コンサートツアーが終わって肩の荷を下ろしたときに『落陽』は必要じゃないでしょってライブが見えてくる。
2010年6月・田家秀樹「吉田拓郎 終わりなき日々」インタビューにて
あれはもういらないっていう。
そのインタビューで、「今まで背負ってきた荷物を下ろす日なので、爽快な、これで終われるね!っていう気持ちになって、ツアーの最後の曲が終わった瞬間に解き放たれてそこに後光がさしてくる。新たな人生がみえてくるって確信してるんだ。
その先の方に光明がある気がする。」と語りました。その文脈で語られた銘言です。涙なしには読めねっす。
「終わり」ではなく「次へのステップ」だったのですね。「落陽」不要のライブ。上等です。一緒にそのステップについていきますとも。
音楽の傍で倒れたい
2010年6月・田家秀樹「吉田拓郎 終わりなき日々」より
「でも音楽は止めない、音楽の傍で倒れたい、楽器の傍で倒れたい」
という語りました。もう、たまらん銘言です。 カッコイイったらありゃしません。
どんな歌手も思っているようなありふれた言葉なのかもしれませんが、その説得力に打ちのめされました。他の歌手が言うと「男らしい生きざま死にざま」「ドラマチックな最期」というようなどこか芝居臭い香りがするような気がします。
しかし、この時の拓郎の言い方は、ドラマチックなものでもセンセーショナルなものでもなく、とてもおだやかに音楽と心から一体となった自然なものを感じました。
まさに人柄と人間の器の違いでしょう(爆)
あなたが音楽の傍で倒れるならば~あたしゃあなたの傍で倒れたいぃ~~
>都都逸かっ!
金がいくらあるかなんて考えたことないよ。
1980年4月「週刊FM 森永博志のインタビュー」より
この間納税の時わかった。
あーっ。ずいぶん金がないんだなっていうのが(笑)。
「森進一よ、離婚の慰謝料ケチるなら『襟裳岬』を返せ!」
啖呵を切ったことも忘れられません。
”身を捨ててこそ 浮かぶ瀬もあれ”
という故事がありますが、たやすいことではありません。
「吉田町の唄」のアルバムは好きなんだけど、いつまでも言ってても仕様がないし。
1993.12 ぴあ出版「ヒストリー吉田拓郎」のインタビューより
これがわからないのはお前たちがバカだって結論だしちゃう(笑)
今の時点で「吉田町の唄」については作品もアルバムも永久不滅の名作であることを否定する人はいないでしょう。今でこそ名曲の「流星」ですが、当時はセールスはかなり悪かったはずです。だからこそ20年近くも封印しされていたのかもしれません。
私も「流星」はいい曲だけど地味かなぁと放置しておりました。やがてこの作品に救われる日がくることも知らずに。当時、レコードは買いましたが、例えばTBS「ザベストテン」や文化放送「小川哲哉のあなたが選ぶ歌謡選手権」ニッポン放送「ロイジェームスの不二家歌謡ベストテン」にリクエストはがきを書く、友達に聴かせる、親戚の法事で流すなど、もっとこの作品をきちんとレスペクトすることはできたはずです。そういう意味で、私は自分の不明を恥じます。
拓郎の新作をリアルタイムで的確に評価しえなかったことがこれまで何度あったことでしょうか。こんなサイトをやっているのは愚かなる自分のその罪滅ぼしの一貫であります。遅まきですが、とにかく讃えるべきものはきちんと讃えないといけません。それが今を生きることだと思うのです。
変態の心、理解せずして、何の健康体か
1984年1月・「俺だけダルセーニョ」より
自分の思い通りに、やりたいことだけをやってきて、人のためになんか生きたことないもん。
2010.6 田家秀樹「終わりなき日々」より
ボランティアでもない、チャリティでもない、
なんでもないね、俺って。
かつて御大は、スーパーバンドのチャリティ公演の記者会見で「チャリティーに出てって歌うのがとても億劫なんで、バンドだったら楽しめるかなと」とズケズケと答えていました。フツーは「被災者の方々に少しでもチカラになれば」というお約束発言をするところをすっ飛ばして「億劫」と言ってしまう、正直すぎる御大。一般国民はどう思うだろうか・・というわけで観ているファンの方が焦りました。
ファンならば、昔から御大がいつも災害や事故の被害に遭われた方々に対しラジオやネットで衷心とお見舞いの意を示してきたこと、人一倍その哀しみに胸を痛めている人であることを知っています。
しかし、音楽家である以上、音楽家としての「必然」が湧きあがった時に、はじめてそこに「日本を救え!」も「チャリティ」もあったわけです。求めたい気持ちは十分わかりますが、「こんな時だから拓郎よ、チャリティで歌ってくれ」「歌うべきだ」「スーパーバンドを再結成すべきだ」と外から焚き付けたり懇請したりするのは違うのでしょうね。
大義があって音楽があるわけではない。「何かのためでなくていい(決断の時)」。大義振りかざさないところに御大の清廉さがあり、また不器用ゆえの憂き目もあるわけです。
ファンも誇らしかったり、歯がゆかったり、いろいろ大変です。でも、「それはその人の問題」ですので。
社会的制裁も免れないでしょう。
1980.10 石原信一「挽歌を撃て」より
でも、陽水は私たちの財産なんです。
この発言とこの件を巡る御大のお詫び対応は今でいう世間の強烈なバッシングにあいました。
世の常識人からは、「薬物使用者を庇うのか」。 また進歩的文化人からは、なぜ自由と文化のために「マリファナのどこが悪い」と体制と戦わないのかと。 ・・・まさしく四面楚歌の状態の拓郎でした。 「カッコ悪い拓郎」「オトコを下げた拓郎」という文字がマスコミの雑誌等に並びました。
ずっと後になってから拓郎は「オレは陽水を早く自由にしてやる。それしか考えていなかった。」と述懐していました。御大にとっては、そんな大義やメンツなんかどうでもよかったのです。
「陽水は私たちの財産なんです」
なんと深い愛に満ちた言葉でしょうか。うっかりすると反芻するだけで泣きそうになってしまいます。こんな心のある言葉を発することができる大人が、当時拓郎を叩いた常識人や進歩的文化人のなかに何人いたでしょうか。拓郎の素晴らしさを刻む名言として取り上げた次第です。
おやじ、おふくろ、兄貴、姉貴・・・
2003.夏「文芸ポスト」のインタビューより
なんか俺は吉田家の一族としては
足んないんなと思ったね。
足んないなぁと思って泣いたね。
「吉田家の一族として足りない」
意外な答えでした。
「家」という概念には縛られない、少なくとも縛られたくない人と思ってました。それにどう考えても、ここまでの功成り名遂げれば、一族の誉れでありましょう。「足りない」と泣く、その心根には何があったのか。
わからないです。わかるはずもありませんが。たぶん、家族が人にそして自分に注いでくれた愛情の深さを見つめているのではないかと 思います。そんな問を持ちながら「おやじの唄」「吉田町の唄」「清流」を聴きこんでいきたいと思います。
ギター一本でやって
1989.3「東京ドーム」公演後のインタビューより
日本で一番うまいのはオレに決まってるだろ
だから もったいないので聴かせてやらん
しかし拓郎本人は「弾き語り」=「拓郎の本質」という評価は気に入らない様子です。確かに拓郎の弾き語りは神のごとき技ですが、本人は、バンドやミュージシャンたちと豊かなアンサンブルを作り上げていくところに音楽家としての天職を感じているのかもしれません。「弾き語り」の名のもとに「フォーク」の余計な荷物を背負わされていたからでしょうか。
本人は、その後2000年ころのインタビューで
「ギター一本で何万人でも倒してみせると思ってたけれど、ずっとやらなかったら、下手くそになっちゃた(笑)」
おい、おい、おい。国は無形文化財に指定しておけば良かったのではないか。
符号をあせってつけないでほしい、あなた方の譜面上に
1984.1「俺だけダルセーニョ」より
ちなみに別の機会に、譜面は一目で一覧できるよう「必ず一枚にまとめる」とも語っておられました。これもまた示唆深い一言であります。
譜面を一枚にまとめて大切に大切に人生を奏でる。これぞ御大の人生の極意とみました。
顔。単なる顔。
1988年1月10日・TBS「気ままにいい夜」にて
村上が「それは今まで自分の仕事や経験が顔に現れたという意味での『顔』ですよね?」 とフォローしても拓郎は冒頭のようにキッパリと言い放ちました。
私たちは作品やステージをほめそやしますが、吉田拓郎がルックスの人であることも忘れてはなりません。ご本人は昔から「僕は顔がイイから売れた」と明言しています。特にフォーク界では、ルックスが良さげなのは、せいぜい加川良か友部正人くらいで、自分のルックスがダントツだったと述懐しています。
ルックスも音楽性もライフスタイルもピカイチのこのオレを場違いなフォークの世界に閉じ込めやがってという御大の心の叫びを感じます。自分は沢田研二と競うべきだったという悔恨が滲みます。
御大のルックス優位は、その後のニューミュージックやJ=POPの時代になっても不変でした。そのルックスにおいて小椋佳はもちろん(爆)、谷村新司も松山千春も桑田佳祐も槇原敬之もよもや敵ではありますまい。
唯一、危うかったのが「福山雅治」の登場ですが、ま、そこは、せいぜい同率一位ということでルックス・トップの地位は今もなお確固たるものと言えましょう。・・・いいんです。勝手なサイトなので。
それは、その人の問題でしょう
1994年8月20日「フォーク大全集」にて
「拓郎さんは、これまでにも、歌をやめるとか、今後ステージには立たないとか、古い曲は歌わないとか、いろいろ言って、もうそのたびにファンの人たちも信じてしまって(振り回されて)大変でしたよね。」
というと、拓郎は、少しムッとして上記の銘言を発したのでした。
「それはその人の問題でしょう。僕は僕で大変だったんだから。」
実に気持ちよくいい放ちました。憎らしいくらい(笑)。しょせん人間は一人である。ファンと歌手との正しい距離を見つめ、お互いにデレデレと依存しあい慣れ合うことへの剔抉でしょう。
私達にも日常生活で「こんなことになって、どうしてくれるんですか?」とクレームされた時の切り返しワードとしても使ってみると面白いと思います・・・効果までは保証しませんが。
「今オレはコレ(75年)と戦っているんだから」
田家秀樹「終わりなき日々」より
「お客さんが2006年のつま恋を全曲聴いた後で『人間なんて』を聴きたいと思ったらオレの負けなんだよ」
こういう拓郎の心意気こそがファンにとっての魅力です。戦うといっても75年を凌駕しようという戦いではなかったと思います。30年という時間の経過を見つめながら、老いるべきところは老い、負けるべきところは負ける その果てに煌めく「大人の祭り」のための戦いだったに違いありません。そして私達は、75,85年とともに、豊かで素晴らしいつま恋を手にすることができたのでした。
客だからってデカイ顔すんじゃねぇ。
1986.10「月刊PLAYBOY」その他多数
「拓郎は変わった」「拓郎らしさが消えてしまった」「昔は素敵だった」「今回の新作(ライブ)は、がっかりだ」等、これほどまでに、ファンからダメ出しされる歌手も珍しいです。
71年の「オンステージ ともだち」のライナーノーツに、「最近の拓郎はやはり変わったのでしょうか?」と書いてあり驚きます。そんなデビューして僅か半年の歌手に、変わったも何もあるもんか。つくづく御大の長年の苦労が偲ばれます。
ファンにしてみれば「アナタの存在とその言動がファンに過剰な期待をさせるんじゃないの」という言い分もあるかもしれません。もはや、これは心理学でいう「交差交流」つまりはコミュニケーションの不成立に近い状態ではないかと思われます(爆)。
幾星霜を経て「とにかく拓郎が歌ってくれればそれだけで満足だ。」「生きていてくれさえすればいい。」という声をよく聞きますが、私も心からそう思います。しかし私を含めそういうファンの多くが、御大が実際に歌いだすと、あれこれ言いたくなるんだな、これが(笑)。
基本は、「音楽家」と「音楽愛好者」の関係のはずが、かくも屈折した愛によって、非情に複雑なパズルのようになってしまっているのが、御大とファンとの関係と難しさと申せましょう。
朝までやるよ。
1975年8月2日 つま恋
「みんな元気ですか。朝までやります。朝までやるよ。朝まで歌うよ。」
まさに歴史的名場面に歴史的銘言の誕生の瞬間です。「朝まで」というだけで血が燃え立つ人も多いでしょう。まさに自分の中の何かが覚醒する「野生の呼び声」ともいうべきサインであります。いまだにライブに行けば観客席で誰かが叫んでいるわけで、もはや花火大会の「玉屋」「鍵屋」と化しているものと思われます。
79年「篠島」、85年再びの「つま恋」といろいろな「朝まで」がありました。そして、幾星霜を経て、2006年つま恋は、日が中天に上った午後1時から夜9時30分まで挙行されたのも記憶に新しいところです。
気にしていたのか「朝までやらなきゃ男じゃないというのは嘘だね」とつぶやいていた拓郎。しかしか気にすることはありません。これが、たとえばロスアンジェルスの時刻だと、夜8時に開始、翌朝5時30分に終了したことになります。堂々たる朝まで公演であります。実際に、ロスでは、「TAKURO YOSHIDAが、4度目の朝まで公演!!」との話題で持ちきりだったようです。あのな。
2006年は「朝までやった」というのに語弊があるのなら、「朝までやらなかったわけではない」ということでどうでしょうか。・・・どうでしょう・・って言われても(^^ゞ
原点とやらを過去に求めたりするんでなく
1977.7雑誌「クエスト」インタビューより
あくまでも現在の中に見出していきたい
という発言に続く冒頭の銘言です。
「原点に帰る」とか言って昔の歌しか歌わない歌手。そういう原点に帰ったままの歌手とは一線を画す拓郎です。帰った原点から、いかに今現在を構築するか格闘せんとする御大の心意気がしのばれます。
切った。それはもう今でもほんとに悲しいくらい切った。
1986.10「月刊PLAYBOY」より
その人は恨んでるでしょう、その家族もみんな。
「その人は恨んでいるでしょう、その家族もみんな」この言葉に、どれだけ拓郎が苦しんだかが滲み出ています。特に「家族」に思いを致すところに「吉田拓郎」を感じます。
別の機会には「この社長時代から、曲も詞も苦しんでひねり出さなくては作れなくなった。自分の才能のストックが尽きた。」という趣旨の述懐をしていることも忘れられません。いかに凄絶な時間であったことか。
「社長ごっこ」「会社ごっこ」と世間は揶揄しますが、この時の本気の戦いをせめてファンとしては、誇りと敬意をもって心に刻んでおきたいものです。
社員が、「(社長が)フォーライフなんて知らないだのなんだの暴言吐いていいんですか?」と言うんだ。
1979.7「週刊明星」より
なんか文句あるか、本当に思ってるんだからいいじゃないか。
もはや心の底からアーティストになっていることがうかがえる銘言です。こうじゃなくちゃイケません。
君、スケコマシでしょ?
1998.6.13「お喋り道楽・小林武史の回」
拓郎は、ずっとこんな顔→(^○^)していて、話なんかぜんぜん聞いちゃいなくて、突然、この暴言ちゃう銘言を小林武史に向かってカマしたのでした。
小林武史は、苦笑してましたが、ぜったい怒ってたはずです(^^ゞでも、観てて妙にスカッとしました。おいおい。
お茶でお客さんを迎えるときに、きれいな水をまいておくわけ。
1989.3「東京ドーム公演・公式パンフより」
その「打ち水」をしたんだ。この「打ち水」を通過してない客は、無礼な客なの。
さすが裏千家吉田宗拓、例えが素晴らしい(^○^)
あの日ホントに無礼な客だったのは、吉田拓郎に全く興味がなく、完成から日が浅かった「東京ドーム」の見物のために招待券でやってきて会場内をウロウロしていた人々であります。
出ようが出まいが俺の勝手だろ
1999.6 TBS「情熱大陸」より
「なぜ拓郎さんは今になってテレビで出るようになったのですか?」
という質問に対して。
当時、この質問はいろんなところでお天気の挨拶のようにしょっちゅう尋ねられてい ましたよね。
拓郎はいつも「実は50歳になって、新しいことを・・・」と真面目に答えていたのですが、ついに爆発(^○^)
いいーぞー御大ヽ(^。^)ノ
というより、当時のこの種の質問の裏には、「今頃になってテレビでやがって」という世間の揶揄が含まれていた気がします。
昔=ミュージシャンで今=テレビタレントという人はあまたいます。拓郎もその仲間入りなんだろう・・というある種の悪意を感じました。
しかし、私もこのころの拓郎の年齢になって思うのです。
この歳になって、十代の若者の世界に入っていって、そこから何かを学ぶということはとても容易にできることではありません。
ましてや功成り名を遂げた天下の吉田拓郎です。
勇気も要ったし、悲しい時もあったでしょう。
♪人に隠れて泣いたでしょう
そして、この番組で見事に若返った拓郎は、番組が終わってもテレビタレントなんかにはならず、音楽家としてさらに驀進したわけです。
ビッグバンドツアーに、つま恋に、幾多の新曲にとさらなる偉大な実績を残したところに括目すべきでしょう。
矢沢永吉が『おまえはむいてないよ』て言ってくる、でも敗けない。
1977.12八曜社「大いなる人」より
矢沢の音楽はアレはアレでいい。でもオレは敗けない。
内田裕也が『ロックはオレだ!』と言う。オレは敗けない自信がある。
そんなころ、お酒が入ったインタビューで、
「みんながオレを負かそうとしてくるけど、オレは負けない。」
と拓郎が啖呵を切る。
最悪に困難な状況でも、奮い立って進むもうという気概と気迫。
そんな時に吐かれた言葉として受け止めたいです。
もちろん今になると、拓郎の境涯とは違うかもしれないし、「若気の至り」と謙遜する かもしれないけれど、様相は変われどこのスピリットは不滅。
くぅぅぅぅぅ、やっぱり、かっちょええええ。
ギターを持って唄うから
1975.7「よしだたくろう71-75 リーフレット「酔醒」」より
弾き語りをやるから、
それだけで変な仲間意識など持たないでもらいたい。
仲良くやって行く気など僕にはないのだから
少数派よ 魅力的であれ
1983.12「俺だけダルセーニョ」より
吉田拓郎は、いつだって本流からアブレてしまった人々の味方でした。
真剣に、自分に正直にすすんだ結果、本流からアブレてしまう人々、いわゆる「少数 派」に、静かなエールを送る。それこそが拓郎の歌だと思います。・・・あくまで一個 人の見解ですよ(^^ゞ
ジョン・レノンが死んだとき拓郎は、
「結局、アブレ者は社会から抹殺されるんだ。」
と悔しそうに泣きました。
ジョン・レノンといえばある意味で「天下の王道」のようにも思えましたが、 拓郎は、そんなふうにジョンのことを観てシンパシーを感じていたのかと思いました。
「アブレ者で少数派こそ、輝いていて欲しい」
という拓郎の切なる願いが胸に迫ります。
例えば”Life”という歌はその結晶のような歌でしょう。
せめてもの僕の生きる姿として
常に新曲を作り続けていく音楽を傍らにおき続けながら次なる新曲の夢を見ることとしたい
(2009 ツアーパンフレットより)
次なる新曲の旅が今も続いている至福をかみしめましょうぜ。
・・・ちょっと旅と旅の間が長すぎる気もするが(^^ゞ
夢を言うなら戦争がなくなってほしい。
(1982.8ギターブック10月号/杉田二郎との対談?)
戦争は大嫌いだ。
ギター持つこの手で銃は持てないから
(1982.5武田鉄矢「ふられ虫がゆく!」より)
「個人同志はもっともっと腹蔵なくケンカすべきだと思う。しかし、戦争は許せない。」
という話に続けて、この言葉が語られます。
「戦争をなくすために音楽で何ができるか」というところまで話が及びます。
武田鉄矢が拾ったこの名言もシビれます。
酒の席の話ではありますが、酔った拓郎が武田鉄矢に語るのです。
「もし戦争が始まって、徴兵制が敷かれたら、オレは自殺する。ギター持つこの手で銃は持てないからな。
鉄矢、おまえはどうする。一緒に自殺するよな。」
武田「いえ、あの、私は、戦地に芸人として慰問に行きます。」
「きたねぇな、おまえってヤツはっ!(笑)」
すべての戦争を許さないというスピリットは拓郎の作品の中に静かに息づいているものと思います。
天才に向上心はいらない
(1986.10「月刊PLAYBOY」より)
インタビュアーが、他のシンガーの名前をあげて「彼は向上心がすごいですよね」と語ったときの答えです。「天才に向上心は必要ない」とキッパリ。
これは他の歌手がどうだと言う話では全くなくて、インタビュアーが、「音楽家には向上心が必要だ」いう前提で、「あんたはどうなんだ」というスタンスで問いかけたことが、もうアウトだったに違いありません。
向上心がないということは、練習を怠けたり仕事しないこととは違います。
向上心とは、「努力」「頑張る」と同義で、本当は好きでもないし面白くもない義務や仕事をどんどん片づけていく忍耐・根性のようものだと思います。
たとえば音楽なら音楽というものの本質・深奥と一体になってしまった人、いわゆる天才は、一般Pには苦行・難業にみえることを、ごく自然に摩擦なくこなしていくものだという、意味だと思います。
拓郎がスタジオで熾烈なリハを繰り返し、「音」を詰めて行く作業は、傍目からは、大変そうな作業に見えますが、それは決して拓郎が向上心をもって頑張っているからではないのです。まして他の歌手と比較されるものでもありません。拓郎に対しては失礼千万です。
芸術家は、「努力」「頑張る」「向上心」とか思った時点で、芸術の本質からは外れ 、敗北してしまうという意味なのだと思います。その含意をかみしめたい銘言です。 ・・でも、まぁ、もし頑張ってくれるのであれば、それはそれでファンは嬉しいけれど
>どっち なんだ