オールトゥギャザー・ナウ
作詞 吉田拓郎 作曲 小田和正 編曲 坂本龍一
行くあてのない、たった一人の「小さな勇気」
1985年6月15日に国立霞ヶ丘陸上競技場において行われた大規模なジョイントコンサートのオーラスに出演者全員で合唱されたテーマソングである。出演者は、吉田拓郎、松任谷由実、また、はっぴいえんど、サディスティック・ミカ・バンドの再結成の他、オフコース、佐野元春、サザンオールスターズ、さだまさし、南こうせつ、チェッカーズ、THE ALFEE、山下久美子、坂本龍一、武田鉄矢、財津和夫、イルカ、白井貴子、アン・ルイス、ラッツ&スターという豪華歴史的集大成ともいうべき布陣であり、国立競技場を本格的な音楽イベントとして使用した最初でもあった。
当時は、翌月に自身のラストステージを宣していたつま恋を控えた御大だった。そういう忙しい時期のうえに、こういう場では率先して後ろに引っ込んでしまう奥ゆかしい御大は、openingでオフコースとセッションをしただけで、あとは”久米宏のようには行かないよ”とボヤきつつ総合司会という縁の下の力持ち系の役割に徹していた。
そして、このフィナーレ作品は、最後に出場者全員でリレー合唱され感動的な歴史的イベントは締めくくられた。作詞は、吉田拓郎、作曲は小田和正(and more?) 編曲は、坂本龍一となる。作詞に小田和正が表記されているものもあるが間違いで、吉田拓郎の単独作詞である。
但し、拓郎ファンならばわかるように、こういう時に喜び勇んで詞を書くような御大ではない。ひたすら嫌がる御大を、南こうせつ、財津和夫、松任谷由実らが夜の町に連れ出して総がかりで説得するが…そこは天邪鬼の御大はますます頑なになる。難航する中、最後の手段として、ユーミンが薬師丸ひろ子を引き合わせた。「拓郎、あなたの書いた詞を、ひろ子ちゃんも歌うのよ」と押したところ「ウン書きます」と一発で決まったということである(笑)。
当時、世界を席捲していたチャリティ・ムーブメント“Live Aid”や”We are the world”とは、関係のないイベントだったが、85年の同時期だったので何かと比較されたり、関連して論ぜられることが多かった。当時、北山修先生は、別にイベントを企画呻吟中で、「”We are the world”は、素晴らしい歌だが、詞を和訳したら日本語で歌うのはとても気恥ずかしい」と困っておられた。御意。しかし、そんな北山先生に申し上げたい。この「オールトゥギャザーナウ」の詞の素晴らしさはどうでしょうか。当時も音楽評論家から「祈りのような詞」だと評された実に見事な大作である。
括目すべきは、その詞の構成であると思う。
あなたの望む自由まで 奪わない
あなたの選ぶ人生を 拒まない
この最初のこの切込みの見事さに驚く。この種の唄の歌詞は「みんな愛の家族」「みんな愛の仲間」という生温かい連帯感から始まり繰り返されることが多い。しかし、御大は最初に、一人一人の個性の多様性を認め、個人の自由の領域への不干渉と尊重という個人主義・自由主義の基本をしっかりと宣言する。特筆すべき異例の出だしであると思う。
そして、個人主義・自由主義を基盤としつつも、その行き過ぎと歪みから様々な見過ごせない不幸が生じ来るところに視点を移してゆく。まるで憲法か政治学の模範答案のような構成だ。
でも誰かが 泣いている
明日を待てない人がいる
その人々の不幸に心寄り添い、子どもたちの心や地球の環境に思いを運ばせる。そして御大は、静かに宣するのだ。
今こそ その手に小さな勇気を持て
愛の唄よ風に乗り遥かに届け
御大がサビで歌いあげるのは一人一人の「小さな勇気」である。大いなる勇気ではなく、肩を組む連帯でもなく運動でもない。声高に救済を叫ぶのでもなくなく、ひとりひとりの個人がその手に小さな勇気を持つことをひたすら念ずる。この繊細さが胸を打つ。
ずっと後だが、御大は「ウィンブルドンの夢」で"一歩だけ前へと踏み出すこと、そいつが本当は大変だよね"と歌った。小さな一歩、小さな勇気、それがどれだけ大変なものかを御大はわかっている。身体でわかっている。政治とか運動とか大上段の活動・行動といったものが、いかに、気まぐれではかないものかをたぶん御大は知っているのだ。一人一人の人間の心の自由と尊厳がいかに大切で、そこに地味ながらも小さな勇気が加わることこそ、本当のチカラになると訴えている気がする。
この眼に映るすべて 背を向けないで
さまよえる旅人に 明かりを灯して
と御大は歌詞の最後を結ぶのである。御大の思想が総結集された珠玉の詞世界である。こんな詞が書けたのは、翌月のつま恋ですべてと訣別するという状況があったからではないかと思う。ここに結集したアーティストたちもファンもみんな「我が世の春」状態だった。しかし、ひとり御大だけは、その華やかなすべてにひとり背を向けて消えようという覚悟を結んでいた。言ってみれば、御大は当時満身創痍でボロボロだった。自分が土台となって切り開いたこのニューミュージックの盛宴への最後の別れ。そんな気持ちがこの祈りのような詞を書かせたのではないか。そんなふうに勝手に思うてみる。
この際だから言ってしまうが、このように素晴らしい詩なのだが、メロディーはとことんダサイ(爆)。イベントにおいてこれだけの豪華メンバーで歌われてしかも30年経っているので、それなりに馴染んできてはいるが、どうなんだこのメロディー。小田和正には申し訳ないが、祈りのような素晴らしい詞に対して、このメロディーはあまりに凡庸でツマラナイ。もちろん、私の感じ方であり、あなたの選ぶ感想は拒まない(爆)。自分としては、この詞をもっともっと引き立ててくれるメロディーが欲しかった。自分の記憶では、作曲は小田和正を中心に坂本龍一とか財津和夫とか出演者らも手を加えているということだった気がする。とすれば、小田和正のメロディーに、みんなでよってたかって手を入れて、こういう不本意な結果にしてしまったような気がしなくもない。いずれにしても残念だ。
実際の演奏での圧巻は、やはり我らが御大の歌うパートだ。小田だ、ユーミンだ、イルカだ、ああ高節だ、語尾を節回すな、ああ桑田だ…と聞き流していても(失礼な)、御大のパートが近づくと自然と緊張した厳粛な気持ちになってくる。
御大は、宿敵さだまさしのパートからバトンを引き継ぐ。これがすんばらしいのである。拓郎のさだまさしへの敵視は、もはや単なるネタに過ぎず、昔からさだに一目置いていることは明らかだ。わかりやすく言うと、あの二人は、昔の笑点の歌丸と小円遊みたいなものだ。余計わかんねぇよ。ともかく一瞬ではあるが、二人のバトンの受け渡しに心射貫かれるようだ。
涙も枯れて立ちつくす者たちよ(さだまさし)
でも君の瞳は美しい そう 君の命は永遠なのだ(吉田拓郎)
さだまさし→吉田拓郎。コントラストのはっきりした二人のボーカルのつながりが見事である。さだの唄声は、涙も枯れ果て立ち尽くす者へのやさしい慈しみに満ち、御大の決然としたボーカルは、傷ついたその人を讃え激励する力強さがみなぎる。「慈しみ」と「激励」を二人の対照的なボーカルが適格に表現している。そして図らずもお互いがお互いのボーカルを引き立て合っているところがツボなのである。
この名作が事実上お蔵入りしている。映像もあるらしいが門外不出である。なんだそりゃ。小さな勇気は今どこにあるのだろうか。日本の音楽とはいったい何なのだろうか。
2017.9/9