ひとりシンポジウム “LIVE2016とは何だったのか”

 2016年のツアーが終わる。至福の時間だった。ああ、まだ余韻の吹き荒れる抜け殻状態だぜ。ライブの前は、「つま恋から10年、還暦から10年」とかあれこれ勝手な感慨に耽っていたが、もはや何かから何年とかじゃなく、このツアーそれ自体が輝くエポックとしてこの先の何かの目印・マイルストーンになるような素晴らしいものだった。個人的にも忘れられないライブとなった・・どのライブも忘れてないけど。
 そして何より御大は、これからもツアーを続けることを暗示してくれたし、来年は名古屋、「5年後に全国ツアーに戻す」とまで口走ってくれた。5年後。いわずと知れたボブ・ディランの今と同じ歳だ。これ以上嬉しいことはあろうか。

 しかし、しかしだ。例えば、試合は勝ちさえすれば、そのプレー内容は全部OKでイイのか、三ツ星をもらったレストランの料理は全部美味しいのか。そんなことはあるまい。明日につなげる反省会とストーミングがぜひ必要なはずだ。
 ライブの成功を祝い酔いしれつつも、決してこれで「終わり」や「アガリ」ではない。明日に向かって進む御大と私たちだからこそ、めでたし、めでたしで終わらせられない。「真実のライブ」だからこそ、涙ぐみながら(笑)にあれこれ言っておきたい。

 それでもLIVE2016が残念な三つの理由
 それでもLIVE2016が最高な三つの理由

 ときたもんだ。

それでもLIVE2016が残念な三つの理由

残念な理由1.選曲が凡庸だから

 出た。昔からファンと御大を悩ませ続けたであろうセットリスト問題。人に好き嫌いがある限り万人を満足させる料理のレシピはない。セットリストも同じだ。しかし、しかしだ。
 「春だったね」「落陽」「流星」「人生を語らず」、今回は無かったが「外は白い雪の夜」を筆頭にする定番曲、また今回の演奏曲の多くはここ数年で何度もリフレインされているものが多い。もう十分ではないかと思う。率直に言うと・・すまん、飽きた(爆)。ライブのDVDも擦り切れる程観ちゃったしさ。もちろんこれらはいずれも超絶な名曲だし、そもそも今回のオープニングの怒涛の4曲にも、ああして歌われると打ちのめされ何度も涙ぐんだものだ(爆)。

 しかし、400曲以上とも言われる御大の名曲のレパートリーからなぜ同じ曲ばかりくり返すのか。もったいない。
 かつて「『落陽』は要らないというライブが見えてきた」と御大は自分でも言っていたではないか。もっともっと眠っている他の名曲を聴きたい。例えば、こんだけ「ジャスト・ア・RONIN」を歌うのであれば、一度くらいA面とB面をうっかり間違えて「RONIN」を歌ってみるとか。なんだそりゃ。

 もちろん読んじゃいないだろうが、おそらく御大は「何を歌おうと俺の勝手だろう」と怒るはずだ。しかし、こんなサイトを続けているのは、御大の素晴らしい作品群が大量に溢れかえり、その溢れた作品が地中に埋もれかかっている気がしてならないからだ。だから膨大な名曲の宝庫に埋もれた素晴らしい名曲たちのひとつひとつをちゃんと素人なりにマーキングして愛でておきたかったからだ。

 今回の「WooBaby」と「やせっぽちのブルース」の再入魂は嬉しかったし素晴らしかった。もっともっとそういうのが欲しい。御大は「自分の作品は、みんな自分の子供たちで、いつか自分に返ってくる」と言っていたとおり、もっともっと眠っている子供たちをみつけて出して愛でていってほしい。

 とはいえ美空ひばりが「リンゴ追分」を、ストーンズが「サティスファクション」を、マイク真木が「バラが咲いた」を、藤正樹が「あの娘が作った塩結び」を(爆)定番として歌い続けるように、やはり定番曲が不可欠なものであれば、せめて同時並行で、未演、疎演な作品たちをもっともっともっとたくさん再発掘して、愛でながらステージで歌心を再注入してほしいと思うのだ。

 「定番曲」と「レア曲・新曲」とでしっかりと撚られてこそ「あざなえる最強の縄」ではないか。「トットてれび」の向田邦子の回より、向田理論と名付ける。いみふ。

残念な理由2.もっともっとバンドなバンドが観たかったから

 今年で三回目の武部・鳥山ラインと名うてのミュージシャンたち。今回のライブを鑑賞された某巨匠が、「あれだけ拓郎さんが気持ちよく歌っているのだから、それはバンドとしての素晴らしい仕事をしています」と語った。御意。しかし音楽を知らない一般Pは、黙ってろとも思うが、一般Pだからこそ恥知らずに言ってしまう。

 例えばキーボードが一台とはどうなんだ。かつて、松任谷/山田、永田/中西、松任谷/隅野、鎌田/竹田、小林/永田といったツインのキーボードの音楽世界で育った自分は、もう一台キーボードの音色がどうしても欲しい。
 てか、そもそも誰も弾いていないのに、音が出ているのがどうもなじめない。もちろん、どんなライブでもサンプリングは不可避なのだろうが、例えば「白夜」だって、2009年のビッグバンドで初演のイントロは、キーボード2台にストリングスが寄り添っていた。聴くたびに涙がでる。そんな生音のすばらしさを教えてくれたのは御大、あなたではないか。
 さらに、今回の「マークⅡ」は、そりゃもうすげー興奮したが、やはり本物の管の音が、臍下丹田を突き上げるように唸っていてほしい。
  
 というわけで音楽的構成としては合理的なのかもしれないが、演奏を満たすメロディーや楽器が「鳴る」という質感が、どこか足らなかった気がする。

 さて、コーラス陣の若者は、爽やかで勢いがあってステージを活気づけてくれた。おそらくは、御大のボーカルやキーボード等のメロディー部分を積極的にコーラスが補う組み立てなのだと思う。ただコーラス陣は、上手いものの、若さゆえに青竹のようで高いハモリは、残念ながら御大のボーカルとがあまりしっくりきていた気がしない。
 そしてそんな好青年たちにさらにすまん。満面の笑顔でブイブイ踊っている姿はほほえましいが、なんか元気過ぎるし、テンションが高すぎる。もっと言うと蒸し暑くうるさい。底意地悪い私に言わせれば、君らは「吉田拓郎」のバックコーラスなんだ「田中星児」のバックじゃないんだと言いたくなる。ごめんな、私がジジイなせいかもな。でも会えてよかったよ青年たち。

 バンドというと御大が演奏に身を委ね、演奏に見入り、アイコンタクトを繰り返す絵が浮かぶ。最後のハンドインハンド。例えば、王様バンドの時、彼らは手なんかつながなかったが、その演奏、立ち居振る舞いすべてから「バンド」という強烈な体臭が発散していた。
 昔のバンドが、素晴らしかった、よかった、もう一度というのではない。結束において、音楽的な質力において、ハートにおいて、王様バンド、LOVELOVEオールスターズ、そしてビッグバンド等、これまでのすべてを止揚した現代の最強のバンドを見たいのだ。
 そこでバンドという密な空気で仕上げられた音楽の海に楽しそうに身をゆだねている御大を見たいのだ。

残念な理由3.最高のボーカルに仕上がった途端に終わるから

 初日の市川では、御大の声が変わっていてびっくりした。あるいは音響のせいかもしれない。ただし、「君のスピードで」の声なんかは、今までとまったく違っていた。
 しかし、その声は、最初はややきつそうだったが、やがて伸びやかに、ゆとりをもったボーカルに変遷していき、美しく仕上がっていくのが素人でもわかった。そんな風にボーカルが絶好調に至ったところで、ぷっつり終わってしまうという因果な超短期のツアー。次があることは嬉しいが、また2年先なのだろうか。もっと歌ってくれよ、もっと演奏してくれよとは、誰もが言うことだし、誰より御大本人がそう思っているに違いない。わかる。ここまで大変だったこと。このうえさらに歌えというのがいかに無茶なことはわかる。「朝までやれ」くらい無神経な要求なのものわかる。
 しかし、ここまで美しく仕上がったボーカルが、行くあてもなく、ここで終わってしまうのも悶絶するほどもったいない。

 このステージが、時間と労力を結集し、精緻かつ丹念に作り上げられたものであることはSONGSで御大が語ってくれ、またスタジオの様子も垣間見せてくれたからよくわかる。
 言ってみれば、料理人が腕と経験と技術の粋をつくしたスペシャルディナーのコース料理みたいなものだ。
 しかし、そういうフォーマルなライブもいいが、その隙間を埋めるような、ビストロのような定食屋のようなステージもあっていいのではないかと思う。それはテレビでもいいし、小さなライブスポットでもいい、B面や提供曲あたりから10曲前後でいいから取り上げて、サラリと歌ってほしい。そんなのは無理か。なんなら気分次第で御大は来なくてもいい(笑)。「吉田拓郎が歌うかもしれないライブ(自己責任)」とかでいい。2年間とあけず、日々の暮らしに溶け込むように歌えるリラックスしたステージってないものだろうか。なんとかして、このボーカルを保存・改良すべく歌い続けてくれまいか。

それでもLIVE2016が最高である3つの理由

最高の理由1. 美しい舞台人としての御大がいるから

 70歳になった、声も変わった、目力もなくなり(本人談)、エーエーエーいうようになった。人間としてのあらゆる加齢の宿命を超えて、それでもなお美しく勇壮な吉田拓郎の姿があった。素晴らしい。
 何十回でも言うが、あの立ち姿のシルエットがあれば、たとえセットリストに文句があろうとも、あの姿を見るために、何度でもどこへでも足を運ぶ。
 また2時間以上も、重いギターを抱えて立っていることは、よく考えると、いや考えるまでもなくもの凄いことだ。私のじいちゃんは70歳の時は一日中座椅子に座って動かなかったし、普通の70歳の人はそんなに長時間立っていられまい。だからこそ電車には優先席がある。
 しかも、そのうえに「歌う」というとてつもない心身の重労働をやってのけるのだ。美しく、繊細にして、強靭な舞台人がそこにいるのだ。

 ・・・・あ、でも無理しないで、次の時は、時々座って、休憩もしてほしい。

最高の理由2. 音楽と結ばれた歌心が超絶素晴らしいから

 重苦しい初日のハードな市川から大宮にかけての蘇生、そのあとの進化ぶりには目を見張った。より身軽に、より美しく、より清々しく,御大はステージの上でのびやかに変わっていった。何度でも引用するがエルトンさんの「ライブの現場で蘇生し・進化する人」という言葉がまさに正鵠を得ている。

 今回つくづく思ったのは、それは、努力とか根性とか鍛錬というものではなくて、御大が心と身体で「音楽」を愛し、結縁しているからではないかと思う。御大は、SONGSで、「人生いろいろ道のりは長かった、今なら人生も語れる」と語った。そこで「でも」、と断って、「音楽を始めるとそんなことがみんな全部飛んでしまって、ああ幸せだなあという気持ちひたる」と語っていた。横浜でも、「若いころと違って、最近、音楽をしていると気持ちよくて仕方がない」と漏らしていた。
 以前の日記で西田幾多郎の「純粋経験」とか戯言を書いたが、まさに音楽とひとつになった「純粋経験」、それがゆえに真実と一体となった至福が、御大のすべてを動かしているような気がする。だから、そこには、エネルギッシュだけど、リキんでいない、無理に駆り立てているでもないナチュラルに素晴らしい姿がある。そして、私たちも会場でそんな御大と一体になる瞬間に無上の幸福を得ているのではないかと思う。
 こんなスピリチュアルがかった言い方はしたくないけど、これってさ、御大も観客も、時間をかけてたどり着いたひとつのライブの境地だと思うんだよね(笑)。

 だから、セットリストで不満を垂れた作品についても、御大の歌には異様な説得力があったし、いくつもの名場面があった。

 「アゲイン」は、今回も光を放つ不思議な作品だった。ひとつの作品というよりも、ライブのすべての楽曲のエッセンスを集めて、またすべての楽曲を照らしかえす灯のようであり、そのうえ私たちのこれまでをも照らし出すかのようだ。そんな御大の歌いこみもまた素晴らしかった。聴いていて陶然となった。

 本編中新曲に昇格した「海を泳ぐ男」。「年齢を重ね」、老いるべきところは老い、負けるべきところは負ける。しかし、それでも清々しい明日はある。思い出に足をとられずに毅然と泳いでゆく。そんな爽快さが胸にしみる。「ありのままでいればいい こだわるほどのことじゃない あれはみんな陽炎だったから 今は少し沁みるさ この胸に」・・ いろんなものを振り捨てながら明るく進むフレーズに勇気づけられる。

 「いくつになってもHappybirthday」については、もうこれは国歌にすべきだ。ついでに「夏休み」「吉田町の唄」は唱歌。さらについでに「a day」は、社歌にしてすべての働く女性を元気づけよう。

 本編ラストの「流星」は、このツアーでは特にたまらなかった。最後の最後に感極まってしまう御大の姿に涙し、最後を見事に歌い切ったら切ったで、御大の爽快な笑顔にまた感涙する。どうすりゃいいんだ(笑)とにかくどっちにしても泣くんだから、大切なのは歌いきるかどうかではなく、万感の思いでこの歌が歌われ、「老成」という曲のテーマに追いついた私たちが、みんなスタンディングして聴き入る時間の尊さである。

 「ある雨の日の情景」の至福の合唱参加。そのあとで御大のギターリフの中でバンドが動き出す。なんという名場面。何度もお詫びしたが、スキャンダラスで自堕落な軟弱曲と打ち捨てていた(おい、そこまで言ってなかったろ)「Woo Baby」をここまでポップでカッコイイ作品に蘇生させた御大。またステージのたびに軽やかで爽快な曲に仕上がっていった。思わずステップを踏みたくなるウキウキ感。たまらんぞ。

 「悲しいのは」。「人生を語らず」の前に「悲しいのは」を歌うというこの物量功勢からして凄い。飲み会の後の〆に「ラーメン二郎」へ行く前に「日の出屋カレー」に寄ってメチンカツカレー食べていくようなものだ。いみふ。
 もともとの歌詞は、悲しいのは →私がいるために、→私であるために、→私自身だから、で完結する。原題が「私」であるゆえんだ。だけどこのツアーでは「時が過ぎてしまうこと」でしめくくっている。特に他意はないかもしれないが、岡本おさみさんをも連れて行ってしまう「時間の非情な経過」、それこそが一番悲しいじゃないかという意味かもしれない。
  「人生を語らず」。飽きた、もうたくさんといいつつ、御大の熱唱の前には、自然と拳か上がり、身体を反り返らせるシャウトの姿には涙がこぼれてしまう。感動してんじゃん。ともかく超えて行けと叫ぶ御大の声こそがゆくてを照らすのだ。

最高な理由3. だって「吉田拓郎」がそこで歌うから

 とどのつまりは結局そういうことだ。御大が歌えばそこが最高のステージである。
浜田省吾がいかに大規模なアリーナツアーをしようと、小田和正がいかに自転車で走り回ろうが、藤正樹がいかに紫色の学生服を着ようが(なんなんだよ)、御大のステージこそ最高である。
 このシンポジウムで残念とか言っているのは、最高のステージがもっと良くなるための議論であり、シンポジウムであることは忘れてならないと言えましょう。

 なんか個人的には、盛り上がってきたが、今日はこのくらいで。

 御大、心の底からありがとうございました。また、絶対、またね。>友達かよ

2016.10/30

2度目の夜が魅せてくれた80年代のHorizont

1980年7月17日 日本武道館

■ これまでのあらすじ

 1979年7月2日の初の武道館ソロ公演(Reverence「はじめての夜、永遠の夜」参照)から、1年。再び拓郎は武道館に帰ってきます。激動の1年間でした。篠島オールナイトイベントの成功、秋のコンサートツアー、小室等、西岡たかしとの「十年目のギター」の挙行、大晦日の日本青年館ライブのテレビ中継・・明けて1980年は、ロスアンジェルスでの海外録音で「Shangri-la」制作、そして4月からの全国縦断コンサートツアー、そのツアーの特別追加公演にあたるのが、この日の武道館でした。
 特に、79年の大晦日公演での爆弾発言。「古い曲はもう歌わない。捨てる。」そしてその言葉通り、全曲新曲で貫いた80年春のコンサートツアー。さて、どうする、どうなる2回目の武道館公演!!というところでした。

■ 意表を突くオープニング

 当日、武道館は余裕で満杯状態。どうしても昨年のドラマチックな光景が心に蘇ります。
 そして定刻。昨年どおりに、巨大スピーカーから「ローリング30」が流れだします。色めき立つ観客。そして、間奏のところで、客電がoutになって真っ暗に。湧き立つ大歓声。たまらないよね、この瞬間。メンバー登場。あ、今年は拓郎も一緒に登場です。
 「ローリング30」が終わると、さぁ始まるぞと、いよいよ燃え立つ拍手と大歓声。昨年だとココで「知識」のイントロが爆音で炸裂したところです。しかし、ステージは静寂のまま。なんだ?なんだ?、と観客が静かになり聴き耳を立てます。
グランドピアノの前に座った松任谷正隆が、一人でブルースっぽいピアノソロを弾き出します。暗い海のような武道館に沁み渡っていくように広がっていくピアノの音。とその瞬間、ピアノで♪ドゥダドゥダダンと聴きなれたあのイントロメロディーとともにバンドが一斉に鳴りだします。おおー。

♪  ファミリー

 79年の秋ツアーでは「人間なんて」の代わりにラストを飾って絶唱されたあの曲。ええーっ。オープニングから、演るのかっ!!かなり意表を突くというか驚きました。「無人島で」に収録された「ファミリー」は、このオープニングの音源です(女性コーラスは、当日はいなかったので、アトから被せたもの)。
 巨大な眠れるライオンが、ゆっくりと起き上がり覚醒していくように「怒ぁーれるぅぅぅ」と歌い始めます。そして、サビでは、思い切りのシャウト。特に、後半のリフレインになだれ込んでいく直前の雄叫びは凄かったです。こんな絶唱を一曲目から飛ばしてしまうところに拓郎の気骨が窺えましょう。そんなにシャウトして大丈夫なのかと心配にもなりましたが、堂々と歌い切りました。
 最近では、2014年のオープニングで「人生を語らず」「今日までそして明日から」「落陽」をたてつづけにブチカマしたのが記憶に新しいところです。コース料理でいえば前菜や食前酒の前に、メインのステーキを出してしまうような「オープニング制圧」は拓郎の得意技と思われます。 そしてファミリー終了後、間髪入れずに「春だったね」になだれ込みます。

♪  春だったね
 少しレゲエを意識したアレンジでした。あれ、古い曲じゃんという疑問も制圧された観客には浮かびません。

■御大、釈明する
 そして、ファーストMCで、
 「去年に続けて武道館をやらせてもらうなんて思ってもみなかったことで」との感謝につづいて「今日は『コンサート』というより『お祭り』だと思っているので、『古い歌は歌わない』とかそういう固い話は抜きにして(観客大歓声)・・」
 「ウマイっ!そう来たかったっ!」と思わずヒザをたたきました。
 新しい歌を歌っていきたいと言う気概は、新曲だけで行われた全国ツアーという偉業で十分に伝わりました。いいじゃないのそれで。
 それでも約束違反だという人には、この日以来、今日まで35年間ずーっと毎回「お祭り」が続いているのでいつも「古い曲」を歌っているということでどうでしょうか。というわけで旧曲もめでたく解禁ということでコンサートは怒涛の快進撃を始めます。

■ 重厚な演奏と歌たち

♪  おきざりにした悲しみは ♪  ハネムーンへ ♪  どうしてこんなに悲しいんだろう ♪  狼のブルース ♪  街へ

 この公演を含む春ツアーのサウンドについては「重厚な感じでロックしようレゲエしよう」と拓郎が語っていたとおり、チーターのようにより早く駆けるサウンドというよりは、サイの歩みのようなズシンズシンという重たい深みがありました。聴かせる、圧倒させるというところに主眼があるようなサウンドでした。
 「おきざりにした悲しみは」は当時でも意外な選曲でした。この日のぶ厚くブルージーなバンドにも適合した名演でありました。この時の感触が良かったためか、80年秋ツアーでも演奏されることになります。
 「ハネムーンへ」は、レコードのレゲエチックな色彩に加えて、アレンジによってゴージャスさがアップしていた記憶があります。
 「どうしてこんなに悲しいんだろう」これは、なんといっても「人間なんて」オリジナルの松任谷正隆のピアノにマニアな価値があるところです。
 MCはいつもの拓郎のMCでした。泉谷しげるが演じたドラマ「吉展ちゃん殺人事件」の演技を絶賛し「ホントに泉谷がやったんじゃないかと思った」と笑わせました。当時はフォーライフ脱退後で泉谷とフォーライフは緊張関係にあり、泉谷の話をするというだけでも結構大きいことだったのでした。「赤い風船」のサワリを歌って、当時の奥さんの話もしていました。
 そして「いつもコンサートの終盤に演奏していたけれど、もうさほどの曲ではないからここで演ります」と捨てゼリフのような紹介で(んーもう拓ちゃんたら強がるんだからぁ)

♪  落陽

 客席オールスタンディングで盛り上がります。しかし、拓郎は歌い終わるととっとと退場し、弾き語りのコーナーです。

■ 弾き語る男と騒々しすぎる客たち

 買いたてのオベイションを抱えて、拓郎登場。大歓声。ギターを試弾きしながら、突然
「電話の声はぁぁぁ」

♪  言葉
 であります。ライブ初演は、この弾き語りでした。荒々しく、しかし情感をたっぷりこめて歌い上げられました。しかしどうでしょう、この作品は、やっぱりピアノではないかと思ってしまいます。
 それにしても大歓声がすごく、それぞれが勝手にリクエストしたりで、ウルサイったりゃありゃしません。あまりのうるささに拓郎も、途中でほぼMCを放棄してしまいます。

♪  証明
 この音源が、後にシングル「元気です」のB面に収録されます。魂のB面伝説を担う名曲となりました。思いっきりのシャウトが印象的ですが、これはMCの時の騒然とした観客たちを黙らせようと怒りをこめて歌われていたからということもあったのではないかなぁ。

♪  二十才のワルツ
 この日初めてお披露目された新曲です。同年秋のアルバム「アジアの片隅で」に収録されますが、切々と歌われた新曲ということでこの時はまだタイトルもわかりませんでした。

♪  リンゴ
 おなじみリンゴは、一人で演奏する弾き語りにもかかわらず、ギターとハーモニカが、互いにこれでもかと激しく長いバトルを繰り返すようなあのバージョンをぶちかまします。圧倒的な演奏で弾き語りを締めくくります。

■ バンド再来

 そして再び登場するバンド。
弾き語りの騒然とした余韻が残る中で、始まった分厚くもムーディな演奏。

♪ 愛の絆を
 騒然とした武道館をなだらかな海のように包み込む演奏。一級品のラブ・バラードとしての偉容を見せました。高まってくるサビの部分は、拓郎の荒れたボーカルでシャウト気味に熱唱されるとレコードよりも説得性があるような気がます。これがベストではないかとすら思います。
 笑ったのは、MCの時に、観客の誰かが「拓郎ぉ、マークⅡやれい!!」と叫んだのをすかさず捕まえて「わかった。君のリクエストに応えて『マークⅡ』」といって演奏なだれ込むところでした。

♪ マークⅡ
 このアレンジが、なんとも痺れました。歌入りの直前に入るブルージーなギターソロとそれを引き継ぐジェイクのサックス。もう体が自然にスイングするような演奏。このアレンジも秋のツアーに引き継がれていきます。最後のシメもなんともカッコイイ。
そしてノリノリの

♪ 悲しいのは
で、真夏のカーニバル状態になる武道館でした。

■ メンフィスの神、ブッカー降臨

 それが終わると、特別ゲスト、ブッカー・T・ジョーンズの登場です。若き日の拓郎の憧れのミュージシャンにして、アルバム「Shangri-la」のプロデューサー&キーボーディストの登場です。
ステージ向かって右側に置かれていた茶色の木製オルガンに腰かけます。
ロスでのエピソードを披露しながら演奏が進みます。

♪ いつか夜の雨が ♪ あの娘といい気分

   ブッカーは肉、とりわけ鳥がダメという話で、「You like Sushi」(拓郎の英語に、おおーと大歓声)「そんぐらい中学校で習っただろ(怒)」
 なんといってもがっちりとしたバンドサウンドが出来上がっていたためか、さほどブッカーのオルガンの音色が際立っていた印象がありません。すみません、音楽音痴の私だからという可能性もとても高いです。
 松任谷正隆もブッカーが憧れの人だったようで(その後、個人的にも親交を深めるようです)、ブッカーのソロになるとずーっと満面の笑み( ^)o(^ )になって、一緒に身体をゆすっていました。

■ アジアの片隅で 完成披露

 そしていよいよフィナーレとなる

♪ アジアの片隅で
 この公演に先立つ全国ツアーでは「謎の壮大な名曲」として歌い込まれ、演奏が練り上げられ、その決定版というか最終確定稿としてここでお披露目されたのです。この公演の一番の目的は、「アジアの片隅で」の完成版を世に出すことにあったのではないかとすら思います。
 それだけ重厚壮大な演奏は迫力がありました。間奏は、異空間に入り込んだような世界で、ブラックミュージックの深遠な世界を思わせるような演奏でした。ブッカー・Tの演奏ももちろん青山徹のギターソロも素晴らしかった。いかんせん長過ぎて残念ながらレコードでは、かなりカットされています。
 「アジアの片隅で」の観客の唱和も、初めてゆえにあまり徹底していなくて、大きなグルーヴには至りませんでした。座っている観客が多数でした。さらなるライブでの活性化には、もう少し時間が必要でした。しかし、いずれにしても堂々たるお披露目でありました。

■ アンコールはどうする

 さてこの年からの決め事として「わざとらしいアンコールはやらない」というものがありました。先立つコンサートツアーでは、アンコールは一切ありませんでした。
 しかし、ここは武道館。観客も納得しません。「えーっとね、アンコール用意していない。今までやった曲がすべて。それでよければ歌います。」ということで手打ちになり、最後は、

♪ いつか夜の雨が
の再演で幕が締めくくられました。

■ 2度目の武道館とは何であったのか

 昨年の「人間なんて」による終演と比較すると物足りない空気もありましたが、イベントチックだった昨年と比べると、音楽的な意味で凄いものを見せられた充足感が、ありました。
 これから始まる80年代の音楽のフォーマットというかフォーミュラが出来上がった感じでしょうか。これが、主として王様バンドにより練り上げられ先鋭化していくのが、80年代前半の流れとなります。その意味で、エポックな武道館だったことに間違いありません。FM東京開局10周年ということですし、いい状態で録音されていたはずですから、完全版のリマスター音源で発売できないものでしょうか。

初めての夜、そして永遠の夜

1979年7月2日 日本武道館

「7月2日」は、1979年に拓郎が初の武道館コンサートを
行った記念すべき日です。

★ 武道館までの道のり

■ 偉大なる復活プロジェクト

 1979年7月2日、篠島コンサート直前におこなわれた「拓郎<初>の武道館ソロライブ」。
 6月4日の群馬県民会館を皮切りに始められた吉田拓郎のツアーは、ここでひとつの頂点に達するのでした。

1977年以降フォーライフの社長業に忙殺され、ミュージシャンとしての一線を退いていた感のあった拓郎でした。
 拓郎自身もフォーライフの裏方に回って、もう歌わないなどという発言もあちこちでしていたころです。

 しかし、前年の11月に2枚組の大作「ローリング30」を発表し、久々にその才能をカマします

 そして翌1979年に初の武道館公演を含む全国20か所のコンサート・ツアーとそれにつづく「篠島オールナイトイベント」との挙行!という拓郎の「偉大なる復活プロジェクト」が怒涛の勢いで進行していたのでした。

■ 感度良好なれど世間は逆風、波高し

 とはいえ、当時の世間の風は冷たく、アリス、さだまさし、松山千春、ツイストなど音楽界の主流は、ニューミュージックに移り、拓郎は既に過去の人モードになりつつありました。

 マスコミ等でも

「今どき、拓郎で「武道館」は大丈夫か?」という心ない記事

とにかく逆風の風評が流れていました。
友人にも「いまどき拓郎なんて時代錯誤!」などと言われるし、
ファンにとっては辛い日々だったのです(T_T)。

■ 通称「デスマッチ」

しかし、他方、ツアーが始まると、ラジオ等を通じて

 「今回の拓郎のツアーは、すげーよ!メチャすげーよ!」

 「今までのコンサートとは全く違う」

という風評もファンの間では流れ始めていました。

 今までの拓郎のコンサートは、時間も2時間弱で途中ゲストと休憩タイムが入ります(T_T)。しかし、今回は休憩なし、ゲストなしで2時間半以上拓郎が絶唱する。
 通称「デスマッチ・ツアー」と呼称されておりました。

 どうやら何か大きく動いているらしい・・そういう得体の知れぬ胎動の予感もありました。

★ オープニング

■ 満漢全席

 さて待ちに待った7月2日は小雨。蒸し暑い一日、開演時間は、夕方6:00、で、私は、高校3年生>関係ないか(T_T)

 武道館のアリーナ席。Fブロック43番・・つまりアリーナの正面前から4列目である\(^o^)/。

 そして心配した客の入り・・・
2席の隅までずずーいと満杯だぁぁぁぁぁ\(^o^)/

ざわざわと客席が熱い。だが開演時間を20分過ぎてもコンサートが始まる気配がない(T_T)じりじりとエネルギーが蓄積されていくような客席。

■ ローリング30始動!

 と私の記憶では6時25分ころと思う、突如、ステージ両側の巨大スピーカーから大音量で「ローリング30」のテープが流れる(@_@)鳥肌たったぞぉぉぉ。 とたんに手拍子と「拓郎コール」の武道館す。

 ローリング30の1番の歌が終わって、間奏に入ったところで、客電が落ちて館内が真っ暗に。興奮するよねぇ、この瞬間は(^^♪大歓声、怒号が轟く。

 同時に、当時流行していた緑色の「レーザー光線」が会場を行きかい、武道館の天井に「拓郎」の文字が描かれた。またもや大歓声。

 そして暗いステージに現れて、それぞれの位置につく、拓郎以外のバック・メンバーたち。ワールドカップでいえば、日本代表のような輝かしいメンバーっす。
 ええい、代表ベストメンバーなので全員記録じゃ。

<代表メンバー>
ギター    鈴木茂・青山徹・常富喜雄
キーボード  松任谷正隆・エルトン永田
ドラムス   島村英二
ベース    石山恵三
サックス   ジェイク・H・コンセプション

会場大興奮の中、ローリング30のテープが終わると同時に、大迫力でバンドの演奏が始まる\(^o^)。

 同時に館内の電光掲示板にオレンジ色の鮮やかな色で

   <TAKURO TOUR 1979 >

のロゴが輝く・・・うーん興奮じゃ!

■ オープニング・怒涛の第1パート

 さて、一曲目は、なんの歌だ?

 イントロのツインギターの聴きなれないフレーズにつづいて、サックスのソロパートになったとたん、颯爽と現れるスター!大歓声!

 白いシャツに白いパンツ。腰に赤いヒモをまいてイベントのようないでたちで、現れたその人は、照れくさそうに両手を上げ、赤いテレキャスターを身につけると、水を少し飲んでから、あの野太い声で歌いだす

「どこへ行こうと勝手だし、何をしようと勝手なんだ」

ぬぉぉぉぉぉぉぉぉ > ♪  知   識 だぁぁぁ\(^o^)/

■ いきなりトチる拓郎!

そして歌い始めたのも束の間、いきなり

「????を切るのもいいだろうぉぉぉ」

って、歌詞忘れんなよぉ!
よく見ると拓郎、笑ってます。笑ってんじゃねぇよ(T_T)

 後日、本番前、相当アガッていたと述懐しておりました。
 丁度、ソデの横に「長渕剛」がいたとのことです。

長渕「拓郎さんでも、アガるんですね」

拓郎「オレは毎回緊張して毎回アガるんだ、バカヤロ」

と長渕に捨てゼリフを残して(^^ゞ、ステージに駆け上がったといいます。

 演奏は、ライブ盤の収録のとおりです。「知識」は武道館のテイクです。しかし、よく聴くと「髪の毛を切るのも」が、後に編集で入れられた事が、わかります。ちょっと声質が微妙に違うっす。やはり当時の技術の限界でしょうか?

 しかし、そんなミステイクも吹き飛ばし、大演奏に、感動は続きます。

■ MC第一声!

「知識」が終わった後のMC第一声!

「えーっ、吉田拓郎です(大歓声)。
オレは、7年くらい前に、ここのステージで総スカンを食った思い出があって、武道館ていうとオレの場合あんまりいい思い出が無くて、で、今日は、どなんヤツラが来てるんだろうと思うと悲喜こもごもで、でもこうして歌えるというのはエラク幸せな気分で、こうなりゃ、篠島だろうとつま恋だろうと中津川だろうとカンケイないじゃないか、要するに魂こめて歌えばいいんだろう! ということで2時間半、ぶっ続けで行きまっせ!」

(注・7年前の武道館というのは、フォークのアーティストが多数出演する「音がらみ」というイベントのことで、拓郎は思いっきり帰れコールを浴びたっす(T_T))

 
■ 驀進するライブ
♪ 虹 の 魚 ♪ されど私の人生は

いきなり飛ばす飛ばす(^^♪
特に「されど私の人生は」のふりしぼるような絶唱ぶりは、クライマックスのようで、3曲目でこんなにテンション上げて大丈夫なのか!?と、観客が心配になるほどでした。

そして4曲目は少しクールダウン。会場全体が薄いブルーのライトに包まれて、松任谷正隆のキーボードが美しいメロディー奏でる。なんの曲だろう。 ♪  舞  姫 レコードと違って、松任谷のハモンドオルガンが全面フィーチャーされた豪華な逸品となっている。個人的には、これがベスト・バージョンと思うっす。

そしてまたテンション上げて

♪ 君去りし後  かなりアップテンポのロックンロール調のアレンジです。特に間奏で、拓郎ノリノリで踊る踊る(^^♪
 サビの<君が去った後は>で拓郎と同じマイクでコーラスをつける常富さんは、背が小さくて、マイクに届きにくく辛そうである。手にはタンバリン・・猿のおもちゃのようだ常富さん(T_T)

そして
「ステージでいつも舌を噛みそうになる歌」
という前置きで歌われた

♪ 親 切 ファンキーな感じで客もノリノリである(^^♪

 これが、終わると暗転。暗いステージにアコギをかなでる常富さんの姿が浮かび上がる。
切々と流れるギター・・・・そして拓郎のボーカル
「冷たい雨ぇが、降っている」 ♪ 冷たい雨が降っている このアレンジでの記念すべきステージ初演である。
ご存知のとおりレコードのアレンジとは異なり、アコースティックギター一本で入り、2番から劇的にフルバンドがはいり、曲が転生するように盛上がり様相を変え、さらに最後に再びアコースティック・ギターに戻る

・ ・・・・この名アレンジの誕生の瞬間です。
「常富のアコースティック・ギターが泣ける」と当時拓郎は評していましたが、その後、拓郎自身の生ギターバージョンで、<1987年の海の中道>、<SATETO>、<Age TOUR>と多演され、ドラマチックな一篇として進化していくのです。

 そして、この「冷たい雨が降っている」が静かに終息していくエンディングのアコースティック・ギターとシンクロするように島村英二さんのドラムのビートがかぶり

♪ 英 雄  「英雄」が終わると、すぐに次の曲紹介に入ります。
「この曲は名曲だと思います。絶品ではないかと思います。」

と紹介します(@_@)

「絶品といえば、このツアーの最後は「金沢」です。金沢というのは、かの226事件(笑)が起きた場所ですが・・最近「金沢事件」といっても知らない人も多くて、嬉しいような、寂しいような、でも安心しているような。」

おおっと(@_@)金沢事件かよ!

「でも、オレはもう金沢では捕まりたくないので、バンドの誰かを血祭りにあげて、証人として取調べを受けてみたいんです。『吉田さん見ましたか』『見ました』『やってましたか?』『完璧にやってました』(笑) 確か、小室等がそういったはずです(苦笑)」

 という長い金沢事件の前フリではじまった、本人の言う絶品の名曲は

♪ ひらひら でした。

♪お笑い草だぁぁぁああああのシャウトが、LIVE73よりも気持ちがいい。

 実に、2日後の7月5日のツアー最終公演は「金沢」なのでした。金沢事件以来はじめての公演となるのでした。

 その後、自分は気に入っているけど、評判の悪かった歌として

♪ 我が身可愛く を絶唱。

このへんでMC。飲み仲間の話が出ました。

「最近飲んでいて楽しいのは、<矢沢永吉>と<甲斐よしひろ>。
矢沢は、飲むといつも『ビッグだ、ビッグだ』とそればっかりなので、オレはスモール・・・
てな気分になるし、甲斐は、いつも『オレは天才だ!』と言っているけれど、酔ってくるにしたがって凡才に見えてくる(笑) 気持ちのイイ男だちです。」

 これを甲斐にチクったファンがいて、後日甲斐のラジオで「飲む度に『オレはビッグだ!、天才だ!』と騒ぐのは拓郎です」という正式な反論コメントがでました>だからどうしたm(__)m

さて、ステージの演奏は、

♪君が好き になだれこみます。ロックンロール全開す。

この「君が好き」には、仕掛けがあって、途中の間奏で、ドラムの島村さん以外の全員が一旦ステージを退場し、そのまま延々とドラムソロが続くのです。要は、島村さん以外みんな休憩タイムす。4,5分は続いたでしょうかシンセ音も多用した島村さんのソロが炸裂。
一緒に行った決して人を誉めない友人が、「すげぇよドラム」
とただ一度だけ誉めていました(*^_^*)

やがて、ステージに戻った拓郎はじめバンド全員が、島村さんに多大なる拍手を送ります。そして、後半の演奏へ。

「君が好き」の熱い演奏が終わると、

当時の最新の新曲である

♪ 流 星 間奏で鈴木茂のギターの流れる中、拓郎は、客席にお尻を向けて、スイングするという俗称お尻ふりふりダンスが話題になっていました(笑)
演奏終了後、「流星」ついて少しコメントします。

「珍しや、今の曲は、ドラマの主題歌になっておりまして、ドラマに出るじゃ出ないじゃと巷間漏れ伝わった事もありましたが・・・・何せ演技力に自信がないもので(笑)」

そこから、はじめてテレビドラマに出演したTBSドラマ「おはよう」(1972年)の話になります。

「天地真理さんにお会いしたいんじゃなくて、若尾文子さんにお会いしたくて。記者会見で感想聞かれて、(記者から)『若尾文子さんと一度寝てみたいと正直に言え』というので正直に言ったら、非常に反感と顰蹙を買いまして・・・それ以来、ドラマの収録でも若尾さんからは、ツッケンどんにされて、そこを堺マチャアキさんがフォローしてくれました」

♪ 爪 この爪は、唯一このライブでの失敗だったと思うす。そこそこの名曲ですが、ヘンテコなレゲエ風アレンジが、災いして、妙にコンサートの雰囲気が中だるみになりかけます。やはり、徳武弘文さんの泣きギターの入るオリジナルバージョンが適切と思います。

つづいて、拓郎の歌唱先導(麦藁帽子は・・・ハイ♪むーぎわーらぼーしはー)に基づく

♪ 夏休み 1974年にも同様の歌唱先導によって演奏されたことがあったようです。なんつうか「岬めぐり」じゃねぇよっ!という不満もありましたが、ラジオ等で、「みんなで歌おうね」と拓郎が根回ししていたおかげで、覚悟ができていた観客は大合唱(^^♪

ただ、この夏休みのアレンジは秀逸だったと思います。心地よいテンポにエルトン永田さんの美しいピアノとジェイクのたぶんフルート系の管楽器の音がシンクロして、とてもよい雰囲気が出ていました。えっと、レコード化されていませんが、1979のライブVol.2の「狼のブルース」の前に最後のところが少しだけ覗えます。

でもって、

♪ 狼のブルース  ロックンロールの濃い演奏と拓郎のシャウトが響きます。当時の拓郎の好んで使っていたフレーズに「歌は暴力だ!」というものがあり、その代表曲と考えていたようです。パワフルであり、ステージ映えする曲ですが、これは憶測だけど、この曲大好き!ってファンはそんなにいない気もするけど誤解でしょうか?

しかし、演奏とボーカルで、客を説き伏せてしまう、客に不満や喪失感でなく、「満腹です」という充足館を与えてしまうところの技がいかんなく発揮されます。

そして熱い演奏が終わると同時に静かなビアノのメロディー

♪ 外は白い雪の夜  いまやライブの定番ですが、このツアーがライブ初お披露目(バンド・バージョンね)でした。もともと「ローリング30」のオリジナルは室内楽奏のような落ち着いたものでありました。

 が、ライブでは、かなり壮大な質感をもった絶唱バラード系になっています。
 初めて聴いた時は、驚きました。そしてご存知のとおり、このアレンジが後に定番として定着していくわけです。

 いずれにしても壮大にドラマチックに展開していき、この曲もコンサート自体も、ひとつのクライマックスを迎えます。

■ 閑話休題・・コンサートグッズ

  この時のコンサートグッズの目玉は、野球帽(キャップ)でした。白い薄い生地でつくられて、ヘッドには

<TAKUROH YOSHIDA>
と青い刺繍がしてあって、1500円。
山田バンダの奥さんが原宿で開店していた帽子屋

<みょんみょん>

制作ということでした。
 さらに、拓郎が、ステージから、この帽子を客席に投げるというパフォーマンスがありました。拓郎が投げる帽子だけは、ロゴの刺繍がピンクとなっているのでした。

 篠島に行くと、みんなこのグッズのキャップをかぶっていましたが、当然、一般発売の青色の刺繍ロゴです。
 でも、時々ピンクのロゴの帽子の人もいて、みんな見つけると仰ぎ見てm(__)m、道を譲ったりしたものです(^^ゞ

■  弾き語り・・・拓郎の涙

感動の余韻を残して、いよいよ弾き語りへの突入です。

♪赤とんぼ~祭りのあと この演奏が終わると拓郎が話しだします。少し様子がおかしい・・・・

「今歌いながら、昔武道館で今の曲とかを歌っている間中、『帰れ!』という怒号がなっていて。ああ、今みんな聴いてるなぁと思ったら・・・世の中変わっちまったなぁと思って
・・いま本当に泣いているんですけれど・・(絶句)」

 話している拓郎の両頬には、涙がはらはらと流れていました(T_T)。昔を思いながら感極まって絶句していたのでした。

「・・・・・すごい時代だったね。でも、そういうのが今欲しいんだよね・・」

と語尾が震えます(T_T)このまま、涙モードか・・・というところで

ファン「拓郎っ!」
拓郎「ん?」
ファン「♪じゅんちゃん」
拓郎「よしっ!」

救いのロープが入ったように、拓郎は、しめっぽい雰囲気を変えようと

♪じゅんちゃん を歌います。

しかし、ここで拓郎が観客のリクエストに答えてしまったため、観客のリクエスト野次がヒートアップするのです。

ファン「拓郎!どうしてこんなに悲しいんだろう!」
拓郎「♪悲しいだろう、みんな同じさ、同じ夜を・・・ってでもこうやっているとキリないから」
拓郎「花見みたいな客だな」
拓郎「まだいっぱいやる事残っているんだからヤイヤイ言うなよ」
拓郎「身がもたねぇ、もう一人拓郎呼んで来いっ!(笑)」

となるのでした。

とはいえ声帯大解放になった拓郎は、

♪僕の唄はサヨナラだけ ♪マークⅡ ♪かくれましょう とガンガン歌い、この弾き語りで、観客はテンション高められていきます。

そして、「知ってる?」の一言ではじまった

■ ひとつのクライマックスへ

♪ 落陽  ご存知のとおり、大合唱になり、拓郎を大感激させたことは、レコードにも残っているとおりです。

「元気になったね。・・これでずっと歌う・・っていう決心が今はっきりついたな」
(大歓声)

ああ、こんときゃ感動したよ(T_T)

 冒頭に記したとおり、この武道館ライブは、沈没しかかっていた吉田拓郎という船の復活をかけた再生プロジェクトだったわけです。

 75年のつま恋で燃え尽きて以来、どこかパッとしない、そのうちに「裏方宣言」とかして、音楽から遠ざかってしまった拓郎。
 世間的にも、拓郎は社長になって音楽から退いた過去の人、いまどき武道館なんてムリムリ、今はニューミュージックの時代なのよ・・・・
という讒謗の中にありました。
 そんななか少なくともこのライブに足を運んだファンの多くは、どこか肩身が狭く、不安で、それはそれは辛い日々に堪えてきたのでした。

 その辛さが癒され報われた瞬間だったのでした(T_T)
ああ、ファンでいて良かった(^^♪ 拓郎本気だよ!
これからずっと歌うって言ってくれたよ。
その感動の大歓声は、レコードになっているとおり、武道館をまさに包みこんだのでした。

拓郎もまた「今日はこれは最高だ」と感激し

全くこれ以上はない!というナイスなタイミングで、

♪ 僕の一番好きな唄は を歌いだすのです(T_T)。
ここの流れは、最高だねぇ。

 流行歌は移り変わっていくけれど、自分は自分の唄と叫びで世の中と対峙していくという、この拓郎ならではのメッセージソング、まさにこの時の拓郎と拓郎を愛するファンの心情と状況にピッタリで、観客の胸を打ちまくるのです。
 1978年の曲だけれど、まさにこの時に生命を与えられたかのような歌となったのでした。

♪♪♪♪♪♪♪♪
会社の社長さんなど偉いと思うなよ 
ましてや歌い手さんなど 先生諸兄など
一番エラいやつ そいつはこんなやつ
自分の叫びをいつでも持ったやつ
自分の哀れをなぐさめたりしないやつ
戦いに負けたと嘆くじゃないぞ
ツワモノに立ち向かえば逃げるじゃないぞ
僕の好きな歌を歌いましょう 
天下を取ったやつまともににらみつけ
いま いま 歌える歌は そうです僕一人大好きな あの~

(人間なんてララララララララ )
♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪

 レコードにこそなっていけれど、拓郎の魅力のエッセンスが見事に凝縮されたかのようなこの曲。
ライブという状況で体感してこそ、染み入るこの曲。

 私もそうですが、おそらく多くの拓郎ファンの若者が、この唄のこの歌詞を胸に、あるいは支えにして、その後の人生を渡っていったのでした。
   まさしく、この弾き語りのコーナー、わけても「落陽」から「僕の一番好きな唄は」にかけての絶妙な流れこそが、このコンサートはもちろんその後の拓郎の活動のハイライトとなるのでした。
 友達の表現を借りれば、ああ、良かった。ここまでついてきて本当に良かったよ(T_T)

そして、弾き語りによって、熱狂と感動の渦に巻き込まれてしまった観客に、ダメ押しするように、フルバンドで

♪ 落 陽 ♪ 人間なんて が歌われます。狂喜して絶唱するファンたち。
しかし、ホントの感動は、先の「落陽」から「僕の一番好きな唄は」で出来上がっており、
「落陽」「人間なんて」は、この感動を反芻するというか、丁寧にトレースするような役割だったのではないかと思っております。

つま恋みたいな狂気の雰囲気でありました。

  拓郎は、絶唱の後、一度ステージのソデに引き上げてからも、再びステージに出てきて、
「もっと、もっとだ、本当の声を出してるか?」
と観客をアオります。
興奮は頂点のまま演奏が終わりました。
「人間なんて」の演奏が終わったのが、記憶では、午後9時15分近かったです。実に、3時間近いコンサートになったのでした。

そして電光掲示板に

<See You Again SINOJIMA>

 電気がついてからもアリーナの興奮はさめず、アンコールを求め異様な雰囲気が残りました。そのうち、観客のあちこちで、自然発生する「万歳三唱\(^o^)/」

吉田拓郎の復活劇は、ここに大成功を収めたのでした。

すばらしいライブの瞬間というのは、沢山あるわけです。たまたま自分が遭遇したから、そう思うので、これが一番などと断ずるつもりもないっす。

ただ、1985年のつま恋を前に、インタビューで自分の最高のライブは?との質問に
拓郎は、慎重に言葉を選びながら
「79年の武道館は思い出として残っているね」
と答えておりました。

生涯いくつか・・という中には、入ってもいいでしょう。

 85年といえば拓郎が引退を仄めかしたときです。この時の武道館での「ずっと歌う」という約束が去来したのでしょうか。
 しかし、あれから2年どころか、36年も経って、拓郎は、今も歌わんとしているわけです。約束なんて破られるから美しいなどとうそぶいていますが、固く約束を守り続けてくれたことを何度でも胸に刻もうと思います。

その人は坂を降りて1978

1978年11月21日 目黒区民センター

■ それなりに濃かった11月21日

 1978年11月21日は、名盤「ローリング30」の発売日にして、小室等の23区コンサート東京旅行の目黒区公演に、吉田拓郎その人がゲスト出演した日です。そうそう「君に会ってからというもの僕は」が発表された公演です。

 小室等が東京23区を舞台にツアーをする。その区の住民であるアーティストである歌手がゲストとなるところが呼び物のコンサートでした。目黒区の目黒区民センターに吉田拓郎がゲスト出演するという噂はありましたが、コンサート自身が結構地味だし、「拓郎出るってホントかいな?」、「出てもアイサツくらいだろう」・・ということで、さほど事前の盛り上がりはなかったように記憶しています。チケットは高校生にも楽に買えました。

 基本的にヒマだったし、目黒駅から私鉄ですぐの高校に通っていた自分は、放課後に♪飛び出せ外へ飛び出せウォウオ~~~(DUO『放課後』)と必死に駆けつけたのでした。

■ How to get to 目黒区民センター

 目黒駅を降りて、ビートきよしで有名な「権乃助坂」(知らないって)を下って、目黒通りとぶつかると、そこには、山口百恵、原田知世、菊池桃子を輩出した日の出女子学園。校舎を覗きたい気持ちを抑えつつ(^^ゞ進み、目黒川と交差したところで右折し路地を行き、そこが開けたところに目黒区民センターはあります。
 そのまま、右折しないで目黒通りをずーっとまっすぐ徒歩で12,3分(いや、もっとかな)くらい行くと左手に あのソックスで有名な「ダイエー碑文谷店」が現れるのです。 さすれば、拓郎の碑文谷の某マンションも至近距離となります。

■ スター降臨

 400人ほどのキャパの区民センターは、まだ開場前で、20人くらいの列が出入り口に出来てました。ほとんどが大学生ぽいお姉さんとお兄さんたちでした。詰襟の学生服の自分は十分に恥ずかしかったです。 オレは藤正樹かっ!と自分にツッコミを入れながら待っていると、突然お姉さんたちの空気を引き裂くような悲鳴が。

 僅か1メートル先の会場入り口を「吉田拓郎」その人が入っていくところでした。うぉぉぉぉ本物だぁ(@_@)。

 黒のブルゾンの下に白いシャツ、紺のパンツ、サングラスで、ポケットに両手突っ込んでストレートの長髪を風になびかせてちょっと背をかがめながら歩いておりました。とても痩せていて、身長は高く、見たところ176.5㎝くらいありました(爆)。もうオーラがシャンパンの瓶みたいに吹き出ていて、カッコいいんだわ、これがっ!
 はじめての接近遭遇でした 高校生には刺激が強く、ホントおしっこ漏らすかと思いました。当時ですら、5年間以上は慕い続けた「彼の人」なのです。

 会場出入り口のガラス越しに見ていると拓郎は、スタッフと軽く談笑をしながら、楽屋に消えて行きました。さて、なんかダラけていた目黒区民センター周辺には、にわかに緊張が走ります。こりゃホントに拓郎が出演するぞぉぉぉぉぉ。

■いよいよ開催
 たぶん400名ほどの小さな会場は、ステージもひょいとあがれるくらい低い。たぶん満員ではなかったような気がします。さて、いよいよ開演。

 しかし、最初に登場したのは、驚いたことに小室等でした・・って、当たり前だろ!
 小室さんは谷川俊太郎さんとの共同作品がつづいているころでした。「今生きているということ」「おまえが死んだあとで」「汽車と川」など小室/谷川ワールドを展開していく・・・のですが、会場の観客のかなり多くの方の関心が吉田拓郎であることは、ありありと伝わってしまうのでした。
 温厚な小室さんは、不機嫌な様子もなく、でも少し淋しそうに「もうすぐ拓郎に唄ってもらうからね。大丈夫、気を使わなくていいよ。僕は、『逆境』には強いから・・・」自虐的な言い方が妙にハマって会場爆笑となるのでしたm(__)m
 レコード化された「君に会ってからというもの僕は」の、拓郎のパートで「何があなたをあそこまで駆り立てているんでしょう、きっと「逆境」でしょうね・・」という歌詞がありますが、あれは、この時の呟きを舞台の袖で聞いてた拓郎の即興アドリブです。

 さて、中盤で、いよいよ拓郎登場。
 その年の春のツアー「大いなる人」のときとは大分感じが違って見えました。社長業で短めだった髪の毛もほどよく伸びてたからでしょうか? アーティスティックで爽やかに燃えている感じ。
 自信作「ローリング30」が完成したこと、そして来年の篠島イベントへの気概が静かにアーティストの炎を燃え立たせていたのだと勝手に思います。とにかくこの時の清清しい拓郎がとても印象に残っているのです。 「セイヤング」そのままの調子の軽いMCをかましたあとで、

♪  祭りのあと
をサラリと歌うと、もう会場はたちまたち制圧されます。

■ なぜかステージに上がる人々

 すると突如3人組の青年が、断りもなくドカドカとステージに上ったのでした。拓郎めがけて突進します。驚き一瞬息を飲む会場(@_@)。 青年は、発売ホヤホヤのアルバム「ローリング30」を差し出します。どうやら拓郎に「サインくれ!」ということらしいのです。コンサート中にです。 神をも恐れぬ所業。 ブチ切れる拓郎が容易に想像できました。
 話はそれるけれど、全米テレビで生中継されていた81年のストーンズの公演で、興奮した観客がステージにあがったところ、キースリチャーズが弾いてたギターで、殴り掛かるという凄いシーンがありましたが、あれに近いことを想像してしまいました。
 しかしそんな予想に反して拓郎は、「おう」とか言いながら機嫌よく、こともなげにサインを始めたのです。繰り返しますが、コンサートの途中です。 多分、しょせん他人のコンサート。自分はゲストさ・・という気楽さからだと思います。通常のソロコンサートではマネしない方がいいと思います ・・ってできねぇよ!
 そしてサインをしながら、少しワザとらしく「ああ、そういえば、今日は僕の新しいアルバム(ローリング30)の発売日だぁ」(拍手)

■ 怒るのはそこか?

 プチ不幸はその後起こりました。3人組みの最初の2人はアルバム「ローリング30」にサインを求めたのですが、最後の一人が手にしていたのは「ライブ73」でした。機嫌よくサインしていた拓郎は、途端に手を止めて「あれ、これ違うじゃない。俺、ソニー嫌いだから。」とサインを拒絶したのでした。
 明らかに、パニくったその青年は、それでも拓郎一流のジョークと思ったのか、もう一度「ライブ73」を差し出したところ、拓郎は不機嫌な表情を見せ、「だから、しないって言ってんだろっ!帰れよ!」。 とついにサインせずにステージから追い返したのでした。
 ・・・・怒るところが違うんじゃないか・・と思いつつも。

 この時サイン拒否された方、お元気でしょうか。

 現役アーティストには「今」が全てなのだ。ことに「ローリング30」を作り上げた自信への敬意こそファンの正しい姿勢なのだと高校生は、解釈したのでした。

■ 外白ライブの処女航海

 そんなひともんちゃくの後、はじめて、ステージで歌われた当時の最新曲 おろしたての

♪ 外は白い雪の夜  その後、約30年間以上ライブで歌い継がれ、それを聴いてる50歳すぎのオッサンの自分 ・・の姿は、考えもしなかった高校生なのでした。
 ギターとハーモニカのシンプルなスタイルでの初お披露目でした。それまで、聴かされていたレコードバージョンは、綺麗な声でメロディアスに歌われていたのですが、ここでは、シャウトするような荒削りな「くずした」歌い方が驚きで、カッコ良かったのです。歌いこんだ魅力とは別に、ういういしい卸したてのカッコ良さがありました。その後、この時の演奏をラジオで聴いた知人も「ベストの演奏だった」と言ってましたので、必ずしもバイアスのかかった思い込みとも言えないと思うのです。

■ 小室等のひとこと

   そして、小室等が登場し、レコードのとおり、何度も何度も出だしをやり直しながら、歌った「君に会ってからというもの僕は」。二人の出会いから今日までの日々が、同時に日本の音楽史にもなっていて、しかも、金沢事件も離婚もタブーなしでカマしてしまう面白さ。二人の絶妙な間合いとやりとりは「名人芸」と呼んで差し支えないとも思うものでした。 もう会場は、制圧されたうえに抱腹絶倒。

  最後に、小室等の拓郎への一言

  「やっぱり拓郎はステージに居る時が一番カッコイイな。」 (拍手)

  久しく音楽戦線から離脱していた拓郎にとっていかに大きな一言だったか。拓郎は、真面目に聞いていなかったようだけど、後日、あの時のステージでの小室等に刺激されて、歌に向かう決意を固めたという発言をいろいろなところで残していました。
 小さな会場の、ささやかなゲスト出演でありましたが、拓郎にとっての大きな意味のあるライブであったことは、何より嬉しかったのでした。
 高校生は、すっかり夜になった目黒権之助坂を、今度は逆に昇りながら、でも心ウキウキと家路を辿ったのでした(^^ゞああ、これから拓郎が本気で活動してくれるんだ。

■ そして冒険はさらに続く

 そして、吉田拓郎は、文字通り決起して、翌1979年この「ローリング30」の数多くの新しい名曲の数々を携え、松任谷正隆、鈴木茂、青山徹、島村英二、エルトン永田らといった最強の布陣を敷いたバンドを率いてこれまでにないハードなコンサートツアーと篠島イベントというビッグエポックへと走り始め、第二次黄金期へと突き進むのでした