あなたの胸元、あなたの袖口

 1979年のツアーで憧れていた吉田拓郎のステージ衣装である"GRIP.13"のシャツが”Do! Family”製だとわりと最近になって西川栄治さんのブログで教えていただいた。今さらどうしようもないが市販していたのに買えなかったことにあらためて悶絶する。しょせん情弱な中学生には無理だったか。

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 そして拓郎はツアー終了の20日後、そのステージ衣装を今度は普段着に着こなして「篠島」に向うのだった。

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 さて、篠島に向かう時のGRIP.13のシャツの胸元が異常に深く開いていることに気づく。そういう構造なのかあるいは既製の胸元を自分で破って開けているのではないかという疑念が生ずる。盛夏で暑かったので胸元をビリッと破いたのだろうか。現物がないので何とも言えない。ともかくこのラフに胸元が開きすぎているこの感じがまたイイのだ。

 話はつづく。篠島のステージ衣装は、このGRIP.13のインド風シャツと同種タイプで、ピンク、青、白の色違いである。これも同じ会社製なのだろうか。胸に”TAKUROH’80”とあしらってある。一部”TAKURHO”になってたりもする。これはこれで大きな問題なのだが、他にもこの衣装にずっと不可解なことがあった。それは「袖口のほつれ」だ。ビデオでも確認できるくらい袖口がほつれている。

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 その疑問は当時の深夜放送でわりとすぐに氷解した。拓郎は「この篠島の衣装の袖が長くてギターを弾くのに邪魔だったので、本番直前に袖をハサミでジョキジョキと切り落とした」とご説明くださった。ああ、そうだったのか、だから袖口の糸がほつれているのだ。ギターを弾くという決意が、この"ほつれ"に現われている…のではないか。

 それがどうした、バカじゃねぇの、ヒマだなという声が聞こえてくるようだが、そういう正しくまっとうな人々とは最早わかりあえまい。“いてもったってもいられなくなり"、自分でもシャツの胸元を破り、袖をハサミで切ってみたくなる人。そういう奇特な人々とお互いの胸元や袖口のほつれを確かめ合いながら、しみじみと生きてゆきたい。あくまでも神は細部に宿るのだ……と信じてまいりましょう。

2020.10/5

ビールの泡に浮かびはじける"うたかたの声"

 ビールといえば吉田拓郎、吉田拓郎といえばビールだ。少なくともミュージシャン部門ではそうに違いない。部門に限るのは、例えば作家部門になるが椎名誠という強敵がいるからだ。

 特に一時期はビアガーデン=吉田拓郎というイメージすらあった。2003年大病ポンの後のドキュメンタリー番組では、退院祝いを行きつけの高輪プリンスのビアガーデンでやっているシーンもあった。肺の手術を終えて退院したばかりの拓郎がジョッキをグイっと口にして「あー夏はやっぱりビールだな」と呟く姿がカッコイイったらありゃしない。以来、私も夏場にビールを飲むとき、いつも呪文のように唱えることにしている。
 今から20年近く前にたまたま行った某ビアガーデンで偶然にも隣のテーブルで吉田拓郎と高見沢俊彦とが飲んでおり、超絶驚いて気を失いかけたことがある。もちろん気絶する暇などなく全集中で思い切りガン見し網膜と脳髄に焼き付けた。そう。実に美しいビールの飲み姿だった。

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 というわけなのでビールのCMに吉田拓郎を起用するのはとても正しい。但し製作側が"吉田拓郎"という逸材をうまくCMに活かせているかどうかは別にして。

◇第1作 1988年「サッポロ☆ドライ」~サッポロドライだ。さらりと切れる。
 85年つま恋の後の長い休暇から復帰明けのCM出演はファンにとっては歴史的出来事である。♪I love you more than I can say~ “すなおになれば”とともに忘れられない。だが、どこか全体にギコチナイ、不完全燃焼のような印象があったのも確かだ。それにしても半年弱で広岡監督に交代していったドライさにも驚いたが。

◇第2作 1997年「アサヒ黒生」~黒の味わい、生のキレ
 これはLOVE2時代=テレビバブルの頃だから、もはやテレビに出る拓郎に驚きはなかったし、その立ち居振る舞いもテレビ慣れしていてなかなか良かった。但し「結婚しようよ」を歌う吉田拓郎が観ていて少し気恥ずかしかった。

◇第3作 2002年「サントリー・モルツ・スーパープレミアム」~プレミアムおやじでいこう
 CF・映像があったかどうかは知らないが、ワイハーチックなアロハ姿が素敵なポスターをあちこちで目にした。これは超絶イイ写真だったな。当時ファンクラブ全員にスポンサーのご厚意で2本ずつ試供品が送られてきたお心遣いも嬉しかった。

 さて問題は幻の第4作だ。いや正確には第1作と第2作の間だ。1990年ころだったか、キリンビールのテレビCMがあった。プールか海の美しい夏景色に歌声が流れる。

 ♪お好きでしたね お好きでしたね
  お元気ですか
  お好きでしたね キリン~です~

 拓郎本人も出演していないしテロップにも名前は一切出ない。「あれ?この声は拓郎に似ているよな」「そんなニュース聴かないしな」「いや間違いない」…今のように傍に拓友もいないしネットもない。個人的にも暗黒時代だったのであまり情報もない。ということでテレビの前でひとり悶絶していた。しかし確証こそないが我が人生をかけたこの声を聞き違えてなるものか。どうしたって吉田拓郎の声である。
 不明なままだったが、悩んだ私はずいぶん月日が経ってからキリンビールのお客様相談室に問い合わせをしたところ「多分、吉田拓郎さんだと思いますが当時の資料がありません」という歯がゆい回答をいただき悩みは一層深くなった。もちろん拓郎本人のラジオ番組にもメールを出したけれど回答はない。…どうなのよ。
 もしそうだとすれば吉田拓郎はニッポン放送、TBSラジオ、文化放送と三大深夜放送の制覇の偉業と同様に、キリン、アサヒ、サッポロ、サントリーという四大ビール会社のCM制覇という偉業を成し遂げたことになるのである。すごいじゃないか。ということで第4作キリンのCMは幻なのかそれとも実在するのか。おわかりでしたら教えてください。

2020.7/12

ヨシダの唄、クワタの唄、そしてディランの唄

ボブ・ディランを咀嚼するには若すぎた耳にとって、初期吉田拓郎の音楽は衝撃だったろうと思う。つまり吉田拓郎は、ディランの入り口として機能した面がある。しかし、クワタはディランのロック性を早期に認識していたにもかかわらず、邦楽史において、つまり日本から吉田拓郎のような歌手が生まれたことに衝撃を受けたと考えられる。さらにいえばクワタは井上陽水には驚かず拓郎には一目置き、先輩ではあるものの同志的共感を抱いたと想像する。いいかえれば拓郎が本能的に抱え込んでいるロック的なるものに自分と同質の"なにか"を感じた。 中山康樹「クワタを聴け!」p.127「吉田拓郎の唄」より


 世間では「フォークの神様」と称されながら、実はロックを音楽的紐帯としてつながるディランと御大。そこに衝撃を受け共感するクワタ少年。いい絵だ。大好きな文章だ。ディランに影響を受けたという人々はあまたいるに違いないが、ともに同じ素養を持つがゆえに深いところでの師資相承が見事に実現した関係なのか。
 「日本人は勘が悪い。吉田拓郎はアメリカだったらもっと尊敬されている」というクワタの言葉とともに心に刻みたい。

2017.1/4

吉田宗拓の打ち水

  お茶でお客さんを迎えるときに、きれいな水をまいておくわけ。
  その「打ち水」をしたんだ。この「打ち水」を通過してない客は、無礼な客なの。       1989.3「東京ドーム公演・公式パンフより」


 打ち水。茶道の心得などひとつもない自分なのでネットで検索したらこう記されていた。

「利休居士は、茶の精神を『和敬清寂』という言葉に集約されました。『和』とは、茶事を行う亭主と客人、客人同士が和し合うこと。『敬』は、敬いの心を持って臨むこと。『清』とは、空間や道具などを清めることで、亭主も含め集う人々の気持ちを清めること。そして『寂』は、茶事のすべてが終わったあとに解き放たれ、不動の心を持つことを意味します」
 亭主は客を迎える際に、門から建物の玄関に通じる露地を掃き、打ち水をして動線を清めておく。そして客人は、敬意を持って茶会への招きに応じる。
   エディトゥール「裏千家 家元直属の指導者 奈良宗久氏から学ぶ”究極の作法”とは」より

 コンサートとは、茶道からみれば、亭主である吉田宗拓の茶会なのかもしれない。どうする私たち客人。さしづめ先だって発表される「新曲」や日々の「拓つぶ」は、亭主による打ち水なのかもしれない。このあたりを全部すっ飛ばして、いきなり「たくろぉ!"○○"歌えぇぇ!」と叫ぶのは失礼な客人ということか。
 これから次の茶会まで、時に天邪鬼な亭主の"打ち水"を不動の心で見分けていく、客人としてのファン道というものがあるのかもしれない。

2017.1/4

フォーライフの暗夜行路「アイドルへの道」

 今日はちょっと昔の歌謡曲の話をしたい。1979年って、すげー昔だろぉ。79年の歌謡大賞の新人賞候の記録を観ていて感慨深かった。最優秀新人賞というと前年の78年は石野真子、翌80年は松田聖子となるが、この年の最優秀新人は井上望「ルフラン」。誰だ。知らない人は知るまい。♪ル・フラン、ル・フランと歌える人は歌ってみよう。新人不作の年と言われるが、吉田拓郎社長のもとフォーライフはそれでも頑張っていたのだ。その苦難の年を振り返っておきたい。


        ■1979年日本歌謡大賞新人祭り 放送音楽連盟・新人連盟賞受賞歌手一覧

        赤木さとし   「愛よ君を撃て」      クラウン
        東寿明     「バニシング・ポイント」  ワーナーパイオニア
        杏里      「地中海ドリーム」     フォーライフ
        石川優子    「レット・ミー・フライ」  ラジオシティ
        井上望     「ルフラン」        ビクター音楽産業
        川崎公明    「ひとりにしてくれ」    東芝EMI
        倉田まり子   「グラジュエイション」   キングレコード
        桑江知子    「ブルーブルーアイランド」 SMS
        越美晴     「マイ・ブルーサマー」   RVC
        さとうあき子  「ブルー・バタフライ」   フォーライフ
        ジャッカル   「リバプール十字軍」    ポリドール
        菅沢恵子    「哀しくて哀しくて」    CBSソニー
        たかだみゆき  「サヴウェイ4:55AM」   日本コロムビア
        高鳥ちづる   「女町エレジー」      RVC
        高見知佳    「お嬢さんお手やわらかに」 日本コロムビア
        手塚さとみ   「ボビーに片想い」     フォーライフ
        DUO       「放課後」         フォーライフ
        能瀬慶子    「裸足でヤングラブ」    キャニオン
        桂野裕     「春宵」          トリオレコード
        原あつこ    「燃える想い」       日本フォノグラム
        原たかし    「ジンギスカン」      ビクター音楽産業
        BIBI      「スカイ・ピクニック」   ビクター音楽産業
        フィーバー   「悪魔にくちづけ」     東芝EMI
        フラッシュ   「電光石火」        CBSソニー
        ポップコーン  「フレー!フレー!」    ワーナーパイオニア
        堀川まゆみ   「レモン感覚」       CBSソニー
        BORO      「都会千夜一夜」       CAMELLIA
        マーガレットポー「トロピカルハネムーン」  東芝EMI
        宮本典子    「エピローグ」       トリオレコード
        山根麻衣    「午前0時」         テイチク

□杏里は前年の11月にフォーライフから「オリビアを聴きながら」でデビューした。「ローリング30」のレコーディングの時、常富さんはちょうどこの杏里の海外録音で渡米していた。フォーライフの鳴物入り新人だったが、「オリビア」はさほど売れず、翌年第二弾の同じく尾崎亜美の「地中海ドリーム」に勝負をかけたがこちらももっと売れなかった。今や「オリビアを聴きながら」は日本音楽史に残る名曲だというのに。ひたすらに報われぬ荒れ地に巨木の種を蒔くそんなフォーライフであった。

□手塚さとみ。ユニチカガール。同じ学区の中学だったので成人式は大田体育館で一緒だった。可愛かったぞー。「ボビーに片想い」。松本隆の詞に御大が作曲するはずだったが、手塚さとみはこれを断り(爆)、なんとユーミンの作曲を要求した。ユーミンの作曲でありながらアレンジが瀬尾一三なのはそんな経緯があるからか。ともかく「作詞松本隆・作曲松任谷由実」の初コンビ作となった。御大が断られたおかげで、後に「赤いスイートピー」などの松本×ユーミンコンビが作品が生まれたのだ。面白くない。みんな御大に懺悔しな!

□さとうあき子。ニューミュージック界の石野真子と言われたが知る人は少ない。デビュー曲「ブルーバタフライ」は、松本隆×筒美京平というゴールデンコンビながら不発であった。でもって、御大が俺に任せろということでみずから作曲した「グッバイガール」で起死回生を図った(以下略)。石原信一の「挽歌を撃て」に小さなスキャンダルとしてちょっと出てくる。でも「グッバイガール」は切なくていい曲だ。

□DUO「放課後」。これは御大の作詞作曲の年上女性との同棲ソングで、もうたまらない。石川鷹彦のアレンジもかっけーぞ。詳しくはuramadoに書いた。別に読まなくてもいいけど。

 このフォーライフの新人たちは全員1961年(昭和36年)生まれだ。自分と同じ歳だったので勝手ながら同志のような気分がしてならない。御大社長のもと歌謡界にひたすら弾丸を打ち続けたフォーライフの暗夜行路がここにある。忘れないでいよう。

 (補足)
 能瀬慶子のデビュー曲「アテンションプリーズ」とこの「裸足でヤングラブ」は、浜田省吾の作品だ。浜省の苦境の時期、ホリプロの専属作曲家として下積みをしていたころだ。

 赤木さとしは、この年、篠島の宿で一緒になった兄さんが赤木さとしの親友だと言っていたので忘れられない。ジャニーズ事務所だったと思うが、すんげー暗い歌を歌っていた記憶がある。

 今に残っていない歌手の方も作品もある。しかし、残っていないということは、いなかったこととは違う。その時には、作品があり、魂込めて熱唱されて、その時の自分たちの世界を確実に育んでくれていたのだ。心から敬意を表させていただきたい。

2016.12/10

勝手に御大に結び付ける映画評 -2-
「Dearダニー 君へのうた」

 アル・パチーノ演ずる高齢のロックスターのダニー。往年のヒット曲のおかげでコンサートツアーも盛況、放埓な酒池肉林の生活を送っている。しかし、ある日、40年前のデビュー直後に「ジョン・レノン」から電話番号を記した激励の手紙を貰っていた事実を知って驚愕する。「音楽に誠実であれ」というジョンからの自分宛のメッセージに、彼は懐かしのヒットメドレーのコンサートツアーを中止し新曲を書こうと決意する。別れた息子の家の近くのホテルにこもって、アネット・ベニング演ずるホテルの女性マネージャーとも仲良くなりながら、心閉ざした息子家族の心に辛抱強く働きかけながら、新曲に挑む。家族と心通合わせ、恋心芽生えるマネージャーに励まされながら一フレーズ一フレーズ丹念に作り上げていく。ジョン・レノンから貰った手紙が40年を経て初めて歌手本人の手に渡ったという話は実話だ。この映画は、家族との絆の再結と人間的再生がテーマに違いない。しかし、それとは全く無関係に私が勝手にチョイスするこの映画の名場面はここだ。

 ダニーはようやく書き上げた新曲をライブで披露しようとする。家族も恋人マネージャーも期待して客席で待つ。そのとき満場の観客が、往年のヒット曲をコールするのだ。このコール、たぶん「落陽!落陽!」みたいなものだ。その満場のコールを聴いた瞬間、勇んで新曲を歌おうとするダニーは絶句し、深い心の闇にまっさかさまに落ちてしまう。新曲を歌うことが怖くなる。そして、苦悶の沈黙の後、新曲を歌わずに、ヒット曲を歌ってしまうのだ。狂喜する観客、失望する彼の家族と関係者。この苦悶する一瞬のパチーノの演技が絶妙にうまい。

 「御大に結び付ける映画評」だが、このダニーと吉田拓郎が同じだということでは断じてない。御大は、こんなやさぐれて退廃した歌手とは違い、常に新曲に立ち向かい我々に歌いかけてくれた。常に真摯に音楽とともに歩いてるところにファンは惚れ込んでしまうのだ。
 ただミュージシャンにとって「新曲」とは何なのかを考えさせられる。新曲とは何かなんて一般Pには想像しにくい。それはミュージシャンにとって音楽の喜びと生きがいであると同時に、厳しい現実や恐怖という複雑なスパイラルとともにあるものだと思わせる。特に年齢を重ねる中で新作を作ることの過酷さも覗く。この映画そしてパチーノはそのあたりを如実に描いている。

 それにしても、この人のファンサイトもやりたいくらいの大ファンだから言ってしまうが、アルパチーノ・・・演技力は超絶神だが、汚いじいさんになっちまったなぁ(涙)。役作りだけではなさそうだ。そう考えると美しい立ち姿で新曲に挑みながら歌いつつけている御大の素晴らしさをあらためて胸に刻む。これこそこの映画の真骨頂だと思う。怒られるか。

2016.11/27

勝手に御大に結び付ける映画評 -1-
「この世界の片隅に」

■映画「この世界の片隅に」と「明るい日常」
 映画になった「この世界の片隅に」はアニメ化というリスクを軽々と飛び越えた傑作だった。安堵。但し僅か2時間なので原作を相当に端折ってある。御大で言えばCBSソニーのベスト盤みたいなもので、これに感動してさらに原典のオリジナルアルバムを聴くのと同じように、「原作」がそこにある。

 作品は、人類史上最大の悲劇をそこに暮らす人々の小さな明るい日常から見つめる。そう、御大の口癖であり座右の銘でもある「明るい日常」から実にていねいに描いていた。戦争、国際情勢、国権の発動を前にすれば人々の「日常」なんてきわめて脆いものだ。正気ではいられないような悲痛事が「日常」に次々に襲いかかりズタズタにされる。この作品はその傷口を大仰には語らずその痕跡だけを描くにとどめる。あえて露骨に語らないところに底知れぬ恐ろしさと悲しみが浮き上がる。
 しかしボロボロにされつつも「日常」は、そんな絶望的な悲劇や悲痛事をもやがて静かに回収していく。これがこの作品の真骨頂だ。戦争反対、核兵器廃絶、それは心の底からそのとおりだが、この作品は、そういうスローガンではなく、脆くて、柔らかで、しかしとてつもなく強靭な「明るい日常」のチカラを描いている。そして「普通じゃのう」というセリフが、普通であればあるほど「日常」は強いことをも教えてくれる。おそらく身の置き所のない悲しみを知りえた者だからこそわかる「日常」の意味なのかもしれない。

 御大がアルバム「こんにちわ」や「午前中に…」で「明るい日常」をテーマにすると語ったとき、なんとスケールの小さいことを歌うんだとトホホな気分で落胆したものだ。しかし、なぜ最近の御大が「日常」とそこに繋がる「家路」を大切なテーマとして繰り返し歌うのか。この映画と御大は「広島」以外に何の関係もないが、この映画の主題のようなものと何か通底するものがあるのではないか。御大よ、なぜにあなたは「日常」を歌い、そこに何を見ているのか。そんなふうに御大の作品を問い直してみるも一興ではないか。

■映画「この世界の片隅に」と「馳せ参ずること」
 都会的に洗練された広島と垢抜けないが軍港のプライドを持つ呉との町同士の反目みたいなものが描かれていた。しかし、呉が大空襲を受けて町が灰塵に帰した時、食糧難の時期にもかかわらず広島から炊き出しのおにぎりがたちまち大挙届けられる。広島に新型爆弾が落ちたときも呉の人々は支援隊が組織され向かおうとする。安全性とか合理性とか経済性とかいろいろな理窟はあろうが、何を置いてもともかく駆けつける気持ちが漲る。
 御大は、昔から、よく口癖で「馳せ参じる」という言葉を使っていた。「あいつが何かをするなら俺は馳せ参じるよ」ってな具合で。御大は、理屈抜きで応援と支援に駆けつける、その「気持ち」を語っていたのだと思う。結局、他人の一大事に「馳せ参ずる」気持ち。人類にはそれしかないのだ、それこそが人間の最も崇高なところであり、この世界の希望なのだと思う。

■映画「この世界の片隅に」と「居場所」
 御大はいつだって居場所を探していた。居場所を探して放浪をしていた。そしていつのころからか家という「居場所」を見つけ、その居場所で過ごす日常とそこに向う家路を大切に大切に歌うようになった。

 「誰でも何かが足らんぐらいでこの世に居場所はそうそう無うなりゃせんよ」
 「この広い世界の片隅に うちを見つけてくれてありがとう」

この二つの言葉がこの映画の核心となっている。御大の心情と遠く離れたものではあるまい。

 忠実なロケハンなので、原爆投下前の素敵な佇まいのドームや福屋百貨店も元気な姿を見せる。御大に繋がる居場所はあったのだろうか。

2016.11/19

自由は

 御大ほど不断に「自由」を詞に使い続けるシンガーはいない。試しにデビューから年代順に拾って並べてみた。並べてみたら圧倒された。「自由」という言葉を通じて、あらゆる側面から、人間の理想、希望、彷徨い、苦境、虚しさ、不安、孤独、祭り、若さ、平和、天国、堕落、そして明鏡止水のような境地までが謳われている。
 これはもう1人の人間がデビュー以来、自由との格闘を通じて描き上げた一篇の壮大な叙事詩のようなものだ。

  「自由は」1970
  自由気ままに思った通り何でもやってみること青春の詩 1970
  苦痛に追われた若者たちは、自由を追わない若者たちは灰色の世界 1970
  果てしなく広がる夢と自由とが欲しかったともだち 1971
  両手でこぼれないほどの小さな自由らしきものをやっと気づいて 1971
  これが自由というものかしら自由になると淋しいのかいどうしてこんなに悲しいんだろう1971
  小さな自由と小さな愛が伝わるだけでいいのさフォークビレッジのテーマ 1971
  そうすりゃ自由になれるなんて思っているほど甘くはないけれどまにあうかもしれない1972 岡本おさみ
  おまえの足音は自由を知ってる 言葉なく語れる涙も汗も私の足音 1972
  小さいけどその叫びは自由への道しるべ私の足音 1972
  軽くも重くも自由という名の荷物を背負って私の足音 1972
  僕らの声は自由な小鳥、雲と一緒に飛んでゆくのさ新しい朝 1973
  古いカラを突き破り今こそ歌おう、自由だよ、夜明けだよ新しい朝 1973
  あぁ外の空気が匂う、僕は自由の身になったんだ忘れかけた一日 1974
  自由を語るな、不自由な顔で知識 1974
  自由でありたい人だから、縛りつけたい僕だからひとつの出来事 1976
  自由に生きてごらん いつかは涙も乾くおいでよ 1977
  今、君は解き放たれて自由へと翼広げる 英雄の名に縛られず英雄 1978 松本隆
  自由だった街の祭り騒ぎ失せて白夜 1978 松本隆
  勝手にしたいと思うほど、自由を気取るとたたかれるわけわからず 1978
  旅立てJACK 自由には地図がない旅立てJACK 1978 松本隆
  どこで自由を手にすればいい何を求めて歩いて行けばいい熱き想いをこめて1980
  自由でありたい心のままがいい元気です 1980
  旅には標なき自由さもあるけど二十才のワルツ 1980
  ギターケース抱えて歩いたよ、何故かバスに乗るより自由な気がしてサマータイムブルースが聴こえる 1981 松本隆
  信じることは義理じゃない、人の自由って何だったい?この指とまれ 1981
  君を自由に出来るならKAHALAに連れて行きたいKAHALA 1983
  世の中呑気な平和より真実の自由が欲しいだけふざけんなよ 1985
  孤独な人に贈る言葉は、あなたが不自由とは限らないのさ心が届いた 1984
  ああ自由をこの身で感じたい、失ったものは記憶の中にないLife 1984
  自由も不自由もこの胸に抱きしめて男の交差点 1985
  あなたの望む自由まで奪わない、あなたの選ぶ人生を拒まないオールトゥギャザーナウ1985
  そう自由の風に酔え、そうすべてを解き放てRONIN 1985
  俺の夢からお前が出てゆく、自由を選んだお前が出てゆくパラレル 1986 安井かずみ
  自由を飲み干して誰も彼もがそこで人生を待っていた時は蠍のように 1986 安井かずみ
  ああ僕の考えていた事は自分を自由にさせること現在の現在 1988
  解き放たれた自由を感じながら僕たちは結ばれる約束 永遠の地にて 1989
  流れる川に掉さして、街を自由が駆け抜ける冬の雨 1989
  違う道があってももう戻っては行けない 汚れた自由も甘いし車を降りた瞬間から 1990
  君の自由と不自由までが僕を縛り付けるしのび逢い 1990
  夢の女と結ばれたか そして自由を抱いているか男達の詩 1990
  求められたのは自由な君なんだからロマンチックをおくって 1991
  自由通りをそよぐ風たち今度はいったい何回目の引っ越しになるんだろう1992
  君の全てを自由にしたくてずっと大切にしてたわけじゃない全部抱きしめて 1996 康珍化
  重たい荷物は背負ってしまえば両手が自由になるだろう気持ちだよ 1999 康珍化


          時がやさしく せつなく流れ そっとこのまま 振り返るなら

                           僕らは今も自由のままだアゲイン 2014

2016.11/3

岡本さんのSHANGRI-LA

埋もれていたSHANGRI-LAのパンフに、岡本おさみさんのライナーノーツが記してありました。
こんな時期ですので、そのまま転載してしまうことをお許しください。

SHANGRI-LA Studioは、Zuma海岸の小高い丘にあった。
木造りの平屋で食堂と広間、いくつかの部屋とスタジオ、そして、玉突台がひとつ、
犬が2匹住みついていて、海に沈む夕陽が見えた。
Booker T Jonesは静かなる男だった。
EngineerのJim Niparは音を取る決断が速かった。
DrumsのSammy Creasonは農夫のようで、丸太のような腕と肩は大地を耕すように、スティックをうちつづけていた。
GuitarのMichael Sembelloの指は奇術師のようにすばやく最も新鮮で新しい色どりを加えてくれた。
BassのDennis Belfieldの微笑は羊のように人なつっこかった。
GuitarとBanjoのDan Fargusonは寿司が好きだった。
AccoudionとS.SaxのGarth Hadsonは、Accoudionの録音に6チャンネルを使い、日本語の理解に不思議な△の記号をつかい、2日間スタジオを独占した。
通訳のKun(Kunimisawa)は宇宙人とも会話できた。
2匹の犬はいつもねそべり、居候のSammyは朝から翔んでいた。
TsunetomiとJimmy(Jinyama)の対論は永遠につづいた。
吉田拓郎はワイルドで燃えていた。

そしてぼくは毎日3時間、玉突をしていた。
               Osami Okamoto

2016.2/27

失われた2年間が語るもの

 吉田拓郎は、フォーライフの再建という重責を背負って1977年6月にフォーライフレコードの社長に就任します。新人発掘による売上の立て直し、人員整理と合理化、販路拡大のための平身低頭の地方行脚などなど連日の仕事は深更まで及び、もはや会社ごっことは言えない激務と消耗の日々が始まりました。特に社員の人員整理は一番辛かったと述懐しています。2年後の79年の6月の「デスマッチ」のコンサートツアーとその総決算の篠島イベントでアーティストとして本格復活するまでの間は、御大は自ら「裏方宣言」をし「音楽活動は全く出来なかった」と述懐しています。俗にいう「社長時代の失われた2年間」です。・・って自分で勝手に言ってるだけです。
 しかし、うかうかしていると御大は2年間まるでお休みしていたかのような感じがしてしまいますが、そんな過酷な社長の大きな制約の中でも、御大は地道に音楽活動を続けていました。具体的に御大の音楽活動を思いつくままに拾ってみます。

 1977年春にアルバム「ぷらいべえと」を発表し、キャンディーズの「やさしい悪魔」を大ヒットさせ、6月社長に就任します。そしてプライベートではその年の夏には結婚がありました。それだけでもいろいろ大変でしょう。

 社長就任の翌月には、7月にシングル「もうすぐ帰るよ/Voice」、そして11月にはアルバム「大いなる人」(全10曲)を発表します。 アルバムレコーディングと並行して、同年秋の東京キッドブラザースのミュージカル公演「彼が殺した驢馬」のために新曲を8曲も書き下ろします。 その作業の間に、作曲家としてキャンディーズ「アンドゥトロワ」、「銀河系まで飛んでゆけ」、BUZZ「あなたを愛して」、森進一「夜行列車」を提供しました。
 そして同年の秋から冬にかけて太田裕美のシングル「失恋魔術師」とアルバム「背中合わせのランデブー」のために5曲を書き下ろします。
 そして翌年78年。1月ころから石野真子のデビュープロジェクトが始まり、春までに石野真子のシングル・アルバムで「狼なんか怖くない」「私の首領」など都合7曲を書き下ろすのです。
 自分自身は、2月からリハに入って3月一杯かけて全国13か所縦断コンサートツアーを挙行。4月深夜放送レギュラー「セイヤング」開始。 5月シングルに「舞姫/隠恋慕」を発表。6月頃には、松本隆とサイパン島で「ローリング30」のジャケット撮影と企画の合宿。その合間に海岸○○運動(笑)にいそしむ。夏には、いよいよ作曲とレコーディングに入り、秋までかかり、前代未聞の全21曲の新作書き下ろしの大作アルバム「ローリング30」を創り上げます。
 その間にも、アグネスチャン「アゲイン」と後に石川ひとみがカバーする「ハート通信」、神田広美に「ドンファン」、フォーライフの盟友の大野真澄「ダンディー/マリア」、清水健太郎に「さらば/いいじゃないか」、いしだあゆみ「今夜は星空」、竹下景子「19の夏に」、伊藤咲子のCMソング「友達になろう」、カーニバル「さよならロッキー」、そうそう滝ともはるが歌う「セイヤングのテーマ」も作曲しているのであります。

 枚挙に暇なしですが、どんなもんでしょう。すんげー仕事してるじゃん。アーティストとして世間の表舞台で活動しなかっただけで、とにかくものすげー怒涛の音楽活動をしていたで御大であります。しかも、これら一曲一曲の作品のクオリティの高さは、私などがあえて言うまでもありません。まさに栓を抜いたシャンパンの瓶のように身体から溢れるような名曲群。御大、雌伏の時にもかかわらず、この音楽との結縁の深さ。
 心身疲弊するような厳しい社長業と並行してこれだけの音楽活動に取り組んでいたことは驚きというほかありません。奥ゆかしいご本人は「社長の時は音楽はなんにもやってなかったよ」とうそぶきますが、この事実にこそ刮目すべきでしょう。もちろんもっともっとこの時期に音楽活動をしたかったという無念さもありましょう。そして社長業の渇望こそが逆に音楽創作に勢いをつけたのかもしれません。そこらへんは、みんなそれぞれで想像するよりほか有りません。
 確かな事は、御大は身体ごと音楽であり音楽と不即不離にあるという事実です。そんな御大をもっともっと誉めてあげれば良かったという後悔でこんな駄文サイトをやっています。そんなことはいい、とにかく御大あなたはやっぱり凄い音楽家だよ。「失われた2年間」は、かえって音楽家としての凄さと深さを証明していると思います。

2016.2/27

書生について

 テレビでの御大は相変わらず奥ゆかしい。過去の栄光や偉業をどこか他人事のように話し、まるで伝説を無力化し遠ざけよう遠ざけようとするかのようです。
 普通のミュージシャンであれば、ココは一発自分の偉業を宣揚し、期待されるようなドラマチックなフレーズを奮発してくれるところでしょう。しかし、この人には、そういう意味での予定調和が通じません。謙譲の美学、コントロールできないシャイネス、いろいろと理由を考えたが、基本的にそういうことに関心がないだけのような気もします。
 今、この人にとっては静かな自分の暮らしがあって、粛々と音楽を作り、歌って、おいしいごはんの待つかけがえのない家に帰ることがすべてなのではないかと思います。

 「生涯一書生」という言葉があります。昔の小説に出てくる「書生」。古き昔の学生のように粛々と本を読み、リベラルアーツに取組ながら未完のまま生きて行く。権力者や金持ちと人脈を作ったり、儲けた金で事業や利殖をしたり、地位・名誉・勲章を求めたりすることの対極にある人生。きっと御大は「音楽の書生」なのではないかと思ったりします。
 誰かが書いていましたが、今の時代には「書生」がいない。誰でも彼でも、業界の人脈に取り入り、マスコミに顔を売ろうとし、貪欲に出世してカネ儲けをしようとする。世のため人のため愛のためと言いながら、実は自分の権勢と欲得のために巧みに世渡りしている。テレビなんぞはそんなビジネスの最前線の土俵だ・・・。
 そんなあざとい土俵に、ふらりと「音楽の書生」がやってきて、何も飾らない人格のままふるまいます。欲からもビジネスチャンスからも過去の栄光からも遠くはなれて、そこにさりげなく座る男。御大の奥ゆかしさというかテレビとマッチしない違和感の原因はそこにあるような気がします。

 音楽を粛々と続ける「書生」である御大。だからこそ、歯がゆくもあり、美しくまた誇らしくもあるのだと思います。

2016.2/20

含羞のソリスト

 かつて坂本龍一は、御大との(たぶん1985年6月のオールトゥギャザー・ナウの当日)わずかの面識の印象をこう記していました。

    彼とは一度会った。

    暴力的だと聴いていたがそうは感じなかった。

    むしろ自分でもコントロールできないくらいのシャイネスを持っているように見えた。

坂本龍一・1986年9月ブックレットTAKURO所収)

 そう,コントロールできないシャイネス。さすがちゃんと看破しています。
 豪放磊落なイメージ、実際にもアグレッシブに歌い活動してきた御大ではありますが、ここぞという時にテレて引っ込んでしまう奥ゆかしさに、ファンは歯がゆい思いをしてきました。近いところでは、俯いて歌う紅白歌合戦や黙秘権を行使しているのかと思った初期のLOVE2あいしてる。この御大の「シャイネス発動」には観ているファンも手に汗握り、「ああ御大は、ホントは歌も喋りも超絶品なのにぃぃ」と身悶えしたものです。
 しかし、歯がゆく思う反面で、臆面もなく自己アピール・演出に腐心するミュージシャンを観るにつけ御大の清廉さを誇らしく思ったりもするのでした。
 これを含羞というのだそうです。音楽プロデューサーの萩元晴彦氏が小澤征爾を評した時の言葉です。ステージで素晴らしいパフォーマンスを魅せつつもどこかに羞ずかしさをたたえた様子。そこにこそその人の魅力が宿るということでした。この含羞の有無を基準に考えると好きなミュージシャンと嫌いなミュージシャンがキレイに分かれる気がします。具体例を挙げだすと何か余計なこと言ってしまいそうなので控えます(笑)。
 アグレッシブとコントロールできないシャイネスの間にある・・・というか滲み出てくるものが御大の含羞ではないかと思います。 歯がゆくも誇らしい含羞の人のファンであることをあらためて思います。

2016.1/10

そして父に遭う

 映画通の御大は、昔からラジオやエッセイでよく映画のハナシをしていました。その中で、御大が「泣ける映画」として語っていたのが次の3本です。

『鉄道員(伊・1954年)』
 高倉健主演のじゃないです。頑固一徹な鉄道員の父親は、家庭でも暴君であり、長男・長女は反発するものの、末の男の子だけは父親を誇りに思い慕います。家族の秘密を抱えて苦しむ少年に、父親が肩を抱いてなぁ『二人で男同士の話しをしよう』と優しく話しかけるシーンがあり、御大はそのシーンで涙が止まらなかったそうです。

『チャンプ(米・1979年)』
 御大が当時、映画館で大号泣したという『チャンプ拓郎事件』は当時のファンには有名になりました(笑)。ジョン・ボイト演ずる落ちぶれたボクサーは、男ヤモメで幼い息子と暮らしています。貧しくも愛情あふれる父子の暮らしにやがて訪れる別れに向けてストーリーは進みます。日々苦労する息子に、男がボクシングのささやかな賞金で小さな馬をプレゼントするシーン。この息子の感激の仕方がまたハンパない。このシーンからラストまでもう号泣しっぱなしだったと語っています。

『フィールド・オブ・ドリームス(米・1989年)』
 時空を超えて父子が再会するファンタジーであるこの映画を観て感涙した御大は、父親の声を聴きに故郷鹿児島まで行きます。そして名曲「吉田町の唄」「清流」が完成するのでした。

 特徴的なのはいずれも父親と息子の関係がテーマの映画です。おそらく御大は、少年だった自分と父親の姿に重ねあわせていたに違いありません。もちろん確かめようがないし、あったとしても怖くて聞けません。そもそも他人様の父子関係をあれこれ考える時点で御大に怒られるでしょう(笑)。
 拓郎といえば『おやじの唄』に代表されるように父と息子の対立がイメージされます。本人の口からも、いたるところで、最低の家庭人、大陸浪人、酷い人、大嫌い等など容赦ない言葉がポンポンと出てきたものです。その御大が父子の映画に敏感になっているところが感慨深いものがあります。

 そして今になって伝記『誰も知らなかった拓郎』を読み返すと小学校三年生の御大の日記が胸を打ちます。

  1月8日
  今日は皆実小学校第三学期の始業式だった。帰ってから勉強をして、お父さんと砂遊びをした。
  おふろに入っていやというほど たわしでこすられてひりひりする。

  1月9日
  ほんとなら今日、父は鹿児島へ帰ることになっていたが『明日にのばす』といったのでぼくは
  大喜びだ。

  1月10日
  いよいよ今日は父とお別れだ。汽車が動き始めると、僕は悲しくて涙が出た。さようなら・・・

  1月20日
  父が鹿児島に帰ってから10日たつ。なんとなくさびしい。父も広島に来て仕事をすれば一緒に
  暮せるのに・・・。どうしてだろう・・・?

  1月21日
  今日、父から写真を送ってきた。ぼくはしかめっつらをして写っているのでみんなが笑った。
  その時のねえさんの笑い声は、いまでもおぼえている。
  こうだ。クワッハッハッ、クワッハッハーハー
  父も元気に笑って暮らしているのだろうか。


 映画より泣けてきたりします。『父が鹿児島に帰ってから10日たつ』『父も元気に笑って暮らしているのだろうか。』このあたりが涙腺をグイグイと押します。毎日毎日、思っていたんだねぇ。少年がどれほど父親を愛していたか胸が詰まります。

 『おやじの唄』にみる若き日の父親との厳しい確執から、やがて幾星霜を経て父と家族と故郷との再結を歌い上げる『吉田町の唄』、そして父への詫び状ともいうべき『清流』というように、御大の父親観は、作品のうえでも変化して行きます。変化というよりも、廻り回って、あの少年の頃の気持ちとつながり、ちょうど『円環』が閉じたようなものなのではないかと思います。長い年月は大好きだった父親と少年時代のピュアな気持ちににもう一度出会うための旅だったのではないかと思ったりします。

2016.1/10

二つの音楽の魂

 作曲家「筒美京平」の偉大さは私なんぞが言うまでもありますまい。

 拓郎は、筒美京平に次のような言葉を寄せています。
 「すごくいいナー」と思うと必ず筒美京平の曲である
 「やったナー」と思うとやっぱり筒美京平の曲である
 ・・・口ずさんでいるのはいつも筒美京平の曲である

 拓郎がここまでの尊崇の意を示す作曲家はいないでしょう。そしてその無敵の神のごとき筒美京平を恐れさせたのが拓郎です。筒美京平はかつて自分の作曲家としての特集番組のインタビューで

   「陽水さん的な音楽はそんなに怖くなかったけど、拓郎さんの「結婚しようよ」が出て来た時は「こりゃ大変だ」と思った。やっぱり新しかったと思う。」

    と語りました。これは私たちファンにとっての「誇り」であります。

 おそらく「結婚しようよ」当時の歌謡界・音楽界の大御所は、みんな拓郎のことを字余りのフォークソングとバカにしていたに違いありません。また身内ともいうべきフォーク界からも、あんなのアイドルみたいなチャラ男だぜ!と軽く見られていたはずです。だからフォーク・ファンからも「帰れ」と罵声を浴びたのでしょう。
 そんな中での筒美京平はひとり「こりゃ大変だ」と震撼しているのです。拓郎の才能に感心しているとかいうレベルではなく「危機感」を感じているところがミソです。天才だからこそ天才がわかるというべきでしょうか。
 今人気のドラマ「下町ロケット」で言えば、大企業の帝国重工の面々が、あんな中小企業に何が出来ると余裕こいて思いっきり馬鹿にしている中、開発部長の吉川晃司だけが卓抜した精度の技術に気づいて真っ蒼になっている状況と似ています。

 しかし、筒美京平の天才たるゆえんは「大変だ」と危機認識をしたら次にその対処を考えるところです。相手の技術を積極的に取り入れて改良し自社製品をバージョンアップしていくかのようです。
 例えば思いつくままですが、拓郎が、デビュー曲を始め数曲を提供した石野真子。その4曲目「日曜日はストレンジャー」、5曲目「プリティ・プリティ」で参入した筒美京平のメロディとリズムの弾み方は、明らかに「拓郎節」を意識して摂取しています。
 そして小泉今日子あたりになると「半分少女」「真っ赤な女の子」「魔女」そして「夜明けのMEW」等は、たぶん拓郎ファンが聴くと妙に心が疼くメロディラインのはずです。この辺の音楽的分析は詳しい方にしていただきたいのですが、素人の私にも、筒美京平が、確実に拓郎節のエッセンスを消化し自家薬籠中のモノにしているのを感じます。ホント音楽家というより技術改良を怠らない技術者のような筒美京平です。
 かつて拓郎を軽んじていた音楽家たちを差し置いて、筒美京平がかくも長くトップの座に君臨してきたのには、そこに理由があるのかもしれません。

 松本隆のかつての公式HPに掲載されたインタビューで松本隆はこう語っています。

 「(筒美)京平さんのことを考えると、あれは音楽の魂だと思うんだ。(吉田)拓郎とかもそうだよね。年取ったなんて何も関係ない。確実なのは40年持ったものは100年持つってことだよね。」

 「二つの音楽の魂」が100年続きますように・・・こりゃ違う歌か。永遠に続きますように。

2015.11/21

ピアノの巨匠かく語りき

 数年前にエルトン永田さんの公開ピアノ・レッスンを見学させていただいたことがありました。 一般の方が、エルトンさんの前でピアノを弾いて、エルトンさんからコメントをいただくものです。ピアノとは全く無縁で知識もなんにもない私ですが、エルトンさんのピアノが大好きな私には心に残る経験でありました。
 以下は素人の私が聞きかじった記憶と思い込みで書いているので、ご本人のアドバイスのご趣旨とは違ってるかもしれません。

■これ(「マイウェイ」)は人生を振りかえる曲です。最初は静かにそして徐々に思いが高まっていくように。詞の言葉を思い浮かべながら弾いてみてください。

■ポップスの命はリズムです。そしてポップスを弾く目的は、聴いている人が、心が軽くなって、ちょっと踊ってみようかな・・と思わせることです。ただ音符をなぞるだけでなく、あの人を踊らせてみようとかそんなことを思い浮かべて弾いてみてください。

■一緒に演奏しているパートナーに対してモタモタしやがってと思う時は、大概、自分の方が浮き足立っていてどっか行ってしまっていることが多いです。 気をつけてね。

■この人わかってんのかな?と思っても他人の耳っていうのは、えてして公平なものです。

■時々正確なものを聴きながら自分の演奏を確かめる必要がありますね。でもその正確なものに頼ってはいけないからね。

カッチョエエなぁ畑違いの自分の仕事のことをも考えさせれるような私なりの貴重な時間でした。

2015.11/21

「声と音楽」を写しだす写真家

 2010年にあった拓郎の写真展では、田村仁さんの写真だけでなく、彼の書いた文章のパネルが飾られていました。タムジンさんが、拓郎のことをどう考えているのか、それは彼の「写真」によって十二分に語り尽くされているのですが、それをトレースするような彼の文章が素敵でした。そのなかで面白かったのは、タムジンさんが拓郎を評価するところ次のように語っていました。

「僕が好きなのは拓郎のボーカルのチカラ。もう圧倒的でしょ。ヴォーカルが既に音楽になっているというか(略)陰と陽、影と光が同居していて実に美しい。」
 写真家なのに、絵ではなく、そのボーカルに惹かれているところが興味深いです。ボーカルの美しさをそんな風に視覚的に捉えているのですね。 そのボーカルの魅力をも写真の中に刻みこんでいるからこそタムジンさんの写真は凄いのかもしれません。
 2003年10月に放映された拓郎が病気から復帰するまでのドキュメント番組、その様子を撮り続けているタムジンさんもに登場していました。最初は、さんざんだった手術直後の拓郎のボーカルレッスンが、二回目になると立ち直っており、その時、タムジンさんがものすごく嬉しそうに「声が戻っているじゃない。いいじゃない。」と喜ぶシーンがありました。やはり声は彼にとって写真の大切な要素なのがわかります。

 タムジンさんは、その文章の最後をこう結びます
 
「拓郎の目線の先にあるものを僕は撮るよ、これからも。拓郎の観てる先は、今はよく解らないんだけれど、何かをしっかり見ていることはよくわかる。 」

 写真も音楽もわからぬシロウトの私ですが、こんな気骨を持ったファンでありたいものだとしみじみ思いました。そして最後の最後に本当の同志として大川装一郎さんへの気持ちを忘れないあたり、やはり、タムジンさんは凄い方だと尊崇する次第です。

2015.11/21

このアジアの片隅で

「この世界の片隅に」という戦時下のヒロシマを描いた漫画があります。

 戦争モノは、暗く凄惨で、それを通して鋭く問題を抉る!というトーンが多いのですが、それとは対極にあるような普通の明るい日常のやわらかな雰囲気の中ですすむお話です。でも、だからこそ、より切なく、衝撃的なのでした。
 名だたる賞も受賞して、ドラマ化もされ、絶賛する人も多いようですが、依然として本屋では平積みもされずに文字通り「片隅に」ひっそりとあります。

 しかし若い作者なのに当時の生活をこんなにリアルに描けるという力量も素晴らしいです。例えば呉の町が広島の町をどう思い、広島が呉をどう思っていたか、という町同士の空気まで伝わってきます。
 そういえば広島市は吉田拓郎、呉市は浜田省吾の出身地です。

 作品の中で厳しく問われる自分の「居場所」。その答えであるかのように、作品の最後に、

 「誰でも何かが足らんくらいで、この世界に居場所はそうそう無うなりゃせんよ」

 という言葉が出てきて、なんともあたたかく物語は終わります。

 同じ作者の作品で、ヒロシマで被爆した二世代の女の子の生活を描いた「夕凪の街 桜の国」も静かに胸にせまるお話でした。

 この「夕凪の街 桜の国」は、あの例の困った映画「結婚しようよ」(私だけか、そう思うの)の佐々部清監督によって映画化されていたのですね。

 広島子ども科学館のプラネタリウムの特別ブログラムにもなっていたようです。

 なんとこのプログラムは、こうのさんの絵に吉田拓郎の歌が使われていたとのことです。観たかったなぁ。


 でね、この話に出てくる三姉妹がいるのです。二人は原爆で亡くなってしまって、生き残った少女が主人公となるのです。
 主人公が「皆実(みなみ)」、姉が「霞(かすみ)」妹が「翠(みどり)」
 この名前って広島の町にちなんでいるとのことです。

 平野霞 - 広島市南区霞町
 平野皆実 - 広島市南区皆実町
 平野翠 - 広島市南区翠

 霞町って吉田拓郎の実家のあるところですよね、
 皆実町は言わずと知れた吉田拓郎の母校皆実高校
 翠町って吉田拓郎の母校翠町中学校

 をを見事だ(@_@;)
 本質とは全く違う感動だけれど(T_T)

 悲しいけれど、反戦、反核というスローガンだけでは、時間とともに風化していってしまうものも多いかもしれません。こういう普通の人々のいとなみを通じて、少しでも具体的なものをシェアすることの大切さを思います。

(つけたし) 話の中に、「広島工廠歌」 いわゆる軍事工場の歌というのが出てきます。
 軍歌は嫌いだし、でもこれも軍歌なんだろうけど、殺伐としてなくて勇ましくもなくてお仕事のお手本のような歌でした。

 朝(あした)に星をいただきて
 夕(ゆうべ)に月の影ふみて
 勤しむ技術にこもれるは
 世界平和の光なり
 全力集中一念に
 尊き使命果さばや

時々頭に浮かびます(^^ゞ

2015.8/10

あの人の立ち姿

 岡本おさみは昔「吉田拓郎は音楽以前に「ステージの立ち姿」が美しい」と語っていました。あの立ち姿を観て「コイツは一体どこからやってきたんだろう」と唸ったと言います。

 あれから幾星霜を経て今もその立ち姿は美しく健在です。

 うまく言えないが、どこにも力みがなく、ほっそりとした身体ですうっと姿勢良くと立っている。岡本おさみの言うとおり、美しい。それだけで何かを語っている。世の中の66歳にありがちな老人の立ち姿ではない。

 やはり鍛えていないとああはならないと「舞踏」に詳しい友人は語っていました。

 とすれば絶妙な鍛え方だなぁ。  鍛えることは往々にして自己目的化するからどこぞの筋肉馬鹿みたいになってしまう(決して特定個人を指すものではありません たぶん)

 音楽に必要な限りで 見えないところを見えないように鍛えるのか。  さて、ライブである以上、歌も演奏もとても大事ですが、70歳を超えんとするこの人が、ステージでどんなふうにたたずむのか。

2015.4/5

茨の道を越えてきた

同じく昔のFC会報を読んでいてあらためて感じ入る部分をφ(..)メモメモ

原宿で打ち上げがあった。(注・1991年デタントツアー)
その時彼はポロリと?「地方ではボロボロなこともあった」
と話していた。
つまり客が入らないということだ。
そんな時彼はイベンターに「いい曲を書けなくてゴメン」と
謝ったのだそうだ。
いい曲をたくさん書けば、こんなこともなかったのにということだろう。
打ち上げを終えるときに彼は
「いい曲を書く、絶対にいい曲を書くからな」
と何度か口に出していた。 田家秀樹「ライブレポートNHKホール」

 胸が、しめつけられるようです。
最近の田家さんの著書にも同じような本人の言葉がありました。

90年代の初め頃かな。チケットが思ったほど売れなくて。一階席の後ろの何列か空席なのがステージから見えるわけ。
妻に""もうやめちゃおうか"と言ったことはあるよ。田家秀樹「ライブレポートNHKホール」

 90年代半ばまでのあの悲しい氷河期のような空気はファンにも伝わっていましたよね。

1000人いると思ってたのに500人に減っていると思ったときは、ショックを受けるし悩むけれども、1000人に増やせばいいじゃん、また、と思っているから。
1000人に増やすための曲を作っていないということでしかない。
いい曲を作ってないということでしょう。大いに反省しろっていうこと。田家秀樹「ライブレポートNHKホール」

イベントがどうとかいう話ばっかりだな。それは非常に本意じゃないんだな。
40年間歌い続けたっていうことと、40年間新曲を作り続けてきているんだということだけが僕の財産だと思っている 田家秀樹「ライブレポートNHKホール」

勝手に好きなように思えばいいし、勝手に好きなように論じればいいのであって、こっちがやることは唯一、ひとつで、曲を作って歌うことだけなんだから、実にシンプルなことで。
どう作って、どう演奏するしかないわけ。田家秀樹「ライブレポートNHKホール」

 あらためて吉田拓郎という人は完膚なきまでの"音楽家"なのだということを思い知ります。

 悲しくも混沌とした世界の状況ではありますが、そこに「戦略」とか「仕掛け」とか「プロモーション」とか「演出」などを考えず、"ひたすらいい歌を作り、ひたすら歌い演奏する"ことだけで切り抜けて行こうという覚悟なのですね。

 まさに音楽という一本のホースで荒野に水を撒くように。

 ともすると派手なイベントとパフォーマンスを求めがちなファンは、拓郎の大切な本質を見失ってしまいそうです
これからスタジオ入って、音楽家として新曲と格闘せんする吉田さんを心して応援したいです。

2015.4/5