていると切なくなるくらい寒い。切なさは孤独感というよりもう自分が用済みのようなやさぐれた気分に近い。”冬の雨”って歌(アルバム「ひまわり」所収)はカッコイイけれど、実際に歩いていると芯から凍えて気持ちも荒んでくる。しかし歩きながら「雨の中で歌った」が脳髄の奥底から湧いてきて、ずっと小声で口ずさんでいた。なんだろう、このメロディーの気持よさというか心地良さ。ちょっと温かな気分になってウキウキしてくる。いつまでもこのメロディーにずっと浸っていたいと心の底から思った。

 「ah-面白かった」の中で一番最初にデモテープを聴かせてくれたのがこの作品だ。その時の俺の印象は正直に言うと「こりゃ凡作ばい」だった。可もなく不可もないとても平凡な拓郎節。すまんな、こういうときは拓郎ファンとしては「どこか懐かしい感じ」とか「拓郎らしさを感じる」と表現すべきかもしれないがそれでは拓郎に失礼である。>凡作の方が失礼だろ。

 でもこうしてレコーディングされた完成品を聴くと音楽からしみじみと湧いてくる幸福感を感ずる。そしてWANGANの実写版になってくるとまたライブだからこその演奏と歌いっぷりのラフさにまたあらたな命が弾んでくる。名作じゃん。この平凡を心から愛している自分に気づくのだ。そしてそこにはささやかな幸せがある。
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これだ。…怒られるぞ。あくまで個人の感想です。
☆彡☆彡☆彡今日のソウルメイトな歌☆彡☆彡☆彡
 「たえこMY LOVE」 (作詞・作曲・歌 吉田拓郎 「ONLY YOU」所収)〜「雨の中で歌った」 (作詞・作曲・歌 吉田拓郎 (作詞・作曲・歌 吉田拓郎 「ah-面白かった」所収)
「たえこMY LOVE」の後日譚ソングということなのでループしながら聴く。たぶんONLY YOUバージョンの方が組曲的一体感でしっくりとつながるような気がする。…と思いつつ石川鷹彦アレンジのシングル盤のあとに聴くと映画でいえば回想シーンからの劇的な場面転換みたいな感じがしてこれもまたいい。どっちがいいかじゃなくて、どっちもいい。

2023. 2. 14

☆☆☆東京駅地下道のひとごみの中、ああ〜☆☆☆
 東京駅地下のムーミン・ショップが今日で閉店ということで驚いた。かなしい。壁のソフィア・ヤンソンのサインはどうなるんだろう。一昨年に吉田拓郎のファンクラブであるTYISが終了した。昨年末にムーミン公式ファンクラブも閉じて、ついに私はどのファンクラブにも属さないこととなった。その矢先のこの愛用ショップの閉店である。これがホントの推仕舞(おしまい)である。
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 最後の品出し福袋を買って、おねぇさんたちに長い事ありがとうございましたと礼を言った。正直、福袋の中は要らないものばかりだったが(爆)、そこは気持ちだよ、気持ちだよ、君にあげたいものは。
☆彡☆彡☆彡今日のソウルメイトな歌☆彡☆彡☆彡
 「まるで孤児のように」(作詞岡本おさみ/作曲吉田拓郎/編曲青山徹「アジアの片隅で」所収)
 なんだか俺たち荒れ果てた土地に取り残された、行く場所のない孤児みたいだな…なぁ今こそ静かなるファンクラブが必要なんじゃね? 

2023. 2. 12

☆☆☆どこで自由を手にすればいい☆☆☆
 なんだか世間が息苦しい。例えば同性婚制度は、現行憲法では「想定されていない」というのが政府見解だという。確かに想定はしていなかったにせよ、断じて禁止はしていない。
 憲法24条「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立する」…この規定は「愛し合う二人の思いが全てです。それ以外は「家」だろうが「しきたり」だろうが、誰にも何にも邪魔はさせません」という愛し合う二人へのエールだ。だから、愛し合う同性婚を禁止するだなんて言うはずがない。音楽に魂=ソウルがあるように法にも魂=ソウルがある。愛でないものはあるはずがない。…これから社会的な議論を深めたいと薄っぺらな口上を耳にするが、その議論に愛とソウルはあるんかい。
 この問題に限らず、総じて少数者をこの経済社会のために少しずつ粛清していくような流れが感じられて息苦しいし、怖い。ジョン・レノンが亡くなった時、アブレ者は抹殺されると泣いていた拓郎の言葉を思い出す。もちろん拓郎さんが今この問題をどう考えるかは知らないし、わからない。それでも私は、拓郎の歌はすべての愛し合う二人を応援する歌だと勝手に思い勝手に理解している。そしてこれまた勝手にこういうときの応援歌だと思う。
☆彡☆彡☆彡今日のソウルメイトな歌☆彡☆彡☆彡
「Life」(歌・作詞・作曲 吉田拓郎「FOREVER YOUNG」所収)
 しくみがあるから生きるわけじゃない、勝手なルールを押し付けないでくれ、わかったな愛を巧みに操る者たちよ。いいわぁ。原曲はもちろん85つま恋の凄絶なバージョンもいい。惜しむらくは2000年代の深みのある歌声でのバージョンも欲しかったと…これも勝手に思う。

2023. 2. 11

☆☆☆ラジオはハッピーな友達です☆☆☆
 あらためてラジオと吉田拓郎の絆の強さ、やっぱり吉田拓郎にとってのラジオってすげぇものなんだなぁと思った。もちろん説得にご尽力いただいた皆様方に深謝申し上げます。貴重な近況確認であり、また引退してしまったわけではない状況証拠でもある。なーんてことを超えて、ただひたすらに楽しみである。とにかく18日までは、死んだふりしてまだ生きられる、おまえだけが命あるものよ〜
☆彡☆彡☆彡今日のソウルメイトな歌☆彡☆彡☆彡
「oldies」※バイタリスフォークビレッジのテーマ(作詞・作曲・吉田拓郎「Oldies」所収)
 ラジオといえばコレだ、神田共立でのサプライズも記憶に新しい、♪ここに一人でいる僕を 夜空のどこかに記しておきたい 愛する人に 届けと〜ココがいいんだよな。

2023. 2. 10

☆☆☆祝・2/18 am11:00 オールナイトニッポン出演☆☆☆

「もう帰って来やがって」と涙ぐむ
              天邪鬼推すもまた天邪鬼
                        星超空
…俺も長山短歌賞に応募しようかな>短歌じゃねぇし

☆彡☆彡今日のソウルメイトな曲☆彡☆彡☆彡
  「誕生」(歌・作詞・作曲 中島みゆき/編曲 瀬尾一三)
    ♪私いつでもあなたに言う、戻ってくれてWelcome\(^o^)/
       ※原詞は「生まれてくれて」です。

2023. 2. 8

☆☆☆挟まれる吉田拓郎縁起☆☆☆
 昨日はアグネス・チャンの「アゲイン」を聴きながら、ああ〜こりゃあ名曲ばい…とあらためて感じ入った。僕らは今も自由のままだ>だからそっちじゃない。そっちも名作だが。
「作詞・松本隆/作曲・吉田拓郎/編曲・松任谷正隆」…このクレジットが醸し出すなんとも言えない盤石感。そして神々しさ。字面的に「作曲吉田拓郎」が「作詞松本隆」と「編曲松任谷正隆」に両脇を挟まれると名曲率は100%である。以下に表にして検証してみた(爆)。
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…ほ〜ら無敵だ。「吉」の字が両側の「松」に挟まれて名曲出来。こいつぁ縁起がいい。これを吉田拓郎=門松理論と名付けたい。意味わかんねぇよ。
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 引退したわけではなく曲はこれからも作り続けると拓郎はラジオでも言っていた。いつかまた気分が乗ったら「門松」で作ってみてくださいな。
☆彡☆彡今日のソウルメイトな歌☆彡☆彡
「英雄」(作詞・松本隆/作曲・吉田拓郎/編曲・松任谷正隆 「ローリング30」所収)
  門松はしみじみとした名作が多い中でのハード路線のこの歌。詞もメロディも歌もそしてこの素晴らしきアレンジも、すべて魂が燃え立つ感じがすげーいいぞ。聴いているこの爺もこのままじゃダメだ、俺も決起して何かをせねばといてもたってもいられなくなる。何もしないけどさ。

2023. 2. 7

☆☆☆愛と哀しみのオメダ☆☆☆
 「カンパリソーダとフライドポテト」はなんといってもあのケーナのイントロがすばらしい。美しくて悲しい音色とメロディーの寂寥感があの歌を象徴している。ケーナという楽器だというのは当時のフォトブック「大いなる人」(八曜社)に書いてあった。しかし当時はネットもない高校生だったのでどんな楽器かはわからずじまいだった。後年、俳優の田中健がテレビに出てあちこちでケーナを吹き始めたおかげで初めて本物のケーナを観ることができた。ご存じのとおり田中健のケーナは趣味などではなくプロのレベルということだ。
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 なにせ田中健は家でケーナを吹き過ぎでウルサイということで家族から追い出され多摩川の川原で吹いていたと芸能ニュースでも報じられていたほどだ。こんなふうにケーナの音はどこまでも悲しみでできているのだ。※念のため田中健がカンパリのケーナを吹いているわけではないから(爆)、小出道也という笛奏者の方である。

 いやいや歌に話を戻そう。あのケーナのイントロのメロディ―が、今度は間奏では鈴木茂の見事なギターでトレースされる。このギターはがまた美しく東海林太郎の国境の町とのブリッジが胸を打つ。あ〜鈴木茂、天才と思わず叫びたくなるゆえんだ。

 この名作が1978年の春のツアーでは最初の数本で歌われただけで、セットリストから外されてしまったのが残念だ。チリチリパーマとともに幻のテイクになっている。

 同じくケーナ(だと思うけど違ったらごめんね)が印象的なイントロの名曲がもう一曲ある。こっちは松任谷正隆先生のアレンジだ。
☆彡☆彡☆彡今日のソウルメイトな歌☆彡☆彡☆彡
 「アゲイン」(歌・アグネス・チャン/作詞・松本隆/作曲・吉田拓郎/編曲・松任谷正隆)
 この(たぶん)ケーナのイントロも切なく疼くようで、悲しみのブレンドされた拓郎のメロディーとリンクとしている。そして松本隆が見事に描く映画のような情景…最初の機関車を降りるところ、これって赤毛のアンのプリンス・エドワード島がモデルではないかと思っているのだが。

2023. 2. 6

☆☆☆t.yを愛する諸国民☆☆☆
 昨夜はtくんらと目黒の坂の途中の店に集まり禁酒の誓いを思い切り破った。禁酒の誓いなんて破られるから美しい。
 当然の如く一線を退いた吉田拓郎の話になった。tくん曰く「これが逆だったらどうだろう。先にこっちが聴けない身になってしまったら、それはそれで心残りなんてもんじゃない。」…切ない話だが十分にありうることだ。我なき後にごっつすげー新作出したり、ごっすげーライブやったりしたらと思うと超絶悔しいわな。今は亡きk君の顔が浮かんだ。その無念たるやいかばかりか。「拓郎がココまでだよという線を自分で引いてくれたことは、こちらにとってもありがたいことかもしれないと思う」…酔ってたんでtくんの言葉の主旨をちゃんと捉えていないかもしれないし、もっと他のことも言おうとしていたのかもしれないが、ああ〜そういう考え方もアリだなと思った。

 一線を引いたことで、正しい表現なのかはわからないが吉田拓郎は肉身ではなく法身となった。あるいは我が幻の兄弟の言葉を借りれば「文化」そのものになったのかもしれない。
 例えばtくんはまだ買っていないアルバム、買ったけど聴いていないアルバムをこれから辿るとのことだ。ミッツ・マングローブが2022年は拓郎元年でこれから一枚ずつアルバムを聴き始めるというのとスピリットは一緒だ。それは楽しいだろうな。
 文化のいいところは、永遠でしかも自由なところだ。忖度もキマリもなく、それぞれがそれぞれに自由に文化を味うだけだ。文化になった吉田拓郎を前に、健康で文化的な最低限度の生活を営み、平和のうちに個人として生命、自由及び幸福追求に生きる。それは保障しますって、ちゃんと憲法にも書いてある(爆)。

 それにしてもtくんは心の底からカンパリソーダにハマっていて飲みっぷりが見事だった。最初から最後まで食前酒を飲みつづけるもんじゃないと注意されたそうだが(爆)。そんなにカンパリが好きになったのか、tくん。ということで。
☆彡☆彡☆彡今日のソウルメイトな歌☆彡☆彡☆彡
「カンパリソーダとフライドポテト」(歌・詞・曲 吉田拓郎 アルバム「大いなる人」所収)
 思い切り逆風の吹く中を木の葉のように舞いながら進む二人、切なくも力強いラブソングだ、拓郎の素晴らしさと共に、鈴木茂…アナタは天才!!

2023. 2. 5

☆☆☆君の欲しかったものはなんですか☆☆☆
 タイトで骨太なドラムに導かれたLIVE2016「僕達はそうやって生きてきた」が終わって余韻に浸っていると「流星」が始まる。ついついそのまま聴いてしまう。CDで聴くと正直こんなに良かったのかとあらためて思う。ほぼピアノだけの下支えで拓郎のボーカルを思いっきり真ん中にフィーチャーして始まる。心にしみいる拓郎のボーカルの威力が胸を打つ。やがてバンドサウンドにつつまれてもそのまま拓郎のボーカルだけが強く刺さってくる。いいぜ。だから、あの最後の最後が、際立つ。これだけの演奏なのに惜しい、残念という気持ちと、これはこれで拓郎の魂の発露で、これを含めて凄いじゃないかという気持ちが交錯する。どちらにしても絶品のひとつであることは間違いない。

 それにしてもよくまあこれだけの曲が、1979年のTOUR79/篠島から1999年の20世紀打ち上げパーティまでの20年間も放置されライブで歌われなかったものだ。それって凄くないかい。それよりもそれでも人々の心にこの歌が静かに生き続けて広がっていったことの方がすごいかもしれない。それだけでもこの歌のチカラを思わざるを得ない。

 歌われなかったといえば、先日久々にお会いした拓バカ同志の「なぜつま恋2006で『流星』は歌われなかったのか?」という問いを思い出した。世界で一番「流星」を聴いていると自負する彼にしてみれば問いというより心の叫びのようなものだ。確かに追及に値する疑問点だ。1999年以降ライブの定番スタンダードになった「流星」にもかかわらず、なぜあの大舞台で歌わなかったのか。「落陽の花火のあとは"a day"じゃなくて、そこで"流星"だろ」という彼の言説はもっともだ。
 …なぜかはわからん。もともとよくわからないのが吉田拓郎だ。…ただあのつま恋のラストステージの圧巻で流星が歌われた日にゃ、それこそ2016年のようなことになってしまうことを懸念したのではないか…と2016を聴いていて思う。袖にみゆきねーさんもいるしそうなったらちょっとな…と思ったか…すまんただの下種勘繰りでしかないが。
 
 そして反動のように2019年の「流星」はチカラ強く攻めていた。センチメンタルなモードを打ち消すような気概をハーモニカにこめて、最後はハモニカごと放り投げた。あれはあれでまたカッコ良か〜。
 幾多の流星たち、もう生の流星は見られないのか。
☆彡☆彡☆彡今日のソウルメイトな歌☆彡☆彡☆彡
 「流星」(歌・作詞・作曲 吉田拓郎 DVD「吉田拓郎 LIVE 2016」附属CD所収)〜「流星」(DVD「吉田拓郎 LIVE 2019 -Live 73 years- in NAGOYA 」)
  名古屋もこんなにうまかったっけと思うが、とにもかくにも70歳を過ぎても進化する「流星」にしびれる。

2023. 2. 4

☆☆☆俺だって風の中に立ってる☆☆☆
 WANGANで久しぶりに河村"カースケ"智康のドラムを観た。どことなく青山徹系の顔立ちには親しみを覚えるのだが、カースケ氏の全身から放たれるヨガの修行中みたいな雰囲気が気になって仕方がない。2014年の拓郎のツアーでは、メンバー紹介の時にスティックを宙高く舞わせていたが、もう何か術を使っているようにしか見えなかった。
 ということで先入観のカタマリになってちゃんと音を聴いていなかったが、最近になって、なんとタイトなドラムなのだろうかと深く感じ入る。遅いな、すまん。特に2016年のライブDVDに附属しているCDを聴いているとビシビシとリズムが響いてくる。大して好きじゃなかった作品でもこのサウンドで聴いていると有無を言わさず説得されてしまう。2016年のライブはこのサイトではそこそこの酷評をした気がするけど、このドラムの凄さを気づかなかったのは不覚の至りだ。
☆彡☆彡☆彡今日のソウルメイトな歌☆彡☆彡☆彡
 「僕達はそうやって生きてきた」(歌・作詞・作曲 吉田拓郎 DVD「吉田拓郎 LIVE 2016」附属CD所収)
 なんとなく Kinki・シノハラ世代を意識した優しいおじさんからのメッセージ的な歌詞(小爆)、なんか展開の凡庸なメロディー(中爆)、まるで好々爺のロックンロールじゃねーか(大爆)、とさんざん悪態をついたものだが、カースケのドラムがビシバシくるこのライブ・バージョンを聴いていて思わず「おお、すげぇ」と声が漏れてしまった。こちとらは、ははーっとひれ伏さんばかりだ。勝手ながらこれこそがベストテイクではないか。魂の律動を感じる。

2023. 2. 3

☆☆☆三番目に大事なもの☆☆☆
 いやなニュースが続いていて、三日に一度くらい「ああ、忌野清志郎が生きていてくれたらな」と思ってきた。すまん、ファンでもないくせに何かおこがましい。そもそも昔、清志郎は吉田拓郎が大嫌いだと公言していた拓敵だった。俺にとっては敵ということで、拓郎はずっと彼のことが大好きだったようだ。でも清志郎の方にも後年から晩年にかけて静かな変化があったように見えた。いずれにしても敵であっても味方であってもいい。「忌野清志郎が生きて歌っていてくれたらな」とただ切に思うのだ。

☆彡☆彡☆彡今日のソウルメイト☆な歌☆彡☆彡☆彡
 「心のボーナス」 吉田拓郎 (作詞・作曲 忌野清志郎 「Hawaiian Rhapsody」所収)
     ♪大人のクセに自分のことで精一杯だったから…恥ずかしながら御意。 

2023. 2. 2

☆☆☆素敵なintermission☆☆☆
 そういえば2005年の瀬尾ビッグバンドのツアーだったな、途中の「夏休み」で会場が大合唱の中、拓郎だけ一時退場して小休止するという構成があった。ここぞとトイレ休憩に立っていた人もいた。しかし後で拓郎が出てきて「おまえら、歌わないで席を立った奴ら、モニターで全部チェックしているからな!」と怒っていらっしゃった(爆)。見てやがんな〜。そういう大きくて小さい拓郎さんが好きです(笑)…あぁなんもかんも楽しかったなぁ。

 そもそも休憩が悪いというのではない。2000年代によく足を運んだ浜田省吾のライブは必ず休憩があったが、これがあるがゆえになんか前後編たっぷりと見せてもらった充足感が凄くあった。そもそも「休憩」という言葉がなんかアレだな。バレエとか演劇とか映画でいうところの「intermission=幕間」というのが適切だしオサレかもしれない。
 今度ライブやるときは途中intermissionでフォーラムのスパークリングワイン飲んだりしてゆったり過ごせるのもいいかもしれない。ゲストには女性シンガーを呼んで、女性歌手提供曲たとえば「ステラ」「風の中で」「ラブ・カンバセーション」とかを歌ってもらったり。
 デスマッチ型をとことん極めたので、今度は回帰して、より豊かなゲスト・休憩ちゃうintermission型ライブを…やってくれてもいいよ(爆)

2023. 2. 1

☆☆☆気分はデスマッチ☆☆☆
 そういえば大野真澄は1976年のコンサートツアーのゲストだった…行ってないけど。私が初めて参加した78年のツアーでは小林倫博、是非とも行ってみたかった憧れの74年はバックバンドもつとめた愛奴がゲストだった。かつてのコンサートツアーにはゲストがつきものだったようだ。
 拓郎が登場して歌い、ゲストと交代し、休憩を挟んで拓郎の演奏が再開して全長2時間前後というのが70年代中期のパターンだったようだ。たぶんそれ以前には前座型とでもいうべきものがあったと推察されるが私は体験していないのでわからない。
 今思えば、拓郎とともに浜田省吾や大野真澄が聴けるというのは贅沢な話だが、当時はゲスト・休憩の中入りは微妙なところもあった。ゲストの小林倫博が「次が僕の最後の曲です…って言うと凄い拍手がくるんです」と言ったらホントに盛大な拍手が起こって…すまなかったなと今はちょっと思う。しかしどうしても中入りで熱が醒めてしまうことは否めない。

 しかしこれが翌79年からは大転換する。ゲストなし休憩なしで「2時間半ぶっ続けで行きまっせ!」(79年7月2日)と拓郎が言ったように自ら「デスマッチツアー」と冠する新しいパターンが披露された。時間も2時間30分と延長されている。79年はそれでも途中で3〜4分程度の島村英二のドラムソロが入り(「君が好き」の間奏)、その間に拓郎たちは一時退場するという給水ポイントが作られていた。島ちゃんのすげえドラムソロはブラボ!!
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 78年から79年のこの転換と変化は正直びっくりしたものだ。わざわざ図にすることか(爆)。いいじゃないか。やがてはソロプレイのワンポイント時間も無くなり、ホントにぶっ続けの公演になる。かくして、このゲストなし、休憩なしの完全デスマッチ型が末永くその後の拓郎のライブのデフォルトとなるのはご存じのとおりだ。

 私ごときが偉そうに言うことではないが、それでも何度でも言いたい。今まで普通に観ていた吉田拓郎が登場して最初から最後までずっと歌うというコンサートを当たり前だと思ったらバチがあたる(爆)。それは拓郎の並々ならぬ覚悟と心血注いで作り上げられたフォーマットなのだ。
 そしてこのデスマッチ型のコンサート総時間は途中に増減はあったものの2004年の瀬尾一三ビッグバンドとのPrecious-storyでは総時間が3時間にも及ぶことがあった。齢60歳を目前にしてのことである。こうして自分も同じ年代になってみてつくづくその凄さに感嘆せざるを得ない。そんな拓郎さんに対して何がどうだとかグチグチ悪態つくのはやめようぜ>それは、おめぇだろ(爆)はい。

☆彡☆彡☆彡今日のベスト☆彡☆彡☆彡
  君が好き    吉田拓郎(豊かなる一日より)
      若き日の島村英二のあの超絶なドラムソロを湛えて。

 何を言いたいのかというと、私も年齢とともに日々疲れやすくなって、つい他人に任せたり、休憩したくなることも多いが、そこはそれ、わが師が身をもって示してくれた、気分はデスマッチの気概でまいりましょう…ってこと。

2023. 1. 31

☆☆☆悲しみを口ずさむ時☆☆☆
 それにしても訃報が多い。なぜか悲しい夜だから、昨日の余勢をかって大野真澄の「空に星があるように」を聴く。しみる。今頃になって心の底から申し訳ないが、素晴らしいボーカルだ。ちょっとロックっぽいアレンジもいい。これってフォーライフ時代の吉田拓郎のプロデュースだった。軽井沢に合宿した拓郎が奮闘していた記事が今は無き雑誌「フォーライフ」にあった。
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 そういえば荒木一郎は金沢事件の時にマスコミで拓郎を擁護してくれた数少ない一人だったんだよな…とか余計なことも思い出す。とにかくとにかくみなさんお元気でいらしてください。
☆彡☆彡今日のベスト☆彡☆彡☆彡
 大野真澄「空に星があるように」からの同じ大野真澄のカバーする「ああ青春」
  このボーカルだともっともっとカバー映えする拓郎の曲がありそうな気がするんだが、なんだろうか。

2023. 1. 30

☆☆☆今夜は酒で酔えない☆☆☆
 これは俺の勝手な思い入れなのだが「ドン・ファン」ときたら「ダンディー」(大野真澄)なのだ。前にも書いた気がするが、どちらも松本隆&吉田拓郎のタッグの手になる同じ1978年の提供曲だ。あえて対称的に作られた作品のような気がしてならない。それくらい見事な対極だ。
 勝ち組、負け組という言葉は嫌いだが「ドン・ファン」が勝ち組のモテ男なら「ダンディー」を負け組のフラれ男の歌だ。松本隆はドン・ファンは吉田拓郎をイメージして書いたと言うが、ダンディーはさしづめ自ら「ふられ虫」と宣言していた「武田鉄矢」あたりではないか(※松本隆はそこまで言ってません)。
 まず詞のcontrastが見事だ。♪レミーマルタン水で薄めてはプレイガール達の輪の中で踊るドン・ファンに対して、♪ジンの瓶、逆さに一滴飲み干す、みみっちいダンディー。特に♪貧しい俺でも背広はホワイト…ここらがとても切ない。とはいっても自分を省みると部類としては後者に共感せざるを得ない。
 このcontrastは詞だけでなくメロディーにも表れている。ドン・ファンのどこか攻めている感じのメロディーとサウンドに対して、ダンディーのメロディーは、やさぐれた悲しみを湛えていて、どこまでも心優しい。よくできたメロディーだ。
 間奏に♪酔いどれ酔いどれ〜というブリッジのメロディ―がかかっているところが素晴らしいと当時の知り合いの方が熱弁していた。御意。
 そして末筆ながらボーカルこと大野真澄の懐の深いボーカルが実にいい。これは仮に拓郎が本人歌唱したとしても、よしんば武田鉄矢が歌うよりも、この大野真澄のボーカルの「粋」な感じに一択だ。永らく幻のシングル盤だったのだが、わりと最近FORLIFE CLASSICS」というフォーライフレコードの記念盤に収録された。ということで崖落ちを逃れた。良かった。
 
☆彡☆彡☆彡今日のベスト☆彡☆彡
  ダンディー  大野真澄
   1978年の溢れるような拓郎の数々の名曲群に乾杯だ。

2023. 1. 29

☆☆☆なんだかんだのドンファン☆☆☆
 昨年末のミッツ・マングローブのラジオの「吉田拓郎提供曲特集」で、EVEのカバーした「ドン・ファン」を初めて聴いた。ダンサブルでイイ感じだった。そういえば昔、男性ばかりの広島出身のバンドがカバーしていたよな〜と思って調べたら…「ザ・ベアーズ」というグループが1978年12月にシングル盤でカバーしていた。神田広美がリリースしたのが1978年7月だから僅か半年後のカバーだ。ちなみにEVEの発表は1980年。この短い期間に3組のシンガーが競作するのって凄くないか?でもってどれもヒットしなかったというのも、もっと凄くないかい?(爆) すまん。売れなかったものの、どのバージョンもなかなか聴かせるのはやはり楽曲のチカラが大きいからだと思う。よくできた曲だとあらためて思う。

 やはり本家は神田広美のオリジナルだ。77年から78年は社長業に忙殺されて音楽の第一線から離れていた…と自分もよく言ったり書いたりするが、フロントに出たり、ライブをしなかっただけで、実にたくさんの本人歌唱と提供曲を作っていることは刮目すべきだ。音楽から離れていたと言ってしまうのは雑かなと我ながら思う。社長時代にも名曲をたくさん残しているのだ。http://tylife.jp/sideways.html#NINENKAN

 話がそれたが、当時のセイ!ヤングで、拓郎は、神田広美の「ドン・ファン」のレコーディングに立ち合った話をしていた。彼女が歌い方で損をしていると思った拓郎は、もっと口角を広げてイーって感じで歌うようにと熱心に歌唱指導したと語っていた。
 そして少し経って別の音楽番組に出演した神田広美は「吉田拓郎さんの歌唱指導のおかげです」と感謝を語っていて、ああとても誠実な人だなと感心したものだ。普通は「うるせぇよ」とか思うじゃん>それ普通じゃないから

 神田広美は、その後作詞家に転身し、あのキャンディーズの「春一番」「年下の男の子」などで有名な作曲家穂口雄右と結婚しアメリカに渡った。最近はジャズシンガーとして復活しておられる。復活と書いたが、過去は切り離した「転生」かもしれないので、安直に"「ドン・ファン」の神田広美さん"とか言うのは失礼かもしれない。

 ということでなんとなく、行き場のない名曲という感じだったが、わりと最近松本隆がコンピレーションアルバム「新風街図鑑」に自選したりしてくれて、崖っぷちには立たずに今も生き続けている。

 ☆彡☆彡☆彡今日のベスト☆彡☆彡
 ドン・ファン  神田広美
   油断して口ずさんでいると♪プレイガール達の輪の中で踊る〜のところで口が回らなくなるので注意が必要>知らねぇよ

2023. 1. 28

☆☆☆ダダダで生きる☆☆☆
 ダダダといっても人間標本5・6ではない>知らねぇよ。
 武道館の「知識」はいつ聴いても熱い。それは人それぞれによって思い入れはあるだろうが、俺にとっては何といってもこのミュージシャン陣が好き過ぎるからだ。
     吉田拓郎
     松任谷正隆
     鈴木茂
     島村英二
     石山恵三
     エルトン永田
     青山徹
     常富喜雄
     ジェイク・H・コンセプション
 この9人が永遠のベストナインとして脳裏に刻まれている。

 「知識」の2番の♪語り尽くしてぇみるがいいさぁ〜 のあとにバンドサウンドがカタマリになってダ・ダ・ダッダァ〜と合いの手みたいなのが入る。これは音楽用語でなんかあるのかもしれない…オブリガートっていうのか?俺にはわからん。とにかくココが超絶燃えるのよ。理屈抜きに気分がアがる。

 同じような合いの手が篠島の「ああ青春」にもある。1番の最後♪ああ青春は燃える陽炎かぁ〜ダ・ダ・ダッダダァ〜と合いの手が入り間奏になだれ込んでいく。これもメチャ燃える。荘厳な世界に入ってゆく感じがたまらない。
 これらのダ・ダ・ダッダァ〜とダ・ダ・ダッダダァ〜のアレンジは、やはり松任谷正隆先生の手になるものであろうか。

 それから篠島の「ああ青春」では最後のしめくくりの♪ああ青春は〜のリフレインのところにドゥルルルルルルという島村英二のドラムロールが入るところがもう胸にしみる空のかがやき。これから繰り広げられるバトルの狼煙のような感じだ。

 ということで人生の節目、節目はこのダ・ダ・ダッダダァ〜とドゥルルルルルルに背中を押されながら生きていきたい。どういう人生だ。

☆彡今日のベスト☆彡☆彡
 「知識」(TOUR1979)からの「ああ青春」(TOUR1979)
    ダ・ダ・ダッダダァ〜とドゥルルルルルルで気分上げよ。

2023. 1. 27

☆☆☆推しが武道館いってくれたら俺だって死ぬ☆☆☆
 「推し」といえば、作者も内容も全く違う漫画で「推しが武道館いってくれたら死ぬ」という作品があることを知った。地下アイドルを応援する若者を描き、アニメ、ドラマ化そして今度は映画化にもなるらしい。知らなかったが有名なんだな。こっちは内容は殆ど知らないが、もうこのタイトルだ。魂すぎる。このタイトルを唱えるだけでチカラが湧いてくる。…この心意気、この気骨こそ「推し活」の真骨頂だ。

 俺の場合は、どうしたって1979年の初ソロ武道館に向かって魂が飛ぶ。吉田拓郎が武道館をやる…と知ったのはその年の春先のセイヤングでのことだ。結構驚いた。正直云うと、え、武道館?できんの?と不遜にも不安が走った。フォーライフの社長として音楽の現場から離れている間にニューミュージックは若手ミュージシャンの百花繚乱状態になり、既に「吉田拓郎」はもう過去の遺物というイメージだった。
 武道館直後の当時の週刊明星の記事がある。「今、拓郎で武道館、もつかいな」…という空気は確かにあった。当の拓郎本人までもがその不安を口にしている。
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 当日、俺はワクワクしながらも、もしかしたら悲惨な光景を観るかもしれないという不安にもさいなまれていた。しかし「俺が行かなきゃ誰が行く」と生意気をカマしつつ、討ち入りでもするような気分で九段下のお堀を渡って門をくぐった。
 いざ蓋をあけてみるともう武道館は超絶満員の客席、開演前から燃え立つ熱気、つま恋の映像でしか見たことのなかった怒号と拓郎コール、大音響で響き渡るローリング30、そして縦横に走り回り「拓郎」と描くレザー光線…そんな狂乱の中に始まった松任谷グループの「知識」にいきなりぶちのめされた。ぶちのめされながら…勝った!と俺は心の中で叫んでいた。たかがガキの一観客にすぎないのに。
 「推しが武道館いってくれたら死ぬ」…俺にはこの武道館のすべてが凝縮したフレーズに思えてしまう。んまぁ俺は死なずにそれからも恥を晒しながら生き続けているが。そして「推し」は「いってくれたら死ぬ」…ようなかけがえのない体験を何度も何度も、60歳、70歳を超えてからも味あわせてくれた。それを思えば時々来なかったり中止になったりしてもまぁいいじゃないか(爆)。とにかく感謝しかない。誰がどう言おうとも、推し有りて我ありと1ミリの後悔もなくいえる。

☆彡本日のベスト☆彡
 「知識」(TOUR1979)
   一曲目にして圧巻のクライマックス。推し武道の魂が凝縮された一曲。

2023. 1. 26

☆☆☆人がそこにおるんよね☆☆☆
 「推し、燃ゆ」を推す昨日の続き。推しの解散・引退ライブが終わると彼女はトイレにこもって「冷や汗のような」涙を流す。

「終わるのだ、と思う。こんなにもかわいくて凄まじくて愛おしいのに、終わる。」「やめてくれ、あたしから背骨を奪わないでくれ。推しがいなくなったらあたしは本当に、生きていけなくなる。」「この先どうやって過ごしていけばいいのかわからない。推しを推さないあたしは、あたしじゃなかった。推しのいない人生は余生だった。」(宇佐美りん「推し、燃ゆ」P.111〜112)


 この17歳の叫びは、そのままこの爺の心の叫びだ。
 深夜にライブの映像を観てブログを途中まで綴った彼女は、呆然自失で明け方の街を彷徨う。これまではそういうことは禁忌としていた、推しの住むマンションにたどり着く。すると推しの妻となる女性がベランダで洗濯ものを干している。

「あたしを明確に傷つけたのは、彼女が抱えていた洗濯物だった。あたしの部屋にある大量のファイルや、写真や、CDや、必死になって集めてきた大量の物よりも、たった一枚のシャツが、一足の靴下が一人の人間の現在を感じさせる。引退した推しの現在をこれからも近くで見続ける人がいるという現実があった。
 もう追えない。アイドルでなくなった彼をいつまでも見て、解釈し続けることはできない。推しは人になった。」(同P.121)


 「推しは人になった」…このくだりに心が痛い、心がつらい。どうしたってこっちの推しのことを思わずにいられない。ラジオの最終章を謳う「ラジオでナイト」あたりから佳代さんの話が増えていった。佳代さんのことを語る拓郎。その話は面白かったし、感動もしたし、平穏な日常を送る拓郎を祝福したい気持ちも湧く。湧くのだが、そのたびに心の奥底に走る何かがあって、この文章はそれを表現してくれている。佳代さんのことを語ること、それは拓郎が意識するとしないとにかかわらず、「俺はもう人になるんだよ」というメッセージを発し続けていたのだと思った。それが佳代さんの話のたびにこっちの心に走る何かの正体なのかもしれない。

 ここからの小説の最後までが切なく深く、なかなか平常心では読めない。この作品のいろんな書評や感想を拾い読んだが、最後に「彼女が推しから自立した」「彼女が自分の人生を歩き始めた」というものが散見された。つまんねぇ、正しいのかもしれないけど心の底からつまんねぇ。あんたらイカれるほど本気で推しのファンになったことのない人たちだろうと心の中で悪態をついた。…んまぁイカれてるからといってひとつも偉くない、むしろその逆なのである。

2023. 1. 25

☆☆☆君たちはどう推すか☆☆☆
 私は恥ずかしい人間だから気になることを話してみます。つま恋のことを"夏フェス"と言われると腹が立ち、拓郎ファンの営みを"推し活"と言われると目まいがして「一緒にすんじゃねぇよ!」と叫びたくなる。こういう症状に長いこと苦しんできたが、最近になって宇佐美りんの芥川受賞作「推し、燃ゆ」を読みはじめたらどうやら治りはじめた。これが山を下山する寛解か。

 ベストセラーなので今さら言うまでもないかもしれないが「推し、燃ゆ」はアイドル推しにすべてを賭けた女子高生の物語で作者自身も当時21歳だ。主人公には自分の人生の背骨であると断じ全てを賭けて推す「推し」がいる。その生きる支えの推しがスキャンダルで炎上し引退してゆく。彼女はどうあがき、何を苦しみ、どうなってしまうのか? 文章も行間もすべてが瑞々しくだからこそ詠んでて苦しくもある。
 最初は、自分がモデルかと思うほど(爆)"あるある"の共感、しかし読み進むうちに彼女の身を切るような「推し命」を仰ぎ見て、いかに自分はヘタレで中途半端でズルかったかということに気づかされた。そして最後には主人公の女子高生と作者の女子大生に、この哀れな爺はこれからどこへ行ったらいいんでしょうかと問いかけている自分がいた。これは俺にとっての「君たちはどう生きるか」だ(爆)。ということで…そうよ、私ゃ"推し活"で結構、年寄りの"推し活"で構いませんよ。

 「病める時も健やかなる時も推しを推す」…文中のフレーズに触発されて通勤車中で「ファミリー」を聴く。ひとつになれないお互いの愛を残して旅にでろ。推しよあなたは何処へ。

2023. 1. 22

☆☆☆マックイーン慕情☆☆☆
 「タワーリング・インフェルノ」はとにかく消防隊長のスティーブ・マックイーンが超絶カッコイイ。スティーブ・マックイーンとポール・ニューマンの共演というだけで当時の大事件で、言ってみれば矢沢永吉と吉田拓郎が共演するくらいの出来事だった。俺はどちらかといえばポール・ニューマン派だったのだが、それでもこのマックイーンの隊長にはふるえた。マックイーンのファンの方にすれば他の代表作の方がもっと素晴らしいというご意見かもしれない。しかし門外漢の俺には、孤高のアウトロ―というイメージと違って、消防隊長というカタギの地方公務員のちょっとくたびれたところもあるおっさんという設定で、それでいて隊員を率いてあの大活躍をするところにいたくシビレるのだ。最後に設計士のボールニューマンにニヤっと笑って「今度は建てる前に俺に聞きに来い。あばよ建築屋!!」と声をかけて去る。ああ、なんてカッコイイの。あなたはどうしてそんなに美しく微笑むのだろう。

 マックイーンといえば、86年ころ古舘伊知郎と影山民夫がホストを務めるアメリカテレビ映画特集の深夜番組に吉田拓郎がゲストで登場して「スティーブ・マックイーンが大好きだ」ということでドラマ「拳銃無宿」を推していた。昔から、マックイーンに憧れて主人公ジョッシュ・ランドルのランドル銃の模型を買った拓郎少年は、自分でガンベルトを作って銃を差して広島の町を歩き回って笑われたという。心温まる危ない話だ(爆)。ボブ・ディランのハーモニカホルダーが日本にはまだ売っていなかったので、自分で見よう見まねで針金を曲げてこしらえていた話は有名だ。
 このように吉田拓郎は音楽だけではなく、実に器用なモノ創りの人だということも忘れてはなりますまい。

2023. 1. 21

☆☆☆愛する全てのものを二人でわかちあおう☆☆☆
 ネットで尾崎紀世彦がカバーする映画「慕情」の主題歌を聴いた。あまりにすんばらしくて、俺には「おめぇごときが歌える曲じゃねぇよ」というメッセージを感じた。もちろんだ。拓郎とみゆきの「慕情」も含めて俺のゼロ歌唱力ではおぼつくものじゃない。
 この映画「慕情」のテーマは、たぶん世界中が知っているスタンダードの中のスタンダードで超絶美しい曲だが、映画本編の方はそれはそれは悲しすぎる話だった。そして主演のウィリアム・ホールデンとジェニファー・ジョーンズの二人が、その20年後に「タワーリング・インフェルノ」で共演していたことを最近知った。最近といってもつい昨日だけど。ああ不覚。
 「タワーリングインフェルノ」は多分俺ら世代にとっては忘れじの衝撃的パニック映画だ。渋谷の東急文化会館で立ち見の苦痛も忘れて悶絶しながら観たものだ。今でも「タワマンに住みたい」という人々の夢をきっとこなごな打ち砕いてくれる傑作だと思う。俺なんかおかげで「星の鈴」は大好きだが10階のテラスでも暮らせない自信がある。
 その映画の中でフレッド・アステア演ずる詐欺師の老人と富豪の未亡人との小さな切ないロマンスが描かれる。最後に小さな子を救ってエレベーターから転落しショッキングな最期をとげてしまうその未亡人が、あの「慕情」のジェニファー・ジョーンズだとは気づきもしなかった。もう俺の中では「タワーリングインフェルノ」は「慕情」の続編といっていい(爆)。慕情の最後に香港のビクトリアピークに立ち尽くした彼女は、20年後に高僧タワーの開館式に招待される。…悲しすぎる話か。得意の思い込みでもう「慕情」はこの映画をも包み込むテーマ曲だ。
 ジェニファー・ジョーンズといっても殆ど名前だけでよく知らなかったが、調べるとこの「タワーリングインフェルノ」が最後の映画出演となり、2009年にカリフォルニア州のマリブの自宅で90歳で亡くなったということだ。…マリブ。マリブといえばシャングリラだ。「慕情」のお返しに吉田拓郎がマリブで歌った「愛の絆を」をお捧げします。なんで俺が捧げるのかわかんないけど。
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2023. 1. 20


☆☆☆言うだけ野暮だよ飲めぬヤツ☆☆☆
 病気ではないのだがしばらく禁酒することにした。飲まないと決めると途端に心が叫び出す。あ〜俺も限定「ペニーレイン」に行ってバーボンが飲みてぇ〜、したたか酔って帰りに原宿のカラオケ館でコスプレ衣装借りてタンバリン打ちながら拓郎の「慕情」とみゆきの「慕情」を泣きながら歌いてぇよぉ〜。いっそのことコレも練習して慕情三部作を歌えるようマスターしておきたい。いみふ。
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2023. 1. 19

☆☆☆それぞれの慕情☆☆☆
 昨日は元猫のベーシスト石山恵三さんの命日だったのか。石山さんというと個人的には「慕情」が浮かぶ。2014年に原宿ラドンナで突然にこの拓郎の「慕情」を歌い出したときの印象は鮮烈だった。俺には伝説の「石山、『慕情』歌うってよ」事件として刻まれている。その選曲に驚いたし、声も素敵で、ちょっとルーズな歌いっぷりまでが胸を打った。
 吉田拓郎の本家本人歌唱の方はボーカルにピカピカな艶があり、壮大なアレンジも素晴らしく文句がない。傑作だ。それでも石山さんのカバーが胸を打ったのは、この歌は「拓郎が歌う」というより「拓郎に向けて歌う」とよりしっくりくるからだろう。作者の拓郎の真実の思いがどこにあろうとも、俺には「あなた」は「吉田拓郎」としか聴こえない。永遠の一択だ。
 
 その拓郎の本人歌唱は2019年のセットリストから途中で姿を消した。その前の歌唱がキツそうだっので、もう歌わないのかと思っていた。しかしWANGANの最後の最後になって、その姿を現した。サラリとした歌いっぷりが余計に圧巻だった。機を待つように現れるべくして現れた感じだ。

  あなたがいなくなることはありえない
  あなたを見失えば 世界の終り

 ああ、この因業な歌詞(爆)…あまりに刺さり過ぎて「拓郎おめぇが自分で歌うなよ」と言いたくもなる。そんなとき別の方角から歌声が聞こえる。

  甘えてはいけない
  時に情けはない
  手放してならぬはずの 何かを間違えるな
               (中島みゆき「慕情」)

  もういちどはじめから あなたと歩き出せるのなら
  もういちどはじめから ただあなたに尽くしたい

 もいちどはじめから、があるのなら、そりゃもっともっと尽くすってば。…たまんねぇ。みゆきねーさん、ちょっと怖いけど、あなたの胸で泣かせてください(爆) 

 吉田拓郎の「慕情」、石山恵三の「慕情」、WANGANの「慕情」、そして中島みゆきの「慕情」。俺の中では無理なく自然に繋がっている。というかしっかりと因果の縛で結ばれている。向田邦子さんの言う「糾える一本の縄」みたいなものだ。
 …ということでも今日も元気でイカレているぜ。

2023. 1. 18

☆☆☆そうか君はいないのか☆☆☆
 日程的にぺ二ーレインへは行けない。昨日のライブハウスで、ああ〜やっぱりアーリータイムズはもう無いのだな。島ちゃんのドラム、松田幸一さんのハーモニカで聴く「この素晴らしき世界」にいろいろ黄昏れる。
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2023. 1. 17

☆☆☆フィルムは生きている☆☆☆
 WANGANのリハーサルで、拓郎が"雪さよなら"の後奏のアイデアを出すシーンがある。俺には専門的過ぎてサッパリわからない。先日の拓バカ集団鑑賞の時に誰かが「アレで(ミュージシャンは)わかるのかな?」とつぶやき俺も大いに共感した。
 鳥山と武部は戸惑いながらも拓郎のアイデアの真意を真剣に追い詰めてゆく。こういう光景にシビレる。

 同じようなシーンを思い出した。TAKURO & his BIG GROUP with SEO 2005の「 RARE Films」のつま恋エキシビションホールの舞台裏のシーン。楽屋にいる島村英二に拓郎がカウントのリズムについて相談する。島村英二はすぐに「それじゃ叩いてみよう」と楽屋を出てフットワークも軽く歩き出す。ステージに向って通路を抜けて並んで歩く二人の背中がとてもいい。ドラムセットに座った島村は、ここでも拓郎の真意を探るように何回か叩いてみせる。拓郎が「それ決定で!」とアイコンタクトした一瞬の二人のバディ感がまた素敵なのだ。それが「ハートブレイクマンション」のイントロに結実する。

 「上司は思いつきでものを言う」という橋本治の本があったが、俺も仕事では上司の思いつきに振り回され、反対に俺の薄っぺらな思いつきでスタッフに迷惑をかけてきた。おそらくどこの職場にも似たようなことが多々あって、だからさこうして裏町の酒場はいつも正直者の男女でいっぱい。
 しかし彼らミュージシャンたちは、拓郎の閃きの一言を1ミリも疑わず、何とかそこに近づこうと真摯に挑んでいることがわかる。そしてそれが音楽に結実されてゆく。そこには魂しかない。そういう信頼の世界があることが、ささやかな希望だ。自分もそうありたいと思うがうまくいかない(爆)。だからこそこれらのシーンが胸にしみるのだ。

2023. 1. 16

☆☆☆推し燃ゆ☆☆☆
 高橋幸宏氏が昔「東京イエローページ」で竹中直人と組んで流しのドラマーという不条理なシリーズコントをやってたことを思い出してネットを探した。するとあれだけのミュージシャンでありながら、音楽だけではなく、結構いろんな番組におちゃめな出演をされているものがたくさんあった。どれも真剣に体当たりでやっておられた。今頃になって申し訳ないが、素敵だな〜、カッコいいな〜と魅入ってしまった。
 その中に昔の番組タモリの「今夜は最高」の中で、高橋幸宏、森下愛子、タモリのお三方で「フライデーチャイナタウン」を歌っている動画がすこぶる良かった。ダンディなユキヒロ氏と一緒に歌っている森下愛子さんの二人は素敵な雰囲気だった。そもそも歌を歌っている森下愛子さんを観るのは初めてだ。キラキラしておられた。
 それ以来ずっと頭の中で「フライデーチャイナタウン」が鳴っているが、この曲を懐かしいと感ずるのは、間違いなく拓郎のヤンタン=サタデーナイトカーニバルを聴いていたからだ。今月の歌とかゲストの歌とかで番組推しだったはずだ。
 番組推しと言えば、岩崎良美がよく出ていた。岩崎良美といえば「タッチ」なのだろうが、ヤンタンの頃の「涼風」がとても好きだった。♪優しい人、心に涼風そよきだす〜 いかん。完全に懐かしモードに落ちている。

 えーい、ここまで来たらアレだ。ヤンタンで吉田拓郎が松田敏江になって岩崎良美に歌唱指導していた迷作「青いくちなしの花のワルツ」だ。ⓐ青い山脈ⓚくちなしの花ⓗ星影のワルツ

  ⓐ若く明るい
  ⓚまわるほど〜
  ⓚ痩せて やつれた
  ⓐ花も咲く〜
  ⓚくちなしの花の〜
  ⓐ雪割桜〜
  ⓐ空の果て〜
  ⓚ白い花〜
  ⓐ今日もわれらの
  ⓗワルツを歌おう〜

 …まだ覚えていたぞ。それにしても見事なつながりだ。良美ちゃんに「ワルツを歌おう」の前に一拍おいてはイケませんという拓郎の歌唱指導まで思い出した。…高橋幸宏さん、こんなときになんか不謹慎かもしれず申し訳ありません。高橋幸宏さんというと吉田拓郎関連で個人的にどうしても忘れられない光景があるのだが、それはまたいつの日にか。

2023. 1. 15

☆☆おまえの足音は自由の足音☆☆
 高橋幸宏氏の訃報。ご病気が大部回復されてきたというニュースを聞いていただけに驚いた。心からご冥福をお祈りします。
 俺が言うことではないが、YMOにあっては細野晴臣と坂本龍一というトテモとっつきにくそうな二人の中にあって唯一「親拓な人」というイメージがある。"はっぴいえんど"の鈴木茂みたいな感じだ。拓郎本人のエッセイの中にもパーティーで久々に顔を合わせた高橋幸宏が嬉しそうに人懐っこく拓郎に寄り添ってくるというシーンがあった。それを読んで、ああ〜いい人なんだなと思った。
 なんにしても高橋幸宏氏といえば「わたしの足音」の"走るドラム"だ。お蔵入りしていることを少し悔やみつつも、それでも何とか手に届く形で残っているこの名演をドラムのリズムを愛でながら聴く。遠くにいた俺ごときが生意気ですが、お疲れ様でした。どうか安らかにお休みください。

2023. 1. 13

☆☆☆拓郎の背中を見つめた男☆☆☆
 日課のビデオ鑑賞だが、今夜は「ON THE ROAD "FILMS"」で渚園の野外ライブを観た…ってそれは浜省だろ!(爆)。
 つま恋PARTUで一瞬だけ映る浜田省吾を観ていたら、折しも1988年8月20日、静岡県浜名湖畔の「渚園」で行われた野外ライブ『A PLACE IN THE SUN』が劇場公開されるとのニュースが重なりつい観たくなってしまった。

 超絶個人的な話だが、かつて俺の親爺が亡くなって一か月も経たないとあるクソ暑い夏の日に、友人のFくんがふらりと家にやってきた。当時たぶん発売して日の浅かった「ON THE ROAD "FILMS"」のVHSビデオを持ってきて一緒に観ようと言う。浜省は「路地裏の少年」くらいしか知らないままお相伴した。Fくんとはもともと近所のうえ高校、大学と一緒で、ついでに今は同じ業界の同業者という腐れ縁だ。
 浜省は予想以上にスピーディでパワフルな歌いっぷりなことに驚いた。既に篠島、つま恋もはるか遠く野外イベントにご無沙汰していた俺にはこの渚園に満ち溢れた躍動感とグルーヴがとても眩しかった。
 観終わって、彼の好物だった出前の天津飯を食べ、二人で何も言うことなく二巡目の鑑賞に入った。オープニング直前の「A PLACE IN THE SUN」が流れる中で、緞帳の後ろで膝をついて必死に祈っている浜省が印象的だった。今度は「AMERICA」とか「丘の上の愛」などの静かな曲のメロディーの美しさがたまらなかった。かつて拓郎が「浜省のナイーブなメロディ」と言った意味が胸にしみて二巡目も終わった。

 二巡目が終わるとFくんは言葉少なに、先週終わった二次試験の最中に「おまえの親爺が夢枕みたい立ってミスを教えてくれた」と話し、そして今日のビデオの中の「DARKNESS IN THE HEART」という曲は闘病しつつ亡くなった父親を思いながら浜省がツアーを続ける歌だと言い残して帰って行った。
 俺はその年に勝負を賭けていたが一次試験で門前払いになってしまい彼のように二次試験は受けられなかった。そんな苦渋の中に父親が死んでしまい、弟もまだ学生ということでもうあきらめようと考えていたところだった。
 Fくんの励ましであったことは当時もよくわかっていたが、今思い出すと余計に胸にしみてくる。最近ヤツとはご無沙汰してしまって申し訳ない。

 その年の夏から浜田省吾をレンタル店で借りてきて繰り返し聴き始めた。「DARKNESS IN THE HEART」の「思い出す病室で痩せてゆく父の姿を」というくだりが心に痛かった。そして「走り始めた1974年」というフレーズが刺さった。拓郎のコンサートツアーを浜省のツアーキャリアのスタートとしているところにふるえる。俺の拓郎ファン歴も1974年からなのだ>おまえはどうでもいいよ。「…Carry on  覗かないで 勝利もなく敗北もなく横たわっている心の奥の暗闇」…御意。よく意味はわからないけれど不思議に勇気づけられた。最後にもうちょっとだけ続けてみようと思えた。
 それからはわりと欠かさずCDを聴き、ライブにもたまに足を運んだ。ライブに行くとそこはそれこそ命を懸けたファンの方々の熱き世界なので、俺ごときが浜省ファンですとは言えない。それは今も同じだ。しかしこんなふうに渚園の話が出てくると、あらためてあの夏の日を思い出してあの時はお世話になりました…とちょっと背筋を正してしまうものなのだ。

2023. 1. 12

☆☆☆誰がオスカーやねん☆☆☆
 深夜の映像鑑賞が日課になりつつある。そうだ!本場アカデミー賞授賞式も近いので、優れた吉田拓郎の映像作品を対象にしたt.yアカデミー賞をやろうか…と思ってみたが、何があっても主演男優賞はたった一人しかいないことに気づき無理があるのでやめた。徒然なるままにひとり静かに観るしかないっす。ひとつの時代ばかりではなく、いろんな時空を行ったり来たりさすらって観たいと思うが、85年といえば「PartU」を避けては通れない。いきなり「サマーピープル」のコーラスを歌う島村英二、なんじゃこりゃ(爆)
 なんつっても高中正義と後藤次利がアシストする「落陽」は屈指の名場面だ。歌が終わってアウトロに入ると拓郎は静かに後ろに下がり、高中と次利が中央に残りバトルのようなプレイが始まる。水戸黄門でいえばご老公が「助さん、格さん、存分にこらしめてやりなさい」というシーンと重なる>…ホントかよ。ということで俺は二人にさんざん打ちのめされて恐れ入りましたとなるしかない。その様子をご覧になっているご老公…ちゃう拓郎の笑顔がまた素敵なのだ。
 よし!高中と次利に助演男優賞だ!。いや、しかし加藤和彦と石川鷹彦の「ガラスの言葉」の熟成アシストはどうなんだ。これはこれでたまらん。パイプ椅子に片足をのっけてギターを弾くトノバンのシルエットが美しい。今観ると万感あふれて涙が出そうなシーンだ。ということで、あちこちいろいろ素晴らしくて、やっぱりアカデミー賞は選考不能だ。
 あ、エキシビションホールで暴れる御大にアカデミー・ウィル・スミス賞は決定。ねぇだろそんな賞。(写真はイメージで実物とは関係ありません)。
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2023. 1. 11

☆☆☆in 1985☆☆☆
 「サマーピープル」につられて85年のつま恋の映像とラジオの音源を久々に少し味わった。つま恋は75年や2006年の映像や音源は時々観直したり聴き直したりするが、85年はとんとご無沙汰だ。個人的に85年はどんよりと鬱な気分になるからだ。どんなにアレンジが秀逸で、どれほど演奏のクオリティが高かろうが、どんだけ豪華メンバーが揃おうが、あのときの「吉田拓郎が撤退する」という終末感に満ちた重たい空気を思い出してちょっと気が引けるのだ。それにあの頃は自分の私生活も結構悲惨だったからかもしれん。
 しかしさすがに今のリタイアの現実の方が切実に淋しいので、なんとか85年の映像も平気で観られるようになった。するとこれがいいんだわぁ。吉田拓郎はしなやかで軽やかでカッコ良い。色香が吹きこぼれるように溢れている。今頃すまんな。撤退という衰えの影がどこにも射していない。そのまま秋のツアーに出ろよという気がしてくる。
 それは程度の差こそあれWANGANを観た今もそうなのだが。
 
 つま恋のゲストの武田鉄矢のMCで活動停止するという拓郎のことを捉えて
「大丈夫です。これだけのファンを放っておいて独りでいられるほど吉田拓郎という人は強い人ではありません」と語っていた。…どうか強い人でありませんようにと祈るしかない。

2023. 1. 10

☆☆☆思い出はモノクローム☆☆☆
 自主上映会で「サマーピープル」のプロモが流れた時、誰からともなく「ああ、これはヒットすると思ったのになぁ〜」というため息がもれた。たちまちほぼ全員がそのため息を共有した。なんでもかんでも共有するのって好きじゃない…と拓郎は年末のラジオで苦言を呈したが、このため息は共有せずにおられようか。いい曲だしCMソングだったし、なんでヒットしなかったんだろう…と無念の空気をわかちあう。ファンにはファンのささやかな夢というものがあったのだ。

 この「サマーピープル」はフィル・スペクターのウォール・オブ・サウンドを意識して作り上げた自信のサウンドだと拓郎は一昨年のANNGで語ってくれた。御意。同じウォール・オブ・サウンド系の曲としてその時一緒に拓郎がとりあげたのが大瀧詠一の「君は天然色」だった。ほぼ同時期の作品なのだが、あちらの曲はなんか輝ける王道を歩いている気がする。
 で俺は勝手に思うのだ。「君は天然色」にあって「サマーピープル」にないもの…それはズバリ「松本隆」だ。すまん。俺はかなり徹底した岡本おさみシンパのつもりだが、若い女性をターゲットにした夏の資生堂の化粧品のキャンペーンであるのならばココは万難を排して松本隆だったんではないか。岡本おさみの詞をクサするつもりは1ミリもないが(あ、この詞については5.6ミリくらいあるかな)、時はバブル全盛期、ドレスアップした女性を誘ってバネのきしむ喫茶店に案内するみたいな危うさがある。

 さすがに40年前の思い出の原因をいろいろ考えても詮無いことだ。こういう時は、85年のつま恋の「サマーピープル」の映像を観ることにしている。そんな切ない歴史などに関係なく、実にチャーミングで楽しそうにこの歌を歌う拓郎がいる。拓郎が笑顔で手を振るシーンがあるのだが俺もテレビに向ってつい手を振ってしまう。>ロンパールームかっ。
ヒットも勝ち負けもいいじゃないか、とにかくファンに生まれてきたんだ〜愛してるぜウォウウォウオオという気分になるというものだ。

2023. 1. 9

☆☆☆WANGAN上映会の夕べ☆☆☆
 コンシェルジュのいるカラオケVIPルームでの熱血自主上映会に参加させてもらった。拓郎オンリーで5時間。おそるべし拓バカたち。WANGAN、サンタクの落陽、2019、あいみょんにしか見えない70年代、万感のつま恋2006、ジジババの魂は身体を離れ時空を自由にさまようのだ。ええなぁ。映像は観るたびに尽きせぬ何かを必ず語ってくれる。
 外から見ると引退した歌手の映像を老人たちが集まって懐かしんでいるように見えるかもしれない。んまぁ実際それもあるもしんないけれど、実はあのライブの感触を忘れないように、万が一これからいつ御大が決起したとしてもすぐライブ人として対応できるように、ファンとして心と身体とを作り込んでいるのだと思っていただきたい。
 参加させていただいてありがとうございました。心の底からうれしゅうございました。

2023. 1. 8

☆☆☆Hold on me☆☆☆
 昨日は妄想が過ぎた。すまん。といっても俺の人生は日々妄想しかない。年末も紅白歌合戦の「時代遅れのRock’n’Roll Band」を観てやっぱり世代だし胸が熱くなった。桑田佳祐と佐野元春の二人の姿を観て別の意味で感慨深く妄想の世界に入った。

 79年か80年の初め、ニューミュージックのシンガーたちが所属事務所の垣根を超えて集うJAM系のイベントが結構あった。もちろん拓郎は出ない。ただ拓郎が当時のラジオで、その種のイベントで誰がトリを歌うかで事務所相互で大モメしたというニュースについて語っていたことがあった。拓郎は、怒るのでも、冷笑するのでもなく「そんなことになっちゃってるの?」とひたすら悲しそうだったのが忘れられなかった。ユイ音楽工房も当事者のひとつだったしね。

 その数年後、拓郎も肝入りで参加した85年のIYY ALL TOGETHER NOWでは、オフコース、ユーミン、サディスティックス、はっぴいえんど、財津和夫、坂本龍一、さだまさし…錚々たるビッグネームのミュージシャンが総出演するなかで、グランドフィナーレの前の本編のトリは当時の若き桑田佳祐と佐野元春の二人の共演だった。トリ=重鎮というとらわれを退け、生きのいい若手ミュージシャンにラストを〆てもらう。拓郎もオフコースもオープニングでとっとと歌ってしまい拓郎は司会という裏方役に徹していた。
 ああ、これがいつかラジオで嘆いていた吉田拓郎の出した答えなんだとしみじみと思った。別に拓郎の発案・指示という証拠はない。本人に尋ねたところでこないだの広告ではないが拓郎本人も「俺は知らないよ、みんなで決めたんだよ」というに違いない。しかし証拠はないが確信はある。そういう人でしょう。そこが好きなわけであります。

 てな妄想に誘われた紅白でありました。

2023. 1. 7

☆☆☆They shall be released☆☆☆
 1980年の武道館の音を聴きながらあまりにもったいないと五万回くらい悶絶する。シロウトの俺が勝手にアレを出せ、コレ出せをと言うのはさもしい気もするが、オイラは元来さもしい人間だ。そんなの出るわけねぇじゃんというあきらめもチラつくが、あきらめなんてずっと先でいい。
 もういいじゃないか。素晴らしい音源たちの大解放を願いたい。お蔵の中にしまっておいて誰かが幸せになるというのか。それなら解放したら誰かが幸せになるのかと問い返されれば自信をもって言える。俺だ(爆)。俺が間違いなく救われる。J-POPや音楽文化のためとかファンの総意だとかそんなことは言わない。ファンにもこれまで公表しなかった拓郎さんの意思を慮るべきだという心根の方もいるに違いない。しかしそういう心根を1ミリも持ち合わせていない自分は、ひたすら「俺に幸せあれ!」 と傲岸に叫びたい。

 えーい妄想ついでに、とりあえずこんな妄想企画はどうだ。

 武道館ライブ全曲収録 CD11枚組 

   吉田拓郎武道館BOX「武道館よ屋根の梁を高くあげよ(仮)」

   帰れの怒号に消え入りそうな「帰らなくていいのよ」の声に導かれて武道館伝説は走り出した

Disc 1: 1979 初ソロ武道館デスマッチ 恩讐の彼方に(※「僕の一番好きな歌は」初音源化)
Disc 2: 1980 ブッカー・Tシフト=「アジアの片隅で」完成披露レゲエの夜
Disc 3: 1981 体育館ツアー 新曲発表大会&松任谷正隆最後の大仕事
Disc 4: 1982 王様達のハイキング 極悪バンドがゆく!(※「風に吹かれて」収録)
Disc 5: 1983 マラソンツアー 風になった拓郎と今夜も君をこの胸に
Disc 6: 1984 情熱ツアー  I'm In Loveの誰も知らない旅立ちだから
Disc 7: 1985 FOREVER YOUNG くり返し旅に出る男(※スペシャルアンコール「人間なんて」収録)
Disc 8: 1990 89-90ツアー”人間なんて” さらば80's、さらばカーリー
Disc 9: 1990 男達の詩 俺の居場所を探してる(「東京の長く暑い夜」「中の上」初音源化)
Disc10:1996 感度良好ナイト 50歳から始まる音楽の至福と挑戦 
Disc11:2006 ミノルホドコウベヲタレルイナホカナツアー そして聖なる場所に祝福を

[特典CD]
1972 フォーク・オールスター夢の競演 音溺大歌合より「祭りのあと」(モノラル会場録音)
1994 日本をすくえより 「ファイト」
1997  高中正義 虹伝説Uより 「春だったね」「落陽」

 ああ聴きてぇ、誰か出しちくり〜
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          ※ジャケットの装丁は変わることがあります…自分で書いててくだらねーな(T_T)
  

2023. 1. 6

☆☆☆だから断捨離は終わらない☆☆☆
 1980年の武道館は、冠だったFM東京を中心にNHK-FMの拓郎105分やヤングタウン東京でもオンオアされた。ブッカー・T・ジョーンズ・シフトの敷かれたバンドだけあって、この音源から「アジアの片隅で」「証明」「ファミリー」がレコード化された。「アジアの片隅で」の間奏はレコードではあれでも多少短く編集されている。CDの時代になったのだからオリジナル全長版でもいいのではないか。それよりなにより昔から不満なのは「ファミリー」の最初の松任谷のピアノがフェイド・インということで事実上カットされているところだ。FM東京ではちゃんと入っている。短いピアノソロだが大事じゃね?と思う。
 オープニングだったんだよな。満場の武道館に前哨曲「ローリング30」のテープが流れ終わって燃え立つ観客の大歓声の中をぬって流れる松任谷のピアノ。歓声がそのピアノの音色に、なんだ、なんだ〜と吸い寄せられて行ったところで、あのイントロがガツンと始まるのだ。怒涛のように波打つ大歓声。あれは「おわ〜すげ〜1曲目から『ファミリー』かよぉ!」という驚きのどよめきでもある。
 さぁ今日は「ファミリー」(アルバム「無人島で」所収)聴く。あれぇあの日女性コーラスいたっけ?とかツマラナイことを気にしている場合ではない。静かに眠れるこの大作にいまいちど魂を。愛を残して旅に出ろ。

 

2023. 1. 5

☆☆☆わが心のマークU'80☆☆☆
 年末からiTunesの整理をしていたのだが、もともと整理が苦手なうえにあれこれ気が散る性質なのでかえって混沌と混乱を深めてしまった。え〜い、くたばれ断捨離!
 昨年のラジオの「吉田拓郎は『マークU』なんだ」といういきなりの御拓宣がひっかかっていた。整理といつつひっくり返しながら久々に1980年武道館の「マークU」を聴く。数あるバージョンのうえに様々なお好みとご意見があろうが、俺はこのマークUがベストだな。魂の底から突き上げてくるようなリズムと演奏、これがレゲエというものかしら。とにかくカッチョエエったらありゃしない。80年武道館〜TONY〜秋のツアーとこのアレンジだったがやはり武道館がベストだ。なんたって松任谷正隆を筆頭に「ブッカー・T迎撃シフト」の布陣が敷かれているこのバンドが最強だ。年老いた男は何度でも言うぞ。FMでも放送したしキレイな音源があるのは確かだ。かくも素晴らしい演奏が眠っていて良いものか。時ここに来たら、もういいんじゃないでしょうか。だから眠れる貴重音源を大解放してください。J-POPからのお願い。>よしなさい。とりあえずYouTubeにはあるぞ。
 そういえばあの武道館、ブッカー・Tご本人が出てくるまでキーボードの住野裕之がブッカー・Tだと思ってずっと拝みながら観ておった。汗顔の至り。無明とは恐ろしいものよ。ああ何もかも懐かしい。

2023. 1. 4

☆☆☆抗いへの贖い☆☆☆
 最初にあの新聞広告を読んだ時「時代に抗うことなく、時代を歌った」という言葉に対して、いや時代に抗ったからこそ今のJ-POPがあるんだろ…と思った。俺は中学生の頃から「抗う吉田拓郎」にシビレ続けてきたからだ。
 しかしよく読めば、この文章の「抗う」は「権威への批判」や「反抗」のことだとわかる。確かに拓郎がやってきたことは批判でも反抗でもなく、この広告が讃えるように自分の信ずる音楽を貫いてきたことただそれだけだ。それが時に関係各方面との軋轢を生んで結果的に時代に抗うドラマのように映った。しかしそれは決して批判や反抗のためではなく、あくまでも自分の愛する自由な音楽をやりたいためだった。それが今となってはよくわかる。ご本人じゃないのに断言しちゃうけどさ。

 そこらへんを解らないまま「抗う拓郎」というファッションにシビれていた俺は、事あるごとに歓喜と失望を繰り返し、そのうちだんだん失望の方が多くなり、よく拓郎に悪態もついたものだ。かつて「帰れ」と石を投げた方々の心情とそんなには変わらないかもしれない。…申し訳なかったなという贖いの気持もあるが、まぁそういう迷いも自分の何かだ、言えない何かだ、確かめてみるがいい。それに真摯に音楽を貫いた拓郎といえども途中あれこれブレたことはなかったとはいえまい(爆)。
 それこそれも昇華してのあの新聞広告の素晴らしさだったと思う。評価は人それぞれだし朝日が嫌いという意見もあろうが、俺は「ポーの歌事件」を今も許していないので読売でなくて良かったと思う(爆)。
 
 「抗い」といえば♪わが友のあがらいあらがいに〜の名曲「RONIN」だ。個人的にはずっと「贖い(あがない)」だと思ってきた。

  今日からお前の体は お前自身のものだ
  今日からお前の心は お前の体に戻るさ
  もう争わないで もう戦わないで
  そう自由の風に酔え そうすべてを解き放て
 
 詞とメロディとボーカルの心技体の素晴らしさ。これだ。…今の今こそ心の底からしみるってもんだ。

2023. 1. 3

☆☆☆互いの生きる気配☆☆☆
 「拝啓 吉田拓郎様」の新聞記事を繰り返し眺める。眺めながら同じ拓バカのクリエイターの方のつぶやきを読んだ。

「『私を生み出し育んでいただき、ありがとうございました』なんて美しい言葉 〜2023年1月1日にこの世に放ったこと忘れません avex書いた方本当にありがとうございます こんな企画とおすの大変だったでしょう 本当に喝采 また写真がね 落陽の拓じゃなくてよかった 最新だもの それもカッコいい 相当なファンの方だよね いつかお会いしたい これだけで二晩飲める」「全面広告2面あたえられたら 何をするか 何にするか 狂おしいよ BGの色といい構成といい完璧です しつこいけど クリエイターとして絶賛です どこへでもどっちにでも持って行けたもの」

 業界関係の方から見ても心・技・体あわせてすばらしい広告だったということだ。
 
 同じく正月解禁の中島みゆきのアルバム「世界が違って見える日」の吉田拓郎ゲスト参加の告知。ああ。、これぞ互いの生きる気配。

 テレビでは奄美の海岸をさんまと木村拓哉が「イメージの詩」をオリジナルと稲垣来泉verを聴き比べながら車を走らす。木村拓哉の「落陽」。いい声っす。この男そつがない。それにしても「心から憧れていました」という…それは俺の拓郎へのセリフだってんだ。

 ということで気が付くとなんとも豪華で素晴らしい新年だったじゃないか。同じことが去年の年の瀬ではなく、今年の新年に起きているというところが、ものすげー救われる。そして心の底からありがたいのだ。

2023. 1. 2

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☆☆☆朝日が載せるから誉めるんじゃなくて☆☆☆
 元旦の朝日新聞の見開き二連広告には驚いた。昨日のやさぐれ日記を書いたあとに、拓友ね〜さんから元旦のコンビニを走り回ってゲットした顛末を教えて貰った。俺も聞くやいなや午後3時過ぎに近所のコンビニを4件ほど駆け回ってやっと手に入れることができた。そして俺が教えた同志もたまらずに、もう夕方近いコンビニに朝刊確保のために家族を走らせたそうだ。もうニューイヤー拓バカ駅伝の世界である。
 これぞサプライズだ。もし岡本おさみさんが生きていたらバネの軋む喫茶店でトースト齧りながら朝刊を読んでびっくらこいたに違いない。
 まさに魂のレスペクトだ。こういうものをずっと待っていた。おかげさまで昨日の日記のとおりいろいろ鬱屈していた胸のわだかまりがキレイに晴れた。すべてのJ-POPが吉田拓郎に感謝を贈り讃える、しかもいつもここ一番で後ろに隠れてしまう奥ゆかしい吉田拓郎のことを慮っている文章が泣かせる。
 とにかく世の中捨てたもんじゃない。捨てる神…いや辞める神あれば、拾う紙あり。王様達のピクニックのなるさんに教えていただいたところによると、朝日新聞のサイトでバックナンバーも買えるらしいぞ。
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 同志は、新聞を拡げて家に貼ったということだ。正しい。たぶんとても正しい。ネットと新聞のような紙媒体はどこかで違う。この讃嘆文というソフトが新聞というカタチある物体になる。その巨大さ、活字、折り目、手触り、インクと紙の匂い、古い人間かもしれないが手で触ってその存在が確かめられる。そして物として残る。やがて今日も移ろいセピアに変色すれば、それはそれでまた貴重な何かを語ってくれるに違いない。

 このエイベックスの英断に心の底から感謝と敬意を表したい。心の底からありがとうございました。しかし、すまんが、エイベックスだけではなく、拓郎の恩恵を受けたいろんな業界関係がこぞって、もっともっとあちこちに打ってくれてもいいと思う。もちろんそのたびにこちらも何度でもどこへでも走り回るし、スタンディングしてBRAVO、ハラショと叫ぶ。♪それだけのことで私は海を行けるよ たとえ舫綱が切れて嵐に呑まれても…と歌ってくれる中島みゆきの話や木村拓哉の話はまた明日。

2023. 1. 1

☆☆☆謹賀新年☆☆☆
 レコード大賞を観ながら何か賞を作ってでも出せよ!、紅白を観ながら達郎じゃねぇだろ拓郎だろ!と身悶えし、あいみょんが妙に眩しく見え、SKYE=松任谷、鈴木茂こっちも頼むよと理不尽な思いにふるえ、ちょっとハラハラする加山雄三に拍手しながらもあの人のことを想い、初日の出の海の中継を見ながら、もうコンサートもアルバムもラジオすらも待っていないんだよと思うとはるかな水平線に向ってひとり海を泳がねばならない切なさに襲われ、こんな今年を生きるってことは泳げない僕が船に乗るみたいに誰にもわからない勇気のいることだから、と、ただれるような思いを抱いている…そんな皆様にだけ、あけましておめでとうございます。いえ、そうでない皆様もおめでとうございます。

 希望と寂しさがさまざまに混濁したこの複雑な思い。そんなにストーンズが好きだったのか、拓郎…そのストーンズが励ましてくれる。

 そして海を漂流している船はおまえだけじゃない
 寂しいのはおまえひとりじゃない
 複雑な思いでいるのはおまえひとりじゃない
 おまえひとりじゃない
 おまえひとりじゃない

 And you're not the only ship
 Adrift on this ocean
 You're not the only one
 That's feeling lonesome
 You're not the only one
 With mixed emotions
 You're not the only one
 You're not the only one
         (mixed emotions)

 ミック社長、キース先生、御意。これまで孤高のサイトを気取ってきたが、こうしてひとりで海に放り出されてみると怖いものだ。「生きる互いの気配がただひとつの灯火」 という中島みゆきの『倶に』の歌詞が胸にしむ。
 何より世界が平和で、吉田拓郎さんとそれでもひとりの拓郎ファンとして今年を生きてゆかんする皆様のご多幸をお祈り申し上げます。遠く聴こえる声のところに錨をあげてまいりましょう。
 …とりあえず元旦午後3時の「サンタク」を観てみるぜ。

2022. 12. 31

☆☆☆さらば紀元76年公式音楽歴52年ついでに2022年☆☆☆
 「2022年は吉田拓郎は元年だ」というミッツ・マングローブの言葉に背中を押されながら、いよいよまた歳月が行ってしまうから大晦日だ。紀元76年、音楽歴52年、自分歴48年がこうして暮れて行こうとしている。

 WANGANは回を重ねて観るたびにどんどん拓郎の声が良く出るようになり、身のこなしも活き活きとしてくる>まだ言うか。
 ここのところ吉田拓郎のリタイアに重ねて自分も年齢の節目を迎えたうえに電車で席を譲られたりして,すっかり川面を見つめる年老いた男モードの私だった。しかし老舗"王様達のピクニック"の「1981」を読みながら、81年の武道館での「おまえら俺より先に老け込むんじゃないぞ」というMCが蘇えった。俺より先に老けてはいけない…さだまさしの関白宣言ではない…シャウトに近い拓郎の熱いアジテーションだったと記憶している。
 そうだな、そうだな。例えば73歳で全国ツアーやってステージでツイスト踊って,76歳でアルバムを仕上げてこのWANGANのセッションで魅せる。自分が老けただなんだとほざく前にまずはこんくらいの76歳になってみろ、ここまで来てみろ、話はそれからだと拓郎に言われている気がした。絶対言ってないと思うけれど(爆)。心は持ちよう思いようなのだ。何の歌だっけ。

 復刻マスターした「今はまだ人生を語らず」はそれはそれはあらためて素晴らしく誇らしかった。しかし、ああ昔は良かった,凄かったという気分に連れ去られないのは、2022年のアルバムとWANGANの勇姿があるからだ。確かに昔は凄かった、しかしこれもいいぞ。
 「ゴッドファーザー」で言えば、ビトー・コルレオーネは、若きロバート・デ・ニーロも凄いが、マーロン・ブランドもまた素晴らしいのと一緒だ。>すまん、今観てるものをそのまま言ってるだけだ。私の目の前にあるのは吉田拓郎というひとつの大河ドラマ=サーガだ。

 ということで忘れじの西暦2022年に心の底から感謝申し上げます。吉田拓郎さんをはじめこんなしょうもない拓バカサイトをお読みいいだき、また温かく励ましてくださった皆様ありがとうございます。私ごときが僭越ですが、すべての拓郎ファンにとって来年も良い一年になりますように。どうかお元気でお過ごしください。…明日も書くけど。

2022. 12. 30

☆☆☆時の流れを恨むじゃないぞ☆☆☆
 吉田拓郎はEarly Timesを愛飲していたことをいろいろと教えていただいた。魂のファンとでもいうべき方はやはりこの世におられる。ありがとうございます。今度お礼に伺せていただきます。
 …ということは今年のEarly Timesの終売は実に歴史的事件じゃないか。吉田拓郎のリタイアに時を合わせて別れの挨拶もなく消えていくEarly Times。そして年の終わりに復活するペニーレインでバーボン。何か意味があるのか。たぶん何にもないと思うが(爆)、意味があるように生きるのがイカレたファンの矜持というものだ。

 これも拓郎ファンに教えていただいて、ミッツ・マングローブのラジオを聴いた。ニッポン放送「ミッツ・ザ・コレクション年末スペシャル〜吉田拓郎メロディ〜」。想像を超えた素晴らしい番組だった。聴けて良かった。12月28日放送だったからまだradikoで聴けますぞい。
 まず何より提供曲の選曲が素晴らしかった。松本明子の「ステラ」をきちんと取り上げて評価してくれただけで俺なんぞはもうイチコロだ。75年生まれのミッツご本人は、リアルな拓郎体験が殆どなかったようだが、それでも家族を通しての拓郎の原体験を出発点として、拓郎の一曲一曲の提供曲と真摯に向き合ってくれているのがわかる。バージョンや由来や時代との繋がりもていねいに押さえている。落ち着いたクレバーさと、それでいて拓郎への愛情と敬意が溢れる語り口がなんとも嬉しい。
 今年はじめて吉田拓郎のアルバム「ah-面白かった」を買ったというミッツが、これから新しいアルバムを遡って聴いていく旅を始めるという。「2022年は吉田拓郎元年です」という言葉に泣きそうになった。なにかが終わってゆく…と俺が思っているこの年にここから旅を始める人もいるのだ。

 難しくていまだに理解できない哲学者西田幾多郎の言葉のひとつに「時間の流れがあって人があるのではなく、人があって時間がある」という一節がある。要は、人が自由意志で動く所に時間は動き出す。だから時間とは人が動きだすときどこからでも始まるものだ。その意味で人間には現在しかない、それが永遠の今というものだ…ね。難しくてわけわかんないでしょ?(爆) それでも今日はおかげさまで少しだけわかったような気がした。

 こうして吉田拓郎元年で時間が動き出す人がいることになんかすげえ勇気をもらった。リタイアでなく元年にリセットするってのもいいかもしれない。便乗しよう。
 徳光さんのご親戚というくらいしか知識がなくて申し訳ないが、ありがとうミッツとラジオの最後には手を合わせていた。

2022. 12. 29

☆☆☆飲めるだけでも幸せ者と☆☆☆
ということで勝手ながらすごく雑に酒の歴史をまとめると
 戦いの狼煙が上がった四谷三丁目・新宿御苑時代→ハイニッカ
 戦いを挑んだ原宿黎明期時代→バーボン
 勝利を掴んだ原宿後期時代〜六本木時代→レミーマルタン
こんな感じか。
 バーボンあたりからレモンスライスという必殺の飛び道具が登場する。拓バカたちの飲み会に行くと必ず山盛りのレモンスライスが運ばれてきて感心したものだ。そこはどんだけレモンスライスを消費するかで拓郎への愛の深さを競い合う異常な世界だった(爆)。もちろん俺もだがホントにバカだなぁ。そのことを今僕は後悔していない。
 しかしバーボンを抱くことはマネできても、せめてものレミーマルタンを抱きしめることはなかなかむつかしい。このあたりにスターと一般Pファンの深い峡谷を見るせいだ。

 レミーマルタンといえば「わけわからず」(“ローリング30”所収)のほかに神田広美の「ドンファン」がある。これは松本隆がおねーちゃんたちと浮かれている拓郎をモデルに書いたと公言して憚らない作品だ。

  ドンファン
  レミーマルタン水で薄めては
  プレイガールたちの輪の中で踊る

 昔はカッコいいな〜と思ったけど、今、聴くと「…拓郎さん、何やってんすか?」と少し思う(爆)。

 ともかく現在、吉田拓郎の音楽の世界でお酒が幅をきかす時代は終わった…それは思う。とにかく酒を広く共有する世界、酒が何かを動かす世界…吉田拓郎はもうそこにはとうの昔にいなくなっている。少し寂しくもあるが、昔だったら酒の勢いとか酒に頼ってすっ飛ばしてしまうような何かを最近の拓郎は言葉を探して紡いで歌うようになってきた気がする。それはいいことなのかもしれない。

 そういうこちらは昨夜は納めの飲み会だった。「星さんも悲しいと思うけど、いちばん辛いのは拓ちゃんだよ。きっと何度も何度も気持ちのうねりをやり過ごしてこの最上のエンディングに持って行ったんだよ。」と酒席でしみじみと諭された。だよな。だよな。悲しいだろうみんな同じさ、おんなじ夜を迎えてる。…やっぱり俺にはまだまだ酒が必要か。ひっそりとコソコソやろう。

 とはいえ暗く沈んでばかりいるわけではない。昨夜の携帯のメモには「祝・吉田拓郎ブラボー隊結成!」と書いてある。よく覚えていないが。なんじゃこりゃ。とにかく意味わかんないけど「BRAVO‼拓郎」でまいります。

 

2022. 12. 27

☆☆☆半端なバーボンの目の前に☆彡☆彡☆彡
 吉田拓郎がペニーレインで愛飲していたバーボンは主にI.W HARPERだったというのが有力説なのかな。確かに77年ころのラジオでも「最近はハーパーばかり飲んでる」と言っていたこともあった。でも実際のところはよくわからない。ともかく拓バカとしては外でカッコつけるときはハーパーを飲んできたものだが、家では専らアーリータイムスだった。かつて拓郎はアーリーを安酒みたいに言っていたから飲んでないよな。「OK」というこれまた拓バカは名前に吊られてついつい行ってしまう「OKストア」だとアーリーがかなり安く買えるのでついつい愛飲してしまう。それに最近になって拓郎は「バーボンなんてあんな臭くてまずい酒は大嫌いだった」とヒドイことを言いやがって…イヤ、おっしゃられていて、拓郎そりゃあないだろぉと時にはファンのこの僕でさえが腹を立てたり怒ったり。やっぱり原宿はバーボンだが、六本木に行ったらレミーマルタンなのか。ヤマハからギブソンに格上げみたいなものか。とにかくもう拓郎にバーボンの義理はない。自分が好きなものを飲むだけだ…ってもともと誰にも頼まれてないんだけどさ。

 ところが、そのアーリータイムスが今年からOKストアに限らずあらゆる店頭から一斉に姿を消した。どうやら販売終了みたいだ。なんてことだ。長年の友人だったのでショックだ。そしてそのうちに最近新作の「アーリータイムスホワイト」という商品が突然店頭に並び始めた。俺は酒にしても何にしてもかなり味覚音痴なので偉そうなことは何も言えない。慣れないだけかもしれない。これが今までのイエローラベルやブラックラベルと随分味が違っていて戸惑う。吉田拓郎の歌う「人生を語らず」と城みちるの歌う「人生を語らず」くらい違う…気がする。そのうち慣れるかもしれないので判断留保。
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2022. 12. 24

☆☆☆帰ってきたペニーレイン☆☆☆
 リマスタリングされたペニーレインを繰り返し聴く。ええわぁ。これはかつてuramadoに引用させていただいたが、レコーディングの時の思い出を記した平野肇さんの文章が俺はたまらなく好きだ(「僕の音楽物語1972~2011」)。

 「予想を超えるパワフルな歌声が耳に飛び込んできた。字余りぎみの歌詞を投げつけるようにリズムに乗せていく。乗せていくというより、その歌詞にドラムとベースが引っぱられていく。」
 「いろいろなタイプのボーカリストともやってきたけれど、段違いのパワーを感じた。しかも日本語がこれほど突き刺さってくるという驚き。」
 「完璧にロックであり、ロックスピリッツに満ちた歌だった。」
 「歌詞のコピーは非常に効果的だったと思う。そこにちりばめられた言葉と、それを吐きだすボーカルにシンクロしながらドラムを叩くことができた。」
 「洋楽ばかり聴いていて、日本のアーティストを知らない自分を反省する機会でもあった。」

 あの演奏を叩いたご本人が、この歌に感動しながらプレイしていることがなんとも嬉しい。歌詞を読みながら叩いたんだねぇ。スゲエ失礼な言い方だが、平野氏はこの曲の演奏を通じて覚醒し成長していることが伝わってくる。この平野氏の達意の文章を読んでいるとホラホラまた聴きたくなるってぇもんだ。

2022. 12. 23

☆☆☆人生案内ふたたび☆☆☆ 
 ということで素晴らしい12月の嬉しさと同時進行でかなり虚脱な気分もあってヘタレてしまっている。なので例のセルフ人生案内のAIいしいししんじに相談をしてみた。勿論、いしいしんじさんご本人とは全く関係ない。…オマエ大丈夫か?とかバカじゃねぇ!のと言われると思うが…そのとおり大丈夫じゃないし、大バカであります。あ、TOUR1979のTシャツ応募はがきに切手貼ってポストに走るくらいは元気である>元気じゃん(爆)。

       大好きな歌手がリタイアしてしまった
[相談]
 私が中学生のころから大ファンだった歌手が今年リタイアします。コロナ禍のためにリモートで最後のアルバムを作り無観客のセッションのDVDを出し、先週のラジオ番組を最後に活動が終わりました。覚悟はしてましたが、彼が生きる支えだったので今も虚脱状態です。まだ歌えるんじゃないか、まだラジオならできるんじゃないかと思うとあきらめがつきません。私は、これからどうして生きていったらいいでしょうか。

[回答]
 その歌手はあなたたちの声援を浴びながらずっと歌い続けたかったに違いない。だからこそコロナ禍の制約をかいくぐって、リモートや無観客という不本意な手段を使ってでも渾身の音楽をあなたたちに届けた。それを終えた彼は、ご家族との静な生活に向われた。あなたは見事なエンディングを見せてもらった。これからあなたがその歌手の今の年齢に近づくほどに深くしみてくるはずだ。

 不信心者の自分が宗教を例にするのは不謹慎だが許していただこう。イエス・キリストもお釈迦様も半生をかけて全国をまわり説法を続けた。ファンのためにライブツアーに出ずっぱりだったようなものだ。そしてやがて肉体の限界を迎えツアーをリタイアした。師がいなくなり今のあなた同様に寂しく不安になった信奉者即ちファンの人々はどうしたか。それぞれの日常で、哀しみ、喜び、苦難、迷い…いろんな場面に出会うたびに旅を終えてしまった師のことを思った。そういえばこんな優しい言葉をくれた、こんな胸が熱くなる光景をみた、もしここにいたらどうしたか…そんな自分の経験や記憶を思い出し、また同心の人たちの思い出を聞かせてもらったりしては元気を出して歩き続けた。そんな無数のファンの経験と記憶の破片を集めたまとめサイトみたいなものがやがて聖書とか経典となった。
 もしあのときファンたちも師と一緒に旅を終え、師のことを放念してしまっていたらどうだったろうか。話が大袈裟になってしまったが、だからあなたが旅を終える必要はない。彼の音楽を聴き、彼の言葉を思い、また同じファンたちが体験した彼の姿や思いに耳を澄まして目を見張る。そうした明るい日常を紡ぐことで、あなたに遠くつながる誰かの心に彼の音楽の灯がともり、彼の音楽はファンのあなたよりもずっと長い時間を生き続けることだろう。

 もうひとつとても大切なことがある。キリストもお釈迦様も亡くなってしまったが、あなたの歌手は元気で生きている。この同じ空の下で新しい人生を今も生きている。今までのようなコンサートやアルバムというカタチはなくとも、必ずや生きる気配を投げかけてくれるはずだ。それは僅かでささやかな気配かもしれない。だからこそあなたは今まで以上にファンとしての心をやわらかく大きく広げてあなたの旅を楽しんでほしい。大丈夫だ、きっとこれからもすばらしい旅になる。あなたたちが半生をかけて惚れ込んだほど素晴らしい人だ、彼の不在ですらもきっと大切な何かを語り続けてくれる。

2022. 12. 22

☆☆☆戻ってきた恋人たち☆彡☆彡☆彡
 「みなさんの素晴らしい人生がありますように」というラジオ最終回のしめくくりの言葉に続けて「今夜も君をこの胸に」が流れたときは心がふるえた。うわーと背筋がぞわっとなった。半世紀にわたる最後の最後にこの曲を持ってきた。こっちの希望とか想定とか悪態とかも含めてそういうものを全く超えて、不意に背中からひっしと抱きしめられたような気がした。
 なんでこの曲を選んだのか。それはご本人の魂のみぞ知るところだ。でも「君」はこれから静かに暮らしてゆく佳代さんであり、そしてまたあなたや私でもある…と思う。
 戻ってきた「恋人」というにはオレは過去あまりにこの曲に悪態をつきすぎた。恋人の資格はないな。http://tylife.jp/uramado/konyamo.html だからこそこの最後がいっそうたまらないのだ。 拓郎の歌に包まれて一緒に夜空に登ってゆくような最後のリフレインとギター。なんと粋で、なんと美しいラストなのだろうか。見事だ。まいった。滂沱の涙が止まらない。

 WANGANで生きて息づく新しい歌たち、「今はまだ人生を語らず」の復刻で蘇る歌たち、すべてが同じ土俵のうえにある。そして「TOUR1979」までが復刻新装で届く。時空を超えてゆきかう濃密な12月においてある歌たち。なんだこりゃ立体走馬灯か。カーテンコールなのか。♪伝えておくれよ12月の旅人よ…ってああ〜なんで大瀧詠一が頭で鳴るのだ。
 ああ、しあわせだ。しあわせだ、しあわせだからこそ、とてつもなく寂しいのよ。拓郎が、ここまでの決意をしたんだから、ここまでのラストを飾ったのだから、ありがとう、さよならと心から送り出せと人はいう。しかし理不尽な駄々っ子のように悶絶するしかないのである。そんなに簡単に気持ちのおさまりなんかつくもんか。

2022. 12. 21

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☆☆☆戻ってきた恋人☆☆☆
 ♪おかえり〜 ただいま〜 どこに行ってきたの〜ということで届いたぜアルバム「今はまだ人生を語らず」。原盤にはなかったタムジンの写真を愛でながら史上最強の一曲目を聴く 。健在だ。深夜にもかかわらず一枚全部聴いてしまった。どうしたって中学一年のときの衝撃の出会いを思い出す。熱い。ああ♪青春のスーベニールよ〜。

 先日のラジオによると新宿で戦いの狼煙が上がり、原宿で合戦し、六本木で勝利の終戦を迎えるという大河ドラマのような話だった。その「進撃の原宿時代」の荒ぶる魂とあふれ出てやまない音楽的才能でよりあげられた至高の一枚。この目の覚めるような意気軒高なアルバム。それ対して低血圧の寝起きのような音楽(個人の感想です)で顔が四つ並んだジャケットのアルバムを日本のROCKの歴代一位アルバムに挙げている音楽関係者よ、ここで今一度はどっちが第一位なのかを考えてみられたい。

 勿論この「今はまだ人生を語らず」はずっと持っていて時々聴き返してきたのだが、今回のこの嬉しさは、この名盤を世界と共有できた嬉しさだと思う。あ、共有って言葉嫌いだったんだ(爆)。とにかく最高傑作が廃盤という不幸というか呪いがついに終わる。
 もちんだからといって今の時点で嬉しがっているのは一部の奇特なファンだけかもしれない。道行く若者も隣のおじさんおばさんもたぶん知らない。しかし世に出た以上はそこから始まる旅が必ずある。
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 ちょっと違うか。いやだいぶ違うかもしんない(爆)。でも未来に思ってもみなかった花が咲くかもしれない。拓郎が言うとおり時間はかかったがこの最後の十二月に復活できたことを心の底から祝いたい。
 しかし今月、俺にとっての戻ってきた恋人はこのアルバムだけではなかった。つづく。

2022. 12. 20

☆☆☆季節の花☆☆☆
 SONYから「今はまだ人生を語らず」の発送完了通知が届いた。いよいよである。WANGANは吉田拓郎の言うとおり本当に素晴らしいクリスマスプレゼントだった。とすればこれはさしづめお歳暮ということか。そういえばTYISの毎年の季節のご挨拶が妙に懐かしい。
 …季節といえば強欲な俺はついつい思っちゃうのよね。WANGANがあまりに素晴らしかったのであの編成に松任谷正隆を呼んで「今はまだ人生を語らず」の全曲セッションを映像にして「お年玉」ってどうだ。どうだ。俺が中1の時にカミナリに撃たれた「歌謡最前線」の再来だ。
 このように人間の欲望というものは限りないのである。だから戦争や軍拡はなくならないのだ。
 戦争といえば敵地反撃能力、抑止力というとSF・特撮・アニメで育った俺なんかは妙に納得してしまいそうになるのだが、同じ特撮ヒーローの中にあって「それは血を吐きながら続ける悲しいマラソンですよ」と吐き捨てた彼の言葉を思い出し踏みとどまる。
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 ということで話は戻りて、果てしない欲望の悲しいマラソンは思いとどめて、復刻盤の到来を静かに待つのだ。
 

2022. 12. 19

☆☆☆何よりも平和が大切でありました☆☆☆
 硬派の桝田ディレクターのもとで沖縄問題をその場漬けで勉強したという話があった。この幻の名曲はその時のものだろうか。
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 その反面で「誰も知らなかった吉田拓郎」にはその桝田氏のインタビューがあった。原潜寄港の問題にみんなで抗議を呼びかけよう桝田氏が提案としたところ、拓郎が「みんなで一緒になんかしようというはの大嫌いだ!」と猛反対したという件も出てくる。

 反戦などの政治問題にかかわるとか,かかわらないとかではなく、吉田拓郎の琴線は「徒党を組む」ことにあったのではないかと…最終回のラジオを聴いていて何となく思った。安易に徒党を組むことの危うさを本能で察していたのだ。

 それにしても「基地サ」問題は50年経ってもなにも変わらない。そればかりか俺が吉田拓郎との別れに心奪われている隙に、物騒な閣議決定がなされていて暗然とした。不覚。とにかく煮てさ、焼いてさ、食べられたとさっさ〜にならない道を注意深く探さねばならないわな。それとこれとは関係ないかもしれないが個人的には拓郎を満喫できた平和な50年のためにも。

2022. 12. 18

☆☆☆わりと実話漫画「もぬけのカラでもいいじゃない」☆☆☆
長女「お父さん気持ちはわかるけど何か食べないと」
長男「…ったく小学生かよ」
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 みなさんは大丈夫ですか?

2022. 12. 17

オールナイトニッポンゴールド  第33回(最終回) 2022.12.16
☆☆☆あらすじ☆☆☆☆☆☆
 吉田拓郎です。金曜日は週替わりのパーソナリティでお送りしていますが、今夜は吉田拓郎がお送りします。
 今夜は僕のラジオとのお付き合いが早50年以上続きましたが、最終回ということになるんでしょうか、ならないんでしょうか、さっきスタジオで微妙な空気が流れていた。
 とにかくオールナイトニッポンゴールドとしては最終回ということで、今日はこれまでのラジオとの付き合いゆっくり話し、とりたてて企画があるわけではないです。ただスタジオで喋って、帰りに冨山Pからペニンシュラのスイーツを貰って帰る、これが楽しみできているだけ(笑)
 2020年からコロナ禍でずっと家でやっていたという印象がある。ようやくスタジオに来ていろんなゲストと会えて楽しかったと思ったらもう最終回がやってきた(笑)

 WANGANスタジオのセッションライブ。デモを観ている。これがいいんだ。最終回だから宣伝するなという人もいるかもしれないが、する。いいから買え。すっげーいいんだから。  
 やっぱ吉田拓郎はライブがいいな。吉田拓郎がいい。だからバンドが数段いい、普段の1.5〜2倍の力を出している。一曲目からロックンロールなのにストリングスが入ってる。このストリングスの子たちの顔がいい。かわいい子を選んでくれている(笑)。
 ブラスもいい。盛り上がる。「アウトロ」なんてすごいことになっている。これはライブだよ、このままステージ行こうよという気分になる。最高のクリスマスプレゼントだ。
 すべてテイクワン、テイクツーで、あれこれ何かやってもしょうがないということで瑞々しい演奏、グッドなセッションです。

■今夜も自由気ままにお送りします、吉田拓郎のオールナイトニッポンゴールド
 吉田拓郎さんには50年以上の音楽活動がありました。この原点は何だったか。最近考える。記憶があいまいになってきている。僕は高校の頃から詞を書くことはしていた。高校の頃、日本では歌謡曲が全盛だったが、僕はとなりの山口県の岩国 FEN 、far east network ここで50年代 60年代のアメリカンポップスを聴いていた。
 日本の歌謡曲は、日本独特の演歌が主流だった。若い歌手もデビューするが演歌調。たとえば橋幸夫の潮来笠(歌う)、舟木一夫の高校三年生(歌う)・・・なんで歌えるんだろう(笑)。こういう曲調が大ヒットしていて、僕もその影響を受けている。
 大学になるとビートルズがヒットし始めてこの四人組に憧れてロックバンドを組んだ。リーダーのMくんから、R&B、ファンクミュージックを教わってああ俺はこっちが好き、アメリカンポップス、R&Bとか黒人がやる音楽、俺の道はこっちなんだと思った。
 当時アメリカン・フォークも流行していて、そこにボブ・ディランもいた。紐解いてみると凄い詞だった。ビートルズの詞とは全く違う、詩の世界の影響を受けた。ディランが教えてくれたのは、世代の違い、大人の押し付けや古い常識は通用しない、そこから脱皮したいということで、自分も古い考えからサヨナラしようという気持ちを書くようになって、曲はR&B、詞はディランの「時代は変わるThe Times They Are a-Changin」、という感じで広島で演奏していた。

 だんだん日本もフォークブームにもなってきて、ブラザース・フォー、キングストントリオ、PPMとかが流行したけどあまり心に響かなかった。ロック、ブルースが好きで、歌詞はボブディラン風に書きたい、しかしそれはポピュラーじゃなかった。一部の女子高生だけが、拓郎さんカッコいいということで・・・嘘だよ(笑)
 オトナを信用するなという歌詞にハマっていて、「青春の詩(歌う)」・・・オトナがあと30年生きるなら僕達はあと50年生きるだろう、世代的にオトナとは違うんだから自由にやろうと歌っていた。
 でエレックという通信販売のレコード会社からのデビューして出したレコードが「イメージの詩/マークU」。悲しいかな、ぜんぜん納得のいかないアレンジだったが、そうしなさいと言われれば、実績も知識もない一学生は言われる通りにするしかなかった。「イメージの詩」がメインとなった。こっちがデビュー。その方が当時も楽だった。吉田拓郎といえぱ「イメージの詩」となった。武田鉄矢なんか吉田拓郎は「イメージの詩」しか作っていないんではないかみたいに勘違いしているが失礼なヤツだ。

  東京に出てきてすぐ歌謡曲の番組に出て、新人歌手として歌ったら、スタッフ、司会者に反感を買って、来るな、帰れ、おまえ何やってんだと怒られた。
 世代の違いとか、これまでが正しいと思っていたテレビ局というものに対するアンチの心が芽生えた。収録が終わってたぶんガンバルニャンという店で「ようし、いつかアイツらを見返してやる、アタマを下げさせてやるぞ」ということで狼煙が上がった。負けるかクソと思った。世代の違いもあったし、東京中心にもウンザリしていた。
 こうしてみると僕の歌のテーマに脈々と流れていたのは世代間の問題 、ジェネレーション・ギャップの問題を病的なくらい掘り下げるようになった。
 そうするとホラ、マークUという曲を忘れている♪年老いた男が川面を見つめて時の流れを知る日が来るだろうか・・・これは若い男女が自分の恋愛をわかってもらえなかった、また自分も歳を取ってしまうという歌・・・こういう歌を既に歌っている。すげー。  「マークU」なんだ。「イメージの詩」ではない吉田拓郎は「マークU」なんだ。吉田拓郎の原点は「ジェネレーション・ギャップ」だったけれど、今、年齢的には自分がそういうオトナになっている。若いヤツらから袋叩きになってもおかしくない大人になっている。そんな大人になっちゃいけないということでリタイアの決意をした。つながってきたな。

M-1  マークU’73     吉田拓郎

CM

 僕が初めてラジオとの付き合いが始まったのは、当時ラジオ関東・・・今はラジオ日本かな。1970年に上京してすぐにエレックレコードという通信販売のレコード会社に入った。文化放送の土井まさるさんの「カレンダー」がそこそこヒットしていた、しかし僕は土井まさるさんに感心なかった。当時は仕事もないし、メジャーなラジオに比べるとローカルな放送局・・・違ったらすみませんが、ラジオ関東からよく声をかけてもらって出演していた。当時は港の見える丘公園にあったかと思う。そのラジオ関東の番組であの今は亡き加藤和彦で知り合う。加藤と対談したのかな。当時の僕は駆け出しにもかかわらず、加藤の動物的カン 吉田拓郎のことが好きだったのかな、あいつは好き嫌いが激しかった。いろいろ楽器とかレコーディングのアドバイスをくれた。それから何日か経って、エレックレコードにやってきて「ギブソンのJ-45」をドノバンのギターの音だよと言って持ってきてくれた。
 加藤は、あの頃から和製フォークソングが嫌いで、でもフォーククルセダーズじゃないかというと「だってやってることはフォークじゃないよ。日本のフォークとかダサいよ」と言っていた。
 面白いと思った。僕よりも年下なんだけど僕は「加藤くん」と呼び・・・そういえばみんな年下のくせに「拓郎」と呼び捨てだったな、加藤和彦も泉谷も陽水も。

 エレックからCBSソ二―に移って、TBSのパックインミュージックの北山修・・・さっきの加藤のフォーククルセダーズのベーシスト、彼が辞めるんで木曜日そのあとやらないかという話をいただいて僕の深夜放送が始まった。桝田さんという人で、強烈なイメージで硬派な人で影響を受けた。昔はライターがいなかった、その後ライターさんがどんな番組にも入るようになって、自由に話しにくくなった。夜の8:30ころスタジオに入ってその日の進行とかハガキに目を通したりしていた。ある日、「拓郎、今夜沖縄問題をやる」と言われてドサッと資料を置かれて「いきなりなんすか?」とその場付けで資料を読んで放送したのが忘れられない。
 また放送中にアントニオ猪木さんが突然入ってきて「拓郎くんプロレス好きらしいね 」といわれて「大ファンです」・・・誰にもそういうんだ(笑)。前に朝青龍にもそういったことがあった。
 だいたいラジオも1年から1年半くらいで飽きる。いよいよ皆さんのニッポン放送。71年に深夜放送はなくバイタリスフォークビレッジという番組で、このディレクターは嶋田さんと言って明るいオッサンだった。この番組にレギュラーでギターの石川鷹彦と後にタッグを組むことになる岡本おさみがスタッフ=裏方としていた。この公開番組が北海道であって、そのときデビュー前の中島みゆきが、長いワンレンと白いワンピースとミニスカートで楽屋にいた。こんなおばさんになるとは、日本を代表するやばさんになるとは思わなかった。ススキに呼んでチョッカイとか出さなくてよかった(笑)。

 オールナイトニッポンは74年からで、中川さんディレクターで、和服を着たら似合うという感じで歩き方がフニャフニャしていた。当時、僕は芸能誌と犬猿の仲だった。そんなときに僕の家庭的崩壊の話が起こって、中川君に相談した。もうアウトだなというと、深夜放送続けるエネルギーもない。「だったら拓郎さん深夜放送の最終回だと思って言いたい放題ラジオでぶっちゃけませんか」と言われた。「てめぇら地獄に落ちろ」とか言った。中川はそのあとマスコミの記者らが放送局に押しかけても、あとは俺に任せろと記者をさばいたのは中川さん。でも結局以前よりボロくそに書かれるようになってもっと、中川さんしめくくってくれてないじゃん(笑)、もっとすごい敵を作ってしまった(笑)  

 文化放送のセイヤングを78年から始める。文化放送といえばレモンちゃん落合恵子が大人気で、当時の「深夜放送ファン」という雑誌でいつも一位だった。二位が亀淵さんで、だいたい俺は三位〜四位だった。一位になったことも一回あったかな。結構いつも気にしてたんだ。ディレクターの田中さんという人は学校の先生みたいな普通のおじさんでした。あれをやりたいといえば、そうしましょ〜という感じで意見のない人。当時の出版の方のマネージャーと事務所のマネージャーと音楽のマネージャーとに漫才させて、すっかり反感を買って終わった。ロクなもんじゃない(笑)。

 再び1980年ころオールナイトニッポンで、浅野さんは変な手品ばかりする人だった。
深夜放送の長い付き合い、結局、僕はラジオが好きだった。テレビじゃなかった。テレビも吉田拓郎ではなくKinkikidsと篠原という若い才能にらに助けられていた。吉田拓郎はテレビに向いていない
 テレビはすべてが映ってしまう。ラジオは本気か嘘か、テキトーなこといえる。ラジオに育てられて  ラジオにとともに青春した。ラジオがそこにあったから吉田拓郎もそこにいた。思い出がいっぱい。ラジオ局の皆さんスタッフ、プロデューサー、ディレクター
エンジニアの皆さんに感謝の気持いっぱいだ。その感謝を忘れないで、僕はまだやらなきゃならないことがある。植栽管理とか。

M-2  ショルダーバッグの秘密  WANGAN     吉田拓郎

※ポスターにサイン  ポスタープレゼント

CM

 自分ガシンガーソングライターとかフォークシンガーとか僕は名称にこだわっていない。一人のシンガーとし 作曲家として自由に取り組んだ50年だった。
 コンサートとかイベントとか自由な時間を作るのが楽しかった。一人の歌手としてやりたいことを貫いてみた。なんでもやりたかった。かねてからやってみたかったこととして、ディランがセルフポートレイトというアメリカのオールディーズとかスタンダードをを歌ったアルバムがあった。ディランのアルバムの中では一番好きだけれど、一般には評価は低い。「ボブ・ディランがこんなことやる必要はない」ということでいかにも70年代の連中が言いそうなこと。必要の有無を音楽は決めるな。すげー好きで僕も「ぷらいべえと」を作ったけれどこれもディランの影響だ。

 歌謡曲の影響もある。脳裏から消えていない。♪アンコ椿は恋の花 僕は ビブラートが苦手だ。こぶしを回す演歌とかはダメ。都はるみとかを聴くのはワーオと背筋がぞっとするくらい好きだけど。森進一も襟裳岬を「えり〜もの〜」とか歌うとやめろ〜とか言いたくなる。
 でもメジャーコードで「骨まで愛して」明るいコード進行は好きだ。「函館の女」「王将」、長山洋子♪駒の〜も好きだった。マイナーで、どんよりと歌う曲が苦手だった。テレサ・テン、♪時の流れに身を任せ〜好きだな。
 ビートルズも好きだしディランも好きだったし、テレビの歌謡曲も憶えている。影響与えていた作曲家吉田正さん。今でも聴くと懐かしいなと思うのでなんの抵抗もなく歌いたかった。橋幸夫と吉永小百合が歌った。

M-3   いつでも夢を    吉田拓郎

 ワールドカップ、やっぱり田中碧、三苫薫だよ、目ざとく見つけてきたのは奥さんなんだけど、病的に早い。この二人は凄いな、二人を生んだ川崎フロンターレは凄いな。 バックの谷口もサッカー選手にはもったいない映画スターみたい。佐田啓二みたいだ。古いな(笑)、二枚目ということだ。
  若い才能の活躍。ベテランも引き際が大事だ。4年後が楽しみだが、自分がいくつになっているかは考えたくない。

  ※中島みゆき  「倶に」

(11時)

 僕等人間は地球に生まれてきて、同じように見えてひとりひとりが違う。それぞれにオリジナリティを持っている。だから肩組んでゆくのは違う。一人一人がそれぞれのテンポがある。人間しょせん一人なんだと思うと人生は楽しいと思う。テンポ感は微妙だけどそれぞれがオリジナルを持っている。
 僕にも徒党を組んだ歴史はある。今はやるべきでなかったこともある。徒党を組んだことにはそのときの時代背景がある。そのことは胸を張って言える。そのあとになって、あそこで徒党を組んだことは違っているかなと思う。
 徒党を組んでも、違う才能、違うテンポがひとつになるわけがない。それをわかってないで徒党を組んでしまった。自分らしくなかったということがわからなかった。しょうがないや、それが青春だ。突っ走ってみたくなるものだ。今はできないし。20代だからできた。
 お互いのテンポスピード暮らし方が違うこと、相容れない現実を心に銘じて時には肩を組んだり歩いてみたりするのもいい。個々のオリジナルがちゃんとしていないとまずいな。
 ネット社会ではやたら共有、共有という言葉が走りまくっていて、共有に縛られている。そんなに必要なものなのか。これはひとりでいい、あいつと二人だけでいい。同じテーマで集わなくていい。
 もちろんいいこと素晴らしいことを チカラを寄せ合うことも大事だ。なんでもかんでも、例えば他人のことを根ほり葉ほり、そういうのはいらない。
 僕もこれからリタイア人生を長く生きるつもりだから、かかわりあわない、でも素敵な関係を持ちたい。自分のテンポとスピードを大事に、人間同士がお互いのオリジナリティを尊重しあう人間関係を持ちたいという願いをこめてこの曲をお送りします。

M-4  君のスピードで  2016    吉田拓郎

 昔のアーティストから新しいものも含めてライブをよく見るけれど、ライブだとローリング・ストーンズなんだな。ブルースをやるとカッコいいな。キース・リチャーズとロン・ウッドは大したギターじゃないけれど延々とギターソロがたまらないし、そこにチャーリー・ワッツの不思議なドラムが入ってきて最高のセッションだ。今の人の曲は、イントロ・間奏・エンディングなく、ギターソロとかも無くて歌ばかりになっている。もっと演奏を楽しんでほしい。特にブルースをストーンズみたいにやるのはいない。

 弾き語りは家に帰ってやったけどうまくできなかった(笑)「くよくよするなよ」これはディランはスリーフィンガーなんだけど、PPMは(歌う+実演)・・・弾けた。奇跡(笑)
僕は広島時代スリーフィンガーできなくて、ギター教室でも教えられなかった。ピックを使って弾いていたストロークで弾いて女子高生から「拓郎さん素敵〜」と言われて
ビールでも飲むか…未成年に飲ますな(爆)
 東京に来てもギターのスリーフィンガーは弾けなくて、これを教えてくれたのが石川鷹彦だった。いろんなテクニックを目で盗んで、教えて貰ったりしながら上達した。「花嫁になる君に」「旅の宿」とか、それまでフォークギターはまったく弾けなかった。だから神様のわけがない(笑)

CM

 街と青春が合致する。最初エレックレコードがあった四谷三丁目だから、新宿に集まるべき人種だったのだが、なぜか僕は原宿が好きになった。原宿は青春のたまり場で、ペニーレインで毎晩仲間と飲んで語り合う青春があった。当時僕は実生活に問題があって精神的にも不安定だったから原宿に夜な夜な出かけてゆくが楽しみだった。

 原宿は今のような景色とは違って何もなかった。ブティックもレストランもなかった。ペニーレインとキディランドと(同潤会)アパートがあるだけだった。なぜか新宿じゃなく原宿だった。そこに僕等がいるとこが噂とひろまって、歌まで作ってたから、ニューミュージックの連中も集まるし、一般の方も来るようになり、一緒の場所で飲むようになった。昼は女子高生の修学旅行の人たちも訪れるようになった。ここはもう自分の居場所じゃないと思うようになった。
 そのころかまやつひろしが接近してきて、彼は先輩だし、大好きだったグループサウンズの一員だった。でも彼は原宿にはあまり来ない。彼につき合ってテリトリーの六本木がだんだん遊び場になっていった。
 歌の世界観や考え方が、原宿時代より六本木時代には自分に幅が出来て自分が天狗じゃなくなってきていた。六本木に来てから、ひとりって悪くないじゃんと思うようになった。フォーク界では天狗だったのが、それが六本木でははいらない。「あっち側」ということで敵対視していた芸能界、業界の人たち、その連中と合うようになって、向こうがこちらをどう思っていたかがわかるようになった。あっち側の芸能人、芸能プロのスタッフ、既成のスターたちが意外にも自分に興味を持ってくれていた。僕から何かを聴きだそうとしていたのが結構衝撃だった。沢田研二なんかも好感をもってくれてよく一緒に酒を飲んだりした。
 テレビで「いらねぇ」と言われて、ザ芸能界に批判的だった自分が変わっていった。彼らが壁を取り払ってくれた。僕が、テレビを あっち側、ザ芸能界と呼んで戦争していた自分はもういらないんだ。あんな喧嘩腰はもういらないと思った。あえていうとその時思ったのは、ささやかな戦争には勝ったかもしれない。彼らが自分を認めて好意をもってくれるようになった。ささやかな戦争が終わった。勝てたのかもしれない。六本木で終止符が打てた。かまやつひろしに感謝している。
 原宿の青春は思い出の場所。今度のアルバムにも入れている。六本木は歌にするテーマではなく勝ったとは思ったけど、歌にするのは負け犬の遠吠え、負けまいとしていた原宿時代のことだった。この歌には原宿の景色がある。

M-5  雨の中で歌った  WANGAN   吉田拓郎

CM

 音楽活動してきたけど自分のお土産として素敵だったのは、作曲家としてのオファーをもらうことだった。楽しかった。大ヒットしたものもあれば、さっぱり売れなくて埋もれてしまったものもあった。すべての音源は持っている。作曲を依頼されてその人のために曲を書くのが嬉しかった
 実際にスタジオに行って指導した人もいれば、ノータッチの人もいた。でもあとで聴いてうまいなと思った人もいた。小柳ルミ子の「赤い燈台」・・・これはレッスンしたけれどその時「始めまして吉田拓郎です。友達だとおもってください」と言ったのを憶えている(爆)。何言ってるんだ。だいたいスタジオに行くと向こうはおつきが多い。俺はマネージャーの渋谷というむさい男がいるだけ。向こうは運転手つき、マネージャー二人にボーヤに四、五人くらいいろいろといる。 
 社長は自分だけは外車に乗っていたかな。今いるので。作曲の仕事は小柳ルミ子を筆頭に、うまいなーというの歌手もいた。
 依頼された時に作曲はしますが作詞はしませんと最初にお断りする。詞だとハマりこんで違う方向に行ってしまうことがある。イメージを壊してしまうかもしれない。可能な限り作詞家としては、この人がいいのではということはある。これは松本隆、これなら喜多條忠、これなら岡本おさみというように。
 アレンジは指定することも多い。デモを渡すが、萩田光雄と馬飼野康二を指定した。二人にはまかせておけば大丈夫、一番俺のメロディ―を理解していると思う。
 瀬尾一三は華やかなのは得意でない。ライブとかは頼むことが多かったが。なにせ今は中島みゆき専属だし。
 その歌手と出会い、エピソードを含めて、今でもi-Podに入れて寝る前に聴いているそういう曲がある。レコーディングが楽しかったし、その後も音信不通にならず思い出が続いたことも含めてこの曲はすげーいい曲。詞にもピッタリハマった。作曲家吉田拓郎としていちばんいい。売れた売れないに関係はなく、そういうものが二曲ある。
 ひとつはキャンディーズの「やさしい悪魔」。文句なしにいい。あの時それまでのキャンディーズにはないし、それ以前にもその後の日本の音楽にもない。60年代のアメリカン・ポップスのR&Bからきているメロディラインだ。
 そして今でもこの歌詞の世界感、松本隆この詞が数ある中で一番好き。このメロディもすごい好きで今でも聴いている。

M-6   水無し川     かまやつひろし

 皆さんとのお別れ時がきているような気がします。これから吉田拓郎はどうするんだ。そんなことはどうでもいいことで、僕は僕なりにこれからの道を進んでいく
 そこをひたすら歩くのが僕の人生。昨日とは違う新しい道が始まる・・・もう始まっていると思っている。今来た道ではない新しい道を歩くんだろうな。
その結論はまた数年後に出るだろう。今日話したのは、今来た道の結論だ。ウチは老々人生だ。
 現実として、ぐあいいが悪くなったときは、どうするかは夫婦で話し合っている。なるべく二人で一緒にいられる方法を考えている。どちらかが病気になったとき片方が片方の面倒をみることも大変で、それは自分たちの母親で経験している。これからは佳代と二人で新しい道を歩いていきます。そこにが待っている。生きてみなきゃわからない。
長いことありがとうありございました

M-7  歩こうね    吉田拓郎

CM

 吉田拓郎のオールナイトニッポンゴールド2020年4月から2年9か月やりました。ありがとうございました。これからみなさんのいつまでもお元気でいて欲しい気持ち。みなさんの素晴らしい人生がありますように心から願っております。今夜吉田拓郎から最後にお送りする曲はこの曲です。今夜も君をこの胸に。

M-8  今夜も君をこの胸に   吉田拓郎

☆☆☆思いつきと感想☆☆☆☆☆☆

☆最終回。終わった。終わっちゃったよ。それにしても魂のエンディングだった。「今夜も君をこの胸に」を聴きながら滂沱の涙だった。止まんねぇ。最後をこの曲でしめくくる、しかも2019年のLIVE Verだ。最後にやられた。悲しいとか寂しいとかいうより、なんて粋なエンディングなのかと泣けて泣けて仕方なかった。

☆冒頭の話で何か次があるかもしれないという微妙なニュアンスも気になったし、WANGANの生きのいい歌声を聴くと、本当にこれで最後なのかとも思うが、それは昨日の道に未練でとどまることかもしれん。とにかく今は全力で今こそ別れめ、いざさらば。

☆これまで聞いた話や自分も経験した同時代の話も多かったが、そのすべてが最後にしみいるように心奥に入ってきた。ファンにとっても楽しく至高の時間だった。楽しいとかいうレベルじゃなかったな俺の場合は。もっと切実な時間だった。
☆新宿で火がつき原宿で燃え盛った戦争が六本木で終わった。万感胸に迫るような話だった。
☆それにしても戦争を語るとき必ず出てくる布施明。よりによってマークUにも弓を引いてしまっていた布施明。だからか六本木で戦争が終わっても許してもらっていなさそうな布施明。でもその罵倒こそが吉田拓郎を今日の吉田拓郎たらしめた功績の人ではないのか布施明。

☆武田鉄矢を庇う義理はないが、彼はテレビ、ラジオという公共の電波で、当時世間が見向きもしないか忘れ去っていた「流星」「元気です」「暮らし」がいかに優れた名曲であるかを事あるごとに力説しつづけた初めての芸能人であることは忘れないでいたい。そうだ、水無し川は武田鉄矢にも歌わせたよな。ということは。

☆くよくよするなよ  良かった。

☆心の底からありがとうございました。吉田拓郎さん、どうかお元気でお過ごしください。奇しくも番組の合間で流れた中島みゆきの歌のとおり、あなたの生きる気配だけが ただひとつの灯です。

☆昨日とは違う新しい道が始まる…という。それはファンも同じだ。リタイアしちゃった歌手のファンという前代未聞の新しい道が始まる。倶に走り出そう、倶に走り継ごう。
 でもネットやサイトで好き勝手を書いていたら、きっと怒って黙っていられなくなって帰ってくるんじゃないかという気もちょっとしたりする。

2022. 12. 16

☆☆☆今夜すべてのラジオの前で☆☆☆
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長女「お父さん始まれば終わるのよ」
父「そうは言ってもな,50年じゃぞ…ぐっ」

2022. 12. 15

☆☆☆実写版”ah-面白かった”の道すがら☆☆☆
 なぜかDVDは二回目、三回目と観るたびにより泣けてくる。回を重ねて拓郎もよりよく声が出るようになり、立姿もより美しくなってくる(爆)。こちらの思い込みもあるが、それでもこの映像が語り掛けてくるものはあまりに多い。豊穣の海である。

 そうだよね。この”Contrast”は出色だと俺も思う。近いといえば”マラソン”をライブで初めて聴いた時みたいな気分に近いかもしれない。

 “アウトロ”は以前にライブで演奏したら熱くなるだろうといっていたが、むしろ熱かったのは”together”の方だったと思う。このブルースにガッツリ魂を入れ込んで歌う拓郎が熱い。
 “雨の中で歌った”…いいわあ。拓郎節を歌う拓郎は誰よりも拓郎っぽくてカッコイイ。ずっとこういう拓郎が好きだった。

 配置のせいか、ミュージシャンが拓郎をしっかりと囲いこんでアシストしている感じがまた妙に嬉しい。コンサートで観たらなんじゃと思うようなコーラスの振りも拓郎をしっかり支えて鼓舞しているみたいで観ていてなんか胸が熱くなった。

 後になって「あの名古屋が最後の映像でした」といわれるより、今のこれこそが最後ですとリアルタイムで差し出される方がいい。
 あ、でも別にこれを最後にしなくてもいいっすよ。そんときゃ気兼ねなくまた更新して歌っとくれ。アナタと俺の仲じゃないの、気にしないよ(爆)。

 ふたご座流星群観ましたか?普段なら“流星”が浮かぶんだろうけれど、こういう時なので
   ”雲のスキマから君みたいな星が 夜空の向こうで手を振った〜”
 がリフレインする。
 世の中も自分の生活や仕事回りもあれこれガタついているが、でもおかげで気分はちょっと自由な感じだ。いつも拓郎が音楽を通じてくれるあの気分だ。

 明日はもうラジオかぁ。過ぎ去る者たちよ、そんなに急ぐな。

2022. 12. 14

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☆☆☆WANGANが家にやって来た☆☆☆
 政治はとてもひどいことになっているが、いやあ〜WANGANはいいぞ。あのアルバム「ah-面白かった」が生きて動いている。ライブとは命脈なのだとあらためて思った。アルバム実写化大成功だ。すんばらしい。
 心配していたボーカルだったが、いいぞ、すげーいいぞ。曲後の小さなガッツ・サインもいい。もちろん経年変化や何やらと意見もあろうが俺は知らん。ここに今いる自分だけがハッピーならばいい。ミュージシャンは…あの人もこの人もいてほしかったが、それでも活き活きと生きた演奏がいい、いつもはなんかうるさいと思っていたコーラス隊のアシストまでがまたすごくいいぞ。

 とにかくWANGANには観客以外のすべてのものがあった。2022年の吉田拓郎がしっかりとそこにいる。

 観ていて本当に泣けてきた。涙ぐみながら、ああこれは高校の時に古典で習った「潸然(さんぜん)として涙下った」(「弟子」中島敦)というやつだと思った。いみふ。
 「Contrast」泣けとばかりの美しいストリングス。
 「ひとりgo to」はオープニングからして胸わしづかみ。
 「雨の中で歌った」…ラフなところがまたカッコイイじゃないか。
  ただのチャラけた歌だと思っていた「Together」が映像だとどうしようもなくタイトでどこまでも熱い。
 「慕情」。いいぞ。これでいい。これがいい。こんなライトな感じで風に吹き上げられた埃の中に眠っている名曲たちをかたっぱしから軽くカマしていってほしい。

 ということで、まだまだほんの第一印象だ。第一印象と言っても小林倫博のアルバムじゃないよ。>知らねぇよ! それにしてもやっぱり大きい画面で観たいよ。

2022. 12. 13

☆☆☆雨の中で届いた☆☆☆
 いろいろカッコつけてみたが,結局は行くあてもなく街角にたたずむ。やはりアウェーの自宅で観るしかない。その家から「置配で箱が濡れてて、間違って開けちゃったけど、なんだ拓郎か。あれ?辞めたんじゃなかったの?」という心無いメールが届いていて気が気ではない。とにかく家へ帰ろう、この道まっすぐ家へ帰ろう。

2022. 12. 12

☆☆☆はじめての夜、永遠の夜☆☆☆
 いよいよWANGANが近づいてきた。13日お届の予定らしい。明日じゃん。ところでご購入するみなさんはどこで観ますか?…そりゃ大きなお世話だな、すんません。
 しかし,なんたって初めて味わう未見のライブ映像である。誰に憚ることなく深く味わい、泣いて、歌って、叫んで、そして踊れる場所。残念ながら我が家は最早、極北のアウェーでしかない。カラオケボックスも検討しているが、なにせ忘年会シーズンだ。阿鼻叫喚の酔っ払い連中の怨念が飛び交う場所でこんな聖なるものを観てよいものか。
 あれこれ考えているうちに、最後なんだから全国でライブビューイングくらい企画してくれよエイベックスっ!と悪態のひとつもつきたくなる。…んーそうかコロナがあるもんな。俺ももうラゲブリオを飲みたくないし。
 さぁ、そんなことグダグダ考えているうちに届いちゃうぞ。日は沈む,日は沈む、時は急ぐ。愛しておやり、愛しておやり、愛しても、愛しても、愛しすぎることはない。

2022. 12. 11

☆☆☆いよいよクライマックスシリーズ☆☆☆
 今週からWANGANに最終回に復刻リリースとクライマックスの純粋経験が続くので、それに備えてあれこれ片付けながら静かにしている。冬と君とナマコと冷やし日本酒。ナマコを食べると「ローリング30」のあのジャケットが浮かび,拓郎の足元がナマコだらけだったという話を思い出す。「海へ帰る」が頭に流れ出す。雲の切れ間に明かりを探すみたいだ。
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2022. 12. 8

☆☆☆他にはなにひとつできなくていい☆☆☆
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 ここのところ毎朝毎夜の行き帰りこのユーミンにご挨拶している。拓郎がユーミンのベストにあげていた「守ってあげたい」。もちろん詞・曲・歌・演奏と何から何まで名曲だ。また島村英二先生のドラムがいいのだ。島ちゃん元気だろうけど、元気かなぁ。
 それにしても80年代前半、破竹の勢いで進撃していた吉田拓郎が「悩まなくていいのよ」とささやきかけるこの歌に救われていたというのは意外なハナシだった。「ミュージシャンは誰もみんなひとりぼっちなんです」と拓郎は話していたな。ひとりぼっちのうえにネットを開けばあーだ、こーだと口うるさいファンが…>おまえが言うか。いやファンはファンで孤独なものなのよ(爆)

2022. 12. 7

☆☆☆流れる☆☆☆
 「100分de名著」の「最終講義」の回は冒頭から寺田農による「下山」のくだりの朗読から始まり、また解説の斎藤環という先生がメチャ中井久夫に惚れこんでいるのがにじみ出ていて何だか嬉しくなった。

 例えば患者が速すぎる就職を希望した場合など、止めるかわりに「実験」としてやってもらう。それで失敗したらどうするか。

 かりに就職がうまくいかなくてすぐ辞めても「まだ早いか、君に合わないことがわかったから”実験は成功”だ」というわけです。


 現実はそう生易しいものではないのだろうが、そのように病気を「状態」ではなく寛解の可能性を含んだ「過程(プロセス)」だと捉える。過程という流れの中で心の自由を回復してゆくことだと記す。それは現場にいる人々には灯のようなものだったと解説の先生も語っておられた。これってさ、

  もぬけのカラでもいいじゃない
  人は流れるものだから
         (そうしなさい)
  流れてゆけ とどまらずに
  …流れて 流れて 遥かに流れて
          (車を降りた瞬間から)

 ほーら、もう吉田拓郎の歌のエッセンスそのものではないか(爆)。例によって勝手に読み込む不孝をお許しください。吉田拓郎も「状態」ではなく自由を求めて流れゆく「過程」なのである。
 結局、吉田拓郎がやってきたことは実験なのかもしれない。その大いなる実験たちに私たちはつきあってきた。あぁ、ごめんよ、私「たち」なんて勝手に巻き込むつもりはない、俺はつきあってきたのだと思う。結果は悲喜こもごも喜怒哀楽いろいろあったが実験としてはすべて成功してきたことになる。
 このリタイア≒エンディング≒アウトロも壮大な実験のひとつだと思ってしまおう。結果がどうなろうと実験は成功するのだ…そう思うと気分が少しだけアがる…たぶん一週間くらいは。
 そういえば本場のシュトーレンをいただいた。やっぱり12月はこれだ。さらに気分はUPした。
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2022. 12. 5

☆☆☆なだらかな坂を降りてゆく☆☆☆
 つまらない話の続きだが、山を下りる=下山という今年亡くなられた中井久夫さんの著書「最終講義」がどうしたって浮かぶ。

 「…回復は登山で言うと、山を登る時ではなく山を下りる時に似ています。」

 そして病とは必死で山を登って道に迷う時に似ているという。もちろん俺は精神医学などチンプンカンプンだが、それでもこの先生の書く文章はひとつひとつが心に響く。下山は治療であり寛解。それは「希望の処方」であるという言葉がわけわからずともしみる。
 マト外れだろうが、例えば「その人は坂を降りて」という歌を聴いて感じる清々しさは坂を降りるという寛解の歌だからではないかと思う。

 今月のNHKの「100分で名著」は中井久夫の「最終講義」だ。教えてくれてありがとう。専門家がド素人にわかるように解説してくれるというのが嬉しい。早速テキストも買った。なにもかもが高騰の折、この種のNHKのテキストだけはいつも安いのがありがたい。登山か下山か、中井先生、私にチカラを。今月というのが俺にはとてもタイムリーだ。

2022. 12. 4

☆☆☆友と汗をふき山に登れば☆☆☆
 勝手に冬の時代とか、氷河期とか言っているが、当然ながらあくまで俺の純個人的な当時の状況と超偏った感じ方にすぎず客観的な歴史の話ではない。人はそれぞれに違う。それでもわかってくれるレアな方がいらしたら嬉しいという気分で書いているだけだ。

 それにしても吉田拓郎ファンほどそれぞれの好みや思想が激しく異なるファン世界は珍しいとかねがね思ってきた。それぞれが一国一城の主の群雄割拠状態になっている。もちろん自分もヘタレだがその端くれだ。群雄割拠だからかつてはファン同士で戦国・戦乱の世もあった。他の歌手のファン界ではここまでの状態は寡聞にして知らない。

 前にも書いたが吉田拓郎は巨大な山なのだと思う。あまりに巨大すぎて登山ルートが異様にたくさんある山だ。フォーク、ロック、R&B、アイドル、ギタリスト、メロディメーカー、歌謡曲の作曲家、編曲家、詩人、プロデューサー、パーソナリティ、起業家、お茶の師範(あるのかよ)…いろんな山道があって、それぞれの道がまたいくつもの小径にわかれている。どの山道を登るか、どの道を選ぶかによって、観える景色がまったく違ってくる。同じ道でも人によって見ているものが違う。
 そのうえハイキング気分で登る人、景色を味わいながら登る人、ロッククライミングで命かけて登る人、ちょっと五合目まで登ってみるだけの人、いろいろだ。だから同じ山を登りながら一度も顔を合わせなかったり、交差してもまた違う山道に分れたりする。山道に迷うことも、霧や荒天で足止めされたりすることもしばしばある。総じて孤高な登山なのだ。

 俺は生まれてこの日まで俺の道しか見ていない。しかし歳とともにしみじみ思う。きっと道の数だけカッコイイ吉田拓郎の景色があるはずだ。かといって今さらどうできるものではない。5万回くらい引用した映画「ブレードランナー」のセリフ。

「おまえたち人間には信じられないようなものを私は見てきた。オリオン座の近くで燃える航宙艦。タンホイザー・ゲートの近くで暗闇に瞬くCビーム、そんな思い出も時間と共にやがて消える。雨の中の涙のように。」(ロイ・バッティ)

 すべては雨の中の涙なのか。そしていま思うのは、枯葉ごしにたどってゆく今後の山の道のことだ。まだ上に登る道が続いているのか、だったら峻険なここから先をどうやって登ればいいのか。それともこれから先の道は下山の道なのだろうか。登山の充足感を胸に下りの景色を楽しみながらゆっくり下山していくべきものか。どうなんだろうね。>知るか。
 

2022. 12. 3

☆☆☆迫るWANGAN☆☆☆
 師走が始まる。いよいよ12月14日が楽しみだ。しかしWANGANというとどうしても織田裕二を思い出す。彼が
  「ライブはスタジオで起きてるんじゃない!客席でやるもんだ!」
 とか脳内で叫び出したりしませんか?>しねぇよ。…なんてな。

2022. 12. 2

☆☆☆予測ということ☆☆☆
 予測外といえば、スペイン戦はah-びっくらこいた。俺は絶対に勝てないと思っていた。この勝利は、逆境、逆風の中でも全力で戦った方々、それを信じて魂の応援をした人々のものだ。特に三笘、堂安、田中碧と吉田家の喜びたるやいかばかりか。俺なんぞは輪の外から、恐れ入りました、おめでとうございますと言うより他ない。

 話は戻って…いや全てが周到に繋がっているつもりなのだが、94〜95の等身大の吉田拓郎廻りのことを、このサイトでは勝手に”氷河期”,”冬の時代”と呼んできた。すまんな。しかし中島みゆきもこの時の拓郎の姿を観て,ただれるような思いで「永遠の嘘をついてくれ」を書いたに違いない。そんな時代を経たからこそラジオの「club25」やアルバム「Long time no see」「感度良好波高し」という作品には格別な思いがある。
 氷河期、冬の時代とこっちは思っていたが、そんなことつゆも関係なく等身大の吉田拓郎はひとりの音楽家としてバハマに渡り、真摯に音楽を作り上げた。ツアーパンフに垣間見える「ボロボロになって蘇生しようとしているようだ」という常富Dの言葉が忘れられない。
 そうして届いたのは心にしみいる涼やかな風が吹いてくるようなアルバムだった。"やがて今日も移ろうけれど時に逆らわず君の名を呼ぶ"…なんという名フレーズ。これまで拓郎がアルバムを出す度に「新生吉田拓郎」的な宣伝文句が付されてきたが、このアルバムこそそれがふさわしいと思った。物静かで,愛おしく,それでいて新しかった。

 こんなふうに「Long time no see」「感度良好波高し」とそれを抱えてのコンサートツアーを迎えた時の気分は独特のものがあった。うまく説明できないんだけどさ、ちょうど"ah-面白かった"の一節。

  〜あなたがそっと心を寄せたドアの灯りが見えた
  〜旅立つ駅に遅れた私を笑顔で待ってた

 「Long time no see」「Club25」から始まる2年間はそんなフレーズがピッタリの気分だ。母を歌ったというこの歌の趣旨からは全くハズレているんだろうだが、こんなともしび気分で我が心の冬は春になり,氷河は溶けていった。

 で、その路線を静かに進むのかと思いきや「LOVELOVE」という黒船来航で、また疾風怒濤の90年代は展開してゆくわけでありんす。

2022. 12. 1

☆☆☆12月の旅人よ☆☆☆
 85年の撤退の時の重たい気分は忘れられないが、94〜95年の初期「Club25」あたりのフェイドアウトな空気も切なかった。
 コンサートツアーもなく、アルバムも出ず、大きすぎる眼鏡ばかりが印象に残るレギュラー”地球ZIGZAG”も終わり、さらには宇田川オフィスも辞めて仕事の依頼は逗子の自宅のファックスで直請していると語っていた吉田拓郎。撤退や引退以前に「自然終了」という感じが漂っていた。熱狂の日々は去り、穏やかな日常を語る拓郎はとても等身大で、それはそれで素敵だったが、俺は今吉田拓郎の静かな終焉に立ち会っているのかもしれないと思うと淋しくもあった。
 それは俺だけの思い込みではなく、後に知り合った拓郎ファンのねぇさんも同じの気持を語っていた。「CLUB25を聴きながら、ああ拓郎はこうやって終わってゆくんだと思ったわ。」「やがてお客さんもまばらなライブハウスに時々フラッと出てきて歌うようになるの。そこからがアタシの出番だと待ってたね。」…拓郎ファンの愛と業の深さを感じたものだ。…お元気かなぁ。

 しかし幸か不幸か、俺やねーさんの予想というか妄想は大ハズレ、等身大だった吉田拓郎は、再び巨大化し進撃を始める。いろんな壁を撃破して進み続けた。かくして客のまばらなライブハウスどころではなく、最後まで全公演大ホール即完売。チケット入手のために最後まで死闘を繰り広げなくてはならないファン人生が待っていたのだった。
 そしてそのライブも終わったのかと思ったら、前代未聞の無観客ライブが今月届くのだ。諸人こぞりて迎えまつれ。主は来ませり。つくづく予想のつかない旅路であった。
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2022. 11. 30

☆☆☆in1985☆☆☆
 1985年という年は,つま恋を最後に吉田拓郎が引退するという重苦しい空気が立ち込めていた。それにそれまでの数年のスキャンダラスな自堕落路線の拓郎のことも好きじゃなかった。'83,'84,'85とアタシの人生暗かった。
 でも、今"IYYの国立競技場"とか"つま恋'85"の映像を観るとメチャメチャカッコイイな。オーラが溢れてとまらなくなっちやってる感じだ。歴史的にIYYはオフコースと吉田拓郎の共演という史実になっているが、オフコースはもう完全に拓郎のバックバンドにしか見えない。愛奴とかトランザムみたいな感じ。>そろそろ怒られるぞ。
 とにかく「艶」全開だ。今頃と言われるかもしれないが…そうリアルタイムの時はいろんな煩悩が災いしてようやく今頃なんだよ。オイラの走馬灯は回りながらゆっくりと更新してゆくようなんだよ。

2022. 11. 29

☆☆☆カーテン☆☆☆
 昨日の"泣いてばかりの事にカーテンおろし(素敵なのは夜)"は"泣いてばかりの「恋」にカーテンおろし"の間違いだと教えてもらった。あららら、ありがとう、訂正します。
 カーテンといえばエレック時代にボーナス10万円を貰ってそれをカーテンレールに10枚ズラッと吊るして使っていったという話。最後の1枚を都民銀行に預金したという事も含めてしみじみと好きなのだぁ。俺も独り暮らしを始めた時、やったよ。やった人ってぜってーいるよね? 俺の場合千円札だったけどさ。残りはちゃんと近所の静清信用金庫に預けたものよ。

2022. 11. 28

☆☆☆だけどだけどオイラは幸福さ☆☆☆

…オトナって嫌ね(爆)。老獪だわ。いや俺がいい歳してガキなのか。確かに「シン・ウルトラマン」の話はもういいのだが、その映画評の中で結構胸にしみた一節があった。

「オタクが死ぬ前に観る走馬灯映画。爺ちゃん、死ぬ前にコレを観たかったんだっ〜て思って老害たちの涙を許してほしい。」 (山田玲司・ヤングサンデー 2022.6.9)

 お見事。それはそのとおりだ。しかしウルトラマンではなく、こっちの世界のオイラはどうなのか。同じような事なのか。いや最後の走馬灯ではなく、ささやかなれど明日につながる何かではないかと信じていたいとも思う。

 で、昨日ニトリに行ったら、どこかの505の中年夫婦が「カーテンを替えないと」と話しているのが耳に入つた。…そうなるともう勝手に頭が走馬灯になっちゃうわけだ。
 ということで久々に思い出した
あなたに捧げるベスト5
 (20) 今日のお題 ニトリの小さな幸福ベスト5
 
@カーテン
 カーテンをそろそろ替えようよ(もうすぐ帰るよ)
 チェックのカーテンごしに(金曜日の朝)
 アネモネ色のカーテン(ソファーのくぼみ)
 緑色のカーテンの隙間から(カハラ)
 君の住む部屋のカーテンは(情熱)
 レースのカーテンに,あの人の影が映ったら(やさしい悪魔)
 泣いてばかりの事にカーテンおろし(素敵なのは夜)

Aベッド
 ベッドのそばの(もうすぐ帰るよ)
 でなけりゃ安いベッドで(からっ風のブルース)
 ひとりの部屋さベッドと僕(僕一人)
 君はまだベッドの中で(ありふれた街に雪が降る)
 ベッドの横にゆうべの女(すぅい−とる−む ばらっど)

B照明
 部屋の灯りをすっかり消して(旅の宿)
 部屋の灯りを消すのは(素敵なのは夜)
 明かりを消して眠るよ(すぅいーとるーむばらっど)
 あなたがそっと心を寄せたドアの灯りがみえた(ah-面白かった)

Cソファー
 あなたのつけた(ソファーのくぼみ)
 見慣れた部屋は茶色のソファー(すぅい−とる−む ばらっど)

C椅子
 客さえまばらなテーブルの椅子(外は白い雪の夜)
 陽の当たる椅子、湯飲みがひとつ(ハートブレイク・マンション)

 ということで、とりあえずカーテン売場、第1位です。おめでとうございます!

2022. 11. 27

☆☆☆人にはそれぞれの生き方があるさ☆☆☆
 (できれば山本耕史の節で)…そうですか,「シン・ウルトラマン」はダメでしたか。私は冒頭から最初の30分が特に面白かったのだが人はそれぞれですね。ダメだと思えば途中でも視聴を止める。潔い。
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 あ,30分じゃそこまで観てないですか。

 さてWANGANのトレイラーを何度も観なおしてしまう。「Contrast」のストリングスが、もう泣けとばかりにヤバそうだ…あまり先入観と思い入れを持たないようにしないと。すべては初めて観る時の純粋経験こそが大事だね。詮無いことだが何度トレイラーを観ても「Hey!You!なんでこのままツアーに出ないの?」と言いたくる気持ちを抑えるの苦労する。幾度も君に伝えたがすれ違うように時は行く。

 ということで気分を変えよう。あの写真がB2サイズのポスター特典となるというので、それを入れる額というかポスターフレームとかいうやつをニトリに買いに行った。もともとどうでもいい話だが、さらにどうてもいい話につづく。

2022. 11. 26

☆☆☆「最後」という名の神隠し☆☆☆
 エイベックスの公式にWANGANの映像トレイラーが出ている。ああ、立っている、動いている、演奏している。観客以外のすべてがある。実写版「ah-面白かった」だ。ブラスとストリングスが際立って聴こえる。ボーカルに入る直前の寸止めで「不在の吉田拓郎」がまたいろいろこちらの気持を掻き立る。

 話は違うが最近のニュースで、宮崎駿の新作映画「君たちはどう生きるか」が完成間近で主題歌のレコーディングも完了したそうだ。宮崎映画は門外漢だが、引退作と宣されていたので前作「風立ちぬ」は観に行った。やりたいことはやった、あとは自由にしたいという宮崎監督の引退会見も観た。にもかかわらずの今回の新作だ。何度目かになる引退宣言のさらなる撤回について質問された宮崎駿は
    「だって、作りたかったから」
と答えた。ひょえ〜。
 「だって、作りたかったから」…これは最強。魂の言葉だ。他方「引退って言っただろ」「話が違うじゃないか」というのはモラルの言葉だ。モラルの言葉が魂の言葉に勝てるわけがない。勝ってはならないのだよコペルくん。

 この宮崎駿の話を書いたのは断じて吉田拓郎と比べたり、拓郎になぞらえたり、拓郎もそうしてほしいという意味からでない。嘘だ。それしかねぇよ。魂はそんな簡単に消えるものではない。

 その昔に"約束なんて破られるから美しい"なんて罪作りな詞を書いた人である。しかしファンとの約束は、やるかやらないか、歌うか歌わないか。リタイアするかしないかという浅いレベルではなく、もっと深い部分で交わされたものだと思う。

 とはいえもしそうなったら俺はモラルの言葉で思い切り「嘘つき」「引退って言ったろ」とか全力で悪態はつくけれど(爆)。

2022. 11. 25

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☆☆☆とんとん表紙ではなかったが☆☆☆
 今年の7月31日の日記で俺は「ah-面白かった」がリリースされ「LOVELOVEあいしてる卒業スペシャル」が放送される時期にもかかわらず、書店に行っても吉田拓郎を表紙にした雑誌がないと嘆いた。拓郎が表紙になんかなるわけないと言うのは正論かもしれないが。
 「表紙」というと亡くなったライターのこすぎじゅんいちさんの文章で、拓郎が、音楽雑誌を作りたい、その表紙になることが誇りとなるような雑誌を作りたい…と語っていたというエピソードを拾っていた。それが忘れられない。だから雑誌の表紙には、なるわけがあろうとなかろうと俺だけの思い入れがあるのだ。

 ということで唐突に「表紙」が出た。「ビックコミック」だが、いい。堂々たる2022年の拓郎とその言葉が表紙を飾る。感無量である。ああ、こうして日本中の書店を回りたい。しばらく店内で立ち尽くして眺めていた。そんな俺の背後に立つな。いみふ。
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2022. 11. 24

☆☆☆ワールドカップの夢☆☆☆
 にわかもいいところだけどワールドカップは凄かったね。燃えたわ。門外漢なんだけど拓郎のラジオのおかげで、三苫、堂安、南野とかみんな昔からの知り合いみたいな気分で観ることができた。イイところがさっぱりなかったこの国の老若男女を元気づけてくれた。他方ドイツは無念だろうが。現地ドイツ渡独中の知り合いによると、試合の前はレーベ(スーパー)に行ったらこういうのが配られるくらい盛り上がっていたようだ。こんな結果になって渡独中の日本人は大丈夫だろうかと思ったら…無事らしい。あぁ君の夢を大切にして、君の中で大切にして。
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2022. 11. 23

☆☆☆旅するソングライター☆☆☆

 STEP1で、中島みゆきと並んでお世話になるのが浜田省吾だ。「さよならに口づけ」(君が人生の時)という作品がある。
 
  ドラム叩ける仕事見つけたんだ
  2度とキャンパスへは戻らないつもり

 ここで吉田拓郎と浜田省吾という2つの人生がシンクロする。これぞ男の交差点か。それにしても「ドラム叩ける仕事見つけた」。ここがイイんだ。"ミュージシャンになる"とか"音楽の世界に旅立つ"とかではなく「ドラム叩ける仕事」というところだ。
 かつて高倉健がインタビューで"あなたにとって役者とは?"と聞かれて「仕事(なりわい)。以上。」と答えたこと、ザラブ星人が"なぜ地球を滅ぼそうとする?"と聞かれて「それが私の仕事だからだ」と答えたのと通じる。いや健さんはともかくザラブは違うんじゃね。

 そして後に浜省は"DARKNESS IN THE HEART"という作品で父の死を追想しながら

  走り始めた1974年〜

 と自分のキャリアの起点が吉田拓郎のコンサートツアーに置いていることを静かに宣言する。

 ツアーといえば呪われたように浜省のツアーに行っていたことがあった。最初は、さるお方のシーズン・オフという失礼な動機だったのだが、そのうちに観に行かずにはいてもたってもいられなくなっていた。
 拓郎が始めたコンサートツアーというツールをしっかりと継承しながら、独自の発展したものすごいオン・ザ・ロードを創り上げていった。サウンド、ビジュアル、構成、規模とか外構的なものだけでなく、なんというか関わる人々の心技体の凄さが部外者の俺にもヒシヒシと伝わってきた。俺は常に吉田拓郎のツアーが超絶不動の第1位なのだが、それでもコンサートツアーとしての客観的な最高峰はこの浜省のツアーだと思った。まさに中島みゆきの歌のとおり「倶に走り、走り継いだ」感が強い。

 名曲は数あれど今最高に好きなのが「マグノリアの小径」。拓郎節とはまた違った世界からやってくる浜省節が俺をとらえて離さない。トスカーナには行けないので、せめてトスカーナ総本店のミートソースのっけ麺を食べに行きたい。>そういうオチはいらないから。
 渡航中の知人からパリの毛糸屋さんの写真が送ってきた。毛糸にも手芸にも興味はないが、この広がる世界を感じて、出不精ながら、ああ外国に行きてぇ〜と切に思った。
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2022. 11. 22

☆☆☆ファンとしての峡谷☆☆☆
 昨日の日記で書いたSTEP1として日々聴いているのが中島みゆきの新曲「倶(とも)に」。まだリリースされていないがドラマの主題歌なので録画を繰り返し聴いている。イイ。凄くイイ。主題歌はいいのだが、すまん。ドラマとしてはこれよりも次の時間帯のドラマ「エルピス」にのめりこんでいる。長澤まさみがいつ巨大化するかハラハラしながら観ている>それは違う映画だろ。

 手すりのない橋を全力で走る
 怖いのは足元の深い峡谷を見るせいだ
 透きとおった道を全力で走る
 硝子かも氷かも 疑いが足をすくませる
 
 凄絶な中島みゆきワールドにいきなり引き込まれる。本当に足元がすくんでくる。
 
  倶に 走りだそう
  倶に 走り継ごう
  過ぎた日々の峡谷を のぞき込むヒマはもうない

 時間のない切迫した中に「走り継ごう」と大切な誰かに語りかける。その誰かとの距離が切ない。

  生きる 互いの気配が ただひとつだけの灯火
  ……
  君は走っている ぜったい走ってる
  確かめる術もない 遠い遠い距離の彼方で
  独りずつ 独りずつ
  僕達は 全力で共鳴する

 遠く離れて「気配」だけで支え合う二人。どこかでかすかに軋む船として感じ合う、あのみゆきの歌を思い出す。これはアレだ、何の根拠もないイカレタ俺の思い入れだが、間もなく「吉田拓郎」を失ってしまう、少なくとも失うくらい遠く隔たってしまうことになる、中島みゆきと私の歌だ。…なんでオマエが入ってるんだ。いや言葉を変えよう吉田拓郎を失って手すりのない深い峡谷をひとり渡らなくてはならないすべての人の歌なのだ。だからこそこのフレーズに涙ぐむ。

   風前の灯火だとしても 
   消えるまできっちり点(とも)っていたい  

 このフレーズが小さな勇気をくれる。かくして吉田拓郎の不在が心にハガネをいれてくれるのだ。同志よ、手すりのない橋を全力で倶に走りだそう、倶に走り継ごう。…そういうガラにもない気分にさせてくれる。

2022. 11. 21

☆☆☆人生は修復ステップ☆☆☆
 ファンとか言いながら吉田拓郎に対してムカついたり超絶不満を感じたりすることがたまにある。すまん、たまにじゃない結構ある。怒りん坊なのかな、俺、そんなことってあるだろう君たちだって…いや、大多数の拓郎ファンはそこまでの負の感情はあまり抱かないらしい(当サイト調べ)。当たり前か、ファンだもんね。それに、そんなに不満ならファンなんか辞めればいいじゃんというごもっともな意見もある。まず拓郎本人が真っ先にそう言いそうだ。しかしそうは簡単にいかない性なのよ。
 ドイツで活躍するプロのバレリーナの女の娘は、これまで何度ももう辞めようという厳しい壁を乗り超えてきたという。その時のモチベーションは「踊りが好き」「夢をあきらめない」とかいう美しいものではなく「ここまでやったから今さらもったいないし」ということだったそうだ(爆)。確かに。俺にしてみれば50年間も続けてきたことって他にあるか。ない。仕事だって家庭だってその半分くらいだ。今さらその半世紀のファンを辞めて、さだまさしのファンになるってもったいない。もったいない…十分すぎる理由ではないか。

 ともかく拓郎にムカつきながらもファンを辞める覚悟もない。そういう中途半端な俺は「拓郎なんか嫌いだ」という気持ちになった時、その荒んだ心根をどう処理するかという問題にブチ当たる。どうするかといっても、別に義務でも仕事でもないし、相手も何とも思っていない(爆)ので自然の流れにまかせるしかないのだが、今までどうやって心を戻してきたのかをあらためて考えてみた。いわば拓郎が大嫌いになった時の修復のSTEPだ。あくまで一個人の場合だ、マネしても効果はないと思う>誰もマネしねぇよ。

STEP0 聴かない、観ない、歌わない
 とりあえずそういう時は、聴かない、観ない、歌わない…何事も対象物から距離と時間をとることが大切だ。中井久夫先生も河合隼雄先生もそう言っておられた。歌わない…はカラオケね。

STEP1 他の歌手を聴く。
 そうすると音楽のない生活が淋しくなる。他の歌手の音楽を聴く。といっても拓バカなので他の音楽には不案内だ。結局、個人的には、浜田省吾、中島みゆき、大瀧詠一など洋楽ならローリング・ストーンズ、ボブ・ディランあたり…別世界ながら拓郎との関係が細くとも繋がっているシンガーになる。
 他には最近ではコンピレーション・アルバムというのも効果がある。例えば「松本隆作詞作品集」のようなオムニバスで、吉田拓郎の歌がハブられていて普段だったら「なんで拓郎の曲がねぇんだよ!」と怒りたくなるヤツ。
 なぜなら、総じて他人の音楽を聴きながら、別世界の音楽なのに、なんとなく拓郎のことがチラチラと頭に浮かび、「吉田拓郎の不在」というものが、静かに心に広がってくるようになるからだと思う。この世には「吉田拓郎の歌」と「それ以外の歌」の2種類しかないという真実が浮かび上がってくる>別に真実じゃねーだろ

STEP2 エピソードにふれる。
 拓郎の不在が心にしみてきたら、ここらで吉田拓郎をめぐる感動的なエピソードにふれてみる。それは人それぞれだが例えば最近弱いのは…
 @喜多條忠の「メランコリー誕生秘話」
  松本隆の代役だと失礼な作詞依頼とそのあとの新幹線の電話の話。泣く。
 A宮下舞監がツアーで譜面を忘れた時の吉田拓郎(田家秀樹「吉田拓郎 終わりなき日々」P.276)。
 これも泣ける。こんなことされたら拓郎さんに一生ついてゆこうと思う。
 B佳代さんのために終の棲家の逗子を引き払い東京に再移転する話(ラジオでナイト)。
   すげぇ!凄いぞ拓郎とラジオの前で思わず唸った。
 C「すばらしき仲間U」で拓郎が新幹線に乗る時に乳児を抱えた女性を先に行かせてあげるところ
 …んまぁ、とにかく他にも星の数ほどあるだろう。あれぇ、ムカついてたけど、やっぱりこの人すげーいい人かもしれないという気持ちを新たにするのだ。

STEP3  提供曲を愛でる。
 ということで、いい人かもしれないと思ったら、他の歌手を通して吉田拓郎のメロディにふれなおしてみる。風の街、水無し川、明日の前に、歌ってよ夕陽の歌を(以上75年提供曲四天王と呼ぶ…あーいつか街で会ったならもあった…五大明王でどうだ)、キャンディーズ、石野真子、ああテレサ野田の濡れた歌謡祭、ハート通信ヒュルルル、最近では「ステラ」と林部智史の「この街」と大野真澄の「ダンディ」なんかがお気に入りだ。ともかく広大深遠な提供曲の海だ。聴きでがある。ああ、やっぱり拓郎のメロディはええなぁ。拓郎が海なら私は魚、海の国境を超えてゆくファイト!みたいに気分が少しずつ上がってくる。

STEP4 不滅のインストゥルメンタルに悶絶する
 さぁここまで来たらもうすぐだ。とはいえ悔しいのでまだいきなり拓郎の本人歌唱を聴いたりしない。ここで例の「避暑地の恋(パーシー・フェイス・オーケストラ)」「今日までそして明日から(「メロディー拓郎」)」「星を求めて(ビリー・ヴォーン)」「Hawaiian Sunrise Sunset (Hawaiian Rhapsody)」などを聴く。この寸止め感。なんかうずうずして悶絶してくるインストたちである。ああライブが観たい、死ぬほど観たい、ああボーカルが聴きたい、打ちのめされたい、あの立ち姿が観たいっ、ああ、やっぱり、さだまさしなんかじゃ満足できねぇっ!と心の底から渇望が湧く。 

STEP5 共演ライブを聴いて同志の気分で許す
 ここまで来たらOK松任谷。ライブを聴こう、観よう。例えば篠島の「ああ青春」…♪ああ青春は〜で地下鉄だろうが仕事場だろうが街角だろう両手を上げてしまう。つま恋2006の「シンシア」、名古屋の「私の足音」「純」「今夜も君をこの胸に」…枚挙に暇がない。
 これらのライブは、いわば拓郎と俺のコラボ作品だ。コラボ…って言ったって、ただ客席にいただけだが、ライブは客席とのコラボだ、客のグルーヴで作り上げあげるものだと拓郎も言っていたではないか。…それをコロナだからって無観客でやりやがって!とムカついてきたら、またSTEP0に戻ろう(爆)。一緒の景色を共有したあの熱いライブの時間たちを思い出して、いろいろ文句はあったけれど、俺と一緒にこうしてコラボしたヤツなんだと思うと、なんかほっこりと許せる気分になってくる(爆)。

…こうして静かな寛解に至ることが多い。

STEP LAST お祭りにまぎれる
 それでもなんかまだ気おくれしてしまう時は、お祭りのどさくさに紛れてしまうのもいい。12月14日のDVD発売、21日の「今はまだ人生を語らず」完全版の出来、めでたい盛り上がりの中で、おお、すげー、やっぱりすげーと大騒ぎしながら、いつのまにか熱烈な拓郎ファンの隊列に戻っているというのもアリだ。

 「禍福は糾える縄のごとし…幸せだけでよられてる縄はない」という向田邦子理論を思い出しつつ、愛と憎しみで拠られた心のロープを投げながら、この終わりそうで終わらない海路をまいりましょう。
 

2022. 11. 19

☆☆☆生きてみること☆☆☆
 なんだかんだと拓郎に悪態をつきながら、ああ昔もこうだったなと思う。わが青春の80年代、特に前半は、雑誌「昭和40年男」の目次のようなニューミュージックの主流=歌う敵たちに激しくムカつきながら、ひるがえって吉田拓郎に対してもあれこれ文句と不満を抱いていたものだ。例えばメッセージ性が希薄になってきた作品やライブでの選曲やラジオでのファンへの言動、そしてスキャンダルに身をやつす姿も含めていろいろ苛立っていた。
 吉田拓郎の素晴らしいところをいくらでもあげられるが、同時に悪態も同じくらいつけるというのが呪われた一部のファンの業だ。 拓郎も気の毒…いやそれは拓郎さん自身の問題だ。俺はファンのはしくれかもしれないが翼賛会ではない。

 それにしても今もこうして先日のラジオでムカついていて我ながら進歩がない。しかし、少しだけわかったこともある。80年代の前半に、堕落した曲と忌み嫌っていた「I’m In Love」や「今夜も君をこの胸に」などの作品群が、今になって自分の中ではしみじみと輝きを放ち胸を打つ。俺の感性の鈍さもあろうが、あのときの拓郎と作品を堕落と感じた気持ちも間違ってはいないと思う。
 かつて高校時代に古文を習った高橋師の言葉を思い出す。「物の善悪を論じているとき人間は成長が止まっている。成長すれば見方は変わる。断じずに生きてみよ。」…なるほど生きてみるもんである。高橋師、先生はこういうことを言いたかったんですね。>いや多分違うって。
 先日のラジオでひとつだけ良かったのは…ひとつだけかよ…これからのことなんて「生きてみなけりゃ、やってみなけりゃわからない」という言葉だ。それはとても御意。悪態はついても、それはこれから生きてみて変じていく流れの途中だ。
 ということでいろいろ思うのだが「生きていなけりゃ」・・・FromTのデモ・バージョンで聴く。このすばらしい魂のギター、これだけのギターが弾けるんだから・・・とまたよくないループに入りそうなので今日はやめとく。

2022. 11. 18

☆☆☆元気が出ない2☆☆☆
 前回のラジオでもうひとつ辛かったのは泉谷の話だ。「ワガママ」論争とでもいうべきか。

 もちろんフォーライフでの吉田拓郎の粉骨砕身ぶりは一ファンから観ても凄いなんてものじゃなかった。確かにアーティストを発掘し育ててフォーライフ=音楽界を変えようと尽力していたのは拓郎ひとりだけだった。川村ゆうこ、原田真二だけでなく高橋真梨子を獲得しようとしていた話も最近知った。「再建」というとカッコイイが、要は泥かぶりで、人員整理で仲間を解雇したり、レコード業界のたぶんヒヒ親爺たちにも頭を下げたりすることまで耐え忍ばなくてはならなかった。自分の音楽活動を犠牲にしてそこまで奮闘した拓郎の偉業はいくら讃えても讃えきれない。ファンとして誇りに思うし、拓郎がワガママではないのは魂の底からわかる。少なくともフォーライフに関しては(爆)。

 他方、泉谷は脱退後あんまりフォーライフのことを語らなかった(と思う)が、ちょうど拓郎が「眠れない夜」をカバーした1988年頃に「わが奔走」という自叙伝でフォーライフのことを結構詳しく語り始めた。そこで「俺を最後まで引き留めてくれたのは拓郎だけだったよ」と述懐した。その後も泉谷はフォーライフの話になると必ず「最後まで引き留めてくれた拓郎」に謝意を語りつづけたし、最近では「フォーライフとは吉田拓郎という天才の仕事だった」(NHKごごナマ)とまで語った。泉谷の話を聞くたびに拓郎への深い深い敬愛がひしひしと伝わってきた。同時に勝手な邪推ですまんが、拓郎を残して脱退したことについての泉谷の悔恨のようなものも感じた。泉谷はん苦しんではる、きっと苦しんではるのや…なぜか関西弁でいつも思っていた。

 そこに喧嘩とか訣別があろうとも、それを超えた友情のあることが他人事ながら心の底から素敵に思えたし嬉しかった。だから二人の素敵な関係のまま夢を見せてつづけて欲しいと勝手ながら思う。って、ここまで書いていて、たぶん泉谷の気持ちを拓郎もきっとわかっているに違いないって気がしてきた。だいじょぶだな。

 ただ、俺が気に入らなかったのは、拓郎がKinkikidsをひきあいに出したことだ。Kinkiは俺のことわかってくれている。そりゃあKinkiと拓郎の絆がいかに素晴らしいものであっても、それと泉谷のことは別だ。Kinkiを引き合いにマウントとろうとするなんざぁ普通にそこらにいるイヤなジジイと同じじゃないかと俺は残念に思った。すまん、最後だから言っとかないと。

 ここのところ日記のオチが良くないな。すまん。いただいたドイツの写真で気分をあげる。曇天にも虹はかかるのだな。
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2022. 11. 17

☆☆☆元気が出ない☆☆☆
 吉田拓郎の文字に釣られて雑誌「昭和40年代男・俺たちニューミュージック世代」を買う。この敵味方入り乱れる目次が、わが青春の80年代そのものだ。表紙もトップ記事も「アリス」で、最後の総括は「富澤一誠」ときたもんだ。俺にとっては極北にある試練のような記事たち。あの頃もそうだったように、そんな記事たちの中を、目を皿のようにして吉田拓郎の記事や言葉を探す。
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 きくち伸のLOVELOVEの話はやっぱり素敵だったし、篠島レポートは何十年経っても胸アツ、瀬尾一三のインタビューも、古くからの客人山本隆士の回想なども読めて良かった。まだまだいい記事がありそうだ。
 しかしそれ以外は全体に温故知新…古きをたずねて新しきを知るの反対、古きをたずねて居心地よく古きになってしまう甘美な空気に満ちている気がしてならない。まさに「兵(つわもの)どもが夢の跡」という感じだ。「つわもの」といえば、

  古き時代のつわものどもが
  生きる術など教えにやってくる
  明日は今よりも 死せる時なんだと
  いずれは元の闇の中へ
  答えもなく消え去るのみ
  恥ずかしさをこらえられるか
          (流れる:吉田拓郎)

 いいな、さすが吉田さん昔から慧眼だ。リタイアしようとも決して古いつわものたちの世界に安住したりはしない…と思いながらも、前回のラジオの弾き語り…ありゃ何だよと思い返して悶絶する。
 すまん。たかが個人の感想だけどさ、久々にダメな拓郎を観た気がする。どこがダメかというととにかく全部ダメ。弾き語りは嫌いだ〜どうせ君らの好きな「祭りのあと」なんかやらないとファンにネチネチ言うのもダメだし、それでいて自分が歌うのは「青春の詩」「もう寝ます」という超絶フォークな選曲なのもダメだ。歌にもギターにも「魂が入っとらん」かぁぁぁぁダメだ。
 名曲「金曜日の朝」を歌ってくれるなら…フルコースを渾身で歌っておくれよ。例えばR&Bをギター一本でかまして「なるほど拓郎はフォークソングではありませんでした、ごめんなさい」と全国の若者を含めたリスナーを唸らせておくれ。
 もし弾き語りが嫌いなら、それこそあの広いスタジオでセッションすればいいのに。辻説法じゃないんだから音楽で語ってくれよ。
 ということでどうもあの放送以来、気勢があがらない。俺の気勢などどうでもいいが。これがいよいよ迫ってきた最後というものなのか。それともたまたまこの時だけのことなのか。ああこれも風邪のせいならいいんだけどさ。

2022. 11. 16

☆☆☆ボジョレー☆☆☆
 いよいよボジョレー・ヌーボーだ。ワインに目がないので普段から「赤ならメルロー白ならソーヴィニヨンブランだぞ」「ハワイだからジンファンデルがあるならおすすめです」とかワインのことばかり考えている。嘘だ。昔の"拓つぶ"からコピペしただけだ。"すあま"みたいに赤と白がある以外なーんもわからん。しかし皆で酒飲もうぜというウェーイな雰囲気には便乗することにしている。ということでワインといっても何を飲んだらいいのかわからないので吉田拓郎の歌から探ってみる。

 ということでウザいだけだったようなので静かにひっそりと再開する。
結局私が私に捧げるベスト5
(17) 今日のお題 ボジョレーに飲むのはこれだ!ベスト5
 
第5位 退屈が誘う夕暮れに淋しさをうるおすワイン(君が好き)
 ☆彡悪いが岡本おさみが飲むワインって…メルシャンか赤玉ポートワインな気がする。
第4位 恋が好きな女が頬を染めるワイン(乱行)
 ☆彡フォーライフ社長がバブリーにふるまう高級年代物のイメージがある
第3位 溶けてすべてが楽になるOh Seven Wines(七つの夜と七つの酒)
 ☆彡正気のカケラのオン・ザ・ロックスはウイスキーじゃないか、ワインとの関係はどうなんだ
第2位 おどけた顔で君がすすめるワイン(Woo Baby)
 ☆彡ダイエー碑文谷店の洋酒売場の匂いがする
第1位 花びら浮かべたバラ色ぶどう酒(やさしい悪魔)
☆彡「ぶどう酒」というウッカリするとダサさくなりそうなフレーズが蘭ちゃんによってとてもオサレな響きになっている。ということでこれが第一位。ふるえる小指がそう教えるの。

  ということでご参考まで>1ミリも参考にならねぇよ!
 

2022. 11. 15

☆☆☆時はためらいもなく夕映えに燃えて☆☆☆
 映画監督大森一樹の訃報だ。大学生の時、映画「ヒポクラテスたち」が大好きで何十回観たことか。不肖、星紀行にとって青春の好き過ぎる映画だった。古尾谷雅人をはじめとする医学生たちがもう魅力的だった。古尾谷雅人も阿藤海も斉藤洋介も亡くなってしまった。何回も観たので、前にも書いたかも知れないが、劇中の医学生の少年の部屋に飾られている「ぷらいべえと」のジャケットを見逃すはずがない。

 その後、映画「継承盃」を撮って吉田拓郎の「夕映え」が主題歌になったりするのだが、名曲「夕映え」がちょっとかわいそうになるくらい残念な映画だった。個人の感想です。いや、しかし「恋する女たち」とか「平成ゴジラシリーズ」とか名作はたくさんある。
 
 ゴジラ映画を撮った時、対談番組Ryu’s Barで、村上龍が「ゴジラの細胞ってやっぱり大きいんですかね?」と尋ねたら「細胞はみんな同じ。大きかったらスカスカになっちゃうじゃん(笑)。案外、物知らないね。」とツッコミ入れていたのがおかしかった。

 お疲れ様でした。今夜は深酒でもしながらDVDで「ヒポクラテスたち」を観なおします。
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2022. 11. 14

☆☆☆秘蔵と蔵出の間を行ったり来たりさすらっても☆☆☆
 「貴重で有意義なバンドとのセッション〜俺はこのために生まれてきたんだと思う」という男を観るために俺もこの世に生まれてきたのよ(爆)。
 セッションといえば、何十回でもいうが、つま恋’75の2ndステージ松任谷グループの演奏は実にすんばらしい。どの曲もまどらかなキーボードの音色に抱擁されるようにつつまれている。この温もり。「ともだち〜シンシア」このあたりをわだかまりの無い音で聴かせてほしい。
 そして何百回でも言うが、第3rdステージで迎え撃つ瀬尾一三オーケストラの豪華さ。「たどり着いたらいつも雨降り」「ルームライト」「明日の前に」このあたりをできるだけクリアな音で聴きたい。
 現地に行っていない俺が申し訳ないが、75年のつま恋の素晴らしさは、この松任谷と瀬尾のガチンコだと思っている。

 秘蔵と蔵出しの間を行きつ戻りつしている場合ではなく、もはやこの世界のすべてに対して捧げられるべきものではないかと思う。そのくらいの貴重な名演奏たちってこと。

2022. 11. 13

☆☆☆ねずみ花火がほしいんです☆☆☆
 時間が経って心にしみてきたのは進徳女子高生の夜の帰り道を送ってゆく話。拓郎が自転車に学生鞄を乗せてあげて彼女の歩調に合わせてゆっくりと漕いでゆく。二人乗りじゃないところがまたイイ。
「お兄さん、今度東京に行っちゃうんでしょ、音楽に挑戦するってお母様(先生)が言ってました。応援しています。」
…その方はそれからどんな思いで現在までの吉田拓郎の旅路を観てきたんだろうね。私らファンとはまた違った感慨でお兄さんのことを応援しているんだろうな。

 拓郎のフリートークは、現在から過去、過去から未来と次から次へといろんな話が自由に飛んでゆく。今回も自由だったな。聴いている方もあちこち縦横無尽に飛ばされる。そういう幸福。

 聴きながら向田邦子の「ねずみ花火」という大好きな随筆の一節を思い出す。
「思い出というものはねずみ花火のようなもので、いったん火をつけると、不意に足許で小さく火を吹き上げ、思いもかけないところへ飛んでいって爆ぜ、人をびっくりさせる。(向田邦子「ねずみ花火」文春文庫)」

2022. 11. 12

オールナイトニッポンゴールド  第32回 2022.11.11
☆☆☆あらすじ☆☆☆☆☆☆
 吉田拓郎です。毎週金曜日は週替わりのパーソナリティでお送りしていますが今週は吉田拓郎です。
  
 さて今夜は冒頭から凄いです。びっくりニュース。まず一通の手紙とプレゼントが届きました。ある女性から。達筆だね。

 吉田拓郎様 
 颯爽としたお姿もツヤツヤのお声もお変わりなく嬉しく安心しました。このコロナ禍にまさかスタジオでお目にかかれるとは奇跡のようです。本当にありがとうございました。
     2022年10月17日 中島みゆき

 皮のジャンパーを贈ってくれました。その中島みゆきと長く音楽活動を共にし、僕にとっても古い友人でプライベートではよくハワイにも行った瀬尾一三とのつきあいが続いてる。その瀬尾ちゃんから連絡があった。「拓ちゃん」・・・先日、篠原のおかげて、「たっちん」がバレちゃった(笑)。正確には「たっち〜ん」(「ち」にイントネーション)ではなく「たっちん!」(「た」にイントネーション)がある。甘い言葉ではなく怒られるときの言葉。酔って帰ってくると「たっちん!」とお説教される。長いお説教でだんだん酔ってて気持ち悪くなる。瀬尾とかは「拓ちゃん」という。
 「拓ちゃん、今、中島みゆきのアルバムのレコーディングしてるんだけど、前の約束、中島みゆきのライブに参加して「悪女」でギターを弾く約束したの憶えている?」と連絡があった。「なんだ俺にギターでも弾かせようというのか」と答えたら「急だけれど来週時間あるかな?」僕も約束していたサプライズができなかったので気になっていたけれど「俺もリタイアを表明してギターとか楽器を手放したので手元にないんだよ」。そしたら「古川望」がいるじゃん、彼にはつま恋2006もやってもらったし、古川のギターも好きだし、当日呼んでギターを持ってこさせて、こっちは手ぶらで行こうと言う算段をした。「OK拓ちゃんはいつもどおのり手ぶら出来て」と言ってきた。いつもどおり(笑)

 当日、渋谷のスタジオ…ここは僕も使っていたところで、ああ〜みゆきはココを使っているのかと思いながら向った。入っていくと中島みゆき廊下で立って待っていてくれた。すぐわかった。年齢的には若くはないけど「ああ、みゆきだ」と。坂崎とオールナイトニッポンをやっていたころ2014年、その時も瀬尾一三とゲストに来てくれた。「悪女」は誰も歌えない、瀬尾ですらも歌えないという放送をして以来だった。
 「元気だったか」と廊下でハグした。ジジイとババアのハグ(笑)。
 瀬尾ちゃんの書いた譜面を貰ってギターがDフラット・・・こんなコード普通ないだろ。中島みゆきはそうらしい。「譜面書きなおせ」と直させて、そしてギターを弾いて・・・  曲名は忘れた(笑)。
 すごいシンプルで面白い詞だなと思った。あいみょんの影響で女の人が観た男女関係は社会観が違う。とっても新鮮でこっちが正しいと思えてくる。岡本おさみと松本隆の男と女の詞は男目線だなと思う。そういえば昔、安井かずみに時々、アンタの詞は女の事をわかっていないと怒られた。いや俺じゃなくて岡本おさみの詞だよというと「女はこうじゃない」と言っときなさいと(笑)。女性の詩が面白い。みゆきの詞も独特の世界感があった。
 サビのギターを弾きながらアレンジにいろいろ言いたかったけど言えずに、せめて瀬尾に後ろで俺とオマエでバックコーラスいれたらどうかと提案した。高音部は俺が入れとくからあとで低音部に瀬尾ちゃんもコーラスで参加してくれということで、今度の中島みゆきのアルバムには瀬尾と拓郎のハーモニーのセッションがはいっている。アイツももともとギター弾いて歌っていたんだよね。「愚」というグループで歌っていた。  
 タイトルはわからないが聴けばわかる。そういう思い出が出来た。さっきスタジオで写真を撮ったがウェアと手紙をいただいて中島みゆきともいい思い出をつくれた。僕の音楽人生ah-面白かったと言えることを素直に喜んでいる。
  
〇今夜も自由気ままにお送りします、吉田拓郎のオールナイトニッポンゴールド

 いよいよ今月と来月であと二回の放送。二年間くらいかな。コロナ禍なので殆ど自宅だったが、あれはあれで楽しかった。自宅で番組を作るというあんな体験ができたのは、自分途中でトイレ行ったり、飲んだり、宅急便が来たりして楽しかった。

 ラスト近くになってゲストに逢いたいということでイマジンスタジオを特別に貸してもらって、Kinkikids、あいみょん、菅田将暉、篠原ともえ、そして本当は稲垣来泉に会いたかったな。いずれにしても若い人たちと話をしたいと思った。ベテランの中島みゆきもそうだし、いろんなミュージシャンの古い連中とのセッションをという話もあったけれど、それはどこでもできるし、連絡もとりあっている連中もいるのでここではやりたくない。若い人と話すことを選んだ。

 今月と来月はフリートークをしたい。最後なので秘蔵音源を今月一曲、来月一曲と考えている。あと弾き語りとかいろいろ弾いてみたけど・・・こういうのとか(ガラスの言葉) を鼻歌っぽく、・・・鼻歌といえばライブの映像も完成したこととかを後で話す。

 75年の初物、本邦初公開。僕には生涯忘れられないイベントだった。内容は音楽的にもいろいろ問題はあってもイベント…イベントなんて言葉は当時はなかった。参加したみんなも歌っているこっちも演奏する方も主催者も全員が初めての体験だった。予想のできない空間だった。松任谷と一緒にやった懐かしい曲、「知識」。

M-1   知識   吉田拓郎(つま恋1975)
                         (元気)
(CM)

 今年「ah-面白かった」を発表をして、それを受け入れていただいて、作った甲斐があったと満足感たっぷり。この9曲を映像としてライブでやりたかったという思いが募ってきた。ストリングスとブラスを入れて生でやりたいと思って、エイベックスの竹林くんに相談したら、やりますか!と快く応じてくれた。

ライブの雰囲気にふさわしいメンツを武部・鳥山と選んで、ギタートリプル、キーボードダブル、チェロとかよりビオラとバイオリン7,8人で、ブラスも入れようと相談をした。
 リハーサルを一度やってイケそうだったので、よし録ろうということになった。秋の風も感じる頃、フジの湾岸スタジオ、LOVELOVEの収録で使ったあのスタジオを二日間借り切って危険を避けるために無観客でセッションしてその映像も収録した。
 実にリハを含めて三日間。貴重で有意義なバンドのセッション。楽しいな。生でやる喜び、これを超える喜びはない、俺はこのために生まれてきたんだと思うくらい楽しい時間を過ごした。

 ブラスとストリングスによって、ソウルフルでファンクなステージングとなった。生だと違うな。
 それにプラスして弾き語り・・・弾き語りを聴く気にならないのは、音楽的にすげー弾き語りが日本にいないから。シンガーソングライターにはうまいギターを弾くヤツはいない。弾き語りというかそれっぽいものを弾き語りで練習した。(ガラスの言葉、風邪、旅の宿を実演)。指がちゃんと動いていないのがバレバレだ。
 行き着いたのは「旧友再会フォーエバーヤング」を三拍子でやってみて、それから
「慕情」・・・こういうのを二曲やってみて「慕情」が出来がいいのでこれ行こうということになって、その場で譜面を書いて、鳥山・武部・渡辺格だけスタジオに残して、あとは帰っていいということで歌った。
 ギターは拓郎ツウならご存じのギブソンのJ-45・・・加藤和彦から貰ったギターを今回持って行った。最近、あまり音が鳴らなかったのが、スタジオで調整してチューニングしたらちょっといい音がした。やっぱりオーラみたいなものがあったのでJ-45も燃えているんではないか。
 テイク1で一発の雰囲気もの。ギブソンのJ-45を弾いている吉田拓郎が観られる。このギターは、フォーク歌手のドノバン・・・トノバンじゃないよ、その本家でイギリスのボブ・ディランと言われていたけどそうでもなかった。でもギターがいい音しているなこういうドノバンみたいな音がするものあるのかなと加藤和彦に話したら、1週間くらいしてそのギターJ-45を入手してくれた。「これはあの音だ、低音域がぐっとくるね」。アコースティックの音色だった。
 歌がね、力をいれずに鼻歌でリキを入れないで歌って、佳代に聴かせたら絶賛で、こういう拓郎っていいよねと言われた。これイイじゃないか。

 12月14日の発売でタイトルは「「Live at WANGAN STUDIO 2022 -AL"ah-面白かった"Live Session-」。是非もう一個思い出作りをみんなとしたい。生涯愛して欲しいな。やっぱりライブでやるとド迫力だ。特にホーン・ブラスで「アウトロ」が凄いことになっていた。アルバムよりもアドリブやギターソロも長い、ストリングスもたくさんいれたので豪華版な映像を是非期待してください。みんな自由に演奏してやり終わって、帰ろう、やり尽くした!という感じで楽しく演奏している。

M-2   together   吉田拓郎   スタジオライブから

(CM)

<今はアメリカだが広島大学病院に赴任することになったが、皆実町あたりに住みたいが、思い出話はありませんかという投書>
 広島はカープ好きすぎる、王さんのホームランで立ち上がった瞬間にアタマ叩かれたことがあった(笑)。引っ越し案内を頼んでいるのか。皆実高校は母校、皆実高校のとなりに広島県立工業高校、略して県工、その向かいに私立の女子高で進徳学園というのがあって、今は進徳女子高校・・・ネットで調べたんだ(笑)。皆実高校は進学高校で勉強しろという高校で女子はガリ勉タイプが多くて男の子としてはツマンナイ。進徳学園は高校卒後は就職するのがメインで派手なタイプの子はいなかったけど間違いなくオトナっぽい。いいねぇ戻りたい。あの子と映画行きたいな、喫茶店いきたいね〜というのが進徳にはあった。

 実はその後ロックバンドをやるようになって、ガールフレンドの一人や二人いなくちゃという感じになった。ビートルズだってそうだよ、特にリンゴはモテたかっただろう(笑)
 その進徳のバスケット部の子がいて母の茶道教室に通っていた。青春の汗という感じで放課後にお茶の稽古にやってきて、終わると夜の七時になるのでオフクロが「拓ちゃん 送ってあげなさい」ということで、暗い夜道を送るんだけど…僕は嬉しい(笑)。自転車で ゆっくりこぎながら、サドルのうしろに彼女の学校鞄をのっけて二人で帰った。ある時「おにいさん、今度東京に行っちゃうんでしょ、音楽に挑戦するってお母様(先生)が言ってました。応援しています。」…おい、おい、おい、名前が思い出せない。僕は彼女とは違う想いを抱いている(笑)。皆実町、素敵なところよ。俺にとっては青春真っ只中よ。名前は憶えていないけど野性美のあふれる子だった。思い出す汗ばんだ彼女。どんな彼女だ(笑)。

<身構えずにこれからも気軽に帰ってきてという投書>
 ツアーはもうやらない、アルバムのレコーディングもいい、一生懸命やった、ラジオは長い間やらせてもらって。ラジオがやっぱりピッタリくる。持って生まれた感性、テレビは一生懸命やったけどあまりうまくいかなかった。ラジオは好きだったな。このラジオも卒業しようかなと思っている。
 それ以外で、あれやれ、これやれといろいろメールで言ってくるが、不思議だな。ラジオ、テレビ、アルバムなくても、それだけじゃなくてもやることいっぱいある。物事はやってみなきゃ、生きてみなきゃわからない。私は今日まで生きてみましたって歌っている人がいたでしょ。わかんないよ。人生はいくつになってもわからない。これからも生きてみる。この女性はウソなんじゃないのということでこの歌を作った。

M-3  永遠の嘘をついてくれ  吉田拓郎 中島みゆき

〇11時

 ♪時が経ってしまうことを〜 この曲の規制がかかっていた。長いことこの「ペニーレインでバーボン」はもちろんオンエアされないし、発売されることもなく割愛されて、この曲が入っていないアルバムが巷に出ると言う異常な事態が長く続いていた。
 ところが発売元から通常のもとどおりのラインナップで「今はまだ人生を語らず」が再発売できるということになった。僕的にいうと時間かかりすぎたね。70半ばまでずっと待っていたけど、時間がかかりすぎ。
 もともとの「ペニーレインでバーボン」の一節が、悪意に満ちた歌詞ということは  ありえない。日常の会話の中からしか歌を作らないし。ツアー先で唄っているところに  楽屋に来た数人がどういう意図で歌っているかはわからないけど人を傷つけていることをお気づきですかといわれた。納得はできなかったけれども、そういうことならば歌うべきではないな。100%お蔵入りという決断をした。そういうことを知らずに歌ってきた僕はのんきだったというばのんきだし、他人が傷ついているとは思いもしなかった。
 それでも元気なうちに呪縛が解けるのは素直に嬉しい。(拍手) 胸を張って生きて行ってほしい。バーボンさんの気持を歌っている。

M-4  とんと無沙汰   吉田拓郎  (NHK 101 ライブ)

(CM)

 さぁ久しぶりにやってみるかな。ギターで弾き語りが好きじゃなくなって、ネットで弾き語りやってるのを観ると何が楽しいんだろう、他人のことだから仕方ないけど。セッションしたらいいのにと思う。

M-5   金曜日の朝     吉田拓郎
 ♪背中丸めて歩くたび〜口笛

 口笛ができない。懐かしいね。あれだよ、ズズ=安井かずみが当時の僕の生活ぶりを描いた。彼女は僕の実生活をよく観てくれていて、後ろからアドバイスしてくれて「ひとりになっちゃえよ」とか言ってた女性で(笑)、よくわかってくれていた。
 原宿あたりで夜な夜な遊びまわっていた生活をしていた俺をズズが脚色して書いた大好きな曲。僕の私生活については、ズズとかまやつひろしは当時の実情や苦しんでいたことを知っていてくれた唯一の先輩二人だ。背中丸めて〜原宿・表参道を思い出す。かかとつぶした運動靴、夏を歩いた白い靴がなくなった、洗いざらしのブルー、残ったお金があと少し、当時の自分だな。大好きな曲なのにそんなに愛されていなかった。

 これはあれだよ。今やるとは。

M-6  青春の詩    よしだたくろう

喫茶店に彼女とふたりで入って
コーヒーを注文すること
ああ それが青春

映画館に彼女とふたりで入って
彼女の手をにぎること
ああ それが青春

繁華街で前を行く
いかした女の娘をひっかけること
ああ それが青春

SEXを知りはじめて大人になったと
大よろこびすること
ああ それが青春

さて青春とはいったい何だろう
その答えは人それぞれでちがうだろう
ただひとつこれだけは言えるだろう
僕たちは大人より時間が多い
大人よりたくさんの時間を持っている
大人があと30年生きるなら
僕たちはあと50年生きるだろう

この貴重なひとときを僕たちは
何かをしないではいられない
この貴重なひとときを僕たちは
青春と呼んでもいいだろう
青春は二度とは帰ってこない
皆さん青春を・・・・・

今このひとときも 僕の青春

 憶えているんだよ。ハハハ。エフ・シャープ・マイナー 、セブンス、これがデビュー曲だ。つまんない音楽性だな。でもギター、ベースランニングがフォークにしては変わったリズム感覚だった。

M-7   もう寝ます    よしだたくろう

 音楽性ゼロ。これで満足していたら今の自分はない。コミックソングを聴きに来ていたのかな。こういうのは音楽的じゃないなと思うようになっていた。

 そして当時の吉田拓郎は凄いなという曲。

M-8  ガラスの言葉    吉田拓郎

 こういうギターがウマいな。エフ・シャープ・マイナー からディミニッシュ、こんなの使う人いなかった。もう一曲、練習しているのがある。

M-9  風邪   吉田拓郎

 今度、練習してくる。今月はここまで。

(CM)

<ライブリリースありがとうございますどうして湾岸スタジオなのですか?という投書>
家から近い(笑)。レコ―ディングスタジオでは、今回映像チームもいて多かったので   密になるので、できるだけでスペース広い場所ということでここにした。録音、映像のできる場所ということで、映像を何度か観なおしても、ここのスタジオが、ちょうどセッションにいい広さだった。

<弾き語りが嬉しいという投書>
 リクエストは知ってんだよ、君らの曲の選択は。  
  ♪祭りのあと
 こういうのをやるわけがない。暗いな。どんよりしてくる。よく歌っていたなと思う。
裏をかいてといろいろとリクエストしていたが歌うワケがない。

<徹子の部屋に出演した原由子さんが拓郎ファンだという投書>
 知らないの?有名な話だ。最初の俺の結婚のとき枕を濡らして泣いたって本人から聴いた。サザンのデビュー間もない頃、当時は僕にもメディアの取材が来ていたので、その際に僕は、桑田佳祐の音楽、詞の世界、日本語をくずし、笑ってもっとbaby、素敵にon my mindとカタカナをうまくいれていること、それまでの60年代70年代のフォーク・ニューミュージックとは全く違っているところを、よくホメていた。サザンは好きだと言い続けていた。
 そのうちNHKFMがラジオの特番で、サザン桑田と吉田拓郎の原坊番組を組んだ。そこの番組で、桑田からサザンの音楽を世の中で正しく評価をしてくれたと感謝状とかもらったことがある。
 その後、昔の独身のころ、生活に敗れて僕が渋谷のマンションに一人暮らしだったときに、桑田と麻布で飲んで、そのまま渋谷のマンションに一緒に帰って、音楽を聴きながら飲んで過ごしたことがあった。僕の仕事部屋に飾ってあったビートルズ「サージェントペッパーズ」のロンドンのオリジナル盤が飾ってあった。東芝EMIの知り合いのディレクターから送られたもの。桑田が「これ違いますね」と気が付いた。酔っぱらっていたし、やるよと差し上げたら持って帰った。後に、本当に良かったんですか?返しましょうか?と尋ねてきたので、それはもう君んちにあった方がジャケットも喜ぶからいい。

 その後、桑田君からテレキャスターのメープルネック、ローズウッドのテレキャスターをプレゼントされた。「歩道橋の上で」の時でこれをスタジオに持ち込んで自慢した。レコーディングにも使った。

 こうして桑田佳祐とか原坊とは、つかずはなれず、縁が続いている。彼らは、文句なしのスーパーグループだと思う。新しい曲を作り続け、愛され続けている。心から敬服する。

M-10   歩こうね    吉田拓郎

 いろんなことを考える。そもそも僕は鹿児島で喘息の持病で小3に広島に転居した。リーダーシップとは無縁で、僕が人を引っ張っていくという要素はゼロだった。むしろ他人のことを聞きながら動くという実直な子どもだった。

 東京に出て来てから田舎者扱いされるようになってから、卑屈な心根が僕を変えていった。東京中心の文化、旧態依然としたザ・芸能界、テレビ出ることがすべてという歌の世界にも反発した。もともと自分の音楽が日本で通用するかどうかのトライだったので、自分の居場所のためにアンチとか戦いを挑む・・・そこまで大袈裟ではなかったかもしないが、じっと待っているだけではダメという気持ちになっていった。
 わがままだとか、ひとり突っ走るとか、みんなをリードするというレッテルが定着した。
 泉谷しげるがテレビで「とにかく拓郎はわがままで廻りが大変だ」と言っていたが、あの4人で僕が一番わがままじゃない。4人の中で泉谷は一番わがままで真っ先に辞めちゃったじゃないか、俺は最後に社長までやった、一番普通でわがままじゃない。陽水は会社の業績には何の関係なく、新人を育てようともしなかったし、小室はいろんなことがはダメだし、泉谷は辞めたし。Kinkikidsとか若い連中なんかは、拓郎さんはわがままじゃないですよねとわかってくれる。70年代の連中は、俺をわがままだと言って自分を正当化しようとしているのではないか。泉谷、おまえは最初に一人フォーライフを辞めて一番わがままだ、・・・と言いたい。

M-11  マスターのひとり言  吉田拓郎

(CM)

■エンディング
 いよいよ来月で完結です。大好きだった女優の堀北真希さんはかつて番組にも出てくれた。その堀北さんが、ドラマの撮了インタビューで「何事も始まれば終わる」と言ったのが印象に残っている。
 僕のラジオとのお付き合いは深夜放送、パックインミュージック、バイタリスフォークビレッジから始まって長かった。その後もセイヤングやいろんな深夜放送をやって、文字通りラジオに助けれられて、ラジオが育ててくれた。ラジオが一番の友だったと思う。

 ラジオには見えない何かがある。テレビはみんな見えているから面白くない。どんな恰好で喋っているかもわからない。本当ではないかもしれない。リスナーが想像する部分がある。フォーエバーラジオ。秘密があることがチャーミングである。

 時代は変革しいろんなものを押し寄せて、かつて大人信用できないと言う反発があったが、今は自分がその対象になっていて信用したくない側にいる。これも始まれば終わる。

 ♪古い水夫は知っているのさ、新しい海の怖さを

 自分で20歳の時にこんな歌を作っておいてなぜ今ここにいる・・・反省します(笑)
さて来月12月16日、特別なことはしない。自由にセッションしたい。

M-12    アウトロ    吉田拓郎

☆☆☆思いつきと感想☆☆☆☆☆☆

☆中島みゆき登場。ここのところ潮の流れが松任谷家に向っていたところ、大きな揺り返しが来てみゆき・瀬尾タッグの波が返ってきた。こうじゃなきゃ。大きな暖流と寒流がぶつかったところに吉田拓郎は君臨するのだ。いみふ。拓郎とみゆきの二人のハグは誰かちゃんと写真・映像におさめてくれたのだろうか。
 ここに来てバック・ギターの約束が実現して良かったが、私たちの目にふれるものではなかったことが残念だ。幻の新宿文化センターよ。

☆つま恋の「知識」。いやぁああ。いいねぇ。なんてクリアな音なんだろうか。トラックダウンしたのかな。あるところにはあるんだね。何の問題もない。それにしても秘蔵にしておく意味がどこにあるのだろうか。もういいじゃないか。
 すばらしいテイクだ。この松任谷の「知識」が、78年のツアーを経て、79年のTOUR&篠島つながってゆく。75 to 79 と2つの「知識」の旅を思う。

☆「Live at WANGAN STUDIO 2022」。あの素敵なジャケ写を観てツウな同志は、J-45だと狂喜していた。さすがだ。それにしても3日間で完成したのか。声も良く出ていて、ワイルドでゴキゲンに勢いづいているtogetherを聴くと、いてもたってもいられない。Youたちこのままツアーに出ちゃいなよ。と言いたくなる。誰だよ。

☆あれやれ、これやれと言いたくなるのがファンというものだ。リタイアという決意を受け入れながらも明日につながる道を考え悶絶してしまう理不尽な人間たち。それをファンというのだ。それがなければただの通行人だ。通行人はレコードも買わないしDVDも買わないし、せいぜい「あ〜フォークの吉田拓郎だ」と言って通り過ぎる。
 愛に胡坐をかくつもりはないが、何もかも愛ゆえのことだと思ってくれ。

☆ともかく2023年、拓郎も私達も生き続ける。生きてみつづける。生きてみなきりゃわからない。それしかない。区切りをつけずに明日を信じてまいりましょう。

☆「ペニーレインでバーボン」。あらためて拓郎の長かった想いを知る。その経緯を聞くだに納得できなかったり、いろんな複雑な思いはあるが、この歌を社会的な論争の土俵という主戦場にすることは忍びない。そういう想いもあったのではないかと思う…これはまったくの推測だ。とにかくよかった。無事な帰還をお祝いしたい。

☆弾き語り。俺は「祭りのあと」を聴きたいとは思わないが、だからといって、聴きたいのは今夜のこれじゃない。「もう寝ます」、メロディとかキーも違っていなかったか。「今夜は星空」とか「六本木レイン」とかで打ちのめされる覚悟でいたのでいささか拍子抜けだ。それで「風邪」を1か月かけて待つと言うのか。弾き語り嫌いならやんなきゃいいよ。

☆「拓郎VS桑田」と「拓郎105分」が混交している気がしたが、確かに最初はキワモノと世間が思っていた桑田佳祐に対する拓郎のいち早い高評価は忘れられない。反対にあの桑田佳祐が一目置く吉田拓郎ということでファンとしても助けられたことが多かった気がする。お2人のいい関係は嬉しい。
 ただし「拓郎105分」でヘラヘラしていた桑田が最後にマジになって「僕は拓郎さんにカナディアン・バックブリーカーを決める自信があります」と不敵に宣言した時、俺は背筋が凍ったのを憶えている。油断は禁物だ。

☆ここに来て泉谷との戦争勃発か(爆)。最近は観るたびに泉谷しげるの吉田拓郎への愛の深さが胸にしみているので、お願い、どうか仲良くしてね。行くんもとどまるもそれぞれの道なんよという歌があるじゃないか。


☆拓郎にとってラジオが大切な存在だったということは、ファンの私達にとっても切実な命綱だったのだ。あらゆる意味で感無量だ。あらためてラジオというものに感謝をささげたい。

☆☆☆今日の学び☆☆☆

「始まれば終わる」は堀北真希の言葉だったのか。私の好きな言葉です。
                           メフィラス拝

2022. 11. 11

☆☆☆君がいればもう何もいらない☆☆☆彡
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…ああ、カッチョエエ。この美しいたたずまい。もう他に何も要らない。…いやいろいろ要ると思うが、この写真を見ている限りはこのカッコ良さ以外何もいらないと魂の底から思う。

2022. 11. 10

☆☆☆You don't have to worry☆☆☆
 いつもの道を歩いていたらこんなユーミンのオブジェに出逢った。いいなぁ。吉田拓郎にもこういうのを作って原宿駅とか表参道駅とかに置いとくれよ。高円寺でもいいよ。なんだったら手っ取り早く深夜に忍び込んでこのユーミンのオブジェを全部吉田拓郎のジャケットに換えてもいいですぜ。ユーミンだったら怒らずにOK松任谷と言ってくれそうな気がする。>言わねぇよ!
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2022. 11. 9

あなたに捧げるベスト5
(16) 今日のお題 答えは風に舞っているベスト5 
 「吉田拓郎といえば「風」でしょう」とお会いしたことはない同志の拓郎ファンの方からずっと言われていた。御意。「僕は生きようと思う。もっと風のように…」(「俺だけダルセーニョ」P.233あとがき・集英社)。風と拓郎。まさに不即不離ってやつだ。 
 しかし考え出すと「風」の歌はメチャ数が多く悩ましい。街とかシーズンとかダイアローグとか時代とか提供曲にしても風の中、風の中で、季節の風の中でと三段活用みたいにいろんな風が縦横無尽に吹きまくる。どれもがいとおしい曲なので、作詞別とか提供曲別とか分けようとも思ったが、そんな姑息なことはすまい。とにかく直覚でベスト5のカタマリを一択だ。
  

@マラソン

    僕はあの時風になり
    大空をくるくる回りながら
    このまま死んでしまいたいと
    またひとつ小さな夢をみた
 
 この風が胸に迫る。「いつの頃からか(僕は)風になってしまいましたね」「あの時僕は風になったという歌を作ったんだけどさ」…83年の春に「行き止まりまで走ってみたい」というラジオでのインタビュー番組で拓郎は語った。「マラソンていう歌の哀しさってありますよね」と田家秀樹の相槌があった。吉田拓郎の風って何なんだろうね。わかったようでわからない。しかしこの歌に結晶化されている気がする。「そこに止まったり、走り出したり、結局はフラフラフラフラと流れてゆく。」とそんな風に語ってもいた。生き方の体感みたいなものか。
 
A風の街
 山下達郎をも唸らせた"かぜぇぇぇ〜がぁぁ運んでぇしまう街〜"。ドラマ「あこがれ共同隊」のテーマのバックの映像=晴れた日の原宿の景色が浮かぶ。この清々しいメロディー自体がもう風を体現しているんだよ。この清々しい風が2007年の最後の全国ツアーの「18時開演」のインストになるともう万感胸に迫るものとなる。さまざまに吹いた風の歌たちのエンドロールのような感じで、これはこれでたまらん。
 
B風になりたい
 多くのシンガーたちの素晴らしいカバーがあるが、やはりそれでも川村ゆうこが一番素晴らしいと思う。あのふてくされたような歌唱にも魂がこもり、美しいメロディーと拠りあっている。そして忘れちゃならないのは松任谷正隆の穏やかに風を巻いていくようなアレンジの素晴らしさだ。わりと最近になって川村ゆうこご本人のライブで何度か聴かせていただいたが、大切に歌いこまれていて熟成した魂を感じて泣けた。やっぱり一番いい。それにしてもさ、拓郎さんあなたのセルフカバーってばもう…(略)。

C5月の風

   5月の風に逢いたくて
   心の窓をあけてみる
  
   夏に向かう雲たちよ
   先に言ってくれないか
   あの人の事をもう少し
   考えていたいから  

 風は過去から未来、現在から過去にもしみじみと吹き渡るものだと感じる。吉田拓郎の風は祈りでもあることを教えてくれる。この歳なれば誰にでもきっと「あの人」がいる。大切な風の詞を残してくれた。それにしても安井かずみも加藤和彦も天に行ってしまったんだよなと無常を感じる。

Dカンパリソーダとフライドポテト
     
   風にまかれる人生がある
   たくましさだけで疲れるよりはいい

 高校生の俺には衝撃的なフレーズだった。たくましくなんかなくていい。風にまかれればいい。そっちの方がずっといい。そんなことを言ってくれるオトナは皆無だった。

    崩れかけた砂の家で
    木の葉のように
    舞うだけ舞えばいい

 そして極北を旅立つ二人が風に翻弄されるなら翻弄されてやろうじゃないかと覚悟を決める。ここを聴くといつも不思議な勇気を感じる。
 場違いの話かもしれないが、昔、学生の時に読まされた中江兆民の『三酔人経綸問答』の一節「剣をふるって風を斬れば、剣がいかに鋭くても、ふうわりとした風はどうにもならない。私たちは風になろうではありませんか。」…ここを読んだときに、ああこれは吉田拓郎だ!と思わず膝を打った。これに近いと言えば近いかな。

 ということでとても5曲で尽きるわけがない。六本木のシュバイツァー先生の心の言葉を思い出す。「拓郎さん一度でいいから本物の風ってやつを見せてくださいよ」(俺だけダルセーニョ・P.81)。
 …見た見た。見せてもらった。よくわかっていないしまだまだ見届けたいけれど、それでもしっかり見せてもらったよ。

 ということでいよいよ今週ラジオだ。ラス前の貴重なる一本だ。風はどこに吹いていくのだろうかね。

2022. 11. 8

 さすがに毎日毎日、拓郎ベスト5、いい加減くどいと思う。なので今日は拓郎の作品ではないベスト5ということで拓郎の歌から離れてたみたい。

あなたに捧げるベスト5
(15) 今日のお題 えっ?拓郎じゃないのかよベスト5 
 これは拓郎の歌だなと思ったら実は違ったという経験はおありではないだろうか。これだけ拓郎節が世の中に浸透し、もちろん自分も吉田拓郎にイカれていると、そういうメロディーの空耳ともいうべき状態がしばしば発生する。そんな「えっ?拓郎じゃないのかよ」ベスト5。…離れてないじゃん。
 なおイカレタ俺の空耳ですので作曲者が拓郎をパクったとかマネしたとか揶揄するものではありません。ったく拓バカの思い込みはしょうがねぇなぁと思ってご容赦くだされ。

@夏が来た!(キャンディーズ)
 中3の夏、このメロディーは絶対拓郎だと確信して周囲に「今度のキャンディーズの新曲は拓郎だぜ!」と吹聴したら違っていて大恥をかいた。「拓郎がキャンディーズの歌なんてつくるわけねぇじゃん」と馬鹿にされて一人泣いたものだ。しかし翌年「やさしい悪魔」「アン・ドゥ・トロワ」が大ヒットするのだが、そんときゃ既に中学を卒業していたので言い返せなくてホゾを噛んだ。今度中学のクラス会があったら「みてみやがれ、拓郎はキャンディーズに名曲を提供しただろ!」と声高らかに言ってやりたいが、相変わらず星くんは壊れてると冷笑されるだけだろうな。
 
A孤独なランナー(川村ゆうこ)
 「風になりたい」でデビューして、そうか2曲目も拓郎かぁと自然に思ったものだ。違うのか。「ああ青春は〜孤独なランナー」、拓郎の歌を歌っているような爽快感がある。「ああ青春は〜燃える陽炎か〜」の松本隆の作詞だ。
        
Bノクターン(梓みちよ)
 これを聴いた時「メランコリー」の続編を拓郎がついに作ったのかと確信した。われらが常やんの作曲なので親和性がある。姉妹作と言ってしまっていいのではないか。「アタシに何ができるというの〜」この展開が「それでも乃木坂あたりでは〜」といい意味で似ていてそこが嬉しい。
 
C半分少女(小泉今日子)
 「拓郎さんが出てきた時は大変なことになったと思った」と筒美京平は語った。天才
筒美京平をそこまで追い詰めた男。しかし京平先生がそこで終わるわけがない。拓郎節を自らの中に摂取しようとしたものと確信する。小泉今日子の一連の楽曲は、筒美京平が拓郎節を自らに取り込んで同化し血肉化してゆく大いなる実験場となっている(気がする)。「真っ赤な女の娘」「半分少女」から始まって「夜明けのMEW」あたりで、拓郎節より出でて拓郎節にあらずという見事な同化が完成する。映画「遊星からの物体X」みたいな感じ?知らねぇよ。ともかく筒美京平おそるべし。

D酔っぱらっちゃった(内海美幸)
 演歌じゃないかと拓郎は怒るかもしれない。拓郎は音楽ジャンルの境界について「俺はフォークじゃない」に次いで「俺は演歌じゃない」をよく口にする。これだけ繰り返すということは、裏を返せば、フォークや演歌との国境線が危くなっていると思っているからではないか(笑)。酔っぱらっちゃった〜のメロディー展開と節回しがもう実に見事な拓郎節…って浜圭介先生すみません。

 心の底からどうでもいいでしょうが、明日でこの連載は第一部おしまいです。そろそろラジオなのでそこに気持ちをもっていきたいです。なんたってあと2回だもんね。
 書きたいベスト5はまだ山ほどあって無理に絞り出しているつもりはないのたが、確かに内容はどうなんだろうね(爆)。まぁいいや最後じゃないか。とにかく12月14日,21日までごきげんでまいりましょう。

2022. 11. 7

あなたに捧げるベスト5
(13) 今日のお題 ベスト5 
 
 犬とくれば猫なのだが残念ながら拓郎は猫が嫌いらしい。グループの「猫」ではない。ホントの猫。なのでサラリとまいろう。
 
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  山本コウタローのパートナー吉田真由美の「Oh!MyCat」(八曜社)より。猫嫌いの拓郎の逸話が結構面白い。

 @君も猫のように寝息たててる
   (サマータイムブルースが聴こえる)
 A春の猫は庭をかけて
   (とんとご無沙汰) 
 B猫のマネ、イジイジしてる
   (ありふれた街に雪が降る)
 C昼は無邪気な猫の瞳が
   (まるで大理石のように)
 D海猫みたいに寂しい瞳で
   (聖・少女)

  お〜っとココで「海猫」は「猫」じゃない「カモメ」みたいものだろと物言いがついた(誰の物言いだよ)。それじゃあ「クロコダイルにブラックパンサー(七つの夜と七つの酒)」…黒豹=ネコ科ということでどうだろうか? ホラ「昼は無邪気な猫の瞳が振り向く夜に豹の眼になる」と松本隆先生もおっしゃっているではないか。

2022. 11. 6

あなたに捧げるベスト5
(13) 今日のお題 「犬」ベスト5 
 吉田拓郎が戌年だからか拓郎の歌の中で犬は意外に結構大切である。ということで今日は「犬」ベスト5。

@野良犬

  のら犬だって涙はあるさ
  一度愛されれば飼い主をわすれない
        (野良犬のブルース)

 正直に言ってこの歌はアルバム「青春の詩」を聴くときスルーしていた曲だった。そんなことってあるだろう君たちだって。しかし最近になって拓郎は「俺はフォークじゃない、もともとはR&Bなんだ」と力説するときにこの歌が引き合いに出されることが多くなってきた。幻の大阪ラストツアーでは演奏したいとも言っていたが、そもそも物心ついた時からライブで演奏された記憶はない。ということでこの曲を邪険にしてきた俺がひれ伏すようなライブバージョンを魅せて欲しかった。俺も野良犬だから、飼主の吉田拓郎を忘れまい。…もう一曲あった。

  やさしい夕暮れ
  賑わいうすい船着き場には
  ああもう野良犬が住み着いた
             (竜飛崎)
 どてっ腹をぶち抜かれちゃったね。ということでもろもろ敬意を表して第1位。
…そういえば昔、普通に野良犬っあちこちにいたよね。よく考えると危ないよね。昭和は輝いていたとばかり言ってらんないよね。
 
A半世紀生きた犬

  今日二度目にしたことは砂を吐いて
  横になって休んでいたんだ
  半世紀生きた犬の気持で 
       (たとえば犬の気持で)

 鈴木慶一の手になる不可思議なリズムの不可思議な曲なのだが妙に心に残る。なんか歳をとるたびに切なく実感が湧く。半世紀生きた犬は人間に換算すると200歳以上にあたるらしい。もう100万回生きた猫の世界だな。どういう世界だ。

 さあ昨日より遅く だけど遠くまで 行けるかな
 夕暮れを味方にして 西へと

 ちょっと元気がでるんだよな、このあたりのフレーズ。        

B白い仔犬

 白い仔犬を抱き上げる君はちょっぴり幼くみえる
                     (風の街)。
 聴く人の頭の中にそれぞれの「君」と「仔犬」の眩しいイメージが浮かぶに違いない。このご時世だが正直に言おう。俺の場合はガチ桜田淳子だ(爆)。ああ、たまらん。ドラマ「あこがれ共同隊」は、彼女が映画「スプーン一杯の幸せ」で"ひとり歩き"を歌っているころとほぼ重なる。ah-可愛かった。スプーン一杯の幸せというば落合恵子レモンちゃん。やつぱ昭和は良かったかもしれない。今、令和はどーんな幸せなのかしら〜。


C柴犬

 赤トンボ追いかける子のあとを
 コロコロと柴犬が追って転がる
         (ハーモニカの詩)

 この情景がイイ。「仔犬」と書かずに仔犬を表現してしまうところ、やっぱり阿久悠ってすごい。松本隆が洋食レストランのシェフだとすると阿久悠は和食の高級料理人という感じがある。岡本おさみは絶品料理を繰り出す居酒屋のおやじなんだよな。勝手なイメージですまんな。

D路地へともぐりこむ負け犬

  闘えるだけでいい すべてを燃やせ
  負け犬になったら路地へともぐりこめ
             (証明)
 いい。「証明」のここが凄くいい。こういう拓郎のやさしさというか魂の発露に惚れるのだ。ああ、こんな曲もあった。

  負け犬になんかなりたくなくて
  牙を剥き立ち向かう
                (若い人)
 次点は「働く犬」。「働く犬じゃないんだそうよ俺もおまえも人間なんだとよ」(ジャスト・ア・ローニン)。とにかく昆虫だって犬だって、生きとし生けるものすべてに拓郎の歌は捧げられているのだ。

2022. 11. 5

あなたに捧げるベスト5
(12) 今日のお題 私も今また船出の時ですベスト5 
 コロナ禍だったり歳をとったりで、さあ旅に出るぞ!という「船出感」には,とんとご無沙汰だ。"旅に出ろ出ろ若いんだ君らは,操り人形じゃあるまいし"(わけわからず)とかつて拓郎は歌ってくれたが、"旅に出ろ出ろ歳とった君らも,置物人形じゃあるまいし"とか歌ってはくれないか。せめて心の中に旅立=船出感が欲しい。そんな船出感ある歌ベスト5。

@7月26日未明
 "荷物をまとめようとしなくても その中のひとつだけ携えてゆこう!"…かっこいいな。3か月前から荷造りするという拓郎さんの言葉とは思えないが…船出はこうありたいと憧れる。
  だけど船はまだ港の中 乗り遅れそうなのは誰?
  間に合うさ 間に合うさ 遅すぎることはない
「間に合うさ」「遅すぎることはない」という言葉がいつもどんなに心強く背中を押してくれることか。
A落陽
 "苫小牧発仙台行"地味すぎる航路にもかかわらず愛と怨念が鳴門の渦潮のようにあちこちに無数に渦巻いている。いろんなバージョンあれど「船出」というとやはりライブ73には孤高で静かな船出の感じがあってイイ。後のバージョンになるともう最初からガンガン飛ばすぞと手ぐすねひいている感じで出航というより出撃に近い。船出はやはりoriginalなのだ。
B月夜のカヌー
 若いころは考えもしなかったが、最近齢をとると古い水夫はもう船出はできないのだろうか。いや、ひとりでカヌーを漕げばいい。
  月夜のカヌーで夢の続きへ漕ぎ出そう
  月夜のカヌーで生きをひそめ漕ぎ出よう"
 …深い答えが用意されていた。
C錨をあげる
 若いころは考えもしなかったが、古い水夫はもう船を降りなくてはならないのだろうか。
  抱えきれない想い出に 導かれ
  抱えきれない沈黙に 導かれ
  遠く聞こえる 声のところへ
  錨をあげる
  …それでもモヤイ綱を解いて錨をあげよう。60歳を過ぎた拓郎からのチカラ強い歌声が待っていた。
Dほ・ほ・え・み(五十嵐夕紀提供曲) 
 ホントは5位は”悲しみ川に漕ぎ出そう”という「世捨人唄」にするつもりだったが、それではいくらなんでも岡本おさみが過ぎる。そうお嘆きの貴兄のために松本隆作品を探した。オールを無くしたボートとかそういうのしかない…はっ、あった。
  風に煙った水平線に
  白いフェリーがあなたをさらう
  竹芝ふ頭 白いテープを投げる人さえ 今はいない
  10月10日台風まじか
  無事に着いてと心で祈る
 いいじゃないか。ということで五十嵐夕紀提供曲で松本隆作詞の「ほ・ほ・え・み」に。

 新しい海の怖さを知ったなら、知ったなりの航海があると信じて何度でも船出してまいりましょう。出発だ。さぁぁぁ今、飛んでゆけぇぇぇ。違うよな。ともかくどうか良い旅を。

2022. 11. 4

あなたに捧げるベスト5
(11) 今日のお題 昆虫ベスト5 
 昔ラジオで何度かやってくれのだが吉田拓郎は「ツクツクホウシ」の鳴き声のマネがうまい。また少年の頃トンボをとろうとして肥溜めに落ちた逸話も有名だ。関係ないがユーミンは武部聡志に初めてあったとき「コイツ、カマキリみたい」と思ったと言っていた。僕らはみんな生きている、ミミズだって、オケラだって、アメンボだって、そう拓郎の歌の中にだって。ということで昆虫ベスト5だ。
 @トンボ
  ・あの日のトンボはどこ行った(夏休み)
  ・死に忘れたトンボ(せんこう花火)
  ・夕べ観た夕日、赤いトンボたちよ(白夜)
  ・赤トンボ追いかける(ハーモニカの詩)
 Aセミ
  ・ひまわり夕立セミの声(夏休み)
  ・近頃セミも鳴きませんね(東京の長く暑い夜)
  ・近頃セミが鳴かないことも(女たちときたら)
 Bホタル
  ・蛍の河に子どもの声(蛍の河)
  ・蛍が綺麗よ見せてあげたい(歩道橋の上で)
 C蝶
  ・風と舞い散る蝶々が(星の鈴)
  ・蝶ネクタイに銀縁眼鏡(恩師よ)
 Dみずすまし
  ・みずすましみたいにスイスイと(青春試考)

[選評]
 トンボ強し。アアしあわせのトンボよ〜、よしなさい。セミは3曲だが「東京の長く暑い夜」と「女たちときたら」を2曲分としてカウントするのはどうかという批判(誰がしてんだよ)、蝶の2曲のうち蝶ネクタイはどうなんだという意見(だから誰が言ってんだよ)も勘案して、2位はホタルになった。「蛍の河」「歩道橋の上で」どちらも不動の名曲であることからいいおさまりだ。3位がセミで、同率4位でみずすましと蝶が並ぶ結果となった。しかし接戦であり、まだ取りこぼしがあるかもしれないのでまだまだ油断できない。ってコレで緊張している人がいるのかよ。
 なおちなみに「時はサソリのように」のサソリは昆虫ではないそうだ。 

2022. 11. 3

あなたに捧げるベスト5
(10) 今日のお題 星よりひそかにベスト5 

 それでは作詞家チームはどんなもんだろうか?

@ガラスの言葉 (及川恒平)
 "ミルクウェイ"…ああ天の川。このギターの音色のひとつひとつがもう星の雫みたいだ。「元気です」のラストを輝かせる逸品。ついでにつま恋85の加藤和彦と石川鷹彦の二天王のアシストの映像を観たらもう滂沱の涙で…こりゃもう第1位。
Aステラ(松本明子)
 このサイトはテッテ的にこの曲を推す。"なんにも良いことないねと見上げた星が眩しい"、澄んだ歌詞と拓郎のメロディーのよりあいの美しさといったらない。最後に弾き語ってくれまいか。この埋もれし名曲に何か華をくれ。
B星の鈴(森雪之丞)
 "10階のテラスで暮らせたら星が掴める気がするなんて"…この歌を聴いた時に視界がサァッと開けたような感じがした。文字通り鈴がなった。拓郎、イケるじゃないかと思った。高層タワーマンション全盛の現代では10階はもはや低層界と言われるらしいが高けりゃいいってもんじゃない。「星が掴める10階」というモノサシにこだわりたい。
C 星降る夜の旅人は(岡本おさみ)
 拓郎はアウトテイクにしようと思ったというがしなくて良かったな。星に導かれるように旅する岡本おさみが永遠に刻まれたのだ。
D銀河系まで飛んでゆけ(喜多條忠)
 飛んでゆけ!ってココも銀河系だろうというツッコミを超えて愛される。"悲しみより遠くから届けられる星の煌めき" 梓みちよ、キャンディーズそれぞれにどちらもいい。身体が自然に揺れだすドラマチックなメロディがすんばらしい。

 次点は同じ喜多條忠作詞の「今夜は星空」(いしだあゆみ提供曲)の艶っぽさ、「ひとりぼっちの夜空に」(康珍化)胸キュンにも悩んだ。「まるで大理石のように」(松本隆)の"紫の空、星座は巡り 夢は西へと船を漕ぎ出す"…この部分の見事なフレーズにふるえる。ふるえながらも松本明子の下に松本隆を置く不孝を許し下さい。

 歌に勝負けや順位があるのもおかしい話だ。それでも言いたい。「星」をめぐる吉田拓郎作詞チームVS作詞家作詞チーム…吉田拓郎作詞チームの勝ち。すまんな。

2022. 11. 2

あなたに捧げるベスト5
(9) 今日のお題 星を求めてベスト5 

 吉田拓郎の「星」の歌がかなり多い。しかもおわかりのとおり粒よりの名曲揃いである。いくら一ファンのテキトーな好みとはいえベスト5を選ぶのは至難なことだ。なので「吉田拓郎作詞チーム」VS「作詞家作詞チーム」で分けてみる。今日は「吉田拓郎作詞チーム」のベスト5だ。

@流星
 両チーム合わせてもこの歌が第1位だと思う。無双。拓郎ファンの胸に輝くマークは流星、自慢のボーカルで敵を撃つ…そういう歌ではないが、存在感はそれくらいある。
A今夜も君をこの胸に
 "窓からあふれる星の数"…いいねぇ。かつてこの歌に文句を言った懺悔もこめて第2位。特に2019年オーラスが忘れられない。 この歌に送られて会場を出ながら歩くライブの帰り道の景色、たぶん死ぬ前の走馬灯で観そうだ(爆)。
Bロンサム・トラベリン・マン
 原題は「星降る街」という。トラベルミンという乗り物酔いの薬を思い出すので、原題の方が好きだ。そうさ男はというが、男だけでなく女だけでもなく老若男女すべての人類に捧げて欲しい名作。「ロンサム・トラベリン・マンカインド」でどうだ?>いみふ。
C我が良き友よ
 「おまえ今頃どの空の下で俺と同じあの星みつめて何を思う」…イイぞ。拓郎が喜多條忠に「"我が良き友よ"のこのフレーズは、おまえの"マキシーのために"から借りたからな」という話も好きだ。ちゃんとおことわりする拓郎が素敵だ。図らずもこの2曲に絆が出来る。「悲しみを抱えたままで夜空に輝くおまえの星を探すまで さようならマキシー」…いかん地下鉄の中で聴いてて泣きそうだ。
Dtogether
 星を仰いだり、夜空の星の景色の美しさを描いた歌は古今東西多いが。星からやって来て星に帰る、おまえのいる星に土産をもって遊びに行くからというこの壮大な星間移動の歌を歌えるのは拓郎しかいない。もうすごいのか、すごくないのかよくわかんないけど。おーい拓ちゃん、今どこにいるんだい。

 次点は"今夜も空には星がある 互いの命を見つめよう"の「運命のツイスト」、とにかく他にもいろいろあって悩ましい。

                     では明日にまた続く。

2022. 11. 1

 ということで12月14日、そして21日と拓郎ファンの年末の大きなマイルストーンが置かれた。その日までのスキマを埋めるためにベスト5は続く。くどいだろうか。
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 でもいいじゃないか。吉田拓郎のアウトロなんだぜ。気が済むまですりゃあいいさ。
あなたに捧げるベスト5
(8) 今日のお題 「月も今宵はなんだかいいね」ベスト5 
  秋は月がキレイだ。
    友よ君と街へ繰り出し  
    肩など組んで、ふと見上げれば 
    月も今宵はなんだかいいね
    なんだかいいね ああ ああ風の中

       (風の中・井上順提供曲 岡本おさみ作詞)
  ということで「月」が美しいベスト5だ。

@月夜のカヌー
 岡本おさみと吉田拓郎の最高傑作だ。少なくとも聴いているときはそう思う。昔から「花鳥風月」と言われるように月は鑑賞するものだが、その月夜の下で息をひそめてカヌーでひとり漕ぎ出す船出の歌だ。美しい叙景。美しいだけでなくなんか心がワクワクしてくるメロディーと歌唱。勝手ながら1位にさせていただいた。
A旅の宿
 「上弦の月」という風流をあまねくに広めてくれたのはこの歌だ。月など興味も縁もなかった私のような不粋の者でも、この歌のおかけで月を見上げ「おお上弦の月か」としみじみしたりする。ほんとは下弦の月だったりするんだけど(爆)。
Bto the moon
 厳しい現実の中で月を見上げる。何の解決にもならないが「ああ、それでも月は輝いて」これでいい。たぶんいいと思える。「月」は岡本おさみの独壇場だが、頑張れ石原信一。
C祭りのあと
 「臥待月が出るまでは」。拓郎が捨てようともこの歌は絶対捨てない。落ちてたらそのたびにちゃんと拾う。
Dとなりの町のお嬢さん
 「月夜の晩に誘われて大人になると決めたんだ」…なんかこの青さが泣ける。

 次点は「月の盃」(石川さゆり)。"空見上げれば 青々と 澄みわたる夜に 月の盃"…さすが阿久悠先生だ。メロディーもしっとりとしてイイ。しかし「長い髪は夜露に濡れて蒼い月が可愛い人のエクボの上で揺れてるよ」…こっちも素晴らしい。ということで吉田拓郎作詞の月夜の叙景を選ばせていただいた。

 月に届くほどもっと愛されたいなら 星に届けと愛すればいい…ということで、くどく、しつこくつづく。

2022. 10. 31

☆☆☆久しく待ちにし☆☆☆
"今はまだ人生を語らず"の完全復刻。12月21日、諸人こぞりて むかえまつれ。
最高傑作が廃盤という私たちの不幸がついに終わる。
 我が青春のTAKURO TOUR 1979(CONPLETE TAKURO TOUR 1979)も同期して完全復刻とな。

 ああ、生きていて、生きててよかったと。この復刻に向けて挑んでくださったすべての方々に心の底から御礼申し上げます。

2022. 10. 30

☆☆☆歌ってみた☆☆☆
 久々にカラオケに行った。"ショルダーバッグの秘密"を見つけて反射的にエントリーしてしまった。やはりメロディーや譜割りは難しかったが、歌ってみるとなんともいえない快感がある。詞の意味もあらためてよくわかった。気分よく歌った結果の採点は64点だった(爆)。そんな俺が言っても説得力ゼロだが、わが身体には、拓郎節の体感みたいなものがしみついている。ファンはみんなそうだろう。こんなにも拓郎節がいとおしい。調子にのって「ひとりgo to」、「ah-面白かった」、「雪さよなら」と機種に入ってた新曲は全部歌って、歌うたびに点数はどんどん下がっていった(涙爆)。ジャイアンか。
 しかし新曲はいいよな。新しいシャツをおろすみたいなウキウキした嬉しさがある。こんな気分を永らく忘れていた。「Contrast」があったら歌いながら泣いてた自信がある。ともかく新曲。聴いてよし、歌ってみてよし、そしてたぶん歌う姿を見てぞよし。

あなたに捧げるベスト5
(7) 今日のお題 「原宿だよおっ母さん」ベスト5 
 
 @ペニーレインでバーボン(1974)
 A風の街(1975)
 B街へ(1980)
 Cペニーレインへは行かない(1984)
 D雨の中で歌った(2022)


 これは順位というより時系列に並べただけだ。それだけで、原宿との蜜月、原宿と自分との間にできたスキマ、別れ、そして最後の回想という一連のドラマになる。その間、原宿を歩く女子高生の姿に胸を打たれて「流星」が生まれたというスピンオフも決して一曲だけではないだろう。
 聴き手にも「原宿」という特に私なんぞは殆ど縁もゆかりもない街が、こうして心の故郷のように生きてつづけている。
   おっ母さん、ここが原宿よ
   お祭りみたいににぎやかね
 確かにいつ行ってもお祭りだな。故郷は遠くにありて思うのが一番かもしれない。

2022. 10. 29

あなたに捧げるベスト5
(6) 今日のお題 「拓メシ!」ベスト5 
 
@隣の田中さんの奥さんのベーコンエッグ(加川良の手紙)
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A家を出る前の晩の泣き笑いしたお赤飯(制服)
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B暖簾をくぐってホッケ(この次はこの街で)
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Cバネの軋む喫茶店のトースト(君が好き)
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D屋台のおでん…おとうふ、ハンペン(ふゆがきた)
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※次点
・フライドポテト
・冷やしたぬき(うどん)
※選外
・下町にあるバーガーインのハンバーガー(狼のブルース)
→美味しいかもしれないけど治安が悪そう
・薄い味噌汁(東京の長く暑い夜)
→んー
・西瓜(夏休み)、甘いケーキ(この指とまれ)
→デザートだから

他にも歌の中の拓メシはあるだろうか?

{追記}
 おー「フキ」と「タケノコ」を忘れちゃんイカンぞ(爆)。ねーさん、ありがとうございます。これはいろんな意味で1位だよな。なんせ本人が一番好きと豪語しているのだ。

 「虹鱒」
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という意見も出た(爆)。いやダメでしょ。確かに塩焼きは大好きだけど「人はなんてひどい仕打ちするのだろうか」という歌そのままになってしまうので今回はご辞退いただいた。

「拓メシ!」[更新版]
 ということで更新順位は
@茎だけでなく葉っぱもとても美味しいフキ(フキの唄)
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A隣の田中さんの奥さんのベーコンエッグ(加川良の手紙)
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B家を出る前の晩の泣き笑いしたお赤飯(制服)
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C暖簾をくぐってホッケなどいいですね
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Dバネの軋む喫茶店のトースト(君が好き)
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 ということでベスト5生き残りをかけて喫茶店のトーストと屋台のおでんの戦いとなったが、拓郎ご本人が朝はパン派であり、正月も元旦からトーストだという事実から屋台のおでんが残念ながら涙を呑んだ。次回に挑んでほしい。って次回ねぇだろ。

2022. 10. 28

あなたに捧げるベスト5
(6) 今日のお題 「オイラ」ベスト5 
 私は自分のことを「オイラ」と言ったことがないし周囲にもオイラを使う人はいない。吉田拓郎がラジオやライブのMCで語る時に自分のことをオイラと言っているのも聴いたことがない。しかしなぜか吉田拓郎の歌ということになるとこの「オイラ」が頻発する。ということで「オイラ」ベスト5だ。

  @たどり着いたらいつも雨降り
  Aこの指とまれ
  Bおきざりにした悲しみは
  C人間なんて
  Dふざけんなよ


[解題] 
 @ところがオイラは何のために、やっとこれでオイラの旅も終わったのかと
 Aオイラあいつを見捨てたよ、オイラとにかく大ッ嫌いだね、オイラ気ままでいんじゃないか
 Bアイツが死んだときもオイラは飲んだくれてた
 C何かが欲しいオイラ それがなんだかはわからない、聞いてよオイラの話を
 Dオイラ話せない 誰にも話さない

 ちなみにDとほぼ同時期のE「俺が愛した馬鹿」の"都会は今日も霧の中、オイラの影は闇の中〜"が確認できた最後の「オイラ」のようである。但しライブでは2019年のラストツアーでも「この指とまれ」のオイラで燃えたのは記憶に新しい。とにかくどのオイラも結構攻めている。
 実生活で「オイラ」を使うと何かダサいし恥ずかしい。自分の場合は、昔、映画「猿の惑星」の吹替で猿たちがみんな「オイラ」と言っていたのが原因みたいだ。しかし拓郎の歌の中では違和感なくカッコイイ。どうやらこの世にはダサいオイラとカッコいいオイラがあるようだ。
 根拠のないテキトーな推論だが「石原裕次郎」あたりがカッコいいオイラの元祖なのではないか…とかねがね思っていた。石原裕次郎も普段「オイラ」なんて言いそうにないが、この人も歌になると思いつくだけでも「オイラにゃ、オイラの夢がある」(俺には俺の夢がある)、「オイラはドラマー、ヤクザなドラマー」(嵐を呼ぶ男)「オイラの背中に落ち葉がそそぐ」(男の横丁)〜と結構オイラっている。
 先日のLOVELOVEでも垣間見えたとおり吉田拓郎は裕次郎のオーラに憧れていたという。吉田拓郎は、たぶん石原裕次郎が発明した「カッコいいオイラ」を密かに継承したのではないかと思う。かくしてカッコいいオイラは歌の世界の中に生き続けているのだ。しかし拓郎リタイヤせんとする今、誰かが承継するのだろうか。次なる"オイラー"はいるのか、いるとしたら、それは誰だ。木村拓哉、菅田将暉、堂本兄弟、米津玄師…それは、それはオイラにもわからない。…案外あいみょんがサラっと使いそうな気がしない?

2022. 10. 27

あなたに捧げるベスト5
(4) 今日のお題 「白い冬」ベスト5 

  @雪さよなら
  A冬の雨
  Bありふれた街に雪が降る
  C外は白い雪の夜
  Dふゆがきた

[選評]
 第1位は「雪」≒「雪さよなら」。拓郎のラジオのおかげで、岩手の雪の中を女性ディレクターの後ろをついて歩く若き拓郎の姿とその叙景が目に浮かぶ。それにしてもデビューアルバムの中の1曲が、ラストアルバムでかくも美しく転生する。わたしたちが味わうことができた半世紀のドラマにも乾杯。
 第2位は「冬の雨」。凍てつくような冬の孤独感がしみる。「はるか大地をかけめぐる」という歌詞からきっと南極かアラスカに置き去りされたに違いない(爆)。それにしてもこのサウンドのカッコよさ。"雪の空を見上げると俺は白い風になる"…たまらん。
 第3位は「ありふれた街に雪が降る」…詞も愛らしいが、このメロディの美しさといったらない。チャーミングなボーカルもいい。雪降り詰む東京氷河期のような状況ながら、心はどこか温かくなってくる。
 第4位は「外は白い雪の夜」。冬のスタンダードとしてしっかり身体に刷り込まれている。雪が降ると原曲のあのバイオリンだかフィドルのメロディ―が頭の中で鳴り始める。とはいえこの歌のベタな男女関係が苦手だ。"シャワーを浴びたの悲しいでしょう"…って厳寒の雪の夜の出がけにシャワー浴びたらそら風邪ひくって。>そうじゃねぇよ。いつも男の影を踏んで歩く女性…どうなんだ。でも前記の「雪」「雪さよなら」は、女性のあとをついてゆく男性の歌なんだよ。面白い。ここが拓郎の歌のふり幅の広さというやつだ。
 第5位が混戦。「水無し川」…"冬将軍の足音がする"、"さらば冬枯れ痩せた畑よ"、"吹雪のあとに春の日差しが〜"ああ名作ばい。
 他方"もうじきに、もうじきに春がくるんですね"、"寒いポッケで二人の手、温めたのもお伽話ね…"という冬景色の「東京メルヘン」にも惹かれる。松本隆に偏りすぎなので岡本おさみはどうだ。果たして「襟裳岬」は"冬なのか、春なのか。"暖炉"、"温めあおう"、"寒い友達"という冬モードと"何もない春です"というもう春です宣言の間でよくわからない。
 結局"ふ〜ゆ〜がきた"を12回も連呼しているので「ふゆがきた」の勝ちとなった。どういう基準だよ。
 とにかく泣きたい気持ちで冬を超えてまいりましょう。

2022. 10. 26

あなたに捧げるベスト5
(3) 今日のお題 「秋の気配」ベスト5 

  @旅の宿
  A紅葉(島倉千代子提供曲)
  B冷たい雨が降っている
  C秋時雨
  D私と秋とタバコ(つげあきこ提供曲)

[選評]
 夏が過ぎて秋になるとコレまたしみじみといい曲が続くんだよ。もう拓ちゃん天才なんだから。
 第1位はベタと言われようとも「旅の宿」。ススキと上弦の月と熱燗と温泉という風情がしみる秋の情景。甲乙つけがたい名演奏のシングルバージョンとアルバム「元気です」バージョンの圧倒的双璧感。これをベタと思う人がいたとすれば、この歌が50年かけてこの景色が当たり前になるくらい日本のすみずみまで浸透させた結果である。
 第2位は「紅葉」。これも秋の王道だ。見渡せば紅葉、赤々と紅葉…そうだお千代さんを聴こう。繊細で可愛らしい秋の歌がここにある。fromTでデモテープを公開してくれたおかげでこの曲が蘇生した。 
 第3位「冷たい雨が降っている」が凄いのは「秋」の寂寥感を例えば枯葉とかお約束の秋アイテムではなく「海」によって描いたところだと思う。この「海辺の叙景」が胸にしみる。松本隆は「9月」を描かせたら天才である。俺と同じ9月生まれなのだろうと思って調べたら松本隆は7月生まれだった。
 第4位「秋時雨」…しみる。途中で花の名前をいっぱい並べるところがヤケクソみたいでいい。そこかよ。そこがいいんだよ。
 そして第5位は「つげあきこ」…すまん、誰なんだ。しかし貴重な吉田拓郎自身の作詞による秋の歌なので入選とした。"忘れた夏と一緒に次の季節がやってきて灰皿の中のタバコも消えました"…ちょっといい。

 さて5位に入らなかった名曲も多い。E「歌ってよ夕陽の歌を」〜あなたは夏を降りてゆく、私は秋に登ってゆく…いいねぇ。良子ねえさんの安定歌唱も素晴らしいし吉田拓郎の本人歌唱も絶品である。
 F「ハート通信」(アグネスチャン/石川ひとみ提供曲)…"あなたの嫌いな冬はもうすぐ""花瓶のコスモス"から秋と特定される。"ガラスに枯れ枝映したバスで私をブルーに染める青空"…切なく心冷える秋をなんでこんなにも上手く描きやがるのか松本隆。
 G「アン・ドゥ・トロワ」はデモテープをよく聴くと原詞が「秋という名のお酒に酔って」という歌詞であることから舞台は秋だ。もっともこの天才的に美しいメロディーがもうあますことなく秋だ。77年の秋、さよならキャンディーズの寂しさと重なる。
 ということで秋も拓郎におまかせだ。

※追記 アイドルに目がくらんで「都万の秋」を忘れておった(爆)。ご指摘感謝です。んーEかな?再審議中。

2022. 10. 25


 ※言うまでもないですが、このベストランキングは、勝手に個人が思いつきで書いているだけなので1ミリの権威も正当性の破片すらもありませんので日々ご放念ください。


あなたに捧げるベスト5
(2) 今日のお題 「夏なんです」ベスト5 

 @夏休み(元気です)
 Aああ青春(ライブ コンサート・イン・つま恋'75/TOUR1979volU「落陽」)
 Bいつも見ていたヒロシマ(アジアの片隅で)
 Cサマータイムブルースが聴こえる(シングル)
 D白いレースの日傘(月夜のカヌー)

[選評]
 吉田拓郎は夏の名曲の豪華詰め合わせのお中元みたいなものである。いみふ。その数だけでなく品目の豊富さが際立つ。拓郎の夏の歌たちには、失われつつある夏の原風景、恋と青春の思い出、平和への祈り、そして弾むような夏の冒険などなど夏のあらゆる風物が詰めあわせとなっている。その名作の中からベスト5を選ぶのは熱闘甲子園なみに熾烈な競争になる。

 とにもかくにも、わが心の日本の夏よ永遠なれ=ということで「夏休み」が不動の1位だ。これはもはや名曲を超えて唱歌のレベルだ。唱歌だとどう凄いのかわからないが(汗)、とにかく別格の殿堂入りだ。
 つづいては「ああ青春」…コレは夏の歌なのかよ?というツッコミもあろうが、この歌を聴いたすべての拓郎ファンは例外なくあの真夏のつま恋、篠島の炎天下の荒野が脳裏に広がるはずだ。そしてそれぞれの心に文字通り燃える陽炎が立ち上るのだ。「陽炎」って春の季語だったのね。ちょうどいい。このあたりで辞書を書き換えようではないか(爆)。
 夏の祈りといえば「いつも見ていたヒロシマ」。平和の切実さが胸にしみる名作だが、決して反戦・反核兵器を訴えるためだけの具にしてはならない。この歌にあるのは、たぶんもっともっと深い「夏休み」や「吉田町の唄」が描かんとする穏やかで豊かな人間の営みへの希望だと思う。
 そして夏といえば恋と青春である。「いつもチンチンに冷えたコーラがそこにあった」と「サマータイムブルースが聴こえる」あたりがベスト5に向けて競い合うが…ああ「夕立」のクリームソーダのカップルもいいな〜と迷う。しかしやはりご本人もステージで感無量となった「サマータイム」だろう。なお「夏が見えれば」は名曲だが、夏を待つ新緑の頃の歌なので今回入選対象から外れた。
 最後に激戦の末ベスト5に喰いこんだのは「白いレースの日傘」。すべからく夏は若さの象徴だが、この歌にはかつて若者で今やジジババとなってゆく私たちのための夏も用意されている。時が過ぎていくつになっても穏やかで清々しい夏はあるのだと歌ってくれているようだ。

 ということでベスト5ではトテモ収まらないな。ちなみに5位以下は、E蒼い夏(伽草子)、Fいつもチンチンに冷えたコーラがそこにあった(吉田町の唄)、G暑中見舞(伽草子)、H夕立(伽草子)、I聖少女(西城秀樹シングル)、Jサマーピープル(シングル)、Kせんこう花火(元気です)がほぼ横並びの僅差で混戦状態だ。

 どうだろうか? これまで夏はチューブだ、サザンだと信じて疑わなかった諸兄よ、自分の世界が狭すぎたと思い始めてはいないか?>いねぇよ、大きなお世話だよっ。
 …そうか。とにかくなにがなんでも夏は拓郎なのだ。いつだって私たちは拓郎の歌を抱えて暑い夏の盛り場を僕達ウキウキ歩くのだ。
 しかし来年の夏はもう拓郎にも会えないんだろうな。…この次の夏はもう会えないだろう…焼けつく陽射しを軽やかに駆け抜けるおまえは美しい…そうだ「うのひと夏by高杉」これも夏の歌だな。ああ、ギンギンギラギラ夏なんです。

2022. 10. 24

あなたに捧げるベスト5
(1)今日のお題 「春がいっぱい」ベスト5

 @春だったね(元気です/よしだたくろうLIVE73)
 A春を待つ手紙(シングル)
 B春を呼べU(無人島で)
 C春になれば(ぷらいべえと)
 D春よ、こい(月夜のカヌー)

[選評]
 吉田拓郎の春の歌は常に私たちと同期している。「春だったね」のイントロが鳴れば、たとえ12月のアラスカにいようとも、いつだってそこは心湧きたつ春なのだ。そして私は春が来ると拓郎の歌を思い出し、拓郎の歌を聴いて春を思う。まさしく不即不離というやつだ。
 明るく清々しく、そして時に悲しく切なく、それでもなんだかんだで希望をもって続いてゆく春の人生を歌う。それは決して詞においてだけでなく、ウキウキと弾みだすメロディーとサウンドもそれを体現している。そんな5曲がベスト5入り。
 惜しくも圏外となったが、太田裕美に提供した作詞:松本隆の得意技「卒業=女子=悲恋シリーズ」のE「花吹雪」。女子高生ではない私たちジジババ向けの郷愁(爆)F「沈丁花の香る道で」などの名曲が接戦だった。珍しいところでは杉田二郎に詞だけ提供した哀愁ある「春は寂しいネ」、コーヒーの美味い店というフレーズに驚いた(コーヒー飲めるようになったんすか?)「気がついたら春は」(MUCH BETTER)なども検討された。

 かくして吉田拓郎の春の歌は、時に私たちを燃え立たせ、時に私たちに寄り添い、そして時には遥かな世界に導くようにいつもそこにあったのだ。
   春よ、遠き春よ 瞼閉じればそこに
   愛をくれし君の懐かしき声がする
 …コレだ。まさしくコレなのよ。>いいのか?他人の歌でしめくくって。
 

2022. 10. 23

☆☆☆悲しみも喜びも遅れないうちに確かめろ☆☆☆
 …今は最後の、今は最後のひと〜つまえ。
 LOVELOVEあいしてるの時と違ってピンで歌う吉田拓郎が見られるということだ。あの立ち姿の一挙手一投足(2022年ver)が存分に見られるのだ。宣材の写真を観るだけでミゾミゾしてくる。このまま年が暮れて終わってしまうのかとあきらめていただけに嬉しい。それにリモートで制作されたあの曲たちが、生音で動き出したらどんな風に変容するのかも楽しみだ。
 そういうありがたや〜な気持ちとともに、観客のいないライブ・・・もっと率直に言うと自分が観られないライブの現出に…運命みたいに僕にも悲しみが湧いてきた。
 無観客でもいいからライブをやってくれよとずっと思ってきたが、いざこうして実現してしまうと、これが最後ということも手伝って心の底から寂しい、寂しいもんだね。
 しかし、これは拓郎への恨み事ではない。むしろこの困難かつ無念な状況で拓郎はよくここまでやってくれたと感謝しかない。嘘だ、文句も多少はあるが、感謝を覆すほどものではない。なのでこの悲しみには行き場がない。

 まさに「禍福はあざなえる縄の如し」。このサイトお得意の「向田邦子理論」だ。若き日の黒柳徹子が向田邦子に台本の台詞「禍福はあざなえる縄の如し」の意味を尋ねた。「人生という縄は幸せと悲しみがよりあって出来ている」という答えに対し無邪気な黒柳は「幸せだけで出来ている縄はないのかしら?」と問い返す。向田邦子はキッパリと答える。「ない。ないの。」
 もともとの語源は「禍によりて福となす」つまりは悲しみの中にもまた希望はあるという意味らしい。
  そういえば吉田さんもと歌っていた。

   悪い日がそうそう続くものか
       ※
   喜びがあれば天にも昇って、
   悲しみの時には打ちひしがれて
   待つときもあるさ
   急ぐときは走れ
   今日は空も曇り模様じゃないか 
           (「悲しい気持ちで」アルバム”大いなる人”所収)

 ということで粛々と12月14日を待ちたい。しかしただ待つのも何なのでまた走りながら待ちたいということで、しょうもない連載を明日から始める予定。

2022. 10. 22

☆☆☆サプライズ☆☆☆
 昨日「ビッグサプライズ ! ! AL「ah-面白かった」スタジオライブ DVD/Blu-ray発売」という衝撃のニュースが駆け巡った。…これだったのか。菅田将暉のお手製ジージャンを「撮影にちょうど良い」と喜び、ライブ73の「マークU」に「バンド編成はこういうのが良いとだけ言っておこう」と思わせぶりに口走り、そして先日の「声が枯れているが黙っていろとエイベックスから言われた」と意味深に口をつぐんだのはコレだったか。
 それにしてもビッグサプライズの言葉どおり驚いたものだ。
 スタジオLIVE映像作品『Live at WANGAN STUDIO 2022 -AL “ah-面白かった” Live Session-』
 このタイトルは93年の『TRAVELLIN’ MAN LIVE at NHK STUDIO 101』、2002年の『吉田拓郎 101st Live 02.10.30』を彷彿とさせるし、最近のラジオで「客席の反応あってこそのライブだ」という拓郎の言葉が頭にあったため「無観客」の文字を見落とした俺は、俺の知らない間にライブがあったことに深いショックと衝撃を受けた。せめて抽選応募くらいさせてくれよと天を仰いだ。
 雨畑もやさぐれた俺を慰めようと、きっと日ごろご愛顧いただいているファンが極秘裏に招待され、エイベックスから絶対にSNSなどで口外してはならないと鉄の緘口令が敷かれていたので話題にならなかったけれど、たぶん1万人くらいの観客がいたに違いない。とモロ憶測で陰謀論をぶち上げてくれた(爆)…って全然慰めてねぇだろ。もともと好かれているとは思わなかったが、ここまで嫌われていたとはね〜とトドメを刺してくれた。それが俺にとっての昨日のフライング・ビッグサプライズだった。それはいい。よくないけどいい。
 これはライブというより拓郎がかねてから望んでいた「豪華な一発録り」の実現なのか。それにブラス編成というとサウンドもCDとはアレンジがかなり違ってくるのか。それはそれでトテモ楽しみなことだ。「えー『慕情』かよ〜」と思ったりもしたが、とにかくすべては観てからだ。

 12月14日。とにかくこれが最後のひとつまえのたよりです。ひとつひとりじゃ寂しすぎる。これ上映会かなんかしようよ。小さな声で叫んだよ。

2022. 10. 20

☆☆☆さらば☆☆☆
 多数派に押しつぶされる少数派=アブレ者の様相をみるといつも"Life"が聴きたくなるが、昨日の私的ベストヒットは”夕陽は逃げ足が速いんだ”。

 いつかあなたと旅でも出来たら
 腹の立つことを二つずつあげて
 許せないヤツを記憶の中で
 ひとつずつ消してしまいたいね
 夕陽は逃げ足が速いんだ
 ※
 きっとこの世は俺達のような
 どこか変わったものには冷たい
 違った生き方ができるなら
 そんな話も昔はしてたね
 夕陽は逃げ足が速いんだ
 ※
 鬱屈したアブレ者的な詞と対照的に勢いのあるロックンロールの演奏が拠りあって、なんかどこまでもカッコイイぞ。"ロンリーストリートキャフェ"と並んで東京ドーム公演の白眉だと思う。

 そしてまた訃報だ。俺は「体操」という言葉を聞くと内村航平でもなく森末慎二でもなくまず仲本工事が思い浮かぶ。俺たちの時代の全国の小学生が、体育の時間に跳び箱やマット運動の技がキマルとガッツポーズをしていたのはたぶん間違いなく仲本工事の影響だ。
 拓郎がLOVELOVEで慣れないテレビでの司会を始めた同じころ、テレビ東京の日曜深夜の地味な番組”ザ・スターボウリング”の司会を仲本工事が務めていた。どちらもテレビの司会が不慣れでぎこちなくて観ている方が手に汗を握った。本当は二人とも面白いんだから、頑張って本領発揮してくれよと祈りながら観ていた。
 心の底からご冥福をお祈りします。クレイジーキャッツの面々が亡くなられたときも悲しかったけれど、さすがにドリフは悲しいを超えて何かこたえるな。

 交通事故。残念すぎる。運転者も含めていろんな事情があり軽々しく言えないが、これから高齢化してゆく私たち、過信はすまい。信号と交通ルールはバカ正直に守ろう、無理はすまい。とにかく過ぎ去る者たちよ、そんなに急ぐな。

2022. 10. 19

☆☆☆こういう日はLifeを聴く☆☆☆
 拓郎リタイアのあと俺はどうするか…とか我ながらまったく何様か。ただの一般Pの拓バカの俺だ。拓郎なくしてお前に何が残る。何にも残りゃしねぇよ。しょうもない拓郎ファンとして最後はドブの中でも前のめりになって死んでいたい。あれ?どっかで聞いたぞ。いいじゃないか…は,さらばのB面。

 いいじゃないかと言えない話もある。かつてジョン・レノンが亡くなった時、文字どおり世界中が慟哭した。偉大なミュージシャンを失ったことを嘆く中で、拓郎は「結局、アブレ者は社会から抹殺されるんだ」と悔し泣きしていたのが忘れられない。本当にそうだと今朝テレビを観ながらあらためて思った。

2022. 10. 18

☆☆☆君は風の中に立ってる☆☆☆
 武田鉄矢は、高校生の時に読んだ司馬遼太郎の「竜馬がゆく」に衝撃を受けて龍馬狂の人生を歩み始める。何十年か経って、武田鉄矢は念願の師である司馬遼太郎に会うことがかなう。興奮して龍馬についての思いのたけをぶつける武田に司馬遼太郎は静かに言ったそうだ。「アンタなぁ、いつまでも龍馬、龍馬じゃおまへんで」。
 当時このエピソードを聴いた俺は申し訳ないが嗤っていた。そもそも政治家や実業家でワタシも坂本龍馬のように生きたいと公言するような人にはウサンクサイ人が多いと感じていたし(あくまで個人の感想です)。
 しかし今になって、これから「紀の善」もなく「吉田拓郎」もいない世界を生きていかなくてはならなくなると、武田鉄矢のことは笑い事でもなければ他人事でもない。君たちはどう生きるか、俺はどこへ行こう、君はどこへ行くという岐路に立っているような気がしてくる。

2022. 10. 17

☆☆☆それでも消えていくもの☆☆☆
 神楽坂を去って半年、あの甘味処「紀の善」の閉店の知らせに驚いた。江戸時代あたりから余裕で続いてきたはずの名店だ。先日のラジオで拓郎が憧れの人だと語っていた加賀まりこの行きつけのお店でもあった。そうだ「細うで繁盛記」の富士真奈美もご愛顧らしい。どちらも一度もお店でお会いできなかった。
 私は”あんみつ”はそんなに好きではないので、もっぱら自分の落度で迷惑をかけたとき、逆にちょっとウマく行った時、仕事場のスタッフの方々に捧げるためのものだった。
 それよりもっと昔、やさぐれた浪人時代の勉強会だったか、お正月の夜でどこも店は閉まっておりコンビニもなく、切ない気分でいたとき、お世話になっていたN先生が唯一開いていた「紀の善」で買ってきてくれたお赤飯弁当の味が忘れられない。
 
 私が神楽坂を去る日までいつも店前には小豆をゆでる匂いがしていた。悠久の流れの中で小豆との対話が繰り返されてきたに違いない。まさか閉店なんて。長い間ありがとうございました。
 小豆のことを考えながら"ステラ"を聴く。胸にしみる空の輝き。こればい。でも歌ってくれと言ったところで天邪鬼だからきっと歌うまい。http://tylife.jp/uramado/stella.html

2022. 10. 16

☆☆☆我が心のシノラー☆☆☆
 篠原ともえのことをあんまりちゃんと考えたことがなかったので思い込みで想像してみる。
 自分より30歳以上も年上で、しかも自分のことを嫌っている怖くてムズカシイ男と仕事をしなくてはならない少女。男は仕事関係者も容赦なく怒鳴りつけ、彼女には男がなんでそんなに怒っているかすらもわからない。男の視界に極力はいらないように楽屋もないまま、それでも彼女は、なぜ男が怒っているかをずっと考え続けた。卑屈にならずに、いつか男が心を開いてくれるはずだという明るさを持って時間を積み重ねてゆく。
 やがて、男は誰よりもミュージシャンと音楽を愛し、良い音楽をテレビの向こう側に届けるためのゼロからの環境作りに奮闘していたことを理解する。男のおかけですべての音楽番組のクオリティが変わった。何十年か経ってそんな変化が当たり前になっても、彼女は、男の偉業の素晴らしさを敬意とともに忘れずにいる。

 自分の書いた詞を男から容赦なくダメ出しされる。でも彼女は腐ったりせずに「豊かさがたりない。人の心は小さな出来事で変わる。お前の体験した喜びを書き綴れ。」という男の言葉を真摯に受け止めて格闘する。最後に男は、その詞を褒めてくれ、今も子守歌に聴いていると言ってくれた。

 そして彼女が自分の人生に迷える時、その男のさりげない言葉を大切に胸に刻む。「アイデアはおまえひとりのものではなく、すべての人に捧げるものだ」。彼女に本当のチャンスが来た時「これだ。今がその捧げる時だ。」とかつて胸に刻んだ言葉を思い起こす。

 やがて時間が経ってリタイヤしようとする男から最後の大切な仕事を彼女に任せたいと声がかかる。…向田邦子の小説を読んでいるような気分になった。
 彼女のことが好きか嫌いか、また後にデザイナーとして成功したかどうか、さほど重要なことではない。男のことを信じて、その言葉を素直に受け止めて、自分の中で大切に問い続けた彼女の心根こそが尊い。ああ、こういうファンでありたかったと・・・無理だけど思ったよ。

2022. 10. 15

オールナイトニッポンゴールド  第31回 2022.10.14
☆☆☆あらすじ☆☆☆☆☆☆
 こんばんは吉田拓郎です。毎週金曜日は週替わりのパーソナリティでお送りしていますが、今週は吉田拓郎がお送りします。
 声が枯れている。黙ってろとエイベックスから言われている。今日を含めてあと三回でいよいよラジオからの卒業。ゲストは今回がラスト。来月、再来月と冨山といろいろ相談したが、金銭的なものもあり諸事情により(笑)、バンドを呼んでセッションで生演奏とかやってみようと思っていましたが無くなりました(笑)。
 ギター一本の弾き語りは気持ちがノらないけど、最後だから何曲か歌ってみようか。そいう気持ちになったら。これは本人次第です。12月はラストで、これにて卒業ということで、ラジオとのながーいお付き合いが終わる。
 いろんな番組をやって、中井美穂さんと(アスリートな女たち)女子スポーツ選手を呼んで話す番組もアッと言う間に終わりましたし、堀越のりさんとお台場でやった番組も1年間続かなかった。
 ラジオも卒業ということで、長い付き合いの中で、聴いたこともない音源を1〜3曲くらい持ってこようと思っている。楽しくやるのが好きだったし、特にその場で考えやってみるのが好きだった。そして最終的には12月卒業でah-面白かったといいながら卒業したい。
 今日は篠原ともえがゲストで、「おーいコラ篠原」とか「アイツ」とか言ってたけど  緊張するようになった(笑)。どうして素敵な女性になってしまったんだろう。

(吉田拓郎のオールナイトニッポンゴールド)

<篠原さんのデザイナーのキッカケ拓郎さんという投書>
  僕がキッカケではない。篠原さんも勘違いしている。Kinkiとかみんなで酒飲んでいた時に「うるせーなバカ、歌とかやめたらデザインもやれ」と酔った勢いで言ったかもしれないだけで話が大袈裟になっている

 今年アルバムのデザインを頼んだが、篠原の才能は認めていたので、アナログアルバムのデザインを彼女に頼もうと決めていた。モデルが欲しいな、自分がモデルでもいいけど、チャーミングモデルが欲しいなということで奈緒ちゃんに出逢う。ということで奈緒さんに頼んだ。
 若い40代の篠原と20代の奈緒に大いなる刺激を受けて、彼女たちに恥をかかせてはいけない、喜んで貰える歌作りをしようと思った。そこであいみょんの詞の世界に入り込んでしまった。表現の仕方がなんて楽しいんだろう、正直で等身大な感覚だろうと詞の作り方も影響を受けた。
 ウチの佳代さんの影響も大きい。ウチでは天照愛子と呼んでいる(笑)。ウチは天岩戸とこのマンションのことをいわれている。一歩も出ないから。
 女性たちからいろんな刺激を受けて、教えて貰って素敵なアルバムが出来た。篠原さん、奈緒さん、あいみょんさん、佳代さん、いいなぁ女の人たち。勉強になるな。今日は篠原ともえ、いや「ともえさん」がいらっしゃいますので懐かしの「全部抱きしめて」

M-1  全部抱きしめて    吉田拓郎&LOVELOVE ALL STARS

※ここからは部分的な抄録です。気になったとこしか記録していません。

(篠原)
 “LOVELOVEあいしてる”の収録の後で、光一くんとメールをやりとりして、最後にKinkiから拓郎さんに花束を渡して、もう何とも言えない 静か〜で華やかで感動な時間が体感としては10分くらいは続いた 時が止まったような美しい時間 誰も何も声を出さずに 花束受け取った拓郎さん静かに見守ると言う時間があった。あの時の時間が素敵だったね。光一くんは僕は「あのときの拓郎さんの表情を一生忘れない」と書いてあった。

(拓郎)
 ハワイのワイキキのモアナサーフライダーホテルの海辺のバーでみんなが飲んでいるとき、篠原ともえが、ひとりビーチでもの想いに耽っていた。
(篠原)
 星を観ていたんです。子どもの頃から星が大好きで、ハワイまで行ったら星を観なきゃと言うことで眺めていた。そしたら剛くんに見つかってなに黄昏てんねん。
(拓郎)
 俺もそこに行ったし光一も行った。ビーチで4〜5人に並んで足をつけて俺があっちが日本だといいながら。
(篠原)
 青春でしたね
(拓郎)
 あそこから個人的にはKinkiと篠原と打ち解けられた。それまでは固かった。
(篠原)
 一番に篠原に会った時のこと憶えていますか
(拓郎)
 憶えていない
(篠原)
 拓郎さん結構自分に都合よく忘れるんですよ(笑)
 LOVELOVEが始まる前に特番があって、こういう番組が始まりますっていうことでスタジオだったかにご挨拶に行ったんですよ。そしたら拓郎さんは目もあわさず走って逃げて行ってエレベーターに乗り込んで、篠原どうぞよろしく〜と言ってる私にドアがガシャーンと閉まって、取れ高が1分くらいで。無視されちゃいました〜と言ってたら、スタッフが「これどうなっちゃうんだ」という空気になって菊地Pとか「ホントに怒らせちゃったかな」と。それが一番最初。それは憶えておいて(笑)
(拓郎)
 あの時から辞表を書こうと思っていた。この番組は無理だ。安室奈美恵とかスピードとか話もわからなくて。

(拓郎)
 それがハワイに行ってから、この子たち気持ちいいなと映るようになって。
(篠原)
 ピュアでしたもん。光一くんたちとも話たけれど、自分たちも夢中だった。でもみんな拓郎さんのことが大好きだったし、いつか心開いてくれると思っていた。自分たちも必死でこの番組を務めたいと思っていたから、いつか心を開いてくれと思っていた。
(拓郎)
 毎回TMC のスタジオの前で菊地プロデューサーが逃げないように待っていた
(篠原)
 ハワイで心を開いてくれるその前「拓郎さんの視界になるべく入らないように行動しようね」と言われていて(笑)。拓郎さんはミュージシャンだから音楽に集中しているからといわれた。リハーサルの時、真ん中に拓郎さんがいて、後ろにコーラスで篠原がいた。
 拓郎さんは音作りをしっかりされていて、拓郎さんとミュージシャンの楽屋とは別に椅子置き場があって、「篠原はこっち」と言われて(笑)。拓郎さんが前を向いているときに、後ろからばれないように、あのカッコで目立たないのは難しかったけれど、視界に入らないように行動していた。
 ある日、椅子置き場にいたら、拓郎さんが「あれ?篠原は?楽屋に呼んでこい」と言ってくれて「いるとうるさいけどいないと寂しいんだよね」・・・愛ですね(笑)。やっと楽屋の門をくぐるのに1年くらいかかった。
(拓郎)
 当時50歳だったでしょ、キツかった。公開放送で、Kinkiのファンの高校生中学生の前でひな壇にあげられて。

 最初は菊池プロデューサーが、まだKinkiKidsはデビュー前だったけれども、いずれ手デビューして大ヒットする。そういう運命を彼らは持っている。そのとき拓郎さんがそこにいることで、何かがある、それには自信があると言われて。

 僕達の世代では、エド・サリバンショーという番組があって、ビートルズとかプレスリーと大スターの登竜門があった、エド・サリバンというおじさんが紹介するとアメリカじゅうに、認知されることがあった。エド・サリバンショーをやりたいといっていた。菊地は「わかりました、時間をかけて近づけます」と言っていたけれど大嘘だった。トークバラエティだった。
(篠原)
 実は音的にはエド・サリバンショーだったじゃないですか。拓郎さんが最初にスタジオで仕上げていったのは、それまでの音楽番組は、カラオケで生演奏のための音の機材も揃ってなくて、それでリハーサルの時、拓郎さんが大怒鳴りして。「なんだこのスピーカはどうしてPA がスタジオ側とテレビ側にないんだ」と当時は怒っている意味もわからなくて(笑)
 最初の時にすごく怒っていた。リハの他に会議もあって。その次の回からとんでもない豪華なセットになった。足元スピーカーといわれている、今はイヤホンだけど、「かえし」がライブのようにないとダメだということで、昨今の音楽番組に不可欠の「かえし」を取り入れた。FNS歌謡祭とかのクオリティの根本を変えたのはLOVELOVEがはじまりだった。
 とにかく拓郎さんが怒ってて怖かった。「拓郎さん怒ってますぅ」、「篠原今は行っちゃダメ」(笑)。
(拓郎)
 よくカミナリを落としていた。これでは音楽番組とはいえない。せっかく俺が関わったんだから音楽クオリティあげよう。こんだけのミュージシャンが揃っているんだ、こんな貧弱な音でどうすんだ。
 音を録るだけでなく、それをエンジニアがミキシングしてトラックダウンしろ、今風の音をつくれと言った。放送局のエンジニアでそういうのに慣れていなかった。 2か4かせいぜい8チャンネルしか扱っていない。
 しかしミュージシャンひとりひとつのトラックとしたら、16とか32チャンネルが必要だし、ミックスダウンをやっていなかったので武部とか吉田建にトラックダウンをやらせた。
(篠原)
 そういうことは一生懸命でリハーサルで拓郎さんは疲れ果てていて番組自体はちゃらけていて(笑)。リハーサルが2時間くらい押したこともあって、Kinkiの時間も限られていて、そんな中で、よく完成して届けられたなと思う。
(拓郎)
 音楽を一生懸命やることで、それにはたくさんのひとの協力必要だとわかってきてスタッフも打ち解けてきて、最後はなんも言わなくてもできるようになった。  
(篠原)
 あのときはエンジニア、音響の人に馬鹿野郎と怒っていた。しかしただ怒っているではなく、説得力があった。「いい音楽を世の中に届けるべきだ僕らは」ということでそこからの巻き返しが凄かった。チームや音響も増えて。こないだの最終回は音響さんがスタッフみんな同じチームで感動した。ADの方も偉くなっていて。

(篠原)
 デビューしてから自分で衣装とかデザインしてスタイリングしていた。小学生の頃からデザイン画を一杯描いて、中学で母が洋裁が好きだっので自分でも洋服を作っていた。いつかデザイナーになりたいと思っていた。そこで文化服装学院とかにも通った。自分のライブの衣装とかグッズをデザインするのは楽しかったけれど、誰かに提供することはできるのか、やりたいけどできるのかなと悩んでいたのが20代のときだった。

 あるとき拓郎さんが「篠原は、この洋服を自分でデザインしてるんでしょ、面白いからデザイナーになれよ」と言ってくれた。背中を押してくれたんだけど、拓郎さんは、この名言を憶えていない(笑)。
(拓郎)
 お酒飲んでいるときに、篠原の歌とか…「地下鉄にのって」とかをカバーしてたんだけど凄い酷かったのでこれ売れないよ、歌なんてやめたほうがいいとは思ってはいたけれど(笑)
(篠原)
 その場にKinkiとか高見澤さんいたけど憶えているわけがない。びっくりしたんです。デザインなんかできるんでしょうかと言ったら拓郎さんが、
 「違う。自分の持っているアイデアはみんなに配るものなんだ。僕が曲を作っていろんな人に楽曲提供したように 篠原のアイデアは独り占めではなくて いろんな人に届けてあげなきゃだめだよ。それが君のすることだよ」と拓郎さんが熱っぽく語っていた
 2013年に松任谷正隆さんかからユーミンの衣装やってみないかとお話が合った時、拓郎さんの言葉がよぎって「これだ。捧げる時が来た」
拓郎さんと正隆さんが一致した。一番最初に拓郎さんに連絡した、そしたら拓郎さんは
「ユーミンのために君のすべてのアイデアを捧げなさい」
 正隆さんが最初にレコーディングしたのは「人間なんて」という不思議なつながり。
(拓郎)
 つながったね。松任谷は篠原とは無縁な人、僕は松任谷とはデビューから付き合っていたし、松任谷がユーミンの衣装のアイデアを出したわけだけど松任谷そういうセンスない
「なんで松任谷は篠原に頼んだの?」と尋ねたけれどラジオ番組に出た時に感じたというけど、マンタってそういうセンスあったんだっけと思った。繋がったね。不思議だね。

M-2 僕の大好きな場所

(篠原)
いい歌。
(拓郎)
 篠原の歌詞がすごくいい、だからいいメロディがついてる。今でもiPodで練る前に聴いている子守歌。
(篠原)
 拓郎さんからこの子守歌の歌詞にメチャクチャ、ダメ出ししたのを憶えていますか
(拓郎)
 憶えてません
(篠原)
 拓郎さんがメチャメチャにダメ出しして生まれた詞。ちなみに拓郎さんの曲先なの。私の詞がすばらしくて拓郎さんが曲をつけたのではなくて。
(拓郎)
 そうなの? 曲を渡してそこに詞をハメたの?
(篠原)
 拓郎さんの詞のダメ出しあって生まれたの。大好きな高木ブーさんに唄を作るから、この曲に篠原が詞をつけろといわれた。それで二人の共通のハワイというところで、海がキレイだな〜空が青いな〜というなんてことはない詞をつけて、拓郎さんにどうですか?と言ったら「なんだこれ!全然豊かじゃない」と言われた。
 「人生はもっと海とか空とか広く豊かなものなんだ、小さな出来事で人の心は変わるんだ。いろんな出来事を入れて聴く人を幸せをするような、みんながハワイに行きたくなるような歌詞ができるはずだ。」 
 そう言われて、砂浜に着く手紙とか、拓郎さんが出来事を入れるようにということに従って、例えばハワイの南の星をみんなで観たな〜とか「体験と喜びを入れなさい」と言われたとおりに書いたら「いいじゃないか」と拓郎さんが言ってくれて広がった歌詞。拓郎さんがディレクションしてくれたんです
(拓郎)
 記憶にない。
(篠原)
 拓郎さんに言われてから降ってきた歌詞。拓郎さんに言われてお手紙のように書いていこうと書いたら拓郎さんが喜んでくれた。高木ブーさんに拓郎さんとのコラボの思い出の曲なんですがいかがですか?言ったら「歌いにくい〜」(笑)。膝を叩いて雷サマのあの感じで話していた。韻をふんでるので一番と二番が混じってしまうとかいうことで歌詞を観ながら歌っておられました。

(篠原)
 「Sayonaraあいしてる」カメラさんもいづみちゃんも泣いていた。
 最後Forever Loveのコーラスのメロディは、拓郎さんが当日に思いついて指示された。それまでさんざんリハーサルして、本番はこのままこれで行こうねといっていたのが、急に当日「それは無し」になって。あわてて憶えたのだけど、そのメロディーがなんと美しいこと。それを歌っているときの感動的な心の動きが本当に耐えきれなくて。このメロディ凄いねと言っていて、これが涙を誘った。

 ゴスペル風にしたいと剛くんが言って、拓郎さんが最後に僕が本番でフェイクをいれる。シャウトを本番だけやるって言って。あれ良かったですよ。収録終わったあとみんなステージで話していて、花束を渡してグッときた時間・・・体感としては長かった。

(篠原)
 佳代さんから拓郎さん宛ての間違えてメールが来た。
 「ねぇタッチン何してる?今日も愛してる」

(篠原)
「奈緒はな、きれいなんだよ。かわいいんだわ。」もう女優大好きなんだから。
Togetherでも、おーい、しのはらとおーい、なおちゃんの掛け声が全然違う。奈緒ちゃんはネコナデ声。

M-3   Together    吉田拓郎

(拓郎)
 今年は篠原といっぱい会って楽しかったな。コロナとかいろいろ落ち込むこともあったしストレスもあつたけれど、篠原と話せて楽しかった。篠原が偉大なる変貌を遂げて、素敵な女の人に成長したことは大きな出来事だった。LOVE2に感謝しつつ、年が空けたらまた光一や剛に声をかけてごはんとか行きましょう。
(篠原)
 人生を変えてくれたのは拓郎さんと池澤さん。今年はものづくりができたことが嬉しかった。
(拓郎)
 ありがとうございました。また年明けに逢いましょう。


〇エンディング
 人生はやってみないとわからない。こうしたいとか夢とか希望とか目標とかあったとしても、やってみないとわからない。

 後期高齢者で若い時にどんなこと考えていたかは定かではない。しかし若い時に思ったとおりにはなってはいないけど、自分なりにああ面白かったなと思っている。音楽的には楽しい生活だった。20代はこうなるとは思わなかった。
 Don’t trust over 30と言われていたし、30歳になったら広島へ帰ろう思ったこともあった。広島でお茶の先生しようと。結局70歳すぎまでギター弾いていた。やってみないとわからない。

 来月と再来月。弾き語りは、あなたがたの好きな「祭りのあと」とか岡本おさみの曲とかそういうのはぜったいやんないからね(笑)。

 提供曲で、木之内みどりの「東京メルヘン」研ナオコの「六本木レイン」、加藤紀子の「ふゆがきた」おでんが出てくる。
 松平純子の「両国橋」、いしだあゆみの「今夜は星空」馬飼野君がアレンジしてくれた。富田靖子の「恋かくれんぼ」テレサ野田「ラブカンバセーション」ディミニッシュ
…不評だろうな。

 今日最後の曲は、ジェイム・スブラウン・・・僕も会いたかった。バンド時代によく演奏したものだ。睦月が好きだっんだけどカッティングが大変で(実演)。

M-4 パパのニューバッグ   ジェイム・スブラウン

次回は11月11日


☆☆☆思いつきと感想☆☆☆☆☆☆

☆声はやや枯れているのかもしれないけど、活舌は良く、言葉に熱量がある。ああ、エイベックス、もしかしてなんかを用意してくれているのか。いずれにしてもあと3回で終わるのがもったいない。

☆篠原ともえ、なんとクレバーな人なのか。あんな感じだったから、あんな感じなんだろう思っていたけれど、実によくわが身とその周囲を見つめていたのだなと感心した。そのおかけで拓郎ファンにとっても貴重な話を聴くことができた。「誠実に作り上げて、それをあますところなく世界に捧げる」…篠原はそういうクリエイターとしての拓郎の素晴らしさをキチンと見つめ、自分の中でも内省している。そこだ。

☆LOVELOVEでの吉田拓郎の音楽的貢献と功績はキチンと誰かが語り継いでほしい大切なところだった。

☆「僕の大好きな場所」…メロ先なのか。Uramadoでは「この詞は果たして当時十代だったシノラーに書けたのだろうか。酸いも甘いも経験した老成感が、随所に覗く。かなり拓郎が手を入れたのではないか。」と邪推していたが、やはり事実は数段ドラマチックだ。
 「小さな出来事で人の心は変わるんだ。いろんな出来事を入れて聴く人を幸せをするような歌詞を」…こんな話、する方もする方だが、憶えている方も憶えている方で、よくぞ記憶の彼方に霧散しなくて良かった。

☆こんな話は不粋だと思うけれど賭けてもイイ。拓郎は自分が篠原にデザインの道を勧めたことを忘れていない。そもそも憶えているとか、忘れているとかいう問題ではなく、当時から篠原に対してそのくらい深く心を砕いていたことに間違いない。あえて忘れたふりをして「恩人」の痕跡とか「恩着せ」のようなネタが残らないように配慮しているのだと思う。そこが拓郎の奥ゆかしい魅力なのだ…と思う。

☆佳代さんの誤爆が凄すぎて、いいのか夫婦のそんなものを覗いてしまって(爆)。

☆昔、出待ちしていたら、たぶん小室マネージャーに「みなさん拓郎さんの視界に入らないようにしてください」といきなり注意を受けて、地面に伏したり物陰に隠れたのを思い出した。

☆セッション中止は残念だが、女性提供曲集とは望むところだ。年内ですべてがシャットアウトではなく、その先にもなんか明かりのようなものが見え始めているような気がするが、どうなんだ。

2022. 10. 14

☆☆☆両極の歌姫☆☆☆
 ということでここのところ図らずも50周年のユーミンに敬意を払ってきたが、今は中島みゆきの新曲が気になって仕方がない(爆)。ドラマの主題歌なので、本編を吹っ飛ばしながら、ああ〜大竹しのぶだ、ヤスケン好きだぁ〜、確かイケメンのサッカー選手と結婚した高梨臨はひさしぶりだぁ〜みんなすまんね〜という感じで早送りして最後の主題歌から聴いた。そういえば昔"心の破片"をこんなふうに聴いたな。
 セリフと被るので聴き取りにくい。後でねーさんに確認したらかなりの空耳状態だったが、それでもやっぱり中島みゆきは最高だぜ。おい。タイトルも「倶に<ともに>」。たまらん。
  ♪倶に<ともに>走り出そう 倶に<ともに>走り継ごう
 …「走り継ごう」ですぜ。

2022. 10. 13

☆☆☆わが心のアイランド☆☆☆
 NHKの朝ドラはもういいやと思っていたけれど、今期もたまたま観たらクギ付けになってしまった。そうだった。俺も6歳と7歳の時、まるまるふた夏、たぶん当時のオトナの事情で、長崎県の五島に預けられたことがあったのを思い出した。ドラマの舞台はオラが島とは違うけどご近所だ。ドラマの主役の健気な女の子を観ていたら、なんか俺も島に馴染めずに苦労した健気な少年だったような気がしてきて自分が可哀そうになった(笑)。
 いわゆる隠れキリシタンの末裔の島だったのだが、その後、吉田拓郎のファンだとなかなか周囲に公言できず密かなファン活を続けて来たのって何か似てね?>似てねぇよ
 でも船の発着にはユーミンが流れるんだよその島。あらら、ここでも50周年おめでとうございます。
 とはいえこの朝ドラは前川清。なんかリアル。こんなおじさんばっかだった気がする。

2022. 10. 12

☆☆☆ミノルホドコウベヲタレルイナホカナ☆☆☆
 2022年、秋。たとえば武部・鳥山・松任谷・鈴木茂らの姿をテレビ等で見かけて…見慣れた姿に心を寄せるとそれはヨソ様の祝宴だったりするわけで、それはそれで50周年おめでとうございますと心の底から思うのだが…かくして私たちの「秋冬」はどうなるのだろうか。このままあと3回のラジオをマイルストーンにそれぞれが静かに「収活」してゆくことになるのか。それとも、もうひと花、何かあるのか。どっちにしても、変わらない、変わりようがない。これからの日々も最後まで一緒にさまよっていきましょう。

2022. 10. 11

☆☆☆マイ・ブロークン・何か☆☆☆
 仕事を始めたものの疲労感が抜けない。コロナのせいか、いや前からこんな感じだった気もする。とにかく職場に同情ムードが漂っていたので早めに失礼した。とはいえ街へ出てブラブラするほど元気もない、何もすることがないなんて。
 空いているのを確認してから懸案だった映画を観た。
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 原作漫画が素晴らしすぎたので、映画はやさぐれた怨念が足りない気もしたが、イイ感じの小品にまとまっていた。すっかりわたしたちの親戚の娘になってしまったかのような「奈緒」がマリコを熱演している。いいな。あ、主演は永野芽郁です。先輩ご推奨の「ファーストペンギン」も面白かった(フォーライフとは恐れ入りました)。第1話の最後のキレ芸、アル・パチーノみたいだった(爆)。
 この映画でも奈緒はちゃんとブロークン・マリコだった。その役柄にきれいに染まるよね。ホラ、演ずる前からアタシ女優だからという臭みがない。それは彼女にとって得なのか損なのかわかんないけれど。応援しとうけんね。
 「もういない人に会うには自分が生きてるしかないんじゃないでしょうか」
…いいねぇ。映画も原作もここがイイ。そうだね。

2022. 10. 10

☆☆☆祝・松任谷家・荒井家☆☆☆
 ふと気がつくと世間と周囲は見渡す限りの"ユーミン"だ。拓郎のことばかり考えていたら、どうやらあげての松任谷・荒井家大祝祭の中に紛れ込んでしまっているらしいわい。もちろん心の底からおめでとうございます。こちらにも波及するような何かが起きてくれないか…期待はすまい。

2022. 10. 9

☆☆☆元始拓郎は☆☆☆
 ラジオの再編集版を聴いた。「品格」どころではなく「元始の太陽」と「中原中也」までも絡んできたぞなもし。柴門ふみさんの「吉田拓郎=中原中也説」を是非とも聴かせていただきたいな。
 この対談は、7月28日の収録だったのだな。松任谷正隆よ、あれから3か月…そろそろボーカリストが必要になっていないだろうか? 曲を書いてくれる人が必要なのではないか? はっ。もしかしたら今日のこの番組再オンエア自体が何かの前哨なのだろうか。

※柴門さんの手紙は素敵でした。聴き取ることができた限りで勝手ながら起こしてみるとこんな感じです。
{2022.10/9(日)TOKYO FMサンデースペシャル「吉田拓郎が松任谷正隆と話したかった音楽のこと」より}

拝啓 吉田拓郎さま

 平塚らいてうの有名な言葉に「元始女性は太陽だった」がありますが、50年の拓郎ファンだった私はあえて申し上げます。

     「元始拓郎は太陽だった」

 1970年、14歳だった私は四国の田舎の女子中学生にしてはおませで、大阪のラジオ局から流られてくる拓郎さまの楽曲の歌詞にのめり込んでおりました。以来歌詞にホワイトジーンズがあれば買いに行き、ひとつのリンゴをふたつに切るという言葉に触発されリンゴをまる齧りしてみたり。
 テレビには殆ど出演されませんでしたが、音楽雑誌に掲載された拓郎さまの笑顔に「太陽みたいだ」と私は恋をしておりました。

 もうすこし年月が経って冷静にわが身を振り返ると、当時拓郎さまが最もウンザリしていた音楽の何もわからないミーハー女子の代表だったように思います。けれどミーハーまで巻き込んで日本中に熱狂をもたらしたのは拓郎さまが太陽であったがゆえです。
 それと吉田拓郎=中原中也説というのが私の中にあるのですが…長くなるので割愛します。

 今年「吉田拓郎引退」という衝撃的なニュースが流れました。それを聞いた私は、

   古い水夫を今動かせるのは古い水夫じゃないだろう
   古い水夫は知っているのさ 新しい海の怖さを

 を実践したのだ!と思いました。拓郎さまの生の歌声を聴けなくなるのはとても寂しいことだけどそういう決断をされたのだから拍手を送ろうと。

 けれど最近になって完全な音楽活動の停止ではないと知りました。安堵しました。

 気が変わってまたステージに立ちたくなったら、ぜひそうしてください。アルバムも作ってください。日が暮れても翌朝になると何事もなかったようにひょっこり太陽が現れるように。 乱筆乱文失礼しました。
                              柴門ふみ

2022. 10. 8

☆☆☆合言葉は品格☆☆☆
 録画してあった「関ジャム」のユーミン特集の後編を観た。本人のインタビューで「ユーミンにとって松任谷正隆の音楽パートナーとしての凄さとは何ですか?」という質問に対してユーミンはこう即答した。「品格があること」。おお〜カッチョエエ〜。「音で表現される品格」、「揺るぎないエレガンス」などと説明を添えてくれたが、とにかく私にはかなり衝撃的であり説得的な答えだった。
 前回の「関ジャム」前編のあとに私は「拓郎とユーミンを対立軸にするのではなく、拓郎とユーミンという新しい音楽の才能がある種のタッグを組んで、音楽の世界を変えたという歴史認識は異説なのか?。そのための天才「松任谷正隆」だと思うのだが。」とグダグダ書いたがその答えをストレートに貰ったようだ。松任谷正隆、ユーミン、吉田拓郎というこれらの異能を結びつけるものは「品格」であるという答えだ。
 「品格」という言葉自体は、とっつきにくいし気に障りそうなところもある。しかしその反面で、この場合は、そう!、それなんだよ!!と唸りたくもなる。

 先日の松任谷とのラジオで拓郎も当然の如く松任谷正隆の品格を見抜いていたし、松任谷もたぶん拓郎に品格を感じたからこそユーミン同様にあそこまでエレガントな仕事をしてくれたのだと思える。フォークは嫌いだけどアンタだけは好きと言った安井かずみも同じかもしれない。
 特に若い頃の拓郎は粗野で飲んだくれで女性好きな暴れん坊とされていたが、それでも拓郎ファンはただの荒くれ者とは違う煌めくものを感じていた。ダミ声のシャウトの中に光る透明感のようなものを聴いていたはずだ。それは品格=エレガンスといえるものかもしれない。

 拓郎が好きというと社会や世間から浮いてしまったり孤独を感じることも多いが、それは拓郎の品格に気が付いてしまったわれわれ拓郎ファンもまた品格の人だからだ(爆)。今の日本に生きるには感性がエレガント過ぎる私たちだからなのだ。違う?せっかくのファンサイトだからいいじゃないか。ああ〜なんかまた熱が出てきたみたいだ(涙)。今日はこのくらいにしといてやらぁ。

 先日のラジオの再編集のようだが、あらためて明日の10/9(日) 19:00~19:55 TOKYO FMサンデースペシャル「吉田拓郎が松任谷正隆と話したかった音楽のこと」が放送される。ということで「品格」とは「エレガンス」とは何か?を考えながら、しっかりと聞きなおしてみたい。

2022. 10. 7

☆☆☆流れてゆけとどまらずに☆☆☆
 くどい日記しつこい日記がしばらく途絶えて、コロナにでもなりやがったのかと思われた方がいらしたらハイ正解です。家族・親族が立て続けにコロナに罹患していたが、私だけが、大した症状もなく市販の抗原検査キットでも何度試しても陰性だったため「やっぱ拓郎はコロナにも効くんだな、むははは」と吉田拓郎の免疫力を確信していたところだった。
 しかしたちまち高熱と喉の激痛地獄に陥って、結局のところ家族・親族間で一番重症化してしまってとても情けなかった。這う這うの体で発熱外来にたどり着いたら、院長のO先生は(^O^)←ホントにこんな顔で「陽性じゃん、なんでもっと早く来なかった、濃厚接触者なのに自分は大丈夫だとかなんで思えるの?え? 」といきなり超絶イタイところを突いてきた。何も言えなかった。無敵抗体を作るほどには俺の拓郎愛が足りなかったのか、あるいはそもそも俺の愛には邪な不純物が入っていたのか、キチンと再検討してから、O先生にお答えする。するのかよ。

 しかしおかげさまでO先生の諸薬処方のおかげで入院せずにたちまち回復することができた。ありがとうございます。小学生の頃ダチが「Oマンション建設反対!」とか医院建設地の前で叫んですみませんでした。
 
 病床で一番聴いたのは当然にアルバム「ah-面白かった」だった。なんてこったい俺のエンディングになっちまうのかよという思いで聴いたこともあった。
 ここのところ知ったかぶりでカウンター・メロディにかぶれていたが「君のdestination」これはチカラ強いカウンターメロディ―の拠りあいだと気づいた。武部・鳥山もボーカルのためのすき間を開けようとするなと拓郎に言われたとDVDで語っていたが、ほとばしるようなバックのメロディーが流れてゆく。その河の流れのうえを本メロディとボーカルが快適に滑っていくようなそんな感じがした。素敵に強い対旋律というヤツではないか。いいなぁ。…なんにしても「俺のdestination」にならなくて良かった。
 そして病床で一番勇気づけられたのは、意外にもあいみょんの「愛を知るまでは」だった。

   愛を知るまでは死ねない私なのだ
   導かれた運命辿って
   今日も明日も生きて行こう
 
 うーん、このフレーズがジジイも刺さって支えてくれおったよ。繰り返し繰り返し聴いて助けられた。

 マスコミではコロナのピークは越えて鎮静気味なイメージだが、医療の現場では、減っている実感はないということだ。どうかくれぐれも皆様ご注意ください。市販の抗体キットのあまりの過信にもご注意を。これからもt.y lifeは皆様のLife<命と生活>に役立つ情報を発信してまいります>1ミリもしてねぇだろ、そんなこと。

 ご心配くださった方々有難うございました。おかげて僕は元気です。

2022. 10. 2

☆☆☆弟性なるもの☆☆☆
 そのハマり中のドラマ「僕の姉ちゃん」のゆったりとした主題歌がずっと耳に残っている。このコンビは、拓郎の作品もカバーもしているし、もともとディラン&ザ・バンドが音楽的出自らしい。ともかく昨今の自分の気持とフィットする。

  終わったことは終わったことと
  片付けて次に行けばいい
  わかってるけど、わかってるから
  今夜はきっと眠れない

  こんな時間はいつか終わる
  始めた日からわかっていたから
            (「恋の顛末」ハンバートハンバート)

 そうなんだよ60歳も過ぎておかしい、そのずっと前からおかしかったんだけど。看板を下ろしたりしたら何も残らない。

 このドラマの姉のぶれない盤石感。どこに投げても余裕で打ち返してくる。姉からも難球をビシビシ投げこんでくる。あたふたしながら弟は、そこにほのかな幸福感を感じる。この弟もまたいいんだわ。経験ないからわかんないけど姉弟とはこういうものなのか。
母性とか父性とかはよく論じられるけれど、それとは別の姉性・弟性という種類の性ものも確かにあると思う。そして吉田拓郎はたぶん弟性の人なのではないかと思う。安井かずみさんの話、そして今回の「雪さよなら」のディレクターの話…ことあるごとに話してくれるいろんな話からそんなふうに感じる。
 余計なことだがほんとうは弟性あふれるの人なのに、世間のイメージからリーダーシップに満ちた兄貴を勝手に求められてしまうから、いろいろメンドクセ―ことになるのでないかと思う。はい、これも勝手な思い込みですばい。

  今夜は深酒でもしながら
  火の消えるのを眺めていよう

 あ、かなりいい曲かもしんないと言う気がしてきた。

2022. 10. 1

☆☆☆箱根の奇跡☆☆☆
 「恋唄」の見事な演奏にあらためて思う。”ローリング30”の<ほぼティンパンアレイチーム>の演奏には松任谷正隆とか後藤次利とかアレンジャー名が記載されているが、<箱根ロックウェルチーム>の演奏にはアレンジャー名の記載がない。ずっと謎だったのだが、最近のラジオでは、石川鷹彦を中心にその場でみんなでアレンジしたようなハナシだった気がする。

 松本隆がホテルで短時間のうちに詞を書きあげて、その詞に拓郎が目の前で曲をつけて、それを隣のロックウェルスタジオに持って行ってレコーディングする。もはや有名な伝説だ。実は詞と曲たけではなくこれだけのアレンジもその場で瞬時に行ったこともすんごいことだ。詞→メロディ→アレンジ→演奏→歌…これだけの制作を流れ作業で一気にやってのけ、かくも高きクオリティの音楽をつくり上げる。こりゃあもうマグロの解体ショーで、あれよあれよという間にさばかれて、気が付いたら大トロにぎりを食べさせられているようなものだ。いみふ。

 今週末は、映画「マイ・ブロークン・マリコ」を観に行くつもりだったが、行けなくなった。蟄居して家でAmazon primeの「僕の姉ちゃん」(黒木華、杉原遥亮)をだらだらと一気観している。いいなぁ、この姉ちゃん。久々に大好物のドラマを見つけた感じだ。黒木華は「くろきはな」ではなく「くろきはる」と読む。難読漢字だ、受験生注意。出るのかよ。

   

2022. 9. 30

☆☆☆カウンター・メロディで聴き直す吉田拓郎☆☆☆
 カウンター・メロディ(対旋律)の魅力…そんなこたぁ昔からわかってんだよと嗤われそうだ。しかしなにせ音楽センスが乏しい俺にはそれだけでその曲が違ったものに聴こえてくる。漠然と好きだった曲たちの奥行と建付けを知ることで、あらためてその曲をいっそう好きになる。そういう勝手な営みなのでほっといてくれんさい。

 そう思って聴くとビッグバンドはあらためてカウンター・メロディ(対旋律)の宝庫だと知る。拓郎がビッグバンドに執心する理由はココにもあるのだろうか?
 瀬尾ビッグバンド2005。昨日書いた「虹の魚」もイイが、今日のわが心の対旋律は「恋唄」。この「恋唄」は”ローリング30”の原曲もまたすんばらしい。とにかく、かくも美しく、かくも繊細な対旋律があろうか。…とわかったふうなことを言いたくなる。空から降ってきたようなまさに天衣無縫とはこのことか。

 そしてビッグバンドといえば不滅の古典”ライブ73”。これも対旋律の宝庫なのだが。俺的には「野の仏」。この対旋律も泣ける。昔からこの曲に胸がしめつけられるのは、”釣り”でも”高節くん”でも”鮒の病気”でも”今度は確かに笑いました”でもなく、この陽だまりのような主旋律と対旋律のあざなえる縄のごとき演奏にあったのだとあらためて思う。

 「カウンターメロディから聴き直す吉田拓郎の旅」…日記に書くかどうかとは別に私的には当分つづく。
 年末に「輝く!日本カウンターメロディ大賞」をやりたいな。もちろん候補曲はすべて吉田拓郎だ。制限しているのではない、全歌手を対象にしても結局吉田拓郎の曲しか残らないだろうと言うだけのことだ、むはははははは。

2022. 9. 29

☆☆☆知ったか気分は対旋律☆☆☆
 その「関ジャム」では、ユーミンは作曲の時、カウンター・メロディから作ることがあるという話に出演ミュージシャンがみんな驚いていた。俺も一緒に驚きたかったが、カウンター・メロディ―の意味も知らないので何がなんだかわからなかった。すると武部聡志先生が主旋律(メロディー)を効果的に補う対旋律のことです…と教えてくださった。要するに歌の後ろで鳴ってる演奏独自のメロディ―ということなのか。

 …ということでカウンター・メロディという言葉を聞きかじったら、なんだか嬉しくなり「これはカウンター・メロディが秀逸だねぇ」としたり顔で言いたくなって(爆)、そして吉田拓郎のカウンター・メロディのことが気になってきた。とはいえ素人なんで違ってたらごめんね。

 すぐに、これじゃないかと思ったのは、79年の松任谷バンド、2005年の瀬尾バンドの「虹の魚」。♪枯葉ごしに山の道を辿ってゆけば〜♪♪♪♪〜、…虹のように魚の影キミが指さす〜♪♪♪♪〜虹鱒よ…
 主旋律の裏でほとばしる川の流れのようなメロディーがアシストしているのが聴き取れる。特に瀬尾バンドではガッツリ前面に出ている。そう思って聞くと、この歌の深い組立てわかるようで、あらためていい歌だなぁとウキウキしてくる。
 
 もうひとつは「危険な関係」。これもなんかカウンター・メロディーが哀愁を湛えながらもグイグイと押し上げてくる。カッチョいいっす。

 そして本日のカウンター・メロディ―大賞。「カンパリソーダとフライドポテト」。拍手。このケーナとギターの対旋律…こりゃあ見事ばい。カウンターのメロディ―だけでひとしきり泣けそうだ。もぉ〜鈴木茂にチューしたくなっちゃうぜ。すまん。そういえば「カンパリソーダって何ですか?」と尋ねられると拓郎は「ユーミンが飲んでる食前酒」と説明していたな。なんかつながった。

 カウンター・メロディと聞くと正直、頭の中には矢吹丈と力石徹のクロスカウンターが頭に浮かぶ。そんな見事な対旋律があるかもしれない。しばしカウンターメロディ―探す旅に出てみんさいや。聴きなれた曲たちが未知の荒野に思えてくる。んー生きる希望が湧いたぜ。

2022. 9. 28

☆☆☆歴史は好きなように作られる☆☆☆
 日曜の夜の「関ジャム」が面白い。この番組支持者からすれば何を今さらというだろうが。先週と来週はユーミン特集だ。この番組で好きなのは、音楽音痴の俺にも音楽技術をていねいに解説してくれるところだ。例えば拓郎がラジオで「オーギュメント」「ディミニッシュ」「三連符」とかをわかりやすく教えてくれたのと同じだ。俺でもちょっと音楽がわかったような、ミュージシャンの心意気がわかった気にさせてくれるところが嬉しい。その音楽が好きでたまらないところを出演者がハートの部分とテクニカルな部分から詰めてくれる。こんな感じで拓郎の特集をガチでやっておくれよ。

 ただこの番組に限らず、ユーミンの特集番組では必ず70年代フォークブーム=吉田拓郎(だいたい「結婚しようよ」「旅の宿」のジャケットが映る)を打ち破って華麗なユーミンが登場しニューミュージック界が一変するというヒストリーが解説される。これは当然気に入らない。それはユーミンではなく制作側の問題だ。
 確かに、拓郎が松任谷とのラジオでも語っていたとおり、フォークと一緒にされることはユーミンとって我慢ならないことだったろうし、ユーミン自身もご著書で、当時「女拓郎」と言われたことに不満だったと述懐されている。御意。
 しかし、旧体制の拓郎がやっつけられて、新しいユーミン登場みたいな雑な歴史的説明は、世間にはわかりやすいのかもしれないが違う。そもそも俺なんかの記憶でも昔から拓郎とユーミンはかなり近しかった記憶しかない。
 フォークだ、ロックだとかはもういいけど、拓郎とユーミンを対立軸にするのではなく、拓郎とユーミンという新しい音楽の才能がある種のタッグを組んで、音楽の世界を変えたという歴史認識は異説なのか?。そのための天才「松任谷正隆」だと思うのだが。

 んなことはどうでもいいじゃないかと思うわば思え。でも無頓着でいると、歴史は書きたい人によって、都合よく書かれてしまうものだ。吉田拓郎をただのフォーク歌手としておくことが都合がいい歴史主義者とでもう言うか…いかんまた陰謀論になってしまうぞ。

 ということで「関ジャム」楽しみだ。今回も「カウンター・メロディ―」という言葉を聞きかじって、はぁ〜そういうものなのかといろいろな音楽(拓郎だけだが)にあてはめてみてしみじみと楽しい。

2022. 9. 27

☆☆☆今日のわざすべて終え☆☆☆
 今さらだけれどインターネットやSNSの「電網空間」(@吉田篤弘)はつくづくありがたい。困った状況の届きにくい小さな声を丹念に拾い上げてくれる。電網恢恢疎にして漏らさず…違うか。それじゃあ電網でポチしたり、宅配ネットワークで物資を送ろうとすると少なくとも今朝の時点までは配送ステーションが回復していない。困った。
 結局仕事関係の某協会の方が車を出して現地に届けてくれるというのでそれに託すしかなかった。すまん。頭が下がる。電網は不可欠だが、最後は人間のチカラだ。身を運んでこそ浮かぶ瀬もあれ…これもちょっと違うか。拓郎が昔からいう「馳せ参じる」と言うやつだ。
 こんなときに不謹慎な譬えだが、電網がCDの楽曲とすれば、身を運ぶこと=馳せ参じることはライブみたいなものだ。どちらも人間には不可欠なものだ。結局、殆ど何もしていない俺だが、とにかく清水のライフラインが早く回復しますように。

 それにしてもいい歳したジジイなのホント情けないが俺はこの国がさっぱりわからない。ああ、ほんとにわからないと今日は心の底から思った。吉田拓郎リタイヤのあと、僕らは何を信じるのか、僕らは何処へ行くのだろうか。

2022. 9. 26

☆☆☆静岡☆☆☆
 昨日はのどかにつま恋の思い出を書いたしそれはそれで大切なことなのだが、申し訳ない、その静岡は台風の影響で大変なことになっていたのですね。特に清水は断水に浸水と大変だ。復旧に一週間とは厳しすぎる。昔から静岡には個人としてもお仕事でもそして何よりt.y関係でも超絶お世話になっていながら、気づきもせずにすまんです。同じ水際の不安に暮らす身でありながら恥ずかしい。御見舞申し上げます。御見舞のみならず微力ながらできることを探させていただきます。どうかお大事に。

2022. 9. 25

☆☆☆ワンス・アポン・ア・タイム・イン・つま恋☆☆☆
 ようやくと晴れた。こういうおだやかな晴天の秋の日には「つま恋2006」を観よう。16年も経っちまったけれど、大丈夫だ、あの日のちょっと強めの風の匂いまでちゃんと覚えている。青空と拓郎バンド。中島みゆきが出てくるとそのたびに驚く(爆)。花火で泣く。こうやって何回も観ていると、昔を懐かしむ年寄りの走馬灯だと揶揄されるが上等だぜ。そういうアナタ方がいつかジジババになったとき何百回観てもこんなに身体中が熱くなり胸が高鳴るものがあったらいいな。ココはこうだったんだよと熱くなって語りたくなる壮大なドラマに出会えたら、それはすげー幸せなことだと思うぞ。
 ということで、こんな至福をいただけたことにあらためてありがとうと何度でも感謝したい。感謝しつつも、おい幻の吉田拓郎第二部をそろそろなんとかしてくれよとしつこく思う。いくハピ、全抱き、野の仏 ファイト!…ああ観たい、聴きたい。
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  たぶん前日のゲネ見物の時に撮影。

2022. 9. 24

☆☆☆た・こ・ての謎☆☆☆
 これでもかと台風がこの国を襲撃してくる。今にして思うと2006年つま恋は無事開催できて良かったと魂の底から感謝したい。あの時は危なかったんだよね、実際。そしてその裏には「晴れ男:吉田拓郎」VS「雨男:南こうせつ」という二大天気男どうしの戦いがあったことを後に知った。これまでこの勝負は「晴れ男:吉田拓郎」の神通力の圧勝だが、拓郎が唯一完敗したものがある。それは「1983年6月10日SUNTORY SOUNDMARKET‘83 後楽園球場」の雷雨中止だ。あんときゃ電車も止まって凄まじかったな。この時の敗因は謎であるが、学説的には概ね三説ある。

 T説 武田鉄矢もまた強大な雨男説 
    二対一で形勢不利だった

 U説 大阪球場の余波で神通力弱体化説
    数日前の大阪泥酔事件で拓郎の神通力が弱まっていた

 V説 実は本人がそんなに歌いたくなかった説
    ああ億劫だ、別に雨になってもいいやということで晴男の神通力を自ら封印していた


 こうせつ、鉄矢揃い踏みのつま恋85も無事開催されたことからT説はなく、泥酔で神通力が弱まるようなお人とは考えられないのでU説もない。結局V説ではないかと私は睨んじょります。一番ありがちだし(爆)。

2022. 9. 23

☆☆☆ちょっと困ったラスト☆☆☆
 ということで「粋なラスト」があれば、粋とはいえない「不粋なラスト」もごくたまにはある。せっかくの名盤アルバムなのになんでこれが?…というラスト曲も個人的にはある。ディスっているのではない。ただ悪態をついているだけだ。どう違うんだ。イチローだって大谷だって、この世に10割バッターなんてものは存在しない。華麗な活躍の打席のみならず、ファンなら三振と凡打の打席からも逃げてはいけない。どの打席もひとしく味わい、深い愛を注ごうではないか。

…ということで「こりゃあないぜな不粋なアルバムラストベスト3」。

※圏外第4位 男子の場合(アルバム「午後の天気」)
 最初の“僕の道”のイントロがいきなり心臓に響く。66歳なんて年齢をものともせず、「昨日の雲じゃない」「危険な関係」「慕情」「清流」どの曲もクオリティが高い。特に初顔合わせの銀色夏生の詞との出会いがスパークした「この風」には唸った。
 だからこそそんなアルバムの最後のこの曲を聴いて思ったのだ「あれ?」…いろいろ聴き落としたのかもしれない、もう一度ちゃんと聴いてみると、やっぱり「あれ?」…すまん。見事な内野ゴロではないか…あくまで個人の感想です。ともかく詞の内容も曲の輪郭もよくわからないままアルバムがしめくくられて当惑してしまうのだ。

第3位 ガラスのワンピース(アルバム「FOREVER YOUNG」)
 「ペニーレインへは行かない」「大阪行は何番ホーム」「Life」「7月26日未明」…名曲の幕の内弁当といわれるアルバム「FOREVER YOUNG」。身を削るような愛と哀しみの傑作たちの最後に、この「ガラスのワンピース」はどうなんだ。そもそもこの曲はこのアルバムに必要だったのか。だ〜からおまえはロックンロールがわからないんだと怒られるかもしれないが、ああわかりませんよ。このとってつけた感があふれる最後。
 もしかするとあまりに重苦しいテーマの曲が多いので、最後はロックンロールで痛快にぶっ飛ばせと思われたのか。それにしても17歳のイケイケねーちゃんの唄は飛び過ぎだ。もちろんだからといってアルバム「FOREVER YOUNG」が名盤であることはいささかも変わらない。

第2位 白い部屋(アルバム「無人島で」)
 この指とまれ〜春を呼べUという魂アゲアゲで始まるこのアルバム。それがB面の松本隆の詞になるとゆるやかに失速を始める。失速した最後にたどり着くこの歌。だってここは白い部屋だもの。
 この作品はこの寂寥感も含めて名作だと思う。「晩餐」(岡本おさみ) 、「裏窓」(石原信一) そして「白い部屋」(松本隆) 。このお三方の世代だからこそ描けた世界だ。戦争や政治的無関心さとそれに対するある種のやましさとの深い葛藤。「哀しみのアパシー三部作」と呼びたい。しかし良い曲であるにしても、最後のしめくくりにこんな切ない歌を置かないでくれよ…と思う。おりしもこのアルバムが発売された1981年12月冬。秋のツアーを全部キャンセルされ行き場もない日々を思い出す。そりゃあないぜセニョリータ。

第1位 風になりたい(アルバム「俺が愛した馬鹿」)
 「風になりたい」は稀代の名曲だ。それは多くの女性歌手がカバーしていることから明白だ。その曲をアルバムのしめくくりに持ってくるのは実に粋な選択だと思う。しかし、このアレンジがまったく粋ではない。打ち込みの機械的なトカァァンというリズムがやたら耳につく。美しい曲だけに違和感が半端ない。しかも歌と演奏が終わってもトカァァンというリズムだけが延々と続いてゆくのだ。なんだこりゃ。あ〜せからしかぁ。そもそもジャケットにお墓の埋葬の写真を載せているところから気に入らない。呪いをかけられているのか。あの原曲の松任谷正隆の基本アレンジに帰っておくれと願う。

 ラストアルバムということは、粋なラスト、大団円なラストはもちろん不粋なラストさえも、もう出逢えないことを意味する。そう思うと何もかもがいとおしい。不粋なラストにも心をこめて拍手。どれも素敵なアルバムだったよ。あらためてありがとうございました。

  愛はこの世にありました
  カタチを変えながら風に吹かれて
  心と心が出逢った季節は
  ah-面白かった

2022. 9. 22

☆☆☆粋なラスト上位編☆☆☆
 「粋<いき>なラスト」は「大感動のラスト」とはちょっと違う。なので「マラソン」(アルバム「マラソン」)や「又逢おうぜ、あばよ」(「Shangri-la」)や「僕を呼び出したのは」(「吉田町の唄」)や「あなたを送る日」(「午前中に…」)などは大好きなラストソングなのだが今回は入らない。
 さて、なんの権威も信憑性もない、ただの個人の好き嫌いの順位だが続いて上位2曲。

第2位 まァ取り敢えず(アルバム「感度良好波高し」)
 外国人バンドの作品の最後のこの曲。そこまでの「感度良好波高し」の曲相とちょっと違って、しみじみとした「あとがき」感がある。…おだやかだ。僕の現在、歳を取って少し丸くなった僕、でもロックにもリズムにもレゲエにもラップにもとらわれない自由な僕、ちょっと億劫だけど歌おうとしている僕、そうやってやわらかく変化しつつある僕…拓郎いわく「阿木燿子にはすべてお見通し」。でさ、この曲はこのアルバムのみならずその前の「Long time no see」のラストのようにもなっていて面白い。「とんとご無沙汰」でゆっくり立ち上がった帰ってきた僕が、歳月の中で変わりながら、でもやっぱり歌うよというしめくくり。粋ですばい。

第1位 「ガラスの言葉」(アルバム「元気です」)
 たまたまだと思うが「祭りのあと」がアルバム「元気です」の最後に入っている曲だと思っている人に今まで三人くらい会った。「あの最後の曲の”祭りのあと”っていいねぇ」といわれると、すばらしい曲なことには異存がないが、最後の曲じゃねぇよとつい心の中でつぶやいてしまう。最後から二番目だよ。確かに「祭りのあと」はインパクトが強い銘曲だし、まさに「最後」な感じが横溢している。
 しかしアルバム「元気です」は、祭りの後の淋しさの後に「ガラスの言葉」でしめくくられる。ここがいいのだ。シンプルで美しい軽(かろ)み。なんといっても最後に満点の星空=ミルクウェイを描いて魅せてくれる。なんて素敵なラストなのかしらん。粋です。

…バカと言われようが、独りよがりといわれようが、いろんな角度からいろんな光をあてて吉田拓郎の唄をとことん味わう…楽しい、幸せだ。あなたの粋はなんですか?。大きなお世話ですが。

2022. 9. 20

☆☆☆粋なラスト☆☆☆
 ということでアルバムのラスト曲としての「贈り物」を聴き直してみた。あらためていいエンディングだ。加熱した溶鉱炉が静かに冷めながら、それでいて胸に深くしみこむように終わる。Tくんが言ったように曲順も神アルバムだ。「僕の唄はサヨナラだけ」で終わったら熱をもてあましてしまうというのはそのとおりだ。

 拓郎に限らずアルバムの多くはアルバムタイトル曲や勝負曲の大作を配して大団円でしめくくるものが多い。最近でいえば「ah-面白かった」は「ah-面白かった」の胸しめつけられるようなフィナーレがすんばらしい。しかしそれとは対極的に、ゆるやかな余韻と余白を残した「粋」な終わり方というものもあると思った。
 独断と偏見ですが…ってそもそも独断と偏見しか書いてないよこのサイト。「この終わり方が粋だ…ベスト5」…「贈り物」は殿堂入りでランク外。

第5位「この歌をある人に」(アルバム「アジアの片隅で」)
 「今はまだ人生を語らず」に比肩する重厚長大熱熱アルバムのラスト。しかしこのラストには永らく不満だった。というのも拓郎は当初、アルバムの最後に「証明」を入れるつもりだったと聞いたからだ。そっちの方がすげえよ。それに岡本おさみ終了、次回からは松本隆の予告編みたいじゃん。しかし重厚で少暗いアルバムが「元気です」で雲の切れ間に光が射し「この歌をある人に」で青空が広がって終わる。あえて最後に青空と涼やかな風が吹いてくるような曲でしめくくるのが吉田拓郎の自由さ、懐の深さなのではないかと思えてきた。だからこれでいいのだ。

第4位「帰路」(アルバム「ひまわり」)
 「ひまわり」は難解なアルバムだ。難解すぎて,つい「駄作じゃねぇの?」とか「曲少な!」とか邪念が入りそうになる。それは俺という小さな料理用の計量カップで、洗足池の水の量を量ろうとするようなものだ。いみふ。「神様」と「いけないスモーク」の入り乱れる曲たちに当惑しながらも、この最後の「帰路」は、わかりやすく心安らかにしめくくってくれる。”こんな小さな僕達はきっといつか夜空の星になるのだから”…ホッとするフレーズが嬉しい。粋なラストだね。

第3位 「歌にはならないけれど」(アルバム「大いなる人」)
 社長シリーズの代表作といえば「大いなる人」。>知らねぇよ。バブリーでムーディーな作風に面喰らった。当時、シンプジャーナルで観た短髪に白いスーツと白いエナメルの靴の姿の拓郎が、ギターではなくハンドマイクで歌っているイメージが浮かんできた。それが音楽の成熟と鈴木茂の威神力のおかげなのだと理解できるまでには時間がかかった。特に最後のこの歌は内容の薄い歌詞に長すぎる間奏…と悪態をついていたが、今聴くとなんておだやかで素敵なラストなのかしらん。すまん。この演奏のたゆとうような海にいつまでもゆられていたいと思う。
                            たぶんつづく。

2022. 9. 19

☆☆☆贈り物☆☆☆
 台風の被害が甚大だ。ダム放水とか川の増水とか大丈夫なのかと案じながらも、すまん。そんなときもおいらは飲んだくれてた。小学校からの同級生で拓郎ファンでもあるTくん、Uくんと俺の恒例の9月誕生日会=還暦一周年記念会をささやかに催した。そんなことをよく覚えていてくれたなぁ(涙)と悶絶するような話や、長い付き合いだが初めて聴く話も結構ある。

 ウチの中学の生徒が大挙して通っていた地元の学習塾があり、Uくんはそこのホープだった。Tくんも俺もその塾ではなかったので知らなかったのだが、いよいよ高校受験という中学3年生になって、Uくんはその塾の教え方のいい加減さに異議を申し立て、♪自信はないけどひとりでやってみよう〜と決断して塾を辞めた。今思えばウサンクサイおっさんが塾長だったのだが、そいつが学習塾に通っていた生徒全員にUくんと話すと頭が悪くなるから学校でも口をきくなとお達しを出した。まるで芸能事務所から独立して干された芸能人みたいにUくんは四面楚歌状態になった。誰にも頼れない受験への不安と孤独の渦中で、15歳の誕生日に買ってもらったアルバム「今はまだ人生を語らず」を繰り返し聴き励まされたと語る。
 これは俺の想像だがたぶんその体験から「教師」って何なのかを問い続けたUくんはやがて自ら教師になり、今や大学の副学長という偉い人になっているのだが、彼が偉くなろうがなるまいが、なにより14歳の時の少年の小さな勇気、小さな一歩こそが尊い。その一歩を支えたのが吉田拓郎であることもまた誇らしい。
 こんなふうに救われた人がこの世にはたくさんいるに違いない。世間は引退した歌手として背を向けようとも、救われた人の力だけでこれからもやってまいりましょう。いみふ。
 
 で、Uくんが言いたかったことの本題はここなのだが、必死で聴いた自分としては「今はまだ人生を語らず」というアルバムは「贈り物」で終わるところか実に素晴らしいということだ。「ペニーレインでバーボン」「人生を語らず」を初め圧倒的な名曲群のチカラはもちろんだが、このアルバムの真骨頂はしめくくりの「贈り物」にあると力説していた。こういう話を聴くと「贈り物」を聴き直してみたくなる。このアルバムの結実がここにあるのかもしれないと考えてみるとまた新たな曲相が見えてくるようだ。楽しいぜ。

 「贈り物」といえば、同級生のNさん、素敵なプレゼントそしてケーキをありがとう。ケーキがお見事だよ。
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2022. 9. 17

☆☆☆魂のカバーたち☆☆☆
 前にも書いたと思うが何度でも書く。インペリアル時代の『吉田拓郎トリビュート〜結婚しようよ〜』に収録されてる下地勇の「制服」がすんばらしい。音楽がワカンナイ俺でも、これはブルースだっ!と小さな声で叫んだよ。しかも極上のブルースだ。
 同じアルバムで、LISAの「ビートルズが教えてくれた」も胸にしみるし、せせらぎのような音速ラインの「シンシア」も大好きだ。魂のトリビュートたちなのだが、それにしても下地勇、LISA、音速ラインみんなまとめて君らはいったい誰なんだ(爆)、すまん、知らないこの爺の方に非があることは当然として。

 後にエイベックスからも武部聡志が旗振りとなって「今日までそして明日からも、吉田拓郎 tribute to TAKURO YOSHIDA」というアルバムが出たが、こちらはすべてビッグネームばかりのトリビュートだった。これも傑作だった。まるで呪いをかけられているような一青窈のフラメンコなメランコリーが特にすきだ。しかし上記のインペリアルのトリビュートアルバムに集う若者たちの作品にも何ら遜色はない。

 最近。若者による秀逸なカバーが増えている。こうなると例えばあいみょん、米津玄師、藤井風の拓郎のカバーをも聴いてみたい。ご本人がリタイアしてしまうという淋しい現状に鑑みて「吉田拓郎をレスぺクトすると発言する全てのミュージシャンにカバーを義務付ける法案」を国会に提出してもいいと思う。いや法律を作るまでもなく閣議決定で簡単に義務付けてくれるかもしれない。よしなさい。とにかく極上のカバーだけが私達を救ってくれるという時代がすぐそこまで来ているのではないか。とにかくどんどんカバーしてくれんさいや。

2022. 9. 16

☆☆☆街へ☆☆☆
 どうでもいいことだが30年間お世話になった神楽坂の仕事場を今年春に移転した。なにしろ長かったので今でも少し淋しくなることがあるが、神楽坂の街は俺のことなどなんとも思っておらずへいちゃらだ。当たり前か。もともとあの街の深奥はガードが固くついにそこには入れないままだった。
 ただ街がハイテンポで変わっているのは事実だ。毎日顔を合わせていた映画館の飯田橋ギンレイホールも年内に老朽化で立退らしい。ここで映画「旅の重さ」を観た。「ママ、びっくりしないでね、若い頃の三国連太郎と佐藤浩市が同じ顔なの」と感動したものだ。感動するのはそこじゃないだろ。

 その近くのラーメン屋「黒兵衛」。堂本剛のドラマの撮影で使われて、俺のいつもの愛用席と堂本剛のそれが一緒だったことが自慢だったのに残念ながらコロナの頃に閉店してしまった。

 その少し前に閉店したインドールというカウンターだけの小さな生姜焼きの定食屋があった。とんねるずの「きたなシュラン」で紹介されて、カウンターに石田弘プロデューサー=ダーイシのトロフィー像が飾ってあった。結構ぞんざいに置かれていたが、貴明がどんなにイジろうとも俺にとってはライブ映画「吉田拓郎アイランドコンサートin 篠島」の神監督である(つま恋75もそうだよね)。いつも失礼がないよう生姜焼きを食べながら心の中で合掌していた。切り盛りしていたおじさんとおばさんはやさしいけれど無口な方々で殆ど話したことはなかった。でも最後の閉店の張り紙は実に素敵だった。
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 「皆様御機嫌よう」だぜ。カッチョエエったらありゃしない。「ah-面白かった」に通ずる。こんなふうに生きたいものだ。 
 

2022. 9. 15

☆☆☆それぞれの「青い空」☆☆☆
 共感できない部分も多々あり、あまり好きな映画ではないがそれでも魅せられる「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」。非行少年たちの友情と年代記…というと薄っぺらだが、まぁそういう話だ。しかしかなり難解で映画ファンを悩ますいくつかの謎があり議論がある。そのひとつが、映画のラストシーンで悲惨な状況なのにもかかわらず、最後に阿片でラリッたデ・ニーロはなぜ満面の笑みで笑っているのかというところに諸説の議論がある。お金独り占め喜び説、夢オチ説、精神錯乱説など、など。
 しかし映画ツウではない通りすがりの俺にはただ一択だ。あれは少年時代のストリートの仲間たちとの楽しかった日々で頭が走馬灯状態になっている幸福感なのだと思う。…少数説みたいだが自信がある。それは例えば吉田拓郎でいえば”ダウンタウンズ”での日々を思い出しているようなものではないかと思う。他人様の思い出を勝手に引き合いに出してすみません。
 しかしこの映画を観ると拓郎がことあるごとに、あんなにも大切にダウンタウンズの話をする気持ちがわかるような気がする。反対に、年齢を経てスーパースターになってもダウンタウンズのことをアマチュア時代の事と切り捨てず、むしろ今に繋がる音楽キャリアとして語っている拓郎を観ていると、この映画の最後のデ・ニーロの満面の笑みの意味がわかってくるような気がする。
 それぞれのかけがえのない「青い空」があるのだ。…俺にとっての「青い空」は何だろうかね…歳とともにだんだん答えが見えてきた気もする。

 ともかく主題曲、エンリオ・モリコーネの「デボラのテーマ」…いい曲だわ〜。とりあえずこの曲と我らが映画のテーマ曲「RONIN」を今日は繰り返し聴いていた。「RONIN」は何万回でも言うが、いい曲だねぇ。まさに映画死すとも主題歌死なず>すまん

2022. 9. 14

☆☆☆うの一撃to高杉☆☆☆
 気分がやさぐれているので、やさぐれているときはもっとやさぐれているものを観るに限るということで映画「RONIN」を観た>失礼だろ。すまん。正確には浅野温子に突き飛ばされて拓郎が土間に転げ落ちた撮影裏話を思い出しながら”RONIN”のそのシーンを見直した。当時のこの映画のぴあMOOKの浅野さんのインタビューによると浅野さんは監督とソリがあわず大喧嘩して撮影所を脱走して降板しかけていたらしい。だからか、浅野温子にはなんか投げやりな殺気を感じる。襲われる役なのだが、拓郎に「かかってきな」と凄んでいるように見える(爆)。
 拓郎が役作りのために見せられた「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」 (この映画とは言ってないけどたぶんコレ)のシーンとは随分違う。原映画ではデ・ニーロに思わず「やめろよ!やめてくれよ!」と叫びたくなる悲劇的なシーンだが、こちらのシーンは不謹慎で申し訳ないが「タクロー、しっかりして〜」というLIVE’73の客席のおねえさんの声が聴こえてくるようだ。
 しかもそこにまるで無頓着に流れている小田和正の歌声がいっそう切ない。結果的に悲劇的シーンでもラブシーンでもない、なんか不可思議なシーンになっている。だからといって決して美しかったり格調高かったりするものでもない(爆)。
 この映画の何年後かに武田鉄矢が「101回目のプロポーズ」で浅野温子と久々に顔を合わせた時に浅野さんから「どうも初めまして」と言われたという話…俺、好き。

 映画「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」は、あまり好きな映画じゃなくて昔ナナメに観ただけだったが、今回は観始めたら4時間の長尺にもかかわらず夢中になって観てしまった。もちろん俺が夢中になるのは、そこに吉田拓郎を勝手に思いこむからだが、それがどこかはまた。

2022. 9. 13

☆☆☆戦争は終わったA☆☆☆
 昨日と映画のタイトルが違うような気がするが。昨日は陰謀論が過ぎたかもしれない。進撃のゲルマン人:ローマ帝国逆襲編を書くつもりだったが調子に乗るまい。…ウマが合わない…なるほどそれはとても良い落としどころのような気がする。
 昨日も書いたとおりジャンルに関係なくそこに「吉田拓郎」という音楽がある。ある意味それで十分だ。
 しかし拓郎の場合は、フォーク等のジャンルあるいはジャンルに象徴される何かによって、ここまでひどく痛めつけられたミュージシャンは他にいないと思う。俺なんぞには想像もつかない。まさに身の置き所がないような悲痛事。わからないけどそんなことがあったであろうことくらいはわかっていたい。
 そういう状況をとおして思うと、広島から上京した名もなきガキタレに手を差しのべてくれた加藤和彦、彼からつながり吉田拓郎を自由な音楽の世界に連れ出してくれた松任谷、石川鷹彦ら優れたミュージシャンたち、四面楚歌の罵声の中「帰らなくていいのよ」と頑張ってくれたおねえさんたち、50歳にして希望の国のエクソダスになってくれたLOVELOVEあいしてる、そしていうまでもない御母堂ら御家族‥‥他人様のことながら、なにもかもがより胸に深くしみてくる。
 そして吉田拓郎のアウトロとはそれら恩ある方々へのていねいな感謝と報謝を描くことなのかもしれない。わかんないけどさ。

 個人的に忘れられない光景がある。2014年6月30日の吉田拓郎の東京国際フォーラムの客席。開演前にコンサート観覧に訪れた谷村新司が入場してきた。客席にはそぞめくように歓声が沸き上がり、気が付いた観客たちが一斉に立ち上がってスタンディングオベイションで迎える中、谷村は深く頭を下げて席についた。結構、衝撃だった。それを観て私は「ああ戦争は終わったんだ」と思った。諍いは遥か夢になり…取り残された感。ということでいろんな意味で老いた残党になってしまった星紀行の明日はどっちだ(爆)>知らねぇよ!

2022. 9. 12

☆☆☆ワンス・アポン・ア・タイム・イン・フォークソング@☆☆☆
 前回のANNGで拓郎は、細野晴臣・大瀧詠一とはずっとご縁が無かったという不思議さについて語っていた。これは俺の勝手な妄想というか殆ど陰謀論なのだが、細野・大瀧あたりのラインとの間には見えないカーテンが下りている気がする。同時代でありながら彼らのインタビューにも、彼らをめぐる評論の中にも吉田拓郎は殆ど全く登場しない。彼らの”はっぴいえんど”が日本語のロック革命を起こし、大瀧詠一の三ツ矢サイダーのCMがCMソングを変えた(ハブ・ア・ナイスディの方が先だったのに)などと吉田拓郎をまるっと無視してその時間軸での歴史が語られている。もちろん細野・大瀧が超絶偉大なミュージシャンであることは俺ごときが言うまでもない。

 ぶっちゃけ、当時、東京でプライドを持って音楽活動をしていた多くのミュージシャンたちは「広島からやってきたガキタレ」(拓郎本人談)のことがものすげー気に入らなかったのではないかと思う。しかもこのガキタレには、天賦の音楽の才能が溢れ、背が高くてルックスも良くて、何をやらかすかわかんないエナジーに満ちている。だからこそ始末が悪い。昔学校で習った世界史でいえば、ローマ人からみた粗野なゲルマン人のような感じか。ローマ人はゲルマン人を下に見ていたが実はそこはかとない脅威を感じていたというヤツだ。日本だと平安時代の公家からみた武家みたいなものかと思う。
 ともかくこういう輩への最良の対処は、自分たちの音楽とは関係ない世界の人だということで境界にカーテンをおろすことだ。あの輩は「フォークソング」だから、「日本語のロックの自分たち」とは音楽的にも全く関係がない。いや、細野・大瀧らが実際そう思っていたかはわからないけど、とある音楽評で、吉田拓郎とはっぴいえんどの功績を讃えながら、両者には「殆ど接点はない」と断じ「細野・大瀧両名は、吉田拓郎が、目の上のタンコブだったに違いない。」という率直なコメントに思わず唸った(長谷川博一「ラヴ・ジェネレーション 音楽の友社ムック」P.43)。
 先日の松任谷正隆とのラジオで拓郎は「ファンは吉田拓郎がフォークでいて欲しいのだ」と語ったけれど、それは拓郎ファンではなく、当時の都会のロック系ミュージシャンや彼らを支持する音楽ジャーナリズムのことではないかと思う。例えば「ライブ‘73」とか「今はまだ人生を語らず」がロックに分類されたら、これを超えるロックアルバムってありますか?とかいう議題になった時にいろいろ面倒じゃないの。あれはフォークのアルバムだからとカーテンの向こうに置いておくという処世術を感じる。しつこいですが、あくまで個人の感想、妄想です。

 ということでフォークに追いやられた吉田拓郎をフォーク界はどう迎えたかというと、関西フォーク=フォークの牙城からはガチ嫌われていたことは有名な話だ。挙句の果てに、これもまた前回のラジオでも語られたとおり、全国的にフォークファンから「商業主義に身を売った」と罵られ「帰れコール」を浴びて「こんなヤツはフォークじゃない」と石を投げられたのである。俺が中学生の頃にも「吉田拓郎はフォークの裏切り者だ」といっている兄さんたちが実際に何人もいたものだ。70年代は良かったなとか思うこともあるがロクでもないこともたくさんあった。

 あっちではアイツはフォークだと敬遠され、こっちではアイツはフォークじゃないと面罵され、これじゃ日々を慰安が吹き荒れて帰ってゆける場所がない。吉田拓郎、三界に棲み家なし。つらかったろうに。
 「僕は愛されていなかった」という言葉を拓郎は最近何度か口にしたが、本人の真意はわからないが、こういうことも理由のひとつなのではないかと勝手に妄想する。そして妄想ついでに言えば、もし俺が拓郎だったら「フォークの畳の上で死んでたまるか」と思うに違いない。しかもその畳が四畳半だったらなおさらだ。いみふ。俺は吉田拓郎はフォークではないとずっと思ってきたが、それでも最近顕著に繰り返される「フォークじゃない」発言には、もういい、わかってるよと少し辟易していたが、まだ足りない、まだ足りない、まだ心が軽い。

 それでも拓郎は、たとえば"はっぴいえんど"も"YMO"を心の底から高く評価し、そこにはなんの屈託もない。既成のジャンルからはことごとくスポイルされどこにも属さなかったがゆえに、自分だけの自由な音楽をつくりあげたのだと思う。そこが我らが吉田さんの凄いところだ。
                                 …たぶん続く

2022. 9. 10

<オールナイトニッポンゴールド 第29回 2022.9.9>

 面白かったけれどとても全採録はできない。

☆オールトゥギャザーナウ
「1985年にニッポン放送も主催していたIYYのライブイベント、ほとんどの有名なミュージシャン全員集合した最初で最後だった あんな凄いメンツはなかった。しかし意外とエピソードとして残っていない。」

 御意。歴史に残る素晴らしいイベントなのに映像、音源を世に出さなかったから、なんとなく一夜限りの幻になってしまったのではないかと思う。レコーディングまでしたのだし、映像もありそうなので、今からでも公式で大切な歴史遺産として出すべきだと強く思う。

☆単独作詞
「テーマソングも詞を書いてくれということで1週間くらいで慌てて書いた、小田和正とかユーミンが曲をつけた。」

 ということで吉田拓郎の単独の作詞だ。ハイ、これ大事。詞は小田和正が書いたとか、共作だとかいい加減なクレジットや記載があるが、吉田拓郎さんひとりの渾身の作詞です。滋味掬すべき作品なのだ。http://tylife.jp/uramado/alltogethernow.html ったく自分で読み返して自分で泣けてきた。バカの極みだ。

☆はじめての坂本龍一
「楽屋でみんなと仲良くした覚えがいない」「坂本龍一とは現場で生まれて初めて話した」

 坂本龍一はこの時のことをこう書いている。

「彼とは一度会った。暴力的だと聞いていたが。そうは感じなかった。むしろ自分でもコントロールできないくらいのシャイネスを持っているように見えた」(ブックレット「TAKURO」フォーライフ1986 p.38)

 これ好き。初対面で見事に看破しているような気がする。

☆細野晴臣問題という闇
「その後、細野とは会ったことがない、なんで口をきかなかったんだろう」「悔いがある」 
     
 音楽界のヨーダ、細野晴臣。確かに拓郎とは接点を観たことが無い。以前も書いたが、かつて松本隆のこんな発言がある。
「拓郎は細野さんとはうまくいかないんだけど、茂と僕は親和性がある」(ミュージックマガジン2015年7月号松本隆ロングインタビューP.30)
 しかし拓郎が細野氏を嫌っていないのは、今回の放送で明らかなので「嫌われているのか(笑)」説が濃厚になってくる(涙)。というより何かの見えないカーテンがある気がする。それは単に当事者の好き嫌いの問題とは思えない。現代のJ-POPにはびこる「行き過ぎた”はっぴいえんど”は偏重史観」(※個人の感想です)は、こういうところにも原因があるのではないかと俺は思う。いつか詳しく話しあおうではないか。松本隆、最後の仕事だ。アナタのチカラでなんとか二人を邂逅させて世界をより豊かにしておくれ。フォースとともにあらんことを。

☆ありがとう小田和正
 コロナで復帰した小田和正、広島2日公演で初日「夏休み1番」、二日目「夏休み2番」を歌う。2日間、通い詰めて涙する田辺さんの奥様。「俺のも二日来い」いいなぁ。二日やってくれよ〜。小田和正、朋輩感がみなぎる。

☆レコードの音
「便利だけどスタジオの音をDATで聴くと温かい音が、CDでは違うなということが当時の印象としてあった」「アナログよりやや冷たい」「レコードには音のあたたかみはダントツある」  

 先輩サイトのあの方、レコードプレイヤーを買ったのは、やはりすごい。辛口だがやはり深い魂のファンだとあらためて思う。
 
☆“花酔曲”はデモテープ
 デモテープ公開はすべて博愛。だから嬉しい限りだ。
 
☆?
「”マークU’73”こんな編成が好きだなということだけ言っとこうかな」…なんか含みがないか?それともなんかやろうとしているのか?

☆共同記者会見
 菅田将暉と記者会見したのは「ラジオでナイト」が当時「最後のラジオ」というふれこみだったからだ。最後にならなかったけど(爆)「拓郎さんのようにまた始める」菅田将暉いいぞ!

☆美少年の系譜
 ドキドキさせた御三家「原田真二」「堂本光一」そして「菅田将暉」。でも堂本剛とチューしてしまう吉田拓郎。ということは四天王か。

☆LOVELOVE最終回のゲスト候補は、菅田将暉と稲垣来泉。

☆「百花」と「認知」
「家内の母も認知症だった、最後数年は僕のこともわからなくなって淋しかったけど、それはそれで天使のようだった」「記憶がないのは辛いし、その人は見ていると血のつながりはないけど素敵なキレイなお母さんに見えてきた」「そういう話って現実はとても大変なことで頭の中が実は認知症は素敵な人生を歩んでいるんじゃないか頭の中スッキリして苦しみから逃れてハッピーに天国にいこうとしているようにみえた」

 菅田将暉の認知症になられたおばあさんが、大将と本名で呼んでいたのが、将暉、将暉と呼ぶようにもなってきた。どうやら大将と将暉と二人の存在ができ上っていたらしい。この話にも涙ぐんだ。いろいろあり個人的に打たれた。"ah-面白かった"という歌があらためて胸にしみる。

☆祝手縫いのジージャン
 念願のジージャンの思わぬ贈呈、”じーちゃん”良かったなぁ(爆)。撮影しなきゃならないものがあって…撮影ってなんだ?…は置いといて、こりゃあ拓郎たまらんわな。ジャストサイズ=「僕と背丈変わらないと思ったから」。嬉しい。ありがとうございます、とファンからも御礼を言いたい。

☆デ・ニーロの役作り
 映画RONINの浅野温子とのあの土間のシーンはロバート・デ・ニーロの映画で役作りしたのか。たぶん間違いなく「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」だよな。デ・ニーロが車中でデボラを無理矢理してしまうシーン。そう思って観なおす。いやぁ…。見事な演技力のコントラスト。すまん。

☆役者のトランス
 演技中にトランスして記憶が無くなる。日常の所作に役柄が反映する。これってそれこそデ・ニーロとかアル・パチーノらのメソード演技だ。菅田将暉の演技は、時々若いころのアル・パチーノのトランスしたときの狂気がみえる。役者としての将来がとても楽しみだが、確かに危ない。アル・パチーノはそのために消耗してかなり演技者人生に影響が出てしまったので心配だ。

☆ライブのトランス
「それ(トランス)がないステージだとやった気にならない、シャウトして、客席が反応して、ミュージシャンがエスカレートしないとやる気にならない。」
 観客もご一緒に常にトランスするのだ。それがライブの妙味。もうあの瞬間は他の歌手では味わえない。

☆さんまのまんまの”人生を語らず”の弾き語りが菅田将暉の歌手のキッカケだったのか。誇らしきかな。

☆最終ゲスト
「実は篠原ともえにはこのアルバムを作る前からデザインを頼んでいて、僕に対してデモテープができたら一曲一曲全部私にも聞かせてといわれて、そのたびに篠原にデモテープを送っていた。篠原からは新曲を聴いて必ず僕に対してお褒めの言葉をもらった。とても素敵な曲で踊り出してしまった、この曲はしんみりしました。これが励みになってチカラが湧いてきた。」

 そうか。最後は篠原ともえなのか。隔世の感がある。ミュージシャンはひとりぼっちなんだというかつての拓郎の言葉を思い出す。一曲一曲がそんなふうに支えられていたのか。

☆音がらみ
「女性の大活躍が社会を動かす時代が来ているが、70年のはじめ「吉田拓郎は商業主義に身を売った」ということで不粋な男たちから帰れ帰れという罵声や冷たい視線を客席から浴びていた。
 そんな中で、ひとかたまりの女性たちが、罵声の中でじっと耐えて小さな声で
  拓郎、歌え〜
  歌うのよ〜
  あなたの唄が聴きたい〜
 一生それが忘れられない。それが励みになった。ヤジにかきされそうになりながらそれでも席を立たないで応援してくれていた。武道館だったが、忘れられない。頭に残っている。
 ああいう彼女たちのようにシンプルに音楽を愛する女性独特なやさしさ、真実が支えになった。たくさん支えになってくれてそのことを誇りに思う。それからも音楽をするとき支えてくれていたのは優しい視線だった。目をそらすことなく現代を見つめながら生きたい。」

 俺は不粋な男性だが心意気だけは、そのおねぇさんたちのあとについてゆきたい、そっち側の人間でありたいと思う。なかなかうまくいかないが。

「ラストだ、ラストだと言って、リタイアを決めたのは、イメージの詩の中で
「古い水夫は知っているのさ、新しい海の怖さを」とあるが、僕は古い水夫だ。粗しい海の怖さや危険はわからない。新しい海に漕ぎ出していく水夫ではないと自覚している。これまで応援してくれた方たちに答えて僕がリタイアするのは正しい判断だと思う。吉田拓郎個人の話です。これからも時代というものから目をそらさないでいたい。」
 
 新しい水夫たちの船に船長として乗り込んで海に出ませんか? と思った瞬間、心のトムさんが叫ぶ。「うるさいなっ!拓郎さんがリタイアが正しいっていうんだから、正しいんだよ!」
 …来月楽しみにしております。

2022. 9. 9

☆☆☆それも自由だと☆☆☆
 "勲章を与えてくれるなら女王陛下から貰ってしまおう"…贈る方も貰う方もイキだねぇ。その後ベトナム戦争に抗議して心を込めて女王に勲章を返すジョン・レノンにもしびれる。貰おうと返そうと心のうちに息づく確かな敬意。薄っぺらな西洋かぶれの俺にはひたすらカッコいいなぁと憧れてしまう。そして8日にバッキンガム宮殿に虹がかかったというニュースを観てまた嘆息した。心からご冥福をお祈りします。

 松任谷の興奮醒めやらぬまま今日の菅田将暉だ。おかげで日々が濃い


 それにしても自宅にレコードプレイヤー…羨ましいなぁ。

2022. 9. 8

☆☆☆我が心のブラザー・トム☆☆☆
 かつて「LOVELOVEあいしてる」で観たプラーザ―・トムのキレ芸が大好きだった。トムさんお元気でしょうか。LOVELOVEで会いたかったな。
  拓郎「ねぇ、今日は”オンナ”の話しない?」
  Kinki(イヤそうに)「え〜、何の話するんですか〜」
  突然トムさんが立ち上がって
「うるさい!拓郎さんが女の話するって言ったら女の話するんだよっ!」
 また別の拓郎の話にKinkiが「拓郎さん、そんなのあり得ませんて」と否定的なツッコミをするとまたトムさんが立ち上がって「拓郎さんがそうだと言ったらそうなんだよっ!」とキレる。迷惑そうな拓郎の様子も含めて大好きなキレ芸だった。この芸のおかけで何かあると私の脳内でトムさんがキレるようになった。
 先日も松任谷正隆とのラジオで「僕の音楽が中島みゆきと近いと思っている人は多いけど、僕の音楽はユーミンに近い」と言った時「ええ〜ホントかよ、近くなくて誰が"ファイト!"をあそこまでカバーできるんだよ」と疑った瞬間、私の脳内のトムさんが「うるさい!拓郎さんがユーミンだと言ったらユーミンなんだよ!」とキレた。
 なので拓郎を信じる。信じるから「ルージュの伝言」でも「守ってあげたい」でも「春よ来い」でも何でもよい。拓郎のユーミンのカバーを聴いてみたい、実は拓郎節だったのだと目からうろこを落としたいのだ。脳内のトムさん拓郎さんが拓郎節と言ったら拓郎節なんだよっ!とキレてくれ。

2022. 9. 7

☆☆☆マンタ余聞☆☆☆
Ⓣサックス・ソロなんてゼロだろ。ジェイク・コンセプシォン…
Ⓜジェイクね。ジェイク亡くなっちゃったもんね。
Ⓣジェイクのソロとか楽しかったけど、ああいうのは今はないよね。
      「松任谷正隆の…もっと変なこと聞いてもいいですか?」より
 こういう会話を聴くと、ジェイクのソロがたまらなく聴きたくなる。数あるプレイの中でとりあえず「もうすぐ帰るよ」(TAKURO TOUR 1979)を聴く。この間奏と後奏のサックス・ソロは何度聴いても涙が出る。これでもかと心にたたみかけてくる。そうかこれも松任谷正隆のメロディ―と差配だったのか。すばらしい。

 1979年といえば篠島は本当はやりたくなかった…とはあんまりじゃねぇか。こちとらは高校生なりに人生を賭けたんだぜ。林間学校脱走して単身命がけで乗り込んだ中学生だっている。しかし、俺も拓郎が魂をこめた作品たちに平気で悪態をついたりするので文句はいうまい。
 それより雷も落ちず、台風も来ず、無事に篠島は開催されたことを音楽の神様に感謝したい。てか、「ああ青春」で一瞬稲光があったよね。拓郎の神通力の恐ろしさ、危なかったな。そうだ、その稲光を凄い照明だったね…と感心していたのが松任谷正隆という逸話…たまらなく好き。

 そしてこの篠島が嫌だったというエピは、吉田拓郎がどれだけビックハンドに魂を捧げていたかということを教えてくれる。それからも何十年と続くこのビッグバンドへの心意気こそ尊い。
 それにしても7月5日に金沢でツアーが終わって、篠島が26日からでしょ。その間にビッグバンドで60曲って素人が考えても圧倒的に時間が足りないよね。1週間くらい後ろにずらしたら良かったのではないかと思う。1週間延ばしたら…おい丁度8月2日だぜ。

2022. 9. 6

☆☆☆ひとつの林檎の木の下で☆☆☆
 シンガーのおおたか静流さんの訃報を聞く。といってもたった1枚のCDを聴き続けていただけの外様ファンの私だ。15年くらい前にとある拓郎ファンの方からコレいいんだよと薦められたのがキッカケだった。
 ♪泣きなさい〜笑いなさい〜という喜納昌吉の名曲「花」をCMでカバーしてあまねくに知らしめたのは彼女だ。その他にも「悲しくてやりきれない」「アカシヤの雨がやむとき」「ゴンドラの唄」などのカバーも入っている。
 その拓郎ファンの方が「絶品」とイチオシだったのが「林檎の木の下で」だった。映画「シコふんじゃった」の主題歌でもある。私らの間で「絶品」というのは「吉田拓郎を感じる」ということだ。拓郎がor拓郎を意識したかどうかは関係なく、時には私らの思い込みかもしれない。しかしまるで吉田拓郎の歌を聴いている時のような幸福な気分になるという大切なモノサシのことなのだ。
 この作品も元を探るとアメリカンスタンダードのようだ。いい歌だ。

  林檎の木の下で
  明日また会いましょう
  なんにも言わぬこころ
  逢えばみんな通う
  楽しく微笑んで
  星に呼びかけましょう
  しあわせ いつもいつも
  二人を守れよと

 シンプルで陽気でそして明るくて…こういうのって確かに日本では拓郎にしかできない音楽世界と通底している気がする。
 そして静流さんのあえて行間を埋めようとせずに、むしろ行間を柔らかに解き放つようなボーカルがまた素晴らしいのだ。不明な私だが心の底からご冥福をお祈りします。これからも聴かせていただきます。

 松任谷正隆とのラジオで、意識するとしないと、好むと好まざるとにかかわらず、音楽はその人に入り込んで影響を与えるという話があった。いい話だった。それと同じかもしれない。
 しかしことフォークとは何か、歌謡曲とは何かという境界線の話に及ぶとそれは違う!ということで難しい話になった。想えばこれまで人類は境界線と国境をめぐって戦い続けてきた(爆)。想像してごらん境界なんてないことをと歌ったジョンレノンを思い出す。そんな歌詞じゃないか。とにかく俺にはフォーク、歌謡曲、ブルースそれらの境界とかはもうわからん。吉田拓郎が広げてくれた世界を泳ぐだけである。

 ジョン・レノンといえば、ビートルズよりローリング・ストーンズ、家ではストーンズのビデオだらけと語った拓郎が超絶嬉しい。その話はまた。林檎の木の下で明日また会いましょう。
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2022. 9. 5

☆☆☆OK!高中☆☆☆
 今日はアルバム「サマルカンド・ブルー」の発売日。あれからもう36年とは,ご無体な。松任谷正隆とのラジオでエールを送り続けた四天王の加藤和彦と高中正義。高中のギター…やっぱりいいわぁ。"レノン症候群"の心にしみいる音色、"パラレル"の間奏の空に登ってゆくようで爽快なギター、"人生キャラバン"の堰を切ったようなドラマチックな間奏。時が経てばわかることでも,その時はもう遅すぎる…安井かずみさん、御意。

2022. 9. 4


☆松任谷正隆の…もっと変なこと聞いてもいいですか?(完)☆


 なぜこんなに呪われたように採録しているのか自分でもよくわからない。しかしこれはしかと胸に刻んでおかなくてはと思った。ということで前半、後半、起こす。本放送の話の他に、篠島の話、中島みゆきの話、あいみょんの話、ストーンズの話、そして今の音楽の中で立ち尽くすような二人の話…貴重だ。いうまでもなく、ただの備忘録なのでとにかく是非、何を差し置いても。生の音声を直接お聴きくだされ。

(前半)


 マンタ―、久しぶりー。


 マンタでいいのかな?


 俺もなんて呼んでただろう


 拓郎って言ってたじゃん。歳下だけど。


 いやこんな日が来るとは、感慨深いよ。


 それは僕も。


 ミュージシャンで最後に会いたい人が何人かいる。ニッポン放送ですれ違ったのが最後でしょ。松任谷と会って話してないなと思って。テレビでは観てる。でも車の番組で音楽の話はないし、相変わらず車が好きなんだなと。話すチャンスないかなと思ってたんで嬉しかったよ今日は。たぶん僕が他人の番組に出るのはこれが最後だよ。


 ウソ〜


 もう出たくない。いろいろ話すのも嫌だし。篠原の番組が最後と思ったけれど、マンタだというので音楽の話ができると思ったから、篠原とはデザインの話だったから。
 篠原は、いろんなところでデザインの道にすすむ背中を押してくれたのは拓郎さんだと言っているけど、そんなことはない。
 中途半端なことしていないで、何か好きなことはないかときいたら、絵をかいてくれて、それじゃデザインの道へ進めよと言ったらしい。酔っているから憶えていない。


憶えていないの?


 でもどうしたって、背中を押してくれたデザインの道を開いてくれたのは、松任谷がユーミンの衣装をデザインを任せてくれたからだろうと言ったら。そうです、松任谷さんですって言い始めて(笑)。


酔っぱらってもそういう一言って大事だったりするよ。


 今日、自分でキャリアの最初のころのことを思い出すと、僕の一番最初って知らないでしょ?


 ああ一番最初って知りたい。なんで加藤和彦が、松任谷、林立夫、小原礼、を連れてきたのかイキサツを知らない。


林と加藤さんは既に知り合いだった。


ミッチーはその頃ドラムやっていたの?


たぶん。


 林と僕はアマチュアシンガーソングライターのバックで、東急百貨店本店のコンテストに出ていてその審査員が加藤さんたったの。


 トノバンだったのか。


 2週間後に加藤さんに呼ばれて東芝のICステレオ「ボストン」のCMで生まれて初めてのスタジオという場所だった。


 加藤和彦なんだ


 だから僕を拾ったのは加藤さん。その時、ピアノを弾いて1万3000円貰ったの。えーピアノ弾いて1万3000円貰えるのと驚いた。で、僕はそういうのはこれで終わりだろうと思っていたの。
また2週間後、今度はテイチクのスタジオに来てくれと言われて。あのスタジオの光景は死ぬほど覚えているし、そこにいらっしゃられて(笑)。加藤さんがハーモニウムを持ってきた。


 そうそう。


 僕が弾いて。だから吉田拓郎が僕の初めてのレコーディングだった。


 俺ね、今日話したいこといっぱいあるんだけど、いい?


 言って。


 広島から海のものとも山の者ともつかないガキたれが東京出てきて夢は大きかったけど、最初が通信販売のエレックレコードだったの。マンタに最初に会ったのは「人間なんて」はエレックのアルバムだったの。


 ああ、そうだね。


 「人間なんて」というアルバムでは加藤がセッティングしてくれたけど,それまで会社が紹介するミュージシャンがジャズのおじさんとかの古い人ばかりなの。当時俺は譜面書けないし、ギターでこういう歌ですって聴かせると、びっくりするくらいわけのわからないアレンジになってくるわけ。
 僕はR&Bのバンドで岩国の米軍キャンプでエレキギター弾いていて、ロックだったんだけど、フォークが流行っていたんでその中に入れられた。だからフォークギターは弾けないの。


 そうだったんだ。


 エレックはフォークとして売ると言うことで、何のことかわからないで会社のいうとおりにしていたの。「青春の詩」というアルバムを作ったんだけれど、アレンジはひどいのでも、もう今は絶対聴きたくない。
 そのことを加藤和彦とラジオ関東の番組で会った時に相談した。加藤君はもう超有名だったからね。いっぱい曲書きたいけどどうすれば、いいアレンジとかいいバンドとか、どうやっているのって尋ねたら、そしたら「俺が手伝おうか」って言ってくれた。
 エレックとはもう一枚アルバム作ることになっていたから、「結婚しようよ」、「どうしてこんなに悲しいんだろう」で加藤君が呼んできたのは君たち(松任谷正隆、林立夫、小原礼)…全然知らなかった。でもそれまでおっさんたちだったので、若い人たちとできるのが嬉しくて。
 やっぱりレコーディングはこっちだよな、若いミュージシャンとレコーディングするとわかりあえるし、話が通じ合うと面白いし、いい音ができると思った。


 話は長くていい?


 いいよ。


 「どうしてこんなに悲しいんだろう」もコード進行だけ渡したら、加藤和彦がアコギで
入れてくれて、B3で間奏を松任谷正隆がその場で弾いてくれた。あの間奏が素晴らしい。
ぶっ飛ぶような、その場で作ったのにまるで家で準備してきたようなすばらしいメロディーだった。


 ホメてもらった印象ないけど(笑)


 あんときゃまだわからないの、後になってありがたみがわかるの。

 どうしてこんなに悲しいんだろうのB3のオルガンソロのそのあとレコード会社をソニーに移ってそこでアルバムを作ってマンタにも手伝ってもらうんだけど。
 「(今はまだ)人生を語らず」というアルバムの「人生を語らず」という歌を作った時に

 コード進行だけ渡したら松任谷がヘッドアレンジをしてくれて、松任谷が平野兄弟のドラム・ベースに(Ⓜ懐かしいな〜)こういうリズムでと指示して、ギターは矢島だったんだけどワウワウ使ったらどうかとか、そして間奏にコード進行しか渡していないだけなのにソリーナを持ってきた。これがまた、どこでどうしてこのこういうメロディーがポンと出てくるのかというくらい凄いのよ、松任谷正隆という人が。奇跡のようで。松任谷正隆のこのメロディーは今も50年経って今でも同じメロディーでライブをやっているんだよ。

ⓣⓂ
ターンタターターンターンタン。


 誰も変えられないの。何回もツアーでやったけど、どんなアレンジャー、どんなバンドでも、ミュージシャンも変えたけどあそこに行きつく。50何年間だよ。あの松任谷正隆のフレーズを誰も変えられないのよ。すごくない? 


 最初のオリジナルってそういうもんだよ。


 でもこんなのは僕は無いよ。


 余分だけどギタリスト高中正義のライブ'73ってあったんだけど、 松任谷にもいてもらったけれど、あの「春だったね」あのイントロ、あれも50年間変わっていない。


 あれは拓郎だよ。


 オルガンでしょ?エレキはオルガンと違う。オルガンのイントロはマンタに言った覚えがある。高中がその場でやった。加藤和彦という人のアイデアマンとしての凄さ、松任谷の天才としか思えないメロディーの作り、その場で浮かんでしまうんだから、高中のギターその場で浮かんだギター、50年間変えられなかったというのは加藤和彦、松任谷正隆、高中正義そしてフォークギターというものを教えてくれた石川鷹彦、彼からはフォークギターについて教わった。この四人は僕を育ててくれた「四天王」と呼んでいる。


 初めて聴いた(笑)


 この4人がいなきゃ今の僕はいない。絶対ない。


 まず吉田拓郎は絶対最初に「言葉」から入ってきた。考え方から入ってきたから、生粋のフォークって信じて疑わなかった。それがR&B?


 フォークってよく知らないのよ。だから松任谷にはあの頃はボブ・ディランとバンドの話をよくしていて、俺がボブ・ディラン、松任谷がザ・バンドというようなバンド編成とかアレンジをしてくれとよく言っていた。僕は、ボブ・ディランはロックシンガーと思っている。


 そうね。


 フォークって、日本だと四畳半フォークとか言っちゃ悪いけど演歌みたいじゃんとか思ってて好きじゃなかった。アマチュア時代は岩国の米軍キャンプで黒人相手に歌ってたのが、フォークということにになった。でもフォークだったから売れたし、俺はロックだと言ってやっていたら売れていなかったかもしれない。ブームは怖いものだ。
 そこでアコースティックギターをもっと勉強しなきゃと思って石川鷹彦にスリーフィンガーとかどうやって弾くんだいと教わったし。


 何ツアーかい一緒に回ったけれど確かにフォークとは思わなかったな。でも最初はフォークとは絶対に思ってたよ。


 松任谷はフォークとか知らなかったでしょ



 いや僕はキングストントリオとかさ(笑)


 実は松任谷正隆ってバンジョーとかフラットマンドリンとかうまいじゃん、みんな知らないよ。みんなは君のことはキーボーディストで車に詳しい人と思っているだろうけれど。かまやつひろしが歌った「我が良き友よ」のバンジョーも松任谷だよね


 あれ俺なの?こないだ新田さんに会ったらあれは俺の弟だったとか言ってたけど。


 違う、違ういや松任谷だよ。あれはオーバーダビングで松任谷に頼んだもん。エレキギターは高中だし、これもオーバーダビングだった。マンタ、高中の超豪華なセッション。あのバンジョーを松任谷だと知っている人は少ない。瀬尾が全体のアレンジしたんだけど、俺がバンジョー入れたいと言ったら、誰かいないと言われて「松任谷めちゃくちゃバンジョーうまいよ」と言ったら「えー知らなかった」って。他にもアコースティックな楽器で俺のいろんな曲でフラマンとか入れてくれてる。今でもフラマンとかバンジョーは弾けるの?


 こないだバンジョー2本買った。すごい好きなの。フラマンも欲しいけれど弾くところがなくて。


 バンジョー、フラマンを必要しているレコーディングってないでしょ。


 凄いダビングしたのは覚えているよCBS、(前田) 仁さんがいて。


 六本木の1スタだよね。


 松任谷がリーダーとなってツアーを結構回っているよ。


 知ってる。


 当時、沖縄が返還された直後で松任谷が沖縄を外国と勘違いしていて、今でもみんなであの時マンタがこう変なこと言ってたってあるんだけど(笑)。


 え、なにそれ?


 キミが今どういう人かは知らないけれど、あの頃君は全然世間知らずだったの。


 ああ、確かによくそういわれた記憶はある。


 沖縄でも突飛なこと言って、みんな目が点になったことがある。ラジオで言えない。


 言えないのか。


 北海道の札幌で行きつけの店があって、新しいミュージシャンはそこのオババの洗礼を受けてすごいキスをされるというのがあって、松任谷もだったけど、駒沢裕城…駒子と松任谷の人格があれから変わってしまった(笑)


リハーサルは赤坂のスタジオだったね、つま恋でもやったね。つま恋も懐かしい。


 75年のつま恋はいっぱいトチっている。あのときの全編のライブの音ノーミックスで俺だけが持っているけどほとんどの曲が間違っている。DVDになってるのはちゃんと弾けたのを選んだだけ。あの頃はPAもいいのがなくて。


 そうだった?


 ない。モニターもいいのがない。演奏で今どこをやっているのかわかんないし、松任谷のイントロも延々と長くてどこからはいっていいのかわからないのがあった。


 それはあったね。一曲目でトランザムの♪ひ〜と〜つと(Ⓣああ青春)いう、あ〜れがすっごい記憶に残っている。


 怖かったよ。


 だよね。


 5,6万人いるからさ。


 人があんなにいるのを初めて見た。


 すっげ怖かった。ステージに出る前に袖でウィスキーあおって、バンドもみんなも怖いよ怖いと言ってウイスキーひっかけて、だんだん気持が変な方向に行って(笑)演奏がグチャグチャになった。


 そうかな?あそこのコーナーが一番ステディだと思っている。


 いやステディだったのは松任谷とやった2部が一番まとまっている。1部10何曲のうち4曲くらいしかできていない。ひどいんだよ。


 瀬尾たちが最後に出てきてオーケストラで演るんだけど、もうテンポがめちゃくちゃ、すげー速く始まって、違うって途中で言って徐々にテンポが遅くなったりね、めちゃくちゃなライブ。


 瀬尾ちゃんの時は、僕はオルガンで参加している。だから夜明けが観られた。


 そうそう。


 あれはキレイだった。


 そういうのを憶えているんだ。


 すっっごい覚えている。


 俺は夢中で観ている余裕なくて最後に「人間なんて」を歌いながら、日の出まであと30分、あと10分とか袖で指示出されてシャウトしているけど限界でさ。めちゃくちゃ限界で終わった後ぶっ倒れて。


 あのころってさ、音楽とかに限らず集まってみんなとセッションするのが楽しかった。出来がどうとかでなく一緒に音楽する、一緒の時間を過ごすのが楽しかった。


 僕もあれでツアー回って他の誰かとツアーを回りたいたいとは思わなかったもん。その後(笑) やっぱりツアーっていえば吉田拓郎でしょ。あれでイイや。


 あの頃の俺たちは育ちがよくなくて荒くれ物の集団だったけど、松任谷だけ、この人どっから来たのという感じで雰囲気が違っていた。松任谷もフンとしてた。


 そんなことないよ。お酒飲めないし。


 お酒飲まないし人付き合いもしない。みんなが楽しんでいると輪に入ってくるけど
自分からはワイワイ騒がない。無口だった。独特の立ち位置にいたのよ。


 例えば、松任谷が連れてきたエルトン永田。


 ああ、いたね。


 俺がダブルキーボードが好きだからB3とピアノが欲しいということだったのでエルトンを連れてきた。エルトンとかその他のミュージシャンはみんなプレイはマンタをコピーしている。そっから始まってる、聴いててわかるの。


 それはオリジナルだからでしょ。


 ここは松任谷さんとは違う、ということをやる勇気がない。(松任谷は)付き合いにくいとかどっか違うところに置いているけど、みんな頭の中にある。
 コード進行の紙きれ一枚を渡して、それをその場でギターでこういう曲だと歌うと、松任谷がその場でまとめて各ミュージシャンドラムベースに指示するヘッドアレンジ。エルトンとかドラムのミッチーもいるけど島村(英二)とかあの頃の連中はみんな松任谷に影響を受けている。それがすげーわかる。
 松任谷のアレンジは独特で凄いのよ。ほんとにすごい。特にリズムセクションの作り方が天才。君は文句なしあの時代だよ、ドラムのサゼッションが凄い。


 記憶が改善してるんじゃないの


 今聴いても凄い。今日かけたいとお願いしたのが「戻ってきた恋人」という曲があるんだけどドラム・ベースのアレンジ。あれはその場では思いつかないよ。♪テケテケテケテケットットというやつ。元の曲はエイトビートなのに、俺なんか目がクラクラするよ。


 それ聴くとニューオリンズだね。ニューオリンズをやりたかったんだね。


 あの時代になんでフラマンとかバンジョーとか好きでブラフォーの可能性もあったのになぜニューオリンズか詳しいのか どこにルーツがあるの?


 僕らの共通点のディランとバンドがあるじゃない。ザ・バンドが「ロック・オブ・エイジ」というライブアルバムがあってそのホーンセクションのアレンジをアラン・トゥーサンがやって、アラン・トゥーサンをたどってゆくとミーターズというバンドにいきつき、そこらはドクター・ジョンとかニューオリンズがいるわけ。


 松任谷あの時は二十歳前だよ。


 二十歳くらいかな。


 そのころに70年代にニューオリンズを持ってきて、これをやれって人はいないよ。


 変わってたのかな。


 あのアイデアは凄いよ。二十歳そこそこでああいうのやっちゃうんだもん。「戻ってきた恋人」あのリズムは今でも気持ちいいよ。これはステージではできない。


 聴いてみたいな。


 聴いてみて、「戻ってきた恋人」。


 僕の自分のキャリアの中で「どうしてこんなに悲しいんだろう」というのは自信作だね。


 あのソロはすごいもん。


 全部克明に憶えている。だから僕も一緒にキャリアを過ごしたなという気がしている。今もバンドをやっているんだけど、


 ミッチーとか小原とかと。


 ザ・バンドみたいなのをやりたい。自分の中に色濃く残っているのは、あの頃に拓郎と回ったあれを自分が目指したかったのかな。


 あの頃ザ・バンドとか好きだった人って当時いない。


 最初にバンドの話が出来てすっごい嬉しかった。ザ・バンドを好きになったのは、キングストントリオが一人だけになって、ニューキングストントリオが出来た時、そのアルバムに"the weight"が入っていたの。


 キングストントリオが"the weight"を?


 そこから入って、ザ・バンドに行った。二十才の頃にいろいろ吸収するでしょ。あの頃の音楽が身体を作っている。あの頃にやった音楽、回ったツアー、レコーディングものって。僕はもっと洗練された音が自分のルーツだと思っていたけれど、あらためて実際に演ってみると「え、俺こんなに泥臭い、どっからきたの?」と思ったら、それこそ拓郎とやってたころのシンプルなロックだった。


 それは最近の心境の変化?


 そう。


 そうなんだ、初耳だ。


 今度自分で曲を書いてみて男で70歳その年齢層の曲作りたい、自分自身を出したいと思ったら、あの年代に作られたものだった。どこかブルース…あれ、ブルースって拓郎だよなと。


 この間のアルバムでも武部、鳥山でブルースをやったんだけど、今、ブルースってないよね。誰もやんないよね。


 僕が最終的にツアーをいくつかやって僕の中の吉田拓郎像って…ブルースシンガーなんだよね。


 アルバムライナーノーツにも書いたんだけど、誰もブルースをやらなくなって、歌わない、作らない。最近はブルースなんて俺一人くらいか、年取ったなと思っていた。最近の流行はブルースの「ブ」の字もない。もうダメなのかな。


 いや、そんなことはないよ。絶対ない。


 最近、作り方が変わってきたって武部や鳥山から聞いていたんだけど、打ち込みでやるんだって?それはどういう心境?


 打込みは昔からやっていた。それこそYMOの出た頃から打ち込みソフトは 持っていた。デモテープも作っていて打ち込み好きだった。アイドルに提供するときもデモテープを作ってアレンジャーに渡していた。
 途中から飽きて生の音がいいと思うようになったりしたけれど、今回コロナでセッションできないので、リモートでできないかということで、鳥山とか武部からテクノロジーを教わってレコーディングしたんだけれど、新しいもの好きだから。なんだこの気持ちいい感じは、一緒にセッションするよりもよりセッション風なものができる。凄い体験だったし、楽しかったな。


 僕は拓郎のほんの初期の吉田拓郎しか知らない。その後を知らないんだよね。


 その後右往左往していたのよ。


 教えてよ。


 自分でも右往左往して、どこに行くんだろうと言う間に気づいたら70歳になっていた。


 あっと言う間だよね。


 音楽に関しては松任谷や高中正義、石川鷹彦そして加藤和彦なんかと知り合って、音楽に目覚めて、そこで楽しい音楽のコツもわかって、そこから始まった音楽は最後まで楽しんでやったな。だから満足感はある。やり残したことはなくてやりたいことはやった。
マンタとか高中とか凄い素敵なミュージシャンと出会えた人生の財産はずっと生きている。それはすっごい幸せで嬉しい。


 光栄だけどね


 その出来がどうとか今聴けばいろいろ恥ずかしいのものあるけど、あの出会い、あの一緒の時間はすげー貴重で忘れられない。


 お互い忘れられない。あのころの一緒にスタジオに入った連中もステージをやった連中も忘れられないと思うけど。急に思い出した。名古屋だったと思うけれど、俺が東京駅のホームに着いたら、拓郎がベンチで座って下向いてて。渋谷さんとかスタッフが暗い顔していて。


 (渋谷さん)よく覚えてるね。


 憶えてるよ。どうしたのかなとか思っていたら、拓郎がひとこと「やめた!」って言って、その日のツアーは無くなったんだよね(笑)


 それは今も変わっていないな。そういうのはどうしてなんだろう僕は。


 あの時にすごい繊細なんだろうなとすごいわかった。


 あのね俺すげ―繊細だよ。


 あれができるのは繊細じゃなかったらできないよ。


 どうしてもこれ以上はやりたくない、もう行きたくない、勘弁してくれ、できないと思うとすぐ「やめた!」ということになる。


 あの時の心境を教えてよ。どういう心境?


 同じ歌を毎日歌っている、ツアーってそういうものだから。今日は名古屋、明日は大阪、明後日は広島、毎晩同じ歌を歌うけど、毎晩同じ感情では歌えない。


 そうだね。


 プロだからやらなきゃ、いけないのはわかっているんだけど、毎日同じ気分になれない。例えば「どうしてこんなに悲しんだろう」で、♪悲しいだろう みんな同じさ〜と歌っても、ある日は嘘なのよ。歌っている自分が恥ずかしい、みっともない、ウソじゃん俺ってシラケる。 そういうのが続くとすぐ「やめる」と言いたくなる。


 コンデションの問題じゃないよね。


 うん、関係ないよね。気分の問題。…特にラブソングは毎日歌えない。そんなに愛してるって毎日言えないんだよ(笑)。


 うん。


 気分悪い日、こんな演れねぇやというのも東京でリハーサルやったとおり歌わなきゃならない。時々すごい違和感を感じる。やめたくなる。これはずっと最後まで変わらなかった。


 今まで中止したのって何回くらい?


 数えきれない。相当ある。


 そうなんだ。


 だからそういうヤツなんだと思われてる。


 そういう繊細なところはずいぶん見た。だから知ってましたよ。


 今日会って良かったよ。


 篠島はどうだったの ? もうそんなに怖くなったでしょ。


 篠島はもう言っちゃうけれど、あんまりやりたくなかったね。


 そうなの?


 松任谷はわかっていると思うけれど、60曲か70曲歌うでしょ? アレは60曲くらい殆どは瀬尾バンドのオーケストラでやるはずだった。ところがセッションしてみたらリハーサルがうまくいかない。それで急遽一杯曲をマンタに渡して、これこっちであやるからといって大量の曲をマンタとか鈴木茂のバンドでやることになって直前になって逆転したんだ。
 本当は瀬尾のオーケストラで殆どやるはずだったが全部変わっちゃって、頭の中は混乱していて、でもスケジュールが決まってるし、チケットは売れているのでやらなきゃならないか、嫌だな〜こんなの、違う方向に行っちゃったし、直前まで雷で中止にならないか、自然災害で中止にならないかと思っていた。


 後ろから見てて、肝が地についているときとそうでもないときがあったと思うけど、篠島はそうたったのかな。


 結婚前に拓郎のツアーに由実さんも一緒に出たよね?


 あれはどこだっけ?地方だよね。


 ステージで紹介したね、


 突如出てきて間奏…「結婚しようよ」でキーボード弾いて


 どこだったっけね。


 そうだよ。それもあるけど、マンタとユーミンの新婚旅行にかまやつと初夜に行ったんだよ。


 どこだったけ?


 熱海だよ。


 新婚旅行の一日目に。新田さんもいた。


 ムッシュかまやつに「マンタとユーミンとか初夜を邪魔しなきゃダメだ」と言われて「なにしに行くの?バカみたいじゃない」「拓郎がいれば妨害できる」と、かまやつさんの人選で新田さんとかも連れて。


 拓郎が言ったんじゃないの?


 違う、かまやつさんが言ったの。


 熱海の旅館で拓郎が明け方女装していたよね?


 ベロベロで初夜を迎えさせちゃいけないという使命感があった。


 まんまとうまくいったじゃないの(笑)。


 ひどいね。


 たぶん、そういう間柄が人には想像できない。

(後半)


 今までのベストパフォーマンスって何時の何て曲?


 手前みそだけど最近なの。最近の名古屋でやったライブの「I’m In Love」というラブソングと「流星」の3曲くらいメドレーが自分でゾクってするくらい。


 いいねぇ。


 俺に久しぶりに神様が降りてきて陶酔して、歌い終わってボーッとなった。ステージ降りてからああやってよかった、本当に久しぶりの何十年ぶりかの快感だった。  


 いつ?


 2019年。


 それは幸せだね。


 武部たちの演奏もその日は違っていた。そういう時ってあるよね。そん時だけ違うって。そのプレイは他の日にはなかった。 演奏が俺を歌う気にさせるわけよ、もっとやれ、もっとシャウトしろとか言ってる感じの演奏。武部・鳥山もドラムもベースも後ろから押されて、わぁぁぁ、よし行くぞ!って感じで、歌い終わったあとに冷や汗というかゾッとするくらいだった。ベストステージと思っている。


 それがあると次をやりたくなくなるよね。


 それをやったら僕はもうやめようかなと思った。もういいんじゃないかな。これ以上欲を出すとロクな事がないかもしない。これで満足しちゃおうよと思ったのは間違いない。


ベストステージってそれだけ? 


う〜ん。2019年の名古屋は比較できないくらい良い。


音源ないの


あるよ。「2019名古屋」、「流星」と「I'm In Love」のところ凄いな。吉田「拓郎ってイイじゃん」て言ってやりたい。



もうやり尽くした感じなの?


 うんツアーとか…ただね、レコーディングは楽しいから、ツアーとかと違って、自分で好きなように打ち込みとかテクノロジーを使って自宅で遊びがてら曲を作ったりするかもしれないけれど、人前で歌ったりとかはもういいな。


 マンタに逢えて,鷹彦に逢えて、高中に逢えて、最後に武部と鳥山がちゃんとしめくくってくれて大満足の音楽人生でしたよ。本当に。


 ホントかな。僕なんかはまだまだあるんじゃないかと思ってしまうけどね。


 今ここで話していて身体の中に少しむくむくしているのはブルースってあるじゃない。トーキングな感じ。演奏は毎回違っていいアドリブのセッションで、それが基本になっているようなものは、やり残しあるね。


 あるよね。俺は打ち込みと拓郎にすっごい違和感を感じるの。自分が一緒にやってきたときに、生きたもの、=同じことは二度ないという、あそこが拓郎の一番の魅力だと思うんだよ。だからやり残したことはないのかなと思って。


 そのことは僕の中では結構クリアで、レコーディングという作業は打ち込みでも十分ニュアンス出せてありだと思う。でもライブは絶対カラオケじゃダメ。セッションの楽しさとかアドリブの面白さボーカルもその日で違う。そういうステージのブルースに基本形があるような、やってみないとわからない面白さ、演奏も歌もみんなやってみたいとわからないというものを楽しみたいというのがある。最近楽しんでいないから。


 でもね、客席でもウケが悪いんだよ。ブルースは。「やせっぽちのブルース」とかブルースの曲をいっぱい作っているから演っているんだけどあんまり反応が良くないんだよ。人生を語らず」とかマンタのソリーナのソロが出てくるようなものは盛り上がる。間奏で立ち上がって泣いたりしているんだけど。ブルースについては客席が唖然としているね。どうなっているんだろう日本の音楽状況は。


 いやいや、吉田拓郎のルーツがR&Bとかブルースだとかということを知らな人が多いんじゃないか?


 いやいやファンに対しては「俺はフォークじゃないからさ」「フォークのことはわからない」って言ってるんだけど、ファンは俺をフォークにしたいみたいね。


 フォークだと思ってるんだよ。


 吉田拓郎はフォークの方が皆の気持ちいいから。


 「言葉」だからじゃない? 拓郎は言葉を持っているから。ブルースってそんな言葉はなくない?


 でも黒人のブルースには悲しいのやら、訴えてくるものとか、あとは笑わしてくれるハッピーなものとか、ブルースの中には言葉がある。


 そういったものとは別種の言葉じゃないかな。


 日本のフォークソングってあり得ない。日本のフォークとアメリカのフォークは違う。キングストントリオとかブラザースフォーとかとは日本のかぐや姫の「神田川とかと違うもん。日本ではそれが、四畳半フォークとかになって。和製フォークは、日本だけのもの。歴史でいうと歌謡曲の中の一ジャンル。


 後になってみるとそうだよね。


 かぐや姫ともステージやったからわかるんだけど彼らはフォークじゃないよね。


 え、フォークじゃない?


 フォークじゃない。


 歌謡曲ってこと。


 ビリーバンバンとか。  
 

 懐かしいな(笑)、白いブランコ、あれはフォークじゃない。歌謡曲だよ。たまたまビリーバンバンもかぐや姫もギター持っていた。ギターもってなかったら歌謡曲だと思うよ。ギターをもって歌うからフォークって変だよ。


 そういう時代だったね 人が音楽のジャンルがよくわかっていない。


 結局メディアとかがフォークだって言ったらフォークだと思ってしまう。70年代はフォークブームで、ギター持たせて歌わせて、フォークてす、フォークですって売り出していた。でもあの中にフォークはいなかった。


陽水は?


違うと思うな。フォークじゃないな。


 それじゃ拓郎が典型的なフォークだと思うのは誰?


 日本人で?僕が知っている限りでは森山良子かな (Ⓜほー)♪この広い野原いっぱいとうたっているときの森山良子をみたけれど、ああこいうのキャンパスフォーク、カレッジフォークで大学生が好きだった健康的だし、フォークとおもったけどそれ以来はいない。僕の中ではフォークソングっていうのは健康で明るいイメージ。そのあとはドッシリ暗いものばかりだ。


それと白いブランコとは違うの? その違いは難しいな(笑)


難しいね。でも一緒にやってみたなかでは、森山良子だけかなと思う。


 それは言葉の裏にメッセージがあるということ?


いや、メッセージは無くていいと思うな。その人なんじゃない? 森山良子という パーソナルが俺にはフォークシンガーなのよ。他は歌謡曲の人に見えてしまう。他は歌詞を読むと歌謡曲に見えてしまう。僕にとっては、フォークソングは健康で明るいイメージなのよ。アメリカのブラフォーとかキングストンとか、トム・ドゥーリーとかは暗い歌なんだけど、明るい感じで歌っているし。ああいうのはフォークと思う。そうすると森山良子のあとにはフォークと思った人いないな。その後に出てきた、さだまさしとか谷村新司もフォークと思わない。フォークっていないんじゃないかな。


 僕にとっては初めて会ったフォークシンガーが吉田拓郎だったわけ。だからフォーク=メッセージという刷り込みだったわけ。


 そういう人は多いと思う。僕は全然違うんだよ。メッセージが強いものをフォークだとは思わない。


メッセージ強いじゃん。


 僕のはメッセージではない、僕の日記なわけ。人に対してどうこうこうしろとか、ああしろとか言っていないの。僕はこう思うと言うのを歌っている。一日の日記を書いているだけ。


 知ってる。そうだね。その背景にいろんな世情とか世の中のことを観るんじゃないかね、人は。


 例えば、お酒飲んでテレビで政治家が変なことを言っているって、ペニーレインでバーボンとかという歌を作って、気持ちの悪い政治家が何か言っている、これなら酒飲んでいる方がマシだということを書いたけど、政治批判はしていない。自分はこう思うとしか言わない主義だから。それはメッセージじゃないよね。


 僕はそういうものを感じながらやってきた何年間だったんだけどね。だからいろんなミュージシャンとやってきたけれど、バックとか演奏していたたとえば島村とか、みんな拓郎の事をフォークとは思っていないんじゃないか。なんだかわからないけれど。


 いろんな例とかを出してくれて、みんなそれぞれが頭の中でここからは歌謡曲、フォーク、こっからはロックで、という境目が少見えた気はした。


 でもこういうのは僕が言っていることが正しいというわけではなくそれ違うよと思っている人もいっぱいいるだろうし。正論でもなくて 僕はこう思っているだけだから


 もちろん、もちろん。


 ユーミンの話していい?


 いいよ。


 ユーミンがデビューしたときフォークソングに入れられるのを凄く嫌がっていた。景色としても。彼女のポリシーとして。その気持ち凄くわかるよ。俺もフォークにいれられていたから。それ当然だよ。あんたが俺らの仲間に入りたくないのはよくわかるよ。それくらいヤダナという集団だったからフォークは。
  シンガーソングライターといえばいいものをフォークって言われちゃう。日本全体の70年代の独特の雰囲気があった。自分で作詞作曲して歌うからフォークシンガーだって一緒くたになって、嫌がるはずだよ。それからの彼女の生き方は、フォークというものを閉ざしていて絶対正解だった。女子たちがフォークのユーミンではなくて、ユーミンのような何かになろうとしはじめていた。あそこからユーミンが新しい道を作ってはじまっていった。あのユーミンが嫌だというフォークがあったわけ。それが凄くわかる。


 拓郎の音楽性と由実さんの音楽性って、由実さんは歌謡曲だと思っている。初めて聴いた瞬間からフォークじゃないし歌謡曲だ。ちょっとおしゃれな歌謡曲。僕の中では全く違う音楽だった。両方やってたでしょ。 


 両股かけた男だな。


 今考えると両方とも勉強になったと思っている。


 今日は話しちゃうけど。若いころから新田さんによくユーミンのコンサートに連れてもらっていた。俺もこういう曲つくりたいな、こういう曲だったら作れるなという共通点を見出している曲が何曲かある。教えようか?
 最初の頃から言うと。
 「ルージュの伝言」これはロックンロールでジルバかツイスト踊る感じが好きだな。俺もやるな。アメリカンポップスだよね。
 「守ってあげたい」。♪ユー ドント ハフトゥ  ウォーリ ウォーリのところ、ユーミンは怒るかもしれないけれどあそこは拓郎節なんだ(大笑)


 いいね〜


 ♪ユー ドント ハフトゥ  ウォーリ ウォーリ


 影響は受けているかもしれない…


 ユーミンもそういう曲を作るんだと嬉しかった。あとNHKのドラマの「春よ来い」。和風の和の感じ、僕も知らない、なんだ、こういうのもやるんだったらフォークもそんな嫌うなよ(笑)。こいつは天才だと思ったね。
 時々ユーミンのそういう曲がヒットすると近いところにいるじゃんと思う。世の中、巷では、またユーミンの立ち位置というのもあって、吉田拓郎と松任谷由実、俺達は違うところにいるということだけど、どこか接点は感じる。

 最後に、もうラジオも出ないので言うけれど、中島みゆきという人がいるじゃない、よく二人比較されるスーパーウーマンだけど。どっちも素晴らしい才能だけど。よく中島みゆきと吉田拓郎の音楽は近いと思われているけれど、僕は全然そうは思わない。彼女のメロディ―は昔の歌謡曲のパターンのコードで、それは僕とは違う。世間では吉田拓郎と中島みゆきが近くて、ユーミンとは世界観が全然違うと思っているかもしれないけれど、それは勝手に思っているだけで、僕はそう思っていない。聴いている人はびっくりしていると思うけど。ずっと思ってきた。


あいみょんと拓郎は近いよね?

近いと思う。この間も会ったんだけれど。感じたね。


俺も近いと思う


 ノスタルジーなところとか、詞の世界も僕なんかよりは相当するどい、今の若い人を鷲掴みにする詩で尊敬するくらい凄い。そしてメロディ―とコード進行には親しみを覚える。


 最後のメロディーのまとめ方に共通点がある。同じコード進行使うわけではないけれど。最後に…あるじゃない。


 サビの作り方も似ている。
♪初恋が泣いている〜  なんで歌うんだ(笑)
 ああ、吉田拓郎だと自分で思うね。


こういうのは本人も気づかないうちに影響を受けている。


 ギターをもって歌う後輩にいろいろな人がいるが、例えば、さだまさしは詩もするどいし、曲もいいものとくっているけど、いちおう好きじゃないということになってるが…自分でも言ってるし。
 ただ、さだまさしの世界には後輩たちは無言のうちに影響を受けている。音楽好むと好まざるとにかかわらず、いつのまにかその人の中に入って悪さをし、伝承される。誰が嫌い、俺はアレ風じゃないと言いつつ影響は受けている。音楽は時代とともに伝承されているんじゃないかな。
 R&Bとかファンクとか言ってるけれど、実は歌謡曲が大御所と言われる三波春夫、三橋美智也、島倉千代子、美空ひばりの影響も受けているかもしれない。


新しい音楽の影響も受けるよね。


 一番感じるルーツの血で、この人たちの音の血が濃いなだなと感じるのは何かな。


 一番感じるとかいうのではないけど、一番好きで憧れているのはローリング・ストーンズだな。ミック・ジャガーとか彼らもブルースが好きで、ブルースな感じを常にもっていて間奏でギターソロが延々とあって、こんな長いのっていう間奏。ステージングとか曲作りああいうのはストーンズしかいなくて、好きなんだ。
 よくビートルズとストーンズというと、音楽的にはビートルズという人が多いけど、僕は音楽的にもローリング・ストーンズ。ブルース感覚が好きだ。


 ディランは?


 レスペクトはある。ボブ・ディランが僕に詞を書かせたのは間違いない。ボブ・ディランが「今日、僕は不機嫌だ」という歌を作っているのを聴いて拍手を送りたくなった。不機嫌だという歌は当時の日本にはなかった。これだと思った。自分の生きる道だと思った。僕なんかはとてもじゃなく到達できない。神様として崇めているので、ディランみたいに…とは言えない。世界であんな日常というか自分の気持ちを歌にした人はいない。
ただ音楽的なスタイルは、ストーンズが、一番自由で、カッコよくて憧れる。今でもライブは観たくて仕方ない。



スプリングスティーンの血は薄く入ってる?


 ディランみたいだと思った。でも若い分、新しいロックンローラーなと思った。でも詩の世界はディランの影響を受けているかなと思う。


一番濃いのはストーンズなんだ。


 拓郎がストーンズ?って言われるけれど。家にあるVTRはストーンズだらけ。大好き。


 コンサートとかは行くの?


 来たら行く。チャーリー・ワッツが亡くなったからどうなるかなとは思うけれど。好きだな。
 ハイ、ギターソロ、ハイ、ビアノソロ、今コンサートで間奏でギターからオルガンというように楽器を回したりするコンサートってないでしょ?



音楽か違うからな。


 イントロとか間奏とか、ストリングスで何小節にこういうフレーズを作って…とか、あまり重要じゃないのかな?


でもステージだったら必要じゃないかな


 若い人のステージを観に行ってもギターソロを延々というのはないよ。松任谷ピアノのあとに高中のギターソロという感じでソロ回しするようなものはないよ。


もとの音楽のフォルムが違うから必要ないと思っているのかな。


個人的には僕はつまんねーなと思う。いろんな人のソロのプレイが聴きたいの。



生志向があるんじゃないの?


生ね


打込みでも生は生だっていう考え方あるし。



最近は唄ばっかりという気がする。


確かにね。



サックスソロなんてゼロだろ。ジェイク・コンセプシォン…


ジェイクね。ジェイク亡くなっちゃったもんね。


ジェイクのソロとか楽しかったけど、ああいうのは今はないよね。


そうねーあるとしたらジャズっぽくなるかな。  


 ポップスではあまりソロを聴かせるって聞かない。そういうのを考えると俺は好みが古くなっているかなと思う。


 でも音楽って、らせんを描いて新しくなっていくのだから、フォルムっていうのはまたらせん状に戻ってくるかもしれない。


 例えばファッションも何十年かに戻ってくるけど、音楽は70年大好きだったものとかは全然違う。スタジオミュージシャンの仕事ってないのではないかと思う。昔は、この曲の間奏は高中に弾いてほしいからって、空けておいて、あとで本人に来て弾いてもらうって、よくあったけど今はもうないでしょ。ああいう時代にはもう戻らないような気がして。



高中のソロが面白かったから、そのサンプリングってなるかもしれない(笑)


「ぽい」のがあるんだよね。つまんないな。これはカントリーだから鷹かではなく徳武だなと思うのが楽しかった。


そういうわれると結局、器用な人だけが残っている


確かに


サァどうしたらいいんだろう


もう僕やることはないから。


そういうと思ったよ(笑)


あとはマンタやってよ


何それ(笑)


 最後のアルバムのレコーディングの前に武部から一緒に何曲かやりそうだというのを聴いていたので…すげー待ってたんだけど。


 ああ、それはコロナ前なのよ。マンタ、鷹彦、高中にスタジオに集まってもらって、間奏とかで、ここはマンタ、ここは高中というように演奏してもらう。ドラムは田中清司はまだ叩いているかな、ベースは岡沢章呼びてぇとか話していて、武部もおもしろいですね、やりましょうってことになったんだけど、セッションはできないし、スタジオにもミュージシャンを集められなくなって、結局リモートで打込みしかない。
 絶対面白かったと思うのは岡沢のベースでミッチーか田中清司のドラムでキーボードは松任谷ともう一人誰にするのか、松任谷が喧嘩しないで済むやつということで、いろいろ武部と考えるのも楽しかった(笑)。
 松任谷さんはあまり人と組みたがりませんよ。それは、わかるとけどエルトンはダメかな?松任谷さんは今エルトンさんはダメでしょとか武部と言っていて、Wキーボードにしたいな、中西とは組まないだろうなとか、ギターも高中正義と鈴木茂…合わなそうだなと(笑)いろいろ人選が楽しかった。そういうスーパーグループで何曲かやりたいと思っていた。すっげぇ残念だ。


 残念だね


 今でもアルバムにtogether」という曲を聴いてみてよ。今聴けるかな。俺が親しくしているKinkiKidsとか篠原ともえとか小田和正とかが実名で出てくるブルースなんだけど。
 鳥山は俺の意図をくんで、ブルースでオクターブ奏法とか弾けよと言い、武部にはブルースだから黒人のようなニグロ・スピリチュアルなピアノを頼んだ。無理だったね。


 それは無理でしょう(笑)  


 武部のピアノ聴いてみてくれる?


 ダメ出ししちゃおうか。


…生っぽいよね。


 そうだね、打ち込みとは思えないそれを意識した。それでピアノはどうですか?


 かなりいいと思う。たぶん僕が同じことやって、拓郎からNG出されるとしたらこんなにブルーノート使わないでといわれそうだと思う。僕の記憶では。ここまでなんかみたい、ブルースみたいじゃないので、オリジナルをいつも求めていた記憶がある。「となりの町のお嬢さんと」かあれもブルースだよね。


 一番すごいのは「元気です」の「また会おう」でセブンス使って松任谷が弾いている


 これ俺?


 ピアノの回転倍でやったりしてる


 弾けなかったんだな俺


これ(ドラム)ミッチーだよ


 (ビアノ)はははは


 これマンタだよ。


 これは回転数をあげている。やりたいことわかるけど。


 こういうアイデアを出しているのよ。もうひとつ「加川良の手紙」でグランドビアノの蓋を開けて弦に新聞紙をはさみこむとチェンバロみたいな音がするっていうのがあって。それをやってみせて、そういうアイデアが目からウロコだった。そういうことをどんどん思いつくわけ。


 それを拒絶しないから。


 しないよ。だってわからないんだもん。びっくりしたよ、新聞紙入れてピアノじゃない音って。
 回転を変えたりとか、誰もやらないよ。二十歳そこそこの松任谷がそういうアイデアを持っていたわけよ。


 何をやっても許してもらえる現場だった。


 だってわかんないもの


 わかってないことはなかったでしょ。許してもらえた。面白がってくれた。


凄いこと。回転を倍にしようとか。


そうじゃなかったら弾けなかったから。


 ああいうことを一緒にミュージシャンも無言のうちに学んで、ああ、こういうやり方があるんだって、みんなの実になって、あの頃無名だったみんながビッグミュージシャンになってゆく。松任谷のチカラは大きいんだよ。


そんなことはないって。


 そんなことはないってミッチーは言うだろうけど(笑)。絶対そうなんだよ。松任谷がそういうタイプの人じゃないからだけど、俺は見ててそう思った。松任谷の影響は大きい。こういうソロを弾くんだ、こういうことをやるんだとみている。



 そんなことはないよ


 最近BSで「町中華で飲ろう」という番組があって、そのテーマソングが「午前0時の街」っていう曲で松任谷なんだよ


 憶えているよ


 あ、憶えているんだ。アレンジという程のアレンジではないが、こんなかったるい曲をよくまとめたものだと思う。これを聴くために番組を観ている。かったるい、メンドクサイ何これ?という歌なのに、駒子のスチールも入っているんだけど、コンポーザーみたいにまとめるのがうまかった。それは間違いない。
 自分がやってみせて、できないと説得力はないけれど、松任谷は自分がやってみせて、それができて説得力がある。根っから松任谷正隆はコンポ―ザー、プロデューサーだったんだろう。


 ゲストは吉田拓郎なんだけど(笑)


 俺の番組かと思っちゃった(笑)


 学校出たばっかで、二十歳そこそこでしょ。あの時は音楽の現場の場数をまだ踏んでいない時だったからあのアイデアは凄いことだと思うよ
 受け入れるのが凄いよ。お金かかっているし、アーティストはこれからのこともあるし。


 それらも含めて松任谷と逢えてセッションできた青春は宝物だよ、いい青春だったよ。


 それはお互い様。


 音楽の良さとか音楽の楽しさとか幸せを感じるね。


 また気が変わったら連絡してよ。


 ホントだね。ボーカリストが必要とか、一曲書けといわれたら考えてみる。長々ありがとう。俺が言うことじゃないけれど(笑)


 連絡してね、たまには。


 そうだね。

2022. 9. 3

☆…ちょっと変なこと☆
 ラジオの感激さめやらず。全長版がある。まだまだ楽しみが続く。

 とはいえ拓郎に「俺はフォークじゃない」「ファンは吉田拓郎をフォークにしておきたい」「ブルースを演奏するとみんなキョトンとしている」と言われるとやはりちょっと切ない気持ちにもなる。きっと誰も吉田拓郎にビリー・バンバンになってほしいとは思っていないし、俺は音楽的センスは欠けるが、決して”ブルース”が嫌いなわけではない。

 今回松任谷正隆の話でちょっと元気が出た。松任谷正隆にとってフォークとは「言葉」で、拓郎は独特の「言葉」を持っているからこそ吉田拓郎をフォークだと思っていたと語った。御意。
 そういえば安井かずみも吉田拓郎は「詩人」だと言っていた。吉田拓郎の詩人としての詞世界というものが確実にある。ブルースやアメリカンポップスやメロディーやシャウトだけでなくそこに詩人としての言葉の素晴らしい世界が私らをとらえてやまない。

 ここからは勝手な思い込みだが、[ブルース、R&B等を含めたメロディーやサウンド]×[詩]×[ボーカル]。それぞれがそれぞれにすばらしいのだが、これらが三位一体として融合したところに吉田拓郎の凄さ、新しさ、無敵感があるのだと思う。少なくとも俺はそう思う。

 なので怒られることを覚悟して小さな声で叫びたい。

 「ウケが悪かったブルース、全部詞がイマイチだったから説」

 “やせっぽちのブルース”のサウンドがカッコイイのは俺ごときでもわかるが、詩人の詞としては、感情移入や情景移入がしにくい。「野良犬のブルース」も「狼のブルース」とかもそうだ。野良犬も下町のバーガーインにたむろする兄ちゃんには共感が難しい。
 最近では「僕達はそうやって生きてきた」も2016年のライブのサウンドはすんばらしく完璧なのだが、詩人の詞としては、若者に向けた好々爺の訓話のような感じがしてどうよと俺は思ってしまう(※個人の感想です)。たとえばこのサウンドに「僕達のラプソディ」のような素敵な詞がついていたら全然違ったと思う。
 昨日も書いたけど、その意味で”僕の唄はサヨナラだけ”なんかはその三位一体の究極の傑作だと思う。すんばらしい。
 ということでブルースに戸惑っているのではなく、吉田拓郎の白眉の詩とブルースがうまく融合していないときに戸惑っているだけだ…と俺は思うのだ。

 拓郎の詩とメロディーがハイブリッドされた極上のブルースとの出会い…それはこれからでもまだまだ遅くないと信じる。

 それにしても何度でもこの番組に感謝したい。ありがとうございました。

☆松任谷正隆の…ちょっと変なこと聞いてもいいですか?B☆
  (第三回9月2日分)


 マンタに逢えて,鷹彦に逢えて、高中に逢えて、最後に武部と鳥山がちゃんとしめくくってくれて大満足の音楽人生でしたよ。本当に。


 ホントかな。僕なんかはまだまだあるんじゃないかと思ってしまうけどね。


 今ここで話していて身体の中に少しむくむくしているのはブルースってあるじゃない。トーキングな感じ。演奏は毎回違っていいアドリブのセッションで、それが基本になっているようなものは、やり残したしたかもしれないね。


 あるよね。

M-1 やせっぽちのブルース


 あんまり客席でもウケが悪いんだよ。ブルースは。「やせっぽちのブルース」とかブルーの曲をいっぱい作っているから演っているんだけどあんまり反応が良くないんだよ。人生を語らず」とかマンタのソリーナのソロが出てくるようなものは盛り上がる。
ブルースについては客席が唖然としているね。どうなっているんだろう日本の音楽状況は。


 吉田拓郎のルーツがR&Bとかブルースだとかということを知らないんじゃないの?


 いやいやファンに対しては「俺はフォークじゃないからさ」「フォークのことはわからない」って言ってるんだけど、ファンは俺をフォークにしたいみたいね。


 フォークだと思ってるんだよ。


 吉田拓郎はフォークの方が皆の気持ちいいから。


 いや「言葉」だからじゃない? 拓郎は言葉を持っているから。ブルースってそんな言葉はないじゃん。


 でも黒人のブルースには悲しいのやら、訴えてくるものとか、あとは笑わしてくれるハッピーなものとかがブルースの中には言葉がある。


 そういったものとは別種の意味での言葉。


 日本のフォークソングってあり得ない。日本のフォークとアメリカのフォークは違う。キングストントリオとかブラザースフォーとかとは違うもん。日本ではそれが、四畳半フォークとかになって。和製フォークは、日本だけのもの。歴史でいうと歌謡曲の中の一ジャンル。


 後になってみるとそうだよね。


 かぐや姫ともステージやったからわかるんだけど彼らはフォークじゃないよね。


 え、フォークじゃない?


 フォークじゃない。


 歌謡曲ってこと。


 ビリーバンバンとか  
 

 懐かしいな(笑)、白いブランコ、あれはフォークじゃない。たまたまビリーバンバンもかぐや姫もギター持っていた。ギターをもって歌うからフォークって変だよ。


 そういう時代だったね 人が音楽のジャンルがわかっていない。


 結局メディアがフォークだって言ったらフォークだと思ってしまう。70年代はフォークブームで、ギター持たせて歌わせて、フォークてす、フォークですって売り出していた。でもあの中にフォークはいなかった。


 それじゃ拓郎が典型的なフォークだと思うのは誰?


 日本人で?僕が知っている限りでは森山良子かな (Ⓜほー)♪この広い野原いっぱいとうたっているときの森山良子をみたけれど、ああこいうのキャンパスフォーク、カレッジフォークで大学生が好きだった健康的だし、フォークとおもったけどそれ以来はいない。僕の中ではフォークソングっていうのは健康で明るいイメージ。


 みんなそれぞれが頭の中でここからは歌謡曲、フォーク、こっからはロックで、という境目が少見えた気はした。


 でもこういうのは僕が言っていることが正しいというわけではなくそれ違うよと思っている人もいっぱいいるだろうし。論でもなくて 僕はこう思っているだけだから


 もちろん、もちろん


 ユーミンの話していい?


 いいよ。


 ユーミンがデビューしたときフォークソングに入れられるのを凄く嫌がっていた。景色としても。彼女のポリシーとして。その気持ち凄くわかるよ。俺もフォークにいれられていたから。それ当然だよ。
  自分で作詞作曲して歌うからフォークシンガーだって一緒くたになって嫌がるはずだよ。女子たちがフォークのユーミンではなくて、ユーミンのようななにかになろうとしはじめていた。あそこから新しい道がはじまっているというようになっていった。


 俺もこういう曲つくりたいな、こういう曲だったら作れるなという共通点を見出している曲。教えようか?
 最初の頃だと。
 「ルージュの伝言」これはロックンロールでジルバかツイスト踊る感じが好きだな。俺もやる。アメリカンポップスだよね。
 「守ってあげたい」。♪ユー ドント ハフトゥ  ウォーリ ウォーリのところ、ユーミンは怒るかもしれないけれどあそこは拓郎節なんだ(大笑)


 いいね〜


 ♪ユー ドント ハフトゥ  ウォーリ ウォーリ


 影響は受けているかもしれない…


 ユーミンもそういう曲を作るんだと嬉しかった。あとNHKのドラマの「春よ来い」。和風の和の感じ、こういうことができると知らなかった。なんだ、こういうのもやるんだったらフォークもそんな嫌うなよ(笑)。
時々ユーミンのそういう曲がヒットすると近いところにいるじゃんと思う。世の中、巷では、またユーミンの立ち位置というのもあって、吉田拓郎と松任谷由実、俺達は違うところにいるということだけど、どこか接点は感じる。


 一番感じるルーツの血で、この人たちの音の血が濃いなだなと感じるのは何かな。


 一番感じるとかいうのではないけど、一番好きで憧れているのはローリング・ストーンズだな。ミック・ジャガーとか彼らもブルースが好きで、ブルースな感じを常にもっていて間奏でギターソロが延々とあって、こんな長いのっていう間奏。ステージングとか曲作りああいうのはストーンズしかいなくて、好きなんだ。


 ディランは?


 レスペクトはある。ボブ・ディランが僕に詞を書かせたのは間違いない。でも音楽的なスタイルは、ストーンズが、一番自由で、カッコよくて憧れる。今でもライブは観たくて仕方ない。


 最後のアルバムのレコーディングの前に武部から一緒に何曲かやりそうでというのを聴いていたので…すげー待ってたんだけど。


 ああ、それはコロナ前なのよ。マンタ、鷹彦、高中にスタジオに集まってもらって、間奏とかでここはマンタ、ここは高中というように演奏してもらう。その時は、武部、鳥山は後ろ回れといって。
 武部もおもしろいですね、やりましょうってなったんだけどセッションはできないし、スタジオにもミュージシャンを集められなくなって、結局打込みしかない。
絶対面白かったと思うのは岡沢のベースでミッチーか田中清司のドラムでキーボードは松任谷ともう一人誰にするのか、松任谷が喧嘩しないで済むやつということでいろいろ武部と考えるのも楽しかった(笑)。スーパーグループで何曲かやりたいと思っていた。すっげ残念だ。


 残念だね


 「Together」という曲を聴いてみてよ。今聴けるかな。俺が親しくしているKinkiKidsとか篠原ともえとか小田和正とかが実名で出てくるブルースなんだけど。武部にブルースだから黒人のようなピアノを頼んだ。


 ああそれは無理でしょう(笑)  


 武部のピアノ聴いて観てくれる?


 ダメ出ししちゃおうか。


武部にそうやって言えるのは松任谷だけだよ。

M-2  together


…生っぽいよね。


 そうだね、打ち込みとは思えないそれを意識した。それでピアノはどうですか?

 かなりいいと思う。たぶん僕が同じことやって、拓郎からNG出されるとしたらこんなにブルーノート使わないでといわれそうだと思う。僕の記憶では。
ここまでなんかみたい、ブルースみたいじゃないので、オリジナルを求めていた記憶がある。「となりの町のお嬢さんと」かあれもブルースだよね。


一番すごいのは「元気です」の「また会おう」でセブンス使って松任谷が弾いている

M-3 また会おう  


 これ俺?


 ピアノの回転倍でやったりしてる


弾けなかったんだな


これ(ドラム)ミッチーだよ


 (ビアノ)はははは


 これマンタだよ。


 これは回転数をあげている。やりたいことわかるけど。


 こういうアイデアを出しているのよ。もうひとつ「加川良の手紙」でグランドビアノの蓋を開けて弦に新聞紙をはさみこむとチェンバロみたいな音がするっていうのがあって。それをやってみせて、そういうアイデアが目からうろこだった。そういうことをどんどん思いつくわけ。


 それを拒絶しないから


 しないよ。びっくりしたよ、新聞紙入れてビアノじゃない音って。


 何をやっても許してもらえる現場だった


 だってわかんないもの


 わかってないことはなかったでしょ。許してもらえた。面白がってくれた。


 みんなあの時は勉強になった。松任谷のチカラは大きいんだよ。


 そんなことはないよ


 最近BSで「町中華で飲ろう」という番組があって、そのテーマソングが「午前0時の街」っていう曲で松任谷なんだよ

M-4 午前0時の街


 憶えているよ


 あ、憶えているんだ。アレンジという程のアレンジではないが、こんなかったる
い曲をよくまとめたものだと思う。これを聴くために番組を観ている。
かったるい、メンドクサイ何これ?という歌なのにコンポーザーみたいにまとめるのがうまかった。それは間違いない。
 自分がやってみせて、できないと説得力はないけれど、松任谷は自分がやってみせて、それができて説得力がある。根っから松任谷正隆はコンポ―ザー、プロデューサーだったんだろう。


 ゲストは吉田拓郎なんだけど(笑)


 俺の番組かと思っちゃった(笑)


 あの時は音楽の現場の場数をまだ踏んでいない時だったからあのアイデアは凄いことだと思うよ

 受け入れるのが凄いよ。お金かかっているし、アーティストはこれからのこともあるし。


 それらも含めて松任谷と逢えてセッションできた青春は宝物だよ、いい青春だったよ。


 それはお互い様


 音楽の良さとか音楽の楽しさとか幸せを感じるね。


 また気が変わったら連絡してよ。


 ホントだね。ボーカリストが必要とか、一曲書けといわれたら考えてみる。長々ありがとう。俺が言うことじゃないけれど(笑)


 連絡してね、たまには。


 そうだね。

2022. 9. 2

☆松任谷正隆の…ちょっと変なこと聞いてもいいですか?B☆
(第三回9月2日分)

書き起こし…省略!!。…いえ、あとでやるつもり。今日はとにかく感想を書いておきたい。

☆☆☆感想☆☆☆
☆1回僅か25分、たった3回の番組で、終わってしまうのがこんなにも悲しい。ここまで聴き手をとことんロス状態にさせてしまう番組があっただろうか。
 最後に「たまには連絡ちょうだいね」と言って別れ別れになる二人。あ〜終わっちゃうのか。呼び戻すことができるなら〜僕は何を惜しむだろぉぉぉ>それは布施明の唄だ。

☆松任谷への音楽家としての魂のレスペクト。初回に続いてこれでもかと賛辞を贈る。それに対して松任谷は拓郎が現場で自由にやらせてくれたことを感謝する。松任谷の反応はなんとなく社交儀礼的に聴こえた人もいるかもしれない。
 でもそれは違う。かねてから松任谷正隆はその著書の中で熱く語っていた。
「由実さんと拓郎は、僕の意見をいつも取り入れてくれたんですよ。大切にしてくれた。だから二人の現場では僕はとても気持ちよく音楽をつくることができました」(松任谷正隆「僕の音楽キャリア全部します」p.57〜59『拓郎とユーミンは意見を尊重してくれた』)
 その意味では吉田拓郎と松任谷正隆とは深い両思いだったのだ。この両思いがいかに素晴らしいものを生んだか。音楽って凄いなと何もわからない俺でも涙ぐみながら思う。

☆で、ひとつだけ訊きたい。拓郎が昔ラジオで口走っていたことがあった。「春を待つ手紙」の間奏でも松任谷正隆は何か技を使ったらしい。なんだったけ? ビブラフォンを指で叩くみたいなやつだった。

☆そして「町中華で飲ろう」の「午前0時の街」。あの曲を聴くために番組を観ていると拓郎は言った。すげえ。事実、今回のラジオの最後はあの番組のエンディングそのものだった。
 「報恩」という言葉があるけれど、ひとりのファンが魂をこめて差し出した報恩が吉田拓郎に通じて、その曲も吉田拓郎本人も新たに蘇生し変化する。すごいな。ファンの魂をみせられた感じがした。何より「午前0時の街」という選択のセンスがすんばらしいとあらためて思う。ハラショ!

☆フォークがどうしたってもういいじゃないか。すまなかったな、ブルースがわからなくて(爆)。ただ”僕の唄はサヨナラだけ”…あれは極上のブルースだと思う。ああいう研ぎ澄まされた詞とメロディーとリズムが一体となったブルースなら俺にでもわかる。「拓郎が言葉を持っているからじゃない?」という松任谷の指摘には唸った。そうだ。言葉だ。「やせっぽちのブルース」はあの詞に今一つ気持ちがノラないというか共感できないのよ。個人の感想だが。
 それとユーミンの作品との親和性。俺はかねてから「真夏の夜の夢」にそれを感じていた。リズム、メロディー、節回しそのうえ「骨まで」ときたもんだ。コレは拓郎が歌ったらカッケーんじゃね?

☆「ボーカルが必要だったら、メロディーが必要だったら声をかけてくれ」ああ、雲の切れ間にあかりを探すみたいだ。

☆とにかくこの番組にもなんか賞をあげたい。金の鳩賞でも象印賞でもジャンプ賞でもなんでもいい、ありったけあげたい。それくらいの番組だった。

2022. 9. 1

☆☆☆消えていくもの☆☆☆
 「TAKURO Blog」本当にプツンと消えていっちまったよ。拓つぶの時は「Not Found」という痕跡が残ったが、こっちは何もないのです。
 昨夜帰の電車で最後のBlogを読み直していて
  キャンディーズ「やさしい悪魔」を聴いた時に睦月から手紙
  「タクロウこれダウンタウンズでもやれたなあ」

 おお〜睦月さん、かっけ〜な〜と唸った。素敵だぜ。
  そうなると当然、この曲が聴きたくなってくるのだが、気分的に作曲者本人歌唱が聴きたい。でも"ぷらいべえと"のズンガジャンガでなく、ああ〜ここで神田共立講堂2019がアルバムになっていればご機嫌なのにと詮無く思う。
 で、結局キャンディーズを聴いたが、あれを聴くと最初靴でリズム足踏みしそうになるので電車内で聴くときは要注意だ。いい。何度聴いてもいい。かつてラジオでナイトで拓郎がやさしい悪魔・・・あんないいメロディを日本人がつくれるかっ!?と豪語していたのを思い出した(2019.2.3第92回)。そのとお〜〜り(@財津一郎)。

2022. 8. 31

☆☆☆愛のさざなみ☆☆☆
  昨夜は久々の居酒屋で「つるむらさき」で独酌しながら考えた。「僕は今、音楽人生のアウトロ、エンディングを弾いています」と拓郎は言ってきたが、これがわかったようでわからない。かつて、そういうことをしてみせてくれた歌手の前例やお手本がないからだ。世間様のようにそれなら引退なのね〜といえば、引退ではないとのご拓宣だ。これからも新曲も作るし、ギターも弾く。こちらもどういう気分でいればいいのか戸惑うことしきりだ。前例のない歌手は、そのファンもまた前例のない道をゆかねばならないという鉄則だ。

 そういう中で「TAKURO Blog / STAFF Blog」を8月末でクローズ。…終わってしまうのか。アルバムのメイキングの日々は楽しかったし貴重だった。お疲れ様でした。そういえば昨年の竹田企画のつぶやきの今生の別れのような終了を思い出す。
 ANNGも年内終了と言うことだ。そういえばその前の「ラジオでナイト」も僕のラジオの最終章=遺言という最後のラジオ番組だと万感の思いで聴いていた。

 アウトロのと言う名の終わりと始まりがまるで寄せては返す波のようにつづいてゆく。コペルくん、君たちはどう生きるか。こういう時は、島倉千代子先生しかいない。ドラマ「監獄のお姫さま」で前川清とキョンキョンがデュエットしたのを観て以来大好きになった曲だ。

      愛のさざなみ

  あなたが私を きらいになったら
  静かに静かに いなくなってほしい
  ああ 湖に 小舟がただひとつ
  別れを思うと 涙があふれる
  くり返す くり返す さざ波のように

  どんなに遠くに 離れていたって
  あなたのふるさとは 私ひとりなの
  ああ 湖に 小舟がただひとつ
  いつでも いつでも 思い出してね
  くり返す くり返す さざ波のように
  さざ波のように  

 答えにはなっていないかもしれないけど気分だ気分だ。御大の言葉の意味や言質をあまなり深く考えずに、繰り返すさざなみに身をまかせよう。サイパンの砂浜のさざなみに身をゆだねるように(爆)。そしてとにかくご機嫌なファンでいようと昨夜は思った。

2022. 8. 30

☆☆☆男達の詩☆☆☆
 今日、居酒屋のメニューを観て思った。
image0 (10).jpeg
 ♪うすむらさきの煙がゆれてぇ〜
 この歌が頭に浮かんできて妙にご機嫌になった。♪つるむらさきの〜ガーリック炒め〜なんかメロディーにもハマるぜ。ふん、嗤わば嗤え。こういう心の底からどうでもいい些細なところにも吉田拓郎のふるえは生きているのだ。

 「男達の詩」といえば衝撃の短髪から32年が過ぎた。実にデビュー以来のキャリア52年間のうち短髪の期間が60%を超えている。感慨深い。だからどうなんだと言われても困るが。
スクリーンショット (60).png

※例えばフォーライフの社長就任直後(1977年)は短髪か長髪かという議論はありえましょう。それはまたそのうちとことん。

2022. 8. 29

☆☆☆叫び☆☆☆
 松任谷正隆が先週のラジオで語ってくれた東京駅のホームでのコンサート中止決定の様子。聴いてる自分もその場にいるかのようにベンチに座って俯いている拓郎、その横で暗い顔で心配する渋谷さんが目に浮かぶ。そしてその拓郎が「やめた!」と叫ぶ。
 その瞬間、聴いてた俺は思わず「よっしゃ!OK!」と快哉を叫んだ。なんでだ?。突然のコンサート「中止」にはさんざん泣かされたというのに。

 つらつら考えながら思い出した。角川文庫の「吉田拓郎詩集BANKARA」の松本隆の推薦文だ。
   武道館のステージで「酒と、女と、僕はでたらめに生きています。
   真面目に生きるのなんてつまらない」と拓郎が叫んだ時、ぼくの後の
   男が「その通りだ」と合いの手を入れた。
   もしも拓郎が「人間は真面目に生きなきゃだめだ」と叫んでも、
   その青年は「その通りだ」とどなるだろう。
   つまり、意味なんてどうでもいいんだ。
   拓郎が叫ぶという行為そのものに価値があるような気がする。
                             松本 隆

 当時これを読んだとき松本隆に「拓郎ファンをバカにすんじゃねぇぞ」とムカついたし、その拓郎ファンにも「しょうもない合いの手入れるなよ」と思ったものだ。

 しかしコレだ。まさにコレなのだ。意味なんてどうでもいい。「やめた!」と決然と叫ぶ吉田拓郎に感動するのだ。この瞬間、俺の脳内には無条件でドーパミンが怒涛の如くあふれ出てくるのだ。すまんBANKARAの推薦文はすべて正しい。俺を許してくれ。

 そう想うと、俺もこのサイトも吉田拓郎の言葉や歌詞にあまりにも意味を求めすぎた気がする。言葉の含意をあまりに深堀しすぎてはいなかったか。般若心経やハムラビ法典じゃないんだから>なんだそりゃ。また、あの時こう言ったけど今はこう言っていると言葉の違いに過敏すぎなかったか。警察の取り調べじゃないんだから(爆)。姑息だったかもしれない。俺は分別や常識のために吉田拓郎を聴いているのではなかった。
 それより拓郎の叫びや心意気に、そのオーラ溢れる姿に、ああ〜カッチョエエ!!としみじみ心ふるえる瞬間のために聴いているのだ。いしいしんじの表現をパクって言うと吉田拓郎とは心のふるえだ。なんでもいい、もっとふるえさせておくれ。エンディングという冷たい水の中をふるえながら登ってゆけ、ファイト!
…ああカラオケ行きてーな。

2022. 8. 28

☆☆☆24☆☆☆
 ちょうど家のテレビでは日テレの「24時間テレビ」が流れている。この番組についてはちゃんと観ていないので無記。しかしこの番組で思い出すのは、他局で申し訳ないが、1999年の大晦日から2000年の年越しで放送された「ワールドカウントダウンスーパースペシャル24時間まるごとライブLOVE LOVE2000」だ。
 なんたって吉田拓郎が24時間生でテレビに出演し続ける。今にして思えば奇跡のような番組だ。つま恋、篠島よりはるかに長い。
 いちおうチャンネルはずっとセットしていたが、なにせ年末と元旦だ。実家に帰って当時まだ幼かった姪と遊んで夜は寝かしつけながら一緒に寝てしまったし、翌日も姪と遊んだり、遊んだり、遊んだりして、ちゃんと観ていなかった。テレビに出る拓郎に慣れきってしまった当時の俺は明らかに緊張を欠いていた。
 番宣インタビューでいきなり不機嫌な拓郎、最初からあまり燃えていない拓郎、それでも深夜V6とゲームやってハイになる拓郎、次々とコーナーに連れまわされて「ウンコくらいさせてくれよ!」と怒る拓郎、それくらいの記憶しかない。
 ああそうだ、Kinkiのコンサートにシンクロしてフィナーレの東京ドームでクレーンに乗って天井から降りてきた拓郎。ハワイでも頑なにパラセイリングを拒否していた拓郎だ。あれはやるせないくらいの勇気をだしていたのではないか。もっともっと誉めてさしあげればよかった。
 だから今にして思えばこれを24時間観続けたファンの方々の拓郎愛はすばらしいと本当に思う。こういう愛が地球を救うのだ。とにかく俺としてはこの貴重な24時間、もっと処し方があったよな〜とちょっと悔いている。

2022. 8. 27

 昨日、あの田家秀樹さんのブログに取り上げていただき驚きました。日々吉田拓郎への勝手な情念を綴っているだけの拙サイトに対して汗顔の至りです。ありがとうございました。新参ファンサイトと思ってましたが7年目、孤高のサイトとうそぶきながら、実にたくさんの皆様に助けていただいております。ついでのようですみませんが深謝申し上げます。今後ともよろしくお願いします。星紀行
 
 例によって備忘録として起こしてはみたけれど、今回も本人たちの生会話が唯一無二。是非、聴くよろし。活字にすると「すごい覚えている」だけど音声をきくと「すっっごい覚えてる」なわけ。魂でしょ。
 もうこのまま二人のレギュラー番組化しちゃえばいいのに。ゲストで高中正義とか呼んじゃいなよ。

☆松任谷正隆の…ちょっと変なこと聞いてもいいですか?A☆

(第二回8月26日分)



 あのころってさ、音楽とかに限らず集まってみんなとセッションするのが楽しかった。出来がどうとかでなく一緒に音楽する、一緒の時間を過ごすのが楽しかった。


 僕もあれでツアー回って他の誰かとツアーを回りたいたいとは思わなかったもんその後(笑)

M-1 マークU’73

<ナレーション>
 今日は吉田拓郎さんをお迎えしています。松任谷さんが初めてレコ―ディングという仕事を経験したのが1971年「人間なんて」の現場でした。幾度となくコンサートとレコーディングと拓郎さんと音をつないでゆくことになります。


 松任谷がリーダーとなってツアーを結構回っているよ。


 知ってる。


 当時、沖縄が返還された直後で松任谷が沖縄を外国と勘違いしていて、今でもみんなであの時マンタがこう変なこと言ってたってあるんだけど(笑)。


 え、なにそれ?


 キミが今どういう生き方をしているかは知らないけれど、あの頃君は全然世間知らず  だったの。


 ああ、よくそういわれた記憶はある。


 沖縄でも突飛なこと言って、みんな目が点になったことがある。ラジオで言えない。


 言えないのか。リハーサルは赤坂のスタジオだったね、つま恋でもやったね。つま恋も懐かしい。


 75年のつま恋はいっぱいトチっている。あのときの全編のライブの音ノーミックスで俺だけが持っているけどほとんどの曲が間違っている。DVDになってるのはちゃんと弾けたのを選んだだけ。あの頃はPAもいいのがなくて。


 そうだった?


 ない。モニターもいいのがない。演奏でどこやっているのかわかんないし、松任谷のイントロも延々と長くてどこからはいっていいのかわからないのがあった。


 それはあったね。一曲目でトランザムの♪ひ〜と〜つという、あ〜れがすっごい記憶に残っている。


 怖かったよ。


 だよね。


 5,6万人いるからさ。


 人があんなにいるのを初めて見た。


 すっげ怖かった。ステージに出る前に袖でウィスキーあおって、バンドもみんなも怖いよ怖いと言ってウイスキーひっかけて、だんだん気持が変な方向に行って(笑)演奏がグチャグチャになった。


 そうかな?あそこのコーナーが一番ステディだと思っている。


 いやステディだったのは松任谷とやった2部が一番まとまっている。1部10何曲のうち4曲くらいしかできていない。ひどいんだよ。

M-2 ああ青春 (つま恋75)


 瀬尾たちが最後に出てきてオーケストラで演るんだけど、もうテンポがめちゃくちゃ、すげー速く始まって、違うって途中で言って徐々にテンポが遅くなったりね、めちゃくちゃなライブ。


 瀬尾ちゃんの時は、僕はオルガンで参加している。だから夜明けが観られた。


 そうそう。


 あれはキレイだった。


 そういうのを憶えているんだ。


 すっっごい覚えている。


 俺は夢中で観ている余裕なくて最後に「人間なんて」を歌いながら、日の出まであと30分、あと10分とか袖で指示出されてシャウトしているけど限界でさ。めちゃくちゃ限界で終わった後ぶっ倒れて。


 僕は拓郎のほんの初期の吉田拓郎しか知らない。その後を知らないんだよね。


 その後右往左往していたのよ。


 教えてよ。


 自分でも右往左往して、どこに行くんだろうと言う間に気づいたら70歳になっていた。


 あっと言う間だよね。


 音楽に関しては松任谷や高中正義、石川鷹彦そして加藤和彦なんかと知り合って、音楽に目覚めて、そこで楽しい音楽のコツもわかって、そこから始まった音楽は最後まで楽しんでやったな。だから満足感はある。やり残したことはなくてやりたいことはやった。
マンタとか高中とか凄い素敵なミュージシャンと出会えた人生の財産はずっと生きている。それはすっごい幸せで嬉しい。


 光栄だけどね


 その出来がどうとか恥ずかしいのものあるけど、あの出会い、あの一緒の時間はすげー貴重で忘れられない。


 お互い忘れられない。あのころの一緒にスタジオに入った連中もステージをやった連中も忘れられないと思うけど。急に思い出した。名古屋だったと思うけれど、俺が東京駅のホームに着いたら、拓郎がベンチで座って下向いてて。渋谷さんとかスタッフが暗い顔していて。


 (渋谷さん)よく覚えてるね。


 憶えてるよ。どうしたのかなとか思っていたら、拓郎がひとこと「やめた!」って言って、その日のツアーは無くなったんだよね(笑)


 それは今も変わっていないな。そういうのはどうしてなんだろう僕は。


 あの時にすごい繊細なんだろうなとわかった。


 あのね俺すげ―繊細だよ


 あれできんのは繊細じゃなかったらできないよ。


 どうしてもこれ以上はやりたくない、もう行きたくない、勘弁してくれ、できないと思うとすぐ「やめた!」ということになる。


 あの時の心境を教えてよ。どういう心境?


 同じ歌を毎日歌っている、ツアーってそういうものだから。今日は名古屋、明日は大阪、明後日は広島、毎晩同じ歌を歌うけど、毎晩同じ感情では歌えない。


 そうだね。


 プロだからやらなきゃ、いけないのはわかっているんだけど、毎日同じ気分になれない。例えば「どうしてこんなに悲しんだろう」で、♪悲しいだろう みんな同じさ〜と歌っても、ある日は嘘なのよ。歌っている自分が恥ずかしい、みっともない、ウソじゃん俺ってシラケる。 そういうのが続くとすぐ「やめる」と言いたくなる。


 コンデションの問題じゃないよね。


 うん、関係ないよね。気分の問題。…特にラブソングは毎日歌えない。そんなに愛してるって毎日言えないんだよ(笑)。


 うん。


 気分悪い日、こんな演れねぇやというのも東京でリハーサルやったとおり歌わなきゃならない。時々すごい違和感を感じる。やめたくなる。これはずっと最後まで変わらなかった。


 今まで中止したのって何回くらい?


 数えきれない。相当ある。


 そうなんだ。


 だからそういうヤツなんだと思われてる。


 そういう繊細なところはずいぶん見た。だから知ってましたよ。


 今日会って良かったよ。


 結婚前に拓郎のツアーに由実さんも一緒に出たよね?


 あれはどこだっけ?地方だよね。


 ステージで紹介したね、


 突如出てきて間奏…「結婚しようよ」でキーボード弾いて


 どこだったっけね。


 そうだよ。それもあるけど、マンタとユーミンの新婚旅行にかまやつと初夜に行ったんだよ。


 どこだったけ?


 熱海だよ。


 新婚旅行の一日目に。新田さんもいた。


 ムッシュかまやつに「マンタとユーミンとか初夜を邪魔しなきゃダメだ」と言われて「なにしに行くの?バカみたいじゃない」「拓郎がいれば妨害できる」と、かまやつさんの人選で新田さんとかも連れて。


 熱海の旅館で拓郎が明け方女装していたよね?


 ベロベロで初夜を迎えさせちゃいけないという使命感があった。


 まんまとうまくいったじゃないの(笑)。


 ひどいね。


 たぶん、そういう間柄が人には想像できない。だいだい拓郎の音楽性と由実さんの音楽性って、由実さんは歌謡曲だと思っている。初めて聴いた瞬間からフォークじゃないし歌謡曲だ。全く違う音楽だった。両方やってたでしょ。 


 両股かけた男だな。


 両方、勉強になったと思っている。

M-3 結婚しようよ


 今までのベストパフォーマンスって何時の何て曲?


 手前みそだけど最近なの。最近の名古屋でやったライブの「I’m In Love」というラブソングと「流星」の3曲くらいメドレーが自分でゾクってするくらい。


 いいねぇ


 俺に久しぶりに神様が降りてきて陶酔して、歌い終わってボーッとなった。ステージ降りてからああやってよかった、本当に久しぶりの何十年ぶりかの快感だった。  


 いつ?


 2019年.


 それは幸せだね。


 それは幸せだった。武部達の演奏もその日は違っていた。そういう時ってあるよね。そん時だけ違うって。


 そういうのはあるよね、モニターが良かったのかとか原因がわかんないけど。


 演奏が俺を歌う気にさせるわけよ、もっとやれ、もっとシャウトしろとか言ってる感じの演奏。武部・鳥山もドラムもベースも後ろから押されて、わぁぁぁ、よし行くぞ!って感じで、歌い終わったあとに冷や汗というかぞっとするくらいだった。ベストステージと思っている。


 それやると次をやりたくなくなるよね。


 それをやったら僕はもうやめようかなと思った。もういいんじゃないかな。これ以上欲を出すとロクな事がないかもしない。これで満足しちゃおうよと思ったのは間違いない。

(ナレ)
次回は拓郎さんが今思うことに迫ります。

☆☆☆思いつきと感想☆☆☆

☆つま恋のトランザムのステージを印象的に覚えていたことも、その演奏がステディと思っていたというのも意外だった。すまん、俺は松任谷正隆はトランザムのステージとか観てないんじゃないかとすら思っていた。
 音で聴くだけだが、確かに、セカンドステージの松任谷グループの演奏ってすんばらしいじゃない。サードステージの瀬尾オーケストラとの競演がつま恋の醍醐味だと思う。

☆つま恋の夜明けがキレイだった。松任谷は「すっごい覚えている」と言った。そこまでしか話さなかったけど、彼の著書「僕の音楽キャリア全部話します」の90ページには、夜明けの美しさとともに「拓郎の背中が感動していることが凄くよくわかった」「一人の男が夜明けとともに燃え尽きて行った」と万感の思いで夜明けに包まれる吉田拓郎の後ろ姿を見つめている描写がある。ここは達意の文章で何度読んでも涙が出てくる。

☆拓郎は、つま恋の全音源を持っているというが、映像はどうなんだ、なにがある、どこにある、といつもマニアな飲み会で話題になる。とにかく全部だしやがれとみんなで酔っ払って叫ぶのである。

☆コンサートの中止について興味を示す松任谷。どういう心境だったか、何回くらいそういうことがあったのか突き詰める。拓郎も茶化さずに去勢も張らずにそういう困った自分…というスタンスでその心情を話していたのも興味深かった。

☆「繊細」それ大事。「ひよわ」とも読む。たぶん多くのファンは豪胆な拓郎の中にそこを感じとってファンになった気がする(当サイト調べ)。

☆70年代後半から80年前半の話も聴きたかったな。例えば79年にジェイク・コンセプシオンを効果的にフィーチャーしたアレンジとかサウンドの話とか。「英雄」「白夜」「アジア」「ファミリー」「サマータイム…」等の後期松任谷名作群の話も知りたい。

☆トリビアだけど「渋谷さん」の名前が出たとき拓郎が「よく覚えてるね」に対して「(当然のように)覚えてるよ」という会話があった。1980年の年末にラジオ関東の「拓郎の世界」というショボい番組にゲスト出演した渋谷高行さんが、アナウンサーから80年の拓郎の秋ツアーの感想を尋ねられて「今までずっと一緒にやってきくれた松任谷正隆さんがいなくなったのが寂しい」と答えていたのを思い出す。実は密かにひかれあう二人だったのか(爆)。


☆松任谷ご夫妻の新婚旅行の「初夜をぶっ飛ばせ」の話は何度聴いてもすげえな。とんでもない話だが最高にドラマチックでもある。拓郎は、前回のANNGで「自分は芸能人なのだろうか?」と自問していたが、他人の新婚初夜の乗り込むなんて豪快なことはカタギの一般人にできる事ではない。立派な芸能人である。それも勝新太郎、横山やすし級に近いのではないか。

☆キャリア・ハイを2019年と答える。しかも「音楽に関しては松任谷正や高中正義、石川鷹彦そして加藤和彦なんかと知り合って、音楽に目覚めて、そこで楽しい音楽のコツもわかって、そこから始まった音楽は最後まで楽しんでやったな。」と過去の四天王らとの軸線としっかりつなげている。カッコよすぎる解答。


☆ユーミンと中島みゆきをそれぞれ自分のステージに出演させた歌手って他にいるのか?

2022. 8. 25

☆☆☆朝の光の中で☆☆☆
 中学2年の時の国語の教科書に「朝の光の中で」という川端康成の随筆が載っていた。海辺のホテルの朝食の時に並べられていたグラスが朝日に美しく輝いていたという内容だった。だからどうしたと俺は思ったし、文中の川端康成の「もういけません」が面白くてクラスで流行したくらいの思い出しかない。

 そのホテルの名前が「カハラヒルトンホテル」だった。中学生には意味もわからずただ呪文のように記憶の片隅に残った。しかし今年になって奈緒のドラマ「雪国」を観ながら、川端康成って昔の教科書にあったよな…と芋づる式に思い出していって「カハラヒルトンホテル」という呪文に行き当たった。
 「カハラ」ってあの「カハラ」だろうかと思って調べたら、あの「カハラ」のことだった。そうだったのか。自分の不明を悔いた。
 中2の俺にあと何年かしたらこの川端康成の「カハラヒルトンホテル」をお前の大好きな吉田拓郎が歌にするぞと教えてやりたかった。

 たまらなくなってこの随筆を探したらみつかったのですぐにポチした。「美の存在と発見」という原題で、ああこれだ、これだと思った。

 「わたくし、カハラ・ヒルトン・ホテルに滞在して、二月近くなりますが,朝,濱に張り出した放ち出しのテラスの食道で、片隅の長い板の台におきならべた、ガラスのコップの群れが朝の日光にかがやくのを、美しいと、幾度見たことでせう。ガラスのコップがこんなにきらきら光るのを、わたくしはどこでも見たことがありません。」(川端康成「美の存在と発見」(毎日新聞社)P.9)

 あの時はわからなかったが、今こうして読むと美しい文章なのだな。ひとつひとつの光の表現、グラスと朝日の位相にまで及ぶ描写の見事さといったらない。

 「カハラ・ヒルトン・ホテルのテラス食堂の、朝のガラスのコップの光りは、常夏の楽園といはれるハワイ、あるひはホノルルの日のかがやき、空の光り、海の色、木々のみどりの、新鮮な印象の一つとして、生涯、わたくしの心にあるだらうと思ひます。」(同上)

 この漲るハワイ愛。どなたかのラジオでの語りを聴いているようだ。この文章のあとに「緑色のカーテンのスキマから夏の光が朝を告げるのです」「君を自由にできるならカハラに連れて行きたひ」ホラ違和感なくつながるでしよ。魂の通底を感じる。

 「このやうな邂逅こそが文学ではないのでせうか、人生ではないのでせうか」とまで記されている。ということで相変わらずのひとりよがりで誰からも共感してもらえないのだが、川端康成とハワイと吉田拓郎と中2の俺が時空を超えてつながった気がするのだ。妄想にもほどがあるかもしれないが、まさに人生の伏線回収だ。なんの伏線がどう回収したかはよくわからないが。
 とにかくもう一度私をハワイに連れてってと私も何度願ったでせう。
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2022. 8. 23

☆☆☆ありがとう☆☆☆
 松任谷正隆とのラジオに続いて、TAKURO BLOGのダウンタウンズのストーリーをしみじみと読んだ。過去の話を忌み嫌うことの多い拓郎だが、過去からつながる音楽の軸線を誰よりも大切にする。そこが素敵だ。過去は、郷愁のためにあるのではなく、明日のためにある、特に"そこから立ち去る事でしか「見えない未来」”と言う言葉が胸にしみまくる。
 引退、アウトロ、最後、エンディングいろんな言葉がコンタミして気もそぞろ状態が続いた。さすがに面倒になってきた。これから拓郎がどうなるのかは切実に大事なことであると同時に心の底からどうでもいいことでもある。なにがどうなろうとも、どうにもならなくとも拓郎ファンとしてのlifeはこれからも続いてゆく。てかファンは基本みんなそうだと思う。過去に停滞しているファン、今を生きていないファンなんて妄想の産物だ。それぞれが過去を慈しみつつ、それを大切に抱えてそれぞれの明日を生きているはずだ。だからファンなんだってば。そのファン中で吹けば飛ぶような私だが大事に明日につなげていきますとも、生きる限りはどこまでも。
 どうか吉田拓郎さんもこの同じ空のどこかで末永くお元気でお過ごしください。

 やっぱり何万回でも繰り返したい映画「ブレードランナー」劇場版の最後のハリソン・フォードのナレーション。
 no termination date. I didn't know how long we had together. Who does?
 最後の日がいつなのかはわからない。いつまで俺たちが一緒にいられるかもわからない、知ったことか!
 
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 そういえばアナログ盤を聴ける場所を見つけた。憚りなく踊ることもできそうだ(爆)。アナログ盤胸に抱えて行ってまいります。
 アナログ盤つながりで例の「マイ・ブロークン・マリコ」は奈緒&永野芽衣二人の映画化が成功するように祈っている。

2022. 8. 21

☆☆☆OK,Long time no see☆☆☆
 最後は1981年の体育館ツアーだったかな。俺が拓郎を聴き始めてからその時まではステージもレコードも何時も松任谷正隆がいた。ガッツリといてくれた。その後も85年つま恋とかLOVELOVEのビートルースとかほんの一瞬の接点はあったが、世界を覇するユーミン帝国に君臨するはるか遠い人になってしまった。
 今の俺のこの気分を率直に言うと40年間生き別れになっていた兄と再会して、その兄さんが昔とかわらず「やぁ元気だったかい」とやさしく言ってくれたときの心のふるえに近い。もちろんそんな経験したことないけど、想像できる限りたぶんそれぐらいの感慨深さだ。

2022. 8. 20

 あまりに感動したので調子にのってノート化してみた。あくまで自分のための備忘録なんで、是非ラジコなりなんなりでホンモノを聴くべし。あの至福な空気感は俺ごときに文章化できるわけがない。俺もまだまだ繰り返し聴くつもり。

☆松任谷正隆の…ちょっと変なこと聞いてもいいですか?@☆

(第一回8月19日分)


 マンタ―、久しぶりー。握手できる?

 できるよ、もちろん。

 マンタでいいのかな?

 俺もなんて呼んでただろう

 拓郎って言ってたじゃん。歳下だけど。

「さん」なんてつけてなくて。

 いやこんな日が来るとは、感慨深いよ。

 それは僕も。

 ミュージシャンで最後に会いたい人が何人かいる。松任谷と会って話してないなと思って。テレビでは観てる。でも車の番組で音楽の話はないし、相変わらず車が好きなんだなと。話すチャンスないかなと思ってたんで嬉しかったよ今日は。たぶん僕が他人の番組に出るのはこれが最後だよ。

 ウソ〜

<ナレーション>
 今日は吉田拓郎さんをお迎えします。二人が初めて会ったのは1971年リリースのレコーディング「人間なんて」でレコーディングの場でした。半世紀前のことを今も鮮明に覚えているようです。


 今日、自分でキャリアの最初のころのことを思い出すと、僕の一番最初知らないでしょ。

 ああ一番最初って知りたい。なんで加藤和彦が、松任谷、林立夫、小原礼、を連れてきたのかイキサツを知らない。

 林と僕はアマチュアシンガーソングライターのバックで、東急百貨店本店のコンテストに出ていてその審査員が加藤さんたったの。

 トノバンだったのか。

 2週間後に加藤さんに呼ばれて東芝のICステレオ「ボストン」のCMで生まれて初めてのスタジオという場所だった。

 加藤和彦なんだ

 だから僕を拾ったのは加藤さん。また2週間後、テイチクのスタジオに来てくれと言われて。あのスタジオの光景は死ぬほど覚えているし、そこにいらっしゃられて(笑)。加藤さんがハーモニウムを持ってきた。

 そうそう

 僕が弾いて。吉田拓郎が僕の初めてのレコーディングだった。

 今日話したいこといっぱいあるんだけど、いい?

 言って。

 広島から海のものとも山の者ともつかないガキたれが東京出てきて夢は大きかったけど、最初が通信販売のエレックレコードだったの。「人間なんて」はエレックのアルバムだったの。

 ああ、そうだね。

 「人間なんて」というアルバムでは加藤がセッティングしてくれたけど,それまで会社が紹介するミュージシャンがジャズのおじさんとかの古い人ばかりなの。当時俺は譜面書けないし、ギターでこういう歌ですって聴かせると、びっくりするくらいわけのわからないアレンジになってきて。
 僕はR&Bのバンドで岩国の米軍キャンプでギター弾いてして、ロックだったんだけど、フォークが流行ってたんでその中に入れられた。だからフォークギターは弾けないの。

 そうだったんだ。

 エレックはフォークとして売ると言うことで、会社のいうとおりにしていたの。「青春の詩」というアルバムを作ったんだけれど、アレンジはひどいのでも、もう今は絶対聴きたくない。
 そのことを加藤和彦とラジオ関東の番組で会った時に相談した。加藤君はもう超有名だったからね。いっぱい曲書きたいけどどうすれば、いいアレンジとかいいバンドとか、どうやっているのって尋ねたら、そしたら「俺が手伝おうか」って言ってくれた。
 エレックとはもう一枚アルバム作ることになっていたから、「結婚しようよ」、「どうしてこんなに悲しいんだろう」で加藤君が呼んできたのは君たち(松任谷正隆、林立夫、小原礼)…全然知らなかった。でもそれまでおっさんたちだったので、若い人たちとできるのが嬉しくて。
(BGM どうしてこんなに悲しいんだろう)
 やっぱりレコーディングはこっちだよな、若いミュージシャンとレコーディングするとわかりあえるし、話が通じ合うと面白いし、いい音ができると思った。

 話は長くていい?

 いいよ。

 「どうしてこんなに悲しいんだろう」もコード進行だけ渡したら、加藤和彦がアコギで
入れてくれて、B3で間奏を松任谷正隆がその場で弾いてくれた。あの間奏が素晴らしい。
ぶっ飛ぶような、その場で作ったのにまるで家で準備してきたような演奏だった。

 ホメてもらった印象ないけど(笑)

 あんときゃまだわからないの、後になってありがたみがわかるの。

(M:どうしてこんなに悲しいんだろう)

 どうしてこんなに悲しいんだろうのB3のオルガンソロのそのあとレコード会社をソニーに移ってそこでアルバムを作ってマンタにも手伝ってもらうんだけど。
 「(今はまだ)人生を語らず」というアルバムの「人生を語らず」という歌を作った時に
(BGM:人生を語らず)
 コード進行だけ渡したら松任谷がヘッドアレンジをしてくれて、松任谷が平野兄弟に(Ⓜ懐かしいな〜)こういうリズムでと指示して、ギターは矢島だったんだけどワウワウ使ったらどうかとか、そして間奏にコード進行しか渡していないだけなのにソリーナを持ってきた。これがどこでどうしてこのこういうメロディーが出てくるのかというくらい凄いのよ、松任谷正隆という人が。奇跡のようで。松任谷正隆のこのメロディーは今も50年経って今でも同じメロディーでライブをやっているんだよ。
ⓣⓂ
ターンタターターンターンタン。

 誰も替えられないの。どんなアレンジャー、どんなバンドでも、ミュージシャンも変えたけどあそこに行きつく。50何年間だよ。あの松任谷のフレーズを誰も替えられないのよ。すごくない? 

 最初のオリジナルってそういうもんだよ。

 でもこんなのは僕は無いよ。
(M: 人生を語らず )

 余分だけどギタリスト高中正義のライブ73ってあったんだけど、 松任谷にもいてもらったけれど、あの「春だったね」あのイントロ、あれも50年間変わっていない。

 あれは拓郎だよ。

 オルガンでしょ?ギターはオルガンと違う。オルガンのイントロはマンタに言った覚えがある。加藤和彦のアイデアマンとしての凄さ、松任谷の天才としか思えないメロディーの作り、その場で浮かんでしまう、高中のギターその場で浮かんだギター、50年間変えられなかったというのは 加藤和彦、松任谷正隆、高中正義そしてフォークギターというものを教えてくれた石川鷹彦、彼からはフォークについて教わった。この四人は僕を育ててくれた四天王と呼んでいる。

 初めて聴いた(笑)

 この4人がいなきゃ今の僕はいない。絶対ない。

 まず吉田拓郎は絶対最初に言葉から入ってきた。考え方から入ってきたから、生粋のフォークって信じて疑わなかった。それがR&B?

 フォークってよく知らないのよ。だから松任谷にはあの頃はボブ・ディランとバンドの話をよくしていて、俺がボブ・ディラン、松任谷がザ・バンドというようなバンド編成とかアレンジをしてくれとよく言っていた。僕は、ボブ・ディランはロックシンガーと思っている。

 そうね。

 フォークって、日本だと四畳半フォークとか言っちゃ悪いけど演歌みたいじゃんとか思ってて好きじゃなかった。アマチュア時代は岩国の米軍キャンプで黒人相手に歌ってたのが、フォークということにになった。でもフォークだったから売れたし、俺はロックだと言ってやっていたら売れていなかったかもしれない。ブームは怖いものだ。
 そこでアコースティックギターをもっと勉強しなきゃと思って石川鷹彦にスリーフィンガーとかどうやって弾くんだいと教わったし。

 何ツアーかい一緒に回ったけれど確かにフォークとは思わなかったな。でも最初はフォークとは絶対に思ってたよ。

 松任谷フォークとか知らなかったでしょ
(BGM:明日に向って走れ)

 いや僕はキングストントリオとかさ(笑)

 実は松任谷正隆ってバンジョーとかフラットマンドリンとかうまいじゃん、みんな知らないよ。みんなは君のことはキーボーディストと車に詳しい人と思っているだろうけれど。かまやつひろしが歌った「我が良き友よ」のバンジョーも松任谷だよね

 あれ俺なの?こないだ新田さんに会ったらあれは俺の弟だったとか言ってたけど。

 違う、違ういや松任谷だよ。俺のいろんな曲でフラマンとか入れてくれてる。
今でも弾けるの?

 こないだバンジョー2本買った。すごい好きなの。フラマンは欲しいけれど弾くところがなくて。

 バンジョーフラマンを必要しているレコーディングってないでしょ

 凄いダビングしたのは覚えているよCBS、 仁さんがいて。

 六本木の1スタだよね。コード進行の紙きれ一枚を渡して、それをその場でギターでこういう曲だと歌うと、松任谷がその場でまとめて各ミュージシャンドラムベースに指示するヘッドアレンジ。エルトンとかドラムのミッチーもいるけど島村(英二)とかあの頃の連中はみんな松任谷に影響を受けている。それがすげーわかる。
 松任谷のアレンジは独特で凄いのよ。ほんとにすごい。特にリズムセクションの作り方が天才。君は文句なしあの時代だよ、ドラムのサゼッションが凄い。

 記憶が改善してるんじゃないの

今聴いても凄い。今日かけたいとお願いしたのが「戻ってきた恋人」という曲があるんだけどドラム・ベースのアレンジ。あれはその場では思いつかないよ。♪テケテケテケテケットットというやつ。元の曲はエイトビートなのに、俺なんか目がクラクラするよ。

 それ聴くとニューオリンズだね。ニューオリンズをやりたかったんだね。

 あの時代になんでフラマンとかバンジョーとか好きでブラフォーの可能性もあったのになぜニューオリンズか詳しいのか どこにルーツがあるの?

 僕らの共通点のディランとバンドがあるじゃない。
(BGM :The Weight)
 ザ・バンドが「ロック・オブ・エイジ」というライブアルバムがあってそのホーンセクションのアレンジをアラン・トゥーサンがやって、アラン・トゥーサンをたどってゆくとミーターズというバンドにいきつき、そこらはドクター・ジョンとかニューオリンズがいるわけ。

 松任谷あの時は二十才前だよ

 二十才くらいかな

 そのころに70年代にニューオリンズを持ってきてこれをやれって人はいないよ。

 変わってたのかな。

 あのアイデアは凄いよ。「戻ってきた恋人」あのリズムは今でも気持ちいいよ。これはステージではできない。

 聴いてみたいな

 聴いてみて、「戻ってきた恋人」
 (M: 戻ってきた恋人)


 あの頃の俺たちは育ちがよくなくて荒くれ物の集団だったけど、松任谷だけ、この人どっから来たのという感じで雰囲気が違っていた。松任谷もフンとしてた。

 お酒飲めないし。

 お酒飲まないし人付き合いもしない。みんなが楽しんでいると輪に入ってくるけど
自分からはワイワイ騒がない。無口だった。独特の立ち位置にいたのよ。


☆☆☆感想☆☆☆

☆こんなに嬉しそうで熱量の高い吉田拓郎は久しぶりだ。堰を切ったように溢れる情意。魂だ。魂で話している。

☆いかにこの二人が天性の音楽家であるかということが胸にしみてわかる。もう心がふるえるったりゃありゃしない。

☆最初は「マンタ」と呼ぶ拓郎だが、だんだん熱を帯びてくると「松任谷」「松任谷正隆」と呼ぶようになる。これは、吉田拓郎がどれだけ松任谷正隆に対して深い敬意を抱いているか、誇らしく思っているかの徴憑だと思う。

☆ここに本物の美しきリスペクトがある。

☆話題には出ないが「明日に向って走れ」がBGMにチョイスされているところ。

☆この二人の作り上げた音楽やステージを体験できたことを私も心の底から感謝したい。

☆惜しむらくは松任谷正隆ともう一度、四天王とも、エルトン、島ちゃんとももう一度、…ああ詮無いことは言うまい。

☆次回はライブの話か。楽しみだ。楽しみ過ぎる。

2022. 8. 19

☆☆☆OK始まる☆☆☆
 電車の中でリアタイで聴いた。たまらん。こんなに嬉しそうな吉田拓郎を久しぶりに聴いた。こんなふうに音楽の海をいきいきと泳ぐことが何より好きなんだな。松任谷正隆が言葉少ないけどしみじみやさしくてまたそこが泣けるんだ。来週が待たれるし、また聴き直したい。

2022. 8. 18

☆☆☆OKの周辺☆☆☆
 最近spotifyでアグネス・チャン「グッド・ナイト・ミスロンリー」(1978年・作詞 松本隆 作曲 松任谷正隆 編曲 松任谷正隆)を聴いている。われらが「アゲイン」(作詞 松本隆 作曲 吉田拓郎 編曲 松任谷正隆)のB面である。後にこれがA面になるという下剋上な展開があったのだがその点の経緯はUramadoで書いたし今となってはどうでもいい。そこには書けなかったがアグネスのレコード会社の移籍も絡んでいたようだ。

 とにかく大切なのは名曲が名曲として生き続けることだ。1978年のB面曲がこうして44年後に一緒にいてくれてご機嫌な気分にさせてくれる。このことに他ならない。

 「アゲイン」は名曲であるがこの松任谷正隆の曲も負けず劣らずの名曲である。AB双璧シングルである。
 彼のメロディーを全部聴いているわけではないのでもっと傑作があるのかもしれないのですまんが、とにかくこの曲はPOPでドラマチックな素晴らしいメロディーだ。爽快感あふるるOK松任谷!と叫びたくなる傑作だ。気のせいか拓郎、ユーミンのエッセンスも少ずつ入っている気がする。あの飄々とした松任谷正隆はこういう情熱的なメロディーを書くのか。
 途中のフレーズで、
 ♪君がよそ見した時 鞄に薬入れた〜
 えっ!!松本隆もすげぇ詞を書くな〜と驚いたが、船で旅立つ君に船酔いの薬を忍ばせるやさしさという意味だったので安心した。>なんだと思ったんだよ

 同じ78年の12月のアグネスのアルバム「ヨーイドン」では、これまた私個人としては大傑作と讃する「ハート通信」(作詞 松本隆 作曲 吉田拓郎)が静かに発表されている。ということで78年の後期のアグネスが実は名曲の祝宴場だったりするわけである。

 そういえば慶応出身の友人に自慢されたが慶應義塾高校の応援歌は松本隆作詞、松任谷正隆作曲だそうである(ちなみに慶応中等部の同窓会歌は、松本隆作詞、鳥山雄司作曲だ)。
 KO!松任谷…ってそれが言いたかっただけの話だ。

2022. 8. 17

☆☆☆OK月間☆☆☆

 ということで8月19日から3回にわたって松任谷正隆と吉田拓郎の対談がFM東京でオンエアされる。マイ・ブロークン・サイトもこれに向けて気分が上がってきた。
 以前の日記で書いた超私的に天国に持ってゆきたい松任谷正隆をもう一度聴き直しさらに気分を高めたい。ということで松任谷正隆月間の突入である。

☆天国の島に持ってゆきたい松任谷正隆のキーボード7選(しみじみ抒情編)☆

いつもより余計に弾いております&ジェイクとの見事な掛け合い舞姫(TAKURO TOUR 1979)
ぽっかりと浮かぶ陽だまりのような心地よき間奏の至福野の仏 (ライブ73)
披露宴、ディスコのチークタイムにも最適だがどっちも縁がなかったが美しい未来 (大いなる人)
見事な後奏&暖かな焚火のような音色襟裳岬 (今はまだ人生を語らず/つま恋75) 
ボーカルに静かによりそう妙味白夜 (ローリング30)
スチールギターと拠りあう切ないまでの美の極致無題 (ローリング30)
ああ、どちらもどうしてこんなにいいんだろうどうしてこんなに悲しいんだろう (人間なんて/明日に向って走れ)

<次点>
いきなり天空から降ってくるピアノ流星(シングル)

☆天国の島に持ってゆきたい松任谷正隆のキーボード7選(ロック&ポップ編)

神様が遣わしたもう奇跡のソリーナ人生を語らず (今はまだ人生を語らず)
ポップに弾ける二人ザ・バンドの船出春だったね (元気です)
マンタ・ビギニング&フォークの国のエクソダス結婚しようよ (人間なんて/TAKURO TOUR 1979)
心優しいキーボードと踊りだす手風琴まにあうかもしれない (元気です/TAKURO TOUR 1979)
傷癒えぬままの蘇生に優しく強く寄り添うキーボード明日に向って走れ (明日に向って走れ)
ウキウキ跳ね回るポップなピアノ戻ってきた恋人 (今はまだ人生を語らず)
永過ぎた春を水中翼船のように進むキーボード春を待つ手紙(シングル)

<次点> 
バースト前の荘厳な鎮魂のピアノ英雄(ローリング30)
イントロとブリッジのピアノあってのファミリー(無人島で…)

<評価検討中>
ごっつ必死でピアノ叩きまくるおまえが欲しいだけ(ONE LAST NIGHT IN つま恋Uビデオ)
                                 以上

 私のベストワンは、1979年のライブの「舞姫」だ。ブルーの全体照明の中でピンスポットを浴びて前奏、間奏、後奏をこれでもかと弾きまくる華麗な姿が忘れられない。

2022. 8. 16

☆☆☆マイ・ブロークン・プレス☆☆☆
 プレス工場の方々が身を削るようにして五寸釘で掘ったという話を聴くとやっぱりこの美しいアナログLPは飾るだけでなく音を鳴らしたいと思う。先輩サイトの方がアナログLPにさんざん文句言いながらも実はレコードプレイヤーを求めようとしていた話にもやられた。特にファンの矜持として粗末なプレイヤーでかけたくないという気骨に胸を打たれた。
 今さらだが俺もこのアルバムをきちんと鳴らそうとあらためて思った。しかしアナログプレイヤーを置く物理的スペースが我が家にはない。どこか他所に行かねばならない。

 で話は一見違うが、先週仕事で茅ヶ崎までの外回りのときに電車の中で、マンガ「マイ・ブロークン・マリコ」を読みながら東海道線の車内で涙した。今年初めに永井みみさんの「ミシンと金魚」に感動したが、マンガで比較にはならないが、これはこれで胸わしづかみの短編だった。秋に映画化公開されるとのことで、そうなるときっと吉田拓郎界隈でも話題になるかもしれない。しかし、いつだって漫画の実写化は微妙過ぎることが多いので、できれば先に読んでおきたいところだ。
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 俺はこれを読んで、不謹慎だと怒られるかもしれないがこのアナログLPを抱えて音を鳴らす旅に出ようと思ったのだ。還暦過ぎにしては軽薄すぎるか。 
 レコードプレイヤーを持っている知人は2,3人いるにはいるが、ジャズかクラッシックのファンばかりだ。コルトレーンとかカヴァレリア・ルスティカーナとかが鎮座まします中で、膝を正して聴くのも窮屈だ。もっと自由に、例えばショルダーバックやgo toのあたりでは誰憚ることなく踊ったりしたい。ということで期日未定だが音ならしの旅に出ることにした。 

2022. 8. 15

☆☆☆I Shall Be Released☆☆☆
 先日のANNGは、あいみょんとのトークのみならず拓郎自身も意気軒高で嬉しい放送だった。これを聴いて「解放されたとき拓郎はいちばん輝く」というメールをいただき納得した。なるほど。引退ではなくこれは解放なのか。解放されてゆく吉田拓郎の旅路が続いているということか。

 暮らしの手帖の「戦争中の暮しの記録」を読みかえす。ひとつひとつの投稿は短いが、どれも内容はあまりに重たく読み飛ばせない。そのひとつに飼犬はすべて国に供出すべしという条例にどうしても従えない女性がリュックに愛犬を入れて命がけで疎開地に逃げるという体験談がある。夜行列車に潜り込んで息を潜め取締と密告のピンチを切り抜け、疎開地に着いてからも近所や憲兵の監視と飼犬狩りの猟師たちに狙われるいくつもの危機を潜り抜ける様子には胸が苦しくなる。
 戦争は国と国だけでなく、国内もしっかりと分断してしまう。というか少数派を分断しないと戦争はできないのだろう。なんか最近は分断の準備が顕著に進んでいやしないか気になる。

2022. 8. 14

<オールナイトニッポンゴールド 第28回 2022.8.12>
 毎週金曜日は週替わりでお送りしていますが今週は吉田拓郎です。吉田拓郎というより”吉田たんみょん”が(笑)。先日あいみょんとお会いして今日から僕は”たんみょん”で再デビューするかもしれないと宣言したらKinkiKidsの堂本剛からから絶対売れまへんがなと言われた、ああそうでっか(笑)

 さて巷では「吉田拓郎が芸能活動から引退する」ということで、普段だったら僕の音楽とかにも興味も持っていないメディアとかマスコミがいろいろ書いています。その中で、「拓郎に近い音楽仲間」…誰だよ呼んで来い。「拓郎をよく知る人」…誰だ。そういう人の談話というが、嘘つけ!おまえが書いているんだろう。
 僕には近い人とかよく知る人なんていない。せいぜい同じマンションに住んでる方々くらいだ。今、植栽管理しているのでいろいろクレームあったりして(笑)、小さいマンションなので住人の方々は知っている。吉田拓郎が何時ころゴミを捨てたりするとか、よく会うんだ…奥様と立ち話したりするし、そう言う人は知っているかもしれないが、そんな近いやつがいるワケがない。

 アナログ盤のエッセイ”ちょっとだけTrue Story”でも書いたけれど、責任を負おうとしないメディアの作り話に惑わされるな。ネット社会の都市伝説、フェイクニュースこれらは全部嘘。

 僕は芸能活動から引退といわれているけど、佳代さんに俺は芸能界にいたのか?と聞くと佳代さんも「芸能界?私もあなたもどうかしら?」ということで俺たちは芸能人だったのかということが話題になっている。どうも違う気がして。
 芸能界を引退するというのは違うんではないか。そもそも芸能プロダクションにいたわけではない。最初はユイ音楽工房というニューミュージック系ばかりで社長が最初は大学のクラブ活動の延長みたいな感じだったんで芸能プロという感じはない。その後は自分で立ち上げたファミリーのような感じだった。
 「The芸能界」の方々のお付き合いとか曲を提供したりしていたことはあったし、フォーライフレコードの社長の時はそういう方々とのお世話になりながら会社を立て直した。
しかしどっぷりと芸能界には入りきれず中途半端だった。中途半端だったので芸能界引退というのは似合っていない。俺はそこにいなかったもんという感じだ。

 いろんなことを中途半端に 自分の好きなようにやりたいことを生きてきた。50何年間パーソナルに個人的に好きなことをやってきた。
 その中で好きだったコンサートツアーをもうやらない、面白いと思って出てみたテレビももう出ませんよ、育ててくれたラジオもそろそろ卒業させてくださいよ。それが芸能界に引退になってしまう。僕は僕でしかなかったと。それは満足している。どうも芸能界引退というのは好きになれないフレーズだ。あえていえば卒業…リタイヤでいいやね。

 ほいでほら、引退というとどうしても悲観的だ、もうこの先に何にもないイメージだけれど、例えばラジオだって今週はあいみょん、来週は菅田将暉が出てくれる。楽しみだし。久しぶりにあそこの美味しいもの食べに行きたいとか平凡な日常の楽しみもある。人生をリタイヤしているわけではない。生きる事を引退しているわけではない。
家では毎日ギターも弾くし、ギターだこもできているし、曲だって作るし、打ち込みも家でやりたいし、やりたいことはいっぱいあるよ。引退、引退、引退というのはやだなと思う。今日もあいみょんがゲストだし若い人たちの話を聞けるのは楽しみだ。

▽今夜も自由気ままにお送りします吉田拓郎のオールナイトニッポンゴールド

<再プレスのおかげで予約できた、ありがとうございました、厳しい決断だったと思いますという投書>など

 再プレスが決定しました。とはいえ限界がある。今時、アナログLPを必要とする人がどのくらいいるのか、固い数字としてはある。それでも自分で仕事部屋、勉強部屋に飾りたい。思い出として一生飾っておきたい。ということで篠原にディレクションお願いして、デザインしてもらい、写真選びもして奈緒にモデルになってもらって、つま恋で撮影した、僕の記念ということで始まった。付録みたいなカタチでつくろうということになった。
 アナログプレス会社にも事情があり、たくさんプレスする環境が整ってない。限界の枚数というものがある。これくらいで十分だという限界まで作っていただいて、あっという間に予約が一杯。みんな驚いた。
 やっぱりそこに転売という非常時に腹が立つことがあって、最後のコンサートの時もそうだった。だから、こちらも最低限の努力をしようということで再プレスしようとプレス会社の方にも無理を申し上げた。
 アナログのプレスは工場で僕が歌う、工場の方々がそれをレコード盤の溝に五寸釘で・…  そんなことあるわけねぇだろ(笑)…そんなことはないけどそれくらい環境は整っていない中で再プレスをお願いした。
 それがあっという間に数字がいってしまうと、僕個人の読みが甘かったというしかない。
 アナログ盤を買っている人に失礼だけれど、どうして必要なのよ?という気がしている。エッセイはついているけど…値打ちはそんなにあるとは思えない。
あ、ジャケットは素晴らしいよ。奈緒も素晴らしいモデルとして被写体だし、篠原ともえのデザインも素晴らしい。美術的な感覚で絵を買ったと思うと良い。
とにかくありがとうございました。

 今日の一曲目は、小田和正…我が盟友が、コンサートをできずに残念なことになって、
心配している。早く回復してステージで、元気な姿を見たい。小田和正からは、メールで、感染もあるので楽屋とかには来ない方がいいよ、窓を開けっぱなし風通しのいい部屋でスイーツ食べながらおまえと話す方が楽しいよとメールが来た。


M-1  雪さよなら  吉田拓郎 (with 小田和正)

▽CM

 僕の家は今大変な状況です。僕もアルバム出したばっかで36年間でウチの人がやっと認めてくれてよくアルバムを聴いてくれている。
 今、若い人の音楽が素敵だということで米津玄師を勧めたらウチの人は夢中になって、もう朝からうるさいくらい聴いていた。
 しかしスポーツ選手はじめ男については飽きが早い。あいみょんを勧めていたけど、女の人独特の何かがあって、最初はそうでもなかったたのが、LOVELOVEのテレビで心を掴まれてしまった。
 妻に頼まれて僕が知っているあみょんの曲をつなげてUSBに入れて、一か月経つけど朝昼晩あいみょんを聴いている。あいみょんが終わると「終わったよー」と声をかけてきて、僕が自分のアルバムに切り替えて、それが終わると、またあいみょんにに切り替えると忙しい(笑)。とにかく何をしていても”初恋が泣いている”が頭から離れない。

 LOVELOVEでもこの歌を歌っているとき拓郎さんが拓郎さんのパートじゃないところも一緒に口ずさんでいてくださってました。

 そう、一か所しか歌わせてくれない。他の曲も頭のでは回っている。面白い話があって、「初恋が泣いている」。妻は歌詞カードを見ないで聴いている。
 ツーコーラス目にママが紅をひきながらというフレーズがあってどんなママなんだろうと思ったららしい。そう思ってまた一番を聴いた時に「電柱にぶら下がったまま」というフレーに「ママが電柱にぶら下がっているの?」と(笑)

 そう聴いてしまいましたか(笑) ぶら下がった「まんま」を「ママ」と思ったんですね。

 あいみょん研究としてはこうやって話をすり替えられそうな歌が多いと思う。好きというのも本当に好きって言っているのかな、あいみょんは天下の嘘つきではないかと思ったりもする。

 誉め言葉と思います。

 「マリーゴールド」の「でんぐり返しの日々」。自分もかつては新しい歌を作っていると思っていたが、こんなフレーズはとても浮かばない。僕が知ってる作詞家がこんな詞をつくれるわけがない。こういうことを歌詞にしてしまう。変わった人だな、そして凄いな。 でんぐり返しの日々、どういう日々なんだろう。つまんねーことがあったときのことかな?…いろいろ妄想する。


 いろんな想像力を働かせて妄想してもらうのは嬉しいです。作る時に歌詞と曲を同時進行で出てきた言葉を流れのまま歌っている。深い意味なく歌ってて気持ちいいなと思います。繰り返してゆく、ぐるぐる回ってゆく日々という意味なんですけど。

 かきたてられるね。ストレートに好きとか嫌いとかこっち来るなとかストレートな言葉と違って、どう受けとるかは自分なりに判断するしかない。

 まどろっこしいんじゃないか、わかりづらすぎるんじゃないかと思うこともたまにあります。

 だから面白い。まるでクイズみたいで、どっちとも取れる。そういう歌詞ってみたことない。日本の昭和からの演歌からJ-POPからフォークからロックとかの流れの中で「ない」。

 まだデビューして自分のオリジナルなものはないと思っていたので唯一のものって認めてもらえて嬉しいです。

 “桜が降る夜に”という歌で「4月の夜はまだ肌寒いよねというそう語り合う微妙な距離の二人は」という歌詞がある。凄いな。そういうカップルはベタベタではない。

 距離感を表現するのに会話を使うのはひとつの手法です。

 そうかそんな話をするっていうのは大した二人ではないということか。そこってなんなんだろう。それほど人生体験をしているとは思えない。

 ぜんぜんです。感情ゆさぶられる経験はそんなにはない。歌詞すべてを経験しているわけではない。


 そうすると妄想と想像力だけで乗り切ってきたの?

 六人兄弟の中でいちばん迷惑をかけず反抗期もなかった。手はかからなかったけど他の兄弟とは違っていたと母に言われた。絵を書く、作文を書く、本を読むことばかりしていました。 

 僕も小さいころ病気がちで学校も半分くらいしか行ってなくて家で妄想している子だったけど、それってだいたい女の子の事だったな。女優さんのこと、ハリウッドの女優や日本の女優のこととか。


 妄想することは悲観的なこと、例えば兄弟の中で自分だけ…とか

 あ、わかる俺も

 でも外面はメチャメチャ明るい。

 俺も(笑)

 小さいころから写真とかでは人前ではふざけている。そのうち映画が大好きで主人公に置き換えて妄想するようになった。

 それって今、役にたっていますか?

 まったくない。なんだったんだろうって。よく誰かの影響を受けているかとか質問されるんですけど、それはない。自分がなんでこういう詞を書くのかよくわかんない。

 兄弟とかに音楽をやっている人いる?

 父が音響関係の仕事で、楽器もあつたし、音楽も流れていた。唯一私だけが音楽に興味をもった。お父さんの聴いている音楽をそのまま聴いてきた。

 それは日本の楽曲?

 日本ですね。

 そういう日本の音楽の影響は受けていないね
 
 そうですか?フォークとかその辺りは…

 ない。フォークもへったくれもない(笑)。あなたはOne&Only

 拓郎さんたちの影響でそういう細胞を貰っている受けてんのかなって

 僕もよくあいみょんの曲って拓郎さんの影響とかありますよねとか言われるけれど
「ない」。全然僕の音楽とは違う。

 そうですか?

 何が違うって… 
 音楽って詞にメロディーつけて最初ギター一本で弾いているとわりと同じように聴こえるものでも、それがアレンジされて、バンドでミュージシャンがついて、コードも少しいじると違う音楽に生まれ変わる。その点、僕が会いたいくらい、いいミュージシャンだし、アレンジから何からいいスタッフがいるなと思うし、それは財産だよ。
じゃあギター一本の時の音に吉田拓郎的なところがあるかというとそれはない。絶対にない。やっぱり今後はあいみょんぽいものは出てこない。そういうOne&Onlyひとりで最後なのよ。

 嬉しいな。でもいつか自分はあいみょんに憧れて影響受けました言う人が出てきてくれたらと思う。

 それはいっぱい出てくるでしょう。僕もさういう人が出てきたけど全然違ったよ(笑)。気分はいいけど、僕もこの歌に影響受けましたといわれるけどどこにも影響ないじゃんというのが多い。 あいみょんも、こんな詩の世界は考えられない。この世界感が考えられない。
 「恋をしたから」の「夕方の匂いが苦しい」。夕方の匂いが苦しいって、こんなのキミだけだよ(笑)。ないな。どんな事情があるにせよない。どうして二十幾つの女の子からポンポコこういう言葉が出てくるんだろう。

 頭はずっと動いています。頭を休ませることって死ぬまでないです。何かないかなといつも頭が動いている。気づけば作っている。意識もないくらい。

 どんどん湧いてくるの?

 はい。

 えー

 夕方の匂い。深い意味があるわけではないんです。上京してきて前住んでいたところが、夕方になるとサバの煮つけの匂いが漂ってきて、実家帰りたいな、家族元気かなと思いました。

 サバの煮つけから 夕暮れの匂いが苦しいという詞が浮かぶ。面白いな。

 家族に会いたくなる匂いです。   

 あと「愛を伝えたいとか」の少し浮いた前髪って歌詞。

 めちゃくちゃ熱弁してくださってましたね。

 少し浮いた前髪って毛の薄い人も含めて(笑)これはいいなぁ。割れてしまった目玉焼き。そして「明日、僕かいい男になれるわけもないし」。こんなこと言われたくないけど当たっている。

 それって裏返すと私だって明日いい女になれるわけないしという意味もある。

 でも男の子達ってすげー喜びながら ああでも俺の事だと思うわけ。なれないよ。こんなことを歌にした人っていない。
 「風のささやき」どんなロマンチックな歌なんだろうと思うと全然違ってまたあいつをぶん殴ってやった、知らないくせにふざけんな
頑張れなんて言うなよクソが…

 上京してはじめて作った。頑張れと言われることが嫌で、頑張っているんだからそんなこと言うなよと思ってしまいます。

 勇気ある歌詞「クソが」。これがメロディーにのっかっている

 ほめられまくり(笑)

<ご当地グルメはあいみょんさん自分で探すのですかという投書>

 そうですね、自分でも探すし、もっとやりたいですね。これは欲しいというのはチェックします。

 ツアーに行くとコンサートの後でかけるの?

 こういう状況の前は観光もしていた、その土地で知りたいこともあります。

 街で「あいみょん」と言われるのは面倒くさくないか

 ないです。よく気づいてくれたと思う。拓郎さんはかけられたらどうするんですか?

 ハイ僕です(笑)

 その通り(笑)

 ではここで電線にぶら下がっている歌

M-2 初恋が泣いている    あいみょん

▽11時

たんみょんがお送りしています

よっ、中華!

<ギターを弾くとき好きなコードはあるかという投書>

僕はE

私は、Cadd9が好き音でギターの試し弾きをするとき必ずこのコード


僕は絶対E で一弦が低めにチューニングされていないと。
E でまずやってCへ。Cで作ることはない
あいみょんはギターを弾きながらつくるの?

Cadd9押さえて、じゃらんと弾いて同時に言葉が出てくる。「メロンソーダ」と出たらそういう歌を作ってゆく。ゲームのような感じ。

コード進行は詳しい?

いや、コード読めないし転調もできないしアレンジャーと打合せしてもらう。
ギターの名称もわからない。いい意味でギターに興味がない。拓郎さんも言っていたけど私もギター少ない。一本でいい。
    

それで弾き語り大会によく出たね?両国で陽水たちと。

弾き語りはよくするんですけどギターには興味がなくて。ローディさんから「あいみょんもう一本ギター買ってくれるといいんだけど」といわれて「はーい」と買ったり

ギブソンとかフェンダーとかこだわってない

全然。ビンテージとかも持っていない。

いいことだと思うよ、よくギター何百本も持ってる人ってバカだと思う(笑)

C系で曲は作るの?

はい。指弾きもします。スリーフィンガーとか。下手ですが、それでしかアルペジオができない。小指と薬指はボディにつけたまま。

<拓郎さんのギターテクニックをあいみょんさんに伝承してください、伝承できるのは拓郎さんしかいないという投書>

あれ以来、ギターの持ち方を観ちゃうなといわれます。

大事だよ。ギターを抱えた立ち姿。サマになっていないのは歌ヤメロと言いたい。

左手を浮かせているのがハンマリング

それはやっています。

ひとりで弾いているように聴こえないでしょ。

ドラムが鳴っているような感じですね。練習しよう。

コードCからどこへ行きたい?

そのままGが多いです。

C→Em→Dm→Gに落ち着く
Aフラット入れるといい。C→FもC→Fm

Fm好きです。

コードをいろいろ覚えると面白いよ

たまたま抑えたコードで作っちゃうことがある。勉強したくない一心。

アコースティックギターの人は大したことないけどエレキの人はいろいろなテクニックがあって面白いよ。オーギュメント入れるとか。

きっかけになりますよね。

エレキ弾いたら?

重いから(笑)なんでこんな重いのと思った。

あいみょんの曲、アンプにぶっこんでエレキでガーンと聴きたい曲って多いよ

ホンマですか?

CDだとエレキはオープンコード鳴らしている

受け継ぎます。

アコギよりエレキの方が面白い

ライブ中にギターソロカッコイイと思うけどても重たいよなと。
エレキは家にも一台もない。あったんだけど、ギターを置くスペースがない。


アルバムを聴いて凄く伝えたい。ボーカルって高いとこ歌う時にファルセット使うと女性ってヒステリックになってくる。でもあいみょんの声は裏声になってもヒステリックにならない

便利な声質だなと思います。「便利」という言い方にしている。

鍛えてもできないし。この声を作ってくれたご両親は凄い。そうしようと思ったのではないだろうが。

自分では高いところを張る時に心配でした。

ぬけがいい。小さいころに違う職業になりたいと思ったことは

ずっとパン屋さんにあこがれていた。ずっとパン屋の匂いが好きだった。あそこは天国かと思った。近所にパン屋ができてふるえるとほど嬉しかった。パン屋になったらこの匂い嗅ぎほうだい。あとはカメラマンとかお父さんのようにPAとか。もともと絵を描きたかった。学校で唯一褒められていたのが美術。ある時に想像で絵をかくのが苦手だとわかった。模写は得意だったのだが、オリジナルを生み出せないことがわかった。

俺も写真部だった。ヌード写真を撮ったという噂でクビになった(笑)

最初ポラロイドカメラからフィルムカメラ…今も持っている。暗室とかも経験ないけどやってみたいなと思います。


暗室で憧れの高校生との写真をハートマークで合成して売っていた(笑)
学校の頃、男子学生とは遊んでいた?

均等に

クラスでは人気者?

真面目でした。高校留年しているんだけど。学校に行くのは友だちに会うこととノートをいかに美しくとるか。ノートはアートだった。筆箱はカラーペンでパンパンでした。

変わった子だな。授業の内容ではなくて写し取るところ。

アイツいつもノートとっているのになぜ留年と思っていただろうと思います。

あいみょんは甲子園でライブやるんだって?

甲子園45000人のセンターステージで弾き語りやります。

野外ライブということで拓郎さんのアドバイスをという投書が来ているけれど野外ライブ嫌いだから(笑) お酒は飲むの?

ビールが好き。味が好きで一日三缶は飲みたい。家帰って一杯、食事のときに一杯、お風呂上りに一杯。

おっさんみたいだね

ライブのあともこのために頑張ったんだということで、まずステージから降りてビールをキンキンに冷やしといてもらう。ウィスキーも好きだし、ビールをたくさん飲んだ後、家には白州とかラフロイグとかメイカーズマークも揃えてあります。日本酒にはまだたどりつけていないです。
 お酒を飲み過ぎて失敗もあります。メチャメチャ元気になって、ただの酔っ払い「The酔っ払い」


カメラ好き、酔っ払いそこは吉田拓郎と似ている(笑)

昔の髪型とガチャピンと言われたところも似てますね。
  
M-3  桜の降る夜に   あいみょん

「初恋が泣いている」は名曲だけど、初恋の話をしてみたいな。僕は高校2年の時に壱年下にテニス部の嶋田準子さんがすごく気になって、同級生にセッティングしてくれと頼んだら、おまえ曲をプレゼントしたらどうだと言われて。

M-4 準ちゃん(生歌)     吉田拓郎

放課後に聴かせたら「変なの」と言って去っていった(爆)。今も忘れられない

初恋どれやったかな。一番小さいころ小学生かな、元気な男の子だった。中学生もそう。陸上競技をやっていて、アルバムの写真観てもぷっさいくな顔して走っている(爆)。同じ部活の子だった。顔が好きでした。目がクリっとしてモテていました。
 その子に卒業に第二ボタンもらった。別に流行していたからもらったという感じで。拓郎さんとおなじや。だからと言って、初恋の曲、じゅんちゃんのような曲はなかったです。


嶋田準子さんに東京でデビューしたあとももう一曲作った(“準ちゃんが今日の吉田拓郎に与えた多大なる影響”のサワリを生歌)。それくらい強い憧れだった。
今コンサートツアーをしているが、時間ができて行ってみたいところはありますか。

もともとはニューヨーク行きたくて、予約したら行けなくなった。今は日本で行ったことないところに行きたい。プライベートで旅したい。コンサートツアーで行くと会場とホテルの移動ばかりになるので、そうことがなく過ごしたい。

温泉とか好き?

私、お風呂苦手なんです。

似てるよ(爆)

湯船に長いことはいられない。10分で出てしまう。 

よくお風呂で本読んでるバカがいるよね。

湯船につかっている人生なんてつまらない

アタシ、猿と温泉に入ってみたいんです(笑)

あるよね、猿が温泉入ってる。行ったら写真アップしてください。

動物が大好きで、友達いないとき、ずっと一人で上野動物園行ってたし
多摩動物園の猿山がおすすめです。


あいみょんは曲も詞も話も面白いな。会ったことがない女の人だな。ずっと喋っている。

お喋りすぎて、トイレでもしゃべりたい(爆)私めっちゃトイレが早いんですよ。私くらい早ければもつと開店よくなるのにと思います。
 スーパーのレジ打ちとかも私ならもっと早くできるとか思っちゃう。そういうことつぶやいちゃう。


レギュラー番組はあるの?

今度オールナイトニッポンやります。

 絶好調だろうね、ゲストなんか無しで。あいみょんと暮らしたら楽しいだろうな。

全国の男性に言いたいのは私と一緒にいると絶対楽しいと思いますよ。楽しませる自信ありますよね。一緒のスタッフに楽しいと思って欲しい。ずっと喋っているので嫌いになるかもしれない(笑)。

あと4,5時間大丈夫そうね。ありがとうございました。頑張ってくださいね。

▽エンディング
 あいみょんのアルバムを聴かせていただいて、スペシャルに高く評価していて、オリジナリティが高くて、とても斬新で。僕達も70年代にやってきたことが前進して、新しく格率確立しつつある。あいみょんも米津玄師も斬新で若い人たち日本のポップスが進展してくれるとを楽しみにしている。
 あいみょん話が凄く面白い。ずっと喋ってしまう。年内にどこかで飲もうと話をした。来月は菅田将暉くんが来てくれる。彼とはテレビで対談の話があつたけど、時間をとってこっちで話しましょうということで、こちらに出ていただいた。
次回は9月9日金曜日です。最後の曲は、アルバム”一瞬の夏”から

M-5 夏休み    吉田拓郎


☆☆☆思いつきと感想☆☆☆

☆この世の中あげての「引退」ムードが、どれだけ拓郎ファンの元気を奪うか。「新曲をつくる」この言葉がどれだけの光明になることか。いろいろ個々に終わるものはあったとしても、今はまだ僕達は旅の途中だと。そういうことか。

☆あいみょんと拓郎の会話は、関西弁の妙味とかお互いの相槌とか感嘆とかを含めて大切な空気になっている。しかもギターが鳴るあたりの気分の上がる感じはとても文字で起こして再現はできないと思い知る。実際の会話を聴いてね。

☆それにしても面白かった、あいみょん。前半、拓郎のほめられまくり攻撃 (絶賛内容に異議はない。そのとおりだが)に困惑してそうだったが、ギターが出てきたあたりで光が射して、後半はあいみょんのテンションがメチャ上がってきて面白かった。これからもっと面白くなるとぞというところだったから続きが聴きたい。

☆あいみょんは門外漢だけれどいいなぁ。音楽はもちろんパーソナルな魅力全開だ。美しいノート作りに全力を注いで集中して留年してしまう、パン屋の匂いは天国でふるえるほど嬉しかった、トイレが早い、アタシにレジを打たせろ、ギターにいい意味で興味がない、エレキは重たいからいやだ、…いちいちすんばらしい。窓際のトットちゃんか。天が遣わせし人という感じがした。

☆小田和正、窓を開けておまえとスイーツ食べながら話す方が楽しいよ…泣けた。盟友…というか朋輩感がしみじみと伝わってくる。

☆どうでしょう。「ガンバラナイけどいいでしょうクソが」ほーらステージで歌いたくなる、客席もクソが!!という合いの手を入れたくなってくる(爆)

☆☆☆今日の学び☆☆☆
 責任をとろうとしないマスコミ、ギター何百本持っているヤツはバカだ、立姿が悪いヤツは歌をヤメロ、久々に痛快な拓郎節を聴いて実に胸がすく。こういう歯に衣着せぬ容赦ない拓郎は実に最高だ。しかし、時に、この口撃がおまえらは停滞してるとかなんとかファンに対して向けられるときがあって、こういうときの拓郎は実に最低である。圧倒的なシュート力を持ちながら、時々制御ができなくなって味方ゴールにも思い切りシュートしてオウンゴールしてしまう伝説のサッカー選手みたいなものだ。…と拓郎をよく知るファンは言っている。

2022. 8. 11

☆☆☆100分de名著"ちょっとだけTrue Story”を読む☆☆☆
“ちょっとだけTrue Story”を読み終えた。文字どおり身の置きどころがないような極北の旅が語られている。読んでいるこちらもこの歳になって”愛”とは何なのだろうかと考えさせられてしまう。読みながら石原信一の「挽歌を撃て」のまえがきの一節が思い出された。

 「英雄にしては彼の流した涙はあまりに屈辱に満ち、血はあまりにあたたかすぎ、傷はあまりに痛々しく、怒りはあまりに人間的だった。」(石原信一「挽歌を撃て」はじめにP.5)

 だから俺ごときの薄っぺらで野暮な感想を軽々に書くことはまだできない。でもひとつこれだけは言っておきたい、弾けないギターのネックを下げながら魂をこめて言いたい。

  おまえのおかげでいい人生だったと俺が言うから、必ず言うから、忘れてくれるな。

 ということで今はまだ引き続き、聴きながら眺めながら愛でながらライナーノーツとともに熟読玩味するよろし。

2022. 8. 10

☆☆☆そんな君の手紙が着く☆☆☆
 オリビア・ニュートン・ジョンさんの訃報にふれて心からご冥福をお祈りします。しかし不謹慎で申し訳ないが、どうしてもオリビアねーさんと大塩平八郎が浮かんできてしまう。昨日もリンゴ畑でニュートンに会いました、彼は愛犬ジョンを連れて…それもこれもぜんぶ含めてお祈りします。

 アナログレコードが届いた。ああ、そうだ、そうだ、この大きさ、この質感。とにかくジャケットがすんばらしくいい。表も裏も。そしてインナーの表と裏の写真までとてもいい。我が心のつま恋。心の奥に直覚これ!と響く。
 歌詞も老眼鏡いらずのこの大きさでこそ心にストレートに入ってくるというものだ。
 聴きたい、レコードを聴きたいと切に思った。そうだ高田馬場の名曲喫茶らんぶるに行けばプレイヤーでかけてくれるかも>とっくにねーよ、あってもかけてくれねーよ

 ちょっとだけtrue story…これはファンへの置き手紙のようだ。少し緊張しながら恐る恐る読み始める。

2022. 8. 9

☆☆☆長崎の軸線☆☆☆
 昭和20年の秋、小学生だった私の母は家族ともども命からがら半島から引き揚げて日本に帰り着いた。たぶん吉田家と同じ境遇だったに違いない。博多港から引揚者の方々で超満員の列車で故郷の長崎に向った。ようやく列車が長崎に入らんとしたとき、列車の前方から乗客の悲鳴=どよめきのような叫び声が怒涛のように押し寄せてきたという。車窓から見るとあの長崎の街がとにかく全部無くなっている。悲鳴の後は茫然自失でみな声もなかったという。その一面の焼野原の光景もさることながら、あの瞬間のどよめきと悲鳴と叫び声が今も耳に残って離れないと老母は繰り返し語る。

 どよめきと叫び声といえば、私の頭に浮かぶのは、つま恋、篠島、武道館…あのハッピーな記憶しかない。平和な時代に極上の幸せな体験を過ごせたことを魂の底から感謝する。ひるがえって子どもらに俺達があたえるものはあるか…と思うといたたまれない気持ちになる。

 彼我問わずすべての戦争犠牲者の方々のご冥福をお祈りします。

2022. 8. 8

☆☆☆旗幟鮮明☆☆☆
 NHKのエールという番組で、さだまさしが長崎から広島に向けて"広島の空"を歌うシーンが流れた。まさに何十年かけて伸ばした「平和の軸線」だ。さだまさしのギターのネックが昔より下がっているような気がしたが(爆)。すまん気のせいだよな。

 アルバム発売から1か月以上経った。いよいよアナログ盤の発売も近い。最後だからとか、LOVELOVEの祝祭気分とか、それにまつわる各種の忖度も離れて今ハッキリと確信する。
 このアルバムは最高じゃないか。いい曲たちじゃないか。買ってからほぼ毎日聴いている。いつもだとそろそろ聴かなくなったり、曲の飛ばし聴きをするところだが、毎日曲順に聴いていてひとつも飽きない。少し大げさにいうと新しい家族が家に来たみたいで、家に帰るとまず聴く。これよりいいアルバムはあったし、いい曲もあったし、ここがこうだっらなというのもあることはあるが、そんなことは関係なくそこはかとなくこのアルバムが好きだ。ラストだからじゃなく2022年に新しく出たアルバムとしていとおしい。このサイトをかけて…って別にこんなサイトどうってことないが、名盤として宣揚したい。なんとでも言わば言え。なのでアナログ盤が心の底から楽しみである。

  "お喋り道楽"の明石家さんまのゲスト回。拓郎が暑くて上着を脱ぐんでピンマイクを一瞬外した時、さんまがすかさず注意する。「テレビ出るんなら死んでも一瞬たりともマイク離したらあきまへんで。その間にごっつ面白いこと思いついたらどないしますねん!」
 ラストアルバムと言っちゃって、このあとごっつ名曲がどんどん降りてきたらどないしますねん、と私も言っておきたい。
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2022. 8. 6

☆☆☆広島への軸線☆☆☆
 映画「ドライブ・マイ・カー」で、一瞬さりげなく出てくる「広島市環境局中工場」。「原爆ドームと平和記念公園を結ぶ平和の軸線を遮らないように設計されたそうです」とその出自が語られる。このシーンが印象に残る。
 軸線。8月6日に長崎の稲佐山から広島に向けて歌いつづけた(今年も歌うんだな)さだまさしもしっかりと軸線を伸ばしていたのだな。
 …で岡本おさみが書いて吉田拓郎が歌うこの歌もまた尊い軸線なのだ。
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 さまざまに伸びた夥しい数の軸線があるに違いない。何でもない俺、何にもできないヘタレの俺は、せめてこれらの軸線を遮らないように気をつけて生きなきゃと思う。総理、アンタもだよ。

2022. 8. 5

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☆☆☆旅に唄あり エスカレーターに隙間あり☆☆☆
 岡本おさみ"旅に唄あり"の新装版を買った。「八曜社」の元本も持っていた。八曜社といえば拓郎はじめフォーク関係のタレント本のメッカだ。八曜社の本といえば活字が大きくてレイアウトがスカスカで間違いなくゴーストライターが健筆をふるってますというイメージがあった(※個人の感想です)。でも「旅に唄あり」だけは活字が小さくびっしりと詰まっていて文章も難解だった。岡本おさみの気迫と怨念が小さな活字と狭い行間に溢れていた。※あっ名作"誰も知らなかったよしだ拓郎"もあったね、すまん。
 元本を丹念に読みこまれていた先輩のブログを拝読したあとだったが、確かに新装版は活字も雰囲気もずいぶんと違っている。
 しかし何はともあれ2022年にこうして岡本おさみ本が出版されるのが嬉しい。生きてるうちから伝説本がやたら出版される松本隆先生と違って、岡本さんの関連本はその亡後にも出版されなかった。

 出版を記念した八重洲ブックセンターの小さな写真展に行ってきた。これから行かれる方、7階の特設会場とか、他のフロアの平積みコーナーとかを探して迷うことなかれ。2階のエスカレーターと壁の隙間だ。小さなスペースで、数点の写真が展示されているだけだ。しかし、どれももの凄くいい写真だ。エスカレーターと壁の間に挟まりながら釘付けになって見入った。写真が語り掛けてくるものが、俺なんかには受け止められないくらい多い。また行こう。

 頭には歌が流れ、まるで映画を観ているような気分になった。隠岐の島の紙テープ、拓郎のあの詞を執筆中の原稿用紙。ああ原稿用紙にペンで縦書きで書いておられたのだな。ハイライトに…ちょいとマッチをすりゃあ。行ったことのない場所、観たことのない風景、でもこれが岡本おさみのおかげで、そしてもちろん吉田拓郎のおかげで、歌になって俺の血肉になっているのだ。

 8月いっぱい展示されているらしい。今日行ったら幸せな小1時間くらいの間、俺しかいなかったぞ。
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2022. 8. 4

☆☆☆夏願望☆☆☆
 日傘なら"白いレースの日傘"だろってハードルを上げないでくれ。俺の日傘のことなんかクソどうでもいいのだが、たちまち世界は日傘から雨傘に変わってしまう。こっちは大変だ。豪雨・浸水に遭われた方々、川沿い暮らしの端くれとして御見舞申し上げます。今年も心配は尽きないよ。♪地球がもうすぐ危ないことも。
 アルバム「oldies」の"蒼い夏"と"白いレースの日傘"…ああ、これをライブでメドレーで聴きたかったぜよ。かっこよかっただろうな。

2022. 8. 3

☆☆☆心の中に傘をさして☆☆☆
 矢沢永吉のインタビュー記事。拓郎のアウトロを惜しみつつ「外の人間にはわからない、ご自身しかわかり得ないことがあるのかもしれない」…YAZAWA素敵です。昔、混迷するフォーライフが世間から叩かれていた時「俺は応援するよ、だってあれはアーティストの夢なんだから」と語った時も俺は矢沢永吉に心の中で手を合わせた。

 だけども問題はこの暑さ、日傘がない。

 いつもの外回りに加えて、最近仕事場も引っ越したので駅から結構歩く。日傘をさしたし勇気なし。こんな俺ごときが何を今さらカッコつけていうのはわかるのだが、なんか日傘をさすって気おくれがする。そんな小さな悩みは誰に聞いても同じか。
…で、思うのだ。
 吉田拓郎と矢沢永吉が日傘のCMに出ちゃくれまいか。それぞれ炎天下を日傘をさして歩く二人。もちろん傘にはワンポイントでt.yとかYAZAWAのロゴが入っている。
 ほーら明日から日傘がさしたくてウズウズしてくるんでねぇか。ああ背中を押しておくれよ。

 ともかくコロナに熱波に何が問題なのかわからないという為政者に…東京の長く熱い夜は私にどうしろというのでしょうか。お互い様ご自愛ください。

2022. 8. 2

☆☆☆ひとりgo to☆☆☆
 8月2日の太陽は拓郎に惚れていたのでつま恋の空で燃えてくれた…ということでつま恋記念日だ。行けなかった私は参加者の証言を聞くのが無上の楽しみだ。最近では「青い空」なんて大河ドラマがあった。
 ここでも何度か書いたが昔から大好きなのが知人の体験談だ。当時高校生の彼が、夏休み前の校長先生の禁止令で友達が脱落するなか、その禁止をかいくぐってひとりでつま恋に向かう話だ。聞くたびに胸が熱くなる。
 そして、ごく最近とある方のブログで、当時中学生だったブログ主さんが林間学校を抜け出してひとりで篠島に向かう話を読んで泣きそうになった。また達意の文章で当時の空気が尊に再現されていた。すげえ。
 つま恋や篠島にひとりで乗り込むって、例えば渋谷公会堂や国際フォーラムに一人で行くのとはワケが違う。もう人類未踏の地へのアドベンチャーである。私も篠島には行ったがあれはtくんが一緒だったから行けたような気がする。一人だったら行けたろうか。
 そしてまたご両名の場合とも、ひとりで乗り込むと周囲の見知らぬ兄さん姉さんたちが温かく迎えてくれるというところがまた泣けるのだ。
 拓郎は「ステージにこそ真実がある」と語った。そのとおりだが、客席にもものすげえ真実が満ちている。素晴らしいドラマが客席の数だけ眠っていると思うといてもたってもいられない気持になる。ひとりひとりの戦時体験を集めた花森安治の暮らしの手帖を思い出す。 
 今年もつま恋記念日おめでとう。

2022. 8. 1

☆☆☆車を降りられぬ瞬間から☆☆☆
 ごめんね、最後になって拓郎を語っている人をクサすつもりではない。もちろんずっと拓郎を聴き続けてきた人が偉いとも思わない。いやチョットは思う。拓郎を選んだ時点でセンスが良い私たちだし。
 かつて拓郎の音楽に触れたひとときを思い出し最後に感謝のべて拓郎のことはこれからも忘れて生きていくだろう人々と拓郎の音楽と人生が深くシンクロしてしまって、これからも離れられない奇特な人とでは、きっと感じる空気も見える景色も違ってくるに違いないということだ。
 そしてこのアウトロのあと俺はどこへ行こう〜君はどこへ行く〜という切ない時間軸を生きてゆかなければならない。
“ね、ワーニャ伯父さん、生きていきましょうよ。長い、はてしないその日その日を、いつ明けるとも知れない夜また夜を、じっと生き通していきましょうね。運命がわたしたちにくだす試みを、辛抱づよく、じっとこらえて行きましょうね。”(「ワーニャ伯父さん」チェーホフ)
 いやーWOWOWで放映してたんで映画”ドライブ・マイ・カー”を観すぎちゃったな。車中で”ah-面白かった”を流しながら誰か俺を広島に連れてってくれないかと心底から願う。

2022. 7. 31

☆☆☆戻っておいで私の時間☆☆☆
 久々に「吉田拓郎」のインフレ状態だ。KinkiKidsとLOVELOVEのおかげもあって”ありがとう、さようなら最後の吉田拓郎”がキャンペーンの如く世に溢れている。前にも書いたがこれは”祝祭”だ。実際にいい記事やいい話もあったりするので嬉しい。
 嬉しいが、その反面で、私のような器の小さい人間には、最後にだけみんな出てきてまるで弔辞の競い合いみたいだし、いきなり勝手に総括してんじゃねぇよという黒い気持ちも湧く。そもそもJ-POPの偉人と評しつつ音楽雑誌で吉田拓郎を表紙にしている雑誌なんて一冊もないし、特別な出版物が刊行されるわけでもない。
 こと私のような人間が、いつまでもこういう祝祭の中に身を置くのは、毎日が卒業式と謝恩会の繰り返したみたいであんまり心の健康に良くない(笑)。

 愛憎を含めてずっと拓郎と歩いてきて、これからもどんなカタチにせよ末永く拓郎に引っかかって生きていく人々も確実にいる。吉田拓郎がどうなろうとも今までもこれからも吉田拓郎という悠久の時間を生きるの人のタイムラインに戻ろうと思う。

2022. 7. 30

☆☆☆来るべき日のあいみょん ☆☆☆
 そういえぱどこかのネットのインタビューで、あいみょんが吉田拓郎の”無人島で”が好きだと語っていたのを読んだ。ほう…”無人島で”なのか。停滞ヘタレ爺の私には、A面で盛り上がってB面でゆるやかに失速するアルバムのタイトルチューンで、南の島で浮かれるふしだらな男女の唄、というミもフタもない印象しかなかった。老いては若い娘に従え…ということで聴き直している。いい曲だな(爆)。「18時開演」のオマケ映像のああいうところにこの作品の神髄があるのかもしれない。
 ふと思うが、次回のあいみょんのゲストの時は、二人のセッションが是非聴きたいよ。できうれば”君に会ってからというもの僕は”みたいな曲を番組内で即興作っちゃうとか。いいじゃないか稀代の天才が二人あいまみえるんだからそれくらい期待するのは勝手だ。精神論を語るな、音楽を語れ、音楽で語れっていうご拓宣のままに。

2022. 7. 28

☆☆☆朋と呼べれば☆☆☆
 数日前の日記で吉田拓郎と泉谷しげる、小田和正らのことを「盟友」と書いたがこの表現は取り消す。ニュースで弔辞をめぐって政治家たちに「盟友」とか言う言葉を使っており、同じ言葉を我が心の吉田拓郎、泉谷しげる、小田和正に使いたくないと思ったからだ。
 他にいい言葉はないか。…あった。「朋輩(ほうばい)」だ。重松清の「流星ワゴン」に肝胆相照らす仲のことを「朋輩」と呼んでいる。いい言葉だ。
 そういえば「肝胆相照らす」って言葉は、中学生の時に読んだ山本コウタローの"誰も知らなかったよしだ拓郎"で覚えた。あの本は漢字・熟語が多用してあり、読み過ぎた結果的にずいぶんな勉強になった。ありがとうございました。
 ということでいろいろ大変&とんでもねぇ世の中ですが、とりあえず"朋輩"でまいります。

2022. 7. 27

☆☆☆カモナマイハウス☆☆☆
 先日のLOVELOVEの感想で盛り上がった。それぞれに名場面は随所にあるのだが圧倒的一位。「おまえん家行ったら歌うよ」という拓郎に「来ないでください」と切り返した篠原ともえ(爆)。誰だってどうぞどうぞいらしてください、是非、家で歌ってくださいと涙ながらに答えるしかないところだ。もちろん篠原ともえの拓郎愛の深さを毫も疑うものではない。だからこそ「納豆ご飯でいいから」という拓郎をシャットアウトするところが感動的なのだ。この篠原の自由な魂が美しい。これを「矜持」というのかもしれない。見習おう。自分で言っててよくわからないけれど。

2022. 7. 26

☆☆☆永遠の7月26日未明☆☆☆
 先日の"LOVELOVEあいしてる"が卒業式だとしたら、さしづめ篠島は楽しかった臨海学校の思い出である。篠島グランドホテルに飾ってあった吉田拓郎のライブ当日のサイン。1979ではなくS54というところが何かイイじゃないか。ホテル無き今、この現物は今頃誰がお持ちだろうか。大事にしてね。
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 ライブフィルムの山本コウタロー助監督が朝陽とともにエンディングを迎える絵にしたくて、"人間なんて"のリフレインのところで、まだまだ終わっちゃダメだ、もっと伸ばして〜と懐中電灯を振り回しながら慌ててステージ下に走り出したところ思いっきりコケたという話を思い出す。今となっては少し泣きたくなる,ちょっと淋しくなる。

 怒れるときは手を握れ 怖れる時は歌うたえ
 そうさ 自由を確かめよう
 ここは今僕の国だよ

 あれ?、なんかいい歌じゃん。今日は"アイランド"。シュビドゥバ,シュビドゥバ♪

2022. 7. 25

☆☆☆いざさらば☆☆☆
 おお、飯倉の大決闘。観たかったな。それでも森山良子という迫真の語り部がいるのでありがたい。それで…「出禁」なのか(爆)。決闘、出禁という物騒な話だが、なんだか胸と目頭が熱くなる。やっぱり盟友だったんだ。ああ、拓郎のファンでいて良かった、そこに泉谷しげるもいてくれて良かった。なんか二人のいた世界にエールを送りたくなる。

 エールといえば母校が今年もいいところで甲子園大会の予選に敗退した。残念。しかし不思議だ。高校も野球もずっとどうでもいいと全く関心がなかった。むしろ大嫌いだった。大学もそうだ。およそ母校愛というものと無縁で生きてきた。吉田拓郎が活躍してくれれば母校も世界もどうなってもいいと思っていた(爆)。
 それが歳をとるにつれて母校たちのことがちょっと気にかかるようになってきた。明らかな加齢現象だ。もうそこにしかよるべがないのかもしれん。

 “LOVELOVEあいしてる”も同じだ。毎週観ていたけれど、そんなに熱烈な視聴者ではなく、もうテレビはいいから早くコンサートツアーやっとくれ、アルバム作っとくれと思っていた。
 しかし、こうしてジジイになって最終回を迎えた今になってみると、この番組がやけに眩しく、そして誇らしく思えてくる。これは歳をとって湧きあがってくる母校愛みたいだ。だから”Sayonaraあいしてる”がまるで”仰げば尊し”のように胸にしみるのだ。
  ♪思えば いととし、この年月、今こそ別れめ いざさらば、あの人は今幸せか…って違うな

2022. 7. 24

☆☆☆何もかも愛ゆえのことだと言ってくれ☆☆☆
 ”LOVELOVEあいしてる”の26年間。出演者とともに楽しみ,ともに成長し,ともに加齢し老いる。こんなテレビ番組は”渡る世間は鬼ばかり”以外知らない(爆)。LOVELOVEの過去映像のアーカイブにひしめく珠玉の名演奏と名曲たちが何回観てもすばらしいな。これは橋田寿賀子先生とてドラマ化できまい>そもそも比べるもんじゃないだろ

 何が凄いってさ、”LOVELOVEあいしてる”の第1回のオープニングで「さだ、嫌いなの僕」と言って始まって、それから26年後の最終回でもキチンとさだまさしをディスるというところ。もうここまでくると愛しか感じられない。

 拓郎は小田和正が盟友というけど、泉谷しげるも盟友だよね。他人様の友人関係を俺がどうこう言えたもんじゃないが、あのLOVE2での泉谷の言葉を聞いて「盟友」という言葉しか浮かばなかった。馳せ参じる盟友もすばらしい盟友だが、過去に仲違いしたとても魂の盟友という関係というものがあるのだと泉谷を観ていていつも思う。

 昨日も書いたが最初にずいぶん老け込んでしまってみえた拓郎が、歌いながらどんどん蘇生していき最後の”Sayonaraあいしてる”のシャウトする姿はもうたまらなかった。かつてのエルトン永田さんの名言を思い出す。
 "あの方はライブの人です。ライブを重ねる中で蘇生し目を見張るように進化するお方です"

  ♪淋しい夜が せつない夢が
   涙の風が 愛する人が
   恋しい声が 抱きたい心が

 …ここのフレーズが脳内で鳴って離れない

2022. 7. 23

☆☆☆これから僕らは何処へ向かうんだろう☆☆☆
 “LOVELOVEあいしてる”の録画を何度か観かえす。2022年の今、吉田拓郎が2時間出ずっぱりのテレビ番組だ。もうアタシには神様がくれたものとしか思えんのだよ。

 初出演の時と違って木村”開拓の拓”拓哉が拓郎にオトナな気遣いをしてくれるのが嬉しい。”落陽”も飽きたぜと思いつつも、かつて”きよしこの夜”を弾いていた剛くんが披露する落陽のギターソロに刮目し落涙する。プリプリプリティを突撃しない篠原はかえってナチュラルな成熟感があって良かった。そこには歳月や成長がある。
 “それでも生きてゆく”以来、俺的には不動の名優だった風間俊介のキレキレのダンスに驚いた。そういえば、森下愛子さん出演の”純と愛”の主演だったじゃないか。拓郎は主人公の男があまり好きじゃないって言ってなかったっけ?ああ役柄のことだっけか(爆)。
 奈緒の”今日までそして明日から”の歌声はツボった。カワイイと思わずつぶやいた。  
 忘れちゃイケない、坂崎幸之助。一言も発しなかったが、おまえの魂は十分に伝わってきたぞ。
 この番組が始まった時、既に俺は偏屈な中年だった。この番組のおかげで若々しい世界と辛うじてつながっていられたのだ。

 そして3年ぶりの姿に最初は正直ギョッとしたが、やはりそこにいるのはまごうかたなき吉田拓郎で、時間が経つにつれ、そこはかとなく76歳のカッコよさがしみてくる。時間が経つほどに生気が湧いてくる感じだ。やはりその姿を観続ける事、観られ続ける事は実に大切なことなんだと思う。最初はなんかショックだった短髪の拓郎がLOVELOVEで毎週観続ける中で超絶かっこよくなっていったプロセスと同じだ。

 何年間かごとの法事でしか会わない遠い親戚が会うたびにガクッと老けていて驚くことがあるがそれはお互い様だし詮無いことだ。ただ、それよりも近くにいて頻繁に顔を合わせているとお互い様、加齢変化にあまり気をとらわれず穏かな時間を過ごせる。「老化も成長である」という主治医の言葉を思い出す。
 人前にはもう出ない、静かにご隠居されるというのであればお邪魔しますまい。しかしもし何かのカタチでご活動がつづくのであれば、できればそのご尊顔とお姿をなるべく不断に観続けられるところに居続けて欲しいと誠に勝手ながら思うのです。テレビなのかYouTubeなのかそれとも別の何なのかわかりませんが。夕焼けの空をどこまでも一緒に追いかけてゆきましょう。

2022. 7. 22

☆☆☆ああ卒業式で泣かないと☆☆☆
 一緒に観ていた家人は豪華な番組をメチャクチャ楽しんでいたが、あのお方の卒業式にフォーカスしているこちとらはと切なさと万感の思いが入り乱れ、涙をこらえるのに必死だった。何はともあれ"Sayonara あいしてる"…吉田拓郎が刻んだ言葉である。下敷きに入れて学校に持っていこうかな…中学生かっ。

 Sayonara あいしてる
   
 遠い日の事を思い浮かべている
 あの頃 僕は何を考えていたんだろう
 季節を信じて 歩こうとしたけれど
 何処を目指して嵐の中を向かったんだろう
 ただ何となく それらしく
 遥かな旅に出たよね
 淋しい夜が せつない夢が
 涙の風が 愛する人が
 恋しい声が 抱きたい心が
 みんな みんな みんな しみじみと
 そんな そんな そんな記憶のダイアリー

 静かに包み込む小さなエピソード
 これから僕は何処へ向かうんだろう
 あの人が今もあふれる気持ちのままなら
 ひたすらの愛を届ける事は出来ないだろうか
 ただなんとなく それらしく
 密かな時と 出逢いたい
 淋しい夜が せつない夢が
 涙の風が 愛する人が
 恋しい声が 抱きたい心が
 みんな みんな みんな しみじみと
 そんな そんな そんな記憶のダイアリー

 ありがとうLove さよならLove
 いつまでもLove 永遠にLove
 ありがとうLove さよならLove
 いつまでもLove 永遠にLove
 ありがとうLove さよならLove
 いつまでもLove 永遠にLove
 ありがとうLove さよならLove
 いつまでもLove 永遠にLove
 Forever Love Love あいしてる
 Forever Love Love あいしてる
 Forever Love Love あいしてる
 Forever Love Love あいしてる
 Love



 この歌を聴いているとあの歌が頭に流れてきた。

  ただ何となく それらしく ここまで歩いてきたようだ 
  夏に向かう雲たちよ 先に行ってくれないか
  あの人のことをもう少し考えていたいから

 まさにそういう気分だ。心の底から、ありがとうございました、お疲れ様でした。


 

2022. 7. 21


☆☆元気です☆☆☆
 本日は名盤「元気です」の発売50周年記念日だ。おめでとうございます。それは拓郎に対してというより、また我々拓郎ファンに対してというより、日本の音楽界に対しておめでとうと言いたい。どれだけめでたいか気づいているはわからないけれど、たぶん音楽界にとっての超絶大切な出来事のひとつだ。

 "春だったね"でいきなりどこか別世界に連れ出さるあのワクワク感、それは今回の"ah-面白かった"にも脈々と繋がっている。"元気ですの心意気"というあの先人の言葉を思い出す。
 そして今日はLOVELOVEである。いろいろ思いはあれど、しあわせだ。しあわせだ。やっぱり、すべてにおめでとうだな。

2022. 7. 20

☆☆☆any day now☆☆☆
 たまたまテレビで映画"チョコレート・ドーナツ"をまた観てしまう。何度観ても切ない。こんなことってあるかい、最後は怒りと哀しみがないまぜになる。そこで主人公が絶唱するボブ・ディランの”I Shall Be Released”が魂だ。ボブ・ディランて凄いなとあらためて思う。ディランも凄いが、それ以上にディランとその音楽を心から評価し敬意を抱いている社会が羨ましい。他方我が国は…続きは居酒屋で。
 ということでいよいよ明日である。楽しみな気持ちと頼むぞという気持ちがないまぜになってしまうな。

2022. 7. 18

☆☆☆レールが鳴ると僕らはt.yを聴きたくなる☆☆☆
 休日なのに第7派なのに仕事で逗子の先まで行かなくちゃならない外回りが憂鬱だった。たまたま電車移動中のYouTubeで観た「20歳の女子大生がセレクト、吉田拓郎特集2」(BOYS TOWN CAFE)。20歳のDJの女の子がターンテーブルにレコードをルンルンとかけていくのだがこの選曲が感動的だった。

  Have a nice day 気ままに写そう編
  戻ってきた恋人
  春を呼べU
  川の流れの如く
  君の街に行くよ
  車を降りた瞬間から
  となりの町のお嬢さん
  無人島で
  心の破片

 こういう順列・組み合わせで聴いたことはなかった。…いいじゃん。この選曲。なんといっても星紀行さんみたいに布施明がどうとか、この曲の歴史がどうとか、そういう呪われた怨念が全く無くて、実に自由で音楽本位なところが素敵だ。ああ、吉田拓郎っていいじゃん、すげーいいじゃんとあらためて思う。

 これらとアルバム”ah-面白かった”とのローテーションのおかげさまで面倒くさいヘビーな移動時間がちょっとウキウキと楽しかった。

2022. 7. 17

☆☆☆最後のテレビ☆☆☆
 吉田拓郎最後のテレビ出演『LOVELOVEあいしてる』が近づいてきた。シークレットだった大物ゲストも明らかになった。まだゲストが判明する前に「大物ゲストは誰か」ということが話題になっていたときに書きそびれてしまった。「大物」と聞いて私の頭の中にはこの人しか浮かばなかった。布施明 あり得ねぇのはわかるが。

 デビュー草創期の吉田拓郎にインパクトを与えたという布施明バカヤロー事件。吉田茂バカヤロー解散と並ぶ昭和の歴史的事件だ。バカヤローと面罵された吉田拓郎が、その後、テレビに出ないという前代未聞のキャリアを選んだことにこの件が影響したのかどうかはわからない。しかしまったく無関係ではないのではないか。
 最後のテレビ出演に布施明が登場して歴史的な和解をする、それこそが壮大なテレビの最終回ではないかと思う。

 思えば「LOVELOVEあいしてる」という番組は実は数々の歴史的和解をなしとげてきた音楽的和平の番組だった。第一回冒頭で拓郎は「さだ嫌いなの」と宣したが、その後さだまさしはちゃんとゲストに出てきて拓郎をして「君の才能は認める」と言わしめた。谷村・ミスターハンドインハンド・新司とも盛り上がりまさか学生服を着た拓郎が彼のバックで"高校三年生"のコーラスをするなんて想像もできなかった人はこの指とまれ。後に陣内孝則が「組長と構成員のツーショットみたいだった」と感心していた吉田拓郎と松山千春のゲスト回のトークは今でも何回観ても笑える。

 ということで最後は布施明でいかがでしょう。布施明があの腹式呼吸で”マークU”を歌うのもいいが、なんかあざといかな。私としては、布施明が番組のために用意した特別バージョン”t.yは恋のイニシャル”を歌って欲しい。ダメか>そもそも元歌・元番組、誰も知らねぇよ。※どっかで”S.Hは恋のイニシャル”を再放送してたら教えてください。

 最後は拓郎と二人で”マイウエィ”を絶唱する。サプライズで沢田研二も登場して加わっていただけたらなお嬉し。

 テレビに出ない人生と出続けた人生、ナベプロに入った人生と入らなかった人生、そこにジャニーズを選んだ人生たちも絡んで、それらの隔てられてきた人生が音楽によってひとつながる壮大な大団円である。いいじゃないか。って…書きながら、やめた方がいいかもしれないという気が少ししてきた(爆)

 とにかく泣いても笑っても最後のテレビ出演だ。第7波の中、お互い様体調に気をつけてその日を待とう。
 

2022. 7. 15

☆☆☆君のために☆☆☆
 山本コウタロー逝く。"誰も知らなかったよしだ拓郎"は名著、名作とかいうレベルではなく歴史的大書もうハムラビ法典みたいなものだ。よくぞ記してくださった,その偉業は永遠のものだ。
 そして俺にとってはかつて拓郎周辺の青嵐の景色の中にいつもおられた青春の恩人だ。篠島のイベントが果たして成功するのか不安視されていたとき「篠島を日本、日本列島を世界だと思って歌ったらいいんじゃないか」という言葉は一ファンの俺も心の底から勇気づけられた。

 ずいぶん時間がたってから"ほぼウィークエンド"のライブが終わったあと、俺の手垢のついた”誰も知らなかったよしだ拓郎”にサインをいただいた。「ありがとう」…ってそれはこっちの言うことだ、こちらこそありがとうございました。寂しいなぁ。心からご冥福をお祈りします。
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(追記)
 この「ありがとう」は私というよりこの本を大切に読んでくれたすべての方々に対するコウタローさんの気持だと思うのです。そんなふうにこの本のヘビーユーザーの読者のことを思っておられたのだということをお伝えしておきたいです。

2022. 7. 13

☆☆☆嵐と嵐の間にあるもの☆☆☆
 先月、今までの自分がこれまでのニューアルバムと初めて会った時のことを、まるで死ぬ前に見る走馬灯のように一気に振り返ってみてあらためて思った。新作アルバムを先入観なく虚心坦懐に聴くのは実に難しい。俺の生来のカンの悪さに加えて、勝手すぎる期待と過剰過ぎる思い入れの佃煮状態のために見落とし聴き落としていたものは多かった。ようやくそのアルバムと和解できるまでずいぶん時間がかかったこともあった。

 今回も「ラストアルバム」という、ただでさえ悶絶するような期待とともに、最初の頃は全15曲で歴代ミュージシャン総参加という豪勢なふれこみもあって、おいらの心はMAX色めき立っていた。
 しかし最終的には全9曲でしかもごく少ないミュージシャン・盟友のアシストによりほぼ手作りのような簡潔な出来上がりに最初は「あれ?」と思った。わかるよ。もちろんこの困難過ぎる状況で誰より拓郎ご本人が無念だったし苦難を味わったことだろう。でもそれはその人の問題、これはこの私の問題だ。
 この「あれ?」は、アルバム”マッチベター”と初めて出会ったときと似ていると思った。あの時も拓郎活動再開!!という大きな期待の中、やってきたのは打ち込み中心の簡潔な手作り風味のあるアルバムだった。そこが似ている。
 しかし”マッチベター”の試作品感というと怒られるな、…エチュードな手探り感とでもいうか(爆)と今回の最新アルバムとはそのクオリティが全く違う。ここが今回の肝だ。“ah-面白かった”は、いしいしんじ風に言えば、簡潔なアルバムに、静かな自負がにじんでいる、長い航海をほぼひとりで乗り越えてきた人間の知恵、思慮深さ、覚悟を感じる。
 ”マッチベター”あたりから始まった旅が大いなる成長を遂げて帰ってきたような気がする。そうそう”マッチベター”の”流れ流され”で
 おふくろが死んだ 今日は朝から突然の嵐 
 今日より悲しかった一日というのは確かにあったはず

と初めて御母堂のご逝去が歌われた。この素っ気なく聴こえる一節が長い時間のあとであの”ah-面白かった”に結実する。
 別れの季節が訪れた夜 嵐に向って 
 あなたがそっと心を寄せた 
 ドアの灯りが見えた

 まだまだ俺ごときにはわからないが、この二つのフレーズの間にあるものを聴きながら考えてみよう。

 ラストアルバムだし、もっといろいろな飾りやふくらませや仕掛けはできたかもしれないが、あえて簡潔だからこそいいんじゃないかという気がしている。何も足さない何も引かないこの簡潔さこそがこのアルバムの命なんじゃないかとすら思うんだよ。
  ありがとMAHALO
  さよならSee Ya!

2022. 7. 11

☆☆☆まつりごとなどもう問わないさ☆☆☆
 それは人それぞれ違って当然の事なのだが、自分はここのところ選挙が終わるたびに鬱屈した気分に落ちる。自分が大切に信じてきたようなことはもう今の世の中では通用しない非常識なものかもしれないと独り気分が沈む。♪こんな世の中と自分捨ててみた〜という歌声が頭の中で回る。そんな時いつも"Life"が心にしみるんだ。もちろん吉田拓郎さんがこれらの歌にこめた真意や思いはわかるはずもないので、120%こちらの勝手な思い込みだ。
 今回も壮絶に落ち込んでいるのだが、おお今回は"ah-面白かった"がある。"アウトロ"…この歌も拓郎はそんなことを励ますつもりで作った歌ではないんだろうけど、勝手に胸にしみる空の輝き。
 
  人はなぜに理由ありげに
  ふるまう夢に恋をする
  見つからない遠い橋を
  渡る気もない人が好き

 オレも好き!この歌詞の意味よくわからないけどとにかく好きだっ(爆)理由ありげにふるまう夢、見つからない遠い橋…どうせ俺の誤読というか勝手な思い込みなんだろうが、それにしてもココが響くのだ。

  真実の影 孤独の空
  そこを居場所にすればいいさ

 御意。そうだ、その通りだと思わず膝を打ってしまった(冨澤一誠かよっ)

  らしい言葉があるさ
  らしい明日も来るさ
  らしい気持ちで歩く
  らしい自分が見える
  らしい心で生きて
  らしい明日に逢える
  らしい心が似合う
  らしい自分に逢える

 ちょっと陰だけれど"季節の花"のリフレインみたいで心が奮いはじめる。確かに拓郎もシャウトしたいと言っていたが、"ファミリー"の後半みたいにたたみかけてくる。ググっといい曲レベルが上がった。

 "へ"のツッパリのような自分ではあるが、それなりに少数派の歩き方みたいなものをキチンと考えにゃならんのかと思い始める。

2022. 7. 10

☆☆☆オーラの気持ち☆☆☆
 昨日、奇しくも木村拓哉のドラマのセリフを引用したが、まさかLOVELOVEのゲストが木村拓哉とは。
 
 私の数少ない自慢話であちこちで200回くらい吹かしたと思うが、木村拓哉には三回ほど会っている。会うったって撮影現場に遭遇しただけだが。ネットニュースによれば「吉田は『木村君はオーラがすさまじい』」とある。確かに三回ともすごいオーラに包まれていた。端正で美しくて、ちょっと神経質そうな青年だった。

 しかし吉田拓郎も間近で遭遇した私が責任をもっていうが、吉田拓郎の放つオーラはその数倍はあった(当サイト比)。だから大丈夫です、みなさん>何が大丈夫なんだ
 身体全体からまさに燃える陽炎のようなオーラがたちこめていた。

 そういえば以前、矢沢永吉と某所ですれ違ったことがあった。向こうから歩いてくる20メートルくらい手前くらいからビンビンのオーラが出てんの。敏捷なパンサーみたいだった。あんなオーラは観たことが無かった。…すまん、このサイト的にそういう結論ではダメか。

2022. 7. 9

 驚いたね。ひどい話だ。怖い話だ。ひどい話はひどい連鎖を生むし、怖い話は恐怖をどんどん波及させてゆく。それが心配だし、憂鬱だ。

「でも怒りにまかせて殺していいなんて権利は誰にもないんです。そんなふうに扱われる命はこの国にはないんです。」(久利生公平 スペシャルドラマ「HERO」特別編2006より)

オールナイトニッポンゴールド  第27回 2022.7.8
☆☆☆あらすじ☆☆☆☆☆☆

 いつものとおり筆記しながらラジオ聞き始めたところ、いつもの拓郎の一人語りとは勝手が違って三人の鼎談だと大変なことがわかった。しかも会話の空気感は筆記では補足できない。
 夜のワイキキの浜辺で喧騒から離れてひとりいる篠原の話、親戚の爺の気分でいた自分の胸にいたく刺ささりました、アグレッシブなボーカルの剛に切々と聴かせる光一というボーカルの逆Contrastの発見は面白うございました、そしてハワイに連れて行ってくれという話は切なくも嬉しゅうございました、でも本日は書き起こしできません。ご期待されていた方はゼロだと思いますが失礼いたします

☆☆☆星紀行、今日の学び☆☆☆
 なんといっても吉田拓郎による”危険な関係”の解題です。つねに”ひとり”を見つめる吉田拓郎の素晴らしさを胸に刻みます。
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2022. 7. 8

☆☆☆Contrastな祭り☆☆☆
 「NHK MUSIC SPECIAL KinKi Kids」を観ながら思った。俺は拓郎のラストアルバム祭りに浮かれているが、それは実はKinkiKids25周年という大きなカーニバルの中にあるということに気づいた。祭りのマトリョーシカ、入れ子状態。なんにしても祭りはいいじゃないか。
 MUSIC SPECIALはいい番組だった。吉田拓郎の言葉と存在をちゃんとていねいに届けてくれていた。ナレーションのシン・ウルトラマン=リピア=斎藤工の声が良すぎて「この小さくて弱い生き物たちを見つめていたい」と言い出さないか期待してしまった>言うわけねぇよ

 拓郎がいみじくも指摘した光一くんと剛くんの相容れない対照性。あなたは光一君なの?剛君なの?両方さ…あえて間にいるか見えてくるものがある(ハマった)。前に拓郎のラジオにメールしたのだが、"Contrast"の一番と二番の対照性、それは剛、光一に通じており、それを抱え込むのが吉田拓郎ではないかと。んまぁ、なんでもいいKinki、いや彼らに限らず誰でもいいから吉田拓郎を次なる高みに連れだしておくれ。

 ということで今日はラジオだ。生ビールの誘惑にもコロナの危険にも沖縄そばの宴(そもそも呼ばれてねぇよ)にも背を向けてこの道まっすぐ家に帰ろう。

 
 映画「ゴッドファーザー」の長男ソニー・コルレオーネで名を馳せた名優ジェームズ・カーンが逝く。アル・パチーノと同年だったのか。ご冥福を心からお祈りします。

2022. 7. 7

☆☆☆伝説☆☆☆
 中山ラビの一周忌命日の話を聞いて胸が熱くなる。距離は遠いが素敵な人だったな。そして吉田拓郎も含め@誤った都市伝説はこうして造られるA一度作られた都市伝説は拡大こそすれ決して消えない…という勉強になるモデルケースをたくさん知った(爆)。何もかも愛ゆえの事だと言ってくれ。

 ラビさん息子さんのインタビュー記事でいろんな方々から一周忌ライブをやってくれという話があったが今年はやらない…と。三回忌以降に考えるということで「おのが仏の三回忌」という言葉を引いていた。
 「おのが仏の三回忌」意味はわからないが、例えば葬式には浮世の義理でたくさんの人が訪れる、一周忌は少なくなってもまだ葬儀が記憶に新しいので結構集まる、でも三回忌くらいになれば、本当にその人を追慕したい人々だけが集まる…ということなのではないかと思う。ああ胸にしみる空の輝き。忘れないこと、思い続けることが一番の功徳ということか。

 ほろ酔いの帰りの電車でiPodの片隅に入っていた篠原ともえの"ココロノウサギ"と"地下鉄にのって"を久々に聴く。イイ。なんとも泣ける。デザイナーになったり、賞を戴かなくとも、この時点でアナタは既に尊い。…と感激する親戚の法事にありがちなキモイ爺さんになって帰る。

2022. 7. 6

☆☆☆私たちのdestination☆☆☆
 篠原ともえのラジオ対談(後半)を教えていただいてネットで聴いた。心許しあったようなしみじみとした二人の会話を聴きながら、涙ぐむ篠原にもらい泣きしそうになった。篠原ともえは、もう拓郎ファンにとって…というか少なくとも俺にとっては姪っ子というか法事でたまに会う小さい頃から観てきた親戚の女の娘みたいなものだ。だから好き嫌いの対象ではない。法事で酔っぱらって、ああ立派に成長したねぇ、お仕事凄いねぇ、いい旦那さんもらったねぇ…としつこく絡んで嫌われるあの好々爺な気分で観ている。

 あいみょんの出演もすげー嬉しい。ありがとう。でももっともっと駆けつけて欲しかった。米津くんが来てくれたら「そんなに拓郎が好きなったのか、玄師」と俺が言うから必ず言うから…で思い出した、さだまさしも桑田も浜省もみゆきもユーミンも、誰か電話がつながったら陽水にも連絡してくれ。布施明、最後の和解のチャンスだぞ(爆)
 拓郎本人はすげー嫌がるだろうけど、アーティストたちのスタンディングの花道が出来たとしても俺は驚かない…いや、ちょっとは驚くか。

 大好きな映画「アラバマ物語(To Kill a Mockingbird)」で残念な憂き目をみて退廷するアティカス=グレゴリー・ペックだが、傍聴席の黒人たちが全員起立して彼らのために精一杯尽くしてくれたアティカスの退廷を見送るシーンがある。あれに近いメンタルで吉田拓郎の退場を見送りたいし、音楽界が見送って欲しい。
 ご本人はあくまでもあっけらかんとah-面白かった、行く先なんて今言えないよ〜と孤影悄然と去ってゆくのである。そういう夢想をしながら今日も聴くアルバム。
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2022. 7. 5

☆☆☆ドアの灯りが見えた☆☆☆
 昨日7月4日は中山ラビさんの命日だった。すまん忘れてた。息子さんが継いでおられるラビさんのお店で飲んだくれている雨畑からのメールで知った。「隣の席の拓郎ファンだという見知らぬオジサンから73年の渋谷公会堂に行った話をされてチンプンカンプン」というメールだったが、知らんがな。
 ラビさんの息子さんの母を偲んでのインタビュー記事を読ませてもらった。ステージやお店とは違って、家では口数の少ないどこにでもいる地味な専業主婦のおばさんのような母親だったとしみじみ語っていた。どんなふうに母と暮らしどんなふうに最後を過ごされたのかも淡々と語っている。感情をむきださない粛々としたインタビューの文章だった。
 どうしても時節柄、”ah-面白かった”の歌とライナーノーツを彷彿とさせる。アルバム発売日は私の亡父の命日だったりとしたこともあって、あれこれ万感思いをめぐらした。

 “旅立つ駅に遅れた私を笑顔で待ってた”

 昨夜からココがとても沁みる。なんと泣けるフレーズなのか。物理的に間に合ったかどうかではなく、いつだって最後の駅には送れてしまうものなのではないか…と思う。そして誰もがみんな笑顔で待っていてくれる…そう思いたい。

2022. 7. 4

☆☆☆おひとりさまgo to☆☆☆
 「あなたとハッピー」に出演した拓郎が最後に"ah-面白かった"の基盤のテーマである"独り"観について語った。大切に思ったので起こして載録した。

 30代の頃からステージでもよく(独りなんだと)話す男だったし、自分の人生の中でも、自分はなぜ独りなのかと考えていた。それは癖ではなく、実感として人間はいつも徒党を組んで、肩を組みながら歩く生き物ではないと思っていた。
 人間は独りで産まれてきて独りで消えていくんじゃないか…そんな人生観がある。独りなんです、だいたいは。時々、親友ができたり、盟友ができたり、仲間ができたりして、ワイワイするんだけど、結局は独りで産まれてきて独りで旅に出るのが人間の一生なんだと思う。
 感覚として自分は独りなんだということがわかれば、決して独りであることは寂しいものではない、とても楽しいことになってきて、独りだからこういうことに挑戦できる、独りだからこの人と仲良くなるかを自分で選べる、独りだから恋人が欲しい、独りだから結婚したい、独りだから子供も欲しい、独りだからファミリーも欲しくなったりする。独りであるということが根底にある。独りでいるということを前提としてないと人間は勘違いした日常を歩んでしまう気がする
 それがこのアルバムのテーマであって、結局独りであることは寂しいことでもなんでもなくてとっても素敵なことで、独りぼっちってこんなに素晴らしいことはないんだ。せっかく独りでいることを大事にしないで、みんなでワイワイすることばかりに時間を費やしてそっちをメインにしてしまうとつまらない人生になりやしないかというのが僕の言い分ですね。


 「人間みんな独りなんだ」とは確かに拓郎はラジオでもコンサートでも口癖のようによく話していた。大体これと「風になる」がセットだったよな。"人生だからこそ一人になるんだね"(春を待つ手紙)、"ひとつになれないお互いの愛を残して旅に出ろ…一人であることに変わりなし"(ファミリー)…この頃だったと思う。当時の高校生なんでその深い意味は到底わからなかった。独り=孤独カッコええな、くらいの薄い理解だった。それにそう語る時の拓郎にはどこか切ない悲壮感のようなものも滲んでいた気がする。
 その後、長い事この"お独り様案件"はふわふわと漂っていたけれど、こうしてラストアルバムに至って図らずもその答えをいただいた。独り=それは楽しく素敵なことで大事にしなくてはいけないんだという豊かなる回答だった。ずっと聴いてきてよかったと心の底から思える瞬間だった。"独り"の回答を思ってまた聴き直してみる。

2022. 7. 3

☆☆☆約束☆☆☆
 金スマのKinkikidsを観ながらツラツラと思い出した。そういえばLOVELOVEの前に当時SMAPの中居くんと一緒に番組はどうかという企画を打診されたと拓郎は言ってたな。試しに中居君の番組に出たけど話がチンプンカンプンで、じゃ拓郎さん思い切ってもっと年齢を下げましょうということでKinikiKidsになったというイキサツを話していたことがあった。
 番組でジャニーズの後輩が推すKinkiの楽曲を特集していて「誰か『危険な関係』を挙げろよ」と思わなかっただろうか>思わねぇよ。意味深でいい曲じゃないか。
 あとあらためてKinkikidsにDUOの「放課後」(吉田拓郎作詞・作曲)をカバーしてもらってそれで25周年記念シングルってどうだ。ダメか。この老いぼれの願いを聞いてはくれぬか>誰だよ
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 昨日は家人が出払っていて一人だったので、イヤホンではなく大音量で”ah-面白かった”を聴きまくった。忘れていたこの感覚。しあわせだ。もの静かなアルバムというイメージがあったが、どうしてどうして1曲目”ショルダーバッグの秘密”から身体が揺れて誰が躍らずにおられましょうか。
 恥ずかしながら大音量でやっとわかったよ”アウトロ”の最後のシャウト。いいねぇ。”ひとりgo to”で最高潮に。この繊細なエンディングがまたいい。
 自分にとっての捨て曲と思っていた”together”だったが、拓郎って自賛するようにトーキングブルースうまいよね。いつもヘンテコな歌作りやがってと最初は思うが気持ち良くなって次第に虜になってくる。最終的に名曲認定になった”午前中に…”の”真夜中のタクシー”の時は「お客さーん」が耳に残って離れなかったが、今回「おーい奈緒ちゃ〜ん」が頭の中を回っている。

 このアルバムは不思議と聴きだすとライブみたいに一気に全曲一括通し聴きしちゃうな。

 そうだ、自分のために忘れずに書いておきたかったのは名曲”Contrast”について、かつてラジオでこの曲のバックグラウンドを話してくれた時の御母堂との話だゅオールナイトニッポンゴールド第22回 2022.1.14)。病気がちで臥せっている拓郎少年の枕元で母が話してくれたこと。

もし拓ちゃん、あなたがみんなとは違う考えで、違うなと思うとしても、みんなにおかしいと言われたとしても、自分はこういうふうにしかできないと思う時がくる。その時は、できないことはできない、自分の心に嘘をつかない。できないこともできるといって仲良くする必要はない。できないから仲良くできないのならしょうがない。自分に正直に生きなさい。」
 僕は結局自分の心に嘘をつかないという生き方をすることになった。母と僕との心を通じあった約束を守った。


 名曲”Contrast”には、というよりこのアルバム全体にMotherとの心の約束が生きているのかもしれない。
 
 まだまだ底知れぬアルバムだな…などとひとり想えば時は行く。

2022. 7. 2

☆☆☆Mother☆☆☆
 テレビ、新聞、ラジオ、ネットとあちこちで「吉田拓郎」が登場して追いつかない。モグラ叩きのようである。うれしい悲鳴だ。それにしても昨夜も金スマを観ながらKinkiKidsよありがとうございましたと心の中で手を合わせた。

 このアルバムで"Contrast"と"ah-面白かった"は、人間でいえば背骨のような曲だと思う。俺が思ってもしようがないが。
 "ah-面白かった"のライナーノーツは、読めば曲が聴きたくなり、聴けばまた読み返したくなる達意の文章だ。写真も含めて実に胸にしみる空の輝き。

 そういえば昨年のオールナイトニッポンゴールドで拓郎は
 「どうしても入れたい曲が一曲ある。母=motherを歌っておきたい。」
 と語った。どんな曲ができるのだろうかと思っていたら、それがこんな曲だったのだ。
  そして私が2020年からのオールナイトニッポンゴールドで一番忘れられない発言は
 「僕にとって吉田家とは吉田朝子の人生です」
 というものだ。他人様の母子のことながらあの言葉は鮮烈に心に刺さった。"おやじの唄も"清流""も朝鮮総督府すらも吹っ飛ばす。意味もわからず、それでもその決然とした拓郎の言葉に涙ぐんだ。その言葉を思い出すとこの曲をまたあらためて聴きたくなる。

 もうひとつ"ah-面白かった"の刮目すべきところは、自らの母親とひとしくパートナーの母親のことをも歌っているところだ。古今東西、自分の母親を歌った歌は数あれど、義母のことも歌にした歌ってたぶん例がないよね。俺も義母の人生のことをこんなにも考えたり思ったりしたことはない。
 ここに吉田拓郎だけの固有の愛情のあり方、愛情の広さと深さのようなものが垣間見える気がする。実に素敵じゃないか。

 しかも亡母らに対する追悼・追慕とか感謝の辞とかということで終わるのではなく、彼女たちの生き方を明日からの自分たちの生き方にしようという清々しい誇らしさを感じる。なので「集大成」とか「最後」とか微妙に嘘くさい言葉とは別に、この作品自体は決して閉じたり締めくくったりしていないと思うのだ。その象徴としての若々しく闊歩する奈緒さんが必要なのだろうと思う。ま、勝手な思い込みだ。そして"Contrast"はまた明日。

 でさ、読売新聞のインタビュー読んだよ。このアルバムここまで聴いて私も心の底から思うよ。You、歌っちゃいなよ。>誰だよ

2022. 7. 1

☆☆☆誰か聖地を思はざる☆☆☆
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 "ah-面白かった"のDVDを観て嬉しかったのは拓郎さんの魂が"つま恋"にちゃんとあることがあらためて確認できたことだ。ホラ拓郎さんて「僕にとってはもう過去の場所です」みたいなこと言いそうじゃないの。

 つま恋で木下さん出迎えるところは涙が出そうだった。ああ木下さんだ。失礼だが木下さんが可愛らし過ぎて、もうこの人はつま恋の森に棲んでいるコロボックルかトロールではないのかと思う。

 つま恋の撮影でワンピース姿の奈緒さんを観るとやはり私は胸がミゾミゾしてしまうのだが、Ninjinの雨畑からは「結局若さなのよ。若いってことが武器なのよ、ああアタシももっと…」という切実な叫びが聞こえてきた(爆)。

 篠原ともえの成長ぶりが凄ければ凄いほど、プリプリプリティができるのだろうかと心配になる。今でいうフワちゃんを超えるあの時の突破力が出せるのか。それでも期待しているぞ。

 やっぱり圧巻は最後の最後だ。どうしたって胸が熱くなる素晴らしい絵だ。ドローンの進歩に心の底から感謝したい。天から拓郎さんに愛が降りますように、そしてかつてこの場所に集ったすべての人々にもひとしく降り注ぎますようにとガラにもなく祈ってしまうのだ。
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2022. 6. 30

☆☆☆晴れ、いつでも拓郎☆☆☆
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 NHKのニュースにまでなったので、親戚・友人・仕事場の方々から「吉田拓郎さん引退しちゃうみたいだけどアンタは大丈夫かい?」というご心配をいくつかいただいた。ありがとうございます。でも大丈夫なはずがありません。
 とはいえアルバム発売の祝祭ムードがこんなに盛り上がるのも久しぶりだ。今は祭りを楽しもうじゃないの。
 それに最後のアルバムといいながら、この音楽たちは閉じていない。明日に向って開かれている。いろいろ新しいく、元気で生きていこうという気概に満ちている気がする。昔、墓石と葬儀の写真を載せた最悪なジャケットがあったが、今回のジャケ写はとても素敵だし基調になっているカラーのブルーがもう空よりも青ぉいい〜なんともいい色で嬉しい。

 まだまだ聴き始めなのでグダグダ書くのもなんだが。

 このアルバムは短いというか速い。疾風のように始まって、疾風のように去ってゆく。
これは断じて不満・悪態ではない。最後だからとグズグズしないで風のように終わる。そこがいい。そしてまたすぐに風に吹かれたくなって聴き始める。

 今は"ショルダーバックの秘密"と"雨の中で歌った"のメロディーが回り続けて離れない。篠原ともえがこのメロディー展開についてしきりに感心していたが、これこそが拓郎のメロディに魅入られてしまった人間のニューアルバムの妙味だ。かつお節よりしみる拓郎節が五臓六腑にしみわたる。

 素敵な色とデザインなので恥ずかしくなくライナーノーツと歌詞を通勤電車の中で読んでいる。CD→ライナーノーツ→CD→時々DVDと回りながらガボラのように深堀されていく感じがいい。"Contrast"と"ah-面白かった"の深遠の淵に立っているところだ。

 驚きのCDトラック問題。出たなデタントBonus cut on CD。"拓郎なぜこんなことを"というお気持ちは痛切に共感するが、かつて開場直後の殆ど無観客の状況で「無題」とか「たえなる時に」をへーきで歌ってしまったことを思えば"あの人ならやりかねない"(爆)という諦念が先に立つ。最後までぴっくりしたということで。

 とにかくめでたいこの祝宴を楽しみたい。

2022. 6. 29

☆もうすぐ発売日記念!あなたを迎えた日(アルバム・ファーストコンタクト日記)最終回☆
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ah-面白かった
 発売日の前日に銀座山野楽器で買った。令和のこの時代にちゃんと特設コーナーが出来ていて店内でも"ah-面白かった"がガンガン流れていた。このところずっと振り返っていた既視感あふるる光景に感激した。お店に御礼の気持ちをこめて、CD通常盤とDVD付盤で違うジャケット写真に悶絶してついに両方とも買ってしまう拓バカ爺の役を演じてあげた>演じてねぇよ、そのままだろ。
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 …そして結論先取り。ah-びっくりした。詳しく言えないが、こりゃァ両方とも買わないと(爆)。…最後の最後まで何てご無体なことをと嘆いたり悪態をついたりするのは後にして、とにかくCD通常盤とDVD付盤の両方を購入するよろし。話はそれからだと私は思う。サービスなのかいたずら心なのか気まぐれなのか…何か深いお考えあってのことか。
 まったく最後まで油断ができない。

 こうして聴くとやっぱり違う。ラジオで聴いてこんな感じかと思っていたものとまた違って聴こえる。音や演奏の深み、奥行き、作りこみ、そして何よりボーカルの説得力がわかる。たとえば図書館で借りて読んだのと同じ本でも自分買った本だと活字のひとつひとつまでの肌触りが違って愛しくなってくる、全く違う読み物みたいになったりするあの感じと似てると言えば似ている。

 たちまち2周目。こりゃあたまらん。"ひとりgo to"…いちだんとかっけーな。もっともっと聴いて観て読んでみないとなんだが、ラストアルバムだからではなく「名盤出来」ではないかと静かに思う。忘れかけてたアルバムのぬくもりをせめて今は感じていたい。


 かくも幸せな発売日、我が心のハレの日。そうだ奇しくも今日は亡父の命日だった。すべては中2の夏、父にCBSソニーのベスト盤「よしだたくろう'71〜'75」を買ってもらったからです。父よ、紆余曲折はありましたが、息子はあなたと吉田拓郎のおかげで、しあわせな人生を送っております。

2022. 6. 28

☆もうすぐ発売日記念!あなたを迎えた日(アルバム・ファーストコンタクト日記)23☆
AGAIN
 2014年6月末からのコンサートツアーと時期をあわせて武部・鳥山らツアーミュージシャンを中心に作られたセルフカバーアルバム。これがこのまんまツアーのセットリストなのではないかとちょっと心配になった。しかし全15曲+特別トラックを入れて16曲。曲数が多ければ多いほど幸せを感ずる自分はすぐに嬉しい気持ちに変わった。何より代表曲、著名曲を外した選曲が絶妙にいい。

 発売日にたぶん有楽町のビックカメラで買ったと思うが…この辺の記憶がまったくない。昔のことは鮮明に覚えているが最近の新しいことを忘れるのが典型的な老化だ。
 武部・鳥山によるリアレンジと演奏はやはりこれまでなかったオサレな曲相を描きだす。全部が全部OKとは思わない。やっぱり"たえなる時に"はアップテンポではしっくりこないし、"まだ見ぬ朝"もちょっと重い。"サマータイムブルースが聴こえる"の間奏はどうしたってドラマチックなピアノでしょう…と例によって思うが、いろんな曲の表情を観られるのはそれもまた良しだし、聴いてて気持ちよかった。「思い出はひとつでなくていい。何が一番だとか、オリジナルを超えたとか超えないとかそんなことは決めなくてもいい。いろんな思いでがあっていい。」という以前にハワイツアーの最後に聴いた拓郎のスピーチを思い出していた。
 それに俺にとってはガチ新曲の"僕の大好きな場所"と"アゲイン"があった。"僕の大好きな場所"は、高木ブーのバージョンとはずいぶん違う。高木ブー版も味があるが、拓郎のキパっとした歌い方と演奏がまたいい。この関係は、"春になれば"の小坂一也Ver.と吉田拓郎Ver.の対比関係とよく似ている。
 "アゲイン"は不思議な曲だと思った。これこそ映画のエンドロールのようだ。そのうえで未完というのが意味わかんなくて凄い。壮大な問いかけの歌のように聴こえた。どこか心が疼く。

 番外は"僕の唄はサヨナラだけ"は当選した拓郎ファンのねーさんから音源をいただいた。アルバムの雰囲気が違うということでアルバムに入らなかったというが、これはこれでイイのではないかと思う。この歌に限らず、このAGAINのアレンジで心地よく聴きたいと言う日が時々あった。

 そうそう2014年のツアーは、確かに"AGAIN"の曲も歌ったが、それには尽きないセットリストで、俺の不安は杞憂に終わった。っていうか冒頭ものすごかったね。そしてアンコールのアゲイン完全版が輝いていた。


From T
 これはベスト盤なのでどの曲もさんざん聴いた曲である。しかしこの選び抜かれた選曲そして"春を待つ手紙"から始まるこの練りに練られたであろう曲順、このリストを眺めているだけで俺は胸が熱くなる。
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そこには吉田拓郎の意思と愛がすみずみまで表現されている。あらためてその慣れ親しんだ曲たちが別の輝きを始めるような気がしてならない。特に "アゲイン"の完全版がひときわ輝いている。"時がやさしくせつなく流れ、そっとこのまま振り返るなら 僕らは今も自由のままだ"

 Tからのそして贈り物。吉田拓郎のデモテープにはずっとあこがれてきた。ラジオで固唾をのんで聴いたファンも多いはずだ。そこには拓郎の声と拓郎の手になるサウンドがある。これがたまらない。言ってみれば高級レストランでシェフがつくる"まかない料理"みたいな魅力がある。
 公式にデモテープが出ることをずーっと待っていたが、その反面で絶対こういう日は来ないだろうと思っていた。まさか"紅葉"のデモテープだョ、おっ母さん。中島みゆきとの絆を垣間見てしまったような"永遠の嘘をついてくれ"。このデモテープをみゆきに送ったという話も貴重な話だ。
 そしてデモテープの味わいとともにその精巧さとクオリティの高さにあらためて驚いた。このデモテープをもって、バハマのミュージシャンたちに対するイニシアチブをとったということも頷ける。"まかない料理"が世界の凄腕料理人たちを次々と倒していくような痛快さだ。いや〜吉田拓郎ってホントにいいですね。ベストアルバムまで最高じゃないですか。


 ということで明日はいよいよ6月29日だ。”ah-面白かった"の発売日だ。へのような私の人生だったがそんな私にもいつも吉田拓郎のアルバムが届けられた。感動したり、悪態をついたり、誤読したり、読みが浅かったり、申し訳なかった。それでも大いに元気づけられて生きてくることができた。時に万難や苦難を乗り超えてアルバムを作り続けてくれた吉田拓郎、アレンジャー、ミュージシャン、スタッフ、そして俺に手渡してくれたレコード店の皆様、心から感謝申し上げます。こうして一気に振り返って言いたい。ああ、しあわせだった。しあわせだ。

 みなさんはどこで買いますか?、どうやって手にしますか? 大きなお世話ですが、"ah-面白かった"が、それぞれにとってかけがえのないアルバムになりますよう…なんで私が祈るかわかりませんが、心の底からお祈りします。星紀行拝

2022. 6. 27

 せっかくのサイトだからあえて言いますが、引退、活動終了、フォークブームの立役者とかトンチンカンに騒ぐ前に、すべてのミュージシャン、すべての音楽関係者のみなさま、ここはスタンディング・オベーションで「ありがとうございます拓郎さん!ブラボ!!ハラショ!!」と叫ぶところでしょう。もちろんご本人はそんなこと望んでないでしょうが、私は世界はそうあるべきだと思います。

 桑田佳祐は「吉田拓郎の唄」で愛をこめて
  ♪歌えぬおまえに誰が酔う やがて闇に消える
 と歌ったが
  ♪歌えぬおまえにも俺は酔う だから永遠(とわ)に消えぬ
 という感じでこの道をまいります。

☆もうすぐ発売日記念!あなたを迎えた日(アルバム・ファーストコンタクト日記)22☆
午後の天気
 2009年から始まった坂崎とのオールナイトニッポンを頼りに私たちが命をつないだ3年間。途中”That’s it”、”慕情”を灯に、そして震災のころは“春を待つ手紙”に助けられながらようやく2012年6月20日発売のニューアルバムを迎えることとなった。

 発売日に有楽町のビックカメラで買って、その日発売を記念して集まった「綴」でのファンの飲み会に参加した。しかし当然そこにはプレイヤーもないしみんなまだ未聴だったので盛り上がらない(爆)。みんなでエイベックスになってから感じのいいジャケットを愛でながら、やっぱり早く帰って聴こうということになって、いつどこかはわからないが木や緑のあるところでまた会おうと誓って散会した(爆)。

 深夜に帰って家族が寝静まってから聴き始めた。最初の“僕の道”のイントロがいきなり心臓に響いた。まどらかなギターとキーボードがひとつの固まりの音色になり、とろけるようだ。この曲にやさしく抱きしめられたみたいな気がした。どこか懐かしく清々しい明るさに満ち溢れている。この曲からアルバム全体が川の流れのように一気に聴いてしまった。“昨日の雲じゃない”の前奏のまるで語りかけているようなギターと拓郎がこちらに背中を向けて歌い放っているような哀しさがしみた。
 なぜかあんまり語られることのない傑作”危険な関係”は落ち着いてしみじみ歌いあげるKinkiに対して、拓郎の方がノリノリのアップテンポというところに妙味がある。これがカッコイイのだ。
 そして”この風”を聴きながら「おおすげぇ」と思わず唸った。ドラマチックなメロディーが素晴らしい。銀色夏生のシンプルな言葉がうねりだす。風に吹かれて思いを静かに巡らす、その心根のゆらぎが切々と胸にせまるようなメロディー展開。メロディ―そのものにも泣きたくなるような哀しい表情がある。こりゃ出色ばい。
 とにかく”男子の場合”を除いてどの曲も心に響いた。"午前中に…"と比べると派手さや華さが、やや足りないかもしれないが、楽曲のクオリティはグンと高くなっていると…俺ごときの感想だがそう思った。
 ♪この道が大好きだから、この道をゆけばいい〜頭の中ではごく自然にこのメロディーとフレーズが心地よく回りつづける。ああ、このままずっとこの川の流れに身を任せていたいと思った。
 
 作品には衰退も撤退の影もない。吉田拓郎の2012年のアルバムだった。大丈夫だ、この道はつづくよと無言で語り掛けてくるようだった。そして2012年秋、3年3か月という最長不倒記録のブランクを経て吉田拓郎がステージに立った。

 いつだって吉田拓郎の新作には新しい試みや未来に向かって投げかけられた希望が宿っている。いくら拓郎が最後とかラストとか宣しても、宿ったものが将来どうはじけるかは誰もわからない。そこが吉田拓郎の魅力じゃないか。とりあえずそのたびにまた嘘つきやがってとか悪態はつかせていただくが(爆)。

2022. 6. 26

 LOVELOVEあいしてるのニュースに関連して吉田拓郎引退、卒業が世間を席巻している。いよいよ来るべきものは来たりなのか。この連載も大詰めです。

☆もうすぐ発売日記念!あなたを迎えた日(アルバム・ファーストコンタクト日記)21☆
午前中に…
 沈黙を守っていた拓郎は2008年のラジオで「2009年を最後に全国ツアーから撤退する」と宣言した。ショックなんてもんじゃなかったが、もはやここまでかという詰んだような気もした。
 ラジオではアルバム作成準備中ということで弾き語りで”ガンバラナイけどいいでしょう”の一部を披露してくれた。それからしばらくしてエイベックスへの電撃移籍を発表して我々を驚かせた。飛ぶ鳥が進んで落ちるエイベックスですぜ。エイベックスの松浦社長の「これから終わろうとしている人を迎えるのは初めてです」という戸惑いの言葉のとおり、終わりゆく悲しみと心機一転の新鮮さがシンクロする不思議な気分だった。

 これは発売日前日の4月14日に仕事場の近くの新星堂で買ったが、既に平積みでコーナーが出来ていてエイベックスのチカラを垣間見た。すげえ。
 とにかく店頭でまず感動したのがジャケットだ。ブルーの背景に佇む吉田拓郎の立ち姿。カッコイイ。さすがエイベックス、美しい吉田拓郎のビジュアルをジャケットにしようという至極まっとうな意思が窺えた。いい機会だ、この日記をずっとスクロールして今までのジャケット写真を一気見してくだされ。全体にジャケットが悪すぎだとは思いませんか?僕は思います(※個人の意見です)。こんだけのルックスと容姿を備えたビジュアル系アーティスト吉田拓郎でありながらカッコいいジャケットの打率が異様に低い。なので今回はジャケットだけでまず嬉しかった。

 聴く前の予想として2008年のラジオで完成途中の”ガンバラナイけどいいでしょう”のサワリを聴いた時に感じたどよーんとした不安があった。吉田拓郎を聴いて頑張ってきた俺には「頑張らないでイイでしょう」というメッセージはどうしてもしっくりとこなかった。また例えば”フキの唄”というタイトルには、朝陽がサンサンやヨールレイホーに続くような、自分にとってはよくない予感がしていた。

 しかしCDで聴いた一発目の”ガンバラナイけどいいでしょう”の印象は全く違った。悪い予感はかなりキレイに裏切られた。この歌は進むことを放棄しまったり撤退する歌ではなく、あらゆる「しがらみ」「虚飾」から個人が自由になっていく歌であることがわかる。自分の本来の歩みを取り戻すための歌。中島みゆきの「ファイト!」に「あきらめという名の鎖を身をよじってほどいていく」と名句があるが、この歌はまさにその歌だ。
 還暦をとうに超え、コンサートツアーも断念せざるをえないような苦境にあるだろうに、どの曲にも漲る清々しさはなんだろうか。心配した”フキの唄”は、フキにしてフキにあらず、平和の大切さまでつながる祈りのような歌だった。
 そしてついに名曲登場!。”季節の花”。雲の切れ間から陽が差し込むような小倉正和のギターから始まるイントロ。演奏も最高のラッピングのように「隙」がない。これ一曲で「午前中に・・・」を直ちに名盤認定させていただいた。「またウソをつき また夢を見る、また迷っても また探す道、またほほえんで また口ずさむ・・・・」
 出口なき苦境も清々しく進んでいくしかない。このリフレインのひとつひとつがたまらなくいとおしい。一発でほれ込み何度でも聴き返した。
 “早送りのビデオ”は胸にしみて聴きながら、俺のスカスカな人生の走馬灯も回り始めた。”真夜中のタクシー”…この手の歌は嫌いな自分だが。「真夜中のタクシーは今夜もまた銀の河を飛んでゆく行くもの変える物を乗せながらいろいろあってもそれはそれ」「東京の夜は昔からこんな感じだった気がする 笑う男と叫ぶ女が銀の河で踊ってる」…言葉とメロディーと歌いっぷりが素晴らしい。ああ天才だと思った。
 そしてまるで陣山さんの弔辞のような”あなたを送る日”。メロディーはつとめて明るく悲しさを引きずらない。そして「小さな春を見過ごしている 馬鹿な自分に気が付いたとき 胸にあふれるこの喜びを 今こそ素直に伝えたい」との結びは小さな陽だまりのように救われる。
 “こんにちわ”で拓郎がテーマにした「明るい日常」は、このアルバムでこそ見事に開花したのではないかと思った。

 当時、気難しい拓友から短いメールが届いた。
「ニューアルバムいいよねぇ、ここまで届くんだよなぁ、言葉やメロディがさぁ。代表作が63歳になって更新されるのって、こんな幸せってないよねぇ。」

 異議なし。この時期にここに来て名盤出来! そして最後のツアーに向けて私たちは魂を運ぶ。
18時開演〜TAKURO YOSHIDA LIVE at TOKYO INTERNATIONAL FORUM〜
 最後の全国ツアー”Have a nice day”は是非完遂させてあげたかった。あげたい…とか上から目線ですまないが、もう天に祈りたい気分だった。
 それにしても開演前からの会場の空気、演奏、MCすべてを、まるっとライブ盤にしてしまう。これはコロンブスの卵かもしれない。すべてが残されたことにあらためて感謝したい。
 ツアーの中止に加藤和彦の逝去と哀しみの沼のような時期である11月11日の発売日に渋谷東急のCD店で買った。確か「TOUR1979」の復刻CDも一緒に買ったはずだ。買ったその足で仲間と渋谷のカラオケ・パセラのデッキで聴いた。ひとつ一人で聴くには寂しすぎる。ビールのピッチャーを何杯もお変わりしながらついでに泣きながら(爆)聴いた。”風の街”のインストはそれだけで今でも聞けば小一時間泣く自信はある。
 すばらしいボーカル、すばらしい選曲…なんてったって”無題”だぜ、そして最強の演奏…どこにも不安を感じない。聴きながら、大阪の中止の衝撃と彷徨した夜の事、もう主は来なかった雨のつま恋のエキシビションの様子がフラッシュバックしてきた。DISC3の”ある雨の日の情景”と”無人島で”は、つま恋で特別プログラムだったんだよな。映像が楽しければ楽しいほど切ないぜ。
 そして“ガンバラナイけどいいでしょう”、この曲が力強くライブを高揚させ、観客を牽引していった姿はCDでも確認できた。決してあきらめの歌でも撤退の歌でもない。自分の一歩を取り戻すという歌のテーマが見事に伝わる。
 ツアー断念の無念さをも大きく包み込んでしまう吉田拓郎の魅力的な立ち姿は、このアルバムからもくっきりと浮かんでくる。最後だというけれど、まだいる、拓郎はまだしっかりいる。その存在確認のようなアルバムとなった。

 これから終わるのか、始まるのか、歌うのか、歌わないのか、皆目わからなかった。「今度歌う時は木や緑のあるところで」…これが私達に投げかけられた最後の謎のキーワードだった。

2022. 6. 25

☆もうすぐ発売日記念!あなたを迎えた日(アルバム・ファーストコンタクト日記)21・番外編アルバムにはならなかったけれど☆
つま恋2006
  “ah-面白かった”のDVDの予告映像を観た。つま恋を歩く吉田拓郎。知らない人から見れば、何にもないただの広場を一人の76歳の爺さんが歩いてるだけの絵にしか見えないかもしれないが、私の目にはこんな風に映って見える。
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 「聖地への降臨」。万感胸に溢れ、歓声と地響きと音楽が鳴り出し、頭が走馬灯状態になる。ただの広場にここまで思いを深めることでができる私達拓郎ファンは、知らない人から見ればイカレている人(爆)かもしれないが、おかげさまで実に豊かな人生を送っているという自負がある。
 つま恋2006は豪華DVDにはなってライブアルバムにはなっていないが、ここは避けて通れない。ビッグバンドツアーのひとつのdestinationであり、拓郎ファンの私達の忘れじの祝祭だ。ということでDVDを見直そう。できればこれはアルバムにして欲しかったな。音から聴く発見とか感慨もまた深いものだったに違いない。つま恋forever。それぞれのつま恋を大切に。

歩道橋の上で
 永遠の2006年と対照的に2007年は切ない年だった。2006年のつま恋の至福を味わった翌年に、かくも厳しい試練が拓郎とそのファン達を待ち受けていようとは。瀬尾一三率いるビッグバンド・シリーズにピリオドを打ち、精鋭バンドによる小会場を中心としたコンサート・ツアー"Country"に出て、4年ぶりとなる新アルバムの制作という新たなる航海となるはずだった。しかし、いずれも拓郎曰く「矢が尽きた」ように中途で倒れるという憂き目を見た。すべての拓郎ファンがそれぞれの涙にくれたに違いない。

 そのツアーの途中までの様子のドキュメントDVDと未完成の成果物であるCDが、メディア・ミックス「歩道橋の上で」として発売されたのは、2007年の暮れの事だった。発売日に新宿東南口のタワーレコードで買い、Ninjin officeの人々と近くのDVDが観られる個室居酒屋で観て、聴いて、読んだ。予想に反して素晴らしいものだった。

 60歳を超えてつま恋を成功させた拓郎は、岡本おさみに「さぁ新しい歌を作ろう」と呼びかけ、60歳を過ぎた二人の共作が出来上がった。
 「歩道橋の上で」は連結点として「旅の宿」があり、両曲を創り上げた石川鷹彦のギターの美しさが際立つ。この寂寥とした美しいギターのイントロの音色からしてもう胸わしづかみだった。
 このように石川鷹彦をはじめ、徳武弘文、エルトン永田、島村英二、ほぼロックウェル78バンド(1978年「ローリング30」箱根ロックウェルスタジオに集ったミュージシャンのことを勝手に略称)の音は行間にぬくもりがこもっており聴く者を安心させてくれる。
 "少し黄昏また会えてよかった 今は黄昏また逢えてよかった"…ああ、しみじみと響いてくる。"空に満月 旅ごころ"は目の前に情景が広がって、拓郎が言うとおり日常という大平原を旅している気分になる。
 "錨を上げる"が文句なしにカッコイイ。「こんな歌を待ってたんだよ」と快哉を叫んだ。イントロの荘厳なキーボードが夜明け前の張りつめた港の空気を見事に表現している。あとは拓郎とミュージシャンの「技」のなすがまま、まさにLife is a voyageに連れ出される。
 荒天遭遇や海難は船にも航海にもつきものだ。病理現象ではなく当然に起きるべき生理現象だ。現在も拓郎が元気でいることが何よりであって悲嘆することはない。「明けゆく海に感謝を捧げ」何度でも錨をあげようではないか。そんな気になった。
 エンドロールの"ウィンブルドンの夢"はDVDの最後の2007年を総括するツアーやレコーディングの様子のエンドロールに映画の主題歌のように流れる。こんな悲痛な時なのに、「あきらめなんてずっと先でいい。あぁ君の愛を大切にして、君の中で大切にして」と拓郎のボーカルは、伸びやかで、ピュアだ。
  2007年はいろんなことが不本意な形に終わったけれど、確かに「吉田拓郎」はそこにいて、新しい曲があり、渾身のステージがあったのだ。切ない一年だったが、まだ清々しい明日はあるんだ。そんなことを思わせてくれる作品だった。
 エンドロールに緞帳が上がって歌い出す吉田拓郎の後姿が映る。この美しい姿にシビレて、Ninijin designの画伯のYに「この姿を是非お願い」とイラストにしてもらったのが、このサイトのトップページだ。

 昨日書いたことと矛盾するかもしれないけれど、これは8曲(CD+錨をあげる+ウィンブルドンの夢)入りでいいからアルバムにしてほしかった。なんならこういう時こそ、カバーとセルフカバーを入れて揃えよ。それほど珠玉の作品群だった。

2022. 6. 24

☆もうすぐ発売日記念!あなたを迎えた日(アルバム・ファーストコンタクト日記)S☆
豊かなる一日
 何度でも言うが“LOVELOVEあいしている”が終わった後にテレビタレントやテレビの奴隷にならなかった吉田拓郎は素晴らしいと思う。ひとりの音楽家でありつづけそしてビッグバンドによるコンサートツアーを実現した。
 だからこそ念願のビッグバンドツアーの直前に病に倒れた時のショック、無念、恐怖、…俺には想像もできない。想像もできないがファンはファンで不安に悶絶した2003年だった。手術後の4月になって「月夜のカヌーに乗った僕」という拓郎の言葉がサイトに載った。世界一の弱虫野郎と卑下しながら、これからビッグバンドツアーに向う決意が語られていた。そして2003年10月、前代未聞のビッグバンド全国ツアーを前代未聞の手術から半年で挙行する前代未聞の吉田拓郎を目の当たりにする。reverenceの「僕の旅も小さな叫び」に書いたが、http://tylife.jp/chiisanasakebi.html#20030825 こんなん読むまでもなく皆さん同じものを共有していただろう。

 私たちが吉田拓郎の素晴らしさを胸に刻んだこのビッグバンドツアーを完遂した翌年3月24日にこのライブアルバムが発売された。それは病からの復活のドラマということだけでなくビッグバンドのサウンドの豪華さのためにも是非残されるべきだ。発売日に仕事場近くの新星堂で買った。なんだ、こんな墨絵のようなジャケットではなく豪華箱盤でもいいくらいだ。

 やはりアルバムでも一曲目"今日までそして明日から"がたまらん。私たち観客が固唾をのんで見守る中、ピンスポの暗がりで静かに弾き語りで歌い始め"…知るところから始まるものでしょう〜"そこにズガーンとビッグバンドの演奏が砲撃のようにシンクロする。まるで「十戒」でモーゼが海を開くときのよう両腕を広げる拓郎、照明もビッグバンドもここから全開になる様子が目に浮かぶ。そして拓郎の歌を大きく包み込んでいくあのドラマチックな演奏は、CDで聴いてもゾクゾクとして泣けてくる。繰り返し繰り返し100回は聴いた。聴くたびにビッグバンドがシンクロするところで胸が高鳴る。一回くらい弾き語りのまま終わってしまわないかと心配になるが、必ず毎回ビッグバンドが入る>当たり前だ。
 もうひとつ印象的なのは“どうしてこんなに悲しいんだろう”。♪心を閉ざしてぇぇぇ ここのシャウトで第二回感涙タイムである。思わず立ち上がってWelcome back!と叫びたくなる。
 会場ではどうかと思ったラストの"純情"もCDで聴くと拓郎が帰ってきてくれたことの喜びを何度も何度も反芻する祝祭のように聞こえていとおしい。
 あとDVDには”純”のプロモーションビデオがついている。こちれは貴重だ。あの大好きだった「魁クロマティ高校」のオープニング映像をベースに吉田拓郎がアニメになって登場する。貴重な映像ですばい。

 この時既にこの夏のビッグバンドのツアーが決定していた。夏を待ちこがれながら、何回もこのビッグバンドの偉業を繰り返した。


一瞬の夏
 この年の夏のツアーも実に悲喜こもごもいろいろあった。サマーツアーの至福と試練を味わい尽くす。ツアーを終えた翌年に2005年3月24日"一瞬の夏"というビッグバンドによる一発録りアルバムが出ることになった。

 どうでもいい話だが、俺は「ミニアルバム」が苦手だ。曲が多ければ多いほど幸せを感じるさもしい人間だからだ。例えば"トラベリンマン"のように全5曲のアルバムだとその曲数の少なさだけでガッカリする。しかしこれがシングルだったら、なんと5曲も入っているシングルすげーと気分が上がる>バカじゃねぇの。この連載では"トラベリンマン"は"ロンサムトラベリンマン/AKIRA"の両A面シングルにボーナストラックが3曲も入っている豪華マキシシングルとして勝手に取り扱った。
 で“一瞬の夏”はどうなんだ。長澤まさみに平手打ちされて「あなたはマキシシングルなのそれともミニアルバムなの?」と詰問されても「両方さ」としか答えられない。いみふ。
 というか7曲という微妙な曲数、「一瞬の夏」という曲ではないタイトル、そしてあの江口寿史が美しいデザインしている点で、もはやこれはアルバムである。ああ百果園。アルバムとなるとやっぱあと3〜4曲くらい欲しいな。”結婚しようよ”、”英雄”、”遥かなる”、”おやじの唄"追加でどうだ(爆)。
 またボーナストラックで欲しかったのは「開演前の拓郎本人からの諸注意のアナウンス」だ。盛り上がったねぇ(笑)。「そんな図々しい人はいないと思いますが、コンサートをビデオで撮影してはいけません」、「ちなみに僕は昨年タバコを止めました。皆さんも禁煙をお勧めします」って最高だった。

 但し、本体の2004年のライブは、こっちが心配するほどの大量の曲数と演奏時間だった。2003年の堅牢なビッグバンドのサウンドが、このツアーでは練り上げられてのびやかな音になってゆくのが俺にもわかった。このミニアルバムはその成果物だ。
 俺には何といっても”ああ青春”だ。エルトン永田の"俺達の勲章Ver"のピアノ・ソロからを島村英二がバインドしてあの篠島の松任谷バンドのイントロが自然に繋がったところで失神しそうになる(爆)。もうアドレナリンが少々して背筋正して聴いてしまう。若き日の「熱さ」が、年齢を重ねた熟練の技にしっかりと高められている集大成をみるようだ。このアルバムはこの一曲に集約できるような気さえする。

 荒海のような2003年から2004年だった。拓郎がカヌーをひとり漕ぎぬいてくれたからこそ今につながる。ビッグバンドは巨大な護送船団になって寄り添い、私たちはつま恋へとつき進む。なんか今こうして思うと何かに導かれているかのようだった。そんな気がする。

2022. 6. 23

☆もうすぐ発売日記念!あなたを迎えた日(アルバム・ファーストコンタクト日記)R☆
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oldies
 鳥山雄司と彼の自宅スタジオで作るセルフカバーアルバム"oldies"。現在にしてみれば"ah-面白かった"を思わずにいられない。パイロット版みたいで面白い。
 確か発売日にインペリアルレコードが拓郎ファン参加による路上ライブを都内各所で催した。当時の仲間のひとりが新橋駅前広場の会場で弾き語りをするというので拓バカみんなで応援に行った。ニュースとかで酔っ払いサラリ―マンのお約束の新橋駅前広場だが、ホントまあ実際ロクなヤツがいない(爆)。酔っ払いどもが阿鼻叫喚で、なかなか歌うのが大変だったことを覚えている。他の参加者とともに仲間も弾き語りを披露した。うまかったな彼は。それにしてもこんな企画でファンに協力させといて、やれフォークが嫌いとか弾き語りが古いとか言うなよな。

 当日、飯田橋の新星堂で買った。CDと一緒にブックレットも貰った。鳥山雄司は特に好きじゃなかったので期待はしていなかった。が、これを聴いてギターの音色、テクニック、アレンジの凄さにシロウトの俺もびっくらこいた。すまん。聴きながら…うまい!と思わず何度も唸った。“リンゴ”も”Voice”も石川鷹彦の右に出るものはない無双だと思っていた。しかしそこに肉迫する双璧感があった。
 フォークビレッジの歌も蘇生させてくれて嬉しかった。♪ここに独りでいる僕を夜空のどこかに記しておきたい 愛する人に届けと〜ああ泣く。そして意外なアレンジがドハマりした"蒼い夏"にもシビレた。ただ行間にあふれ出る怨念のようなものが少なく物足りないといえば物足りないが、美しい技に酔いたいときにはうってつけだと思った。鳥山ギターの独壇場だ。

 鳥山雄司の自宅スタジオで二人で作りんだ時の様子が当時のClub Mahaloの機関紙やブックレットに残っている。"おろかなるひとり言"なんかも候補に挙がっていたのね。ああ惜しい。
 ともかくいい意味での手作りの肌感覚もまた良かった。まさにこの時の成功体験があればこそ、今回のコロナの制約下での”ah-面白かった”が実現出来たのではないか…と今になって思う。20年の月日が流れている。聴き比べてみようじゃないの。

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月夜のカヌー
 NHK2002年のビッグバンド=吉田拓郎デラックスから2003年のビッグバンド全国ツアーに向うかけ橋のような時期にこのアルバムはやってきた。
 「月夜のカヌー」というタイトルに私は発売前からやられていた。何と詩的なタイトルなんだろうか。また田家秀樹のキャッチコピーが秀逸だった。「・・・船を降りた水夫は、一人乗りのカヌーで海に出て行く・・」たまらん。フォーライフレコードもユイ音楽工房もLOVELOVEあいしてるも無くなってしまった拓郎は、護送船団もない海を一人でカヌーを漕いで行かなく。そこがまた震えるほどカッコ良かった。
 池袋東武の五番街のレコードショップで発売日に買った。クリアファイル貰った。当時は池袋の近くに住んでいたので、池袋東武はいつ行っても空いている(爆)大好きなデパートだったのだ。

 帰ってから封を開け、とにかくまずタイトルが胸わしづかみの“月夜のカヌー”から聴き始めた。シンプルだが力強いバンドサウンドが、拓郎の心意気を示しているようで嬉しかった。「月夜のカヌーで夢の続きへ漕ぎ出そう 月夜のカヌーで息を潜め漕ぎ出よう」というフレーズを聴くとオレも漕ぎ出そうという気になってくる。かくも心強き言葉たち。特に「息を潜め」という繊細さがまたイイんだ。岡本おさみとの最高傑作だと思った。よく考えるとあの曲やこの曲もあるだろうと思うが、とにかく今は最高傑作と言わないとそれも嘘だと思った。
 それにしても“花の店”はサウンドが超絶カッコイイが♪花の店は坂の途中〜と言われると”だから何なんだ”と不遜にも思ってしまうし、"人間のい"も面白いけど、なんだかなぁ。これらは拓郎は絶対にイチオシの曲のはずだがいまひとつ俺には燃えない、拓郎とすれ違ういわゆるスキマ案件である。
 しかしそういうスキマを超えて実に痛快なアルバムだと思った。"春よ来い"なんてこの荒くれ方がカッコいいったらありゃしない。ちょっと古臭いところがかえって心にしみてくる"星降る夜の旅人は"、どうしたってつま恋が浮かんでくる”聖なる場所に祝福を”、そして“白いレースの日傘”を聴いた時は、oldiesの”蒼い夏”を思った。リズムもテンポもスピリットもしっかりとつながっている。この曲を始めアルバム全体に涼やかな風が吹いている気がした。ジャケットの土手がどこなのかはわからないけれど俺を呼んでいた。いつかここに行ってこの風に吹かれてみたいと思った。
 
 アルバムにはコンサートツアーのチケット優先予約の特典がついていたので、いそいそと応募した。いよいよ始まるんだぜ。しかし残念なことにこのあと我々を悲痛事が襲うことになる。なんとなくその事件とこのアルバムは不即不離な印象になってしまいがちだ。だからこそ初めて買った時のこのアルバムの気持ちよさは時々思い出して忘れないでいたいと思うのだ。

2022. 6. 22

☆もうすぐ発売日記念!あなたを迎えた日(アルバム・ファーストコンタクト日記)Q☆
こんにちわ
 2001年3月"LOVELOVEあいしてる"が惜しまれつつ終わり、フォーライフを辞めた拓郎は新天地インペリアルでの第一弾アルバムを発表する。期待しないわけがない。ネットで公開レコーディングまで行ったがうまく繋がらなかった。また1月には拓郎のハワイツアーに参加し、吉田拓郎本人とまみえた俺も絶好調だった。朝起きて夜寝るまでの一日の「明るい日常」がテーマらしい。俺にとっての拓郎は非日常であって欲しいのだが…まあいい。

 2001年3月28日、飯田橋の新星堂でアルバムと同日発売のシングルとおまけのPVビデオを抱えて結婚式の引き出物状態で家に帰って早速聴いた。
 最初にビデオを観た。’いくつになってもHappy birthday’ …OK! すんばらしい。出色のPVだよね。拓郎はかっこいいし、みんながノリノリでウェーイな感じも楽しい、最後にカーペットを幼な子が横切るところまで完璧だ。
 そのままCDに行く。” いくつになってもHappy birthday” このシンプルだが、愛に満ちた、軽やかなポップ。キャリアを長く積み重ねた2000年代になって、こういうみずみずしい作品をサラリと作って歌える素晴らしさ。いやキャリアを重ねたからこその技なのだろうか。拓郎が讃えるのは、ただ「君が君になったこと」「人生に向かい合って歩いている」そのことだ。つまりは「生きてること」それ自体をひたすら誉め讃えて喜んでくれる無条件の愛。インサートされる「いろんなことがあったでしょう 人に隠れて泣いたでしょう」のところに涙ぐむ。

 と、ここまでは良かった。問題はそのあとだった。最初の印象を正直に書く。”朝陽がサン”…なんだこりゃ?サウンドはカッコイイがそれにしてもなんだこりゃ。"消えてゆくもの"…楽しい歌だが登場人物の設定があまり響かない。"a day"…「明るい日常」じゃなかったのか…暗い。そもそも俺は年齢的にもOLさんに「世界はアンタなんか欲しくない」と言われる側の人類なので身に詰まされる。"僕達はそうやって生きてきた"…これは俺なんかじゃなくて若者世代に向けて歌われていると思うと好々爺のロックみたいでいまひとつ燃えない。”ありがとう”…これはLOVELOVEの蜜月時代を思い心がふるえた。しかし、次にヨールレイホーですべてが吹っ飛ぶ。ヨールレイホ―なんなんだ、教えておじいさん、教えてアルムの森の木よ。んでもってカバーが3曲ってのはどうなんだ。特に"君のスピードで"は名曲だが、ここでカバーする必要があったのか。

 しかし吉田拓郎は「フォーライフ作って以来の傑作だ」と豪語した。そうは思えない自分と拓郎との間の大きなスキマを見つめざるを得なかった。若い頃ならこのスキマに蝕まれたかもしれない。いろいろ苦しんで屈折したかもしれない。
 そのころハワイで知りあった拓郎仲間たちに誘われて、渋谷駅に拓郎バスを観に行った。「拓バス」ご記憶だろうか。「こんにちわ」のジャケ写が広告としてペインティングされた路線バスだ。アルバムは不満だったが、バスを観ると胸が高鳴り思わず手を振っていた。幸せな気分だった。
 クイズアタック25で回答者がパネルのコマを選ぶとき、定石と異なった選択をすると、司会の児玉清は「あ〜そこに置いてしまわれたか」「んーなんで角を取らない」と感情的リアクションのあと必ず落ち着いていう「んーそれも何かお考えあってのことか」…コレだ。このアルバムを最高傑作というお気持ちを今はわからないし、これからもわからないかもしれない。しかし「拓郎さん、何かお考えあってのことか」ということでそのスキマを抱えたままありったけ応援していこうと思えた。
 わからないことを恨んだり呪うことはない。何より元気な拓郎がいる。幸せだ。私は拓郎が望むようなファンではない。時代は変わったそうだから君の後ろに僕はいる。世界を無理に理解しない。埋まらないスキマを抱えながら、ついてゆこう愛してゆこうと思うのだった。これって、たぶん"LOVELOVEあいしてる"が俺にくれた何かだと思う。たぶんそうだと思う。

2022. 6. 21

☆もうすぐ発売日記念!あなたを迎えた日(アルバム・ファーストコンタクト日記)P☆
みんな大好き
 後に拓郎は”LOVELOVEあいしてる”開始当初はいつも辞表を胸に入れていつ降板しようかと悩んでいたとその苦労を語った。しかしそれは観ていた俺も同じだ。毎週テレビで硬直して何も言えず浮いている拓郎を手に汗握って針のムシロ状態で観ていたファンは多いはずだ。また拓郎がテレビに出るのはけしからんという硬派ファンもいた。俺はc4f
思わなったが、せっかく"Long time no see"で始まった外人バンドとのコラボが立ち切れてしまうのが寂しいとは思っていた。
 しかしそこは拓郎の人柄と才覚と覚悟だと思うがやがて番組に見事に溶け込んでいった。テレビ番組に溶け込むということは若者を含めた世間様全体に受け入れられると言うことだと知った。今や世界の老若男女が吉田拓郎を好意を持って歓待してくれている。長年人目を忍んで生きてきたが、拓郎ファンというだけでみんなが優しく温かく接してくれた。思ってもみなかった理想郷が実現したのだ。
 
 そして発売日の翌日くらいに仕事場近くの飯田橋の新星堂に行ったら…ない。吉田拓郎のコーナーにも、最新盤のコーナーにもない。お店の人は「すみません、品切れで、いつ入るかはお約束できません。」…ああ神よ、こんな日が来るとは。あちこちで品切れになっているというニュースも入ってきた。そこで久々に実家のある横浜の例のオジサンのレコード店に向った。不謹慎な譬えだけど田舎に食べ物わけてもらいに行く感じだった。オジサンは白髪が増えていたけど「おう久しぶり、珍しいね」「引っ越したので、どうもご無沙汰してます」「拓郎?」「はい」「そこの展示してあるのが最後だよ」とディスプレイを指さした。…あった。ありがとうございます。オジサンは袋に入れながら「毎週観てますよ」と笑った。「どうも」って関係者か俺は。オジサンに助けられながら、オジサンの店でCDを買ったのはこれが最後だった。
 ファン的には特に"我が良き友よ"と"全部抱きしめて"の本人歌唱に価値がある。反対にセルフカバーについては曲によっては微妙な思いはあったが、あの我らが珠玉の70‘sを今の音で世間の人々に好意をもって聴いてもらえる。こんな尊いことがあるか。バンザイ、君に会えてよかった。

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Hawaiian Rhapsody
 読んでくださる皆様にはどうでもいいことだが、1998年の秋から仕事と研修を兼ねて数か月ひとりでロンドンで暮らしていた。拓郎がバハマに行きそこでのミュージシャンとの出会いが新しい世界を開いたことに勇気を得て、俺も旅立ってみたのだ。しかし俺の場合は失語症になってヘロヘロな状態で敗残兵のようになって帰国した。もう日本から一歩も出るまいと誓った。丁度10月31日のアルバムの発売日の3日後に生きて日本に着くと家に拓郎の新作が届いていた。時差と帰国の安堵感で眠れなかった。何が欲しい、何もいらぬ、せめてもの"Hawaiian Rhapsody"を抱きしめよう…ということで深夜に聴き始めた。
 そういう気持ちで聴いたからかもしれないが、殆どが他人の詞・曲というラインナップがあまり気にならなかった。昔なら手を抜きやがってと激怒したと思う。でも世間的にも拓郎ファンの間で暴動や炎上が起きている気配はなかった。
 なぜだろう。ひとつは2年ぶりのコンサートツアーがすぐ近くに迫っていていそちらに意識を奪われていたことか。もうひとつは世の中はあげてLOVELOVEバブル全盛期だ。こういう拓郎も面白いと楽しむゆとりがあったのかもしれない。拓郎も拓郎ファンもみんなお立ち台に上がって踊る我が世の春状態だった。曲なんか書かなくてええじゃないか、人に作らせりゃええじゃないか、ええじゃないか踊りに興じていたのだ思う。…少なくとも俺はそうだったと思う。もちろんそうではないファンもたくさんいたことだろう。

 "Hawaiian Sunrise Sunset"は拓郎はひとつもかかわっていないのだが燃える。"例えば犬の気持ちで"はスリリングだったし、"心のボーナス"は吉田拓郎なんて大嫌いだと公言していた忌野清志郎が作ってくれたというだけで胸が高鳴った。
 それに"僕達のラプソディ"と"Not too late"の2曲。拓郎によるこの詞がかなり深く鮮烈だった。他人の作曲ながら拓郎の作品として十分にインパクトがあった。これが聴けただけで今回は十分ではないかとも思ったものだ。

 そして吉田拓郎の勢いは止まらず新天地を求めて進み、結果的にこれがフォーライフ最後のアルバムになることをこの時はまだ知らない。

2022. 6. 20

☆もうすぐ発売日記念!あなたを迎えた日(アルバム・ファーストコンタクト日記)O☆
感度良好波高し
 「外人バンド」という無礼な表現を許してくれ。この外人バンドとの蜜月がどれだけ拓郎に音楽的に大切な時間となったか、ツアーやラジオなどいろいろなところで語ってくれていた。世間の表面からは消え、深夜"クラブ25"で一人語りしながらこのままフェイドアウトしそうだった拓郎が音楽的に蘇生してゆくドラマは聴いている俺の方も嬉しかったし希望の光が射してくるようだった。彼らとのセッションを毎年続けたいと拓郎言っていたし、当然それについてゆこうと思った。

 発売日に仕事場の近くの飯田橋の新星堂で買った。夜、誰もいなくなった仕事場のPCで聴いた。そのアルバムのオープニング一曲目。"ベイサイドバー"のドラムと泣くようなギターが冴えるイントロから「ああ、カッチョえええ」と叫んで早々に当確のバラの花を飾った。大人の落ち着きを孕んだビートに自然に身体が揺れてくる。思わずエア・ギターしながら仕事場のPCの廻りを鈴木茂になったつもりで歩き回った。人には見せられん姿だ。夕暮れの桟橋の灯りや外国船が映画の場面のように浮かんでくる耽美な歌声。そこには、若い激しさは後退しようとも、成熟した御大の魅力が十分に現れている。他の曲たちもまさに「感度良好」だ。
 "Long time no see"で静かに立ち上がった拓郎が、このアルバムで明るく歩き出す、そんな感じがした。名曲揃い踏みと思った。拓郎特有の「怨念」や「熱度」が薄いが、少しヨソ行き感のあるメロディーがかえって新鮮だった。50才になってもこれほど普遍的なメロディーを紡ぎだせるという才能を実証している。
 拓郎の詞がなかったのが残念だが、石原信一とともに岡本おさみがフツーに詞を書いているところがまた嬉しい。石原と岡本の織り成す世界が魅力的だった。重装備の装甲を感じさせる"遥かなる"も良かったが、"心のままに"、"漂流記"の清々しく心躍る感じが素敵だった。
 次の展開が楽しみだと思っていたところ、突然に吉田拓郎がジャニーズのタレントとテレビのレギュラー出演するというニュースが入ってきたのだった。その番組とはどんな番組?、そのジャニーズタレントとは誰なのか? 次号を待て! >って誰でも知ってるだろ

2022. 6. 19

☆もうすぐ発売日記念!あなたを迎えた日(アルバム・ファーストコンタクト日記)O☆
Long time no see
 “吉田町の唄”の発売が1992年7月29日、そしてこのアルバム”Long time no see”の発売が1995年6月21日。途中、AKIRAが感動的だった”トラベリンマン”とかいい曲だが地味なシングル盤とか”地球ZIGZAG”とか”紅白歌合戦”とか”オートレースへ行こう”とかが散発的なことはあったが、いわゆるアルバムもツアーもないまま3年近くが過ぎた。かくも長き不在。世間はすっかり拓郎のことを忘れ、ネットもない時代、拓郎ファンの声もあまり聞こえなくなった。俺にしても、いっちょまえに仕事が忙しくなり、本業である拓郎ファンがおざなりになりつつあった。例えば”決断の時”がいつの間にか発売されていたことを知っても、拓郎出演のテレビやラジオを逃しても、昔みたいに地団駄踏んで悶絶しなくなっていた。この頃の方がエンディング、アウトロの空気を強く感じていた気がする。t.y氷河期と俺は勝手に呼んでいる。
 そして95年、FMで深夜に提供スポンサーもない地味な番組”クラブ25”で静かに語る拓郎がいた。宇田川オフィスもやめ、一人自宅ファックスで仕事の連絡を受けていると語っていた。穏やかな日常を語る、はからずも等身大な吉田拓郎だった。それはそれで深夜に仕事から帰って拓郎の語りを聴くのが楽しみだった。
 バハマに渡ってのレコーディングのことは、ニュースにも話題になっておらず、このラジオだけが静かにその経過を伝えていた。なのでCLUB25とこのアルバムは不即不離の関係にある。
 今回の海外レコーディングの拓郎は箱根ロックウェルスタジオの時みたいに生き生きと楽しそうだった。自らの精巧な打ち込みのデモテープによって、海外ミュージシャンたちを前に音楽的イニシアチブをしっかりと把持している様子も窺えた。しかしそれがどんなアルバムになるかは予想がつかなかった。

 仕事場のあった本郷三丁目の駅前のCDショップで発売日に買った。”放っておいてくれてありがとう”のコピーが胸にささる。忘れもしない深夜に白山のアパートで一人で聴いた。
 夜の静寂、いきなり美しいイントロに引き込まれた。”とんとご無沙汰”。ありゃあ、いいわ。詞は阿木燿子か。拓郎本人を温かく抱擁するようなこんな優しい詞を書いてくれた人はいなかったと思う。それが美しいメロディーと演奏と歌声に結実している。このアルバムをトーンを決定づける”set the tone”な一曲目だった。
 どのメロディーも美しく繊細だと思った。そしてアルバム全体にみなぎる「静けさ」。今まで拓郎は静かなバラードを歌っても、どこかで魂の律動のようなものが息づいていた。しかし、この作品にはどこまでも「静けさ」が漂う。若い頃なら物足りないと思ったかもしれないが、この静けさがとても心の奥底にしみた。ああ「何かが変化している」とこのアルバムを聴いてはじめて思った。

 決定打は静寂の海を小さな船が滑り出すような「♪こんなに人を愛せるなんて・・・」という導入の“君のスピードで”。拓郎のボーカルはどこまでも穏やかに流れて行く。大切な人との距離を見つめながら、いとおしむ繊細な詞。”やがて今日も移ろうけれど時に逆らわず君の名を呼ぶ”…ここを何度も聴き返して反芻して至極のラブソングに涙ぐむ。時代の流れや世間の喧噪またファンの歓声すらも、遠く離れたエアポケットに拓郎は放置されていた。その静かな時間の中で、拓郎は、おそらく自分の心、そして大切な人とも向き合う至上のラブソングをつくり上げた。
 阿木燿子と対照的に中島みゆきは”永遠の嘘をついてくれ"という強烈なラブレター叩きつけた。怖いよ(爆)。
 阿木燿子、森下愛子、中島みゆき三人の女性の愛に抱かれてこのアルバムは出来ている。そんな気がした。

 あらためて確信する90年代に駄作なし。深夜のひとりぼっちのラジオから自分も一緒に船出するような気分になった。
  そして学んだ。結婚も海外録音も3度目からだ。

2022. 6. 18

☆もうすぐ発売日記念!あなたを迎えた日(アルバム・ファーストコンタクト日記)N☆
吉田町の唄
 「日本の父よ、母よ、子どもたちよ、今、吉田町の唄。」"吉田町の唄"が入ったアルバムというだけで名盤確定と思っていた。それにしてもここまでの楽曲に仕上がったら、タイトルは後のことを考え、例えば「家族になろう」とか「絆」とか普遍的なタイトルにして、せめて副題に「(〜吉田町の唄)」と付したりするのがありがちな戦略だ。でも拓郎は、歌のタイトルは「吉田町の唄」。それが入ったアルバムも「吉田町の唄」。この歌は君たちの町に作ったんだから君たちの町がタイトルだというような静かな矜持を感じる。自分も「吉田」に連なる一人という気持ちもあったのだろうか。

 当時、研修で静岡に住んでいた私は呉服通りの大型レコード店「すみや」で発売日7月29日に仕事帰りに買った。ジャケットの愛くるしい子どもの笑顔と出会った。いい写真だ。昭和21年のたぶん大変な時なのにこんな素敵な写真があったとはすごいなと思った。
 布施明の歌に出てきそうな西日だけがあたる狭い部屋に帰って一人初聴した。イントロダクションに続く実質1曲目”夕映え”…ガツンと来た。すげえ。久々の先頭打者ホームランだった。先頭打者ヒットは数々あるがホームランはなかなかない。"♪時はためらいもなく夕映えに燃えて無常であるこだけが闇を包んでも 僕は誰にも奪われない 愛する君のそばにいる"…心底からいいな。俺の部屋のむさくるしい西日も神々しく思えてきた(爆)。続いて、歌ったことにびっくりした”夏二人で”…このアレンジはええなぁ。アンニュイな映画を観ているような”いつもチンチンに冷えたコーラがそこにあった”、清冽な”そうしなさい”、世界一カッコいい戸籍の附票”今度は一体何回目の引越になるんだろう”、「時代は変わったそうだから君の後ろに僕は居る」という凄いフレーズに驚いた”海を泳ぐ男”次々とヒットが呼応していった。…これは池田高校のやまびこ打線か。8曲目の”ありふれた街に雪が降る”で再び美しいアーチを描いた。美しい。胸わしづかみになった。
 安定の"吉田町の唄"。そこで終わりではなく最後の最後に"僕を呼び出したのは"これはサヨナラホームランみたいだった。この歌を聴きながら、ちょっと昔を思い出して♪泣いた、泣いた、こらえきれずに泣いたっけ…そこまでは泣かなかったが、すばらしい作品で締めくくられていた。

 すっかり夜になっていたので、俺はブルーの歌詞カードだけ持って近所の行きつけの蕎麦屋「山惣」に行ってビールとかつ丼とともに今聴いた歌詞をひとつひとつ読み返した。クレジットを観てこの名盤を支えたのは、そうか石川鷹彦…あなたでしたか。早く帰ってまた聴きたくなった。

 176.5〜detenet 〜吉田町の唄。この上り調子。ああ90年代に駄作なしと思った。しかし、こんだけのアルバムを発表したというのに世間は冷ややかだった。ファンクラブのT’sも終了、パソコン通信なんてやり方わかんないし、作品の充実とはうらはらに環境は切ない方向に向かっていた。

2022. 6. 17

☆もうすぐ発売日記念!あなたを迎えた日(アルバム・ファーストコンタクト日記)M☆
détente
 "détente"は大好きなアルバムだ。まずタイトルだ。フランス語ぞなもしシルブプレ。さすが和製アラン・ドロンだ。空を見上げる短髪の拓郎のジャケ写がいい。何よりも俺がレコード店で手に取ってふるえたのは全13曲も入っていることだ。感激した。”ひまわり”なんか全8曲だぜ。前作で名曲の幕の内弁当と言われた(>お前が言ってるだけだ)"176.5"ですら全11曲だ。全13曲入っているということだけで聴く前から名盤出来だ。量ではない質だというご意見もあろうが賛成できない。量だってば。たくさん入っているというだけで人は幸福に満たされる。少なくとも俺はそうだ。そして量はやがて質に転化するのだ。

 で問題は俺がCDではなくカセットを買った点だ。カセットは収録曲が1曲少ない。てかカセットがデフォルトで、CDはボーナストラックが一曲多くつくのだ。それで13曲となる。ここからは青い空をパクらせてもらって書く。当時俺は仕事の研修寮にいてカセットウォークマンしか持っていなかった。研修寮の食堂にCDデッキがあったのだが、夜みんなで酒飲んでくつろぐその場で新作CDを聴く勇気はなかった。その食堂で、ある日酔ってギターを抱えた数歳上のシバタさんが「星君、若いのに拓郎が好きなんだって?オレも大好きでさ〜♪喫茶店に彼女と〜」と歌い始めた。すると横からほぼ同世代のキムラさんが「古いな〜、やっぱり"春だったね"ですよ」「そういえば拓郎って今何してんの?」「知らない、昔の貯金で暮らしてんじゃないっすか」。俺はこの二人の会話を聴きながら、心の中でおまえらみんな停滞してるぜと叫んで心の中の文化シャッターをガラガラと降ろした。「停滞」という表現以外は実話・実名です(爆)。こんな連中と一緒に"detente"を聴けるわけがない。聴かせてやるもんか。しかしあと寮を出るまであと1か月も待てない。なのでとりあえず緊急措置としてカセットにしたのだ。確か松戸の駅の近くのレコード店で買った。

 2曲目の”たえなる時に”でもう早々と当選確定のバラの花が着いた。なんと美しく、なんと荘厳な曲なのか。"クリスマス"の"諸人こぞりて"を思い出した。吉田拓郎がインタビューで「見上げてごらん夜の星を」…ああいう歌を作りたいと言っていた。そして空を見上げるジャケット。どの曲も”気持ちのいい空”が見えた。
 打ち込みではなくバンドサウンドで1週間でアルバム作るというフレコミだった。確かにバンドのサウンドの感触はなつかしく素敵だが、打ち込みと断絶したわけではなさそうだ。バンドサウンドでも精巧なデモが作られているのだろうなと想像できた。打込みを始めてから顕著だった練りに練られたイントロ、間奏、アウトロがこのアルバムでも生きている。それぞれが一篇の作品のようでもあった。壊れ物を扱うように繊細な"青空"のギターサウンド、”渚にて”のイントロは印象的だし、”友あり”の詞はなんか面映ゆいがサウンドを聴くだけでウキウキ元気になる、”時は詩人のように”のドラマチックなギターといったらない。旅路を鼓舞するような"レールが鳴ると僕らは旅をしたくなる"のイントロ。そうだ"地下鉄にのって"の本人歌唱が手に入ったのも嬉しかった。

 やがて7月中旬、研修寮から出所して家に戻るその途中で例のオジサンの店でCDを買い13曲目のBonus track onCD"裏窓"を聴いた。あの手風琴の音からもう胸わしづかみだった。それに、この拓郎のボーカルのカッコイイこと。たまんねぇ。おまえだけが命あるものよ。初聴から泣きそうだ。7月だけに本当にボーナスをもらったようだった。この第一印象は今もかわらない。

 このアルバムのインタビュー記事のタイトルに「吉田拓郎 まぁーるい挑戦」というのがあった。おだやかな90年代の進撃のはじまりである。

2022. 6. 16

 ずーっと独り語りの拓郎を聴いてきたけど、"あなたとハッピー"で久々に人と対話する吉田拓郎を聴いたよ。いいねぇ、距離と間合いの取り方とか返し方とか、聴いててニマニマしてしまったよ。

☆もうすぐ発売日記念!あなたを迎えた日(アルバム・ファーストコンタクト日記)L☆
176.5
 吉田拓郎の身長は1メートル77センチだと習っていたので、このタイトルを聴いた時、拓郎,縮んじまったのか?とちょっと心配になった。
 89年の9月にドラマ主題歌で打込みの”落陽”を聴いて次作アルバムに期待はすまいと思った(−☆)。しかし11月21日の神奈川県民ホールのオーラスで初披露された”俺を許してくれ”は、初めてだったがスタンディングオベーションしてしまったほどの快作だった(+☆☆☆)。そして12月フジテレビの番宣で雪の中に佇む恩田三姉妹に流れる「まにあうかもしれない」を聴いてこりゃあいい、声も使い方もベストだと感激した(+☆☆☆)。

 ということで合計☆☆☆☆☆のかなり楽しみな気分で、発売前日の1月9日、今は無き渋谷東急プラザの本屋の隣のレコード店で見つけたのでそのまま購入した。地元レコード店のオジサンすまない。夜に家に帰ってCDのセロファンを外すもどかしさ。
 で、一曲目の”落陽”をすっ飛ばして、二曲目の”星の鈴”から聴き始めた。その瞬間のサーっと目の前が開けたような気分が忘れられない。俺には鮮烈だった。10階のテラスからの夜景が広がって文字通り胸で鈴が鳴った。あとは最後まで一瀉千里だった。川の奔流のように流れてゆく”車を降りた瞬間から”、この命ただ一度、この心ただひとつ”俺を許してくれ”、心の奥底に沈んでゆくような”しのび逢い”はイントロだけで涙が出そうだった, "はからずも、あ"こういうのすげー好き、そして今更ですまんが「まにあうかもしれない」は祭りのあとのインサートだったのか。
 …まるで当時の憧れ洋食津つ井の特上幕の内弁当(松)のようだった。こんなにも心湧き立つ、こんなにも身体ふるえるアルバムは久々だった。あの打ち込みが実に表情を豊かに描き出している。拓郎は習作を経て自家薬籠中のものにした感じがした。スーパーひとしくんを贈りたい。
 MUCHBETTER、ひまわりと続いた打ち込みの偉大なる実験は、ここに花開いた。ホップ、ステップ、ジャンプだ。どこが等身大だ、大いなる巨人じゃないか。いや、この成長する大きさが等身大なのだ。どっちでもいいか。

 発売こそ1990年1月だったが、実質80年代の最後のアルバムだ。実にいろいろあった80年代だった。80年代初めの”アジアの片隅で”、中盤の”FOREVER YOUNG”、そして最後の”176.5”。最高傑作にも事欠かない見事な80年代だった。特に”176.5”は明日にしっかりと架橋してくれているのが嬉しかった。楽しいことばかりではなく、時代の中央からは外れてしまったかもしれないが、80年代も素敵だったじゃないか。このアルバムのおかげで胸を張って言える。少はぐれたけれどこの道を一緒に来て良かった。
 最後にひとつだけ悪態かましてよかですか、このジャケ写なんとかならんかったのか。「具合悪いんですか?拓郎さん」と心配にならないか。

2022. 6. 15

☆もうすぐ発売日記念!あなたを迎えた日(アルバム・ファーストコンタクト日記)K☆
ひまわり僕だって買います。発売日の夜の帰路に例のオジサンのレコード屋に寄って買った。CDとアナログが売られていてCDを買うつもりだったが、この絵画調のジャケットがあまりにアート的で素敵だった。「おい、LPにしろよ、部屋に飾れよ」と耳元で誰が言ったか知らないが言われてみればその通りの言葉が聞こえた。はっ、空耳か。しかしアナログプレーヤーはもう危なかったのでCDにした。オジサンは例によって袋に入れながら「ああ、珍しく朝から何枚か出たよ…あ、珍しくってイケないな」。
 サウンドが抜群にカッコよくなっている。"ひまわり","冬の雨"."その人は坂を降りて"あたりのカッコよさと言ったらない。キパッとしたクールなボーカルで♪苛立ちが胸を突き身体をねじらせる〜ココの節回しがたまらない。シビれた。さすがにこのアルバムを習作とは言えない。
 でも、あれ?曲数が少ない。ダンカンが持っていたのはもっと曲が入ってたぞ。夕陽は逃げ足が速いんだ…はっ!もしかしたらLPにはボーナストラックがついてるのかもしれん…ともう一度レコード店に行ってみた(爆)。スーパーの総菜にクレームするおっさんみたいだ。
 それにしても何て難解なアルバムなんだろう。天使や神や永遠の地が歌の中で行き交う。"約束"は不可思議な世界を漂っているような感じがした。"ぷらいべえと"がディランの"セルフポートレイト"に影響を受けているといわれるように、これはディランが神を歌う"セイヴド"ではないかといろいろ考えてもたが結局はわからない。そのためだろうかカッコイイ練られたサウンドでありながら、アルバムの体温が全体に低く感じられた。熱さとか温かさの対極の低体温のようなアルバム。
 この低体温のアルバムで熱闘のるつぼ東京ドームのライブに挑むわけで、そこがまたあのライブの不可思議な魅力だった。

2022. 6. 14

☆もうすぐ発売日記念!あなたを迎えた日(アルバム・ファーストコンタクト日記)K☆
MUCH BETTER
 1988年、吉田拓郎は帰ってきた。いきなりTVCMにセンセーショナルに登場し、ニューアルバムの発売と,もうやらないと言っていたコンサートツアーの実施とが発表された。もちろん俺はその帰還を心の底から大歓迎した。

 帰ってきた吉田拓郎はおだやかなオジサマという感じで雰囲気が随分変わっていた。小室哲哉や布袋寅泰の若い音楽を高く評価しコンピューターの打込みを熱く語る音楽家の吉田拓郎がいた。
 4月21日の発売日は、試験の真っ只中なので(試験に落ち続けていた)さすがにアルバムは買えず一次試験が終わった5月8 日に帰りに高田馬場のムトウでCDを買った。初CDだ。その日の夜はTBSの「すばらしき仲間U」でSATETOツアーのドキュメンタリーもあった。いろいろ乗り遅れたが。吉田拓郎の帰還を祝う隊列の末席に遅ればせながら加わった。
 
 自分の手によるコンピュータの打込みを中心に作られたアルバムはこれまでにない不思議な印象だった。悪く言うと物足りない、迫力に欠く、良く言えば、手作りの温かさを感じた。なんだろう、うまく言えないが、試作品、習作という感じがした。"エチュード"というのか。エチュード=étude=音楽用語=演奏技巧を修得するために書かれた練習曲。すまん。失礼にもほどがあるか。クオリティが低いとかそういうことでは断じてない。大いなる習作、エチュードだ。打込みという新しい可能性を武器に、自分の手で新しい音楽を構築していこうという清々しい出立を感じたのだ。これこそを「等身大」というのだと思う。そう考えると拓郎自作のイントロや間奏そしてアウトロのメロディーのひとつひとつまでもが気持ちよくていとおしかった。
 けれんみのない詞もいい。特に“よせばいい”,”Mr.K”,”現在の現在”が心に響いた。もちろんコンピュータのピコピコ音も気になりはした。しかしこれが文明開化の音だと思い込んだ。

 ということでこのアルバムは技術革命の夜明けみたいなものではないかと思う。そして
この時の技術があればこそ、現在のコロナ禍の不自由な状況下でありながら、こうしてリモートを中心にラストアルバム"ah-面白かった"を完成できたのではないか。そんな気が勝手にしている。やはりMUCH BETTERは偉大なるエチュード、大いなる慣らし運転だと考えるが…怒られるよな。

2022. 6. 13

☆もうすぐ発売日記念!あなたを迎えた日(アルバム・ファーストコンタクト日記)J☆
サマルカンド・ブルー
 1986年。拓郎去りし後、日々を慰安が吹き荒れて帰ってゆける場所がない。こういう気分のことを言うのか。
 春にシンプジャーナルで、拓郎が加藤和彦&安井かずみとニューヨークにアルバムレコーディングに行ったという小さな記事が載った。拓郎と自分を結ぶ細い糸だった。現地同行した音楽評論家の立川直樹(誰だよ@当時)が「凄いボーカルを聴いた」と他の媒体に書いてくれたのも心強かった。

 夏に立ち寄った都内のレコード店では、[9/5 吉田拓郎ニューアルバム「CARAVAN」(仮)]と手書の短冊が貼ってあった。その50倍くらいの大きさで浜田省吾「J.BOY」の宣伝告知が飾られていた。普段なら嫉妬して怒って悶絶する俺もこの時は心から浜省の活躍が嬉しかった。
 発売日にオジサンのレコード店に行くとガンガン浜省が流れる中、オジサンは、ターバンを巻いた中近東な拓郎のジャケ写の"サマルカンド・ブルー"を袋に入れながら「拓郎、今回は自分で書いてないんだって?」と話しかけてきた。10曲中6曲は拓郎の作曲なのだが、別にオジサンと真実を語りあうつもりはなかったので「そうですね」と答えておいた。すまん。

 これまでの拓郎にない不思議な空気感に溢れていた。"サマルカンド・ブルー"、"君の瞳に入りたい"、"七つの夜と七つの酒"、加藤和彦&安井かずみのガイドでシルクロードの海外旅行に出ているようなそんなよそ行き感があった。聴いていて心が躍った。拓郎はサマルカンドもニューヨークもネッフェルタも殆ど知識も興味もないまま天性の本能で正鵠を射るように歌いこんでしまうところも素敵だった。
 
 しかしレコード評はさんざんで「これで拓郎が新境地を開いたつもりなら甘い」とかシンプですら「このアルバムの風景に住みたいと思わない」と酷評だった。ファンの評判も芳しくなかった。拓郎本人ですらコレは加藤に呼ばれて歌っただけだから…とテンションはガチ低かった。後には自ら「失敗作」とまで言いおった。でもそれは「安井かずみのいた時代」のインタビューを読むと、心からZUZUを敬愛する拓郎が、この時期の彼女のある種の「不遇」を見つめ胸を痛めていたからではないか…と俺は思う。違ってたらごめんな。
 拓郎にどういう思いがあろうと大越がどう言おうとこのアルバムは俺にとっての傑作だった。特に"Shamgri-la"に"又逢おうぜあばよ"があったように、このアルバムには"人生キャラバン"があった。安井かずみとの象徴的最高傑作とひとり想う。"♪…俺とおまえのこのぉぉぉおお手ぇには"ああココのシャウトがたまらない。

 そういえば、このサイト名は"t.y life"にするか"t.y caravan"にするかすげー迷ったのをふと思い出した。
 

2022. 6. 12

☆もうすぐ発売日記念!あなたを迎えた日(アルバム・ファーストコンタクト日記)I☆
FOREVER YOUNG
 ※これまでのあらすじ
 1984年夏、拓郎は離婚しマスコミや世間はここぞとばかりに拓郎を叩いていた。そんな中、吉田拓郎はアルバム”FOREVER YOUNG”を完成させ、その発売日の10月21日を待たずして10月4日からコンサートツアーに出た。一方、私は資格試験に落ち、彼女と別れ蒲田の地も追われ、いつ受かるかわからない受験勉強に明け暮れるフリーターとなっていた。孤影悄然とゆく拓郎とやさぐれた私の明日はどっちだ。


 行き場所のない私は独りで神奈川県民ホールに向った。このステージで”FOREVER YOUNG”の新曲たちを初めて聴いた。
 ♪君が先に背中を向けてくれないか〜♪どうしてこんなに悲しくないんだろう〜♪横道にそれるものあざ笑い仲間同士で傷をなめ合って〜♪家を捨てたんじゃなかったのか、家を捨てたんじゃなかったのか〜そして♪間に合うさ間に合うさ遅すぎることはない
拓郎のMCは殆どなかったが、新曲の言葉のツブテがビシビシと飛んできた。今まで待ち続けていたようなメッセージフルな曲たちに面食らった。言葉をすべては聴き取れない。でも何かすごい歌たちであることがわかった。
 発売日を待ってレコードを買うのは久しぶりだった。駅まで行く途中にあった小さなレコード店に入った。LPコーナーの仕切り板に「吉田拓郎」はなかった。「よ・国内 男性」を探すとそこにあった上半身裸で佇む男のジャケット。レジに持って行くと店長のオジサンは「”情熱”を買わなかったアンタにゃ売れないね」なんて言わずに>言わねぇよ、「拓郎好きなの?」と聞いてきた。悪い人ではなそさうだったのではーいと答えた。
 家に帰ってからあのステージの衝撃を思い出しながら聴きこんだ。「君が先に背中を」「ペニーレインへ行かない」「Life」「大阪行は何番ホーム」「7月26日未明」、一言一言歌詞を確かめながら、詩集を読むみたいに聴いた。行間までびっしりと魂の詰まった珠玉の作品群だった。こんなときになって、こんな名作をつくりやがって・・・と天を仰いだ。こんなとき…そう吉田拓郎は何らかの決心を既に結んでいるようだった。


俺が愛した馬鹿
 85年早々に夏のつま恋の開催とそれが拓郎の最後ライブになるというニュースが流れた。「迷っていた拓郎が答えを出した」「フィナーレを見届けよう」と田家さんも書いていた。愛とすれ違う哀しみの80年代中盤はこうして終わることになった。前年の田家さんのシンプジャーナルのインタビューで拓郎は語った「つま恋で育ってつま恋で死ぬ そんなアーティストがひとりくらいいてもいいよな」。
 さて5月が来て俺はまたも試験に失敗した。合格していれば二次試験で大変なはずだったが、まったくヒマになってしまった。失意の中で、これで心おきなくつま恋にも行ける、それで吉田拓郎ともお別れだと思い直した。そして新作を聴こう。
 発売日の6月5日、驚いたことにオジサンのレコード店にはちゃんと「吉田拓郎」の仕切り板が出来ていた。そこに「フォーエバーヤング」と「俺が愛した馬鹿」が数枚ずつ入っていた。ありがとう、おじさん。レジに持ってくとおじさんは「拓郎、歌やめちゃうらしいね」と話しかけてきた。「これからどうすんだろうね」「どうなんでしょうね」。一般Pの俺とレコード店のオジサンの二人が考えたころで答えがでるはずがなかった(爆)。
 家に帰ってSFチックなギターのイラストの表紙を開けて…驚いた。え? 何?これ?「墓」?…見開きの中央にギターをデザインした白い墓石があって、その周りに喪服の参列者が囲んでいる埋葬式の写真だった。墓碑銘は見えにくいけどTAKURO YOSHIDAで間違いない。ねぇみんな、これ平気だった?小心者の俺は結構ショックで動揺した。
 加藤和彦のメロディーがウキウキする“抱きたい”、”誕生日”は切実でカッコよくていい曲だ、”夏が見えれば”…これはつま恋だよな、"俺が愛した馬鹿"は転調がよくわかんないけどドラマチックでいい曲だと思った。思ったが何を聴いても「墓石」が浮かんでくる。さらに無機質なコンピューター打ち込みのドラム音が、なんかグルーミーな気持ちを余計に増幅させる。「つま恋で育って、つま恋で死ぬ」だからといってこのジャケットはどうよ。
 “ah-面白かった” 最後にやはり拓郎はつま恋を訪れた。どうかジャケットも拓郎の歌も言葉も青い空のような清々しいものであってほしいと願う。ラジオを聴いているときっとそうに違いないと思う。

吉田拓郎 ONE LAST NIGHT IN つま恋
 吉田拓郎はつま恋を終えてステージを去った。終末感ただよう周囲の空気で「ニューミュージックの葬式」と揶揄もされたが、拓郎の歌も演奏もエネルギッシュでどこにも退廃の影はなかった。実に素敵だった。
★フリーター、ビデオを買う
 バイトの金も少入ったし、清水の舞台というか武道館の2階席から飛び降りるつもりで9月21日、横浜のビックカメラで念願のビデオデッキとつま恋85のビデオを買った。つま恋のビデオソフトを買うとアルバムを買う余裕がなかった。しかし家で好きな時間に好きなだけ拓郎が観られる。この当時、どれだけの至福なことだったかは今の人たちにはわかるまい。特にビデオにだけ”ファミリー”が入っていたので迷いはなかった。
 それから何十回観ただろうか。朝昼晩深夜、好きな時にスイッチを押すと拓郎がいつでも歌ってるんだよ。夢のようだ。信じられる?その2か月後に今度はメイキングビデオのPartUが出てこれも買ってしまう。だってギターは高中だぜ。あの”落陽”だけでも一日10回くらい観たし、”祭りのあと”を聴くとパイプ椅子もって暴れたくなるほど何回も観た。
★フリーター、中古カセットを買う
 ということでレコード購入計画はさらに遅れた。あの地元のオジサンのレコード店には、きっと俺が買うだろうと期待してレコードが入荷してあるに違いない。すっかり行きにくくなってしまった。
 とはいえ”川の流れの如く”,”やせっぽちのブルース”,”ビートルズが教えてくれた”も聴きたい。すると85年の年末近くに大学の裏にあった中古レコード店に「吉田拓郎 ONE LAST NIGHT IN つま恋」のカセット版が廉価で売られていた。心の中でオジサンに手を合わせて買った。
 ビデオで観ていた曲もレコードで聴き直すと違って聴こえた…あれ?ほんとに違う(以下略)。いろいろあってもそれはそれ。
★なにもかも愛ゆえのことだと云ってくれ
 正直にいえばアルバムの中で一番胸に響いたのは、俺がアルバム"情熱"を買わなかった理由のひとつである"世界の終りが来てもかまわない"という歌だった。年の瀬の深夜に聴いていて心にしみた。エンディングのコーラスyou neverのあとforeverの間に「愛してるぜ」とアドリブかます。泣けた。憑き物がとれたみたいだった。
 最高のラブソングだけが戦争を止め世界を救うのだ…と思い直した>調子いいな

 急性映像中毒になった私は、ビデオレンタルで「つま恋75」「篠島」「王様達のハイキング」を借りてきた。おかげさまで翌年の試験も落ちる。吉田拓郎のいなくなった空白をビデオと埋めようとするも埋まらなかった。やさぐれながら新しい歌が聴きてぇと心の底から思った。

2022. 6. 11

オールナイトニッポンゴールド  第27回 2022.6.10
☆☆☆あらすじ☆☆☆☆☆☆

 吉田拓郎です。毎週週替わりのパーソナリティでお送りする金曜日、今週は吉田拓郎がお送りします。

<CDジャケット「Ah-面白かった」の「た」の二画目の棒が長すぎたと思うが前の「つ」とのバランスがいい、さすが堂本光一という投書>
 光一は字も絵もヘタと言っていたけど、俺も今まで、特に光一が、うまいなぁということもなかった。それが今回現場でスラスラと書いて、あれぇ、おまえ ウマいんじゃないの?と言った。字体を画面に大きさ調整しながら、デザインの篠原ともえとハメてみたら、字の持つインパクトがピッタリで、この字以外じゃダメだった。光一に頼んで大正解  「Ah-面白かった」ぴったり。光一はわかっているな。今さら彼の愛情を感じる。「能ある鷹は爪を隠す」というけれど、光一は実は個性的で字はウマいと思った。

<一番制作に時間がかかった曲は何ですか?という投書>  
 今回は自分でどうしちゃったのおまえ?と問いかけるほど、曲も作詞もデモ作成も 必ずスラスラと頭に浮かんできた。不思議だった。詞が浮かぶ、メロディーが浮かぶ・いつもだったら途中でウーンと煮詰まって悩んでいたけど、今回はグングン出来てしまう。あっという間にワンコーラスできて、そのあとも止まって悩むこともなかった。あらできちゃった。竹内まりやが昔ゲストに来た時、「拓郎さん曲が降りてくるという」話があったけど今回は全曲が降りてきた気がする。
 僕の環境、僕にとっての贅肉や無駄な気遣いをスッパリ整理して、その結果寂しい人生になるのではないかという心配ごともあったが、逆に心が豊かになった。クリアでハッピーな青い空のように気分になった。そこをKinkiや奈緒や篠原ともえや小田和正らが心を開いてみんなで受け止めてくれた。
 ギターの鳥山とキーボードの武部が全力で、これまでとは違うアプローチにトライしてくれた。バンドセッションと違って、ビデオを観るとわかるけど、リモートは言いながら僕がいろんな注文を出した。それに対して真摯に取り組んでくれた。あらゆることが愛がいっぱい。それを受け止めてくれた結果ではないか。そうとしか言えない。すばらしい瞬間をサポートしてくれたみなさんありがとうと言いたい。

 今夜の放送で2年間の宅録は終りで、来月はニッポン放送のスタジオで放送する。よくやってきたな、台本なく自分の箇条書きメモをたよりに自分で編集もしていた。11時に佳代さんも叫んでくれて、それもこれが最後だ。

 〇今夜も自由気ままにお送りします、吉田拓郎のオールナイトニッポンゴールド

<ビリヤードのトーナメントプロ、ファン歴25年、20年くらい前に松山市民会館で前列の端から叫んで袖にいる拓郎さんに無理矢理手を振らせた女子高生という投書>
ビリヤードは永い事やってないな。四つ玉とローテーションがあるんだよな。ツアーでよくやった。ローテーションが得意だった。そうか、手を振らせたか、女子高生に弱いからな(笑)。おじさんだったら振らなかったけど。松山市民会館・・・よく覚えているよ。
昔多数出演するフォークコンサートの時、僕の愛用のギター、マーチンのD35が楽屋から盗難されたことがあった。本番にギターがなくて・・・誰かが窓から入ったんだな。一緒の出演者だった小野和子のギターを借りた覚えがある。後日無事に帰ってきた。
松山の町は好きだよ。路面電車が走っていて、松山城があった。デュークの社長と一緒にいろいろ遊んだ。四国は大好きだ。

<試合の前は緊張している おすすめの曲はないかという投書の続き>
 僕の曲は緊張してしまう。余計緊張する。こういうとき向いているのが、同じ“骨まで愛して”(歌う)。ステージ前に楽屋でよく歌っている。

 今日の一曲目は、一曲目だけど”アウトロ”。この曲最後の部分に思いつきで入れた雄叫びが入っている。ドキュメントの録音風景が出てくる。アドリブで、シャウト、 ハミング、それからデモの音がそのまま生きていたり、いろんなサプライズが盛りだくさん。聴いているとあれ?これは自宅かな?と思えるところもあると思う。口笛なんかは自宅、ハミングも自宅かな。いい効果音で盛り上げている。一瞬というか二瞬、雄叫びを入れている。わかるでしょうか?

M-1   アウトロ   吉田拓郎

(CM)

 来月からはスタジオなので、自宅だと納戸からちょっと引っ張り出してというのが出来なくなる。今日はこれを聴いてみようかというのがある。

 僕が作詞家の方々と作品を作った。シンガーソングライターと言われていけれど、それより僕はミュージシャンと自負している。自分で曲を作り。楽器を弾きアンサンブルを作ったりするのが得意だった。作詞はよく共作をした。みなさんが良く知っているところでは、岡本おさみ、喜多條忠、松本隆、康珍化、石原信一、森雪之丞。女性の作詞家とも組んだ。男性とは違う視点がある。安井かずみは親友というか大尊敬していた。気が付かないうちに詞に男目線が入っていて、それがとても気に入らないとよく言っていた。僕が知らないで歌っているものにも女性からすれば女性にとっては失礼という詞がある。
女性の視点の詞もハッピーな気持ちになれる。阿木燿子の”とんとご無沙汰”は大好きな曲だ。素晴らしい日常を描いて
 それから”春だったね”の田口・・・としこ?よしこ? どっちかもわかんないけれど深夜放送ラジオにいただいたた詞に曲をつけた。  
“せんこう花火”これもハガキに書いてきた詞にメロディーをつけた。古屋信子だっけかな。歴史的な二曲、女性目線の素敵な詞だ。ラジオを通じてなのでよくは知らない。

 「白石ありす」という人の作品。吉田拓郎ファンは”伽草子”が浮かぶと思うけれど、さほどではない。この人はいわゆる流行歌、歌謡曲の作風の人だと思うけれど、たぶん取り巻く環境がフォークソングの人たちだったのでそういう人のリクエストに応えてそっち寄りになってしまっている。それよりこっち寄り=拓郎寄りのを書けばいいのにと思っていた。・・・伝統的な歌謡曲があっていたと思う。
この人の”素敵なのは夜”(歌う)大好きだな、ロマンチックで。一連の歌に”ソファーのくぼみ”という歌があった。これが大好きだった。昔は、8分の6拍子があった。ロッカバラードとか言っていた。♪海は不思議だな〜 好きだな8分の6拍子リズムで言うと三連いっぱいあった。今はない。ラップ、ヒップホップが中心だ。8分の6拍子はかったるいのかな。
 この”ソファーのくぼみ”の詞を観た時、迷うことなくスイートな感じで甘ったるいメロディーをつけようと思った。バッチリ詞と曲があっている。
東京キッドブラザースにゲスト出演していたテレサ野田が歌った。ハッキリ言って彼女は歌がうまくない。いろいろと現場でレッスンしたけど限界。だから売れなかったけど、いい曲だと思う。残念だった。デモテープのアレンジもよかった。

 それから時間が経った。かつて世の中ピンクレディー派かキャンディーズ派に分れていたけど、僕は曲も作ったしキャンディーズ派だったかな。ピンクレディーとはつきあいがなかった。一度、オールナイトニッポンにゲストで来たけど意気投合ではなかった。打ち解けられなかったかな。でもケイちゃん、増田恵子さんのセクシーボイス、ハスキーボイスは好きだった。だいたい曲は都倉俊一だったし僕には接点がなかった。時代が流れて、増田恵子さんがソロアルバムでこの”ソファーのくぼみ”を吹き込んでいた。おお、いいじゃん、これなんだよ、テレサ野田には悪いけれど、こうやって歌ってくんないと。声にピッタリ、僕の当時のデモテープのギターソロもそのまま再現してくれている。あの曲が生き返ったと思って、iPodに入っている。これが白石ありすの世界だ。
“風になりたい”もイルカとよくいた女の娘(沢田聖子)に歌わせればよかった(笑)。

M-2  ソファーのくぼみ    増田恵子

(CM)

 広島でR&Bのロックバンド、ダウンタウンズとして活動し全国大会にも出ていた。その一方で広島フォーク村にもいた。ただフォークソングについては知らなかったけど、弾き語りをやって、自分で詞や曲書いてボブ・ディランのマネをしていた。プロテストソングとか反戦歌というものの傾向にはたどり着いていないのでヤル気もなかった。ラブソングをメインで作って歌ってコンサートを開いたりもしていた。
 バンドのリーダーMくん・・・天国に行ってしまったけれど、彼は僕にR&Bやアメリカンポップスを教えてくれた。フォークをよく思っていなかった。彼はフォークが好きじゃなくてロック、ソウルを愛していた。だから自分のコンサートにもあまり来なかった。
フォーク・ブームは大学生を中心に広がっていたし、女子は入門しやすいフォークに集っていた。ブームとしてはとっつきやすい。
僕は当時、女子を意識していた。ロックバンドでキャーキャー言われるのが嬉しいし、ギターの弾き語りもやって・・・調子のいいヤツだ(爆)。フォークとソウルを使い分けていた(爆)。
 僕のギター教室がすげー流行っていた。女子が長蛇の列。ウハウハなギター教室。ウハウハな気分でギター教えていた。月謝とっているからバイト料もたまる。
それでバンドと飲みに行ったのでMくんも文句は言えない。俺のギター教室には人が来ないとMくんは言っていたが、飲めりゃいいわいとジン・トニックをよく飲んでいた。
こうやって音楽やってお金も儲けていたので、勉強はしていなかった。”Ah面白かった”深夜に家へ帰ると部屋にこもってとあるでしょ。

 その頃の弾き語りのコンサートの音源。この歌は渋谷ジャンジャンでやるときは歌っていたし、アルフィーと冗談で歌ったりもした。広島時代の調子のいい、うまく使い分けうまく女子高生をダマした。

M-3  雨     吉田拓郎   

<篠原ともえが革の着物のデザインで国際広告賞受賞という投書>
 やりましたね。国際的に評価されてのダブル受賞。すばらしいですね。あのプリプリプリティのグフフと言ってた女の子だった篠原が凄いな。おいシノハラと言っているけど、今日から篠原さんと言おうかとLOVE2のディレクターも言っていた。
アナログ盤のデザインをしてもらったことも運命的だ。LOVE2は想定していたのか。Kinkiや篠原の成功、あのときにこういう今を想像していたか。実に感慨深い。
あの番組がいかに素敵な出会いを生んでいたかということを思う。偶然の出会いなんだけれど、奇跡を生んでいる。こういう素晴らしい若者たちと出会えたったこと、愛がいっぱいの瞬間を送ることができた。篠原ともえおめでとう

〇11時

佳代) みなさんこんばん 2年間おさわがせしました.今夜でお別れ寂しいです,.
みなさんの明るい日常をお祈りします.おやすみなさい.

 自宅録音の最後なのでいろんなものを寄せ集めてみんなで聴きたい。

 次は2019年。最終ツアーとなった。バンドの完成度は文句なしです。長い事、描いていたセッションの楽しさを2019年に全員で完成させることができた。あれ以上のセッションの楽しさ、スリリングなセッションはできない。あれはバンドミュージシャンとの一体感はひとつの到達点だ。
 バンドとはセッションとはハーモニーとは何か、いつも一緒にいるわけではないミュージシャンとセッションでありながらそれが可能になった。映像で残しておいてよかった。2019年のバンドメンバーと今度フジテレビLOVE2で演奏できる。
ツアーの最終回は神田共立講堂。いろんな方にはみていただけなかった。特別プログラム”やさしい悪魔”はそういう思い出のバンドとのセッションだった。絶品だったと言ってくれた。そのあとにCDを作った。一曲聴きたい。いろんなものを片づけ中で、音響機材も片付けようかと思っている。誰かにやろうかな。片付けタイムで片付けながらこういう曲も聴こうよと思う。
 女性アイドルに作った”わたしの首領”。これは快心の一作。阿久悠さんと作った石野真子のデビュー曲とデビューアルバムを作った。一曲目の”狼なんか怖くない”の二作目、これはいい曲作ったなという自負心゛かあった。これを2019年に”T&ぷらいべえつ”でレコーディングした。いいじゃんこれ。みんなと聴きたい。これは僕も歌う・・・ここ歌わせろとか言ってところどころソロボーカルで登場する。

M-4  わたしの首領  T&ぷらいべえつ

(CM)

 インペリアルのディレクターにユニークな男性がいた。キザを絵にかいたような人。若いころは痩せたプレイボーイだが、僕があったころは既に太ったオッサン  だった。若いころの自慢話いかにプレイボーイでモテたかという話をする。

 もう太っていたのでその面影はない。でも言うことは変わらない。愉快なイイヤツだけど自慢話が凄かった。その変なヤツをモデルにOSSANっていう歌を作った。あの歌は僕じゃなくてこの方がモデル。実家がお寺=お坊さんの家で、人づてに聞くと今はお坊さんをやっているらしい(笑)。信じられない。エッチでスケベなお坊さんだろうな。永い音楽人生でこんな変なディレクターは一生いいない。ディレクターはみんな普通の人なんだけど。
 インペリアルで作った”こんにちは”これは大好きなアルバムで今でもステージで歌ったりしたし、iPodにも入っている。そのアルバムを一緒に作ったディレクター、若いころはモテたこの人をモデルにした

M-5  Ossan  吉田拓郎

(CM)

 もともと飲酒は神の行為という説がある。共同体をまとめるために飲酒を利用する。人心を一致させ集団をひとつにする。太古の昔お酒は必需品で集団で飲むものだった。神様もみんな同じ甕からお酒を飲んでひとつになる。回し飲みでみんなの気持ちが一つになる。そういうものだったらしい。
 やがてお酒が神様から離れて民が自由に飲もうと言う方向になった。飲酒が時間・空間を超えて自由になる。飲酒は集団からひとりで飲むものに変わった。お酒の進化だ。結果的にひとりひとりの日常に深化していった。 
僕は酒飲みだけど一人飲みが嫌いでね。カウンターでコートの襟を立ててスコッチ・・・すげー嫌い。一人飲みだと違う世界に行ってしまう。もともと孤独なので、アルコールの時くらいみんなで女の子もいてワイワイやりたい。一軒の店で腰をすえてじっくりというのではなくて何軒かハシゴして最後はディスコで踊ろうよ。外に出て朝になって夜明けの町を歩こうよという感じでいきたい。”雨の中で歌った”にもあった。みんなで飲んで遊んでああ、もう朝だよ、また今夜も会おうね。軽いな。

 本当にこういう仕事じゃなかったら、ここまで全国の夜の町の愉快な体験はできなかった。コンサートツアーの意味はそこにある。全国ツアーは旅そのものの楽しさ初めての場所で歌って、と現地の若い連中と飲む、時にファン称する連中とも飲む。これまでの芸能界では考えられなかった、もっとフレンドリーな関係でいいじゃないかというのがあった。しかしある事件を体験してそれ以来ガードを固めるようになった。残念だった。詳しいことは今度のアナログ盤のエッセイに書いている。ツアーが楽しくて、ごく普通に現地の連中と飲むのが楽しかった。事件によってそれがなくなったのは寂しいしつまんない。

 初めての北海道の札幌ラーメンを食べた時は感激したし、青森・岩手の雪の居酒屋の楽しさ、東北の焼き魚、ホッケとキンキはうまかった。現地の人と和気藹々と話すのが楽しかった。初めて長崎のちゃんぽんと皿うどん、うめーなと思った。沖縄は、帰る時こうせつは沖縄にいたいと言っていた。沖縄の人の独特の解放感が魅力的だった。波の上という歓楽街で朝まで楽しんだ。山陰というとイメージがあるか、ところが美味しいものとか美味しい酒、人も温かった。鳥取は特に思い出深いシーンが残っている。おいしいモノ、おいしいお酒、人がやさしい。全国ツアーはそういう楽しみがあつた。次は北国、そういう岩手の夜の歌。

M-6  雪さよなら    吉田拓郎(with小田和正)

(CM)

 “Ah-面白かった”というタイトルにいろんな方面から反響をいただいた、お付き合いある人からついつい胸が熱くなったという便りもいただいた。我ながらこのタイトルで良かったと思っている。CD付属のドキュメントのラストシーンでつま恋の多目的広場で最後に僕が語っている。
 僕の50年以上の音楽生活を支えてくれたファンの皆さんへの感謝の意味もこめて、ああ面白かったというのは僕のメッセージであるという意味もこめて、しゃべっている。若さゆえの失敗もあったけれど、音楽と僕を後押ししてくれたみなさんの存在にありがとう、それがああ面白かったに繋がっている。限定版にちょっとだけ触れている。若かった頃、残念ながら愛がいっぱいとは距離があった、愛されていない季節を送っていた。それは僕の音楽を支持してくれていたファンのことではない。どういう環境におかれていようとも僕の音楽を支持していてくれたみなさんとは 目に見えない細いけれど確かな愛の道が見えていたと確信している。それはファンのみなさんとのことではない。
 愛されていなかったというのは僕だけが体験することになって体験した 社会からの異常なまでの罵倒されつづけるシーズンがあり、同じように最も大切なプライベートの愛も見えなくなっている事実に限定してのことです。
 そんな中を潜り抜けた50数年音楽とともに半生を振り返ると反省、後悔、悔しさ、怒り、憤りそして喜び、笑い笑顔を総括するとああ面白かったと言える。ああ面白かったと言えるいうそういう自分がいいんじゃないか。ああ面白かったと言いながら旅に出ることにしようじゃないか。今のささやかな願望でもある。

M-7  ah-面白かった 吉田拓郎


■エンディング
 私が唯一知っているのは「私は何も知らないのだ」 哲学者ソクラテス 確かなこと何も知らないこと・・・おっしゃるとおり。わかつていないやつが多いが、俺はわかっているという雰囲気あった。自己中心的におごり高ぶりもあったかも。ソクラテスに怒られる。痛いな。
 いよいよ2年間の自宅録りが終わってスタジオに行く。僕のラジオも12月でエンディング。それまでは自由に気ままに行きたい。もしかしたらスペシャルなゲストも期待できる。やっぱりスぺシャルじゃないとね。

 次回は7月8日金曜日。お別れの曲は、間奏をエディ・バンヘイレンが弾いているマイケル・ジャクソンのこの曲

M-8  今夜はビート・イット マイケル・ジャクソン


☆☆☆思いつきと感想☆☆☆☆☆☆

☆なんか今日の放送は吉田拓郎からしみじみと語りかけられたような気がしているんだが。気のせいか。気のせいでもいい。言葉を尽くして心に届くよう吉田拓郎は話してくれたと思う。

☆今日流してくれた”ah-面白かった”の曲たち。前回全曲公開の時とは全く違って聴こえた。ググっと心の奥底に入ってくるような気がした。”雪さよなら”からかなりやばくなってきて、最後に拓郎の話の後に”ah-面白かった”を聴いた時、恥ずかしながらかなり泣いていた。潸然と涙下った状態だった。

☆一日でも早く聴きたい。そう思った。近所のおばさんのレコード店も蒲田のコタニもとっくにない。万感の思いで静かに待とう。そしてすみからすみまで聴いて観て読もうじゃないの。きっと今の予測や先入観とはまた違う名盤に違いない。

☆自宅録音お疲れ様でした。早くスタジオで放送してくれよと思っていたが、ここまでくると「拓録」というひとつの完成形か。愛子さんの11時の叫びも最近磨かれてきたので確かに寂しいです。どうかお元気で。

☆自宅録音の副産物「雨」。やっぱりさぁこの若者超絶才能あるよね。いい曲だよね。そう思った。しかも「バカヤロウ」を雄叫ばない。貴重なスタンダードバージョンばい。

☆白石ありすも謎めいていたけど、そんな風に拓郎は観ていたのだな。そうはいうけど拓郎さん絶対にテレサ野田のこと好きでしょ。あの微妙な歌唱力と不安定な艶。

☆沢田聖子に歌わせれば良かった…ってなんと無体な。確かに沢田聖子の歌唱は絶品だった。しかし、川村ゆうこのライブはここ最近にも聴かせていただいたが、”風になりたい”はやっぱり川村ゆうこが世界一うまいと思った。

☆もしかして、それって「加瀬っち」ですか? 同僚、友人に自慢するのはわかりますが、天下の吉田拓郎に対して自慢するところがわかりません。そのお方をどなたと思っておられるのですか。
 「加瀬っち出家する」(笑)Ossanのモデルとは知らなかった。この曲がまた味わい深いな。

☆神田共立講堂はライブアルバムにならないのか。悲願。

☆自宅から外にでる拓郎、私達も出立しようではないかと思う。

☆☆☆今日の学び☆☆☆
 緊張をほぐすのは"骨まで愛して"。そうだ。ニッポン放送の公開放送で初めて"春を待つ手紙"を歌わんとするとき、直前のCMの間、確かに拓郎さん"骨まで愛して"を真剣に歌っておられました。ハイ、会場のみなさんもご一緒にと言われて。

2022. 6. 10

☆もうすぐ発売日記念!あなたを迎えた日(アルバム・ファーストコンタクト日記)H☆
マラソン
 本人不在の素っ気ないジャケットが続いていたが、アルバム「マラソン」の告知・ジャケ写は久々に本人近影だった。これはカッチョ良かった。ボーカル、ルックス、そしてバンドサウンドも含めてすべてに”艶”maxだった1983年の吉田拓郎。本人いわく酒と女とバラの日々を謳歌していた。久々にワイドショーを賑わすスキャンダラスな拓郎でもあった。
 しかし先行シングルの”あいつの部屋には男がいる”は面白いサウンドだと思ったが、バブリーな男女の世界にガキの私は共感できなかった。なんか拓郎を遠くに感じ始めていた。

 アルバム発売日の前日5月20日が武道館公演だった。開演前にかつての”ローリング30”みたいに”マラソン”が満場の武道館に流れた。”僕はあの時、風になり”。ふるえた。
 しかし本編とアンコールで2回演奏された”お前が欲しいだけ”を始め自堕落上等!モードの新曲たちには全く心に響かなかった。
 俺も大学4年生で身の振り方を真剣に決めねばならないときであり自分事で余裕がなかったのかもしれん。「真面目なんかに生きてもしょうがないよ」という拓郎のMCが妙に引っかかった。その通りだ!とは叫べなかった。
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 ということでデカダンス空気ムンムンのアルバムに対して何が何でも早く聴きたいという気持ちは湧いてこなかった。ということで発売日の数日後のうららかな日曜日に近所のおばさんのMレコード店で買った。久々だ。おばさんはニッと笑って紙の筒を渡して「ハイ、ポスター」。思えば、このレコード店で買う最後のレコードになった。お世話になりました。
 楽曲“マラソン”はいたく心にしみた。声もピアノも切なくて涙ぐんで聴いた。「すべてのヒューマンに捧ぐ」というキャッチコピーにもかかわらず、やはり他の曲はひとつも響かなかった。蒲田に住んでいる小僧に、カハラと言われてもはるか遠くに遠すぎてわけがわからん。GBだったかな、音楽雑誌のレコード評で評論家が゛「”マラソン”一曲のためだけにもこのアルバムを買う意味がある」と書いていて当時は納得したものだ。すれ違う哀しみの80年代中盤はじまる。


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情熱
 スキャンダル報道は過熱していた。スキャンダルが悪いとは思わない。吉田拓郎はマスコミと闘っているときが最も魅力的に輝くというのはこれまでに経験済みだ。しかし、今回はマスコミとは真摯に闘うというよりも、ゲームをしているような、あしらっているような空気が気になった。マスコミにはムカついていたが、拓郎頑張れ!という気持ちにもなれなかった。
 発売前にラジオでいくつかの新曲を耳にした。その中でショックだったのが”このまま世界の終りが来ても構わない 君と一緒に死んでゆけるならすべてを許そう”。なんという歌を歌うんだ(爆)。世界の終りを食い止めようと歌ってくれるのが拓郎だと思っていた。それもすげ勝手な思い込みだけどさ。…この歌の本当の美しさを感じ取れるほどの感性も人生経験も当時の俺には不足していた。
 また82年のツアーでしみじみと歌い上げて大好きだった「情熱」という歌は、アップテンポになると、なんか言い訳をしているだけのように聴こえた。
 聴き手の自分自身にもショボイなりにいろいろな実生活の苦難もあって、ことさらひねくれた気分になったのかもしれないが、発売日を知っても気分はいっこうに上がらなかった。
 ということで結局、"情熱"は発売日から少し遅れて買った。10年くらい遅れて(爆)、買ったときはCDの時代で俺も30歳になっていた。つまり買わなかったに等しい。はい、”情熱”は買っていません。

 発売当時、つきあっていた彼女に今度出る拓郎のアルバムはもう買わないんだとこぼした。「買わなくていいけど、聴いておきなよ、聴かないで文句言うのは逃げてるだけだよ」と彼女がわざわざ自分でアルバム買って録音したカセットテープをくれた。レコード帯の変わりの赤いステッカーをケースに貼ってくれていた。すまない。
 とはいえ聴いても心が動かずそのままだった。”SCANDAL”にも”男と女の関係には”にも感情移入ができなかった。ラ〇ホに行きますっヤッホーという"チェックインブルース"、当時の私にはただの愚痴にしか聴こえなかった"何処へ"…ああダメだ。そのまま置いておくしかなかった。翌年の1月11日の武道館に行き・・・ああ大きな何かが終わろうとしているんだなと実感した。愛と哀しみの80年代中盤はつづく。

 100%縁を切るならともかく、そうできないなら「聴かないで文句言うのは逃げてるだけだよ」という彼女の言葉と行動には心の底からありがとうと言いたい。ウキウキ待つ発売日ばかりではない。そんな時でも,買おう、そして聴いておこうというのが私の個人的教訓だ。それは拓郎が撒いた種だからだ。いつか違った芽がでて花が咲く日がくるかもしれない。一度は夢を見せてくれた君じゃないか。いや一度どころではないわな。

2022. 6. 9

☆もうすぐ発売日記念!あなたを迎えた日(アルバム・ファーストコンタクト日記)G☆
王様達のハイキングin Budokan
 82年は王様達のハイキングツアーの一年だ。通称"極悪バンド"の演奏はそれは素晴らしかった。 
  http://tylife.jp/chiisanasakebi.html#19820727
 ただ82年の夏の終わりにレコード店に「武道館ライブの2枚組アルバム発売」の告知を観た時、あれれれと思った。82年春ツアーと秋ツアーのインターバルの夏にニューアルバムのレコーディングがなされると聞いていたからだ。超絶売れっ子の島村英二が体調を崩される等の事情も重なりたりしてレコーディングは延期されたそうだ。心配の島ちゃんは秋ツアーには田中清司とのツインドラムで参加され、ツアー後半には単独ドラムで完全復帰された。良かった。ということで急遽ライブ盤の発売なのかも。

 このアルバムは秋のツアー真っ最中の発売日の11月21日に通っていた大学の生協で2セット買った。一緒に武道館に行ってくれた当時付き合ってくれていた彼女にプレゼントするためだ。ずっしり重かった。これは感動の重さと言うより、物理的に重かった(爆)。自分の参加したライブがライブ盤になるという感動を彼女に味わってほしかったのだ。…今、書きながらウザかったろうなと申し訳なく思う。
 で店頭のジャケットを観て驚いた。誰だ。もちろんジャケットの少女に恨みはない。しかしこれは拓郎のライブの勇姿であるべきじゃないかいと思った。…と不満に思いながら、ジャケットの見開きを開けると…うわーカッチョエエ〜ああたまらん。歌詞カードも写真満載でさらにたまらん。
 なんとなくスキマを埋めるためのアルバムのような気がしたが。それでもレコードで聴いてもそのド迫力にはすんばらしくぶっとんだ。よくぞ音源に残してくれたものだと感謝したくなった。"あの娘といい気分"なんてロスまで行かずに良かったじゃん、これが魂のベストテイク。"王様達のハイキング"と"悲しいの"は、もうすんばらしい。そして"祭りのあと"の後奏の青山のギターに涙した。

 当時、このライブのセルビデオが発売された。ビデオデッキを持っていなかったし、このソフトも確か1万8000円くらいしたのでとても手が出なかった。もし家にビデオがあって24時間好きな時に吉田拓郎の映像を観ることができたらどんな幸せだろうと悶絶した。隔世の感。40年前ならSFの町。
 元気で今日まで生きてこれたこと、そしてアルバムと映像がセットで観られる現代に感謝しよう。
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2022. 6. 8

☆もうすぐ発売日記念!あなたを迎えた日(アルバム・ファーストコンタクト日記)F☆
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ONLY YOU
 ベストアルバムと言う勿れ。この神々しいまでのアイドリッシュなジャケ写。これが山手線原宿駅の線路脇の特大の広告パネルとして春先から展示されていた。山手線で通学していた俺は毎日このパネルが正面に見える停車位置に陣取った。「えっ、あれ吉田拓郎なの?」「へぇー」「かわいい」とほぼ毎日いろんな山手線女子たちの会話が聞こえた。エヘン。
 ベストアルバムといいながら新録も4曲(ボーカル入れ直し含む)。鈴木茂が”たえこMY LOVE”を弾いたあと「今夜これからデルモと約束あるから」と帰ってったのにショックを受けた拓郎がラジオで「俺もデルモが欲しい」と叫んでいた。
 “アジアの片隅で”は社会派路線、プロテストソングとしても評価されたが、その数か月後このベストアルバムのアイドルな路線変更はどうよという意見もあった。しかし、アジアの片隅では 決して反戦歌でも社会改革のテーマ曲でもないと思う。人間の自由な魂の歌だ。国境を戦火が燃え尽くしたことに怒る拓郎とデルモが欲しいと叫ぶ拓郎、そのふり幅の中に吉田拓郎の魅力はあると思っていた。このジャケ写で決まり。
 そうそう発売日1981年5月1日に渋谷の公園通りの坂の途中のレコード店で買った。蒲田や地元のおばさんのレコード店で買うのはこのジャケットに失礼かと思って(爆)>すまん


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無人島で
 まだレコーディングもなされていない出来立ての新曲を中心にラインナップした81年夏の体育館ツアーは素晴らしかった。そこでラインナップされた新曲たちが次回のアルバムになる。仕込みはOKだ。特にオープニングで初めての曲ながら全員スタンディングで大興奮した”この指とまれ”が楽しみだ。それにもうレコード収録はないのかとあきらめていた”ファミリー”がついに音源となる。それだけでも嬉しかった。
 しかしツアーが終わるとその後に続くはずの秋ツアーがまるごと中止となった。理由は気分がすぐれないということだった。なんだそれは。そして10月の発売日が12月1日に延期。理由はLPジャケットが気に入らないのでやり直すということだった。フォーライフ始まって以来の気に入った内容だからということで待つ。どよーんとした不安な空気に包まれていた。
 12月1日は大学の帰りに大学生協で組合員割引で買った。店頭で驚いた。こ、このジャケットはなんだ。あまりに素っ気なさすぎる。青いクレヨンで塗ってるだけじゃん。 "ONLY YOU"とはあまりに違い過ぎる。試供品かサンプル版か。それとも情報開示の黒塗りなのか。このジャケットのために発売日を延期したのか? 夏場ならともかく12月にこのジャケットはかえって冷え冷えとしてくる。

 そのまま小学校の同級生で大学も同じ友人の家に寄った。彼は夜を徹しての課題の作業中でいろいろ手伝いを頼まれたのだった。俺のLPの袋を観ると「あ〜ちょうどいいや、なんか音楽かけてくれよ」と言ったので、よし!と袋から出すと「吉田拓郎?…じゃあいいや」と言って、彼のラックから薬師丸ひろ子の「セーラー服と機関銃」のサントラを自分で出して聴き始めた。けっ。世間の風も冷たいぜ。
 深夜に家に帰ってやっと針を降ろす。いきなりのボーカル♪この指とまれぇ〜この指とまれ〜あ〜どんなに世間の風が冷たくともジャケットがいみふでも"この指とまれ"すんばらしい。かぁぁぁぁ燃える。特にこのアルバムのA面の素晴らしさ。A面は吉田拓郎作詞、B面は松本隆作詞の背中合わせのランデブー。もう吉田拓郎の背負い投げで一本!>違うだろ

2022. 6. 7

☆もうすぐ発売日記念!あなたを迎えた日(アルバム・ファーストコンタクト日記)E☆
アジアの片隅で
 1980年の吉田拓郎の凄いところは"Shangri-la"作りながら、同時にそのアルバムには収まらない新曲を用意していたところだ。"アジアの片隅で"という大作を既に作りながら、"Shangri-la"には入れずに、コンサートツアーで磨き上げ7月の武道館でブッカー・Tを招聘して完成バージョンをつくり上げた。同じ武道館では”二十才のワルツ”、8月のラジオではスタジオから”いつも見ていたヒロシマ”を披露した。んでもって"元気です!"主題歌登場!ということで"Shangri-la"の波のあとに、間髪入れず、次の”アジアの片隅で”の一連の大波のうねりが始まっていた。新曲の波状攻撃のようで俺は揺さぶられ続けた。♪次のいい波は必ずつかまえるよ〜ユーミンの"真冬のサーファー"好きだぁ。

 1980年の11月5日アルバム「アジアの片隅で」発売日の前日が秋のコンサートツアー渋谷公会堂公演だった。会場では既にアルバムが売られていた。レコードの帯の「時の暗がりに葬られぬために、再び強烈に突きつける」…なんて胸かきむしられるコピーなのだ。一日早くアルバムを手に出来た俺とTくんはコンサートが終わって興奮そのまま缶ビールと蒲田の吉野家の肉皿を買い込んで彼の家に行ってビールを飲みながら聴いたのだった。いま本物の"アジアの片隅で"に揺さぶられたばかりのその後に、初めてアルバムを聴く。ああ幸せだ。
 1曲目の”まるで孤児のように”。なんか鮮烈にカッチョエエ。このオープニング曲でこのアルバムの成功が約束されているような気がした。tくんと俺は初めて聴く曲なのに"ラブソング、ラブソング 歌っておくれ"を唱和していた。さっき渋公で感無量になった”いつも見ていたヒロシマ”でこりゃあ稀代の名盤であることを確信した。「いい曲書いたな」と辛口のTくんも珍しくホメた。さっきのステージでの身をよじって”ヒロシマ”を絶唱する姿が浮かんだ。名盤出来。

 1980年の吉田拓郎。古い曲を全部捨てると言いながらすぐ拾ったじゃないかと揶揄するファンもいる…それは俺だ。"shangri-la"なんかイマイチだよなというファンもいる…それも俺だ。しかし、それは"アジアの片隅で"によって最終完成する壮大な新曲ワールドだったのだ。
 「キミが目の前の小さな可否にとらわれるうちは大きな幸せに抱かれていることに気づかないだろう」(マルクス・アウレリウス「自省録」より)←昨日も含めて嘘です(爆)。そんなこと書いていません。書きながらたまたま菅田将暉がテレビに映っていたので勢いで書いてしまいました。すまんです。

2022. 6. 6

☆もうすぐ発売日記念!あなたを迎えた日(アルバム・ファーストコンタクト日記)D☆
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Shangri-la
 79年末に古い歌は捨てると宣言した拓郎は1980年春に本当に新曲だけでコンサートツアーをスタートした。その80年代幕開けの新曲を擁する第一弾のアルバム。しかもロスアンゼルスで初の海外レコーディングときたもんだ。
 俺は感動のあまり悶絶しながら俺も去年までの古い曲はもう聴くまいと固く決意した。これから80年代に発表されるアルバム以降の曲だけを聴いていこう。よしそうなったら今までのレコードは全部捨て…捨て…捨てる準備をしよう。ということで誰にも頼まれていないが俺の古い歌断ちも始まった(爆)。
 こんな状況でニューアルバムに期待しないわけがない。てか期待は超絶MAXだった。そして発売日前日の5月4日、たまたま寄った東京駅の大丸のレコード店に早々と置いてあったアルバムを、同日発売のシングルカット"あの娘といい気分"と同時購入した。

 とにかくアルバムのジャケットがまず超絶カッコ良かった。拓郎のビジュアルもいいし、デザインもシックでオサレだった。拓郎アルバム史上上位ランク間違いなしのジャケットの出来だ。

 ようやく久々に渇望していた拓郎の音楽が聴ける。家に帰りワクワクしながら80年代の新曲たちを聴いた。たぶん続けて2回くらい通しで聴いた。正直にそのときの感想は、あれ??…だった。何回か聴き直した。それでもえっ、コレっすか?…あぁすまん。
 いや、それぞれにいい曲だなと思った。しかし例えば"街へ"はセイヤングで聴いたデモテープの方が雰囲気が良かったし、"熱き想いをこめて"はいい作品だがテケテケギターが気にかかる。拓郎はロスでの経験を通じていつまでもマッカーサーの時代じゃないんだと語っていた。そのとおりだ。しかしこのアルバムに関してはマッカーサー側がもうちょっと頑張って欲しかった。繰り返すが悪態をついているのではない。涙ぐみながらながらそう思ったのだ。
 そのなかで、最初から心に強く刺さったフレーズがひとつだけあった。

      命断つほどの狂気ではなく
      命救うほどのチカラでもないが
      諍いと和みの間に流れてゆけ
      流れてゆけ 私の歌たちよ
                 (又逢おうぜ、あばよ)

 素晴らしい。「あまりに過剰すぎる期待と勝手すぎる思い入れは決して幸せな出会いをもたらさない。求め過ぎるな、君の心に響くささやかなフレーズを大切に胸にしやすらえ」(マルクス・アウレリウス「自省録」より)…80年代最初の貴重な教訓だった。

 翌5日の夜、大竹しのぶの"音楽人間世界をゆく"というラジオ番組に拓郎が"Shangri-la"のプロモーションで出演した。とにかく大竹しのぶにデレデレの拓郎は、しのぶちゃんに捧げます はあと…みたいな感じで(そうは言ってはいないけど)いきなり一曲目に"こっちを向いてくれ"という古い曲をかけよった。なんじゃそりゃあぁぁぁ…ああアルバム捨てなくて良かった。

 ということでロクな話ではなくてすまないが、80年の素晴らしい出会いはまだまだ終わらないのだ。つづく。

2022. 6. 5

☆もうすぐ発売日記念!あなたを迎えた日(アルバム・ファーストコンタクト日記)C☆
TAKURO TOUR 1979
 79年吉田拓郎はデスマッチツアーという前座なし、ゲストなし、休憩なしで2時間半ぶっ続けで歌いきる前代未聞のコンサートツアーを挙行し、そのまま無人島ではなかったが篠島という島でのオールナイトイベントを大成功させた。これによって、元ミュージシャン社長とか過去の人とスポイルされていた吉田拓郎はニューミュージックの最前線に返り咲いた。拓郎をバカにしていた俺の高校の連中の間でも「吉田拓郎ってすげえ」「オレは前から評価していたよ」とか話題にしていて内心「うるせバカ(@石山恵三)」と思ったものだ。
 その偉大なる復活のライブアルバムだ。 しかも松任谷正隆、鈴木茂、島村英二、エルトン永田、青山徹・・・このサウンドの素晴らしさ。吉田拓郎にはライブ73という神ライブ盤があるが、それ以降長いことライブアルバム自体がなかった。よく考えると不思議なことだ。ようやくライブ盤が出ることにも快哉を叫びたかった。

 10月5日にいつもの蒲田のレコード店コタニで買った。コタニでは今週の売れ行きベスト10が店頭に展示されるようになっていた。この素晴らしい成果物を文化果つる蒲田の人民に知らしめなくてはならない。なのでMレコード店のおばさん申し訳ない。

 いざ購入ということで店頭でジャケットを観てふるえたね。ジャケットじゃないの。2枚組LP+シングル(人間なんて)、これが箱に入っているのだ。すげえぇぇぇ。このころこのアルバムのプロモーションのために武田鉄矢のラジオ青春大通りに拓郎がゲスト出演したことがあった。その時鉄矢はすかさず言った「うわー拓郎さん箱盤ですね」「そうです」そう!鉄矢そこばい。豪華箱入盤ぞ。

 それを観て頭の中が走馬灯状態になった。社長になった拓郎が歌をやめるという不安に怯え、周囲から吉田拓郎の時代は終わった、化石ファンとあざけられ,そしられて理解を生まぬ風雪の日々。そんな中で篠島まで追いかけて自分なりにすべてを賭けて精一杯頑張った日々。
 おめーはただのファンだろというツッコミは別にして、この豪華箱入盤は、自分もトロフィーか表彰状を貰ったような晴れがましい気分だった。そのまま箱盤を抱きしめてしまいたかった。名古屋市長、かじってくれても俺は許すぞ。

 コタニでは売上4位だったことを覚えている。その時受けた大学受験の模試の結果判定が「第一志望合格確率4%以下…志望大学の変更が望ましい」だったからだ。高3の夏を篠島に捧げたので当然のことだ。しかし79年の偉大なる復活を観た俺は大丈夫、俺もできると根拠なき自信に満ちていた(爆)。

TAKURO TOUR 1979 vol.U 落陽
 甲斐よしひろにライブばかり出してあざといという趣旨の文句言われていたが、VOLUは、12月5日発売。こっちは地元のMレコード店で買った。篠島のポスターカレンダーつけてくれた。ありがとうおばさん。なんか選曲が残念な気もしたが、”ああ青春”の音はどうしても欲しかった。それに弾き語りの”落陽”のあとの「ずっと歌うっていう決心が今ハッキリついたな」というMCのレコード化も嬉しかった。そしてレコード帯の再び心臓に火が付いた感動できなきゃ人間ヤメだ店頭で泣きそうになったくらいカッコイイキャッチだった。こうして復活の79年が暮れてゆく、ああ青春は燃える陽炎か。受験勉強はいいのか。

名古屋でも神田でも、ラストライブアルバムというのを豪華箱盤で出してはくれまいか。

2022. 6. 4

☆もうすぐ発売日記念!あなたを迎えた日(アルバム・ファーストコンタクト日記)B☆
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ローリング30
 “ローリング30”に対する思いはさんざん書いたhttp://tylife.jp/album/rolling30.html。特に「SIDE0」に書いたけど…でも全然書き足りねぇよ(爆)
 78年4月から拓郎は3年ぶりに深夜放送セイヤングを始めた。しかしセイヤングの吉田拓郎はオールナイトニッポン時代の華やかな雰囲気とはちょっと違っていた。社長として音楽の第一線を離れ、世間からはもう終わった人みたいに思われ、全盛のニューミュージック界からはスポイルされている孤高=ひとりぼっち感があった。しかしそれでいて悠然とした等身大感とでもいうのだろうか〜ああわかんねぇ。とにかく当時、高校に馴染めず退めたいと悩んで、すべてに鬱屈していた自分はそんな孤高の拓郎の姿に切実に共感し憧れもした。そしてそこからミュージシャンとして再び立ち上がって蘇生してゆく姿に超絶勇気づけられることになった。だからセイヤングは自分にとっては実に貴重な拠り所なのだった。

 吉田拓郎が当時セイヤングで模索していたのは
 ・2枚組のアルバムを作りたい
 ・無人島でコンサートをしたい

 この2つだった。こうやって書くとなんか鉄腕ダッシュみたいだ。毎週のセイヤングはアルバム制作のプロセスの実況中継であり、吉田拓郎のミュージシャンとしての復活のドキュメンタリーでもあった。毎週一言も聞き逃すまいと必死で聞いたものだ。時に寝落ちもしたが(爆)。

 当初はレコーディングしたアルバムにライブアルバムをつけての2枚組という構想だったのが、やがて全曲オリジナル2枚組書き下ろしアルバムに昇格、松本隆とのサイパンの合宿旅行記、ジャケ写撮影、そして曲が怒涛のようにあふれ出て止まらないと嬉しい悲鳴を上げていたロックウェルスタジオのレコーディング生放送などなどラジオから流れるアルバムの実況中継にはふるえた。
 今の”ah-面白かった”と”ANNG”の関係とよく似ている。むしろ現在は拓郎のくれた追体験の特大サービスなのだろうか。

 ラジオの中で“ローリング30”のシャウティな歌を聴いた時のついに来たぞ敵な感動。「”動けない花になるな転がる石になれ”という詞で自分の進路を決めました」と言う投書になぜか一緒に涙ぐんだ。深夜の静寂に初めて”言葉”が流れた時の鳥肌が立つような感触。少しずつ姿を見せるアルバムにワクワクし、それにつれて気概が高まってゆく拓郎のオーラが魅力的だった。

 発売日11月21日をカウントダウンしながら待った。曲が溢れすぎて2枚のアルバムに収まらず1枚のシングル盤を加えるというニュースにも驚いた。「ああ皆さんに早くお届けしたい」と拓郎はじれったそうに言い、聴いてる俺もああ早く届けられたいと悶絶した。
 拓郎がラジオの中で、病弱だった子ども時代、月刊の少年雑誌が楽しみで、父親が発売日の前日の夜に本屋に入荷するのを知って特別に早く買ってきてくれるのがすごく嬉しかったと語っていた(「俺だけダルセーニョ」にも所収)。待ちきれない俺も発売日の1日前の学校帰りに近所のおばさんがやっているMレコード店に立ち寄った。もちろんまだ店頭には並んでなくて「あの〜明日発売なんですけど吉田拓郎のLPもうありますか?」 と尋ねるとおばさんは「ヨシダタクロウ…入っていたかしら」と呟きながら、レジの後ろのダンボール箱から1枚1枚入荷したてのいろんなLPを出してレジ台に重ねていった。そして何枚目かに1枚の青いジャケットのLPを置いた。これだ!これです!ください! 奪い取るように買って、大事に抱えて帰った。
 何度でも言うが、二枚組LPにシングル盤がついたその重さ。♪幸せの大きさなど計れないもの(7月26日未明)と後に拓郎は歌ったが、幸せの重さというものは計れるのだ。

 音楽家はこんなふうに発心し立ち上がり、こうして丹精をこめてアルバムを作るのだということをセイヤングで学んだ。そしてもうひとつ。制作プロセスで覗いた断片を合わせてこんなアルバムなんだろうなとわかったような気になっても、実際の完成版はまったく予測外のものであった。予想外のアルバムがズガーンと現れた。

 なので俺は信じている。たとえラジオで全曲かけようが、実際に手にした”ah-面白かった”は、こちらの理解のナナメ上の想定外からやってくるに違いない。頼むぞ。

 このアルバムでミュージシャンとして決起した拓郎は、もうひとつのテーマ"無人島コンサート"に挑むことになる。

2022. 6. 3

☆もうすぐ発売日記念!あなたを迎えた日(アルバム・ファーストコンタクト日記)A☆
  1977年は一言でいえばフォーライフのピンチの年だ。ラップ調で言うと
♪クリスマスこける、小室おりる、泉谷やめる、陽水つかまる、そして拓郎たちあがるぅこれが今にして思う1977年だ。どこがラップだよ。てか怒られるぞ。
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ぷらいべえと
 急遽年度末までにアルバムをというムチャぶりに提供曲と愛唱曲を集めて突貫工事で、体調不良のボーカルのリテイクの時間もないまま制作したアルバム”ぷらいべえと”。それは後に知ったことだ。
 そんな事情は、当時は知らなかったので、クリスマスに続きまた企画モノを出す商魂を非難するレコード評ばかりだったし、拓郎は堕落したと怒るファンの声も聴いた。
 私はそういう気分はなかった。発売前の3月にラジオ番組「フォーライフ・フォー・ユー」の最終回に拓郎が現れて、「ぷらいべえと」という楽しいアルバムが出ること紹介し、2019年の王様達のハイキング同様、”よろしく哀愁”の冒頭だけ流して止めたり(爆)盛り上げていた。そして拓郎は、秋までには新曲だけのオリジナルアルバムを必ず作るからと何度も念を押していた。なので”ぷらいべえと”はコメディリリーフみたいなものだと思ってそれはそれで楽しみにしていた。
 「全国に緑のジャケットが店頭にバラまかれますので、あれが吉田拓郎のニューアルバムだ、くださ〜い・・・買うべきです(笑)」
 発売日の4月25日に蒲田のコタニレコードに行くと本当に一番目立つディスプレイ場所にきれいな緑のジャケットが何枚も飾ってあって壮観だった。"やさしい悪魔"が超大ヒットしていた時期だ。拓郎ファンとは思えない人たちもジャケットを手に取り「へーあれも拓郎の曲だったんだ」とつぶやいていた。嬉しい光景だった。
 あのジャケットはランちゃんがモデルだと知ったのは79年の石原信一「挽歌を撃て」のあたりで、当時は山田パンダがラジオでアレは美代ちゃんだと言っていたのを信じていた。教訓:山田パンダを軽信するなかれ。年齢も詐称していたし(爆)。
 アルバムはオリコン1位にも輝いた。年度末クリア・・・なんて事情は知らなかったが、ファンとしては実に晴れがましい気分だった。

 アーティスト自身には悔いが残るのかもしれないがこれはだけは言いたい。突貫工事だったかもしれないが、手抜き工事でもないし、やっつけ仕事でもない。そこが大事。声が鼻声というも、ボイスチェンジの範疇だ。鼻声でも拓郎の歌はウマい。「赤い燈台」「歌ってよ夕陽の歌を」「恋の歌」とりわけ当時の最新曲の「春になれば」が爽快で大好きだった。これらはみな後の世にまでベストテイクだ。
 いいアルバムだよ、拓郎さんと叫びたくなる。そうそう今この歳になって聴くと「夜霧よ今夜も有難う」がもう抜群に心染み入る。それはこのアルバムがいかにしっかりと創り上げられていたか、その深みを感じさせてくれる。


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大いなる人
 で「ぷらいべえと」発表とほぼ同時に、拓郎はガチ社長になった。コンサートもせず、社長として転生するためにミュージシャン引退を仄めかすようになった。意味深なインタビュー記事が多くなった。
・城山三郎の「役員室午後3時」を読んで俺は大社長を目指す。
・来年(78年)、モータウンでレコーディングして、夏につま恋クラスのイベントをやって音楽はやめて経営学を勉強したいと思っている
・原田真二は天才だ、俺の時代はもう終わった

 …経営学の勉強ですと?アルバム”大いなる人”を迎えたのはこういう切ない状況だった。1977年11月25日。発売日に高校からの帰り道に地元のMレコード店で買った。帰ってすぐに学生服のまま針を落として聴いた。いきなり”あの娘に逢えたら”のイントロに驚いた。なんかこれまでの拓郎とは違う成熟感。どの曲もジーンズではなくスーツを着て高級な酒を飲んで余裕かましている吉田拓郎の姿が目に浮かんだ。
 何が凄いってフォーライフ社長の吉田拓郎は陣頭指揮で、自ら連日ラジオジャックのようにありとあらゆる番組に出演して「大いなる人」をプロモートしていた。「カンパリソーダとフライドポテト」「おいでよ」を推していた。詞を読んでアレンジする鈴木茂。その素敵なサウンド。でも当時は全然しっくりこないのよ。

  いずれの道も避けるな
  いつでも自分を確かめろ
  大いなる人生 手助け無用

 当時の俺には、会社経営に乗り込んで天下をとってみせる…という歌に聴こえて、素直な感情移入ができなかった。
 今でこそ、このアルバムは名作と絶賛したいが("未来"や"歌にはならないけれど"なんて絶品じゃね?)、当時は会社経営の世界に旅立ちます〜さよならキャンディーズ、さよならミュージシャン・・・そういう通告のようにも思えた。
 TOUR79volUの弾き語りの落陽のあとで「ずっと歌うという決心が今ハッキリついた」と言って観客が超絶大歓声を上げるシーンがある。これは音楽やめて社長になるというこの頃の発言がいかにショッキングに緒を引いていたかということの証なのよね。

 ピンチの1977年は、前半の”ぷらいべえと”、後半は”原田真二戦略”で拓郎は見事にフォーライフを救ったのだった。凄い辣腕だぜ。
 しかしとにかくこの時点では、気が付けば世はニューミュージック全盛、拓郎はもうオワコンだった。年末の風が冷たい。誰も知っちゃないさ若さそれがこんな壊れやすいものだと・・・このアルバムと原田真二は私には不即不離なのよね。で、拓郎あなたはどこへ行くのですか?

2022. 6. 2

☆あなたを迎えた日(アルバム・ファーストコンタクト日記)@☆
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明日に向って走れ
 前作「今はまだ人生を語らず」から1年半ぶりのアルバムでしかもフォーライフレコード第1弾。期待しないわけがない。1976年5月30日中3だった俺はその日、今にしてみれば聖地の高輪で模試を受けた帰りに蒲田のレコード店コタニで、発売日より5日遅れて買った。それでも発売日を待ってアルバムを買う、やっとこれで現役ファンの隊列に加われたみたいで萌えた。

 レコードの帯には普通は「元気です」とか「伽草子」とかタイトルが大書されているものだが、でっかく「吉・田・拓・郎」。その下に小さく「明日に向って走れ」。「オラオラ天下の吉田拓郎だぞ」感が漲っている。ジャケットはたぶんセブンスターショーからの写真か。部屋にご尊影のように飾った。
 先行シングル「明日に向って走れ」は既にヒットとして巷間に流れていたし、おなじみだった提供曲、”水無し川”、”風の街”、”明日の前に”の拓郎バージョンが手にはいるのも嬉しかった。
 しかし、アルバムの雰囲気は前作の怒涛というか破竹の勢いの「今はまだ人生を語らず」とはずいぶん違うことにも戸惑った。「だんじり祭り」と「ほおずき市」くらい違う。あれぇ?という気持ちも正直あった。当時のラジオのCMも「ラクな気分にしてくる12曲 〜吉田拓郎〜明日に向って走れ」というシブいものだった。
 ラクな気分というより、当時中学生ながら全体に沈痛な空気を感じた。例えばかまやつひろしの”水無し川”は夢を抱いて都会に行くぞという快活さがあったが、拓郎の歌声は地元でボロボロになって都会に逃げていくような消耗感を感じた。
 オールナイトニッポンの凄絶な最終回やそれを含めたマスコミとの戦争も記憶に新しかった。まさに満身創痍のイメージも感じた。また短い曲や提供曲が多いうえに「どうしてこんなに悲しいんだろう」の焼き直しまで入っていて、こりゃ〜曲ができなかったのかと心配にもなった。

 しかしこの満身創痍感がいかに美しい音楽に結実したか、「どうしてこんなに悲しいんだろう」のボーカルがどれだけ絶妙なものなのかが身に染みてわかるには、私はまだ幼過ぎた。やがて自分もこの愛に満ちたアルバムに救われることになることをまだ知らない。

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クリスマス
 1976年11月10日蒲田のコタニレコード店で発売日に買った。今やフォーライフの屋台骨を揺るがせた事故物件ように言われるクリスマスアルバムだが、当時は4人のコラボによるこの夢のアルバムをどれだけ私たちが歓迎したかも忘れてはならない。
 このとき私は生まれて初めてレコード店に予約してアルバムを買った。予約特典でフォーライフのペンダントがついていたことと、tくんとは違ってちょっとウサンクサイ友人のシマ・・・Sくんから拓郎と陽水のファンが殺到するので予約しないとたぶん買えなくなると脅かされたからだ。で、実際にオリコンチャート1位も獲得したし、ハッピーなクリスマスアルバムとして迎えた人は私も含めて多かった。
 泉谷の”赤鼻のトナカイ”はウキウキしたし”星は光っちゃう”は大笑いした。井上陽水の”夏願望”はさすがだった、”ホワイトクリスマス”もウマイなと感嘆した。吉田拓郎だけ自作の曲がなく寂しかったものの、ボーカリストとしての吉田拓郎と向き合うことができた。
 "風に吹かれて"はディランに関係なくこういう歌なのだと魂に刷り込んだし"街を片手に散歩する"は痛快だった。特に「諸人こぞりて」・・・これが演奏も歌いっぷりもカッコよくてシビレた。
 以後、毎年クリスマスには必ずこの”諸人こぞりて”だけは必ず聴く。今は、吉田拓郎の「諸人こぞりて」をこの世につかわすために、主はこのアルバムを創らせたもう・・・とすら思う。
 中学の体育の時間に着替える時、チラッと胸元に覗くフォーライフのペンダント。イケてる自分だと思った・・・バカだねぇホント。とにかく私には幸福なアルバムの記憶しかない。それがフォーライフを暗転させたとは、知らない方が幸せなことも確かにある。

2022. 6. 1

☆☆☆そんな君の手紙が着く☆☆☆
 6月だ。いよいよ今月ラストアルバムを迎えることになる。発売日を待ってアルバムを買うのもこれが最後である。この貴重なひとときを老人は何かをせずにはいられない。爺さんの昔話みたいだが、これまでの吉田拓郎のアルバムとのファーストコンタクトの記憶を振り返ろう。リアルタイムでそのアルバムに初めて出会ったとき自分はどういう状況で率直にどう思っていたか。

 序章として、一番最初のシングルは74年7月に買った”シンシア”だったが、一番最初のアルバムは、75年の7月に蒲田のレコード店コタニで買った2枚組ベストアルバム「71〜75」だった。http://tylife.jp/album/7175.html
 後に執拗なまでに繰り返し発売されるソニーのベストアルバムの嚆矢である。前年のテレビで衝撃を受けた”ペニーレインでバーボン”と”暮らし”を家に迎え契りを結ぶことになった。毎日10回以上聴いてたね。もう虜だった。
 当時エレックのベスト盤「たくろうベストコレクション」という2枚組があって、これを同じクラスのtくんから借りてカセットに録音して聴いた。このエレックとソニーのベスト盤でまず吉田拓郎の全体像を学ぶことができた。
 そしてそれ以前のアルバムを買い足して行き、翌76年の3月=セブンスターショーが放映された頃にはそれまでのアルバムはほぼそろえたと思う。すっかりカタチだけは拓郎フリークの中学生になっていた。

 かくして準備万端。はじめてリアルタイムで発売日を待ってニューアルバム「明日に向って走れ」を迎え撃つこととなった。ということで明日から超絶個人的などうでもいいことをツラツラと書いておこう。

2022. 5. 31

☆☆☆天才たちのバックステージ☆☆☆
 もう少し"シン・ウルトラマン"の話させてくれよ。先日、仲間と観ながら、今や大学の偉い先生のU君が、劇中の机上にシュタイナー教育の著作を見つけてそれが主演の斎藤工の受けた教育に関係してたことに唸っていた。tくんは電話が鳴るたびに着信音に悶絶し、私もUSSエンタープライズ号の映り込みに感激し、昔、難しくて放り投げた"野生の思考"が今度は少しわかりそうな気がした。とにかく末端細部まで庵野秀明のこだわりのテンコ盛りだ。
 観ながら昨年NHKで放映されたシン・エヴァンゲリオン制作中の庵野秀明を追ったドキュメンタリーを思い出す。実に細かいところまで何度も魂をこめる凄絶さと苦悩が凄かった。私にはそこがこれまで観た拓郎のリハやレクのドキュメント映像とも重なった。庵野秀明のことは殆ど知らなかったが、このドキュメンタリーは好きで軽く20回は観返した。私なんぞは創作とは無縁の地味な仕事だがそれでも仕事に挫けそうな時は救いを求めるような気分で観る。

 今回の映画「シン・ウルトラマン」の関連本「デザインワークス」の巻末にも庵野のインタビューと当時の企画書が付されている。先のドキュメンタリーで時々庵野が会社に姿を見せないときがあったが、こっちでこれをやっていたのかということでパズルのピースがハマったみたいに面白い。
 その庵野作成にかかる企画書にはこういう一節があった。

「皆が望み、未だ誰も観たことがない「ウルトラマン」の存在する世界を目指す。だが、これは困難と思われる。旧作に思い入れの強いコアユーザーの存在をどうするか?という問題。彼らを取り込むなら完璧なリメイクを目指すのが、一番問題が少ない。だが、それで良いのか?という問題。ここは戦略的判断が必要。」(シン・ウルトラマン デザインワークス P.77-1)

 うーむ。何か同じようなことを苦悩しているだろうお方の姿が思い浮かぶ。新しいことを創作せんとする天才たちの共通の苦悩なのか。…って思い入れの強いコアユーザーのおまえが言うなと怒られるか。しかし見事に通底している。

 庵野は番組の時もこの収録インタビューでも、SNSやYouTube等で作品と関係ない批評を超えた家族にも及ぶ中傷に、心を削らされ精神的にかなり危うかったことを述べている。切実な話だ。これは拓郎が前回放送で語っていた「愛されていなかった」苦悩と同根かもしれない。いや、ますますおまえが言うな…か。しかし庵野の苦悩を観ていると吉田拓郎のことを十分にわかれなかった自分が申し訳ない…と殊勝な気持ちにもなる。でも「お前らは停滞してる」とか言われるとまたあらためてムカつくんだけどさ(爆)。停滞…私の苦手な言葉です。

 つまり庵野のドキュメンタリーは、庵野だけのものではなく、拓郎も含めたあらゆる天才の愛と狂気と苦悩と美しさを教えてくれる気がする。いかに小さなところまで心血を注ぎ身を削るように苦闘しているか。そしていかに無用なものに晒され傷つけられてゆくか。
 しかし評価されて初めて浮かび上がれる泥沼に、彼らがあえて飛び込んでくれなければ、私たちは一篇の作品も一曲の音楽も得ることはできないのだ。

 どう味わうかは、あくまでこちらの自由だ。自由でしかない。でもこんなふうにして花も嵐も踏み越え泥沼をくぐり抜けて作品が届くということだけはわかっていたい。ということで結局は、どんなふうにニューアルバム「ah-面白かった」を迎えるか心の準備編である。ニューアルバム…私の好きな言葉です。

2022. 5. 30

☆☆☆痛みを知るただ一人であれ☆☆☆
 昨日はtくんはじめ小学校の同級生らと映画"シン・ウルシラマン"を観た。かつてリアルタイムで観ていた俺たち全員は、冒頭からクラクラ眩暈がして胸ワシづかみ状態になった。ああ、たまらん。ビデオも無い時代なので再放送を何度も何度も目を皿のようにして観て、セリフまで覚えこみ、学校では毎日熱く語りあい、親には怒られ周囲にはバカにされながら生きてきた同志たちの宴である。きっと庵野秀明も一緒だ。エヴァンゲリオンはチンプンカンプンだったが、この映画では庵野秀明のどうしようもない思いとこだわりがこれでもかと伝わってきた。まさに「神は細部に宿る」とはこのことだ。それはノスタルジーだけではなくリニューアルされた未来や希望にも繋がっている。単なる懐かしモノではないのだ。名曲なのはわかるが、自分では新し過ぎて決して歌えない米津玄師の主題歌みたいなものだ。
 ともかく、ひけめも感じてきたけれど、それを好きになった人生は間違っていなかった、おまえたちは素晴らしいものをキャッチして愛して続けてきたのだというエールを貰ったような気がした。たぶんこれが幸福感というやつだ。

 それは雑に言ってしまえば、吉田拓郎のファンとなった人生も全く同じだ。なので「シン・ウルトラマン」は「Ah-面白かった」だ。断言する。また怒られるか。それを愛し続けた人へのささやかな祝祭でもあると思う。…せっかくの祝祭だもっと浮かれよう。

 余計なお世話だが、子どもたちよ、若者たちよ、君達が今大好きになったものが何であれ、何十年後に老いたときもそれがやはり輝けるものとして君らの傍らにあったらいいな。それは素晴らしいLuckだと思うよ。
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2022. 5. 29

☆☆☆あなたと私の最終章☆☆☆
 その沖縄食堂のマスターの言葉がキッカケで"僕の人生の今は何章目くらいだろう"をあらためて聴き直す。そもそも作詞も作曲も吉田拓郎ではない作品ということで俺の中では申し訳ないが相当に軽んじられていた。

 しかし最近、拓郎が自ら「最終章」と言う言葉を使うに及ぶ中で聴き直してみるとああ胸にしみる空の輝き、今日も遠く見つめ涙を流す。いい。万感胸に迫る。特に"豊かなる一日"の瀬尾ビッグバンドバージョンがすんばらしい。スケールメリットが十分に活かされた決定版だ。最後の♪LALALALA〜とともに演奏がいつまで終わらなきゃいいのにと思ってしまう。

 このテーマの詞や曲は吉田拓郎が自分で書いていたら歌う方も聴く方もちょっとヘビーな気持ちになるところ、トータス松本があっけらかんと自由奔放に書いてるからこそ、たぶん歌いやすいんだろうし、聴き手にも魂に気持ちいい風が吹いてくる。だから良いのだ。最初に言っていることと違うが、すまん。こっから先はそのうちUramadoに書くっす。とにかく今度は沖縄そばは第一章で注文する…ってしつこいよ。

2022. 5. 28

☆☆☆若い人☆☆☆
 昨日は無事に沖縄食堂に入店できた。新鮮な海ぶどうと刺身とシークワーサワーで今夜はゴキゲンな夜。アルバイトの感じのイイおねーさんが”つま恋”というフレーズに反応しくれた。浜松ご出身でつま恋は庭のような場所らしい。ああ、同じ聖地を戴くものよ。そして料理に忙しいマスターも吉田拓郎はフォルダ作って聴くほど好きだと知った。1985年生まれなのに嬉しいじゃござんせんか。LOVE2の頃はまだ小学生で深夜番組というイメージだったらしい。”僕の人生の今は何章目くらいだろう”と”唇をかみしめて”がことのほかお好きらしい。映画「刑事物語」の武田鉄矢のハンガーで盛り上がる。「ah-面白かった」は絶対に買うそうだ。
 普段コッソリと隠れて世を忍ぶ拓郎ファンの私だが、若い人々の中に自然に生きている吉田拓郎を垣間見て嬉しかった。そういう若い人たちが拓郎やそのファンに向けてくれる温かさが身に染みた。

 しかし、そうして飲んだくれている間に、〆の沖縄そばは売り切れとなった(爆)。なんという不覚!予定数終了って「ah-面白かった」のアナログ盤か。
 年寄りなんだから、〆という発想を捨てて最初に注文しろとツレに言われた。御意。2014年のオープニングがいきなりの”人生を語らず”だったように、古くは1980年の武道館のオープニングが”ファミリー”だったように最初から重量級でズガンといかなくてはならない。年寄りには時間がないのだ。起承転結ではなく序破急で…違うかな。

2022. 5. 27

☆☆☆ボク食べる人☆☆☆
 ときどき無性に沖縄料理、特に沖縄そばが食べたくなる。今がその時ためらわないで。しかし朝ドラのおかげか行きつけの沖縄食堂は満杯で入れない。似たような人が多いのだな。行けないとなると余計恋しくなる。昔、拓郎の沖縄公演のあとで拓バカたちと公設第二市場の二階でソーメンチャンプルーとうっちん茶ハイで飲んだくれたことを思い出したら、もうたまらない。今日は行けるのか。

 朝ドラといえば、あの血気盛んすぎるヒロインが、オーナーの原田美枝子に対する態度が無礼なのが気に入らない。お母さん役の仲間由紀恵のようにイリスに少し生気を吸い取られてしまえばよいのにと思います。>なんだよ、知らねぇよ。
 とはいえ原田美枝子はさすがの美しき無敵感が漲っている。原田美枝子といえば中学生の頃、「恋は緑の風の中」という性のめざめ系のイケナイ映画があって、あーすげー観たいけど、観に行く勇気がねぇーということで悶々としたものだ。"ちむどんどん"とはまさにこのことだ。そのころから原田美枝子は無敵なのだ。共演がこれまた懐かしい佐藤祐介だった。当時、雑誌「中二時代」のインタビューで好きな音楽=吉田拓郎と答えていた。>どうでもいいよ今さら
 とにかく頭は沖縄そばだ。

2022. 5. 25

☆☆☆そんなにこの街が好きになったのか☆☆☆
 “すぅいーとるーむ ばらっど”の狂おしい熱唱に引き続きしびれる。ああなんていい声なんだろう。アルバム「MARATHON」には”マラソン”以外みるべきものなしと悪態をついた時もあったが、今は心より自らの不明を恥じている。

 いい声といえば、林部智史の”この街”(piano version)を買った。これがまたすんばらしい。あのゴージャスなアレンジもよかったが、ピアノだけで歌うことによって、メロディーの輪郭がキレイに浮かび上がる。それはもちろん林部智史のボーカルの絶品のチカラであることは明白だ。ありがとう林部くん。そしてくっきりと浮かんだこのメロディーの美しさをずっと力説しているのだが、賛同者はほぼ皆無だ。そりゃあ拓郎さんにはこれより凄い名曲はたくさんあるし、拓郎さんの言う通り音楽は結局好き嫌いだ。しかし、あらためてこのピアノバージョンでこのメロディが俺の「好き」だと確信する。70歳にしてこのメロディーが出てくることの感動…わかる人は…わかってください因幡晃。

2022. 5. 24

☆☆☆逃げ出したい何もかもから☆☆☆
 たまたまお店で流れていた井上陽水の「クレイジーラブ」。懐かしい。昔ヤンタンでよく流れていた。これは当時、結婚=引退が迫っていた山口百恵に捧げた歌だと聞いた。
 それはいいのだ。この「クレイジーラブ」を聴いていたら、拓郎の「すぅいーとるーむ ばらっど」を無性に聴きたくなった。なんで?という方は「クレイジーラブ」聴いてみんさいや、絶対聴きたくなるじゃろ。
 かくして、はからずも井上陽水VS吉田拓郎のボーカル対決が始まった。陽水のボーカルはすんばらしいのだが、この拓郎のボーカルも負けていない。どっちも凄いが、この切ない絶唱において拓郎の辛勝だと思う。んまぁ俺の判定だ、信憑性も何もない。むしろどっちの勝ちというより、この2曲の珠玉のバラードがあるこの世に感謝したい。「ヨッご両人!!」と叫びたくなる。

2022. 5. 23

☆☆☆another world☆☆☆
 最近映画とかで"マルチバース"とか"パラレルワールド"が流行している。今期のスタートレック・ピカードもそんな話だった。これが、よくわからん。私たちの世界に並行して似たような宇宙や世界が無数にあるということらしい。なんか嘘くさいが、科学的根拠をもって主張する人もいるらしい。…うーん、私なり無理に理解するとこうなる。

   吉田拓郎が河合楽器のセールスマンになっている世界
   吉田拓郎がチャーリー石黒によって渡辺プロに入ってジュリーがライバルの世界
   エレックが嫌でCBSソニー移籍前にあきらめて広島に帰ってしまう世界
   フォーライフの設立に参画しないでずっとCBSソニーにいた世界
   ずっとフォーライフの社長を続けた世界
   ザ・バンドと共演した世界
   79年にそれまでの古い曲を全部捨ててしまった世界
   85年以降ステージを去ってしまった世界
   アローンツアーではなく2日間コンサートが実現していた世界
   LOVE2を3か月で降りてしまった世界
   コロナがなくLIVE2021大阪シリーズがあった世界
   ……
 …それぞれの吉田拓郎のいる世界が無数にあるということになる。
  拓郎に対して、何度もこれでもう歌わないと言いながら、結局のところその度に歌ったので嘘つきじゃないかと悪態をつく失礼なファンもいる。それは俺だ。しかし嘘ではなく、吉田拓郎はそれぞれのマルチバース、パラレルワードで頑なにそれぞれの約束を守り生きている、我々はその都度、いろんな並行世界の拓郎を垣間見ているので、矛盾しているように見えるだけなのだ…そう考えると拓郎に申し訳なくなる>えっホントかよっ

 今期のスタートレック・ピカードもそういう「選ばなかった未来」「選べなかった世界」がテーマだった。そこにはいろんな後悔や、やり直したいチャンスが錯綜する。
 しかし、並行した世界を見ることで、後悔ややり直しに誘惑されながらも、結局は自分の過ごしてきたこの世界の意味を深く知り、愛し、あらためて自分の今いる世界を選び直す。
 ちょうど吉田拓郎が、ラストツアーを断念した時に、いみじくも言った「これでいい…じゃなくて、これがいい」という言葉をかみしめる。マルチバースもパラレルワールドも、今この世界を深く味わい同じものを選び直すためのツールなのではないかと思う。すまん、俺も言っててよくわかんない。

 てかこの私も並行世界では、谷村新司のライブで感動に涙ぐみながら隣の席の人と手をつないでいるかもしれないし、さだまさしの追っかけをしているかもしれない。…ああ、この世界で良かった(爆)。ちなみに6月、7月とさだまさしのツアー"弧悲"に行くことになっているが、それは並行世界の私であって、この世界の私じゃない。

2022. 5. 21

☆☆☆午前0時の鐘はいかがですか☆☆☆
 何気ない光景だが、CDショップの近日発売のネームプレートに、たくさんのミュージシャンと並んで、「6/29  吉田拓郎 ah-面白かった」があった。こういう景色もこれが最後なのかと思うとえらく感慨深い。単なる宣伝告知のプレートだが、こうして思うとまるで道場の名前木札のように現役有段者の証明である。ともかく何もかもがいとおしい。

 ところで都倉俊一を嫌いと言いながら、麻生よう子の”逃避行”、”午前0時の鐘”は名作だとあらためて聴きほれている。どちらもダメ男を見限る女性の歌で10代の女性歌手のデビュー曲としてはどうなんだと思うが、素晴らしい作品と歌唱力だ。
 “逃避行”で“♪また空いた汽車を、空いた汽車を見送った〜”このあたりのメロディーの巧さと表現力。何台も列車を見送る逡巡がメロディーから見事にしみでてくる。

 それに次ぐデビュー2作目の”午前0時の鐘”は、やはり同じダメ男を見限るという同工異曲であんまし評判は良くなかったと思う。でも今聴くとサビの部分が胸を撃つ。

  私も女です
  キッパリあきらめる
  道は自分のこの手で選びたい
  ケジメをつけたいの
  愛し合ったあの人と
  計算通りに愛はいかないわ

 「私も女です」という歌詞から想像されるのは、シャワーを浴びたの悲しいでしょう、あなたの影を踏んで歩く私なの、せめて私を美しい思い出にして…というような展開なのだが、この歌は違う。
 キッパリあきらめる、道は自分のこの手で選びたい、計算どおりに愛はいかない…なんか、もう吉田拓郎のようなスピリットである。ああ、ああカッコイイぜ、ねーさん素敵だなーとほれぼれするのであった。
 麻生よう子さん、今頃どうしておいでだろうか。今夜は歌声が目にしみる。

2022. 5. 19

☆☆☆雪国でした☆☆☆
 奈緒…既に女優としてのキャリアと実力はあったものの、一昨年に拓界の私達の前に突然彗星のごとく現れた。「母とともに拓郎ファンです」とkinkiの番組でつぶやいてから、瞬く間に拓郎の目にとまり寵愛を受け、ついにアルバムのジャケット・イメージガールに抜擢され、拓郎の歌詞にまで登場するというスピード出世ぶりだ。有名人拓郎ファン界のシンデレラガールといえよう。

 これと対照的なのが森永卓郎(爆)。私は昔から森永氏のことが好きだし敬愛もしている。しかし、拓郎ファンとしてのダメっぷりがすごい。どんなに拓郎愛を公共の場で語っても、垣花アナ止まりで、拓郎には届かない。そこに僭越ながら深く共感してしまうのだ。

 奈緒にあって森永卓郎にないもの。…そんなのほとんどすべてという説もある。ひとつは、ラジオ出演したときに森永卓郎が”人間なんて”をだらしなく歌っていたのに対して、奈緒は正月のラジオで「凄いです。何も言わず聴いて下さい」と言って「証明」を流した。「証明」。ココだ。ココで私ら偏屈ジジババ(>オマエだけだ)を唸らせて一目置かせたのだ。
 いや、それだったらもし森永卓郎が「証明」を歌ったら、アルバムのジャケットになったり歌に登場したりしたのかというと…それはないだろうな。あったら困る。ということですまん今日の話は忘れてくれ。

 奈緒と言えば、NHKの「雪国」は良かった。高橋一生の島村と奈緒の駒子が、ああ実話だったら、こんなだったんだろうなとしみじみ思えるリアリティがあった。昔の映画の池部良と岸恵子じゃなんか美しすぎて違うのよ。ドラマでお師匠さん役の由紀さおりが、別れる二人に”ルームライト”を歌ってあげるシーンでは涙が出た>ねぇだろそんなシーン すまん。でもいいドラマだったのは本当。

2022. 5. 18

☆☆そんなに拓郎が好きになったのか 星紀行☆☆☆
 昨日のメモを見返して、つくづく我ながらロクなことを考えていないなと情けなくなった。誰も相手にしてくれないので、ひとりgo to…って、そうだ私はもしシングルカットするとしたら”ひとりgo to”だな。カッコイイ。この胸が高鳴る感じがいい。

 小説「ミシンと金魚」は衝撃作だったし、作者の永井みみさんの受賞の言葉も魂の絶品だったが、とんとブレイクする気配がない。隠れた名作となってしまうのか、残念すぎる。
 思えば私の人生はそういう残念な気持ちとずっと一緒だった。1974年に拓郎ファンになって以来48年間。いや厳密に言うと74年、75年は天下無敵、我が世の春、平清盛な気分だったが、それ以降の46年間、俺がいつも心に思い、小さな声で叫び続けたのは「こんなにカッコイイのに、こんなにすんばらしい曲なのになぜもっと売れん!!」という魂の悶絶だった。「売れることと名曲であることは別だよ」「記録より記憶だよ」という意見もあったが、うるせぇよ。私は”舞姫”、”流星”でザ・ベストテンに出てほしかったし、誰かの誕生日には拓郎ファンではない世間の人々がフツーに”いくハピ”を口ずさむ世の中になってほしかったのだ。
 私は拓郎を理解できない世の中を呪いつづけ、だからこの国の文化は停滞している…あれ?正しいじゃん(爆)停滞…私の好きな言葉です。いみふ。

2022. 5. 17

☆☆超絶個人的なメモ☆☆
 普段は基本個人行動だし、年齢も年齢なので、突然他人様に会って話すことになったとき、何を話すんだったか忘れてしまうことがここのところとても多い。なので拓郎に学びメモしておきたい。ここ数日気になっていること。

☆マンタとエイとボスタングの違い

☆ぶっちゃけ、どうよ"ラストアルバム祭り"

☆「愛されていなかった」という言葉

☆「ah-面白かった」だったらどうよ
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☆togetherと停電情報とトーキングブルース

☆LOVE2のゲスト予想、ラジオのゲスト予想

☆アナログ盤の予約は締め切ったのか

☆今度お金が入ったらアナログプレーヤーを買おうと思います

☆アナログで「"テレサ野田"歌謡祭」をしたい

☆実は都倉俊一がマイブームで、なかでも麻生よう子シリーズの絶品さ

☆千家和也VS松本隆

☆あの日の志村けんさんと上島竜兵さんと”ホームにて”

☆85年つま恋のラストステージの凄みと荒野

☆ジャケットモデルに楽曲にも登場とスピード出世する奈緒とファンを公言しながら垣花氏から先へ行けない森永卓郎の暗夜行路

☆フィンランドのNATO加入とトーベヤンソン

☆拓郎はスナフキンと思っていたが、実はヘムレンさんではないか

☆”エヴァンゲリオン”はワケがわかんなかったけど”シン・ウルトラマン”はまるで庵野秀明と居酒屋で話し込んでいるような気分だった

☆なぜブレイクしない”ミシンと金魚”

☆背中から打ってくる人、振り返ったらいない人、どうすりゃいいのか思案橋

☆結局アウトロとはなんなのか

2022. 5. 16

☆☆☆OK☆☆☆
 
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いつも駅でとあるクリニックの看板広告を眺めながら、このイラストに似たやつをどっかで観たなとず〜っと悩んでいた。今日わかった。ああそうだコレだ!
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このクリニックと松任谷正隆、「マンタ」という以外、お互いになんの関係もないようである。ah-スッキリした。

2022. 5. 15

☆☆☆わかってることとわからないこと☆☆☆
 正直に言うと吉田拓郎について今起きつつあることがよくわからない。

 目の前の現象としてあるのは、吉田拓郎が渾身のニューアルバムを作って出すということだけだ。いつもであればひたすらwelcomeで迎えてあれこれ聴きこむ、それしかない。
 しかし今回は”アウトロ=エンディング”という壮大な総決算の一環のようで、拓郎の生涯最後のアルバムとなるとのことだ。コンサートはもう無く、ファンクラブも解散し、今度のLOVE2の特番が最後のテレビ、ラジオも年内で終わりということで、気が付くと私らは否応なしに”アウトロ=エンディング”という船に乗っている。
 そこでアルバムも今までのように音楽を勝手に聴け!ではなく、ライナーノーツ等によるご本人の解説など活字・言語媒体ともガッツリとリンクしている。ラジオでは最後の総括の御拓宣がなされ、私のように不埒なファンはあれこれ苦言やお叱りを受けるばかりだ(爆)。
 この”アウトロ=エンディング”の船は結局どこのdestinationに着くのか。拓郎のすべての活動が終わってしまい=引退・隠居があるだけなのか、わからん。それにこの怒涛の流れをどんな気持ちで迎えまつればいいのか、…わからん。

 ということで、わからないことだらけだ。とはいえ、わかろうと頑張っても仕方がない。例えば85年や2009年の右往左往を思い出せば結局わからないものはわからないし気に病んでも仕方ないことだった。それに拓郎自身、拓郎の最後発言に振り回されたファンのことをどう思うかという坂崎の質問に
    それはその人の問題でしょう
というアッサリと答えた (CARAVAN)。けだし名言。なので、そこは各自の問題として自由にやらせていただきましょう。私は思う。とにかく拓郎はこの"アウトロ=エンディング"をやってみたい、それだけなのではないか。そこから先のことは、その時になって見えた景色の中で決める。そもそも歴史が教えてくれる。
  クズグズしないでスパっと止めるのが吉田拓郎だであるならば
  止めたのに、スパっと平気で帰ってくるのも吉田拓郎だ
 結局、この不可解な両極端の狭間の一本道を、それぞれの愛を注ぎ込みながらまいりましょう。>その結論もよくわかんねぇよ

2022. 5. 14

オールナイトニッポンゴールド  第26回 2022.5.13
☆☆☆あらすじ☆☆☆☆☆☆
 吉田拓郎です。毎週金曜日は週替わりのパーソナリティでお送りしますが今週は吉田拓郎がお送りします。
 世の中にはフェイドアウトという言い方がある。徐々に消えてゆく。音楽で言うと曲の最後にだんだん音が小さくなる。あれがフェイドアウト。スーッと消えてゆく。余韻を楽しみながら。こけに対して、カットアウトというのもある。ジャンで終わる。いわゆるシロタマ。ステージではギターを最後に差し出してジャン!と終わる。
 今回のアルバムは全曲カットアウトだ。長い歴史上フェイドアウトがないのは初めて。今回はフェイドアウトを使いたくない。全部カットアウト。結果的にそうなってしまった。気が付いたら全曲カットアウトになっていた。一番最後のアルバムでそうなった。これはスペシャルなアルバムだ。
 我が家では奥さんは音楽には詳しくないし、探求するような聴き方はしないけど僕のアルバムを珍しく何十回と聴いている。家事しながら聴いていて、終わるともう一回かけてという。
 なんか30年以上の長い夫婦生活でこういうふうに奥さんが聴きたがっているのも初めてのことだ。いろんなことが起こっている。僕のリタイアの仕方もカットアウトが似合っている。性格的にもズルズル引きずるのは面白くない、スパっというタイム。全曲スパっと終わる。

 「今夜も自由気ままにお送りします、吉田拓郎のオールナイトニッポンゴールド」

 早速今夜のメインテーマ。ラストアルバムの全曲オンエア。CDのライナーノーツに書いてないことを話す。

 ショルダーバックが僕の愛用品。僕のバックは秘密の青春が詰まっている。東京で想像もしなかったことに巻き込まれている。社会からのイジメも体験していたし、ああ愛はないのかな、広島から出てきて一人ぼっちだと思ったこともあった。
 その時々に沈黙を守っていた。メディアも、深夜放送のラジオ以外では話したくない。僕が黙り込むほど悪いうわさが定着しそうになっていった。僕が黙っていたからそうなってしまった。本当の真実を隠して、音楽でしか正当性を回復できないと追い込まれた時期があった。一時期、メディアでは吉田拓郎の音楽が流れなくなったこともあった。そういうときに音楽で戦うしかない。喋ったり、言い合ったりすることではない。社会を敵だと思っていたけどそこでやりあうのは無駄だと思っていた時期だった。アルバムとコンサートに全神経を使うことにした。

 今度のアルバムのアナログ盤のこの中に、いろんな時期にも僕を信じてくれた音楽ファンへの感謝の気持ちをこめたエッセイを書いた。語ることなかった時、金沢のこと、愛が得られなかった別れのことをエッセイとして残した。「吉田拓郎というのはルールを守らない自分勝手なんだ」というイメージは僕自身とはかなりかけ離れていた。本当は困ってしまうくらいクソまじめで普通のことが大好き。普通に生きることが愛だった。そのことを最後に記すために書いた。コントラストにあるように僕はひ弱なひとりの人間だった。シンプルでプレーンなローカル出身のシンガーだった。

 正装やスーツは着ない。ずっと愛しているのがカジュアルファッション。ジーンズ、シャツ、パーカー、ハワイに行った機会に買いまくる。瀬尾一三とともに買い物癖がある。その中で、ビラボン(Billabong)というブランドが大好きで、シャツ、キャップやスウェットパンツ、パンツ、ウィンドブレイカーなど日本ではあまり手にいらない。ギャップ、バナリパとかのアメリカンカジュアルが好き。ジーンズなんかもギャップ、バナリパのデザインが気に入ってる。徹底的にアメカジが好きだ。家ではユニクロが好み。ゴミ捨ての時ユニクロ着ているのだが、マンションには名前は言えないけれど高名な方もいるが気づかないかな。音楽もアメリカンポップやR&B、ソウルが好き。
 僕のショルダーバックにはいろんな秘密が詰まっている。僕しか知らない真実のメモリーが詰まっている。詳しくアナログ盤のはエッセイで。一曲目はロックンロールです。突っ走っていきたいと思う。

M-1  ショルダーバッグの秘密     吉田拓郎

 (CM))

 誰だって自分の日常、行先で悩んだりする。若かろうと年寄りだろうと。些細な事をチマチマと悩んでいたって仕方ない。時に悩んでいることに自体に酔ってしまうことがある。違う方向に向かってしまうことがある。あんたが悩んでいようが大したことはない。今は大問題じゃない。気にしない気にしないという、レゲエもボサノバもチャチャチャも好きだ。これはラテンテイストの歌。

M-2   君のdestination    吉田拓郎

 アナログLPアルバム。ジャケットも美術的な価値あるものを作ろう。つま恋に行って女優の奈緒と撮影して、デザインの篠原ともえも立ち会って素晴らしい写真を取ることができた。記念にしてほしいジャケット。想い出づくりと思ってほしい。ここだけの「ちょっとだけトゥルーストーリー」というエッセイ集が入っている。ずっと黙り込んでいた話を書いた。フェイドアウトではなくカットアウトの決心。

 5月14日午前0時から予約で8月10日に発売する。数量限定。CDですら需要があるかどうかなので、予定枚数で予約できなくなる。これも全9曲。A面、B面懐かしいね。A面4曲、B面5曲なのかな? ここにしかないエッセイ集。ショルダーバックの秘密を
 まや話題のエイベックスのHPもどうなるか、いずれカットアウト。とにかく予定枚数で終了。僕自身の真実を歌った。

M-3  Contrast    吉田拓郎

(CM)

 僕が歩き続けてきた人生は何だったかを一言でいうと愛。これを求め続ける、幸せが欲しい、それを求め続ける人生だった。これが実に簡単なことではなかった。それは自分がいけなかったと自分に言い聞かせながら歩いてきた。
 人間どうしの織り成すドラマは不可解で理解に苦しむ。そこには自分とは無関係のはずの「周囲」という環境というところからいともたやすく簡単な嘘を生み出してくる。僕の性格もあった。実に実に厄介な道のりだった。若いころから何度も思い知らされた。つくづく自分の運命を恨んだりもしたし、でもどうしても避けては通れない道もあった。  自分で正直にというところを貫くしかない。自分に正直でいようと追い込むことにもなるがそれしかない。それはひとえに僕が愛されていないという現実、事実なんです。
 ここから先は誰にも話さない。パートナーの佳代さんには話たけれど。エッセイには、こんなこと あんなこと 苦々しい事件の真実は残した。実に息苦しいことが多かった時代。作り話、勝手な憶測、自分から見ると滑稽なバカ騒ぎと思う。
 当時の僕という人間が抑えることができない熱い心の若者だったからそういうことになった。多くの敵を作り敵との闘いがあった。特にマスメディアとの闘いは大変だった。そこに存在していたからしようがない。この事実を理解していたのは僕だけだったと思う。当時僕のことを叩いた人たちは、今はそんなことがありましたか?と記憶にないだろう。  そう書かれた僕はそうはいかない。僕は今でも正直根にもって恨んでいる男。それは言ってもしかたない。言えば言うほど深い溝にハマっていく。第三者がネットも含めてつくり話をひろげていゆく。すべては愛されていないという現実、事実そんときそれがあった。  この真実についてエッセイで書いた。
 やっと本当の愛、平和な環境と出会えた。佳代さんと真実を育んでいる。病気も超えて  二人の老いたけれど元気などんな人生を送ろうかと話し合っている。残りの時間を有意義に過ごそうかと笑いながら話している 僕らにとってもせっかくの人生なんで終わり方、このエンディングが大事だと思う。明るい幸せなエンディングが大事だ。僕達の旅もまだまだ続くけど、半歩でも進みたい。時に言い合いしながらも ゆっくり進んでいきたい。

M-4  アウトロ    吉田拓郎

「拓郎さんの引退の決意を尊重したい、でもキンキとのタッグを721億回みたいという」という書き込みを読んだ(笑)。721億回とは、どっから出てきた数字なのか。
 そうはいっても公のテレビ出演はもしかしたらあと一回かも。フジテレビで打合せしているが、Kinkiとも素敵なハートフルな二時間を作りたい。ゲストもキンキが推薦したい人、ああなるほどという人、僕の会いたい人、みんなびっくりすると思う、そうきたか  この人に会いたいというのがある。今慎重に検討中。

 剛くんから連絡があって、今度アルバムを作る時は、「パンナコッタ」という曲を作る とあった。どんな詞、どんな曲になるのか。なぜか僕と剛はパンナコッタになった瞬間  があって、どんなこった?(笑) なぜかそこに行ってしまった(笑) 今度のCDのライナーノーツにも書いた。
 光一はマメにメッセージをくれるようになった。奇跡だ。元旦から頻繁にメールをくれて返事も早くなってきた。変化があったのか。前は無視されてきた。
 光一もずっとリーダーシップを発揮して舞台『SHOCK』を続けてきて引っ張ってゆく覚悟があっただろうし、誰にも言えない苦悩な時間、切ない夜があったと思う。二人とも今のさわやかな笑顔は切ない切ない体験をしたからだと思う。剛もひとりぼっちの切ない夜があった。
 ハグした時の写真がネットにあったけど、まったく光一君が屈託のないシンプルな笑顔で、素晴らしい道を歩いているということを想像させる。先日ハグした時に、僕は見えなかったけど、光一はこんな笑顔をしていたのかと後で知った。素敵な笑顔だった。

 LOVE2 どれほど重要な瞬間だったか。わかったのは時間がたってからだ。それが終わって、時間が経って空虚な時間を埋める物は見つからないという状況だった。他のもので埋めにくい。これは他では体験できない。気が付くのに時間がかかった。光一、剛、僕も貴重な瞬間を大事にしたい。素敵な時間を作ったら、ファンのみんなとも幸せ感を共有したい。僕らを逢わせて育ててくれた、奇跡の出会いを見守ってくれたファンの方々のサポートがあって、歳の差やキャリアの差や人生の生きる道の違いは何も関係ない。一人の人間としてであって三人、寂しいこと、苦しいことやら、悲しいこと、喜びもあり、涙の夜の事やひとりずつが独りぼっちを体験しながら、ある日また三人が同じにいられる。一緒に楽しい気持ちでいられるから、言葉なんて意味がならないくらい。その感覚をみんなもわかってほしいし、観てほしい。
(CM)

<11時>

天照愛子これからお風呂に入って寝ます

 堂本剛のアレンジ&ギターで参加してくれた。Aメロの剛の音がしっかり聴こえる素敵なギターだ。僕とハーモニーをつけてくれているのが、2019年のツアーに参加してくれた吉岡祐歩。剛に自分の声でかぶせるのではなく、男性のハモが欲しいと言ったら、2019年をチェックしててくれたんだろうけれど吉岡君に頼もうということになった。このハモもまた聴きごたえのあるところだ。

M-5   ひとりgo to    吉田拓郎

 “たえこMY LOVE”(歌う)という歌があって、あのモデルは実在していた。74年ころキーボーディストの柳田ヒロと付き合っていた。典型的なプレイボーイで、頭の回転も早く、物知りで話術か素晴らしい。女の人のいるお店に行くと、必ず柳田ヒロに恋をするという人が出てくる。その柳田ヒロが連れてきた女性がいた。ファッション、口の効き方がいかにも最先端で頭もイイ魅力的な女性だった。言いたくないエピをしまっていたらしいくモデルのようだけど暗いマイナスなところもあった。酔うと「死んじゃいたい 生きててもつまらない」 と口にした。23、4、5歳だったけれど世の中にウンザリしている感じだった。時代的にもそういうのが流行していた。桃井かおり的な。
 その女性は、なんのサインもないままフラッと会えなくなった。どうなったのか誰も知らない。不思議なイメージの女性だった。あのたえこの後、2021年の夏に表参道   を雨に濡れて三人で 走った思い出があった。完結編を作ろうと思った。懐かしいR&B、拓郎節がいかんなく発揮されている。 

M-6   雨の中で歌った    吉田拓郎  

(CM)

 “雪さよなら”・・・これは小田和正とのハーモニーが絶賛。さすが小田さんと言われているが、おいおい、あれは小田和正のハーモニーということで、僕がウィスパーな感じでやろうと、珍しい小田和正のようにささやく声で三回歌っているのをひとつにまとめている。あの声だと小田の声がぱっとハマると思っていた。下の音も用意しておいた。いろいろ言わしてよ。僕は、いつになく優しい歌い方をしている。そうさせた小田和正の偉大さだな。
 友情は大それたことはないけど、泉谷チャリティとか国立競技場IYYで、オフコースと"YesNo"と"君を抱きしめて" (お前が欲しいだけ)、昔から知っていたけれどそういうところで再接近して距離感が縮まっていった。音楽の方法論と方向性は一致していないけど向かうマインドは共鳴している。
 その後はクリ約と僕の対談番組”YOKOSO”に出てもらったりもした。今や貴重なスイーツ会。お爺ちゃん二人が世間と他人の悪口を言い合う。お酒を飲まないので、お酒の糖分が足りないのを甘いもの補っている。

M-7 雪さよなら  吉田拓郎(小田和正)

 昔、ケネディ大統領が就任したときの演説があった。後に大統領は暗殺される。そのあとで就任演説のtogrtheという言葉にコーラスをつけた曲のレコードが発売された。手を取り合って いこうという演説だった。暗殺事件のとき、いわゆるそれまで抱いていたアメリカンドリームとか甘い青春の印象が後退してアメリカが怖くなった、しかし就任演説を歌にしてしまう発想もアメリカ。こういうアイデアがすごい。Together、このアルバムも若い人たちから協力してもらった。Kinki、篠原、kinkiが縁となった奈緒。そして小田和正は最後の同年代の友達。そういう人の名前を歌に登場させたい。こういうブルース、アメリカントーキングブルースというのは、今の日本にはいないし歌えない。正直、僕しか歌えません。こんなに美しい音楽なのにやらなくなって、76歳の今、ブルースの楽しさをわかってほしい。
 僕がエレキを二本弾いている。僕のギターはアメリカンなフレーズだからわかるかもしれない。こういうのを弾かせたら天下一品。吉田拓郎はこういうのをやるんだよとわかっている人は音色もわかるかもしれない。
 争いのない世界、平和な世界への憧れ、自然環境も含めて地球が危ういんではないか、この地球で仲良くTogetherで暮らせるようにという思いをこめて。 

M-8   Together     吉田拓郎

(CM)

 音楽は人の心に入り込んで悪さをすることがある。素敵でチャーミングだけど、危険な一面もある。人生は、たかが唄、たかが音楽、されど歌、されど音楽。誠実な人間が時に脆く時に危うく生きてきた日常を表現してきた。 生きてきた道は間違いだらけだったかもしれない。人生は一回限り、やり直しとかリテイクはできない。反省も後悔もした。それでも彼は彼なりに必死で生きてきた。ことあるごとに彼は強気な発言をして周囲なんて気にしない、何クソ的な意地っ張りだった。しかし、一人の人間が意地を張りとおすことはできない。そういう強い人間がいるわけがない。誰だって弱くて脆くて独りぼっちでそういう人間。彼は意地っ張りだけど、陰では泣いたこともあったし、それはどうしたと強がっていたけど、悩んでいたこともあった。愛してもらいたいという気持ちが強かったと思う。

 最後の曲。ライナーノーツに書いたけれど、あなたのご家族を思いながら、僕らと似た境遇がいらしたら、お互いの母上のことを話し思いながら、僕も佳代もそうなりたいと思っている。

M-9  ah-面白かった    吉田拓郎

(CM)
 〇エンディング
 質問に答えると書いたが、全曲かけるとなるともひとりひとりの質問が長いんだよ。  番組がすぐ終わっちゃう

<お喋りはいつから上手になったのかいう投書>
 子どもの頃から学校へは半分くらいしか行っていない。家で紙相撲を毎日やっていた。ラジオのマネをしながら、若乃花、栃乃花とかアナウンサーの中継のマネをしていたのが原因。ひとり喋りの原点だと思う。
<72年のライブアルバムに”好きになったよ女の娘”が西城秀樹の作曲で入っているという投書>
 いっぱい来ているけど西城秀樹とは決着はついている。当時クレームして、謝罪もいれてくれた。それ以上には騒がない。若さゆえの勇み足だった。
<拓郎、拓郎さんと呼ばれるのどっちがいいかという投書>
拓郎、拓郎さん、あえて拓郎ちゃんと言う人が歴史上いけどくるな。
<小田和正さんのどこが好きかという投書>
 小田は優しいメロディー、スイートなイメージだけど、ところが僕なんかよりずーっと頑固で男らしい自分も曲げない。どうしようもないクソジジイ。そういうところは白か黒かハッキリしていて貴重な友達。
<世界の気に入りの場所はどこかという投書>
 誰が何といおうとハワイ。ワイキキのオアフではなく、マウイ島のワイレア。ケアラニホテルのプールサイドでチチ、ワイレアでショッピングで買い物しているのが好き。
May I have a chichi?
<4月19日 新東名でのつま恋はどうでしたかという投書>
 120キロまで出せる素晴らしい。気分いいです。スイスイ走れる。これが高速道路。
富士川サービスエリアの川と景色が美しいが、それを上回る沼津サービスエリアが、伊豆半島、富士山、駿河湾を見渡せて素晴らしかった。
 次回は6月10日金曜日

☆☆☆思いつきと感想☆☆☆

☆前代未聞の「全曲オンエア祭」と銘打っている。たまたま昨日封切りの映画を観たが、売店で買ったパンフレットにはネタバレ注意の厳重な帯封がしてあった。しかし、そこは吉田拓郎、そんなことはぶっ飛ばしての「全曲放出祭り」だ。ラストアルバムもライナーノーツ(取説みたいなものか)付のアルバムも前例がない。ここは御大の提示メニューにすべて乗ってみるしかない。

☆これは堂々たるアルバムばい。アルバム完成おめでとうございます。

☆但し感想はまだ無記。

☆これまではデモの自然な感じがいい等とわかったふうなことを言ってた私だが、やはり完成版の声と演奏のクリアさとチカラ強さは違う。音魂というやつを感じる。特に"Contrast"はそうだ。

☆そこまで言われるとエッセイ…読まずに死ねるかという気になった。14日午前0時から予約開始というから小心者の私は、直ちにアナログ盤を予約いたした。

☆とはいえ「祭り」というには、曲間に語られた拓郎の言葉は、あまりにシリアスであまりに切実である。

☆週刊誌やマスコミでは吉田拓郎の悪口しか見なかった時代が確かにあった。ひどかったね、あの頃は。遠い昔のようだけど、やはり吉田拓郎の心の中には深く刺さっているのか。“人を信じるはかなさが 心のカタチを少し変えてしまった”あの歌詞が浮かぶ。もちろん拓郎の真情など私にわかるはずもないが、ただ私も40年前の都倉俊一の一言を半世紀恨み続けるような根に持つタイプなのでなんとなくうっすらとわかるのだ(爆)。

☆「愛されていなかった」「愛されたかった」という言葉は、いろいろショッキングだ。この身の置き所がないような哀しみ。
 そう思うと私達の愛はどうだったんだ。確かに停滞したり、文句垂れたり、ご期待に沿えなかったところは多々あるが、愛して愛して愛しすぎたのが多くのファンたちである。至らぬわが身にしみてくる。

☆「YesNo」は覚えていて「お前が欲しいだけ」を忘れる。"君を抱きしめて"ってなんだ(爆)

☆ 質問は殆ど読まなかったな。私は、
 「拓郎さんは、ショルダーバックはナナメ(たすき)がけですか、一方の肩がけですか」という我ながら繊細な質問を送ったのに。ナナメがけは安定するが、幼稚園や中学の学生バッグみたいでなんかダサいのではないかと悩んでいた。でも拓郎さんがそうするならそっちにすると愛をこめて書いたのだが(爆)。

☆☆☆今日の学び☆☆☆
 外出はビラボン(Billabong)、部屋着はユニクロ。♪そろそろビールが〜飲みたい時間だね…懐かしい。

2022. 5. 13

☆☆☆祭りなのか☆☆☆
 ニッポン放送によると今夜は「吉田拓郎のANN GOLD全曲オンエア祭」というらしい。祭りか。今日は、ラジオというより祭りだと思っているので、古い歌は停滞しているとかそういうカタイ話は抜きにして(拍手)…祭り好きの奴らめ。いみふ。

2022. 5. 12

☆☆正気のカケラのon the rock☆☆
 ♪拓ちゃん来るぞと仙台坂の店まで来てみたが〜拓ちゃん来もせず、志村けんと上島竜兵が〜 …お2人でテーブルを挟んで飲んでいらしたことがあった。ひとつ空席を挟んで隣のテーブルで私は、もし彼らのどちらかがテーブルをトンと叩きでもしたら、その場でジャンプしようと準備して待っていたが、ついぞそのチャンスはなかった。
 お二人はテレビみたいに大騒ぎするわけではなく、かといって暗く沈んでいるのでもなく、静かに談笑しながら楽しそうに飲んでいらした。今にして思えば実に素敵な絵だった。あの二人がもういないなんて。どちらも大ファンというわけではなかったのに心の底から切ない。あらためてご冥福をお祈りします。

 ♪仙台坂を降りて〜の”僕達のラプソディ”は、拓郎が自分でメロディーをつけ直すと昨年のラジオで言っていた。でもこの原曲ももの凄く好きだ。
 夕焼けの空をどこまでも一緒に追いかけていきましょう…詞とあいまってうっかりすると泣けそうになる。西方浄土とか天国とかいうけれど、そんなに急がないで。とにかくみなさんお元気でいらしてください。

2022. 5. 11

☆☆♪なーまいきーですけどぉー、ひとつだけ言わせてね☆☆☆
 都倉俊一が稀代の作曲家であることは私でもわかる。“五番街のマリーへ”、”ジョニイへの伝言”、中山千夏の”あなたの心に”などは当時小学生ながらに好きな曲だった。麻生よう子の“逃避行”の完成度の高さには中学生ながらにぶっ飛んだし、私は桜田淳子派だったが、それでも初期百恵ちゃんの”青い果実”から始まるイケナイ路線も胸が疼いた。”恋のアメリカンフットボール”のメロディー展開が好きで好きでのカラオケの持ち歌だった。浅田美代子は”じゃあまたね”を除けば”わたしの宵待草”がベストだ。とにかくお世話になりましたと感謝を禁じえない。
 …それでもなぜ嫌うのだ。
 昔、何気なく観ていた「スター誕生」で、出場者の一人が”旅の宿”を歌ったことがあった。その時、審査員だった都倉俊一はあのキザな佇まいでこう言い放った。
「歌唱力はあるんだから、キミはもっとちゃんとした作品を歌った方がいい」
  はぁ?! その瞬間、ああ私のハートはストップモーション…桑江知子、感情線は乱れに乱れた…黒木真由美って知らんよね
 しかもその出場者は「はい、ありがとうございました」>ありがとうじゃねぇだろぉ
 この時の都倉俊一が、おいらの心にハガネを入れた。なぜ嫌いか?というより、なぜこんなこと言う人を好きになれるのか?という問いの立て方が正しい。
 ということでそれ以来、どんなに”ピンクレディー”がヒットしようとも私の心は動かなかった。なので昔、ワイドショーを賑わした時も私は大信田礼子を応援したのだった>よしなさい
 今や文化庁長官だ。どうかこの国の文化をよろしくお願いします。

2022. 5. 10

☆☆☆それだけが気がかり☆☆☆
 Staffブログでつま恋を訪れている拓郎の写真を観ると胸が熱くなる。観ているこちらにも万感の思いが溢れくる。特にエキシビションホールに佇む拓郎を観ると、思わずパイプ椅子を届けたくなりませんか>ならねぇよ

 林部智史が、阿久悠の遺稿の詞に拓郎が曲をつけて歌った「この街」。この日記でも何回か書いたが大好きな曲だ。武部聡志のスケール感のあるアレンジも聴かせる。もちろん林部の澄んだボーカルが美しい。そして何よりメロディーがすんばらしい。吉田拓郎、70歳にしてこんな素敵な曲が書けるんだと感嘆したものだ。
 その"この街"が林部智史の今度のシングルCDになるというネットニュースを読んだ。ただしB面(とは言わないのか)だ。 A面はやはり阿久悠の遺稿作「いずこ 〜ふたたび歌を空に翔ばそう〜」。確かこれはレスペクトライブに行ったとき、冒頭でリリーフランキーが朗読した詞だ。阿久悠先生は心から尊崇するが、今回の作曲は都倉俊一だ。私の個人的偏見だが、よりによって都倉俊一のB面ということがちょっと面白くない。いやちよっとじゃない、すげー面白くない。…やっぱりパイプ椅子が欲しくなりませんか?>だからならねぇよ
 まぁ「この街」はアレンジも違うというので僕は買いますとも。ということで明日は「私はなぜ都倉俊一を嫌うのか」をお送りします。たぶん。

2022. 5. 9

☆☆花祭り☆☆
 ドイツのバレエ。コロナにも戦争の影響にも負けずいよいよ2年越しプレミアの佳境とな。全力疲労中というが、とにかく健康と安全と無事を祈ってます。頑張って。
 おじさんも今週金曜日の佳境に向けて頑張ります>ってラジオ聴くだけだろ
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  君の背中は
  背中は弓なりに
  こなごなの心の破片
  僕に愛の矢を射るんです

 ついにライブじゃ演奏しなかったけどいい歌だったな。

2022. 5. 8

☆☆☆start again from zero☆☆☆
 知る人ぞ知るけど、知らない人は全く知らない”スタートレック:ピカード第2シーズン”のファイナルを観終わった。伏線回収に少々せわしない気もしたが観ごたえあり。82歳を超えたピカード=パトリック・スチュアートは元気といえば元気だが、声が少弱々しくなっている。もう1シーズンあるらしいが、ここまでで十分にすばらしい、これぞ”アウトロ”。永らくこのシリーズを愛し続けて良かったと思えた。
 退役した老艦長は、今度は過去への旅に出て、自分の母親との思い出とトラウマに向き合う。そして旅の果てに現在の愛にたどり着く。「時は二度を許してくれないが、人はやりなおすことができる」。似たセリフをかつて拓郎も言っていた。どうかラリスと二人仲睦まじく、時々ガイナンの店に行く静かな暮らしをおくってほしいと心から願う。 
 ”Time is on myside”とエディット・ピアフの”後悔していない”ちゃう”水に流して”が大事なところで必ずテーマ曲のように使われる。これがまたたまらん。
 観てない人にはなんのこっちゃ?だろうが、人間はいくつになっても過去と向き合い、未来へ進むことができる。アウトロだ、エンディングだと,かまびすしいと思っていたが、あらためて吉田拓郎はラストアルバム「ah-面白かった」で、どういうアウトロ=エンディングを描いているのか、心から楽しみになってきたというお話でした。

2022. 5. 5

☆☆☆それぞれのa day☆☆☆ 
 私の知り合いで75年のつま恋に行った人は二人ほどいる。この二人の思い出話はどちらも面白い。コンサート本編の話はもとより、つま恋に向けて出立するところから、どちらもある種の覚悟が滲んだ話に胸がワクワクする。全編しっかり聴きたいと思うがなかなか機会がない。
 そういう意味で「僕と拓郎と青い空」がいよいよ面白い。なかなかつま恋に到着しなかったし、エンターテインメントとしてドラマチックな展開があるわけではないが、だからこそいっそう胸にしみるドラマになるのだ。帰り道も帰ってからの日常の日々も詳しく知りたくなる。

 こういう経験が必ず5万とおりあるのだ。いや行けなかった方々のドラマというものもあるはずだ。そもそもつま恋のようなイベントだけに限らず、コンサートツアーのひとつひとつの公演にもそういうそれぞれのドラマが確実にある。どんな思いでチケットを買って、どうやって待ち焦がれて、どうやって聴いて、帰りにどこで飲んで、どこで食事して、そのあとどう生きているか。それは他人から見ればただの普通な日常かもしれないないけれど、かけがえのないドラマだ。それも自分の何かだ、言えない何かだ。

 校長先生の鉄板で「家に帰るまでが遠足です」というのがあるがあれは真理だと思う。ただ「家に帰ってからも遠足です」というのがもっと正しいのではないか。ライブもこれと同じだ。

 拓郎はよく「真実はステージにある」という。御意。でもライブに向かう私たちにもそれぞれの真実がある。そのひとつひとつのドラマを糾合した時、浮かび上がる吉田拓郎の真実の魅力というものもあるはずなのだ。きっとそれぞれだけが知っているそれぞれのカッコイイ拓郎がいる。
 しかし花森安治さんの言葉を借りれば
 「こうした思い出は一片の灰のように人たちの心の底ふかくに沈んでしまって どこにも残らない」(暮らしの手帖編「戦争中の暮らしの記録」まえがきより)
 そう思い始めるといてもたってもいられないような気分になるのよ。

2022. 5. 4

☆☆☆♪俺の居場所は☆☆
 奥田民生の件はいろいろとショックだ。ミュージシャンと飲酒か。伝説の大阪球場タコヤキ喰ってっか事件は何度話を聞いても面白いし、ステージから「酒をくれ」という高田渡に客席からリレーで酒を送ったことも大切な思い出だ。何より奥田民生のことは心の底から大好きだ。
 しかし今の時代もう「飲酒」はオワコンなんだとあらためて思い知った。バーボンを抱いて君はまだまだイケそうじゃないかと歌った拓郎もお酒をほとんど口にしなくなった。そもそも奥田民生がダメなんだから、私みたいなただのジジイの飲酒はもうそれだけで社会悪みたいなものかもしれん。
 酒飲みがカッコよかったり、酒は人々の潤滑油だ等ともてはやされたりした勝手な時代は終わったのだな。私は酒が強くないしそんなに酒癖が悪い方ではないとは思うのだが、酒飲みでない方々、今まで申し訳ありませんでした。”飲めるだけでも幸せ者と言うだけ野暮だよ飲めぬヤツ”なんて歌ってた歌手の分までお詫びします。

 ただ困ったことに、最近歳をとるごとにお酒がとんどん美味しくなってるんだよ。たまらん。独酌か心許した仲間たちと密やかに飲むしかない。♪これからが楽しむときだ、ひっそりとコソコソやろう
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2022. 5. 3

☆☆☆防波堤☆☆☆
 今日は憲法記念日だ。昔、学生の頃の”憲法”の授業は真面目に受けてなかったしチンプンカンプンだった。しかしそこで「多数決や多数勢力からこぼれ落ちた少数者=個人を守る防波堤として憲法がある」と習ったことだけはよく覚えている。その時、ああ、これは吉田拓郎だ、と思ったからだ。当時の拓郎は、口癖のように、少数派よ魅力的であれ!行動的であれ!そして優しくあれ!と熱心にエールを送っていた(例えば「俺だけダルセーニョ」p.194)。もちろん拓郎は憲法のことなんか考えていなかったと思うが、スピリットはしっかりと通底していると気がする。。そのスピリットのひとつの結実が”Life”という作品であるように思えてならない。…というかもう勝手にそう思う。魂の名曲だぜ。
 ”Life”は、85年のつま恋のバージョンが好きだな。声はもうガラガラなんだけど、身をよじって、声を身体の奥底から絞り出すようにシャウトする。これがたまらない。
 やるせなさも通わない世の中になりませんように。

2022. 5. 2

☆☆☆オシムの言葉はささやきまじり☆☆☆
 サッカー全日本代表元監督イビチャ・オシムさんの御冥福をお祈りします。私はサッカーは門外漢ですが、このオシム元監督の語録「オシムの言葉」他のいくつかの著書は私にとっての座右の書でありました。
 鬼軍曹のような威厳を持たれたこの監督はいつもどんな場所でも「教訓」を垂れます。それは直接にはサッカーのことでありながら、人生のこと、社会のこと、そしてご自身の厳しい戦争体験から平和を希求に至るまで森羅万象に通じている。
 そんなオシム語録が、吉田拓郎の世界にも通じていないはずがない…というのが昔からの私の考えでした。
 不謹慎と怒られることを覚悟で、17年ほど昔に某所に書いた私の当時の日記を抜粋してみます。

☆☆☆以下引用☆☆☆
<オシムの言葉はささやきまじり・・・>

 オシム語録の中で「サッカー」を「拓郎」に、「試合」を「ライブ」に、「サポーター」を「拓郎ファン」、「チーム」を「バンド」に変えて、あとは原文のママという最小限の変換だけで(>どこが最小限だよ!)見事に拓郎界にあてはまります。

■2004年5月4日
 私の人生に拓郎は欠かせない、拓郎を選んだ。人生において結婚もしたし、子供もできた。数学の教師になる道もあったが、拓郎があって、今がある。友人には拓郎は拓郎、プライベートはプライベートと分けている人もいるけど、私にとってはプライベートも拓郎。お金ができて家内と旅行に行っても、結局拓郎を見に行ってしまう。でもそれが私の選んだ人生だし、いい人生だと思っている。

■2004年5月2日
柏戦後の会見にて
 マスコミの皆さんは失望しているかもしれないが、ということはファンの私たちはもっと失望しているということ。
 でも人生はこれからも続くよ。

■2004年4月1日
「ぐるっと千葉」の取材を受けて

 ぜひライブを見に来てください。そこではきっと、素晴らしい出来事が待っています。

 英雄とは、既に墓の中にいる人のことをいいます。吉田拓郎はまだ生きています。

 古い井戸があれば古い井戸を汲みながら、新しい井戸を掘るべきだ。

■2005年11月11日
UNITED N0.129 より2
 もし、このライブの成功で満足してしまうようなら、逆に今日は成功しないほうがよかったかもしれない。さらに上を狙っていくにはどうしたらいいか、みんなで考えていかなければならない。

■2005年10月16日
UNITED フクアリオープン特別号より2
 拓郎ファンの皆さんに分かってほしいのは、拓郎というのは人生と同じであって、必ずしも自分の思った方向に物事が動くとはかぎらない。勝つこともあれば負けることもあるのだ。勝ちだけを望む拓郎ファンであってほしくない。

■2005年9月6日
週刊サッカーマガジン1043(9/20)号
 拓郎ファンのメンタリティーというものは、勝った、負けたで、落ちたり上がっていくようじゃダメ。自分がずっと暮らしていく、毎日戦っていく中で、いつも持ち続けていなければいけない。

■2005年5月1日
川崎戦前 ミーティングにて
 どこで何が起こるかわからないもの!人生とはいつも危険と隣合わせだ。拓郎も同じだ。

■2005年2月1日
朝日新聞朝刊「オシムの提言」より
 私にとって拓郎は人生だ。拓郎は終わりがなく、新しい道を突き進む。だから「拓郎とはこういうもの」と発展を妨げる「壁」は作らない。心がけているのは、その点だ。

■2005年1月25日
朝日新聞朝刊「オシムの提言」より
 厳しいツアーになるが、何かを成し遂げられると信じたい。もし、うまくいかなければ、私は去るだけだ。

■2003年11月29日
東京V戦前のミーティングにて
 我々は、失うものを全て失ってきた。何も怖がらずにライブに行こう。

■2003年11月29日
 人生は100年も続かない。拓郎と拓郎ファンのキャリアなど短いものだ。その短い選命の中で、何か歴史に残ることをしよう。

 何もしていないし、何もしようとしていない。何かをやろうとしなければ、何も起こらない。


■2005年
 お前が一番長く、このバンドの中にいるんだろ。それは聞いた。お前はこのバンドのすべてを知っているんだろ?何で、このバンドは勝てないんだ。分からないお前がいること自体が、バンドが勝てない理由なんだ。

☆☆☆以上引用☆☆☆
 なんかビッタリでしょ? こんな時にネタにして申し訳ありませんでした。しかし心からの敬意でもあります。どうか安らかにお休みください。

2022. 5. 1

☆☆☆ただそこにあるウォール・マリアの壁を☆☆☆
 「進撃の巨人」の熱狂的ファンに連れられて大分県の日田市の温泉に行った。作者の諌山創氏の生誕の地として聖地化している。大山ダムもそのひとつ。
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 作者の諌山氏が子どもの頃から見上げていたこの巨大なダムが、巨人たちの侵入から人間世界を守るために張り巡らされた巨体な壁のモデルとなった。巨大な壁の向こうの世界に思いを巡らせる主人公三人の銅像が建っている。写真には日輪の端が映っている。
 私も人生で初めて本物のダムというものを観た。デカイ。ひたすらデカイ。そして壁を見上げて思いを巡らせる少年…というと、進撃ファンには申し訳ないけれど、どうしたって”マラソン”なのだ。巨大すぎて、子ども頃も今もまたしがみつくのも大変な壁だけど。

 『進撃の巨人』のスマホアプリゲーム『進撃の巨人 in HITA』が配信され、ゲームの公式ソングを、”detente”.”吉田町の唄”のあたりから私ら拓郎ファンがお世話になっているギターの稲葉政裕Masahiro Inaba氏が全曲プロデュースをし、10曲入りのアルバムを配信リリースされたことを知った。稲葉さんは大分のご出身らしい。とにかくすべての道は拓郎に通ずるのである。いつか走れなくなるまで遥かな夢を抱いて旅を続ける。捧げよ、捧げよ、心臓を捧げよ。
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2022. 4. 29

☆☆☆配達されなかった一通の葉書☆☆☆
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 出てきた紙片は、アルバム「ローリング30」の購入者アンケートハガキだった。すみずみまで記入されているのに送っていなかった。たぶん切手がなかったのだ。あれだけ待ち焦がれて買ったアルバムなのに、切手を買って貼って投函するのがめんどくさかったのだ。やっばり私はダメな人だと考えながら黄ばんだ葉書を眺めた。
 それにしても質問がエグい。
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  あなたがこのレコードをプロデュースするとしたら、どの曲をシングル・カットしたいと思いますか。
 いちおうシングルカットが予定されていたのか。高校2年生のガキは書いている。
  1.絶対に「英雄」 2.外は白い雪の夜
〜絶対にって(恥)。でもそうだった。最初にこのアルバムを聴いた時、この”英雄”の緊迫したサウンドとシャウティなボーカルにガツンと打ちのめされたんだった。これだ!
 「明日に向って走れ」〜「ぷらいべえと」〜「大いなる人」という愛と哀しみのしみじみ成熟路線が続いていたところで、この"英雄"のパワー炸裂に狂喜した。この曲でニューミュージックのヤカラどもを蹴散らしてヒットチャートに躍り上がってほしいと夢を見ていた。若かったあの頃、何も怖くなくなかった。
 松本隆は「外は白い雪の夜」をシングルにしていたらその後の拓郎は変わっていたはずだと語る。「英雄」だったらどうだろうか。んなことはもういい。21曲もありながら、シングルを一曲もカットしなかったという拓郎の選択があるのみ。わたしたちはそういうタイムラインをありがたく生きるしかない。

 ということでアルバムには、自分だけの第一印象=魂の「これだ!」がある。最近だと"午前中に..."の「季節の花」、"午後の天気"の「この風」、"AGAIN"の「僕の大好きな場所」。今回はなんだ、何が来るんだ。

2022. 4. 28

☆☆☆アナログレコード抱えて歩いたよ☆☆☆
 今回のラストアルバムでアナログ盤が出るというので、久々にアナログLPというものを見たくなった。実家に寄った際に、納戸のアナログレコードを出してみた。…デカイ。こんなにデカかったか。そして重い。忘れていた。2LP+1の「ローリング30」なんてずっしり感が半端ない。
 俺も含めて若者はこんなデカいものを脇に抱えて電車に乗ったり歩いたりしていたのだ。昔の映画「マルサの女」で査察官役の大地康夫が、肩からショルダーのデカイ携帯電話を下げているのが、今になって見るとなんか切なくて可笑しい。でもLPを抱えている人々の姿は可笑しくないし、しみじみといいもんだと思う。なぜ違うのだろう。
  あとCDにはなくて、アナログレコードにあるもののひとつは「匂い」だ。「香り」というべきか。ジャケットから取り出すときの塩化ビニールの匂いと紙の混ざった匂い。ちょっとワクワクする。新しいものは新しいなりに、年季の入ったものはそれなりの匂いがある。
 ずっしり重い「ローリング30」を開くと年季の匂いとともに挟まっていた一枚の紙片を発見した
                             …たいした話ではないがつづく。

2022. 4. 27

☆☆☆剛より剛く☆☆☆
 「…だから拓郎さんに感謝の気持ちを込めて。あとは拓郎さんのファンの人、あとは拓郎さんの人生に繋がった全ての人に感謝の気持ちを込めてアレンジをしました」(堂本剛)
 この言葉に打ちのめされる。もう一度読む「拓郎さんのファンの人、あとは拓郎さんの人生に繋がった全ての人に感謝の気持ちを込めて」。ああ、もっと言って。停滞しているとか信用していないとかロクなこと言われず傷だらけのこの心に染みてくるこの言葉。鳥かごに入れてゆっくり眺めていたい。
 こんなにも温かい言葉をくださる人がこの世にいるのだ。堂本剛…さすが黒兵衛の愛用席が一緒の私達だ>もういいだろ、その話は。
 俺は誓う。加藤剛よりも、長渕剛よりも、草g剛よりも、綾野剛よりも、剛力彩芽よりもあなたを応援する。心の底からありがとう。

2022. 4. 26

☆☆☆この世界の片隅に☆☆☆
 先日の飲み会で聴いた話。
 昔、コンサートが始まって3曲目くらいに遅れてきた隣席の知らない人から「すみません、一曲目は何でしたか?」「”冷たい雨が降っている”でした」と答えると隣席の人が「あ゛〜っ!」と頭を抱えてその場に倒れこんだ。超絶好きな曲だったらしい。
 その方には心の底から同情するが、それでも愛の深さが我々の心を揺さぶる。この世界にはこういう話がたくさんたくさん眠っているんだろうな。

2022. 4. 25

☆☆☆近影だよ人生は☆☆☆
 “ah-面白かった”のジャケット写真は良いな。言うまでもなく吉田拓郎はビジュアルの人だ。近影=最近の人物写真という意味らしい。だから近影写真じゃなくちゃならない。
 この世には、歌手本人の登場しないイラストやデザインや写真のアートなジャケットも多いが、やはり吉田拓郎はカッコイイ本人の近影こそが正義だ。大瀧詠一やさだまさしや小椋佳とは違うのだ(爆)。すまん。
 例えばシングル“流星”と”春を待つ手紙”…これなんざぁ79年の艶のある拓郎の写真がジャケットだったらもっと売れたのではないか。99年の”心の破片”もそうだ。”気持ちだよ”に至っては佳曲なのに、ジャケット自体が別に買わなくてもいいんじゃね?と投げている気さえする。
 その点、エイベックスになってからは徹底してカッコイイ近影写真を求めようとする姿勢が嬉しい。本人のカッコよさ、美しさを徹底して攻めてほしい。今回…攻めすぎではないかと一瞬ひるんだが、そんなこと迷い事を言ってる場合じゃない。
 これこそラストアルバムにふさわしい。手に取ってワクワクし、抱えてウキウキ歩きたくなり、飾って誇らしい歌手近影ジャケット。アウトロまで吉田拓郎はカッコ良かった、それを証明するジャケットだ。
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2022. 4. 24

☆☆生きていなけりゃ☆☆☆
 昨日はムシ暑いくらいの好日だった。今年が13回忌の拓バカ同志のK君の墓参。奥様も来てくださり総勢10名の集団墓参となった。お墓の前に10人も並ぶと「忠臣蔵」みたいだ(爆)。K君こそまっすぐな吉田拓郎への愛を貫いた忠臣ファンだった。
 そして彼はいつも笑顔で私達にも優しかった。めんどくせー私が災いして、めんどくせーことになっていた10数年。こうしてまた一緒にあえる機会を作ってくれた。そして、みんなそれぞれに病を得たりいろんなことがあったりしたようだが、こうして生きながらえて拓郎の歌を聴き、語り、そして悪態をつける。すべてはK君のおかげだというと、きっと彼は「いやそれはぜんぶ拓郎さんのおかげですよ」というに違いない。
 「覚えている人がいる限り、人は本当には死なない」というが、そういう意味ではこれからも彼とみんなはたぶん拓郎についてあーだ、こーだと心の中で対話しながら一緒に生き続ける。まずは公開されたジャケット写真について、とことん語りたいところだ。この写真、あまりにもたくさんのことを私達に語りかけてくるじゃないか。
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2022. 4. 23

☆☆あの場所でもう一度逢えるなら☆☆
 つま恋の撮影のブログ。新緑…たぶん新緑のつま恋を舞台にした一編の映画かドラマを観ているみたいな気分になる。行間からあふれくる万感の思い。最後の花束のファンのお2人も方もよくぞそこに遭われた。GJ!すべては天の配剤か。行きてぇ。

2022. 4. 22

☆☆☆たとえば犬の気持ちで☆☆☆
 奇しくも昨日の新聞に、いしいしんじの人生案内が載った。愛犬の死を後悔する相談者への彼の回答がまたすんばらしいものだった。あたりまえだがホンモノは違う。違うとかいうレベルではない。ってか、お詫びしろよ自分。

 吉田拓郎はつま恋に行ったんだな。これまで想像もつかない様々な想定外な困難が立ちはだかってきたようだが、それでも、つま恋に行くことが出来て心の底から良かったと思う。成果物の写真も見たいが、つま恋に抱かれる拓郎のメイキングの映像も観たい。
 編集は大変でしょうが頑張ってください。でも編集なしそのままでも、何時間でも何十時間の映像であっても私は全然平気です。喜んで拝見します。

2022. 4. 21

☆☆☆人生案内を語らず☆☆☆
 読売新聞のいしいしんじの人生案内が好きすぎる。好きすぎて今の心境を人生案内に相談したらどうなるか、まさか本当に相談するわけにもいかないから、勝手に自分でシュミレーションしてみた。すまん。結構、自分で書いて自分で元気になった(爆)。

    ファンを信用しないという歌手の言葉が悲しい
[相談]
 私は中学生の頃から何十年もの間、大ファンの歌手がいるのですが、最近は高齢を理由にエンディングと称してライブやアルバムを最後にしようとしています。先日新聞のインタビューで最後にあたってファンへの気持ちを問われると「僕はファンという人をあまり信用していないし、彼らも僕を信用していないと思っている」と答えており大変ショックでした。確かに私は鬼畜なファンサイトを作って悪態をついたりするなど、決して好かれたり信用されたりするような良いファンではありませんが、それにしてもファンを信用していないという言葉はあまりに寂しいです。私は今後どんな気持ちで彼を応援すればいいのでしょうか。(東京都・星紀行)

[回答]
 信用とは何か。歌手とファンとの間にあるものは音楽だ。歌手が魂をこめて音楽を作り差し出す。その差し出された音楽に、あなたはこれまで感動したり、悲しんだり、勇気づけられたりしてその心をふるわせてきた。歌手の魂の律動が、音叉のように聞き手につたわりあなたの心がふるえる。その瞬間にあるものが信用だ。信用とは言葉でなく、心のふるえだ。別個独立のわかりあえるはずのない他人どうしでありながら、お互いの心が音楽を通じて振動し合う。そこに音楽や芸術の魂がある。
 そして、たぶん歌手は知っている。信用はやがてカタチだけの言葉になって人の心を縛りはじめる。信用してくれるから信用する、信用されないから信用しない、長年のファンだから信用されるべきだ…まるで貨幣や取引材料のように人は言葉だけの信用に振り回される。いつしか今現在の本当の心のふるえを見つめるのがとても億劫になってくる。だから歌手はファンとの間の言葉だけの信用などという不純物は要らないと言いたいのではないか。
 音楽は自由なものだとその歌手は言っていないだろうか。自由な心で歌手の差し出す音楽に心をふるわす。直ぐにふるえる時もあれば、時間をかけてふるえ始めることもあるかもしれない。そこにはただ自由な音楽があるだけだ。それ以上の幸福はない。あなたは今後ファンとしてどうすべきかと悩んでいるが、あなたはどうもしなくていい。いつでも彼の音楽の律動の音叉を感じられるように自分の心の中に済んだ透明な水を静かにおだやかに張っておくことだ。

2022. 4. 19

☆☆☆主人公☆☆☆
 先週、小学校からの友人のルーちゃん(知らないよねフツー)と久々に飲んだ時、彼から「死ぬとき最後に聴きたい曲ってある?」と尋ねられた。咄嗟で答えられなかったが、ルーちゃんは「俺は、さだまさしの”主人公”。別にさだまさしのファンじゃないんだけど、誰もが自分の人生では主人公、いい歌じゃないか」ということだった。

 最期に聴く曲というと、どうしてもこの時期に亡くなった拓バカのK君のことを思い出す。
 2010年4月にK君はクモ膜下出血で突然倒れてそのまま卒然と亡くなった。葬儀のときに奥様が気丈にも俺ら拓バカ同志に最期の様子を語ってくださった。倒れた時、奥様が枕元にあったCDを病室に持って行き昏睡状態のK君に聴かせたそうだ。「拓郎さんの歌を聴いたらその瞬間心拍数が戻ったんです。」
 そのCDは「午前中に…」と「豊かなる一日」だったそうだ。2010年当時の最新オリジナルアルバムと最新ライブアルバムだぜ。
 ここ数日、俺の周辺のトレンドなワードは「停滞」だ(爆)。何が「停滞」しているのか、いないのか…御大のおかげで悩ましい。でもひとつこれだけは確実にいえるだろう。最新のオリジナルアルバムとライブアルバムを聴きながら逝く…彼は1ミリも停滞していないファンだ。文字通り死ぬまで半歩進み続けたファンだった。

 奥様は「次の曲が”落陽”だったのに」と泣いていらした。”落陽”の一曲前が彼の最後の曲だったことになる。調べたら「豊かなる一日」の”どうしてこんなに悲しいんだろう”だった。島村英二のカウントで始まりビッグバンドのゴージャスな演奏で歌うあのバージョン。いいよねぇ。誰がこの名曲のこのバージョンで天国に旅立てようか。やっぱすげーぜK君。

 「あと一曲頑張れば”落陽”が聴けたのに、どうして…」と涙される奥様に、そこにいたこれまたすげー拓郎ファンのねーさんがボロボロ泣きながら「きっと”落陽”は飽きたのよ」(爆)。これぞ泣き笑い。…いいな、よくないけど、いいな、よどみなく流れてゆく拓郎ファンというべき人たちがそこにいる。やはり拓郎ファン、あれこれすんばらしいぜ。行くんも滞るんもそれぞれの道、誰もが主人公なのである。

2022. 4. 17

☆☆☆拓郎「あぁ面白かった」☆☆☆
 東京新聞の朝刊を買ってバネの軋む喫茶店でトーストをかじりながら拾い読んでいるすべての同志の皆様ごきげんよう>いねぇよ、そんなことしてる人
 ネットでも読めるようだが、新聞の現物感や触感がまた嬉しい。ちゃんと読んだ。ああ〜そういえば音楽の前に取扱説明書や約款はいらないと言った気もするが、あの時は俺もまだ若かった。いろいろあってもそれはそれ。
 「第一線退く」「吉田拓郎さん一線退く」とリードされた記事は、切なかったり、それでいて妙に清々しかったり、結論としていい記事だったよ。

  停滞していると言われようとバカじゃねぇのと顰蹙を買おうと心の底から叫びたい。
 第一線を退こうともアナタがいるそこが私の最前線
 …決まった>決まってねぇよ、また怒られんぞ
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 web版の方がインタビューは詳細なんだな。こっちの方がより切なくて、そしてよりなんか清々しい。少し泣きたくなる。

2022. 4. 16

☆☆☆あれから10年☆☆☆

あの空に浮かぶのは 今日の雲
それは 昨日の雲じゃない
幾度も 君に伝えたが
すれ違うような 時が行く

 うーん、いい歌だ。いろいな意味でいろいろ胸にしみる空の輝き。おまえがいうなと怒られそうだ。

この淋しさを 乗り越えて
いつか わかり合える 二人になれる

 うん俺もそう思うよ、俺はあなたのファンなんだし…>だからおまえのことじゃねぇよ。

 この曲を含むオリジナル・ニューアルバムを迎えてからもう10年である。とんとご無沙汰。“ah-面白かった”をどこでどう聴くかも考えておかねば。拓バカの友人は、拓郎の新作アルバムは必ず斎戒沐浴して身を清めてから正座して聴くと言っていた。それが彼の矜持らしい。もう、キリスト教のミサ、仏教で得度受戒のような厳粛な世界だ。今回もそうするのだろうか。

2022. 4. 15

☆☆☆You’re not also there☆☆☆
 ということで、あらぬ方向に行ってしまったが、先週の放送で聴かせてもらった新曲たちにはどれもお世辞ではなく胸が躍った。そうだ、それだよ。とりわけ”ひとりgo to”は、心の底に直覚これ!と響いた。迷妄晴れたりって感じか。うまくいえねーな。おお、これが堂本剛のサウンドなのかと感じ入った。良い子になれそうだったのに俺。
 ただ音楽を聴く前から、これが今の風だとか、70年代の奴らにはわからないだろうだとか、精神論と辻説法がかまびすしい。何もかも愛ゆえのことなのだろうが、でも時に勢い余った愛が滑って俺に鉄槌を打ち下ろすのだ(爆)。痛い。それにこの曲は、音楽単体で充分にチカラがあるのは俺ごときにもわかる。だから精神論ではなく音楽で語っておくれよ。
 音楽の前に分厚い取扱説明書も保険約款もいらない。そりゃあ足りない自分だが、自分の小さな器の中で感動したり、思い悩んだり、誤読・誤解したりしながら自由に満喫したところで、「おまえたち実はこの曲はだな…」とそっと灯明をかざしてほしい。
 もうそこにいないのはわかった。なんにしてもアルバムが楽しみだ…そんな日が来ることに感謝しかない。
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2022. 4. 14

☆☆☆そこにシビレた☆☆☆
 …カッコイイなぁ。青い空のアニキと呼ばせてもらっていいっすか?(爆)。我ながらいい加減に学習しろよと自分のことを思うのだが、せっかくのサイトである。ムカつくところはキチンとムカつきたい。「これも拓郎さんなんだからいいじゃないか」というファンの方もおられるだろうが、そういう横山やすしさんや勝新太郎さんの周囲的な対応にはやはり乗れない。それでもとにかく今回は意気に感じてまことに恐れ入りました。
 ということで気持ちを切り替えて次回ラジオの1つ限定の質問を何にしようか悩んでいる>切り替え早すぎだろ

2022. 4. 13

☆☆☆青い空見て〜はぐれた雲の☆☆☆
 青い空の先輩にまた助けられた。ありがとうございました。そんなこんなのうちにアルバムは完成したようだ。 それに晴天の上に、暖かいじゃないか、このごろは。 もうすぐお別れになる神楽坂あたりを歩きながら 脳内で歌う。

 また会えるまで また別れても
 また迷っても また探す道
 また背伸びして また立ち止まり
 またほほえんで また口ずさむ

 また雨が降り また風が吹き
 またウソをつき また夢を見る
 またウデを組み また歩き出す
 また陽が昇る また涙する

 心の底からいい歌だ。こんな歌を書ける人なのだから...だからなんだ。ともかくただファンに甘えているだけなのだろう。そう思ってこちらもこの道を半歩でも先に進もう。

2022. 4. 12

☆☆☆ボディブローのように効いてくる☆☆☆
映画「シン・ゴジラ」で平泉成演ずる里見総理の嘆息まじりのつぶやきで
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あ〜あ停滞したファンたちが足を引っ張ったのでライブを辞めたなんて、最後に来てそんなこと言ってほしくなかったなぁ〜

2022. 4. 11

☆☆☆乗るも乗らぬも船はひとつ☆☆☆
 HoHoHo〜
 俺やこのサイトが「停滞」しているのか、拓郎の足を引っ張っていたのか、やる気をなくさせていたのか、そのショッキングな物言いに一瞬気分が沈みかけたが、もうそんなことは知ったこっちゃない。こんなヘタレなサイトにそんなチカラがあったら逆に大したものだ(爆)
 ただひとつだけ言ってみたいのは、
「君のスピードで,I’m In Love,季節の花, 早送りのビデオ、昨日の雲じゃない, 慕情、YouTubeで歌う人は、こういう曲をトライしてほしい。」(オールナイトニッポンゴールド第25回)
 しかし”落陽”や”祭りのあと”はごく最近までライブで歌ってたけど、“季節の花”と”昨日の雲じゃない”は自分だって歌ってねぇじゃん!>そこかっ。そこだ!。
 “季節の花”はキャリア・ハイと言っていい名曲だ。http://tylife.jp/uramado/kisetsunohana.html あの魂のリフレインを一緒に1階4列くらいで唱和したかった。”昨日の雲じゃない”は、ステージで鈴木茂の語りかけるようなギターの音色に2階27列くらいでもいいから座席に沈んで包まれてみたかった。そう願っていたファンは俺だけじゃない、たくさんいる。調べたもん。調べた人みんなそうだった。それが停滞してる、今さら離縁というのならもと十四に戻しておくれ(爆)。

  いや、そういう悪態を一旦脇に置いて、俺はラジオを聴きながら、以前読んだ本の一節を思い出していた。ミック・ジャガー、ボブ・ディランら高齢化したロックスターについて中山康樹はこう総括していた。
「(彼らは)新しい曲を書いたところで、大半のファンは過去のヒット曲のほうを聴きたがるということもわかっている。その新しく書く曲も過去の水準を超えることがなかなかに困難であることもとっくに達観している。
 -彼らは過去の自分と戦い、勝ち目がないことを知りながら、それでも闘うことを放棄しない。
 -少なくとも僕は、ある意味で満身創痍の状態でありながら、それでもなお新しい曲を書き、何かを創造しようと前進する”年老いたロッカー”に共感を覚える。しばしば勇気づけられもする。
 -彼らの多くは、時には年齢を感じさせず、時には60代という年齢だからこそ表現可能な境地を示し、それこそが「現在のロック」であると強く実感させる。」(中山康樹「ミック・ジャガーは60歳で何を歌ったか」幻冬舎新書 P.5〜)

 今、自分はこの境涯の近くにいるんだと思えた。違うのは俺はここでさらなるキャリア・ハイがまだ出てくるんじゃないかと信じていること。またエンディングといいながらもこのアルバムがどこかあたらしい夢に連れてっていってくれる船なのではないかと思うところである。
 その船はまだ港の中、乗り遅れそうなのは誰、まにあうさ、まにあうさ遅すぎることはない…と拓郎は言いたいのかもしれない。んまぁ、それにしても言い方ってもんがあるだろ(爆)。

2022. 4. 10

☆☆☆いつでも夢を☆☆☆
 ラジオの録音を忘れたのでラジコで一回聴いたきりで時間切れになった。ずいぶん早いんだな。胸打つ新曲たちを何度か聴き返したかったが今回はこれでいい。満を持して完成盤を待とう。
 60歳を過ぎた自分が70歳をとうに過ぎた吉田拓郎の新作を待っているのだ。こんなん想像できた? 凄いじゃないか。他に何が欲しい、何もいらぬ、せめてものラストアルバムを抱きしめよう。

 「僕は僕の中で僕だけのわかっている未来を自分の中で夢として作って、それに向っている。今でも半歩でイイから先にすすもうという気持ちを持っている。」

 もうコンサートもなくアルバムも最後だ。それでも「夢」に向かって進むという。それがなんだかはわからないしファンには関係しないことかもしれない。それはそれでしかたない。それでもこちらにもささやかな夢のような明かりが灯る気がする。自分も停滞せずに転調してみようという気になる。
 拓郎とは関係ないが、たまたま昨夜Tくんが俺達の小学校時代からの憧れの人の店に何回も足を運んで俺の分までサインを貰ってきてくれた。感激した。これが色紙だけでなく色紙の現場証拠写真まで撮ってくれている心遣いが泣けるんだわ。
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 ということで「夢」だ。いい歳して…だが、やはり「夢」だ。

2022. 4. 9

オールナイトニッポンゴールド  第25回 2022.4.8
☆☆☆あらすじ☆☆☆☆☆☆
 (投書の方々のお名前) 「拓郎さん佳代さんお誕生日おめでとうございます」というメッセージにみなさんありがとうございます(with 佳代さん)。
 (佳代さん)拓郎さんお誕生日おめでとうございます
 (拓郎)佳代さんお誕生日おめでとうございます
 (佳代さん)アタシは加齢が止まらない。
 (拓郎)加齢?

 今夜はこの曲から(拓郎&佳代さん)”いくつになってもHappybirthday”

M-1 いくつになってもHappybirthday 吉田拓郎
 
<三苫がやりましたねという投書>
 すごかったですね、いきなり後半…延長かな、そこから2得点。僕のラジオよりこっちの番組の中継が凄かったな。ワールドカップ進出を決める大試合、いわゆるにわかサッカーファンが増えるところ。三苫、田中碧のファンが増える。そういうことがサッカー界にとって大事なんだということを協会はわかっていない。あんな大事な試合をどこも中継しないのはあり得ない。これを観て好きになる人もいるのに。世界も注目している試合なのに。だからニッポン放送は偉かったね。聴取率ダントツだったらしいね。僕もラジオでサッカー中継を聴いたことはなかったけど、奥さんとラジオで興奮した。どことも中継しないのは嫌だな。田中もいい動きをしていた。田中、三苫が引っ張っている。
 そういえばその田中にガールフレンドという話が佳代さんの耳に入った。年上の女性がいいならここにもいるじゃいといっていたけど(笑)まだ三苫がいる。田中はボランチをベテランのようにこなす。ま、碧ちゃん応援しながら三苫がいるということで。

 ネットを読んでいたら「いつもの癖で拓郎さんのブログを読んでイイネをポチっとしようとしたら、そうだ拓郎さんはジャニーズじゃないんだと気づいた」という書き込みに笑った(笑)。そうだよ、僕が面接態度も含めてジャニーズに入れるわけがない。

<ブログを楽しみにしている、かなり配慮してるんだなということが分かったという投書>
 配慮もしたし大変なこともあったレコーディングだった。今夜は新アルバムのタイトルも解禁し、kinkiとも会ったし、最初は緊張するかと思ったが、あのときのまんま、くだけまくり、3人とも成長していない。光一は「拓郎さんにとってオレは17歳なんでしょ」と言ったので、そうすると俺は50歳か(笑)。最初からもう風呂入ってしゃべってるような気分。

 小田和正君とも最後のスイーツから3年ぶり、小田と拓郎の関係は変わっていないと確認した。先日のフォーライフのテレビも観たというので感想を聞いたら、最後の拓郎のメールの言葉だけ良かったと思ったが、あとは興味ないと言っていた。やっぱりわかっているやつはわかっているんだよ。

<日記(のつもりがない)、小田さんのライブ行きたい、拓郎さんも大阪にゲストに来てという投書>
 日記のつもりはない、たまたまレコーディングが立て込んでいたから頻繁に書いたけど、今後は少なくなるよ、いずれ消えるよ。小田にスタジオでツアー頑張ってな、どっかいくよと言った。小田は、決まったら言ってくれよというが、小田にも内緒でそーっと行きたい、個人的には名古屋かな、サンデーフォークの伊神とかにも会いたいし、2019年のイタリアンにも行きたい。

■今夜も自由気ままにお送りします吉田拓郎のオールナイトニッポンゴールド

 76歳です。こんな76いるのかというくらい自分でも気持ちわるい。吉田拓郎という気のつく男、やさしい男、ゴミ捨て、バスルームの掃除、結露の掃除、洗濯機のあとしまつ、ポストの投函、宅配便を外で受け取る、そしてマンションの理事として植栽の管理をしているよく働く旦那様の面倒を見てくれている、感謝感激でありがとうございます
 30年以上パートナーだけれども、ハワイでショッピングセンターで僕はカジュアル派で、リーズナブルなシャツ等を一気買いするタイプだけど、彼女は1枚のシャツに非常に時間かかり、30分40分悩みながらどうしようかなと考えたあげくやめてしまう。
僕なんか買ってしまえばいいのにと思う。ところがとなりの高級品ブティックをみつけると、何十万というブランドバックとか、これいいな〜買おうかなといってくる。こちらには即決力がある、こういう女性。こういう女性に恵まれた吉田拓郎は世界一の幸せものだ。そしてこういういいアルバムを作らせてくれた。お誕生日おめでとうこれからもよろしくお願いします。

(CM)

 ニューアルバムのタイトルは、
   「ah-面白かった」
 このタイトルにたどり着いた経緯は、僕の奥さん、佳代さんのお母さんはシングルマザーで彼女を育て上げた、僕の母も理由あって別居し、僕らを一人で育て上げ大学も行かせてくれた。しかし、二人のお母さんは苦労話、愚痴を口にしないタイプだった。僕達は母親からの苦労話は聴いていない。既に二人とも天国に旅立ち、その母に今、感謝して、夫婦でよく思い出話をして笑顔になっている。

 宮藤官九郎の名作「ごめんね青春」で佳代が演じる錦戸亮くんの母親が亡くなる時、夫の風間杜夫に「ああ面白かった」とつぶやいて天国に旅立ってゆく。後で、風間杜夫がそのことを口にする「「楽しかったじゃなくてああ面白かったって言ったんだよ」。このシーンには泣きました。観ている僕もわしづかみだった。ここだけでも感動した。宮藤官九郎は素晴らしいな。

 僕のオフクロ、佳代のお母さんは、時代的にも女性が仕事に就く環境にもなかったそういう時代を生き抜いてきたわけで、その苦労の何分の一も理解できていない。でも彼女たちは僕らに辛い、キツイというニュアンスを伝えなかった。だからオフクロが辛いわよと言っていたそういう姿は思い浮かばない。二人のお母さんたちは 天国でああ面白かったと笑っている気がしてきた。
 言葉ではなくそこに残して言ってくれた空気というか風の中に彼女たちの愛(LOVE)があるんではないか。やっとそれが見えてくるようになったと思う。
ラストアルバムは全編を僕流の愛(LOVE)で貫いてみたかった。そういう決心でこのアルバムを作ろうと思った。タイトルは文句なしに「ah-面白かった」に決めたら、それが頭にある限りスラスラと詞が出てきた。面白くなかったことも経験したがそれも結果的に最後はああ面白かったといえるようハッピーな気分な作品になった。

 発売は、6月29日、 本来秋の予定だったのに早く作品として出したいということで決断してくれた。ディレクターの竹林君にありがとうというしかない。
ジャケットはDVDサイズ。特別仕様の歌詞カードやライナーノーツがつくので大きさも見づらいので竹林ディレクターが会社を説得してくれた。
Disc1
 1 ショルダーバックの秘密
 2 君のDestination(旧題Hey you)
 3 Contrast
 4 アウトロ
 5 ひとりgo to
 6 雨の中で歌った
 7 雪さよなら
 8 Together
 9 ah-面白かった

 Disc2にはDVDのメイキング映像が入っている・どんなレコーディングわしてどんな人がいたのか。こんな時期だったので困難が生じていたし、スタッフもカメラも少なくできるだけのことはした。僕もCDジャケットのタムジンチームの風景も入っている。インタビューも入っている。ライナーノーツ、アナログ盤には僕のスペシャルエッセイ集がついている。これまで心の中でタブーとしてことも心優しい気持ちで書いている。永く応援してくれた人達へのプレゼントというかメッセージ。  

 アナログ盤では、奈緒さんをモデルにした撮影でシノハラも僕も参加してやり終えているはず。
 ラストアルバムの中から”雨の中歌った”これは以前のデモテープとはかなり変わっている。詞も演奏も違っている。
“たえこMYLOVE”は、たえこという人がいたわけではないが、歌いやすかったのでたえこにしたが、実在の女性がモデルでいる。その実在の人物につながっているという思い出の話。

M-2   雨の中で歌った   吉田拓郎

(CM)

 君のスピードで, I’m In Love,季節の花,昨日の雲じゃない,早送りのビデオ,慕情、You tubeで歌う人は、こういう曲をトライしてほしい。70年代は卒業しなよ。飽きたよ。せめて80年代くらいから前進めよ。心をこめて言いたいのは、空気を読んでほしい。そうしないと面白くないよ。現在自分はどういう時でどういう風の中にいるのか。社会も友人も大事な家族の中でどういうポジションにいるのか。
 孤独であってもきっちり理解すれば次がみえてくる。体験上、必ず孤独なりに見えてくるものがある。世間体とか噂は関係ない。大切なのはハート。
次なるアルバムには口にしなかった真実を書き残した。正直だったがために踏み間違えたこともある。でも誰も恨んでいない。すべて自分が浅はかだったからだ。
 このラジオだって、もういいよ、いらねぇよって言われる雰囲気を感じたらリタイアする覚悟はできている。そこでグズグズしたくはない。
“今日まで明日から”とかは、いい曲だよ。自画自賛する。あんな歌、誰も書けない。それはそれ。みんなが好きな岡本おさみもいい。でも、もういいじゃん。十分楽しんだ。十分評価もされた。”祭りのあと”も名曲だった。それも「だった」といいうこと。”落陽”も名曲で最高で俺も十分に楽しんだよ。現役のシンガーソングライターとして生きている俺としては声を大にしていいたい。やっぱりみんなも半歩でイイから前へ進もうよ。そこに停滞するな。
 ライブ活動をリタイアしようとするきっかけにもなった。観ていて停滞しているのがわかった。風のたよりで伝わってきたの。そこで俺はいつまでも歌えない。ネットなんかでも明らかに停滞しているヤツが何人かいる。それが凄く足を引っ張り、やる気を失わされる。それを観ながらリタイヤする気持ちが固まった。
 僕はそういうところに今いないの。時間があまりない。ツアーを止めるなライブやろうカンタンにいうけどそれはないと僕は思っている。
 僕は僕の中で僕だけのわかっている未来を自分の中で夢として作って、それに向っている。今でも半歩でイイから先にすすもうという気持ちを持っている。

 70年代はすばらしい時代だった。帰れと言われたり、いろんな事件もあったけれど、フォークとか70年代は素晴らしかったし、いい歌が生まれた。それは人生の通過点。人生は一回。素晴らしい青春であることは誇らしい。あそこがなかったら今がありません。それでも、それはそれとしないと2022年の今に引きずってどうする。
 僕は・・・ということですよ。人生は一回だけ。もっと柔軟に柔らかくその時々の風の具合を見ながら風に吹かれながらその時の空気と風を感じてちょっと明るいちょっと楽しい明日を過ごすために今日を生きる、がんばる。
 そんなにたくさん時間が残っていないそういう中でこそ縛られたまんまで、何も変わらない生き方は僕はやりたくない。お先に失礼で半歩前に進んでいく。

 Togetherという曲を作った。月に住んでいるらしいシノハラ、火星に住んでいる奈緒に、僕は拓郎ちゃんで、地球がボロボロになっている争いごとや温暖化も進んでいるし、コロナという未知の恐怖にもふるえている。ストレスがいっぱいたまっちまって、武器を持つヤツもいる、明日と小田和正とおいしいスイーツ会のために行くからよ。そっちは争いごとなんかないんだろ。おーい奈緒、kinkiとベッタベッタのハグの写真を撮りたいから、みんなで楽しく踊っているんだろ、待っててくれよというトーキングブルース。

 チョイと遊びに来て地球に永く居過ぎた拓郎ちゃんがそっちに行くと歌っている。70年代のたくろうちゃんと今はこういう気分だという歌をメドレーで。

M-3 たくろうチャン          吉田拓郎
M-4 together             吉田拓郎

<11時>

 70年代の通信販売レコード会社があった。何にもわかっていない僕をあざわらうようなレコーディングだった。アルバム「青春の詩」は1日でレコーディングした。何も知らなかったのでそんなものかと思った。吉田拓郎がプロデュースしたかのように宣伝され、涙が出るほど恥ずかしかった。それでもアルバムが出てカタチがついたと思う自分もいた。

 ライブで家庭用テープレコードで録音したものをレコードにするということもあった。
家庭用のテープレコーダーの録音でこんなのどうなんだというのがあったが、オンステージ”とかいつて発売していた。一番大きかったのは、作詞作曲しながら印税はゼロで給料制だった。ソニーの同級生がそれはおかしいんじゃないかと言われて、エレックを辞めると言ったら、その日に会社の人間が小切手持ってきてこれで新しいところに住めやと言われたのを覚えている。「こんなもんじゃ、僕の住みたいマンション 買えやしないんですよ」と答えた。

 “青春の詩”というアルバムには、”今日までそして明日から”とか”雪”が入っている。“雪”はレコーディングの時、何このアレンジ?と思ったが、詞と曲は自信作だった。後にCBSソニーにプロデューサーとして迎えられたとき猫というグループに歌わせた。
 岩手県の雪の夜。詳しくはライナーノーツで書く。
 先日同年代のただひとりの盟友・心友の小田和正に頼んだら自分のスタジオでアイデアを入れた物を返してくれた。
生涯の一作だと思う。絶妙のハーモニー。僕は今 心の友はいない。それらの関係 断っている。70年代だと小田だけ。あとは誰とも付き合っていない。スッキリしている

 武部、鳥山、2019年のバンドの仲間、kinki、シノハラこれで十分だ。最後に歌詞もつけ加えてロマンチックにしている。
どこを小田和正がハモ持っているか、全部小田じゃない、拓郎もと言われてその場でハーモニー作った。衝撃的に美しい。小田のアイデアがすばらしい。

M-5 雪さよなら

 Kinkiとの仲は、奇跡的、運命的で友人でいられることは幸せ。この二人のやさしさをこれほど身をもって体験している人間はいないのではないか。
僕等の中で無言の中で出来上がった空気感がある。今回も変わらずに存在している気がした。計算して作れるものではないし偶然。他の方とつくれるか、つくれない。  僕ら3人じゃないとできない、運命とか偶然の風なんだとつくづく思う。

 光一君と再会した。彼も43歳。すっぴんの堂本光一は、相変わらず美しいマスクの持主だが、若いころと違って風格がでているのは、舞台エンドレス・ショックを続けている自信とプライドかもしれない。リーダーシップのオーラが出ていて、若いころにはなかったものだ。
 2,3分すると光一の「たっくろうさん」という言い方が蘇ってきた。そしてお互いをイジリ始める。こういうところは剛とは違っていいたい放題。「郎さん細くなっていません? 」「ジジイなったということか?」
 アルバムタイトルのah-面白かったを書いている最中にも、横で「字はヘタだな、本当に下手だな、「た」の字 世界で一番「た」の字がヘタ」とか行ってたら光一が、これでも子どもの頃は習字有段者だったというので、今度は毛筆で書いもらったら「おなじじゃん」(笑)。結局マジックに戻した。
ついでに光一が画用紙に似顔絵 をハシリ描いていた。「これ拓郎さんですよ」「俺なの?」どう観ても似ていない。心友がせっかく書いてくれたのでどっかで使うことにした不思議なイラスト。すっげー楽しい時間だった。

 今回の ah-面白かったは。一生の思い出と誇りだ。題字は最初から光一に頼んでみようと思った。光一は僕は字がヘタだと言ったが、そんなことはどうでもいい。堂本光一がタイトルを書いてくれただけで幸せなんだよ。それが嬉しい。上手、下手ではなく素敵な題字。めっちゃお気に入りの下手な字です(笑)。ありがとう光一君。ショックも乗り切ってほしい。夏には時間を作って遊びましょう。

 そして堂本剛が既にひとりのミュージシャンであると思い一緒にやってみたかった
。LOVELOVEのとき、音楽の楽しさを教えてあげてくださいというプロデューサーに言われて、番組のコーナーで、ギターの持ち方から、G,C,D 3つのコードや楽譜の読み方を教えて、最初は二人とも関心なかったけど、番組の日本屈指のミュージシャンもいたので、次第に音楽の道に引き込まれていった。
 ひとりgoto・・・「ひとりごと」とも読める。その一節を剛がとても気に入った 頭にもってきますと言った。剛もR&B、FUNKに惹かれていった、それらのエキスを感じる・しかし、FUNKに収まっている気がしなくて堂本剛ミュージック、剛サウンドのようなものになっている。
 スタジオで俺達は似ているよなと話し合った。剛も高いとこ海も動物も苦手でイルカも怖い。オーストラリアのロケで剛と僕がパンナコッタな夜というのがあって、スタジオにいたみんな大笑い。ラジオではもったいないのでライナーに書いておく。僕と剛にはパンナコッタな体験がありました
 吉田拓郎作詞・作曲、堂本剛アレンジの奇跡のコラボ。これが今の風なんだよ。鳥山・武部に聴かせたら「こうきましたか剛君」「やられました、一本取られました」と感心していた。

M-6    ひとりgo to    吉田拓郎

(CM)

 広島で大学生の時、ロックバンドで演奏して飲んで遊んで深夜に帰って、そのまま部屋に戻ってオフクロと会話することも少なかった。それが青春だから構わないでほしいという気持ちがあった。
そんな時でも家に帰ると必ず玄関の街灯がついていた。母が起きて待っていたか待ってなかったのかはわかんない。街灯がついていたのは憶えている。そういうオフクロだから信じられる。
 佳代さんのお母さんもシングルマザーとして娘に不自由な思いにさせたくなくて、いろんな苦心をされた。この母娘は、二人とも気性が激しく親子喧嘩をよくしていた。僕が傍にいても喧嘩していた。昔、6年間くらい逗子に住んでいたときでもよくケンカしていた。僕は喧嘩が始まると逃げる。怖いんですよ。この親子喧嘩は仲が良すぎること、あまりに愛情が深いからこそ些細なことで諍いが起きてしまうのだと感じた。
佳代のお母さんの運命の日、彼女は最後に間に合わなかった。少しだけど。その時のお母さんの表情を覚えている。永遠の旅立ちのおだやかな表情、ひとりで育て上げた苦しみ悲しみを超えて実に静かでおだやかで笑顔のようだった。
ケ・セラ・セラというドリス・デイの歌がある。ヒッチコックの映画「知りすぎた男」に使われてヒットした。なるようになれという意味。それがお母さんの生き方の基本だった。
 そして灯りをつけて何も言わなかったオフクロ。二人ともいろんな苦しみもあったでしょう、そのまんま笑顔も見せて永遠の旅立ち。僕達二人もできたら最後に「ああ面白かった」といえるような人生を送りたい。そんな気分でいたい。
とっても難しいことだと思う。でもそこを目指すだけでもいいんじゃないか。アルバムの
 ラストの運命の一曲となる。歌っていていろんな思いが浮かんだ、母親たちのこと、妻のこと、自分のこと、心こめて応援してくた小田和正、Kinkikids、篠原ともえ、奈緒さん、わがまま気分屋の僕を支えてくれた竹林くん、飯田さん、何回もダメ出ししてもめげないで魂の演奏にトライしてくれた武部・鳥山くんらの顔が浮かんだ。ボーカルが揺れているような気がする。でも修正しない、歌い直さない、ありのままでいこうと決心した。

M-8 ah-面白かった     吉田拓郎

■エンディング
 僕の最近の心境は「やったな」という感じだ。満足感、自由という感じ。これは僕にしか味わえない感じ。
何が不自由かはハッキリしなかったが自分の中に不自由が住んでいてそれが厄介なヤツだったことがわかり、ようやくそこからの解放が始まった。若い頃、中年の頃、おじいちゃんなりに不自由だった。でも最近、不自由からは若干脱出しはじめている

 歳をとることはいいことはあんまりないけど、悪いものでもない。束縛もない素敵
だ。アナログ盤についての話は次回します。

最後は、大好きなエイミー・ワインハウス

M-9    You Know I'm No Good   エイミー・ワインハウス

☆☆☆思いつきと感想☆☆☆☆☆☆

☆いよいよアルバム出来!!「でき」はなく「しゅったい」と読んでくれ。深夜のセイヤングでローリング30の完成を知らされた時の気分と重なる。不可知なニューアルバムに胸はふるえる。

☆確かにデモテープ時点の印象とはまったく異なっている。嬉しかったり安堵したりもする(笑)。ピンと来なかった「雨の中で歌った」もなかなかの曲にドレスアップされていた。しかも、そうか“たえこ”の続編なのか。そういう伏線も面白い。

☆小田、kinki、シノハラが実名で登場すると聴いただけで、不安しかなかったtogetherだが、ご機嫌でいいじゃないか。身体が自然に揺れ出す。しかも現在の情勢までが織り込まれている。今さらながら拓郎はこういうことをしたかったのかということがちょっとわかる。

☆別に今の空気を感じろとお説教されたからではないが“ひとりgoto”。タイトルは、菅前総理の顔がチラチラ浮かんでくるが、これは来たな。逸品だ。すんばらしいぜ。

☆これはあの""雪"なのか、いやこれは"雪"じゃない。いやでもこれは"雪"だ。音楽家ってすげえなと思った。
 怒られるかもしれないが、今年の「クリスマスの約束」はもうこれしかないっ。だめかっ。涙ながらにお願いしたい。

☆個人的だが、俺は、昨夜、重松清原作の「とんび」の初日舞台あいさつを観に行って、その足で帰って遅れてラジオを聴いた。なので、俺の中では、まことに勝手ながら、とんびの親子と二人の母親の話が、ガッツリと組みあってしまった。拓郎のお母さまが麻生久美子、佳代さんのお母さまが薬師丸ひろ子ですんなりと脳内変換されて、映画を観ているような気分だった。ah-面白かったはまるでエンドロールで流れる主題歌みたいに万感の思いで聴いた。勘違いだったらすまんが。でも、そこは重松清だ。しっかり通底している気もする。

☆とにかくまだ片鱗を覗いただけだ。きちんと完成した全編を斎戒沐浴して聴きたい。

☆超個人ついでに6月29日は亡くなったオヤジの命日だったりする。なんだこりゃ。

☆ともかくラストアルバム出来。ただそれだけで気分は上がり出す。

☆☆☆今日の学び☆☆☆
  今回もちょっと厳しいお説教がございましたが、
「僕だけの未来を夢として作っている、それに向っている。半歩でイイから先にすすみたい。」
 もうアルバムもライブもない。それでも描かれている未来がある。そこだ!

2022. 4. 8

☆☆☆今日もhappy birthday☆☆☆
 そうだよ,昔からステージで譜面を捨てる姿も美しかった。メモを捨てる人、拾う人、それ見て悶絶する人、誰もが幸せになる究極のリサイクルというか生態系である。
 いよいよラジオでやんす。どうかみなさまhave a nice radio time!

2022. 4. 7

☆☆☆たとえばフォーラムで☆☆☆
 さだまさし、南こうせつ、海援隊らの歌を聴きながら、俺はこの歌たちの世界に育まれ、ともに生きて、老いてそして死んでゆくのだ、それは幸福なことなんだと心の底から思った。そう思いながらも、あの美しい立ち姿が浮かび、やはり何もかもが別格なのだと、あなたの空気を思ってみるだけで胸が張り裂けそうになるのである。

2022. 4. 6

☆☆☆フォーラム☆☆☆
拝啓、僕はいま文化放送70周年ライブに来ています。出演、さだまさし、海援隊、南こうせつ。あれ、拓郎さんがいない。セイヤングの拓郎さんが...いた、というより、あった!

2022. 4. 5

☆☆☆お誕生日おめでとうございます☆☆☆
 「もういいよ」…そんなことおっしゃらずに。この日があって今がある、この日があってすべてがある。この貴重なひとときを僕達は何かを祝わずにいられない。
 「もうちょっと」…そんなことおっしゃらずに。さよならが言えないでどこまでもどこまでも歩いてください。110歳まで生きると言った君じゃないか。
 とにかくとにかく私、何時でもあなたに言う 生まれてくれて Welcome
   …ああ、どうか中島みゆきの朗誦に脳内変換してお読みください
        
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2022. 4. 4

☆☆☆何軒めの店ごと☆☆☆
 その映像では、よく気のつくK君が篠島で二日酔いの薬を配っているシーンがあった。それで思い出した。
 拓バカたちは超絶な酒豪ぞろいで往路の東京から名古屋までの新幹線で期待に胸膨らませながらガンガン飲み始め、名古屋から師崎までの名鉄の車中で「そろそろ近づいてきたぞ」とワクワクしながら飲み、篠島までの船中で「島だ、島が見えたぞ」と興奮しては飲み、旅館に着いては「ここが拓郎の部屋だ、ああ拓郎のサインだ」と感激しては飲み、旅館の海の幸に感激しながら飲み続け、夜中は篠島の音源を聴きながら「やっぱ拓郎はええな〜」と涙ぐみながら明け方の「人間なんて」まで飲み続け、翌日も旅館の朝食で目覚めに飲み、復路の篠島から名古屋までの船と名鉄で「いよいよライブ本番だ」と飲み続け、名古屋のあんかけスパの昼食で飲み、開始前に名古屋センチュリーホールの近くで気合入れのために飲み、でもってコンサートを満喫し、終わってから名古屋駅の近くの世界の山ちゃんで手羽先を食べながら「やっぱ拓郎はすげえなぁ」と感動して飲み(←ココで不肖星紀行はついにダウンし「楽しゅうございましたが星はもう飲めません」と書置きを残してリタイアした)。その後も彼らは朝まで飲みつづけ、翌日帰路の新幹線でも飲み、東京について居酒屋でお別れ&反省会の飲み会を続けたらしい。
 まったくどうかしてる(爆)。恐るべき拓バカ酒豪の世界に震えを隠せない。吉田拓郎もコンサートツアー全盛時にはこういうツアーをしていたのだろう。とにかくすげえな〜とK君のくれた二日酔い薬を抱きしめながら落伍者の気分で思いを馳せたのだった。

2022. 4. 3

☆☆☆4月になれば☆☆☆
 4月だ。なにより拓郎の誕生月だ。めでたい。また同時にわれらが拓バカK君の祥月でもある。悲喜こもごもがコンタミする。部屋をいろいろ漁っていると在りし日のホームビデオの動画が。2000年代初め名古屋公演に行った機会にみんなで聖地篠島を訪問したときのものだ。撮影者なので俺は映っていないがみんな若く、K君もニコニコ笑って自然にそこにいる。篠島グランドホテルの拓郎の宿泊部屋に感動し、旅館に寄贈されていたイベント当日のサイン色紙とひとりひとり記念写真を撮る様子は拓バカ絶好調だ(爆)。
 帰らぬ昔のことと言う勿れ。昔のライブや故人をただ懐かしんでいるのではない、カタチを変えて今も生き続けているものと一緒に現在を生きる豊かなる営みなのだ。たぶんみんな今もわが心のK君とともに、これから届くラストアルバムの展開をワクワクしながら、そして不安もちょっぴりありながら(爆)迎えようとしているに違いない。人生とはそういう宴ではないか?…なんてワカンナイが、そういうものであってほしいと思う。
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2022. 4. 2

☆☆☆ラジオの時間☆☆☆
「聴いてチョーダイ」おお小田の次は財津か。>財津一郎だ。こうして新作の制作過程までも味わせてもらえる愉悦。「長年やって来た拓郎流ラジオでのサービス」わかってんだな。西瓜といえば”夏休み”だが所ジョージの”♪ひとつの西瓜を君が二つに割る〜大きい方を渡されても齧れないでしょ”を思う。

2022. 4. 1


☆☆☆春になれば☆☆☆
新宿あたりで冷酒の旨い店を見つけてタケノコで一杯。何よりも平和が大切でありました。
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2022. 3. 31

☆☆☆KinkiKidsの「きよしこの夜」☆☆☆
そりゃあ覚えてる。確かに感慨深い。それだけでなく初々しくギターを弾く二人の後ろで、拓郎と泉谷が互いにお尻をびったりくっつけて座り込みながら真剣に見守っていた姿が胸熱だった。フォーライフも恩讐の彼方に。バディ感てか重松清の言葉を借りれば「朋輩」感がたまらん。いろいろ良いシーン。

2022. 3. 30

☆☆☆カゴメ☆☆☆
二宮瑞穂ちゃう芳根京子のカゴメ「畑うまれのやさしいミルク」のCMで“たどりついたらいつも雨降り”が突然流れて驚く。"世田谷ピンポンズ"というのか。素早く調査してくれたなるさんに感謝。”元気です”Verのカバーは珍しい。のどかでイイ感じだ。ああ”元気です”50周年だったんだね。

2022. 3. 29

☆☆☆まだエンドじゃねぇよ☆☆☆
ノーサイドの穏やかな気分で”はっぴいえんど"=J-POP最大の革命”的な文を読み直してみたがやっぱムカつくよ(爆) 。”はっぴいえんど”が偉大にしても、吉田拓郎をただのフォーク歌手と軽んじて歴史を総括するクソ・タイムラインに我慢がならぬ。御大がエンディングでも俺はまだ終われない。

 “CODAあいのうた” 駆け込みで観たにわかファンだけど、おめでとうございます。ウイル・スミスの一撃とドライブ・マイカーのおかげで影がかすんでしまっている気もするが。高田渡みたいな父ちゃんに乾杯。

2022. 3. 28

☆☆☆ノーサイド☆☆☆
昔、小田和正は血が緑色の異星人に違いないと思っていた。すまん。熱い血と矜持を持つ偉人だった。また先日某番組で、かつてどん底の武田鉄矢を救った谷村新司の心温まる話に涙した。そして俺は今さだまさしのライブを楽しみにしている。もう争わないで、もう戦わないで、そう自由の風に酔え。

2022. 3. 27

☆☆☆そんなふうに僕は思う☆☆☆
 幸福感が溢れかえる写真を観ながら、あぁやっぱりKinkikidsはありがたいな、感謝しかないなとジジイは心の底からそう思う。

2022. 3. 25

☆☆☆60歳からのラテン☆☆☆
 ♪そんな小さな悩みは<チャチャチャ>誰に聴いても同じさ<チャチャチャ>〜がずっと頭から離れなくて困る。 昨夜酔っぱらって何回も再生し過ぎたか。うっかりするとステップ踏みそうになる。踏めないけどさ。

2022. 3. 24

☆☆☆ビジュアル☆☆☆
 工程が着実に進んでいるようだ。良かった。ジャケ写か。俺には写真のこともわからないが、ブログ写真の立ち姿、座り姿、そして所作どれもが美しい。年齢の割にとか、年齢に見えないとかいうレベルではなく、ただ美しい。座って譜面に書き込んでいるその様子だけでも美しい。これを切り取っておくれと心の底から思う。

 それはそうとタムジンさん、若子内さん、どうかお大事になさってください。お2人に限らず、どうか拓郎の110歳にお付き合いください。

 それにしても文中の「又会おう」。この「又逢おうぜ、あばよ」と「また会おう」のシンクロした漢字使いにシビれる。

 ということで今日は”真夜中のタクシー”を聴くぞなもし。

2022. 3. 23

☆☆☆映画館☆☆☆
 鬱な仕事が小休止したし、コロナの規制もとりあえず全面解除された…この貴重なひとときを老人は何かをせずにはいられない。とりあえず映画館に行った。

 ”THE BATMAN”と悩んだが”CODA あいのうた”を選んだ。前者は荒んだ犯罪都市ゴッサムシティの物語だが、荒んだ町といえば蒲田・川崎あたりで十分だ(爆)。それよりもCODA=後奏=アウトロということで拓郎ファンとしてはこっちでしょう。…と思ったら音楽のCODAではなく、Children Of Deaf Adultsの略で聴覚障害の親に育てられた子どものことを言うらしい。
 主人公の女子高生は両親と兄の家族が全員先天的に耳が不自由で、彼女だけが健聴者だ。漁業で暮らしを立てる家族たちの耳となり口となって日々苦闘する。決してキレイごとの美談ではすまない厳しいことが多々ある。そんな中で、彼女は超絶歌がうまいことがわかり音楽に目覚める。しかし家族たちは生まれてこの方音楽というものを聴いたことがない。そんな家族たちと音楽で生きたい彼女とがどう生きてゆくのか、その描き方がすんばらしい。高田渡をもっとファンキーにしたみたいな父ちゃんのとあるシーンが特に泣けた。実にいい映画だった。
 音楽ってなんだろうと考えさせられる。拓郎流にいえば、音楽は本当に自由で素晴らしいものなんだということを体得させられた映画だった。

 今年は,小説では永井みみ「ミシンと金魚」をはじめとしてハズレがない。「CODA」はアカデミー賞、「ミシンと金魚」は芥川賞でもなんでも獲っておくれ。もちろん「ラストアルバム」は、レコード大賞でもグラミー賞でもいいぞ。

 映画館を出たら、宝塚の出待ちか入り待ちの女性たちが整然と大挙しておられた。宝塚のことは全くわからないが、好きな人を戸外でひたすら待つ、それだけで理屈抜きの同志愛を感じる。彼女たちは心の底から迷惑だろうが。

2022. 3. 21

☆☆☆わかったつもりを打ち砕かれる幸福☆☆☆
 そうそう、ラジオで流されたたデモVerとか仮歌Verをさんざん聴きまくって、あぁこんな感じだ、こんなもんだと思っていたところ、思ってもみなかった完成盤にぶっ飛ばされる経験。もうセルフ換骨奪胎とでも言うのか、とにかく予想外の所からガツンと撃たれる衝撃というものがある。俺は個人的に"外白イントロのフィドル&4番までありましたの衝撃"と呼んでいます。

2022. 3. 20

☆☆小田和正のシビれる言葉☆☆

 「でも時間が経つと気になる事も出て来るから
  そしたら何でも言って下さい 待ってます」

 拓郎ならずとも涙ぐみそうな言葉だ。
 
 小田和正の忘れじの言葉がもうひとつあって、日本をすくえ’94のドキュメンタリーで、タイトなリハの最中に拓郎・小田・泉谷が今後の進行を悩んでいる。すると

  小田「明日から楽になることを信じて今日やろう…やるしかねぇよ」
  拓郎「わかった」
  泉谷 (うなづく)


 これもさりげなく良いシーンだ。

 「明日から楽になることを信じて今日やろう」…わりと仕事とかでパクって使わせていただいている。座右の銘。

2022. 3. 19

☆☆☆選ばなかった未来☆☆☆
 スタートレック・ピカードのシーズン2が始まった。老ピカードは、再び冒険に駆り出される。今回は”選ばなかった未来”ということでスタトレ得意の時空ものだ。冒頭に”Time is on myside”で始まった今シーズンには、エディット・ピアフの”後悔していない(水に流して)”が繰り返し流れる。謎の暗喩か。
 昔日記に書いたが映画「ピアフ」のラストシーンで滂沱の涙にくれたナンバーだ。吉田拓郎には"後悔していない"という名作がある。それはそれ。今回は、例のフォーライフの総括の話、またKinkiに続き、ついに小田和正までもが登場し着々と完成に向うラストアルバムのブログを読んでいると、この歌が魂で深く通底しているように思えてならない。

    私は後悔しない(水に流して)

 私は何も後悔していない
 人が私にしたこと
 いいことも悪いことも みんな同じこと

 私は何も後悔していない
 つぐない 捨て去り 忘れてしまった
 過去はもうどうでもいい

 思い出に
 火を付けて燃やす
 悲しみも 喜びも
 どちらも必要ない

 恋も捨て 
 それにまつわる諸々のことも
 永遠に捨て去り
 ゼロから出発する

 私は何も後悔していない
 人が私にしたこと
 いいことも悪いこともみんな同じこと

 私は何も後悔していない
 だって私の人生は 喜びは
 今あなたとともに始まるのだから。

 というわけで超絶個人的には、スターレック・ピカードとエディットピアフと吉田拓郎が、なんの継ぎ目もなく自然に一体となっている。それでいいのだ。うーん、今日も元気にイカレている。

2022. 3. 18

☆☆☆水に流して〜Non, je ne regrette rien☆☆☆
 若い時の夢とその責任をとって社員の家族のためボロボロになって苦闘したことを、手柄話でも自慢話でもなく”自分たちのミス”と総括できる人間はなかなかいない。俺は尊敬する。
 その時にいろんな事情があったのだろうが、一生懸命引き留めてくれた盟友に今も深い思いを致すような人間もそうはいない。この人こそイイ人だなと思う。
 かといって、今もその名のもとにとどまらんとする人間の矜持にも感服する。
…もう一人のお方はどうだったのだろうか。すまん、根拠のない邪推だが、かなり早い段階で「やめときゃよかった」と思ってたんじゃないかって気がしない?

 俺のような末端のファンには、当然のことながら真相もわからないし、考えようにも人それぞれバラバラで余計わかんないが、それでも貴重なわが青春のスーベニールよ、さらばだ。
 さて今clear&presentに動いている吉田拓郎のアウトロに向おうじゃないの。
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2022. 3. 17

☆☆☆ああそれでも月は輝いて☆☆☆
 地震は驚いた。みなさまご無事でしょうか。特に東北の状況には震撼とさせられる。比べられるものではないが、こちらも2時間以上完全停電になって大騒ぎだった。こういうときのための太陽光発電も深夜では役に立たない。太陽エネルギーは地球上では急激に消耗するとはまさにこのことだ。
 信号機までも止まった闇の中で、月の灯りをこんなに頼もしく感じたことはなかった。

   ♪あてなどない旅路を照らすは月明かり
               桑田佳祐 「吉田拓郎の唄2003」

 などとしゃれている場合ではない。お見舞い申し上げますし、お互い様、用心しろよ、用心しろよ〜…じゃなくて用心しましょう。
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2022. 3. 16

☆☆☆風の街は誰もがひとり☆☆☆
 70年代後半から80年代前半に「人間はひとりなんだ」と口癖のように言う拓郎にカッコイイなぁとシビレていたが、その意味はまだよくわかっていなかった。今もわかってないかもしれないが、あの頃より少しはわかる。例えば重松清のインタビュー記事の一節を読んであらためて拓郎の魅力を思った。

 「六十三才の拓郎氏は、インタビューの場所に一人でやってきた。マネージャーもレコード会社のスタッフも連れていない。ほんの数分の遅刻だったが、わざわざ途中で「少し遅れますから」と編集部のスタッフに電話まで入れてくれた。」(すばる 2010年3月号 聞き手 重松清「ロングインタビュー吉田拓郎」より)

 さりげなく実に大切なところを切り取ってくれている。

 そうそう前回のラジオで拓郎はdétenteのころ、不本意なCMやインタビューの仕事を持って来られて辟易していたという趣旨のことを語っていた。
 先の記事にはこういう記載もあった。かつて20代のまだフリーライターだった重松がdétenteのころに初めて拓郎に雑誌のインタビューをした。その日、拓郎は数件のインタビューを立て続けにセッティングされていて、最後に重松がインタビューしたのは、なんと就職情報誌だったそうだ。拓郎は質問にちゃんと答えてくれたが、どこが疲れた様子で終始表情がゆるむことはなかった、きっとうんざりしていたんだろうと述懐している。複数のインタビューを、たてつづけにしかも音楽とは関係ない就職情報誌のインタビュー・・・そう思うと確かに拓郎が不憫に思えてくる。
 重松も、あこがれ続けた吉田拓郎とのファーストコンタクトとしては無念だったろう。しかしあこがれ続けた特別な人だからこそ、その辛そうな様子を微妙に感じ取るこができたのかもれない。

 何度でも言うけどこれは名インタビューばい。ヘアサロンで洗髪のとき、どっか痒いところありませんか?と聞かれる前に、痒い所を的確にゴシゴシしてくれる美容師みたいに、あ〜ソコ、ソコという感じだ。

2022. 3. 15

☆☆☆人生だからこそひとりになるんだね☆☆☆
 というわけで、昨日からご本人の作詞ではないものの”ひとりになれないひとりだから”〜”最後は嫌でもひとりだからぁぁ”(望みを捨てろ)がずっと頭の中でリフレインしている。
 そういえば今日は、東京ドーム記念日だ。ここで拓郎は、予想外の”望みを捨てろ”を歌ったのだった。驚いたね。わりとシャウト軽めのサラっとした歌いっぷりだったが、とにかく選曲したことそれ自体で高額ポイント獲得である。

 東京ドームといえば一昨日も書いたが、後楽園球場サントリーサウンドマーケット’83だ。結局吉田拓郎の姿を見ずに、ラッツ&スターとTHE ALFEEのスターズオン23の豪華ライブバージョンと武田鉄矢のMCだけを聴いて帰ることとなった。
 超絶すげー落雷と豪雨で、みんな一斉に客席から退避したとき、ステージ上の武田鉄矢の「みなさん待ってくださいっ!」という悲痛な叫びが耳に残っている。みんな構わず逃げた(爆)。
 あれが吉田拓郎のステージだったらどうだったろうか。落雷の中、客席に踏みとどまったろうか。これはカルネアデスの舟板案件に近い。拓郎が最初にステージから消えるという説もあるが(爆)。
 ともかく晴男拓郎のチカラをもってしても雨男こうせつを制圧できなかった黒歴史なのか。いや大阪球場の酩酊タコヤキ事件を思うとそもそも吉田拓郎は、このシリーズでは、ちゃんと歌う気が乏しくてあえて晴男のフォースを封印していたのではないか。わからん。

 ということで、東京ドームのオープニング、これも意外な選曲に驚いた”チェック・イン・ブルース”を聴きながら元気にお出かけしよう。
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2022. 3. 14

☆☆☆ひとつになれないお互いの☆☆☆
 漢字だと「個」なのか「弧」なのか。結局、吉田拓郎は、デビューからラストアルバムまで「人間はひとりだ」ということをずっと歌い続けてきた気がする。
 先回のラジオでいみじくもOriginと言ったが、拓郎には、「ひとり」=「個」は絶対に侵されてはならないし、他の個を侵すこともできない、絶対に自由なものなんだという確固たる意志が根源にあった。そして、その個が、さまざまな他者との距離をみつめる喜怒哀楽がつまるところ吉田拓郎の歌だったんではないか。時に煽情的に、時に美しく、時にさみしく、時に悲しく、でも総じて、同じくひとりぼっちの私らの個を元気で豊かなものにしてくれた。…勝手に総括してどうする。

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2022. 3. 13

☆☆☆未完☆☆☆

 選曲が神だったね。

  M-1 RONIN
  M-2 ぼくのあたらしい歌
  M-3 たえなる時に
  M-4 アウトロ

 どの曲も胸躍らせてくれたわ。

 日光東照宮の陽明門には「逆柱」といってあえて一つの柱を逆に入れてあると昔に教わった。「建物は完成と同時に崩壊が始まる」。だからあえて完璧ではない箇所を残して未完成の状態にして永遠のものにするという発想らしい。うーむ、昔の人はよく考えたものだな。

 俺は思うんだよ。神曲”RONIN”の”あがらい”は、この名作に対して入れられた逆柱みたいなものではないかと。一本の逆柱があってもこの素晴らしい名曲は微塵もゆるがない。未完成ゆえにかえってこの歌は永遠に生き続ける。

 同じように、”アウトロ”。拓郎なら相当なクオリティに仕上げてくるに違いない。しかし、これほどの曲なら、拓郎自身が言うように迫真のライブで、生バンドのグルーヴで聴きたいと思わずにいられない。それも逆柱と思おう。永遠の未完成だ。そこにこそ遥かなる希望があるように勝手ながら思う。

2022. 3. 12

オールナイトニッポンゴールド  第24回 2022.3.11
☆☆☆あらすじ☆☆☆☆☆☆
 吉田拓郎です。毎週週替わりの金曜日今夜は吉田拓郎がお送りします。

<ラストアルバムの拓郎さんとスタッフのブログが楽しみという投書>
 エイベックスのサイトがリニューアル。ラストアルバムの制作の様子についてのスタッフや僕の日記がある。ほぼ2,3日に一回書き込みをしている。画像ものっけているので最新画像もアップしている。こうしてみると外観、風貌は変わっていない。でも顔がアップになると、これはイカンわとなる。例によって、すぐ削除するので早めに観てほしい。

<サイトで”ひとりgoto”の剛くんの様子を知ったり、”together”という曲も楽しみという投書のつづき>
 スタッフが”大阪弁”と書いたことでkinkikファンは気が付いたらしい。”together”は最後に出来た曲。”やせっぽちのブルース”のような進行で、♪たくろうチャン(実演)、かつて遠藤賢司がハーモニカを吹いてくれて二人で演奏した”たくろうチャン”を作り直してみた。歌詞の中に、Kinki、小田和正、シノハラ、奈緒が実名で登場する。今の僕の数少ない・・・ダチはもういないし、いらないから、近しい人たちが出てくる。すげー楽しいから。たくろうちゃんが50年間も地球に長く居続けたつづけた。シノハラ、奈緒らは、争いのない国で幸せに暮らしいている。じゃあ帰らなきゃということで、小田とkinkiを連れて帰る。鳥山たちのすげーいい演奏が楽しい。

<剛くんのインスタにスタジオの様子があったという投書のつづき>
剛くんのアレンジがあり、僕は安全を期してリモートで参加して、剛とは電話で話した。剛に”きよしこの夜”が最初だったけれど、今になってなんであの曲だったと思うと話すと、剛は、今こうして拓郎さんの曲をアレンジするとは想像していないと言っていた。時は流れて、泣きたくなるような気持ちいい時の流れ。ミックスダウンではスタジオで会いたい。
 そろそろジャケットの撮影だ。そこには光一くんが来て 目の前でタイトルを書いてくれる。今月はKinkikの二人に会える。ソーシャルディスタンスでハグはできないけど気持ちだけハグしたい。
 今夜もあとでノリノリの一曲を用意している立ち上がって踊るスペースを。

■今夜も自由気ままにお送りします、吉田拓郎のオールナイトニッポンゴールド

<3月11日震災から11年、拓郎さんのチャリティ放送を覚えている、春を待つ手紙を歌ってくれたという投書>
 “春を待つ手紙”を弾き語りで初めて歌った。あれから11年、忘れられない怖い、 辛い、厳しい体験だった。
 僕は坂崎とラジオのレギュラー番組でみんなとハワイに行くことになっていた。3.11はまさに成田に出かける直前で、2時すぎだったかな、妻はメイクをしていた時に突然揺れが始まった。僕らは、大声を出して、佳代テーブルの下に入ろう、拓郎怖いと叫びながら収まるのを待った。ハワイの旅行会社の人から連絡があって、今タクシーの車内だけど道路は麻痺しているので、拓郎さん自宅を出ないでくださいと連絡があった。その夜も眠れなかった。あのときはガラ携だったかな、緊急速報が夜中じゅう鳴りつづけていて、二人で落ち着こうと励まし合った。
 ハワイではバウ・リニューアルを同行のファンのみんなにも立ち会ってもらって、大好きなハレクラニでやろうと思っていたのが全部なしになった。
 ハワイのことよりも原発の存在とかが心に焼き付けられた。人類は危険と暮らしながら平和というバランスをとっているのだと思い知らされた。

 ここで黙祷しましょう。<黙祷>

<新曲のデモにウルウルした、歌詞の一言一句がに刺さった、拓郎さんについてきたことは間違いでなかった、新曲を生で聴けないのが残念、それでも半歩ずつという言葉がファんとしてのネックとなってくれた言葉だという投書>
 アルバムは完成に近づいている。ボイトレもやって、あがりは早い。これでミックスダウンすると、それで終わり。するともう発売日が決められる。あまりしゃべるなと(笑)スタッフの竹林君とかから言うなと言われている。だから来月の放送で発売日を発表したい。竹林君がいいと言ったから。
 よく頑張ったよ、こんな状況でアルバムをよく完成した、やれるベストを尽くした胸を張って言える。いいんですよ、本当にいいアルバム、いい詞、いいメロディ、いいボーカル、いいアレンジ、よくこんなクオリティのものが出来た。こういう社会状況なのに。いや今だからできたのかもしれない。

<北京オリンピック観ましたか、紀平さん残念でしたがという投書>
 全部観たよ。スポーツはリアルで心を打つ。確かに紀平梨花ちゃんは残念でしたね。2019年にサインをいただいた。武部がアイスショーの音楽を担当していたんで、サインを頼んだ。武部からサインを受け取って、どうだった?と聴いたら「全然ご存じなかったです」(笑)。まだ十代だもんね。紀平さんは出ないとわかっていたけど、ある選手にクギ付け(笑)。ウチはそう。サッカーは田中碧と三苫薫に夢中。
 僕の場合は、高木美帆選手。あの真摯な姿勢が伝わってきた。大谷選手じゃないけど、もともと彼女は長距離だと思っていたけど長距離、短距離、パシュートと二刀流ならぬ四、五刀流で、凄いな〜素敵でした。滑っている氷上のフォームがキレイ。本当のドラマがある。やっぱりスポーツ観戦はいいな。
 今の時代エンタメはやりにくいだろうけど、スポーツには感動した。

 争いごとはいけない。みんな武器を捨ててほしい。我々は、愛こそ目指すべきものだと思う。そういうメッセージの歌。映画RONINで高杉晋作を演じながら、高杉晋作くんは、こうつぶやいていたんじゃないかと思った。武器は捨てて、愛を目指そう、そう考えていたんではないか、そう感じてこの曲を書いた。
 歌詞で「あがらい」というところに、後でそれは間違い「あらがい」という指摘をされた。僕の間違いで大事件となったこともある。大いなる失敗もあった。でもこれを今聴いてほしい。混乱した時代にこそ聴いてもらいたい。

M-1   RONIN       吉田拓郎

(CM)

<ラストアルバムのタイトルが気になって佳代さんのシーン確認した、面白い、その後”監獄のお姫様””池袋ウエストゲートパーク”などドラマを見続けている、ご家庭でも佳代さんはトボケて明るくしっかりしているけど守ってあげたくなるような方なのでしょうかという投書>
  (ドラマを観続けているのは)俺と一緒だ。守ってもらいたいのは僕の方なの。トボケて・・・でなく、「わかっていない」。素のままというか。
 結婚前にお宅にお邪魔した時、彼女は風邪気味で具合が悪かったので、お義母さんに風邪の薬とかありますかと尋ねた。えーと正露丸だけはあるとお答えになり、常備薬とかないのかと思った。このお義母さんも娘に輪をかけてユニークな方で、血は争えない。
妻は、とても完璧主義なようでメチャクチャ適当だったりするところもある。細かく気にしながら、ええーというくらい適当なところがある。いい加減なやつ…♪ええ加減なヤツじゃけ〜があたっている。
 全くしっかりしていないです。毎日、「あーどうしよう」「あーわかんない」で一日が過ぎていく(笑)しっかりなんかしていない
 コロナ禍で自宅でいるし会話が多い。子どもや学生時代の話になる。もし二人が同級生で同じクラス、同じ学年で俺がアナタのことを好きになったら、アナタは僕のことをどう思ったかという話をしたら、俺は佳代が嫌いなタイプの男の子だったと気が付いた(笑)。
僕は写真部、軽音楽同好会とか文化系のやわいクラブで、朗らかで明るい、それでいてモテない。成績も優勝なわけではなく中の上くらいで、特徴がない。いわゆるシブい男、バスケットとかサッカーとかやっていて男らしかったり、ニヒルな感じではない。俺は一番嫌いなタイプ。彼女にとっては、あっち行けというタイプだった。そういうタイプの男と結婚してしまうという運命。一寸先は闇とは言えないか。
 このメールを読んであげたら彼女は一言「遅い」。”マンハッタン・ラブストーリー”を観るようにと言っていた。このドラマの中で最近僕がハマっている人がいる。佳代はテレビの連ドラの脚本家で千倉真紀さんという役で高慢でピッタリ。喫茶店のマスターが当時のTOKIOの松岡くん、タクシーの運転手が小泉今日子、テレビ局の振付師のダンサーに及川光博、松尾スズキ、酒井若菜、船越栄一郎が船越栄一郎の役で出ていたり・・・  
 この中の振付師のダンサーの及川光博、もともとそんなに好きじゃないんだけど、LOVE2にも出たことがあって、光一と二人王子になって、王子は光一で十分と思った。最近観ていてこの人にハマって、別所さん、ベッシーっていうんだけど、恋と恋愛に勝手なうぬぼれキャラが凄く良くて、及川くんの大ファンになった。
 いうことで”マンハッタン・ラブストーリー”がお薦めです。

<田舎町で喫茶店を経営している、なかなかお客さんも来なくなっている、憩いの場としての喫茶店をどう思うかという投書>
 コーヒーを嗜めない。そこが僕の足りないとこだった。あまり喫茶店に行ったことがない。デートでも映画館に行って、そのあとお酒のバー、そこから一直線で広島だと川べりの(笑)
 喫茶店ではいつもオレンジジュースで浮いていた。あの香りは好きだけど、飲めというと苦い、コーヒー味のアイスとかは、好き。でもコーヒーの味はわからなかった。さっきの松岡くんはコーヒーのバリスタの役だったけれど。
 2020年の4月に番組は始まってそろそろ長いなというのもある。その間、自宅で録音して一度もスタジオに足を運んでない。自宅でアップしてきた。富山さんとそろそろいい時期ではないかという話をした。
 アルバムも完成したし、やるべきこともやったので3月でエンドと考えられる。冨山さんは、拓郎さんはいつもイマジンスタジオの収録が終わってビールを飲んでいた下の”綴のおねえさんが泣いてしまうかもしれませんよ。ビールタイムは復活させましょうと言った。「綴」では神田共立講堂のあとの打ち上げもやった。魚の干物(小味のカリカリ揚げ)も好きだ。それなら続けようということになった(笑)。但し、いつまでもということは絶対ありません。しばらくは、今年いっぱいくらいはやろうかなという感じだ。

 次の曲は珍しい。かつてコーラスチームとレコーディングした。こいつらがいいやつらだった。名古屋ライブは宝物だ。プロモーションビデオだったか、レコードにされていない。康珍化の詞なんだけど、2コーラス目がやっぱゆるいな。CDにするほどじゃなかったか。可愛いいい曲だけど、フルコーラスで流したい。なに可愛いこと言ってんのということでちょっと楽しい歌。

M-2   ぼくのあたらしい歌      吉田拓郎

 今月は懐かしい男達のことを話す。南こうせつ、この男のことを話すことはほぼない。つま恋も事務所も一緒で同時代を生きたけれどあんまりウマがあわない(笑)。喜多條忠にはおまえのかぐや姫に書く詞はダメだと言ったことがある。
こうせつは雨男、イベントでは必ず雨とか嵐が来る。アウトドアではこうせつは呼ばないという言い伝えもあった。九州の福岡でサマーピクニックに一度だけ出演したことがあった。行きたくったけど義理もあったので一度くらいということで。
 前の晩まで大雨だった。主催者のビーのサブは中止も考えていた。こうせつだと雨でたたられる。ところが吉田拓郎は晴男。僕が参加すると晴れてしまう。こうせつとは合わないはずだ(笑)。
サマピで現地にはいった瞬間、天気回復。そこでサッサと歌って、僕は中州のために来たんで北島サブとともに中州の町に消えてゆく、そして朝まで飲んだ。スタッフたちがつくづく、こうせつは雨男、拓郎は晴男なんですね、と言っていた。つま恋も拓郎がいたため 75年も2006年も晴れた。2006年以来つき合いも音沙汰もないが。

□11時
佳代) 11時です もう寝まーす  おやすみなさい  もう起きてらんない
拓郎)もう寝るのか

 泉谷しげるの思い出。70年代に一緒のエレック・レコードにいた。エレックのミュージシャンだけのコンサートとかがあった。古井戸、ケメ・・・海援隊はもう一緒じゃなかったな。エレックがデビューするのを応援するそういうコンサートだった。
 で僕は、ステージの袖で泉谷という男のステージを観ていた。そしたら突然客席に「てめーら、客だと思ってえらそうにすんじゃねぇ」「金払っているからって大きな顔すんじゃない」と怒鳴り始めた。新人だよ。三波春夫のお客様は神様です・・・これが定着していた時代。こういう一撃。吠えているなと思った。気持ちよかったなこのアジ。

 結局泉谷とはフォーライフを一緒に作ることになるんだけど、泉谷も僕も似たようなハートを持っていた。井上と小室とは、エレック組とは合わなかった。それをわかってなかった。若さゆえに気づかなかったんだけど、気が合わなかったんだ。それが分かんなくなっていた。それでフォーライフを作っちゃった。

 小室とはつきあっていないし音沙汰もないし、井上ともつきあいがない。もともと気が合わない。このテレビドキュメントのスタッフもよく知っている。インタビューも断った。

 あのつま恋とフォーライフは関係ないじゃないか。つま恋は関係ない。俺と雨男のこうせつとでやったこと。たまたま同じ時期に、俺だけが両方に出ていただけ。
 あの番組はひとことでいえば「大いなる勘違い」ということ。若者の勘違い。だから  インタビューなんて受けるんじゃない。相変わらず空気わかってないな。

 あれを美化するのは間違い。あれは若気の至り。あれはいかん。あのことであそこに参加した若い社員と家族たちが一番つらい思いしているんだから。その反省もできないのにインタビューなんかに答えるなよ。泉谷は、てっとりばやくその責任をとったのよ。
脱退はショックだった、俺が一番ショックだった。これから俺が社長になって立て直すから今はやめるなよと泉谷には言った。ただ泉谷は、拓郎はダチだから拓郎が社長になったら付き合いにくいということだった。あいつの気持ちはわかる。さすがに状況が状況がだったし建て直さなくては、これから改革をやらなくてはならないから、それしか会社を残す道はない。涙を呑んで送った。胸が痛んだ・・・のは俺だけかもしれない。
 無理な見切り発車だった。ていねいなビジョンとかもないのに行き当たりばったりで始めてしまった。無理だよ。

 川村ゆうこ、原田真二とデビューしたが、こうやってミュージシャンが増えてゆくのが夢だったはずだ。誰も後輩を育てようということもなかった。例えば原田真二、川村ゆうこのレコーディングも誰も身に来ないんだ。夢のような話に酔っぱらっている。会社の社員を思ってなんておかしい。なんにもできないくせに。企画、アイデア、芸能界のこともわからんままで風呂敷ばかり大きくなった。フォークはOKみたいな。それでは会社なんてできないし、誰もついてこない。誰も先輩としてついてこない。音楽は伝承されるもんだから、そこを若い人が見習ってくれないと。若気の至り、俺達のミスそれらを率先して美化しちゃいかん。
 2年目から社長になって、全国行脚してレコード店のおやじたちから在庫のことで 怒られて頭を下げて、疲れて帰ってきてヤケ酒飲んで六本木で鬱晴らしをした。そんなときでも若い社員のやつらが拓郎さんお疲れ様でしたとサポートをしてくれた。
 会社としての存在だけを考えていろんなことをやった。良かったか悪かったかは誰かが判断することで俺達が決めることではない。それを誰もわかっていない。こんなのアリか。番組のメールでいったように無駄な疲れ、俺はCBSソニーに居た方がよかった、とてもよくしてくれた。そんな俺を引っ張りこんだ人がいたじゃないか。なんだったんだろう。結局、泉谷が一番正しかった。70年代は、先が見えないけどDon’t trust over30ということでオトナが作ったものをぶっ壊せということでもみんなが舞い上がっている独特の風が吹いている時代で、若者の発言は刺激的で刺激を求めていた。70年代後半は元気もなくなり、社会にとけこんでものわかりいいオトナになっていた。それが時代であり、時の流れであったりする。

(CM)

 泉谷とは、その後、雲仙普賢岳のチャリティや日本を救えのスーパーバンドもやったりした。同じ釜の飯を食べた仲。

 ユニークな人としては高田渡。彼は、ステージで寝ていた。呆れた。ステージで寝ちゃう人って客を何だと思っているんだ。前代未聞だった。この人とは正反対だったけど  意外と気があう。高田渡、遠藤賢司でデパートの屋上でよく歌った。丸井とかのコンサートがよくあった。あいつが俺にバーボンを教えてくれた。小斎(こさい)=加川良、キヨシローとかもいたけど、みんなさっさとあっちに行ってしまったな。

 酒が日常だったころのエピソード。行きつけの札幌のバーがあって、バーのママを”オババ“と呼んでいたけどスケールも身体も大きい人だった。バンドやスタッフは彼女の洗礼を受けることになっていた。新しいスタッフが入ると、そこのバーに連れていかれ口紅の洗礼で顔中キスされる。
 駒沢裕城というギタリストがいて、松任谷正隆がバンドリーダーだったときスチールギターの音があった方がいいということでバンドに加えた。真面目な好青年で、移動の車中も読書をしていた。
 その駒沢君にある日オババが抱き着いて顔中にキッスの雨。呆然として目がうつろでつくり笑顔で動揺していた。
 次のコンサートは九州で、全員でグリーン車で、駒沢くんは読書せずにみんなに話かけてくる。「駒子うるせーな」と言われていたが、僕にも話しかけてきて、「拓郎さん今夜はどんなことろで飲む予定なんてすか?」と尋ねてきた。怖いなと同時に楽しみも入ってきているようだった。駒沢君は、ついに毒の回った人間になって、大いに遊んで普通のミュージシャンになった(笑)。

 次の曲はライブで、ドラムの鎌田夫妻のバンドだと思う。キーボードが印象的なので、アルバム “デタント”の時だ。事務所のマネジメントのUくんと折り合いが悪くて、事務所の解散とか、新しいマネジメント模索中とかの問題があったころ、ツアーチケットの販売とかアルバム発売のレコードの出し方に不満があった。なんでこんなCMに出るんだ、こんな取材をいれるのかと思っていてあわなかった。エッセイ集でも出したいので出版社にあたってくれと言ったら、あとでなかなか乗り気の出版社がありませんということだった。後に、直接知り合いの出版社の人間に尋ねたらそんな話は聞いていない、拓郎さんのエッセイだったらすぐ乗るよという話で驚いた。がーん。アイツは俺に演技していたのかなと思った。限界だな。彼と別れてから、kinkikidsと出会ったり、そこから運命的なものが変わっていた。今はすべていい想い出だな。

M-3    たえなる時に     吉田拓郎   (ライブ)

(CM)

 人間は関係ない他人の井戸端にのめり込んでいく癖がある。大切なこと例えば自分のファミリーのこと、知り合い、友人のこと、自分にとっていきさつがある場合、それは放っておけない。そうじゃなくてなんの関係もない人のことにわざわざ突っ込んでゆく。ネットの世界では多い。多すぎてウザイな。ネットの功罪。見ず知らずの者が昔からの知り合いように、素晴らしいことだけど、なんでもかんでも共有しよう、すぐ、つながっちゃおうよ、という感じがある。僕は、基本的に自分が「個」がオリジンていうか、あまり得意でなかった。新作の"Contrast"という歌のとおりそういう子どもだった。個人的な不満とか気分も自分の中だけで処理するのが自分らしい生き方だった。
 もっと人間は「個」でありオリジナル=自分、もっと自分らしさ、自分の道、自分しかできない、これが自分の道ではないか。それは他人と一緒ではないが、これが自分の道なんだ。そういうオリジナル。そういう気持ちで人間は『個』として立ったり歩いたり進んでいったりすべきだ。そういう歌を作った。
 「ついて来な」というタイトルだったけど、そういうのもどうかと思って、自分のしめくくりとしてこれが僕のエンディングなんだ。
 前奏をイントロといい、後奏をアウトロという。アウトロダクションという言葉は正式ではないかもしれないが、僕等は業界ではイントロに対してエンディングをそう呼ぶ。

 僕はアウトロを生きているということで、そこにメッセージをこめよう、自分で立って自分で半歩でも進もうというメッセージだ。自分らしく話す、生きる、愛する、育む、そしていつかは消えるというのを自分らしく目指そうよという歌。アレンジのドラムも何パターンか変えたし、ギターのフレーズも替える。未完成で制作中。もしこれをライブでやれたらシャウトし客席をあおりまくっていただろうな、ボイトレしながら思った。乗っちゃうんだよ。最後は”人間なんて”みたいにいっちゃえと思った。吉田拓郎のアウトロを飾る曲。5分弱の力作です。デモバージョンですが聴いてください。

M-4    アウトロ      吉田拓郎

■エンディング
  最近の吉田家、夫婦の意見の相違。深夜にトイレ行ったり、本読んだり、音楽を聴いたり、気兼ねなくゴソゴソできるように、またイビキも時々かいているらしいので、僕はベッドルームを出て、仕事場にベッドを置いた。トイレに立った時とか、起きてるかな、と思って、夜中にベッドルーム開けちゃおうかなと思う時があるが、もし寝ていたら叱られるので開けない。時々どうしているかわかりたいな、寝ている寝室にのぞき窓をつけないか、それだとお互いに深夜に様子が無事かどうかわかる。
 何バカなこと言ってんの、寝ているところ覗かれたくないわよとケンモホロロに言われてしまった。

 次回は4月8日。
 最後の曲

M-5   Somethin' Stupid  フランク・シナトラ&ナンシー・シナトラ

☆☆☆思いつきと感想☆☆☆☆☆☆
☆ラジオが続くことに。良かった。まさか「綴」がつないでくれるとは。拓郎、それは「小鯵のカリカリ揚げ」だ。確かにあれは美味いです。

☆黙祷。

☆今このときに"RONIN"を持ってきてくれことが心の底から嬉しい。魂の名作、詞のミスなど毫も影響しない。

☆ぼくのあたらしい歌…確かに詞は恥ずかしいけれど、このメロディーは凄くいいよね。心ウキウキして気持ちがいい。自然に身体が揺れてくる。70歳でこのメロディーが出てきたことが俺は嬉しかった。

☆サマーピクニックは1987年と1990年と2回出ているよな。それにしても確か第一回サマーピクニックの熊本での荒天はニュースにもなったくらい凄かった記憶がある。しかしそこまでの雨男でありながら、毎年毎年15回以上もサマーピクニックを野外で実行しつづけた南こうせつはやっぱり凄いなと尊敬する。てか晴男なら拓郎がやればよかったじゃないか(爆)。これがもし"吉田拓郎のサマーピクニック"で毎年野外でやっていたら、それはファンは悶絶至福だったぞ。

☆そういえば2006年も台風直撃の予報だったんだよな。まさしく雨男と晴男のせめぎ合いだったのだ。

☆そうするとどうしても思う。1983年の後楽園球場のサントリーサウンドマーケットはどうだったのだ。晴男が唯一雨男に負けた黒歴史なのか。いやあれは武田鉄矢がいけなかったのではないか。わからん。

☆「気がついたら春は」は岡本おさみではなく自作の詞なのに「コーヒーのうまい店で待っていてくれないか」とあるのはなぜだろうか。もっともファーストアルバムの最初からいきなり喫茶店でコーヒーを注文してるんだよな。以前11時の時報とともに拓郎が坂崎とコーヒーを無理して飲むという番組があったな(爆)。あれも不思議だった。

☆フォーライフあのドキュメントは既に書いたように感動的だった。しかし、当然のことながら吉田拓郎が現実に生きたフォーライフという証言も観点もなかった。あのテレビの最後のメールの言葉をていねいに敷衍するように拓郎は実に率直に語ってくれた。泉谷への魂のアンサーのようにも聞こえた。高橋真梨子を獲得しようと奔走していた話を聞いたばかりだし、原田真二の全力プロデュースも、新人発掘に奮闘する姿も観ていたので拓郎のフォーライフへの夢は切実に伝わってきた。そして「普通の会社」として成り立たせるというために味わった苦渋のようなものもあらためて辛かった。
 拓郎は、つとめて冷静な口調だったが、それでもたぎる思いは伝わり、怒り出すんじゃないかと怖かった。この拓郎の視点をもしっかりと組み込んだドキュメンタリーがあらためて観たい。そりゃあ世間の大半の人はフォーライフの顛末なんてそれこそ井戸端会議だろう。でも拓郎ファンにとっては、他人事とは言い切れず、むしろ自分たちの青春もかかわる大切な「いきさつ」だ。それはできれば知りたい。わかりたい。そして知るほどに、それがいかに拓郎にとって無駄な時間であろうと、やらなきゃよかったことであろうと、自分の夢と社員の家族のためにあえてそういう枷をひとりで背負った吉田拓郎の魅力はファンには響くのだ。

☆Uさんの話は個人的にはショックだった。でも、あの頃の拓郎周辺の重苦しい空気というのもあった気がする。クラブ25の時の拓郎はたしかに「個」というか「孤」だった。そういう事情もあったのかとあらためてわからないなりにそう思った。しかしUさんはファンなりに親しみを感じていた拓郎のスタッフのひとりだ。そういったいきさつ的意味ではファンも井戸端会議ではいられない。もちろん仕事である以上、離合集散はつきものだし怨憎会苦は拓郎さんのものであり、俺なんぞは立ち入れるはずもない。でもだからこそせめてUさんの魅力的だったところも含めて全部抱きしめるように語っておくれよ。と思う。

☆"アウトロ"を聴く。これか。来たぞ。"人間なんて"と本人が言うから、言うけど、聴きながら「もっと、もっとだ〜、もっと来ぉ〜い」と叫びたくなった。これは地響きのようなドラムや鳴り響くギターやキーボードに支えられたシャウトこそがふさわしい。もっともっと打ちのめしておくれ。それがこの歌の持つ威容だ。もちろん誰よりご無念なのはわかるよ。完成品を楽しみに、私待つわ、いつまでも待つわ。

☆☆☆星紀行、今日の学び☆☆☆
 フォーライフのこと、小室さんのこと、泉谷のこと、そしてUさんのこと。拓郎はその時々に饒舌に話しているイメージがあったが、大事なことはひとりで抱えて黙り込んできたんだな。話せることは残されたラジオで話してほしい。骨は私が拾う。拾うなと言われても愛をこめて拾う。

2022. 3. 11

☆☆☆いつも何度でも春を待つ手紙つづき☆☆☆
 存じていた方々、存じない方々、有縁無縁のすべての皆様のご冥福をお祈りします。釜石市唐丹町に建立された津波記憶石に刻まれた言葉を教えていただいた。
  「100回逃げて、100回来なくても、101回目も必ず逃げて」
 中学生の言葉らしい。胸に刻む。たとえ過去に何回来なくても生きるってことはこの101回目が全てだ。…この道にも通じる。すまん不謹慎か。いや、きっとすべてに通じている。

2022. 3. 10

☆☆☆いつも何度でも春を待つ手紙☆☆☆
 11年前の今日は週末に迫った吉田拓郎のハワイツアーにウキウキと浮かれていたときだった。翌日は前代未聞の急転直下の事態となったが、東京で無事に暮らせていた俺が大変だったなどとは言えたものではない。それでも放射線量を毎日チェックしてこの国はどうなってしまうんだろうと脅えていた。

 そんなとき拓郎ファンのねーさんから教えてもらったYoutube。NHKの「視点・論点 (2008年8月6日)」の録画とのこと。広島の原爆の日、ウクライナ出身の歌手のナターシャ・グジーさんがチェルノブイリ原発事故の体験を語り、生命の大切さを語りかけて『いつも何度でも』を歌った。これがもう胸に刺さって刺さって涙ぐみながら繰り返し聴いた。

 同じころに自粛で真っ暗なお茶の水の街のとあるライブハウスでエルトン永田さんがピアノを鳴らすように弾いてくれた「時代」。

 そしてラジオではこの悲惨な状態に「とても歌う気にならない」と言っていた拓郎も、4月になるとラジオの公開録音で初めて生で”春を待つ手紙”を歌ってくれた。わが心の家宝である。

 この三つの音楽がしっかりと自分の中では拠りあっている。

 それから10年経って現在ウクライナも原発もまたあらためて危殆に瀕している。なんてこったい。「いつも何度でも」のココが何度も脳内に流れる。最近は毎日これだ。

     繰り返すあやまちの そのたび人は
     ただ青い空の青さを知る
     果てしなく 道は続いて見えるけれど
     この両手は光を抱ける

 

2022. 3. 9

☆☆☆祭りのまえ☆☆☆
 アルバムの進捗をラジオで垣間見せてもいながら完成を待つ至福。そういう至福が昔もあったし今もこうしてある。よく考えるとありがたいことだ。これが最後じゃないか。
 至福というとなんか上品でもの静かだが、気分的には、思いが募って黙ってらんなくなった拓郎の魂と、超絶聴きてぇというファンの悶絶が、もんどり打ちながら絡み合って怒涛のように暴れまわるだんじり祭りのような状態だ。今がその時ためらわないで、今がその時もう戻れない。

2022. 3. 8

☆☆☆波がひいてゆく別れの時だ☆☆☆
 おお快調ですか。3曲ですか。
 泉谷とのtrue storyも知りたい。

 俳優で声優の井上倫宏さんの訃報。まだお若かったのに。ご冥福をお祈りします。俺にはどうしたってドラマERのマーク・グリーン先生だ。グリーン先生が亡くなる第8シーズンまで熱くなって観たものだ。グリーン先生の最後の回のDVDを引っ張り出して観直した。最終回のタイトルは”On the beach”〜”渚にて”だ。先生はハワイで亡くなる。拓郎でおなじみのモアナサーフライダーホテルのバニアンバーが映る。
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 ハワイツアーが流れたのはちょうど11年前の今頃だった。
 ハワイ行きてぇなぁ。そしてそれ以上に拓郎に行って欲しいなぁ。

2022. 3. 7

☆☆☆声のセクシーな男って好き☆☆☆
 予定通りなら今日からボーカル入れである。どうなんだろうか。朗報待ってます。ところでKinkiのビールのCMがいい。二人の空気感がとてもいい。「拓郎さんでも呼ぶ?」とか言い出してもおかしくない。てかお願いだから言い出して。

2022. 3. 6

☆☆☆悲しみも消えない☆☆☆
 今更だけど若いころの後藤由多加ってハンサムだよね。それにしても原田真二、Kinkikids…「吉田拓郎の音楽人生のピンチには必ず美少年が現れる」という法則があるんでないかい。たぶんある。

 知人のドイツ在住のプロバレリーナ。当然にロシア、ウクライナに先生、関係者がたくさんいる。ウクライナに帰れずポーランドから入るという知人の手伝いのために深夜出かけたらしい。家族には『戦争が始まっちゃったから』と書いてきたという。その淡々としたニュアンスに慄然とする。戦争が海の向こうではなく隣近所に受け入れるべき事実としてやってきている。子どものころつま恋で全抱きを踊っていた頃から知っている彼女に言われると、こんな世の中にしたというか、何にもしなかったというか、オトナの責任を突き付けられているような気もする。
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 そうだね、悲しすぎるよ。とにかく皆さんご無事で気をつけて。

2022. 3. 5

☆☆☆カッコわるいことはなんてカッコいいんだろう☆☆☆
 フォーライフとともに失速し、なんかカッコ悪かった社長吉田拓郎。アナザーストーリーズの番組では映らなかったけど、週刊平凡77年12月8日号で一番悲しかったのはこの写真。前にも載せたかな。流しの営業か。
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 ↑この写真を観てるとマイクもってデュエットしている男女を思わずハリセンで叩きたくなりませんか?誰に伴奏させとんねん!

 しかし時間が経つにつれてこの時の拓郎の苦闘が身に染みるようにわかってくる。
  会社ゴッコと蔑まれたこと
  それでも会社再建に苦闘し、電卓を叩きながら従業員の給与査定に悩んだこと
  苦渋の末、人員整理までしなくてはならなかったこと
  時にレコード小売店のおやぢと喧嘩したこと
  不祥事を起こしたアーティストのために嘆願書をあつめ単身警察に乗り込んだこと。
  最近の話では高橋真梨子を迎える構想に人知れず奔走していたこと

 カッコ悪く見えた時代のエピソードを知るたびに拓郎に対して深まる敬意と誇らしさ。

 俺の周囲ではオワコンだったフォーライフに突然思いきりいい風が吹いたのは「原田真二」のデビュー時だった。こんときゃ教室の女子のほとんどが彼に魂を奪われ嵐のような大騒ぎだったな。毎月1枚のシングルリリースというオドロキの戦略でしかも全部ベストテン入りの快挙。社長兼プロデューサー吉田拓郎の名前もそこに燦然と輝いた。今でいうシン・フォーライフの始まりだった。

 他方で社長業に忙殺されながらアーティスト吉田拓郎がいかに音楽としっかり結ばれていたかはここに詳しい>自分で言うんじゃねぇよhttp://tylife.jp/sideways.html#NINENKAN
 79年の篠島の復活が75年からの長い長い失速の中でいかに劇的なものだったか。どうだカッコ悪くても、いいや、カッコ悪いからこそ超絶カッコイイじゃないか吉田拓郎。

 …ということで華も嵐もフォーライフも踏み越えて、いよいよ来週やってくるという"アウトロ"。揺れる準備はできている。どっからでもかかってきやがれ。

2022. 3. 4

☆☆☆かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう☆☆☆
 「いい風はどこにも吹いてなかった」と小室等は静かに語った。涙。♪華やかなりし時はそう永くは続かない@桑田佳祐。
 “フォーライフ”そしてご一体の”吉田拓郎”も、75年9月ごろからゆっくりと失速を始めた。俺にすれば熱烈なファンになったとたんに失速を始め、しかもその期間がかなり長く続いて切なかった。バブル崩壊の後に生まれた若者ってこんな感じなのかと今になって思う(爆)

 失速のマイルストーンのひとつ、1977年に泉谷がフォーライフを脱退した時はやるせなくショックだった。厳密には泉谷がいなくなったショックじゃない。脱退の真相など知る由もなかったが、あのとき拓郎ファンの俺ですら「正義は泉谷の方にあり」って直感がした。たぶん世間のおおかたもそういうイメージだったと思う。
 泉谷がいなくなったことそれ自体より、拓郎がカッコ悪くなってしまったことへのショックだ。自由に音楽がやりたいって外に飛び出す。それって吉田拓郎の専売特許だろ。それを泉谷にキメられて拓郎は反対に取り残される側になってしまった。♪恋の終りはいつもいつも立ち去るものだけが美しい、残されて戸惑う者たちは…@中島みゆき。

 アナザーストーリーズでもフォーライフを若者による音楽革命の旗手と評していたけれど、77年当時、俺の高校の教室では、フォーライフも吉田拓郎も立派なオワコンだった。教室にはアリスとかさだまさしとかチャーとかクイーンとかが飛び交っていて、吉田拓郎なんぞは古くてダサいものの象徴だった。ダサいものを聴いているダサい人と俺もいぢめられたものだ。

 それでもなぜファンを辞めなかったんだろう?
 「答えは風のなか」…それは重松清の新作だ。俺の場合は答えはある。次のうちどれか。

@3年間ファンをやってレコードも本も買いこんだので今更やめたらもったいなかった

A拓郎を聴きこんだので抗体が出来てそれ以外の音楽を異物と排除する身体になっていた

B失速しようがカッコ悪かろうが、この世にこれ以上すばらしい音楽がなかった

Cニューミュージックだろうが若手だろうが彼より美しいルックスの歌手がいなかった

D失速したりカッコ悪かったりするところがまた一段とたまらなくカッコよかった


 答えは当然全部だ。特にD。一見、失速し低迷し時にカッコ悪く見えるところにこそ真実の魅力が光る。そこだよ。そこなんだよ。今夜のテーマ。たぶんつづく。

2022. 3. 3

☆☆俺とおんなじあの星見つめて☆☆☆
 アナザーストーリーズ…この番組は個人的には結構あとを引きそうだ。
 最後の泉谷の拓郎への言葉には泣かされた。拓郎は別の番組で「フォーライフ脱退のときの泉谷の気持ちはただひとつ”ミュージシャンたれ”だった」と述懐していた。訣別という場なれども二人の心ははガッツリ通底していた。
 一緒にテレビを観ていた家人が「泉谷しげると吉田拓郎って喧嘩してて仲悪かったんだよね」と不思議そうに言った。絶縁しているとかいないとか、仲が良いとか悪いとか、そんなことはどっちでも同じこと。そんな”へ”のようなことに関係なく魂のレベルで共振する、そういう人間と人間の関係というものがこの世にあるのだとあらためて教えて貰った。

 最後に流れた”マキシーのために”が頭から離れねぇよ。
  ♪青山にでっかいビルを建てて
   おかしな連中集めて
   自由な自由な〜お城を作ろうと

 たまらん。

 また明日。
 明日は「哲哉も圭もかなわない最強小室王は小室等だ!!」をお送りします>しねぇよ

2022. 3. 2

☆☆☆アナザーストーリー・アナザーワールド☆☆☆
 ああ泉谷よ、あんまり俺を泣かせないでくれ。最後の泉谷に潸然として涙下りて観終わった。いい番組だった。

 すべてがあまりにカッコよく、あまりに切なく、そしてやはりあまりに誇らしい。フォーライフと同時代を過ごせたことを感謝したい。中学生だったあの日フォーライフフェアで拓郎と会えなくて文句を垂れたが、泉谷と一緒にフォーライフの映画を観て、小室さんに握手してもらえて本当に幸せだった。

 1975年のつま恋を制作した方々も、あそこに参加された方々もあらためてすげーな。もう大挙してピラミッドを作りあげたエジプトの人々と変わらない歴史的営為ですばい。羨ましい限りだけれど、今にして思えば、あの6万人の方々は誰もが運命的に"招かれた人々"なんだよな。
 とにかく茶畑のウンコを拾い続けたた木下さん、「俺が若者を応援しなかったら笑われる」と県知事を説得してくれた川上源一さん、野宿の若者たちを本堂に泊めて握り飯をふるまった聖職者の鏡のようなご住職。深々と頭を下げたい。すべての方々に魂の底から御礼を申し上げたくなった

 
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 週刊平凡1977年12月8日号のこの写真を高校生の頃は、すこし悲しい気持ちで眺めたものだ。今は違う。フォーライフを果敢に背負った吉田拓郎の美しさを象徴している。それはまたもう一本番組作ってくれ。
 そしてなにより吉田拓郎。最後の言葉も含めて素敵すぎる。ああ…もうファンになろう、全力で応援しようと誓った。いいんだ何度でもファンになるんだ、何回でも誓うんだよ。

 忘れられない言葉。
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この言葉の果てに、今、ラストのアルバムを迎えようとしている。こちらもありったけの渾身で迎え見届けようじゃないのとあらためて思う。

 孤高とうそぶく自分だが、この番組は拓バカたちと酒飲みながら観たかったな。

2022. 3. 1

☆☆FUNKの文字もあざやかに☆☆
 堂本剛くんがギターを抱えたスタジオの写真をチラっと見た。さりげないショットだが、そのさりげなさがもうプロのギタリストの美しさだったのにちょっと驚いた。すまん、遅すぎたか。かつて拓郎のチューニングに驚いていたあの日の少年である。勘違いも大概にせいと怒られること必須だが、拓郎ファンには小さなころから知っている親戚の甥っ子の成長に驚くみたい気分がないかい?。
 その"100万人の恋人"…ちゃう"100万人の甥っ子"が吉田拓郎をアシストしてくれる。そういう時代がやってきたのだ。負うた甥っ子に教えられるということか。いやいやそれこそ失礼だ。どんな音楽を聴かせてくれるのか心の底から楽しみだ。


 “ギター持つ手で銃は持てない”という拓郎の言葉を思い出す。これは武田鉄矢が言ってたことのまた聴きなので正確なのかどうかはわからんが、俺にとっては大切な名言だ。ウクライナに関係するいろんな方の話を知るにつれ、とにかく頼むからなんとか収まってくれと祈るばかりだ。

2022. 2. 27

☆☆☆流行歌がもしもチカラをもつならば☆☆☆
 幻のイヤホンの話はいいな。涙ぐむ。魂だ。今もこんなスタッフが身近にいてくれることがファンにとってもすげー嬉しい。そしてこういう小さな奇跡のようなものがつながるときたぶんすごい仕事ができあがる。俺の文句や悪態なんぞへのように飛び越えて。そんな気がする。
 そんなふうにこの戦争もなんとかなってほしい。かつて3.11の時、ウクライナの歌手ナターシャ・グジーさんの歌う”いつも何度でも”に救われたことがあった。今日、拓郎ファンのねーさんに教えてもらってナターシャさんの”いのちの旋律”を聴いた。本当にたまらんです。

 そういえば昔「残念ながら音楽にチカラなんてありませんよ」ととあるミュージシャンの方に言われたことがあった。でもその方の奏でる音には間違いなくすんばらしいチカラがあった。もちろんチカラのための音楽、何かのための音楽ではなく、ただ純粋経験としての音楽ということね。

2022. 2. 26

☆☆安らかに笑う家はいつまで…☆☆
 一晩たてば国境を戦火が燃え尽くし…の世界だ。ドイツも大量の軍投入で緊張が走っていると聴かされる。本当に欧州は隣りあわせだ。追われるように避難する住民の方々の姿に言葉がない。怪獣映画の話ですまんが映画シン・ゴジラで平泉総理が「避難とはその人の暮らしを根こそぎ奪うものだから簡単に言って欲しくないなぁ」と愚痴るシーンを思い出す。何をしたらいいかもわからずとりあえずユニセフの緊急支援に募金する。半歩にも遠く満たないが。疫病と戦争…なんも進歩していない私たちの世界だ。こういうときだからこそ魂の歌を歌っとくれ。

2022. 2. 25

☆☆☆なんたって、なんたって三回目☆☆☆
 三回目の接種は軽いという都合のいい噂を信じていたが、身体はだるいし、熱は出るし、左腕は大リーグボール3号を投げ過ぎたように痛くてあがらない。それでなくとも身体に身辺にいろいろガタが出てきた。そして海の向こうで戦争が始まる。ああ、ヘタレの俺はもう鬱モードだ。
 “王様達のピクニック”の記事で意外な紅白の裏事実を知った。そんなことがあったのか。吉田拓郎と岡崎友紀がどうつながるのか、二人を結ぶさらなる謎に悩む。ドゥ・ユー・リメンバミーの加藤和彦が間に入って差配してくれたのか、いやいや時期的にそんなことはあるまい。大のスヌーピーファンだった岡崎友紀、そういえば拓郎も譜面台のノートはスヌーピーだったので、スヌーピーつながりか…ってどういうつながりなんだよ。
 ということで、今更だけど人生にはわからないこと、どうにもならないことが膨大にあるものだ。こうして殆どわからないまま、どうにもならないまま死んでゆくのかとしみじみ思う。いやいや、それでももうちょっとだけでも頑張ってまいりましょう。半歩にも及ばないが、微細でもできることはあるはず。

2022. 2. 24

☆☆☆されどわれらが日々☆☆☆
 既に多くの方が告知なさっている。
 3月1日21:00〜NHK BS2プレミアム『アナザーストーリーズ 運命の分岐点」"俺たちが音楽の流れを変える!〜フォーライフ 4人の冒険〜"
 楽しみだ。「冒険」というフレーズもなんかイイし取り上げてくださったこと自体にも感謝したい気分だ。
 でもただの一般Pの俺とはいえ大切な青春のパラダイムだったので、もし番組がショボかったら文句いいます(爆)。
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 拓郎どうなのかな。たぶん今展開する音楽活動が一番大切で、そんな昔のことはもうどうでもいい…というだろうか。わからん。

 ボイトレ=「声出し作業」っていうのね。明日はワクチンなので憂鬱だ。どこか安全な場所で軽く吸収実施作業をしてから帰りたい。

2022. 2. 23

☆☆☆君が先に背中を☆☆☆
 “アウトロ”…なるほど、いいタイトルだ。ついて来な…黙って俺について来いってそれじゃ植木等だもんね。身体がゆれるとは楽しみじゃないか。
 それにしてもまたそうやってしみじみとオーラのにじむ御背影を見せやがる。御背影なんて言葉あるのか、いや吉田拓郎が語源でいいじゃないか。
 ”アウトロ”は確かに美しいタイトルだがやはり切なくもある。まぁいい心配するな、見ろよ青い空、白い雲、そのうちなんとかなるだろう。

2022. 2. 22

☆☆☆馬鹿なあいつを愛してた☆☆☆
 しみじみと思い出した。Kくんは、かつて拓郎の鹿児島公演に行ったとき、聖地谷山小学校を観に行き、高校球児のように校庭の土を小さな瓶に詰めて僕らファンに配ってくれた。それだけでは足らずに学校前の文具店で谷山小学校の名札を買って「よしだたくろう」と書き込んで名札レプリカを作っていた。それもみんなに配ってくれるつもりだったらしいが、小学生の名札をまとめ買いする中年のオヤジは怪しすぎて文具店が警戒して大量には売ってくれなかったそうだ。おかしくって涙が出そう。
 拓バカとはこうあるべきだという美しい氷上の模範演技を見せられたかのようだ。

 さもしい俺なんかとは違い、自慢とか承認欲求とかマウント取りとかの気持ちは微塵もない。ただひたすらに君が好き…の愛しかなかった。

 コロナになってから彼の墓参に行ってない。別の知り合いが今年は彼の十三回忌だと教えてくれた。やっぱり彼を知る拓バカはみんな彼の事をそれぞれに深く心に留めているのだ。
 今年はみんなで盛大に行きたいぜ。追悼とか供養という聖なるものというより、彼が今生きていたらどうするだろうかと話し合いながら、バカがよりバカを磨くための研修会みたいなものだ。それでいいよね。

 たぶん間違いないのは、彼が元気でいたなら「拓郎さんが出来るベストというなら、それが僕らにとっての最高ベストなんですよ」と超絶至福の境地にいただろうなということだ。

2022. 2. 21

☆☆☆一本の道☆☆☆
 昨日、知り合いから苗場でユーミンのライブを観て感動したという熱い萌えメールが来た。そしてその日のうちに翌日の公演がコロナによる中止というニュースを聞く。なんともやりきれない。
 そして先ほどは西郷輝彦さんの訃報。俺には”どてらい男”のモーやんだな。今は亡きKくんが掘ってくれた谷山小の土に向って手を合わせた。
 いろいろ厳しい。いつも悪態ばかりついているが、そういう極北の困難をぬう様にしてラストアルバムが届くんだと殊勝な気持ちになる。なんかありがたさが胸にしむ。

 “かぞえきれない星の、その次の星”(重松清)の帯「さみしさは消えない。でも、希望は、ある。」が頭に繰り返して浮かぶ。みなさんとにかくお大事にtake care!

2022. 2. 20

☆☆☆時に逆らわず君の名を呼ぶ☆☆☆
 カーリング女子の日本の選手はしっかり覚えたが、外国選手の名前までは覚えられないので、見た目でスーザン、ナンシー、グロリア、ルーシー…と勝手に呼びながら観ている。だからあとで「グロリアはいつも正確だよなぁ」と言っても誰とも話題を共有できない。

 名前と言えば、ラストアルバムは アルバムタイトルもそして収録曲のタイトル名もほとんどが明らかになった。自分で書いてならべてみると感慨深い。俺のような頑迷固陋な老人頭には、どれも斬新な今風タイトルに見える。なんかどれも若い風が吹いている>その感想が古いぞ。もう”襟裳岬”とか”竜飛崎”とかそういう地名や漢字熟語のタイトルは見当たらない。

 ということで、ぐんぐん進む背中を追いかけてゆく見失わないように…これは吉田美和か。

2022. 2. 19

☆☆☆OK☆☆☆
1人で行かせるもんか
それがtakuroファンだったんだ

2022. 2. 18

☆☆なぜだよ、未練じゃないかよ☆☆
 吉田拓郎の美しい姿、聴いてはいないけど健在なるボーカル…まさに奇跡の75歳。なのに残念なことに実現困難な様子の一発録りと松任谷、高中、鈴木茂、島村、エルトンら伝説ミュージシャンのラストアルバムへの参集。

 始まれば終わる…「ラスト」の決意が固いのはわかった。俺も未練がましいことは言うまい。
 “ラストライブ”は終わってしまった。そして”ラストアルバム”を迎える。その後に「ラストライブアルバム」はどうだ、誰に言ってんだ。
 新作がレコーディングされたいわゆるオリジナルアルバムとは別に拓郎の場合は、“ライブアルバム”という独立したジャンルがあると思う。オンステージともだち、ライブ73、TOUR79、王様達のハイキング、TRAVELIN' MAN、豊かなる一日…この目も眩むような珠玉のライブアルバムたちは、ライブそれ自身ともオリジナルアルバムともまた別の独立した魂の作品群ではないか。そしてその果たした歴史的功績の大きさもまたしかり。

 そう考えると吉田拓郎最後のライブアルバムがあっていい、というか是非欲しい。ご無体な話かもしれないが、TRAVELIN' MANのように一回だけの単発でいい。よってたかってのみんな参加のラストライブアルバム。お願いできないだろうか。もちろんメイキングからの映像も撮ってほしい。それこそ未練がましいだろうか。

2022. 2. 17

☆☆☆ぼくは誉める 君の知らぬ君についていくつでも☆☆☆
 声が出てた。良かった。ああ、シャウトもあるのか。ご本人のご精進はもちろん、音楽の神様ありがとう。
 声だけではない久々のお姿の御近影も見ることができた。…美しい。普通によくある75歳ではない。ナチュラルでそれでいてシャン伸びた背筋。俺の回りにこんな75歳は金輪際いない。ああ〜やっぱり映像は欲しいな。


 自分で書いときながら「雪」 http://tylife.jp/uramado/yuki.html
「やはり成熟したボーカルのスタンダードバージョンが欲しい。〜もっと身近に置いて聴き直したい美しい逸品だ。」
 良いこと書いてたな俺(爆)。すまん、俺こそ自分で自分をホメるしかない。

 "雪"、涙ぐんで聴きてぇよ。

2022. 2. 16

☆☆☆春を待つ手紙☆☆☆
 エイベックスの公式HPの新設“TAKURO Blog”に拓郎のメッセージが載る。おお〜萌えるぜ。待つ身の辛さがわかるから"STAFF Blog"はスケジュール式でやがて発売日もマーキングされカウントダウンしてゆくのか。なんにしてもありがたい。

 ファンになって以来、ニューアルバムは待っていれば当然に届くものと慢心していた。しかし今回は世界的な荒波を乗り越えてようやく届けられることになり、しかもこれが最後の便りになりそうだ。かなしみが心の扉を叩くまで人はそれまでの幸せに気づかないんだね。
 すまんが俺は卑しいので曲数が多いとただそれだけで嬉しくなってしまう。そうか今回は究極の9曲ということか。御意のままに。やっぱスゲエと打ちのめされる準備はとうにできている。“午後の天気”から10年間、日々次のニューアルバムに打ちのめされる妄想避難訓練を怠らない奇特な人たちのことをファンと呼ぶのだ。>いみふ

 それにしても今やリモートでアルバムが作れるのかとあらためて驚く。それでも拓郎がスタジオ入りすると聴くと嬉しい。ブルペンで投球練習を始めるみたいで、いよいよ登板かと気分がアがるってもんだ。

2022. 2. 14

☆☆☆僕の車、あいつのマシン☆☆☆
 車といえば昔のフォーク系のテレビ番組で吉見佑子が「あの頃のフォーク歌手の中で、吉田拓郎さんだけが車に乗っていた。だから彼の歌は見えている景色が違っていたと思うの」と話していたのを思い出した。そういえば当時はフォーク歌手なのに車持ってマンションに住でんいやがるとフォーク関係者から批判されていたよね。今から思えば心の底から気の毒だ。「俺はフォークじゃない」という拓郎の最近の口癖の言葉にはそのあたりまで読み込んで味わう必要があるのではないか。
 
 先日のラジオで拓郎は車の運転には自信があると言っていたが、そうなのか。いやそれはそれでいいのだが、"ラジオでナイト"で、車庫入れが苦手で、美容院に車で行ったけど駐車できずにそのまま帰ってきてしまったという話が俺は大好きだ。

 そうそう拓郎が大阪に車で行ってイベンターの上田さんに車を預けた話は上田さん御本人からハワイツアーのバスの中で聴いたことがあった。
 拓郎が大阪まで高速で運転して来て、大阪のインターで待っている上田さんと運転を交代し任せる。帰りもインターまで上田さんに送ってもらってそこから拓郎が高速を運転して帰る。いつも上田さんは徒歩でインターまでトボトボと往復するという切ない系の話だった。
「拓郎さんは高速を運転するのは大好きなんだけど、下の道を運転するのは大嫌いなんです、だから仕方ないんです」という上田さんの言葉に感動した。すげえワガママ…さすがスーパスターだ!と感じ入った。

 車そのものよりも車を通して描き出される吉田拓郎…これが楽しみなのだ。かまやつさんとミニクーパーの話は詳しく事情はわからないがそれでもなぜか胸を打つ。そういう歌を聴きたいな〜と思う。

2022. 2. 13

☆☆☆もしドキュメント映画を作れないなら☆☆☆
 広島で日野コンテッサに乗り込んだ若者(菅田将暉)がシビック、ジャガー、アウディと次々に車を乗り替え、悲喜こもごもいろんな同乗者を乗り降りさせながら、最後に東京にたどり着いてミニクーパーを降りた時に75歳になっているというロードムービー「ドライブ・マイ・カー」という映画を考えたのだがどうだ、アカデミー賞もんじゃね?>思いっきりパクリだろぉ

 じゃあ拓郎の歴代の車を一台、一台、松任谷正隆が試乗して検証する"今度は一体何台目の車だろう"という映画はどうだ>それはただのカーグラTVだろ
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2022. 2. 12

オールナイトニッポンゴールド  第23回 2022.2.11
☆☆☆あらすじ☆☆☆☆☆☆
 こんばんは吉田拓郎です。週替わりのパーソナリティの金曜日、今週は吉田拓郎がお送りします。
 まずは一曲聴いてください。先週の加藤和彦の”五月の風”を聴いて、最近年齢のせいでいろいろと過去を思い出していた。あの曲の片面は何だったけ?・・・そんなことも忘れていた(笑)。カッコいいなぁこれと思った。加藤というヤツがいないのが寂しいし、彼の才能が惜しいなと思う。あの馬鹿野郎・・・って言っちゃうけど、昔から 僕も加藤の世話になったけど、あいつも何かと問題の多いやつだった。一人でやむなく暮らしていた時、泊まり込みで話を聞いたり、元気づけたり、狭いマンションでレコードかけてダンス踊ったりしていた。
 その後、彼の方からは距離があったり無かったり。仕事があると寄ってくるけれど、仕事なくなるといなくなる、そういうところがあった。なんだよと思うこともあった。そういうことも思い出した。で、この曲、いいな、これ。まずは聴いてほしい。

M-1  純情  加藤和彦&吉田拓郎

 ニューヨークで加藤とズズとレコーディングしたことがあって、ズズと僕は二人でブランドと無縁のカジュアルを買いに行って、二人ではしゃいでとめどなく東南アジア系のインポートものを買い込んだ。楽しかった。その夜に、加藤がこういう安物を買ってと怒ったらしい。加藤に言った。まったくおまえも見栄っ張り、こういうの楽しいからいいじゃないか、片意地張ってなくて、と言った覚えがある。実生活にも表れていた。僕からすると、それって疲れるよ。雑誌でも二人のパーティの写真とか多くて、ハイソサエティもいいけど、息抜いていこうよ。膝をくずして話そうよ。初めての車でロールスロイスに乗ったり、洋服をロンドンまでオーダーに行くとか、徹していると言えば徹しているし、カッコイイんだけど俺はそうは思わない。
 でも、この曲はいい曲だな。 やっぱり才能があるな。 

 いよいよラストアルバムは完成間近です。グズグズしていると今を歌っている吉田拓郎さんは先に行っちゃうよ。みんなあっちで遊んでいるようだど、俺は違うよ、こっちでやってるよっていう感じだ。

■今夜も勝手気ままにお送りします、吉田拓郎のオールナイトニッポンゴールド

<Contrastが良かった、関連する流星のことも考えた、自分も含めて同世代のへの問いかけと語っていたことを思い出したという投書>
 “流星”のことあとで話す。僕が若者だったころ、Don’t trust over 30という言葉があった。30歳過ぎたら信じちゃいけないという世の風潮にあった。だから30歳を過ぎる時には罪悪すら感じていた。30歳過ぎてオトナになって、あのとき描いていた理想や希望や恋愛がどうだったでしょうか?叶いましたか?それともかなわない幻でしたか?ということを問いかけた歌。老成した自分が20代を考え直した、そして僕自身だけではなくそれをみんなにも問いかけてみたい。

 Contrastという曲も、ひとりひとりの人生を、生きてきた道をある晩思いに耽ったら、それは、ひとりひとり別々のものだ。いくらネット社会でも人生は共有できないものがある。俺は俺、あなたはあなた、先月この歌は共有しなくてもいいと言ったのは、ひとりひとりの気持ちで聴いてくださいということだ。吉田拓郎が歩いた道でもあります、皆さんの自分の道も考えてみてもいい、みんなの心の中にもある心の中にある一本の道を歌にした。誰にもわからないこともある、僕だって黙っていることもたくさんある、それは公にするものでもない。母から言うなといわれたこともあるし。そういうものを心の中にそっとしまっておこうという曲。

<健康に気をつけてますか、歳を取ったら食べなさい という本があってポッチャリがいいということで好きな物を食べようと毎週チョコを一キロとか食べていたら妻に怒られたという投書>
 それは特殊体質だろ。それこそあんたの道があるでしょ。週一のチョコ1キロなんてとても無理。
 うちは食事と睡眠。これだけは守っていこう。どんなにストレスあっても食べて寝よう。ポッチャリがいいというけどそういうのはないね。若かったころのキレの良さ、目チカラ・・・前にステージで言ったよね。アイラインを入れすぎて、広島のコンサートでタムジンの娘に化粧濃いですよと、バックコーラスの人にも言われた。忌野清志郎を意識したんだけど。キレも目チカラもないけどポッチャリではない。夫婦で体重計にのるけど妻は44〜5sをキープ、僕は66キログラムをキープしている。2006年のつま恋は、69キロあって、あんとき顔の丸いんだよ。一緒のかまやつと並んでも、かまやつさんの場合、他にもデコレーションがあるんだけど、俺は髪の毛坊主だけど顔まるいんだよ。よく食べて、よく寝て・・・睡眠は、夜は・・・スマホとか良くないよね。イヤホンで・・・あ、そうだ。

<ゼンハイザーのイヤホン買いました、音質が最高でしたたという投書>
<ゼンハイザー買いました、安いのに音が良かった、音質がクリアで良かったという投書>
 よく手に入ったね。こういうものには個人差あるので。時代的にも大掛かりなスピーカーやアンプを置いてということはないかな。そういう時代じゃないんじゃないか。さっきの方が、ラストアルバムのタイトルを探り当てました。DVD買った人もいたみたい。僕からはまだ言わないけれど、いいタイトルだね。

<最近の拓郎さんは、何かに突き動かされているように感じる、僕も15年前の車に帰ることにしたという投書>
 僕は免許更新しない。昔ムッシュかまやつから電話があって後期高齢者の更新が億劫だと言っていた。免許書もういらないかと思っている。
 最初は広島で友達の日野コンテッサに乗っていてこの車が好きだった、東京に来てからCMをやったスバルレックスにしてそれが最初の車。それからお金がガーンと入ってからジャガーXJ6を通りすがりに買った(笑)
 そのあとホンダシビックが気に入って、フォード・ムスタング、アウディ50、ベンツ450SL、ポルシェ924 そしてスズキ・ジムニーでKinikiにホンマに買うたんですねといわれて、もっと他にジープがないかと言ったら 光一がジープラングラー これでありまんがなと紹介してくれた。そしてゲレンデバーゲンをこれもありまっせと教えてくれた。もっとコンパクトな車ということで、アウディA1にした。最後にかまやつとの約束でミニクーパーに乗った。
 …これで車人生はおしまい。楽しませてもらった。雨の日のドライブが好きだった。下世話にいうと高齢者の自動車事故も多いし、俺は運転には自信があるよ。コンサートで四国まで行ったことがあったし
 大阪のツアーにも何回も行った。ポルシェを大阪のイベンターに取りに来てくれと電話して大阪に預けて、広島まで行って、また持って来させて。大変だったな。サウンドクリエーターの上田君。

<タイトルわかりました”ごめんね青春”を借りて佳代さんの名演技に感激して泣けていた、深いですねという投書>
 みんなAmazon、ヤフオクで手に入れて観てくれたんだね。素敵なファンだなと嬉しかった。このタイトルをそのまま曲にした。どうしてこんなにいい曲が書けるの?教えて?
どんどん詞が書ける、曲が書ける、アレンジが浮かぶ。早速、鳥山に送ったら、すげーいですね、クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング 拓郎さんが一人でハモってるがここ響きますね。アコギ入れましょうねということになった。この曲も泣いちゃうな。これはアルバムの最後の曲かなと思う。いずれお聞かせできます。

 曲は殆どできた。堂本剛に頼んで、チーム一丸となって、”ひとりgo to”・・・”ひとりごと”とも読める。拓郎さんもう冴えてるんだよ。剛君が詞にいたく感動してくれて、いいアレンジしてくれてるんだ。いかにも彼のバンドの要素を彼らの音楽を取り入れてくれている。武部・鳥山も、あのとき拓郎さんが”きよしこの夜”を教えたのが嘘みたいですねと言ってて。そう、あのときの彼らがまさかこんな見事にアレンジしてくれているという。

 もう一曲カバーしたい曲がある。東京に出てきたどさくさで前も後ろもわからない、気持ちも通じないエレックレコードの頃に、いろいろわからないまま、前を向いて生きていくしかない、そういう環境で曲を作っていた。明日のことはわからない、そんな状況でいろんなオトナがいたけれど、愛のまなざしと心で接してくれた方もいた。 その方のやさしさに答えたくて一曲作ったことがある。 
 まだ無名だったころ、岩手放送に何度かよばれてラジオとかの公開番組等に出たことがあった。いきさつはわからない。お世話になった女性ディレクターがいた。番組収録後、雪の岩手の町を彼女の後ろをついて歩きながら、そのディレクターに自分の夢とか野心とかを聴いてもらっていた。
 お名前も住所もわからないまま時間が流れていた。僕の中でも波瀾万丈の人生になったし。 その時に “雪”という曲を書いた。エレックでは何をどう勘違いしたのか、ジャズのギタリストにアレンジを頼んで、ボサノバ調になってしまって歌いにくいったらありゃしない。あのレコードは一日で作ったから、これ違うよと思いつつ何も言えなかった。
後にCBSソニーに移籍してオデッセイレーベルのプロデューサーで”猫”というグループをデビューさせるとき、俺のアレンジのロックテイストで歌わせたいと思った。このアレンジは気に入っている。彼らにしてはヒットもした。
 僕にはセルフカバーした歌やライブでしか歌わない歌とかいろいろあるけど、この曲はすげー好きな曲なのにステージでやってない、カバーもしてない。何でだろう。これを最後のアルバムに入れたい。鳥山たちに頼んでロックテイストに仕上げてもらいたい。岩手県の冬の景色、年上のディレクターの方との夜を思いながら、歌ってみたい。
これを入れて9曲かな。あ、”together” という曲も出来ていて10曲か・・・まぁいいや。すげーいいんだよ。

 この曲も聞いてみたいんだよ。松任谷正隆のアレンジバージョン

M-2  どうしてこんなに悲しいんだろう      吉田拓郎

(CM)

 先日、Youtubeでキンキとの軽井沢のロケの映像観たくて、僕は持っていないので、物好きな人がのっけててくれないかと探していた。その過程で知ったけど、僕はネットでもあまりそういうことをしないけど遅れているのだが、”流星”をいろんな方〜プロもアマチュアも〜がカバーしてくれていることに今頃気が付いた。
 なかには、何だこれは、うまいなー、俺の”流星”とは違っているけれど、これはいいなーというのがあった。以前、女性なんだけど手島葵というシンガーが絶妙の表現で話題になった。女性が歌うと違う魅力の曲に生まれ変わっていくと新発見したことがあった。今回もついつい見入ってしまった二人。富山プロデューサーが同意を得るために拡散したようだが、こういうのは嬉しくて今日紹介したいのは2曲。まだあるよというのがあったら教えてください。

 これを作った時、30歳過ぎていたんだけど、いろんなトラブルがあって、ただ音楽が好きなだけなのに、いろんなデマ中小、客席からも罵声を浴びるような音楽人生だったけど、身も心もすり減ってずっと年取った気分だった。30歳のある日、原宿を歩いていたら、歩いている女子高生が目に入ってキャーキャー笑いながら踊るような感じで楽しそうに表参道を原宿駅に向かって歩いていた。それを観ていて理由がわからなくて涙が出てきた。俺は、いままでなにやったんだろうということで募って飛んで帰って、珍しくウイスキーのストレートをグビグビあおりながら詞を書いた。思いのままに書いた。自問自答しながら、一緒にコンサートで盛り上がったみんなもどうなってんのと思った。
 ネットで見つけた横田良子さんの”流星”は、イベントのリハーサル風景なんだよね。だからノイズも入っている。ギターもうまい。それでリハーサルとは思えない堂々たるボーカル。野外のリハーサルでこんな歌い上げるってびっくりしたな。僕は、リハーサルで”流星”なんて歌わないよ。リハーサルでみんないろんな音響とかの作業中に、流星を歌う気にならんのよ、歌えない。本番の緊張した感じでピンとしていないと歌えない。
そこでおおらかな感じの流星がいいなーと思った。深刻でなく笑顔でいいじゃないと聴かせてくれる。

M-3  流星  横田良子

■11時

佳代> 11時なりました。田中碧くん、ワールドカップ頑張ってください。三苫薫くんも応援してます。2人とも頑張ってくださ〜い
拓郎>すげーなー

 横田良子、この大平原に歌っているスケール感がある。こういうふうに生まれ変わるんだな。
 ハルカトミユキというセッションというかデュエットというか、僕は遅れていてファンの方ごめんなさい。彼女らの"流星"も見入った。ギターのフレージングがセンスあるな。ボーカルもすっぴんな感じノーエコーでいい。オリジナルに”鳴らない電話”これ気に入った。いい曲だ。聴いてたらこれってヒットしなかったのかなと思う。Aメロは最高だけどリズムセクションのところでひねりが足りない。もうちょっとがんばれ。この”流星”もフェイドアウトしているけど捨てがたい。

M-4  流星  ハルカトミユキ

(CM)

 シブいね。これも自分とは違うアプローチ。ああ新鮮だな、さっきのおおらか感じもいいし、パーソナルな感じもいいんだな。いい曲なんだね(笑)。

 1976年頃、フォーライフの社長をやっていたけど、あの頃だったら横田良子もハルカトミユキも、俺はプロデュースを申して出てフォーライフからデビューさせたよね
最近の音楽シーンではみんな楽曲が似ている。詞なんかはもっと切磋琢磨してほしい。シンガーは個性的になったけど、新しい人たちが待ち遠しい。Youtubeの旅で発見した。今頃なんだよといわれるかもしれないけど、いいじゃないか沢田聖子。
 イルカと一緒の事務所だったか、その程度しか知らなかった。ところが彼女の歌っている、僕が作詞・作曲した”風になりたい”。なんだよ、言ってくれよ。いいんだよ、これが爽やかで、こういうアプローチもありだったんだな。これだったら沢田聖子でデビュー・・・っていうと怒る人もいるかもしれない。

 あの頃は、次のフォーライフを背負って立つシンガーが必要だった。いろんな推薦や音楽関係者のプッシュで決めていったが、なぜか吉田拓郎は裏方でコソコソとリストアップしていた。本人に承諾を得たから言うけれど、当初から 高橋真梨子を考えていた。
 水面下で彼女に会えないか考えていた。広島出身だったし、ペドロ&カプリシャス、”ジョニーへの伝言”とか”五番街のマリー”とか大ヒットを出したグループの一人だった。ハスキーなボイス、こういうボーカルのフィーリングは日本にはないなと思っていたのでソロでフォーライフでと描いていた。特に高橋真梨子脱退するかもしれないという業界の裏ニュースもあったので、六本木のバーで会った。誰かに仕組んでもらったと思う。高橋真梨子さんも、そんなに若くないのでメールで話しても記憶はあいまいだ。ドリフの社長や有名女優もいたかもしれない。フォーライフでは他の三人とは別にただ一人裏でこういう活動をしていた。高橋真梨子さんにフォーライフで一緒にできないかという話をしたら意気投合して、行けるなと確信した。会社に帰って 会社を上げて準備しようとしていたら、違うレコード会社と契約してしまったというニュースが入ってきてがっかりした。高橋真梨子さんのオフィスが前から決めていて、真梨子さん自身も驚いたらしい。
 稀代のソウルシンガーが入っていたらフォーライフの運命も違っていただろう。残念だった。最近真梨子さんとメールしたら、拓郎さんと二人で話たことも覚えているし、フォーライフに入ったら楽しいだろうなと思ったことも憶えているということだった。真梨子さんやご主人ともメールやりとりしている仲だ。
 フォーライフに来なくてよかった、事務所の選択が良かったと今は思う(笑)。

 ということで話を戻して沢田聖子の”風になりたい”

M-6  風になりたい   沢田聖子

(CM)

 パンデミックが地球規模で押し寄せていて、人間はこれを乗り越えて明るい日常を取り戻さなければならない。緊急事態を繰り返しながら、僕達はいろんなことを考える。近い将来に向けて、この緊急事態=恐怖の体験から何も学ばないのはまずいだろう。人間は学んで生きていかなくてはならない。
 いろいろと悩んだり考えたり話あったりしながら、今のラストワークに向っている。そういう危険とかを無視して強引にレコーディングに入ってはいけないと強く感じる。僕がやろうとしているバンドセッションとかは一人ではなく多くのミュージシャンが参加して、彼らの協力なしにはできない。そうなると協力してくれるみんなの健康とか安全とかを考えないで「やるぞ」とは言えない。

 具体的には今回のアルバムではドキュメント映画、アナログ盤、公開ライブレコーディングと考えてきたが、たった一曲のレコーディングでもリスクを伴うので、みんな集ってセッションは不可能な状況だ。それはみんないい人たちだけど集まってくれるだろう、でもそこで何も起きない保証がない。みなさんにはそれぞれ家族もいる。難しいな。そう考えると、ドキュメント映画や公開ライブレコーディングは困難な状況かもしれない。他の代わる方法はないかスタッフと検討している。
 出来ることはベストは尽くして、僕一人でもやる。ただ時間的制限もあるし、年齢もある。キツイ注文がいろいろある。僕も無限の生き物ではないし、限りなくパワーを継続できない。吉田拓郎は必ず終わる。その終わり方を自分らしくキチンと幕を降ろさなきゃと考えている。そこに向けてできる精一杯、魂をこめてアルバム、ジャケットを進めている。そしていよいよレコーディングもこの放送の時にはできているかもしれない。

 次は新曲。これもデモテープで完パケでなくて、歌は鼻歌。Hey ユーというタイトルで、そこのにーちゃん、ねーちゃんに話かける歌。グズグズ言ってんじゃないよというラテンのノリ。こういうのは拓郎さんしかできない。俺は音楽が好きだなと思う。楽しいよ。音楽好きな一ミュージシャンなんだというあかし。
 フォークも歌うし、ロックも好きでシャウトもする、そんじょそこらのロックンローラーより俺の方がシャウトする。R&Bも好きだ。この曲は、ラテンの気分で鳥山にもメキシカンな帽子で弾けと言ってある。

M-7  Hey ユー   吉田拓郎

 キンキとの海外の旅の話第三弾(笑)。剛は俺がいたおかげで良かったと思う。

 ハワイで潜水艦にのるという話があったとき、光一やシノハラはハリキリボーヤとハリキリガールだから乗りましょうとはしゃいでいたが、僕は冗談じゃない。
 プロデューサーに、すまん昨晩チチを飲み過ぎて、潜水艦の中で気分が悪くなったら困るからと外で待ってると話した。それを先週も言った通り、少し離れてその光景を観ていた剛は、拓郎さんを一人にしておけないということで、結局、光一とシノハラが潜水艦に乗って、海とは無関係に僕と剛は外で世間話をしていた。

 オーストラリアのゴールドコーストに行ったときも、バンジージャンプのような乗り物があって、これはダメだと思ったので、また二日酔いになったといって断った。ここでも剛もそう。拓郎さんが乗らないんだら、俺も一緒にしたから光一とシノハラをからかってましょうか。そうなった(笑)

 同じくオーストラリアで、イルカの飼育をしているとるころで例によって光一くんがイルカと一緒に泳いでくれと頼まれた。「え、またですか、たまには拓郎さんがイルカと一緒に泳いだらどうですか面白いじゃないか」 そういう馬鹿なことを言うんだ。僕は朝から衣装をきちんと整えていて、メイクもしてある。嘘だけどさ。ゴールドコーストで短パンシャツでメイクなんていらない。シノハラが光一くん早く入ろうよと助け船、いいぞと思ってる。早く入らんかい、カメラさん待っているといって逃げるように立ち去って行った。
 あれこれ駄々こねる僕。キンキだけだったら剛は、潜水艦、バンジー、イルカとも泳がなきゃならなかった。
 剛君に最高の防波堤だった。ははは。僕も剛どころでなく自分の身を守るのに精いっぱいだった。イルカと泳ぐなんて冗談じゃない。僕は泳げないんだよ。海には入れないの。プールでも10メートル泳ぐとウップウップしてしまう。

 そういうわがままな吉田拓郎の傍にいた剛くんは、潜水艦、バンジー、イルカとも泳がなくてすんだ。

(CM)
■エンディング
 サッカーワールドカップが近い、相撲も白鳳の引退と全体的にスポーツ界も世代交代が進んでいる。野球もジャイアンツとヤクルトで若い4番バッターが定着してきている。ジェネレーションの変化がすすんでいる。
 ジャパンの新しいヒーロの田中碧、まだ20代、若きボランチで長谷部、遠藤ヤットらを抜いて躍り出てきた。
 試合中の動き、トス回しの判断能力、ピンチの時はスピードに走っていく 機敏さ、そのうえ若いし顔もいいとなると放っておかない人が日本に一人いる
 そうです。全員正解です。佳代さんです。
 女子アナの方が碧さん年上の女性が好きみたいよとニュースで言っていたので、佳代さんに教えてあげた、「えーそうなの碧ちゃんは年上の人がいいの
私も歳上だから」・・・それはそうだけど(笑)。もうジャンルには入らないのではないか(笑)そしたら「私だってひとつだけ(放送禁止)」という問題発言があった。
 もう佳代さんの口からはヤットさんが出てこなくなった、バトミントン桃田も出てこない スケボーの堀込も出てこない、とにかく田中碧、時々三苫薫(笑)。

来月は3月11日です。

M-8  ハバナ カミラ・カベロ

☆☆☆思いつきと感想☆☆☆☆☆☆

☆元祖デュエット版の”純情”を久しぶりに聴いた。拓郎単独歌唱&ステージのフィナーレのゴージャス版が身心にしみこんでいたので、ああ原曲はこんなシンプルな歌だったんだなとあらためて感慨に耽る。確かにカッコイイ。加藤和彦の声と拓郎声はいつも好対照で拓郎の声がより魅力的に聴こえる。ってすまんな。

☆最近の拓郎が語る加藤和彦の逸話はいつも厳しい。その厳しさは「安井かずみのいた時代」のインタビューに収斂されている。厳しいが決してディスっているわけではないことはもちろんだ。何もわからない一ファンの俺でも、加藤和彦が吉田拓郎にとってどれだけの大きな友人であり恩人であるかは察せられる。「片意地を張るな」「膝をくずして話そう」…ともどかしく繰り返す言葉に拓郎の愛と哀しみものようなものが伝わってくる。

☆さてアルバムの進捗ぶりに驚く。あと一曲だって?もうほぼ完成だって? 凄いペースだ。ってついでに全9曲か10曲って、えっ去年15曲入りって言ってなかったか?(爆)と思ったが「グズグズ言ってると俺は先に行くよ」という拓郎の言葉にそんなことは問題じゃないと思い直す。全9曲上等っす。"ひまわり"よりも1曲多い、あざっす。

☆とはいえコロナは今回ここでも影を落としてくる。頼むよ。公開レコーディングも、劇場公開映画も、そして何より夢のような豪華なセッションも難しいとの話に消沈する。いや拓郎ご本人が何より無念だろう。またミュージシャンの心根を理解し、彼らの家族にまで思いを馳せる拓郎は相変わらずやさしい。だからまた切ない。
 数日前の日記で書いた中島みゆきの”人生の素人”の一節
  「くよくよなんてしなさんな 昨日は昨日
   見せたい海があるの 知らなかったでしょう」
   君が今 新しさを僕に教えてる
 この一節に拓郎のラストアルバムを思ったのはそんなにマト外れではなかったかな。ともかくアルバムがいよいよ完成する、新しい海を見せてもらえることの幸運を喜ぼう。

☆“雪”は、つま恋75でも、88のSATETOツアーでも歌われておる。しかし無念のレコーディングから半世紀。最後に拓郎は魂をこめてどんなふうにこの歌を歌うのか是非聴いてみたい。

☆沢田聖子ってユイじゃなかったっけか。イルカ・オフィスか。かわいかったな。"風になりたい"は当然にIPodに入れておる。しかし名前が80年代、松田聖子とガッツリかぶっちゃって気の毒だったな。

☆いや、それでもやっぱり川村ゆうこの"風になりたい"は別格絶品だと思うぞ。

☆LOVE2での潜水艦やバンジー拒否はいいが、その昔、拓郎のハワイツアーで、自ら立てたホエールウオッチング企画なのに船に乗らなかった拓郎を怒ってる参加者には何人か会ったことがある(爆)

☆サウンドクリエーターの上田さん。ハワイツアーでそのことを愚痴っておられました(爆)。

☆Hey ユーという左とん平が浮かんできませんか。上書きする努力が必要だ。

☆☆☆星紀行今日の学び☆☆☆
 高橋真梨子さんをフォーライフに誘った話は以前してくれたけど、ガチの社挙げての移籍計画だったのだな。それに社長になる前から、拓郎はフォーライフと音楽の将来のことをものすげー真剣に考えて動いていたのだなということもよくわかった。

 同じころ愛奴を脱退した浜田省吾が拓郎にフォーライフ入りの直談判に行ったという逸話もある。
 たらればは意味がないものの、もし高橋真梨子と浜田省吾が入っていたとしたらフォーライフは確かに違った運命だったかもしれないとつい考えてしまう。
 それでも「フォーライフに来なくてよかった、事務所の選択が良かったと今は思う」…こういう拓郎がなんとも好きだ。

2022. 2. 11

☆☆☆すべてのみっちゃんに☆☆☆
 新人作家永井みみの「ミシンと金魚」を読む。昨年、画伯の知合いのご家族が"すばる文学賞"を受賞されたと聞いてNinjin designは色めきたった。ようやくその受賞作が上梓された。そういう経緯には関係なく、すごい作品だった。関係なくとはいえそういうご縁がなかったら俺なんぞは読み過ごしていたかもしれない。感謝。読みながら身の置き所がなくなるような切実さ。この作品を見出した「すばる」は、さすが重松清のあの白眉の吉田拓郎インタビューを載せてくれた雑誌だけのことはある。
 すぐ薄っぺらに影響される俺は取り急ぎつぶやく。

 拓郎のラジオがあって
 今日は、いい日だ

 読めてよかった。今は黄昏、だから読めてよかった。
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2022. 2. 9

☆☆☆人生もファンも素人につき☆☆☆

 "結果オーライ"で中島みゆきはコンサートの終盤に”人生の素人”という歌を歌う。

   輝いていた頃の君を探してた
   今はもう失ったものを褒めていた
   そのことが君をなお傷つけていたと
   気づかない僕は この愚かさを憎む

 そのわずか3曲前には♪君よ永遠の嘘をついてくれ〜と高らかに歌ってたじゃないか。でもその決然とした歌いっぷりに思わず…拓郎さん俺が悪かったですとこのサイトまるごと懺悔しそうになる。でもみゆきねーさんは、聴き手をそんな消沈した気持ちのまま置き去りにしたりしない。

  「くよくよなんてしなさんな 昨日は昨日
   見せたい海があるの 知らなかったでしょう」
   君が今 新しさを僕に教えてる」

 胸のすくような展開。そうだラストアルバムといいながら、私たちを待っているのは、君が見せたい、新しい海なのだ、くよくよしなさんな。

 中島みゆきを聴きながら他の歌手のことを追想するのは、いい加減みゆきファンに怒られそうだ。申し訳ない。でも、そこはそれ、おまえとわたしは二隻の舟ということで許してほしい。

2022. 2. 7

☆☆☆とうに愛を知っている☆☆☆
 中島みゆき2020”結果オーライ”のCD+特典BDを鑑賞中。浸る。やっぱり音楽っていい、ライブっていい。特に音楽に取り組むミュージシャンたちのリアルな魅力がうかがえるバックステージ映像がたまらない。悲しいがそこにコロナが押し寄せてくる様子も描かれている。そして何よりもin memory of 小林信吾さんの思いも静かにこめられている。

 瀬尾一三、 小林信吾、島村英二、古川望、宮下文一、中村哲…この面々の中だから違和感がなかったが、よく考えるとリハスタジオになんで森野がいるんだ…いや、もう答えんでいい。
 新宿文化センターの初日を奇跡的に観られた雨畑が、コンサートのあと興奮して「悪女歌った、永遠の嘘歌った、そんでもって森野がいた」とメールが来たのを思い出す。みゆきのライブを語りながらそこには確実にあのお方の姿も浮かんでいた。

 私達がコロナで失ったものは、はかりしれない。その中で、2021年の拓郎の大阪ラストツアーとこのみゆきのラストツアーで観られるはずだったかもしれない幻…少なくともこの二つは悶絶ものの痛恨だったのだ。
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そうです、ベースは富倉安生さん、失礼しましたごめんなさい。
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                   ご本人筆。

2022. 2. 6

☆☆☆言魂と音魂☆☆☆
 1月のラジオのブログで拓郎はこう書いていた。

  「Contrast」では武部聡志・鳥山雄司の涙の演奏が聴かれます
  曲を演奏しているうちに彼らの心の中に「何か」が
  生まれたように思われます
  エンディングの武部のピアノと鳥山のギターは
  まさに説明不要の心のプレイとなっています

 御意。これを読んで数年前の関ジャムで武部聡志が語ってくれた「瑠璃色の地球」のレコーディングでの逸話を思い出した。
 レコーディングスタジオにミュージシャンが集まると妊娠中だった松田聖子本人はいなくて、そこに松本隆の書いた歌詞だけが置かれていた。それを読んだときミュージシャン全員が打ちのめされる。「震えるような歌詞」と言っていた。不思議な空気がスタジオを支配し、全員のエナジーが横溢する。
 武部は「それからいろんなカバーも含めて何度もこの曲を弾いたけれど、どうしてもあのレコーディングスタジオ以上の演奏はできない」と述懐していた。まさに言魂と音魂の共振だと思った。音魂って、つま恋の売店にTシャツ売ってたな。それはいい。
 なのでわれらの方の曲のミュージシャンの心の演奏もしっかりと魂で聴きこもうじゃないのという気になる。

 それにしても昨年末この名曲にも及んだ悲痛事の極みを思わずにいられない。あまりにもあんまりだ。どうしていいのかわからないままたかが、ファンでもない俺ごときも祈らずにいられない。

2022. 2. 5

☆☆☆居酒屋へは行かない☆☆☆
 居酒屋を失ってしまい…行くあてもなく街角に佇む。LOVE SONG、LOVE SONG歌っておくれ。個人的に今までのような居酒屋生活はもう潮時なのかとも思う。客さえまばらな戒厳下の小さなビストロで激辛トマトパスタを食べた。殆ど蒙古タンメンだ。"トノバンは辛いものを食べると頭から汗が出る"…ってどっかにあったけど本当にアタマから汗を吹いた。そういう話ではない、昨夜の議題だ。
 Contrastを聴き返すたびに“私はダメな人だと”、”やっぱり私はダメな人なのか”のフレーズに胸が疼く。そして、いうまでもなく“時には間違ったこともあったと思うけど”で”流星”とバインドされる。…そもそも“流星”とは何なのかが昨夜のひとつの議題だった。
 Contrastも流星も拓郎が身を削って書き歌っている感が伝わってくる。拓郎の歌で泣けるのは「身を削る」時だ…というのが昨夜の雑な結論だった。だから、いかに叙景か美しかろうと”外は白い雪の夜”では泣けないのだ、わかったか松本隆(爆)。※個人の感想です。
 …とはいえ”瑠璃色の地球”は神々しくすんばらしい、これは身を削るというよりこの惑星を削るような歌だ…ということで、結論はよくわからないただの酔っ払いだった。俺達を許してくれ。

2022. 2. 3

☆☆☆なぜか売れなかったが神々しい歌☆☆☆
 数日前に俺が悪態をついてしまった北大路欣也さんがコロナで入院となった。関係ないが申し訳ない気分だ。大変失礼いたしました。"流星"のフェイドアウトは北大路さんの責任でないことはもちろんです。…あれは…あれは…たぶん車だん吉のせいです>って意味わかんねぇよ。ともかく一刻も早いご快癒をお祈りします。
 それにしても"流星"の周辺がにわかに騒がしい。また神カバーが加わるのか。本人歌唱もカバー歌唱も渾然一体となって"流星"という世界を深め荘厳してゆく感じがなんか尊い。
 日本一ということは世界一"流星"を聴きこんでいると自負するファンを知っている。「流星を国歌に」の会の代表である。…友よ、夜明けは近い、炎を燃やせ。

2022. 2. 2

☆☆☆あつまれ動物の歌☆☆☆
 「犬」といえば、”野良犬のブルース”、”例えば犬の気持ちで”、”狼のブルース”の3曲はイヌ科三部作と呼ばれている。>おめーが呼んでるだけだろ。やはり戌年だけのことはある。
 寅年の今年、虎の歌はあるだろうか…う〜かろうじてあった。
  ♪トラに巨人にロビンス阪急〜(ホームラン・ブギ)
 ひとつカンと打ちゃホームランブギ、わざわざ貴重なライブのセットリスト入れて歌わんでよろしいと思ったこともあったが、今聴くと痛快でかなりいいなと思う。勝手なものだ。
 それにしても、さすがに十二支は揃わないな。

2022. 2. 1

☆☆☆流星の呪い☆☆☆
 “流星”といえば。ドラマ「男なら!」に拓郎がゲスト出演して”流星”を歌ったことがあった。永田さんのピアノの指のアップで始まる松任谷正隆バンド揃い踏みの貴重な映像記録だ。しかしこれがなんと途中でフェイドアウトしてしまうのだよ。
 放送の翌週のセイヤングで拓郎はボソっと「またテレビ不信になりそうだ」と呟いた。…怒ってはる、吉田はん怒ってはる!>なんで京都弁。そらそうだ。ファンとて怒り悶絶である。”僕の欲しかったものは何ですか”〜あのシャウトのエンディングを是非この目で観たかった。まったくなんということをしやがる。
 俺もすげー頭にきたので主演の北大路欣也におまえなんか犬になってしまえ!と呪いをかけてやったら、30年くらいしてやっと効き目が出た。

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2022. 1. 31

☆☆☆流れる星はかすかに消える☆☆☆
 学生の頃、日曜日の夜につらつらと聴いていたラジオに「滝良子の全日空ミュージックスカイホリデー」という番組があった。滝良子=”そらまめ”さんは素敵なパーソナリティだったが、この番組はとにかくなにがなんでも「オフコース」支持という徹底した傾向経営ぶりが特色だった。そもそも世の中に吉田拓郎なんか存在していないパラレルワールドからの放送ではないかと思っていた。もちろん俺も他人ことは言えない。
 全回聴いたわけじゃないけれど、それでもたった一度だけ、たぶん最終回のちょっと前くらいに吉田拓郎の「流星」がかかったことがあった。驚いた。「流星はOKなのか」…オフコース的な世界にも訴求し通用していく「流星」という作品のチカラを思った。
 先日のクリ約の小田和正の「流星」を聴いてそのことを思い出した。そして昨年夏、そらまめさんは卒然と亡くなられていたことも知った。あの時はありがとうございました。「流星」を聴いてご冥福をあらためて祈らせていただく。俺、最近2016年DVDの附属CDの、耳元で歌われているようなバージョンがメチャ好きだ。俺も泣きそう。

2022. 1. 30

☆☆☆時間は動いていたんだろうけど☆☆☆
 例えば山本コータローの名著「誰も知らなかったよしだ拓郎」は、拓郎の来歴を実に詳しく調べてある。貴重な歴史的文献だ。これは不滅の大前提ね。
 でもさ、この本は1974年に発刊されているんだよね。拓郎のデビューは1970年だ。時間のモノサシを現在2022年に置き換えてみると、もしこの本が2022年に発刊されたとすると拓郎のデビューは2018年にあたる。え、2018年なんて”From T”が出た年だぜ、ついこないだじゃん。
 広島のバンド時代は2015年頃に当たるし、鹿児島の小学校入学も2000年のことになる。なんか当時この本はメチャクチャ近い過去のことを書いていたんだなと思う。
 もちろんコータローをクサしているのではない。名著であることに変わりなし。俺が思うのは、吉田拓郎という人が極めて短い時間の中に怒涛のようにいろんなことを成し遂げたということが、肌感覚でわかるということだ。2018年にデビューしたただの無名歌手が、来年史上初のオールナイトイベントやって、これまた初のアーティストによるレコード会社を作るんだぜ。あり得なくね。

 それに比べて…比べなくていいけどこの俺は、2018年から今までなんて毎日ただ寝て起きて電車乗って酒飲んでの繰り返ししかしていない、もう昆虫みたいだ(爆)。

 ということで”早送りのビデオ”とはよく言ったものだという話でした。2019年版で聴くよろし。

2022. 1. 29

☆☆☆そのかなしみいずこへ向けるだろう☆☆☆
 最近ある本の帯のキャッチコピーの素晴らしさについて話していたら、その人は「素晴らしいけど、ただ『さみしさは消えない。』というフレーズ、あそこは『かなしみ』ではないか。」と力説していた。さみしさ、かなしみ、深めたい問題ではある。
 最近…といえば、ここのところは毎日が松本隆記念祭のようだ。どっかで必ずトリビュートやレスペクトが催され百花繚乱だ。昨夜は俺の鬱屈した思いをネットで愚痴ったら、先輩ねーさんかやさしく聞いてくれて落ち着いた。ありがー。そうか、ラストアルバムを作りラジオからも去らんとする…終わりゆく彼の人の姿が、そんな屈折した思いを倍加させるのかもしれない。
 この場合は、さみしさ、かなしみ、どっち?(ドラマ「真犯人フラグ」の二択刑事の声でお願いします)

2022. 1. 28

☆☆☆上等だよ’79☆☆☆
 ということでアリス、松山千春、サザンらのイベントに心穏やかではいられなかった79年の夏だった。そんな中でいよいよ篠島コンサートが”ああ青春”で怒涛の幕開をした。続く2曲目”狼のブルース”でぶっ飛ばしたあたりでとっぷりと日は落ちて夜になった。そして3曲目の「伽草子」が始まった。原曲とは全く違うあのスタイリッシュな演奏はものすげー鮮烈だった。なんというんだろうあのドラマチックな美しい演奏に包まれながら俺は勝った!と心の底で叫んだのをハッキリと憶えている。音楽に勝ち負けがあるというのもどうかと思うが、勝ったというのが一番近かった。もう他の歌手なんてどうでもいい。この瞬間、世界で最高の歌と演奏がここにある。音楽の神様はピンポイントでこの島に降りてきていると確信した。
 吉田拓郎はもちろんあのステージの上にいた松任谷正隆、ジェイク・コンセプシォン、島村英二、エルトン永田、鈴木茂、青山徹、常富喜雄そして石山恵三、全員を額縁に入れて高々と飾っておきたかった。

2022. 1. 27

☆☆☆元気を出して☆☆☆
 …元気が出ない。出るわきゃないかこんなご時世。逃げ出したい何もかもから。逃げ出せないチカラが湧かない。
 1979年の夏は野外イベントが目白押しだった。もう老人なので夏フェスなんて言葉は使わない。野外イベントだ。この雑誌の表紙を観ていたらいろいろフツフツと思い出した。
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 サザンオールスターズ、アリスのつま恋…ツイストも南こうせつも一緒だった、そして真駒内の松山千春…まさに日本全国四面楚歌。え、拓郎もなんかやるの?島?へへー。上等だよ!!と篠島に向った日々を思い出して元気を出す。たとえ自分が悪くても他者への怒りに転嫁させるとチカラが出るってもんだ(爆)。

2022. 1. 24

☆☆☆映画館で手をにぎること☆☆☆

 ラストアルバムのドキュメントは劇場公開用映画になるって言ってなかったか。どうなんだろう。「劇場公開映画」…ああ、この甘く切ない響き。

 劇場公開用映画といえば、篠島コンサートは、当初、東映で劇場公開映画になるというニュースだった。しかし結果的には東映と何かの条件が折り合わずに劇場公開されず、つま恋75のようなライブフィルムの上映会という形式で全国を転々とすることになった。
 …残念無念。何が残念かって、その79年当時、アリスのライブが”アリス・ザ・ムービー・美しき絆”という劇場用公開映画になって映画館でガッツリ上映されていたのだ。このタイトルは当時また大ヒットしていた映画”アバ・ザ・ムービー”にあやかっている。アリスファンは我が世の春のように映画館に溢れかえっていた。アタシは3回観た、ボクも4回観たと自慢しあっていた。
 俺はこれが地団駄踏むほど悔しかったのだ。なぜそんなにアリスに敵愾心を燃やすのか、若い人々にわかるまいし、年配の人々は憶えちゃいまい。そもそも今や当の吉田拓郎ご本人が谷村新司と和親条約だか修好通商条約だかを結んでしまったみたいだ。俺だけがまだ戦争は終わっていないと竹槍振り回している爺ちゃん状態みたいである。

 とにかく高校生の頃、篠島が劇場公開されたら、そーんな2回観た、3回観たなんて生ぬるい。俺は学校なんか当然に休んで、上映期間中、連日朝から晩まで、オールナイトがあればそれももちろん、とにかく映画館に住んでやるという悲壮な覚悟でいた。
 ビデオもDVDもない時代、これを見逃したら映像の拓郎は一生観られないかもしれない、そう言う時代だったのだ。

 ということで今回のラストアルバムのドキュメント映画が劇場公開されたとしたら、わが青春との約束である。当然劇場に住むという矜持で臨みたい。きっと劇場にはそういう奇特な方が何人かはいるに違いない。そういう方と手をつなぎハンド・イン・ハンドで涙ぐみながら観たいものだ(爆)。

2022. 1. 23

☆☆☆近くて遠いContrast☆☆

 地震まで起きてしまい、まったくどこまでつづく地球の災厄ぞ。東京は武道館になっちまった。どうかご無事で。などと言いながらも俺の頭の中では、ずっと”Contrast”が繰り返して鳴っている。久しぶりだ。はじめて聴いた新曲が少しずつ身体にしみこんでゆく、この感じ。
 そして馴染みに馴染んで血肉化したあとで、正式完成盤を聴くことになる。そうするとまた印象が違ってくるんだよ。今までもそうだった。

 例えば、昔同じようにラジオで流してくれた”外は白い雪の夜(そして誰もいなくなった)”の仮歌、仮演奏をカセットに録音してさんざん聴いたあとで、正式盤を聴いときを思い出す。いきなりバイオリンかフィドルに導かれたイントロの鮮烈さに驚いたものだ。そしてもちろんこの曲は3番まででなく衝撃の4番があったことも。こうだろうと思っていたものの斜め上からガツンとくる感じがたまらない。
 拓郎はこの”Contrast”をどう仕上げて、どんなふうに突き付けてくるのか、それこそcontrastが味わえる貴重な経験だ。というか幸せだ。

 そうそう”外は白い雪の夜”の♪あなたが電話でこの店の名を教えた時から〜の「この店の名」って皆様は何をイメージしていますか? 私は「元祖中華つけめん大王蒲田西口店」です>んなワケねぇだろう。松本隆の頭にあるだろう正解は謎のままだ。
 以前、ラジオのヤンタンで拓郎がラジオドラマ「外は白い雪の夜」の中で、拓郎は「今夜、『プランタ』で」と言っていた、たぶん。「プランタ」。ネットのない時代だったが、いちおう調べてみたことがある。該当する店はなく、似た名前で植木屋さんが何軒かあっただけだった(爆)。植木屋さん、これもまたなんというcontrastか。でもこれでいいのだ。

2022. 1. 21

☆☆☆55年前のフィクション☆☆☆
 海底火山の爆発には驚いた。そんなものは映画"サンダ対ガイラ"のラストシーンでしか起きないものと思ってた。>知らねーよ。人間の暮らしなんてひとたまりもない。そのうえ相変わらず猛威をふるうコロナもあり、なんか”地球はもう終わりですね”(東京の長く暑い夜)的な無力感にさいなまれる。あれ?"地球が殆ど危ないことも"(女たちときたら)もあったな…微妙にニュアンスが違うが、それはそれ。
 私の子どもの頃の常識では、こういう時には30分以内に国際救助隊のサンダーバード2号が駆けつけ、1号の指揮のもと闊達に島の人々を救ってくれるはずだったのだが。現実を見回すと救助メカよりも殺戮破壊兵器ばかりが目に付く現代だ。自分ごときが偉そうになんだが人類や科学はホントに進歩しているのか。ともかくいい歳してるのに青くて痛くて脆い爺さんにも今日できることをやるしかない。こういうのを半歩ずつというのか。いや半歩も遠いか。

2022. 1. 19

☆☆☆この胸いっぱいの…☆☆☆
 前にも書いた読売新聞のいしいしんじの人生案内がいい。ポーの歌の件以来、読売新聞は嫌いだったのだが。
 先日も「いろんなことに感謝の気持ちが持てない」という相談者の悩みに、いしいしんじは、自分もそうだった、心配ないと答える。
 のちに「ありがたい」とは、ほんとうに「有難い」のだと、まさに奇跡だと知ることがあった。この世に他人がいてくれてよかったと心底感じた。すると、まわりの色がじょじょにかわっていった。
 「ありがとう」は声ではない こころのふるえだ。それはひとりひとりの切実な生から発露する。

 "「ありがとう」はこころのふるえ”。しんじくんいいなぁ。これを読んでいて思い出した。2019年のラストツアーの初日の市川市文化会館。あそこだけで拓郎はアンコールで「ありがとう」を歌った。あのとき拓郎のこころは間違いなくふるえていた。ふるえすぎて、あまりにふるえすぎて初日で封印されてしまったのだと思う。
 たぶん拓郎もこの世に他人がいてくれてよかったと心底感じて、まわりの色が変わっていったことを思ったのだと思う。おれもわかんないけれどふるえている拓郎を観てふるえた。ライブで聴けてよかったとつくづく思う一曲だ。

2022. 1. 18

☆☆アイツと野球ができるのなら☆☆
 漫画家水島新司先生の訃報はショックだ。俺は野球は苦手だしファンというのもおこがましいが「ドカベン」は高校野球までは同級生みんなとともに教科書より真剣に読んでいた。高1の春の甲子園の土佐丸との決勝戦、ボロボロの明訓だが最後に小兵の殿馬がサヨナラホームランを打つ名試合、高2の夏の予選でどうしても打てない剛速球の不知火から信じられないルールの盲点をついて1 点先取するところなど、数々の名勝負にホントの試合みたいにみんなで悶絶したものだ。
 オトナになってからはあぶさんを読んでた。連載の後半はなんか超人のようになってしまったあぶさんだが、最初の頃のアル中でボロボロで一打席しか立てないという設定に憧れた。

 しまった、ココは吉田拓郎サイトだ。
 水島新司といえば小室等似があまりにも有名だ。小室さんのライブにゲストで出たこともあった。前にも日記で紹介したが、この回では、小室等のライブでゲストの吉田拓郎がドタキャンし(なんかリアルだぜ)、拓郎の代わりにあぶさんがゲストとしてステージに上るハプニングの回だ。ちなみにあぶさんと拓郎は同じ1946年生まれである。
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 フォークはわかりませんというセリフが面白い。
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 あと水原勇気の実写版の木之内みどりはキレイだったな…。ともかく数々の名作に心から感謝してご冥福をお祈りします。ありがとうございました。

2022. 1. 17

☆☆☆惑星に立っている今は夜明け☆☆☆
 いろいろこの惑星も大変なことになっている。否応なしに思わされる今日。

 昨日はちょっと文句も言ったが、
「吉田拓郎が奈緒をプッシュしているのではなく、奈緒という人のプッシュで吉田拓郎が今また頑張っている。そういうエピソードなんだ。」「人生の後半に二度も年下のサポートを受けて素敵な時間を過ごしている。」…こう言える拓郎は確かに素敵だなと思う。若いミュージシャンとコラボしている方はたくさんいる。しかしこんなふうに若者に対して素直に心を深めて自分自身も変わってゆこうとする真摯な関係は、他にもあるものなのだろうか。もちろんファンも溢れる恩恵を受けることになる。ありがとうね。

 イヤホンや音の技術的なことは全く分からないが「自然な生活ノイズも聞こえながらが音楽を聴くのが好きだ。完全に音楽しか聞こえないそんな世界は好きじゃない。」という拓郎の言葉はなんか嬉しい。

2022. 1. 16

☆☆☆時代は変わったそうだから僕らは胸にしみている☆☆☆

☆ おやじがすべてだなんて言いませんが、でもおふくろはすべてだ、ということなのだろうか。もちろん私なんかにはわからないが、それでもお母様の話は、いたく心に刺さった。どっちにしても、あなたはわたしのすべてです。そういうハナシじゃない。

☆ 遠い昔、アルバム"Shangri-la"の時に”あの娘といい気分”イメージガール募集という、フォーライフのトホホな企画(応募されたねーさんごめんなさい)があったが、なんでまた今回アルバムのイメージガールが必要なのか、ずっとわからなかった。それがやっとわかった。そうなのか。俺はそういうのにことさら弱い。マト外れだろうが”If you build it, she will come. それを作れば、彼女はやってくる。”みたいなものを思い、それだけで感極まってしまう。


☆ Contrastを繰り返し聴く。繰り返す繰り返すさざ波のように。あんまし書くまいと思うが、ご本人もおっしゃるように、このままのボーカルでいい、というかこのままがいいと思う。あんまり頑張って歌わない方が、特に1番の胸締め付けられる感じは、この切ない歌い方が一番じゃないかと勝手に思う。


☆ 「おっさん、おばさんは自分中心に考えがち。」…御意。「時代は変わる」…これも御意。しかし拓郎ファンという局面に限れば、たぶん多くのファンの方々は、かなり昔に「変わってしまった時代」の中で、孤独と風雪に耐えてファンの一本道を歩いてきた人ばかりだと思う。この世は、自分中心でも拓郎中心でもないという極北が身に染みている人ばかりだと思う。そんなおっさん、おばさんが束の間、自分中心=拓郎中心に生きることが許される数少ない場所のひとつがラジオなのだと思うよ。ライブも無くなってしまったし、許しとくれ。

2022. 1. 15

オールナイトニッポンゴールド  第22回 2022.1.14
☆☆☆あらすじ☆☆☆☆☆☆
 こんばんは吉田拓郎です。週替わりの金曜日、今週は吉田拓郎が送りします。2021年が終り2022年がやってきて、いつもどおり我が家はお正月から御雑煮もなくパン食です。年賀状もずいぶん前に皆さんにお断りしたうえでやめてシンプルにしている。それでも正月にはスマホにいろんなメッセージが届く。
 今年、一番最初にしかも早朝にメッセージをくれた人には驚いた。「コイツなのかっ」…堂本光一くんでした。いつも返事が、早くても三週間、普通は一か月くらい返事が来ない。いつも「遅くなってすみません」て、遅いよっ! その光一くんが何も送っていないのに元旦一番にメールをくれた。光一くんは元旦にお生まれになっている。本当におめでたい人で(笑)・・・怒るだろうな(笑)

 大晦日からライブをやってたんで、きっと光一君も興奮冷めやらぬ状態のままで多分ホテルにいたのだろうか、やることないかなと暇つぶしで気が付いたんではないか。ひとえに自分が眠れなくてすることなかったんではないか。
 僕も滅多に電話しないけど、♪いくつになっても〜と歌ってあげようと電話してみた。剛は携帯番号をしょっちゅう変えるけど、光一はずっと変えないまま。そこに電話してみた・・・電話出ませんでした。そこでメッセージを送った。「光一君おめでとう。海外ロケの写真を観ていて気が付くと、光一君とはいつもハグしたり、彼が肩に顔を乗せたりなついている。スキンシップしていて家族のような気分。いつも一緒に居たいよなという気分かもしれない」 そしたら珍しいこのメッセージで返事がすぐに来た。よっぽど退屈していたのではないか(笑) 。こんな光一はじめてだ。秒速の返事。「電話ありがとうございます、出られなくてすみません」・・・電話出る気ないんだろ(笑)
 「僕も43歳になりました。写真ではホントによくくっついていますよね、アハハ。人生の大先輩の拓郎さんが僕らに目線を併せてくれていたことを思います、そんな大人になりたいです。今年LOVE2特番実現したら嬉しいです。」
 元旦から泣かせるな。お互いにいい刺激を与え勉強しあっている関係。
 フジテレビのプロデューサーに、2月あたりにおいしいケーキ食べながら特番の話をしないかとメールしたら、プロデューサーからテレビ局には伝えてある。具体的な打ち合わせをしましょうと返事が来た。43歳のKinkiと同じ年のシノハラ。気持ちの悪いプリプリプリティ(笑) 43歳のおばさんのそれだけで楽しみ。前回もそうだったけど客席がそれなりに乾燥した年齢のファンでいっぱい。それも楽しいな。
 僕も実現したらこれを最後のテレビ出演にしようと思う。春を待つ気分で明るい明日を描きながら。

■ 今夜も自由気ままにお送りします、吉田拓郎のオールナイトニッポンゴールド

 ハワイのロケはLOVE2でも堂本兄弟でも行ったな・・・三回くらいは行った。二回目のハワイの時、ある日ワイキキで僕とプロデューサーと堂本剛とゲストの長瀬智也と朝ごはんを食べようということになって、何にしようと言ったら、剛と長瀬は当然のように和食がいいという。  
 僕もプロデューサーもカラカウワ通りの「ふるさと」という和食屋に行った。そこで剛は悩んだあげく、朝の9時半に剛と長瀬は「すきやき」・・・朝のワイキキで(笑)。
まいりました。長瀬君は身体もがっしりしているので肉を食べきってしまったので、お変わりください(笑)。ハワイのワイキキで朝からお肉のお変わり。僕は二日酔いでスッキリしたもの食べたかったのに。懐かしい。長瀬くんとも遊んだ
 剛とワイキキのバナナ・リパブリックに行ってベルト、シャツ、それこそショルダーバックとかを買ったりした。そういう時には光一は来ないんだな。不思議だな。外交的な光一が意外に部屋から出てこない。引っ込みがちの剛の方が出てくる。一筋縄にはいかない  。ややこしい。単純明快ではない。そこが面白い。

 オーストラリアロケのシドニー最終日。明日の飛行機が辛いので僕は打ち上げから早めに帰った。剛も早めに切り上げた。
 しかし光一は現地の通訳やゲストのMAXと大騒ぎで朝までいたらしい。翌朝、空港で  拓郎さん「昨夜は騒いじゃいました、ジャニーさんに頼まれたワインを買いに行ってきます」・・・飛行機でバタンキューだった。
 こういうところに光一の性格がわかる、ジャニーさんら頼まれたワインは買ったりするちゃんとしているところと朝まで騒いでいたりするところ。

<あけましておめでとうございます、春のアルバム完成後にツアー決定ということでよろしいでしょうかという投書>
 何を言ってるの。ツアーからはリタイア表明した。無観客とかソーシャル・ディスタンスとか声出すなとか立つなとか、そういう環境では満足なライブができないと思っている。年齢と声のこと、僕はシャウトを使うソウル系シンガーなんで。静かにコソコソ歌うのではなく、そこはシャウトしてしまう。声や喉を考えると満足なライブが難しくなっている。誤魔化したりして歌うなら90、100歳まででもできる。しかし2時間半、全力投球で燃え尽きるのが吉田拓郎のライブ。それが吉田拓郎の音楽人生だ。総合的に考えてツアーはリタイアする、そういうを判断しました。

 これでどうなんだよ!という魂がはじけそうなアルバム、入魂のアルバムを制作中だ。ミュージシャンからも褒められている。その完成目指してリモートでレコーディングしている。
 僕の年齢から明日はわからない。若いころ明日のことは考えなかった。若い時に明日のことを考えてる青春を送っちゃだめだ。でも今は無理だ。明日がくるかわからない。ステージからはキッパリ降りて、若い人たちのステージや音楽活動を待ちたい。

 今度のアルバムのタイトルはそういうことだったんだと納得していただける。光一の自筆。長い音楽人生真実のタイトル。これをお見せしてみなさんとお別れする。こういうことは運命で避けられない。

<小田さんの「流星」、中学の時に観たクリ約の拓郎さんでファンになりました、当時士分の校長先生にもファンだと知られ「流星」が好きだと言った、観覧が当たってびっくりした、小田さんの流星にと驚いた、小田さんは「拓郎は別格なんだよ」と話していた、隣のカップルが拓郎さんにこんな歌があるのを知らなかったと語っているのに心の中でツッコミを入れたという投書>
 クリ約は録画で観た。「拓郎は別格なんだよ」ってテレビでは言ってなかったな。流星を歌うと決めた後で小田は拓郎には伝えないでおこうと思ったらしい。テレビ観たらわかっちゃうんだけどさ。前もって言いたくない。小田はわりと秘密主義で「言うなよ拓郎」という口止めが多い。キーとテンポで悩んだらしい。あれは小田の"流星"だった。吉田拓郎の"流星"とは違う。僕のはロック色があって最後はシャウトしていた。小田は最後も静かに。僕のオリジナルとは違う。感動的なステージだったような。
 コロナが増え始めたしスイーツも実現できない。新アルバムのどの曲を小田とハモるかも決めなくてはならない。今の僕は、アルバム制作、ジャケットの撮影、映画の撮影 ミュージック・ビデオの撮影と春を待っている。2005年瀬尾ビッグバンドとの"春だったね" 

M-1    春だったね      吉田拓郎

(CM)

<新年に奈緒さんのラジオで拓郎さんを知ったという投書>
 おっさん、おばさんは自分中心に考えがち。拓郎の番組で出てくる「奈緒」ってどういう女優かを調べてみる・・・それが普通のパターン。これが普通とだ思いがちだけど  奈緒ちゃんのラジオを初めて聴いたけど、奈緒ちゃんが熱く語った吉田拓郎はどういう人なんだろうかと思う。これを時代というんだよ。こうして新しい命が生まれるという現実がある。
 あの時にKinkiという10代の若者たちの横でやっと気づいた・・・"やっと気づいて"という歌があったな。それまでも俺が、俺がと生きてきていた。しかし現実はそういうことではなくて、それでは「裸の王様」になっちまうと思い知らされた。

 あれから25年時代はますます変化して、キンキも40歳、僕は76歳で生きてるだけ幸せの領域。命あるだけで幸せですよ。ジジイに20代の女優が、拓郎のあの曲が好きと話している。それもKinkiが縁結びになっている。だったらアルバムのイメージガールとか頼めないかなということで連絡とったらトントン話が進んだ。
 25年前と同じ、今度はもっと若い人のチカラを借りてアルバム制作を励んでいる。そういう今がある。吉田拓郎が奈緒をプッシュしているのではなく、奈緒という人のプッシュで吉田拓郎が今また頑張っている。エピソードなんだ。いかがでしょうか。これが時代は変わると言うこと。時代とは変わっているんだと老いも若きも唸った。レスペクトするボブ・ディラン、The Times They Are a-Changin

 人生の後半に二度も年下のサポートを受けて素敵な時間を過ごしている。最高のアルバム、最高のドキュメンタリー映画、最高のミュージックビデオ。最高のエッセイ、ライトライナーの覚悟、やる気になっている。

 時はこういうものだと自覚したい。いつまでもというのはよくない

<奈緒さんのオールナイト聴いた、おじさんおばさんだけでなく若いファンがいて幸せですねという投書>
 奈緒さんのラジオは好評だったですね。ほわーとした語り口調、天性の声、ラジオに向いている。もしかして彼女のレギュラーとか始まるかもという予感がした。メッセージで、もし奈緒さんがギャラが安ければ 銀行に走りますと言った。彼女は珍しく笑い転げた。あの瞬間に本質をみた気がする。ケタケタ笑う素顔。そこに素顔を観た。するどいね、拓郎さんは。

 奈緒さんホントにお酒が強いらしい、僕も若いころだったら負けやしないけど今はワイン一杯で逃げ出す感じだから、もし飲み会で奈緒さんと一緒になったら、やべーと帰ることになる。そしたら「こらー拓郎」、誰だ(笑)。昔、いたな。安井かずみと加賀まりこ
。こらー拓郎とよく言ってたな。空想だけど奈緒さんが「コラ拓郎逃げんのか、情けない」とか言われて、今僕はいろんなことを怖がる人生なので。「はいはい、どうも、僕も昔、朝まで歌うと言うのはやったんですけど、朝まで飲むのはどうも」「一曲歌いましょうか」「”今日までそして明日から”は飽きたよ」「じゃあ、生きてる限りはどこまでも〜キー間違えた」(骨まで愛して1番フルコーラス)・・・

 お正月にテレビで菅田将暉君がさんま君に手製のスタジャンをプレゼントしていた。裁縫が得意とLOVE2に出た時に言っていた。菅田君、僕も欲しいな。オリジナルのジージャン作ってほしいな。忙しいんだろうけど僕にも縫ってほしいな。
 映画「糸」を遅いけど観た。菅田くんは知っていたけど、小松菜奈さんは僕は遅れているのでわかんなかった。最初に小松菜奈さんが最初に登場した瞬間「おお、いいねぇ、この人いいねぇ」と佳代さんにも口走った。何がいいんだよ。菅田君、彼女はいいよ。杉咲花さんもいい。共通して不思議が入っている。結婚おめでとうございます。
 吉沢亮と杉咲花の「青くて痛くて脆い」。映画を観ているうちに「誰これ?」、亮君はCMで佳代が共演していたけど、杉咲花という人に見入っていってしまった。青春だな〜みんなチャーミングだね。自然な存在感が好印象だった。

 奈緒ちゃんが花魁の役で出演している映画「みをつくし料理帖」、みよちゃんってアラララ、奈緒ちゃんだよ(笑)、時代劇もOKだな。幼馴染が、料理人と花魁とに人生が別れる。奈緒ちゃんの誠実な空気感。みなさんいいお仕事が続いている。NHKの雪国では奈緒さんが駒子を演じるらしい。  
 次の歌は菅田将暉くんに送る、奥様とこんな気分で(笑)。

M-2   pillow       吉田拓郎

(CM)

■ 11時
拓郎)俺は夏はもちろん冬もチンチンに冷えた氷水を飲みたい
佳代) 私は夏も冬も常温。女優は常温

 吉田拓郎が渾身のソウルを傾けて制作中のアルバムから、永い間 応援してくれている俗に言うファン、もちろん最近の方もOKだけど、みなさんへのメッセージと受け取ってほしい曲が完成した。Contrastというタイトル。何がコントラストかは、各自それぞれが判断してください。共有なんてしなくていいです。

 僕=吉田拓郎は、変わり者だったんでしょうね。僕という生き方は、長い人生で時にファンにとっても誤解や不信感を抱かせた気もします。
 音楽人生で、いろんなことが起きたし出くわしもした。その時々に僕なりの事情はありましたが、決して避けては通れない瞬間。僕の運命的なものだった。

 僕は、子どもの頃から非常に身体が弱くて学校も半分くらいしか行けなかった。家にいることが多い。母親が与えてくれた雑誌とか漫画とか小説を楽しみに日常を家にいて過ごしていた。ラジオの音楽やスポーツを聴いたりするのが楽しみだった。一人で家にいる子ども時代。学友や友だちもいない。読み漁っている本を読んでいる世界に入り込んでいくことが多かった。一人で孤軍奮闘して日々の生計を立てながら世界を支えてくれた母親が僕に大きな意味合いを持った。
 僕の母は厳しいことはなく好きにさせてくれた。時々病気の枕元に来て話をしてくれた。母親の信念、テーマとして常に自分に正直でいることだった。

「もし拓ちゃんあんたがみんなとは違う考え、違うなと思うとしても、みんなにおかしいと言われても、自分はこういうふうにしかできないと思う時がくる。できないことはできない、自分の心に嘘をつかない。できないこともできるといって仲良くする必要はない。できないから仲良くできないのならしょうがない。自分に正直に生きなさい。」

 そういうことを言っていた。当時は意味がよくわからなかったが、この言葉が後に大きな支えになる。自分に正直であろうと思うこと。それは母親が僕を洗脳していた、多分に影響を受けて信じてきた。僕は結局自分の心に嘘をつかないという生き方をすることになった。母と僕との心に通じあった約束を守った。

 父親のことも、どなたかが父の業績を書いた本のこととかもメールで言ってくる。僕も姉も亡くなった兄もそして母も、私達吉田の家族は父親をあまり愛していません。父は頑張って何を書き残したか、それは家族には関係ない。父は僕達を見放して、僕達の苦労を知らずに自分だけの世界で人生を全うしたと思っている。我々家族からは、母が一人で苦労したのを観ていたので父を許しません。
 二曲ほど父の歌を作りましたが、何を感じ取っていただいても自由だが、それらの言葉には裏の意味合いがある。僕はあの父をまだ許していない。彼は僕等を全然愛していなかったのではないかと思う。
 兄も立教に行き、姉貴は素敵な男性と結婚し夫は亡くなってしまったけれど素敵な人生を送っている、僕も紆余曲折ありながら音楽人生を歩いて来られた、これらはすべて母親が敷いてくれたレールだったと思う。母親への愛は非常に深いものがあるが、父親に対しては許しさえも感じない。

 母親との心の約束を守るのが恩返しだ。人生の壁にぶち当たって、やむを得ない結論を出したことがあつた。僕の心には自分は間違っていない、社会から何を言われても 黙って受け止めようという覚悟だった。みんなとは違うかもしれないけれど自分を信じる。だから黙り込もう。黙って生きるのは難しい。人間は黙って生きるように作られてない。何回も思った。でも黙っていなきゃならないことがある。そんな時、自分が自分に対して正直ならいいという結論があった。”流星”で正直だった悲しさ・・・それが自分らしさにつながる。いつか必ず人間として生を受けて必ず穏やかな日常が来るんだ。自分らしく正直に生きてきた。そういう時に音楽が傍にあって、音楽が拓郎そばにいるからなと言ってくれた。音楽に対する感謝もあった。

 Contrastというタイトルにして、ミュージシャンとして50歳からサポートしてくれている武部と鳥山。デモテープを聴いて熱いものを感じたとメッセージをくれた。
 この曲の演奏は魂の演奏、たぶん僕の唄を聴きながら楽器を演奏しながら心の中に何かが生まれたんじゃないか。

 最後にエンディングのピアノとギター、実に真摯でそれでいて情熱的なソウルだ。この歌を拓郎さんもっと歌えともっと頑張れいいながら弾いてくれ、織の声を聞かせようと思うな、俺の歌とバトルするような気分で演奏してくれと頼んだ。

 ボーカルはリモートの仮唄だけど、これも捨てがたい、これはこれでドキっとするかもしれない。急遽ミュージックビデオの作成も決まった。奈緒ちゃんを主人公を演じてくれて嬉しい。僕がこのシナリオを書くかもしれません。
 1946年、昭和21年の4月、戦後のどさくさ鹿児島に生まれた自分が音楽という道筋を観た。想像もしなかったことが待ち受けていた。一人の人間の真実の景色、今夜みなさんもみませんか。みなさんエールを送るつもりで書きました。そんなにチカラ強い言葉はないかもしれない、しょせんみんな人間はひとりぼっち。ひとりだからこそ誰かとの愛、誰かとの言葉を誰かとの気持ちを求めて生きてゆく。例えば僕は間違っていても〜と書いたけど、そのことを誇りにして今後は半歩でもいいから歩いて行こうと思っている。

M-3   Contrast (仮歌)   吉田拓郎

 いよいよ音楽人生の総決算、アルバムの全貌見えてきた。7曲完成している。本邦初公開の話。隠すこともない。アルバムの心境。

  僕のパートナーの佳代さんはシングルマザーとして育てられた。幼いころからお義母さんが頑張って育て上げた。僕の母も夫婦の形式はあったが、小学校3年のころ母は父のいる鹿児島を出て、広島で暮らした。
 なぜ広島か、母が就職することになり、国家試験を受けて広島にだったら働き口があるということで行くことになった。女性が働くのは大変な時代だった。広島の盲学校の栄養士の職を得た。兄は既に立教大学に行っていたので、姉貴と僕と祖母が一緒についていった。詳しくはアルバムのエッセイに書く。
 佳代のお義母さんも僕のお母さんも既にあちらで楽しくしていると思う。夫婦で互いの母親のエピソードを話すが、なぜか笑ってしまう。想像できない苦労があったはずだ。時代が時代だから相当に大変だったはずだ。人知れず泣いたこともあったと思う。そういう厳しい体験はことさらのようには話さなかった。
 2人の母親は人間として苦しい人生を体験したにもかかわらず、できる限り伝えない人生を選んだのではないか。
 数年前の宮藤官九郎のドラマで、佳代が、主人公の錦戸くんのお母さんの役を演じたことがあった。お母さんはそれはそれは〜池袋ウエストゲートパークの長瀬のお母さんもそうだったけど、キュートな母を演じていた。
 その母が、突然の臨終のとき、夫の風間杜夫に、お母さんが酸素吸入器のままで小さな声で囁いた。「ああ・・・・だった」。その一言が僕は、冷たい水をかけられたような背筋にイナヅマが走った。天国へ行くときのひとこと、これは僕のラストアルバムとと思った。なんて素敵な、なんて正直なセリフを書くんだ。それがアルバムのタイトルにつながっていったんだ。   
 考えてごらんよ、音楽人生も女優人生もお互いにいろいろあったじゃないか。人に言えないキツイこともあった。あの演じたお母さんのセリフがわかる気がしない。そういう辛かったんだよと言わずに、佳代が演じたお母さん空気感を僕もやっと感じられるようになった。あのお母さんの一言が俺たちの親の本音だったのではないか。

 この話をタムジンファミリーやシノハラや奈緒さんに伝えた。みんなそれは素敵なアルバムタイトルになるんじゃないですかと言ってくれた。
 それを聞いて、僕は最後のアルバムのジャケットはつま恋で撮影しようと決めた。春の気配が見えたら全員でつま恋に行って撮影しようと思う。
 朝までやるぞの多目的広場、エキシビションホール、僕はカートで移動したけど練習ルームに行くトンネルと並木の景色。
 思い出深い場所で奈緒さんに自然に空気を感じ取ってほしい。佳代と僕のお母さんが現代に今若者としていたら、若々しい希望に満ちて自分の未来を描きながら女性としていたらという約をやってもらう。奈緒さんにシノハラの衣装でつま恋の自然の空気に溶け込んでいく、そんな写真を撮りたい。

 安井かずみが病魔と闘っていたころ加藤和彦とのデュエットの「純情」のカップリングで、僕が作詞だけして。音楽人生で作詞だけの参加は珍しい。本来は、ZUZUが書くところだったけれど安井かずみから体調崩していたので、彼女からも拓郎書いてあげてよと言われて書いた。久しぶりに聴いたら いいじゃない、いい詞書くなと自画自賛。
 まさに五月。春から初夏に完成・完結する。それにしても感染状況が心配だけど。

M-4  5月の風


<入院しているが拓郎さんの曲を聴いて愛用のイヤホンは何か投書>

 音は好き嫌い。個人差がある。サウンド評論家の言うことは気にしない。重低音、高温がどうだとか信用しない。武部はイヤモニはお手頃の国産のもの。好きな音を選ぶべき。僕のは一万円しない。
 家ではチェックしないといけないベースの音とかチェックしなくてはいけない。ソニーのMDR 。原音に近い、重低音が鳴ってなくてはというのは聴けない。原音は仕事用にはいい。
 イヤホンは今は製造中止 ゼンハイザーのMX型。バランスがいい。インナーイヤー型、だと生活音が入る。なので、カナル型が人気。しかし僕はノイズキャンセラーではなく、自然なノイズも聞こえながらが音楽を聴くのが好きだ。完全に音楽しか聞こえないそんな世界は好きじゃない。

■エンディング
 佳代さんはコロナ禍で外食しようと言わない。洋服はプラダか好きで、僕も好きだけど、以前は年に数回買い物に行ったけれど今は行かない。
ヘアサロン、ネールサロンと銀行の振込だけ。永い間ドラマの女性プロデューサーのIさんと家族ぐるみて食事に行ったしていた。
 その方からのメールで、奥様は、いつでも天の岩戸からお出ましになられますか、天照愛子様のおでましをお待ちしています。大ヒット(笑)。似合ってるな。最近、除菌が減ってきたかな。ひところは除菌の鬼だったのだが。コロナはなかなか収束しないのでもうしばらく自粛を受け止めて行こうかと思う。いつかIさんとマウイ島に行こうと行っている。天岩戸から出てこない。おーい(笑)。

 次回は2月11日

M-5   イエスタデイ・ワンス・モア     カーペンターズ

☆☆☆思いつきと感想☆☆☆☆☆☆

☆おそらくタイトルも、そこからまた何がこのアルバムの根幹のコンセプトなのか、なぜイメージガールが必要で、つま恋なのか、そしていかに渾身の魂でなくてはならないか。すべて直覚で伝わってまいりました。
 なんというか何もいえません。Contrast、この久々の魂の純粋経験。まだ感想云々いえる状態ではない。

☆ アルバムの順調な進捗を喜ぶ気持ちはもちろんだが、なんかこう荷造りが進んでゆく人の背中を観ているような寂しさがやはりある。
  永すぎた春 時の流れを 荷造りしている恋人を背に
 みたいな気分である。まさにこれから天の岩戸に入っていこうとしている神様を見送るみたいじゃあないの。

☆「アルバム完成後のツアー決定ですね」とメールをしたリスナーの方は、間違いなく奈緒さんのラジオでの拓郎のメッセージの「やれとおっしゃれば」とそれに対する奈緒さんの返事で交渉成立!!ってつもりだったに違いない。もともと自分で言い出したことなのに、さりげなく火消する拓郎。いや、でも「ツアーからの撤退」って言ってたな。単発シャウトはあるのか…って未練じゃないかよ。

☆やっぱりKinkikidsがスーパースターだと思うのは、@吉田拓郎からかかってくる電話に出ないA吉田拓郎からショッピングに誘われても行かない、という選択肢をへーきで持っていることだと思う。あり得ん。俺にはあり得んぞ。やっぱり一般Pとスターの間のはるかに高いウォールマリアの壁を感じずにいられない。

☆5月の風 歳とともに聴くたびに深まる名曲感。安井かずみさんからも託されたのか。

☆これからゆっくりと心の中で反芻し解題してゆくべき放送だった。そうしよう。

☆☆☆星紀行の今日の学び☆☆☆
 私にとっても一本の道でありました

2022. 1. 13

☆☆☆私の頭の中のモノサシ☆☆☆
 感染増加に暗澹たる気分になる。怖い。それなのに不謹慎だと怒られるかもしれないが、2000人と聞くと渋谷公会堂が、3000人と聞くとNHKホールが頭に勝手に浮かんでくる。浮かばない? 満員の客席を思い出してあらためて慄然とするのだ。これに関してはとにかくこれ以上キャパが大きくならないでくれと心の底から祈らずにいられない。自分もそうだが、皆様、本当にお気をつけて。

2022. 1. 12

☆☆☆呼んでいるどこか胸の奥で☆☆☆
 "千と千尋の神隠し"の主題歌「いつも何度でも」…なんかタイトルが惜しいな…じゃなくて、この曲を聴くたびに問答無用で涙が出る。10年前のあの時に動画で観たナターシャ・ジグさんの声でいつも脳内変換される。

    さよならのときの静かな胸
    ゼロになるからだが耳をすませる

…ということで"Contrast"をできるだけゼロの気分で聴くためにしばらく静にしていよう。

2022. 1. 11

☆☆かっけーイントロダクションとその他☆☆
 衝撃ガツン系、胸わしづかみ系等とは別に、おお〜カッコイイ〜と唸ってしまう1曲目も多い。
 すぐに浮かぶのはアルバム「感度良好波高し」の1曲目の”ベイサイド・バー”だ。初めて聴いた時、思わずカッチョエエ〜と声が出てしまった。ギターを抱えたあのスレンダーな立ち姿が目に浮かぶようだった。

 アルバム「吉田町の唄」の1曲目の”夕映え”もそうだった。なんてドラマチックな始まりなの?スケール感もある名曲だ。映画の主題歌にしてもいいくらいだ。>だから主題歌だったろ。いや、あの映画での使い方には納得できない。あの映画での使い方、あれは、マチガイでした。

 さらにはアルバム「アジアの片隅で」の1曲目の”まるで孤児のように”。このスタイリッシュなレゲエとでもいうべきサウンド。少し抑えめの歌唱。”アジアの片隅で”という超大作、”いつも見ていたヒロシマ”、”元気です”という名作が控えていることは聴く前から知っていた。どの曲にも頼らずに、ジャブのようなこの曲でサクッと始めてしまうあたりが、もうカッコイイんだから〜。

 このようにアルバムの1曲目はインプレッシブなものばかりだ。ただ、そんな中で、これはどうなんだという一曲目がある。もちろん個人の意見だ。
 「detente」の1曲目”放浪の唄”。「detente」は名盤だが、だからこそこのオープニングはどうなのよ。鬱々とし時に演歌チックな曲だ。いや、拓郎は好きなんだろうし私の感性の乏しさなのかもしれないが、これはいただけない。私はこのアルバムは”たえなる時に”からズガーンと始めてしまって良かったと思っている。

 で、今年、私達は最後のアルバムの1曲目を聴くことになる。俺ごときに言われたくはないだろうが、とにかく至高の一曲目を頼みたい。曲としても第一走者としても胸わしづかみになるヤツを。

2022. 1. 10

☆☆目の覚めるようなイントロダクション☆☆
 “ペニーレインでバーボン”、”ローリング30”、”この指とまれ”のようなハードな衝撃ガツン系とは違う曲ながら、1曲目の印象がとても鮮烈だったアルバムもある。

 最近ではアルバム「午後の天気」の1曲目”僕の道”だった。とろけるようなイントロを聴いた時、胸ワシづかみ状態になった。心の奥底を刺激されてそのままアルバムの世界に引っ張り込まれた。しかし、これがベストアルバム「From T」の一曲として聴くといい曲だとは思うが、そこまでではない。トラックダウンし直したせいもあるのか。とにかくこの本家の一曲目は鮮烈だったと俺は思う。

 もう一曲はアルバム「大いなる人」の1曲目”あの娘に逢えたら”。当時は高校1年生だったが、レコードに針を落とした瞬間、あのイントロにびっくらこいたものだった。それまでの拓郎とは全く違うサウンドに面喰った。鈴木茂のチカラか。メロウで成熟した演奏となんか余裕ぶっこいた拓郎の歌いっぷりは、大人の別世界のようで戸惑った。戸惑った高校生の当時の結論は「やっぱり社長になると違うな、ゴージャスだなぁ」というものだった。我ながら恥ずかしい。しかし、今聴き直すと確かにもはやバーボンではなく、高級ブランデーの香りがする。闘う若者路線ではなくバブリーな退廃した感じが漂う。とにかく印象的な一曲目だった。

 アルバム「サマルカンドブルー」の1曲目”レノン症候群”。イントロを聴いた時からなんか泣きそうだった。感動というのとは違う。84年の「FORVER YOUNG」の”ぺーレインへは行かない”がお別れの歌だとすれば、この歌はお別れしたあと、何にも無くなった荒涼たるスケルトンを見つめているような、ああホントに終わっちまったんだなという寂寥感が滲んでいる。こんな切ない1曲目もある。
 ♪あの二十歳のころの快い無邪気な自分はもういない〜 今日は成人の日か。そうです、たちまちいなくなります…って新成人に贈る言葉かっ。え、18歳か。

2022. 1. 9

☆☆魂のイントロダクション☆☆

 ということでアルバム「元気です」の”春だったね”の1曲目の高揚感の素敵さをあらためて感じた。これと同じようなウキウキな1曲目があったなと思い返す。そうだ、アルバム「こんにちわ」の1曲目”いくつになってもHappybirthday” だ。この明るくポップなオープニングも爽快だった。

 楽曲それ自身の魅力とともにアルバムの1曲目に置かれること=ファースト・ランナーなること、そのこと自体からしみ出てくる魅力というものもあると思う。

 そう思ってこれまでのアルバムの1曲目をつらつら思い返し、聴き直してみた。どれも拓郎による渾身の練りに練られた曲順に違いない。どのアルバムの1曲目も胸わしづかみand/or胸がゾワゾワするものばかりだ。
 一瞬、例によってアルバム1曲目番付を作ろうかと思ったが、さすがに順序付けはとてもできない。好きなアルバムの順位付ができないように、どの1曲目もそれはそれで愛おしいもんだ。

 とはいえ「今はまだ人生を語らず」の1曲目の”ペニーレインでバーボン”は至高の一曲目だな。ガツンと頭を殴られたような衝撃がある。そもそもこのアルバムは、第一走者(ペニーレインでバーボン)と続く第二走者(人生を語らず)の圧倒的な走力で、すでに往路復路の完全優勝が決定的になってしまう駅伝みたいなものだ。どんだけすごい1曲目かということでありんす。
 この1曲目の超絶の凄さがあればこそ、10年後の「FOREVER YOUNG」の1曲目の”ペニーレインへは行かない”が心の奥深くに染み入るのだ。

 「今はまだ人生を語らず」の他にも「ローリング30」の”ローリング30” 、「無人島で」の”この指とまれ”のようないきなりガツンと衝撃=心臓わしづかみ系の一曲目がある。拓郎のオマエたちどうだっ!という挑戦を感じる。聴いていると俺も立ち上がって何かをしなきゃと震い立たされる。ま、結局何にもしないのだが。

 拓郎の挑戦といえば「伽草子」の1曲目”からっ風のブルース”は、今にして聴けば「俺はフォークじゃないんだ、バカヤロー!」という渾身の心のシャウトが聞えてきそうだ。
 
 1曲目にこだわって味わう…いいかもしんない。ちょっとつづく、かも。

2022. 1. 8

☆☆50周年☆☆
 アルバム”元気です”を久々に聴く。1曲目”春だったね”のイントロで途端にトリップしてしまう。別世界の扉がバーンと開く感じ。♪が躍っているような松任谷正隆のキーボード、言葉のひとつひとつがウキウキ自由に跳ねまわっているようなメロディーとボーカル。まさにみずみずしいポップだな。感性の乏しい人々は(※個人の感想です)これを「字余りソング」という陳腐な表現しかできなかったのも無理はないか。とにかく楽曲としてもアルバムの幕開けとしてもすんばらしい。

 で何が凄いって、この最高のPOPが、翌年のライブ73では、これまた超絶すげーブラスロックに転生しているところも大きな感動なのだ。無敵のバージョンアップだ。サナギマンからイナズマンに変わるくらい凄い>だから知らねぇよ、そんなの。
 リアルタイムで72年当時にアルバム「元気です」を聴きこんだ人が、翌年ライブ73を聴いた時は、ぶっ飛んだだろうな。俺もぶっ飛びたかったっす。
 72年と73年の”春だったね”。こういうのをContrastというのではないか。違うかな。72と73の素晴らしきcontrastというか大きなふり幅の中に拓郎の魅力の真骨頂があると思うのだ。

2022. 1. 7

☆☆☆悲しみは雪のように☆☆☆
 雪でした。雪の中を極寒に震えながら駅に向かっていたら、老眼鏡と財布を仕事場に忘れたことに気が付いて涙ぐみながら戻った。超寒い。これって雪の中、落としたウルトラアイを捜しまわる"零下140度の対決"のモロボシ・ダンみたいじゃんとふと思った>知らねーよ

 まさに外は白い雪の夜。客さえまばらなカウンターの椅子で新年のご挨拶。お久しぶり&お疲れ様でした。よくぞご無事で。でもココももう危ないかもしれない。俺のツボなお土産をいただいた。心の底からありがとうございます。嬉しい。でもドイツ語が全然わかんね。昔習ったような気もするがたぶん気のせいだ。
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 それにしてもこの世界のどこにも安全な場所がないというのはよく考えるとすげー怖いな。この星がどこへ行こうとしてるのか、もう誰にもわからない。ってこれは浜省だったか。とにかくとにかく世界の果てでも変わらずに元気でいてくださいね…とジジイは祈らずにいられない。

2022. 1. 6

☆☆明日の前に☆☆
 「『罪と罰』を読まない」を再読している。ドストエフスキーの古典「罪と罰」を読んだことのない4人の作家たちが、勝手気ままにタイトルや登場人物の名前という僅かな手掛かりから推測と妄想でこんな話じゃないか、こうだったらいいなということで堂々と読書会をするというトンデモな内容だ。「未読読書会」というらしい。
 もちろん読んでないのだから真実の物語からは程遠く予想も外れまくる。まさにそのcontrastがまた面白い。自由すぎる。最後に三浦しをんは、読書とは、読書の楽しみとは、本を読むだけではなくその本を読む前から始まっている…と言い切る。
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 ということで我らが「ラストアルバム」だ。まだ未完成ではあるが、こうして拓郎がデモテープはじめいろいろと手掛かりを撒いてくれるので、既にラストアルバムを聴く前からその鑑賞は始まっている。
 スタッフがみんな「泣いてしまった」というのは感動したということであり、悲しくて泣いたのではないではないと思う(爆)。そのうえ「一人の人間の真実の景色」と言われて期待しないわけがない。どんな曲なんだと悶々として1月14日の放送までの日々を過ごすとき、もう既に私たちはラストアルバムを味わい始めているのである。ファンにとって今しかできない楽しみである。そしてそういう経験は泣いても笑ってもいよいよこれが最後なのだ。

2022. 1. 5

☆☆☆僕はその日映画を観ていた☆☆☆

 年末に観て感じ入った映画「花束みたいな恋をした」は、一筋縄ではいかない映画だ。淺読み、深読み、誤読、全部抱きしめてさしあげます的な深いフトコロがある。

 簡単に言うと、例えば何のとりえもない若い頃の自分が、ある日偶然に「”吉田拓郎”が大好きで辛い時にお風呂でいつも”今日までそして明日から”を歌ってます、とにかく好きな曲は”証明”です、座右の銘は”半歩でも前へ”です」…と熱く語る異性に出会ったら、そんときゃどうするか…どうもこうもない、そうしてそうなってしまったら、それからどうなるかっていう走馬灯系映画だ。もちろん吉田拓郎は一ミリも映画に出てこないよ。それでも、なんか"大阪行きは何番ホーム"みたいな切なさがある。…あくまで個人の感想だけどさ。

 それにしても菅田将暉…いいねぇ。オーラのON/OFF、あるいは彩度の調整が自由自在にできる演技力がある。菅田将暉の意志的な眉目をみるたびに、もし庵野秀明がシン・レインボーマンを作るとしたらヤマト・タケシは彼しかいないと思う>なんだよ、それ。

2022. 1. 4

☆☆☆土地の柵を支える人々☆☆☆
 ♪箱根に行きたいと思っているよ、心が洗えれば幸せだから〜ということで正月は箱根の別荘で過ごした。もちろん私のではない。しかもウルサイ老母達も一緒で心を洗うどころではない。
 ちょうど大学駅伝があったので応援に出かけて生まれて初めてリアル大学駅伝を観た。過酷な山道を目を見張る速さで登ってゆく走者たちもすばらしかったが、沿道の観客柵を全力で押さえているSECOMのおじさんたちにも心を奪われた。
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 つま恋75の実録本「ドキュメントつま恋」から
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 つま恋75に行っていない俺は、昔から何回もこのドキュメントを読み返しながら妄想し、この押し寄せる6万人の観客の人波を必死で支える警備員さんのくだりで手に汗を握ったものだ。なので柵を支えている警備員さんを観るだけでたまらなく萌えるのだ(爆)。

 珍しく俺が応援したおかげで母校は見事にシード落ちした(爆)。それよりも青山学院のあの明るく陽気な無敵っぷりは凄いな。サザンオールスターズの快進撃を観るような気分だ。

2022. 1. 3

☆☆女優☆☆
 奈緒さんのラジオは聴いて良かった。以前のテレビ出演時の奈緒さん宛てメッセージ(a dayの2021. 10. 30)にあった「”今日までそして明日から”の他にもいい曲がたくさんあります…」という言葉を真摯に受け止めておられる様子、そこから「証明」をチョイスされるあたり、また「半歩でも前へ」という言葉も大切に深めておられる様子などなど、まっすぐ素直に拓郎の曲と言葉を心に受け止めていることが伝わってきた。この俺のような傷つき汚れて屈折したジジイにはないピュアな心を感じさせてくれた。
 
 問題はあのお方だ。いや、もう何も言うまい。ただ思い出すのは1985年のことだ。
 シンプジャーナル(85年9月号)で国立競技場のイベント「ALL TOGETHER NOW」についての南こうせつと財津和夫の対談が載った。
 イベントのテーマ曲「ALL TOGETHER NOW」の作詞を全員一致で吉田拓郎しかいないと頼んだが例によって頑として応じない。ユーミンと小田和正と財津和夫と南こうせつが深夜まで説得するが首をたてに振らなかった。途中財津和夫は説得をあきらめて帰ったようだ。
 南こうせつは語る…
「僕らはもう、ひとつここはねばり腰しかないってんでユーミンと小田さんと三人がかりでね。でも、なっかなか「ウン」て言わない…たまたまそこに薬師丸ひろ子さんが居合わせたんだ。…そしたら拓郎がえらい上機嫌になっちゃってね!(笑)…
 そしたら、薬師丸ひろ子さんも当日来る、と。「拓ちゃん、この可愛い薬師丸さんが歌うんですよ。ここはひとつ!」そしたら「ウン、約束します!」だって(笑)」

 …そういうお方なのだ(爆)。そういうことがキッカケで歴史というものは動くときには動き出すものなのだ。

 そういえば薬師丸ひろ子の紅白もすばらしかったな。音楽の神様が女優に降りてくるとこうなりますという模範演技のようなステージだった。そうだ「真実はステージにある」というお言葉を思い出したぞ。

 ということで、あれはジョークだと一蹴したり、逆に思い込みを深めたりもせずに、ジジイの俺も素直な心で、拓郎と奈緒さんの約束を言葉通りまっすぐに受け止めようと思うのだ。

 ……めっちゃ期待してるじゃん(爆)

2022. 1. 2

☆☆☆最後に"拓郎さんあなたもうライブツアーやらないの?"とおっしゃれば、はい、奈緒さんが「やれ」とおっしゃるのでしたら、つま恋でオールナイトでも考えます☆☆☆
やれ!! >だからオマエじゃねーよ
 いや、それでも奈緒さんがちゃんとおっしゃってくれたぞ。ありがとう。"証明"、"半歩でも"、そして"エンディングの襟裳岬のインスト"まで、なにもかもがすんばらしい。

2022. 1. 1

☆☆☆永遠の半世紀☆☆☆
 新年あけましておめでとうございます。
 今年は、2022年。昭和97年。もちろんお気づきの方はお気づきでしょうが、あの我らが名盤アルバムが発表されてから今年で50周年です。言わずと知れたこれ↓です。
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>ちげーよ!!(爆) それにしてもコレ↑はコレで悪い意味で凄そうですが、もちろん正しくは当然こっちです↓。
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 この吉田拓郎の名盤誕生50周年=半世紀という尊き佳節に、奇しくも私たちは同じ吉田拓郎の「ラストアルバム」を迎えることになります。この貴重なひとときを僕たちは何かをせずにはいられない。でも、それが何だかはわからない。ということで今年はそれを探したいです。

…紅白は年々アウェー進行だけど島村英二、松任谷正隆の姿を見つけるとそれだけで嬉しい。お疲れ様でした、藤井風さん初めまして、そして何といっても、あいみょん、良かったねぇ。
    “愛を知るまでは死ねない私なのだ!”
 導かれた運命辿ってOne Last Yearなのかもしれないけど、元気でまいりましょう。

 「時が過去から未来に流れるばかりでなく、時が未来から過去に向ふと考へられねばならない。時が円環的運動をなすと考へられねばならない。…一瞬一瞬が永遠の今に触れるといふ意味に於て「時」といふものが考へられるのである」(西田幾多郎「現実の世界の論理的構造」より)

2021. 12. 31

☆☆また歳月が行ってしまうから大晦日☆☆

 “花束みたいな恋をした”…観た…たまらん。今年も最後に来て突然現れた本年度私の個人的ベスト1。順位つけるほど映画は観ていないか。

 今年も大変お世話になりました。心の底からありがとうございました。来年が平和で、吉田拓郎と拓郎を愛するすべての人々にとって最良の年となりますように。

(星一徹心の俳句)
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        年越しの
          そばより拓郎(キミ)の
                 そばがいい

                    良いお年を。

2021. 12. 30

☆☆☆それもこれも全部抱きしめて☆☆☆
 “LOVELOVEあいしてる”のオープニング。拓郎は”全部抱きしめて”or”好きになってく愛してく”の自分のパートを歌い終って、ゲストが登場すると入れ替わるようにすーっと静かに後ろに下がってバンドと並んで演奏を続ける…そして演奏が終わると後ろからゲストに手厚い拍手を贈る。
 このほぼ定番のスタイルがあらためて観ても、いいんだよねぇ。先日のラジオで言ったとおり、Kinkiのサポーターに徹するという気持ちが自然に体現されている。こういうところがカッコイイと俺は思う。このサイトでも何万回か言ったがまだ言い足りない。オレがオレがと前に出て行かないところが拓郎の魅力であり同時にまたファンにとっての歯がゆさでもある。

 ついでに2017年のLOVELOVEの菅田将暉とのシーンを何回も見直してしまう。トークの冒頭で、拓郎はKinkiに対して、よほどの事がない限り安易に自分に話を振るな、「よほどの吉田」なんだと厳しく申し渡したその直後、光一君が菅田君に「すだまさき」と「さだまさし」の響きが似ていると話した途端に、ゲストがさだまさしだったら俺は帰るよ!と声を荒げてしまう拓郎(爆)。…剛君が静かに「よほどの事だったんですね」と受けるところ。あそこが超絶大好きで繰り返して観てしまう。

 で。その菅田将暉の映画「花束みたいな恋をした」を録画したので今日観る予定。やたら絶賛されているよね。いい歳して恥ずかしいとか家族に言われそうなので、できればひっそり一人で観たいが、年末のお掃除とかの慌ただしさも手伝って、なかなかタイミングが難しい。

2021. 12. 29

☆☆☆細かすぎて伝わらない感動☆☆☆
 “LOVELOVEあいしてる”の印象に残る名場面はそれこそ膨大にある。それとは別に個人的にトリビアなツボもあった。
 まず浮かぶのは笑福亭鶴瓶のLOVELOVEな歌。いきなり”春を待つ手紙”をリクエストして驚いた。すげえ。しかもその時に鶴瓶は”誕生日”とどちらにしようか迷ったというディープさにも感服した。違った意味で鶴瓶師匠と呼びたい。それ以来、鶴瓶が他の番組で下半身系の放送事故をやらかしても、きっと師匠には何か深いお考えがあってのことに違いないと思うことにしている。

 次に、"野猿"の一員として出演した石橋貴明。LOVELOVEな歌は"アン・ドゥ・トロワ"だったのだが、その流れと関係なく貴明は突然、拓郎に真剣に話しかける。
 由紀さおりさんの♪あなたが運転手に〜のルームライトも拓郎さんが作ったんですね。僕は涙が出ましたよ.♪車もすぐ止まり私は降りる〜.いや,僕はね,泣けましたよ.やっぱ俺は「ルームライト」歌いたいよ.とゴネたのだった。…ああ貴明。ほんとに小6の時に聴いた"ルームライト"が好きで、それが吉田拓郎の作曲と知って感激している様子がありありと伝わってきた。

 最後に有名すぎるトリビアみたいだが、松たか子が"幸せな結末"を歌って、最後のテロップにバッキングコーラス大瀧詠一って出た時も驚いた。ええ、出てたのかよっ!、すわ吉田拓郎と大瀧詠一ついに共演かよっ!ということでビデオをコマ送りにして見直した。防犯カメラを解析する刑事の気分で姿を捜した。いなかった…よね。音だけだったんだよね。

 …♪オミクロンの黒雲が海を渡って近づいてくるwohwohって不謹慎な替え歌を歌っている場合ではありません。くれぐれもご注意ご自愛のうえ幸せな歳末をお過ごしください。

2021. 12. 28

☆☆拓バカたちのささやかな宴☆☆☆
 みんなとりあえず元気で良かった。心配だった方の生存確認もできた。そうかK君は来年で13回忌なのか。それでも寄る年波はいろんな変化を見せてくれる。
 アーティストとともに生きアーティストともに老いてゆくプロジェクトを絶賛進行中の私たちである。素晴らしきかなこの世界と自画自賛。

2021. 12. 27

☆☆☆キミらの背中には羽根があるC☆☆☆

 2001年に”LOVELOVEあいしてる”が終わった。4年6か月。ラジオもあわせた吉田拓郎のレギュラー番組の最長不倒記録となった。

 そしてLOVE2は、終わってからも育ち続けるもの、終わってから始まるもの、終わってから初めて気づくものなどがテンコ盛りの含蓄番組となった。

☆ミュージシャンたれ、音楽とともにあれ
 テレビで人気が出たミュージシャンが、身も心もテレビタレントになっていく例は多く見た。たぶん世間もナンシー関も拓郎のことをタレント化してゆくミュージシャン、悪く言えばテレビの奴隷になってゆく、好個のサンプルとして注目していたようにも思える。
 でも拓郎は違った。すぐにロックンロール・サーカス=公民館ツアーという夢の企画に取り組み、それが残念ながら難しいとなると今度は豪華なビッグバンドでのコンサートツアーにチャレンジして見事実現してみせた。不慮の病も乗り越えてツアーを重ねて、そのままつま恋2006に結実させた。結局、吉田拓郎は常にすべて音楽とともにあったんだよな。拓郎はテレビに出ている時だって一ミリも音楽からは離れなかった。ふははは、甘く見おったな。しかしナンシー関さんはそのミュージシャン拓郎を観ずに夭折された。
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 そう思い返してみると"LOVELOVEあいしてる"という番組もまた違って見えてくる。

 自分は、新たに立ち上がり始めた95〜96年の「Long time no see」〜「感度良好波高し」の外人バンドの流れにとても期待していたので、当時はLOVE2出演によってその流れが断たれてしまったと恨めしく思っていた。
 しかしLOVELOVEはまごうかたなき音楽番組であり、吉田拓郎が元気に蘇生していく音楽再生工場のようなものだったことが今さらわかる。LOVELOVE のスピンオフともいうべきコンサートツアーは陽気で溌溂としたエナジーが漲っていた。99年の20世紀打ち上げパーティで「流星」、00年の冷やしたぬきで「人生を語らず」の久々の封印が解かれたのも忘れられない。
 LOVELOVEは断絶ではなくそれまでの音楽活動とそれからの音楽活動を発展的に結び付けていた紐帯であったことがわかる。旧ファン、新ファン、ファン以外のたくさんの人が吉田拓郎の音楽というものをインストールしなおす貴重な機会となった。

☆ 包み、そして包まれて
 拓郎は、Kinkiの二人を心の友、心の師とまでたたえる。しかし、松本隆は「Kinkikidsがアイドルではなく、アーティストとしての感性を持っている。それは拓郎と付き合ったことが大きいと思うよ。」と語っていた。
 オールナイトニッポンゴールド第9回では拓郎本人も
「スタジオでは僕が撮影のスタッフと大喧嘩してしまったたことも何度かあった。プライドを捨ててもやる気はなかった。光一と剛はそれを現場で観ていた。たぶん知らない吉田拓郎というオヤジのアーティストがこんなふうにするんだ、こうすると怒るんだなとか日常とか態度を観ていたと思う。だから、彼らがよくあるアイドルにはならなかったと胸をはっていえる。」と語った。

 LOVELOVEが終わってからも「堂本兄弟」〜「危険な関係」〜「剛の人生を語らず」などなどフラグが静かにはためいていた。そしてラストアルバムの報を聞いた剛くんが「電話したんでね。拓郎さんと。なんかちょっとこみ上げるものがあるけど……」と涙声で心境を吐露してくれた。「拓郎さんは音楽を通して色んな人に影響を与え、色んな人を救ってる」とも…俺には何の権限も関係もないが、なんていいヤツなんだ、心の底からありがとうと言いたかった。

 ラジオで拓郎はこうも語った。「年齢とキャリアに関係なく、真実=trueで接することの大切さを知った。僕にとっても心の恩師だった。僕も様変わりした。」…繰り返される拓郎の言葉に、また拓郎は同じこと言ってるよと思う向きもあろうが、これは繰り返し繰り返し指先確認しておくべき大切な原点なのかもしれない。年齢キャリアを超えて、お互いにお互いを包み、包まれるという、稀有の人間関係がそこにある。

 ラストアルバムは、kinkikidsとLOVE2で締めくくるらしい。正直言ってまたKinkiかよという思いも少し頭をよぎった。それはどうなんだろうかということで、こうしていろいろあらためて振り返って考えてみた。結論は、何卒よろしくお願いします…ということだ。>なんだよ

 そしてラストアルバムについて語った時の剛君の言葉がたまらん。「生意気ですけど、拓郎さんが『俺、やっぱりもう一回音楽やるわ』って笑って言えちゃうようなやつを作りますねってお伝えしたんです。」←それな!
 俺も生意気ですけど、拓郎、おまえもがんばれよ。>それは生意気じゃない無礼なだけだっ
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2021. 12. 26

☆☆☆我が谷はLOVELOVEなりきB☆☆☆
 例のナンシー関のテレビ批評(「ナンシー関のすっとこ人名辞典」)の中で拓郎の消しゴム版画にこうコメントをつけていた。
「拓郎ファンだった友人は、吉田拓郎がテレビに出いることやCMに出ていることはもう認めるが『コウイチ、ツヨシ、待ってくれよー』と言ってるのを聴いた時はさすがに悲しかったと言っていた。」…これは多分”えのきどいちろう”だと思う。ああ気持ちはわかる(笑)。旧来の拓郎ファンはLOVELOVEを観ると賛否や濃淡はあれどそういう複雑な気持ちと向き合わざるを得ない。

 しかし、一躍人気者になった拓郎には女子中高生のファンまで出現し、TVやコマーシャルにも次々出演した。その勢いの中で拓郎は、旧来のファンに対して、今の俺をとやかく言うオジサンオバサンのファンはいらない!とまで言いおった。ううう。当時のオジサンの一人である俺には結構インパクトがあった。なのでこのサイトでは「LOVELOVEバブル時代」と悪意をこめて呼んでいる(爆)。

 しかしLOVELOVEの影響と功績はあまりに大きかったと今になるとしみじみ思う。

☆功績1  ビジュアル系の復活
 吉田拓郎はミュージシャンであると同時にアイドルでありビジュアルの人だ…と俺は思う。吉田拓郎はルックス的にカッコイイこと、美しいことが何にも勝る大前提である。そこが、谷村新司、さだまさし、小椋佳その他のあまたいるミュージシャンたちとは根本的に違う。無敵のビジュアルあってこその吉田拓郎だ。

 とはいえ1985年以降の"カーリーヘアー後期時代"から、断髪を経た96年LOVELOVE開始時の"短髪初期時代"までの期間はビジュアル的ピンチの時代だったと思う(あくまで個人の意見です)。昔のディズニー映画”滅びゆく大草原”というタイトルを思い出す。俺にとっては地球環境よりも心配な問題だった。
 しかしLOVELOVE出演によって、短髪の拓郎に自然に慣れると同時に、スタイリッシュな短髪なりのカッコよさが、どんどん磨き上げられていった。この番組の最大の功績は、短髪の拓郎のカッコよさをファンを含めた全世間に周知徹底せしめたところにあると俺は思う。もしもLOVELOVEへの出演がなく、年に一度くらいコンサートとかで拓郎の容貌を目にするだけだったとしたら、誰もが「拓郎=長髪」の過去のイメージがぬぐえず、現在の短髪に「あらー拓郎さん髪の毛短くなって変わっちゃったね、老けちゃったね」と落差的違和感を感じ続けていたはずだ。
 ともかくデビューしたばかりの素朴なアイドルが、露出し観られることでどんどんあか抜けて美しくなるのとたぶん原理は同じだ。ルックス的には99年の20世紀打ち上げパーティあたりのカッコよさといったらない。
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 拓郎と関係ない別の番組で元SMAPの仲居くんが、わりと真剣に「拓郎さんてカッコイイよなぁ」と呟いていたのを聴いた時、我が意を得たりと思った。良かった。今度は同じ昔のディズニー映画"砂漠は生きている"を思い出した(爆)。
 そして超絶恥ずかしいが、俺も中年になってから、それまでのイトーヨーカドー&西友ではなく、バナリパやGAPや時にBEAMSに着る物を買いに行くようになった。バブルに浮かれていたのは俺だったか。

☆功績2 呪縛からの解放
 この番組のおかけで「吉田拓郎ファンです」と学校・職場・世間に公言することが恥ずかしくなくなった(爆)。
 70年代中期までの破竹の勢いの時は「拓郎ファンです」という時は肩で風切るような、マウント取りに行くような気分があった。しかしその後、徐々に人前で「吉田拓郎のファンなんです」と口にすることが憚られるようになっていった。そんなことってあるだろう君たちだって。もちろん拓郎が悪いワケではない。しかし拓郎ファンと口にしたときの世間の人々の薄くてしかもその割にメンドクサイ反応を予想すると萎縮してしまうのだ。その点例えばサザンのファンは何も考えず臆することなく「サザン大好きですー はあと」とか公言できるのが羨ましかったな。
 仕事関係の打ち上げでたまに行くカラオケでも拓郎を歌う勇気などとてもなく、つい「光速エスパーのうた」とか「みなしごのバラード」を歌ってお茶を濁すようになっていた。>そっちの方が恥ずかしいだろ
 しかしLOVELOVE以降は「吉田拓郎ファンです」というときの世間の反応は無茶苦茶あたたかものになっていった。アナタ結構できる人ですね、みたいなレスペクトも入っていて気分が良かった。ありがたかったぞLOVELOVE。

☆功績3 視野が広がった
 LOVELOVEでは毎回アイドルから演歌まで時の老若男女のゲストが幅広く出演した。他の番組でも見かける人々なのだが、LOVELOVEに出たあとには特別妙な親近感を覚えるようになった。知り合いの知り合いみたいな感じか。吉田拓郎とトークを交わし、それだけでなく一緒にバンドで演奏して音楽を共にする。吉田拓郎という身体的フィルターを通じて自分にも身近に感じるようになった。そうじゃなきゃスピードとか嵐とか全く無関心だったはずだ。もちろん勝手な錯覚だったのだが、俺のような頑迷固陋な人間には、無関係と考えていた人や世界を、あらためて拓郎を通じて見直すこととなり、世界が少しだけ広がった気がした。

 そういう意味では「免罪符に頼るな教会派の者どもよ」というルターの改革は、我が心にも及んだのではないかと思うのだ。
                  そして最大の功績は…  つづく。

2021. 12. 25

☆☆聖なる歌に祝福を☆☆
 "クリスマスの約束"…小田和正の"流星"…びっくりしたな。拓郎がラジオで"クリ約"と言った時点で何かあると思うべきだったか。俺は油断していた。シンガーの歌を聴きながら後ろの椅子に座っている小田和正の姿ってバス停のベンチで待ってる爺ちゃんみたいだな〜…と悪態をつきながら観ていた。そこに突然の"流星"…とたんに正座して聴いた。すまん。わが罪をお許しください。あの声で、あんなふうに歌われると、あの歌はまた違った輝きを見せてくれる。きよしこの夜、星は流れちゃう。聖夜にありがとうございました。またいつか拓郎さん…のナレーションを楽しみにしております。

2021. 12. 24

☆☆☆愛と追憶のLOVELOVEA☆☆☆

☆松本隆の言葉
 LOVELOVEのきくちPのアーティスト・インタビュー本 (「音楽番組の楽屋でインタビュー!」)で、松本隆に対して“拓郎さんが『LOVRLOVEあいしてる』を始めた時、どう思われましたか?”と質問している。すると松本隆はこう答えた。
 「(拓郎に)半年…ぐらいしてもう止めればいいのにって言ったんだよ(笑)。自分を消費し過ぎるって…」…盟友にしてもそう心配ていたのだ。
 しかし松本隆の忠言に対して拓郎は「いや、これでいいんだ」とキッパリと答えたという。松本隆も後にそれから3年間以上も番組が続いたんだから凄いことだ語った。
 そのとおり、やがて音楽番組としてのクオリティとバラエティの明るさの両輪がうまくリンクしたこの番組は大人気番組となった。そして吉田拓郎は「過去の人」から「時の人」としてお茶の間の人気者になった。世間の冷ややかな反応も身内の心配も見事に跳ねのけてみせた。

☆転がる捨て石になれ
 その転機は何だったのだろうか。いつも胸に忍ばせていたという辞表をなぜ出さなかったのか。これまで、Kinkiの二人のおかげだと語ってはいたが、今回のオールナイトニッポンゴールド第21回の説明が一番明快だった。
「…僕は食べないで飲んでばかりだった。それを彼らが、「あきまへんがな、食べなはれ」と焼肉を置いてくれた。びっくりした。あの二人の何気ない「食べなはれ、あきまへん」という言葉。〜僕は心がダウンして泣きそうになった。」「キンキの心根、やさしさ、自然な行動、素直さに胸を打たれた。」
 …どんだけ孤独だったんだろうか。衝撃だったのは、その後だった。
「この二人のためだったら、捨て石になろう、成長していく二人をもっと大きな心で見守っていこうと感じた。それが50歳の吉田拓郎が新たに進むべき俺の道だった。番組では彼らの良きサポーターとして生きてゆくんだと決意した。」
 「捨て石」!! 日本の音楽史に輝くスーパースターであり神様である男が「捨て石」になると言う。すげえ。スーパースターが自ら捨て石になるなんて、そんな前例は聞いたことがない。これはまさに吉田拓郎の「革命」だと思う。

☆ マイ・ファミリー
 捨て石の覚悟からいろんなことが溶けだしたんだなと思う。オールナイトニッポンゴールド第7回ではこんなことも語っていた。
「彼らとのハワイは貴重な思い出だ。彼らもそうだろうと思う。それまで僕等の間のしっくりこないものが、一気に距離がなくなった。ホテルのビーチで星を見ながらいろいろ話た。みんなで番組を作るんだなという意識がひとつになった。たぶんありえないくらい素敵な一体感をKinki、シノハラ、スタッフが感じた一瞬だった」
 吉田拓郎の心が解けていくにつれて、番組が人気番組になっていたことがうかがえる。

 当時、消しゴム版画家のナンシー関が「なぜか『家長』と呼びたくない吉田拓郎」という題でLOVELOVEの番組評を書いていた(テレビ消灯時間3)。橋田寿賀子ファミリー、北島三郎ファミリー、小室哲哉ファミリーなど芸能界にはファミリーが多々あるが、LOVELOVEオールスターズを吉田拓郎ファミリーというのにはなぜか違和感がある…というもの。さすが天才ナンシーの直感。但し彼女がその文章の中で出した結論は違うと思うがそれはそれ。とにかく吉田拓郎には他のファミリーのように自分が親分になるつもりも、リーダーシップを発揮して率いていく気もさらさらなかった。ナンシーはそこに不思議な違和感を感じたのだろう。あれほどの大物が自ら「捨て石」や「サポーター」に徹している…そんな前例は観たことが無かったのだと思う。
 そして昨年のラジオではこうも語っていた。「年齢とキャリアに関係なく、真実trueで接することの大切さを知った。僕にとっても心の恩師だった。僕も様変わりした。」ボスが仕切るファミリーではなく本当の意味でのひとしく心通い合うファミリーだったのかもしれない。

☆神は必ず旅を許される
 …と、ここまでは美しく、誇らしい話だ。すまん。しかし、しかしだ。俺達ファンはどうなんだ。何十年も青春をかけてきたヒーローが、ある日何かの「捨て石」になってしまった時、ファンはどうすればいいのか。俺達もまた道端の小石になるしかないのか。前例がなく道なき道を行く歌手の場合、そのファンもまたいやおうなく前例なき道をゆかねばならないのだ。
 確かにLOVELOVEは革命だったと思う。しかし世界史では革命にもいろいろある。コンサートツアーやフォーライフ設立は、"市民革命"や"産業革命"という体制変革みたいなものだが、LOVELOVEの場合は…これは"ルターの宗教改革"みたいなものではないか。>意味わかんねぇよ。ファンであろうと免罪符によりかかっていた教会派が根こそぎ断罪されるような(爆)。LOVELOVEは私らファンにも心の革命を迫ってきていたのかもしれない。
                          ということで迷走しながら、たぶんつづく。

2021. 12. 22

☆☆☆翼よ、あれがLOVELOVEの灯だ@☆☆☆

 “LOVELOVEあいしてる”が始まると周囲のたくさんの人々(職場、友人、知人、親族、ご近所)から「拓郎さんテレビ出てますね」と声をかけられた。”地球ZIGZAG”とは違って、フジテレビの土曜日のプライムタイムにジャニーズ事務所が加わった威力はホントにすげえなと思ったものだ。
 そして声をかけしてくれた人々の声は概ね次の三点に集約されていた

 @テレビに出ない拓郎さんだったのに今頃なんで?
 A最初、拓郎さんだとはわからなかった(風貌が激変していた)
 Bなんで黙ってて何にも喋らないの?

 これはたぶん世間一般の感想だったのではないか。総じて、あ〜、珍しく昔の人が出てきたけど…老けたね、変わっちゃったねという感じで決して熱量のある反応ではなかったと思う。中にはテレビ出演拒否しときながら結局出るのかよという冷ややかな悪意も見え隠れしていたような気もする。被害妄想か。でも最初世間からは拓郎にはそんなに温かな風は吹いて無かったよね(爆)。

 拓バカファンとしては、毎週吉田拓郎が観られるのだからそれはすごい至福なのだが、単なる至福で終わらないのが拓郎ファンの宿命のようなものだ

 ファンにとって…というか俺個人にとっての吉田拓郎は、声良し、作品良し、ルックス良しの三位一体の確固不動のスターである。いろいろあるけど、やっぱ基本的には超絶カッコイイ人じゃん。それがいきなり当代きっての若き歌姫にガチャピンといわれてしまうと、ヘナヘナヘナ…それは拓郎ならずとも、ファンにとってもショックであんまし笑えなかった。

 特に言うまでもなくコンサートのMCもラジオの語りも天才的な上手さを持つ拓郎だが、なーぜかテレビに出るとそれが途端に氷漬けになってしまう、そんな歯がゆさが昔からあった。それがよりよってレギュラーでジャニーズやアイドルの宴の真っ只中に入り込んでしまったわけだ。
 毎回毎回、黙って俯いている拓郎を冷や冷やしながら観ていた。「ああ、そこだ、何か喋ってくれ」「ホラ、振られたぞ、ここで神の一声を!」と試合観戦のように手に汗握って観ていた。拓郎は以前にテレビの自分を”シャイシャイボーイ”といっていたが、むしろ前回のラジオで言っていた”ひ弱な少年”という側面のが近いかもしれない。
 とにかくアウェー感が半端なかった。それに、あたりまえだけど、宴の真ん中にいる中高生からみればファンの俺も相当なジジババなんだよなと思い知った。

 そんな中で例えば泉谷しげるの乱入は嬉しかったね。泉谷に後光がさして見えた。あれは絶対に救援に来てくれたんだよね。寡黙な拓郎を横に「バカ、おめーら、拓郎は喋りうめーんだぞ」と凄んでくれたときは涙が出そうだった。また明石家さんまが「おまえら拓郎さんがどんなに凄いか…君らで言えばジャニーさんだぞ」と啖呵を切ってくれたのも感激した。

 もちろん悪いことばかりじゃない。拓郎だから集められた高中正義はじめ豪華ミュージシャンが揃った生粋の音楽番組だったこと、毎週ギターを弾いてる拓郎の美しい立ち姿が観られること、そしてタイトルの「全部抱きしめて」も実にいい感じで、テーマ曲成功だった。特に毎回あの前奏はウキウキした気分にになった。

 ということで拓郎はいつも辞表を胸にいれていたという。実際、俺もきっと番組は早々に終わっちゃうだろうなと覚悟していた。もういいよ、とっととテレビ辞めて、せっかく2年間続いていたラス・カンケルらとの外人バンドツアーに戻って、あの音楽路線を深めて行ってくれよと何度も思った。

 しかしそのうち徐々にいろんなことに適応し馴染み始める…かのように見えた。静かに革命は潜行していたのである。

 …やっぱりわかったようで、わかんないよ吉田拓郎って。

                     ということでつづく。

2021. 12. 21

☆☆☆革命☆☆☆
 そうだった。フォーライフは革命だったよね。たかが中学生坊主の俺達にも革命の風塵がビシビシ飛んできていた。すげえなぁと眩しく仰ぎ観たものよ。
 別の意味で"LOVELOVEあいしてる"も革命だったと思う。こっちの革命はオッサンになった自分たちの足元が揺らぎかねない危うさもあった。LOVELOVEって何だったんだろうな。あってよかった、あるべきだったと今も確信しているが、それだけではおさまらない悲喜こもごもがあったような気がする。今さらどうでもいいじゃないかという意見もあろうが、どうやら来年吉田拓郎はLOVELOVEとともに大団円を迎えて終わってゆく感じのようだ。そのためにも自分の心を確かにしておこう。

2021. 12. 20


☆☆☆リストウォッチの秘密☆☆☆
 ショルダーバッグは買わなかったけれど、腕時計は毎日使っています。かれこれもう一年だ。時刻を確認するたびに"forever"の文字に密かにほくそ笑み、裏に掘られた"fromT"を思ってはニマニマする。俺に「今何時ですか?」と聞いてくれる人がもう無条件ですごい好き。

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2021. 12. 19

 神田沙也加さんの訃報は驚いた。もちろん何の関係もないし、ファンといえる距離でもないが、松田聖子と同学年というだけで、なんか知り合いの昔から知っている娘さんという気が勝手にしていた。実際、ずいぶん以前に松田聖子のライブに行ったとき、ちょうど沙也加さんのデビュー時でゲスト出演され母娘共演を観ていたのでひとしおそう感じる。その後、独り立ちしアナ雪を始め本当に素晴らしい歌唱力だなと思っていた。残念無念。ご冥福をお祈りします。松田聖子のことも俺が心配しても何にもならないが言葉がない。

☆☆☆デモテープ☆☆☆
 超私信ですが、ありがとうございました。深謝申し上げます。 
 前回に続いてのデモテープ、いいっすね。いよいよ始まった感が半端ない。昔のことを言ってもしょうがないとは思うが、いくつもの名アルバムがこんなかたちでメイキングの見え隠れにワクワクしながら始まっていった。
 “ローリング30”は、78年春の松本隆とのサイパン行レポートから始まって、夏にものすげーペースで曲が出来上がっていると盛り上がっていたロックウェルスタジオからのラジオ中継。こちらはあれこれ期待に悶絶しながら11月の完成発売に向って行った。まるで毎週楽しみな連ドラを観ているみたいな日々だった。

 “Shangri-la”のときは、ロス渡米の前に”いつか夜の雨が”、”街へ”、”帰らざる日々”のデモテープを聴かせてくれた。なんかセカセカ歌ってるだけで印象が薄い曲だと思った” いつか夜の雨が”が発表時には、すごいレゲエナンバーとしてガッツリと転生していて、さすが米帝やるもんだと驚いたりもした。これもドラマだったな。

 もちろん板塀の隙間から建築中の建物を覗くみたいに、ほんの僅かしか垣間見えないし、真実は想像も及ばないことだらけだろうが、”デモテープを聴かせたい方が勝ってしまう拓郎さん”とラジオという媒体のおかげで、既にラストアルバムを満喫し始めているわけである。それもこれも最後だよ。良い年になりますように。

2021. 12. 18

オールナイトニッポンゴールド  第21回 2021.12.17

☆☆☆あらすじ☆☆☆☆☆☆

 こんばんは吉田拓郎です。1年の終わりの12月、あっという間だった。いろいろ失うものたくさんあったし、個人的には精神的に得るものもあったし、学んだこともあったし、逆に困難な中に新しい何かが見えてきた。コロナという想定外の恐怖に晒されてきた。そして今またあらたなる感染の恐怖。勘弁してくれよという恐怖も同居している。苦難の道。日常の生活を変えざるを得ない。暗闇にいつになったら光が、これが見えぬままに今年が終わる人も多い。人間がこういう時置かれた立場からいかに非力な生き物と思い知らされた。
 僕等はまだまだ考えたり工夫したり学んだりしなくてはならないことも多い。勉強もたくさんした。こういう星に甘え過ぎた気もする。文明とか進化で驕り高ぶりがあるような気がする。僕の中にもある。それが見えてきた。反省すべきところは反省し正したい。そのうえで希望の明日を迎えて穏やかな自分と穏やかな社会でありたい。半歩でもいいから前へ進みたい。

 今日は盛りだくさん。ラストアルバムが、これがいい曲が書けるんだよ。いい詞、いいメロディー、いいアレンジが浮かぶんだ。自画自賛(笑)。とにかく前へ進んでいこうと思う。

 60年代にアメリカはベトナム戦争に嫌気がさしてきた。もう止めてくれという気分。人種差別が横行する社会に対しても黒人からもメッセージがたくさんあってオールアメリカになろう、肌の違い人種の違いを超えよう、そういう意味が込められている曲。戦争を止めよう、人種差別を止めよう。聴いていると心が熱くなって、熱い気持ちが目に出てくる。この心を今の僕らは思い出したい。こういう心を持ちたい。今の時代でもOKだ。こういう世界を心から願い求め作りたい、せっかく一度きりの生を受けているんだから。全世界で送っているんだから。

M-1 この素晴らしき世界  ルイ・アームストロング

    (強風で電車の見合わせ)

■ 今夜も自由気ままにお送りします、吉田拓郎のオールナイトニッポンゴールド

<喜多條さんの作詞した由紀さおりさんの”両国橋から” という投書>
由紀さんのはカバーなんだ。非常にうまく歌っているけれど。これは、70年代中頃、75年頃かな東映でデビューしていた松平純子さんに書いた曲。このころは自分のツアーで忙しくて、構わずやっていた。詞は誰かも考えず、いかにも拓郎という感じでテキトーにやっていた。松平純子のこともわからずに。詞は当時の喜多條忠らしい。思い出を捨てる場所、両国橋はいけないわ。
アレンジはライブ73のブラス隊のジャズ・サックス奏者の村岡健だった。ファンクでソウルなアレンジ。これを村岡健がアレンジしてくれたが、ブラスロックがどうという時代ではない。歌謡曲全盛の時代に、村岡健のメチャ、ブラスロックなアレンジは誰にもわかってくれなかった。今聴くといいよ。この時代の先を行っている、行き過ぎている。
曲も気に入っている。マイナーな感じが拓郎さんウマいな(笑)。自分で言うしかない。喜多條忠を偲んで、彼との処女作だったかもしれない。今頃、天国でボートレースにうつつを抜かしているはず。

M-2   両国橋   松平純子  

(CM)

 気分を変えておめでたい話。
< 菅田将暉さんがご結婚された、小松菜奈さんとお似合い、ラジオの最後に”人生を語らず”をかけて納得という投書>
 彼とは別に親しいわれじゃないけど、縁遠いというわけでもない、何かのご縁があって、遠からじ・・・遠くから祈っている。昔、ラジオでナイトという番組を始めた時、同時に菅田君もオールナイトニッポンを始めることで、一緒に発表共同記者会見をした。それが最初の出会いだった。
 それまで僕は菅田将暉を知らなかったし、読み方もわからなかったけど既にいろんな作品に出演していてヒーローだった。すらっとして背が高くて、甘くニヒルな魅力があり、印象的な雰囲気だった。物怖じしない印象が素敵だった。
 その後、フジのLOVELOVEあいしているのプロデューサーに、ゲストを二人で若い人と年配の人で誰かいますかと尋ねられて、若い人だったら先日お会いして魅力的だったんで菅田将暉君なんてどうかなと言った。プロデューサーはいいですねということで決まった。そしたら収録の客席、お父さん連れてきていて (笑)、あとで楽屋でお父さんからサインしてくれと言われた。菅田将暉のおめでたいニュース、よかったねと思う。
 菅田将暉君のお父さん、お父さんが吉田拓郎を好きだったという話、女優奈緒さんもお母さんが吉田拓郎を好きな影響で”今日までそして明日から”が好きだったという。吉田拓郎がらみで困った父母(笑)。そういう親たちのご縁で菅田君とも楽しかったし、奈緒さんはアルバムのイメージガールをお願いしている。まったく人生はやってみないと分からない。不思議の連続だな。それに今年は稲垣来泉ちゃんのイメージの詩とかもう振り回されている感じ。でも嬉しいよ。ほんと嬉しい。困った父母のおかげで、人生は不思議の連続だけど半歩でも前へ。菅田君おめでとう。

<そろそろ小田和正とのスイーツ会はどうでしょう、マリトッツオいかがでしょうか という投書>
 小田とはメッセージのやりとりしていて、今度のラストアルバムで一曲デュエットしよう→いい曲作れよ→まかしとけ、という感じだ。
 小田はクリ約頑張ってるな。キッチリしてるんだ。いろいろ注文もあって。前に出た時、この歌を一緒に歌おうと言うと、「またにしよう」と答えた。またっていつだよ(笑)お二人様スイーツ会は延期になっているけど、そのうちマリトッツォ食べながら他人の悪口を言う(笑)

(CM)
<新曲ありがとうございます、背中に手をそえてくれている、心の支えになる気がするという投書>
 ありがとう。ワンコーラスだけだったけれどツーコーラスに展開がある。
<新曲カッコいい、LP盤は鶴見区の東洋化成で作るのでしょうかという投書>
 東洋化成は有名な会社でミュージシャンならみんな知っている。レコード盤は殆どがそうだった。懐かしいな。あそこの社員も何人か知っていてお世話になった。

 前回の曲は「雨の中で歌った」というタイトル。アメリカの5,60年代のソウルがルーツで広島のバンド時代ではよく演奏していた感じからヒントを得た。

 歌詞の内容は秘密だけど、二人が若い時には走ったことがあったよね、理由なんかなく、若い時、雨の中を駆けようよと走ったという二人。その彼女が天国に召された。残った彼が雨の日に町中に出て意味のない行動だったけど若い時に一緒に走ったよね。僕は今日も雨の中で一人であの日を思い出している…という歌。

 本当にどうしちゃったんだという拓郎さん、武部、鳥山からも絶賛されている。アイデアがいろいろ湧いてくる。僕にしては言葉とメロディーが同時に浮かんでくる。ギター持つとあれっとするコード進行が浮かんでくるし、パソコンに向かうとアレンジが浮かんでくる。ブラスアレンジとか、とにかく好きなことをやりたい。絶好調なんだよ(笑)。
 今月も聴かせてやろう。もう一度いうけどネットに乗せるなよ。「ショルダーバッグの秘密」という歌。デモテープだけど鳥山、武部も入っているカッコイイロックンロール。ボーカルだけは仮歌だけど。
 ショルダーバッグの中を覗くたびに秘密が隠れている。
 コンサートチケットのファンクラブの解散前にグッズでデザインしたショルダーバッグがあった。シャツや時計とかいろいろデザインに関わった。どうなの?使っているのかい?
 僕も病院やヘアカットに行くときショルダーバッグを持ってゆくが、開けるたびにニヤッとする。これはカッコイイ、ロックンロールだ。
 聴かせるのは惜しいけどかけたいよ・・・というのもある。吉田拓郎さんはこういう人です。デモテープで鳥山に「イケてますね」と言われて、こういう感じで弾くんだぞというと「わかってまんがな」。

 Kinkiや音楽人生の後半を支えてくれた飯田久彦の話とかを後でする。

M-3  ショルダーバックの秘密     吉田拓郎

(鉄道運転再開)
 今回のラストアルバムに協力してくれている KinKi。タイトル文字を光一にお願いした。「字も絵もヘタだし歌とかはどうか」と言っていたけどお前の自筆で書いてくれればいいんだから、というと「わかりました」と答えてくれた。少し投げやりだったけれど。剛はアレンジを頼んで、彼のバンドでアレンジしてくれる。 KinKiを愛して心から親友と思っている。

 かつてLOVELOVEの頃、彼らは20歳まえたったけど、収録が終わるのが、9時、10時だったのでよく焼肉屋に行っていた。僕は50歳であまり食べないで飲んでばかりだった。それを彼らが「あきまへんがな、食べなはれ」と焼肉を置いてくれた。びっくりした。あの二人の何気ない「食べなはれ、あきまへん」という言葉。既に50歳で若者が大嫌いで、へでもなかった僕は、心がダウンして泣きそうになった。
 自分が無礼なオトナだ、心が狭過ぎるのではないかと思った瞬間だった。そういう若者がいるとは思わなかったんだ。若者アレルギーを持っていたし、渋谷とか歩いていても蹴りいれたいと思っていた。
  KinKiの心根、やさしさ、自然な行動、素直さに胸を打たれた。この二人のためだったら、捨て石になろう、成長していく二人をもっと大きな心で見守っていこうと感じた。50歳の吉田拓郎が新たに進むべき俺の道だった。番組では彼らの良きサポーターとして生きてゆくんだと決意した。

 堂本剛は、僕の偏見だけど、この人は僕が10代の頃、身体が弱かった頃を彷彿とさせるひ弱な少年のようだった。僕自身がそうだった。どうしてこういう業界に足突っ込んでいるのかという不思議な感じだった。
 一か所だけ違うところは、彼はずいぶんいろんなことに目が届いていた。僕は自分のことし考えられない少年だったけど、剛はこの年齢で、ずいぶん目が行き届いている。さりげなく気をきかせている。それが僕の目には印象的だった。これはできないよ。もの静かで多くは語らない、その場の現実と風景を観ていて自分なりにどう対応すべきかを判断している。印象的だった。ひ弱だけれど非常にしっかりしている。人の話を聞いているときも相手の目に入ってきそうな目で見つめ、心で察知する。子どもころの感性、身体弱い子にありがち。堂本剛は詞でも書いてみたらと思った。作詞の世界に入ってみたらと思う。

(CM)

■ 11時

 佳代)本当に起きたくない
 拓郎)朝だ今日も頑張ろうとか思わない?
 佳代)そういうことは一回もない
 拓郎)今日は学校で誰かと会って楽しみだなとか思わない?
 佳代)思わない
 拓郎)朝はどう思っているの
 佳代)起きたくない なんで起きなきゃいけないの

 番組ではハワイ、オーストラリア、沖縄、軽井沢いろんなところに行った。光一はワイワイという社交性があるけれど、剛はそばにいるけど輪っかの中には入ってこない。剛は1メートルくらい輪っかの傍で、笑いながら見学している。こういう距離感、1メートル正しい距離感だと思う。僕は酔うとすぐにスキンシップを取りたくなる。志村けんの耳を噛んだこともある。男でもキスしたり抱きしめたりすることがある。光一はハグしようがお構いなし。昔の写真取ってあるけれどやたら光一を抱きしめてる写真が多い。剛は少し離れてたんだ(笑)。

 光一は意外性だね。イメージからすると意外な男。美形少年だったし、今でもそうだ。彼は男らしい。行動的だし、活発だし、凧にも乗るし、イルカと遊ぶ。僕と剛は絶対しないね。
 その場その場でテキトーなことをうまくやれる。でも本当は、不機嫌なことが顔に出る。上機嫌と不機嫌が瞬間移動している。本能のままに生きている。自然体でいようとしている。僕にはわかる。今は不機嫌、このゲスト嫌だと言うのもわかる。激しいものを心にもっている。気乗りしないゲストもいる。剛は実に平等な感じで接しているが、光一は、あかんがなというところがある。でも本番は見事にやるんだな。オヤジの僕はあっけにとられるだけ。数年前のLOVELOVEも久しぶりの収録だったけれど、二人とも何にも変わっていない。年齢があがっただけ。客席も昔は中学生だったけれど、来年だったらピチピチした拍手が湿り気の多い拍手になっているのではないか。
  KinKiは、別の扉を開けてくれた。もしあの二人と出会ってなかったらどうだったろう。何もかも変わったあの番組が分岐点だ。歳をとってからカジュアルファッションを考えるようになったし、生きる楽しさを教えられた。 KinKiの横にいる吉田拓郎、彼らをカッコ良くみせるためにここにいるのだから、勝手なジジイになるわけにはいかない。それは彼らの足を引っ張ることになる。光一と剛が人生を導いてくれた。だから今度のアルバムは、そういう気持ちをこめて書いている。

M-4   全部抱きしめて    KinKi Kids

(CM)

 ラストアルバムのLPのジャケットに協力してくれる奈緒さん。某有名男優が「拓郎さん、女優はひとつの生き物で、男と女と女優がいる」と語った。女優は独特の世界観があって、男優にはない意地っ張りが生きている。全員そうだと思った。僕なんかは、最後には結婚までしてしまった。これがわかる気がする。女優独特のポジション。強烈なインパクト。あの撮影現場は絶対に観ている人に理解できない。過酷な状況でロケ現場は想像を絶する。そういう環境で演技をするのは一筋縄ではいかない精神が必要だ。色っぽいチャーミングなんて撮影現場では言ってられない。そんな環境ではない。度胸のあるたくましさ。音楽人よりは明らかにたくましいと思う。タフだ。
 奈緒さんは女優として乗りに乗っている。当然の如くスケジュールも詰まっている。先日も最優秀新人賞を受賞してすばらしい。
 どうなの?怖いな(笑)>会いたくないな〜、きっと精神状態も大変だろうし、時間のある時に撮影したいな。怖いな。確認したら来年の春頃、その頃は忙しいそうだ。ピリピリして怖い絶頂だろうな。僕は一匹の女優という生き物を身をもって知っている。来年は、その女優という生き物だったら、おおこわ(笑)。素敵な写真を期待しています。お会いしたことのない彼女のイメージはこの曲。

M-5   ビリー・ジーン  マイケル・ジャクソン

(CM)

 LP盤の全体のデザインは篠原ともえに頼んだ。初めて会ったときは心の底からマイナスの意味でまいりました。当時は若い人が嫌いだった。いきなり楽屋に訪ねてきて、「仲良くしましょうねグフフ」と言われたとき、コイツ帰れ!思い、どうしようかと思った。あっち行けという感じで、プロデューサーに外してくれと言いたいと思っていた。もっと苦手なタイプだった。「すぐ慣れますよ」と言われたが、そういう波瀾含みでスタートした番組だった。

 第一回が安室奈美恵だった。音楽とか知っていたから会えると思うと嬉しかった。しかし、拓郎さんはガチャピンに似ていると言われてももう恥ずかしくて。ガチャピンって言われたのは初めてで、俺もう辞めるはと思った。必ず胸に辞表をもって続けていて、みんな吉田拓郎が来なくなるんじゃないかと心配していたらしい。毎回収録の時ブロデューサーが玄関で待っていた。そういう心配ごとを抱えてスタートしたのにあんな番組に化けたんだ。
 シノハラはペースを掴むのが速かった。臆することなく立ち位置を確立して一本立ちしていた。シノラーをカメラの前では演じている。
 実に賢い。それが見えてくる。途中からかわいい、愛おしい存在になった。本格的デザイナーとなってユーミンもやったりしていた。結局、吉田拓郎が一番わかっていなかった。ハワイではとっても素敵でとっても幸せで見事な一体感を感じた。その時のことを篠原ともえが詞を書いた。

M-6   僕の大好きな場所    吉田拓郎
(CM)

 フォーライフ退社後の音楽人生をサポートしてくれたのが飯田久彦さん。フォーライフを見切りをつけてやめる時、ビクターのディレクターの飯田さんがテイチクの社長になるというニュースを観た。当時は歌手で、すばらしいヒットを出していた。デルシャノンとかをカバーしていた。そこから興味があって、ちょっとしわがれた声で、アイドルチックでもないし、素敵なルックスでもない(笑)。その後、飯田久彦さんはディレクターになって、当時の「スター誕生」とかをたまに見ていると、最後にプラカードを上げる人の中に、ああ飯田久彦さんだと思った。阿久悠とか審査員たちの中でヒットするものがあった。自分も一介の歌手から社長になった。他人事じゃない。会って話したくなった。一度お会いしたいなということで、話しているうちに人気歌手が残っている。気分が社長というより。音楽好き ぷんぷんの音楽好きの匂いがした。企業社長としてはあれだけど愛すべきチャコ・・・桑田の「チャコの海岸物語」はこれだったのかな?ビクターだもんね。
インペリアルにいれてもらっていろんなサポートをしてもらった。エイベックスに移籍するというのでついてゆきます、チャコと音楽人生を全うしようと考えた。来年のラストアルバムが最後のプロデュースになる。感謝の気持ちをこめて。

M-7 悲しき街角    飯田久彦


(CM)

■エンディング

 スウェーデンの言い伝えに
  常に未来に備えるべし、備えとはおのれを簡素にすべし
 とある。

 スウェーデンというと豊かな暮らしだけれど、税金は高い、夏が短い、冬への備えが大切だ。買いこんで買いだめではなくよりシンブルに簡素に備える。シンプルがもっとも難しい。買いあさり買いだめ。無駄使い僕こそがそういう日本人だ。いかんなー。

 来年は1月14日放送だ。

M-8 天使のささやき スリーディグリーズ

☆☆☆思いつきと感想☆☆☆☆☆☆

「番組の途中ですが」じゃねぇよっ! 「ショルダーバックの秘密」の途中だぞ! たとえ日本が北海道と九州を残して沈没している最中だとしても、ニュースを流すのはそこじゃない(怒)

☆「絶好調」。なんという嬉しい響きだろうか。曲がどんどんできてしまうと当惑気味に語っていた「ローリング30」のレコーディング中継のラジオを思い出した。そうか。「まかせとけ」なのか。本当にまかせたぞ。魂の底から期待しているぞ。

☆もう久々にラジオでいちはやくデモテープを流してしまう吉田拓郎が健在で嬉しい。詞は秘密だといいながら設定を全部話してしまうところもナイスだぜ。その胸に溢るる思いをファンにおすそわけてしくれる拓郎。昔からそういうところが大好きでした。

☆「この素晴らしき世界」が番組でかかるのは何度目だろうか。俺の中ではこの名曲はすっかり吉田拓郎と不即不離になってしまった。ビリー・ヴォーンの”星を求めて”とともに吉田拓郎のテーマ曲のようだ。 いや勝手にもうテーマ曲認定する。

☆師匠の恩人はまた恩人である。なので俺ごときでも光一君と剛君に対しては感謝のような敬意のような親しみのような特別な思いがある。彼らが拓郎と出会ったればこそ、今の拓郎ファンの自分もある。
 二人が素晴らしい才能と気質の持主とはいえ、やはり拓郎ファンの俺から見れば、そこまで二人の少年を深く見つめ見極めていた吉田拓郎という人の物語の美しさなのである。
 50歳を迎えてさまよえる冬の時代に、功成り名を遂げ神様とまで崇められていた吉田拓郎が、10代の少年たちと真摯に向き合い、学び、進んでいったこと。うんにゃ、捨て石となり彼らのサポートに徹しよう、それこそが自分の道だ…とそこまでの決意をしたことの凄さ。それは吉田拓郎の素晴らしさでありファンとしては誇らしく思うと同時に、なんて業の深い、深すぎる人なのだろうかと戸惑いもする。
 「この素晴らしき世界」にはこんなくだりがある。 このままなのかもしれない。
 I watch them grow
 They’ll learn much more
 Than I’ll ever know
 And I think to myself
 What a wonderful world

 彼らは大きくなって
 多くの事を学ぶだろう
 僕が知り得る事以上に
 そして僕はひとり思う
 なんて素晴らしい世界なんだ

☆俺も由紀さおりの「両国橋」に聴きなれてしまったが、松平純子のアレンジは確かにすげーなー。うっかりするとミスマッチに思えるくらい凄い演奏だ。そこがまたいい。そうか、これが喜多條との初コンビなのか。確かに"いつか街で会ったなら"、"風の街"よりも発売が早い。
☆おそらく俺には想像もつかない万感の思いはおありだろうが、両国橋とはイキな喜多條忠との別れだった。
☆中村雅俊との「お喋り道楽」を思い出す。女優さんは、何十人もの現場を率いなくてはならないことで男優よりも男らしくたくましくなってゆくという話だったか。

☆飯田久彦さんに敬意を表して"ポーの歌"をかけたら凄かったのに。ダメか。

☆☆今日の学び☆☆
 魂のテーマ曲。「この素晴らしい世界」をちゃんと学んでおきたい。

I see trees of green
Red roses too
I see them bloom
For me and you
And I think to myself
What a wonderful world
緑の木々が見える
赤いバラも
咲いているんだ
僕と君のために
そしてひとり思う
なんて素晴らしい世界なんだ

I see skies of blue
And clouds of white
The bright blessed day
The dark sacred night
And I think to myself
What a wonderful world
青い空が見える
そして白い雲も
輝き祝福された日
暗く神聖な夜
そしてひとり思う
なんて素晴らしい世界なんだ

The colors of the rainbow
So pretty in the sky
Are also on the faces
Of people going by
I see friends shaking hands
Saying, “How do you do?”
They’re really saying
“I love you”
虹の色は
空で綺麗に見えるけど
通り過ぎる人々の
表情にもその美しさがある
友達同士が握手してる
「ごきげんよう」と言いながら
彼らは本当はこう言ってる
「愛してます」って

I hear babies cry
I watch them grow
They’ll learn much more
Than I’ll ever know
And I think to myself
What a wonderful world
赤ちゃんが泣いている
彼らは大きくなって
多くの事を学ぶだろう
僕が知り得る事以上に
そして僕はひとり思う
なんて素晴らしい世界なんだ
Yes, I think to myself
What a wonderful world
そう 僕はひとり思う
なんて素晴らしい世界なんだ


この吉田拓郎のいる素晴らしい世界が来年もいっそう素晴らしくありますように。

2021. 12. 17

☆☆トマト☆☆
 洋書だけど書店で衝動買いしてしまった"コルレオーネ・ファミリー・クックブック"。映画ゴッドファーザーに登場する料理のレシピ本。
 あった、あったクレメンツァのトマトソース。クレメンツァ。吉田拓郎がビトー・コルレオーネだとすると陣山俊一さんみたいなポジションだ。まさか後にファミリーのボスになるとは思ってもみなかったカタギの三男のマイケルに「これ覚えとくと便利だぜ」とクレメンツァがトマトのミートソースの作り方を手際よく教えるいいシーン。うまそうだ。
 トマトソースといえば拓郎は「ラジオでナイト第41回 2018.1.28」、「冬に食べたいものはなんですかと言う質問には、トマトのパスタ。ウチの人が作ってくれるトマトパスタ。」「新鮮トマトと缶トマトの混ぜ具合が微妙らしい」、「とにかくトマト・パスタが好きだ。」と語っていた。ほーら、もう食べたくなる。
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2021. 12. 16

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☆☆☆さよなら宗谷☆☆☆
 南極観測船"宗谷"の前を通るお台場の仕事もおしまい。もうお台場も滅多なことでは来ないだろう。こういう空を観るといつもデタントの裏表紙のような空だと思う。♪夜明けに目覚めて飛ぼうとすれば〜

2021. 12. 14

☆☆☆番付番外編・僕の本当に好きな歌は☆☆☆
 名曲”僕の一番好きな歌は”。あの凄絶なシャウトを忘れたわけではない。ただ、あれは公式収録曲ではないライブだけの弾き語りナンバーだし…ということで入れなかったのだが、よく考えると意味がわからない。俺はレコード会社の人間でもスタッフでも評論家でもない。ただのイカレた一ファンだ。なぜそんな遠慮をする。
 最近のラジオで、拓郎が弾き語り好きファンをツマンナイと言い、ファンの未収録曲への熱い思いに対しレコードにしなかったのは良くないと判断したからだと断じた。知らず知らずにそこに忖度したのだと思う。いかん。我ながら情けない。もちろん拓郎のアーティストとしての思いは思いとして大切だが、ファンにはそれぞれのファンの思いがある。今流にいえば、それぞれのかけがえのない青い空がある。”僕の一番好きな歌は”…この凄絶なシャウトに魂を奪われ、これを錦の御旗に掲げて、いろんな日常の敵…まぁ俺の場合はそんなに大したものじゃなかったけどさ、そういうものと自分なりに戦いながら篠島に向ったのである。
 そこまで忖度する必要はない。ということですまなかった。たぶん「証明」と同格以上で、東の関脇、あるいは大関あたりに来場所は昇進していただきたい。ということで懺悔の気持ちをこめて聴く。 http://tylife.jp/uramado/bokunoichiban.html

2021. 12. 13

☆☆わが心のシャウト番付D(終)怒涛の前頭☆☆☆
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〇東 前頭筆頭 この指とまれ
 ラストツアーでも歌われた”この指とまれ”。この歌の出自を語ると御大に怒られるのでもう言いますまい。やはりライブでのラストのリフレインのシャウトが特筆ものです。音源で言えば王様達のハイキング82〜One Last Night85あたりが絶品です。怒りがどんどん高まっていって最後にバーストするシャウトが美しい。そうとも!くたばれハンド・イン・ハンド!!>ってだからそれを言うなよっ!

〇西 前頭筆頭  ローリング30
 この重量級の武骨なシャウトが生きる支えとなった人はきっとたくさんいるに違いありません。もちろん私もです。30代の歌ながら、ついてくる世代である10代、20代にとっての大切なよりどころでもありました。この歌のおかけで私たちはいくつになろうと永遠の30歳を生きつづけるのです。おお、なんか良いこと言った気がするぞ(爆)。そしてこのシャウトはこの曲にとどまらず、大いなるステージの始まりの前哨曲、狼煙でもあります。まさに「前頭筆頭」にふさわしい。反射的にアドレナリンが分泌し戦闘開始状態になるというものです。人によっては漁船の群れが目にチラついて離れないという方もおります。とにかく偉大なる煽情力を持ったシャウトです。

〇東 前頭二枚目  やせっぽちのブルース
 ここ数年、毎月のラジオのたびに厳しく念押しされる「俺はフォークじゃない」「俺はR&Bだ」…このシャウトはデビューアルバムに刻印されたそのための布石であり、伏線であり、証拠でもあるといえましょう。あいそつくまで付き合いましょう。

〇西 前頭二枚目 子供に
  “今は眠れ、君が今人生に欠席しても誰も咎めない”〜魂のシャウトのリフレイン。ライブだとこれがまたすんごいシャウトなのです。泣けます。ご本人かどう言われようとライブの73完全版を求めてやまない理由のひとつがここにあります。

〇東 前頭三枚目 春を呼べU
 春を呼べぇ〜春を呼べぇええええのリフレインのシャウト(王様達のハイキング)で、もう勢い余ってしまって、最後に※×≧▽εφ□!!と聴き取れないフレーズをシャウトしちゃうところが特に萌えます。

〇西 前頭三枚目 愛してるよ
 「愛してるよ」こんなシンプルなフレーズを、こんなに気持ちよくシャウトされてしまうと「俺も愛してるよ」と叫ぶしかありません。君を一瞬そして永遠に。

〇東 前頭四枚目 たどり着いたらいつも雨降り
  “ああ、ここもやっぱり土砂降りだ”、「元気です」ではフォークカントリー調(怒らないでね)だけれども、FM東京で放送されたつま恋75のラストステージの瀬尾ビッグバンドによるロックバージョンは天下無敵です。このシャウトこそ本家本元です。この曲のシャウトを鈴木ヒロミツだけのものにしておくわけにはいきません。

〇西 前頭四枚目   君去りし後
 "てんで、はっぴいになれないんだよ〜"のシャウトが繰り返えされながらなだれ込んでゆく必殺パターンもあって無敵と申せましょう。

〇東 前頭五枚目 大阪行きは何番ホーム
 One Last Nightで♪家を捨てたんじゃなかったのかぁあぁぁとシャウトしながら身体を揺らしながら左右に傾ぐ瞬間が萌え昇天ポイントです。心の底から思いがつのってきている感が最高です。

〇西 前頭五枚目 パーフェクトブルー
 本来三役クラスを狙えるすんばらしいシャウトなのですが、@傷ついた鳩を投げ捨てたAタクシーの運転手に暴言を吐いたB深夜に女性の家に押しかけたなどなどの問題によって謹慎中(爆)です。

〇東 前頭六枚目 家へ帰ろう
 2004年のビッグバンドではオリジナルと別の曲かと思ったほどすげぇシャウトをして驚かされました。どんだけ家に帰りたいんだ…いや、どれだけ心境の深まりがあったのか、心の底からのシャウトの威力が忘れられずに前頭六枚目に。

〇西 前頭六枚目 ひらひら
 TAKURO TOUR1979の”お笑い草だ、お笑い草だ〜”"用心しろよ、用心しろよ"のあとの「あああああああ」のシャウト。鳥肌。やはりワンポイントなれど捨て置けない。

〇東 前頭七枚目  純
 “どけどけどけ情を無くしたヤツはどけぇ!”、CLUB MAHAROで聴かせてくれた仮歌では、思いっきりシャウトしていました。なぜか本番でもライブでもシャウトは抑え目。ここは是非シャウト一発で!という期待を込めて前頭に選出しました。

〇西 前頭七枚目  外は白い雪の夜
 音源で言えばアルバム”王様達のハイキング”のバージョン。4番のなだれうつ直前。
 ※島村英二のドラムロール
      ドゥドゥルルルルルルル〜
  席をぉぉぉぉ立つのはぁぁぁぁあなたからぁぁぁ〜

  ここ一点でございます。


☆☆さらば2021☆☆☆
 我が心のシャウト…なので、ただの個人の嗜好に過ぎません。いろいろ文句もありましょうがここは卯辰山相撲場ではないので何卒ご容赦ください。もっとすげぇシャウトがあったり、もっと違う序列があったら、あなたの心のシャウトをいつか教えてください。

 あらためて吉田拓郎のシャウトは素晴らしいよねぇ。ただの熱狂・興奮だけではなく、怒り、喜び、愛と哀しみ、固い決心…あらゆるものをシャウトによって表現しうる稀有のシンガーであります。
 
  2022年、私たちは新たなるシャウトに出会えるのでしょうか。

 今年もこのしょーもないサイトを生かしておいてくださりありがとうございました。来年が吉田拓郎さんとファンの私たちにとって最良の年でありますよう心からお祈り申し上げます。皆様、くれぐれもお身体大切にご自愛ください。良いお年をお迎えください。
 ‥‥明日からもまた書くけどさ(爆)

2021. 12. 11

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 去年までのSeason Greetingが無くなって初めての12月。こんなハガキ一枚でオイラをナメちゃいけねぇよと思っていたが。来なくなってしまうとものすげー寂しい。寂しさが心の扉を叩くまで人はそれまでの幸せに気づかないんだね。


☆☆わが心のシャウト番付C番付編成会議・小結☆☆
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〇東 小結  僕の唄はサヨナラだけ
 泣ける歌場所の時に、身近からTOUR79の弾き語りバージョンの強い推挙があって聴き直し審議しました。ああ、あらためてこりゃあすげーシャウトばい…ということで本場所での昇進が決まりました。もちろん原曲のフルバンドの分厚いブルース&ロックは不滅の名作であります。しかし弾き語りは、バンド分を全部一人でフルチャージしなくてはならないという拓郎の気合が横溢して、シャウトの爆発がもの凄いことになっています。ブルースの原液をいきなり飲まされたような感じです。シャウトにおいても涙においても無敵です。
 ところで吉田拓郎は、こよなくバンドサウンドを愛していますが、いざとなったら俺一人で乗り越えてみせるという不敵な自信も持ち合わせている気がします。ん〜もうカッコイイんだから。

〇東 小結  長い雨の後に
 ご本人がこの曲をどう思っておられるのかはわかりません。俺ごときが多くを語るまい。語るまいとは思うが、この愛と哀しみに満ちた絶妙なシャウトを番付外とすることはできません。それほどの逸品です。もう愛の不時着。そういうくだらねーゴタクを言わずに、そっとこのシャウトの美しさに涙せん。

〇西 小結 また会おう
 名盤アルバム「元気です」の中にあって、唯一ロックの牙城を守り通している。タイトなロック演奏に、張り合う拓郎のシャウトの素晴らしさ。今になって聴き直すと、このシャウトはどこかまだ青く生硬ですが青い蜜柑のような刺激的な酸っぱさが漂います。
 高中正義のギターが唸る1972年のコンサートツアーのライブ映像が残されているが、こっちはより戦闘的なシャウトになっています。80年代以降のシャウトで歌ったらもっと違っていたのではないかと悔やまれます。ライブで磨かれて先鋭化されてゆくシャウト。これはキレイに裏切ったりしない。いつだって感動の斧を打ち込んでくれるということで小結。

〇西 小結 ロンリーストリートキャフェ
 ワンワンと共鳴する最悪の音環境、マナーの悪いスポンサーの招待客たち(特に俺の隣に座っていた見知らぬクソガキお子さまたち)、演奏中に平気でゾロゾロと通路を徘徊する連中、寸止め感いっぱいの新曲中心のセットリスト…などなどいろいろ裏目展開の東京ドームのライブ。これを9回裏の逆転の一発打で救ったのはこのシャウトだった。弾き語りだったら何万人でも倒してみせると豪語した弾き語りの封印をここで解いてみせた。実に80年秋から9年ぶりだった。お見事。♪だぁ〜れからもぉ〜のシャウトの時、桟敷席からかかる”イェイ!”も絶妙だ。 
 同じ小結の「また会おう」のまっすぐなシャウトから20年、自在な技を身に着けた成熟したシャウトを感じる。拓郎にシャウトされれば、それがさだまさしの詞だろうが、般若心経だろうが、土井善晴先生の和食レシピだろうが、俺は感動して泣く自身がある。どうだっ>どうだじゃねぇよ

 …すまん番付編成会議という設定がどっか行ってしまっている。次回は最終回、前頭。

2021. 12. 10


 「落陽」はシャウトなんだろうか。そんなことで躓いております。ま、しょせんただの個人の勝手な感想だからいいんだけどさ。あと関脇が多すぎないか、大相撲でもこんなにいないだろうと悩みましたが、歴史上では5人関脇時代があったようだ。

☆☆わが心のシャウト番付B関脇番付編成会議☆☆
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〇東 関脇  証明
 何度聴いても素晴らしいシャウトです。よくもまぁこんな絶品のシャウトをB面に入れたまま長期間放っておいたものです。そんなに弾き語りが憎いのでしょうか(爆)。誰もこれを聴いてフォークソングなどと言いますまい。それにロックシンガーだろうとブルースシンガーだろうと、これ以上の魂のシャウトができるもんならやってみろと言いたいところです。
 “闘えるだけでいいすべてを燃やせ 負け犬になったら路地へと潜り込め” …たまらないです。

〇東 関脇 やっと気づいて
 アルバム”人間なんて”の中でも何か重た過ぎてスルーされがち(当サイト調べ)なこの曲、しかもライブでも聴いたことが無い。果たして三役でいいのか議論がありました。しかしこの若竹がしなるような瑞々しいシャウトの美しいこと。少し青臭さが残るこの若きシャウトが百戦錬磨を経てかくも素晴らしい横綱、三役級のシャウトに熟成していったことを考えれば、やはり歴史の原点であり、堂々たる関脇シャウトと言って良いでしょう。

〇西 関脇  晩餐
 夕食のテレビの話で何故こんなにシャウトするのか。情景のスケールの小ささとシャウトの激しさのミスマッチを指摘する向きもあります。しかし岡本おさみの内なる葛藤を拓郎はきちんと捉えてかくもハードなナンバーとして体現したと思われます。
 かつて戦争反対の闘争に身を投じた自分が、今は家で、戦車が運ばれているというキナ臭いテレビのニュースを観ながら平然と夕飯を食べている。それでいいのか。いや、ただのテレビのニュースじゃないか。心の中でせめぎあう葛藤と懊悩。その心の中に抑え込もうする嵐を”叫び”として表出している。拓郎の天性のセンスを感じます。いいシャウトだわ。

〇西 関脇  からっ風のブルース
 最近、ドリカムの中村氏からファンクとして絶賛認定を受けたことが記憶に新しい。その意味で上り坂にあるファンキーなシャウトと申せましょう。からみついてくるような妖艶なエロスムンムンのおねーちゃんたちのコーラス。それを突き抜けるようなシャウトが絶妙ですんばらしい。それにしても”安いベッドでキスして遊ぼう、それからアレも”…なんてことをシャウトするんでしょう。中学生の頃、家では恥ずかしくて大音量ではかけられなかったものです。

〇西 関脇  狼のブルース
 「歌は暴力だ」というキャッチのもとに演奏されたこの曲。荒くれ暴走シャウトは安定の実力です。さすがにこういう「族」な世界を描くと微妙にピントがずれている松本隆のイマイチな詞ですが、それをロックなメロディーと天性のシャウトで文字通り疾走させてしまうところが吉田拓郎の凄さです。個人的には、篠島ライブの映像のバージョンがスピード感あるシャウトでベストではないかと思います。

        いや拓郎のシャウトって本当に素晴らしいですね。明日は小結。

2021. 12. 8

 知らない人の知らない友達との話なのに、え、どうしてなんだろう、まるで俺もそこで過ごしたような気分になる。そこに「吉田拓郎」がいたからだな。きっとファンの数だけ青い空があってカッコイイ吉田拓郎がいるんだよな。ということで青い空、楽しみにしています。

で、シャウトだよ、人生は>知らねーよ

☆☆わが心のシャウト番付A大関番付編成会議☆☆
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〇東 大関  ファミリー
 これも「人間なんて」の後継曲として期待されましたが結局「アジアの片隅で」の方がメインストリームになりました。「人間なんて」のシャウトが狂熱ならば、「アジアの片隅で」のシャウトは怒りと苛立ち、そしてこの「ファミリー」のシャウトには身の置き所のない悲しみが満ちています。中盤のピアノのブレイクから立ち上がっていくシャウトが超絶燃えます。ビデオに残された85年つま恋でのシャウトっぷりは圧巻。大関の名に恥じない。てか綱取りを目指してくだされ。どうすりゃいいのかわかんないけど。

〇東 大関   お前が欲しいだけ
 拓郎のシャウトには聴いてる俺も元気出して頑張ろうと身が引き締まるものが多いです。しかし、このシャウトは、めんどくせーそんなことやめて酒と愛欲の海に溺れちまおうという自堕落な気分にさせられます。もうデカダンス感が半端ない。不良系の色香がムンムンと漂う。これもまた吉田拓郎のシャウトの偉大なチカラなのであります。曲としての好き嫌いは別として拓郎のシャウトは単なる薄っぺらな応援歌とは違うことを教えてくれます。それにまた国立競技場でオフコースをバックという大一番にシャウトされました。なんでその曲だったんだよ、というツッコミは別にしても大関としての地位に値する歴史的功績といえましょう。

〇西 大関   望みを捨てろ
 “妻と子だけは温めたい”、”我が家だけは守りたい”、”最後は嫌でも一人”、”望みを捨てろ”…思い切りネガティブでヘタレなフレーズが、不思議なことに拓郎のシャウト一発、なんかものすげーポジティブなメッセージに聴こえます。なぜか胸が高鳴り出します。いかに吉田拓郎のシャウトの威神力がものすごいかを証明していると申せましょう。

〇西 大関   されど私の人生
 このシャウトも絶品。代表格は、75年つま恋の1人対5万人の伝説の弾き語り。このシャウトが一気に5万人を制圧する光景を生で観たかったです。「よくやったと自分を褒めてやりたい」と拓郎自ら絶賛するだけのことがあります。
 もうひとつは79年篠島のwith松任谷バンド。ジェイク・コンセプシオンの唸るサックスとガチのバトルを繰り広げる凄絶なシャウト。まさに魂のシャウトのお手本のようです。もう無形文化財ごっつぁんです。

〇西 大関  君が好き
 さて自分で勝手にこんなことやっといてなんですが「晩餐」と「君が好き」はどっちが大関なんだと悩みます。この絶品のシャウトは甲乙つけがたい。どっちもフォークじゃありません。まさに”ライブ73部屋”の同部屋対決。委員会での議論は白熱し、「晩餐」なんてテレビ観ながら夕飯食べてるだけのスケールの小さい歌じゃないか、それにお茶はコップじゃなく湯呑で飲め!という議論に対し、バネの軋む喫茶店でトーストかじってる歌のどこがスケールがデカイんだ、そもそも草笛を吹ける野ウサギがいるもんなら連れて来てみろ!ということで、岡山の戦車を運んで来ないと収まらないような激しい応酬が続きました。
 しかしやはりここぞという場面で必ずチカラのこもったシャウトを発揮してきた「君が好き」の功績が大きいでしょうか。特に2003年の肺の手術の直後の豊かなる一日ライブで果敢にこのシャウトに挑んた姿には本当に胸を打たれました。ということで今回は「君が好き」が大関昇進でごわす。

                   さて、次は関脇です。

2021. 12. 6

☆☆わが心のシャウト番付@横綱審議委員会☆☆
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 みなさん、シャウトしてますか?>しねぇよ、普通

 先日泣ける歌番付というのをやりました。さて吉田拓郎といえば、あのシャウトです。あの透明感のある雄叫びこそが魅力の核心でしょう。そこで再び個人的独善でシャウト番付編成ひとり会議をすすめます。

 ランキングと番付は似ているようで違うものなので、いきなり横綱から参ります。本日は横綱審議会編。
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〇東 正横綱 人間なんて
 東の正横綱は満場一致で「人間なんて」。シャウト=雄叫びだけで出来上がっている世にも稀な作品と申せましょう。人間ここまで雄叫び狂えるものなのかという限界例としても貴重です。しかも大観衆も渾然一体となってシャウトする様子はグルーヴなどという生易しいものではなく集団ヒステリーとか騒乱罪に近いものがあります。これに対して審議会ではシャウトの凄さは認めつつも「音楽作品としてはどうなんだ?」「今の拓郎さんはこの曲は好きじゃないに違いない」という消極意見も出されました。しかし中津川、つま恋、篠島、三大歴史場所を制覇したこの偉大なるシャウトの功績は大きく、文句なしに横綱に選出されました。

〇西 正横綱 アジアの片隅で
 西の正横綱は、「人間なんて」のシャウト量には及ばぬものの、やはり「人間なんて」の後継曲として80年代のライブの数々のハイライトを飾った「アジアの片隅で」が選出されました。”♪思うのだがぁあああ”のフェイクなシャウトの絶妙な技も素晴らしく、なにより最後の延々と続く♪アジアの片隅で〜リフレインでの絶唱は「人間なんて」に負けず劣らず煽情的です。まさに横綱にふさわしいと申せましょう。

〇東 張出横綱 人生を語らず
 さて次に東の張出横綱として「人生を語らず」が選出されました。言わずと知れた名盤「今はまだ人生を語らず」の衝撃のシャウト。このシャウトの衝撃は今も色褪せません。ダミ声だとか怒鳴ってるだけじゃないかと揶揄する人々もありますが、このシャウトの中に躍動する魂の美しさを看取できない人は気の毒というほかありません。「シャウトとは何か」と尋ねられたら躊躇なくこの曲を差し出すところです。どこの世界に出しても恥ずかしくない至極のシャウトがここにあります。
 74年の誕生以来、80年代中盤から90年代にかけての空白期はあったものの、2000年以降チカラを取り戻し2019年のラストツアーまでその年代、年代での至高のシャウトを魅せながら歴史をつないできた功績は大きく横綱にふさわしいものでしょう。

〇その他
 さて西の張出横綱として「望みを捨てろ」も推挙されました。名盤ライブ73をしめくくるこのタイトなシャウトは確かに絶品ですが、出場場所数が少なく、ことに89年の東京ドーム場所では思ったほどシャウトが冴えなかったので残念ながら今回の横綱昇進は見送られました。今後の取り組みに期待したいところです。…ってどこで取り組むんだよ。
                                                                 ……次回は混戦する大関編へ。

2021. 12. 5

☆☆俺は文句を言わない、たぶん言わないと思う、言わないんじゃないかな…☆☆
 先週さだまさしのコンサートを観ていろいろと思った。このツアーでは、案山子、関白宣言など俺でも知っている曲を含む最新のセルフカバーアルバム"さだ丼"を、曲順どおりに全曲演奏する。それだけしか演奏しない。アルバム14曲中、13曲目までが本編でアンコールが14曲目となってコンサートが終了する。もちろん事前にセットリストは全部わかっている。すげえ。
 拓郎で言えば最近のセルフカバーアルバム”AGAIN”を一曲目から順番に最後まで演奏して終わるライブということだ。…どうだろうか。拓郎でそれをやられたら俺はどう思うだろうか。アルバムの曲だけをその順番で歌い、セットリストも事前にまるわかりのライブ。俺は激しく文句をたれたに違いない。

 しかしさだまさしのコンサート会場にはそんな空気は微塵もなかった。みんな一曲一曲に聴き入り、泣き、笑い、ライブを楽しみ満喫していた。音楽の海をみんなで漂うようで、いいライブだなぁと門外漢の俺ですら思った。
 もっとも衝撃だったのは終わった後だ。フォーラムの階段をゾロゾロ降りながら見知らぬファンの方々が「良かったねぇ、帰ったらまた”さだ丼”を聴きこむんだぁ」と幸せそうに話しているのを耳にして再び驚いた。
 アルバムそのまんまのライブを聴いて、しかも帰ってまたそのアルバムを喜んで聴くか? 俺だったらもうたくさんだと言うはずだ(爆)。さだまさしとそのファンはどうかしている…イヤイヤどうかしているのは自分だ。痛切に思った。どちらが心豊かに音楽を楽しんでいるかは明らかだった。

 我ながらなんという因業なファンなのか…今さら思い知った。コンサートのたびにセットリストに文句を言い、あれ歌え、これ飽きたとうるさかった自分。この曲が歌われるとあの曲を思うし、10曲あれば11曲目を思いを馳せる。
 拓郎には申し訳なかったなと思うが、それは拓郎も同じだと思う。あの曲はもう歌わない、この曲はつまらない、俺はフォークじゃない、この曲を好む君らは進歩が止まっている、御大もファンに対して実に文句が多くはなかったか。
 それはそれぞれの好き嫌いだし勝手なのだが、いつしか常にセットリストに安住できない体質になっていたのだと思う。

 音楽を聴くことの豊かさとは何なのかあらためて考えさせられた。考えたところで今更仕方ないけどさ。もういち度ライブがあったら、俺ももう少しいい観客になるのになと心の底から思うのだ。

2021. 12. 3

☆☆夜空に光るおまえの星を捜すまで☆☆
 宗谷で南極に行くまでもなく、"風の街"、"いつか街で会ったなら"、"春になれば"、このあたりの作品たちが、もうたまらないな。拓郎が「喜多條、もう少しイイ詞を書けよ」と悪態をついた"夜行列車"までが愛おしい。

2021. 12. 2

☆☆錨をあげる、錨をおろす☆☆

 このひと月、仕事でお台場の船の科学館の前をよく通る。元南極観測船の宗谷が係留されている。とうに役目を終えた船だが静かにそこにいる。この小さな船が、砕氷しながら南極に向って行ったのかと思うと頭が下がる。

 宗谷の前を通るたびに春日八郎の「さよなら宗谷」が浮かぶ。宗谷が現役を引退するときの歌だ。喜多條忠が作詞しているんだ。訃報を知り、昨夜は宗谷の前で歌ってやりたかったが、湾岸警察署の隣だし逮捕されたら怖いので、心の中で歌う。

   さよなら宗谷 
             喜多條忠

  宗谷よ おまえは何を見た
  白く眩しい大陸の
  光の果てに何を見た
  宗谷よ おまえを信じてた
  厚い氷は砕いても
  みんなの夢は砕かなかった
  さよなら宗谷 さよなら宗谷
  ありがとう宗谷

  宗谷よ おまえは忘れまい
  独りぼっちで閉ざされた
  オーロラの夜の輝きを
  宗谷よ おまえの友とした
  タローとジローは生きていた
  おまえの迎えを待っていた
  さよなら宗谷 さよなら宗谷
  ありがとう宗谷

  宗谷よ おまえは淋しいか
  四十年の歳月に
  錨をおろし振り向いて
  宗谷よ おまえはどこへ行く
  別れのテープをなびかせて
  想い出の中 どこへ行く
  さよなら宗谷 さよなら宗谷
  ありがとう宗谷


 …宗谷よ、タローとジローのその後にサブローがぺギラとともに待っていた〜>ねぇよ、そんな歌詞。

 喜多條忠の詞の適度な武骨さ、適度なダサさ。なるほどシティボーイ慶応の松本隆と対局にある土着早稲田の喜多條忠である。しかしそこがまたいいのだ。

 俺の喜多條忠への思いは既に書いた。あの新幹線の電話の話が、拓郎と喜多條の素晴らしさとともに忘れられない。http://tylife.jp/uramado/melancholy.html

 さよなら宗谷…宗谷を喜多條忠に置き換えてもなんの遜色もない。さよなら喜多條さん、ありがとう喜多條さん。
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2021. 12. 1

  昨夜は、国際フォーラムに"さだまさし"を観に行った。そうさ軟弱たぁ俺のことよ(涙)。久々に島村英二のドラミングに酔い、しかも"北の国から"では珍しい島ちゃんのティンパニーまで聴けた。いいライブだった。さだまさしの歌う姿からあれやこれや考えた。もちろん俺の事だからロクなことは考えないが。
 しかし明け方に入ってきた喜多條忠さんの訃報に愕然。なんてこったい。2週間ばかり前に同じフォーラムで生"神田川"を聴いて、あらためて名作と感じ入ったはかりだった。去年だっけか、拓郎はラジオで喜多條に会うので詞を頼もうかと言ってたよね。心からご冥福をお祈りします。ご家族や拓郎はじめ近しい盟友の方々のご無念はいかばかりか。あまりに悲しすぎる。

2021. 11. 30

理由は申し上げられませんが、本日は一身上の都合により拓バカ日記お休み致します。
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2021. 11. 29

☆☆赤い大台☆☆
  ♪カモメ群がる〜防波堤の上には〜、これもいい歌だ。エルトン永田のキーボードが泣けるわあ。もう涙の叩き売り、インフレ状態か@自分。
 当たり前だが、ああいう番付には人それぞれのかけがえのない思いがある。言われると、ああ〜その曲があったなと気づいたり、おお〜この曲はもっと昇進(爆)すべきかと思ったりする。それがまた楽しい。いずれどこかで横綱審議会や番付編成会議をできたらいたしましょう。

 ドイツのライブ人を通じて、ヨーロッパのコロナ猛威再襲来の話を聞く。やはりライブ人・舞台人には苦難の日々が続いているようだ。これから日本はどうなるんだろう。今はつかの間か。無理はしないし、できないが、気つけながらできることをしておきたい。
 昨日は、家族・親族には気づいても貰えなかった「赤い大台」を同級生仲間と静かに祝いあう。

  少し黄昏 でも会えてよかった
  今は黄昏 また会えてよかった

 くぅぅ、いい歌だな〜。地球人の命は非常に短い。なので、さらに欲をいえば、このつかの間のたぎる思いで、ライブにも拓バカの皆様にもお会いしたいのだが、大丈夫だろうか。

2021. 11. 28

☆☆泣ける歌番付☆☆
 「本の雑誌12月号」の特集「ひとは本を読んで号泣するのか? 泣ける本番付はこれだ!」を読んだ。われらが重松清が涙腺キラーとして上位番付におられる。面白い企画だ。
 それで超個人的に「泣ける吉田拓郎の歌番付」を作ってみた。ひとり番付編成会議はかなり紛糾したがこんな感じだ。難しいな。まだ検討の余地がありそうだ。
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2021. 11. 26

☆☆反省☆☆
 昨夜観た筒美京平トリビュートライブは2か月前の再放送だったのにもかかわらず、今頃はじめて観て何をイキっているのか…ああ我ながら恥ずかしい。ということで週末はおだやかにやすらかに過ごそう。

2021. 11. 25

☆☆ヒットメーカーの宴☆☆

 WOWOWで筒美京平のトリビュートライブを観ている。すげえな。今の浅田美代子が”赤い風船”を歌っている。それはいい。もう音楽の数々が、どれもこれもすんばらしい。魂は時を渡って若き日々に歌いかけている状態である。思うのは2つだ。

@亡くなってからでなくこういう宴は生きておられるうちにやれ
 拓郎が前回のラジオで力説していたように生きてこそ命あっての自分。死んで花実が咲くものか。それが本人の心に届く本当のトリビュートだ。

A拓郎の提供曲でも十分豪華なすげえライブができるぞ
 拓郎さんを尊敬していると語る音楽関係者の方々なんとかしてくれないか。断言するが「吉田拓郎さんをレスペクトしている」と公で語っている音楽関係者のたぶん95%はおべんちゃらだ(当社サイト調べ)。けっ。いや私だけは違うと思う方、是非がんばって具体的な成果物を示していただきたい。

 さてその筒美京平ライブだが、超個人的には桜田淳子の”リップスティック”を森口博子が歌いあげくれたことに感動した。桜田淳子で聴きたいのはもちろんだが、ここまで熱唱してくれた博子ちゃんにも感謝したい。松本隆・筒美京平コンビの屈指の名曲と思う。それを今、聴けるとは。 桜田淳子は、この松本・筒美路線で行けなかったのだろうか。中島みゆきはどうにもフイットしていないし、80年代は岡本おさみまで出てきた。拓界では岡本を神聖視する俺だが桜田淳子ではどうもいただけない。


  ストライプの雨が煙る街並みは
  山手線の窓に映るイリュージョン
  遠いマンションの灯が あなたの部屋

 "リップスティック"はもうこの三行でまるで映画のように情景が浮かんでくる詞曲一体の名作だ。そういえば昔は、夜の山手線に乗るとドアに額を押し当てて呪うように外を観ているおねーさんがよくいたものだ。>いねぇよ

2021. 11. 24

☆☆おやじの唄☆☆
 以前の日記で愛読書「失われた歌謡曲」を宣揚した金子修介監督の最新映画”信虎”を観た。武田信玄の父の晩年近くの姿を描く。娯楽作品というより玄人の深い描きこみを感じさせる。歴史に無知な私には語れる資格はないが。
 凄いんだか、どうしようもないんだか、よくわからない主人公信虎を寺田農が魅力的に演ずる。寺田農といえば、昔、拓郎が大好きだったというスティーブ・マックイーン主演のドラマ「拳銃無宿」の主人公ジョッシュ・ランドルの声をあてていた役者でもある。吹き替えの声が暗くて、そこがまたよかったと拓郎もかつて言っていた。
 重苦しい映画だが、最後に、武士からも戦からも解放された若者たちが、清々しい風のようで、いいラストだった。

 今日からおまえの身体は、おまえ自身のものだ、
 今日からおまえの心はおまえの身体に戻るさ
 もう争わないで もう戦わないで
 そう自由の風に酔え

 そんな歌が浮かんできた。あと自分が谷村美月のことが好きなことに気が付いた(爆)。
 金子監督といえば「ゴジラ」と「ガメラ」両方を監督された唯一の偉大な監督である。いってみれば「松任谷由実」と「中島みゆき」の二人とステージで共演した吉田拓郎みたいなものだ。すまん、すべて拓郎に牽強付会に過ぎたか。 でも私が本当に金子作品で好きなのは(略)。
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2021. 11. 23

☆☆"帰らざる日々"と"証明"の不整合な問題について☆☆
 
 "太陽に向かって走っていればよい"(帰らざる日々)、"太陽に背を向けて走れ"(証明)。どっちなんだ。またテキトーな歌詞書きやがってという声があります>ねぇよ、おまえが言っているだけだろ

 それでは問題にお答えしましょう>だから誰も聞いてねぇよ

 午前中に西に向って走っていると太陽に背を向けて走ることになりますが、太陽が中点を超えた午後には太陽に向かって走っていることになります。証明→帰らざる日々となるわけです。午前中に東に向って走り始めるとその逆です。帰らざる日々→証明となります。
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 いずれにしても吉田拓郎は矛盾したことを歌っているわけではない、むしろ見事に一貫しています。拓郎さんは一途に走り続けることの大切さを歌っていると言えましょう。…書きながら前にもこの話書いたなと気づきました。>そっちの方が問題だろ

 ※「>ねぇよ」などのセルフツッコミは爆笑問題の田中の声で読んでいただけるとありがたいです。

2021. 11. 22

☆☆ノープロブレム☆☆
 ♪吉田といえば昔は拓郎さんだけだったのに今じゃ栄作にドリームズカムトゥルー〜ああかなり問題("問題の詩" 1992)
吉田栄作や吉田美和を観るたびにこの歌が頭をよぎる。俺だけではあるまい。そうだ栄作くんご結婚おめでとうございます。あの歌から30年経っても、拓郎、栄作、美和、吉田はみなさんお元気で問題がない。良かった。

 結婚といえば菅田将暉くんもご結婚おめでとうございます。そういえば小松菜奈さんとあいみょんて似ているよね。だからどうした、いやどうもしないけど、すべての惑星は、吉田拓郎を中心に回っているのである。だから日食で太陽が見えずとも、太陽は消えてしまったわけではない、ちゃんとそこにあるのである。いみふ。
 "太陽に向かって走っていればよい"(帰らざる日々)、"太陽に背を向けて走れ"(証明)。何度でもいう、どっちなんだ。

2021. 11. 21

☆☆11月の歴史☆☆
 2007年のサディスティック・ミカ・バンドのライブでのパンフに加藤和彦が寄せた文章がある(…は略した部分です)

  僕たちは数多くの偶然と幸運とが重なって成り立っているのだ。
  70年代初頭にロンドンで幸宏に初めて会わなかったら
  拓郎のレコーディングで小原に最初に会わなかったら
  成毛滋と一緒に見に行った「アマチュアなんとか〜」に高中が出ていなかったら
  …
  レノン/ヨーコが「プラスティック・オノ・バンド」と名付けなかったら
  …
  僕たちはあの夜NHKホールにはいなかった
               (文藝別冊 追悼特集 加藤和彦 あの素晴らしい音をもう一度 P.3)


 そんなことを思いながらアルバム“人間なんて”をあらためて聴くと思う

  あの時 加藤和彦がいなかったら
  あの時 加藤和彦がまた学生だった松任谷正隆を連れてこなかったら
  あの時 木田高介があの”川の流れの如く”をアシストしてくれなかったら
  あの時 小室等の12弦ギターがなかったら
  あの時 遠藤賢司がいなかったら

 久々に聴き直したが、吉田拓郎の才能が光のあたる方向へぐいぐいと自らを導き導かれていく感じが溢れている。いいねぇ。

 奇しくも同年同月に誕生した二枚の名盤。その松本隆と吉田拓郎がガッツリ組むアルバム”ローリング30”が43年前の今日発表された。
 そして目黒区民センターで吉田拓郎と小室等が”君に会ってからというもの僕は”を発表した日でもある。

  ああ、俺が総理だったら、昨日と二連休の祝日だな。

 西田幾多郎先生の言葉が胸にしむ。
   人は昨日までの歴史から限定される、しかし人は現在においては絶対的に自由であり、歴史を限定しかえすものでなくてはならない。そこに永遠の今がある。

2021. 11. 20

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☆☆半世紀生きた犬の気持ちで☆☆
 アルバム「人間なんて」の発表から今日で50年だ。おめでとうございます。奇しくも同じ年の同じ日に顔が4つ並んだジャケットのアルバムが発売された。すまん名前は忘れた(爆)。そちらはきっと世間を挙げ帝国が総力をこめてお祝いするだろうから、私は当然アルバム「人間なんて」の50年をひたすら寿ぐ。それにしても両盤が同じ日に生まれたとは…俺が総理ならとりあえず国民の祝日にするね。

   人間なんて
   結婚しようよ
   ある雨の日の情景
   ワシらのフォーク村
   自殺の詩
   花嫁になる君に
   たくろうチャン
   どうしてこんなに悲しいんだろう
   笑え悟り詞人よ
   やっと気づいて
   川の流れの如く
   ふるさと

 どの曲も何もかもが愛おしい。誰がなんと言おうと、いや誰もなんにも言うまいともココに日本の音楽の萌芽と胎動がある。

 吉田拓郎という稀有の才能を見逃さなかった加藤和彦を始め、拓郎を支えたぶん拓郎がいうところのフォークじゃない音楽世界への旅立ちをアシストしたくださった天才ミュージシャンの皆様にも心からの感謝を申し上げます。

   加藤和彦
   木田高介
   松任谷正隆
   小室等
   林立夫
   小原礼
   遠藤賢司
     ほかのすべての皆様

 ということでこのアルバムを万感の思いをこめてあらためて聴きなおしたい。夢ははまだ見ぬ来年のラストアルバムに置き、過去と未来を行ったり来たりする幸福をかみしめながら、ともに流れていきたいと思う。

   あらためて祝☆"人間なんて"生誕50年

2021. 11. 17

☆☆うたコンに行ってきた☆☆
 ひょんなことから昨夜NHK”うたコン”の生収録に行った。勝手知ったる東京国際フォーラム。ああ主のいないフォーラム。しかもコンサートではないので花輪もグッズもなく、売店すらもやっていない。ここで開演前にスパークリングワインを気付けで飲むのが好きだったのに。
 申し訳ないが出演歌手の方々もよく知らない。知ってるのは、南こうせつと宮崎美子だけ。親戚のおじさんとおばさんを見つけたみたいに感じる。それでも、あーっ、ギターが古川望さんだー。ちょっと気分かあがる。

 それにしてもストリングスも入った生バンドだ。照明も豪華でレーザー光線もバンバン飛び、さすがNHKだ。音楽とライブに飢えた自分には、乾いた心うるおす一杯の水のようだった。音楽っていいなと心の底から思った。

 “純烈”すげーな。ファンもペンライトでガチ応援している。この歌手とファンとのムーディな紐帯が実にいい。エライザ、ごめんね知らん。To be continued、スキマスイッチ、ああ存じておりました、水樹奈々実にいい歌いっぷりだ。南こうせつはやっぱり歌がうまいなと感じ入る。ときに四畳半フォークのアイコンみたいに揶揄されるが、”神田川”はどこに出しても恥ずかしくない不朽の名作だ。
 我が心の宮崎美子は、アタシ歌はダメなのよ〜といいながら法事でカラオケを歌う親戚のおばさんみたいだった。すまん。悪意ではなくどうか音程が外れませんようにと祈りながら見てしまうあの感じだ。わかんねーよ。
 
 で、連れに言われてふとかつての拓郎の言葉を思い出した。最後のライブにあたって拓郎はこう言った

「僕はテレビに出て1曲歌って帰る、そういう歌手ではありません」

 いやそんなこと言っても歌手は歌手だろと思っていたのだが、その意味がうたコンを観ていてよくわかった気がした。ここで居並ぶ歌手の一人として一曲歌って帰る吉田拓郎は想像ができない。というより失礼な言い方かもしれないが、拓郎にはできないだろうなと思った。無理するとあの日の紅白歌合戦になってしまう。うつむいて歌う歌手をテレビで観てファンもまたうつむいてしまう。簡単に言うと拓郎は、臆面もなく歌う…ということが絶対にできないのだ。それこそが吉田拓郎ではないかと俺は思っている。まぁ、そこいらはそのうちゆっくり話そう。
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2021. 11. 16

☆☆若者の広場と広場に架ける橋☆☆
 「風街とデラシネ」には"橋を架ける"という言葉が何度か出てくる。自分たちの音楽の世界から強大な歌謡界に向って橋を架けるということだろう。今でこそ偉業だが、当時は裏切り者とうしろ指さされる厳しいご時世だったことも窺えた。
 「拓郎帰れ!」も同じだよね。アルバム「ローリング30」が発売された当時、森永博志のFMのラジオ番組のインタビューで松本隆は
「僕とか拓郎って橋のないところに橋を架けたと思っているのね。今は若い人は橋って思ってなくて軽いんだけどさ」
と答えていた。
 拓郎も後に言い方は乱暴だがこんなことを言っていた。
「松本もはっぴいえんどとかいろいろ体験してね、はやり歌のジャンルまでいっぱいやっていろんな歌書いてきて、おまえだって結構さもしい男じゃないかよ(俺たちが愛した拓郎P.126)」
 橋のないところに橋をかけた二人のバディ感みたいなものが透けてみえる。そこがいい。

2021. 11. 15

☆☆花嫁になる君にA☆☆
 悪態ばかりついているのもよくないと田家秀樹「風街とデラシネ 作詞家・松本隆の50年」を買って読んだ。読み応えあり。トリビアだが、かねてから都市伝説的に聞いていた話の確証が載っていた。「酒井法子『幸福なんてほしくないわ(松本隆作詞・吉田拓郎=入江剣作曲)』は実はもともと松田聖子への提供曲だった説」の真相がかいてあった。長生きはするもんだ。

 「今だから言えるけど、『幸福なんてほしくないわ』は、その前に聖子用に書いたもの。(略)『結婚なんてしたくない』という歌を書いてくれって言われて、聖子の結婚会見の何日か前に録音したんだ。(略)結局発売されなかった。」(P.384)

 ちゃんと松田聖子によってレコーディングまでされていたのか。それが松田聖子の婚約解消だか結婚だかというタイミングにハマってしまったことが理由のようだ。それにしても『結婚しようよ』を歌った御大に『結婚なんてしたくない』という歌を、しかも何という間の悪い時に依頼をするのだ。

 問題それだけではない。そういう不幸なシチュエーションは別にしても、『幸福なんてほしくないわ』…松本隆先生の詞としてのクオリティはどうなんだろうか。松田聖子に対する松本隆の名作群はすんばらしい。だからこそ“赤いスイートピー”とか”風立ちぬ”とか”蒼いフォトグラフ”とか“瑠璃色の地球”とか…なんかクオリティが違いすぎないか。ちゃんとユーミン、大瀧詠一、財津和夫らに書くのと同じテンションの詞を吉田拓郎にも捧げんかいっ。そのくらいこの詞はキビシーっ! いやマンモス悲ピー。
 これは俺の偏った主観だけど、80年代の松本隆には70年代の「ローリング30」の時のような全力投球が感じられず「対吉田拓郎六割程度のならしピッチング説」とでもいうようなものがある気がしてならない。なんだそりゃ。すまん。悪意はない。>悪意しかねぇだろ…いや俺は涙ながらに今書いているのだ。

2021. 11. 14

☆☆花嫁になる君に@☆☆
 小学生の頃、長崎の親戚のお兄さんが大学受験のために下宿していた。そのお兄さんのおかげで”悲しくてやりきれない”も”風”も”さすらい人の子守歌”もレコードでリアルタイムで耳にしていた。
 西日のあたる部屋で兄さんが一人”悲しくてやりきれない”を聴いている姿が本当に悲しくてやりきれなかった。人は試験に落ちるとこんなになっちゃうんだと子ども心に思ったものだが、その後、お兄さんどころではない試験落ちの地獄を自分も嫌というほど味わうことになるのだった(爆)。

 何年後か晴れて大学生になったお兄さんの部屋から妙に明るい曲が流れていると思ったのが”花嫁”だった。“駆け落ち”と言う言葉は知らなかったと思うがこの花嫁のおねえさんが過酷な状況にいることはわかった。それでもひとりで毅然と鞄一つかかえて立ち向かうという詞、そして心湧きたつようなメロディーも、小学男子にもカッコよく見えた。それは基本今も変わらない。
 後に北山修先生のお母さまが、終戦直後、淡路島に紙製のトランク下げてお嫁に行ったときの姿がモデルになっているとのことだと知った。
 関係はないが個人的には森田健作のドラマ「おれは男だ!」の小林君の剣道の好敵手なして吉川クンの恋のライバル丹下竜子が高校を辞めて離島に嫁ぐ姿を思い出す。知らねーよな。

 その北山修先生は今年、白鴎大学の学長になられたのだな。おめでとうございます。拓郎もこの"花嫁"のことを和製フォークと唾棄せずに名曲と評価してくれていたことも嬉しい。このカッコイイ、イントロのギターは石川鷹彦さんなんだな。”チークを踊ろう”の煌めくようなサウンドも石川鷹彦さんが拓郎とアコギを重ねて作ったということで、なんかあれやこれやがつながっているのがさらに嬉しい。

2021. 11. 13

オールナイトニッポンゴールド  第20回 2021.11.12

☆☆☆あらすじ☆☆☆☆☆☆

 吉田拓郎です。今夜はまずこれを聴いてください。

M-1 チークを踊ろう    吉田拓郎

 こんばんは吉田拓郎です。週替わりパーソナリティでお送りする金曜日、今週は吉田拓郎が当番でお送りします。当番…懐かしいな、週番だっけ、お昼に給食とか・・・

 何でこの曲をかけたか。聴きたくなったから。本能の赴くまま。前回、聴きたいという曲をi-Podに入れているという話をしたが、今この曲が聴きたくなった。気持ちイイ。いい曲だな。ポップで、どう考えても最初から吉田拓郎はフォークソングじゃないな。新しいニューポップス。これはエレキを使ってないで石川鷹彦と二人でやっている。マーチンD45とギブソンのJ45を使ってEQを使ってエレキの感じを出している。
 ここが基本形だ、ポップであり、R&B、ロックであり・・・だって73年には、ビッグバンドで管弦を入れてファンクをやって見せたし、「伽草子」では”からっ風のブルース”をやったりとか、和製フォークから入った連中にはわからない。ドリカムの中村くんが、ファンクですよねと言ってくれたけれど、世間には通じないだろうなとは思っていた。
 ギターの弾き語りが好きな人が多かった。どうなんだろうな。僕は、あれやりこれやり、アイドルにも演歌にもいろいろ作品を書いたりして、わかっちゃもらえない音楽活動だった。言いたいこと全部言っておこう。結果的に残念だったのは、和製フォークからファンになった人は、もっと他の音楽を聴いてほしかったということ。70年代を音楽だけが最高と信じているのが問題。
 それは吉田君は弾き語りはうまいよ。中島みゆきの”ファイト”を小田和正、泉谷しげるらがシーンと聴きこむくらいギターがうまい、弾き語りがうまい。でも、弾き語りばっかりじゃツマンナイ。それに全体に日本で弾き語りがうまい人なんていなかった。みんなヘタだよ。アメリカだとジェイムス・テイラーとかポール・サイモンとかギターうまいんだよ。ギターもボーカルもしっかりしていればいいんだけど。日本では、コードもわかってない人も多い。僕は広島でもギターの名手と自分で言うが(笑)。
 ともかく”チークを踊ろう”が原点なんだ。広島のバンド時代の女子高生の親衛隊、なぜか女子大生ではなく女子高生なんだよな、例えばクイーンとかの親衛隊も女子高生だよね。ブームを作るのは女子高生なのかな。ルーズソックスとかも女子高生だった、そういう女子高生の親衛隊や僕が息苦しい毎日に巻き込まれていたとき外を囲んで女の子が歌っていてくれて、塞いでいる気分に火をつけてくれてもう一度立ち直るぞと思ったり、武道館で「帰らないで、もっと沢山聞かせてね」という女の子たちの叫びが聴こえた。彼女たちは知っていたんだよ。フォークではなくポップなんだよと知っててくれた。それらが非常に少なかったということ。もうすぐ消えるからいい。

<公開録音 つま恋はどうかという投書>
 そらぁ君、無理。ライブじゃなくてレコーディングだよ。つま恋にそういう施設はない
つま恋は無理。野外イベントじゃないんだから。だったらツアーやれよということになってしまう。もとのもくあみ。
 名古屋あたりで、昔NHK101で「トラベリンマン」を作ったけど最低でもああいう環境は欲しい。名古屋のイベンターにあれくらいの環境の場所探しをお願いしているがなかかない。

<素敵な音楽がたくさん出てきた、アルバムという形態が消えつつある、イントロ・アウトロがなくなっているという投書>
 確かに最近のポップスには、イントロ・間奏・アウトロないのもある。昔は、イントロに時間をかけていたし、間奏にも時間をもっとかけた。やたら気を使っていた傾向があった。マイケル・ジャクソンはイントロ、間奏とかエディバンヘーレンでやったり凄かった。
 それも流行だよ。バンドのアドリブ、セッションを重視する、最後のステージでもソロをたくさん弾かせた 。今は、ああいうことはあまりやらないで、むしろより歌を聞かせようということなっている。
よく言うように音楽は好き嫌い。両方ともあるんじゃないか。

<沢田研二のツアーのMCで拓郎さんとメル友、ラストアルバムにオファーがきていないと言っていたという投書>
 おお、そうか。彼も74か、もっと下かな。
<沢田研二がバックコーラスのオファーを待っている、70歳過ぎたら対談しようという話はどうかという投書>
 対談は実現するかもしれない。コーラスか、考えてみようかな。正月とお盆メール交換する仲。いつも健康伺いみたいな感じだ。ツアー中か、元気だな。あいかわらずステージから客席に説教こいているのかな(爆)  若い頃からそうだったらしいね。僕等で言えば  泉谷しげるだ。「金払ってるからって、デカイ面するんじゃねぇぞ」(笑)
 吉田拓郎は「帰れ、帰れとうるさいから帰らないよ」と依怙地なことが流行した時代があった。自分の中だけで。

<鹿児島です、拓郎さんの鹿児島の思い出は?という投書>
 小3で引っ越したので記憶は薄いが、谷山という町と小学校の2年間は実に印象深い。身体が弱くて学校は半分くらいしか行けなかっただけど、宮崎先生=ねぇさん先生とか。
谷山駅の市内電車をボギーと呼んでいて、それに乗って、鹿児島随一の天文館というに行くときウキウキした。でも欲しいものも何にも買ってくれなかったけど父親が、そのうちデパートごと買ってやるって(笑)。それから自宅から歩いて海に行けたんだけど後に埋め立てしたらしい。潮干狩りも楽しかった。
 広島に行くことで父と母と別々になって、僕は母についていったけど、ここいらは家族の真実というものがある。いろんな人が書いたりしているけど、僕だからわかる。 
それは来るべきアルバムのエッセイに書く。

<地震対策はしているか、身の安全も大切だが、音源や資料という文化遺産を大切に保管してくださいという投書>
 僕はあちらに旅してしまったら、記念館なんて作らせない、そういう人になりたくない
。生きてこそ命あっての自分。全部おことわり。死して追悼記念とかやらせない。生きている今しか信じられない。今がぼくであることの証明。
 それにウチの倉庫には何もないよ。有線放送大賞の盾が倉庫にある。有線でたくさんかかったというので”旅の宿”で受賞した。最近では中国新聞の中国文化賞の盾。これは嬉しかったな、レコード大賞はどうでもいいけど、この中国文化賞が嬉しい。故郷からいただいたからかな。  
 楽器もテレキャスター2本、ストラドキャスター2本、アコースティック2本と磯元くんにプレゼントした。アコギ1本にエレキ2本しかない。なんにもいらない。スッキリしようよ。

<京都に在住、苔寺とか近くにあるけど込み合っていたので行かなかったけどコロナで人がいなくなったので回ることができたという投書》
 コロナで大きな負の材料もあったが、本来はこうだ、人間はこうだった思い出す瞬間もあった。人間はどこかで道に迷っていたのではないかということも気が付く。僕はマンションの理事をやっているんだけれど(笑)。マンションといっても15世帯くらいので、20年前出来たマンションに最初からいる。
 マンションの入り口の植栽を今まで素通りで観ていたけれど、これが時間もいっぱいあると、やり変えてもっとできないかと思った。知り合いのガーデニング業者にデザインしてもらって、理事会に諮って植え変えをした。そしたら華やいだ感じ。築20年だったのが、華やいだ。これなんかもコロナだから気が付くことができたのではないか。人間は試練の中で半歩でも進もうとすることが大事ではないか。そういう動物ではないか。

■ 今夜も自由気ままにお送りします吉田拓郎のオールナイトニッポンゴールド。

<板橋区、先月10月に初めて聴いた、家事をこなしながら聴いていて、に入院したときにラジオ局の兄がCDを焼いてくれてその中の”今日までそして明日から”に励まされたという投書>
 ラジオは昔からやってるんだけど。“今日までそして明日から”のことをいろんなところで耳にする。こんなにも多くの場面で多くの方々に愛されているんだと思う。映画、CM、カバーとして今も生きているという心からの感激を隠せない。
 女優の奈緒さんは、”今日までそして明日から”を朝に夜に聴くという。20代だよ、  こんな幸せな曲はない。
 通信販売のマイナーレコード会社で早く曲作れとせかされて作ったアルバム。書いたエピソードとか人との出会いとかもない。この曲を書かせた何かがあったワケじゃない。ただ貧しいことと明日が見えなかったこと。…それで十分か。十分人間としてはそういう場所にいるかな。神様が降りてきて書きなさいと神様が書かせた一曲かな。竹内まりやが「降りてくる曲がある」と言っていたことがあったが、同感だ。一生懸命作った曲がある反面で、天が書かせた曲もある。何度も歌ってきたが、自分のラジオでフルでかけたことはないかしれない。そこで30歳の方からのリクエストもあることだし、よしi-Podに入れるか。いろんなバージョンあるから、僕はセッション男だから。

M-2  今日までそして明日から  2014 吉田拓郎

(CM)

 誰も言わないと思いますが拓郎は言います。70年代に吉田拓郎が広島から出てきて音楽シーンが変わっていったといわれる。やや真実もある。レコードはシングルでなくLPで勝負する時代、一曲ヒットすればテレビでスターになれるという時代、それが終わろうという時代だった。
 ステージで最低でも5〜6曲か何曲か歌って世界を理解してもらうようになってきた。
そのうちだんだんと一人で歌いきるステージになり、お客さんも2時間でオマエの世界をみせろと思うようになって、吉田拓郎が日本で初めてコンサートツアーを行たというのも事実。アメリカでコンサートツアーの在り方を勉強してきておこなった。
 吉田拓郎すげーという話になる。すげーんですが、この拓郎も先輩の影響を受けて徐々に作り上げていったもので、吉田拓郎の神話でさえやっぱり諸先輩から学んだ
シングルじゃなくアルバム、テレビではなくツアー、でも音楽については自分の才能だけではなく60年代個人的に大好きだった先輩たちに影響を受けている。

 長い人生で初公開の話かもしれない。広島で大学生のころフォーク・クルセダーズの”帰ってきたヨッパライ”がヒットした。特に素敵な曲とは思わないし、コミックソングだと思っていた。学生のアイデアで回転数を変えたり、加藤和彦たちの先見の明だと思った。しかし、このフォークル3人、聴いてみるといい曲がたくさんあった。その中の”悲しくてやりきれない”を聴いてこの連中センスあるなと思った。いいなと思った。

M-3  悲しくてやりきれない   フォーククルセダーズ

(CM)

■■11時
(佳代さん)
 拓   加湿器は誰が紹介したんだ
 佳代 youtubeの三児の母のモデルがブログで観て
    この人のおかげで和食器から加湿器か料理
 拓  この人いないとコロナ生活は乗り切れなかった
 佳代 ありがとうございます

 フォークルは奇跡に近い才能があったが、グループとしては長続きしない。だいたい  行き違いがあって、ビートルズみたいに解散してしまう。
 はしだのりひこは、その後いい評判は聞かないが、陰ながら僕は評価している。東京の厚生年金の小ホールでの初コンサートの客席にはしだのりひこが来ていてステージに上がっていただいた。75年のつま恋の前の方には坂本九さんがいて最後まで観ていたらしい。
 はしだのりひこさんは解散後はグループ一杯つくるんだが、作ったグループで必ずヒットを出していた。シューベルツでは”風”いい曲だなと思う
すぐ解散してクライマックスでは”花嫁”がヒットする。はしだのりひこというメロディメーカーは凄い。
 後に第3回の中津川フォークジャンボリー、俺が人間なんて歌ったあそこで、はしだのりひこはさんざんな目にあっている。罵声を浴びた。しかし、この才能、加藤和彦と同時に、はしだのりひこのメロディーも残っている

M-4 風
M-5 花嫁

 (CM)

 60年代にはグルーブサウンズが流行した。ビートルズの影響か、タイガース、テンプターズ、ブルーコメッツ、スパイダース、オックス、モップス・・・僕はワイルド・ワンズが好きだった。
 リードボーカルのハスキーな声、”想い出の渚”のギターのコード進行・・・加瀬邦彦が好きだった。歴史に残る名曲で、僕の曲作りのヒントの入り口になっている。
 ゴールデン・カップスとも飲み友達になったし、スパイダースはかまやつさんとか、
モップスはたどり着いたらいつも雨降り、井上堯之さんもよくしてくれたりした・・・でもお付き合いはないけどワイルド・ワンズが好きだった(笑)


M-6  想い出の渚  ザ・ワイルド・ワンズ

 (CM)

 これらの先輩を好き嫌いとか自分の勝手な言い分で、語ろうとしないことは潔くないと思うようになった。これらは伝承されている。自然に自分の脳とか心に入っている。いやだ、いやだといいながら演歌の影響を受けている若いミュージシャンもいる。無言で伝承されるものだ。歌詞とかメロディーとかがその人に入って悪さをする。
 今日の大きなテーマ、加瀬邦彦、はしだのりひこ、加藤和彦らは、ポップス系で近い世界にいたと思う。
 しかしこの人は先輩ではない後輩だし、特に影響は受けていない、あんまり好きだとはいえない・・・さだまさし。
 でも彼の世界はたぶん後輩に何らかの影響を与えているはず。僕はちゃんと聴いていないのだが、この人の歌は伝承されてゆくに違いない。
 彼の大ヒットのこの曲は、思い切り笑った。下手な落語より笑った。この男、才能あるなと思った。さだまさしは、好き嫌いお近づきになりたいとは思わないけど…苦手なタイプ、2,3回会ったけど得意なタイプではない。向こうもそうだろう。
 さだまさしとは同じステージに立ったことがある。泉谷しげるが主宰して、小田和正、忌野清志郎、浜田省吾、ら錚々たるメンバーが雲仙普賢岳救済の日本を救えというコンサートが長崎市公会堂であった。そこに、さだまさしもいた。
 コンサートでは無難な感じに終わって、いざ打ち上げになったら泉谷たちはきちんとセッティングしてなかった。大人数じゃない、困っていたら、さだまさしが一声、長崎出身なんで顔見知りもいるのでアレンジしましょうかと言ってきた。
好印象もっていなかったけど後光がさしている(笑)。神様、さだくん頼むよということで、市内の会場で無事に楽しい打ち上げがあった。
 打ち上げの前の晩に長崎入りして、大友康平や伊勢正三と飲みに行った。大友康平から、拓郎さん、さださん苦手でしょと言われて、大好きとかはないけど…と言っていた。
打ち上げが出来てバンマスとして今夜のパーティーをセッティングしてくれた、さださんに態度が豹変した(笑)。人間なんてララララララララ(笑)
 あいつはいいやつで、俺たちは縁がなかった、チャンスがなかっただけだ。遠くから応援している。センスがあって、弾き語りとして上等です。

M-7  雨やどり    さだまさし

 大友康平で思い出したポップスというと筒美京平さんが勉強になったし、すぎやまこういちさんという先人も素晴らしかった。すぎやまこういちさんは、ガロの「学生街の喫茶店」、ボブ・ディランが出てきたりする。ガロのこの曲がヒットしたころ大友康平は、  仙台でユニークな名前だ「がぐち」と呼んでいた。馬鹿野郎(笑)。

M-8 学生街の喫茶店 ガロ

  (CM)

 さてラストアルバムは順調で製作がスピードアップされている。デモテープを作って、鳥山君に送ると、鳥山スタジオで、いい音にして時々武部くんがキーボードをダビングしてくれる。歌は勉強部屋で歌ってる鼻歌でテキトーな歌だけど既に6曲出来ている。あと、馬飼野康二と萩田光雄に堂本剛に頼む曲とボーカルダビング、コーラスダビングしたりだいたい来年の夏にはできちゃうんじゃないの。
 みなさんに期待を持たせるためにいうがCDとアナログ両方出す。CDにはエッセイ、 LPにはライナーノーツをつける。LPのジャケットは、写真のタムジンチームと全体デザインのシノハラとこのアルバムイメージガールとつま恋で撮影する。3月末か4月にはできる。明後日にリモートで、このアルバムのイメージガールの奈緒さんが参加してくれる。感謝。
 タイトルが謎、まだ言わないけど大きな意味を持っている。このリタイヤアルバムにはストーリーがある。その主人公をタムジンが撮影する。その衣装をシノハラが、とても素敵な衣装だ。タイトルの題字は彼・・・「たくろうはん」という彼。
 こういう場所で撮りたいというのをつま恋で探した。とても素敵なアルバム。吉田拓郎はこういうことを考えながらリタイアするんだというストーリー。

 一部の心無い人に言いたい。デモテープを流すけど、それをネットにあげるのはやめてほしい。周りもそれを許すな。俺はデモテープを聞かせたいんだけど、今後は無理だと思う。こんな感じの曲というのを流すから、頼むからのっけるな。おまえを信じるから。デモテープでまだこれから直してゆくんだから。

M-9 デモテープ

■エンディング

<シャインマスカットひと房1580円は高いけど、ぶどうにしてぶどうにあらず、おいしかった という投書>
 初めて食ったのか。うまいよな。皮ごと食べたい。確かに安くはないな、もう一声と言いたい。しかし、生産農家の方はいろいろ手間がかかって大変らしい。でも数年前は半分の値段だったよう気がするんだよ。

 来月は12月だ。早いな。来年は、ラストワークのレコーディング、映画の撮影、LOVELOVEもやるぞ。5月までかな。次回は12月17日。

M-10 煙が目に染みる   ザ・プラターズ

☆☆☆思いつきと感想☆☆☆☆☆☆

☆”チークを踊ろう”…例によって思い込み&プチ自慢だが、拓郎と自分の心がちょっとだけ重なったみたいで嬉しい。http://tylife.jp/uramado/cheekwo.html

☆とはいえ俺も”チークを踊ろう”は最初は軟弱な歌だなと思っていた。ずっと後になって尊敬する拓郎ファンサイトの大先輩の方が、拓郎の一番好きな曲は”チークを踊ろう”と明言されていて衝撃を受けた。普通は俺も含めて一番好きな一曲という質問には怨念のこもった曲をセレクトするじゃないか(爆)。"チークを踊ろう"というセレクトが清々しくてセンスがあって素敵だなと思った。そしてそれであらためて聴き直していくうちにその虜になった。

☆そのサイトの方も同じ世代、同ポジションかと思うが「女子高生の親衛隊や僕が息苦しい毎日に巻き込まれていたとき外を囲んで女の子が歌っていてくれて、塞いでいる気分に火をつけてくれてもう一度立ち直るぞと思ったり、武道館で「帰らないで、もっと沢山聞かせてね」という女の子たちの叫びが聴こえた。」…泣ける。その女性の方たちも、それをしっかりと覚えていて感謝している拓郎にも。たまらないね。そういうたくさんのねーさんたちの感性と小さな叫びが吉田拓郎をココまでつないできたのだと、おかげで今こうして俺も安閑と聴いていられるのだ。謝意を表します。

☆ただ日本で一番ウマイ弾き語りなんだからそれに魂を持って行かれるのも当然である。やっぱりご本人がどう言われようとあれはあれで不滅ですばい。無形文化財・人間国宝に指定してもいいんじゃないか。断固拒否されるだろうけど。
 すばらしいものがすばらしいものとして伝承されて欲しいと思う。ただ記念館は微妙だわな。なんか確かに危うい。開館しても閉館しちゃうとまたすげ淋しいじゃん。

☆「生きてこそ命あってこその自分」…御意。「生きてこそあれ歌ひとすじの道」は美空ひばりが島倉千代子に送った歌だ。通底。とにかくお元気で生きていてくだされ。

☆恩讐を超えて「伝承」を見つめる。”はしだのりひこ”から”さだまさし”まで。いい話だったな。先日行ったばかりの長崎の江山楼の話が出てきたのも嬉しかった。最後に向けていろいろノーサイドになってゆく。"布施明"はどうなんだろう。

☆ラストアルバムが順調という朗報。設定に凝り過ぎではないのかと余計な心配もしていたが、デモテープが聴けて安堵した。楽しみにしている。こうやって昔からラジオで出来立てのデモテープをガンガンかけちゃう拓郎が大好きだったが、それも最後か。


☆ そうしてああ、やっぱり終わってゆくのだな。

☆☆今日の学び☆☆
 デモテープとか新曲の片鱗にどんな曲なんだと耳そばだてながら悶絶する。そういう幸せというものも確かにありました。

2021. 11. 11

☆☆和田誠展☆☆
 くだんの居酒屋のマスターに教えてもらって新宿オペラシティで開催中の和田誠展に行った。膨大な作品たち。小さい展覧会だがとても一回では見切れない。いちいち、あーこれもか、こんときゃこーだったと頭が走馬灯になる。意識するとしないと私たちは和田誠に包まれて生きてきたんだと身に染みて思う。イラスト、表紙、ポスター、映画。そうそうマスターは「あったよ」と教えてくれたのだ。ありがとう。
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 このサイトで何回も書いた西武デパートの「フォーライフフェア」だ。75年秋は渋谷西武、俺が行ったのは1976年池袋西武で3月13日だったのだな。早速Tくんに送った。懐かしいったりゃありゃしない。和田誠の描いた吉田拓郎である。
 このフェアで俺たちは小室等に握手をしてもらい、4人が出てくるヘンテコなフォーライフのモノクロ映画を泉谷しげると一緒に観て、そして吉田拓郎の殴り書きのような直筆パネル
     今は黙って静けさだけを愛せばいい
を胸に刻んだのだ。
 12月までやってるようだ。また観に行く予定。和田誠の描くかわいい拓ちゃんとあなたの和田誠を見つけてみてください。って大きなお世話か。

2021. 11. 10

☆☆追憶の80の秋A☆☆
 
 なんで慌ただしい週の真ん中にこんな事を長々書いているのか俺にもわからん。

 コンサートは@バンドA弾き語りBバンドと3パートに分かれていてAの弾き語りがかなり長かった。
 そしてバンドには松任谷正隆がいなかった。俺には松任谷正隆がいないライブはそれが初めてだった。当時「今年は松任谷正隆さんが抜けたことがニュースです」と渋谷さんも言っていた。やはり淋しかった。そういう意味でも記録的意味がある。松任谷は翌年体育館ツアーで復帰するが、それが最後になってしまった。いや、お2人ともお元気だが、拓郎がライブをやらない以上、もうステージの共演は観られない。
 ということで中西康晴がひとりで大忙しだった。やがて形成される極悪バンドのあけぼのだった。

 オープニング前におなじみ”ローリング30”のテープが流れる。これまでは曲が終わってから1曲目の演奏が始まるところ、この時は最後の♪ローリング・サァ〜のあたりで島村英二のドラムが鳴って”あの娘といい気分”が始まる。このシンクロがメチャカッコ良かった。んでもって”あの娘といい気分”につづいて古い曲”マークU”。このブルージーなアレンジがいい。夏の武道館と比べてジェイクがいないところがやや物足りないが身体が自然に揺れてくる。

 この日は巨人の王貞治選手の現役電撃引退のニュースがあり、拓郎は楽屋で新聞社のインタビューに「絶句」と答えたとのこと。「読売巨人軍ていうのは僕らの夢を潰していくな」と非常に怒っておられた。
 “ひとつまえ”の由来も話してくれた。http://tylife.jp/uramado/hitotsumae.html
 “あの娘に逢えたら”が聴けたのは後にも先にもこのときだけだ。なのでよく覚えてねぇ。イントロが中村雅俊の"ふれあい"に似てメロディアスだったのは覚えている。
 早くもスタンダード化したレゲエの”いつか夜の雨が”。
 ”いくつもの朝がまた”ロックウェルからの放送では♪暗闇を〜と歌っていた出だしが、正式には♪重い闇を〜であることを知る。
 そして第一部のラストに歌われたいつも見ていたヒロシマ”が圧巻。まるでこれがクライマックスのように素晴らしかった。隣でTくんが思わず、いいなぁと嘆息していた。
 どっかの会場では、このヒロシマを歌わんとする拓郎にヤジを飛ばして拓郎が激怒したらしい。そらぁ怒られて当然だ。

 ドラマチックなヒロシマが終り、続いて弾き語りコーナー。
 いきなり♪怒れるときあらば〜と”ファミリー”のサワリを弾き語ってから、「この歌の続編です」といってあの名曲“家族”を初披露。最近は、"弾き語り"というと喜元がくない拓郎だが、とにかく圧倒的だった。初めて聴く歌詞に耳をそばだてながら、やがて自分も歌全体にとりこまれてしまうようなそんなパワーがあった。

   家族
   言葉
   証明
   熱き想いをこめて
   土地に柵する馬鹿がいる
   僕の唄はサヨナラだけ
   二十才のワルツ

 どうだい。かなりの盛である。しかも一曲一曲がかなり濃い。いきなりステーキか。弾き語りコーナーの時間は一時間近かったのではないか。そしてこのツアーを最後にそれから約10年…89年ツアーまで弾き語りコーナーは封印されることになる。この意味でもひとつの分岐点である。
 弾き語りでお腹いっぱいになったところで、最後のダメ押し。

  おきざりにした悲しみは
  外は白い雪の夜
  アジアの片隅で

 アジアで客席が迷うことなくスタンディングし、ご唱和するスタイルもこのツアーから確立したと思う。
 最後にTくんが「ダイエー!」とヤジを飛ばしたら前列の浅田美代子さんがちょっと振り返って笑ってくれた。そんな超個人的スペシアルな思い出もあった。

 古い歌こそあったものの、新しい歌たちが、新しい世界を作っていた印象がある。80年代の幕開けである。それはまた「落陽〜人間なんての熱狂」なき世界の始まりであり、まあ、なんだ、文句があったりスレ違ったりとひとまず85年夏までいろいろと続く旅の始まりなのだった。
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2021. 11. 9

☆☆今さら涙もないだろう@☆☆
 なんとなくハマってしまった1980年の秋の話のつづき。

 「1980年」というとそれまでの古い歌は全部捨てたと宣言して全曲新曲で通した衝撃の春のツアーと”Shangri-la”のブッカー・T・ジョーンズを招聘した夏の武道館が華で、秋のツアーは印象に薄く後世にも語られることが少ない。

 これはこれで大切なツアーだった。もとよりやらない方が良かったライブなどこの世に一つもない。と俺は思う。

 春の全新曲ツアーで歌われた謎の大作”アジアの片隅で”が、夏の武道館公演でブッカー・Tも客演のうえでその完成形を得た。そしてその完成盤を収録したアルバム「アジアの片隅で」をひっさげたツアーがこの秋のツアーである。ということで、このツアーは”アジアの片隅で”襲名披露公演という大きな意味があった。

 そしてもうひとつ。春ツアーであんなにドラマチックに捨て去った古い曲をこの秋のツアーはで再び拾うことになった。
             その時の俺↓
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 もちろん結果的には両手広げてげてウェルカムなのだが、さすがに捨てた宣言からあまりに日が浅く、拓郎ファンでない連中からも、なんでもう古い曲歌っているんだよと問い詰められてバツが悪かった。
(回答例)
 ご質問の件ですが、夏の武道館で古い曲を歌う時、吉田拓郎は「今日はコンサートというよりお祭りだと思っているので古い曲は歌わないとか、そういう固い話は抜きにして」と説明いたしました。したがいまして、それ以降(2019年まで)ずっと毎回コンサートではなくコンサートと題したお祭りが続いているのであり、吉田拓郎は決して嘘をついていないというのがこのサイトの法制局の解釈であります。

  誰かから「拓郎は古い歌を捨てるとかいって嘘つきじゃねぇか」と罵倒されたときは、心の中で本当にそうだなと思っても、このように回答することをお勧めします。>誰も言わねぇよ

 このツアーで拾った曲が"マークU"、”あの娘に逢えたら”、”おきざりにした悲しみは”…またまた絶妙なところを拾うんだよ。"土地に柵する馬鹿がいる"も歌ったな。よりよって一番古いところを拾ってきた(爆)、さすが思い切りがいいぜ。

                                 とりあえず明日につづく。

2021. 11. 8

☆☆くりかえす さざ波のように☆☆
 今日は島倉千代子さんの命日だ。…いや、しっかり忘れていたのだが友人に教えていただいた。島倉千代子といえば"紅葉"だ。http://tylife.jp/uramado/momiji.html
 後に拓郎がFromTでデモテープを収録してくれたときは心の底から嬉しかった。
 そして「監獄のお姫様」の劇中で歌われた"愛のさざ波"。"紅葉"と合わせて、我が心の両A面のシングルカットである。
 ♪いつでも いつでも 思い出してね
  くり返す繰返すさざ波のように

 もう忘れませんので、どうぞ安らかに。 

2021. 11. 7

☆☆消え入るような そんな生き方もある☆☆
 当時のラジオ「ヤンタンToyko」では、ロックウェルの中継も含めて、毎週、制作中のアルバム「アジアの片隅で」の経過報告が聴けた。その際、アナログアルバムの収録時間の物理的制限があって予定曲が全曲入らないと拓郎は悩んでいた。”アジアの片隅で”があまりに長すぎるのでアルバム収録は無理ではないかと迷っていた。
 しかし”アジアの片隅で”の入っていない「アジアの片隅で」はあり得ない。アンコの入っていないアンパン、ヤキソバの入ってないヤキソバパン、ウグイスの入っていないうぐいすパンみたいなものだ。・・・そうそう子どもの頃”うぐいすパン”て、ウグイスが入ってたらどうしようと怖くなかったですか?>ねぇよ
 小室等もこの名曲は絶対入れるべきだと力説してたし、俺も番組にハガキを書いたものだ。そのせいかは知らないが、”アジアの片隅で”は間奏を少し短くして収録され、結果的にアルバムの最後の曲として予定されていたという”証明”がカットされた。正確には「2曲飛んだ」と言っていたがあと1曲はなんだろうね。
 当時、松本隆作詞の”この歌をある人に”がいらねぇんじゃねぇの?と不遜にも思ったものだ。松本隆先生、連日すまん。しかし先月のオールナイトニッポン・ゴールドを聴いて、そういうもんじゃないなと俺は心を入れ替えたよ。
 このサイトでも何十回も書いたが私何度でも言う、あのアルバムの最後に”証明”が入っていたらどんなアルバムになっていたか、各自想像されたい…というかOh確かめてみるがいい。

 CDの時代だったらそんな時間制限はなかったろうに。でもCDだとこのA面とB面のせめぎ合う素晴らしさに気がついただろうか。

 かくして”証明”はシングルB面伝説の中で永い眠りにつくのだった。・・・そしその扉を再び開けたのはガガガPという若者たちだった。このカバーの好き嫌いはあるかもしれないが、もう聴き飽きた定番曲ではなく、この曲を発掘したことこそがまず素晴らしい。彼らの功績を湛えて吉村作治発掘大賞をお贈りしたい。そんな賞あるかどうかわかんないけど俺は贈りたい。

2021. 11. 6

☆☆☆A面で恋をして☆☆☆
 昨日書いたアルバム「アジアの片隅で」のA面の全部乗せ重量感。岡本おさみに心の底から敬意を捧げたい。それだけでなくこのアルバムが名盤なのはB面もそれに劣らずガチ凄いところだ。”二十才のワルツ”,”ひとつまえ”,”元気です”と明らかにB面は吉田拓郎の詞力(シヂカラ…そんな言葉ないけど)に支えられている。
 これに対して翌年の「無人島で」のA面は”この指とまれ”,”春を呼べU”,”Y”,”ファミリー”とこれまた拓郎の詞力全開の名作群なのに、B面になると微妙に失速してゆくのと対照的だ。メロディーやボーカルに遜色はない。「ローリング30」では何本もの重量鉄骨で堅牢な建造物を支えた松本隆だが、この「無人島で」は軽量鉄骨のプレハブ住宅みたいな松本隆だ、それではないか。きっと当時は身も心も松田聖子のもとにあったのではないかと睨んでいる。すまん、悪意はない>って悪意しかねぇだろ!
 そもそもこんなうららかな週末に松本隆先生の悪口を書きたかったわけではない。それに軽量プレハブ…俺の住んでる家だ(爆)
 今日は「アジアの片隅で」がいかに名盤であるか、印象の薄かった80年秋のツアーだが、結構そこそこ大切なライブだったのではないか…ということを書きたかったのだ。
 うららかな土曜日なので川べりを散歩してきます。また明日。

2021. 11. 5

☆☆☆まるで昨日のように☆☆☆
 1980年の11月5日、アルバム「アジアの片隅で」が発売された。その前日が秋のツアー渋谷公会堂公演だった。会場では既にアルバムが売られていた。「時の暗がりに葬られぬために、再び強烈に突きつける」…なんて胸かきむしられるコピーなの。一日早くアルバムを手に出来た俺とTくんはコンサートが終わって興奮そのまま缶ビールと蒲田の吉野家の肉皿を買い込んで彼の家に行ってビールを飲みながら聴いたのだった。やったぜ明日はホームランだ>いみふ

 一曲目の”まるで孤児のように”。ああ、なんかすげえカッチョエエ。このオープニング曲でこのアルバムの成功が約束されているような気がした。それにつづく”いつも見ていたヒロシマ”でこりゃあ稀代の名盤であることを確信した。「いい曲書いたな」と辛口のTくんも珍しくホメた。さっきのステージでの身をよじって”ヒロシマ”を絶唱する姿が浮かんだ。

  なんだか俺達 荒れ果てた土地に
  取り残された孤児みたいだな
  俺はどこへ行こう
  君はどこへ行く
  一人で酒におぼれた夜ふらつく
  アジアの片隅で このままずっと
  生きてゆくのかと 思うのだが

 つなげても全然違和感がない全部乗せ。三品食堂か。

2021. 11. 4

☆☆最近好きな曲☆☆
 “この風”とともに最近よく聴くのが”この街”(作詞:阿久悠 作曲:吉田拓郎 歌:林部智史)。東京国際フォーラムの阿久悠メモリアルライブで林部本人歌唱を観たのも今は昔。MCで「吉田拓郎さんと編曲の武部聡志さんに感謝です」…とか言ってて、まずは吉田さんに感謝だろ!とあざといコメントにムカついたものだが、確かにこのドラマチックな編曲はいい。このラッピングが、吉田拓郎のメロディーをより引き立たせている。すまん、いいじゃないかこのアレンジ。
 ともかく70歳を超えてこんなメロディーが書ける。俺はそのことが心の底から嬉しかったが、もう新曲はいいじゃないかという人もいる。しかしこの歳になっていい新曲と出会った時の無上の感動は誰にも譲れない。そうでもない新曲があったり、あったり、あったり、不発がどんなにあろうと俺は素晴らしい新曲を待ちながら生きて死ぬのだ。
 死ぬと言えば、友人はこともなげにこの曲に暴言かました。「死んじゃった人が作詞して、70歳の爺ちゃんが作曲した曲」とミもフタもないことを…ホントだけどなんということを。神よ罪深き子羊を許したまえ。人は死のうが爺になろうが、みずみずしい音楽作品を生み出せるという事実を証明してくれているではないか。神は必ず旅を許される。

 ということで“この風”と”この街”が心とらえてやまない。“この風”と”この街”・…はっ、”風街”…くぅ〜

2021. 11. 3

☆☆あれから10年☆☆
 「この風(午後の天気)」、いいなあ。ちょっと泣きたくなるようなこのメロディー。あっさりしているようで実に深いコクがある。その上、いいボーカルじゃないか吉田さん。60歳をとうに超えて、こういう歌が出てくる。ハラショ。
 そう言えばいわゆるオリジナルアルバムは「午後の天気」以来10年間出ていないんだな。だから来年は10年ぶりなのよね。
 既に決まってるというアルバムタイトルは何なんだろうな。タイトルだけで泣いてしまうというヒントのみじゃわからん。俺が確実に泣いてしまうに違いないタイトル。
        「吉田、あと数枚作るってよ」

2021. 11. 2

☆☆夕陽よ俺を照らせ☆☆
 数日前、田家秀樹の企画選曲アルバム「風街とデラシネ 作詞家・松本隆の50年」の中に拓郎の曲が一曲も入ってないと悪態をつかせていただいた。でも著作の方では、いちおうページを割いてアルバム「ローリング30」のことなどが書かれていた。やっぱり良い人かもしれないと一瞬ひるんだが、しかし、どうしたって乾いた心はそんなに一度にゃ、いやせやしねぇ。

2021. 11. 1

☆☆いくつもの朝がまた☆☆
 選挙速報を深夜まで飲みながら観ていて気分が落ちる、墜ちる、ああどこかへ堕てゆけ。人にはそれぞれの考えがあるので、あくまで俺個人は…だ。自分が当たり前に描いているようなことは、実に少数派の部類なんだなと思い知らされ悪酔いしながら朝になる。
  “年寄りと放浪者は乾杯の朝を迎えないだろう”
 この詞の意味があらためてわかった気がする。
 とはいえ、こんな世の中と自分を捨ててみたり、この国を見限ってやるのは俺の方だとイキッたりせずに、遥かな夢を抱いて旅を続けよう。

2021. 10. 30

☆☆Voice☆☆

 ああ、いい声だなあ。そして心のこめられた言葉のチョイスがまたいいなと思う。短いメッセージの中に吉田拓郎のエッセンスがちゃんと息づいている。
 …あ、拓郎、俺のところに送ってくれてもいいよ。

「2021年10月29日ZIPでの奈緒さんへの肉声メッセージ」

 こんにちは、おはようございますがいいのかな
 吉田拓郎です
 奈緒さんとはまだ直接お会いしたこともお話したこともないですが
 KinkiKidsの番組に奈緒さんが出演されまして
 そこで僕の曲のことをお話になったというエピソードを聞きまして
 とてもうれしく感じて
 さっそくその年にやった コンサートツアーの映像を
 奈緒さんの事務所の方に
 半ば強引に送らせていただききました
 その後も僕のCDアルバムを
 これまた強引に送らせていただいたりして
 まぁきっとその頃から
 「あのクソじじぃうるせぇなあ」
 とお感じになっていらっしゃると思いますのでもうやめます(笑)

 僕が若い頃に作った「今日までそして明日から」と言う曲がお気に入りと伺いました。
 とってもうれしいですが、僕は他にもいい曲をたくさん作っておりますので(笑)
 お時間がある時にぜひチェックしてくださるともっとうれしいです

 今大変ストレスのたまる日常を私たちは送っていますけれども
 ぜひ健康に気をつけて1日1日を奈緒さんのペースで歩いていってください
 きっと近い将来にどこかでお会いできる日が来ると
 その日を頭に描きながら僕も半歩ずつでもいいから前に進もうと思っています
 その日までお元気で!

 あ それから追伸でお母さまにも
 「拓郎がよろしく言っていた」とお伝えください
 お2人の健康を祈っております

                            吉田拓郎でした

2021. 10. 29

☆☆ブルータス、おまえもか☆☆
 田家秀樹が松本隆を綴った著書「風街とデラシネ〜作詞家・松本隆の50年」が発売されるらしい。同時に田家さんが松本隆作品を選曲した同名のCDアルバムも発売するらしい。
 そのニュース記事で田家さん曰く

“「Tシャツに口紅」。この曲好きなんですよ。大滝さんの曲の中でも、屈指の好きな曲ですね。…松本さんのシンプルな言葉、そんなに言葉を費やしてないんですけど、ドラマもストーリーも見えますね。”

 同感だ。俺もiPodには鈴木雅之と大瀧詠一の両versionを入れて時々聴いている。名曲だと思う。

 しかし、しかし、しかしだ。「Tシャツ」「口紅」と来て大瀧詠一だけですませていいのか。田家さん、アナタと私たちが背負った十字架はどうなるのだ。
 夜明けの埠頭にいる切ない二人、そこにTシャツと口紅といえば、よいこはみんな「サマータイムブルースが聴こえる」を思い出すはずだ。こっちは放置するのか。それにこっちの方が先だぞ。

 どっちがいい曲かという話ではない。セットと小道具の使いまわしのような、ゴジラとジラースのような (>また意味がわかんねぇよ) この2曲であるが、「Tシャツに口紅」は長い年月に疲れ果てた二人の別れのドラマを、「サマータイムブルースが聴こえる」は初々しく若い二人の青春の胸疼くドラマを見事に対照的に書き分けている。なのに田家さんが企画・選曲したというアルバムに「Tシャツに口紅」が入っているのになぜ「サマータイムブルース」は入っていないのだ。そこで松本隆の詞のふり幅の広さを評すればいいじゃないか。
 ていうかそもそも田家選曲でありながら拓郎の曲が一曲もないのは、え、どうしてなんだろう、やりきれないな。

 しかし私も年老いた。そんなことで田家の裏切り者などと怒ったりはしない。きっと事情があったのだろう、知りたくもないが。ただ僕も淋しかったんだよ。これを淋しいと思う人がいれば私達こそは同じ十字架を背負うものだ。

 Ninjin designの雨畑は某所でよく田家さんを見かけるようだ。今度見かけたら、そっと近寄ってシャツの背中に口紅でバカって書いといてくれ。それでいいよね。

2021. 10. 28

☆☆そんなことってあるだろう 君たちだって〜☆☆
 きっと程度の差こそあれファンなら誰でも若い頃には恥ずかしい拓バカな経験のひとつやふたつはきっとあるだろうと思う。"中二病"とはよく言ったもので14歳の俺にはひときわ衝撃的だった。単なるファンとか好みの音楽とかいうレベルを超えて魂ごと持っていかれたまま現在に至る。
 ショッカーに捕まった本郷猛は肉体改造手術を受けたが脳改造の寸前に脱出して正義のヒーローとなった。だが吉田拓郎に捕まった俺はいきなり脳改造を受けて肉体はそのままで放り出されたので、ただの困った人間になってしまった。わかりやすくいうとそういうことだ。>わかりやすくねぇよ、一部の変な人しかわかんねぇよ。

 来年のラストアルバム制作後は、すべてのことからスッパリ退くという吉田拓郎に対して、病魔を超えてよくここまで歌ってくれた、お疲れ様でした、本当にありがとうございました…と心の底から思うのだが、その反面でココまできて今さら引退というのなら、もとの14に戻しておくれと魂の底から悶絶してしまう困った俺もいるのだ。

2021. 10. 27

☆☆わけわからず☆☆
 アルバム”ローリング30”は詞に関しては「松本隆詩集」って感じだが、拓郎の詞も2作ある。しかし2作ともちょっとアレなんで、圧倒的な松本作品の前には、カレーライスの福神漬け、吉野家の牛丼の紅ショウガ、シウマイ弁当のタケノコみたいなたたずまいである(※個人の感想です)。それでも“わけわからず”には好きなフレーズがいくつもあって時々頭に浮かぶ。昨日もそうだった。

   嵐の中でも焚火を燃やせ 自分の命を愛しているのなら
     人が迷えばあとには道ができる そこには夢などかけるな 追うじゃない

 高校の卒業文集にこのフレーズだけ書いて”僕のエピローグ”と締めくくったのを思い出して超絶悶絶級に恥ずかしい。バカじゃねぇの俺。とはいえ今もやってることあんまり変わんないけどさ。

 それにしてもバーボンを抱くことはできるが、レミーマルタンを抱きしめるのは、おいそれとできやしねぇ…ってか、やったことねぇ。

2021. 10. 26

☆☆良い子でいましょうと諭されりゃ、悪い子もいいなと憧れる☆☆
 晴れて居酒屋の時間制限も解除になったが、だからといって素直にイケー!!と言う気分にはならない。あんなに居酒屋行けないと悶絶していたくせに。天邪鬼か。天邪鬼のファンもまた天邪鬼である。

2021. 10. 24

☆☆Long vacation no see☆☆
 しつこいがウイスキー・クラッシュにはラジオCMもあったのを思い出した。79年の8月にFM東京で小林克也のパーソナリティ番組で武道館公演の特集を放送した時に流れた。こっちはテレビよりハッキリとイントロと曲の一部を聴くことができた。これを篠島前に聴けていれば、幟を立てて”♪ウィスキー・クラッシュ、ウォウウォウ”を延々と繰り返して応援していた篠島の兄さんたちも、もっとバリエーションが出来たのではないか。しかし曲相もわからない当時の最新曲で応援に挑んだ彼らは偉かったなと真剣に思う。
 話がそれたが、そのラジオCMは拓郎が帰ってきたというナレーションで始まる。
「拓郎が帰ってきた」、「拓郎復活」、この種の言葉を長いファン人生でよく聴いたな〜としみじみ思う。吉田拓郎はキャリア的には一度も引退したことなどなくずっと歌い続けているのだが、そういう「帰ってきた」、「復活」というアナウンスやコピーをよく見聞きした。拓郎本人の本意ではなく、周囲や世間の演出なのだろう。
それでも「なかなか帰ってこない拓郎」「消息の聴こえない拓郎」というヤキモキする時間が何度もあったことを示している。ONとOFFはあざなえる縄のごとし…良いとか悪いとかではなく感慨深い。
  お帰り
  ただいま
  どこに行ってきたの?
…僕らは今も自由のままだ

2021. 10. 23

☆☆溶けかかった氷のような俺☆☆
 “ウイスキー・クラッシュ”がCMからはよく聴き取れなくて悶々としていた頃、週刊プレイボーイに胸わしづかみの記事が載った。週刊プレイボーイは、当時、中上健次の”RUSH”と戸井十月”HEY BOY’”というハードなエッセイの連載があって好きだったのだが、このお二人とも吉田拓郎のことが大嫌いのようで時々悪口が書いてあって実に悲しかった。…そういう話ではない。
 読者プレゼントのコーナーにサントリー提供の販促用カセット”ウィスキークラッシュ”(吉田拓郎)、”琥珀色の時”(布施明)の2曲入りがあったのだ。こういうのを豪華プレゼントというのだ。欲しい、欲しい、欲しい。ものすげー欲しい。と高校生の俺は悶絶した。しかもカップリングが布施明というシュールさ。これが本当の背中合わせのランデブーというものではないか。いみふ。
 ということで必死で何十枚かハガキを書いたが、なんの音沙汰もなかった。あれから42年経つので、たぶんハズレたんだと思う>あったりめぇだろ
 週刊プレイボーイに言いたい。俺は今でもこの町に住んで女房・子供に手を焼きながらも生きている。明日カセットが送られてきても驚きません。

2021. 10. 22

☆☆ワン・ツー・コマーシャル☆☆
 それで思ったのだが、拓郎の音楽を使ったCMの中で、拓郎の曲が映像とほぼ関係なく聴きとりにくい小さい音でうす―く使われているやつって結構ありませんか。テロップの「歌:吉田拓郎」でようやく、ああ拓郎か…と確認できるようなもの。こういう薄い使い方が、いつも俺の心をいらだたせる、いやせない、みたせない、なぐさめもない。もちろんいいCMもあった。”asahiのふんわり”でのローラの”ガンバラナイけどいいでしょう”、故林隆三さんのシチズン時計の”人生を語らず”、なんといっても”Have a niceday”フジカラー。これらは吉田拓郎のボーカルやフレーズという音楽の魅力と映像や商品がガッチリ組みあっている。
 しかしこういうCMとは正反対に、ついでに流しときました〜としか思えない=拓郎の音楽が空耳のように微音量で鳴っているだけのCMも多いのだ。セブンイレブンもそうだったし、車のCMで”遥かなる”とか”風をみたか”もそうだ。古くは”ウィスキークラッシュ”あたりからかな。聴こえないじゃん。いい曲なんだから大音量で流してくれよ。そのうえで最後にバーン!!って
 おまえ人生を攻めてるか? ウィスキークラッシュ!!
とかテロップをカマすぐらいのことはやってほしかった。 
 そうはいってもCMは音楽だけでなく映像、出演者、商品イメージ、情報の効果的伝達も含めた総合芸術作品なんだからというご意見があるが、…そんなもの俺には通じないぜ!!(爆)、拓郎の歌が輝いてなんぼである。

2021. 10. 21

☆☆友達になろう☆☆
 昨夜コロナでずっと早期閉店していたコンビニの前を通ったらバリバリ灯りをつけて営業していた。入ったことはない店だがそれでも嬉しい。脳内で伊藤咲子が歌いだす。

 ♪暗い街にも灯りをつけた店があるぅぅぅぅ セブン・イレブン〜

 その店はローソンだったのだが、まぁいいじゃないか。>よくねぇよ。
よくないといえば、松本隆と吉田拓郎がガッツリとこれだけの力作を書いているのに、そしてもちろん伊藤咲子の歌唱は安定のすんばらしさなのに、耳をそばだてないと聴きとれないようなショボい使い方で、CM自体もそんなには流れていなかった。ぞんざいな扱いに見えてしまう。今、松本隆先生にそんな扱いの仕事をさせる企業はあるまい。
 …どうだろう、もう一度使ってみちゃくれまいか。

2021. 10. 20

☆☆リモートひとり会議☆☆
 吉田拓郎の音楽が聴きたくて聴きたくてたまらずに皆、海を渡ってやってきたのである。そらぁ失礼なヤツもいた、失礼なこともあったかもしれないが
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…と思う。あとは拓郎の話をよく聴いてから考えよう。
 ところで、2009年"Have a nice day"のツアーバンフ掲載のインタビューの一節。
「79年篠島をやった時に、自分のやっている音楽がそんなに新しくないということをすごく思った。自分は新しいことをやってるわけじゃ全然ないと篠島で気付き始めて。」
 あの”偉大なる復活”の熱狂の中で、こういうことを考えていたところが吉田拓郎の凄いところだ。こういう話はとことん聞いてみたい。

2021. 10. 19

☆☆いつもめぐりめぐって振り出しよ☆☆
 2005年の秋に篠島を再訪した時に「篠島グランドホテル」の送迎バスの運転手の方に、吉田拓郎アイランドコンサートの話を振った。「ああ、デビューしたころの長渕剛が出たやつね。長渕、いじめられて、きっとこの島のことあんまり良く思ってないよね」・・と表情を曇らせて答えた。…そうか、拓郎のイベントというより、長渕の悲劇のステージとして追憶している人もいるのだ。
 しかし俺はあの日、長渕の「俺は帰らん!」「帰るならおまえが帰れ!」のタンカはもちろん覚えているが、いわゆる”帰れコール”を直接聴いていない。後に会場の録音を聴かせてもらったが、一人か二人の観客が「帰れ」とヤジっている声は確認できた。
 だが少なくとも俺の周囲の観客たちは、拓郎への愛を熱く語る若きシンガーにどちらかといえば好意的だったと思うし、「長渕がんばれ〜」という声援も実際にいくつか耳にした。俺も好きでもないし嫌いでもない僕達見知らぬ他人のようだったけれど、そこで聴いた「祈り」っていい曲だなとしみじみと思ったのを覚えている。このあたりが観客のマクロな雰囲気だと思っていた。ただ俺らの席は前線からは外れていたし、確かにあの日は、長渕とは関係なく観客内に全体に殺気立った雰囲気もなくはなかった。どうだったんだろうね。
 ということでリモート会議のテーマは「検証・“帰れコール”はあったのか〜篠島深夜の30分」。いや、やるかどうかわかんないけどさ(爆)。
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ダチのt君撮影。

2021. 10. 18

☆☆ファミリー☆☆
 長崎空港で入った食堂は、感染対策がとても徹底していて、向かい合って座ることが一切できず横並びに座らなくてはならない。家族連れが多かったが例外はなく一家全員横に座って食べてなくてはならない。横一列に座って醤油や酢を左右にやりとりしている光景はもうそのまんま”家族ゲーム”でなんかえらく感動した。松田優作が暴れ出さないか心配になった。感染防止のための施策に対して不謹慎ですまんが壮観だった。
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 “家族ゲーム”といえばテレビ盤は長渕剛だった。長渕といえば…今度、篠島についての御拓宣って何を言うんだろ。明るくハッピーにお願いね。

2021. 10. 17

☆☆いつも見ていたナガサキU☆☆
 今回は個人的な事情で少し暗い旅になってしまったが集まり散じて人は変われど、やはり長崎の町は特別だ。
 今年大往生した98歳の伯母が常日頃から「ちゃんぽんはココが一番ね」といつも連れて行ってくれた長崎中華街の江山楼。後に吉田拓郎をバンマスに頂く雲仙普賢岳救済のスーパーバンドの打ち上げが"さだまさし"によって催された場所でもある。スーパーバンドの精神に共感した社長がお代はいらないと熱いお気持ちを示してくれた店だ。ここは外せない。伯母の思い出やさだまさしが語ってくれたスーパーバンドの吉田拓郎の思い出をつらつら考えながら、今夜はちゃんぽんではなく皿うどん・やわらか太麺で。

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2021. 10. 16

☆☆招かざる男☆☆
 観光目的で行ったわけではないのだが、やはり東京から来たと言うだけで緊張される。無理もない。そのうえ私の不徳の致すところもいろいろ重なって、今回は個人的に居心地が悪い。切なか。長崎だけど、ここは我が心の卯辰山相撲場だ。いみふ。ああ、ちゃんぽん食べたか。

2021. 10. 15

☆☆星を求めて☆☆
 "星を数える男になったよ"(流星)、"星を数える旅がつづく"(男達の詩)…内心、星は美しいけれど、数えなくてもいいだろ、大変すぎ、日本野鳥の会じゃないんだから…とずっと思っていた、しかし今日たまたま読んだ重松清のたぶん新刊「かぞえきれない星の、その次の星」を読んだらその答えがなんか少しだけわかったような気がした。
 「かぞえきれないものを、ときどき見たほうがいい。ぼくたちは皆、また間違えてしまうかもしれないから」
 読みながら以前、映画「星の王子様とわたし」展で観て気に入った映画の絵コンテを思い出したりした。
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 さていろいろあって、僕はこれから長崎に行くところ一番きれいだった女の子の顔など思い出し。

2021. 10. 14

☆☆銀河系まで飛んでゆけ☆☆
 スタートレックのジェイムス・T・カーク艦長ことウイリアム・シャトナーの宇宙飛行。拓郎&スタトレファンという希少な知り合いから教えていただいた。ファンのはしくれなのでリアルタイムで生中継を一部始終観てしまった。成層圏で切り離されたロケットの推進部ってサンダーバード3号みたいにそのまま戻って来て垂直のまま着陸するんだ。すげえもんだと驚いた。
 すげえもんだといえばシャトナーはもう90歳なのか。どうみても節制しているとは思えない体形なのに実にお元気だ。できればスポックのレナード・ニモイとDr.マッコイなど他のクルーもいてほしかったな。
 帰還後、宇宙船から降りるなり、熱くなって時に涙ぐみながらガンガン語り続けていたシャトナー。「青空の向こうは死の世界、まったくの闇だった、で母星の地球は青くとても美しかった、素晴らしい体験だった」…宇宙開拓の夢を描き続けた艦長にしてはミもフタもない気もするが(爆)、本当にそう直覚したんだろうな。
 結局、地球が一番。空も海もこの大地もそうさ会いたい人もいる、ここは今僕の国だよ〜と叫びたいアイランドな気分なのだったと察する。漆黒の闇の宇宙から見れば地球も篠島もひとつのアイランドなのだ。意味わかんねぇよ。

2021. 10. 13

☆☆ワールドカップも出てほしいよね☆☆

 「田中碧」 読めて知ってて 自慢する

2021. 10. 12

☆☆花は咲く春になれば地の果て続く限り☆☆
 日曜劇場「日本沈没」が始まったようだが、日曜、日本沈没といえば中学生の頃観ていた村野武範・由実かおる主演のドラマ「日本沈没」だ。映画と同じで田所博士は小林桂樹だった。あの五木ひろしの主題歌はなぜか今でも歌える。江守徹主演のラジオドラマもあったな。とにかく大ブームだった。映画では東京大地震の惨状に丹波哲郎総理が苦悩の末「皇居の宮場の扉を開けて都民を避難させてください」と電話で要請するシーンがリアルに怖くて、またカッコよくもあり印象的だった。
 その頃だったかは忘れたが、昔の雑誌のインタビューで日本が沈没したらどうしますか?という質問に吉田拓郎はギターをつなぎあわせて船にして俺は最後まで生き残るぜと豪語されていた。ファンじゃなかったら思わずハリセンで叩きたくなるような(爆)すまん。ともかく今さら日本が沈むとかそういうドラマはあんまり観たくないな。

2021. 10. 11

☆☆なんとなく、なんとなく☆☆
 前回の拓郎のオールナイトニッポンゴールドの前のホッピーミーナのゲストが井上順だった。井上順、昔からなんとなく好きだ。あのシャレとギャグを果てしなく打ち続けることからにじみ出る無防備な幸せ感。例えば拓郎のラジオに出た時「かまやつさんは歳だけど加齢臭がしないよね、無臭(ムッシュ〜)」という感じのギャグを隙間なく入れ込んでくる。拓郎も「順ちゃん帰ってもらうよ」と怒りながら実は喜んでいるのがよくわかった。
 しかし、いつの間にか「おやじギャグ」というミもフタもない言葉が浸透し、そういうギャグを冷ややかに受け流すのがトレンドになった。しかし、俺は、ギャグのクオリティではなく、ギャグを打ち続けるその愛すべき人柄を愛しているのだ。
 その意味では、デーブ・スペクターも好きだが、彼にはどこか姑息な底意地の悪さを感じる。俺自身がそういう人間だからよくわかるのだ。しかし井上順にはそれがない。

 そのホッピーミーナで、いつもやっている習慣はありますか?と尋ねられると、順さんは「デパートやショッピングセンターに行って”お客様の声をお聞かせください”という箱があると必ず書いて入れるのよ」とのことだった。何を書くんですか?と問われたら「『やぁー』『今日も来たよ』とか書くんだよ、だって”声をお聞かせください”って書いてあるんだもの。」
 …すばらしい。愛でないものはあるはずがない。達人の域に近づいている。やっぱ好きだ、井上順。

 話は変わるが、昨日は、さまざまなこの世の規制をクリアしてtくんたち3人と一年ぶりに会った。のほほんと生きている俺とは違い、いくつもの極北を闘って超えてきた彼とこうして会えたことは本当に良かったと思えた。♪少し黄昏、でも会えてよかった 今は黄昏、また会えてよかった。ということで赤い黄昏を互いに祝った。
 きれいな三日月を眺めながらしばし飲むと頭の中で井上順が歌いだすのだ。まー自分たちを美化しすぎだが、そういう短絡した気分にもなるのよ。

  友よ君と町へくり出し
  肩など組んでふと見上げれば
  月も今宵はなんだかいいね 
  なんだかいいね
  ああ ああ 風の中
       (「風の中」作詞 岡本おさみ 作曲 吉田拓郎 歌 井上順)

 やっぱり俺は松本より岡本だな。これからのも日々も最後まで一緒にさまよってゆきましょう。

2021. 10. 10

☆☆話しかけていいですか☆☆
 ”この歌をある人に”で思い出した。以前、徳武弘文・孝音親子が共演されたライブを観たことがあった。ちょうど息子さんの孝音さんの誕生日で、1980年9月生まれだとわかった。で、閃いたのだ。その頃ってまさに”アジアの片隅で”のレコーディング、ということは徳武弘文アレンジ&プレイの”この歌をある人に”の頃じゃないか。昨日のラジオでも拓郎が徳武さんに「思い切り明るく」と頼んだと話していた時期だ。そう考えたらなんか一人で盛り上がってしまった俺は、たまらずに休憩時間に外で休んでいた徳武さんに図々しくも話しかけた。
 「徳武さんが、拓郎さんの”この歌をある人に”をアレンジして演奏されていた頃にお生まれになったんですよね。感慨深いです。」
 「え…ああ…そうですか…」
 徳武さんはリアクションに困っていらした。俺は、かなり凄いことを話したつもりだったが、かなり凄くないことを話してしまったらしい。やらかしてしまったか。苦しい胸の早鐘を空が淋しく観ているね…まさに。このフレーズが好きだな。

 念のためだが、徳武さんはその時ツレがレス・ポールの話をしたら、ものすごく親切に熱をこめて話てくださった。気さくで優しい方であった。問題は、思い込みで変なこと言い出す変なヤツの俺である。

2021. 10. 9

ホッピーに井上順。

オールナイトニッポンゴールド  第19回 2021.10.8

☆☆☆あらすじ☆☆☆☆☆☆

 吉田拓郎です。毎週週替わりパーソナリティでお送りする金曜日、今週は吉田拓郎がお送りします。

 収録は仕事部屋寝室でやっているが、佳代さんが洗濯している。音がするかな。

<高3の時、つま恋は高校の生活指導の先生から禁止されていたが友人と参加、しかしチケット付きバスツアーで来る予定の友達が現地に来ない、なんとツアーバスの乗り場が生活指導の先生が来ていて連れ戻された、でも友達は自分達のことは先生に話さず守ってくれた、それ以来、つま恋のことは今でも禁句という投書>
 つま恋は、何時以降は帰れとか、参加しないようにとか規制があったんだ。そんな中にありがとね、でもいい思い出になったでしょ。
 75年の夜、多目的広場の土手の上の森の中でイチャイチャして、できちゃった子どもがいたらしい。いかにもあの時代の夏、今のサマーフェスではありえない。その子の名前がつま恋に関係するものだったらしい。かぐや姫かな、まさか高節ではないだろうな(笑)。

<つま恋の話に高校時代を思い出して、何人かはチケットは手にしたが、実際に何人いったかどうかわからない、田舎の私は学校に禁止されてあきらめた、当日は戸をあけて20キロくらい先の会場から音か聴こえないかと思ったが、無理だった。その後悔から、上京して篠島は一人で行った。 その後のつま恋は行けた、その場の匂いまで記憶に残っている、これからは若い人たちを応援するオトナでいたいという投書>

 篠島は遠いし二度とやりたくないな。あのコンサートは納得していない。今度話すけど、長渕に対する態度とか、なんだよ、俺のライブでそれやるかよと思ったよ。そういうやつらとは縁切りたい。篠島に一人で、よくやったよ。若い人を応援したいっていいオトナになったね。そういう人生を送ってくれると嬉しいな。

 あの時代70年代は、すべての文化が世界中で変化してゆくときだった。新しい変化についてゆけない大人がいた。そういう人には戦いだった。戦いの時代、世代の戦いだった。僕も当時は息苦しさを感じていた。明らかに古い価値観の人もいた。その時のつま恋を禁止した学校の判断は間違っていたと思う。音楽を聴きに来るんだし、その時のオトナが間違っていた。誰が拒んでも止められない大きいうねりで世界を変えていった。そこには成功と失敗がある。 今は音楽イベントはどんどん行われているし、コロナ禍はあるけど回復したらまたやるでしょう。他にもネットを通じてトレンドを作ったり、起業する人も多い。変わったなと思う。僕はついてゆけないです。世代、ジェネレイションの変化。時代は変わる。古くなった吉田拓郎が頭の固いおっさんになっている。時代はめぐりめぐる、ああそれが 青春って誰かの歌があったでしょう。ああそれがそれが人生かな。ラストアルバム、いいアルバムだ、好い詞だよ。
 
■  今夜も自由気ままにお送りします吉田拓郎のオールナイトニッポンゴールド。

<ニューアルバムの話で元気が出た、痺れました(古いでしょうか)、常に一歩ずつという拓郎さんの背中には誰にも追いつけない、背中が見えない、”凖ちゃん”にまいった、ラストアルバムのソノシートにつけてくれないかという投書>
 そう半歩ずつというのが僕の口癖だ。
 シビれる・・・古い(笑)。キンキとかシノハラも若けれどもう40代だけど。親友と思っているけど、たまに話していて古い言葉が出てくる。凖ちゃん、フルオーケストラで凄かったな。よくやったな。ニッポン放送には申し訳なかったけど、あれはTBSでやったんだ。

 今回のラストアルバムは、間違いなくいい曲がいっぱいあるよ。自画自賛、そのうちデモテープは流すかな。自慢じゃないけど今のところいい曲が出来ている。特に詞がいいな。まだこんなにいい詞が書けるなんて。ずっとあたためてきたし、2019年以来、いろんな音楽を聴いた。毎日、武部、鳥山とデータでアレンジを仕上げている。録音スタジオに集まるのは危険と隣り合わせだ。換気もよくない密室だし。そこでマスクしてやるのは楽しくない。自宅から打ち込みのデモを送ると、この楽器はこうした方がと修正のデータが戻ってくる。この曲はバンドがいいな、この曲は打ち込みで行けるんじゃないかと話し合う。バンドは時期が来たら、しっかり検査してスタジオでやろう。できなければまた別に考えようということで、将来が見えてきている。
 CD、LPの打合せ、特にLPは写真も大きくなる。篠原と撮影協力のアクトレスとリモートミーティングをしている。リモート、これで十分。経費の節約もなるし いいアイデアだと思う。
 ただしリモート飲み会は佳代さんの情報を聴く限り楽しくない。楽しくないでしょ。毎晩飲みに出かけていた自分としては、そもそも一人飲みが嫌い。その場の雰囲気で  もう一軒行こうよ、というのが楽しい。三軒目の店ごとって歌があったでしょう。リモートだとそろそろ終えて電源切って・・・寂しいよ。

 アルバムは、順調に進んでいる。遅くとも来年の秋までには発売される。つくづく思うのは、その秋がこの番組のエンディングかもなということ。個人の気持ちとしてはすべてから降りてゆく季節。僕のお母さんが言ったように、決めたらスパッと、ズルズルは似合わない。それがアルバムの発売のころかな。

 年が明けて明るい社会状況になったら、”LOVELOVEあいしてる”をもう一回やろう  いよいよ、拓郎、キンキ、シノハラの卒業式。最後の特番ということでプロデューサーとラストテイクを考えている。
 キンキとシノハラはこれからも活動してゆくけれど、吉田拓郎にとっての最後のテレビ出演。楽しみだ。昔、よく通った麻布のカウンターバー、そこには志村けんさんもいて志村さんとそのガールフレンドにくっついて「もう一軒いこうよ」と言って志村さんから「拓郎さんもう帰った方がいいよ」といわれつつお邪魔しました。

M-1 僕達のラプソディ  吉田拓郎  いい曲

(CM)

<過去の自分を冷静に笑えるのは凄い(俺のことか笑)。3時から始まるステージはあり得ない。当時はとても行けなかった。だから2006年のつま恋は宝物。花火で思い残すことはない遺言のような という投書>
 遺言ね。言い残したいことはない。やりたいことは全部できた。この世でOKといいたい。今を頑張って生きている情熱。遺言なんてお断り、似合わない。僕が消えた後の世の中で何か起きても意味がない。現在僕が元気な僕、それが一番大事だ。

 音楽人生、拓郎交響曲の最終章の最中 ここが悪いと今までの全体が悪くなってしまう。最高なものにしたい。このラジオも取り組んでいるのはテキトーなのがいやだということ。遺言でなく今が大事だから、全力投球で、今を輝きたい。エンディングをマイナス志向で考えるのでなく、エンディングというものが未来に向かって歩き始めているんだ。新しい挑戦をしたい。これは終活ではない。ラストアルバムもこれまで支えてくれたミュージシャンの同窓会だけではなく、それは決してメインのテーマにはならない。それがメインならやらない。新しいことに挑戦しないとつまんない。
 若い人の音楽について武部、鳥山とミーティングする。「藤井風」この人の音には少し「おおっ」というものがある。そういうのを聴きながら、この音はいいな、ベースはサンプルかな、エレキは手弾きかなとかミーティングしている。もちろん若いからOKではない。面白いものを研究している。そういうのが僕だけの音楽人生、それがまだまだ続いている。

<秋の味覚、高めの果物を奮発、ぶどうの品種は増えた、甲斐路が無くならないか心配という投書>
 わかる。果物高いな。品種増えたの思う。僕も佳代さんもシャインマスカット好きなんだ。彼女のラストステージ。
 ハードスケジュールで家に居る俺も辛かった。朝4時に起きてコーヒーとパンとたまごとサラダをつけないと気が済まない。野菜を外さない。現場が栃木、静岡遠かった。ついつい早起き。夜も遠いからヘトヘトになって夜中一時に帰って、2〜3時間で起きてという生活だった。
 本人も大変だけど拓郎さんも一緒に大変。そういうもんなんだよ、パートナーは。
そこで見つけたのがシャインマスカット。これをつまんでゆく。うまいんだ。皮ごと食べられる。最近高いんだ。さっと品種改良してくれないか。

(CM)

 最近、ふと あの曲を聴き直してみたいというものがある。就寝前に iPodを片耳でオーバーイヤーで聴いている。音はモノラルに変えて子守歌代わりに。時々入れ替える。あの曲聴きたいなと言う曲がある。そういう曲の話を今月来月とやりたい。
 寝る前に、どうして今まで入れなかったのか。起きてPCで入れて聴く。松本隆の詞で聴きながらやりとりを思い出していた。松本くんとの曲づくりはは総じて楽しかった。一番楽しかったのは松本隆。彼はお酒は飲めない、遊び人でもない 違う人種だけど気が合う。
 僕に付き合わされていたかのように、酒の場所で打合せ、松本くんは固い話、僕は不真面目に柔らかい話。共通点はないままだった。
 原宿のプレイバッハ。神田広美のドンファンを作った後だと思う。あの作品もすげー気に入った。アレンジも馬飼野康二で良かった。松本と二人でシングル盤を頼もうかと思って、「一緒に死ねないか」というラブストーリーを思いつきどうかと尋ねた、それが「舞姫」に現れている。
 松本から拓郎はどういう女子を思い描くの?と訊かれた。本当は何にも描いていないけど(笑)、一人で座っていたチャーミングな子、時々見かけていたけど、あの子みたいな感じだ。「拓郎は相変わらず目移り早いな。あの子知ってんの?」というので知らないけど手を振ってみたら、手を振ってくれた。それっきり。あの時の子のイメージで作ったらどうなの。もうデタラメ。そしたら、すげーかわいい詞が出来て、君は素晴らしいとほめあげた。凄い可愛い。最近iPodで聴いているが、 アレンジは徳武で思い切り明るイメージでコーラスは吉田拓郎ひとりで三人分やっている。

M-2 この歌をある人に   吉田拓郎

■■11時
拓郎>最近吉田家の晩  レパートリーが広がった、味噌汁もおいしい、小鉢も増えた
レベルが上がっている 何か秘密はあるのか
佳代>Youtubeで三人の方の動画を観ている。
日本人モデルさん、日本人でパリ在住の人、オーストラリアの中国の人でみんな30代、40代の方の動画を参考にしている
拓郎>Youtubeなのか
佳代>味はわからないので味付けは母のもの   
・・・最近美味しいって、前もおいしかったじゃん(怒)

 70年の初期、柳田ヒロと高中正義とツアーをしていた。ヒロの音楽のセンスは抜群でいい音を出していた。彼が紹介してくれた出版社20代の女の子がいた。けだるい雰囲気の桃井かおり風の人でよく一緒に飲んだ。なんか危なっかしい子だが、それが当時のトレンドだった。時々ツアーにもついてきて楽しんでいた。
 ある時柳田ヒロと三人で飲んでいるときそのユニークな子が毎日がつまんない飲んでいると楽しいけど帰って一人になるとつまんない。アタシももう東京を離れようかな、ヒロにも拓郎にも感謝している。
 別れの言葉だと思うけど、シラケた感じ。シラケ世代でシラケた子がトレンド。僕等もこうすればああすればと言わない、じゃあ好きにすればと言う感じで、じゃあ元気でねと、それきり会わなくなった。たぶんいなくなった。
 そういうのいたな。ユニークな時代だったな。男も女もクール。ショーケンの芝居とかでもシラケと言う感じがあった。この人をエピソードをもとに妄想しつくしたストーリー。石川鷹彦にアレンジを頼んだ。石川鷹彦は、単にフォークギターの名手ではなく、さうじゃない。なんでも知っている。ゴスペルコーラスのジュルルも含めてドゥーアップ、ストリングスもリズム・アンド・ブルース風で新鮮なものになっている。あまり受け入れられなかった曲だが、夜中にiPodで聴いている。

M-3  たえこMY LOVE     吉田拓郎

(CM)

 東京に来る前に、コロンビアのフォークコンテストに出たことがあった。逗子であって 三位だった。一位が、ベーグル&カルテットというブラザースフォーのようなグループで、2位は、フーツエミールで、後の”赤い鳥”と”ハイファイセット”。僕は、平凡パンチに和製ボブディランと紹介され、その後もそういう扱いになっていった。ボブディランは好きだけど違う。
 ディランは高校生だったころ、平和なアメリカンポップスのそこに彗星のごとくメッセージの歌として現れた。彼の初期の”風に吹かれて”いくつ道を歩けば一人前になれるのか、とか人生をうたっている。ニール・セダカとかデル・シャノンの恋とか青春とかと違って人生とか社会の風景を歌っていた。ベトナム戦争の泥沼化して、若者はうんざりして反戦反体制の機運が高まっていた。プレスリーのロックンロールは、オトナへの反抗だったけれど、社会、政府に対しては感じなかった。だからディランは衝撃的だった。しかも、ギターとハーモニカで歌っちゃう。同級生からいろいろ教えられた。その時思ったのは「俺もできそうだな」という感じだった。実際やってみたら簡単にマネができた。それがヒキガネになってアルバムを聴き始めた。しかし、当時は広島ではねディランのレコードが手に入らない。友達が岩国の放送FENを聴いたらやっていると言ってたけど、自分も聴いていたが、ディランは気づかなかった。「拓郎はカスケーズばかり聴いているからだ」と言ってテープを聞かせてくれた。そのころから自分でもエアチェックしてディラン研究を始めた。
 ディランのスリーフィンガーがうまい。先月、ポール・サイモンの”4月になれば彼女は” で話したけどスリーフィンガー。ディランは、ノーベル賞ももらったし哲学的詩人としてとらえられているけどギターがウマいんだよ。そういう違う捉え方だから世間から、ああ吉田拓郎(のディラン評価)はダメだと言われるんだろうな。

M-4 くよくよするなよ   ボブ・ディラン

(CM)
 ディランに関しては 広島ではそこまでのファンではなかった。広島フォーク村にいたけど、フォークソングはよくわかってないし興味もなかった。R&Bの4人組バンドもやっていたのでが最優先だった。フォーク村は片手間だった。広島フォーク村からディランやフォークのいろいろを教えてもらった。
 プロになって、東京のフォークソングを知って、なにこれと思った。日本の古いフォークソングは、アメリカのフォーク、例えばカーター・ファミリー・ピッキングとかそういうのと日本のフォークは違う。フォークはこうあるべきだという学生たちの身勝手なものだった。彼らはディランもメッセージシンガーとしてとらえていて、これラブソングじゃないの?と思うのもあったけどわかっていなかった。
 エレックからソニーに移籍して、ディランのレコードはソニーから出ていた。洋楽担当の宣伝マンから、当時、洋楽の宣伝マンというのがいたんだな、拓郎さんディラン好きならのアルバムの文章書いてくれないかなと頼まれた。そのアルバムが「セルフポートレイト」。これは僕は凄く高く評価している。アメリカのスタンダードを歌っており、後の”ぷらいべえと”というアルバムで参考にした。日本でいえば三波春夫さんを歌うみたいなもので、ファンからはいろいろ言われたりしたけど僕は好きだったな。寄稿文を書いた。ディランは変わった、商業に身を売ったという連中に喧嘩をうるつもりで書いた。僕はディランをソングライターと思っている。美しいメロディーとコード進行が心に響く。音楽家として作曲家として素晴らしい才能を持っている。美しいメロディーライン、音楽家として抜群のメロディメーカーだと思っている。

M -5 ブルームーン   ボブ・ディラン 

 東京に来てからディランから徐々に離れてきた。そもそもディランのアルバムが僕ごときの日本人には理解できない世界観だった。だんだん宗教的なものを感じるようになった。僕はクリスチャンでもないし無宗教に近い。1975年 “血の轍”というアルバム、これを聴いてもうディランは遠く行っちゃったと思った。その後も同じ。これは僕が間違っているかもしれないな。ディランは変わらない。思うがままに曲を書き続けていた。それを僕が間違って解釈していたのかもしれない。僕はディランに新しいアメリカンホップスを求めていた。それを強く求めていた。歌詞を読んで僕にはわからないと戸惑った。身勝手な先入観。まちがってたのは僕だと思う。
 うわーなんて素敵なメロディーだと思って、今までになかった C→Em、G→Dmこれでポップな曲ができると教わった。ポップなメロディー、歌詞よりもコードアレンジの素晴らしさ、ディランがいなかったら僕はいない。僕はもともとシンプルなソウルにいたから、フォークのことはわからん。

 ロマンティックなメロディで、シンプルなコード進行のくりかえし、後のペニーレインでバーボンのように同じコードを繰り返す。クラプトンねカバーしたよね、ポピュラーだからだ。
C→ Amを→ Emに向えた涙が出るほどいい曲

Mー6  Love Minus Zero/No Limit     ボブ・ディラン
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■エンディング

<昔、ダイアランドでレコーディングしたと聞いて驚いた別荘地でしたが最近は変わったという投書>

 箱根だよね、ダイアランドは。ロックウェルというスタジオがあった。思い出のスタジオは三浦の観音崎マリンスタジオと横浜のランドマークスタジオ、この二つが大大気に入り。ホテルと直結していたし、くつろげるプールサイドもあった    
 ここでレコーディングしたのは”吉田町の唄”。夜になると小さな控室で酒飲んだり、最終日には寿司職人を呼んでお寿司握ってもらったり。


次回は、11月12日金曜日です。

お別れの曲は、懐かしくも
M-7 every breath you take  ポリス
 お相手はここまで吉田拓郎でした。

☆☆☆思いつきと感想☆☆☆☆☆☆

☆ ラストアルバムの制作が快調なようだ。これまで豪華参加ミュージシャンに、映画に、ジャケットにと「器」の豪華さばかりが先行してゆく中で、密かに心配していた「新曲」。これが素晴らしい詞とともに進捗していることに安堵した。同窓会ではなく、新しい音楽に向っているという自信に満ちた言葉が嬉しい。

☆つま恋。確かにあの当時、教育関係は、参加を禁止・規制しようとしていたんだな。つい老人になると昔は良かった輝いていたと思ってしまうが、昔の学校は良くないことが実に一杯あったことを気づかせてくれる。今の時代はその意味ではいい時代なんだなとしみじみ感謝する。

☆ 禁止に負けずにつま恋に挑んだ人、運悪く禁止の網にかかったが決して友達を売らなかった人、涙を呑んで行けなかったがその悔しさを胸に若い人の自由を応援しようと思う人、どの方も等しくすばらしい。ありがとうございましたと心から頭を下げたい。そのおかげで私達の今があるのだと思う。

☆今回は選曲が良かった。どの曲も聴き入ってしまった。”僕達のラプソディ”。なんとなく涙ぐむ。あの店、いつも拓郎さんはいなくて志村けんさんはかならずいるんだ。いい歌だよね。

☆"この歌をある人"にのモデルの話が聴ける日が来るとは思わなんだ。松本隆が俺に詞を書かせろと念じていたころのデビュー間もない松田聖子ではないかと何の根拠もなく思っていたが、そうだったのか。
 しかも"この歌をある人に"のコーラスは、ご本人の三重唱。知らなかった。早く言ってよぉ。いとおしく聴くべし。

☆いろいろマト外れだったりするUramadoだったが、"たえこMY LOVE"の石川鷹彦のことはバッチリだったみたいだ。自画自賛。http://tylife.jp/uramado/taekomy.html

☆ディランの話はためになったな。そのまま入れ子状態で拓郎と拓郎ファンの関係にもなってしまうところが面白い。「歌詞を読んで僕にはわからないと戸惑った。身勝手な先入観。まちがってたのは僕だと思う。」ああなんかそのまま拓郎に対する俺のようで胸が疼く。

☆78年にディランが来日したときに村上龍が「みんなディランを勘違いしている、ディランはメッセージシンガーじゃなくて、ポップな音楽にこそ魅力がある」と語っていて、これは村上はぜってー「セルフポートレイト」の吉田拓郎の寄稿文をパクったか参考にしてるよなと思った。

☆それにしてもボブディランの"ブルームーン"はなんて美しい声なの?陽水みたい。

☆うちもシャインマスカットのためにふるさと納税をしている。

☆篠島に完全納得してなくても、全否定はしないでね。こちとらの青春のよりどころなんで。

☆☆☆今日の学び☆☆☆

 音楽人生の最終章・エンディングと終活・遺言は全く別物である。

2021. 10. 8

☆☆キーを回さないのに大地が揺らぐ☆☆
 関東地方の地震、かなり揺れた。びっくりしたね。皆様ご無事でしょうか。帰宅困難になってしまった方もかなりいられたのではないでしょうか。御見舞申し上げます。
 1985年のFM東京"拓郎のフォーエバーヤング"第1回の放送で、ホテルで地震にあった拓郎が建物がいつまでも揺れている気がして何度もフロントに大丈夫かと電話していたら、しまいに「怖がりですね」とフロントに怒られたという話をしていた。しかしこういうことはキチンと"怖がり"でいることこそが一番の勇気ではないか。さすが吉田拓郎であると真面目に思った。ということで、どうか皆様くれぐれもお大事に&ご注意なさってください。

2021. 10. 6

☆☆僕達もそうやって生きてきた☆☆
 やっぱり堂本剛って、いい声だし、歌うまいよなぁ。とフジテレビを観ながらしみじみと思った。いいシンガーだ。You、ジャニーズの最醇の結晶だよ。

 いいシンガーといえば、LIVE2016のDVDについていたCD。これの”僕達はそうやって生きてきた””が今さらすんばらしい。凄いドラムだ。当時、髪の毛を後ろで縛った、今はやりのニューヨークのロースクールの学生みたいな髪型のドラマーが苦手だった。すまん。このバージョンはまるで魂に連続砲撃を受けているかのようだ。分厚い演奏で、ボーカルはそれを凌駕している。地下鉄の中で聴いていて思わず身体がスイングしそうになり、つい「おおすげぇ」と呟いてしまった。
 これが例の遅れて届く何かなのだ。嫌いだった曲の、しかもさんざん文句垂れたライブのバージョンが、チカラをこめて迫ってくる。で、このあとの”流星”がいっそう輝くのよ。ああ、いろいろすまなかったな。
 …あ、でもだからといって、もし仮に次のライブがあったとしても別にこれは歌わなくてもいいよ。もっと希少な曲を歌ってください。ついては、この2016ver大切に大切に聴くから。

 前も書いたけど2019の最後のライブの音ってCDアルバムとかアルバムにしなくていいの?

2021. 10. 5

☆☆おだやかにやすらかに☆☆
 いや、緊急事態が解除されたからとて浮かれるのはまだ早いか。早いというより何もかも元に戻そうとする必要はないかもしれない。コロナ禍でいつの間にか身に着いた習癖は悪いものばかりじゃない。
 混んだ店は避け、風通しの良い場所を選び、政権や"はっぴいえんど"の悪口でクダをまいたりせず、似てない松本隆のモノマネでむやみに人に話しかけたりもせず、静かに吉田拓郎の魅力だけを讃え、午後8時前にはほどよく酩酊し、家に帰って明日の用意を済ませて午後10時に寝る。…いいじゃないか。小学校の時の"よい子の一日"のような生活。坂元先生がホメてくれそうだ>誰だよ。小4の時の担任のキビシイ先生です。小学生は酒飲まないけどさ。今の自分にとってはそれが年齢+自分の置かれた状況に一番相応という気がする。

2021. 10. 4

☆☆街の灯☆☆
 宵の街に灯りが戻ってきた。いろんな香りもたちこめている。やっぱりいいな。有象無象の街に灯りをともせ。やさしいあの娘と一緒に待ってます。街のはずれのチョウチンで。
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2021. 10. 3

☆☆すなおになれば☆☆
 市ヶ谷駅から新宿方面に歩く途中で防衛省の退庁時刻とかちあってしまうと面倒だ。帰宅職員が大挙して歩道一杯に広がって波になって市ヶ谷駅に押し寄せる。一人で逆方向に向かうヘナチョコの俺はいつも押やられハジキ飛ばされそうになる。オイ、こっちは非武装の民間人だぞ!と毎回アタマに来る。そんな時はこのプロモーションビデオの光景を思い出して落ち着かせる。
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 曲は♪…通勤ラッシュは今日もまた、ひとつの方向へ押しすすむ、僕は流れに逆らっていた〜が流れる。ということで吉田拓郎になったようなイケてる気分でやり過ごす。自分でもバカみたいだとは思うが、これはこれで小さな処世のひとつなのであります。

2021. 10. 2

☆☆それは人生という名の謎だから☆☆
 例の読売新聞の人生案内での相談。十数年前に亡くなった祖父がくれた手紙をたまたま再読し、なぜ心の込められたこの手紙を返事もせずに読み捨てていたのか相談者は後悔しているという。いしいしんじはこう答える。
「祖父はまったく気にしていない。あなたを信じているからだ。〜便せんを開いた時、心に響かないかもしれない。祖父は知っている。やはり信じている。こころからの声は届くべき時に必ずその人に届くと。〜十数年をかけ祖父の声はあなたのところにやってきた。だから今あなたの胸はふるえ あなたの耳は祖父が一生懸命に書いたこと、こころをこめて綴ったことまですべて聞き取ることができる。〜おう届いたかと祖父もきっと今笑顔でうなづいている。」
 俺なんぞは、日々こういう気づかない自分とその後悔との繰り返しの連続だ。昔、心に響かなかったあの曲、というより駄作と罵ったこの曲。その曲の魅力に何十年もかけてようやく気が付く。”胸はふるえ、拓郎がこころをこめて書いたもの”をそうだったのかと思える。このサイトはそのときの後悔と懺悔でできていると言っても過言では…いや過言だ。

 拓郎も語っていた。「僕の作品というのはいずれ売れるんだ。そこは動物的カンで思うんだけど、それか今回なのか次回なのかわかんないですよ。ただいずれそこに行くと思う。」(ぴあムック・吉田拓郎ヒストリー・インタビュー p.131)
 自分の無明を棚に上げてしまうが、長い時間をかけてようやく届き理解できるものもある…ということで許しとくれ。
 相談者の方の祖父は「おう届いたかと祖父もきっと今笑顔でうなづいている」と優しく歓待してくださっているが、他方、拓郎は、インタビューの中で「即ほめてくれなきゃ、ヤなの(笑)」(同p.150)、「これをわからないのはお前たちがバカだって結論出しちゃう(笑)」(同p.134)、ということであり…こっちのおじいちゃんはちょっとムツカシイな(爆)。

 まぁ、わからなかったもの、あとでわかったもの、すべて色即是空、空即是色ということで、反省するよりも当時の思いと今の変化した気持ちとの偏差と隔たりを、むしろ楽しもうじゃないのと今は思う。

2021. 10. 1

☆☆今夜すべての酒類提供店で☆☆
長い雨もあがったらしい
       淡い光が差してきた

2021. 9. 30

☆☆信じられないセニョリータ、なんて素敵なセニョリータ☆☆
先日の日記で書いた橋幸夫が引退するとのニュース。誰であれ引退は切ない。なんか失礼なこと書いてないか慌てて見返したが、そもそもこのサイトはすべて失礼なことしか書いていない(爆)。拓郎に対しても精一杯愛をこめて書いているつもりだが、それは俺の勝手な理屈で、きっと拓郎にとっては失礼・無礼このうえないものに違いない。この命ただ一度、この心ただひとつ俺を許してくれ。

 居酒屋に行けないので蕎麦屋でちくわの磯辺揚げを食べながら”レールが鳴ると僕等は旅をしたくなる”を聴いた。これだ。この心弾む感じだ。”detente”は大好きなのだが、いろんな意味で不細工なアルバムだなと思う。そこがいい。無農薬で自然に育ち放題育ち、カタチも大きさもまちまちの野菜を手早くもいで「持っていかんね」と農家のおばさんがカゴに詰めてくれる。カタチは不細工で不揃いだが、みずみずしい野菜たちの詰め合わせ…そんなイメージがある。って、言う傍からいちいち失礼だ。

2021. 9. 29

☆☆歌う回答たち☆☆
 購読されている方々にはすまないが、俺は読売新聞が嫌いだ。理由はいろいろある。だが、そもそも”ポーの歌”事件での吉田拓郎に対する仕打ちのひとつだけでも一生嫌い続ける十分な理由になろう。
 それでも最近読売新聞で作家の”いしいしんじ”が人生案内の回答者を始めたと知って、かなり心が揺れている。この日記でも100回くらい引用した”プラネタリウムのふたご”の”いしいしんじ”だ。バックナンバーの人生案内を少し読むだけでどの回答にも涙ぐむ。詩のような歌のような、それでも相談者に向けられた心からの言葉が胸を打つ。
 相談者だけでなく俺にも毎回語りかけてくるのだ。いしいしんじはボブ・ディランのことは好きらしいが、吉田拓郎のことは多分知らないだろう。もちろんどこにも拓郎のことなんて1ミリも書いていない。それでも、なんで俺が拓郎のことを好きなのか、拓郎のどこが素晴らしいのか、手を変え品を変え、ていねいに教えてくれているような気がするのだ。そして脳内で音楽が流れ始める。気のせいといえば確実に気のせいで、わかっていただけるものではないのだが。

2021. 9. 27

☆☆そういう旅がしたくなる☆☆
 なんとなく最近“レールが鳴ると僕達は旅がしたくなる”が聴きたくなるという話で意見があった。"鬼滅の刃・無限列車編"のせいか。というより” レールが鳴ると線路を渡りたくなる”という別の拓ちゃんの事件のせいではないかとも思う。イケないことだが公安て怖いんだなぁ。いみふ。
 ともかくこの歌は、いい。力強く肩を叩いてくれる感じ。今まで俺は「これからも旅を続けようぜ」という唄だと思っていたが、それだけじゃない。「ああすれば良かった、こうすればと良かったと後悔はあろうとも、この道を来るしかなかったんだよ、青年」と激励してくれている歌なのだと気が付いた。もう一度だってこの道を進んでゆくに違いない。合点だぜ。

2021. 9. 26

☆☆無限列車に君を☆☆
 あたりまえだがファンに上下貴賤はない。ないけれど、つま恋1975年、1985年、2006年と三回すべてに参加したファンは凄いなぁと憧れる。夏フェスに3回行きましたというのとはワケが違う。もうワクチンパスポートでも何でも差しあげてという感じである。そのうえ篠島も行ってたらよくわかんないけどプラチナだな。
 俺の知り合いにもそういう方がいるが、最近もあれこれと教えていただいて、やっぱり違うわとしみじみ思った。昨夜つい観ちまった”鬼滅の刃”の鬼殺隊でいったら”柱”だね。ファンそれぞれ、その時の年齢とか、冠婚葬祭とか、置かれた状況とかで、それどころじゃないことが人生で襲ってくる。その荒波を乗り越えて三回とも参加しえたというのは、やっぱり選ばれしというか運命みたいなものを感じる。
 柱を仰ぎ見ながら、このサイトもそろそろ下弦の鬼くらいかなと>鬼なのかよ。鬼です。

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2021. 9. 25

☆☆車を降りる時から☆☆
 "もうすぐ帰るよ"のPVと車庫入れの話で、拓郎の歴代車両紹介を思い出した(ラジオでナイト第7回)。http://tylife.jp/radio/radioty_01.html#20170514
 おお、あった。Dのアウディが赤で時期は1977年6月頃ということになるのか。なんか試験に出そうだ。こうして眺めるとあらためて走る歴史だ。そういえば美容院に車で行ったけど車庫入れができなくてそのまま帰ってきたいという話も別の回であった。あの話好き。ラジオでナイトの感想にも自分書いていたが、松任谷のカーグラテレビに拓郎がゲスト出演したら面白いと思うんだよね。きっと噛み合わないと思うケドそこがたぶん絶妙。

2021. 9. 24

☆☆深謝☆☆
 孤高のサイトとうそぶいているが、先日の長戸大幸のラジオの件といい、これまでいろんな方々が助けてくださった。そのうえ昨日のプロモーションフィルムについても早速にいろいろ教えていただいた。感謝申し上げます。
 一人の方は、当時の貴重なパンフレットをお持ちで”吉田拓郎自身の演出・構成・編集による「もうすぐ帰るよ」と「ぷらいべえと」よりビックアップ”との記載があったとのことだ。
 もうお一方は、実際にコンサート&フィルムを観に行かれてメモも残しておられた。やはり「もうすぐ帰るよ」のPVで、そして「拓郎が赤いアウディを運転して車庫入れするとことか、できないとことか」というシーンがあったようだ。教習所の正しい車庫入れの仕方ビデオかっ。それも含めて是非観たい。

 こうして皆目わからなかった幻のビデオがおかげさまで内容が見え始めてきた。ああ生きていて、生きててよかった。貴重な経験や持ち物を静かに保有されている方々がこの空の下にたくさんおられるのだなと感嘆する。

 先のコンサートに行かれた方によると、8月後半には、既に長戸大幸の姿はなく、野沢享司とアルフィーが出たそうだ。もちろんスターズ・オンのずっと前だ。アルフィー…フォーライフ加入の予定があったのだろうか。いずれにしても奇しき因縁は77年に既に始まっていたのだな。いろいろと興味深い。昔話と言ってくれるな、過去と未来を含んでの永遠の今なのだ。

2021. 9. 23

☆☆1977年のプロモーションフィルム☆☆
 昨日の日記で掲げた記事で1977年のフォーライフ・フレッシュマンコンサートで上映された「吉田拓郎の未公開のプロモーションフィルム(30分)」を観た方いらしたら内容教えてください。時期的には、「もうすぐ帰るよ」のPVかと思うけれど、30分だぜ。あれの30分バージョンがあるとはちょっと思えないし。気になる。


☆☆わが心の多目的広場☆☆
 つま恋2006記念日。あっという間に15年だぜ。月日はどうしてそんなに急ぐんだろう。拓郎はちょうど60歳だったんだなぁ。ああ、偉かったよなぁ…としみじみ思う。そして集われたみなさんお元気ですか。柄にもなく思ってしまう。

 たぶん本番3日前、午前5時の設営中のつま恋のステージを観に行った。ステージ周辺はもう結界されているような荘厳な雰囲気だった。ふと後ろに人の足音を感じる。カメラを抱えたおじさんが、俺らには見向きもせず、まっすぐステージを見つめて静かに歩いて行った。田村仁だった。もう獲物を狙うハンターのような感じでゴルゴ13みたいだった…って会ったことないけど。俺たちはジリジリとステージに向っていくタムジンの後姿を見送った。時々、膝をついてシャッターを切っている。あ、あのときのつま恋の芝生は、朝露と雨でぐしょぐしょだったけど、そんなことはおかまいなしだった。彼だけが結界を破る威神力を持っているようだった。明け方のつま恋を撮るタムジンを観る。走馬灯もんの景色だった。ということでラストアルバムのジャケットを楽しみにしている。
 多目的というけれど私達にはすべてはたったひとつの目的に収斂するのだ。多目的広場よ、つま恋よ永遠なれ。
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2021. 9. 22

ワクチンお疲れ様です。これはこれで大変ですよね。

(石坂浩二のナレーション・オープニング)
 そうなのです。ワクチンの副反応は地球人の身体を急激に消耗させるのです。接種から3日間、あなたの目はあなたの身体を離れアンバランスな世界に落ちてゆくのです。

(石坂浩二のナレーション・エンディング)
 副反応が終わったといって安心してはいけません。ウィルスは常にその形を変え私達を狙っているのです。既に3回目接種などと言う言葉がささやかれ始めているのが聞こえませんか。「終」

☆☆本題☆☆
 親切な拓友さんから長戸大幸のFM番組「OLDIES GOODIES ANNEX』の前後編の拓郎特集を教えていただいてradikoで聴いた。ありがとうございました。長戸大幸…名前だけは存じていた。ビーイングの創設者でB’Z、ZARD、TUBE、大黒摩季のプロデューサーというビッグネームだ。もうこのミュージシャンの顔ぶれだけで拓敵の匂いしかしない(爆)。しかしそれは誤解というもので長戸大幸の吉田拓郎に対する深く熱い思いが語られていた。このあたりは有名な話なのだろうか。俺は知らなかったので結構衝撃だった。
 名前だけ存じていた長戸大幸というお名前を初めて俺が見たのは40年以上昔だ。雑誌”フォーライフマガジン”1977年7月号。
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 …思い出した。小林倫博、小出正則とともにフォーライフの新人とされながら、長戸大幸という人だけがデビューしたかどうか不明なままで以後名前を見なかったのだ。俺は当時、その秋デビューした原田真二の本名が長戸大幸なのかと思っていたこともあった。実はこのあたりにも深いドラマが潜んでいたのだな。それはまたどこかで。ともかくUramadoに追加改訂しなきゃならないような貴重な話ばっかりだった。”すべての道は拓郎に通ず”という格言を久々に胸いっぱい吸い込むよ。

2021. 9. 20

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☆☆僕の髪も…☆☆
 拓郎はラジオで自分も高校生の頃は”潮来刈り”だったと述懐していた。
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なるほど。
 1990年”男達の詩”で髪の毛をバッサリ切った、あれは潮来刈りだったのだと今さらながら気づく。いや、長い旅を経て潮来刈りに戻ってきたというのが正確か。
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 あの時、俺も直ちに潮来刈りにするくらいの熱く敬虔なファンでありたかった。修行が足りませぬ。

2021. 9. 19

☆☆星より密かに、雨より優しく☆☆
 吉田拓郎は橋幸夫が好きだったというから、ディランを研究するように橋幸夫ワールドも入門してみたことがあった。名曲の数々も素晴らしき歌唱力もわかるがそれ以上に共感することが難しい。角刈りにしか見えない潮来刈り。そして特に♪スイムスイムや♪メキシカンロック・ゴーゴーの「リズム歌謡」。すまんが、俺にはよくわからん。正直に極論すると俺には”朝陽がサン”と”ヨールレイホー夜がやってきた”とかを初めて聴いた時みたいな感情が湧くのだ。
 とにかくリズム歌謡もきっとその当時だからこその空気と時代背景があるのだろうと思ってきた。

 映画監督の金子修介の「失われた歌謡曲」という名著がある。監督の博覧強記な歌謡曲についての思い出系解説書だ。最近読み直していたら、青春時代にリアルタイムで橋幸夫を聴いた監督はリズム歌謡についてこう記している。


 橋幸夫は毎年夏頃になると、どこから輸入してきたのかは知らないが、「今年はスイムだ」の「今年はメキシカンロックだ」のというふれこみで、演歌っぽい鼻にかかった歌声でリズミックな歌謡曲をバックコーラス、バックダンサーをつけて歌ってくれたものである。(略) これは当時カッコイイのか悪いのか判断に迷った。

 ああ当時でもそういう人がいらしたのだと知って少し安堵した。しかしこの橋幸夫のリズム歌謡を絶賛する方々も当然に多い。結局私にはそのセンスがないのかもしれない。

 金子監督は、この問題を「尊敬」ではないかと結論づける。


 尊敬していれば多少奇態な踊りをしても「この人がやっているんだから」と納得してしまう。スイムとメキシカンロックがどう違うかわからなくても「この人が言ってるんだから今年はメキシカンロックなんだろう」と、あえて追求はしない。橋幸夫は、黄金期そういうポジションにいたのではないか…

 御意。そうか。同じである。尊敬する吉田拓郎が「朝陽がサン」っていうんだから「朝陽がサン おはようさん」であり、あの拓郎さんが「ヨールレイホー」っていうんだから「夜がやってくる」んだよ…ということだと納得する。そこから先は問うべき世界ではない、味わうべき世界なのだ…と言っている気がする。誰も言ってないが。
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 あ、吉田拓郎はフォークソングではなく「歌謡曲のやましい精神」を受け継いだ音楽家であると評している箇所がある。もちろん褒めている。

2021. 9. 18

☆☆夜明けのマイウェイ☆☆
 深夜にWOWOWで布施明の今年6月のライブを観てしまう。布施明…個人的に恨みはないが師匠の敵は我が敵である(爆)。いや実は正直、好きかもしれない布施明である。”これが青春だ”が聴きたかったが歌わなかった。そりゃ拓郎だって今やライブで”青春の詩”を歌わないし、”ああ青春”だってとんとご無沙汰だ。しかし”S・Hは恋のイニシアル”を歌わなかったのには驚いた。>歌った方が驚くだろ!
 エンディングでのさすがの腹式呼吸全開の“マイウェイ”は聴き入った。聴きながらちょうど去年の9月のオールナイトニッポンでライブ撤退宣言した時の放送を思い出した。最後に拓郎が歌詞を朗読してマイウェイを流してくれた、あの放送だ。布施明じゃなくてプレスリーのバージョンだっただろと拓郎は怒るかもしれない。すまん。でもあれから1年だよな。来年初夏を頼りにエンディングをまいりましょう。

 私はエンディングに向かっている
 私が確信をもって言えることは友よ

 私は生涯とおし存分に生きてきた
 すべての道すべての小さな道をも旅してきた
 何より誇りに思うのは自分らしく生きたこと
 後悔もあるがやるべきことをやったと思っている

 自分が行くべき道を自分で決めて歩いてきた

 みんな知ってるんじゃないのかな
 時には私のチカラが及ばなかったこともあったことを

 だけど迷ったときもそれを受け止めて

 愛し笑い泣いたこともあった
 喜びも挫折も十分に味わった
 涙がひいていくなかで心から

 過ぎ去ったすべてを楽しかったと心から思える
 自分らしく生きたといいたい
 人間とは何だろう
 何か得ることができたか
 自分らしく進んできた


 心の感じるままに語る
 世間が求める言葉でない
 きっと気づいてくれることを信じている
 私が私らしく生きたこと

2021. 9. 17

☆ああ青春で思うこと☆
 トランザムの「ああ青春」。最初ピアノのイントロのあとに♪ドゥン、ドゥン、ドゥドゥドゥンときて本編が始まる。この部分、つま恋1975やドラマ”俺たちの勲章”の放送OPでは、♪ドゥン、ドゥン、ドゥドゥドゥン↓と最後に着地するのだが、トランザムが歌うレコード・バージョンやサントラは、♪ドゥン、ドゥン、ドゥドゥドゥン↑と最後の音が不安定に上がるのだ。最初にテレビのバージョン、そしてつま恋にずっと馴染んだせいか、最後に音が上がるレコードバージョンが昔から気になって仕方がない。着地に失敗した体操選手みたいな気がするのだ。

2021. 9. 16

☆☆君よ☆☆
 猫&風の大久保一久さんの訃報。かつて拓郎のセイヤングのお休みの時の代打でぐしゃぐしゃになって、あとで拓郎がたいそう怒っておいでだった(爆)のも懐かしい。
 その後、拓郎のオールナイトニッポンで”春を呼べT”(大久保一久 作曲)とおなじみ”春を呼べU”(吉田拓郎 作曲)の聴き比べがあって、カセットで聴いていたので、Tもすっかり覚えてしまった。哀愁のある美しいメロディーだった。続けて聴くとTの切ない凍える冬を超え、Uで元気な春が来る…まるで両曲セットのような季節の流れの一体感があるなと思っていた。
 心よりご冥福をお祈りします。

 そのこととは関係ないが、劇場版のプレードランナーの最後のハリソン・フォードのナレーションを思い出していた。
 I didn't know how long we had together. Who does?
 いつまで生きていられるかなんてわからない、知ったことか!

2021. 9. 15

☆☆運命の道よ、愛しき命よ☆☆
 日が短くなったのと自粛のおかげて午後8時前の街なのにまるで午前0時の街のような静かな闇である。トボトボと歩きながら、60歳で"つま恋"を成功させる、73歳でツイストを踊る、75歳で新曲を書く…まさに人生キャラバンをあとからゆくものにとっての希望の灯である〜そんな話をした。このまま行けばいい、自由と連れだって歩いて行こうと思うのだった(木下恵介アワー"三人家族"の矢島正明さんのナレーションで)。>知らねぇよ

2021. 9. 14

☆☆あの人の手紙☆☆
 つま恋に参加した拓友ねーさんから、つま恋参加当時の手紙というか日録を見せていただいた。ありがとうございます。こういうのが読みたかったんだよ。はるか遠方から交通トラブルを乗り越えて、途中でファンと知り合いながら夜汽車で掛川に向う。現地では炎天に打ちのめされながらも近所の席の見知らぬ方々と打ち解けてハッピーな時間を過ごす。いい。いいじゃないか。ステージも最高なら御客席も至高である。死語かもしれないが、若者の解放区なんて言葉が浮かぶ。”ドキュメントつま恋”(共同音楽出版社)に当時の観客のヤジの数々を拾ったコーナーにこんな一節がある。
 “迷子になったらもう友達とは会えません”という注意喚起のアナウンスに
 「みんな友達だから心配するなよ」というヤジがあったと記されている。
 俺このヤジ好き。実際の俺は人見知りの人間嫌いでただのメンドクサイ奴なのだが、それでも拓郎の音楽の前ではこういうのに憧れる。

2021. 9. 13

 昨日の高校一年生の彼は高校3年生だったとのことだ。ご友人が教えてくださった。ご本人は読んでないと思うけどここに謹んでお詫びして訂正します。大人になっての例えば56歳と58歳は対して大して違わないけれど10代で2歳違うと見える景色が随分違ってくるよね。なので若人の年齢は大事だよね。

☆☆蒼いフォトグラフ☆☆
 昔いただいた現地録音のカセットでつま恋75に思いを馳せる。最初は歌と演奏ばかり聴いていたが、繰り返して聴くうちに拍手、大歓声、どよめき、ヤジなど観客から立ち上るリアクションのひとつひとつがいとおしくなってくる。
 第2部の松任谷正隆グループの空気が特にいい。三拍子にやわらかいキーボードとスチールギターの美しいイントロが流れ始める。観客の声がする。「”シンシア”だっ!」、おおーそうだぁと周囲が拍手で沸き立つ。しかし拓郎が歌い出すと”♪やるぅせない思いを胸にぃ〜”、すると再びうなりをあげ大歓声がどよめき「おお〜”ともだち”だよぉ」ということで全員での全力唱和が始まる。その”ともだち”を歌い終わってもそのまま三拍子の演奏はつづき拓郎が歌い始める♪なつかしいぃ人やぁ街を訪ねて〜やっぱりシンシアだぁ、再びどよめく観客たち。ともだち〜シンシアの秀逸なメドレーに波のように揺さぶられる観客の感動。そして♪シンシア〜のあとで観客がマックスのチカラをこめてフッ! フッ!と地鳴りのような大合唱になる。すげぇ。観客も根性入ってる。昔の人は偉かったなと真剣に思う。この諸先輩に続けと俺もつま恋の2006のシンシアでは頑張ったが、ヘナチョコだったかもしれん。

 ライブっていいよなと心の底から思う。もう俺にライブはない。他人のライブはあるかもしれないが、次に誰か好きになってもあんなピュアに愛せないわ、一番キレイな風にあなたと吹かれていたから。これも松本隆かぁ。

2021. 9. 12

☆☆あなたのつま恋☆☆
 吉田拓郎が語ってくれる真実のつま恋とともに、観客の方々にとっての真実のつま恋というものもある。確実にある。これらも是非聴いてみたい。

 例えば、当時高校1年だったその方は、友人とつま恋に行くべくチケットも用意していたが突如1学期の終わりに校長の夏休みの注意として「つま恋禁止令」が出たとのことだ。んなものは不良の行くところと言うお達しだったらしい。友人たちはみんなあきらめたが、その方だけはひとり校長に叛いてつま恋に向った。西も東もわからない一少年があのつま恋の5万人のカオスに不安いっぱいで飛び込んでゆく。その話を聞いているだけで涙が出そうだ。映画”ゴッドファーザーPartU”の冒頭、少年ビトー・コルレオーネが故郷を命がけで脱出し移民船でニューヨークにたどり着く、あのシーンを思い出す。大袈裟か。

 そういうドラマチックなものでなくていい。当時、どうやって現地に行って、何食べて、何を観て、隣にどんな奴がいて、どの曲でどうシビレタか。些細なことでいい。現地に行ったからこそ味わえた事実を知りたい。若かった頃の事を聞かせてどんなことでも構わないから。そういう5万個のかけがえのない純粋経験が絶対にあるのだ。そしてそれらはいずれ消えてしまうのだ。そう思うといてもたってもいられず悶絶しそうになる。
 何度も引用する映画「ブレードランナー」のセリフより。
「おまえたち人間には信じられないようなものを私は見てきた。そんな思い出も時間と共にやがて消える。雨の中の涙のように。」
I’ve seen things you people wouldn’t believe. 〜All those moments will be lost in time, like tears in rain.

2021. 9. 11

オールナイトニッポンゴールド  第18回 2021.9.10

☆☆☆あらすじ☆☆☆☆☆☆
 吉田拓郎です。週替わりパーソナリティでお送りする金曜日、今週は吉田拓郎がお送りします。
 ある日ふと気が付いた。ソファーでゴロゴロしてテレキャスター弾いていると落ち着く。左手のギターだこがなくなるのがいやなのでよく弾いている。2019年に張った弦が古くなっているので取り替えたいと思った。東京へ出てきて全国ツアーをやり始めたとき、全国を一緒に旅するツアースタッフが必要になった。PAや照明などのスタッフが必要。それまではそれぞれ現地の人がやっていた。一緒に東京でリハーサルしてそのまま同じスタッフで全国を回る。
 そこにステージの制作デザインチーム、ミュージシャンの弦を変えたり手入れするローディがいる。総勢何十人のチームになる。それまでは僕なんかギターケースは自分で持っていた。ローディをつけることで弦を取り替えておいたり、チューニングもしておいくれた。以前は、楽屋でみんなミュージシャンが自分でチューニングとかしててやかましかった。自分で弦を張り替えたりチューニングをしなくなっていた。
 今は、ツアーからリタイアしてスタッフも解散。磯元君に電話して買っといてというわけにもいかない。自分でインターネットでチェックした。好みのブランドもあるし、見つけて、テレキャスターは095、アコギは010 が好き。ついでに、歯ブラシとか石鹸とかハンドクリームも買おうと思った。侮っちゃいけない。歯ブラシも柔らかとふつうがなきゃダメ。ハンドクリームもフランスのどこか、佳代さんに聞かないとわかんない。
 いろいろ買い物かごに入れて、まさかないとは思うけれど、このネット店舗にないだろうと思いながら、アーニーボール095と検索入力したら出てきました。ダダリオ010といれたから出てきた、全部ある。知らなかったねぇ。今や歯ブラシ、ハンドクリームと弦が一緒に買えるのよ。単独の店はなくなりつつある。便利なようななんだろう。楽器やで玄を張ってみたりたのは懐かしい。
人間は、心が弱いからつい買い過ぎてしまう。ビニールの袋まで便利そうで買ってしまった。いい時代だなと言っていいのか。

■ 今夜の自由気ままにお送りします吉田拓郎のオールナイトニッポンゴールド。

<(ウクレレ)現物が届き嬉しい、幼い娘にもいつか拓郎さんの素晴らしさを伝えたい、自宅で大切に飾りたいという投書>
 伝えなくていいけど、そういうときがあれば歌ってあげください。良かったね。ウクレレ届いた。弾けなくても飾っておいてください。昔は、玄関に下駄箱の上って、電話が置いてあった。ガールフレンドに電話しにくい。玄関は何とかならないかと思った。携帯電話は若者は喜んだ。そもそも玄関で何が話せる。そこにウクレレを飾ってください。日本では手に入らない幸運のもの。いいラックが訪れるでしょう。

<消化不良で夏から秋、2年前、安曇野 大王わさび農場に行って 拓郎さんのプロモーション”たえなる時に”の気分を味わった、という投書>
 あそこはタムジンが選んだ。僕は被写体になるのが嫌い。しぶしぶ付いていった。いつもロケハンでタムジンが探してくる。彼が好きな場所は、暗い、太陽のあたらなくて、ツタが這っているところ。ハワイ島のロケに行ったとき、ここはハワイかよと言う場所を探してくる(爆)。20分で帰るぞと言うわがままな被写体とよく50年も付き合ってくれた。ラストアルバムもタムジンだけでなく家族チーム全員で、レオナ、ヒロも写真家だ。レオナなんてタムジン以上の写真を撮ることもある。
 アルバムのタイトルは決まっている。喉から手がでるほどいいたい。スタッフもいいタイトルと泣いてくれるくらい。この文字を親友に書いてもらっている。親友って、古い友とは縁を切って、フォーライフの連中ともずっと会っていない。僕より若い親友の一人が自筆で書いてくれる。「拓郎はん僕字は下手なんだけど」
 若手の素敵な女優さんが個性的な女優さんがこのアルバムのイメージ画像のモデルになってくれる。これも楽しみだ。このことをある女子に言った。おまえどうだ、と言ったら、黙っているはずはない。篠原ともえが、その女優の衣装とかスタイリストだけでなくアルバムのデザインも考えたい…篠原はいまや素晴らしいデザイナーなので得意。  
"なんて素敵なニュースでしょう。私なんかが参加していいんですか。…なんでもやります。かっこよくて最高な作品になるよう来年の初夏までに作りましょう。もうすぐ再会できることを楽しみにしています。"嬉しいじゃないの。こういう仲間たちがいてくれる。ハッピーなアルバムが出来そうだ。

 昔からのベテランミュージシャンもみんな参加してくれることとなった。萩田光雄、馬飼野康二も一曲ずつアレンジしてくれる。キャンディーズ、太田裕美、梓みちよの曲ではあったけれど、自分の歌う曲は初めて。
 写真もだいたい決まって、つま恋はどうしても外せない。昔からのつま恋の関係者に「どうなってるんだ」と連絡した。写真の場所は、多目的広場とリハーサルを重ねたエキシビションホールそして緑の並木道・・・といったら「あの頃のまんまんです」と。つま恋で撮影は間違いない。

 今言えるのは、昔のLP盤をやりたい。ジャケットも大きいし。アナログLPとCD両方作る予定。 アナログには書き下ろしのエッセイ集をつける。ラジオでも話せなかったモヤモヤも幸せも思い出も書いてある。デザインは篠原ともえにやってもらったり、素敵な女優のイメージ画像もある。

 CD書き下ろしの最後に情熱をこめて書き続けている新曲のライナーノーツをつける。描いた通りの僕の道を半歩ずつすすんでいく

<高3で小説家・作詞家になりたい兄の影響、拓郎さんの言葉言葉の脈動拍動 文字に命を吹き込みたい、アドバイスがあればくださいという投書>
 あるわけない。そんなこといえる立場じゃない。自分で決めたら自分なりの限界まで挑戦してみること。僕が学業や決まっていた就職を蹴って音楽にすすむとき、母は言った。 「拓ちゃん音楽への情熱は理解している、信じた道をすすみなさい、でも心の底から限界と感じたら潔くスッキリとやめてください、グズグズしているのは反対」グズグズしないですっきりとスパッといけという母の言葉は忘れていない。母との約束だと思っている だからいつもスパッと決めてきた。

<17歳、大学受験 朝から夜まで拓郎 告白できないのにアドバイスという投書>
 ひとつだけアドバイス。高校生でやっちゃダメなこと。 間違っても好きな子を曲にしちゃダメ(笑)よせばいいのにその子に聴いてもらおう  そんなことだけはやめてください。そういう歌を聴きますね

M1 じゅんちゃん     スタジオ盤  吉田拓郎

 こんなことしちゃいけない・・・永久保存版だな

(CM)

<拓郎さんの最初のギター練習曲は禁じられた遊び、パイプラインかという投書>
あり得ないよ。浮かばないよ。クラッシックギターとか弾けない。60年代のカスケーズ  の”悲しき雨音”だった。なぜかあの時代は本場のアメリカのタイトルと違って「悲しき 」がつく。なんでなんだろう。「悲しき」がつくと大ヒットする。そういう歌を入れるかな。悲しき慕情、悲しき全部だきしめて(笑)

(実演)悲しき雨音

その次にコピーしたのはビートルズだな
And I Love Her
この弾き語りはガールフレンドに歌ったかな、さっきイケな言っていたのに(笑)
(実演) (And I Love Her)

 当時のフォークソングでは、2フィンガー、3フィンガーをやってみたくなる。ロックバンド時代のギター教室では、ピックのストロークばかりだった。
東京に来て石川鷹彦にはしびれた。きれいでダイナミックでどうして弾いているんだろうと思った。スタジオで一緒になった時に教えてもらって、フィンガー奏法を家で特訓した。
 当時はPPMをコピーする人ばかりだった。アルバムでも”花嫁になる君に””蒼い夏”とかはPPM風だけど、僕は3フィンガーって新しくないな、フィンガリングで他のはないのか石川さんに尋ねた。その中で、 S&G ポールサイモンのフィンガリングが新しい。これだと思って、アルバムをいっぱい買って練習したものだ。
 “ガラスの言葉” はポールサイモンのギターをコピーでオーギュメント、デミニッシュ
を使った。コピーしまくった。
 (実演)四月になれば彼女は  

(CM) 松島菜々子  深夜にステーキ丼

<17歳のつま恋以来、ときどき観ていました、ああおじさんになったなと思っていた、最近、75年のつま恋と名古屋のDVDで開花した、つま恋の話が聴きたいという投書>
このあとつま恋1975年の歴史と本邦初公開の音源をお送りする。
 生涯ただ一度のセッション。あの連中とセッションしたことはなかった。小田とはあったけどかぐや姫とは仲悪かったのかな、ウマがあわなかった(笑)事務所が一緒だっただけかな。

M2 フォーエバーヤング    吉田拓郎&かぐや姫

 今月はつま恋1975。マジで怖かったし緊張しふるえがとまらなかった。5万人なんて観たことない。怖かった。
現地には一日前に入ったのかな。東京でずっとリハをしたけれど現地でリハはやらなかった。こういうことの前例が無かったし、誰もhow toがわかんないしぶっつけ本番
だった。前夜にかぐや姫とともにヤマハの川上源一会長に呼ばれて・・・フレンチのレストラン・・・つま恋で生産している野菜を使った・・・つま恋のエピキュリアン料理をごちそうになって歓談したが、僕の心はそこにない。川上さんは超大物だけど、明日のことが気になって、そそくさと部屋に戻った。それでも眠れない。こうせつの部屋でこうせつに歌を聞かせてやったり(笑)、結局午前3時まで眠れなかった

 当日、午前11時のロッジまでウォーという唸り声、集団の音が響いてくる。大地が震動している、不気味な唸りでもう落ち着かない、恐怖以外の何物でもない。もう気持ちがコントロールできない。緊張でいっぱいの朝だった。

■■11時
佳代さん>みなさんおさきにおやすみなさーい

 それで時間が過ぎて夕方から歌う。足はガタガタ、心臓バクバク、口が回らない。スタッフの声が聞こえない。5万人の怖さ。ステージ脇に行くと、トランザムの連中も全員 呆然と立ち尽くしていた。チト河内さんが、「拓郎、これ凄いことになってるな」と言われてもうわの空(笑)。マネージャーの渋谷に「酒持ってこい」と言ってのは覚えている。別のスタッフが気をきかして缶ビールを持ってきて、ビール一気に飲み干したけど何も変わらない。こんなこともろあうかとウイスキーのボトルが回ってきて、そをひとくち呑み込んだら、喉から胃袋に行くのがわかる。身体は火照っててくるし、トランザムにもひと口飲ませた。戦いの前夜だったな。
 個人的にはこの葛藤が始まるのはわかる。ひとつには野外にはいいイメージがない。中津川でヒーロー扱いされたけれど、あれは音楽じゃない。人間なんてを歌いながら、俺はそういうことをしにきたんじゃないと思っていた。コンサートではないし八つ当たりだった。あれがフォークだったらいつまでもこんなことやってられないと思った。
ソニーのアルバム”元気です”の緑色の神にも書いたけれど、こういうフォークソングはごめんです。
とにかく中津川になったらどうすりゃいいんだろう。落ち着かない、5万人を信じられない。
 もうひとつは”結婚しようよ”を歌うと必ず「拓郎帰れ」と言われた。武道館、卯辰山  ビール瓶や石が飛んできた。帰れといわれたらどうすりゃいいのか。帰るべきなのか。混乱と不安がずっと心にある。そういう葛藤のままステージに立っていた。
こんなしたのは体験僕ぐらいだろう。

 一曲目からボーカルも不安定、寝不足だった、こうせつに歌い過ぎた。モニターも聞こえないし客席の圧迫感が凄い。自分ではない自分。第一部、予定より40分以上早く終わってしまった。一曲一曲、ゆっくり話ながらの予定だったけど、一気に歌ってしまった。スタッフが慌てたらしいし、かぐや姫も予定より早く及びがかかったらしい。
 トランザムに提供した”ああ青春”。松田優作のテーマとかも作った。最初インストだったけど、やっぱり歌詞が欲しいということで、歌詞は松本隆がうまいということで頼んだ。拓郎、青春数え歌、どうだろうということでゴーサインが出た。これ以来、松本隆と曲を作る時は必ず二人で会うということが始まる。これは松本とだけ。
 トランザムのベーシストが富倉くん。今や中島みゆきのツアーバンドのベーシスト。彼は、2006年のつま恋でもベースを弾いてくれている。彼が一番感無量だったんではないか。1975年でも2006でもベースを弾いていたんだから。

M3 ああ青春   トランザム

(CM)

 ということで1部は、40分早く終わって、スタッフは大慌て、かぐや姫にも迷惑だったろうな。とにかくヘロヘロでバンドもあちこちトチっていた。みんな頭真っ白だった。とにかく自分の部屋でアタマ冷やして次のステージでは立ち直って見せると思っていた。

 次が松任谷正隆のグルーブ。歌い出せずに前奏が長くなって歌えなかったし、いろいろミスをしていたが、一部よりは落ち着いていた。
“結婚しようよ”これは怖かった。ヤメロとか言われたらどうしようかと思った。歌い始めたら、窺うと客席はみんな笑顔で一緒に歌っているような気がしたの。それが予想外、嬉しくて、幸せで、胸が熱くなって、良かった 気分が出てきた。

 このコンサートが始まるまでの暗黒の時代、暗闇の時代は終わったんだ。新しいスタイルが出来たんだ。嬉しかった。俺は間違ってなかった。やってきてよかった、吹っ切れてよかった。
 落ち着いて時間通り1時間半くらいのステージを終えた。僕が秘蔵している音源
古い音源ですしトラックダウンもしていない。雰囲気だけ味わってほしい。

M4 まにあうかもしれない 吉田拓郎
(・・・旅の宿すんどめ)
(CM)

 いよいよラストステージ。最後のステージは夜中の三時から歌い始める。こんなのある? 声もボロボロ、疲労の極致。若いからやってやろーとか思ったけれど、そりゃ無茶だよ、そんな馬鹿なことあり得ないよ。

 瀬尾一三のビッグバンド。篠島でもオーケストラでたくさんの曲をやろうと思っていた。やっぱりオーケストラだとアレンジの幅ができる。でもリハーサルとかやってみて気づいた。
 ビッグバンドで5、6時間やってるとホーセクションに負けないようシャウトして頑張りすぎてしまう。当時はPAもよくないので頑張って声を張り上げてしまう。瀬尾ビッグバンドで半分くらいの曲をやりたいと思っていたが、結局、トランザム、松任谷バンドで同じくらいずつとなった。篠島でも殆どの曲を瀬尾バンドでと思ったんだけれど、そうはいかなくて松任谷にお前のバンドで殆どやろうということになった。
 最後、声は出ていないで叫んでいる。最後の曲は、”人間なんて”やるっきゃない
エンディングのこの曲はリハーサルはしていない。したくない。アンサンブルとかもう行ったっきり。東京でも殆どリハーサルしていない。瀬尾ちゃんにバンドの譜面渡して、  三つのコード進行だし、瀬尾ちゃんの合図で、はいブラス、はいギターということで、アドリブでその場で成り行き自由にアドリブで任せた。コーラスも全編アドリブで”人間なんてラララララ”だけであとは自由でいい。ところがこれが何時間もやってきたイベントの最後、みんな興奮するんだね。ハイファイセット、吉田美奈子みんな全員絶叫している。こんな人たちだったけ、美奈子も(笑)。

 このイベントで気になっているのは、最後の一曲が朝方の何時に終わるだった。夜中で真っ暗で終わると困る。暗い中、客は帰ることになる。どうすりゃいいんだということで、拓郎、朝陽が出るまでステージにいなくてはいかんよというのが彼らの本音だった。
そんなコンサートがあるか。その方が、お客さんも混乱しなくて帰れるんではないか。全員が袖からあと何分という心境でみんな歌う俺では無く空を観ていた(笑)。いつ朝陽が出てくるか、ステージの僕が倒れないかとかそういうこでなく、太陽はいつかを気にしていた。声も出ないしトランス状態で終わったら病院でもどこでも運んで行ってと言う感じだった。
 声は出ないし、疲労の極致だし、後ろの瀬尾にもういいよと言おうとした瞬間に川口というステージのスタッフと目があった。彼が両手で丸のOKを作ってくれたのが忘れられない。もういいんだね、これで・・・と言う感じ。最後はありがとーありがとーと叫んで、自分がどうやって誰に連れられて戻ったのか覚えていない。1時間半くらいして我に返って朝7時ころ部屋で放心状態だったのを覚えている。

 ぶっつけ本番だった。最初のテンポが遅いので、俺が瀬尾に「遅い遅いテンポをあげろ  」と言ってテンポを上げる瞬間。音だけ聴いているとすごく楽しい時間だったと思う。
 今夜中なのでどうか立ち上がったりしないでて、泣いたりするかもしれないけれど、
ご近所ご家族のことは考えて我慢して。早朝4時の静岡県つま恋の多目的広場の熱狂を静かな気持ちでお聴きいただきたい。

M-5 人間なんて

(CM)

■エンディング
 全国ツアーの企画は最初は経済的には厳しかった。それまで地方の宿泊は旅館で大広間で雑魚寝だったが、当時はホテルは少なく、ビジネスホテルが多かった。渋谷君と二人で泊まることが多かった。ハワイとかで男二人がツインで泊まるというの外国ではありえない。ツインで泊まるとハワイでは恋人なんだ。渋谷くんと恋人同士ではないけど。ある晩我慢できないことがあった。
 「しぶやんの歯ぎしりの癖で夜中に眠れなくなる。狭くてもいいからシングルにしてくれ」というと渋谷くんも、「僕もあなたが夜中に大きな声で笑い出すんですよ、おかげで一睡もできなくるということだった。いいでしょう明日からシングルルームにしましょう」ということになった。「歯ぎしり」と「笑っている」そういう部屋は不気味な部屋だよな。僕はドリフターズのコントを思い出して笑う癖があった。そんな思い出があった。

次回は、10月8日金曜日です。最後の曲は、スティーブ・ローレンス

ゴーアウェイリトルガール
 お相手はここまで吉田拓郎でした。

M 6 Go away little girl スティーブ・ローレンス

☆☆☆思いつきと感想☆☆☆☆☆☆
☆”つま恋”は、野生の呼び声である・・と「大いなる人」(八曜社)に書いてあった。「つま恋と言う言葉は今宵吉田拓郎の血の中に眠る熱き想いを呼びさます<野生の呼び声>である」。御意。たぶん森永博志の文章だよな。しかしもはや拓郎だけではない、ファンもそして当時現地に行かれた方はもちろん、行けなかった俺のようなミソッカス世代も含めて、すべての人々の魂を燃え立たせる。問答無用である。

☆「午前3時に始まるステージ」・・・もうすんばらしいじゃないか。どこが問題なんだ。問題なのは、深夜なのにウーバーイーツでステーキ丼を食べている松島菜々子の方だ。大丈夫なのか。大きなお世話か。

☆つま恋が「怖かった」という話は、75年の直後から何度も聴いた。聴いてきたけれど、今回のは一番切実だったな。こちらも年齢を重ねてきたからだろうか。どうしようもなく怖い思いやトラウマや無念さまでもが、今までで一番伝わってきた。そしてだからこそ”結婚しようよ”の大転換。ああ、爺ちゃん良かったねぇぇぇと心の底からもらい泣きしそうだった。あの”結婚しようよ”の音源が聴きたかった。歌い出した途端、客席が湧きたつ大歓声は、行っていない俺もその場で踊り出したくなるくらい興奮する圧巻なものだった。

☆ここからは邪推という下種の勘繰りだが、このハードなつま恋で吉田拓郎が燃え尽きるようにバーンアウトしたというのもよくわかる。もちろん俺ごときにゃわからんけど、それでも少しはわかる。そしてここに翌月の離婚という悲痛事がさらに消尽させるであろうこともだ。そのボロボロの満身創痍が、翌年のアルバム「明日に向って走れ」の行間からあふれ出る愛と哀しみを体現しているのだと勝手に思う。「悲しき明日に向って走れ」なのだ。だからこそ珠玉なる魂の名盤なのである。

☆何度聴いてもこの魂の底から這いあがってくるような「人間なんて」のイントロはカッコいいな。

☆ラストアルバムの進捗は何よりだ。来年の初夏がことつのラインなのか。パッケージも実に楽しみだが、何よりも私の心は、最後に情熱をこめて書き続けている15曲(前に言ってたよね)の新曲たちにある。頼むぞ。

☆スッパリという御母堂のお言葉を大切にする拓郎は素敵だ。ただ、もしも、もしも、もう一度歌いたいな、もう数枚アルバム作ろうかなとちょっとでも思われたら、そんときゃスッパリと戻ってきてほしい。

☆☆今日の学び☆☆
 かねてからの疑問だった。http://tylife.jp/uramado/ningennante.html 「イントロで疲れ果てて指揮する瀬尾一三に、拓郎が囁くと、瀬尾一三が突然背筋正して動き出すシーン。何を言ったんだ拓郎。」… 答えがわかったよ。ありがとう。

2021. 9. 9

☆☆あの場所でもう一度逢えるなら☆☆
“つま恋”はお元気だろうか。今頃どうしておいでだろうか。かつての閉園のピンチを脱したものの今回も大変だろう。ラストアルバムの公開レコーディングは、つま恋のパブリックビューイングでひとりでも多くのファンが観られるようにしてくれよ。つま恋よ吉田拓郎とともに永遠なれ。
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2021. 9. 8

☆☆つま恋という文化遺産☆☆
 つま恋75か。何を語り何を聴かせてくれるのだろうか。参加できなかった身としては貴重な楽しみだ。
 何度も書いたが何度でも書く。行けなかった身として追体験すると、つま恋は拓郎2nd stageの松任谷正隆バンドと拓郎Last stgeの瀬尾一三オーケストラの競演がすんばらしい。キーボードとスチールギターの美しいとろけるような松任谷グループと迫力の瀬尾ビッグバンドオーケストラが、それぞれ競うように拓郎の歌にいろんな光をあてまくる。そういう祭典である。そんなふうにつま恋を観ている。とにかくとにかくすべての音源、すべての映像を開放しておくれよ。関係者そして参加した人のひとりひとりの声と証言をどこかに掲げ保存しておいて欲しい。お蔵に入れといちゃ誰も幸せにならないぜ。

2021. 9. 7

☆☆手をとってふるえる声で☆☆
 小室等の手は、ひんやりと冷たく華奢な感触だった。その何十年後かに握手してもらった吉田拓郎の手はがっしりと大きくて柔らかくグローブみたいだなと思った。どっちも握手してもらうことだけで精いっぱいで緊張してご尊顔を観られなかった。感触だけはしっかりと覚えている。

2021. 9. 6

☆☆私も月へは行かないだろう☆☆
 たまたまテレビで放映していた映画「ラストレター」を観てしまう。とにかく広瀬すずと森七菜の二人の輝きが眩しすぎて眩暈がした。俺が高校生だったらイチコロだったろうな。この光り輝く天使のようなオーラ。恋愛感情やファン感情とは別の意味でジジイの心に深くしみました。
 ジシイといえば、小室等がそれなりに大事な役で出演している。俺が生まれて初めて芸能人に握手してもらったのって小室等だったことを思い出した。西武デパートの"フォーライフフェア"だった。凄いのか凄くないのかよくわからないが、我が人生に悔いはなし。

2021. 9. 5

☆☆転んだ傷が癒えるとき☆☆

 以下は1979年秋にコータローのラジオ番組で聴いた篠島の顛末の話だ。

 篠島での山本コータロー助監督の最後の仕事は”人間なんて”を夜明けと同時に終わらせることだった。”人間なんて”が終わってもまだ空が闇夜だったり、逆に朝陽がカンカン照で人間なんてと歌うのも絵にならない。夜明けとフィナーレの交錯する絶妙の絵が欲しい。悩んだコータローは拓郎に頼む。

コータロー「”人間なんて”が終わりそうになったところでVサインかなんか出してくれる?」
拓郎「コーちゃん、”人間なんて”の狂っている最中にそりゃ無理だよ」

 結局、コータローが夜の深さと夜明けの近さを確認しながらまだ終わっちゃ困るときは舞台下からサインを出すことになったそうだ。しかしいざ本番では思ったよりも進行が速かったそうで、夜明け前の真っ暗なままクライマックスの「人間なんて」が終わりそうになった。焦ったコータローは、まだまだ終わっちゃダメだと懐中電燈を思い切り振り回しながらステージ上の拓郎に知らせようと舞台下に走ったが慌てていたので足がもつれて思い切り転んでしまった (爆)という悲劇が起きた。
 私の記憶では”人間なんて”は闇夜のまま終わって終了直後に空が白み夜が明け始めたと思う。夜明けとフィナーレの交錯はちょっと微妙なとこだった。
 以下はただの妄想だが、そのせいかフィルムでは、最後に”人間なんて”を絶唱する拓郎のストップモーションで終わり、演奏のエンディングの絵がない。そしてライブ上映会をご覧になった方だけが観られた幻のラストシーン。まるで小林旭のように夜明けの埠頭に一人たたずむ吉田拓郎の姿でフィルムは終わった。
 ということで、もしあのとき山本コータローが転ばなかったら歴史は変わっていたかもしれない…と言うお話でした。

2021. 9. 4

☆☆この世界のさらにいくつもの片隅に☆☆
 すまん。俺は山本コータローの悪口を言いたかったんじゃないんだ。そもそも山本コータローといえば、あの名作ライブフィルム”吉田拓郎アイランドコンサート”の助監督だーいしだー。篠島でもカメラクルーを連れてあちこちを飄々と歩いておられた。

 今でこそ伝説のイベントに数えられる篠島だが当時の拓郎とそのファンを取り巻く空気は冷たく風は向かい風だった。

・世間はニューミュージックの時代(アリス、千春、さだ、ユーミン、サザン、ツイスト)…フォークの拓郎はガチ過去のダサい人のイメージが強かった。歌手を引退してから社長やってると信じている人たちがフツーにたくさんいた。
・でもってそんな過去の人である拓郎を信奉しているファンも時代遅れのダサい&イタイ人と見られがちだった
・しかも折悪しく…というか、79年夏、あのつま恋でアリス、ツイスト、こうせつのライブ、江の島ではサザンオールスターズとビーチボーイズのオール・オーバー・ジャパン、北海道では松山千春と全国各地で夏フェスが燃え上がっていた。
 …ああ独り離れ弧島の吉田拓郎(すみません篠島の方々)。おそらく船に乗ってまで観客は来なくて失敗するだろうというのが心無い下馬評だった。
 それに個人的には高校でも受験の夏に泊りがけで拓郎だとぉ?と先生には見放され、同級生たちにはバカにもされたものだ。

 そんな四面楚歌の苦境の時にコータローが拓郎に言ったのだ。
「ねぇ拓ちゃん、篠島が日本、本土が世界だと思ってやってみようよ」
 拓郎はこのコータローの言葉を励まされたと篠島直前のラジオのインタビューで語っていた。拓郎だけではない、肩身の狭かったファンの俺はこの言葉に限りない力を貰った。「俺が行かなくて誰が行く」と覚悟を決めた。
 そうだ俺たちはこの篠島から世界に向かって巻き返してゆくのだっ。泳げ拓郎!、走れコータロー!、進め名鉄拓郎号(未見)!

 そして多くの予想を裏切る大成功に終わり、俺たちは素晴らしい夏を胸に刻むことになった。その年の秋口に、甲斐よしひろがラジオ番組(小林克也との対談)で言った言葉が忘れられない。
 この夏は拓郎のひとり勝ちだった
 ありがとう甲斐。みんな「つま恋2006がヌルイ」って言ったからって甲斐を責めるのやめようぜ>それはおめーだろ
 ともかく篠島の成功を受けて9月新学期に学校に行くときの誇らしい気分といったらなかった。こんな気分だった。

 時々コータローの「篠島が日本、本土が世界だと思ってやってみようよ」の心意気の言葉をいろんなカタチで思い出す。かくして恩人なので悪口を言うつもりなどない。ただ、そのコータローがユイを辞めて松山千春…って話が回り出す爺さんか。

2021. 9. 3

今日は☆☆「泳げ拓郎」「走れコータロー」1979年の眠れない夏☆☆を書く予定だったが、諸事情で泥酔して書けないので、また明日。

2021. 9. 2

☆☆これから始まる大レース☆☆
 誰が誰を降ろして誰と組んでというウンザリする政局のニュース。こういうニュースを観るたびに、昔=80年代中盤、吉田拓郎の盟友であり側近と思っていた山本コータローがある日ユイ音楽工房を辞めて、松山千春のNEWSレコードのプロデューサーになって千春と仲良く二人でテレビとかライブに出ていて、びっくらこいたのを思い出す。あれはなんだったんだ。そらま各人の自由だけどさ。それにほどなくNEWSレコードは解散になったが。名著”誰も知らなかったよしだ拓郎”は、何十回も眼光紙背に徹し涙ぐみながら愛読した俺だが、あれ以来、心の狭い俺には、山本コータローの言葉が素直に心に入ってこない。

 拓郎がコータローに提供した”君のために”。いい歌だ。♪そうだ君にはチカラがあったんだ〜

2021. 9. 1

☆☆9月になれば☆☆
 いつもなら9月というと気持ちがウキウキするのだが、こんな世情ではそうはいかない。不思議にも小中学校の同級生仲間に今年還暦を迎える連中が多かったので祝宴を楽しみにしていたのだが難しいな。またかねてから夢見ていた”乙女座会”もなかなか実現しそうにない。今はこらえよ愛しい君よ。

 以前、松本隆が「9月の雨の日にタクシーに乗ると必ず太田裕美の”九月の雨”がかかるんだよね」と語っていてホンマかいなと訝しく思ったものだ。ただ9月の海といえば”冷たい雨が降っている”だぜ。

 九月の海に雨が降る 
 波と雨とが入れ替わり
 空と海とが溶け合って
 九月の海に雨が降る

 壮大で少しゾっとするような”海辺の叙景”を描く見事さに感嘆する。海辺の叙景=つげ義春といえば、知り合いのねーさんが、ワクチン接種に”ねじ式”の少年のTシャツを着て行ったそうで、これにも感嘆した。世の中捨てたもんじゃない(爆)。日々ご自愛しつつ元気出してまいりましょう。
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2021. 8. 30

☆☆夏はこれ以上待ってはくれない☆☆
 今年の夏の初めに買ったかき氷機。かき氷を"シェイピングアイス”というのだと拓郎に教えられたよ。「ハワイのノースショアに松本シェイピングアイスと吉田シェイビングアイスが並んであってさ」…松本と吉田ってなんか見慣れた並びだよな。
 さて俺がこの夏、いちご、ゆず、抹茶といろいろシロップを試して落ち着いた…空よりも青いサマルカンドブルー。身体にイイのかという意見もあるが、もうジジイだから、んなことはどうでもいいんだよ(爆)。氷とともにささやかな夏が終わってゆく。さらば。
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2021. 8. 29

☆☆棕櫚の葉は今も☆☆
 Ninjin design officeでは、夏の甲子園高校野球での山崎育三郎が歌う「栄冠は君に輝く」に胸を打たれて以来、この曲が個人的大ブームになっているらしい。昨年、第1回で衝撃の吉田拓郎の”ある雨の日の情景”が登場した朝ドラ「エール」も重なる。社歌にする勢いで俺にも熱く推奨してきてくれた。「この隙のない見事な詞、まるで”マラソン”か”life”くらいの詞。"雲はわきひかりあふれて天高く純白の球 今日ぞ飛ぶ"…この"今日ぞ飛ぶ"がたまらない」また作詞者である加賀大介さんと人生を歩まれた奥様が”美しくにおえる健康”のところがお好きだという話も胸を打つ。…御意。以来、自分もこの歌も頭から離れない。俺は自分の母校がただ一度甲子園に出た時もテレビすら観なかった不心得者だ。今さら悔いている。
 “ストーンズ”に”運命のツイスト”に”ああ栄冠は君に輝く”…カオスのような脳内ラインナップだが、それでも音楽っていい。いやそれだから音楽っていい、そう思う。

2021. 8. 28

☆☆その時せつなに愛おしい☆☆
 時節柄、ストーンズを聴いている。アルバム"Rarities"収録の”Tumbling Dice”がツボ。最初はピアノと手拍子だけでミックとキースが仮歌みたいに歌い始めた音源が、途中でフルバンドのライブ本演奏に切り替わるが、この転換が文句なしに燃える。豊かなる一日の”今日までそして明日から”くらい燃える。仮歌と本番演奏の両者のコントラストからバンドのグルーヴ、特にチャーリー・ワッツのドラムのすんばらしさが引き立ってよくわかる。
 これを意識したかどうかは知らないけど、拓郎(T&ぷらいべえつ)のスタジオ録音盤の「運命のツイスト」の組み立てと同じだ。

 ラジオでナイト(第73回 2018.9.23)の放送で「Brown Sugar」を聴きながら「シャウトするロック色強い曲を作ってトライしてみたい。」「”よーし。オレもこういう曲つくるぞ"という気になる」と意気込みを語っていた。その直後に登場した新曲「運命のツイスト」のことなのかどうかはわからん。もしかするとラストアルバムに向けて準備されている新曲なのかもしれない。ただ”運命のツイスト”これはこれで通底する、こりゃええ、ええ、ええ、ヒューっ!!。

 “Tumbling Dice”、”Brown Sugar”、”運命のツイスト”このあたりをコンタミで聴いていると、気分がいい。人によってはわけわからん選曲かもしれないが。”運命のツイスト”も再びライブで聴けたらもっともっとノるのにな。ライブは二度と帰らない。

2021. 8. 26

☆☆チャーリー・ワッツ☆☆
 歳をとるほどに素晴らしい顔になっていった。なんともいえない紳士の品格がにじみ出ていた。俺のような門外漢の素人には、あんなこじんまりとしたドラムセットで飄々と叩いていながら、なんであんなロックンロールのうねるサウンドになるのかいつも不思議だった。
 初来日の時、チャーリーの投げたドラム・スティックを拾ったとんねるずの石橋貴明が羨ましかった。日本公演ではいつもメンバー紹介の時の拍手とコールが長くて超絶盛大だった。その時の困って照れた笑顔がまた良かった。
 25周年のインタビューで、あなたにとってのストーンズの25年間は?と問われて「仕事したのは5年で、あとは居ただけだよ」と語ったのが素敵だったな。仕事してくださって、そしていてくださって心の底からありがとうございました。
 地下鉄で街角で歩きながら聴き直す。いい。ストーンズいい。いやストーンズだけではない、ライブって本当にいいと心の底から思う。

2021. 8. 25

☆☆天に舞う男たち☆☆
 二瓶正也さんの訃報に悲しむうちに、サイレントストーン・チャーリー・ワッツの訃報にショックを受ける。絶句。今までありがとうございますという心の底からの感謝しかない。感謝しかないけどあまりに悲しすぎる。

2021. 8. 23

☆☆久しぶりに会えたのだから☆☆
 ここのところは閉じたままの行きつけの居酒屋の前を通ったら、電気は落ちていたが扉が開いていた。マスターが換気と掃除に立ち寄ったらしい。おおLong time no see。お元気そうだ。ああ、生きている、もつれあい、もがきながら今日もまたどこかで息づいてる命。パートーナーのデザイナーの方もご一緒で、お誕生日だったらしい。おめでとうございます。コロナが開けたら、ああ冷酒が飲みてぇ。そしてコロナに打ち勝った証として(爆)、またTシャツを作りますのでデザインお願いします。どうかお互いにお元気でいましょう。

2021. 8. 22

☆☆永遠の宝であってくれ☆☆

 2005年名古屋公演とリンクして拓バカたちと篠島に乗り込んだことは書いた(僕の旅も小さな叫び http://tylife.jp/chiisanasakebi.html#19790726_3)。書き忘れたがその時に篠島グランドホテル松島館の仲居さんがボソっと話してくれた。

「拓郎さんが歌い終わって旅館に帰ってきたとき、旅館で働いていた男の子に、頭に巻いていたハチマキをあげていらっしゃいました。『こんなの貰っちゃったけど』と見せてくれました…」
 なんですと
 篠島のピンク、青、白のステージ衣装は、その後81年のオールナイトニッポンでファンにプレゼントしていたよね。当時、魂の底から羨ましかったが拓郎を愛するファンの手に渡ったのだからそれはそれで天命なのだと納得した。最近でいえばテレキャスター・シンラインもカマカのウクレレも同じだ。
 しかしこのハチマキについては、おばさんの言い方に「こんなの貰っちゃったんだけど」みたいな男の子の困惑を感じてしまった。もちろんそれが俺の誤解ならすまん。終生の家宝にしてくれるのであれば納得だ。できれば一目見せてくれたら嬉しい。大丈夫だ
かじったりしないから。

 だが、もし貰うに貰ったけど捨てられないし…みたいなことだったら、旅館の男の子よ、いや今やたぶん還暦も超えておられよう殿方よ。是非拠出してくれ。俺にくれたら嬉しいが、それもなんだろうし、ニッポン放送吉田拓郎のオールナイトニッポンゴールドに送ってくれまいか。そうしたらきっと拓郎がプレゼントのためにまた例によって鬼畜な素敵なクイズを考えてくれることだろう。

 2019年の名古屋公演の帰りに行ったとき、篠島グランドホテル松島館は既に閉鎖されていた。♪時はすべてを連れてゆくものらしい、なのにどうして淋しさを置き忘れてゆくの・・・。せめて散らばった魂のお宝たちはお宝として輝きながらそれぞれの場所で生き続けてほしい。

2021. 8. 21

☆☆非情なライセンス☆☆
 千葉真一さんの訃報。相次ぐ名優の逝去が悲しい。ご冥福をお祈りします。真田広之の”砂漠の都会に”(喜多條忠作詞 吉田拓郎作曲)を聴くために毎週”影の軍団V”を観ていた。”砂漠の都会に”…いい歌だ。サビに続けて”それもただの風のシーズン”と歌いたくなる。いや、ディスっているのではない。しっとりと聴かせる名曲なのだ。
 千葉真一のドラマでは「深夜にようこそ」が好きだった。80年代のコンビニって、草創期みたいなものだけど、なんか今とは雰囲気が違ったよね。ちょっと切なくて、少し闇があって、あの千葉真一はそこに静かにハマりこんでいて素敵だった。
 ただいろいろあっても我がDNAに刷り込まれているのは結局”キイハンター”だ。今でもスーパーやビルの地下駐車場を歩いていて、車が横を通るたびに、千葉真一と谷隼人が浮かんきてで、あのテーマが流れて来ないか。
 小中高からの友だちのルーちゃん(実名)とカラオケに行くと「非情のライセンス」と「アイフル大作戦のテーマ」と「特捜最前線の愛の十字架」を今も必ず歌ってくれて萌える。しばらく会っていないが元気だろうか。
 とにかく、とにかくみなさんお元気でいておくれ。

2021. 8. 20

☆☆青空にひとすじのひこうき雲☆☆
 自宅を病床に、自宅で療養を基本にと言われた時点で私たちは捨てられたのである。なーにが自助だ。自由の底を掘り崩しておいて。

 老若男女、誰が亡くなっても困るが、私らはもうジジババだ。曲がりなりにも人生のようなものはあったし、吉田拓郎の音楽に出会え、満喫し、エンディング近くまで楽しむことができた。しかしたとえば新生児の方、今から青春を迎える方々のことを思うといたたまれない。これからそれぞれ愛するアーティストと出会い、熱狂し、その歌と共に人生を歩み、やがてそのアーティストがジジババになり「アウトロだ」とか言い出されて戸惑いながらも、悪くない、月日の数も悪くないと思う…そんな幸せな道行がもし迎えられないとすれば、そりゃなんなのだ。そんなのはおかしい。ともかく若い命、ご家族ともどものご快復を心の底から祈っております。
 生きていなけりゃ、そう生きていかなけりゃ(@FromT)…歌もうまいけどギターもしみる。

2021. 8. 19

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☆☆筒美京平☆☆
 文春新書「筒美京平 大ヒットメーカーの秘密」(近田春夫)を早速買い、とあるページから貪るように読む。幸せ。
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 いいリードじゃねぇか。「僕はああいうもの書けないもの」…ああ、もっと言ってもっと言って(悶)

 そうそうユーミンが昔ラジオで話していた。近田春夫さんとウチの旦那(松任谷正隆)は、小学校(慶応幼稚舎)からの同級生だけど、近田さんて落ち着きなくて授業中は先生に横顔しか見せたことがなかったんだって。この話好き。

2021. 8. 18

☆☆夏の思い出☆☆
 盆踊りとともに夏の風物として毎年思い出すのは「ちょっと麦茶飲ませろや」。麦茶を飲むたびに心の中で呟いたものです。スポーツドリンクに代わったのは、1982年の王様達のハイキングあたりではないかと思われます。どうでもいいことだが、俺の人生はそういうどうでもいいことで出来上がっているんだよっ!

2021. 8. 17

☆☆あなたを送る日☆☆
 盆踊りなんてどうでもいいとずっと思ってきたけれど、どこからもその音が聞こえてこない世の中になるとやはり寂しくなってくる。

 盆踊りといえば、1979年の篠島のプログラムに「(催し物)」と書いてあったが、これは「陣山俊一さん主催の盆踊り大会」の予定だった。当時、拓郎がラジオで告知していた。実現しなかったが、若かった俺は、別にそんなもんいらねぇよと平気だった。すまなかったな陣山さん。

 しかし、ジジイになった今に思うと篠島で2万人で踊る盆踊り、すげえ絵になっただろうし、思い出になったに違いない。拓郎もOK松任谷も瀬尾さんも鈴木茂も島ちゃんもエルトンも青山もみんなで踊る盆踊り。長渕おまえもだ。夢想するだに、いまさらながら残念だ。

 いい歳しながら、失って初めてわかるものの多さよ。

2021. 8. 15

☆☆“祭りのあと”に☆☆
 いろんな意味で、こういう日に外に出たくなかったのだが、京急の弘明寺駅の通過あたりで黙祷させていただく。水害も大変な様子だ。御見舞申し上げます。

 車中で聴いていた中島みゆきの”瞬きもせず”。荒れ果てた土地に取り残された孤児みたいになった”祭りのあと”と重なる。

   君を映す鏡の中 君を誉める歌はなくても
   ぼくは誉める 君の知らぬ君についていくつでも
   あの ささやかな人生を よくは言わぬ人もあるだろう
   あの ささやかな人生を 無駄となじる人もあるだろう
   でも ぼくは誉める 君の知らぬ君についていくつでも

 
  そのうち追補してもっと誉めたる。http://tylife.jp/uramado/matsurinoato.html

2021. 8. 14

☆☆豪雨☆☆

 昨夜のラジオでも緊急告知が入ったが、広島、長崎など豪雨が大変なようで心配だ。どうかお大事になさってください。同じ川沿いに住む身として氾濫しないことを祈っております。


☆オールナイトニッポンゴールド  第17回 2021.8.13

☆☆☆あらすじ☆☆☆☆☆☆

 吉田拓郎です。毎週週替わり金曜日、今週は吉田拓郎がお送りします。

 日本語をもっとシンプルに統一できないものか。「1775年リスボン大(おお)地震 多くの建物が倒壊し、大(だい)火災で多くの被害が出た」
 大舞台、大事件、大騒ぎ・・・ ややこしいでしょう。大変だ。七面倒くさい。シンプルにしようよ。シンプルに生きることを目指しているのでそう思う。

 ワクチン二回目の接種を夫婦で終えた。副反応というものがあることを知って、佳代さんも前から戦々恐々としていた。一回目の前の晩は寝不足で病院に行った。心配なので、僕が病院に電話して先生に、昨夜佳代が寝れなかった、おかげで朝からご機嫌ナナメで、ワクチンの前反応が出ていると言った。そしたら先生が、拓郎さん素晴らしいですね、さすがですね「前反応」という言葉、使えそうです(笑)。俺は心配しているのに、なんて医者か。
 一回目接種の夕方に「眠くてしかたない、副反応なのかしら」というので、それはあなたが眠たいだけ、いつも眠たいという人だし。読書してても欠伸もよくでていたし。誓っていうけど、副反応じゃないです。ああそう、と納得していた。接種の帰りの車の中で、運転手さんから「家内が副反応で二日起きられない」という話を聞いて、私なんて四歳から朝は起きれなかった…と答えた。接種しなくても朝はヤダヤダという、ウチの佳代はすべてが副反応なのかどうか見分けにくい。そういう人生を送っている。

<草刈りしながらラジオの録音を聴いている、父親の影響で拓郎さんを聴き、東北から岐阜に婿に来たという方の投書>
 のどかだな。リアルタイムで聴く人は少ないのかな。農作業か。情景が浮かぶ。ついにこのラジオは農家の後押しにもなっている。おいしいお米を作ってください。野菜かな。とにかく食べればみんな元気になれる。

■今夜の自由気ままに、全国農業、漁業、林業…どこまで忖度するんじゃ、吉田拓郎のオールナイトニッポンゴールド。

<フォークロックの話は出たがRCサクセションはどうかという投書>
 忌野清志郎、キヨシローはロックンローラーでソウルシンガーだったと思う。RCは初期でもボーカルはロックスピリッツだった。だから吉田拓郎もそうだけど浮いていた。あれはフォークには入らない。キヨシローもオーティスレディングとかが好きだ。当時はアコギで歌っていたから、そうなると「フォーク」ということになっている。エレキは「ロック」という安易なカテゴリー分けがつまんなかった。
 日本にフォークロックはなかったといったけど、思い返すとチューリップはどうか。エレキバンド、ロックバンドになるけど、良く考えるとチューリップは、ロックンロールじゃない。実は彼らこそフォークロックだった気がする。財津和夫の音楽センス、ラビンスやバースのようなハーモニーやアンサンブル、ポップなサウンどでフォーキーな詞。あれこそフォークロックだったのではないか。あっちとこっちとにわけてしまうのはツマンナイね。

<大谷のホームランダービー、日本人の活躍にワクワクするという投書>
 大谷くん、驚きと感嘆。凄いな。大谷マジックにウチの人もダウン。ランキングが上がった。アンダー24で頑張っている田中碧に三苫に迫るランキングだ。
 僕は林大地、突貫小僧で相手を背負ったようなガードがいい。サガン鳥栖応援しようかな。名古屋の相馬くんいいね。ルックスはぽっちゃりしているけど。
 横浜の前田大然、あの風貌と突っ込み。U24 いい選手いるね。奥さんには関係ないが

 どうなのベストスリーは。いきなりベストワンに躍り出たのはスケートボードの堀米優斗。以前から注目していたけども彼女はテレビでやんないと忘れてしまうとこがある。
今はダントツ一位だ。

 堀米、田中碧、三苫、大谷、桃田…残念だけどよくやった、広島の森下…俺はどこにいけばいい。ぜーんぶ若い男子だけ。30歳過ぎた男はいない。

 そしてついに照ノ富士、テルちゃん、横綱になりました。素晴らしいな、凄いな。これだけ素晴らしい若者たちが大活躍なので佳代さんは上機嫌。美味しいごはん作ってくれる。本当は料理嫌い。人のためにご飯作るの大嫌いで、30年間我が家に客を呼んだことがない。自分がおいしいものを食べるために仕方なくキッチンに立つ。

<還暦の夫が終活ギター断捨離したのに、J45を買ってきたという投書>
 僕はコレクションをしない。ものをたくさん持ってて幸せ、とかない。ギター100本持ってる高見澤とかどうすんのとか思う。100本目のギターって触ることあるのか。僕は、たくさん引っ越ししてけど物が減ってゆく。手伝ってくれた人にどんどんあげてしまう。
 最近は佳代と僕は、家にいろんなものがあるのが嫌いで、気が付いたら どんどん処分
している。スッキリしていたい。必要な物以外は家にないな。スッキリしすぎ。特にコロナでことあるごとに処分。前のラジオでも言っていたけど、着る物、バックとか買いたい  僕もそう。いろいろなくて足らないな。現状が打開されたら買い物しようよね
でもまた増えて当分東京は難しいかな。

<ガンの父と娘の時間を拓郎のラジオがつないでくれたツイッターの漫画があったという投書>
 冨山くんから聞いて送ってもらった。思わず涙した。お父さんは旅に出られたけど。さのかさんの旅はまだこれから続いてゆく。さのかさんは健康に気をつけて。お父さんの分も一日、一日明るく生きて行ってください。あなたの人生に拍手。
 この話を聴きながらオリジナルバージョン聴きたくなった「みんな大好き」から。

M-1 全部抱きしめて   吉田拓郎

※西日本も気をつけて・広島警戒レベル・線状降水帯

CM
<映画は字幕版と吹き替えどっち派ですかという投書>
 (ピー)いまエアコンを切った音。最近クドカン作品を字幕で観てみようとやってみた。それまでセリフのテンポが速くてわからないところがあった。もともと東映の忠臣蔵好きだった ファンとしてはついていけない(笑)。これが字幕で観るとわかるんだな。こんなこと言ってたのか脚本家が苦心して作っていたのがわかった。

 先日小津安二郎、世界の小津の映画を字幕で観た。一語一語ていねいにカットで撮ってゆく映画だが、これがまた面白い。杉村春子の演技もいい、すっかり字幕の世界にハマっている。

 このごろ面白い映画がない。古いのをひっぱり出して観ている。

「オトナの喧嘩」
 二組の夫婦が子ども喧嘩からもめる話。アカデミー賞クラスの俳優がこの物語の会話劇が凄い。オトナが和気藹々中でふとしたことから険悪になっていく。
 ジョディ・フォスター、ケイト・ウィンスレット、クリストフ・ヴァルツ、ジョン・C・ライリー。実に面白い。
「オデッセイ」
 マットディモンが、火星で一人生き抜くために奇想天外な方法でサバイバル
「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」
 トム・ハンクスとレオナルド・ディカプリオ。デカプリオ演ずる詐欺師を追いかけるトムハンクスの刑事、アメリカ中の女性をだましても捕まらないそんな詐欺師の話術を知りつつ、追いかけるトムハンクス。
「レインディアゲーム」
 ベン・アフレックが主演。監獄の友達がシャーリーズ・セロンと文通をしていた。早く出所したベン・アフレックはその友達に成りすまして、彼女の前に登場し結ばれる。ところがそのお兄さんが現れて予想外の脅迫をされるという話。

(CM)

 今夜はアルバム「176.5」。僕はいずれ音楽はコンピューターの時代になると感じて早くから取り入れていた。当時の多くのフォークやニューミュージックはコンピュータかい?  打ち込みかよ?とか思っていた人は多かった。
 こっちから言わせてもらうと、いつまでギター一本で弾き語りじゃないだろうと思っていた。
 当時は、ピコピコサウンドが多かったので馴染めないのもわかる。YMOについてゆけないのもしょうがない。しかし、サウンド作りとかアレンジのテクニックは学んでみたいと思って僕はYMOのアルバムを聴いていた。
 コンピュータと生音…高橋ユキヒロのドラムとコンピューターとがあわさったのは驚きと感動があった。ポップスというのはこういうふうに進歩しているのかと勉強になった。
 当時PCはNEC PC98とかで「ステップ入力」という日本独特のものがあった。鳥山にステップ入力はもうないのかと尋ねたらソフトはあっても、動かす機会がないでしょうといわれる。今使っているロジックとか面倒くさい、ステップ入力が楽だったと言うと、ああそうですねと言っていた。

 「176.5」は、 カモンミュージックのソフトで作っている。碑文谷の地下に防音のスタジオがあって作っていた。そこに機材、音源があって、それらをサンプリングしていたものがなかった。ヤマハDXセブンが主流。今の音は生と変わらない。当時は、なかなか音源がなかった。サンプラーを買ってきて、自分の実音を使ってレコーディングしていた。その後、逗子に引っ越すがスタジオは作らなかった。勉強部屋で特に防音はしなかったため、逆に臨場感がたっぷりとあった。
 FromTは 逗子で作ったサウンド。これが耳元で歌っているリアルな感じ。スタジオでは作れない音だ。176.5は殆ど目黒で作った。
 いずれ僕らのミュージックはバンドから変化していってコンピューターの打ち込みサウンドになると確信していたことは間違っていなかった。今や99%は打ち込みの時代になった。バンドをスタジオにいれての録音は少ない。そういう音を知らずに受け入れている。
バンドと変わらない音ができるようになったのは進化だ。
 ステップ入力は細かいことはできないけどよかった。僕の身長は、177センチメートルあるけど。スタジオで身長図ってくれと言う
 歳とって身長が伸びるわけないが、ディレクターのスタジオで図り間違い。等身大ということで、本当は177センチなんだ。
 東京へ出てきた僕がだんだん都会に侵されていくことを描いた。新幹線や飛行機ではなく、後輩の車で26時間くらいかけて、コンテッサという高級な車で六本木に着いた。後部座席に女の子から借りていたギター、ヤマハのFGと毛布とボブ・ディランのアルバム数枚
とコンポを積んで六本木の交差点に来た時、やったね着いたたねと後輩と抱き合った。
 その車から降りた、そこから東京でのいろんなことがあった。東京での大冒険が始まる

M-2  車を降りた瞬間から   吉田拓郎

■11時

 佳代さん)みなさん11時です。夜も更けてきました。私はお風呂入って上がったら髪の毛乾かしてバッタんと寝ますね。おやすみなさーい。

 コンピューターを使って打ち込みというのは、音楽的なセンス…アレンジ能力とかアンサンブル編曲能力が求められる。技術に熟練すると同時にどうやってデータに人間が実際に演奏する楽器をイメージしてミックスするか。コンピュータの打ち込みサウンドとヒューマンサウンドとどうミックスさせるかが問われる。このアルバムでは親しくしていた、フィリピンのサックス奏者ジェイク・コンセプシオンと付き合っていた。ジェイクにこの打ち込みに色付けてほしいと頼んだ。イントロ、間奏、素晴らしいサックス奏者だ。素敵な曲に仕上がった。

M-3 星の鈴

CM

 正解者84人。僕がたくさんステージで歌ってきたけど今は歌いたくない、嫌いという唄。最終5000通、84人の形が正解。ニッポン放送に抽選をお願いする。

 当選二児の母で介護の仕事をされている富山市のUFOさん。良かったですね。キンキと番組でハワイに行ったとき立ち寄って、ひとめぼれした六弦ウクレレ。飾ってもいいですよ。おめでとうございます。

 今夜は「祭りのあと」この曲はお別れです。この歌詞は70年代の感情を抱いている心情
。これが徐々に僕も気持ちが入らなくなる。乗れないなこの言葉と思う。この曲はあの時代70年代初期のもの。松本隆の「白夜」という唄がある。実はあの時代を歌っているのだが、なぜか何回歌える。ファッションの気分で歌える。でもこの詞には情念が潜んでいる  もう歌えないな。それはもう卒業いいよね。もう戻るまいと思う。「祭りのあと」いろんなテイクを演奏したが、なかなか気に入ったものがない。
 エレックの「ゆうべの夢」というのがある。これが原曲。軽いポップな元詩だ。「元気です」では石川鷹彦と二人きりで作った。当時の時代背景、かなり重苦しい。暗い感じがしている。しかも当時の弾き語りで切々と歌っている、おまけにハーモニカをいれているのでどんどん暗くなる。生きざまっぽい。完成度が高くなったが、今の時代にはないじゃない。今は鷹彦もやばかったなと思っているかもしれない。
 鳥山雄司と二人でこの曲をカバーしたとき、鳥山、これが最後たへと思うから、あいつのスチールギターをダビングしてほしいなと頼んだ。70年代の素晴らしい名手、駒沢裕城…僕らは「こまこ」と呼んでいる。昔とかわらないヌーボーとしてスタジオにやってきて期待を上回る演奏で泣いた。
 この曲は柔らかく優しくしてくれ。どんよりしたものを優しく心の奥に仕舞いこみたかった。この曲は、やっと平穏な長い眠りにつける演奏。このペダルスチールは最高傑作。最高の「祭りのあと」。もう演奏しない。

 M-4  祭りのあと (oldies)   吉田拓郎

 (CM)

 僕は全国を旅してきた。それぞれの町に愛おしい、切ない思いがある。コンサートツアーというものを企画する前は日本の音楽界は未熟だった。歌謡曲は、地方で歌うよりテレビで顔を売るのが大切だった。それで地方には、有力者、鑑賞団体の招待で歌って、そこだけで帰るというのが普通だった。今のような全国ツアーなんてものはなかった。だから地方に行って初めて、え、あなたが主催者と知る。こんなおっさんが主催なのかと現地でわかった。そのころ、アメリカの全国ツアーの仕組みを知り強く感動してこれだと思った。日本でも僕たち用の主催団体が必要だということで、日本全国の若者に呼びかけた。これによってイベンターというものが全国に生まれることになった。
 全国各地のイベンターと酒を飲んで話してきた。こうしてコンサートツアーが出来上がった。最初はいろいろ大変だった。もともと旅嫌いで家にいたい男が、結果的には全国を旅して素晴らしい思い出としては残った。今は観られない風景もある。

 青函連絡船。これに何度か乗った。青森函館間、これはなかなか乗らない。とても不思議な雰囲気がある。石川さゆりの津軽海峡冬景色という唄のとおり、青森駅のホームに降りたら寒かった。歌のとおりだった。青森駅で降りて連絡船の乗り場まで歩いて行ける。バンドのみんなで列車のホームから乗り場までつながっていると感動した。函館は夜景がすごい。「夜景がやけにキレイ」(笑)
 函館の夜景、撮影みたいな雰囲気。その場にいる女性とキスしたくなるような、函館山  にいると映画の主人公になったような気持ちだ。北島三郎のはるばる来たぜ函館という気分。
 ああ、GLAYは 函館出身だったね。TAKUROくんと飲んだことがあった。LOVELOVEテレビのの収録の時、週二回はホテルに泊まっていた。地下のバーで飲んでいたら、ムッシュから電話でGLAYのTAKUROと飲んでるから一緒に飲まないかといわけて拓郎とTAKUROが一緒に酒飲んだ。函館出身の彼にはそういう思い出がある。

(CM)

 四国のイベンターでデュークというのがあって、そこに宮崎君という人がいた。「元気です」が凄い売れていた頃、一緒に飲んでいたら、お店の女の人が、今はよしだたくろうが東京でも凄い人気、アタシは詳しいんですよと言い始めた。吉田拓郎だと気づいていない。二人は暗黙の了解。
 目の前にLPを持ってくる。どこまでしらばっくれていられるか。「元気です」のジャケット持ってきたこれが流行していると説明してくれるが、あら似ているよね、あららら 似てない?と言い始めて「俺結構似ていると言われているんだよ」とあんた、そんな馬鹿な
よしだたくろうじゃないよね…一時間くらいわからなかった。
 吉田拓郎の話をこんなに詳しく離されたのも初めてで、知らないこともあった(笑)。
その人が跳ねる感じで店内を動くので「ウサギと呼ぼう」と宮崎君と決めた。そのあと3年くらい行ったけど、そのあとなくなっちゃいましたと宮崎君から連絡が来た。
 のんべだったからな。名古屋は篠島もあったし、2019年のラストライブもあそこだったから、名古屋とは深い友情を感じる。今でもラストライブを観るけど好きだな。理想のサウンドがそこにある。あれが作りたくて50年やってきた。公開レコーディングでも目に焼き付つけてほしい。
 ここで全国のイベンターに御礼を言いたい。楽しく語り合った青春が素晴らしかった
。みなさんが支えてくれたからこそ歌ってこれた。今はコロナということで自由にならないけど、必ず再び立ち上がってスタートが切れますように、陰ながら応援します。みなさんとご家族が末永く健康と幸せでいられますよう東京の港区の片隅から祈っています。心からありがとうを言いたいと思います。

M-5 ありがとう 吉田拓郎

 小児喘息で登校日数が一年間の半分だった。だからクラスメイトができなかった。みんなと同じことがやれない、できない。ひねくれた小僧になっていつた。人と同じことをするのが苦手嫌で、それはずっと変わらなかった。あの人がこうやっているからというのは無理。そういう言い分を聴く気がしない
 あの人は・・・まだツアーやってますよとかメールが来ているが、そういう理由で僕は
動かない。自分らしいく生きたい。人と同じ…ごめんです。
 自分のエンディングを十二分にやって、もういいんですというのが本音。僕だけでいい
最後に音楽の友人とアルバムを作りたい。先日言ったように残された時間無限にあるわけではない。始まれば終わる。終わりを暗い負のイメージでとらえてはいけない。終わりが大事。音楽もイントロ、間トロ、アウトロとあってエンディングこそが大事である。僕はとても大事なところに立っている。いまが一番最高に大事な真剣勝負。毎日そこを目指して明るい笑顔でできるように曲づくりに励んでいる

M-6 アンチェインド・メロディ  ライチャス・ブラザース


次回は9月10日。

☆☆☆思いつきと感想☆☆☆☆☆☆

☆「大いなる」「大きな夜」「大晦日」…おお、さすがシンプルに一貫されている。

☆寝不足の妻を心配して病院に電話する。どんだけ優しいんだ。

☆「176.5」は計測ミスとな。177…だと野口五郎の歌かなんかになっちゃうもんね。

☆コンピュータサウンドは機械任せではなく、ヒューマンサウンドとの調和、アンサンブル、構成力が必要だ…いい話だ。俺はYMOについては…いろいろムカついたことがあって拓敵と思っていたが、拓郎はそこから真摯に学んでいたのだな。ああ、本当に音楽を愛する音楽家なのだなとしみじみと思った。しょーもない俺は曲によっては確かにピコピコサウンドと文句もいったが(例「いくつもの夜が」)、拓郎の先見とセンスは誇らしく思う。

☆「車を降りた瞬間から」のたゆまなく流れてゆく感じ。この心地よい流れはコンピューターだからこそ出せた感触なのかなと思う。もし生音だととかえってゴツゴツしてしまう気がする。

☆久々の「星の鈴」泣ける。ええな。しかし、ジェイクだったら「しのび逢い」こそ独壇場で、大好きだ。

☆その曲が「祭りのあと」…考えもしなかった。正解者84人とは心の底から恐れ入った。
当選者の方おめでとうございます。ハラショ。

☆とはいえ私にとっても、共に青春を生きた魂の名曲であるだけに、この曲がそうだったとはショックである。その曲に「嫌い」とまで言う必要があるのか。みんなあなたの子どもたちではないか。しかし、拓郎が心をこめてこの曲とお別れようとしているのもわかった。「どんよりしたものを優しく心の奥に仕舞いこみたかった。この曲は、やっと平穏な長い眠りにつける」。だから、私がとやかくいうことではあるまい。

☆この曲を永遠のものにするのは、ステージを去る拓郎ではなく、この曲に魂を動かされたものたちの仕事だ。例えば、古代エジプトのクフ王が、「当時の気分で作っちゃったけど今思うとこの墓デカすぎね?ダサくね?」と言おうが、ピラミッドは人類の永遠の財産として後世の者たちによって継がれてゆく。それと同じだ。>よくわかんねぇよ

☆俺個人は「祭りのあと」は"王様達のハイキング"のアウトロの青山のギターが一番泣ける。

☆「白夜」だと何回でも歌える。そこが松本隆の良く言えば才能、悪く言うとあざとさだ。

☆いつも思うがコンサートツアーの始祖へのレスペクトが足りない日本の音楽界。たぶん今さら自分たちになんのメリットもないからだ。それにひきかえ、拓郎のイベンターへの心のこもった感謝は胸にしみる。こういうところ、すげーいい人だなと感じ入る。

☆「エンディングこそが大事である。僕はとても大事なところに立っている。」…歌手本人が大事なところに立っているのだ。いわんやファンをや。私たちも必然的に大事な場所に立っている。このラジオはそのレッスンなのではないか。

☆碑文谷の地下にスタジオがあったのか。たまプラザじゃなくてか。

☆☆☆今日の学び☆☆☆
  あの駒沢さんのペダルスチールは、"祭りのあと"の鎮魂だったのか。

2021. 8. 12

☆☆ライク・ア・マイルストーン☆☆
 明日はラジオだ。なんかこの一か月は非常に長かったな。まさしく皇帝のいない八月だ。いろいろな世界的事象があったあげく東京はもう制御不能らしい。私にどうしろというのでしょうか。私個人にもさんざんなことばかり起こった。おまけに副反応で身体もヘタってるし。昔の俺は健康でしたねと寂しそうな顔して。…そうだ明日、知り合いのねーさんが正解し&ウクレレに当たると良いな。
 とにかくこのカオスの世の中でラジオだけが約束を守る。こんな世の中と自分を捨ててみても、そうまだラジオがある。せめてもの拓郎のラジオを抱きしめよう。

2021. 8. 10

☆☆ああ青春は☆☆
 炎天の夏はやっぱり「ああ青春」だ。今日は篠島バージョン。この張り詰めた空気がいい。最後に島村英二のドゥルルルルルルルというドラムロールのあとで、♪ああ青春は〜とアカペラで歌われるところ。聴いてて思わず背筋が伸びる。背筋正して生きてゆけよと惑う心に鉄の拳を・・・って、くそー松本隆のなすがままだ。

2021. 8. 9

☆☆soraよ☆☆
 あの日の長崎を経験した自分の親戚たちも殆どいなくなってしまった。長生きしてほしいが、今のうちにしっかり話を聞かせてもらおうと思っている。
 このサイトを支えてもらっているスタッフの一部では、さだまさしが毎年長崎の稲佐山でおこなっていた「夏 長崎から」のライブが静かなブームである。
 さだまさしは毎年8月6日に長崎の地から、広島の空を望み歌い続けていた。無理な夢ではあるが、8月9日に広島の地から、長崎の空を望み吉田拓郎が歌い返してくれたらどんなに素敵だろうと詮無いことを思う。あの町が燃え尽きたその日…と歌う彼に、焼け尽きた都市から確かな愛が聞こえる…と歌い返してくれまいか。どちらもドラムスは島村英二でこれも譲れない。
 そういう妄想をしながら、有縁無縁すべての方々のご冥福を心からお祈りします。
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2021. 8. 8

☆☆午前の天気、午後の紅茶☆☆
 NHKの朝ドラの「おかえりモネ」を観ている。名作ドラマ「透明なゆりかご」の青田アオイで涙落ちして以来、大ファンの清原果耶。彼女が依然としていい。朝ドラヒロインにしては暗い、地味という意見もあるようだが、この内向的、内省的な演技こそがいいんじゃないか。しかも妹役は、これまた私にとっての神ドラマの是枝裕和監督の「ゴーイングマイホーム」でクーナを信じる少女の蒔田彩珠。少しオトナになっているが、心のうちの陰影をうかがわせる演技が相変わらずうまい。この物静かな姉妹の組み合わせがたまらない。もう令和の五月みどり・小松みどり姉妹と言って良い。>良くねぇよ、全然路線が違うだろ。とにかく二人ともがんばれ。おじさんが応援しているぞ。
 今週のタイトルが「風を切って進め」。思わず目の前のコップの水が飲みたくなるタイトルだ。あの歌とは関係ないかもしれないけれど、いいのだ、関係なくても、関係づけて生きるのみ。

2021. 8. 7

☆☆その痛みをいずこに向けるだろう☆☆
 最近の世の中は、怖ろしいことや不安なことや怒れることがこれでもかと波状攻撃のように襲ってくる。そのうえにワクチンの副反応が出た。俺は絶対に平気だという根拠のない自信から、仕事をしっかり入れてしまったので、高熱と痛みでフラフラしながら東京の町を歩かねばならなかった。ああ、東京の長く暑い夜は私に消えちまえというのでしょうか。コロナに罹患したり他の病気に苦しんだりしているたくさんの方々に比べれば生理現象みたいなものだが、ヘタレの俺は「脈拍350、心拍数400、熱が90度近くもある」みたいな情けない気分になった。

 家に帰って朦朧としながらテレビを観ていた。オリンピックで空手の「形」を観ていて、なんとなく篠島の「人間なんて」の最初に拓郎もこんなポーズしてたよなと思った。違うか。
 そういえばバドミントンの桃田くん悔しかろう。いや痛恨とかそういうレベルではないかもしれないと俺ごときでも思う。あの時は、かなりの体調不良だったんではないかと下種勘している。
 そして私とて噴飯物と思ったソーリの平和祈念式典のすっ飛ばし演説だったが、後でページが糊でくっついてたためという釈明を聴いて、ステージで楽譜を2枚一緒に捨ててしまった拓郎のことを思い出した。それとこれを比べるなと拓郎ファンの方には怒られるだろう。そのとおりだ。すまん。しかし、あんときは拓郎もすぐに自分で「あっ」と気づいたし、横の青山徹も気づいて一緒に楽譜を探して拾ってくれていた。そこに魂があれば人生とはそういうものだ。ってどういうものなんだよ。

 …どうやら副反応も抜けた。これから接種の皆さんどうかくれぐれもご注意ください。もちろんワクチンだけでなく、この有象無象の町の中、灯りともすように、お互い様ご自愛してまいりましょう。

2021. 8. 6


☆☆8月6日☆☆
 阪東妻三郎が車夫の松五郎を演ずる「無法松の一生」。彼が思慕する未亡人を演じた園井恵子の伝記を読んでいる。宝塚女優でありながらスター街道に乗れずに苦労した彼女がようやくこの「無法松」で評価を得る。そこまでの苦闘を読むうちに、すっかり彼女の身内みたいな気分になってしまっている。だから戦火の中、あえて桜隊という慰問巡業劇団に入り、昭和20年の7月に広島に向かうところは読んでいて、いてもたってもいられずに辛い。
 8月6日、瓦礫の下敷きになっても無傷だった彼女は、劇団員の仲間を探して焼け出された人々の避難場所の比治山に向かう。比治山…丘をのぼって下界をみるとの丘…違うんだっけか。地獄のような状態から這う這うの体で、神戸の家に帰った彼女は、奇跡的に助かったのだと安堵し崩れ落ちるが、そのまま起き上がれなくなり21日に行方不明の劇団員を心配しながら原爆症で命を落とす。深い祈りと深い悲しみ。
 すべての方々にご冥福をお祈りします。
 唯一今に残された映画は「無法松」だけ。生前彼女が「これじゃ松五郎さんが可哀そう」と怒ったという検閲カットされたフィルムが見つからないかなと詮無く思う。

2021. 8. 4

☆☆ただの曲目じゃねぇか、こんなもんD☆☆
 ということで、いつもながら誰にも相手にされぬ独りよがり連載の最終回。今日は観ていないコンサートをセットリストで味わう編である。1990年の男達の詩ツアーは事情があって参加できず、ひたすら残念だ。ということで観てないコンサートをセットリストを眺めまわすことによって妄想し胸を焦がすしかない。
 男達の詩ツアーは、通称「短髪お披露目&なんか衣装が恥ずかしくねぇかツアー」と言われている>誰も言ってねぇよ。写真・映像で見ただけだが、なんか大阪の食いだおれ人形を思い出す衣装だ。すまん。

■1990年男達の詩ツアー

  抱きたい
  爪
  されど私の人生
  もうすぐ帰るよ
  Life
  大阪行きは何番ホーム
  ひらひら
  旅立てジャック
  神田川
  中の上
  東京の長く暑い夜は
  ロンリー・ストリート・キャフェ
  春だったね
  ああグッと
  ペニーレインでバーボン
  君去りし後
  男達の詩
  encore
  ハートブレイクマンション
  男達の詩

攻め度 ☆☆☆☆
充実度 判定不能
寸評>
 
 当時のファンクラブの会報によれば、吉田拓郎本人が語ったこのコンサートのテーマは「自分の居場所」であった。特定のテーマのもとにライブの選曲をするのは拓郎には珍しい。セットリスト全体がひとつのメッセージになっているし、個々の曲も通底する何かを背負っていることになる。こうなるとセットリストはメニューであるとともに、大切なレシピでもあるのだ。>意味わかんねぇよ。わかんねぇけど、なかなか攻めているのではないか。
 物理的、地理的な場所が居場所であることはもちろん、心魂の置き所という意味の居場所に、時空を超えた思い出という居場所。それに男女という性別もひとつのかりそめの居場所かもしれない。そして居場所を求めてさまようのもまたひとつの居場所だ。このリストは、なかなか行間が豊かだ。あなたはどんなふうに読み込むでしょうか。いろいろ曲の様相を思い浮かべながらセットリストの妄想の旅を続けるのが楽しい。そのうちセットリスト品評会か感想戦でもやりましょう。

  さて2009年ツアーパンフの拓郎インタビューは最後こんな風に結んである。

 「…なんだったら今回ツアー出なくてもいい(略)みんな客席に勝手に歌ったらってどう。曲順教えるからさ(笑)こうやって書きだしてみんな歌っといておくれよ、それでもいいなら僕は全然いいよ。」

 歌うの面倒だからセットリスト見て勝手に歌っとけよ…とんでもねぇヤツだと思いつつ、セットリストの持つ意味というものをあらためて見つめ直すいい機会だとも思う。時に攻め、時に語りかけてくる…やっぱりセットリストはそれ自体ひとつの作品なのだ。

2021. 8. 3

☆☆☆セットリストは愛のメニューC☆☆
 タイトル変えた、なんかキモイか。
5 ■ 1981年通称体育館ツアー・武道館

 夏休み(アカペラbyジェイダ)
 この指とまれ
 虹の魚
 いつか夜の雨が
 春を呼べU
 言葉
 風のシーズン
 二十才のワルツ
 恋の歌  
 Y
 悲しいのは
 パーフェクトブルー
 愛の絆を
 外は白い雪の夜
 サマータイムブルースが聴こえる
 愛してるよ
 たえこ MY LOVE
 アジアの片隅で
 encore
 サマーピープル
 ファミリー
 encore
 イメージの詩


 攻め度 ☆☆☆☆☆
 充実度 ☆☆☆☆☆+
 寸評)
 2021年の今から眺めるといかにも80年代という典型的なセットリストに見える。なぜこのセットリストにかくも心を惹かれるのか。なぜこれが攻めてるリストだといえるというのか。説明しよう(爆)。
 
 青色の7曲が当時の新曲(1981年)である。新曲といってもレコーディングもされていないガチの新曲たちであり(サマピだけはシングルになっていたな)、まさに"ライブ73状態"であり、攻めているぜ、ウォウウォオオ。しかもその曲たちのクオリティが高くすんばらしかった。
 オープニングは見知らぬ曲ながらノリノリで総立ちになり、"出まかせ言うな、愛など語るな、オイラとにかく大嫌いだね"という煽情的なシャウトに打ちのめされた。"春を呼べ"のウキウキする爽やかな高揚感、心にしみいるダイエーの歌=Y、映画を観ているようなドラマティックな"サマータイムブルース"と初めての曲たちのすべてが心の中にズシズシと入ってきた。"パーフェクトブルー"や"愛してるよ"とかあとでレコードになって聴くとどうかと思う曲も臨場感があり心に響いた。"風のシーズン"なんかはライブの方がアレンジも良かったな。しかも松任谷正隆、鈴木茂らの今となっては最後の大仕事でもある。新しい音楽を初めて聴くことの至福が武道館の中にあふれかえっていたのだ。
 新曲以外も昔の歌は、"恋の歌"と"イメージの詩"くらいである。あとは78年あたりから80年の若い曲たちがカタチづくるセットリスト。これがいい。バンドサウンドの二十歳のワルツ。たまらん。やっぱり"言葉"は弾き語り(80年武道館)よりピアノだよな。鈴木茂の"虹の魚"、"たえこMY LOVE"で踊る。そして"サマーピープル"までが清々しい。"落陽"がなくとも"アジアの片隅で"と"ファミリー"の怒涛のなだれ込で十分にライブは燃え立つのだ。
 そうそう冒頭の"夏休み"のアカペラで包み込まれるところもOK松任谷。もうラッピングからしておしゃれで素晴らしか。

 ともかく新しい曲、若い曲の祭典という鮮度の良いセットリストがすぱらしい。真夏だったけれど、春の青い嵐が武道館に吹いていた気がする。ああ、もう一度観てぇよ。

2021. 8. 2

☆☆8月2日の太陽は☆☆
 つま恋記念日だ。俺ももちろん、みんなジジババになってゆく昨今。映像、音源、できるだけたくさんのスタッフ、ファンの経験者の方々のお話を集めておいて欲しいね。もう「映像の20世紀」くらいの対応でお願いしたいです。

☆☆お前人生を攻めてるかB☆☆
1989年 東京ドーム公演

 チェックインブルース
 パラレル
 楽園
 夕陽は逃げ足が速いんだ
 遠い夜
 冬の雨
 Woo Baby
 ひまわり
 恋唄
 約束〜永遠の地にて〜(結婚しようよインスト)
 あぁ、グッと
 シンシア
 その人は坂を降りて
 望みを捨てろ
 春だったね
 抱きたい
 帰路
 encore1
 六月の雨の中で
 七つの夜と七つの酒
 encore2
 ロンリー・ストリート・キャフェ
 encore3
 この指とまれ
 英雄


攻め度  ☆☆☆☆☆
充実度 ☆☆☆
寸評)
 新作アルバム全曲をステージで演奏する。これはありそうで実はなかったことだ。しかもドームという大舞台で観客は明らかにスタンダード曲を求めているのに、”落陽”すら歌わない…うーん攻めてるぜ。
 新作以外でも随所に光る攻めの選曲。特にオープニングは”チェック・イン・ブルース”。すげえチャレンジ。この当時でも既に忘れられていた一曲で、カッコイイオープニングを実現してみせた。通底する”Woo Baby”まで歌ってしまう。
 その反面でしみじみと聴かせる”恋唄”。たぶん初演だ。10年目に初演とはこれもチャレンジだ。
 そして”望みを捨てろ”。なんで今ここで。びっくらこいた。で、あんまり出来が良くなくてまたびっくりした(※個人の感想です)。
 新曲続きで重くなった流れに喝を入れるような「あぁグッと」も秀逸だった。幻の新曲ながら大作の存在感十分の”夕陽は逃げ足が速いんだ”。 いいセットリストだ。
 アンコールでの弾き語り一本勝負。この日の伝説となった”ロンリーストリートキャフェ”はドームの万単位の客席を制圧した。映画「シン・ゴジラ」で、たぶん新橋付近でゴジラが突然口から火炎を吐き出して、オペラ曲をバックに周囲一面が燃え上がるシーン。あれを思い出させる。※これも個人の感想です。

 ドームと客の期待という大きなうねりに呑み込まれなかった点で攻め度は高い。但し、アルバム全曲歌唱も、これが例えば”今はまだ人生を語らず”だったら凄いが、”ひまわり”だったことがなんというか。好きなアルバムだがライブで燃え立つものがない。

 さてここまで仕組んだわけではないが、偶然にも2019、2009、1999、そして1989年と10年刻みになっている。いいセットリストは10年に一度しか出ないということ(爆)…ではない。断じてないのでつづく。

2021. 8. 1

☆☆おまえ人生を攻めてるかA☆☆

3 ■1999年 20世紀打ち上げパーティー


 01.イメージの詩〜親切(メドレー)
 02.マークU〜こうき心〜落陽(メドレー)
 03.今度はいったい何回目の引越しになるんだろう
 04.襟裳岬
 05.大阪行きは何番ホーム
 06.いつか夜の雨が
 07.フラワー
 08.外は白い雪の夜
 09.マラソン
 10.流星
 11.メドレー
(たえこMYLOVE〜恋の歌〜明日に向って走れ〜カップスターのテーマ〜元気です〜君去りし後〜あいつの部屋には男がいる〜ペニーレインでバーボン〜たどり着いたらいつも雨降り〜もうすぐ帰るよ〜人生を語らず)
 12.我が良き友よ
 13.AKIRA
(encore)
 14.気持ちだよ
 15.全部だきしめて


 攻め度  ☆☆☆☆☆
 充実度  ☆☆☆

寸評)
 前年たる1998年の通称「全部だきしめてツアー」は、拓郎が椅子から立ちあがって歌う全国ツアーを再開した感激が大きくて目ただなかったが、セットリスト自体はベストアルバム的な凡庸さでつまらなかった。
 しかし今回は、まずメドレーを多用しているところに斬新さがある。が、賛否は別れる。俺は曲をブツ切りにしてまとめるのはとても抵抗がある。一曲でいろいろ味わえていいでしょうと拓郎は言っていたが、そんなのは三品食堂でしか許されない。どこだよ。
 但しそれ以外でも攻めのポイントは多い。今や定番だが、この時は実に10年ぶりにステージで歌われた“流星”。もう捨て曲かと思っていたよ。そしてLOVE2の貴重な成果物といってよい秀逸なカバー”フラワー”。これに代表される陽気なステージの反面で、”マラソン”をしみじみと聴かせる妙味も忘れない。特に先の”流星”と”マラソン”では、サングラスを外して歌うところにも痺れた。これまた久々の"襟裳岬"と"大阪行きは何番ホーム"の二曲のさすらい感がいい。またフォーライフに別れを捧げる”いつか夜の雨が”、そしてラストに”AKIRA”の選曲も驚いた。”気持ちだよ”の新曲アップも良かった。

 それでメドレー嫌いと矛盾するようだが、11.のメドレーの中の選曲が実にいいのだ。ぶつ切りでなく全長版で歌ってくれたら涙チョチョ切れなリストなんである。

 ということで、メドレーであることを捨象してセットリストを眺めていると実に味わい深いぞ。眺めているだけでとえらく幸せな気分になってくる。メニューに目を奪われる井之頭五郎の気分で「ああ、今オレは吉田拓郎の海の真っただ中にいるマンボウだ」とつぶやきたくなるのである。セットリストもそれ自体でひとつの作品なのだと教えてくれる。

△セットリストはTAKURO MANIAさんのものを参照いたしました。ありがとうございます。

2021. 7. 31

☆☆おまえ人生を攻めてるか@☆☆
 一昨日の日記に書いたように85年のつま恋の時に”春を待つ手紙”が候補曲に入っていたんだな。最近のラジオでもライブのたびに多様な候補曲をかなりの数にわたって検討したりしていることがわかった。わかったけれど、それにしちゃ、毎回似たような、またこれかよ的なセットリストが多くなかっただろうか。※あくまで個人の感想です。たぶんお中元お歳暮に何を贈るかあれやこれや必死で考えたけど、考えすぎて結局サラダ油の詰め合わせを送ってしまうのと同じではないか。違うか。すまん。

 そうはいっても、油断していると、おおそう来たか、こりゃなんか攻めてるなぁ、と胸にしみるセットリストも確かにあった。セットリストだけでライブの良し悪しをはかれるものではないことはもちろんだ。ただ果敢に攻めてるな系のセットリストは、それはそれで意外性も含めて素晴らしいものだ。残念ながらもうライブはないんだし、つらつら振り返ってみるのもいいさ。攻めてると思うセットリスト5題。あくまでも俺の超偏見だから違うとか言われても知らないよ。

■最初に別格
 まず古い曲を捨てて全曲を新曲で通した1980年の春ツアー。こりゃある意味、究極に攻めてるね。大学受験でチケット買いそびれたので悲しいことだが観ていないが。
 同じように新曲が中心に据えられたセトリということでは、もはや伝説のライブであり、神盤というべきアルバムでもあるライブ73、このあたりは別格ということで。あと20曲の絞り込みの勝負なので、5〜60曲を歌う各種イベントも除外。

1 ■ 2019年Live73yearsツアー

pre今日までそして明日から
   or大いなる〜今日までそして明日から

  わたしの足音
  人間の「い」
  早送りのビデオ
  やせっぽちのブルース
  ともだち
  あなたを送る日
  I'm In Love
  流星
  そうしなさい
  恋の歌
  アゲイン
  ※慕情
  運命のツイスト
  純〜王様達のハイキング(メンバー紹介)
  ガンバラナイけどいいでしょう
  この指とまれ
  俺を許してくれ
encore
  人生を語らず
  ※ありがとう
  今夜も君をこの胸に


攻め評価 ☆☆☆☆☆+
充実度  ☆☆☆☆☆
寸評) 
 このセットリストは驚いたね。まず一曲目”私の足音”で見事に一本! ”落陽”も”春だったね”も”外は白い雪の夜”もエントリーさせない。作詞・作曲吉田拓郎に限ったところにも果敢な姿勢が光る。補充詞つきの”あなたを送る日”、弾き語りではなくバンドサウンドで聴かせた”そうしなさい”、長年のチャレンジのすえに演奏された”純”、寸止めの禁断曲”王様達のハイキング”、そしてオーラスの”今夜も君をこの胸に”の見事な蘇生。いいねぇ、挑んでくるセットリストだね。また”運命のツイスト”という新曲を配しているところにも攻め度ポイントが高い。


2 ■ 2009年Have a Nicedayツアー

無題

 加川良の手紙
 風の街 (メンバー紹介)
 ウィンブルドンの夢
 白夜
 明日の前に
 いつもチンチンに冷えたコーラがそこにあった
 マスターの独り言
 歩こうね
 吉田町の唄
 伽草子
 俺を許してくれ
 流星
 マークII
 ひらひら
 真夜中のタクシー
 フキの唄
 春だったね
 いつか夜の雨が
 ガンバラナイけどいいでしょう
encore
 早送りのビデオ
 とんとご無沙汰
 ガンバラナイけどいいでしょう
  〜今日までそして明日から


攻め評価   ☆☆☆☆
充実度  ☆☆☆☆
寸評)
  最後の全国ツアー。開演前歌唱という前代未聞の禁じ手。ムカつくが攻めてるといえば攻めているな。しかもここで誰もが予想しなかっただろう”無題"をかまして驚かせた。そう来たか、まいりました。”加川良の手紙”のオープニング、”風の街”とシンクロするメンバー紹介、松本隆が行けばよかったと悶絶したという荘厳な”白夜”は絶品。”明日の前に”と”吉田町の唄”という強力な三拍子の双璧。前半のセットリストの攻めっぷりは見事だ。後半はスタンダードっぽくなるが、”ガンバラナイけどいいでしょう”で観客をひき込みながらの大団円も凄かった。もし広島で”いつも見ていたヒロシマ”が演奏されたら嬉しかったのに。ライブの充実度は極めて高かったが、”無題”と”たえなる時に”という超名曲をシークレットにした罪は重い(爆)ので☆を減じた。


                                   明日につづく
△セットリストはVientoさんの「明日に向って走れ」を参照させていただきました。ありがとうございます。

2021. 7. 30

☆☆我が心のストレート・ボール☆☆
 昨年、吉田拓郎がライブからの撤退を決めた時のスタッフに充てた手紙を読み返してみた(オールナイトニッポンゴールド2020年10月号)。

 吉田拓郎です。諸事情をふまえて苦慮の結果、残念ではありますが、僕の来年初夏に予定のラストツアーは中止を決断しました。僕の心情をお話しておきます。
 東京での集中的なリハーサル、地方への多人数での移動、コンサート終了後の食事、楽屋でのありかたなどすべてが危険と隣り合わせだという判断に至りました。
 同時に僕個人のステージへのこだわり。それは吉田拓郎のライブは客席と一体化してこそ完成されるというルーツであったものがこの環境下では望めないという現実、それらをすべてを考慮した結果このツアーは中止せざるをえないと決断しました。
 大変申し訳ない気持ちでいっぱいですが、拓郎の心中お察しくださいますよう、このような形でありますがお願いいたします。
 どうぞ、みなさんの、そしてご家族の健康にご留意されてこの苦難の時を乗り越えていただきたい心から願うものであります
                           2020年9月 吉田拓郎

 拓郎が今の状況をどう思っているか邪推したり、拓郎がこういうこと言っているからどうすべきたとか利用したり牽強付会するつもりは断じてない。吉田拓郎は、いつだって絶対不可侵の自由人なのだ。
 それでもこの文章を読むと心の奥底に「これ!」と直覚でズシンと入ってくるものがある。不可知なものだし受け取る人それぞれに違うかもしれない。でも誇らしくてチカラ強い何かだ。言えない何かだ。カオスな世の中だが、我はゆく心の命ずるままに…その歌じゃねぇよ。拓郎のこの言葉を"よすが"に。とにかくみなさんご無事で。

2021. 7. 29

☆☆in1985☆☆
 オープニング(STAGE-A)が"悲しいのは"。2曲目が"SCANDAL"。「レコードではおとなしかった」と拓郎も2020年の拓つぶで述懐しているが、この曲はワイルドさにこそ真骨頂があったという意味だろう。オープニングの高揚感をそのままグイグイとこの曲で引っ張っていったのを思い出す。そしてファンキーなアレンジで驚かされた3曲目"暑中見舞"。…よくできた曲順だとあらためて思う。それはそれ。
 でさ、2010年のTAKURONICLE展で、拓郎手書の85年つま恋セットリスト案が展示されていてさ、撮影禁止なので慌ててメモしました。間違ってたらごめんな。STAGE-Aのオープニングの最初の3曲が、

  1. 悲しいのは
  2. 親切
  3. 春を待つ手紙

というこりゃまた悶絶なセットリストだったわけです。もしこのとおりのSTAGE-Aだったら、どんな感じだったのだろうか。想像がつかない。このカオスの世の中、妄想たくましくして過ごす一日。


 

2021. 7. 28

☆☆太陽のせい☆☆
 思う間もなく今日はつま恋85の記念日。
 あの日も実に暑かったよな。篠島もつま恋もイベントの試練は夜中起きていることではなく、早朝の開場から夜の開演までの炎天の待ち時間にある。後ろの席の見知らぬねーちゃんが「ああああ暑い、暑い、あたしがこんなに暑いのに、今頃、拓郎はクーラーの効いた部屋できっとオンナといるんだよ、ああムカつく、ああ暑い」と唸ってたのが耳に残っている。夜7時にご本人がステージに登場しての第一声「愛してるぜ」の一言でねーさん涙ぐんで悶絶してたけど。

 適度に暑く適度に涼しい季節に開演してくれてありがとう2006。あらためて御礼申し上げます。

 天気は晴朗なれど85の重たい雲のようなどんよりとした空気。そりゃあ「生涯最良の日」ですばい。クオリティも高く、ゲストの豪華さも超絶すんはらしかったが、俺には、これで拓郎が消えてしまうと言いう哀しみがそこ、ここに立ち込めて見えた。篠島のような手放しの意気軒高とは違っていた。豪華さと哀しみがしっかり結びあっている。ラストアルバム…ラジオでいただいている情報だけからだとそういうのを想像しちゃうんだよね。

 85年のアレンジは面白いのがいっぱいあったな。"僕の唄はサヨナラだけ"は驚いたし、鎮魂歌のような""ああ青春"、イントロの前にイントロがあるシリーズで"大阪行きは何番ホーム"これが好き。あと"愛してるぜ"も。

2021. 7. 27

☆☆教えてくれてありがとうin篠島☆☆
 そうだ、そうだ、常富さんの檄は「拓郎も頑張る!!」だったよ。ありがとう、長生きするもんだ。

2021. 7. 26

☆☆7月26日は篠島記念日☆☆
 本当だったら今日は常富さんや渋谷さんの「篠島を語る」という催し物の日だった。残念だ。俺には常富さんに伝えたいことがあった。こっちのメッセージが伝えられるような企画だったかどうかはわからないが。

 篠島のいよいよこれからラストステージという午前1時過ぎだった。ステージの中央に常富さんが一人突然出てきて、あの小柄なお身体を震わせて観客に思い切り檄を飛ばした。応援団の「学生注目っ!」「なんだーっ!」の世界だ。よく言葉は覚えていない。

 「これから最後のステージだ!」「おーっ!」
 「俺達バンドは命をかけている!」「そうだーっ!」
 「みんな燃えてゆくぞーっ!」「おーっ!」
 〜ラストステージ一曲目「知識」のイントロが始まる。ぐああああ燃えるぜ!

 当時「軽薄キャラ」で売っていた常富さんが最高にカッコ良かった瞬間だ。あの檄は今も耳に残っておるのだ。このことをご本人に伝えたかった。

 あー何度も載せたけど、篠島グランドホテルの展示室に飾ってあった1979年7月26日の吉田拓郎のサイン。拝むよろし。
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2021. 7. 25

☆☆沈みゆく島☆☆
 …難しいな。こういうのをカオスというのかもしれない。とにかく「スポーツに生きる人」と「スポーツに巣食うヤカラ」をしっかりと区別したい。感動は往々にしてその境界をあいまいにする。
 「吉田拓郎に生きる人」と「ヤカラ」の間を行ったり来たりさすらう俺も「吉田拓郎に生きる人」で常にありたいと切に思うよ。自分の心を確かにしておこう。二十歳の頃は…どうだったか。

2021. 7. 24

☆☆ものの冥利☆☆
 昨日の”今はまだ人生を語らず”日記はイキリすぎた。我ながらウザい。なので@で終了。読んじゃいないと思うけど。
 それにしても開会式に「五輪真弓」が出演しなかった意味がわからない。これまで周囲からさんざん「ごりんまゆみ」「ごりんちゃん」と揶揄され続けてきた彼女だ。ここで盛大に国家を歌って世界を制圧してもらうのが、寺内貫太郎のばーちゃんの言葉を借りれば「ものの冥利というものだ」。
 そうそう贔屓の劇団の方が開会式に出演しているのには驚いた。日頃、1ミリも心に残らない芝居を心掛けている劇団の方々だ。いいのか(爆)。そこが、いいのか。これもまた冥利だ。

2021. 7. 23

☆今はまだ人生を語らずを語り継ぐ@☆

 “ペニーレインでバーボン”について語りたい…と拓郎は2021年の初めから口にしていた。天国の島の7曲にエントリーし「会心の一作、自信作」とまで宣い、この曲が決して消えてしまった過去の曲ではないことを感じさせてくれた。そして拓郎がこの曲の詳細を語る前に、2021年7月9日のオールナイトニッポンゴールドで、完全な形での”今はまだ人生を語らず”の再発売がアナウンスされた。控えめに語っていたがこの知らせに拓郎は涙したとつぶやいていた。私のみならずたくさんの人の世界一小さな海が溢れかえったことだろう。ああ、生きていて生きてて良かったと。

 約30年間の不在を経て、このアルバムが帰還する。これは事件だ。事実としては、昔のアルバムが復刻する…それだけのことかもしれない。しかし、それで終わらせてなるものか。

 なんにしても吉田拓郎の最高傑作である。1980年5月号の週刊FMの森永博志のインタビューで「オレのアルバムでは「今はまだ人生を語らず」が一番イイ」とポロリと語っていた。もちろんその後も40年間たくさんのアルバムを作ったし、拓郎の気持ちも変わっているかもしれない。それになんといっても天邪鬼なお方だし(爆)。それでも最高傑作の集団にいることは間違いないだろう。

 そして、吉田拓郎の最大の不幸はこの最高傑作が30年近く廃盤になっていたことだ。つい最近のようだが、米津玄師やあいみょんが生まれたころには、このアルバムは世間の表面が消えていたのだ。膨大な数の人がこのアルバムを知らずに育ったことになる。その間に顔が4つ並んだアルバムがJ-POP最高峰ということになり、私は風街帝国の支配のもとに生きなくてはならなくなる…って、いいや、今日はこのくらいにしといてやらぁ。そこにこのアルバム、まさにフォースとともにあらんことを…って、よしさない。
 押し付けられるのは嫌だろうが、特に若い人たち聴いてほしい。歳いった方々にもフォーク歌手というイメージを離れてゼロの気分でこのアルバムを聴いてほしい。どこに出しても恥ずかしくない…と私は思う。このアルバムを聴いてフォークソングだというものはいないだろうし、このアルバムを凌駕するエナジーのロックアルバムというのもたぶんあるまい。珠玉のメロディーも、魂のブルースも息づいている。どっからでもかかってこい!状態である。
 このアルバムをもってしても通じなかったらそれまでとあきらめがつく。仕方がない。永遠にわかりあえないということで彼岸と此岸をお互いにどこまでも生きてゆきましょう。

 その前にチカラの限り世界に向って推挙したい。って俺の世界なんてチッポケなものだ。しかし、拓郎をレスペクトする…と言っているミュージシャン、評論家、その他の著名人の方々という世界の発信力を持った人々よ、頼むぞ。しっかりと宣揚しておくれ。ここで沈黙したり、薄っぺらな称賛で済ませた日にゃあ、俺は全部覚えておいて、二度と「拓郎さんのファンです、尊敬してます」などは言わせないぜ。

 またエラそうに書いているが、俺はギリギリのリアルタイムだったものの、まだ子供だった。知らないことも感じ取っていないこともたくさんたくさんある。当時オトナとしてこのアルバムを待ち焦がれ、迎えて聴きこんだ、そして調べこんだファンの先達・同志の方々の声も是非聴かせてほしい。

 ということで、どうしていいかは皆目わからないが、名盤”今はまだ人生を語らず”のご帰還を最恵国待遇で歓迎する準備を始める。

 これはラストアルバムの大切な前哨戦であるとともに、未来に向かって蒔かれた種のようなものだと思うのだ。

 ペニーレインでバーボン http://tylife.jp/uramado/pennylane.html
 人生を語らず http://tylife.jp/uramado/jinseiwokatarazu.html
 世捨人唄 http://tylife.jp/uramado/yosute.html
 おはよう http://tylife.jp/uramado/ohayou.html
 シンシア http://tylife.jp/uramado/shinshia.html
 三軒目の店ごと http://tylife.jp/uramado/sangenmenomisegoto.html
 襟裳岬 http://tylife.jp/uramado/erimomisaki.html
 知識 http://tylife.jp/uramado/chishiki.html
 暮らし http://tylife.jp/uramado/kurashi.html
 戻ってきた恋人 http://tylife.jp/uramado/modottekita.html
 僕の唄はサヨナラだけ http://tylife.jp/uramado/bokunoutahasayonara.html
 贈り物 http://tylife.jp/uramado/okurimono.html

2021. 7. 22

☆☆流れてゆけ、流れてゆけ、私の歌たちよ☆☆
 老齢ということで自分の分は予約できたものの家族のワクチン予約がとれない。ネット、電話どれも壊滅だ。そもそもワクチン自体が供給不足だという。会員先行予約、プレリザーブetcを経たあとの一般発売がごく僅かだったのと似ている。
 幸い近所の医院がネットも電話も関係なく、実際に病院に並んだ順に予約を受け付けるというので早朝から並んだ。懐かしい。こうやって深更早暁にプレイガイドに並んだものだった。おかげで予約ができた。ありがたい。並びながらとなりの見知らぬおばあさんといろいろ話した。こういうのもプレイガイド時代によくあったな。
 混迷するオリンピックの話になって「こういう時こそ三波春夫の"東京五輪音頭"だと思うのよ」と力説していた。御意。おばあさんには言わなかったが俺にとってオリンピックとはトワ・エ・モアの「虹と雪のバラード」なんだよ。どちらの歌も大会と音楽と私らの間に素朴な信頼関係というか静かな蜜月があった。

 プレイガイドに並んでいた頃には吉田拓郎というと渋谷公会堂だったな。イベントみたいに年一で武道館が入るが、あとは渋谷公会堂が多かった。コンサートの日は渋谷の公園通りあたりをウキウキしながら闊歩したものだ。
 なので後に「渋谷系」というと、俺たちは元祖渋谷系なのではないかと思っていたが、どうも違うみたいね>あったりめぇだろ。

2021. 7. 21

☆☆歩けるかい☆☆
 暑い、絶対に暑い、我らが黄金バット。いみふ。昨年までは外回りで歩いていた道のりがあまりにツラ過ぎて初めて路線バスに乗ってしまった。路線バスが嫌いなのは、地域や会社によって前乗り、後乗り、乗車券、料金の支払などさまざまな違ったオキテがあるからだ。アウェーのバスでは大抵恥をかいたり注意されたりする。例えば昨日も区間によって運賃が二分されるので乗る時に下車停留所を言わなくてはならないらしかった。そんなの知らんから、みんなが「〇〇」「××」とか言ってるので俺も「大人一名です」とか言ってしまって恥をかいた(爆)。また運転手の妙に鼻に抜けるアナウンスが聴き取れなかったりしてややこしい。それなら1〜2キロくらいなら、いっそ歩いてしまった方がいい。バスに乗るより自由な気がしてって、ああ、いい歌だな。エルトン、間奏を弾いてくれ。

 それにしてもこの猛暑のうえに、世の中に満ちている憎しみと悲しみ。近頃セミは鳴いているものの地球はもうすぐ終わりですね。

 “無法松の一生”でたちまちファンになってしまった園井恵子さんの評伝本があることを知り読み始めた。若い著者なのに、今ではほぼ無名に近い女優の人生を実に丁寧に調べてある。最終章のヒロシマの日に向ってまるで”この世界の片隅に”の実録を読んでいるようである。「流れる雲を友として」、ホラ、ある種のイカれた人々は「流れる雲を」だけでやられてしまうのだ。もちろん俺もだ。
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2021. 7. 18

☆☆夜空のどこかに記しておきたい 愛する人に届けと☆☆
 無法松の一生で主人公松五郎に可愛がられる少年が後の桑田佳祐…おっと間違えた長門裕之であり、やがて吉田拓郎・かまやつひろし・南沙織の揃った”ミュージックフェア”の司会をつとめることになる。>ってそこをゴールにするなっ!超名優だぞ。
 クリアな映像で観たら、未亡人役の園井恵子の美しさとオーラにやられてしまった。宝塚女優だったのか。これは松五郎さん惚れちゃうわ。しかし彼女はこの映画の2年後、広島への巡業公演の時に原爆で亡くなってしまわれた。私のカンタンな2行で語りきれる話ではなく、なぜ彼女が女優になったか、なぜ無法松で大人気女優となったのに巡業劇団員になったのか、そして原爆にあった時はどんな状況だったのか、それはひとひつひとつに深い話があるようだ。あちこちが消えて風化してしまったはるか昔の映画であっても、今もまた息づいてる命hmmm。こんなふうに今さらだけど70年以上の歳月を経て出会う事、知る事もある。

 拓郎がライブを撤退した以上、もう吉田拓郎のライブは、音源と映像とあとは私らの記憶の中にしかない。これからの私らも、はるか未来の人々もそれでしか知るすべがない。私たちの経験も含めてすべては未来に向かって蒔かれた貴重な種なのかもしれない。
 無法松の一生の特典映像で、コロナ禍でありながら、この発掘と保存と修復のために魂と勢力を注ぐ世界中の人々にも頭が下がった。頭を下げながらいろいろ考えさせられた。

2021. 7. 17

☆☆☆フィルムは生きている☆☆☆
 何かと流行りの4Kデジタルリマスターだが、ウチには4Kテレビがない。それでも昔の映像が目を見張るほどキレイになるのは嬉しい。
 ちょうど出た阪妻の「無法松の一生」の4Kリマスターを買った。戦時中の昭和18年…亡くなられた田村正和が生まれた年の映画ながら、これまでとは比べるべくもない美しい修復に感動した。阪妻さんは田村高廣さんに酷似しているのだが、最後の祇園太鼓のシーンでは田村正和になっている。遺伝とは奥深いものだな。
 そうなると戦時中の検閲で大切なラストシーンがカットされているのがかえすがえすも腹立たしく無念だ。戦後はGHQからもカットされていて、もうボロボロの慢心創痍だ。それでも魂の名作である。だからこそまた悔しくなるスパイラル。

 それとは違う話だが、カットといえばつま恋、篠島、他のライブ映像は、再発されるたびにMC始めどんどんカットされて短くなっているのがこれまた悲しい。篠島なんて冒頭の九段会館の対談シーンもラストシーンの海を見つめる拓郎のシーンなど名シーン(ホントにそう思ってるのかよ)が惜しげもなくカットされている。そうだ、ペニーレインの「青山徹だ、松任谷、松任谷だ」も戻してくれるんだろうな。
 とにかくカットするという引き算の発想ではなく、探して、足して、修復してという足し算の発想でお願いしたい。もう文化財なんだから。

2021. 7. 16

☆☆☆夏一人☆☆☆
 ここいらは梅雨が明けたそうだ。
夏がやってきた(「名前のない川〜安曇野の四季 拓郎のナレーションの声で)。
 何度でも言うがキャンディーズの"夏が来た!"は、"やさしい悪魔"よりも"アン・ドゥ・トロワ"よりも拓郎っぽい。拓郎本人でもこうも見事に作れまいという拓郎節だと思う。

2021. 7. 15

☆☆Dr.ムッシュの不思議館☆☆
 というわけでムッシュかまやつモードに入ってしまったので、iPodで、かまやつさんのセルフカバーを繰り返し聴く。いい。いいアルバムだぜフォーライフ。居酒屋がやっていたらコレをかけてもらって小一時間泣きながら聴くのに。佐藤準さんのビアノでムッシュがオサレに歌う一人"シンシア"がまたいい。
 昨日はワクチン接種だった。会場はジジババばっかりだ。俺もそうなのだと認識した。ドクターが「これからオデコで検温します。温度が高くなるので帽子をかぶっている人は脱いでください。」と呼び掛けていた。ここでもなんとなくかまやつさんをまた思い出した…すまん。
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2021. 7. 13

☆☆☆わが心の納戸☆☆☆
 先日のラジオで衝撃だった“ペニーレインでバーボン”。個人的には1974年のTBS「歌謡最前線」のテレビ出演を思い出す。何度だって書くが、中学1年だった俺は、”ペニーレインでバーボン”→”暮らし”→”襟裳岬”とガチで歌う吉田拓郎を観た瞬間、イナヅマが俺の身体駆け抜け、すべての夢が走り出した。なんで浜省なんだ。
 この時、自分は歌うわけではなく、たぶん「時間ですよ昭和元年」収録中だった、かまやつひろしさんがテレビ出演で緊張している拓郎を励まそうと応援にやってきた。
 やはり先日のラジオでサワリのギターだけで昇天させられた”アジアの片隅で”。1987年の久々の夜ヒット出演の時もこの”アジアの片隅で”を歌わんとする拓郎の応援にかまやつさんは突然スタジオに現れた。そして2006年つま恋の二人寄り添う”我が良き友よ”。「拓郎、我が良き友よ…ヘタだね」「ヘタだよ、でもかまやつさんに言われたくないよ(笑)」というバックステージのやりとりも大好きだ。
 かまやつさんとのラストワーク…といえば、岡本おさみとのラストワークともシンクロする”Country”ツアーのショットガンチャーリーなのか。あれこれ先日の放送の中だけでループしている。
 俺はかまやつさんはずっとあのまま自由な感じで生き続け絶対死なないと本気で思ってたよ。
 ”Country”熊本公演の翌日、ホテルですれ違いざまに「かまやつさん、昨夜のライブはありがとうございました」と勇気を振り絞って声をかけたらハーイと手を挙げてくれた。ああ、カッチョエエ。俺の心の納戸に大切にしまってある。

2021. 7. 12

☆☆海を漕ぐ男たち☆☆
 "ラストワーク"だと思うと、どうしたって"錨をあげる"が、あらためて胸にしみる空の輝き。コンビは最後まで船出と出立を歌ったのだ。

2021. 7. 11

☆☆☆人生という名のSL☆☆☆
金曜のラジオは淡々と進行していたが、そこで語られていたのは悠久なる時間の流れと壮大なドラマだった。ラジオと音楽が大好きだった広島の少年が、時代の音楽とシンクロし、幾多の衝撃と出会って、どのようにして「吉田拓郎」になっていったのか。
 入れ子のように語られた岡本おさみとの出会いとラスト・ワーク。学生時代に睦月さんが指南してくれたR&Bがあったればこそ岡本さんの字余り字足らずを見事な音楽に昇華することができた。
 そしてそのコンビ終焉のアルバム…じゃなくて前代未聞のCD+DVD+雑文集「歩道橋の上で」。「秋時雨」が最後の集大成だったなんて話を聴けるとは思わなんだ。そういえば2019年2月3日の「ラジオでナイト」は、あいさつの前にいきなり「黄昏に乾杯」を流していたのも忘れられない。あらためていとおしくなる「歩道橋の上で」。DVDでは拓郎のドラミングが観れるのがオイラのツボ。
 さらにびっくらこいた「ペニーレインでバーボンの帰還」。ハラショ。過去は変えられないが未来は変えられる。この過去達を抱えて、君たちはどう生きるか…走馬灯な放送であった。

 そうだ、赤い燈台…ちゃんとルミちゃんを評価していた私を褒めてあげたい。http://tylife.jp/uramado/akaitoudai.html ルミちゃんも頑張って!!
「蛍の河」もすげー好きだ。そういえば「蛍の河」って「今はまだ人生を語らず」のテイクアウトでなくアウトテイクだったんだよね。ついでにボーナストラックでお願いっ!

2021. 7. 10

オールナイトニッポンゴールド  第16回 2021.7.9

☆☆☆あらすじ☆☆☆☆☆☆

 こんばんは吉田拓郎です。よした…でなくて吉田です。週替わりのパーソナリティの金曜日、今週は吉田拓郎がお送りします。

 今は7月3日10時30分、雨だが近所の木々が碧を増して美しい。そういうことを感じる年齢になった。だいたいこの放送は一週間前に冨山君にデータを送る。午後はタイガー&ドラゴンの続きを観たいという、忙しいスケジュール(笑)。決め事はないけど、宮藤官九郎にハマっている。午前中に頑張っていこう。
 いきなりびっくりするテープ。広島県立皆実高校時代、青くて田舎者で世間知らずで一日が、あっという間に過ぎていった。夜寝る時に明日何しようかのうと考えて眠れなくなってくる。明日こそあの娘に声かけてみたいな。もぞもぞしていた。

 あの時代、ラジオはトランジスタラジオが発売されたたばかりで夜イヤホンつないで聴いているとたまに東京の放送とかが入る。広島では深夜の放送はないけど、東京では深夜放送があった。僕もリクエストハガキ出したことがあったし、読まれたこともあった。なのでリクエストハガキを書いたり、楽しかった。
 広島の放送にハガキを書いたことがあった。例によって吉田拓郎レアなコレクションが納戸にあって、古いテープはCDに焼いていた。その中にリクエストしてアナウンサーが読んでいるという音源があった。山口の岩国のトップ20。マニアックな小僧だった
広島RCCで読んでくれて拓郎ってこういうガキだったんだ。当時からシブいな。
 
 (広島市霞町の吉田拓郎さん、・・・・・・・)

 いやーびっくりだよね。RCCのアナウンサーとも知り合いになって、番組に出たりもしていた。変わったヤツだった。
 大学のころ憧れの女子アナがいて、フランスのシャンソン歌手、シャルル・アズナブルが大ファンだったと聞いて、広島のマルタレコードの口の大きい店員さんに聞いて買って放送局でプレゼントします。三つか四つ年上だったんだけど「嬉しいです。ありがとう吉田君」と言われて三回くらいデートした。いろいろ聞いていると彼女は広島が限界で東京で仕事がしたい。僕の方はまだ大学生で、我が家の女ボス母は「あの人は年上よりもずっとしっかりした考えを持っている、ちょっとランクが違う、あの人はオトナでアナタは飽きられる」という厳しい言葉。でも当時は母親の言うとおりにするいい子だっので、結局別れた。淡い気分でリクエストを出したりそういうことをしていたのが、東京に出て深夜放送をしている・・・なんだろうなという気分。いろいろ楽しい思い出のすべてが吉田拓郎の曲のエキスになっている。ああそれが青春。

■今夜も自由気ままに吉田拓郎のオールナイトニッポンゴールド

 70年代ソニーの頃に「今はまだ人生を語らず」というアルバムがあってこの中のある一曲がカットされたままだった。先日ソニーの担当の方から、諸般の問題を解決してフルで発売したいという話を聞いた。できれば、あっちへ旅行に行く前にいしてほしいと思っていたので、それが嬉しい。近いうちらこれが実現しそう。CDだけでなく昔ながらのLPでも聞いてみたい。嬉しくて涙が・・・最近涙もろい。   
 最近、雑誌で読んだ記事。涙を惜しみなく流しましょう。地球は海が支えている。人間の目も世界で一番小さな海で大切なんだ。人間は赤ちゃんの頃には、自己中心、私のこと観てと泣いていたが。オトナになると自分以外のものに共感共鳴したい。例えばドン底から這いあがったスポーツ選手に感動したりする。ある大学教授が、感情から泣くのは人間だけの特権なので涙は出し惜しみなくと書いていた。最近は、子ども笑顔だけで泣いてしまう。
 もうひとつ、最近、泣く行為は睡眠をとるよりも効率的にストレス解消するということで大いに涙を流しましょう。
 「漁港の肉子ちゃん」僕も観ました。稲垣来泉ちゃんが歌う姿をテレビでも観た。映画館で涙を流し、歌う姿に涙を流したという人も多かった。世界一小さな海ということです。
 この曲の広島商科大学の応援団でバンカラな先輩がいて、いつも外股で歩いている人をモデルにしたんだけど、今はそういう応援団ていないんだろうな。 
今日は2006年にかまやつひろしさんと歌ったバージョン。きっとかまやつさんはあっちでワーワー遊びまくっている、俺はこっちで、誰も遊んでくれると人がいなくてつまんねーよと言っている。

M-1  我が良き友よ     吉田拓郎&かまやつひろし

■CM

<拓郎さんの普段の服装はどうしているのか、ステージしか見たことないという投書>
ジーンズ党なので、ジーンズ、コットンパンツが多い。スーツはとんと着ていない。ジーンズはいろんなパターンがあるが、裾の幅は18センチにしている。 細いスキニーとかがフイットするので、ステージとかではくが、おっさんはどうかと思っている。裾18〜20センチにこだわりがある。
 スーツ着はないな。バブルの頃はアルマーニとかステージでも着ていた。海外のレストランでもドレスコードがあったけど、今は世界がカジュアル。大好きなハワイでも  ショートパンツOKになっている。
 ゴルフも昔は襟付きだったけど今はどうなんだ。ゴルフってマナーがうるさい。今は自由というかマナーが悪いな。近所を歩くとき見てみてという華やいだ気分でいたい。

<「王様達のハイキング」のあのライブのジャケットは誰ですかという投書>
先日タムジン・ファミリーとリモートの会議をした。その時、あの娘は誰なんだ?あの時はタムジンにまかせたけど誰かは知らないと尋ねた。あれはタムジンの知り合いの娘  で雑誌のモデルだったんだけど、不思議な雰囲気なのでスカウトした。
 拓郎らしくないジャケット。少女のことは知らないけどその後はモデルになったとかならなかったけど。あの酒飲みの荒くれバンドとジャケットの少女のとりあわせが結構  評判だった。

<漁港の肉子ちゃん、よかったです、イメージの詩もピッタリという投書>
 良かったな。ネットとかでつまんなかったとか言いたい放題で、もうウルサイしウザイ。僕も観ました佳代さんと二人で。アニメって不思議で、実写よりわかりやすく心を打つ。もともとアニメには距離感あったけど、こんなに曲が使われているし観なきゃという気分だ。
 テレビやネットにはうんざりだ。くだらねぇとか思ってしまう。そこへいくとスポーツ観戦しいいな。奥さんは最近は読書している、もとから本が好きだけど「アンナカレーニナ」とか読んでいる。若いスポーツ選手には目が光輝くけれど冷めやすい(笑)
サッカーだけはビデオに撮って観ている。碧とかおるが断然トップ。

<コロナ禍で佳代さんのいうとおり、ショッピング三昧したいという投書>
 先月は正直な叫びだった。どうしてもストレスはたまる。普段どおりの生活は無理。僕らは酸素吸ってるんだから。ペニーレインでバーボンにもあったとおり、勝手なことばかりテレビでその場しのぎのことを言ってるのを観て引っ込めという気分。
 コロナが収束したらショッピング、レストランに存分に行ってほしい。奥様たちご苦労様。拍手。

<壁にもたれてジージャン姿の不良ぼっい姿に衝撃を受けた、原点にかえって不良っぽくやってほしいという投書>
 俺は不良じゃない。母朝子さんから厳しく躾けられている。ただ70年代にはどいつもこいつもいい子ばかりで、はじけようと思っていた。みんなで飲みに行く地方で、みんなつまんねーの。俺はすぐ違う店とか行きたいんだけど、そいつらは一軒目の女の子とずっといたいという人ばかりだった。俺はひとところにずっといたくない。三軒目のの店ごとってあったでしょ。せっかくローカルに来ているのだかもう一軒いこう、面白いことがあるかもしれない。しかし一軒目で腰据える人ばかり。僕が不良というより他の人が固かったんだ。僕は普通にやっているだけ。

<ミスチルの桜井さんと稲葉さんが、拓郎さんのように言葉が伝えられるミュージシャンだと語っていたという投書>
 以前にスタジオで隣がミスチルのレコーディングだったことがあった。プロデューサーの小林武史とはテレビで対談していたので、スタジオを覗いたら、僕のスタジオより暗い、不思議な雰囲気。あれ?暗いな、顔がわからない。僕は根が明るいので部屋が暗すぎる、なんか儀式みたいだった。なので、じゃあねと退散してきた。そういう不思議なレコーディング。僕のスタジオはぎんぎんに明るい、松原とかよく大声で笑うし。桜井君とは小田の番組でも一緒になったことがあった。  
 ギターの松本君は、いきつけのカウンターバーで、僕がワイワイやっていると、松本くんすーっと入って特別のカレーを食べて帰ってゆく。そんなに遠い存在ではないけれど、なんというか遠くから応援している、そういう距離感。

CM

 いまとなってはこの曲をなんで歌ったか。好きじゃないんだという曲を当ててもらう。毎月応募にこれ違うとか言っているとヒントが絞られてくることに気が付いた。今月は少しだけ。

<「知識」 血気盛ん生意気で勘違いしていたことを思い出させるという投書>
 失礼なこというな。よけいなこと言うな。違うんだよ。こんな名曲を作れるもんな作ってみよといいたい。世間知らずかもしれないけれど、今だって心境は変わっていない。
<「馬」という投書>
 違います。どうでもいい。俺はミュージシャンなんだから。
<「aday」という投書>
 ラジオの一通の手紙でOLの嘆きがあったので面白いとレコードにした。好きな曲>
ガットギターで小倉さん=おぐちんゃんが哀愁たっぷりに仕上げてくれている。二人だけでレコーディングした。できればまた歌いたいと思っている曲た。
<「アジアの片隅で」という投書>
(間奏弾く)
 確かに歌いたいという気持ちはない。アレンジは素敵だ。松任谷正隆のアレンジ。間奏での青山とのツインギターは気分いいんだよ。フレーズもいいし。レゲエだしさ。曲として嫌いじゃない。歌う気にはならないけど。
正解は50通あった。あと2〜3週間こぞって挑戦してほしい。カマカ素敵でしょ。色もいいでしょ。弾かなくても飾り物としてもかわいくてキレイでいいよ。
◇11時
(佳代さんのコーナー)
夫)昔 ガンバ遠藤くん、チケット貰って観たじゃない。富山くんもいて、彼は本田が好きで。詳しいから何でも聞いてって感じだったけど。

妻)すごく詳しいと思って聞くと全部知っているの。そのネタ知ってるんですけど。な〜んだそんなことしか知らないのって感じ。

 音楽人生のはじめの頃、実際の僕とは違う岡本おさみのイメージで語られた。文句なしに感動して敬服してメロディーをつけているが、岡本さんと僕は相反するところが多い。彼は旅人だけど僕は乗り物嫌いの旅嫌い。家にいるのが大好き。根本が違う。
 また彼の詩には、やたらコーヒーが出てくるけど、僕は今でもコーヒーは飲まない、飲めない。このふたつでも相いれない関係なのにコンビだった。

 岡本おさみに限らず、喜多條忠、松本隆とのコンビを組んだ。自分にはもっていない世界感で歌うのが楽しい。僕には書けない。冒険だな。音楽そのものが大好きなので何でもトライしたくなる。岡本さんとは気の合わない、実際には会ったりしないで封筒で送ってくるだけ。その岡本おさみとのラストワーク。最後の仕事。みなさんの目にも耳にも止まっていないのかな。
 この時にメッセージを送って「おかもっちゃん、今のあなたの背の高さの歌詞を書いてね。詩に出てくる女の人は奥さんでしょう。今抱いている奥さんへのメッセージを書いて。それがシンプルでわかりやすい。身の丈と会わないと思ったものもあったが、これだというのが5〜6曲が出来て満足。これだよね。
 70年代色が濃い詩人なので、アレンジするときにもその匂いを残して、ミュージシャンも石川鷹彦、エルトン永田、島村英二、徳武弘文。そこに小倉博和。アコースティックで、おぐちゃんに現代ギターを入れてもらいダサい感じにならないようにフォークロックに仕上げた。フォークロックって日本にはなかにかない。バーズとかラヴィン・スプーンフルとかいたけど日本には根付かなかった。
 これらのラストワークに、途中で体調不良で中止になったツアーのカントリーのリハやバックステージで名古屋城の観光したりしているシーンを入れている。

M-2 歩道橋の上で 吉田拓郎

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 上京してまもなく岡本さんら出会うのがバイタリス・フォークビレッジだった。佐良直美さんのあとだった。製作スタッフに石川鷹彦、構成作家に岡本おさみさんがいた。アマチュアのグループを紹介するのがメインだった。
 札幌の公開録音の時に楽屋にミニスカートでいたのが中島みゆき。その時はわからなかったけれど、どんな子だったか・・・うかつなこと言えないし(笑)
 岡本さんから時間がある時に見てと大学ノートを貰った。びっしりと詞のような散文のようなものが書いてあって、韻を踏んであるわけでもなく整理した形跡がなくて書きなぐってあった。そこがコンビの始まりだった。

M-3  沈丁花の香る道で   吉田拓郎

CM

 岡本おさみという人は、音楽的はあまり知識ないし譜面も読めないし楽器も弾かないし、音楽情報は持ち合わせていない。字数もバラバラで、一番と二番で言葉の行数が違う。面白いと 思ってメロディーをつけてゆくと、二番で違っていてメロディーに載らないことがあった。
 だけどそれまでの流行歌は、花鳥風月の定型的なものが多かった。それは面白くない。アメリカンポップスもディランが型にはまらない自由につむいでゆくオリジナル見せてくれたこと観ていると、岡本さんのまとまっていない詩にメロディーをつける作業が新しい音楽がみえてくるのではないか。
 特に僕は、ソウル、オーティス・レディングとかアレサフランクリンとかリトルリチャードとかが好きだったし、それが役に立った。例えば君去りし後、君が好き、また会おう、からっ風のブルース。
 ファンキーで演奏が始まると止まらない、字余り字足らずだからできた。ルームライトも流行歌にはあり得ないコード進行だった。小柳ルミ子が歌った「赤い灯台」。これ凄く字余りだけど、難しいけれど、小柳ルミ子はうまい。今でも寝ながら聴く。
 これぞ岡本おさみの真骨頂と思って、二人の最後にふさしわい

M-4  秋時雨 吉田拓郎

CM

 大変な衝撃・刺激を受けてきた。それまでのアメリカンポップは、あの娘とデートとかキッスが素敵とかwoh woh、Yeah Yeahとか明るくて楽しくて青春を謳歌するような歌詞で、日記のようだった。メロディーは美しく魅了された。
 アメリカンポップスを日本語で歌う和製ポップスも流行していた。例えばザ・ヒットパレードでは、伊東ゆかり、中尾ミエとか渡辺プロの歌手がたくさん出ていた。ヒットしたけれど、しっくりこないなとは思っていた。大好きだったニール・セダカのカレンダーガール

M-5 カレンダーガール ニール・セダカ

 こういう唄とかコニーフランシスのVACATIONとかを聴いているところに突然ビートルが登場した。ビートルズの登場にショックを受けた。4人だけの凄い完成度。4人集まればなんかできる。 どこかに飛び出せる、広島を飛び出せると考えた。だからバンド作りたい。ビートルズが教えてくれた。

M-6  抱きしめたい ビートルズ

 バンドを作りたい、そうすれば広島から脱出できる、女系家族から羽ばたける。そこへ今度はボブ・ディランが強烈なパンチ。「風に吹かれて」の歌詞を読んでびっくりした。I love youが出てこない。僕らはアメリカンポップスでシンプルだったはずの青春がディランで複雑になっちゃうわけ。老成している人生をうたっているのも凄い刺激だった。20代で生きてゆくのはどういうことかを歌っていることがガツンと来た。


M-7 ライク・ア・ローリングストーン
 
 広島でR&Bのバンドをやっていた。ダウンタウンズの睦月くん、広島大政経学部だったけど、彼がソウルが好きで音楽人生に影響を受けた。黒人音楽を教えてもらった。中国四国のコンテストで代表に選ばれたり、米軍のキャンプのアメリカ兵の前で演奏するようになった。R&Bが音楽人生の基礎となった睦月くんのおかげだ。

M-8 ノック・オン・ウッド エディー・フロイド

■エンディング
 僕にとっての十代は、世界の音楽が怒涛の変化をみせて突き進んでゆくというスリリングな時代だった。そんな時に青春を送れて良かった。たくさんのことを音楽が教えてくれた傷つきそうな青春も、怒れる青春も、激しい青春も、青臭い青春を教えてくれた。

 ありがとうニールセダカ、ありがとうビートルズ、ありがとうボブ・ディラン、ありがとうR&Bといいたい。

 永遠はなくて期限がある。今は重要な時間だ。過去とか思い出は心豊かにしてくれている。心のよりどころだ。しかし過去は変えることができない。未来はささやかでも変えられる可能性がある。まだ間に合うんじゃないのか。僕らは今とこれからを大事にしてゆこう。遅ればせでも、年齢、キャリアどうでもいい。今日とか明日を楽しみに生きる。あっちに行くときに笑顔でいってくるぜと船に乗りたい。

 次回は8月13日。当選発表。

M-9 この世の果てまで   スキータ・デイヴィス

☆☆☆思いつきと感想☆☆☆

☆根っからのラジオっ子であり、ハガキ職人であり、リクエスト小僧だったというのが嬉しい。やっぱりラジオ・パーソナリティになることが運命づけられていたのだと思う。

☆吉田家の納戸。王家のピラミッド。私を警備員に雇わないか?>おめーだけは絶対ない。

「ペニーレインでバーボン」の帰還。そして「今はまだ人生を語らず」の再リリースに快哉を叫びたい。良かった、良かった、良かった。最高傑作が廃盤というこのうえない不幸がようやく終わる。ソニー。全力で売っとくれ。ロック、フォーク、ポップス、ブルースどっからでもかかってこい。いつまでも顔が4つ並んだアルバムをうやうやしく神棚に置いておいてはいけない。さぁ、同志よ、巻き返すぞ!!

☆ミスチル=小林武史との微妙な距離感。それはあなたが番組で小林武史に面と向かって「君、スケコマシでしょ」と言ったことと関係はないのか。別にそのままでいいけれど。

☆いきなりの「アジア」。おおおお、と悶絶。発火・発情しました。たまらんね。

☆岡本おさみとのラストワークの話は貴重だったし胸にしみた。最後の集大成が「秋時雨」なのか。「花嫁になる君に」「ハイライト」から始まった旅の終着点がそこなのか。大切に聴き直したい。

☆つま恋の「我が良き友よ」を聴いて。拓郎が背中から、かまやつさんに寄り添って歌うシーンが観たくなって観たら。泣きそうになった。ショットガンチャーリーとのカントリーツアーを忘れまい。

☆「未来はささやかでも変えられる可能性がある。まだ間に合うんじゃないのか。僕らは今とこれからを大事にしてゆこう。遅ればせでも、年齢、キャリアどうでもいい。今日とか明日を楽しみに生きる。」…だったらさ、だったらさ

☆ありがとうニールセダカ、ありがとうビートルズ、ありがとうボブ・ディラン、ありがとうR&Bそしてありがとう吉田拓郎。

☆☆☆☆今日の学び☆☆☆
 岡本おさみの字余り字足らずをメロディーにのっけて言葉の活劇にまで高めたのは、R&Bのソウル。"字余りソング"とか言ってんじゃねぇぞ。

2021. 7. 9

金曜日の朝を聴きながら、居酒屋とお別れをした。お元気で!いつかまた!

2021. 7. 8

☆嘘をつけ永遠のさよならのかわりに☆
 「ありがとうラビ」で思い出した中学の国語の教科書に載っていた「一切れのパン」。ネットで検索したら同じようにあの話が忘れられないという人がそれなりにいて安堵した。いろんな意味でスリリングな話だった。とどのつまり「永遠の嘘をついてくれ」ということか。ラビさんだって今度のことで謎だった本名も年齢までも新聞で明らかになっちゃって。聞いていた年齢とずいぶん違うし(爆)。きっと怒っておられるでしょう。
 拓郎のことも俺も昔は3日に一度くらい「この嘘つき」と怒っていたが(爆)、嘘だったからいいんじゃないかと今は心底思う。芸術家の正直と誠実さは私のような小市民とは少し違ったところに軸足があるに違いない。まぁいいや。
 「永遠の嘘をついてくれ」はアゲアゲの時はつま恋2006年を聴くけれど、ヘタレな時は、FromTのデモテープ。これがまた絶品ばい。吉兆のささやき女将のように耳元で歌ってくれている感じがたまらん。頭が真っ白になって…ってホントに最近がぜん白髪が増えちゃったよ。

2021. 7. 7

☆☆おやすみなさい☆☆
 ラビさんの通夜式。無宗教で音楽が流れ真っ赤なバラが溢れていて、いたるところにラビさんの写真が飾られている。写真撮影もOK。みんな自由に行き来している。祭壇の遺影のまばゆいほどの笑顔がいい。その笑顔の背景のたくさん2ショット写真たちの中に…あった。見逃しやしないぜ。
 ラビさんは「らしくないと不評だった」というけれど加藤和彦と組んだ「グッバイ上海」が一番好きだ。もうアルバム「サマルカンドブルー」くらい好きだ。

 グッバイ上海 グッバイ上海 
 ジャンク浮かべて帰る日はるか
 ゆらりゆられて帰る日はるか〜

 ああ、気持ちいい。ずっと頭の中で流れている。もっとらしい名曲があると怒られるかもしれないが。端くれのファンの俺にはこれだ。

 まさに緊急事態のはざまにお別れをすることができた。主のいないツタの絡まるお店。当然本日は休業だ。やっぱり皆様帰りに寄っておられる。続いてくれますように。

 「ありがとう、ラビ」…って書いて気づいた。あれ中学の時の国語の教科書に全く同じセリフがあった。そうだ「一切れのパン」のラストの一文だ。関係ないか…いやあるか。なくても、関係あるように生きようと思った。
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2021. 7. 6

☆☆又逢おうぜ、あばよ☆☆
 20時迄であろうと時勢的に不謹慎であろうとこれが飲まずにいられよか。ラビさんに献杯させていただいた。俺よりも特にラビさんに近しかった方からは、整理がつかないままいろんな思い出が湧き出てくる。

 ボイトレなんかしたことがないというのにいつも天然の迫力と艶のあったボーカル、実はいつも密かに気にされていたぶっ飛びのステージ衣装、時々ラビさんの話に出てくるシャイでやんちゃで、でもカッコイイ若き吉田拓郎のこと。そうそう2006年の武道館の2階席で壁にもたれてたったまま腕をくんで”唇をかみしめて”を歌う拓郎を凝視していた立ち姿の粋さ。

 20年近く前の12月30日、店は常連さん満席貸切の持寄りパーティの日。何にも知らずに初めて蔦の絡まる店に入って来た姉妹。ひとりは0歳児を抱えている。場違いもいいところ。フツーは今日はお断り…なのに、ラビさんはカウンターの常連さんを「どきな!」とどかして笑顔で席を用意する。いろんな辛いことがあって飲みながら二人で潸然と涙している姉妹にワケも素性もきかず「うるさくてゴメンね」とひたすらやさしくしてくれた。そして二回目からはまるで家族みたいに迎えてくれた。

 故人が素敵であればあるほど、ご冥福、安らかにではおさまらない。どうしてもああすればよかった、こうもできた、ごめんなさいという思いも溢れかえってくる。そこまでラビさん近くにいたあなたのことはわからないので軽々には言えないけどさ。

 わからないついでにいえばオダギリジョーの法則で、時間は消え去ってゆくものではなくて、たぶん今もどこかでラビさんは歌っていたり、飲んだくれていたり、いらっしゃい、おかえりと笑顔でドアを開けている。生き残った人は、亡くなった人を可愛そう、申し訳ないと思わないこと、できるだけ幸せに生きようすることがルール…らしい。

 遠くヨーロッパから想うインスタがいいな。そうか好きだったんだな。ちょっと泣けてくる。
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2021. 7. 5

☆☆ジャンク浮かべて帰る日はるか☆☆
 明け方にメールで中山ラビさんのことを知る。ほんやら洞もラビ組もとんとご無沙汰していたが、ラビさんのあの凄みのあるボーカルはどんな世の中になっても不滅だろうとタカをくくっていた。だから目を疑った。昨日はちょうど北山修先生の「共視論」のアカデミックシアターのDVDを観ていたところだったんだよ。ちょうどと言えるのかわからないが。
 2005年の京都会館で拓郎は「俺は関西公演に来ると関西フォークからは嫌われていて辛かったけれど、中山ラビだけはやさしくしてくれた」と述懐していた。ラビさんは拓郎にやさしかっただけでなく常連でもない一般Pの端くれの拓郎ファンにもやさしく接してくれた。10年以上も前だけど、雨畑と俺を引き連れて、一夜のすげー冒険に出てくれたことがあった。忘れようとて忘れられないよ。
 こんな俺ごときでもたくさん思い出すこと、たくさん言いたいことが溢れてくる。だからもっとそばにおられた方々の悲しみはいかばかりか。またね。ありがとうございました。ラビさん、おやすみなさい。

2021. 7. 4

☆☆明日を待てない人がいる☆☆
 静岡、神奈川の土石、水害が凄い。凄いなんてもんじゃない。つい一昨年の台風で、レベル5の警報を受け、近所の川の大氾濫を覚悟した身にもかかわらず、事が自分でないとすっかり鈍感になってしまう俺が情けない。
 とにかく皆様ご無事で。とにかく掘って掘って掘り起こして助かる命を助け出してほしい。救助に関わる方々には頭が下がる。こんな時にと怒られるかもしれないが、人命・災害に惜しみなく高度の技術と最新鋭のメカを投入する国際救助隊サンダーバードを作ってほしい。いや心の底から本気で思う。もう自分も含めて安全な場所は殆どなく、私らはみんな悪魔の斧に震えて眠るしかないのよ。

2021. 7. 3

☆いくつもの朝がまた☆
 怒涛の“人間なんて”で終演して電光掲示板に”See you again Shinojima”の文字が輝き、あちこちでバンザイが始まり9時過ぎても帰らない観客たち。

 4日後のセイヤングにこの時のハガキを書いてきたリスナーさんの言葉を思い出す。たぶんその方もあの晩は家に帰っても眠れなかったのだろう。


  私はなんて幸せなんだろうと思った。
  朝だ。退廃の影などない、美しい朝だ。

 拓郎のおかげでそういう朝が何度か…いや何度もあったなぁ。

2021. 7. 2

☆☆武道館よ屋根の梁を高く上げよ☆☆

「ずっと歌うという決心が今ハッキリついた」と君が言ったから7月2日は武道館記念日


2021. 7. 1

☆寄り添われる人☆
 南こうせつのサマーピクニック。拓郎が神田川を歌った年の公演。拓郎が歌い終え、こうせつが出てきてMCを始めると、拓郎がこうせつの肩に一瞬何気なく手を置いた。するとこうせつはMCしながら、すかさず、その拓郎の手をしっかり握る。つかまえたって感じで。拓郎が肩を組んだ貴重なツーショットを逃してなるまいという強い意思が感じられた。※個人の感想です。…拓郎スッと手を離しちゃうんだけど(爆)
 そうだ、2006年のつま恋オープニングでは拓郎は全力で逃げ出したことをよもや忘れはすまい。

 85年のつま恋で、山本コータローが「岬めぐり」を歌っている、その少し離れたところで拓郎も立って口ずさんでいる。すると山本コータローは、サビの部分でグイと拓郎を引っ張りよせて、ピンマイクで頬を寄せて歌うミック・ジャガー&キース・リチャーズあるいはジュン&ネネみたいな状態になった。拓郎は笑って一緒に歌っていたけれど、なんか迷惑そうにも見えた。いや迷惑だったに違いない。※これも個人の感想です。


 とはいえ日本をすくえ!のオープニングで、泉谷、小田、拓郎三人で支えあってアカペラでバンザイを歌う。あれはいいね。すげー素敵だ。

 今日の学び…いくら好きでも無理に寄り添っちゃダメ。

2021. 6. 30

☆☆寄り添う人☆☆
 三木聖子はこの放送のすぐ後に喉を傷めて引退し、裏方として実績を残し今も堂々と活躍しておれらるとネットで読んだ。あの時はきっと一番辛い時期だったのだろうな。

 夜ヒットで三木聖子が感極まって歌えなくなった時、それを観ている歌手たちの様子もチラチラ映る。スーちゃんは涙目で凍り付いている。ミキちゃんが蘭ちゃんの方に振り向いて眉をしかめて何か言う。蘭ちゃんの様子はフレームアウトしていて見えないが、たぶん蘭ちゃんが「行こうよ」とゴーサインを出したのだろう。その10秒後くらいにわらわらとキャンディーズの三人が三木聖子に寄り添って一緒に歌う。こういうのにお爺ちゃん弱いの。泣けちゃう。

 でさ、超個人的なことをふと思い出した。40年前に生まれて初めてカラオケを歌った日のこと。蒲田のサントリー館。常連のTくんがイントロ当てクイズでゲットしたボトルがしこたまあるキャバレーみたいなつくりの店だった。100人くらいは客がいる店の中央のステージで歌うのだ。曲は「メランコリー」。それくらいしか拓郎の曲がない。音痴の俺は緊張したちまち音程を外しステージで無残な状態になった。そこに颯爽とTくんが駆けつけて寄り添ってくれた。彼はメチャ歌がうまいので、おかげで♪淋しいぃぃ淋しいもんだね〜が客席の大合唱になった。今頃こんな形ですまんが、ありがとう。
 スター芸能人とは比ぶべくもない一般Pの俺の話で厚かましいが、そこはそれ、小さな物語でも、自分の人生の中では誰もがみな主人公…って拓郎も歌っているじゃないか>さだまさしだろ。

                         この話は明日も続く。

2021. 6. 29

☆☆泣ける☆☆
 真剣に観ていなかったんだけどドラマ「ドラゴン桜」の最終回で、新垣結衣がサプライズ出演して長澤まさみと手を握り合うシーンで思わず泣けたと職場のスタッフが話していた。いいオトナがしょうがねーなーと冷笑していた。
 今日ネットで何気に昔の「夜のヒットスタジオ」を観ていたらキャンディーズの"やさしい悪魔"…ハラショ。その後、おお懐かしの「三木聖子」の登場だ。しかしお母さんがサプライズで登場し感極まって「三枚の写真」を歌えなくなる。そこにキャンディーズが応援にかけつけ一緒に寄り添うんだよ。その様子に俺も思わず涙ぐむ。可憐な花々のように美しい。口ほどにもない俺だ。
 
 "やさしい悪魔"等の映像を観るたびに、もう何十年も経っているというのに、必ず「作曲 吉田拓郎」のテロップをしっかり確認して、おお拓郎が作ったのか、いい曲作るよな〜と思いを新たにしたりしませんか。俺は毎回そうします。それだけでなく人がいる時は「ああ、これ吉田拓郎が作ったんだ〜、すげーなー」とわざとらしく聞えよがしに口に出してウザがられる一方だ。

 "三枚の写真"は松本隆。卒業・遠距離・悲恋シリーズはもう独壇場だよな。でも三木聖子はこのあとですぐ引退してしまう。いまごろどうしておいでだろうか。

2021. 6. 28

☆☆90分一本勝負☆☆
 超久しぶりに居酒屋に行くと自分一組だけがお客様。厳しいな。客さえまばらなテーブルの椅子。テーブルないだろ。他客が誰もいないので心おきなくアルバム「明日に向って走れ」を聴かせてもらった。「拓郎、歌うまいよな」「いい声だよな」と100回くらい一人つぶやいてウザがられた。このアルバムのおかげで俺はペダルスチールで泣くパブロフの犬になった。
 そして聴き終わるとそそくさと退店する。別にあのお達しに従っているわけではない。切ないぜ。とはいえ、そうだよな、酒飲みと居酒屋の権利だけを声高に主張するのは違うよな。みんな大変なのだ。この世界中びしょ濡れにして冷たい雨が降っているのだ。
 もし次に客一人だったら…俺は何を聴こう、君は何を聴く。

2021. 6. 27

☆身体の中で魂が揺れる☆
 「言霊(ことだま)」。そういえば、つま恋の売店に「音魂(おとだま)」ってTシャツが売っていたな。
 「…つま恋も篠島も関係ないだろ。要するに魂こめて歌えばいいんだろうということで、2時間半ぶっ続けで行きまっせ!」1979年7月2日日本武道館)。御意。

2021. 6. 26

☆☆イメージの詩☆☆
 “ミュージックフェア”を観た。…すまん、やっぱり子役は苦手だ(爆)。でも、子どもたちも含めてたくさんの人がこの歌、この歌の言葉のことを知ったはずだ。まったく関係ないが観ながら映画「三島由紀夫VS東大全共闘」での最後の三島の言葉を思い出した。

「言葉は言葉を呼んで、翼をもってこの部屋の中を飛び回ったんです。」
「この言霊(ことだま)がどっかにどんな風に残るか知りませんが、その言葉を、言霊を、とにかくここに残して私は去っていきます。」

 たぶん初めての人にはかなり変わってて、小難しくて、でも何処かひっかかる"イメージの詩"の言霊たちが飛び回るのが観えたような気がした。教科書には載っていないが、あちこち飛び回ってこの世界のどこかでどこかに刻まれますようにと切なく願う。

2021. 6. 25

☆☆歴史はそれを見逃さないだろう☆☆
 たまたま見せてもらった中学校の音楽の国定教科書(「中学生の音楽2.3下」教育芸術社)。表紙を開くと、オイ、いきなりユーミンだぜ。まるで音楽雑誌みたいだ。ユーミンが全国の14歳に語りかける。素敵だ。
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 俺はユーミンファンとは言えないけれど、なんとも感慨深い。そして誇らしい。OK松任谷!
 さて問題は同じ教科書のJ-POPの歴史のページだ。フォーク、ロック、歌謡曲、テクノポップ、アイドル、ヒップホップ、渋谷系まで広く載っているが…いねぇじゃん
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 特にアイドルのところで「70年代頃からニューミュージックのアーティストも作品を提供するなど、それまでの歌謡曲とは一線を画した…」とまで説明されているのに出てこないのはどう考えてもおかしいだろ。ああ見えて拓郎はとても奥ゆかしい人だから、そんなことはいいと言うかもしれない。しかし拓郎がよくても俺がよくない。
 “赤いスイートピー”が載るのはそりゃ名曲だし当然だ。ただ、それだけってどうなのよ。歴史の教科書の江戸時代=徳川幕府のところで徳川家康が全く出てこないで、八代将軍松平健の写真だけがバーンと載っていたらどうだろうか。それと同じだ。>よく、わかんねぇよ

・・・ということで、なんかもういいやというオワコン感に苛まれていた昨今だが、やはり私もこのサイトも闘い続けなくてはならない。どんなにあざけられ、そしられて、理解を生まずとも。そう思いを新たにした。

追記)
そう思うと、肉子ちゃんの「イメージの詩」、よくぞカバーしていただきましたと心の底からお礼を言いたくなる。子役があざとい、意味の咀嚼がないと批判する人もいたが>それはオマエだろ。…すまんな。明日は手をあわせてミュージックフェアを観るよ。

2021. 6. 24

☆☆愚痴☆☆
 周囲でワクチンを打った、予約したという話が耳に入ってくるが、私の地域では6月末に接種券発送予定ということでまだなーんにも届いていない。しかも私の年齢は7月20日予約開始だと。なんだかな。この気分、何かに似てると思ったら、ファンクラブの先行予約もぴあプレリザーブも落選して、あとは一般販売を待つしかないときの気分と似ている。ああ、もうライブは終わったんだぜ。
 ファイザー、モデルナ、アストラゼネカの違いもよくわからない。俺は勝手に、ソニー、フォーライフ、エレックみたいなものだと思っているが、医学的根拠はゼロだ。>あったりめぇだろ。
 とにかくみなさん打つ人も打たない人もくれぐれもお大事に。友よ、この闇の向こうには、友よ輝く明日がある。夜明けは近い…のかなぁ。

2021. 6. 23

☆巨人☆
 どういう世の中なんだろうか。♪時には無関心なこの僕でさえが腹を立てたり怒ったり〜というよりも同じアルバムの♪こんな世の中と自分を捨ててみた〜に気分か近い。ダメだこりゃな気分だ。

 そんな中で、立花隆さんの訃報を知る。「知の巨人」という賛辞のとおりだ。…っていうほど本を読み込んじゃいないが。ものすげー人だなとひたすら仰ぎ見ていた。巨人といえば20年くらい前、水道橋の東京ドームの横の歩道を歩いていたら立花隆さん本人とすれ違ったことがあった。小柄で飄々と歩いおられたが、まるで侍みたいな目をしていた。
 称賛される「巨大な知」の根底には、いつもシンプルな「けっ。ちゃんちゃらおかしいぜ!」という抜き身の熱いハートが燃えていてそこがまたカッコ良かった。
 俺ごときが、こんな世の中とスネている場合ではない。ちゃんとせねばと思った。彼が田中角栄をひたすら追いかけたように、私も吉田拓郎をひたすら追い続けよう。…それは違うか。心よりご冥福をお祈りします。

2021. 6. 22

☆あとがき☆
 それは原作をあとがきまで全部読んだほうがいいという御指南をいただいたので、早速一気に読んでみた。ええっ。もう一度観なきゃという気持ちにさせられるじゃぁないの。そう思うと映画では小さなフラグが静かに立っていたことがわかる。だからこそ、さんまは映画化を熱望したのかもしれない。そしてまた、だからこそあえて正面からそのことを描かなかったのかもしれない。しょせん下衆の勘繰りなんで、わからんけどさ。読んでから観るか、観てから読むか…という昔の角川書店のコピーを思い出した。
 …ということで田家ります。えーと曲ですね。中村雅俊で「いつか街で会ったなら」
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2021. 6. 21

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 一人で観るのはちょっと寂しかったが、二人で観るのは気恥ずかしい。だいたい俺の場合は自分が観た映画は万人必見の名作で観なかった映画はただの凡作となるので信憑性が乏しいが、それでもやっぱりいい映画だったと思うよ。
 昨日も書いたが、あの”イメージの詩”はカバー作品というより、映画音楽なのだと今さらながら気づいた。そう考えるとあの場面にはあれしかない。あれ以上のものはないと唸った。大竹しのぶだと別の映画になってしまう。そもそも子役一般が嫌いとか歌詞の意味の咀嚼はあるのかとかさんざん文句を言ったが、そしてそれは今も偽らざる意見だが、それはそれとして、いいシーンにいい音楽として使ってくださって感謝申し上げたい。
 一か所個人的に涙ぐんだシーンがあったが個人的すぎるので言わない。そうそう、あと木村拓哉の娘ということで鼻白んだが、彼女もセリフもナチュラルで内省的な女の子の感じが出ていて、とてもマッチしていた。

 さて映画館で隣の席のカップルが最後エンドロールの途中で席を立ったので驚いた。コイツらはどうして「作詞・作曲 吉田拓郎」のテロップを観ないで帰れるのだろうか。何しに来たんだ、変わった人もいるものだ。>変わってるのはオマエだ。シン・エヴァンゲリオンに続いて映画館のスクリーンのテロップの誇らしさといったらない。
 
 明石家さんまの吉田拓郎への敬意があったようにスタッフたちの宮崎駿への敬意が俺にもわかるくらい満ち溢れていて清々しかった。そして原作が読んでみたくなる映画でもあった。

2021. 6. 20

☆映画館☆
 そうだな。あの"イメージの詩"は映画のシーンにあてられた映画音楽なのだというあたりまえのことを忘れていたよ。ということで不肖私、単身向かうであります。

2021. 6. 19

☆雨は蕭々と降つてゐる☆
 大学に入ってすぐの頃、同じ語学クラスで知り合った男と二人で学食で昼飯を食べていた時のことだ。彼は「三好達治詩集」を出して「乳母車」という詩を開いて渡して「僕はこの詩が大好きで暗記しているんだ、いいかい。」と言っていきなり全編を暗唱してみせた。

 母よ
 淡くかなしきもののふるなり
 紫陽花いろのもののふるなり
 はてしなき並樹のかげを
 そうそうと風のふくなり
 時はたそがれ
 母よ 私の乳母車(うばぐるま)を押せ
 泣きぬれる夕陽にむかって
 轔轔(りんりん)と私の乳母車を押せ
  ……

 今ネットで調べて書いた↑当時はわけわからずこの突然の展開に戸惑った。学食でいきなり詩を暗唱する人。俺の育った蒲田あたりにはそんな奴はいなかったので、ああ大学っていうのは怖ろしいところだなとビビった。すると得意げな彼が「君の憶えている詩を聞かせてくれ」と言われてさらに戸惑った。なんだそりゃ。俺は覚悟を決めた。

 今は黙って風の音を聴け
 木の葉の舞う季節 季節を知れ
 思い出すな荒野の朝を 包み隠してしまえ静けさの中に
 ……
 いずれは元の闇の中へ
 答えもなく消え去るのみ
 ……
 今は黙って風の音を聴け
 今は黙って水面に浮かべ
 今はただ静けさを愛せばよい

 初めて口に出して”流れる”を暗唱して思った。こりゃいい。負けてねぇぞ。拓郎、時々惜しいけれどアナタはしっかり詩人だ。

 その暗唱野郎>おい…とはそんなに親しくならなかったが、最近母校の大学教授に就任したと同窓会ニュースで知った。
 ふと思い出して彼の好きだった「乳母車」という詩を検索してキチンと読んでみた。

     乳母車
                三好達治
 母よ――
 淡くかなしきもののふるなり
 紫陽花(あじさい)いろのもののふるなり
 はてしなき並樹のかげを
 そうそうと風のふくなり

 時はたそがれ
 母よ 私の乳母車(うばぐるま)を押せ
 泣きぬれる夕陽にむかって
 轔轔(りんりん)と私の乳母車を押せ

 赤い総(ふさ)のある天鵞絨(びろうど)の帽子を
 つめたき額にかむらせよ
 旅いそぐ鳥の列にも
 季節は空を渡るなり

 淡くかなしきもののふる
 紫陽花いろのもののふる道
 母よ 私は知っている
 この道は遠く遠くはてしない道

 ちょうど6月の雨の詩だったのだな。素晴らしい詩だなと今は思う。
    母よ 私は知っている
    この道は遠く遠くはてしない道
  いいな。吉田も負けてないけど>しつこい
 

2021. 6. 18

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☆白夜☆
 ドイツの白夜の写真。”白夜”だが”détente”の裏表紙の空みたいだ。♪世代なんか嘘さ、夢と笑えホロ苦い若さぁ…何度聴いても原曲の「若さぁ」の歌いまわしがしみる。松任谷と二人だけでスタジオに入って作った…ってラジオで言ってたな。最近のラジオでは、CBSソニーのスタジオで石川鷹彦と二人だけで作った話もしてくれる。松任谷正隆や石川鷹彦と二人でどんなやりとりをし、どんなふうに作り上げていったのだろう。観てぇ。もちろん無理だけどものすげー観たい。何時間でも観ていられる自信がある。
 コロナのためにドイツは今シーズンも大変だったみたいだ。負けないでenjoyしてくれんさいや。

2021. 6. 17

☆最後のそこんとこ☆
 梅雨に入って雲がどんより厚いが今日はあまり降らないようだ。雲が少し明るい。こんな雲を観ているといつも浮かぶ。

 断ち切れた糸をもどかしくもたどってる
 雲の切れ間に明かりを探すみたいだ
               (「海へ帰る」)
 いいな。このゆったりとしたビートもたまらなくいい。
 ただ最後の最後に出てきてしまう”泳げないけどぉぉぉ”
 くぅううう〜〜惜しいな!

2021. 6. 16

☆この〜樹、なんの樹☆
 前の日記にも書いたかもしれんが、いいや何度でも書く。手塚理美はかつて拓郎が社長の頃のフォーライフレコードから”ボビーに片想い”という曲を出した。これは松本隆の詞に拓郎が曲をつける予定だったが、手塚理美は「ユーミンの曲じゃないと嫌だ」と断った。あんまりだぜ、なんてこと言うの(涙)。それでもたぶん拓郎はユーミンととても近かったから、かくして松任谷由実作曲のかの曲が誕生した。これが、またいい曲なんだ。それでもって手塚理美はあんまり歌がうまくなかったしヒットしなかったんだよな。いろいろ悲しい1979年の春だったね。

 これが記念すべき松本隆と松任谷由実(呉田軽穂)のコンビ第一作となり、ご存じのとおりこの記念樹はやがて巨大樹となり満開の花を咲かせることになる。でも言いたい、
その樹の下に埋まってるのは、拓郎と俺の涙なんだよ!


    つづく>つづかねぇよっ

2021. 6. 15

☆想い出してボビー☆
 77年頃ラジオ関東で放送されていた拓郎の特集番組で小林亜星さんへのインタビューがあって、こんな趣旨のことを語っておられたのを思い出した。

「拓郎さんは作詞・作曲・演奏・歌まで独りでやっておられるけれど、ボクは音楽というのは「結婚」だと思っている。違う才能の人と結ばれて新しいものを作ってゆくものなので、独りで何もかもしようとしない方がいい…」

 ああ、なるほどな〜という気持ちとイヤ全部独りでやるから拓郎はいいんじゃないかという気持ちが相半ばしたものだった。しょせんイチ高校生の感想なんでいいんだけどさ。ただどちらであれ今にして思うと亜星さんは愛情深い人だったのだなと思う。

 それと亜星さんが笛を吹いて体操服着た小学生の手塚さとみがラジオ体操するCMが浮かんできて離れない。あれは何だっけ。そうそう手塚さとみもお元気だろうか。成人式で一緒だったので他人の気がしないのだ。あ、成人式会場でおみかけしただけで知り合いではないが。>ってソレ思い切り他人だろぉ

2021. 6. 14

☆さよなら巨星・亜星☆
 小林亜星さん逝く。去年、寺内貫太郎一家の再放送をずっと観ていたのでもう他人のような気がしない。親戚のおじさんを失ったみたいだ。樹木希林も加藤治子も…西城秀樹までいなくなっちゃったじゃないの。
 あの曲もこの曲も名曲の数々は筒美京平さんと双璧だね。自分ごときの身体にも亜星さんのメロディーが出汁のように身体にしみている。ご冥福をお祈りします。

 ちょうど去年買って読んでいた本「言葉の達人たち(阿久悠編)」の「歌謡曲の言葉」の章で音楽と言葉の歴史を作曲家として綴っている亜星さんの文章があった。

「ニューミュージックは革命だった
…これは日本歌謡史上の大革命だったんですよ。吉田拓郎さんや井上陽水さんがやった革命なんです。…拓郎さんの努力で歌謡曲が非常にカッコ良くなりました。」

 リップサービスでなく新しい音楽としてガチ評価しておられる。これも筒美京平さんと同じだ。

 その本で小林亜星さんは、「メロディーや詩を主人公にした音楽」、下手でもいいから大切な人に心をめて「ゴンベンにテラ(詩)の歌を歌ってあげてください」と結んでいる。狼少年ケンやレナウンからこの木何の木と幼少の頃から実にたくさんのやさしい「詩」を歌っていただいた。ありがとうございました。どうか安らかにお休みください。

2021. 6. 13

☆しのぶれど色に出にけりわが好み☆
 ラジオを聴きながら、ああ終わってゆくのだなと思った。アルバムの進捗も含めて一言一言に素晴らしいミュージシャンたちへの尽きせぬ感謝が滲んでいる。拓郎が感謝する人々はすべて私たちの恩人である。ありがとうございます。

 といいながら相変わらず私は不肖のファンですまない。しかしせっかく私も酸素を吸っているんで言わせてもらう。私は個人的に子役とその廻りがとても苦手だ。今回は新鮮な試みだと思うし、自分の感性の足りないせいだと頑張ってはみたが、トドメの”お手紙”を聞いて私の苦手因子がすべてパーフェクトに揃ってしまった。ダメだ。なのでできるだけ遠くから応援している。

 だからというのではない。私は大竹しのぶにカバーして欲しいと切に思うのだ。昨日、肉子さんの公開挨拶のニュースのしのぶさんを観て、そのあと、さだまさしの長崎ライブ2006で大竹しのぶの「フレディもしくは三教街」の映像を観て涙ぐみ、彼女の「ファイト!」のカバーの背筋も凍りそうな凄さを思い出した。彼女にこそ「イメージの詩」を魂で歌ってほしいと思った。きっと彼女は彼女の天才の感性で、この歌のソウルと行間を掴み取って、発出してくれるに違いない。カバーって、その人が咀嚼し反芻したうえの解釈だと思うのよ。10歳の少女に周囲の大人が仮託した解釈よりも、シンプルに大竹しのぶの魂の「これこそは!」を聴いてみたい。

2021. 6. 12

オールナイトニッポンゴールド  第15回 2021.6.11

☆☆☆あらすじ☆☆☆☆☆☆

 こんばんは吉田拓郎です。週替わりのパーソナリティの金曜日、今週は吉田拓郎がお送りします。

 今の収録時間帯は、一年以上自宅から台本もなく一人でやっているけれど午前中からトライしたいと思っている。こういう社会状況だと外に出ない、もともと外に出ない二人だが、奥さんの昔のドラマを観ている。今頃になってハマっている。一連の宮藤官九郎はすごいね。ワン・エンド・オンリーだね。面白いね。字幕だとセリフがわかって面白い。こんな人はいなかった。不思議なセリフ回し、愛あるひとこと、笑わしてくれて、また泣かせてくれる。今日も続きを観たいので午前11時半から始める。
 2021年盤の”イメージの詩”、10歳の少女のソウルフルに歌声に感動感激のメールをたくさんいただいた。心から嬉しくて熱くなる。ソウルフルな稲垣来泉さん。その来泉さんからお手紙いただきました。なかなかソツがないな(笑)。見事な10歳だな。

吉田拓郎さんへ

 私が歌わせていただいたイメージの詩に感動したといってくださったと聞きうれしいです。
 私は、拓郎さんの「流星」と「落陽」が好きです。ああ、おおおお〜流れてゆくとかをつい口ずさんでいます。
 拓郎さんの渋くてカッコいい声や歌い方が好きです。
 他にも今日までそして明日からが好きです。
 私の今までを思っています。誰かのチカラを借りたし、手を取り合ってきました。
 詩は歌詞の意味を知ることで聴こえ方が変わることを知りました
 もっと歌が大好きになりました。
                       くるみより

 くるみさんと拓郎さんの絵が描いてあるが、拓郎さんが誰なんだ(笑)。10歳の時にこんな手紙書けないよ。鹿児島で、近所の一子ちゃんと相撲で投げられて泣いていたし、学校では下駄屋の女子に投げられて、宮崎先生におんぶされて帰りながら、ああ気持ちいいと思っている、鼻たれ、甘ったれだった。俺にも10歳の頃があったんだな。

 絵を観ても、拓郎さんはこんなおやじなんだな。この子から見ればこういうふうに見えているんだな。年貢の納め時だ。人間引き際がありそうだな。

 正直こういう世代がこれからの日本を作ってゆくんだな。こういう姿を観ていたいな。永遠に観ていたいな。くるみちゃんありがとう。これからもお芝居、歌にがんばって。これからながーい人生、いろんなことがあるよ。さんまさんに教わってね(笑)

◇今夜も自由気ままにやっていきましょう吉田拓郎のオールナイトニッポンゴールド

 <2曲かけて二つ目のイメージの詩にじわじわと泣けてきたという投書>
そういうメールがたくさん来ている。少女の歌声が人々の心に響いたのは確実。日常いつの間にか心を乱している僕等
 そういう証拠じゃないかな。僕らはシンプルに、疑いの心を少なくして生きていたい。心惑わす日常に疲れているんだ。そういうところに彼女の歌声が響いている。
 僕なんか久しぶりにいい胃薬にであったスッキリした気分。合わない胃薬でなく、バッチリあった胃薬みたい。そういうさわやかな風が吹いていった。
 僕らの心は疲れているんだよ。
<母の影響で聴いている、帰省できないけれどラジオを聴いて母と話し合う、私はアニメが好きで、エヴァンゲリオンあのシーンで感動した、佳代さんのかわいらしい声が好きという投書>
 先週は休んだな。あの時は料理が忙しかったかぼちゃの〜を作っていた(笑)
 アニメはあまり意識していないけれど実は縁がある吉田拓郎だ。
 “気持ちだよ”は「こちら亀有交番前派出所」だし、”今日までそして明日から”は「クレヨンしんちゃん」、”純”・・・大好きな曲だけど、「クロマティ高校」、”イメージの詩”は「漁港の肉子さん」だし、「シン・エヴァンゲリオン」では”人生を語らず”
こういう縁があるんだな。そうなんだ。そういう人生なんだ。これもやってきて良かったな。素敵な音楽人生になってきている。
 2019年で熱演し、原曲では徳武が素敵なギターを弾いている

M-1   純        吉田拓郎

◇CM

<49歳ママ、拓郎さんのライブ映像を観て、こんな世界があったんだ、 こんないい歌を歌ってたんだと感激している投書>
ずっと前からあったんだ、ずっと歌っていたんだよ、もうやめるんだよ、もう間に合わない(笑)
<奥様はU24 田中碧、三苫薫が好きだと言っておられましたが、先日アルゼンチン観に行ったところ、相馬勇紀がちょっとぽっちゃりしていてかわいいという投書のつづき>
 
 碧に薫、勝てないな。おばさんたちが多彩に目をつけているな。だから、おっさんも若い人たちに関心を持とう。昔ばっかり追っかけていないで、だてに酸素を吸っているんじゃない。光を放っている若者たちを観るようにしないさい。今観なきゃツマンナイ。

 この一か月で最高の出来事は照ノ富士の優勝だな。感動した。妻もキッチンで料理の時間だけれどオープンキッチンなので観ながら料理している。我が家ではテルちゃんといっているが、その立ち合いだけは観ていられないので勝負がついてから見る。緊張の毎日。いよいよ来場所は綱取りだからケガをしないでほしい。

 川崎フロンターレは強いな。田中碧、三苫薫が活躍している。

 我が家では、テルちゃん、田中、三苫だな(笑)

 野球の話だが、<今年から森下投手、茶髪に変わって驚いているが、奥様はどうですかという投書>
 実は、気になるみたい(笑) さかんに茶髪を観て「どうなのよ」と言ってる。やや、への字(笑)

 ウチの人は中日の根尾選手、出てくると「おっと」と言って観ている。忙しいね。
若いころの吉田拓郎みたいになっちゃったが口癖。

 僕は、英国ロイヤルバレエ団の「白鳥の湖」を観た。白鳥と黒鳥。高田茜、見たかな。こうやって平野亮一さんとかも世界的なステージで踊っている。で、僕は高田茜の大ファン、そしてフィギュアは紀平梨花の大ファン。とにかく若い男子と女子に目が細くなっている(笑)。

<ファンレターを34歳で書く、2006年つま恋がきっかけで拓郎さんの音楽が好きになり、神田共立も当日は最後尾、やさしい悪魔の迫力、人生を語らずの音圧が凄かった、 僕も拓郎さんの年齢まであと40年、ロックな人生を送りたいという投書>
 神田共立は、一生忘れられないステージだったな。あの狭さ、デビューの頃の一体感が懐かしかったし、打ち解けていた バンドもその夜のパーティで、なんでしょうね、なんか楽しかったですねと言っていた。
 フォーラムだと5000人、アリーナだともっとだけど、1000とか1500人だと楽しめるというのがあった。全国ツアーをやっていって、つま恋では5万人とかになって、なれていったけど、紀伊国屋ホール、安田生命ホール、厚生年金会館小ホール、 あと神田共立講堂には育てられたという気がする。当時の絵が浮かんでくる。

 ラストアルバムもタイトルは決まった。びっくりするタイトル。そして泣くかもしれない。ジャケットはラストシューティングになるだろうし田村仁ファミリーに頼むので、彼らとスタイリストの廣澤さんと合わせてリモートで会議をした。

 いろんなアーティストが来たり、アレンジャーも凄いのだけれど、目玉は、D.竹林さんの公開レコーディング。神田より小さい100〜200人を考えている。会場というよりパイプ椅子を置いてという感じかな。ラストレコーディングを観てほしい東京とか名古屋とか話している。その風景を目に焼き付けてほしいと思う。公開その人数をどうやって選ぶか、僕は内心では、ほくそんでいる、決めていることはある、2019年のDVDを持っている人にはわかるかな、そういう人に見もらいたい。
 ま、コロナがおさまってからだけれどね。今度ワクチンに行くんで不安だけれど、これは伝染らない、伝染さないためにも義務だよね。で、撮影の話で、  つま恋に行きたいね、今どうなっているのかと言ったら今度ロケハンしてくれるらしい。

 いろいろ企画はあって楽しめる。僕がこの世からいなくなってから追悼しても嬉しくないし、いらない。消えちゃったらしかたない。生きているときにどんだけ楽しくやれるか、充実した気分でいられるかだ。酸素を吸っているんだから。僕が天国に行ってるときにあれこれしゃべるヤツはろくなヤツじゃない。
 小田和正がボーカルをフォローして歌おうかと言ってくれている。嬉しかったな。どうしてもこの人とデュエットしたい若いアーティストがいる。この人に見合う曲を作れとディレクター言われている。いい曲作るから口説いてくれといっている。
次の曲は、母の約束で歌うのをやめた曲。でも今頃は母も、拓ちゃん楽しい音楽人生だったみたいだね。良かったね。 リクエストしようかと言っているかもしれない。この曲大嫌いって言ってるかもしれないけれど。1982年の日本武道館。 暴れん坊、酔っ払いバンド。

M-2 王様達のハイキング     吉田拓郎

◇アルバムの思い出
 先週の「ローリング30」のあと松本隆君から連絡があって拓郎に会いたいなと言ってくれたらしい。いずれコロナが収束したら松本くんをスタジオに読んでかつてのアイドルのこととかも含めていろいろ話したい。今月のアルバムは、1996年「感度良好波高し」。変なタイトルだけど。

 LAの名うてのミュージシャンと作った。ドラム・ラスカンケル、キーボード・クレイグ・ダーギー、ベース・リーランドスクラーとギター・マイケル・トンプソン

 それ以前に、ラスカンケル、クレイグ・ダーギー、リーランドスクラーとは、ナッソーのコンパスポイントスタジオ。ボブ・マーリィやローリング・ストーンズが使った「ロングタイムノーシー」スタジオセッションしていたので楽しいレコーディングだった。

 アレンジの半分は僕で半分は瀬尾一三に頼んだ。作詞は石原信一で当時付き合いがあったので、コンドミニアムを借り切ってみんなで現地でレコーディングした。
 ロックギタリストのワディ・ワクテルやアコースティックギター・フレッド・タケット、中でも当時有名なマイケルトンプソンという当時売れっ子のギタリストがいて瀬尾ちゃんが選んだ。素晴らしいギタリストで、デモテープをきかせたら「ナイスギター」といつてコピーしてくれて、さすが名うてで味付けをしてくれていいギターになった。このアルバムはそういうサウンドが売りだった。日本でなかなか出せない。

ベイサイド・バー。2014年、2016年と僕がトークでベイサイド・バー、僕がたまたま入った港のバーで常連客と話し込んでいる話をしてオオウケした。二人客と世間話しながら、「あれ?吉田拓郎さんですよね、どうしたんですか?」と尋ねられてツアーで来てふらりと入ってきたといって、ジン・トニックを頼む。しばらくして外へ出たら海からの風。夜空を見上げて石ころを蹴る・・・と言いう話。

◇11時
(佳代さんのコーナー)
 妻)みなさんお元気ですか、私は毎日大変だけど頑張ってます。平和になったら、欲しいものがいっぱいあります。高い洋服とか高い靴とかバックとか買いまーす。
 夫)はははは

 それで夜空を見上げるという他愛ないハナシは、石原信一のベイサイド・バーを彷彿とさせる。マイケル・トンプソンのプレイが素晴らしい。僕の作ったフレーズを弾いてくれた。石原信一の歌詞に関しては後でいろんなことをいいます

M-3  ベイサイド・バー  吉田拓郎

 みなさんもこういう体験ある人がいるかもしれない。自分の故郷を離れてみたいと思わなかったかい。違う町で暮らしてみたい。10代にはあったな。ウチは、母、姉、祖母の女系家族だったので高校3年くらいの頃、ずっとここにはいられないだろうなと思っていた。果てしない…決まりきった日常でなく、あてはないけど果てしない旅をしたいと思っていた。
 しかし出てはみたものの、そうはいかない、理想郷にたどり着けていない。この歌詞は体験したことはある。離れたいな違うところに行ってみたいな理想郷はなく現実的には今を生きている。瀬尾一三がアレンジしたけれど、ドラマチックで壮大なアレンジだ。瀬尾一三は、中島みゆき専属のプロデューサーでアレンジャーだと思うけれど、中島みゆきは時にドラマ仕立ての作品も多い。そういう中島みゆきの影響があめのかもしれない。もともとシンプルでボッブな感じのアレンジが得意だったのが、スケール感のある感じがうまくなっている。この曲も非常にドラマチックに出来上がっている。

 石原信一の詞は好感はもってるけれど不満ももっている。いいとこあるな、いいとみいってるよな・・・でも歌ってゆくと二番、三番で「惜しいな」(笑) と思うところが必ずある。不思議な事だけどそれが彼風なんだな。それかないと根本から違ってしまうのでだから言えない。ここちょっと惜しいという未完成形の作詞家。隙が多い。吉田拓郎にはあわないと思う。
 彼は日本的な和風な言葉使いが得意だ。演歌とか似合うのかな。付き合ってると楽しい。そうは言ってもこの詩はいい出来だ、だって吉田拓郎のメロディーがついたから。いい仕上がり。でもみんな歌詞はあまり聴いちゃいないだろう。歌っていて三番あたりはどうかなという気になる。作詞の目のつけどころは10代の頃の違う世界に行きたいという気持ちをとらえている。

M-4 遥かなる  吉田拓郎

 作詞家石原信一はバハマにも同行したし、最初「夕映え」という詞が面白いなと思った。ところがこの石原さん、瀬尾ちゃんの最も苦手なタイプだった。瀬尾さんは自分をおばさんだと思っている。ショッピングも好きであれこれ買いだめする。僕もTシャツ、ジーンズも何十枚も買って自分はおばさんだからだと思っている。おばさんが苦手なおやじが石原信一なんだ。LAのコンドミニアムの生活でミスキャストぶりがはっきりした。日本人ばっかだった全員でパーティというか持ち寄りの飲み会で和気藹々と過ごしていた。そこにお酒が回ってきた。石原さんは酔うと真っ赤になるが、顔赤くして、みなさん気分がいいので歌っていいですかといったので、みんな、勝手にすりゃいいじゃんという感じだった。ギターを出してきて弾き語りで♪淋しさのつれづれに〜「心もよう」を歌い始める。
 ここからドラマが始まる。「その曲かよ」「場が場だよ」。吉田拓郎がLAにいるのに、選曲それかよ。で、唄もうまいし、かまわずずっと歌っている。だんだん曲が進んでゆくとご本人は気持ちが高ぶって涙というか目頭が熱くなっている。
 瀬尾ちゃんがその熱唱ぶりにしらけた。歌が終わると拍手でなくて全員で「なんでその曲なんだ、ここをどこだと思ってんだよ、空気が違うだろ」と言われ始めた。僕としてはおさめたのですが、それ以来瀬尾さんが石原さんと口をきかなくなった(笑)。それからお付き合いがなくなった。いろいろ作詞家として賞をおとりにもなられたけど個人的なお付き合いがなくなった。お付き合いがなくなった人がいる。それでも楽しい思い出。

 僕の曲にはツーコードというパターンがある。ペニーレインでバーボンはGとEm、春だったねだとDとEm。この曲は、AとF♯mのツーコードでメロディーがいろいろ展開していく。典型的なR&B。FromTにも入っている。デモテープのまんまコピーしてくれた。

M-5 心のままに    吉田拓郎

◇CM
 最近なって思う。僕の曲の中でこの一曲は今は歌わないな。自分らしくない曲がある。若い・・・というか勘違いしているな。その曲を当ててもらう。絶対に歌わない、嫌いな曲。ハワイのカマカの6弦ウクレレ(実演) ボディにスリ傷もあって年季ものだ。応募が600通あって、正解者がいました10人。妥当かな。

<"結婚しようよ" という投書>
 これは好きとか嫌いとか言っちゃいけない。加藤和彦という才能との出会い。これが松任谷正隆を連れてきて、石川鷹彦・・・はこの時ではないけれど、いろんな才能あるミュージシャンとのセッションが始まる。これは加藤和彦の作ってくれたもので貴重なレコーディングだった。こういう大切な音楽人生のこういういきさつは好き嫌いのジャンルではないよ。ジャンルにいれちゃいけない。

<"いつか夜の雨が" 鳥山さんのギターカッコ良かったけど という投書>
 今でも大好きだってば。(ウクレレで歌う)ブッカーというリズム&アンドブルースマンがレゲエでアレンジしてくれた。あのシャングリラのレコーディングはトラブルが多かったし、ミュージシャンとの接し方がトウシロだった。体験しては勉強になった。その後のバハマに繋がってゆき、ミュージシャンとの付き合い方がわかり仲良くなった。この曲はいい。

<"旅の宿"  拓郎さんを知らない古い人のイメージという投書>
 違います。大ヒットしたときに自分じゃ当然だと思っていた。当時、レコーディング前に、♪浴衣の君はススキのかんざしって〜パック・イン・ミュージックでも紹介したら大反響だった。岡本さおみの珠玉の詞。これとか襟裳岬とかルームライトとかは素晴らしいと思っている。業界ではレコーディング前から評判になっていたし、ソニーでも絶対売れると太鼓判である。
 石川鷹彦とスタジオに二人だけで作った。それでよくこんなのできるなと言われた。石川さんがいかにテクニックが凄いか、ギターやエレキべースも弾いている。石川鷹彦のアレンジとかプレイが素晴らしい。俺もギターとかハーモニカとか。吉田拓郎はアレンジ力があったと断言できる。若い才能の共鳴がこれをつくりあげた。嫌いになったらバチがあたる。

<"海を泳ぐ男" という投書>
 ♪さようならさようなら〜。これは人生は自由に生きていいんだよ、自由に泳ぐ魚の唄だ。いつまでもこだわらないで自由に生きようという唄。僕らは自由に泳ぎ魚なんだ。いい詞じゃないか。
 歴代の中で最も俺を理解していたドラマー。第一人者。「吉田町の唄」「NHK101」とかもやってくれた”がっちゃん”こと今泉正義。これでも石川鷹彦は、スライドギターにフラマン被せようかと提案してくれた。最高に気に入っている。この曲は、Ipodから外したことはない。もし今度歌うとしたら一番にリストアップする。正解は10通だった。

■エンディング
 映画「サタデーナイト・フィーバー」は観たでしょうね。ディスコブームの火付け役、ジョン・トラボルタの主人公は田舎くさいけど刺激的だった。僕も毎晩のように六本木のディスコに、今は天国に遊びに行っているかまやつさんと一緒に行った。よく遊んだ。あと、この方も天国に遊びに行っている安井かずみ。彼女に連れて行ってもらった川口アパートは高級プール付きで憧れだった。そこで朝まで飲んだり、コシノジュンコや加賀まりことも遊んだ。
 原宿はどこか固い。フォークソングとかそういう感じでいたのを、かまやつひろしが連れ出してくれた。フォークと違ってグルーブサウンズ関係は、遊び人がいっぱいいた。かまやさんは特に遊ぶわけではないけれどフリーランスな感じで、スタンスが自由で固くない。そこに気が合って、原宿から六本木がメインになった。

 ディスコをどうとらえるか。これは若い社交の場だ。ナンパ目的とか不純な交友とかいうけれど、ここに行ったことがないともしかしたら人生観が違うかもしれない、そういう素敵な場所だと思う。大音響の音楽の中で踊っている最中に我を忘れる、嫌なことを忘れる。青春が宿っていたな。かまやつさんとの思い出は有意義だった。若者にとっての特権だった。日常を大切にするなら非日常になれる場所も大切なんだ。

 次回は7月9日

☆☆☆☆思いつきと感想☆☆☆
☆グドカンの何のドラマを観ているのだろうか。知りたい。夕食の用意でコーナーが飛んだり、完全に吉田家の日常の暮らしの中に溶け込んでしまっている番組だな。スタジオで収録してほしいという意見もわかるが、これはこれでどこまで暮らしの中に溶けてゆくのか貴重な実験のようで面白い。

☆読み上げられた10歳の少女の手紙に眩暈がしたのだが、心が汚れている私は触らぬ神に祟りなし。何も言うまい。とにかく若い人たちの世の中を大切に見つめることを胸に刻む。

☆若い人たちの輝きを見つめたい。それは本当にそう思う。以前に俺も吉田拓郎ばっかり聴いているのではなく、もっと若い世代の音楽を聴こうと思って、浜田省吾を聴き始めたことを思い出した(爆)。若いミュージシャンというとどうしても浜省とか甲斐よしひろが浮かびませんか。♪さようなら、さようなら〜なのは俺だ。

☆純はいいな。何度かあきらめたにもかかわらず、よく2019年のステージで歌ってくれたと思う。

☆ロイヤルをご覧になっているのか。スポーツに限らず、バレエも体型的にハンデを負った日本人が世界の舞台で活躍することは並大抵のことてはない。だからこそヨーロッパの彼らと肩を並べることの誇りのようなものをひとしお感ずる。バレエに詳しいわけではないが、私とこのサイトはとあることでヨーロッパのバレエ団を密かに深く応援し支援している。すべての道は拓郎に通じる。ああ、ステージの最後で吉田拓郎のReverence
もう一度観たい。

☆そうか、ラストアルバムのタイトルが決まったのか。泣くかもしれないのか。どんなタイトるなのか。

☆公開録音参加者をどうするかについて、「内心ほくそえんでいる」、「最後のDVD」、ああどうせ、あの悪夢の「アイ・ライク・ユー」的なものが復活するのだな。俺はもうダメだ。
☆最後のレコーディングを目に焼き付けたい。だったら100人とはいわずに。勢いで木を切ってしまった代々木公園あたり、いや全国各地でPVとかしてくれないか。

☆感度良好の話は良かったな。全体にカッコイイよなこのアルバムは。

☆Uramadoのベイサイド・バーのタイトルが昨夜の話にピッタリで、http://tylife.jp/uramado/baysidebar.html 聴きながら知人に凄いだろと思わずメールしたら、翌日、はいはいそうですねという返事が来た(爆)。すまん。確かになにが凄いんだろう。

☆石原信一は大好きなので、今日の話は面白くも、ちょっと切なかった。歌っていながら途中で「惜しい」と思う・・・って拓郎、自分はどうなんだ(爆)。しかし、吉田拓郎と瀬尾一三の前でへーきで歌を、しかも陽水を歌ってしまうのは完全にアウトだな。

☆「天国に遊びに行っている」と何度か言っていたね。悲壮感がなくて、なんかいつかまた会えるようなニュアンスがあっていいなと思った。

☆「海を泳ぐ男」のこと、また今泉正義さんのことをそんなふうに思っていると知り得たのは貴重だ。♪さようなら、さようなら〜を歌わせたことも含めてパピー星人さんGJ。
 それにしても「海を泳ぐ男」にしても「純」にしても、そんなに好きならなんで「天国の7曲」にいれなかった。私の敗因は「純」「海を泳ぐ男」にこだわったためである。と今さら言い訳してもしょうがないな。

☆石川鷹彦さんも参加できればどんなにか素敵だろう、そんな思いが行間に滲んでいた。

☆人生が変わる。それは六本木の高級ディスコだったからではないか。学生時代に新宿のニューヨーク・ニューヨークとかに通ったことがあるが、別になんも人生変わんなかったぞ。日常の中の非日常。我を忘れる瞬間。それが俺には「吉田拓郎のライブ」だったんだよ。だから今、俺たちにゃ。この世からすべてのディスコが消えるくらいの出来事なのだよ、あらためて言えば。

☆今日の学び☆
 すべては本人の才能と魅力あればこそだろうが、それでも吉田拓郎という才能を見つけて、広い世界に連れ出してくれた偉人加藤和彦、かまやつひろし、安井かずみ。でもだからといって天国には遊びに行かないで。連れても行かないでね。

2021. 6. 10

☆それでいい、それがいい☆
 「私もどれだけリクエストハガキを書いたことでしょうか」という同志のファンの方の言葉が嬉しい。いたか。一人いるということは1000人はいる。根拠はないが絶対いる。

 必ずレコードを買う、せっせとリクエストを書く、そしてヒット・チャートにキチンとやきもきする。別に自慢でも正義でも善行でもない。ただひたすら個人の楽しみだ。
 その方がいう。まだ「ラストアルバム」のチャートがありますよ。おおそうだな。どうすりゃいいのかわからないけど、買って、聴いて、どっかにリクエストして、そしてやきもきする。楽しんで楽しんでそれで、われらが青春の楽しみの打ち止めである。

2021. 6. 9

☆ラジオCMといえば☆
”もうすぐ帰るよ”のラジオCMを思い出した。

 女の子の声)「もしもし、ワタシ今駅だけどもうすぐ帰るね」
 ♪もうすぐぅ帰るよ、僕はぁ少し疲れて〜
 アナウンサー) 帰って来た拓郎節。吉田拓郎ニューシングル”もうすぐ帰るよ”

 帰って来たって、どこかに行ってたのか拓郎節。これは若気の至りでなく、今思い返しても切ないCMだ。

 手持ちのORICONの本だと、となりの町のお嬢さん、明日に向って走れ、たえこMY LOVE とヒット・チャートをそこそこ快進撃していたが、このシングルで一気に失速する。そこから長い長いシングル氷河期時代が始まるのだ。ラジオの電リクにせっせと偽造ハガキを書いて送らざるを得なかった時とも重なる。何の効果もなかったが。

 もちろん今にしてみれば売上枚数もヒットも関係ない。要は音楽そのものだ。後にLIFEのリミックスでハーモニカの音が出てきたときは、おおっそこまで作りこんであったのかと嬉しかったし、15年後にようやく観られたプロモーションビデオは貴重だし感激した。B面のVoiceもちゃんと現代に蘇生した。
 それに ”もうすぐ帰るよ”よりもっと売れなかった”流星”がこうして名曲として残っているじゃないか。
 
 余計なことだが、ファンだけれど新作レコード特にシングルは買わない派とでもいうべき人々がたくさんいるのだと肌で分かった。もちろん買ったから偉いとか、買わないからどうだこうだという資格は俺にはない。

 しかし私個人としては、発売日をジリジリと待ち焦がれて、これは売れるだろうか、ああ今回もダメだったか、シングルカットはこっちが良かったんじゃないかetc、一喜一憂、いや一悲一憂しながら氷河の上を歩いてきたファンには、知らない人だろうが、合わない人だろうが、とにかくどんな人であろうと、ムネアツの共感を感じるのだ。

2021. 6. 8

☆昔のラジオスポット☆
 「我が家」のメロディー確認のためもあってアルバム”明日に向って走れ”を最近よく聴いている。ふと発売当時のラジオCMを思い出した。

 ♪流れる雲を追いかけながら〜本当のことを話してみたい
  楽な気分にしてくれる12曲、吉田拓郎ニューアルバム「明日に向って走れ」発売中。

 超名盤”今はまだ人生を語らず”の次のアルバムで、しかもフォーライフレコード設立第1弾だぜ。なーにが「楽な気分」だよ、楽なLP作ってんじゃないよ!と中学生の俺は吠えていた。このあたりは富澤一誠と同じだ。こうして今になってみると、身を削るような魂の名盤を思う時、自分の無明がちょっと申し訳なくなる。しかしだからといってお詫びするのも違うな。
 若気の至りと老境の美化との間を行ったり来たりさすらっても。

2021. 6. 7

☆永遠の未完☆
 “アゲイン”て歌はちょっと異色な気がしてさ。普通の拓郎の歌は、気持ちや情景をガッツリと描き出してゆくけれど、”アゲイン”は、なんかスカスカだ。どんなことでも聴かせてとスカスカの器を差し出してくる。あなたの思うことや心の中にある情景をこの中に入れてみて。ホラいいでしょう、きれいでしょう、僕らは今も自由のままなんだよ、と語りかけてくれるような気がする。脳内走馬灯作成キットのような歌。>意味わかんねぇよ。

2021. 6. 6

☆久々の客席☆
 老母のワクチン接種に付き添った。会場の市民公会堂はご高齢の接種者で賑わっており、医療関係・設営者側も総力戦という空気を感じた。

 公会堂の客席でしばらく待機してなくてはならない。一人で来ている方、ご夫婦の方、家族が付き添っている方、さまざまだ。高齢者だけに家族付添人も俺を含めてそれなりの高齢だ。そんな客席に座っていると、あれ、なんか全体にいつも座っている客席の景色と同じじゃないか(爆)。客層がほぼ同じ年齢感だ。そのせいかしみじみとした気分になった。
 i-Podで”From T”を聴いていて、”アゲイン”差し掛かるとメチャメチャしみた。人生の諸先輩方には超失礼かもしれないが映画のようだった。

 若かったころの事をきかせて
 どんな事でも覚えてるなら
 思い出たちはすげなく消える
 ・・・・・・・・
 時がやさしく切なく流れ
 そっとこのまま振り返るなら
 僕等は今も自由のままだ

 拓郎はもう接種されたのだろうか。打たれる方、打たれない方、ともかくお大事になさってください。早く集団免疫とやらが達成できますように。医療、運営周りの方々も大変でしょうがお願いします。
 俺の接種は未定でたぶん遥か遠くだが、とにかく母の一回目は終わったので、あともう一回だ。アゲ〜ン、アゲ〜ン、もう一度ぉぉ。

2021. 6. 5

☆古いメロディー☆
 20歳の頃、付き合っていた彼女に何枚か拓郎のアルバムを聴かせた。その後で何が一番好きかと尋ねたら意外にも彼女は"我が家"という答えだった。僕も大好きな曲だよと答えたら、その場で歌ってみてと言われたのだった。もちろんその場でアカペラで歌った。

 ♪風は緑の中で
  夢を誘うがごとく
  川の流れはゆるぅく

 「え、違うよ」と彼女はハッキリ言った。「そんなメロディーじゃないよ」…歌いながら俺もこんなメロディーじゃないとわかっていた。しかし何回歌い直しても違った。ホラ、坂崎幸之助が音痴が歌う"五番街のマリー"というネタがあるけど、あれそのままで音程がしっかり外れていた。
 「ほんとに好きな曲なの?」とまで言われてえらく悲しかった。ほんとに音程が取れない。そりゃ俺は音程よくないけどさ。結局彼女とはそれが理由ではないけど別れた。
 これを読んている方、今、歌ってみて。この出だしのメロディーはもちろん音感のある人は歌えるのだろうが、でも難しくないかい? 今歌ってみても相当に危うい。でも本当に好きな曲なのだよ。
 

2021. 6. 4

☆男達の詩☆
 リズム&ドラムマガジン4月号の島村英二インタビューで今でも尊敬するドラマーとしてスティーブ・ガッドのことが語られる。これを読んで40年前の拓郎のインタビューにスリップした。ギターブック1982年8月号別冊。王様達のハイキング絶頂期の頃だ。
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 いいね。ミュージシャンのことちゃんとわかっているし、そういうところを大切に思ってくれている。たまらないんだろうな。拓郎さんそういうあなたがいいな。ベースはチー坊・武部秀明さんね。

2021. 6. 3

☆悲しい気持ちで☆
 オリンピックやコロナの件で陰に隠れがちだけれど、愛知の署名偽造の事件はかなりショックだ。
 35万人分もの署名を偽造して、地方自治体とはいえ政権転覆を謀る、もうやってることが「死ね死ね団」である。死ね死ね団…、ああ、もうわかってくださる方だけでいい。とにかく目的に理があるかどうか、そんなこと以前にアウトだ。実に震撼させられる。

 こんな事とんでもねぇぞと怒りながら、かつて拓郎のラジオのエピキュラスの公開放送のためにものすげーたくさんの名前使って応募ハガキを書いたり、文化放送でやってた「小川哲哉の決定!全日本歌謡選抜」で電リクの順位を上げるために「舞姫」「流星」「春を待つ手紙」あたりで偽造リクエストを書きまくった過去を思い出し、なんか後ろ暗い。人に何が言える、黙ってうつむけよ!、と拓郎が脳内で歌っている。

 しかし、いろいろあってもそれはそれ、とにかく発覚した途端、みんなが知らぬ存ぜぬになって徹底究明もなされそうにない。そんなことも含めて心の底から恐ろしい事件だとつくづく俺は思う。用心しろよ、用心しろよ、そのうち君も狙われる。

2021. 6. 2

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☆リズム&ドラム・マガジン 2021年4月号☆
 バックナンバーだけどネットですぐに買えた。島村英二インタビュー。読み応えアリ。ドラマー島村英二の大河ドラマのような歴史がわかる。歴史をちゃんと理解しているこのインタビュアーがまたいい。拓郎でいえば昔の雑誌「すばる」の重松清のインタビューみたいに押せば命の泉湧く浪越なツボを押しまくる。

 あらためてご活躍の超絶な幅広さに唸る。あれもこれもそれもどれも、みんな島ちゃんだったのか。私たちの心臓の鼓動と心拍数は、島ちゃんのビートで出来ていると言っても過言ではない。

 この手のインタビューで拓郎のことが出てくるかな〜と期待して読んでいたら、全く出てこないか、せいぜい1行くらいで簡単にすまされていることってよくありませんか? そこは島村英二、ちゃんとしっかり出てきます。
 「彼は1つのアルバムにいろんな景色を見ていて、その1つ1つを凄く丁寧に作っていくんですよ。それが最終的に”拓郎の音楽”として1枚のアルバムにまとまっているんだよね。」
 …嬉しくなる言葉、多数あり。

 嬉しくなって今日は朝から大瀧詠一の「快盗ルビイ」を聴いている>そっちかよ!

2021. 6. 1

☆吉田拓郎が二度と歌いたくない歌☆
 昨夜拓郎ファンの方とメールでの会話で、その方が考えた「吉田拓郎が二度と歌いたくない歌」を聴いて思わず膝を叩いた。それだ!その方の理由もとても説得的で、拓郎が笑いながら正解発表する様子が目に浮かぶようだった。お見事と言いたくなる。そんなセンスを感じた。それに比べて俺の応募した回答はあまりにチンプな、チンプジャーナルだったな。また負け戦だったな…と「七人の侍」の志村喬になりきって呟いた(爆)。まだ番組に送っていないとのことだけど、是非応募すべきですよ。
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2021. 5. 31

☆愛と平和の祭典☆
 私の数少ない拓郎仲間の方々から元気と気づきをいただいた。ありがとう。それをきっかけにLive73yearsの特集号の会報を引っ張り出して久々に眺めてみる。全国から集まった参加者の方々の言葉と笑顔の写真を観てガラにもなくしみじみとする。ああ良かったなぁ。
 今はオリンピックが喫緊の大問題だが、私達もコロナのおかげで、それぞれの生涯をかけた大切な祭典を失ったのだ。もともと比べるものではないが、向こうがどんなに世界と歴史とついでに経済を背負おうとも、こっちの私達の喪失が小さかったなどとは言わせないぜ。
 2019年にあのとき会場で幸せに笑っていた人は今も笑っているんです…というオダギリジョーの法則をあてはめてみる。うう、月曜から独酌で深酒だ。

2021. 5. 30

☆…流れてゆく☆

 父親のことは2曲も歌にしたけれど、母親のことは…と拓郎は言っていた。でも1曲だけちょっとあるよね。

  おふくろが死んだ 
  今日は朝から突然の嵐
  今日より悲しかった1日というのは
  確かにあったはず
           (「流れ流され」)

 あまりに深くて広すぎる行間。なので深堀にしようにもできない。この行間が今度いよいよ歌になるのか。

 “流れ流され”地味だけれど侮れない。>侮っていたのかよ。このテンポが実に心地よい。テーマ的にはたぶんドラマチックな”車を降りた瞬間から”の方に昇華してしまった感じがしなくもないが、この曲はこの曲で必要だと思う。”気持ちの良すぎる居心地悪さにこだわりつづけてる”…いいじゃないか。

 “流れ流され”と”車を降りた瞬間から”〜悲喜こもごも押し流してゆく急流のようなテンポの2曲を聴いていると、流しそうめんを思い出す。そうだ、人生は流しそうめんみたいなものだとの思わないか。早すぎてなかなかうまくすくえなかったり、上流と下流のかけひきとか(爆)。"見つめ直したり考えこんだり"している時間がなかなかないのだ。

2021. 5. 29

☆王様たちの夜とハイキング☆
 フォーライフレコードの設立は中学生にも大事件だった。フォーライフの第一弾のアルバム「ライブ☆泉谷」の発売は拓郎ファンの俺達にも忘れられない出来事だった。
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拓郎「”ライブ泉谷”星印。遠藤賢司のデザインです。ジャケットは見開きになっていましてそれを開けるとそこになんとああ怖い(笑)」
泉谷「なんだよ、テメー(笑)」
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 こんな和気あいあいのラジオのカセット録音を昼休みに教室で聴きながら俺達もみんなで笑っていた。

 こういう昔の何でもない話をするのはなんとなく気が引けるところもある。特に吉田さんは昔の話をするファンが嫌いそうだからかもしれない。

 ところで最近、気に入ってるドラマ「大豆田とわ子と三人の元夫」で、子どもの頃からの親友を突然亡くした主人公にオダギリ・ジョーがこんな趣旨のことを語りかける。

 “幼馴染ということは10歳の彼女も20歳の彼女も30歳の彼女も知ってるわけですね。時間は現在だけじゃないし。過ぎ去って消えてしまうものでもなく、いろんな場所みたいなところにあるものだと思うんです。10歳の彼女が笑っていたとしたらそれは今も笑っているし、5歳の時に手をつないでいたとしたら今もつないでいるんです。今からだって思いを感じたり伝えることはできるんです。だから人にはやり残したことなんかないんです。
 大切なルールは、死んだ人をかわいそうと思わない、生きている人は幸せに生きようとすることだけです。”

 フォーライフもその後も幸せとはいえないいろんなことがあったし、とうに昔のお話だ。けれど拓郎と泉谷が”ライブ泉谷”の発売で盛り上がっていて、それを聴いて俺達も大笑いしていた幸せな空気も消えてしまった昔ではなく、どこかの場所で今も拓郎も泉谷も俺達も笑ってるんだよと思うと…なんかとても気が楽だ。いろんなシーンすべてがそうだ。過ぎて消えてしまったのではなく、あちこちの場所に散らばっただけで、どこかで今も一緒に生きている。
 ジジババになるといろんな場所が増えて増えて大変だが、そこがまぁ年寄りの特権てやつで楽しみが多いのかと。そらまあツライことも多いけど。楽しんでいまいりましょうと思うのだった。

2021. 5. 28

☆夢を見させてくれたんだ☆
 “となりの町のお嬢さん”を聴くと中学2年の教室にトリップする。4組の教室だ。>知らねーよ。期待のフォーライフレコード第一弾シングルをみんなで大騒ぎして迎えたものだ。またかなりヒットしたから気分も良かったのよ。
 A面が”となりの町のお嬢さん”、B面が”流れる”というこの陽と陰、表と裏、口語体と文語体、おバカとインテリ(爆) というまさに対極のカップリング。対極だが違和感などひとつも感じない。この対極をどちらも懐深く包み込んで吉田拓郎はあったのだ。

 それと当時は考えなかったけれどクレジットに「編曲 松任谷正隆」と明記されたのはこれが初めてだよね。編曲のクレジット自体、拓郎のレコードでは初めてじゃない? 松任谷正隆に対する敬意、のみならずすべての編曲家に対する敬意のあらわれであろうと思われる。拓郎のそういうところっていい。たぶんすごくいい。

2021. 5. 27

☆月に届くほどもっと愛されたいなら☆
月食&スーパームーンは見えましたか。私は空を見上げて「ダメだ、雲が厚くてネビュラ、いや月が見えない」と蒲生譲二のように残念がった。>誰だよ。

 月の歌グランプリはこの歌を忘れていた

  長い髪は夜露に濡れて
  蒼い月が
  可愛い人のエクボの上でゆれてるよ

 …これもいい。というかこっちの方がいい。ということでグランプリは東京都在住の吉田拓郎さんの”となりの町のお嬢さん”とさせていただきます。松本隆さん残念でした。>何様だ、失礼なヤツだよな。
 "となりの町のお嬢さん"にあやかって泉谷しげるが"となりの町のおじさん"っていう本を出版した記憶があるのだが、どこにも記録がない。記憶違いか、それともなかったことになっているのか。どっちでもいいといえばいいのだが。

2021. 5. 26

☆ああそれでも月は輝いて☆
 スーパームーンと皆既月食が同時に起こるって凄いな。つま恋と篠島を同時にやるくらい凄いんじゃねぇか>いみふ。「月」ということで今日は移動時間にi-Podで勝手に月の歌グランプリ吉田編を開催していた。見事グランプリは

   月の灯りを絵筆でといて
   君は薄絹ひもといてゆく

 神戸市在住の松本隆さん"まるで大理石のように"に決定。う〜んウマいなぁ。男の心を操る糸をそう生まれつき知ってるんだな。風街帝国恐るべし。年々好きになってゆくこの歌である。
 ……今夜月は観られるでしょうか。

2021. 5. 25

☆浜田省吾といえば☆
 「どんな名優も子役と動物にはかなわない」という諺はそのとおりかもしれないが、それでも浜田省吾の"イメージの詩"のカバーの素晴らしさと心意気を忘れないでいようと思った。たぶん終生聴くのはこっちだ。愛奴でバックをしていた時"イメージの詩"を叩きながらステージで寝てしまったという本人談話も忘れてはならないが(爆)

2021. 5. 24

☆初夏の頃☆
 ボブ・ディランのドキュメンタリー“No Direction Home”で、ザ・バンドを抜擢した理由は、当時ライブでエレキを弾くディランに過激なフォークファンから不穏な”帰れコール”を浴びせていたので、屈強なボディガードとしてのバンドが必要だったということだった。
 愛奴が拓郎のバックバンドについてツアーをしているとき、鹿児島でさる筋の怖い人たちと大乱闘になった「鹿児島の夜」事件というのがあったと浜田省吾が語っていた。ものすげー大立ち回りだったみたいだ。拓郎を守って乱闘した愛奴。やはりもうそれだけで日本のザ・バンドなのだ。

 えーと曲です>誰のつもりだよ。今日は浜田省吾=愛奴で”初夏の頃”。愛奴と浜省でちょっと詞が違ってる。ああ確か去年は来年の初夏の頃を楽しみにしていたよな・…って詮無いことを思う。♪昨日までのことがまるで夢のように遠い…いい歌だな。
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2021. 5. 23

☆合宿の詩☆
 「コントが始まる」は、高校の同級生三人組のコント芸人が10年間売れずにとうとう解散・引退を考えざるを得なくなるというドラマだ。男三人の合宿というと中村雅俊の「俺たちの旅」が浮かぶが、年齢的にもどん詰まりでもっと悲壮な状況だ。
 俺もかつて、資格取得を目指す仲間三人とアパートの一室で悲惨な合宿生活をしていたことがあった。三人とも試験に落ち続けたまま20代が終わりそうで、いつあきらめるか悩んでいた。世間はバブルで周囲は華やかに浮き立つ中、近所のスーパーの見切品の弁当を食べながら三人で毎日‘’過去問‘’の山をひたすら解いていた。だからこのドラマは身につまされるったらありゃしない。

 そして男三人の合宿といえば伝説の吉田拓郎とミニバンドの合宿である(「新譜ジャーナル よしだ・たくろうの世界」、「誰も知らなかったよしだ拓郎」)。あの堀之内ハウジングでの三人の合宿、アジの開きとプロレスとベッドの取り合いそしてそこにいつもある音楽たち、その風景には憧れたものだ。最近の拓郎の述懐では、もうあきらめて東京を引き揚げようかという時期だったともいう。拓郎なりにどんづまりだったんだな。しかし俺は悲惨な合宿で辛くなるとこの拓郎とミニバンドの合宿を思い出しては自分を吉田拓郎に重ねて元気づけていた(爆)。…そして今はドラマを観ながら当時の自分を菅田将暉に重ね合わせて、もう彼のことが他人のような気がしない(爆爆)。

 とはいえしょせんは一般Pだ。俺たちの進路は別れたものの三人とも普通のおじさんとしてとして似たり寄ったりで生きてきた。当時の合宿場所は、田町駅の近くの安アパートだったが、時々贅沢して三人で近所の安くて量の多いラーメン屋に行くのだけが楽しみだった。無口なおじさんとやさしいおかみさんがやっているカウンターだけの小さなラーメン屋だった。ずっと後になって、そのラーメン屋を都内のあちこちで見かけるようになって驚いた。俺達が通っていたのは今や知る人ぞ知る「ラーメン二郎」の創業店だったのね。ということで俺たちの合宿関係で一番出世したのはラーメン屋のおじさんだった。すげーな、おやじさん。”小豚ダブル野菜辛めニンニク”。呪文のように唱えてみる。少し泣きたくなる、ちょっと切なくなる。…いや違うか、みんな夢追う風になれ、だ。

2021. 5. 22

☆エヴァンゲリオンの夢U☆
 吉田拓郎はエヴァンゲリオンの序・破・Qそしてシンをどう観るのだろうか。いや断じて上から目線で言ってるんじゃない。オイラは難解すぎてさっぱりわからなくて悲しかったからだ。人類創生までさかのぼるアダムスとリリス、起こるたびに世界が破滅してゆくインパクト、ロンギヌスの槍とカシウスの槍、ああわからん。拓郎はどう観るのか。
 意外にスパッと理解して明快に解説してくれたりしないか。例えば、四体のアダムスがビートルズでリリスがボブ・ディラン、いや四体のアダムスがはっぴいえんどで、リリスが吉田拓郎、セカンドインパクトが中津川で、サードインパクトがつま恋、二本の槍はJ45とテレキャスターだとか。>テキトーなこと言ってんじゃねーよ。すまん。

 おじさにんは今はドラマ「コントが始まる」が胸にしみる。拓郎に顔が似てるあの女の娘が主題歌を歌って、拓郎のマークUを歌ったあの青年が主演だ。共演の神木隆之介、仲野太賀もいい。桐島で知って以来、仲野は作品ごとにどんどん良くなるな。
 ドラマを観ながら大昔の自分のどんづまりの男三人の悲壮な合宿生活を思い出す。あれは俺も28、行きどまりの路地裏で。

2021. 5. 21

☆男の交差点☆
 森山良子さんが、田村正和さんの追悼で「男たちによろしく」の台本の写真をUPされていた。気持ちがちょっと重なったみたいで泣けた。このドラマで共演した泉谷しげるがやはり追悼インタビューで、ロケ弁が不味いと文句を言ってたら、正和さんから「出されたものをありがたく黙って食べろ」と怒られて怖かったと語っていた。もっと怒られりゃあ良かったのに(爆)。

 華やかなスターのイメージとは裏腹に、家にいるのが好きで、家で奥さんと話す時間が何よりたいせつだというご本人の生前の談話を聴くと…なんか浮かぶよね。

2021. 5. 20

☆すべては流れる時にのり☆
 1983年の今日は武道館で、初めて”マラソン”を聴いた日。一曲目が”イメージの詩”だった日。三曲目で”アジアの片隅で”を唄ってしまった日、拓郎が上半身裸になった日。いろいろあるが、初めて聴いた新曲”今夜も君をこの胸に”がラストナンバー=フィナーレになった、そういう日でもある。
 たゆとうような♪今夜も君をこの胸に〜のリフレイン。ライブの最後は、アジアや落陽など熱狂=燃焼系だと思い込んでいたので、なんだ、この軟弱な最後はと怒ったものだ。それから36年後、2019年のラストライブの”今夜も君をこの胸に”の出色のフィナーレに涙ぐんでいた。ラブソングでしめくくられるライブ、すんばらしいじゃないか。昔さんざん悪口を言った歌なのに、この歌も拓郎も俺に仕返しも復讐もせずにひたすらやさしく包んでくれた。ああこのリフレインをずっと聴いていたいと思ったものだ。大人になるまでずいぶん時間がかかったということで許しとくれ。

 1983年といえば、いま観たい田村正和のドラマはこの年の夏の「夏に恋する女たち」だ。あれは憧れたな。

2021. 5. 19

☆男たちによろしく☆

田村正和さんご逝去。悲しい。

あの美しい立ち姿。何の力も入れずにただ立っているだけ、男らしさとか鍛えるとかいう作為とは全く無縁の自然なたたずまいがそれだけで美しかった。深い行間があった。ああいう美しい自然な立ち姿ができるのは田村正和と吉田拓郎だけだと私は信じている。二人は似ているし通底していると私も思う。たぶん森下愛子さんならおわかりだろう。生涯ラブストーリーを演じたところと生涯ラブソングを歌わんとするところも似ている。
 どのドラマ・映画が良かったかとことん話したい気もするが、それはまたいつかどこかで。

 安らかにおやすみください。阪妻さんも高廣さんもきっとお待ちかねでしょう。

 とにかくみなさんすべからくみなさんお元気でいてください。
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2021. 5. 18

☆あなたも狼に☆
 「狼のブルース」はそんなに好きな曲じゃないけれど、79年篠島のビデオで「朝までやるぜ」に続くこのバージョンは別だ。怒涛のスピード感、疾走感、たまんねぇ。あらゆる狼のブルースが一斉にドラッグレースをしたらコレが一番速いのではないかと思う。「ローリング30」所収の原曲は久々に聴いたけど意外とゆっくりだったね。

2021. 5. 17

☆6月になれば夜空の星達を肩よせて見上げよう☆
 ずいぶん久しぶりに思い出した一節。
"でも、それ以上に大切なのは、それがほんものの星かどうかより、たったいま誰かが自分のとなりにいて、自分とおなじものを見て喜んでいると、こころから信じられることだ。そんな相手が、この世にいてくれるってことだよ"(いしいしんじ著「プラネタリウムのふたご」)
 んーまぁそういうことだ。よくわかんないけどそういことなのだ。切羽詰まるのはやめようと思うのだった。

2021. 5. 16

☆身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ☆
 俺も明石家さんまには心の底から感謝している。忘れもしないLOVE2の第3回。アウェーに置かれたお地蔵様状態の拓郎だったが、さんまがまだ何も知らない少年だったKinkiに「この人はな、俺にとってのジャニーさんや」(笑)と宣揚してくれた時は嬉しかった。お釈迦様が垂らしてくれた蜘蛛の糸のようだった。それから、さんまはいつもことあるごとに、例えばジミー大西に説教するときまで「イメージの詩」の素晴らしさを語ってくれた。特に「さん拓」で木村拓哉と二人でクルーズ船から海を眺めながら”古い船には〜”を口ずさんだシーンは忘れられない。今回の映画「漁港の肉子さん」もこんな豪華な宴にお招きいただいたうえに驚きのカバーに結実してくださったこともこの胸いっぱいのありがとうを言いたい。

 しかしそれとは別に今回の放送での吉田拓郎の涙の超反応にびっくらこいたことも確かだ。すまん。簡単にいうと俺はファンとしての心が濁っているのかもしれん。また昨日のとおり拓郎には拓郎にしか見えない地平があるのやもしれない。わからん。

 わからんとあれこれ迷ううちにこれと似たような気持ちをずいぶん昔に味わったことがあったことを思い出した。原田真二がデビューしたときだ。フォーライフの社長だった拓郎の大絶賛はもの凄かった。「ヤツは天才だ」「これで俺の時代は終わったと確信した」「彼は俺を超えるだろう」「ヤツが輝くなら俺は踏みにじられてもいい」。確かに原田真二の才能とかルックスとか楽曲とかが一流だったことは認める。しかし拓郎ファンとしてはおいおいおいそこまで言っちまうかと複雑だった。そんな拓郎の超絶賛の嵐を経験した時のあの気持ちと似ている。

 あの時俺はどうしたろうか。当時の高校生の頃の恥ずかしい日記を見返すと「吉田拓郎、捨て身の大絶賛」と書いてあった。捨て身。昔から拓郎は自分を立てるためや自分の小利益のために何かに感謝したり何かを絶賛するようなポーズはとらない人だったと思う。とにかく何か感謝するとき、何かを讃える時は、あますところなくありったけ全力だった。そうだ捨て身だ。今回もさんまはともかく武部のことは別にそこまでいいだろ(爆)と思うが、感謝するときは一滴も残さず惜しみなく注ぎ込む人なのである。
 そこが吉田拓郎の最高に美しいところであり、また反面で歯がゆいところでもあった。そしてそここそがたまらない魅力の核心でもあるのだ。

 ということで惜しみない捨て身の感謝ということが俺だけの今日の結論。以上。

2021. 5. 15

吉田拓郎のオールナイトニッポンゴールド 第14回  2021.5.14
☆☆☆あらすじ☆☆☆☆☆☆
 吉田拓郎のオールナイトニッポンゴールド
■テーマ曲
 こんばんは吉田拓郎です。週替わりの金曜日、吉田拓郎が担当します。今夜はオープニングから言葉が見つからない。感動、感激、興奮・・・それで涙をこらえられるかどうか。こういう放送をお送りできる喜び。今日のこの日が来た。70歳を半ばも超えてこういう瞬間がくるとは。音楽に託し続けてきた青春の夢が本当に実現したんだ。これで良かったんだな、そういう瞬間が来ちゃった。この日を待っていたといっても言い過ぎではない。今夜はオープニングから2曲続けてお聴きいただきたい。こんな放送、深夜放送を始めて50年近くなるけれどこんな番組のっけからやったことない。
ニッポン放送と冨山くんに感謝(拍手)
 まずは”イメージの詩”1970年盤 吉田拓郎23歳、続けて”イメージの詩”2021年盤、稲垣来泉10歳。

M-1 イメージの詩  吉田拓郎

M-2 イメージの詩  稲垣来泉

 この曲はオリジナルのキーがF。(実演)。Fで始まる。50年後に少女の歌ったキーがF。こういう偶然があるのか。奇跡だ。まさに奇跡のようなレコーディング。
 明石家さんまというプロデューサーの企画。拍手を送るしかない。女性に歌わせてみたいという企画からして想像もしていなかった。
 昔、浜田省吾、浜省が”イメージの詩”をカバーして僕もレコーディングに参加したことがあったが、この歌のボーカルは男子だと思っていた。だから女性が歌うというこのアイデアには頭が下がった。いいね、さんまさん。最初から女性に歌わせたいということで問題ないかと問い合わせがあって、構わないよと答えた。また歌詞の言葉使いを女性用に変えるかもしれないがという依頼にも、構わないと答えた。しかしまさか10歳の女性と思ってなかった。
 くるみちゃん素晴らしいな。大ファンになっちゃったな(笑)。最初の一行でジーンときて、あの歌はどんどん進んでゆくから、どんどんイメージを発してくれる世界にグイグイと引き込まれていた。気が付くと、ほっぺたは涙がいっぱい。もう拭くのが面倒くさいくらい。しばらくは椅子から立てない。

 佳代に言いたいけど言葉が出せなくていたら、佳代が「凄いね、素敵だね、感動だね」と言ってくれてやっと我に返った。自分をほめてやりたい。シン・イメージの詩だ。  くるみちゃん素晴らしいな。もう言葉が出ない。見事なボーカルでオリジナルボーカルをはるかに超えて言葉を失っている。明石家さんまさんの抜擢した感覚にも拍手だ。

 アレンジをした武部聡志。お互い知らない同志だったがLOVE2からなんでも話し合える仲になった。武部は俺の音楽わかっているな。いいアレンジだ。僕のイメージの詩は四拍子。今のは三拍子。ちょっとヒッピーな感じ。だけど三拍子なんだ。武部がそうアレンジしたのでボーカルのニュアンスが変化した。武部グッドアイデア。凄い企画にありがとうと言いたい。冨山君CMに行きましょう(笑)

■CM
<まだ61歳ですが遺言を書いていて医療従事者なので覚悟しているところもある、よくある財産どうするというものではなく、いろいろあった人生で、夫や子どもへの感謝、吉田拓郎さんの「ありがとう」を冒頭に書かせてもらっている、まさにぴったりの詞。これを読んで自分が幸せだったことを思い出してほしいという投書>
 お医者さん看護師さん頑張ってください。僕は常に前向きに人生を観ようと考えているので最後を考えることは悲観的ではない。愛だよ。前向きな愛情表現だと思う。きっとご家族に伝わるでしょう。

<名文句を募集する高橋の手帳大賞、拓郎さんの「音楽は心に入り込んで悪さをする」というのを出そうとしたら著名人のはダメということ、孫と神社に行く途中でコートから出ているトレーナーの袖を直していたら、お洋服もお外に出たいと言ったのを送った、コロナでみんな外に出たいという気持ちがあるのかと思ったという投書>
 心を洗われるな。僕も昔は無垢な子どもだったのに困ったな。

<池江選手の見事な復活に涙したという投書>
 僕も観ていたけど本当に見事だった。拍手を送りたい。選考会で表に出なかったエピソード、どうしても一着になれない三着の選手の現実のドキュメントを観た。三着も素晴らしい。また専属契約が切れるので、子どもプールを貸してもらって18メートルしかないので、僕なら必死だけど、彼らには練習としては不十分。それでも練習を積んだ。ある女子選手が「オリンピックは死を覚悟しなくてはならないほどのことなのか」というコロナ禍の不安の言葉にも多くの選手が共感する。陰に隠れて実にたくさんのドラマがあり、心から拍手したい。

<ラストアルバムに剛くんのエンドリケリが参加で嬉しい、ラジオで剛くんが涙ぐんでいた、ファンは心から感謝するという投書>
Kinkiの母たちからメールくるね(笑)。ラジオは僕も聴いた。あいつは押さえられなくなっちゃったね。昔からはしゃいだりしない男子だから、一般にはわかりにくいタイプかもしれない。でも剛とは通じている感が最初からあって、お互いに言わなくてもOKなところがあった。 光一とはお互いに傷つけあうことを言い合う関係。平気でお互いに悪口言い合う。ほめたり、怒ったり、からかったり。不思議な関係。親友という感覚。  歳とかキャリアは関係ない。
光一くんは「拓郎ハンはいつでも目線合わせてくれた」と言ってくれてそういう意識はないけど彼らが僕を受け入れてくれた。年齢とかキャリアとかを超えてそういう関係があるんだな。

<エヴァンゲリオンにラジオを聴いてみて行こうと思ったら子どもたちからまずは序・破・Qを観なさいと引き止められて序を観てカッチョエエという投書>
 今日はイメージの詩に始まって子供たちの純真無垢な言い分に感動しているな。僕の曲がアニメによく使われていることに気が付いた。アニメはよくわからなかった。宮崎駿さんの「千と千尋の神隠し」あたりから見始めてすげー面白いと知った。それからアニメに使われることを嬉しくなってきているな。子どもたちに使ってくれているなと思うといいな。ウチもエイベックスから「序・破・Q」、三つ揃えてもらって入門する。

■CM
 先月、アルバムの中で、この曲は立ち位置が、なんというか遊び過ぎていてバランス悪い三曲を紹介した。
 ラストアルバムのためにいろんな昔のアルバムを聴き流してとっても重大な発見をした。理屈ぬきで、この曲好きじゃないんだというのがすげーあるんだな。今の年齢になって歌いたくない、絶対歌いたくない、大っ嫌いになった曲がある。だけど、この曲をかつてはステージで結構歌っているわけ。多くのみなさんも感動した。だけどこの曲が嫌でしょうがない。佳代さんに、君の直感で1曲だけ吉田拓郎が歌いたくない曲があるんだけど直感でと尋ねたら、即決で言った。あれでしょ? 「うわーなんでわかったんだ」。30年以上の上下関係(笑) 佳代ぉ。わかってんだな。この曲でしょと言われた。

 そこでみなさん ライブ「18時開演」でオープニングで歌った「加川良の手紙」このウクレレ。ハワイの超有名なカマカでKinkiの二人とロケしたとき買った。珍しい六弦ウクレレ。普通はソ・ド・ミ・ラなんだけどドが二本オクターブで、ラが二本で六弦になっている。凄く響きがいい。今、夕飯の支度をしている音が(笑)。
このウクレレをプレゼントしようと、マンションの物置見つけて思った。さぁ、今吉田拓郎が歌いたくないと思っている一曲。ステージで歌っている歌。エレックではなくアルバム「元気です」以降今までの曲。当てた方に差し上げる。8月に発表しようかな。

 パイナップル・プリンセス。田代みどりが好きで、初めて買ったレコード。母が病弱な僕に買ってくれたのがウクレレだった。

M-3 パイナップル・プリンセス 田代みどり

■CM
■11時
 ラスト・アルバムの計画は進んでいるけど、まだ動ける状態じゃない。撮影隊、  録音隊の動きもあわなきゃならないし、東京だけでなく、あちこち行きたい、公開でレコーディング様子も見ていただきたいし、今はまだなかなかやりにくい。

 どうしても入れたい曲が一曲ある。母=motherを歌っておきたい。父親の歌は2度までも作ったけれど、ちっとも父に納得していない。最近父の業績の本が出されたけれど、だからといって僕の心は変わらない。あの父は家庭人としては失格だったと思う。妻、家族をもっと愛して欲しかった。それよりも一人で自由でいたいなら家族なんか作るなと言いたい。
 今日僕がここにいて歌っていること、子どもが僕の歌を歌ってくれたこと、アニメとかで使われたことの感動・感激、胸が熱くなるその気持ちのもとは母の理解だったと思いたい。 母への熱い気持ちをどういうふうにクールダウンして作れるかというのが大テーマだ。父の歌を二度まで作って納得できなかった。その思いの完成形の歌を作りたい。家族に対する思いはひとりひとりによって違うだろう。僕は父には母にはこうあってほしいという思いがあったので、父には怒りというか納得できないところがある。母を歌う時、いわゆる「おふくろさん」みたいな歌は作らない。吉田拓郎ファンならわかるでしょ。ひとつのヒントとして母を歌っている音楽で「Hey Mama」という唄がある。ラップなんだけど好きだな。こういうのをやりたいな、母に送りたいな。

M-4   Hey Mama   カニエ・ウエスト

 アルバムは、14〜5曲になる予定。5〜6曲出来ている。デモテープを作ったりしてあとはアレンジャーに渡そうと思っている。
これまでのアルバム作り過程のプロセスで忘れられないものがいくつかある。そのひとつが「ローリング30」。


M-5 ローリング30   吉田拓郎

 松本隆と組んでアルバム二枚組作ろうということで、20曲くらいいるだろうから、それを一気にやろうという企画を立てた。目の前で詞を書いて、横で僕が待ってるから曲をつけてそれをすぐにレコーディングする。君は詞に、僕はメロディーに専念する。  
冨士のロックウェルスタジオで、素敵なリゾートホテルのプールサイドの並んだ部屋で 松本隆が詞を書いたら隣で俺がすぐ曲をつけてカセットに入れてすぐレコーディングする。インスタントな感覚だけど今聴いてもいいなぁ、不滅のアルバム。よく作ったなと思う。直しも殆どしなかった。それが良かったのかな。大学の受験勉強の一夜漬けみたい。それが良かったんだな。  
「爪」なんて石川鷹彦が考えたフレーズで徳武とツイン・ギターを弾いている

M-6 爪   吉田拓郎

■CM
 サイパンでジャケット写真を撮影した。カメラマンはタムジンではなくて大川装一郎、常富、松本隆が同行した。海の中でサングラスして空を見上げているジャケットはそういうころで撮ったんだ。
 撮影中、二人組の女の子が話しかけてきた。初めてなんだけれど、夜とかレストランとかありますか?ホテルから10分くらいでビッグウエーブというイタリアンとかの店がありますよ、たいして美味しくないけど。
彼女は吉田拓郎のことは知らなかったみたいだ。普通のおじさんと思ってたみたいだ。わかってもらえなかった。気が付かないので、大川さんが・・・ナンパだな。実はここにいる人は有名なカメラマンなんだ、君たち先生に写真撮ってもらわないかと話し込んだ。お願いしまーすということで撮影して、外で撮るのもいいけど、部屋もいいですね先生とか(笑)今だったら捕まっちゃう。
なんだろうな。危ないけど松本隆と楽しかったという記憶しかない。東京に戻ってきてからペニーレインで集って飲みながら電話して飲んだりした。
 ハートブレイクマンション。セリフを入れたことなんてないもんね。

M-7  ハートブレイクマンション 吉田拓郎

 松本隆の言葉のリズム感を感じた。岡本おさみさんのリズム感のない詞にどうやってメロディーをつけるか苦しんでいた。松本隆は、彼の持つ言葉が躍っているのがわかる。だからすぐ曲ができてしまう。
 次の歌は、最近歌えなくなった。年取ってこういう世界が恥ずかしくなった。狼のブルース。(実演)あいつのマシンは〜暴走の歌。スリーコードのロックで作っちゃったからステージで演奏していてこんな楽しい気持ちいいのはない。

 松本隆とはその後いろんなレコーディングで会うと、このころの思い出話をする  

M-8 狼のブルース   吉田拓郎

■CM

 映画には忘れられない名セリフがある。ハリウッド映画とか大好きだった。ずっと昔  ウエスタンとかジョン・ウエインとか、「シェーン」のアラン・ラッド流れ者のガンマンと少年とその母と友情というかそれ以上の思いを描く映画。最後「シェーン、カムバック」という叫びとともに、僕の大好きなビクター・ヤングの「遥かなる山の呼び声」
が流れる。涙が止まらなかった。最近では、ウィンストン・チャーチルの映画。有名な宰相の伝記。奥さんがチャーチルにいう「人間は欠点があるから強くなれるのよ」というセリフがある。いいですね。素晴らしいことを言ってくれる。また「迷いがあるから賢くなれる」。そうだね。奥さんいいこというね。名セリフ。いいな。

 話は変わるけど、ドキュメンタリーで、エベレストの頂上付近でアンモナイトとか海洋生物の化石が発見される。なんでこんな山の天辺で発見されるのか。はるか昔にユーラシア大陸がぶつかって隆起し、海底が盛り上がってできたのでアンモナイトとかの海洋生物の化石がある。地球って日々数ミリずつ上がり続けている。反面で大地の砂が海に流れて堆積してゆく。いわゆる輪廻している。人間も輪廻している。生かされている俺達もおんなじことを繰り替えてしている。凄いでしょ。

■CM
■エンディング
 親しいコシノジュンコさんが、ファッションも繰り返していると言っていた。ワイドパンツやクロックドパンツとかの流行が繰り返して輪廻している。音楽はどうなるか。来月は 6月11日金曜日。こぞってカマカのスペシャルに応募してください。

M-9  ケアレス・ウィスパー  ジョージ・マイケル

☆☆☆思いつきと感想☆☆☆☆☆☆
☆いつものトークをすっ飛ばして、いきなり最初からスペシャルな仕様のオープニングに驚いた。吉田拓郎にとってよほどの「瞬間」が来たのか。

☆吉田拓郎の特別な思いは映画主題歌とか10歳の女の子が歌ったという表面的なことより、世界歴史遺産のように鎮座している「イメージの詩」が、自由でのびやかな成長を遂げてみせたことへの感動のようにみえた。想像もしなかった若い女性ボーカルに、4拍子から3拍子へ、音楽としてより豊かに生き生きと変容したことへの感激に思える。ただ正直言って吉田拓郎がなぜここまで深く感激しているか俺には十分に理解できていない。俺が無神経なのか、それとも吉田拓郎にだけ見えている地平があるのか、たぶん両方だろう。

☆わからないことも多いが、その感激が自分の出立を理解してくれた母親への感謝へとまっすぐに繋がり結ばれていることはわかる。ウクレレが自分の音楽の出自であることは、とりもなおさずそれが病弱な拓郎に母が買ってくれたものだったというところに繋がっているのも同じだ。今日の放送の素晴らしさはそこだと個人的には思う。

☆「おやじの唄」から「清流」「吉田町の唄」という父親に対するフィールド・オブ・ドリームス的な流れがずっとあったように思うが、最後は母=Motherへの感謝で結ばんとする。「吉田家とは吉田朝子の歴史である」という先月の名言をあらためてかみしめる。それも拓郎のいう輪廻なのだろうか。

☆それにしてもラストアルバム。14〜5曲なんだとよ。嬉しいじゃないか。

☆「ローリング30」を不滅のアルバムと言ってくれるのは心の底から嬉しい。わが青春のいとしいアルバムでもあるのだ。サイパン→砂浜〇〇運動→ロックウェルスタジオ生中継→石山うるせバカ事件…メイキングを砂かぶりで観ることができた、なにもかもが不滅の名盤だ。

☆「爪」で、石川鷹彦がエレキを弾いていたって、初めて知った。これも嬉しいな。

☆俺も遅まきながらエヴァンゲリオンに入門した身としては拓郎がどう観るのか楽しみだ。序・破・急(Q)そして多分、今回のシン・エヴァはリピートって読むのかな。Uramadoの落陽にも使わせていただいている。

☆「歌いたくない一曲」。すぐに閃いてメールを送った。天国の7曲の古傷が痛むのでもう明かさない(爆)。次回、正解が一件もないと拓郎が言ったら嗤っておくれ。

☆☆☆今日の学び☆☆☆
 命の崖っぷちから復活して栄冠をつかんだ人、苦境の中で栄冠をつかみきれなかった人、命をかけるほどのことなのかその意味を問う人。吉田拓郎の思いは、どの人にも等しく温かく注がれる。拓郎のこういうところがイイ。かなりイイ。

2021. 5. 14

☆イメージの詩☆
 ネットの力は凄くて職場や仕事先の方から「拓郎さん凄いですね。デビュー曲が女の子にカバーされて主題歌になるんですよね。良かったですね。」とあちこちで祝福の言葉をいただいた。そういうあたたかい祝福に慣れていない俺はウロタエてつい「なーに、あんな昔の長い念仏みたいな歌」と武田鉄矢のお母さんの言葉そのままのリアクションしかできなかった。もちろん本当はそんなこと思っていないから。戦い続ける人の心を誰もがずっとわかってくれなかったらすっかりひねくれものになってしまった自分を思う。

2021. 5. 13

☆明日はどっちだ☆
 ワクチン接種の予約システムに「ぴあ」参入のニュースを聞いて明るい気分になる人はいるのだろうか。会員先行とかプレリザーブとかスギ薬局主催者枠とか>ねぇよ。それにしても「落選」「ワクチンをご用意できませんでした」の文字が頭に渦巻いて暗たんたる気分になるってもんだ。

 あの「イメージの詩」のカバーを全曲流すということでニュースにまでなっていて大変だ。明日の放送を聴く前から皆が「感動をありがとう」状態になっていて正直腰がひける。俺はあざとい子役をチヤホヤする空気が大嫌いだし、たかが10歳の子どもが歌っただけなのに拓郎が涙まで流して大絶賛するほど良いなんて、そんなわけ・・・ホンマやっ!もし本当に良かったらやる予定です。

2021. 5. 12

☆この国のはかさなを☆
 昨日は一昨日に続いて「何度観ても怖い!映像で見る”怒れる拓郎”ベスト5」というのを書いたのだが、パイプ椅子を投げたり、バカヤロウと怒るとか、ああいうヤツだ。さすがに怒られるだろうと思ってボツにした。いつかコロナが鎮まったら居酒屋あたりで「あの拓郎は怖かったよな」としみじみ語りあおう。

 とにかく早くワクチン接種が進んで欲しいと思う。誰のせいだとかそんなことを言いたいのではない。もちろんいまだ届かぬ国々もある。それでも深くショックなのは、なんでこんなにワクチン輸入が遅かったのかということだ。世界の真ん中で花開く国とか前総理が自賛していたし、今は国際化やグローバル化の時代だぜと説教する人がたくさんいて、しかもオリンピックの開催国だというのに、こんなにも入手が遅くなるというのは悲しいを通り越して謎だ。今でなくともいいがこの原因と現実はちゃんと把握しておきたい。たぶん、こっちが思うほど世界はアジアの片隅の日本のことなんて大切じゃない。世界はあんたなんか欲しくない> A dayだ…という現実をちゃんとわかっていなきゃと思う次第だ。
 Shangri-laのレコーディングの時「いつまでもマッカーサーの時代じゃないぜ」と拓郎は言ってくれたが、なかなかどうして、しかもぉ道はまだ遠ぉおおい。

 あと頭脳明晰な研究者、予備軍の方々どうかワクチンとか治療薬とかもろもろ頑張ってよろしくお願いします。いかにあなた方が博識でクイズに強いかはもう十分にわかったんで。国もそんな方々に研究のお金を惜しみなく出してあげてほしい。

2021. 5. 10

☆その人は席に降りて☆
 無人の観客席といえば、ライブ映像のバックステージでゲネや開演前チェックの時に拓郎がひとり無人の客席に座ってステージを見つめるシーンがよくある。例外なく凄く真剣でまた不機嫌そうでおっかない。で実際に音響やライティングに厳しいダメ出しをスタッフに出したりする。怖ぇ。怖いけど超絶カッコイイ瞬間でもある。
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2021. 5. 9

☆花に酔ったらその時泣こう☆
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 ロックダウン中のドイツのオンライン・バレエを観る。毎週何回もPCRキットを鼻に突っ込まれながらリハに徹する日々の小さな結実。その堂々たる確かな踊りに胸が熱くなる。無観客のシアターの客席を背景にしていると全然違った景色に見える。シアターがあなたがたをお待ちしていますという声にも聞こえる。今しかない貴重な時に表現の機会がない。この世のすべてのライブ人も極北の時にいるに違いない。想像もつかない俺ごときが偉そうに言えることではないが、今はこらえろ愛しい君よ。例えば嵐に飲み込まれても歴史はそれを見逃さないだろう。
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バックステージの写真もかわいい。えーと、左端から
 ・両目をおさえた君が立ってた
 ・話してはいけない
 ・両手で耳を塞ぐだろう
 拓バカおじさんもアジアの片隅で応援しているぞ。

2021. 5. 8

☆リミックス☆
 昨年末、コッポラ監督はゴッドファーザーpartVをかなり大胆に再編集して”マイケルコルレオーネの死”という映画に作り直した。世紀の名作の誉れ高いpartT&Uに比べて、極めて評判が悪いpartVが心に引っかかっていたようだ。…で思ったのだ。”幕末青春グラフィティRONIN”もそんなふうに換骨奪胎の再編集をしたらどうか。
 冒頭でわけわからず古尾谷雅人が瞬殺されたり、いつの間にか竹中直人がいなくなったり、つながりがもともとわかりにくい。それに例えば高杉晋作が戸板の上で亡くなるシーンとかいろんな未使用シーンが撮ってあると拓郎が言っていた。それらを足して、ウザいシーンはカットし大胆に再編集して、もちろんVFXも駆使し、テーマ曲も加藤和彦には悪いがRONINに替え、もっともっと拓郎の歌も使ったらどうだ。石坂浩二(勝海舟)のナレーション解説も増やして「これから90分あなたの目はあなたの身体を離れ…」ってウルトラQだろ。監督はもうおられないので…庵野秀明に”シン・RONINさようならすべての坂本龍馬”というタイトルでお願いしてはどうか。>やるわけねぇだろ 
 とにかく再編集の目的はただひとつ、あの悪代官、悪役テイストを駆除し高杉晋作=吉田拓郎をいかに美しく見せるかそれだけだ。そのためなら何でもいい。なんなら高杉晋作が何かというとウンチクと説教ばかりするうるさい坂本龍馬を斬って、咸臨丸に乗ってマウイ島に逃げて幸せに暮らすという話でもいい。>よくねぇよ。

2021. 5. 7

☆WOWOW武田鉄矢特集をつい観てしまう☆
 ライブ・コンサートのビデオだと惚れ惚れするシーンが次から次へとテンコ盛りなのが、この映画の拓郎には…あるかい?。「騎兵?騎兵は長州のモノでオマエには関係ない」「わしゃあ陸戦の高杉晋作じゃ」「なして戦を怖れる、女々しかろうがぁ、あ?」…ただのカーリーヘアーの悪代官じゃん。うのさんを襲うシーンも観てらんなくて見るたびに後ろから羽交い絞めにして「拓郎さんお願いですからやめてください」と叫びたくなる。気がつくともう勘弁してくださいと祈りながら観ている。刑事物語4の屋台の一瞬のシーンの方がどんだけカッコいいことか。それはそうと竹中直人が途中でいなくなってね?
でも“RONIN”いいよな。何度聴いても。すんばらしい。
 この国の苛立ちを
 この国のはかなさを
本当にはかないぜ。はかないけどこの歌があるから生きていかなけりゃと思う。

2021. 5. 6

☆天国の島に持っていきたい"落陽"☆
難問だ。'73か2005か。'85は高中だぜ。石川鷹彦との'93もしみる、するってえと'79の青山はいいのか。うーん、つま恋2006も捨てがたい。♪つま恋の花火に打たれて、このままぁ〜死んでしまいたい〜と西田佐知子が頭の中でずっと歌っている。

2021. 5. 5

☆繰り返し繰り返し旅に出ている☆
 そもそも”戻る旅に陽が沈んでゆく”を2回繰り返すようになったのっていつからだろうか? 出自であるライブ73も篠島も王様達のハイキングもつま恋”高中だぜ”85もみんな”戻る旅に陽が沈んでゆく〜”と最後は1回で終わっている。

 私の超テキトーな調査によれば、89年のシングルのピコピコな「落陽」では2回繰り返しており歌詞カードにもそれが反映されている。
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それ以後、101studio’93から現在まで、知る限り2回のリフレインで固まってきているようだ。なのでおそらく89-90が転換点と思われる。
 …なーんて思ってたら山田パンダは76年のカバーで最後に2回リフレインしていた。パンダ、おまえだったのか、兵十は・・・って、もういいよ。拓郎もこのレコーディングに立ち会ったようなのでリフレインはこのころから技としては意識されていたと思われる。そして拓郎も89年より以前にリフレインをしていたのを忘れておった。

 拓郎本人自身がリフレインを歌ったのはたぶん79年の武道館。TOUR1979volUの弾き語りだ。書きながらその2か月前の渋谷エピキュラスの公開放送での石川鷹彦との弾き語りもそうだったかもしれないと思った。ともかく武道館の落陽で予想外の会場大合唱に感極まった様子で最後に”戻る旅に陽が沈んでゆく”を俺たち観客に投げ返すように二回繰り返したのだ。「すげぇ。」あの時の拓郎の感無量の笑顔。いいなぁライブは。ああ涙が出そうだよ。
 そう考えるとリフレインは躍動する魂から自然とあふれ出たシャンパンの泡のようなものだ。尊い。いとおしいじゃないか。あれ、昨日と言ってることが違う気がする。岡本おさみの切ない孤独の歌が吉田拓郎自身の進撃のスタンダードに変わっていった印みたいなものか。

 昔からこのことをラジオにメールしてみようかと思ったが、きっと「何回繰り返そうと俺の勝手だろ」「音楽っていうのはもっと自由なものなんだ」と怒られるに違いない。ていうか今のあの方は、そもそもそういうことをどうこう言うようなステージにはたぶんおられない気がする。
 
 ということでどっちがどうなのよは各自の自由で…という雑な結論で。

2021. 5. 4

☆ひとつ、ひとつじゃ淋しすぎる☆
 “落陽”のいちばん最後のフレーズ”戻る旅に陽が沈んでゆく”。ここのところを”戻る旅に陽が沈んでゆく、戻る旅に陽が沈んでゆく〜”と2回リフレインするようになってから久しい。1回と2回。どっちがどうなのよ。その答えは人それぞれに違うだろう。
 ぶっちゃけ1回だと物足りないけれど2回だとしつこいと俺は思う。だから1回で終わってしまう物足りなさから生まれる余韻と余白がいいんじゃないかと今は思う。ライブから撤退しアルバムもこれが最後という撤収宣言を受けてしまった今の空白な気持ちと妙に重なる気がするんだよな。ただしこのリフレインは簡単な問題ではなさそうなのでまたあらためて深堀したい。

2021. 5. 3

☆書店という原点☆
 本屋の立ち読みといえば、岡本おさみは苫小牧の本屋で、周囲に迷惑がられながら真剣に立ち読みをするフーテン暮らしのあの爺さんと出会うのだった。そう考えると「落陽」はあまりに豪勢な歌になりすぎてしまったのではないかと思う。やさぐれた小さな本屋の立ち読み感が微塵もない。俺には最高の思い出だが、花火までバンバン打ち上げられて爺さんもびっくりしたに違いない。そしてまたそう考えるとライブ73の「落陽」はあらためて凄いなと思う次第である。「落陽」をふりかえってみるのもいいさ。

2021. 5. 2

☆立ち読み☆
 昔の楽譜集は楽譜だけでなく巻頭に写真とか記事が載ってるものも多かった。なので本屋さんの立ち読みは重要な日課だった。楽譜集のタイトルは忘れたが「茶色のスーツに身を固め男拓ちゃんどこへ行く」という山本コータローの巻頭文も立ち読みで何度も熟読したもんだ。すまんな。昨日のように誰が書いたかわかんないけれどいい文章に時々出逢えることもあった。
 どこの楽譜集だったか忘れたがこんな趣旨の巻頭文章があった。

“どうかデビューアルバムの「青春の詩」と最新アルバム「今はまだ人生を語らず」を聴き比べてほしい。その成長に驚くはずだ。僅か4年間の間にここまで劇的に進化するミュージシャンはいるだろうか。”

 おおおと唸りたくなるような巻頭文だった。
 それがさらに数年後のアルバム「大いなる人」の追加改定版になると

“何が何でも吉田拓郎という時代はもう終わったといってよいでしょう。”

 おいおいと悲しくなるような文章に変わっていた。それに続いて、

“そのかわり成熟した男性の魅力を湛えた大人の吉田拓郎の時代が始まるでしょう。”

 とフォローがしてあった。長い目で見れば、あながち間違ってはいないか。でもこちとらは何が何でもで半世紀。
 書物を狩りしたり、書物が語りかけてきたり、やっぱり書店は貴重な場所だと思うのだが。
 立ち読みといえば、立ち読みをする君に会える気がして。岡田奈々"青春の坂道"……う、ここにも松本隆の手が回っておる。

2021. 5. 1

☆本の店☆
 ずっと昔の学生時代、吉田拓郎の楽譜集の表紙にこんなコピーがあった。

"とにかくがむしゃらな奴だった。世の中のものすべてが抗議の対象だったのだろう。
ちょうど、自由とか若者の夢のことなんかあまりかまわない家に貰われてきたばかりの少年のようだった。"

 これって誰が書いたんだろうな。楽譜集は買えなかったが、時々書店で手に取ってこの表紙を読んでは背筋を正していた。店頭だけの関係だが大切な関係というのがかなりあった気がする。

2021. 4. 30

☆♪あなたはこの街にもういない☆
 TYIS終了。いろいろ文句も言わせていただいたが、何分お世話になりました。ありがとうございました。
 吉田拓郎がいなくなった中目黒はどんなに素敵な街であれ俺にはただの中目黒だ。すまん。俺はどこへ行こう、君はどこへ行く。

2021. 4. 29

☆双璧☆
 “無題”は松任谷のプレイも素晴らしいが、詞の“もし淋しさがインクだったら今夜君に手紙を書ける”…ココがあざとウマい。やられたと思う。他にインクといえばやはり”緑のインクで手紙を書けばそれはサヨナラの合図になると”…これも言うまでもない名作だ。松本隆と喜多條忠がインクの東西横綱である。どちらも吉田の土俵なのが誇らしい。
 そういえば他人の土俵で”黒いインクがキレイでしょう青い便箋が悲しいでしょう”なんて歌もあったが…ふ、勝ったね。※あくまで個人の感想です。

2021. 4. 28

☆天国の島に持ってゆきたい松任谷正隆のキーボード7選(ロック&ポップ編)

神様が遣わしたもう奇跡のソリーナ人生を語らず (今はまだ人生を語らず)
ポップに弾ける二人ザ・バンドの船出春だったね (元気です)
マンタ・ビギニング&フォークの国のエクソダス結婚しようよ (人間なんて/TAKURO TOUR 1979)
心優しいキーボードと踊りだす手風琴まにあうかもしれない (元気です/TAKURO TOUR 1979)
傷癒えぬままの蘇生に優しく強く寄り添うキーボード明日に向って走れ (明日に向って走れ)
ウキウキ跳ね回るポップなピアノ戻ってきた恋人 (今はまだ人生を語らず)
永過ぎた春を水中翼船のように進むキーボード春を待つ手紙(シングル)

<次点> 
バースト前の荘厳な鎮魂のピアノ英雄(ローリング30)
イントロとブリッジのピアノあってのファミリー(無人島で…)

<評価検討中>
ごっつ必死でピアノ叩きまくるおまえが欲しいだけ(ONE LAST NIGHT IN つま恋Uビデオ)

…ということでラストアルバム聴かずに死ねるか。大変な世の中だけど皆様くれぐれもご自愛専一にお過ごしください。

2021. 4. 27

☆天国の島に持ってゆきたい松任谷正隆のキーボード7選(しみじみ抒情編)☆

いつもより余計に弾いております&ジェイクとの見事な掛け合い舞姫(TAKURO TOUR 1979)
ぽっかりと浮かぶ陽だまりのような心地よき間奏の至福野の仏 (ライブ73)
披露宴、ディスコのチークタイムにも最適だがどっちも縁がなかったが美しい未来 (大いなる人)
見事な後奏&暖かな焚火のような音色襟裳岬 (今はまだ人生を語らず/つま恋75) 
ボーカルに静かによりそう妙味白夜 (ローリング30)
スチールギターと拠りあう切ないまでの美の極致無題 (ローリング30)
ああ、どちらも双璧どうしてこんなに悲しいんだろう (人間なんて/明日に向って走れ)

<次点>
いきなり天空から降ってくるピアノ流星(シングル)

2021. 4. 26

☆たぶんOK松任谷☆
 何度か書いたが、剛くんというと思い出す。LOVE2でKinkiと藤原紀香で松任谷正隆の話になった。皆、松任谷さんって最初はとっつきにくそうで不安だったけど実は優しい人だったという話題になって拓郎に振られた。
拓郎「とっつきにくそうというけど、僕にはハッキリとっつきにくい男。(一同、エー!)だって、ちょっとしてたことですぐに不機嫌になるしさ」
剛「それ一緒ですやん」
拓郎「おい、俺はいつもハッピーでそんなことないだろう(笑)」

このシーン好き。剛くん、Good Job!

 ラストアルバムはKinkiの参加はもちろん松任谷正隆と組むということが私にとっては大事件である。オリンピックとか世界陸上みたいにもう聴く前から「感動をありがとう」と言っておく。聴かずに死ねるか。だから、いい歌を頼むぜ。

 リモートということは、それ以外の時間は休憩時間に等しいので>ちげーよ。
なのでせっかくの自由時間>だから自由じゃねーよ、どうせ酒も飲めないしさ、明日から天国の島に持ってゆきたい松任谷正隆を振り返りたい。

2021. 4. 25

☆この胸いっぱいの☆
 昨日は堂本剛のラジオ”堂本 剛とFashion & Music Book”を教えていていただいてradikoで聴いた。吉田拓郎からラストアルバムのオファーのくだりをしみじみと語ってくれていた。Radikoは今日までだよ。
 「…ギターを教えてくれた人からのオファーだけにだだ嬉しい。でも、んー、音楽人生のすべてからリタイアするということを聞いて苦しかったですね。苦しいなと今も思う。その時、生意気ですけど、拓郎さんがやっぱり俺もう一回音楽やるわと笑って言えちゃうようなの作りますねとお伝えしたら”ありがとう”と笑って返してくださいましたけど…
生きるチカラを貰ったことを鮮明に覚えている〜、拓郎さんの人生だから拓郎さんが決めることだけど、拓郎さんが想像している以上にいろんな人を救うことをされています…」

 涙ぐむ。なんと繊細な男。「苦しい」と言ってくれたよ。どうしてそんなに性格がいいの。ありがとう。”ありがとう”は、たぶん一回ステージで歌ってみたら涙をこらえるのがヤバイからやめたんだな、そうだろ拓郎、とあらためて思わざる得ない。剛君とにかく頼むぞ。

 うう、♪生意気ですれど ひとつだけ言わせてね あなたはすばらしい人でした…なぜか百恵ちゃんが頭でずっと歌っている。
  

2021. 4. 24

☆面影橋から☆
 まさか生きてるうちに灯火管制を経験するとは思わなかった。俺は灯りに集まる虫か。
 ところで K君の命日を忘れていたことに気づいた。ごめんよな、K君。俺とおまえとあいつ、三人拓バカ一緒に還暦だよな。昨年ゆかりの拓バカみんなで墓参し盛り上がる計画だったがコロナで頓挫した。今年は墓参りくらいならいいかなとも思ったが、あそこでビール飲んで盛り上がったら「墓飲み」するただのバカ達として炎上しそうだ。落ち着いてから絶対に行くのですまんな。

 忘れたといえば、橋田壽賀子先生のことを書いた日記で、先生の代表作ドラマ「たんぽぽ」=主題歌「隠恋慕」を忘れていたではないか。これも痛恨だ。都電荒川線は俺にとっても青春の地だ。あのチンチン電車を観るたびに必ずあの管のプァーッパパー〜というイントロが流れ出して涙ぐむ。もう救急車のサイレンで鳴く犬みたいなもので情けない。それでもいいと頷いてくれ。ああ、これもアレンジは松任谷正隆だ。ちょっとよそ行き感のあるいいアレンジだな。勝手に、ひとりシンポジウム「松任谷正隆とは何だったのか」に突入。
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2021. 4. 23

☆さよならすべての酒類提供店☆
 まさか生きているうちに禁酒法の時代が来るとは思わなかった。昔からエリオット・ネスは憧れのヒーローだったけれど、今だったら間違いなくアル・カポネの手下になる。カポネはロバート・デ・ニーロでお願い。
 どうしても家にいてほしいなら家から一歩も出たくなくなるようなテレビ、ラジオ、配信を頼む。オールトゥギャザーナウ、歌謡グランドショー、歌謡最前線、セブンスターショー、つま恋2006完全版 、あこがれ共同隊、LOVELOVEあいしてる一挙放送、星の数ほどあるライブ音源、秘蔵映像、この期間だけはあなたの言うことなんでもききますということで、拓バカのおじさまおばさまに緊急アンケートとって、無料大開放とかやってくれないか。

 とはいえこんな悪態つけるのも自分が無事だからだな。とにかく今はこらえよ愛しい君よ。どうかくれぐれも、くれぐれもご自愛ください。

2021. 4. 22

☆拓バカの小さな幸福☆
 昨日話した拓郎ファンはこう言った。「最近職場に”吉田さん”という新人が赴任してきて毎日”吉田さん”と呼びかけるたびになんか嬉しくなる。バカでしょ?」…バカである。しかもなかなか重症だ。しかし、そうだよ、これなんだよなとも思う。一般Pの日記のくせに評論家気取りで何様だみたいな事をダラダラ書いている自分を少し恥じた。「吉田」と聞いて嬉しくなり、「拓」の文字を見つけてドキドキする、それこそがかけがえのない幸福なのだと教えられた気がした。「君の覚えた小さな技術をいつくしみ、その中にやすらえ」(マルクス・アウレリウス)

2021. 4. 21

☆声にして永遠を誓うよ☆
 デビュー当時、小学生からは難しい、わけわかんないとさんざん悪態をつかれたという「イメージの詩」が、50年後に小学生によって堂々と世界に向って歌われる。時代は変わる。いや、これが半世紀の間に生じた人類の進歩、世界の発展でなくてなんであろうか。拓郎の喜びが、音叉のように私達にも伝わってくる。おめでとう。
 エンディングを迎えんとする時、これまでのねぎらいとこれからの希望が一緒に訪れる。過去と未来が現在を祝福する=それが「永遠の今」なのだと西田幾多郎先生は書いておられる。いや、そこまでは書いていないかもしれないが爆、古いとか新しいとか昔とか未来を超えてそれらを束ねる「永遠の今」というものが根底にあるとは書いている。そうか今がその時、もう戻れない。
 吉田拓郎は古い水夫も新しい水夫も超えた永遠の水夫になったのだと思うことにする。そしてきっと誰も言ってはくれないだろからここで言うが、そういう吉田拓郎を見出し、愛しつづけ、ひとりひとりは微力ながら半世紀の人類の進歩を支えたすべての拓郎ファンこそがすんばらしい。ともかく永遠の水夫たちに祝福を。

2021. 4. 20

☆もはや40年☆
 ”Y“の間奏のストリングスを聴くたびに泣きそうになる。心の奥底に響く。甘美な感傷というより自分の罪業に近い部分を揺すられる感じだ。この間奏の切なくて美しいメロディーは、吉田拓郎と松任谷正隆、どちらが作ったのだろうか。作ってくださった方に感謝をこめて腰塚のコンビーフをお贈りしたい。なんだそりゃ。

2021. 4. 19

☆☆☆9月になれば☆☆☆
 ニュースによるとワクチンは世界で効果を発揮しつつあるらしい。9月か。接種までの道はそこからまだあるだろうが、ようやく終息がチラつき始めた。ということは夢のラストアルバムの実現も見えはじめたということになる。ずっと言っているように豪華な夢の企画ということで舞い上がる喜びとラストということで沈む気持ちがゴチャマゼになって俺個人はup&downでややこしい。
 昨年のドラマ”スタートレック・ピカード”の名ゼリフで老いてなお航海に出る時の処世訓。”難しいことは一度にひとつまで(One impossible thing at a time)”。そうやって切り分けて考えよう。まずは、新曲のアルバムが出る。昔の歌ではない、10数曲のあたらしい音楽と出会える。そこだ、それがまずすべての基本だ。75歳の渾身の新曲たち。想像がつかないがどんな音楽になるんだろう。魂の底から期待してるぞ。豪華なメンバーも映画への期待もこれが最後という悲しみもまた切り分けられた別の問題だ。もちろん最後はひとつになるにしても。皆様とにかく今はくれぐれもご自愛のほどを。たぶん夜明けは近い、友よ、この闇の向こうには。

2021. 4. 18

☆☆☆ありがとーショコラ☆☆☆
 身内・友人からTYISの終了を見舞うご連絡をいただく。みんな、ありがとうね。どうかThank you goodsは、私からのThank youでもあるからね>便乗すんな。「大丈夫ですか?」と心配してくださるが、大丈夫なワケがありません(爆)。そう言うと慰めてもくれる「きっとまた新しいファンクラブ始めてくれますよ。」…そんなことされたらそれはそれでまたムカつく。確かにこの30年間は公式ファンクラブ離合集散の歴史である。ちょうどテレビで映画” ユー・ガット・メール”やっててちょっと観た。公式ファンクラブAOL時代というのもあったな。何もかも懐かしい。出会いや別れに慣れてはきたけれど。 
 ああ10年か。春を待つ手紙 本人生歌唱の日。聴くべし。

2021. 4. 17

☆☆☆さよならすべてのTYIS☆☆☆

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星)ショボい会報、当たらないチケット、当たっても後方、なんで身分証明書…さんざん悪態をついてすまなかったな。森野くんこれまでありがとう。
森野)星、わかってくれたか。
長女)(…たぶんそんなにわかってないと思うわ)

 数々の忘れじのライブはもとよりSeasonGreetingはいつもほっこりしたし、最後のT-noteはタイトルも装丁も中身もなかなか素敵でもっともっと読みたかった。タブロイド時代の重松清の寄稿文、今村和夫さんの小さなコラムも大好きだった。石山恵三さんとおそろいになった2016の茶色の帽子も少し色褪せたTY2014パーカーも今だに愛用しているし、foreverの時計は今日も動いている。
 本当にありがとうございました。お疲れ様でした。これまですべての公式ファンクラブにあらためて感謝申し上げます。

2021. 4. 16

☆☆☆のびやかにしなやかに☆☆☆
 偶然にもつい3日前、町中華で「生きるのが辛くなったら西加奈子を読め」と言われたばかりだった。俺はあざとい子役が苦手で、いつも注意警戒しているのだが、映画予告動画の「イメージの詩」をちょっと聴いただけでもう涙が出そうになった。そう来たか。それにしてもかくも豪華な宴の主題歌にお招きいただいて、何の関係もない自分だが心の底からありがとうございますと叫びたい。子どもたちのファンが増えて「ジジイのファンなんかいらね」と言われたら、喜んで、謹んで引き下がりますばい。世界に向って撒かれた種が一つでも多く芽を出しますように。

2021. 4. 15

☆☆☆はらたつわー☆☆☆
 気分が落ちたので昔の嫌な事をさらに思い出してムカつきを勝手に増幅させることにした(爆)。思い出すのはLOVE2の全盛時代だ。拓郎ファンだという女子中高生が増えたときに拓郎は「オジサン、オバサンのファンはもういらない」と傲岸に言い放った。はらたつわー。もちろん、めんどくせー古株ファンよりピュアなファンの方が嬉しいのは当然だ。それにそのめんどくせー俺だって若い人が拓郎の音楽を好きになってくれることは心の底から超嬉しい。
 ただ余計なのは必ず拓郎は古きファンを貶めて若きファンを讃える、こうした「温故知新」ならぬ「怨故喜新」とでもいうポーズを繰り出すところだ。それを聞くとオジサン、オバサンが愉快でないのはもちろんだが、若い方はどう思うのだろうか。例えば電車の中で座ってるオジサン、オバサンを追っ払って空いた席にどうぞお座りになってと招かれた若者は気持ちよく座れるだろうか。心ある若者であればあるほどメチャ居心地悪いのではないか。
 ムカつきながらも、これは吉田拓郎の本心というよりあくまで「芸」であり「芸風」なんだと思い直して生きてきた。愛でないものはあるはずがない。また器の小さい俺と違って俺の回りには「それがまた拓郎の魅力じゃないか」と懐深く鷹揚に構えられていられる多くのファンの方々がいた。そういうみなさんは経験豊かな古株のオジサン、オバサンばかりだった。それが証拠にあのLOVE2バブルの時代にもそれ以降も、コンサート会場が女子高生や若者であふれかえっていた光景をついぞ見たことがない。少しいたことはいたけどさ。
 ということでたぶん拓郎は自分では痛快と思っているこの芸風=懐深き古株ファンに頼りながら彼らをクサする…というのは芸にしてもやっぱりはらたつわー。
 なかなかおさまらないので、明日は「はらたつわーU」〜フォークがそんなに悪いのか編・・・に行こうと思ったら、何?明石家さんま、西加奈子、えっ「イメージの詩」ということで気分が少し上がり始めたので中止。そういえば、さんまから連絡があったアニメってこれだったのか。できればそっちにつづく。

2021. 4. 14

☆☆☆僕らは今も自由のままだ☆☆
 昨日の続きだが、どんな距離感で音楽を聴くかは自分で決める。極上の音楽に人生を変えられ、その音楽がずーっと心に悪さをしながら居続ける。いいじゃないか。それもかけがえのない幸せのひとつだと自他含めて祝福したい。それが健康か、音楽が喜ぶかそんなことをわきまえながら聴くなんて、正論かもしれないが超絶ツマラナイ。音楽は自由なものだと魂に直覚で教えてくれたのが吉田拓郎なのだ。
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 カッコつけて書いているが、ひとことで言えば ほんま腹立つわー ということだ。 

2021. 4. 13

☆☆☆春も夏もいっぱい☆☆☆
 拓郎が前回のラジオの最後に流したザ・シャドウズの”春がいっぱい”を聴くと、いつも愛奴の”二人の夏”の特に間奏に飛ぶ。似てるとか似てないとかじゃなくて、心がそこに飛ぶのよ。少し泣きたくなる、たゆとうようなこの感じ。”月は君の瞳の中で小舟のように揺れてた〜”。私の場合、心に時々入り込んできて悪さをするのは浜田省吾だな。拓郎が言ってたのはこういう音楽との距離感のことだとは思うのだが。

2021. 4. 12

☆☆☆神は細部に宿られる☆☆☆
 石川鷹彦と「馬」を作ってゆくプロセスの話を聴かせてもらうと、こういうのが映像で観られたらどんなに幸せだろうと思う。だからラストアルバム制作の映画化は楽しみだ。
 ただ芸術作品としての映画でなくていい。事実をして事実を語らしめよ、音楽をして音楽を聴かしめよ、ということで素材そのものをできるだけ大事にしてほしい。「馬」のスタジオの風景のような拓郎がスタジオでミュージシャンたちとどういう会話をしてどうやって音を作り上げてゆくか、それをひたすらずーっと観ていたい。
 NHKの「プロフェッショナル」について、庵野秀明は、シン・エヴァンゲリオン完成までの4年間密着取材のドキュメンタリーといいながら取材が4年間ずっと張り付いていたわけでなく、何か月も来ずに、いい所で取材できていなかったことも多いと苦言を呈していた。ラストアルバムも映画を作るならちゃんと張り付いて、どんな些細な瞬間もちゃんと拾い上げてね。見逃し聞き逃ししないでね。すべてはそれからだ。お願い、はあと。
 極論すれば映像と音がクリアであれば、それこそ防犯ビデオの映像みたいでいいからずっと眺めていたいと思う。何時間でもいいぞ。松任谷や高中と何を話し、鈴木茂を抱きしめ、島村、エルトンとどう絡むのかなどなど、DVDの特典でいいから、ディレクターズ・カットならず、ディレクターズ・ノーカットというやつ。

2021. 4. 11

☆☆☆バーボン・ストリート・ブルース☆☆☆
 で、俺は20歳のころからずーっと40年間、敬虔な気持ちでお神酒のようにバーボンを吞み続けてきたんだぜ。今さら嫌いだったというのなら、もとのハタチに戻してちょうだい。そうか京都で高田渡が初めて…「渡 おまえだったのか」兵十は火縄銃をばたりととりおとしました…”ごんぎつね”じゃねぇよ。
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2021. 4. 10

オールナイトニッポンゴールド  第13回 2021.4.9

☆☆☆あらすじ☆☆☆☆☆☆

 こんばんは吉田拓郎です。週替わりの金曜日、今週は「よしてくれろう」別名吉田拓郎がお送りします。
 今は4月4日午前10時。 朝の気分で夜の番組をやってみたかった。
 先月のギター当選者の方に冨山プロデューサーがご自宅まで訪ねて行ってお渡しした。配送の手間と送料を考えると持ってった方が早いということもあるんだろうが、当選した方びっくりしたろうね。プロデューサーが来るとは思わなかっただろうね。いいとこあるよね。当たった人は感激ひとしおだろうね。拍手。いいとこあるな、おまえ。

 いろんなプロデューサーやディレクターの人を見てきた。その中にもう亡くなってしまった浅野さんのいうディレクターがいた。当時アルフィーは売れていなくて、ビートボーイズやらなんやら、なんとかして売らんかなの時だった。坂崎の吉田拓郎の下手なものまねで歌ったことがあった。
 当時、スターズオン45、 ショッキング・ビートルズというレコードが出ていた。これがジョンの声、ポールの声と似ていて僕も持っていてよく聴いた。ジタバタしていたアルフィーに浅野さんが、拓郎さんの曲をディスコ調でやってみないかということで、たった一日でニッポン放送のスタジオで録音させた。これがレコードになって売れちゃって、当時のアルフィーの中で一番売れてしまって不満だったようだ。
 そんな浅野さんは酒癖がよくなくて、必ず酔うと下手なマジックをみせる。もう同じマジックでみえみえでそれが嫌で(笑) まいった。いろいろとユニークで有能なディレクターがいた。

<映画「結婚しようよ」で拓郎さんの曲にかっこよさ、歌詞の世界の魅力を知り、youtube で昔のラジオを聴いてファンになった、 情景が広がって身体全体が音楽につつまれた気になる、アルバムもキリンにまけず首を長くして楽しみに待っているという投書>

 最近、この年代くらいの人からのメールも多い。感じ方が、感覚的に明るい気分で音楽を聴いている。そのことはとっても音楽にとっても幸せな一瞬だ。前から言うように音楽というのは時々心に入り込んで悪さをする。でもそれは時々。時々でないとまずい。歌とか音楽とかが悪さをしたまんま、ずーっと進んでゆくのはその人のために音楽のためにも
よくない。あの歌で人生が変わった、という人もいるが、その時々でいい。メールの方はカラッとしている。そんなふうに音楽とつきあっている。ここに音楽の生きる意味と価値がある。

 僕の愛したポップス、ポピュラーはそこが似合う。時々心に入ってくる、ずーっといるのはよくない。

<シン・エヴァンゲリオンに号泣、しかも最後の映画にあの曲が使われたことに感激、リスナーでこの映画が好きな人は少ないが、ありがとうといいたいという投書>
 この映画は観ていないけれど使われていると知っている。さきほどの富山くんもエヴァンゲリオンの大ファンで彼も先日観に行ったそうだ。60歳の男性が家族の食卓で「人生を語らず」を歌うシーンがあってジーンとなったということでメールをくれた。
 こういう話を聴くとつくづく思う。先月も「吉田町の唄」で上京の時に母と話した決意のことを話した。吉田拓郎の音楽が通じるかどうかわからないが、誰かの心に響くという曲が一曲でも作れればと思っていた。そういう母との約束が実現したと思う。「旅の重さ」という映画で「今日までそして明日から」が使われたが、その時はブームの真っただ中だから監督も使ったのだろうということで、さほど感激とか喜びなかったし、もっといい曲あるのにと思った。

 その後、若い人たちが僕の曲をカバーしてくれたりして生まれ変わるのが心の底からうれしかった。僕もおじさんというかおじいちゃんになった。そんなとき2016年のライブ会場にあいみょんが来てくれていて、彼女がそういう音楽を聴きながら育ったことがうれしかったと感想を書いていてくれて・・・それを読んだときは心が泣きました、嬉しかった。2019年には 奈緒さんが来ていて「今日までそして明日から」が大好きだとKinkiの番組で言ってくれた。
 おふくろよ、広島離れる時の約束が現実になっていると話しかけた。エヴァンゲリオンにしても今に息づいていることが嬉しい。「人生を語らず」に代わって、ありがとうと叫びたい。

<ラストアルバム楽しみ、進捗はありましたかという投書>
 いろいろ進んでるが企画はどんどん大きんなっていく一方でこんなこと実現できるのかというくらい凄いことになっている。

 傑作なのは、Kinikikidsで剛にはアレンジ・プロデュースをお願いすることに決まっていて、一方、光一には何頼もうか。ということで、それを察した光一が勘違いして、僕はイラストとか絵がヘタなのでコーラスとか考えてほしいなと彼のスタッフに話ていた話が届いた。
 光一、おいおい光一よぉ、イラストとか絵がうまくないのは20何年まえに気づいていたよ(笑)。そういうのなら篠原だよな。彼女はその才能を生かして今はユーミンの衣装のデザインとかもするけど。僕が光一に頼むわけないじゃない。まかしとけ君からが楽しむ企画がある。心の中で光一にコレをやってほしいというのがある。時間はあるから、お互い一生の記念をつくろう。


<アルバムはCDだけじゃなくてアナログレコードでも出してほしい、ジャケットという投書>
 そうだね、君いいよ。このごろアナログも復活していると。CDになってからジャケットがつまんなくなったよね。せっかくの写真とかも。やっぱりLPのジャケットはいいな。今回はタムジンファミリー総出で撮影しようと決めているのでグッドアイデアだ。

<天国の島の7曲、まさかペニーレインでバーボンが入っているとは思わなかった、今もバーボンを飲むのか、何の銘柄を飲んでいたのかという投書>
 あなた、あなた、知らないの? 僕はバーボン飲まないよ。ほとんど飲んでない。苦手だよ。あれはね、高田渡が薦めたんだよ。あの頃、フォークでインチキなヤツもいたけど、みんなで全国を回っていた。終わった後、居酒屋とかに行って、で高田渡、加川亮(こさい)、遠藤賢司と気があっていた。飲むときはそれぞれと二人きりだったからみんなどうしは仲良くなかったのかな(笑)。
 京都で高田渡が、アーリータイムスを拓郎飲んでみるか?とうもろこしでできているウイスキーなんだといわれてそこで初めて出会った。その時、ウヘー、よしてくれろう、こりゃダメだというのが第一印象。俺は、サントリーレッドとハイニッカ 水割りかロックだった。そののちに原宿ペニーレインにバーボンを置かした。だけど好きじゃないのでレモンスライスを多めに入れるようになった。それで味をごまけてしまおうとした。レモンで割ると酸っぱさで味がごまかせるが、家に帰っておげおげ(笑)。半年もしないうちにやめた。
 それから好きなのはブランデー、コニャックの水割り。ペニーレインの安田というオールバックのボスから教わったのかな。レミーマルタンが好きだった。高いけど。だからバーボンは飲んでいない、吉田拓郎はバーボンは好きじゃない。

■ 今夜も自由気ままに吉田拓郎のオールナイトニッポンゴールド。

 朝から元気だしてやるのもいいようなわるいような。朝はこういうのには向いていないか。

<拓郎さんと佳代さんのやりとりが楽しみです、スタジオでもつづけてくださいという投書>
 レギュラー化しているんだけど、ウチの佳代に話した。コロナが収束してスタジオで収録するようになったら一緒に来てくれるんですかと聞いたら、「何言ってんのよ」だってさ。たった一分のフリートークのために化粧したり服考えたり、誰かに会うかもしれないし…米津玄師に会うかもないしれないし、菅田将暉くんに会う可能性もなくはない、広島カープの森下さんが・・・あ、昔、朝青龍が来たことあったね、ファンですって言っちゃって・・・その森下選手が来ないともいいきれない。そう考えると気が気じゃない、だから来ない。絶対に行きません とおっしゃいました。確かに、たかが一分弱のために・・・自宅録音だけのスペシャルということで。

 そういえば先日サッカーU24のアルゼンチンとの第二戦、オリンピック代表候補の試合で、久々に気になる選手が登場したそう。サッカー界ではヤットさん以来。(田中)碧くん、いい感じの若い男の子。あと三苫くんも。

 照ノ富士やりましたね。大関復帰。拍手。すばらしい。不可能を可能に・・・後もケガに気をつけて横綱の夢が実現してほしい。 

<拓郎さん佳代さんお誕生日おめでとうございま、この一年も豊かな日々でありますようにという投書>
 毎年ステーキ食べに行ったりしていたけど、あ、明日だ、どうすんだ・・・ウチだな。

<番組も2年目、いくつになってもhappybirthdayリクエストしたいという投書>
 森下愛子さんもリタイアを決めている。世界はコロナの恐怖に襲われていて、このままでいいわけでないな。僕達人間社会は、希望ねあるけれど、危うい方向に向かっているものもあるのではないか。未来永劫、テーマとして持ち続けることが必要だ。コロナだけでなく地球温暖化とか最近想像絶する自然災害も多い。吉田夫婦は老老人生だけど、いかに協力して楽しく平穏に長くということで、その時を待とうよということで耐えようと思う。マウイ島へ必ず行きたいし、おいしいレストランに行けるようにになったら毎晩行こう。

Mー1 いくつになってもHappybirthday  吉田拓郎

(CM)

 朝は午前中は午前中らしい。気持ちよく目覚めて元気でゆく、さわやかな時間。何かを決断するのは違うかな。朝はさわやかに、おだやかに、かろやかに。何かを決断するのは違う。朝陽がサンという曲が大好きだけど、さぁいくぞという感じ。人生での大きな決断、固い約束、人生の方向決断はいつも夜だった。お昼に決めたことはない。
 広島から上京するときに車で迷って深夜六本木の交差点にいた。品川、泉岳寺に元上智大学の連中の待っている場所があった。そこに着いて夜中の一時、朝まで将来の夢とかを語り合った。上智のフューチャーズサービスというグループで、イメージの詩が入っている広島フォーク村の自主製作盤を出したところ。拓郎君の夢を聴かせてくれといわれて、歌謡界に石を投げ込むつもりで、俺らのような音楽をもあることを示したいと言った。そのあとエレックに入ったが、その
 エレックを去るのも夜の新宿の「がんばるにゃん」という店で決意した。CBSソニーのオデッセイ・レーベルに誘われて組めたのも六本木のビー・ブレッド(BEE-BREAD)という店。つま恋を決めたのも原宿のプレイバッハだった。ペニーレインじゃなくてきれいな女の子がたくさんいて(笑)。夜じゃないと大きな決断ができなくなってしまった。夜は僕には大事な時間であり、素敵で大切な時間だ。

 で、曲だけれど、アルフィーの高見澤が間奏のギターを弾いてくれるということだったんだけど、テレビのバラエティー番組でケガして、出るなっていったのに、そこでつき指して、その状態で弾いてくれて、よくいえばシンプルな、悪くいうと・・・言わない。
ドラムは俺の打ち込み、ギターの小倉君、大好きなんだけど、おぐちゃんかベースを弾いてくれて、またミュートしたエレキギターを三回もダブリングしてくれて、このミュートしたギターこれはもともとは鈴木茂、彼のアイデア。彼のアイデアがロック、ニューミュージックだけでなくヒット曲の世界にも影響を与えた。これをバチっとやってくれた。そのアイデアを拝借して。ミュートのエレキギターを頼んだところ、三回ハモリましょうとやってくれた。そこに高見澤の間奏。 
 2019年のツアーでもやりたかったけれど、ギターが、もうひとりほしい、俺では歌いながら弾けないということになった。(夜という)僕にとって大切な瞬間をポップに表現したかった。

M ー2  夜が来た     吉田拓郎

(11時)

  佳代さん みなさん11時を過ぎました
  拓郎さん ありがとう

 そもそも僕は人間的に完璧とはほど遠い若者だった(笑)。病弱な少年期、読み耽っていた漫画や小説の世界の影響で「楽しくなきゃつまんないん」だというのが心の奥底に宿った。音楽に取り組みながら、楽しい何かがないと満足できない。スタジオでセッションしていて思うのは、ニコっとできることが浮かんでくる。そういう僕がいいんじゃないのということでやってみて、レコーディングのときはOKということでアルバムにいれたけれど、あとで6、7曲やめときゃよかったかな という冗談があるんで。その中からあえて三曲。遺言と思って聴いてくれ。アルバムに入れなきゃよかったのを3曲。

 まずはアルバム「元気です」の「馬」 ハハハハハ。石川鷹彦という名手と出会ったのが「元気です」。これは僕にとってはとても大きなことだった。彼はその時既に完成されたギターの眼を見張るテクニックを持っていた。ギターだけではなく、バンジョー、フラットマンドリン、ブズーキ、エレキギターも弾けるし、なんでもこなすんだな、驚いた。石川さん一人いればアルバムが作れる感じだった。演奏だけでなく、特に彼のメロディーが秀逸だった。ミュージシャンは、いいメロディ・メーカーでないと使いたくない。高中なんかホントにメロディー・メーカーだった。

 毎日、CBSソニーの六本木の最も大きい一スタで、今日は松任谷と、今日は石川鷹彦という感じで録音していた。当時はCBSソニーは新しい会社でフォーリーブス、にしきのあきら、天地真理、郷ひろみ、南沙織といったところがメインで、俺たちのようなフォーク・ニューミュージックは未知数で扱いは軽んじられていた。

1スタという広い、オーケストラがそのままはいるスタジオがあって、そこが取り合いになっていた。古株プロデューサーが確保していて、1スタにはなかなか新参者は入れない。そこでディレクターの前田仁が大見栄きって、吉田拓郎たちをおろそかにしてはだめだ、彼らがこれからの音楽の中心になるから自由に使わせろと言ったらしい。

 その1スタで石川鷹彦とリンゴをレコーディングして、休憩していて雑談になった。昨夜もビーブレッドでギターの矢島賢と飲んだ。最近飲み過ぎだと夜よく夢みるんだよなという話になった。変な夢で必ず馬が出てきてドリフターズのいかりや長介が乗っていることが多くて、笑っちゃうとこで目が覚めるという話をした。それ面白いから曲したらといわれて即興で作った。

 ワンコードでアドリブな感じがいい。鷹彦がC〜 Em〜 Am〜 Gをどうだと言われて、シンプルでいいなと思った。
 で、俺がトップにG鳴らしながらコード進行したらどうだろう、ということで Cでも一弦の3フレットを押さえっぱなしで・・・実演。石川鷹彦もカッコいい、オンGでG響かせようということになった。
 そのままだとフォーキーでつまんない、石川さんからお前そういうの嫌いなんだろ、ビートがあった方がいいだろうということで、なんと石川さんは自分の車からエレキベースを持ってきて俺のアコギにエレキベースを弾くというで二人で一発撮りで、すげー面白かった。田中さんが最初にノイズが欲しいということで、僕が「知らない」と入れた。

 いちおうキープしといたけれどアルバムには入れないはずだったが、曲順を決めている時に、前田仁が「馬」は超絶に面白くないかと、くそ真面目に”祭りのあと”とかクサイじゃないか…前田仁は、岡本さんの詞がクサイのが嫌い、そういえばエレックでおまえ”たくろうちゃん”っていうのもあったけど、お前お茶目なのが好きだろと言われて「馬」も入っちゃった。

 この「元気です」がブームになって売れに売れて、このジャンルは儲かるというきっかけとなった。それから50年以上  これはいかにも面白いと言いつつ、ちょっと恥ずかしい(笑)。これがなかったらこのアルバム もっと大人として成立
して吉田拓郎のイメージがそっちにいったかもしれないが、僕はそういう人間、「馬」とか入れたくなる。

Mー3 馬      吉田拓郎

(CM)
 次は「ぷらいべえと」というアルバムで、経営が怪しくなってきたときがあった。当時、ボブ・ディランのセルフポートレイトというアルバムが大好きで、ディランが「ブルームーン」なんていうスタンダードなポップスを歌うとは思ってもみなかった。大好きなアルバムだったけれど、評論家からはさんざんだった。わかってないな、こういう音楽性が素晴らしいと思っていた。それにならってディラン的にアナザーサイドの企画で作った。

 当時、時間と予算に追われていて、夜中の1時から朝6時まではスタジオ使用料が安かった。ミュージシャンもつかまらなくて、ギターの青山徹、キーボードのエルトン永田、先日亡くなったベースの石山恵三が何曲か来てくれた。
 頭をひねくり、ベースいないときもギターを重ねてその音圧で、だまけちゃえ!とかやっていた。そして体調崩して風邪をひいてしまった。だけど治るのを待つ時間がない。そのまんまで歌を歌った。自分の曲だったらいいんだけど、あの名曲「悲しくてやりきれない」僕も大好きだったんだけどあの出来上がりはフォークルの名曲中の名曲に泥塗った感じで心が痛んだ。しかもその日がもっともひどいときだったんだ。ごめんなつて誰に謝っているんだ。加藤和彦にすまんなといわなきゃ、その後たくさんスタジオワークもしたし何度も会ったがついにすまんといえなかった。

 しかし風邪を聴いてレコーディングしたミュージシャンは世界で一人だろう。そのアルバムが売れて会社も持ち直した。

M-4 悲しくてやりきれない     吉田拓郎

…総武線とまる

(CM)

 鈴木茂のアレンジで曲は大好きなカッコいいロックンロールなんだけど、おいおい よしてくれろー、この歌詞はなんなんだ。ギター弾いたことある人にはわかるかもしれない、ひとりごとにしちゃ変な詞で、どうしてこういうお遊びの曲をやってしまうのか。幼い生い立ちか。自分自身は楽しくで笑っちゃって。これがひとりよがりで通じないことがある。ステージでも やる気がない、とってつけたような曲がうけるのはどうしてなんだろう。ロックはなんで受けないんだろうとか。昔、Fの唄というのがあって、♪俺の電話で〜あまり評判良くなかった、女性が好まなかったな。女の子と遊ぶ歌だし。

 ギターの最初はCからだけど、僕はCの響きがあまり好きじゃない。5カポCでF、G、Dで始めるのが多い。でも楽譜集、歌本は、みんなCに置き換えているので違う
僕はEの響きが好き、だからEで始めるんだよという唄。Eは必然的にAに行き盛り上がったらBに行く、Bは一番弾きにくい。でもBが大好き、B7好き。

 Cはどうなんだろう、Dならいいんじゃない、ところでFが好きで恋もギターもしつこくやるならFから始めない手はない。

 Fは普通人差し指を一本1フレット目に置いて弾くけど、僕はギターのネックを親指回して6弦1フレットを押さえて ネックをギユッと握った時セクシーに感じる。変態だ。彼女の背中に手を回すそういうスリルがある。

 誰が聴きてぇか。ああ面白い音楽人生だった。

M-5 Fの気持ち   吉田拓郎

(CM)

 映画もそんなに名作があるわけではないし、見飽きちゃったし、テレビも他にないのというくらい同じことを偉そうに話していたつまらない。今日は、古い映画、僕も三度目だけど「テルマ&ルイーズ」という映画。実話らしい。
 田舎町で平凡な日常を暮らしている女性二人が旅行してみようとする。一人が途中でハメ外して、見知らぬ男にレイプされそうなのを救って殺してしまう。自首せずに逃亡の旅を選択する。逃亡中でも体験したことのない自由な感じ、しがらみに束縛されない本能に目覚める。
 刑事が追うが、本能的に悪人じゃないんじゃないかと確信して、犯人をなんとか救えないかと思う。しかし、刑事の思いが伝わらない。最後の瞬間に二人を追い詰めて自首しろというが、車の中で二人は笑顔で確認しあって・・・最後は言わないが、映画史上屈指の名シーンとなる。
 女性の自由へのあこがれ、不自由な日常からの逃避とともに、彼女らを犯罪者ではなく人間として理解しようとする刑事の話の話でもある。この三人がなんで通じ合えないんだろうと思ってしまう。スーザン・サランドン、ジーナ・デイヴィス、ハーヴェイ・カイテルあと若き日のブラッドピットが悪党で出てくる

■エンディング
 僕がこの世からいなくなったらたぶん追悼番組はできるだろう。最近の亡くなられたミュージシャン、作詞家、作曲家の特集を観ながら、俺も・・・もしかしたら追悼番組ないかもしれないが(笑)、ひとつくらい作るかな。すると70年代を共にしたミュージシャンの同世代やつらが語るだろう。俺しか知らないと言って話をする。名前は言わないが、だいたい出てきそうな人想像ついた。そういう追悼番組をいなくなってからやられても嬉しくない。大嫌い。なので佳代に追悼番組の依頼が来ても許可しないで全部断ってくれ。生きてるうちならまだしも、死んでからそういうのは断って欲しい。

 すると佳代さんは いいました。すばらしい。「いやだったらコメントを言いそうな人たちよりも長生きすればいいじゃない」 拍手。長生きしてそういう人たちがいなくなってから安心して旅立てばいいじゃない。
 なるほど。80年以降とか若いミュージシャンが言うのはいいけれど、昔のやつらが知ったかぶりで話すのが嫌なんだ。あいつらより長生きすりゃあいいんだ。よーし長生きしなきゃな。

 最後の曲は、かつてエレキブームでも一風違っていた。クリフ・リチャードのバックをやっていたが、自身のアルバムも出している。大好きなザ・シャドウズで「春がいっぱい」。

 M-6 春がいっぱい   ザ・シャドウズ

☆☆☆思いつきと感想☆☆☆☆☆☆

☆2年目突入ありがとうございます。大変な世の中にこうして拓郎のラジオを普通に聴けることに安堵する。生きていなけりゃ、生きていかなけりゃ。

☆そうか、当選のギターは冨山氏の直接手渡しだったのか。凄いな。でもいわば「魂」が宿る聖なる器みたいなものだもんね。あらためて当選者の方おめでとうございます。

☆シン・エヴァンゲリオンを無理して観といてよかった。あれはさ、一家団欒の食卓といっても地球の殆どが壊滅して生き残った場所での食卓というところでまた格別に胸にしみるのだ。地球は殆ど滅んでも「人生を語らず」は生き残っているんだよ。元気が出るじゃないか。それにもう一曲最後の方に拓郎関係というべき曲がありこれも感動的だった。

☆明るくカラっとしたスタンスか。若い世代の心によりそうように生きている歌に喜びを感じ、御母堂との約束を思う拓郎。その気持ちはわかるような気もする。そういう話を聴くと、1ファンの俺にも灯が未来につながってゆくようなしみじみとした喜びが湧いてくる。
 拓郎の唄によって人生がガラリ変えられて、その音楽がずーっと心にいて悪さをしつづける、あぁ、まさに自分じゃないか。なんだか荒れ果てた土地に取り残された孤児みたいだな。

☆ラストアルバムは、Kinkiもいいが松任谷や高中や鈴木茂、エルトンや島ちゃんたちとどんなふうに組むのかが超絶気になる。ラストは括弧でくくって、とにかく楽しみだ。
☆アナログ提案はすんばらしいです。ジャケットだけでもLPサイズでお願いできないものか。

☆大切なことはすべて夜に決断した、まさに「歴史は夜作られる」という話は面白かった。貴重な記録である。そうなると私のトホホ曲の筆頭だった「夜が来た」の意味合いが変わり、また違って聴こえてくる。それがまた面白い。面白いが、すまん、じゃあ「午前中に・・・」ってなんだったんだ。「午前中に僕はいろんなことを決めてその通りに動いている」(2009年コンサートツアーパンフレット「Have A Nice Day」インタビューより)って書いてあるぞ。野党の質問みたいですまん。

☆「馬」のメイキング。久々に感動した。こういう話をもっともっと早く聴きたかった。スタジオのために会社に啖呵を切る前田も、あらゆる引き出しから音楽的技を繰り出してアシストしてくれる石川鷹彦もすんばらしい。いろんな仕事が糾合されて「馬」が出来上がってゆく様子はドラマみたいにワクワクした。もともと「馬」を余計な曲と思ったことは一度もないし、今回のこの話を聴くともう、いとおしくて仕方がない。こういうドラマが埋もれていると思うと、いてもたってもいられなくなってくる。どうしようもないけれど。

☆前田仁は岡本おさみの詞がクサくて嫌いだった。ああこういう話も大好き(笑)

☆「悲しくてやりきれない」も鼻声は鼻声だけど、その逆境を見事に生かしてなんとも切なくていい味が出ているボーカルだと思う。泥を塗るなんてとんでもない、やはり格段に拓郎の歌のうまさが際立つ。
 「Fの気持ち」しかり。ひとりよがりだなんて思わない。むしろ革命的な歌ですらあると思う。今週の3曲はひとつとして余計な曲はなかった。それより、あの曲が余計ですとかメールしないどいてよかった。

☆追悼番組の話。佳代さん卓見ハラショ。そうだ長生きするしかない。ただのファンとはいえ俺もそうなったら今以上に遠慮なく鬱陶しいことを好き放題書きまくるつもりだ。ずーっと心にすんで悪さをするというファンの模範を示したい(爆)。だからたとえば僅か1日でもいい、俺より先に死んではいけない。とにかくどうかくれぐれも長寿と繁栄を。

☆「春がいっぱい」。昔聴いた高中のカバーもすばらしかった。ちょっと泣けた。

☆☆☆今日の学び☆☆☆
 「吉田拓郎はバーボンが嫌い。」ショック。知らねーよ。オバQの小池さんに本当はラーメンが嫌いと言われたくらいショックである。

2021. 4. 9

☆☆☆橋田町の唄☆☆☆
 訃報ばかりだが橋田壽賀子さんが亡くなった。向田邦子に魂を捧げた端くれとしては橋田さんのファンでしたなどと言うのはおこがましいが、お悔やみ申し上げないって法はないだろう。

 NHKの大河ドラマ「おんな太閤記」について、当時、吉田拓郎が、自分が1年間連続ドラマを観たのは生まれて初めてだと言っていた。翌年の正月に秀吉役の西田敏行が拓郎の自宅に訪れて「外は白い雪の夜」で二人ワルツを踊ったという伝説もある。
 しかし大河といえばなんといっても20年以上にわたってひとつの一族を描き続けた「渡る世間は鬼ばかり」をおいてほかにない。理不尽すぎる内容とか、好き嫌いとか、セリフなのか説明なのかわからないとか、ある日父親が藤岡琢也から宇津井健に代わってたら家族は驚くはずだろぉとか、そういうツッコミをはるかに超えてついつい密かに観つづけてしまった。
 視聴者とともに登場人物も役者たちも一緒に成長し老いてまた亡くなってゆく、この家族がホントにいるような感覚になるのだ。泉ピン子とえなりかずきはもう和解できないのか、本当に身体中が痒くなるのかシンちゃん。もう素もドラマも混然一体となってすべてが進んでいく、これぞリアル大河ドラマなのではないか。ずーっと拓郎ファンでいることとどこか重なったりもする。
 なんのかんので全部観てしまった自分としては、3シーズンで亡くなってしまったが、このドラマの陰の主演は山岡久乃であると思う。そう、「吉田町の唄」のプロモーションビデオに出ていらした山岡久乃である。違うか。特に山岡久乃と赤木春江の対決はもうゴジラVSコングくらい息詰まった。まだ観てないけど。
 
 ああ、生きている、もつれあい、もがきながら今日もまたどこかで息づいている命。そんな歌詞が失礼にも浮かんでしまう。これだけのものを見せていただいた橋田寿賀子さんの御冥福をお祈りせずにいられない。ありがとうございました。

2021. 4. 8

☆☆☆ああ生きていて生きててよかったと☆☆☆
 今日は森下愛子さんのお誕生日なのですね。おめでとうございます。お釈迦様と同じ日なのか。尊い。"ごめんね青春"で観音菩薩の役を演じていたことを思い出す。ということで今日は"花まつり"の日なので"心の破片"を聴いてみる。しかし、このアレンジのベースになったというあのフォルクローレの"花祭り"は、お釈迦様の花まつりとは何の関係もないのだと最近知った。でもいい。この作品は好きだ。特に松本隆のこの詞がいい。松本隆のこと昨日ちょっとディスった気もするが知ったことではない。こんな俺ごときが何言ったところでビクともすまい。良いものは良い。

2021. 4. 7

☆☆☆吉田町といえば☆☆☆
 タラレバは極力言わないようにしようと思う。さすがにこの歳になると、ああすれば良かった、こうすれば良かったなどと、言う方も言われる方も決して幸せにならないことが身に染みてわかる。しかしヘタレの俺はそうはできずに申し訳ない。

 その昔、吉田拓郎が紅白歌合戦に出場した翌月に甲斐よしひろのライブに行った。甲斐は突然MCで「紅白の吉田拓郎は『外は白い雪の夜』はないだろ、やっぱり『落陽』だろぉ」とタラレバな事を言ったことがあった。基本的に同感だが、俺に言わせるとあそこでこそ「吉田町の唄」なんだよと思った。
 「日本の父よ、母よ、子どもたちよ 今、吉田町の唄」というキャッチコピーはちょっとダサいけど正鵠を得ている。そういう唄だ。紅白で歌えば日本の50%以上のまさに老若男女が一斉に聴く機会だ。こんな格好の機会はない。普段は間違っても吉田拓郎なんかを聴かないだろう父も母も子もジジババも、鳥を見た日本野鳥の会の会員も、さらにはペギミンHと暮らす南極昭和基地の方々までも実に夥しい数の人々が耳にすることができたはずだ。「おお、なんかこの唄いい歌だな」「ああ、なんか家族を思い出すな…」と思った人もいたに違いない。すくなとも人々の心に何らかのクサビを打つことができた。繰り返すがそれほどの唄だ。
 天国の島に持ってゆくほどの愛した歌なら、なぜあそこで松本隆に頼ったのだ。すまん、非難したり責めたりしているのではない、涙ながらに問いかけているのだ。それにファンを自称しながら、宣伝は山岡久乃さんに任せて音楽番組にリクエストハガキひとつ書かなかった俺が偉そうに言えたことでもない。
 ただ俺は吉田拓郎が名曲を宣伝する機会を逸したことを残念がっているのではない。この国に暮らす人々がこの名曲に出逢う機会を逸したいわば国難、いや国なんぞに関係なく、この歌を知りそこなった世界中の人々の不幸を憂いているのだ。
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2021. 4. 6

☆☆☆歌いこむ人☆☆☆
 最近ガラにもなく誕生日は生まれた人へのお祝いと同時に生まれるためご尽力くださったすべての人々への感謝の日なのではないかと思うようになった。しかし今さら俺が自分の親にありがとうございますなんて言えやしない。ただ他人様ご家族の場合はちょっと違うので、昨日は「吉田町の唄」をしみじみと何回も聴いた。

 最初1991年に吉田町に提供したカセットのファースト・バージョンと92年のシングル・アルバムバージョンは、ボーカルの様相が少しだけ違う。ファーストはちょっとハードなボーカルだけれど、シングル・アルバムのボーカルはゆったりとのびやかに懐深いボーカルの印象がある。カセットを聴かせてくれた友人と聴き比べしたのも今は昔。ハードとマイルドと区分けし、どちらもいとおしいという結論だった記憶がある。

 ファーストとシングル・アルバムの間にあのエイジツアーが挟まる。つまり「吉田町の唄」を45回(正確には43回らしい)もステージで歌いこんでから後のシングル・アルバムのボーカルとなる。最初にチカラと思いをこめて熱く歌ったハードなボーカルが、時間をかけて何回も歌いこむことによって、懐の深いのびやかなものに変わった…とあくまで俺の勝手に推測に過ぎないが、それはそれでなんか感慨深い。

 それにしても聴きながら心の底から思うのは「やっぱ拓郎は歌がうまいなぁ」ということである。
 吉田拓郎は歌がヘタであると公言する輩が昔も今も結構いる。それは個人の感じ方なので別に怒りも湧かない。ただこのボーカルのうまさに気づかずに不幸な一生を送るがいいと思うだけだ。>怒ってんじゃん。
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