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人間なんて

1971年
作詞 吉田拓郎 作曲 吉田拓郎
アルバム「人間なんて」/アルバム「たくろう オン・ステージ第二集」/アルバム「71全日本フォークジャンボリーライブ第一集」/アルバム「TAKURO TOUR 1979」/DVD「吉田拓郎・かぐや姫 コンサート イン つま恋 1975」/DVD「'79 篠島アイランドコンサート」/DVD「'90 日本武道館コンサート」

ロード・オブ・ザ・人間なんて

 「人間なんて」・・・拓郎ファンにとっては、その心に永遠に打ち響く野生の呼び声である。しかし、世間の人はいう。あまりに単純なメロディーと詞を叫んでるだけの歌・・・これのどこがいいのだ・・・と。もはやこれは、単に楽曲ではなく、本人の絶叫と怒涛の演奏と観客の雄叫びが、混然一体となった音楽の塊なのだ。これを怒涛の3Dで体験もしくは映像等で追体験しなければわかるまい。

 最も古い音源は、71年の長野県飯田高校の文化祭。拓郎が、何も知らない会場の高校生に、人間なんてラララのフレーズを唱和させると、それが少しずつ広がってゆき「人間なんて」の大合唱になる。まさに、メイキング・オブ・「人間なんて」、この観客の「メンバー参加」こそ「人間なんて」の本質だと教えてくれる。
 ちょうど広大な海から集められた水蒸気のエネルギーが、上昇気流となってまとめられ、やがて巨大な台風に成長し、猛威をふるうのと似ている。 もはや観客は傍観者ではなく、サイドボーカリストであり、ものすごいグルーブで唸りをあげる楽器でもあるのだ。その参加者のエナジーをステージ側が吸い上げ上昇気流となり「人間なんて」という巨大な台風が出来上がるという「魔力」の一種である。

 初めてその魔力を轟かせたのは、伝説の1971年中津川フォークジャンボリー。無名の歌手にあてがわれた粗末なサブステージ。PAも故障という最悪状況。しかし、無名の青年は、この世のすべてに挑むように繰り返し「人間なんて」をシャウトする。やがて飯田高校と同様に、そこらにいた無関心な観客を少しずつ参加・糾合させて行き、やがてイベントそのものをぶち壊すような巨大な台風となり、歴史に名を刻むことになった。
 そして魔力に気づいた魔法使いの少年が自分の魔力を試してみたくなるように、中津川直後の渋谷ジャンジャンで、ワンステージ「人間なんて」だけを歌うライブを挙行した。それが「おんすてーじ第二集」に残されている。

 さて魔力が公然のものとなるとクレバーな魔法使いの青年を悩みが襲う。観客は彼の珠玉の音楽作品群を差し置いて、魔力のみを求めるようになってくる。また、ステージと観客が一丸になることは、悪くすると全体主義に走り、ひとりひとりの人間の心を押しつぶす危険とも背中合わせとなる。魔力の誘惑と魔力の持つ危険との間で悩む青年は、この魔力を使う場面を極力制限しようと考える。
 73年6月の金沢事件釈放直後の神田共立講堂公演。「10日あまりの日々を返せ」「みんな自由という名の檻のなか」という叫びが印象的だ。突然突き落とされた金沢事件という深い地獄から這い上がるために、どうしても魔力は必要だったに違いない。
 また、これが最後の演奏だと何度も断りながら、実現したあの伝説の1975年のつま恋の怒涛のオーラス。ここで「人間なんて」の威力は頂点に達する。イントロで疲れ果てて指揮する瀬尾一三に、拓郎が囁くと、瀬尾一三が突然背筋正して動き出すシーン。何を言ったんだ拓郎。ともかく前例なきオールナイトイベントを経験した6万人が興奮絶叫する怒涛のグルーブが、吸い上げられて出来上がったこのつま恋の台風は、前代未聞、永遠に歴史に残るものに違いない。当時、拓郎もここにすべてを燃焼し尽くしたと語っていたとおりである。

 この75年の熱狂に燃え尽きた拓郎は、裏方、会社経営に回り、歌手としての第一線を離れる。その間にニューミュージックが席巻し、やがて拓郎は、過去の人として葬りさられようとしていた。しかし、もう一度歌うと決意する拓郎。いわずと知れたつま恋に続く、79年の篠島オールナイトイベント。復帰という「賭け」のために、魔力を使うことになる。
 ただ長くステージにも世間の表面にも立っていなかった拓郎は不安だったのだろう。篠島に先立つ、78、79年のコンサートツアーでも、人間なんてを演奏している。ちゃんと魔力が魔力として使えるかの確認に違いない。篠島直前発売のシングル「流星」のB面のアイランドにも「人間なんて」が挿入されているあたり、ドモホルンリンクスのお試し試供品か、という気がしないでもない。ともかく観客の「参加」こそ命だ、おまえらちゃんとしろよというメッセージに違いない。その復帰という「賭け」に見事に勝った感慨深い篠島の「人間なんて」熱狂も、CDとビデオで残されている。

 こうして79年に見事な復帰を果たすと、再び魔力は頑ななまでに封印された。
 そして、最後に魔力が使われたのは、篠島から5年後の84年12月。84年のコンサートツアーの武道館と広島で、セットリストを変更して突然に「人間なんて」を歌い、世間を驚かせた。翌85年のつま恋を最後にステージを去る決意をした拓郎は、同時にも85年つま恋では「人間なんて」を歌わないことも密かに決意していたための別れの盃だった。
 「さよなら美しい女たち、さよなら優しい男たち」「あの人のようにではなく、自分らしさを見せてくれ」というシャウトが切ない。これはもはや魔力ではなく、魔力の封印のために歌われた人間なんてではなかったか。
 89年にとらばーゆのCMで「人間なんて」がカバーされ世間の耳目を集めた。その時拓郎は、とらばーゆプレゼントで「人間なんて」と冠したツアーを挙行したが、そこにはあの台風のような「人間なんて」はなかった。拓郎いわく、ひとつの曲としてきちんと歌詞を書いて歌おうということで、換骨奪胎。「マラソン」のような哀愁に満ちたバラードとして歌われた。これは眠り続ける「人間なんて」への鎮魂歌のようなものではないか。

 こうしてみると吉田拓郎の歴史は、「人間なんて」のONとOFFの繰り返しの歴史である。そして今、「人間なんて」は永遠の眠りについたかのようだが、常に周囲の予測を覆し続けた御大の歴史を思うと油断はならない。70歳を飛び越えるためにまた「人間なんて」の魔力を使うと言い出すかもしれない。  70歳で歌えるのか?と心配する、そう、そこのあなた。そして自分。御大の心配より、自分はどうなのか考えてみようではないか。観客は、ボーカリストであり楽器だ。今や齢を重ねて、「全部抱きしめて」のようなユルイ曲でおっかなびっくり立ち上がり、おそるおそる唱和している私たちが、果たして参加ミュージシャンの一人として「人間なんて」を支えられるのだろうか。
 御大の歴史が現役で続く以上、私たちも、来ないかもしれないが、来たるべき日に備えて日々訓練に励みたい。何の訓練だ。

2015.9/26