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僕の唄はサヨナラだけ

1974年
作詞 吉田拓郎 作曲 吉田拓郎
アルバム「今はまだ人生を語らず」/アルバム「TAKURO TOUR 1979 」/DVD「吉田拓郎アイランドコンサート」

この魂のブルースを超えてみろ

 世間でこそあまり知られていないが、拓郎ファンの間では絶大な支持を受ける”サイレント・スタンダード”。これはそのトップに君臨する作品ではないか。音楽関係者がよく「魂(ソウル)」とか「ブルース」とかをしたり顏で語っているが、この作品を聴かずして何を語れるのかと言いたい。・・・大きく出ちゃったぜ。吉田拓郎にとっても、音楽界全体にとっても最高の魂のブルースがここにある。
 一般に業界では、「アルバムのB面の最後から2曲目は、捨て曲が多い」という不文律があるらしいが、アルバム「今はまだ人生を語らず」では、そこにこの「僕の唄はサヨナラだけ」が鎮座している。どんだけこのアルバムがすごい名盤であるか、そのひとつの証拠だ。
 ミッスタッチではないかと思う程、複雑なリズムとビートだが、聴きながら、このビートに、自分がからめ捕られていくのがわかる。なんだ、この律動は。拓郎が自分の音楽のルーツだと語るR&Bの遺伝子が炸裂するソウルフルでドラマチックなメロディー。切なさを漂わせながら、途中「信じることだけがぁぁ」、「二人で何処へ行ってもぉぉ」のところで、思いっきりシャウトがバーストする構成もたまらない。
 音楽としても一級品ながら、詞の凄絶さもこの作品の命だ。君と僕との間の深いクレパスのような溝を見下ろす悲愁。内向的で静かに黙り込む僕と外向的で言葉を求める君。具体的に誰を歌ったかは明言されないが、自ずと75年のオールナイトニッポンでの離婚宣言で語られた二人の顛末の話を彷彿とさせる。相手が誰であれ、拓郎本人が、傷が癒えぬままに歌っている感じが伝わる。まさに自分の身を削って歌う迫真のブルースだ。  最高のブルースだから、拓郎の「弾き語り力」と結びつくとたまらない力を発揮する。アルバム「TAKURO TOUR1979」には圧倒的な弾き語りバージョンが公式に保存された。
 しかし、やはりこの作品の妙味は、管弦が唸るような分厚いバンドとの演奏にこそあると思う。思い浮かぶのは、つま恋75の映像に収められているリハーサルシーン。平服で椅子に腰かけてラフに歌っているが、もう実に、すんばらしい歌と演奏であることは一目瞭然だ。ああ、かっちょええ、このまま切り取ってどこかに飾っておきたい。もう気の早い音楽の神様は既にこのリハーサルから降臨しているかのようだ。
 そして、このつま恋75の本番の素晴らしさ。時は、ラストステージの終盤。いよいよ「人間なんて」に向かう流れの入り口で演奏される。特に、凄いのは、圧倒的なパワーで、歌い終わってからも後奏が延々と5分以上も続くところだ。「あんときゃ、みんな踊ったよなぁ」と拓郎も述懐していたが、ステージも客席も踊り続けている狂熱が感じられる。まるで溢れだした奔流が止まらなくなってしまったかのように、もの凄いグルーヴである。この瞬間が映像にも公式の音に残っていないことは不幸としかいいようがない。これぞ幻のベストテイクではないか。とはいえ、ライブでは79年の篠島のビッグバンドでの演奏が映像に残っていたことは良かった。
 ソウルフルな78年の「大いなる人」コンサートツアーで終盤に演奏されたバージョンも凄かった。この頃、御大は、モータウンでのレコーディングを計画しており、R&Bに耽溺していたので、ブルースの味わいがが色濃く出ていて実にカッコ良かった。
 そして、熟成の王様バンドとともに何故か上半身裸でシャウトした83年のツアーのロックバージョン、そして換骨奪胎なアレンジに驚いたつま恋85年のバージョン。どれも魂の怨念と律動が突き上げてくるような名演揃いだと思う。
 最近は御無沙汰だなと思っていたところ、2014年のアルバム「AGAIN」でアウトテイクになったことが判明。そのテイクを一部の聴取者にプレゼントするという、どうかと思う企画があった。しかし音符どおりの正しく巧みな演奏なのだろうが、どうにも物足りない。まるでカロリーオフのしかも特保の指定を受けたコーラみたいだ。最高のブルースである以上、正しい演奏だけでなく、そこに愛と怨念がこもってなくてはならないことがわかる。できれば、瀬尾一三のビッグバンドツアーの濃い演奏で歌っておくべきではなかったか。いや、まだ遅くはないか。今、この時の吉田拓郎の「突き刺すような魂の雨」をステージに降らせてほしいと願う。

2016.1/9