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2024. 10. 15

☆☆☆サマータイムブルースの間奏が聴こえる☆☆☆
 間奏だけ、聴きまくっているけれど、ホントにいいねぇ。幸せな気分になれる。珠玉のメロディー。個人的には西城秀樹への提供曲「聖少女」の♪とまどいランデブ〜のメロディ―と同じというか彷彿とさせるところ(爆)…あそこが特に胸が疼く。そして白眉のプレイ。拓郎の唄を聴きに行くと、もれなく松任谷、中西、エルトンの順列・確率・組み合わせが観られた若き日々…ああ幸福な青春を過ごせたもんだと感謝したい。
 さてジェイクだ。

2024. 10. 14

☆☆☆我が心のソロプレイ☆☆☆
 松任谷正隆の中西康晴のエルトン永田のピアノソロが嬉しくて間奏に聴きほれていた(ラジオの青春 2024.10.13)


 この3人の間奏といえば「サマータイムブルースが聴こえる」がすぐさま浮かぶ。名曲たる本編に比肩する間奏の美しさといったらない。この曲の甘美で切ないソウルが凝縮されて、入れ子かマトリョシカのように間奏のメロディーが埋め込まれている。あゝたまらん。
 曲のアレンジは松任谷正隆だが、この間奏は吉田拓郎の手になるメロディ―とのことだ。
 オリジナルは松任谷正隆のピアノで81年体育館ツアーで初披露された。当時、オールナイトニッポン、ヤングタウンTOKYOでオンエアされた。小さな声で叫びたい。Youtubeで聴けたぞー@広島県体育館ライブのこの曲。…この歓声の中からシングルも発売された(あのピアノは松任谷、中西どちらだろう)。
 翌82年にあの名盤「王様達のハイキング」では中西康晴が辣腕をふるって演奏している。
 そして2002年からの瀬尾バンドでは、エルトン永田のピアノをフィーチャーして(DVD「NHK-101」、CD「豊かなる一日」)…ということになる

 オリジナルの洒脱な松任谷のプレイ、中西の硬質な音色で刻みつけるような硬派なプレイ、そしてエルトンの永田プレイは思いきり抒情的、というように三者それぞれの表情がある気がする。
 自分としてはエルトン永田のプレイが胸にしみる空の輝き。間奏ここに完成みたいな決定版のような気すらする。そうだ拓郎さんも涙ぐんでおられたことがを忘られぬ。

 甲乙つけがたいし、そもそも自分なんかに順位などつけられるわけがないし、つける必要もない。この白眉の間奏のメロディーと三人のキーボーディストの名演がこうして聴けることにただただ感謝しよう。

 と言いつつ、公式音源にはないが、85年つま恋の松任谷正隆の間奏がまたすんばらしい。拓郎の「松任谷〜」の呼びかけのもとにオリジナルの洒脱なピアノとは打って変わって、「いつもより余計に弾いてます」という感じでゴージャスに弾いていたのを思い出す。間奏だけでなくエンディングのフェイドアウトまで煌めくように寄り添うのだ。あ〜良い、良いぞ。これも残して欲しいな。あれもこれも残しましょう。それが古典への道だと思うのだがぁあ。
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2024. 10. 13

☆☆☆月に届くほどもっと愛されたいなら☆☆☆
 ラジオの青春を読んでいて久々に胸が熱くなった。
ラジオの青春 2024.10.13より僕は高中正義のギタ−ソロが聴きたくて歌を唄っていた・・と言っても過言ではない
青山徹のアドリブが聴きたくてLiveでの間奏を長くアレンジした・・事実である
ジェイク・コンセプシオンのsaxソロが聴きたくて間奏用のコ−ド進行を新たにアレンジし直した
松任谷正隆の中西康晴のエルトン永田のピアノソロが嬉しくて間奏に聴きほれていた

 もう、あれやこれやが湧き出てくる、サマータイムブルースが聴こえる、舞姫'79、もうすぐ帰るよ'79、ぺニーレインは行かない、しのび逢い…ああたまらん、浜の真砂は尽きるとも、世に感動の間奏は尽きまじ。拓郎ファンはみなそうだろう。

 拓郎のいうとおり、そりゃあ経年とともに何かが古くなってくる。

 しかし骨董品と古典は違う。絶対に違う。


 すぐにいい例が浮かばないが、とりあえず夏目漱石と同じだ。かつて現役の人気作家であった夏目漱石はこの世にいないし、そりゃあ昔の人だが、彼をオワコンとか、骨董品と言える人間はおるまい。漱石は、今も骨董品としてして愛されているわけじゃない。現在に真剣にその意味を問われてつづけている古典である。

 私の古典の恩師高橋正治師>知らんよね…も「…古典は「汝自身を知れ」という自己の自覚、自立のために読むべきものである」(「古典とともに思索を」Vより)と言っておられたとおりである。とおり…かどうかは微妙化もしれないが、とおり!なの。

 今わたしたちが聴いて、推して、胸を熱くしているのは骨董品などではなく間違いなく未来の古典だ。そもそも新曲が生まれているんだからまだ古典ではないし。…ということで明日から、勝手に間奏月間いくぞなもし。

2024. 10. 12

☆☆☆闘い続ける人の心を誰もがわかってるなら☆☆☆
 日本被団協=日本原水爆被害者団体協議のノーベル平和賞受賞、心の底からおめでとうございます。喜びをわかちあいそうな私の長崎の親戚はもうほとんどこの世におりません。そのくらいの時間まさにLong time passingだ。そういう私も8月になるたびに広島と長崎の名のもとに平和を唱えるだけの薄情者である。孤独な闘い…しかし誰もがわかっているわけではないけれど、わかっている人々が世界中に確実いるということだ。はしくれのはしくれより自分もがんばらないかん。
 いつの日かこの世のすべてがひとしく平和であるように。…あ、これは浜田省吾だ。

2024. 10. 10

☆☆☆目が覚めた☆☆☆
 「ラジオの青春」で貴重な写真をいくつも観せてもらったが今回は出色・衝撃だね。どんよりと机に向かっていたところ目が覚めた。

  実写版「となりの町のお嬢さん」…いや"となりの町のお嬢さん"は実在した!!…かな、

 もう歴史発掘系だ。んー長生きはするもんだ。ピッタリとくっついちゃて、きっともうたまならなかったでしょう。廊下を平泳ぎしたくもなります。いみふ。素敵な写真をありがとうございます。ということでしみじみと「となりの町のお嬢さん」聴き直す、よろし。

2024. 10. 9

☆☆☆ON&OFFAうねり☆☆☆
これまでのあらすじ「センスの哲学」を読んでかぶれてしまった私は、これまで吉田拓郎について多発していた、嘘ついた!、矛盾してる!、あゝはアイツ変わっちまった!というコントラスト/対極のような事象は、すべてONと OFF、明滅のリズムとビートのようなものではないかと思い始めた。この変化が並ぶビート/リズムがうねってゆく生成変化にこそ吉田拓郎の魅力があるのではないか。矛盾だ、嘘だ、変わってしまったという嘆きの間に隠れているもの、ないしはそこから紡ぎ出されたものを考え直してみることにした。

 〇つま恋に燃えた
 ●つま恋で燃え尽きた

 つま恋75は凄かった。行けなかった私にも大事件だった。テレビのニュース、ラジオ、雑誌いろんな特集を集めては、tくんたちと毎日つま恋の話ばかりしていた。吉田拓郎=無敵の英雄だった。しかし、つま恋終了後の拓郎は燃え尽きたかのようにラジオでは"もぬけの殻"状態であり、ほどなくして例のラジオの離婚宣言事件があった。そこには打って変わって満身創痍で深く憔悴したような拓郎がいた。炎のつま恋の勇姿とのコントラスト、落差がショッキングだった。しかし当時中学生ながらも、燃え尽き憔悴した人間のしみいるようなカッコよさを感じた。男は…いや人間は決して強がらなくていいんだ、本当に大切なものはなんだろうか…てぃーんの自分にはあまりに深いメッセージの巨魁を貰った気がした。それが僕のブルース。

 〇"水無し川"を最後に他人に曲は書かない
 ●その半年後に"風になりたい"を書いた

 その憔悴の時期=75年秋。しばらく仕事を休む、拓郎はそうも語っていた。"水無し川"を聴くとあの重苦しい空気を思い出す。そんな雌伏の時間の中で、もう書かないといっていた提供曲を自ら詞まで書き起こした名作"風になりたい"。書かない⇔それでも書くという明滅の間に浮かぶうねりが、かくも美しく切ない名曲を創り上げた。どちらも名作だが「水無し川」から「風になりたい」…失意のビートを挟んでのこの2曲のつながりがたまらなくいとおしい。

 〇裏方に回って、もう歌は辞める
 ●裏方=社長を辞めて、また歌う

 フォーライフの裏方→社長という役員室午後3時の世界に去って行った拓郎。やがて3年後に歌手としてガッツリと復帰する。この二つのコントラストのビートの間にうねるのが名盤「ローリング30」だ。会社再建の苦闘の中の音楽への渇望が作品に結実してゆく、そして2LP+1という物量が閾値を超えて質に転化する。大型台風がぐいぐいと進路をかえてゆくようだった。これはまさに強烈なビートのうねりだ。

 〇"人間なんて"を歌うのはつま恋で最後だ
 ●やっぱり"人間なんて"を魂こめて篠島で歌いたい

  ひとつの楽曲としての"人間なんて"ってどうなんだという意見もわかる。阿波踊りを遠巻きに観ているような印象かもしれない。しかし、一度はリングを降りて会社経営者にまでなっちゃったオッサンが、狂熱の"人間なんて"に導かれて再び大舞台のリングにあがるのよ。会社の社長さんなど偉いと思うなよ、一番偉いヤツ、そいつは自分の叫びをいつでも持ったヤツ。導かれたのは拓郎だけじゃなく、多くの拓バカが船に乗ってひたすら孤島にわたるのだ。その魂のドラマがうねるんだよ。感動できなきゃ人間ヤメだ。

 〇古いを歌は全部捨てる
 ●そういうカタイ話は抜きにしてやっぱり歌う

 これも当時は嘘つき!と思ったが、さすがに拓郎も「今日はお祭りなので」と80年の武道館で断った。つまりあの日から今も45年間ずーっとお祭りが続いているということだ。景気をつけろ、塩まいておくれ、そらそらお祭りだ。富沢一誠に「僕らの祭りは終わったのか」という著書があったが、終わったのはオマエの祭りだけだ。>八つ当たりかよ!

 〇つま恋'85を最後にステージを去る
 ●SATETO…と言ってまたツアーを始める

 つま恋85で壮大にステージに別れを告げた拓郎は静かにご隠居されたかのように見えた。「小人閑居していると打ち込みをなす。」…失礼な。3年後に復帰した拓郎はコンピュターオタクみたいになっていて驚いた。しかし自宅の閑居の日々での打込みの熟達が、バハマの"Long time no see"でミュージシャンとの心をつなぎ大きく開花する。伏線回収の醍醐味のような"うねり"の壮大なドラマでもある。

 〇君たち立たないで座って聴きなさい
 ●君たち座ってないでノって来たら立ちなさい

  すまん、しかし拓郎に深い愛をこめて言いたい…うるせぇよ(爆)客の勝手だろ(爆)。

 〇テレビには出ない
 ●毎週多いときは週2でテレビに出る
 
 テレビ出演を拒否した人が毎週テレビに出てくる。これは強烈なビートで、世間的にもかなりショッキングだったようで結構揶揄されていた。
 かつてテレビに出ないことで、吉田拓郎はコンサートとラジオというコミュニケーションのパイプを開拓し確立した。おかげさまで私らは豊かなる音楽体験ができた。
 拓郎はただテレビに出演しただけではない。泳げない人が船から飛び込むみたいな、誰にもわからない勇気のいることだった。そこで若さのエキスを取り込み自己革命を達成し転生したのだ。拓郎はそのままズルズルとテレビタレントになったりテレビの奴隷にはならなかった。ライブとラジオと音楽の世界に戻って来てくれた。あのテレビ界隈の好き嫌いはあろうとも、あのテレビへの挑戦おかげでその後の音楽家としてのより豊かなステージ活動、ひいてはつま恋2006をも味わうことができたのだ。

 〇拓つぶを閉鎖し筆を置く
 ●超絶長いエッセイを日々書き始める

 拓つぶの閉鎖は、書く力が散逸しないようにするためだったと記憶している。その保全された書く力で最後のアルバムのために渾身の詞を書き上げた。"ah-面白かった"をものにした拓郎はのびやかに自由に語り始める。なんとすばらしい"うねり"だろうか。
 そのエッセイもまた終わるらしい。これからのことは本人もわからないという。意味を求めすぎず、次なるビートとうねりに身を任せようではないか。

 いつもわけがわからないことを書いているが今日は特にわけがわからなかったと思う。それでも書かずにいられなかったのよ。
 「センスの哲学」で、この本を読むとセンスが良くなる‥‥と著者は書いている。ホントかよ。しかし、せっかくのファンサイトなので言わせていただく。もともと現在のこの時期、この時代に吉田拓郎が好きで吉田拓郎という音楽をチョイスした人はもれなくセンスが良い人たちだ。センスのない人からは、変わり者とか奇特な人とか気の毒がられたりウザがられたりするかもしれないが、センスある人はセンスをもっともよく知るのだ。顔も知らないセンスの良いもの同士よ、ともにまいりましょう。歴史はきっちそれを見逃したりしないでしょう。

 

2024. 10. 7

☆☆☆ON&OFF@ビート&リズム☆☆☆

 拓郎ファンになって以来「飽きた」とか「これが最後」とか「もう歌わない」そして「なんだ嘘かよ」とかいう言葉は、時に季節風のように、時には嵐のようにファン人生にいつも吹いていた。そのたびに小者の私は右往左往しながら木の葉のように舞うだけ舞ってまいりました。

 千葉雅也の著書「センスの哲学」で面白かったのは「意味にとらわれる前にリズムを感じろ」というくだりだった。音楽はもちろん美術も文学も映画もひいては人生もすべては「リズム」だという。…リズムって何だ?

 「強いところと、弱いところが並ぶところ、その「並び」がリズムです。」(千葉雅也「センスの哲学」78ページ)

 強弱、存在と不存在、光と影、欠如と充足、…その対照的なONとOFFの反復がリズムでありビートである。その"リズム"と"ビート"が変化しながら展開する"うねり"が"センス"をカタチ作ってゆく。だから目先の「意味」からは一旦離れて、リズムやビートとうねりとして眺めてみよう、その美しさ、面白さを味わってみよう、と論ずる。なるほど。
 私が、ファンになってからだけでも、このコントラストな明滅=ONとOFFがいろいろとあった。雑に思いつくだけで例えば…

 つま恋に燃えた
 つま恋で燃え尽きた

 "水無し川"を最後に他人に曲は書かない
 その半年後に"風になりたい"を書いた

 "人間なんて"を歌うのはつま恋で最後だ
 やっぱり"人間なんて"を魂こめて篠島で歌いたい

 裏方に回って、もう歌は辞める
 裏方=社長を辞めて、また歌う

 古いを歌は全部捨てる
 そういうカタイ話は抜きにしてやっぱり歌う

 つま恋'85を最後にステージを去る
 SATETO…と言ってまたツアーを始める

 君たち立たないで座って聴きなさい
 君たち座ってないでノって来たら立ちなさい

 テレビには出ない
 毎週多いときは週2でテレビに出る 
……
 拓つぶを閉鎖し筆を置く
 超絶長いエッセイを日々書き始める

 えー最後なの? えー飽きちゃったの? えー嘘だったの?と言いたくなるのは「意味」にとらわらているからだ。ONとOFFの明滅として眺めてみると、歌う拓郎⇔歌わない拓郎、強烈な存在⇔長き不在、高揚と低迷、傲岸⇔シャイ…そういうコントラストがビートとリズムを織りなしている。しかもひとつひとつが魂のビートだぜ。文句を言いながらも、どうしても吉田拓郎から離れられないのは、この見事なまでのリズムとビートに身体ごと共感してしまうのだ。たぶん。
 今吹いている「これが最後」もホントに最後なのかどうかと意味に惑わされず、これまた強烈なビートを打ってきやがった、どんなリズムとうねりで生成変化をしていくんだろうかと静かに眺めていたい。

 たぶんひとりよがりの思い込みで書いているのでわけわからんよね。それでも"うねり"編につづく。
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2024. 10. 5

☆☆☆政ごとなどもう問わないさ☆☆☆
 というわけで「永遠の嘘をついてくれ」のデモver.とつま恋2006ver.の間を行ったり来たりさすらいながらの通勤電車。うーんドラマチックだわいと悦に入る。よく電車にいるでしょ、ひとりで楽しそうなオジサン…あれかもしれん(危)。

 ファンサイトといいながら、私は時には吉田拓郎のことを「嘘つき」と書いてきたし、明日からもこうして悪態をついて生きていくだろうと。しかしココにいう「嘘つき」は、世間でいうところの姑息だったり背信的だったりする「嘘」とは違う。例えるなら、一度は夢を見せてくれて、何もかも愛ゆえのことであり、出会わなくてよかったことなど何ひとつもないと心の底から思わせてくれる。そんな嘘のことである…どんな嘘だ。それはたぶん「生成変化」のごときもの。美しくて、ちょっとだけ悲しくもある人間の生成変化のことだ。…でもメンドクサイので「嘘つき」と言っているまでだ。

 さて「嘘つき」ときたら今度は「飽きた」が出てきた。"ラジオの青春"(9/30)では「飽きっぽい」と言われることに異議を唱えておられた。とはいえ、これまで「飽きた!」というたった一言のパワーワードで、コンサートツアーから何から撃破してきた吉田拓郎の歴史を思えば、仕方ないじゃないかとも思う。しかし「飽きっぽい」というのは確かに違うかな。
 御大の「飽きた」は、たぶん「魂の賞味期限」みたいなものだと思う。昔から御大は賞味期限にとても敏感な人であられるように思う。まだ食べられるからと賞味期間が切れたものを店頭に並べたりは絶対にしない。それはたぶん値下げシール貼って並べられるようなものだということが肌感覚でわかっておられるのだ。

 いや良い事ばかりではない。お陰様でこちら側のファンも鍛えられた。なのでときどきライブで「え、また、この曲なの?、もうよくね?」とある種の賞味期限に敏感に反応してしまうことも多い。いや他人事のようにいうのはズルいか、俺にはそう思うことがよくある。この"セットリスト"という永遠のアポリアを前に、すれ違うように時は行くのだ。
 
 ところで千葉雅也の「センスの哲学」読了。面白い本だった。読まなければよかった本などないと言ってくれ。これを読んでの感想の話のまえがきの話を書くつもりがずいぶん長くなりすぎたので、また。

2024. 9. 30

☆☆☆嘘をついてと願われる人とただの嘘つきとそしられる人☆☆☆
 んまぁ俺は堂々たる後者だが、そういう話ではない。かつて拓郎のコンピュータの打ち込みに対して、私は、やっぱ拓郎はバンドサウンドじゃないとなぁ…と聞いたふうな悪態をついたものだ。しかし、その成果物ともいえる精巧なクオリティのデモテープが、バハマでミュージシャンたちの心を掴み、あのサウンドが出来上がった。そういう話を聞くと、俺なんかに見えているものの狭さ、小ささをつくづく思う。

 とはいえ、"石破→やさしい悪魔≠その気にさせないで警戒説"は、早くも結構正しかったんじゃないかと自負している。ああ…そういう話じゃないか。

 嘘と言えば、あの曲だ。バハマ渡航の直前に中島みゆきのデモテープを聴いて発熱し、"バハマ"でどうしても完成しないまま、その後のロスに移動しても納得がいかず…結局、帰国して打ち込みでデモテープで作りあげ、観音崎でようやく完成したという、まるでバハマのアルバムの中にあだ花のように咲く名作「永遠の嘘をついてくれ」。
 "Long time no see"ツアーのコンサートパンフの一節で常富さんが「拓郎がボロボロになって蘇生しようとしている」と語るのはこの曲へのあくなき"打ち込み"の姿のことだろうか。

 「FromT」によくぞ収録してくれたこのデモテープ。このデモテープを中島みゆきに返歌のように贈ったという逸話が忘れられない。まさにデモテープにはじまりデモテープに最後に帰ってくるという展開もなんかエモい…っていいのか?、こういうこの言葉の使い方で。そこにしずかに咲く「嘘」のなんと美しいことよ。それはそこらに溢れている「嘘」とは違う。比べるのがダメだな。不粋な言い方だが、吉田拓郎という人のもてる人徳だ…時々ムカツクこともあるけれど(爆)

2024. 9. 28

☆☆☆バハミアン ラブソディ☆☆☆
 「バハマ」の話は何度聴いてもいい。
 "ラジオの青春"の話を読んでどこか空気感まで伝わってくるのは、ラジオ番組CLUB25とシンクロしていることもあるかもしれない。最初はバハマのスタジオでの様子や拓郎本人のレポートの録音を東京で女優の池田ナントカさんがナレーションして伝える番組構成だった気がする。レコーディングを終えて帰国してから、番組は拓郎のモノローグの形態になったはずだ。したがって結構、リアルにバハマの様子は伝わってきていたものだ。このときのラジオとはシンクロというかもっと不即不離のものがあった。

 後にいろんなところで吉田拓郎に音楽家としての大きな転機になったことが語られたが、もちろんこの時はそこまではわからない。それでも過去2回の海外レコーディングのときの拓郎の感じとは違っていた…観たわけじゃないけどさ。ナチュラルで、闊達で、なによりスタジオでの居心地がとてもよさそうだった。ていねいに、ていねいに音を紡いでいる様子が伝わって来た。

 そして、ああ、今の拓郎は、こういう歌を書いて、こんなに美しく歌うんだ…「君のスピードで」という新曲を迎えた時のリアルタイムの感慨が忘れられない。今や堂々たるスタンダード曲だが、生意気ですまんが、当時は「ぬけたな〜」と思うた。極北のトンネルを歩いてきた私にもかなたに灯りが見えてきたような気分だった。関係ないけど映画「駅」の中の根津甚八の句

    暗闇の彼方に光る一点を今 駅舎の灯と信じつつ行く

 こんな感じだったのよ。やっぱりバハマはどこか特別だ。なので、新婚旅行にバハマのコンパスポイントスタジオに行ったというもうひとつの老舗サイトの拓バカ氏の話を聞いた時は、感動した…というより、やりおったな〜…と唸ったものだ。愛のむきだし。推しかくあるべし、とってもって範となすべし。

 このあたりからの拓郎のあたらしい旅が始まる。歳とったとか昔の勢いがないとかという意見もあったが、これは「シン・ゴジラ」でいえば蒲田で陸に上がって品川で二足で立ち上がる第三〜四形態に進化した感じである。>しらねぇよ。

 そうだ、バハマで食事といえば、ひとりだけ拓郎とソリがあわないミュージシャンがいて、拓郎が「No need!」とダメ出ししまくって、その彼が最後に「メシがうまかったよ」とだけ言い残して去っていったというラジオでの話…好きだぁ。

2024. 9. 27

⭐︎⭐︎⭐︎それでも男は政治などあてにしないだろう⭐︎⭐︎⭐︎
 政治の話をしたい。石破茂は、かつてインタビューで「キャンディーズの楽曲の中で一番完成度が高いのは"やさしい悪魔"だ」と答えた。しかしその後に別のテレビ番組では「やっぱりキャンディーズはこれが1番です!」といいながら"その気にさせないで"をカラオケで熱唱していた。見過ごせない。この人はわかっている!と思う瞬間かあったとしても、決して油断してはならない。その気にさせられてはならない。と俺は思う。>政治の話ってそれかよ!

2024. 9. 26

☆☆☆むなしさだけがあった☆☆☆
 毎週中央線で中野駅を通るたびに見える"がらんどう"になった中野サンプラザの立ち尽くす姿がむなしい。あゝ解体工事がいつ始まってしまうのかしら…その日その日、鬱な気分で眺めていた。なかなか始まらないと思っていたら解体後に新築予定のインテリジェントビルが豪華すぎて予算が足りないので計画が停滞しているらしい。無責任ながらちょっと安堵する。このまま補強と改修工事を施してあと22年くらいは使って欲しい。いや、あと22年経つと俺の計算では築73年になるからだ。そこでライブ73再現コンサートをフィナーレに本当に閉館というのでどうだろう。えーと拓郎さんいくつになってるだろう。ま、そこで歌手もファンもみな引退ということでどうだ(爆)>勝手なこと言うなよ!
 サンプラザの美しいフォルム。特に背面、後ろ姿がとてもセクシーでそこが俺は好きなんだよ。
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2024. 9. 22

☆☆☆誰がために鐘は鳴る☆☆☆
 週末にあの日の大阪のことなどを語りながら呑んだくれていた。そのことでいろいろ悪態をつこうかと思ったが、この世界はまったく容赦がない。大地震のあとにさらに溢水、浸水これでもかと襲う能登半島々、母親の目の前での子どもへの凶行、そして聖地という名のもとに手段を選ばす無差別に広がってゆく殺戮と、あまりの惨事の数々に、さすがにノー天気な自分でも辛くなってきた。ふざけんなよ、ふざけんなよ、赤い血が見えないか。
 ともかく心の底から御見舞申し上げます。他人事のように日々を生きながら他人事ではない。「誰も自分ひとりで全てではない、ひとはみな大陸のひとかけら」という浜田省吾の詩を思い出す。正確には浜省の訳詩だが、これは浜省が書いたみたいなものだ>おい

 君の友人や君自身の土地が失われる
 人の死もこれと同じで
 自らが欠けてゆく
 何故なら私もまた人類の一部だから
  (ジョン・ダン「死にのぞんでの祈り」/浜田省吾訳)

 とにかく意識するとしないとにかかわらず自分自身も削れに削れてゆくのだ。じゃあ大阪問題など、どうでもいいことかというとそれはまた断じて違う。ということをまた。
 

2024. 9. 19

☆☆☆ああ憧れの☆☆☆
 吉田拓郎のハワイツアーはたぶん4回ほど催されたが、やはり第一回=初回は特別だよなと思う。もちろん俺は行ってない。自分が行けなかったから思うところもあるのかもしれないが、後にこのときの拓郎の述懐を聴くにつれ、あゝ行きたかったなと身もだえする。今回の"ラジオの青春"もそうだ。

 ハワイツアーはどれもラジオ番組と絡めて催行されている。なのでその時々のラジオ番組の雰囲気と不即不離なところがある。初回はあの伝説の深夜ラジオ番組"CLUB25"の肝入りというところが白眉だ。あのスポンサーもつかない深夜ひっそりと流れていた地味なラジオ番組。世間や歴史の外で消えいりそうな等身大の吉田拓郎がいた。そこがまた素敵だった。拓郎ファンにとっては、豪華客船が難破して助けも来ない太平洋にプカプカ浮きながら必死でつかまっている救命ボートのような番組だった。
 そんな番組から、ハワイツアーが立ち上がっていく。ラジオの青春にもあるとおり吉田拓郎にはひとつの大きな転換点であったかのようだった。拓郎にはまごころをこめて手探りと手作りツアーを組み立てようとする真剣さが感じられた。リスナーや参加者もせつなく拓郎を抱きしめるような心根の人々だったように思う。名著「教えてハワイ」は情報ガイドとしては古くなってしまったけれど、今も時々読み返す。そのスピリットは今も古びず新鮮だ。いいなぁ。

 第2回目以降ツアーのラジオはオールナイトニッポンやセイヤングというメジャーどころで、これらラジオの時は、既にLOVE2バブルの絶頂期で、世間や若者にも顔が売れた拓郎は「オジサンオバサンのファンはいらない」などと悪態をつく思い上がったイケオジになっていた。それはそれでスターチックで華やかな空気にこれまた別の意味で楽しかったのだが、やはり初回は、吉田拓郎の歴史の転換点にみんなで静かに立ち会ったような特別な空気を外野にいても強く感ずる。それが望ましうらやまし。

 俺は自分が行けなくても他人には行って欲しいなんて殊勝に願うようなガラではないが、それでも拓郎にはご夫婦で是非ハワイに行って欲しいなと心の底から思う。
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2024. 9. 18

☆☆☆私なりってことでいいでしょう☆☆☆
 どこまで続く「ラジオの青春」ぞ。"フォーライフレコード"といえばリアルタイムでは眩しい夢と憧れだった。中2の教室で毎日朝からフォーライフの話で盛り上がったものだ。これから音楽の流れが変わる。その瞬間に立ち会える興奮があった。
 しかし最近になって、拓郎の述懐を聴くにつれて真実はかなり違ったようだ。俺には少年の日の夢でもあったので、拓郎から語られる現実の話、拓郎の本当の思いの話は、寂しくて悲しくもあった。それでも「ラジオの青春」(9/17号)でも語られている倒れかけたフォーライフを先頭にたって再建するくだりはやはり胸が震える。再建王カルロス・ゴーンなんかより格段にカッコイイぜ。ゴーンなんかPAのトランクに潜んで銀河系まで飛んできゃいいのに。>そういう話ではないか。もっとも拓郎ご本人は思い返したくもない過去なのだろうが。

 「夢の話は終わった。俺も変わる。皆も変われ。」〜「両立なんて甘っちょろい事を言ってるようでは、この船は前に進まない。」

 …たまんねぇ。あんときゃ、この孤高の奮闘のことが、まだわかんなかったよ。だから社長の拓郎ってなんかカッコ悪いな…と思っていた。だからこそ今になり、その身を削るようなカッコよさが余計に胸にしみる空の輝き、今日も遠くみつめ涙を流す。まぁ当時は無理もないけれど…すまなかったな。

 ※そうそうまだ思い出したことがありました。「ラジオの青春」の一節

 「はしゃいでいた季節の終えんを突きつけられる」
 
 ああ「ガンバラナイけどいいでしょう」のココは、フォーライフのことだったのか?んまぁ真実は依然としてあの人のみぞ知るだけど。

  はしゃいでいた季節は 真実だったし
  風の行方なんて わからなかったし
  あの日皆が求めたものは 何だったんだろう
  僕等の行く先を 誰が知ってたろう

 あのフォーライフで身をすり減らした日々のことを思って歌ったとすれば、それはまた感慨深い。

2024. 9. 17

☆☆☆意味などないのさただ好きなだけ☆☆☆
 あれからアメリカン・ポップス25を行き帰りに聴いている。ラジオならではの粋な置き土産だと俺は思う。今日は、恋のダウンタウン/ペトゥラ・クラーク。なんかウキウキと弾む。この曲を聴いた拓郎がバンド名は"ダウンタウンズ"で行こう! なんかいい。たぶんいい。涼やかな風が吹いている。…俺は、吉田拓郎にあまりに意味を求めすぎたのではないかと、なんか思う。心がゆれていればいい、それだけでいい。それだけでいいわけないけれど、今はそれだけでいい。
 ここのところやはり行き帰りに読んでいる千葉雅也の「センスの哲学」が面白い。なんてポップな哲学書なのか。久々にハマる。すぐにかぶれる単純な自分なので、なんかこれで吉田拓郎がわかったような気になって、しばらくそういう話がつづきそうだ。

2024. 9. 15

☆☆☆最後の思いつきと感想☆☆☆
☆僕にとっての最後のフリ−ト−クのラジオ
 ありがとう、すべての吉田拓郎さんのラジオ。拓郎さんの人生がラジオとともにあったように私の人生も拓郎さんのラジオとともにありました。心の底からの感謝は、今日だけにあるのではなく、これまでとこれからの日々に生きてあるものだ。なので今日はあっさりといきたい。とにかくお疲れさまでした。

☆セッション
 最後の最後にバンドセッションの至福を味わえたことが本当に良かった。別に最後じゃなくてももちろん大歓迎だ。「最後」「嘘つき」という言葉にナーバスになっておられるようだが、吉田拓郎にしかわからない心根と境涯が、おありなことは胸に深く刻む。わかる。わからないけどわかる。それでもやっばりそのときは、心をこめて「嘘つき」とか「ひどい人だ」といちいち悪態をつきながら吉田拓郎のサイドにより深く寄り添ってまいりましょう。

 ♪変わる心も愛おしい そんな自由に気づいたよ

 これは拓哉さんより現在の拓郎さんに歌って欲しいかもしれない。変化については、なんとなく思うところがあるので、またいつか。

☆心残り
 誰にとっても忘れようのないあの日…とても悔いておられることがわかる。というか、2020年のTYIS会報の「行くぜ!OSAKA!」…これを読んだときには心が震えたものだ。この叫びに吉田拓郎の魂が十分に現れている。どれだけ悔いておられたかも伝わってくるというものだ。
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☆父叱る
 「気ままな絵日記ゴースト」にはかつてこんなことがあった。

おれが初めて本を出したんだな、『気ままな絵日記』っていうタイトルで。(略)おやじが怒ったね。「こんな文章で図図しく本を出しやがって、何十万も売りやがって」鹿児島男子が本気で怒ったな。(略)全部自分で書いたわけじゃなくて、半分以上はテープ起こし、それを全部話したわけよ。よけい怒ったね。そのときおふくろなんかに「拓郎を信じるな。あいつはもううちの人間じゃない」って(吉田拓郎インタビュー「PLAYBOY 日本版 1985年11月号」より)

 このインタビューだと「気ままな絵日記」の刊行日とご尊父様の逝去の時期が整合しないのだが、ともかく既に厳しく怒られたようなので(爆)、一事不再理、お詫びなどしなくとも結構だ。それより「ラジオの青春」を紙ベースの刊行物として上梓してほしい。

☆オールディーズ
 なんというか恋人の故郷と実家を訪ねていくような思いで、今回、これを機に、25曲を一曲一曲聴いて観た。聴き覚えのある曲もあったが、それもこれも、なんか胸がいっぱいになった。音楽は自由だと拓郎はいうが、聴きながら、あゝなんか青空にのぼってゆくようなそんな清々しい気分になった。すんばらしい。
 「涙が頬を濡らすとき」…これラジオでダウンタウンズで拓郎が歌った時のテープ聴いたけど、カッコイイな。観客の歓声も凄くて、やっぱり御大は稀代のボーカリストですぜ。

☆先達へのレスペクト
 フォーライフの社長時代の吉田拓郎について問われた泉谷しげるがこう述懐していた。

  「拓郎は歌謡界の先輩たちに対するレスペクトがとにかく凄かった」

 今日の拓郎の話を聞いて、さもありなんずと合点がいった。社長時代の拓郎の歌謡界への接近は当時かっこ悪いものとして映った。俺もなんだかなぁと不満だったし、世間もそうだったはずだ。あの頃は見えていなかったんだね。昭和歌謡というより、ジャンルを問わない音楽界の先人たちへの大いなるリスペクトだったのだとあらためて思う。換骨奪胎の「骨まで愛して」もそんなことを教えてくれる。…いいぞ。ボーナストラックで酒場で酔って歌っている本人歌唱の音源もつけてくれたらなお嬉しい(爆)

 …なので今は別にいいよ〜と思う韓流も近いうちにきっと沼深く入り込むに違いない、そんな気がする。

☆エンティング
 やっぱりグッとくる。また最後の曲が、Everything has changed って、かっこよすぎるぜ。
星紀行 最後の学び若いころは世の中を自分一色にしようと思っていた。吉田拓郎一色の音楽界にしてみせる、と思っていた。
OK!! 拓郎は若気の至りのように言うが、これこそが不肖私とこの拙サイトの世界観である。アタシは現在もなおこの世界線をゆくので、あらゆるものと馴染めないのかもしれない。しかしそんなの知ったことか。すべての道は吉田拓郎に通ず。
 なので安らぎのない旅を続ける22歳の見知らぬ若者よ、ひきつづき78歳の背中を追うがいい。サイのツノのように歩みながらあの広い背中を見失わないように追いたまえ。あの人はそういうところは優しい人だから、あなたのことを心配してくれているが、あの背中を選んだ自分を誇りに思って欲しい。そう時の流れに別れを告げてはるかな愛の旅に出ないか。I love you more than I can say.もっともっと心のままに。
…とにかく終わる感じがしないんだな。

2024. 9. 14

オールナイトニッポンゴールド たぶん最終回 2024.9.13

☆☆☆あらすじ☆☆☆☆☆☆
 こんばんは吉田拓郎です。お久しぶりです。お久しぶりではないか。坂崎くんと史上最悪のおバカ放送をしたばかりだ。あれ以来、声が枯れている。

⭐︎ひとりのバンドマンであったはずだと
 ここのところスタジオワークが久しぶり。僕は自分でいろんなことからリタイアするとして、ラストアルバムも創らせてもらい、2020年にかなりの本数のツアーを回ってお別れしようと思っていたが、コロナによって可能性がなくなり、最終的に2019年のツアーが最後となってしまった。
 スタジオでミュージシャンと接することもなかった。「ah-面白かった」も主にオンラインで鳥山と作って最小限ボーカルの時にだけスタジオに行き、そこでも最低限の人数でおかなった。

 今回のようにスタジオでセッションしてミュージシャンたちと楽しい笑顔であーだこーだいいながら楽しかった。そこで考えたのは僕は広島にいるときから一ミュージシャンだった。R&Bのバンドの一ギター弾きだったな、しょせんバンドの一員なんだという意識が強かった。
 バンドの中にいるのが生きがいで、ソロシンガーというよりバンドのこだわりが強かった。東京に来て経済的事情でソロのシンガーソングーライターとして売り出されたが、もともとバンド志向が強かった。
 テレビで懐メロとかフォークソングの特集番組から出演以来がくる。「フォークの第一人者として」というが俺はフォークの第一人者なんかじゃない、だからそんな番組に出れっこない。
 そう考えると、自分は一バンドメンバーの一ギタリストなんだと思う。今回のセッションも武部がメインだが、いろんなアイデアを出してセッションするのが楽しくて仕方なかった。バンドが好き、ギターが好き、アレンジが好き、ボーカルは?…歌えといえば歌ってもいいという感じ。今回はバンドメンバーと一緒で最後に嬉しかった。最後最後というと「アイツ嘘ついてる」といわれるから、今回もギターセッションの経験が幸せでした。

 いつもと同じように今日も自由気ままにお送りします「吉田拓郎のオールナイトニッポンゴールド」

⭐︎俺だけわかるさ俺を
 自分でもテキトーとかちゃらんぽらんとか…自分がわからなくなっている。70年代にちゃらんぽらんじゃないとやってられない。これは俺じゃないとわかんない。あの時代に広島から東京に音楽状況に放り込まれて、それがでマイナーな通信販売のレコード会社に、社員として、その後の扱い、居場所体験しているうちにテキトーにその場過ごすというか、その場から逃げる、テキトーにやっていないといちいち自分の気持に正直にやってるとかえって嘘になる。あれはあの当様の吉田拓郎を経験したひとじゃないとわからない。その経験したのは吉田拓郎ひとりだけだ。だから、この気持ちは誰にもわからない。73〜74年ころに、たぶん話しても他人には通じないなとわかり始めた。あの体験をしていなんだからわかりっこない。
 あるときは屈辱、ある時は怒り、腹が立って殴ってやりたい、ある時は嬉しくて愛情を感じた、涙ぐんで抱きしめたくなる、そういうこころの起伏を体験し得られたからこそ、テキトーにと言うか逃げるというか乗り越えることができた。そういうのは自分しかわからない。ただ一歩一歩、心に正直に生きていたとは思う。それを今回のアルバムで歌にしている。正直だったことを誇りに思う。

 それを、他人から見るとあいつは嘘つき、ホラ吹きとなるかもしれない。それでも若いころは世の中を自分一色にしようと思っていた。吉田拓郎一色の音楽界にしてみせる、と思っていた。しかし現実の中で、ファンが聴いてくれればそれでいいということに落ち着いた。大きな風呂敷 夢そことのギャップから、最終的に自分の着地する部分と言うかスケールが見えてきてここにいればいい、ここにいる幸せを味わっていこうと思うようになる。その時々に正直に発言している。トータライズすると、A といってたのが Bになって、AかBかと思ってたら 今度はCと言い始めた…となるかもしれない。
 胸に手を当てて考えてごらん。みなんさの中にずーっとAだったって言える人いるの?いないよ。正直に生きようとするとA→B→C→D→Eと人は変わってゆくものだ。最初から変わらないで貫き通すなんて人はいないと思う。そういうのは絶対嘘つき。美男子とかずっと素敵なわけないのに、いけてると思い続けている人いるじゃん。
 アルフィーの秋のツアーでのとある依頼があって、それについて物申したことがあったが、…それは言えない。年月と顔についての話。人間とはコロコロ変わっている。ひとつのことを言い通して守れる人はいない。

⭐︎心のこり
 ひとつだけある心残りは、とある場所のコンサートに行く予定だった。前の晩に電車に乗っていたら、当時はうつ病の気が合って、吐き気が出て、電車を降りてホテルで休んだりして、ようやく目的地に着いた。次の日の昼リハーサルも全曲やったが、まだ吐き気がして、これは本番直前にイベンターにやっぱり歌えないと頭を下げた。唯一の申し訳ない気持ち。その日帰る途中の表で会場の前を通って、中止になったファンの人がみんながいるタムロしているのが見えた。僕のことを思っているように見えた。僕だけが味わう、申し訳ない、情けない、辛いでも体調に勝てない。このことがどうしてもふっ切れない。あのひとつを残した心残り。それ以外はやり遂げた。…というと、またやるんだよとかいわれそう。そんなこというから嫌いなんだよ。おまえらそういうこと言うから嫌いなんだよ。僕のバックにはそういう秘密が詰まっているんだ。

M-1 ショルダーバックの秘密  吉田拓郎  

⭐︎気まずい絵日記

<ブログを本にしてくれませんかという投書>
 こういうことを言ってくると思った。このブログが果てしなく続く(笑)、なんでこんなに書けるんだろう。意外と記憶としてある、印象に強いものもある。
「ラジオとの青春」…人生のテーマだしやり残したこととして「ラジオの青春」にこだわって詞を書いて曲をつくりたいと思った。例えば、パックでいただいたリスナーのハガキにいい詞があって、それが「春だったね」「せんこう花火」というコンサートに欠かせない曲となった。

 オールナイトニッポンでは、人生の失敗の時に、中川さんが言いたいことをいっちゃえ  あとは責任とると言ってくれた。メディアとか信用していないから生でぶっちゃけたい。これを最終回にしたいと言うと「そりゃあ、ぶっちゃけちゃったら来週から来れないだろ」と最終回になった。中川さん、その後ケツまくってほったらかしだったけど(笑)、こうしてラジオがフォローしてくれた。

 石川県で言われなき事件で手錠をかけられたとき、みんなメディアがそっぽを向いて、いろんなことを言われて、曲もオンエアされなかったけれど、ラジオは真っ先に救ってくれた。こうしてみるといつもラジオがいてくれた。
 子どもの頃から アメリカンポップスに目覚めてずっとラジオと一緒の青春だった。リスナーの葉書やメールで日常がひしひしとわかって詞を書く参考になりました。御礼をいいたい。こういうことをいうだけ成長のあとがある。
 セッションしながら完成して一曲だけかける。僕はラジオとともに青春したな、

 このブログも本にするかというが、昔、一冊「気ままな絵日記」という本を出して、2〜30万部売れた。これを書いたの僕ではなく、ライターの人が書いた。あれって俺のマネしているけど違う。♪色っぽいということは、♪気ままに写そうおぬしのハート、気ままに写そう拙者のハート・・・とか歌ってころで、拙者、おぬしと言う言葉が使われているが、そんな言葉は使っていない。そのあとはちゃんと自分が書いた。たぶんゴーストライターの方が売れるんだな。もっと早く謝れよ。

M-2  純      吉田拓郎

⭐︎韓流だよ人生は
<韓流好きですという投書>
<韓流ドラマ「イテオンクラス」にハマった、「七番房の奇跡」を観ようと思う、「彼女はキレイだった」がお薦めという投書>
 「七番房」…泣くよ、「ドリーム」笑うよ。吹き替えか字幕か…だが、昔からテレビなどで映画は吹き替えを観ていた。野沢那智さんがアラン・ドロンとか男前の声をあてるけれど、本人は男前じゃない。ナッチャコは同じ時期だったし、愛川欽也とかよく会ったもんだよ。
 「恋のスケッチ〜応答せよ1988」が面白い。「半地下」のような貧しい家族、みんなで雑魚寝するような暮らしの高校生の男女に恋が芽生える。もう観ていて切ない自分の高校生活を思い出した。もてなかった、準ちゃん俺の事嫌いだったよな〜(笑)イ・ヘリちゃん、パク・ポゴム・・・いい役者なんだ。背も高いし、いい顔で持てない役。もう吉田拓郎そっくり(笑)
 今おすすめは、IUちゃん、女優でありシンガー・ソングライター。いいよ、美しい。是枝監督の「ベイビーブローカー」にも未婚の母で出ているし、「ドリーム」にも出ている。演技の幅が広い。アイ・ユーちゃん、あいみょん=「みょん」には悪いけど「ゆー」に浮気している。ステージの展開も凄い。

 パク・ウンビンの「恋慕」。王家に生まれた男女の双子だけど、女子は不要とされ。そこで運命がわかれてゆく。パク・ウンビンの方が好きかもしれない(笑)。これも泣かせる。

 「高速道路家族」・・・料金所で無心して生きている家族。 こんなのある? これが泣かせるんだ。韓国のエンタメの面白さ、シナリオの面白さ。韓国は素敵だ。行きたくなる。当分抜けられない

 BTS筆頭に韓国の音楽もよく聴いてごらん。あのエドシーランが書き下ろしたという

M-3  パーミッションダンス     BTS

⭐︎若者たち
<拓郎さんの背中を追う22歳。高校生の時ファンになった、大人になってコンサートに行きたいと思ってたら、もう終了していた>
 僕だって若かったら77歳のおっさんの背中は追いかけない。あの頃 絶対 どんないい曲唄ってても年齢だけで聴きたくない。おっさんにもいろいろあるけど、こないだのおっさんもまた違うし。参考になるおっさんもいるけど。
 おっさんとして考えた時、やっぱり若いあいみょん、米津玄師、流星が素晴らしかったMrs. GREEN APPLE、藤井風、こういう人たちと青春を歩くのがいい。70歳の背中を追いかけるのは不健康だ。いい歌をつくる若者がたくさんいるんだから。


 次の曲は、米津くんにしてはコード進行がオーソドックスで、詞は哲学的で、陽水もそうでわかりにくい。時代が違っているけど。わかんないのもあるけれど。毎日精一杯生きているけど変わってない〜僕はどうやって生きてゆくかなという詞。

♪まにあうかもしれない(生歌)

こういうのにも通じる。オールドタイマーとして通じるものがある。

M-4 毎日 (everyday)   米津玄師

23時

⭐︎アナザーサイド・オブ・オールディーズ25
僕はアメリカンポップス・オールディーズが好きになって、ボブ・ディランとかはその後だった。これを25曲をピックアップしてメドレーにしてみた。

(以下実演しながら)

1 リック・ネルソン “ヤングワールド”
2 ニール・セダカ  “カレンダーガール”
3 コニー・フランシス “夢のデイト”
4 デル・シャノン  “悲しき街角”
5 トーケンズ  “ライオンは寝ている”
6 ディオン&ベルモンツ “浮気なスー”
7 ペトロ・クラーク “恋のダウンタウン”
8 リトル・エヴァ  “ロコモーション”
9 マーシー・ブレーン “ボビーに首ったけ”
10 ジミー・ジョーンズ  “グッド・タイミング”
11 パット・ブーン “涙のムーディーリバー”
12 カスケーズ  “悲しき雨音”
13 シェリー・フェブレー “ジョニーエンジェル”
14 ダイアモンズ  “リトル・ダーリン”
15 ディー・ディー・シャープ “マッシュポテトタイム”
16 ジョニー・ソマーズ  “内気なジョニー”
17 ボビー・ビー  “ラバーボール”
18 スティーブ・ローレンス “ゴー・アウェイ・リトルガール”
19 アンソニー・パーキンス  “月影の渚”
20 ディーンマーチン  “ライフルと愛馬”
21 レイ・チャールズ “愛さずにいられない”
22 ボビー・ダーリン “ドリームラヴァ―”
23 ティミ・ユーロー“涙が頬を濡らすとき”
24 ザ・フリートウッズ “ミスターブルー”
25 エルヴィス・プレスリー “恋の大穴”


M -5  吉田拓郎選 アメリカンポップス・メドレー25   
⭐︎先達へのレスペクト
 音楽は音を楽しむ。音楽はフォーク、ニューミュージック、シティポップ、どうでもいい。ジャンルはレコードメーカーの売りやすさのため。本来、どこまでがフォークで、そんなのわかるわけない。70年代はフォーク時代だったので、フォークの吉田拓郎といわれるが、俺はホントにわからない。
 フォークソングじゃなきゃ、ロックじゃなきゃ、あれじゃなきゃダメというのは音楽を窮屈なものにしている。音楽はもっと自由なもの。もっているアジとかオリジナリティとかこそが音楽なんだ。そういうジャンル分けはよくない。これからはそういう垣根が取れますように、音楽そのものを愛する。あらゆる音楽の素晴らしさ、カンツォーネ、サンバ  ボサノバ、レゲエ、世界中を巻き込む。音楽は幸せだ。かつて「ぷらいべえと」というアルバムを作った。レコード会社の不調をフォローするためだけど、好きにやりたいというのがあった。いろんな歌、僕達以前の吉田正さんや浜口庫之助さんの音楽をやった。日ごろから口ずさんだ曲、好きだった曲へのレスぺクト。石原裕次郎の「夜霧よ今夜もありがとう」とか。筒美京平の曲もいい曲だな、カバーしたいと思った。♪よろしく哀愁(生でサワリ)

 浜口庫之助は、自分で詞も書く、唄も唄える…ハマクラさんの家に伺ったこともあった。当時、新人のにしきのあきらの「もう恋なのか」「空に太陽がある限り」は作詞作曲がハマクラさんだ。歌がうまい。シンガーソングライターのハシリ。
 だけどそんな彼にレスペクトしていないというフォークはよくない。どうして前の人にレスペクトがないのか。家に行ったら先生が歓迎してくれて、奥さんは元女優の渚まゆみさんで楽しかった。レスペクトは大事にしたい。
 アルバムでは、ラジオに対しての愛、ラジオと仲良く出来て塩飽だったことともに、僕は歌謡曲をも共有したい。

「ラジオの夢」…今タイトルを決めた。

 そんな先人の歌を自分で歌って、アレンジさせてください。全国ツアーで夜な夜な酒を飲んで、その先で歌ってといわれると必ず歌っていた。自分の歌は歌わないので、そういうときに助けてくれる一曲。この曲を歌うとバンドも喜んでくれたし、周りもいいじゃないといってくれ。

M-6   骨まで愛して  城卓矢

 武部といろいろ考えて、ドゥーワップなファンクになった。

M-7   骨まで愛して  吉田拓郎

⭐︎季節のない星
 今年の夏は、異常に熱かったし、体験したことない雨。まるで東南アジアのスコールのような亜熱帯気候になった。春や秋がなく、夏と冬だけのような。それに「夏休み」の夏ではないし、怖くてエアコンを切って寝られない、とても窓開けられない。恐怖の夏だ。こういうのは好きじゃないな。素敵な春夏秋冬ではない。風物詩もない。なんか違うな  このごろ。

 ハワイが好きで、カミさんともう一度ハワイに行きたいねと話していたら、マウイの大惨事で復興に10年かかるらしい。永ちゃんの歌にもなったラハイナ、僕の大好きなワイレア…大好きだけど当分行けない。昔のように行こうという気になれない。
 こういう今年どんな冬が来るのか、怖い。怖い夏と怖い冬。ダウンジャケットを着てショッピングに行ったり、マフラーの色を選んだりそういう冬が楽しみだった。加藤紀子に書いた曲。康珍化の詞がかわいくていい曲つけようと思った。   ライブで僕も唄ったことがある。

M-8   ふゆがきた  吉田拓郎

 ラジオと青春をテーマにしたコンセプトミニアルバム「ラジオの夢」11月20日発売で  
予約受付中です。レコーディングとかこの放送に密着したドキュメンタリー番組も11月30日WOWOWで。
エンディング 
 さて、みなさん本当にありがとうございました。
 心から思いをこめてありがとうと言わせてください。
 いっぱいわがままを聴いてくれてありがとうございました。
 いっぱい悲しみを隠してくれてラジオさんありがとうございました。
 いっぱいの怒りを背中を推してくれたラジオさんありがとうございました。
 いっぱいの涙をふいてくれたラジオさんありがとうございました。
 いっぱいの疑問に答えを導いてくれたラジオさんありがとうございました。
 そしてラジオ通じて一緒に歩いて、一緒に立ち止まって、一緒に笑い合って、一緒に涙して、みんな一緒に一緒にそこにいたラジオファン、リスナーの皆さん、これからの皆さんの素敵な日常を祈っております。みなさんの健康と平和であることを祈っております。願っております。この素晴らしい貴重な人生を是非是非有意義にお過ごしください。
 僕は本当に長い間幸せだったとラジオとつきあえて思います。 
 最後にラジオにもう一言いわせてください。本当にありがとうございました、ラジオ。
 ah-面白かった。

  
 お別れの曲は、テイラースイフトとエドシーラン、”エブリシング・ハズ・チェンジド”

M-9 Everything Has Changed   Taylor Swift &Ed Sheeran

☆☆☆最後の思いつきと感想☆☆☆
 明日につづく

2024. 9. 12

☆☆☆ゆれて ゆれて☆☆☆
「ラジオの青春/09.11」
「乗り物酔いする僕には」〜「飛行中は緊張の連続で、その頃の僕のスケジュ−ルは相当にハ−ドな毎日だったので九州や中国地方への移動手段として飛行機が使われる事も多く」

 この話を聞くとかつて武田鉄矢が語っていたエピソードをどうしても思い出す。1979年秋に"吉田拓郎のセイ!ヤング"に武田がゲスト出演したときのことだ。
 70年代初頭に福岡でのコンサート出演のために単身で福岡空港に到着した吉田拓郎を、主催者側でバイトしていたデビュー前の武田鉄矢が迎えに行ったそうだ。二人の初対面である。飛行機から降り立った拓郎は不機嫌で具合悪そうで、お迎えの武田にひとこと「…ゆれて、ゆれて…」とだけ言って口をつぐんだ。
 空港のタクシー乗り場でも不機嫌そうに黙ったままで、緊張する武田。やがて自分たちの車の順番がくると、拓郎は自分たちの後ろに並んでいた足腰ガタガタで立っているだけで辛そうなお爺さんに先にサッと順番を譲ってさしあげたそうだ。その姿を観た武田は心の底から叫んだそうだ「カッコイイなぁ〜」。私はこの話が大好きで大切に胸に刻んでいる。これが私にとっての吉田拓郎である。

 その日のライブでも拓郎は不機嫌なままで、自分ギターと客席の手拍子が合わないと曲を止めてしまったり、最後の曲になると「今日はアンコールしませんよ」と言って歌う前に片づけを始めて、歌い終わってとっとと帰ってしまったそうだ。それを観て武田はまたも心の底から叫んだそうだ「カッコイイなぁ〜」。イヤ、ファンの私が言うのも何だが、フツーにヒドイ人である。塩対応以前にビドイことするヒドイ人である。事実、後にプロになってコレを真似てみた武田はブーイングの嵐だったそうだ。これもまた吉田拓郎なのである。

 素晴らしい人なのだが、ときどきヒドイことする人。ヒドイことするけれど、本当は素晴らしい人。この大いなる微妙な"ゆらぎ"の中に私とこのt.y lifeは生きている。いちいちヒドイと頭にきたり、素晴らしいと感動したりする"ゆらぎ"という幸福なのだと思う。

 拓郎の「ラジオの青春」を同じ話ばかりして〜と悪態をついては見たが、それは自分も同じだ。この福岡空港の話も書いたり話しすぎたりして、一緒に呑んでいる人たちはウンザリしているに違いない(爆)。すまん。えーと曲です。常富喜雄(猫)で「飛行場」。

 さあて、ラジオは明日ですわね。
 

2024. 9. 10

☆☆☆Dr.ムッシュの不思議感☆☆☆
 クルマの話で浮かび上がってくる"かまやつさん"。拓郎さんはじめかまやつさんと懇意にされていた方々の深いお気持ちなや思いなど私なんかにはわかりようがない。それでもただの外野の一般Pの自分にも、かまやつさんは現在も普通に飄々と色付きで生きているような気がする。亡くなった方…という感じがしない。ちょうど私がやられているドラマ「海のはじまり」の古川琴音=水季みたいに亡くなっているけれど亡くなっていない。彼岸と此岸の併走感とでもいうか。そんな感じだ…といっても知らんがな。くぅぅ大竹しのぶウマイなぁ…そういうハナシじゃなくて。
 拓郎とミニクーパーとの貴重なショットがまるでかまやつさんとの仲良しのツーショットのように見えてくる。それこそ向こう岸で明るく手を振るかまやつさん。あゝ人生は回り舞台だ…とはよくいったものだ。私も"水無し川"を聴こう。


ところで、昔のラジオでナイトで語っていた歴代車両を振り返ってみるのもいいさ〜

🚗カーグラTY🚘🚘
第7回 2017.5.14
 車の話。高校卒業後免許を取ったがお金が無くて車が買えなかった。
東京に来て、収入を得てから車を買い始めておよそ16種類。
最初、CMの関係で@スバルレックスを貰った。
かまやつさんの乗っていたミニクーパーに憧れたけれど、高くて買えないので
Aホンダシビックに乗った。これがいい車だった。もう一度乗りたい。
三代目は、印税が入っていたので、中古だったが外車の
BジャガーXJ6。店で「これ、ちょうだい」って言って買った。
Cフォード・ムスタング
Dアウディ
EBMW320i
また同車のFオープンカーを買った このオープンでツアーの時、四国まで事務所の人間と一緒に行った。
Gベンツ450SL
H同車 白
Iポルシェ924 いたく気に入っていて、逗子に住んでいたころで、東京の仕事LOVE2あいしてる にこれで通っていた ゆっくり走らせてトラックに追い抜かれていた。
Jスズキ・ジムニー  Kinikiにすすめられた。可愛い。半年くらい乗ったか。
Kジープ・ラングラー 色をブルーに塗り替えたらハイライトと同じ色になってしまった
Lベンツのゲレンデバーゲン 堂本光一に推されて
MアウディA1 坂道発進で下がるのが怖い。
NBMW 116i
そして今は、O車種は言えないが、自慢の車。「きゃああ拓郎さん可愛い」と言われるような車に乗っている

http://tylife.jp/radio/radioty_01.html#20170514

そして最後のOがあのミニ・クーパーということで完結でやんす。

2024. 9. 9

☆☆☆車に乗った瞬間から☆☆☆
 吉見佑子さんが、20年くらい前の音楽番組でのコメントの中で「あの頃のフォークの人たちって誰も車なんか持ってなかった中で、拓郎さんだけが免許持って車に乗っていた。だからあの人だけ見える景色が違って、歌も違っていたと思うの」と語っていたのを思い出した。吉見さん、いろいろあっても(爆)こういう讃え方が素晴らしい。

2024. 9. 8

☆☆☆会いに行くのに☆☆☆
 with MUSICの録画を観た。あいみょん、ありがとうな。お心遣いが心の底から嬉しい。吉田拓郎から入った高齢者があいみょんファンになるというのは、ひとつの確立ルートなのだな。そのまんまだ。
 ということで今年の秋の楽しみは、いよいよ"あいみょん"のライブに行けるぜ!! 待っちゃいないだろうが、待っててくれ。いずれこのサイトで魂のライブレポート「あなたがしてくれなくても」をお送りします。>キモイぜよ。

2024. 9. 7

☆☆☆蒼い電気フォトグラフ☆☆☆
 田村仁さんの話を読んで、TAKURONICLEを引っ張り出してくる。動くか…動いた。動いた。この時空を超えてランダムに出てくるタムジンの写真がもう胸にしみる空のかがやき。あちこちと揺さぶられ…私のチンケだけれど「混乱する魂を静める」のに精いっぱいだ。バックに流れるエルトン永田のピアノのインストがまた煽情的で泣かせる。
IMG_5697.jpg
 安曇野かぁ…行ったな。そういえば拓郎が監督した"detente"のプロモーションフィルムを全編観たいと思い続けている。どこでも観れないなんて、そりゃあないぜセニョリータ。

2024. 9. 4

☆☆☆帝国への逆襲☆☆☆
 スタートレック推しとしては、宿敵スターウォーズがディズニー帝国の傘下に入り、お金のかかった豪華な展開を観るたびに羨ましかったものだ。まるで大富豪に貰われていった友達の豪邸をレンガの壁にしがみついて小さな背伸びで覗いているようだった。しかしそんな敵国も決して甘いものじゃなかったということはさすがによくわかった。わかったといえばAKB帝国で歌う"ロンリーストリートキャフェ"という例えは、これまたすげぇよくわかった。あゝ切なすぎるぜ。でも吉田拓郎は、そういう"ひとり"がよく似合う。
 思えば拓郎が"LOVELOVEあいしてる"の全盛期に、それを良しとしないファンの人々のことを困った守旧派みたいに俺は眺めていた。しかし実はあの巨大なJ帝国の家臣になってしまう危険を心配をしていたのかもしれない。そうだとしたら誠に申し訳ない。
 しかし拓郎は、テレビや芸能界の奴隷になったりせずに、基本はひとりの音楽家としての歩みを決して止めなかった。孤影悄然と行く。そのことを誇らしく思う。旧帝国関係との距離の取り方についていろいろ異論もあるかもしれないけれど。まぁ拓郎だって元祖アイドルみたいなもんだし、いいじゃないかはさらばのB面。あのあたりで拓郎は第三形態に進化してしまったのだと思うことにしている。

 そして、ここ数日「ラジオの青春」に拓郎の懐かしい息吹を感じる。昔からラジオで新しい曲が完成した時に拓郎から溢れてくるあの熱い息吹だ。いつもの思い出のタイムライン系の話("爺ちゃんその話何度も聞いたよ系"と俺は呼ぶ。すまん。でも素晴らしい話も写真もたくさんあったよ。)その行間を超えて、新しい曲たちを迎えるときの祝祭気分がこぼれる。このときめきは僕の胸を貫いてしまいそうだ。もうこんな気持ちを味わうことも二度とないんだろうなとあきらめていただけに心の底から嬉しい。

2024. 9. 2

☆☆☆あれから2年☆☆☆
 テレビドラマシリーズ「スターウォーズ・キャシアン・アンド―」があまりに面白くて週末に全12話をほぼ一気に観てしまった。ガチなスタートレック派である私はスターウォーズは門外の徒で無知と偏見のカタマリだ。それでも唯一、映画「ローグ・ワン」だけはいたく感動した。この映画の前史となるのがこのドラマだ。「ローグワン」も「アンド―」も、どちらもジェダイの騎士とかフォースとかライトセイバーのチャンバラとかの世界ではなく、ひたすら抑圧された貧しき市井の人々の物語だ。その虐げられし人々が、自由のため、仲間のために、帝国の圧政に対して武器も満足にないままに立ち上がる。あの宇宙ドンパチ戦争の背後にはこんな気高い民衆のドラマがあったこと、そしてまたその息詰まるような展開に惹きこまれた。
 舞台となる星では、住民は死ぬとその遺骨は小さな名前入りのレンガに固められて、町の建物の礎石となってゆく。だから故郷の町は自分たちを繋ぐ生命の結晶でもある。それゆえに民衆は帝国の専制に対する無力感や恐怖感に悩みながらも決して故郷を捨てない。最終回の蜂起は、レ・ミゼラブルの民衆の歌のようだった。

 そんなジェダイの騎士でもなければフォースも持たない、ただの人たちの物語…これを観ながら、後藤由多加の言葉を思い出していた。
 「唄も唄えない、曲もかけない、詞もかけないスタッフがどういうふうに頑張らなきゃいけないか、という所を僕に教えたのは拓郎でしたね。ボクにとっては原点なんです。原点というか、そこしか僕にとってはないわけです(後藤由多加T'sの会報第6号のインタビュー) 

 吉田拓郎をはじめ才能ある音楽家たちを支えた音楽家ではない人々がいる。小説「いつも見ていた広島」に登場するダウンタウンズのメンバーや後藤由多加、渋谷さん、陣山さんなどなど…吉田拓郎という音楽のフォースを持った騎士をみんなで支え押し上げて音楽業界と世の中を変えた、そんな音楽家ではないが気高い人々の物語があったはずだ。
 彼らが経験し、彼らの目から観たR&Bバンドでの音楽の覚醒、中津川の騒乱、エレックからの脱出、芸能界テレビとの確執、コンサートツアーというシステムの開発、金沢事件からの救出、そして民衆蜂起のようなつま恋コンサート…きっと凄いに違いない物語が想像される。
  
 さて「スターウォーズ・キャシアン・アンド―」のことを教えてくれたのは先達「見出し人間」のあそちゃんの記事の中だった。ずっと気になっていたのだが、このたび家人がディズニー+に加入したので可能になった。いつの記事かと思ったら2022年の10月だった。すまん。遅いな。2年かかった。空で輝いている星が、実はあれは何光年前の光だというのと同じだ。悲しみより遠くから届けられる星の煌めき。

 ともかく一片の煉瓦として悔いなくありたいよ。

2024. 9. 1

☆☆☆いつまでも青春☆☆☆
 自宅付近はギリギリ氾濫は免れたが、浸水は、あちこちで大変だったようで、心よりお見舞い申し上げます。まだまだ油断はできない。それにしても台風10号が屋久島にぶつかった衝撃で勢力が大幅に弱まったというニュースにも驚いた。ホントに神の島だ。屋久島、五島、篠島は、日本三大神の島といわれるだけある。>知ってる島並べてるだけだろ!
 台風、地震にかかわり、100年前の関東大震災の昔から亡くられた方々のご無念とご冥福をお祈りします。

 さて、もう最後かと思ったら8月末日まで怒涛の更新をする「ラジオの青春」。さよならを言いながらどこまでも歩いている感じがいい。それにしても「まだ僕の周辺は何となく、あわただしい動きもあるようで正直に言って・・もう・・いいよ・・と思う事もあるし・・」
 ホラそういうこと書くとこっちの心が「あわただしい動き」を始めるんよ。「もう・・いいよ」とはならないんだよ、こっちは(爆)

 アルバム「シャングリラ」の制作で再びL.Aへ向かう機内での貴重な写真。確かに確かにウォークマン…懐かしい。それより、なんか座席がエコノミーっぽいのが気にかかる。別にどうでもいいことだが。さらに着ておられる大きな水玉のシャツ。同じころの平凡パンチのインタビューのものと同じだ。当時は白黒写真だったが、ああこんな色だったのだと44年ぶりに知る。さらにどうでもいいことだが。
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 えーと、曲ですね。もちろん拓郎さんで「あの娘を待ってる街角」。帰国後のラジオの「セイヤング」で、陣山さんが、ガース・ハドソンは、たったこんだけのプレイで6000ドル(※確か記憶では)も持ってったと文句垂れておられたのも忘れられません。

2024. 8. 30

☆☆☆嵐の中でも焚火を燃やせ☆☆☆
 ということで台風(タイフーン)来たりで大変だ。皆様ご無事でしょうか。ここのところ九州地方は荒天遭遇のフロントになってしまって心配です。こちらも既に川の増水が激しく数年前のレベル5が思い出されます。進撃がこれからなので不安です。まったく日本列島縦断するのは吉田拓郎リサイタルだけで結構です。
 とにかくくれぐれもお気をつけのうえ、じっと風と雨をやり過ごしましょう…今は嵐の季節って…甲斐バンドじゃん。
 さすればあの曲もこの曲も新曲も楽しむ音はもうすぐだと信じてまいりましょう。

…ということで今日のスマートウォッチは、"見おさめている人を見おさめる"
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2024. 8. 28

☆☆☆9月になれば☆☆☆
 「ラジオの青春」の本編はこれで終わりなのだろうか。こんな風景も「見おさめ」といわれるとやはり切ない。私の人生だって常に吉田拓郎さんのラジオとともにありました。ファンとしての貴重な紐帯でありました。こちらこそありがとうございました。

 それにしてもこれが最後、ラスト、エンディング、アウトロとひとつひとつ万感の思いで過ごしてきて5年間が過ぎた。さすがに長い。長いよ。"さよならが言えないでどこまでも歩いたね"という歌があったが、"さよならを言いながらどこまでも歩いている"…感じだ。
 もうお別れと感謝の交歓はお互いもう十分に済んだ。勝手に済んだことにする。あとは「最後」「エンディング」とかの枕詞などなく、ただ自由気ままにいたり、いなかったり、歌ったり、歌わなかったりしていてほしい。こっちもいちいちお別れとは思わないし、おめぇーやめるって言ったよな…なんてもう言わないから。隠し味のように散りばめてまいりましょう。そんな感じで9月の新曲を含めたミニアルバムを楽しみにしています。

 関係ないが、いや自分としてはかなり関係があるのだが、ドラマ「海のはじまり」がもう好き過ぎる。生方美久、天才。これが月9でいいのか。もはや周囲じゃ誰も観ていなくて寂しい気もするが、「結局、好きなんてそういうものですよね」…と脳内の池松壮亮が絵本をいじりながらつぶやく。
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2024. 8. 27

☆☆☆悲しみより遠くから届けられる星の煌めき☆☆☆
 さよなら李香蘭…じゃなくて、ありがとう伊藤蘭。いみふ。昨年の紅白のキャンディーズ・メドレーに御大の作品がなかったとき、もっと遡れば、期待に胸膨らませて出掛けた2019年のファーストソロコンサートでも御大作品がなかったとき、その悲しみいずこに向けるだろう。やさしい悪魔よりやっばりチェリーズの私のサタンだよなとか悪態をついたものだった。>どういう悪態なんだ。
 しかし伊藤蘭の今季のツアーはなんと吉田拓郎作曲を3曲も歌ってくれたというニュースが入って来た。やった!!。ありがとうございます。どうかこれまでの非礼をお許しください。
 ということで行くぞ。行けるかわからないが行くぞ。蘭ちゃん、そんな僕をバックアップしてください。ん、どうした星、バックアップするぞぉ〜♡…なつかしい。

2024. 8. 26

☆☆☆わが心のスナップ☆☆☆
「J-45をダビングする事になり弦を新しいものに取り換えている」ご近影。あゝ、いいっす。たまんないっす。「こんな事も自分でやるのが当たり前な季節をむかえております」…そこがまた素敵です。昨日は左卜全さんと比べてしまって申し訳なかったです(爆)。いくつになろうとそのさりげない姿は唯一無二の美しさです。何かが始まるワクワク感が湧いてくるってもんだあね。

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2024. 8. 25

☆☆☆新曲という空を飛べばいい☆☆☆
 木村拓哉ってヤッパリうまい,うまいわ。アルバムもトータルにキチンと創りこまれている。音楽の内容について俺にはもう評価不能だけど、その一曲に違和感なく吉田拓郎作詞・作曲がおさまっている事に安心した。だって心配じゃん。2年前に最後のアルバムを出して世間の表面からは退いていた78歳のお爺ちゃんだぞ。
 関係はないが、左卜全さんが「老人と子供のポルカ」を歌ったのが76歳のことらしい。今の拓郎より2歳も若かったのだ。
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なので木村拓哉のアルバムに一曲だけ「ズビズバ〜」みたいな曲が入ってたらどうする?心配じゃないか>心配の意味がわかんねぇよ.

 安心したと書いたが、安心を超えてこの作品は十分に成功の領域に入っている。拓郎が70歳を超えた時に同じように新曲が作れるのか心配だったが「ぼくのあたらしい歌」と「この街」を聴いてOK!だいじょうぶだ!と安堵したものだ。こう書くとシロウトの分際で上から目線で偉そうに言いやがってと怒られるかもしれないが、違う、私は胸がただれるような思いで涙ながらに書いているのだ。
2009 コンサートツアーパンフレットより せめてもの僕の生きる姿として常に新曲を作り続けていく。音楽を傍らにおき続けながら次なる新曲の夢を見ることとしたい。 
 この拓郎の言葉が常に私の頭にある。とりあえず今回もクリアだ!幸いなるかな愛でる人よ、なんじの新曲の旅はまだ続くなり。

 さて前置きはこれくらいにして>なげーよ。この歌は、君に出会い過去の鬱屈した自分に訣別するポジティブな物語だ。

  わかった事はただひとつ 自分の空を飛べばいい

 木村拓哉も賛辞していたようにこのフレーズを最後に得たことでこの歌は成功している。このフレーズに向って勇躍飛翔するように木村は歌う、そういうアレンジで隙のない完成度に仕上がっている。
 しかし、当初の拓郎のデモテープのアレンジとこの木村バージョンはかなり違ってしまったという。拓郎本人の当初の意図はどうたったのか気にもなってくる。

 この詞だけを虚心に読み直してみる。長らく孤独で切ない旅路を、人生はそんなもんさと老いさらばえてきた人間…それは拓郎であり私のようなファンでもある。それが「君」に出会うことで、ああ無駄だったと後悔するような出来事も"すべてこの世に必要さ,要らない風は吹いてない"と教えられる。そして"変わる心も愛おしい,そんな自由に気づいたよ"と悟る。それなら自分の好きなようにそろりともう一度歩いてみようかね。…そんな詞に読める(個人の感想です)。
 言葉だけを読むと「君のスピードで」「歩こうね」の系譜のように思える。だとすれば、もしかすると拓郎が企図したのは、もっとしみじみとしたアレンジだったのではないか。しょせん邪推だが、ガチで行くぜ!というスター木村には適合しなかったのではないか。

 木村拓哉の「自分の空」は、やはりANAのジェット機で世界に向い広がる大空への飛翔だが片や、こちらは知る人だけが知る星川航空のセスナ機でゆく心地良い空の旅という感じがする。まぁ実際がそうかどうかはともかく、拓郎本人のバージョンを切に聴いてみたい。
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2024. 8. 24

 ひとつまえの「ラジオの青春」(2024.8.19)…ロックウェルの件がショックで書き忘れたがドラマ「俺たちの勲章」の音楽の話が貴重だった。 
ラジオの青春 2024.08.19より 松田優作のテ−マだが「彼が事件や犯人を追いアクションするシ−ン用」という注文で少し悩んでいたが・・・ある日、某テレビ人気番組からヒントを得て完成した・・・事を今バラス(笑) 
 某テレビ人気番組は少なくとも自分世代には必修科目みたいなものだった。学校や電車に遅れそうで全速力で走らなきゃならない時、当時の殆どの男子の頭に必ずこのテーマ曲か追跡のBGMが流れていたものと確信する。私もそうだった。
 しかしこの「俺たちの勲章」を観た中2の頃から脳内で流れる音楽を、松田優作用の「挑戦のテーマ」…こっちに変えた。確かに似てたので違和感なくスムーズに置き換えられました(爆)。おかげさまで、今はあまり走り回ることもないが、急いでいる時のテーマ曲でありつづけている。この曲を静かでスローなトーンのアレンジにして「恋人のテーマ」にするなんざぁ使い方が粋だぜ、たぶんチトやん。

 中村雅俊用の「いつか街で会ったなら」は言わずと知れた大ヒット曲だが、ドラマでよくある露骨な挿入曲ではなく「友情のテーマ」として哀愁と切なさ漂うところでかくし味のように使われるところがまたいい。なんと胸が疼く美しいメロディ―なのだろうか。それがかえって際立つ。

 惜しむらくは、もう少し長く続けて欲しかったな。まさに夏の終わりとともに陽炎のように終わってしまった印象だ。
 
先日のミュージックフェアでB'zの松本孝弘が「俺たちの勲章のテーマ」をガチなスタンダードとして弾いた時、どんだけ嬉しかったことか。

2024. 8. 22

☆☆文句いいません☆☆☆
 「水無し川」か「ひとりだち」じゃないの?などと野暮なことはよそう。すぐ文句つけたくなる性格が我ながら嫌…というか不憫だ。「一緒に作った感」をどこでいつ感じたかというスピリットの話を言っているのに違いない。
 つま恋の「あゝ青春」について「あの真夏の太陽が照りつける午後、数万の観客の大歓声を前に1曲目に選ぶには、やや空気が違う!と感じたのは」先日の8月2日の日記の再引用だけど
松本隆「新風街図鑑ライナーノーツ」より 「あゝ青春」は、拓郎が「つま恋(コンサート75)」のオープニングで歌ったことで特別な歌になっちゃった。…歌い手によって根こそぎ存在感が変わっちゃう…僕が書いた意図より4倍も5倍も膨らませてしまう。そういうライブの有り方もあるんだよ。 
 …どこにも前例がないんだから、起きたことがそのまま道になる。あの現場で「それどころではない!」という観客も含めた怒涛の中で作品が4倍にも5倍にも膨らむ。だから音楽は面白い。最高のロードじゃないか。
 ああ、でもひとつだけ言いたい。…私にいわせれば真夏の太陽が照りつける午後、数万の観客の大歓声を前に二曲目に「花酔曲」を歌っちゃうというのはどうよ。灼熱のシャウト…あれはあれでいいのかもしれないけれど。私にはわからないがあの曲にもっとふさわしい場所がどこかにある、どなたかが連れ出してくれると信じております。

2024. 8. 21

☆☆変わる心も愛おしい そんな自由に気づいたよ☆☆☆
 ホントは哀しみに満ちていたという箱根ロックウェルスタジオの逸話(ん「アジアの片隅で」はどうだったんだ…)に、昨夜は「なんで今さらそんな話を…」と久々に酒がすすんだ。あとになってちゃぶ台を返すような話をすることって最近多いよなと悪態をついた。どうもワインは身体に合わないのか、酔いつぶれ夜風と踊る街に足を運べば、ふと聴こえてきた音楽に心がつかまった。

  すべてこの世に必要さ 要らない風は吹いてない

 そうか、余計なことなどありゃしない。ちょいショッキングな事実が加わっても、それはより深く愛でるためのひとつのキッカケにすぎない。いい歌だ、誰の歌だ?…ああ木村拓哉だ、誰の詞だ…あゝアイツいえ拓郎さんの「君の空気に触れた瞬間」だった(爆)。わかったことはただひとつ、自分の空を飛べばいい。…うーん、結構いい歌じゃないか。

2024. 8. 20

☆☆☆笑顔の中にも悲しみが 愛を残して旅にでろ☆☆☆
 「ラジオの青春(2024.08.19)」…ついに「ローリング30」まで来た。来たけど、この箱根合宿の前夜の事件は初めて知った。ショッキングな話だ。箱根ロックウェルからのラジオ中継はアルバム本体と共に感動と爆笑の思い出深い番組だった。カセットを繰り返し聴いて聴く度に笑ったり感じ入ったりしたものだ。その前夜の件がスタジオに暗い影を落とし、あのハイペースのレコーディングはその事件が原因でもあったという話は…ああ、聴きたくなかったよそんなこと…と思う、反面、事実から逃げて勝手な夢を見てどうするという気もする。
 むしろ拓郎の語るとおりに、合宿前夜にそんなショックな件があったにもかかわらず、あの心に残る楽しい放送、そして何よりあのサウンドを創り上げてくれた吉田拓郎をはじめとしたミュージシャンたち、石川鷹彦、徳武弘文、島村英二、石山"うるせぇバカ"恵三、エルトン永田らの素晴らしさをより深く胸に刻もう。もしかすると石山さんの"うるせぇバカ"は沈みがちな空気を盛り上げんとする捨て身の行動だったのか…んなことはねぇか(笑)とあれもこれもあらためて感慨深い。

 おーサイパンの写真だわ。いまや老聖人のような松本隆が実に若い!ここで砂浜ナントカ運動(後に地中海遊びに改名)をやるんですね(爆)。

2024. 8. 19

 訃報が続く。アラン・ドロン…拓郎さんが何かとこだわって引き合いに出していた美しき名優。…すまない。何も語れないし意味すらもわからないが、これだけは中学生の頃から魂に刷り込まれていてソラでいえる。
  D'urban c'est l'elegance de l'homme moderne.
 どうか安らかにお休みください。

 高石ともやさんの訃報もショックだ。心の底からご冥福をお祈りします。小学校低学年の頃、家に長崎の親戚が大学受験のために居候していた。その兄さんは、いつもレコードで高石ともやの「受験生ブルース」とフォークルの「悲しくてやりきれない」をヘビーローテションで聴いていた。子どもながらに、あゝツラいんだろうなと思ったものだ。とはいえ「受験生ブルース」は子どもにも面白いコミックソングに聴こえて大好きだった。特にB面は同曲のライブバージョンで後の「オンステージともだち」みたく、観客の爆笑や拍手が入ってことさら楽しそうだった。
 
  ヒトヨヒトヨニヒトミゴロ、
  フジサカンロクニオウムナク、
  サイン・コサイン何になる
  おいらにゃおいらの夢がある

 意味もわからず喜んで歌っていたが、10年後、同じ地獄に落ちた時この詞が妙に胸に刺さって響いたものだ。三角関数で躓いた痛みバネにして歩いてきたけれどまだ痛い。やっぱり詞はその人の立つ場所によって意味が違って見えてくるものだ。

 と言う意味で聴き続けている「君の空気に触れた瞬間」は少し違ってみえてきた。それはまたたぶん明日。

2024. 8. 18

☆新曲の空気に触れた瞬間☆☆☆
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 そうはいっても家人が買ってくるかと思っていたが、その気配もないので、自分で買いに行った。いいな、店内でニューミュージックとかJ-POPとかその他邦楽とかを迷いながら、や・ゆ・よ…と呟きながら探さずとも、店頭にゴージャスにでーんと置いてある。まさに「SEE YOU THERE」だ。まさか自分が木村拓哉を買うとは思わなかった…というのは嘘でドラマHEROとGOOD LUCKのBOXは買ったことがある。

 なんたってもう会えないかもしれないと思っていた吉田拓郎の新曲、なんたって作曲のうえに作詞までしている。こりゃ貴重な一作ぞ。とにかく詞も曲もサウンドもポジティブ感が横溢しているところがいい。ホッとした。とにかく買って損はない…というかそもそも私の推しライフに「好き嫌い」はあっても「損得」という文字はない(爆)。

 率直に言わせていただくと木村拓哉…頑張って歌い上げてくれてありがとう。車種に関係なく力の限りフルスロットルですっ飛ばしてくれている気がする。イキのいい走らせ方だ。
 提供曲を聴くと拓郎の本人歌唱が切に聴きたいと思うことが結構ある。白鳥哲の「ひとりだち」とか片山誠史の「俺とおまえとあいつ」とか、ああ〜もうデモテープでいいからこれじゃないの聴かせてくれ〜と身をよじって願うものもある。でもこの曲は、これを聴く限り、これが目いっぱい、一番いいんじゃないかと思えるような盤石感がある。すまんな、もう少しキッチリ聴きこんで味わってみてから考えてみよう。

 とにかく逢うことができたみすみずしい新曲に感謝だ。

2024. 8. 17

 
ラジオの青春 2024.08.16より  有楽町、旧ニッポン放送の正面入り口の少し横のあたりに駐車する オ−ルナイトニッポンへは自分の車で向かっていた 夜9時頃にスタジオインしていたので、あの頃は駐車違反なども取り締まりが柔軟だったようだ? 
 それにしてもその駐車場所は警察の前、よりによって東京本署丸の内じゃありませんか。そこに路駐するなんて落合恵子さんではないが、んーカッコイイ〜(爆)。
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 その丸の内警察も建て替え中で旧庁舎は壊され、ニッポン放送のペニンシュラ側の駐車場には出演者の出待ち入り待ち禁止の張り紙がしてある。外の景色も人の心も変わってきたけど。
 それにしても拓郎の心に深く刻まれているような出待ちの東名追っかけカーチェイスの話、追っかけた側の方の息詰まる話を聞いたことがある。これぞ究極の「追っかけ」じゃないのか。どなたかマッドマックスみたいな映像で「狼のブルース」のPVを創って欲しい。いまごろだけどさ。

2024. 8. 16

 「ラジオの青春(8.14)」に人気DJ落合恵子(レモンちゃん)の名前が出ていた。確かに大人気だったが当時の中学生男子にはなんか縁遠かったかな。
 1985年ころ、文化放送で「落合恵子のチョットまってマンデー」という番組を聴いていた。そのころの落合さんは、もうレモンちゃんではなく作家であり、クレヨンハウスの代表であり、さまざまな社会問題について発信する硬派な文化人になっておられた。毎週、社会の事、文化の事、くらしの事を落ち着いたトーンで掘下げてゆく、大好きな番組だった。…ちなみに日曜日の夜は、このあとニッポン放送で滝良子のミュージックスカイホリデーを聴いて、そのあとTBSラジオで「五木寛之の夜」の"戒厳令の夜"を聴きながら死にたい気分になって日曜日が終わるのがルーティーンだった。

 話がそれた。その硬派な社会派系の落合恵子のラジオに、われらが吉田拓郎がゲスト出演したことがあった。新作「サマルカンド・ブルー」のプロモーションだった。

 拓郎が登場するなり、落合さんは普段の社会派トークの語りの三倍くらいのハイトーンになって「タクロォー♡、ひさしぶりぃ〜、昔六本木でダブルデートしたの覚えてるぅ? 懐かしいな〜」とテンションがいきなり上がって驚いた。片や85年のつま恋以降、隠居状態だった拓郎は、例のすべてに飽きました、やる気がありません、というダラダラとしたモードで「覚えてません…」てな感じのテンション低めで落合さんとのコントラストが面白かった。
 それでもせがまれて「もう指も退化したのでギターなんか弾きたくない」といいながら、それでも「旅の宿」を弾き語ってみせた。そしたら、落合さんは、きゃぁぁカッコいい〜、えーもう凄いカッコいいわよぉとテンションを振り切った。ラジオだけれどこんな↓状態になっているのがよくわかった。
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 そのあとの会話も「ニューヨークはどうだった?」「そんなこと聞かれてもわかんない」「サマルカンドブルーって?」「知りません…これ以上の青さはないって青らしいです」「これからの予定は?」「仕事したくありません、飽きました、なんもしないで生きていけないかな」「どんな気分で暮らしてるの?」「広島に帰ろうかな、田舎もいいなと…姉とだったら暮らせるかもしれない」「"パラレル"って私も同名の小説書いているの知ってる?」「まったく知りません」…てな感じでローテンションの拓郎だったがそれでも落合さんの♡はマックスハイテンションのままだった。

 吉田拓郎というひとの「人徳」というものを思わずにいられなかった。「人徳」という言葉は少し違うかもしれないけれど、そんなようなものだ。ただ少しわかってきたこともあるのだが、それはまたいつか。

2024. 8. 15

 黙祷。

  ふたりには声がない。
  ふたりにはぼくが見えない。


 youtubeで聴いたライブの「ブラザー軒」で高田渡はあの独特のボーカルで抑揚なく歌いながらも、最後のほうで声を少し詰まらせる。はからずも、そこもこの曲にとって大切な魂のパートとなっている。亡くなる数年前、この生歌を聴けたことは幸運だった。あのときも高田渡は涙ぐんでいた。

 昨日の日記で「誰も知らなかった拓郎」の20年の過去の記憶のことを書いたが、この本も戦後20年経って市井の人々の記憶を集めている。
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 暮らしの手帖の編集長の花森安治は前書きでこう記している。

 「思い出は一片の灰のように、人たちの心の底にふかく沈んでしまって、どこにも残らない。いつでも戦争の記録とはそうなのだ。…その数少ない記録がここにある。」


 20年経ったからようやく話せる場合もあるだろうし、まだ劣化してしまうほどの歳月でもなし。絶妙な時間なのかもしれない。寄せている人々は文筆のプロではないからこそ、みもふたもなく書かれた言葉は響く。
 例えば東京の空襲で両親とはぐれた当時の小学生は大阪の伯父に引き取られた。
「大阪へ行って、両親は死んだものとしたが、いつかは両親が訪ねてきてくれると信じていたかった。二十余年すぎ、親となった今日でさえ、そんな気持ちを信じていたい気がする。」

 当時、若い教師だった女性は空襲警報下の学校の夜の宿直が辛くて、そこから逃げるように結婚して東京を離れた。その直後、自分が宿直当番だった夜に学校が東京空襲で全滅した知らせを受ける。
「私の代わりは私と同年位の息子のいられたI先生だった。私の一生を通して祈らずにいられない高橋国民学校の宿直室の夜である」

 ひとつひとつその人の深い身の上話をひざ詰めで聞き入っているような気分になる。それじゃ次の話…と読み飛ばしてゆくことができない。つらすぎてこの辺でと止まってしまうこともたびたびだ。再び花森安治は書いている。

 君がどう思おうとこれが戦争なのだ。できることなら君もまた、君の後に生まれる者のために、そのまた後に生まれる者のために、この一冊を、たとえどんなにぼろぼろになってものこしておいてほしい。これが、この戦争を生きてきた者の切なる願いである。


 もう彼の熱は、曾孫の代まで届かんと及ぶ。ふと拓郎が85年つま恋の撮影中にコーラスのメンバーに「この映像は曾孫まで観ることになるんだから」とはっぱをかけているシーンが浮んだ。

 今年で仕事で会った二百人の若者たちにこの本を進めたのだが、たぶん読んじゃいないだろう。だいたい昔の自分がそうだった。人にすすめられて本を読むことなんて殆どなかったじゃないか。
 高田渡が魂をいれて「ブラザー軒」が生き継がれたように、何のチカラもないへのような自分でも自分なりの何かを入れないとものは伝わらないのかもしれん。今は俺、60歳超え、初めて知る行き止まりの路地裏で。>なんで浜省なんだ。

 たかがファンサイトでこんな中途半端にうすっぺらな社会派を気取るんじゃないという批判もあろうが、それはつくづく私のチカラ不足であって、ここで拓郎に繋がっていないものは何一つないつもりなんだよ。すべてが吉田拓郎に満ちているつもりなんだが、なかなかうまくいかない。

2024. 8. 14

 山本コウタローといえば「誰も知らなかったよしだ拓郎」である。名著というよりもはや貴重な歴史的文献だ。豊富な証言と記録に基づき、掲載写真も含めて貴重な拓郎の足跡をたどることができる。こうして拓郎の自伝的な「ラジオの青春」が進行している今、あらためてこれを補完するガイドブック的機能が注目される。…って知らないけど私は注目している。この作品は、山本コウタローという天才の才気と拓郎への深い愛情がなくてはなしえなかった仕事であることは俺なんぞがいうまでもない。

 で、独酌しながら考えた。もちろんしょーもないことだ。この本は1974年12月に完成している。名盤「今はまだ人生を語らず」が発表され「襟裳岬」がレコード大賞を獲得したその月であり、もっとスパンを広げると本日(2024.8.14)の「ラジオの青春」にもあるとおり、この74年初頭に拓郎はロスでボブ・ディラン&ザ・バンドのライブを観たあと1年かけて愛奴と全国ツアーを転戦していた。まさに破竹の勢いの1年、そんな1974年にこの伝記本は書かれている。
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 さて1974年当時のコウタローの時間軸で考えてみる。こっから先、何言ってるか分かんないとか怒られそうだけど、いつものことなので許してね。
 吉田拓郎がエレックレコードからプロデビューしたのは1970年のことだから、この伝記が書かれた4年前のことだ。これってさ、現在の2024年に置き換えると、2020年のことにあたる。2020年といえばコロナが蔓延し始めた年だ。忘れようのないまるで昨日のような時間だ。
 そして拓郎のダウンタウンズや広島フォーク村のアマチュア活動は、たぶん1967〜1969年ころのことなので、1974年の5〜6年前、これを今に換算すると2017〜2019年ころにあたる。すなわち"ラジオでナイト"やラストツアーとなった"Live73years"の頃のことに相当する。あ〜ら、これも俺には直近のことだよ。
 そうなると皆実高校で「準ちゃん」を創って歌ったのが、今に換算すると小田和正の「クリスマスの約束」に出演したころに相当する…これとてもメッチャ最近の感じだ。
 あゝもう勢いが止まらん、小学生の拓郎が谷山小学校で姉さん先生の背中におわれてみたのは、2003年ころに相当する。あのポンのあとにビッグバンドツアーに出たころくらいのことにあたる…私には過去のうちには入らない。
 ということで74年当時のコウタローが探求していたのはほぼ20年間前後の過去の出来事が中心であり、今に振り替えるとわりと近い過去のことだったんだなと思う。

 つまり何がいいたいかというと「誰も知らなかったよしだ拓郎」が書かれたころは、拓郎の過去の歴史の発掘といえども、それなりに直近、至近な過去のことであり、それだけ関係者の記憶も鮮明であり、各種の資料も豊富に残置されていたに違いないということだ。もちろんコウタローの才能なくして本著はあり得ないが、時期的に事実の再現や記憶喚起の精度が高かったということである。伝記や記録は、やはりできるだけ早めに残しておくことだと思う。もちろん早いからかすべてが正確、時間がたったからすべてが不正確という単純な図式は成立しないとは思うが、一般に、痕跡が多いほど再現率は高くなることはいえる。

 もうひとつ20年間と言う期間で考えれば、私なんぞは、ただダラダラと生きてきただけであっという間の時間だった。さして内実のないスカスカの時間だったが、それぐらいの短期間のうちにかたや吉田拓郎という才能は目覚め、開発され、開花し、あそこまで磨かれたという事実だ。ああ、すばらしい。というか比ぶべくもないが自分が情けない。

 「誰も知らなかったよしだ拓郎」は15年ほど昔に文庫化された。それは喜ばしいことだ。しかし残念なことに原著にあったたくさんの写真と拓郎のコメントがすべてカットされていた。で、原著をお持ちの方はおわかりでしょうが、経年とともに写真がとても見えにくくなってきていませんか。だから、ね、そういうことです。
 

2024. 8. 13

 
ラジオの青春 2024.08.12より  彼等の気づかいが痛いほど伝わって・・泣いた
 コウタロ−もワタルも本当に「いいヤツ」だった 
 この言葉を聞けて少しホッとしたし嬉しい気分にもなった。もちろんずーっとそう思っていたんだろうけど。こないだラジオのアルフィーへのダメ出しを聴いた時も思ったけど、あゝ,つくづくめんどくせぇ人だなぁ (笑)
 時節柄もあって、心安らかに「岬めぐり」(山本コウタロー)と「ブラザー軒」(高田渡)を聴く。歌が描く景色のみならず、それを歌っている人ごと追想になってしまうこのマトリョーシカ状態をどうしていいかわからない。

2024. 8. 12

 暑い、暑い、暑い。沈め陽よ沈め,めくるめく太陽よ。ここまで暑いともう日傘をさすことに何の迷いもない。勝手なもので自分が日傘をさすようになると、ささないで歩いているオジサンたちはもう死の行進をしているようにしか見えない。 
ラジオの青春 番外編 2024.08.09より  「病の時・悩める時・怒れる時・立ち上がる時・旅する時・愛する時」そして「生きる今」を感じる時 常にラジオが「そこ」にありました 
 こんなこといわれるとホラ聴きたくなっちゃう曲があるじゃん。その映像に見入る。85年のつま恋、あの日も暑かった。
 あれやこれやで仕事場だが休みの時は誰もいないのでいろいろ勝手にradikoや音楽をかけられるのがいい。
 「生きる今」といえば木村拓哉のラジオ番組「flow」で提供曲である「君の空気に触れた瞬間」の紹介のくだりを聴いた。木村拓哉はまったくソツがない。かなり良い意味でだ。拓郎のあの「はたらく細胞」のような寄稿文を静かに読み上げ、目いっぱい彼流のcheer upで歌い上げたその曲を披露し、最後にこの拓郎の詞「自分の空を飛べばいい」に勇気づけられたとしめくくる。意見はいろいろあろうと礼を尽くした歓待ぶりが嬉しい。あきらめかけていた2024年にやってきた貴重な新曲だ。この丁寧なラッピングにいい気分だ。

 それにしてもキムタクは何をやってもキムタクだとよく揶揄する発言をみるけど、例えば高倉健なんてそれ以上に何をやっても高倉健だけど、何で誰も揶揄しないんだろう。そういう話じゃないか。

 どうでもいいことだが、家人は、木村拓哉のファンクラブに入っており前回のソロツアーにも観覧に行っていたので、今度のCDも待っていれば家にやってくるものと思っていたが、ファンクラブの更新を忘れたうえに、彼のビジュアルの無いCDまでは特に買わないということで…ともかく自分で買わねばなんね。この淡泊ぶりもどうなんだろうか。ファンなんて資格試験があるわけじゃないし、みんな自称だから人それぞれである。それにしてもな。

   My Family My Family
   ひとつになれないお互いの
   My Family My Family
   愛を残して旅にでろ

 おー繋がった。とにかく孤独という親しい友とうまくやっていきたいものだ。「自分の空を飛べばいい」…えっ、いいかもしんない。

2024. 8. 11

 "ラジオの青春 8/9"…、カントリーについての拓郎の話は、自分もたまたま最近カントリーのライブを聴いていたので少しはわかるような気がした。

 ところで "後年に知りあって曲を書いた俳優の小坂一也"…といえば「春になれば」だ。1977年当時、たぶんお昼のテレビ番組で小坂さんがデカいフォーライフのロゴのステッカーのついたジージャンを着てこの歌を歌っていた。なんか曲が拓郎っぽいなと思ったらそうだった。"ぷらいべえと"の拓郎本人歌唱に慣れてから、この小坂一也バージョンを聴くと、なんか職場の上司のカラオケを聴かされているみたいだ(笑)。すまん。また小坂さんがレコーディングで自分の歌声のうえにさらに歌を重ねるダビングのとき、既に自分の声が流れてるのでもう歌わなくていいかなということで歌をサボる話も大好きだった。
 …いろいろ悪態をついたが、こうしてあらためて小坂さんの「春になれば」を聴くとなんとも深い味わいを感ずる。ああ、アレンジは萩田光雄さんなんだな。Youtubeにもあるぞ〜深謝。のどかな春のような…それでいて微かにさみしさの滲むような歌いっぷりだ。ジャケット写真のお人柄がにじみ出ている。
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 とはいえ小澤征爾の関連本では、小澤さんと成城学園高校で同級生だった小坂一也さんはラグビー部のチームメイトであり有能なラガーマンとして登場する。軽音楽部とかサイクリング部とかじゃないんだよ。いろいろ面白い。
 先のラジオで拓郎がカバー論について語っていた。
オールナイトニッポンゴールド2024.08.05より  坂崎のような拓郎ファンは、ミセスグリーンアップルの流星を認めていない。流星はああじゃないだろうと。ところが音楽はそうじゃないんだよ、音楽は音を楽しむと書くんだよ。いろんなアレンジによって別の曲に生まれ変わる。1曲が2曲、3曲、4曲に聴こえてくる。それが楽しいわけ。 

 いろんなカバーが豊かに広がることで1曲が、2曲、3曲、4曲にもなるという拓郎のカバー哲学が面白かった。
 昔、うじきつよしが「だどり着いたらいつも雨降り」をカバーしたときだった。原曲どおりのアレンジだったことに拓郎はうじきに対して「原曲をどこまてせ変えるかがカバーするものの愛情だ」と諭したという話を思い出す。拓郎は、あらたなアレンジの2曲目を待っていたということなのか。それが音楽を楽しむことただと、珍しく話が一貫していた(爆)
 ○○が一番とか○○を超えなきゃと競い合うことに疲れたのかな…とちょっと思ったりする。ということで何が来てもWelcomeと今はとりあえず思っているぞ。

2024. 8. 10

 「ラジオの青春」もいよいよコンサートツアーの話になった。吉田拓郎が「コンサートツアーの始祖」であることは拓郎ファンの間では常識だが、もっともっと世間に徹底して浸透させた方がいい。学校の教科書にも載せよう。若者たちよ、胸に刻んでおいてくれ。すべての音楽関係者よ「コンサートツアー」と口にするたびに心の中で「©吉田拓郎」と心の中で手を合わせてくれ(爆)。それぐらいしてもバチはあたらんよ。

 コンサートツアー当時は、いろいろ手探りで大変だったというエピソードを聞く。青森に行ってコンサート後に夜行で帰る…あれはツアー前夜の話かな…ともかくその強行軍ぶりはまさに全国縦断だ。昔は全国ツアーには必ず「全国縦断」という冠がついたが、あれはいつころからみんな言わなくなったのだろう。

 そうそうチケット代がツアー先各地現金払いで、ホテルで清算するのが大変だったと渋谷さんが述懐されていた。拓郎のギャラもその日の現金支払いだったらしい。ツアーバンドだった浜田省吾は語る
浜田省吾事典P.60より  当時、俺、ホテルの部屋でギャラを現金で渡してたのを見たことある。そのうちの15万くらい〜当時で15万円て相当な額でしょ〜ばかばかと取って革ジャンのポケットにビッといれて「飲み行こう」って(笑) それで三軒目くらいになると、拓郎さんが全部払う。その頃有り金全部使ってたんだろうね。
 あゝ、カッチョエエ〜先日の幸拓のラジオを聴いてしまった若者たちよ、坂崎と一緒だとギャラが半分になる、ほんなら7:3、8:2とかいうセコイ話題を誤解しないでくれ。吉田拓郎と言う人はケチな人ではなくかくも惜しみなく豪快な人なのだ。

2024. 8. 9

 宮ア地震に驚いた。宮アはじめ九州の皆様心の底からお見舞い申し上げます。能登半島が復興しないままそのうえ今度は南海トラフとはもう勘弁してほしい。田所教授、日本は沈むのでしょうか。

 地震は人間の手では止められないが、戦争は止められる…と昔、恩師のI先生は言われたが著しく困難であることは周知のとおりだ。
 去年につづいて長崎物産館で平和祈念式典の中継を少しだけ傍聴した。店内には、ココは彼しかおるまいとばかりに、さだまさしの「精霊流し」が流れていた。こういう所で聴くとあゝ胸にしみる空の輝き。本当に長崎は青空だ。店内スタッフの方々と私を含めたまばらなお客さんとみんなで静かに黙祷をさせていただいた。
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 昨日は怒り心頭だったが、長崎の祈りはたとえ不参加の大使らの国々でも、心ある国民、市民にはきっと届くに違いない。決してアメリカに、煮てさ,焼いてさ,食べられたとさっさ…なんてことにはなるものかというささやかな意気地をわかってくれる人々はきっといる。そう思うことにした。

 別にええかっこしいで言ってるわけでは…あるかもしれないが、それだけではない。被害者や被害者予備軍と加害者はつねに背中合わせだ。だから戦争は怖いのだ。つまりは↓こういうことだ。
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 最近若者に接するようになって、こっちがつい偉そうに話していると、こんな世の中にしたのはおまえたちだろ、え?ジジイ…という棘のある視線を感じる。昭和と令和どっちが良かったかみたいな話を喜ぶのは私たちジジババだけだ。若者にしてみれば、昭和を無責任に生きて勝手に令和みたいな世の中を作っちまったのはみんなお前たちだろう、どっちも知らねぇよ!と言う無言の圧を感じる。…こういう真実の刃がこちらを向いている。そこに天使なんかいるはずがない。

 こういう若い問いかけに答えるすべはない。せめて「すまん、アタシの人生はただのイカレタ追っかけだったけれど、でも追いかけた歌手と音楽のおかげで、推しちゃいけないヤツや、選択してはイケない一票、それだけは間違えなかったよ。それには心から信頼できる歌手と音楽を選ぶことが大切みたいですよ」…とひかえめに若者に答えられるような自分でありたい。

2024. 8. 8

☆☆☆風は向かい風☆☆☆

 僕が泣いているのは とても悔しいからです
 人の尊さやさしさ 踏みにじられそうで
 力を示す者達は しなやかさを失って
 ウソまみれドロまみれ じれったい風景でしょう


 拓郎さんの歌を拓郎さんの意図やお考えとは無関係にこうして引用するのは申し訳ないことだけど、本当に今の自分の気持ちにピッタリすぎるのでどうかお許しください。長崎の日を前に悔しくてなりません。怒りのあまり明日長崎に行こうかとも思いましたが、長崎の伯母から駐日大使たちが来なくても、その席にアンタが座れるわけじゃないから…ともっともなことを言われた。
 祈りなき人たちは社交儀礼やおためごかしで来てくれなくて結構だよ、空気が汚れるだけだ!と思う反面、ホントに殺戮にも原爆にもそんなふうに思っているのか、あなたたちの世界平和とはなんなのだ、と尋ねてもみたい。ああ、国は長崎の行事だから関係ないねと知らないふりを決め込むんだね。戦争と殺戮の禁止の前に立ちはだかるなんて厚い壁だろう。

 情をなくした奴はどけ 
 生きる者すべてが 愛でつながれる


 そんな世界のために俺はどこへ行こう、きみはどこへ行く…また引用しちまったよ。伯母からは、静かに祈っとって…と。とにかく明日の長崎の祈りが無事に届きますように。

2024. 8. 7

 仕事で定期的にバスに乗る。若者でいっぱいだ。炎天だが夏休みの若者は元気だな。ということでスマホを眺める。先達が書いておられた「ハチロク」…いい。バスの中の若者とシンクロした。確かに私はポンコツになりかけていると思った。
 そしてラジオの青春も読み直す。
ラジオの青春 2024.8.05 この時代は楽器も自分で列車に持ち込み、自分で会場まで手持ちで運んでいた(マネ−ジャ−氏は居る事は居るのだが・・) 
 きっと多くのファンの方が感じておられるだろうが、ギターケースを抱えた吉田拓郎の姿=シルエットは美しい。たぶん世界でいちばん美しいといってもいい。そういわなきゃ失礼なくらい美しい。マネージャーもあまりの美しさに敢えてギターを持たなかったんだと思うぞ。
 …あの歌が頭に流れてきて、ああ俺もバスを降りて歩かなきゃと一瞬思ったが、ギターケースも持っていないし、ここで歩いたら熱中症で倒れる自由しかないと思いとどまった。それに二十歳になるまでさ、って俺、三倍超えてんじゃん。
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2024. 8. 6

 これじゃラジオの書き起こしなんてできねぇよ。それにこのサイトにだって品格というものがある(爆)。
 前半、拓郎のアルフィーと坂崎に対するモラハラと愛情の制御ができない老上司みたいな物言いに冷や冷やした。拓郎ファンの自分だが、もし桜井さんがいたら遠慮なく「アルフィーのこといろいろ言うけど、アンタ自分はどうなんだ?」とか切り返して欲しいと思った(爆)。
 しかし後半のおバカな暴走ぶりには大いに笑った。ここまでくだらないともうすばらしい。確かに心に残るものなど1ミリもない、タメにならない…だからこそ尊いラジオ番組よどうか永遠に。アルフィーとアルフィーのファンが赦してくれればまた次回を楽しみにしている。

 それでもいろいろ貴重な話が散りばめられていたので感想は書いておきたいが、今日は広島の日だ。

 ♪八月になるたびに広島の名の下に平和を唱えるこの国…と浜省はシニカルに歌った。田家秀樹の「いつも見ていた広島」、石原信一の「挽歌を撃て」にも、広島に住んでいた拓郎たちにとって、この日だけ免罪符のように平和を喧伝したり、県外からズカズカと集まってきて広島を無神経に踏み荒らすような空気に対する敵意のようなものが記されていた。私とてこの日だけ平和と騒ぐだけの無責任な一人かもしれん。すまん。

 すまんついでに不謹慎/失礼だが、拓郎の2回目の離婚会見の言葉を思い出すのだ。離婚に際して別れる相手に対してどういう優しさを示されましたか?…という記者の愚問に拓郎は少し苛立ってこう答えた。
忘れじの一言  優しさというものは別れの時にあるものではなく、それまでの日常生活にあるものでしょ。 
 この言葉は名言だと少なくとも私は思っている。何で離婚と関係あるんだと言われれば、平和への祈りは今日のような特別の日に際してだけあるものではなく、普段の日常にありてこそ意味を持つ。そういうことと通底しているような気がする。とにかくそういう日常でありたいと思う。

 そして昨夜のような脳天気なラジオが日々あふれていれば、戦争は遠のくのではないか…そんなしあわせなラジオだった。今日だけでなく平和の祈りがつづけられますように。
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2024. 8. 5

☆☆☆今日は何の日ラジオの日☆☆
 そういえば幸拓は毎週月曜日だった。当時の生活パターンまで思い出して懐かしくなった。ということで私の場合、早く帰って最近深くハマっているドラマ「海のはじまり」を観て、たぶん沈んだ気持ちになってから(爆)、このラジオを聴きたい。きっと脳天気な放送に救われるに違いない(笑) そうやって世界を斜めに泳いでゆきたいものだ。
「ラジオの青春」8月2日〜原宿とは  それは青春の時間「笑い・悩み・泣き・怒り・叫び・黙り・飲み・走る」そのものでもあったのだ  
 拓郎は「笑い・悩み・泣き・怒り・叫び・黙り・飲み・走る」…ひとつひとつの出来事を想い起して胸に刻みながら書いていることが伝わってくる。その内容こそご本人しかわからないだろうが魂の言葉だ。
 ラジオ、本当はレミーマルタンの水割りを呑みながら聴きたいけれど、おいそれと飲める酒でなし。

2024. 8. 3

 「ラジオの青春」…吉田拓郎と高田渡のスリーフィンガー共演写真だけで泣ける。音色と笑い声が聴こえてきそうないい写真だ。
 「Another side」のライナーで、石川鷹彦を師匠に仰いで、スリーフィンガーの猛特訓して爆テクを身に着けたという話も思い出される。
ふと浮かんだ言葉  久しぶりに渡のスリーフィンガーが聴きてぇんだよな。
              (吉田拓郎フェイク)  
  
 1980年ころ吉田拓郎そっくりの声色で拓郎ゆかりの有名なミュージシャンに電話してくる「吉田拓郎ニセモノ事件」があった。これはそのニセモノが深夜に高田渡の家に電話してきて言ったという言葉だ。ニセモノの言葉を名言としてとりあげるのはどうかと思うが、あの素敵な写真で思い出してしまった。

 そう頼まれた高田渡はニセモノとは知らずに「しょうがねぇな」と深夜に電話口でスリーフィンガーを弾いてみせてくれたそうだ。なんて良い人なんだろう。後であれはニセモノだったと高田渡にお詫びするホンモノの拓郎。「スリーフィンガーありがとうな」というと「おめえに弾いたんじゃねぇよ」と高田渡。拓郎さんはいろいろ大変だったろうし、あってはならない事件だが、すまん、この話メッチャ好き。

 

2024. 8. 2

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 つま恋75記念日 毎年、毎年ずーっと
 「8月2日の太陽は拓郎に惚れていたのでつま恋の空で燃えてくれた(岡本おさみ)」
 を引用していたので、今年は松本隆でいこう。
松本隆「新風街図鑑ライナーノーツ」より 「あゝ青春」は、拓郎が「つま恋(コンサート75)」のオープニングで歌ったことで特別な歌になっちゃった。…歌い手によって根こそぎ存在感が変わっちゃう…僕が書いた意図より4倍も5倍も膨らませてしまう。そういうライブの有り方もあるんだよ。 
 
 もはや一楽曲としての存在感ではない。いまオリンピックがたけなわだが、私は国歌よりも「あゝ青春」を聴く方が胸アツで背筋が伸びる。つま恋に行った行かないに関係なく、このイントロだけで5万人の魂の荒野がくっきりと眼前に浮かぶのだ。こんなに力強い"陽炎"がどこにある。

 つま恋75の音源CDは、後にフォーライフからリリースされだが、松本隆作品集「新・風街図鑑」にも「あゝ青春」が収録されている。同じ音源だが、決定的に違うのは、松本隆の方には「元気ですか みんな元気ですか 朝までやります 朝までやるよ 朝まで歌うよー」のMCがガッツリ入っているところだ。
 うー風街帝国にやられたわい…悔しいがフォーライフに指導、松本隆に一本!!

 ともかくつま恋記念日おめでとうございます!!

2024. 8. 1

「僕が上京後に初めて出演させてもらったのは当時のラジオ関東だった パ−ソナリティ−は森山良子…とても気づかいの優しい語りかけでロ−カル出身の僕を和ませてくれた」(「ラジオの青春」7月29日より)

ふと思い出すこと 今日の吉田拓郎があるのは黒澤久雄のおかげである
                (吉田拓郎/セイヤング 1979.3)  
 
 1979年3月の文化放送セイヤングで、拓郎は、ゲストの森山良子に対して、デビュー当時にラジオでいつも自分の曲をかけてくれ応援してくれた。今日の僕があるのは森山良子のおかげであると感謝を述べた。
 一方このとき森山良子は森山良子で自分が成城学園高校時代、先輩の黒澤久雄に手渡されたジョーン・バエズのレコードがきっかけで友人らとフォークグループを結成し、久雄の父で映画監督黒澤明の応援もあってデビューのキッカケとなったことを打ち明ける。

 ということで三段論法により、拓郎は番組中に「今日の吉田拓郎があるのは黒澤久雄のおかげである」という定理を発見したのであった。「袖振り合うも他生の縁」「友達の友達はみな友達だ」という定理に近いと言えば近いのか。

 だからなんなんだといわれればそれまでだが、私はそういう常識的チャンネルではもう生きていないのだ(笑)。思い出しちゃうんだから仕方あるまい。1ミリも役立たないことを大切に行きたいものだ。

2024. 7. 31

☆☆☆風よ運べよ遠い人へのこのたより☆☆☆

 私も子どもの頃から山や小高いところに登ると「オ〜リンピア〜!」と叫びたくなります。ハーキュリー、力は強く、ああマイティ・ハーキュリー、元気が出ます。以上私信。

 田家さんの「いつも見ていた広島」は、登場人物の名前や設定が微妙に違うので、どこまでが真実かがよくわからない。感動的なくだりになると、読みながら「ああ、この話が真実でありますように」と願う。
 なので「ラジオの青春」で御本人の言葉で書かれていると安心するものだ。それにしても日々怒涛の勢いで更新されている「ラジオの青春」だ。これは日本経済新聞の「私の履歴書」なみの進撃ぶりだ。

 初上京で東京の音楽界の理不尽さに失望した拓郎。音楽への愛情と夢が大きければ大きいほど、それだけ挫折感は深かったに違いない。
 そんな失意の拓郎に、Mくんから、広島でバンドやるから帰ってこないか、吉田おまえか必要だ、と手紙がくる。御母堂からも、そろそろ帰ってらっしゃい、そして御師範を、と手紙が届く。どれほど心にしみたか勝手に想像してみるとなんとも胸が熱くなる。

 かすかに聴こえた やさしさの歌声は
 友や家族の手招きほどなつかしく
           
 「元気です」のいちばんすきなフレーズだが、拓郎がこの時のことを歌ったのかどうかは知らないが、この歌詞は、身の置き所のない孤独を味わった人にして初めて書くことができる言葉だと思う。
 拓郎は、ミュージシャンとして大成した後もよく「俺は一攫千金夢見て東京に来たわけじゃないんだから。いつでもやめて帰るよ」と啖呵を切っていたのはそういうこともあるかもしれない。

 さて「幸拓」が決まった。8月5日か。楽しみだ。

2024. 7. 30

☆☆☆パリは燃えているか☆☆☆
 最近、暑すぎたのと珍しく忙しかったので、ずーっと居酒屋というものに行っていない。忙しいといっても、日々あんなしょーもない手紙を書いていたくらいなのでたかが知れている。さすがにいろいろ鬱憤が溜まってきたので居酒屋で話すようなことを書く。

 学生時代にフランス革命1789年=「非@難F爆GH発バスチーユ」と暗記したものだが、本当に賛否爆発のパリオリンピック開会式だった。私も歌うマリーアントワネットの生首の件はけしからん、あれはマジンガーZのブロッケン伯爵のパクリだろ…と思ったのだが理由としては極めて少数意見らしい>あったりめえだろ!

 それにしてもエッフェル塔からのセリーヌ・ディオンの「愛の讃歌」は素晴らしかった。間違いなくエディット・ピアフも降臨しているような、心震える歌と演出だった。魂だよ。いろいろあってもフランスはすごい国だ。中学の国語の教科書で、ドイツに占領される直前に学校の先生が黒板に白墨で “Vive la France!" (フランス万歳)と書く話…「最後の授業」だったっけ。中学の頃はピンと来なかったがさすがにいまは少しわかる。

 白墨といえば「数年前、地下鉄神楽坂駅の伝言板に、白墨の字で「平田君は浅田君といっしょに、吉田拓郎の愛の讃歌をうたったので、部活は中止です。」で始まる車谷長吉の「赤目四十八滝心中未遂」を思わずにいられない。吉田拓郎の愛の賛歌ってなんだという謎はいまだに解けていない。「愛の絆を」間違いではないのか。
 「愛の絆を」といえばShangri-laよりも、ロスから帰って松任谷正隆たちと演った80年武道館バージョンの方が身も心も格段に好きだ。FM東京で放送したものがYoutubeにあったので聴いてみるよろし。

 熱唱と言えば、エッフェル塔のセリーヌディオンを何度も見返しながら、何かの開会式でライトアップされた東京タワーの上で、例えば吉田拓郎が何を歌ったら泣くか考える。なぁ、何がいいと思う?悩むよね。確実なのは、ちあきなおみが登場して「喝采」を絶唱したら俺は絶対泣く、セリーヌ・ディオンよりも泣く。>それって拓郎じゃないじゃん。すまん。引き続き考えさせてくれ。

 だいたい居酒屋に行くとこういう偏ったうえに散漫な話をしてしまうのだが、だから誰もつきあってくれなくなるのだな(涙)とにかくこの炎天下、部活は中止にした方がいい。

2024. 7. 29

25 気持ちだよ   「君」と「僕」も何だか不安定なままで「相手のことを思う」ことになる
 
拝啓
 吉田拓郎様
 ライナーに注記されているように「気持ちだよ」はフォーライフレコードの最後のシングルでした。フォーライフ最初のシングル「となりの町のお嬢さん」で、中学2年の頃に友達とお大騒ぎしながら買ったことが思い出されます。しかし最後のシングルはまったく素っ気ない試聴盤のようなジャケットでリリースされました。
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 「亀有公園前派出所」と言われてもよくわからない自分には、寂しい旅立ちに見えました。同時期に出た『吉田拓郎 THE BEST PENNY LANE』こちらもなんとまぁ何とも素っ気ないジャケットだったことでしょう。
 それが、こうして現在になって、豪華なベストアルバムがフォーライフによって作られて、その最後の曲に「気持ちだよ」が鎮座されるということには、まことに感慨深いものがあります。

 康珍化さんは数々の名作をものにされた稀代の作詞家であることは、私なんぞが言うまでもありません。なんたって「全部抱きしめて」を書いたその人であります。
 それでも申し訳ないですが、拓郎さんに提供されたの詞の多くは、私はどこか気恥ずかしく感じておりました(※つくづく個人の感想です)。
 岡本おさみ、松本隆、喜多條忠そして石原信一…彼らの詞にはある種の地獄を観てしまった人間だから持つ凄みや毒のようなものが隠し味のように潜んでいますが、康珍化さんの詞は、無垢で清廉すぎてなんか物足らないのです。いや康珍化さんのことを存じているわけではないので、あくまでも詞のイメージです。
  "重たい荷物は背負ってしまえば 両手が自由になるだろう
  その手で誰かを 支えられたら"
 とても良い教訓だけど、うわー、なんか恥ずかしい〜と悶絶してしまう。
  "空の神様よ聞こえるか 俺の頼みを聞いてるか
  俺の大事な友達を いつでも遠くで見ててくれ"
 これもいい詞だけど、なんか背中がぞわぞわとしてしまう。青春と友情のホームルームみたいに思えてしまうのです。すみません。…歪んだ私の根性のせいです。
 しかし拓郎さんは高く評価されておられます。揺れている感じが特にいいとライナーで評されています。むしろ"「君」と「僕」も何だか不安定なままで「相手のことを思う」ことになる"という拓郎さんのライナーの言葉の方が心に刺さりました。拓郎さんのライナーを読むと、康さんの詞には、オドオドしながら他人との距離を迷う若者の姿が浮かび上がってくるかのようです。繊細でいい詞なのかもしんない(笑)と少し思い始めました。宮ア駿で言えば、

 "サンは森で、私はタタラ場で暮らそう。共に生きよう。ときどき会いに行くよ。拓郎さんのメロディ―に乗って"。

  …それが私の今の正直な気持ちであります。

 さてこのAnother Sideの25曲、ライナーも含めて堪能させていただきました。思ってもみなかったフォーライフからの素晴らしいベスト盤をありがとうございました。そろそろTシャツかトートバッグが届くころかと思っていましたが、届く人にはとっくに届いているようで、きっとそういうことなのでしょう。2枚応募したのにな(爆)。でも、悪くない、悪くない、みんないい歌だったから、みんないいライナーだったから、みんないい写真だったから。

 あ、まだボーナストラックがありました。しかし、こんな手紙をウダウダと書いているうちに、拓郎さんのブログ「ラジオの青春」はハイペースで回数を重ねており、レコーディングの方も何やら進行しているご様子です。ここでやることは終わった、みんなメインステージへ行こう!…って、振り返ってみると誰もいないんだが。自分としてはもう十分であります。
           深謝永遠、ご自愛専一に。
                                敬具
                                    星紀行


 

2024. 7. 28

24 吉田町の唄    私が命を失うことになってもこの子は産む。  
 
拝啓
 吉田拓郎様
 「伽草子」のライナーノーツで「鹿児島で期待されずにこの世に生を受け」〜「父に・・母に・・兄に・・姉に・・何も発信できない自分」…その切ない言葉の後に「吉田町の唄」をあらためて聴くとグッときます。

 父に始まり、父の愛した場所で終わるこの歌を、拓郎さんは完成当時「家族の再結」の歌だといいました。あの愛憎に満ちた「おやじの唄」から時が流れ、アメリカであれば「フィールド・オブ・ドリームス」、日本でいうと「父帰る」…全然違いますかね。またとどめのような名曲「清流」も含めて父親を中心とした家族の「再結」物語の大団円と思うておりました。

 しかし、お父様の仕事の偉業が再評価されはじめたころ、拓郎さんはそれを拒むかのように「吉田家は吉田朝子の歴史である。」そう明言しました。この言葉、忘れられません。自分たちを独りで育ててくれたのは母であるという決然とした意思を感じました。そして最後にMotherの歌を書きたいということで、独りで子どものために奮闘された実母、義母のお二人を主人公とした「ah-面白かった」を創ってくれました。
  「吉田町の唄」には"母は陰のように佇みながら 健やかであれと涙を流す"…何も知らない人々からすると夫の後を影を踏みながら歩く、男尊女卑の古典的母親の姿ようにも読めてしまいます。それは拓郎さんの本意でないことはわかります。
 ライナーにあるとおり「命に変えてもこの子は産みます」と啖呵をきり、我が子の自由を見守りながら孤軍奮闘し家計を支え、そして「行ってきなさい、ダメならグズグズいわずに帰ってきなさい」と音楽界へ送り出す。母の強さというより人間としての崇高さという方が的確のように思います。
 ということで「影のようにたたずむ母」を私たちはそこまで深く味わうことができ、ファンとしても心からの感謝を捧げながら聴くことができます。
 
 ライナーノーツでは、拓郎さんがお会いすることなく、幼い日に天に召されてしまったご長女であるお姉様の話まで語ってくれています。家族とは、時空を超えて広がり深化してゆくものなのか…そう思います。恭子さんは「きょうこ」ではなく「ゆきこ」さんとお呼びするのですね。そのことは、お父様がその当時の家族のみなさんの頭文字Y,A,M,Tを家紋のような図柄にデザインして、ご自身の論文集の著書に記していたという解説のくだり(板根嘉弘「朝鮮総督府官吏 吉田正廣とその時代」)で知りました。大切な家族の名前で家紋を作る…拓郎さんには違うと怒られそうですが、「吉田町の唄」をはじめとした家族の歌を作る思いとシンクロする魂の刻印のような気がしてなりません。

 なんかまた余計なこと書いちゃったでしょうかね。家族とはなんなのでしょうか…振り返りわが身わが家族のことをも思います。そのことを考えるための大きな"よすが"として、「兄ちゃんが赤くなった」「おやじの唄」に始まり、この「吉田町の唄」そして「清流」からさらに「ah-面白かった」に至るまでの吉田家の物語はそこにあります。この家族の歌の結びのとおり、特にこの昨今の世界の中で、子ども嫌いな私ですら、本当に地球のすべての子どもたちよのびやかにしなやかに育って欲しいと祈らずにいられません。
 
                くれぐれもご自愛専一に。
                         敬具
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2024. 7. 27

23 車を降りた瞬間から   午前8時頃我が家を出発した僕達の車は途中4回ほどの休憩を入れて夜の11時前後東京に着いた
 
拝啓
 吉田拓郎様
 確か車は日野コンテッサ…とおっしやってましたよね。調べてみるとなんとオサレな車でしょうか、ルノーがベースなんですね。
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 その車で広島から六本木に乗り入れる。カッチョエエです。途中4回の休憩ってよく憶えていますね。なんか今にしてみればすべてが象徴的でドラマチックに思えます。

 拓郎さんがこれまでの人生行路を一気に歌う作品たちを私は勝手に「走馬燈系ソング」と呼んでおります。「大阪行きは何番ホーム」、「車を降りた瞬間から」そして裏メニューのような「後悔していない」。さらには「早送りのビデオ」もこの系統でしょうか。こういう走馬燈系ソングを歌えるのは、実人生がとことん激動なものだったからに他なりません。やっぱりこういう唄は拓郎さんしか歌えないのではないかと思います。おのづと喜怒哀楽に彩られて、「大阪」も「後悔」も「ビデオ」もどこか悲しみを湛えています。

 しかしこの「車を降りた瞬間から」には、悲しみよりも痛快な感じが漲っています。日野コンテッサを降りてから…と歌いながら、さらにレックス、シビック…と乗り替えながら車を飛ばして東名高速、夏の夜風にすべてをまかせてどこまでも〜というような爽快感が魅力です。私に起きた良いことも悪いことも同じこと(エディット・ピアフ「後悔していない」)というように喜怒哀楽をすりぬけながら、どこまでも流れていこうじゃないのという気分にしてくれます。背中を推してくれる走馬燈って、そんなものがあるのかどうか知りませんが。
 このしなやかなでスピーディーな流れは、かねがねライブで聴きたいと思っていましたが、ある意味で、無機質かつ非情に流れてゆくこの感じは、打ち込みだからこそ表現しえたものではないかとも思います。これがたぶん西田幾多郎先生の難解な学説「永遠の今」というやつかもしんないです。
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 わざわざ図まで引用しなくていいっすね。

 "流れてゆけとどまらずに 流れてゆけ時の彼方に"…こうして書いている今も、拓郎さんは日々長文のログ(「ラジオの青春」)を始め、レコーディング・スタジオに向い、松任谷正隆さんに声をかけている…というニュースが耳に入ってきます。どれだけ拓郎さんが、これが最後だ、アウトロだ、エンディングだ、と宣言したところで、また世間がこれで拓郎さんも引退だとお蔵入りにしようとしたとしても、結局、この世界を包む流れは誰も止められないのではないでしょうか。またウソをついたとか、つかれたとか、そんなことはてんで意味をなさない大いなる流れです。
 拓郎さんの歌う"人のたどりつく海"とやらまで、今は水面に浮かび、流れ流され、ともに流れてゆきたいと思います。いつも流れ流されて生きてきたんだから。それしかないようです。
                ご自愛専一に
                       星紀行

2024. 7. 25

 (私信)ねぇさん、お気持ちはとても有難いですが、その傘をさす根性はねぇっす(爆) 

22 伽草子    今しみじみと思う。生きてみなければ・・と。 
 
拝啓
 吉田拓郎様
 「鹿児島で期待されずにこの世に生を受け」「僕のような体力も知力も乏しい人間に未来なんか来るのか」というこの曲からは予想外の内容のライナーノーツです。「父に・・母に・・兄に・・姉に・・何も発信できない自分」…家族から深い愛情に育まれながら自分からなにも発信できないという懊悩は、まるであの「Contrast」の1番の心の叫びを聴いているかのようです。それが、なぜ「伽草子」なのでしょうか。夜空を眺めながら「ああ、もうすこし」と切ない思いを抱く…そんな心の深奥が通底しているのでしょうか。いや、しょせん私の下種の勘繰りでしかないですね。

 「人をひっぱる」、「人の道しるべになる」そんなチカラはありっこないと思っていた少年は、後にまさにたくさんの人をひっぱり、道しるべとなり、こういうlifeとまで言い出すイカレたサイトまで出来てしまうわけです。まさに拓郎さんの言うように「生きてみなければ・・」わからないものですね。
 それでも、拓郎さんは、かつての脆弱な自分を克服したとか乗り越えたとは言わない。むしろ敢えてかつての自分を切り捨てずいるような気がします。あの日の脆弱な自分も大切に残しながらループしているようにすら見えます。それこそが拓郎さんの真骨頂だと私は勝手に思います。だからこその道しるべなのだと思う次第です。

 それにしても、僭越ながらこの歌はやはり1973年の原曲が圧倒的に一番です。原曲のオルガンのイントロ、まろやかなサウンド、そして唄声…すべてが神様が創らせたとしか思えないような出来上がりです。幻想的な夜空がひろがるような美しさ。絶品ですばい。なんでこの原曲をこのベストに入れなかったという不満もあります。この「みんな大好き」バージョンのズンズンチャのアレンジが悪いというより、原曲があまりに素晴らしすぎるということです。

 しかしこのズンズンチャを聴いて心に湧くのはあの「LOVELOVEあいしてる」の全盛期の幸福感です。最初はテレビで固まってしまってる拓郎さんを手に汗握って観ていましたが、やがて閾値を超えたようにどんどん生き生きとスタイリッシュになってゆきました。LOVE2ALLSTARSの音楽的にハイクオリティな盤石感。それらの成果物としてのアルバム「みんな大好き」には原曲の方がいいとかあれこれ賛否両論ありましたが、拓郎さんのアルバムが生産が追い付かずに発売と同時に店頭から消えてしまうなんて事態がまさか起きるとは誰が想像したでしょうか。淋しかった80年代後半から90年代の初頭の日々を思い返すと、このアルバムは迷妄晴れたり!という祝勝感と幸福感に満ちています。これぞ「生きてみなければ・・」ということでしょうか。それがこのバンドの音もベストアルバムに刻んでおきたいという趣旨ではないか…といろいろ考えたところで、またしても真実はわからないのでこのあたりにしておきます。もともとわかったようでよくわからないのが吉田拓郎さんです。暑さ厳しきおり、くれぐれもご自愛専一に。
                         敬具   星紀行

2024. 7. 24

☆☆☆日傘がゆれる☆☆☆
 この猛暑。陽射しが強くてどうしてもまっすぐに歩けない。外回りが不可避の私は、今年からやるせないくらいの勇気を出して日傘を常用している。やっぱり町では少数派で孤独だ。ま、誰も気にしちゃいないだろうが。たまにすれ違う日傘男性は、圧倒的に若いビジネスマンが多い。私はそんな彼らを「日傘男子」と呼んで共感し、同志的な視線を投げかけるのだが、だいたい「うるせぇ傘ジジイ」って感じで目をそらす。昨夜の「マツコの知らない世界」で男子用日傘特集をやってくれたおかげでなんとなく気恥ずかしさが緩和された。前にも言ったが、ここはひとつ「TAKURO YOSHIDA」ブランドの"t.y日傘"を発売してはくれまいか。さすれば、意気揚々と町を歩けるぞ。今年はもう遅いので来年か。「幸拓」にメールでお願いしようと思ったが、あれ番組はまだなのかな?

2024. 7. 23

21 全部抱きしめて tropical    マウイ島よ! 大変な時がまだまだ続くと思われるがひたすらに復興の日を願っている! 
 
拝啓
 吉田拓郎様
 私のような人間は、拓郎さんのファンになっていなかったらハワイとは一生無縁だったと思います。それが「KAHALA」に始まり、クラブ25から立ちあがったハワイツアーが50歳を超えんとする拓郎さんの背中を押したこと、LOVELOVE収録の際に、モアナサーフライダーのビーチで皆が静かに心をつないだこと…拓郎さんにとってかけがえのない場所、それはファンにとっても大切な聖地であります。
 幸運にも参加できた三度目の"吉田拓郎ハワイツアー"で、拓郎さんを初めて至近距離で拝したのはあのマウイ島の美しい街ラハイナでした。あれは夢だったのか、天国の入口か。海、太陽そして音楽、ここは今若者のアイランド。それはあっちの島か。とにかくあたしゃ死ぬ前の走馬灯で絶対拓郎さんとのあのハワイの景色を観るでしょう、いえ観るまでたぶん死にません。
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 そんなマウイに起きた大惨事に、拓郎さんのショックはいかばかりか。私ですらも何かできないかオロオロしているときに、拓郎さんの天敵(爆)さだまさしさんもマウイがゆかりの地であり、この悲劇のマウイ島の復興のための基金活動をしていることを知りました。
 ところで、さだまさしさんといえば、数日前に三越デパートの「さだまさし展」に行ってきました。なぜ拓郎ファンなのに天敵"さだ展"に行くのか、奈緒さん流に言えば、だって、あなたがしてくれないから…私が言うと気持ち悪いっすね。吉田拓郎展…高島屋あたりでやりましょう。
 そこで展示されていた、さださんの「天を恨まず」というパネルが胸に刺さりました。もとにあるのは、あの東日本大震災の数日後に悲痛の只中に行われた気仙沼市立階上中学校卒業式の梶原祐太さんの答辞です。
 「苦境にあっても、天を恨まず、運命に耐え、助け合って生きていく事が、これからのわたくしたちの使命です。」
 今でもあの卒業式の答辞の梶原くんをYouTubeで観るたびに涙するしかありません。展示のパネルは「『天を恨まず』その一言に救われた人は多い 今でも応援しています」という彼に向けたさださんの言葉でした。今日また三越に行って書写してきました。
 マウイの話じゃないじゃん、さだの話かよと言う人は、よもやおりますまい。拓郎さんとの直近のハワイツアーが東日本大震災で中止になった話を上げるまでもなく、すべての災いはこの地球の上でつながっています。ありとあらゆる天災に翻弄され、木の葉のように舞うだけ舞うしかありません。地球はもう終わりでしょうか。
 拓郎さんが昔からラジオや著書やブログで、さまざまな天災人災に対して、そのたびごとにいつも心を寄せ、時に怒りに荒ぶる姿を観てきました。私はそんな拓郎さんに育てられ勇気づけられてまいりました。だからマウイ島に限らず現在も続くすべての天災、震災、事故に、拓郎さんがどれだけ胸を痛めておられるか、察するに余りあります。
 表現や行動のあり方はそれぞれ違えど、さだまさしさんを観ていてああ一緒なんだなと大いなる通底を感じました。だからこそこのお二人は信頼できるし信頼されてきたのだと思います。
 そんなことを思いながら聴くこの「全部抱きしめて〜tropical」は、敬虔な祈りの歌にも聴こえます。いいっす。
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         (原田泰治「ジャガランダの丘」より)
 ということで私は、拓郎さんに一日も早くハワイに行ける日が来て欲しいと切に願うものの一人です。もちろん私も行きたいけれど、まず拓郎さんご夫妻に行っていただき、そのハワイから拓郎さんのたよりが届き、みんなが胸を焦がす…それがまず最初のような気がするのです。
 もう一つ、拓郎さんがフォーライフを辞める時、盟友の後藤由多加社長に送った言葉が忘れられないです。
 「いつの日か、彼とはハワイのビーチで、二人でマイタイを呑みながら、お互いによくやったと言える、そんな日が来る。」
 勝手ながら本当にそんな日が来て欲しいと心の底から願っています。そこに至ってこその復興ではないかと勝手に思っております。tropicalの口笛のメロディ―が頭の中でずっと鳴っております。

                 敬具
                      ご自愛専一に
                               星紀行

2024. 7. 21

 勝手ながらこうして妄想手紙を書いていると…それはそれで妙な気分になってくる。消尽というか、なんかいろいろあったけれど、これでようやく俺もお別れできるかもしれない、お世話になりました…かどうかはわからないが。たかがファンの自分だがそれはそれなりの遺言めいた気持になってくる。何度でも辞める、これで最後と言ってしまう人々の気持ちが少しだけわかるような気がする。

 ブログ「ラジオの青春」は読んでいる。いまだに「フォーク歌手」といわれる、世間からのレッテルへの拓郎さんの苛立ちのようなものを感じる。今回のラジオの話にも出てくるけど、睦…陸奥田さん(田家秀樹「いつも見ていた広島」より)が「吉田ぁ『やさしい悪魔』はダウンタウンズでもできたなぁ」と言った話が俺はツボるくらい好きだ。whether Folk or notではなく、そこいらあたりが吉田拓郎の魂=ソウルのありどころなんだという切なる叫びがある。
 
 魂といえば、日本橋三越の「さだまさし展」に行ってきた。展示された直筆のメモやノート、貴重な品々にこれまでの発言を記した夥しい数のパネルたち。外野にいる自分でも圧倒的なものを感じる。いろいろあってもこの現在の憂世を悩みながら走り続けている不思議な気迫がある。
 展示は写真撮影が禁じられているので、ガチ勢は熱心に一言も漏らすまいと手書きのメモを取っていた。その姿を観ているだけで胸が熱くなってたまらなかった。どうしてもかつての「TAKURONICLE展」や「吉田拓郎英雄伝説展」なんやらを思い出す。おいらも目を血走らせてメモしまくったものだ。あなたがしてくれなくても、こういう魂の企画展はこれから何度でも欲しい。ところで…どうしても気になったことがあったので「さだ展」にもう一回行ってきます。
 
 
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2024. 7. 20

20 マスターの独り言   今だから明かすが…ムッシュは飲酒運転の常習者だった(笑)
 
拝啓
 吉田拓郎様
 「今だから明かす」じゃないです。昔から拓郎さんはラジオでもしょっちゅう吹聴していたし、あの「笑っていいとも」に出演した時は「おまわりさん、かまやつさんを捕まえてください!」って全国ネットで明かしてたじゃないですか。しかも、この出演時は、飲酒運転もさることながら、かまやつさんのパーソナルに大事なことも明かしてしまい(略)。私の周囲の人々はこのテレビの時にその事実を知ったという方が大勢います。

 このライナーの車とタバコの話は、昔、かまやつさんも話していました。かつて週刊プレイボーイで、かまやつひろし、写真家の沢渡朔、作家の牛次郎が三人で鼎談する連載がありました。「拓郎が車に乗って煙草に火をつけてから『ムッシュ!灰皿、灰皿ぁ〜』って騒ぎだしたので、洗面器渡して、これ使ってといったら拓郎が『あああああ』って」。三人で「そりゃ驚くよな」って盛り上がっていたのを思い出しました。

 悪くない、悪くない、こんな昔のささいな記事を思い出してみるのも悪くないです。みんないい男だったから、みんないい女だったから。

 原宿や表参道の拓郎さんの足跡や聖地はあれこれ追いかけましたが、六本木となると足が遠のいてしまいます。やはり私のような一般Pには六本木は魔界のようにみえて尻込みしてしまうのです。せいぜい頑張って仙台坂あたりまでか。そこいらへんが、スターと一般人を分け隔てる関所かな…と思うのです。
     
                           敬具
                     ご自愛専一に
                              星紀行

2024. 7. 18

19 とんとご無沙汰   LAのミュージシャン達と共に過ごした輝ける時が、その後の僕の「演奏し歌い続けるエネルギー」を再燃させた
 
拝啓
 吉田拓郎様
 80年代後半から90年代前半にかけてのこの道は寂しかったです。あんなにたくさんいたはずの同行者たちの気配も薄くなり、吹く風は冷たく、他人様のお祭りを遠く聴きながらフェイドアウトしてゆくかのような奥の細道。拓郎さんもそうだったかもしれないけれど、私たちファンの多くもみんなひとりぼっちでありました。

 そんな中にこの曲は訪れました。本当にとんとご無沙汰です。アルバム「ローリング30」にラジオ「セイヤング」があったように、このアルバム「Long time no see」はラジオ「CLUB25」と不即不離の関係にありました。深夜のFMでスポンサーもつかない拓郎さんのモノローグでつづられる地味な番組。遠くバハマでのレコーディングの様子とともに、逗子に戻られての拓郎さんがおだやかな日常をしみじみと語る、これこそが「等身大」というラジオでした。奥様と二人て空を見上げながらLuckを感じる話は私の宝物です。
 拓郎さんが現地のミュージシャンと心を通わせている様子から、拓郎さんに音楽のチカラが静かに漲り始めていることも伝わってきました。エリック・ワイゼンバーグのギターに「No need!」と拓郎さんがダメ出しする話も大好きでした(笑)。
 昔のような荒ぶる魂とは違うけれど、花鳥風月、晴雨曇風がこんなにも心にしみた拓郎さんの作品はありませんでした。吉田拓郎の新境地というものがあるとすれば今なんじゃないかと思ったものです。
 こうして暗夜行路に仄かな光が射してきたそんなラジオでありアルバムでした。ああ、結婚も海外レコーディングもすべては三度目からなんだなと勉強しました。すみません。そして拓郎さんはハワイとバハマはあざなえる縄の如し、この縄を掴んで拓郎さんはターザン…いやインディアナ・ジョーンズのように果敢に50歳の谷を超えてゆくのでした。

 アルバムの帯の「放っておいてくれてありがとう」…いいフレーズです。「いえ、こちらこそ放っておかれてどういたしまして」と答えるほかありません。あの極北の奥の細道を、お互いがお互いを放っておいた"信"ある時間という総括がなんかとても嬉しいじゃないですか。
          
                           敬具
                     ご自愛専一に
                              星紀行

2024. 7. 16

18 大阪行は何番ホーム    そこ・・をないがしろにする自分を許すことができない
 
拝啓
 吉田拓郎様
 2024年6月14日のオールナイトニッポンゴールドで、あの1975年9月のオールナイトニッポン最終回事件のことを語った時に「私生活を破壊した」と言う表現をされ、ドキっとしました。決して過去の美談にも思い出話にもしないという強い意思を感じました。

 誰もが衝撃を受けたであろうあの最終回の翌日、朝、中学の2年4組の教室に入るなり同級生のtくんが興奮して「昨夜聴いた? 拓郎、離婚するって、オールナイトニッポンも辞めちゃうって」。いてもたってもいられずに放課後にtくんの家で録音したカセットを聴きました。拓郎さんの沈痛な独白のに息を呑み、その合間に流された1曲目の「いつか街で会ったなら」から最後の曲の「流れる」までがまるでそのために作られたばかりの挿入歌のようで、とにかく壮絶な物語を見せられた気がしたものです。その日からtくんの家に行くたびに何回もカセットを繰り返して聴きながら、中学生坊主なりに真剣に「離婚とはなにか」「人生とは何か」…二人してわかるはずもない"君たちはどう生きるか"的な問題を考えたものです。

 それからおよそ10年後、あなたはラジオでなく記者会見場に独りで、たぶん拓郎さんが大嫌いな記者たちに囲まれていました。マスコミも世間も、拓郎さんの話を理解しようとすらせず、容赦なく言葉のナイフを投げまくっており混沌しておりました。とにかく拓郎さんがひとりでヒールを負うという覚悟だけが伝わってきました。その時期の歌です。そのことと分かちがたく結びついている歌です。

 もちろん、たかがファンの端くれにいったい何の真実がわかりましょうか。それでも身心を削って創られ、歌っていること、それくらいはわかりました。中学2年のときの先取り学習のおかげです。そして推しが心を削られる時に、どうしてファンが平気でいられましょうか。
 稀代の名曲でありながら、スタンディングしてBRAVO!とは叫べず、文字通り、疼くような思いを感じるのはそこから来ているのだと思います。すみません、曲調も状況もまったく違うけど、映画「砂の器」の最後で加藤剛が弾く「宿命」を聴いている時の気分に近いものがあります。

 たぶん最後に歌われたのがCountryツアーでしたが、鬼気迫る歌唱だったのをよく憶えています。二度とステージでは歌われなくともこれからたぶん何度となくリスタートを繰り返す私たちのお守りのような歌だと思っております。
                           敬具
                     ご自愛専一に
                              星紀行
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2024. 7. 15

17 Y   「いずれここも」と軽い気持ちだったはずだが 僕達夫婦はどうやらここに安住の空気を感じ始めている
 
拝啓
 吉田拓郎様
 数多くの拓郎さんのラブソングのうちで、私はこの「Y」が一番好きです。…と断言してしまうと「しのび逢い」じゃなかったのか,「たえなる時に」はどうなんだ,はっ。2019年の「今夜も君をこの胸に」を忘れてどうする…ということで混乱してしまうので「かなり好きな1曲」ということで勘弁してください。
 誰かを好きになった時、その人のことが気になってたまらなくなるあの気持ち。しかし、どういう距離の取り方をすればいいのか、なにが一番いい距離なのか、ひたすら戸惑うそんな切なさを繊細に歌いこんだ名曲だと思います。
 特にあの美しい間奏だけで私は泣きたくなります。あのアレンジは拓郎さんなのか松任谷正隆さんなのか、とにかく胸かきむしられるストリングスのフレーズ。もう私はサイレンで遠吠えする犬と変わりません。
 そういえばあの当時お付き合いしていた人とダイエー碑文谷店まであのソックスを買いに行ったけれど見つからず、二人で水色のスタジャンを揃いで買ったりしたことを思い出したり…超個人的にも胸が疼きます。
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 ライナーノーツが"いったい何回目の引越し"の話になってるのは、よくわかりません。ダイエー→碑文谷から過去の引越しの系譜を思い出したのでしょうか。
 不動産業者さんの言うように引っ越しと言うのは多くの人にとって人生のステップアップの象徴なのかもしれません。しかし、アップもダウンも関係なく、ただ移動したくなるという拓郎さんは、日々旅にして旅を住処とす、岡本おさみさんよりも旅人気質なのかもしれませんね。
 その景色に飽きる…と以前拓郎さんは言っておられました。なんなら離婚も人生の模様替えみたいなことまで話が及んでおいおいと思ったものです。違う景色を求めて次々とさすらう姿は一曲歌うごとに譜面を捨ててゆく、あの姿とかぶります。カッコイイなと憧れつつ、拓郎さんだから出来たんだよなと悔恨をかみしめてもおります。ただし、あの放浪の精神だけはへのような自分でも忘れないでいたいと思っています。

 そして拓郎さんがはからずもたどり着いたという安住。拓郎さんは大事な人との本当の距離を見つけられたのでしょうか。私にはまだまだわかりませんし一生わからないかもしれませんが、安住の地とは求めるものではなく、惜しみなくく執着を捨てた放浪の果てに「このままが一番に思えるものね」…そういう境地とともに静かに降りてくるものなのか、こちらも、いろいろ考えさせられます。
                           敬具
                     ご自愛専一に
                              星紀行

2024. 7. 13

16 夜霧よ今夜もありがとう   二人の「ソロバトル」が本当に美しいではないか、永遠に聴いていたくなる
 

吉田拓郎様
再拝啓
 二人のソロバトル。これが"ごんぎつね"だと「青山徹、おまえだったのか、あのとろけるようなギターは…」「ジェイク…あなたでしたかこの情感あふれるサックスは…」と兵十はつぶやくのでした…というところです。
 今も「夜霧」を聴きながら、確かに"永遠に聴いていたい"…この演奏にいつまでも浸っていたい、ああ、終わってほしくないと切に思います。昔から拓郎さんが毎晩「ぷらいべえと」を聴きながら3曲目で気持ちよく寝落ちされていたことが現在はよくわかります。もちろん今回のベストアルバムにチョイスしたこともです。

 しかしこの心境に至るまで、いくらかの時間と迷いが必要でした。思えばこれもラジオでした。伝説のラジオ番組「フォーライフ・フォーユー」の最終回に、新作「ぷらいべえと」をひっさげて登場した拓郎さんは、自信たっぷりにこの「夜霧」を紹介しました。しかし拓郎さんの熱き新作を待ち焦がれていた少年にとっては突然のムード歌謡の登場に「なんじゃこりゃああ」とラジオの前で悶絶しました。悪いけれどそこのところ察して欲しいです。

 当時「ぷらいべえと」を聴きながら、もう拓郎さんは曲が作れなくなってしまったのではないか? この鼻声は、もう声が出なくなってしまったのではないか? …もう31歳だしな…そのころの31歳といえばもう老いたる爺さんのイメージでしたから胸を痛めておりました。
 
 また世間は世間で容赦なく当時、「クリスマス」とか企画モノばかりで、金儲けのことしか考えていないのかなどという批判をする人もたくさんありました。富沢一誠、アンタのことだよ。
 先のラジオでも「このアルバムは全曲"Arranged by Takuro Yoshida"ということで 書けない楽譜を独りで書きました」「自分の音楽的楽しみのために作りました」と拓郎さんは笑っていましたが、そういうことでどこか孤高な感じもしていました。実際にココから厳しい社長時代が始まっていったのですよね。

 しかし1年後にライブで聴いた「夜霧」は、このアレンジにちょっとスイングがかかった感じで、松任谷正隆のオサレな味付けもあってか会場の空気があたたかく弾んでいました。あらためて「ぷらいべえと」でのあのアレンジがよく練れたもので、さらにこんな表情もみせてくれる…ああ音楽ってすごいな、ミュージシャンてすごいなと思ったものです。
  
 このように最初こそ面食らった「ぷらいべえと」でしたが、その"Arranged by Takuro Yoshida"の威力に少しずつとらえられてゆきました。それにあれからライブなどで青山、ジェイクの二人のガチのソロバトルに何度も打ちのめされ胸に刻んだ私は、あらためてより深くこのバトルの原点の「夜霧」を味わうことができるようになった気もします。

 
 その後に、たぶん石原信一さんの著作「挽歌を撃て」(1980年)あたりで、実は、フォーライフが傾いたので急遽突貫工事でアルバムを作らねばならず、深夜のスタジオを押さえたために体調を崩し鼻声になっていたことなどの事情が明らかになりました。そこから、ともするとやっつけ仕事のように言う輩もおりますが、"Arranged by Takuro Yoshida"をなめるんじゃないよと言ってやりたいところです。当時の制作事情、環境に関係なく、音楽は音楽として精一杯の丹精こめて創られていることは明らかなことです。そのことを年齢とともにひしひしと感じるのです。
 例えば一人暮らしの時、母親から荷物が届くと、ゴチャゴチャ入っててめんどくせーなーと悪態をつくけれど、ありとあらゆる場合を想定していろんなものが詰められていたり、ていねいな手仕事が施されていたりして、ああ、すまなかったなと思うことがありませんか? たとえは何ですがそれが私にとっての「ぷらいべえと」であり「夜霧」なのです。私としては、ただただこのアルバムを愛でるのみです。
 「骨まで愛して」のカバーが素敵なスタンダードになることを楽しみにしております。
                     
                    ご自愛専一に  星紀行

2024. 7. 12

15 冷たい雨が降っている 「ローリング30」は、忘れられない愛すべきアルバムなのである
 

吉田拓郎様
再拝啓
 「ローリング30」は、私にとっても忘れられない愛すべきアルバムです。そして「ローリング30」といえば"ラジオ"なのです。1978年4月に始まった深夜放送"セイヤング"は、初夏の頃に松本隆さん、大川装一郎さんそして常やんらとのサイパン島ジャケ写合宿のズッコケレポートを皮切りに、夏には箱根ロックウェルスタジオからの生中継、そして秋に東京での松任谷さんたちほぼティンパンアレイチームとの完成曲を毎週披露してくれる…という具合にアルバムメイキングの過程をつぶさに味わう体験ができました。そしてそのラジオの成果物であるアルバム二枚組と一枚のシングル盤をこの手にした時のあのズシリとした重さ。

 当時、もう歌手を引退して経営者になったとか、しょせん過去の人、終わった人とかなんとなく世間の風が冷たい中で、拓郎さんは真摯にこのアルバムを作りながら音楽的にどんどん覚醒しヒートアップしてゆきました。その力強い様子には、私までもがラジオを聴きながら一緒にどんどん高みに登ってゆくような勇躍感がありました。こんな経験をできた幸福に感謝します。

 「ローリング30」「英雄」「裏街のマリア」「外は白い雪の夜」などが収まった1枚目のうえに、2枚目にこの歌が入っているあたりでもう無敵感がマックスです。
 鈴木茂さんの悲しみの咆哮のようなギターに導かれ、灰色のまさに「海辺の叙景」が広がるような見事な詞とメロディ―…ああ、サックスがまたたまらないです。あなた、すてきよ、いい感じよとボート小屋から声をかけたいところです。
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 詞を書くそばから速攻で曲をつけてゆく。ロックウェルからのラジオ中継でも曲が驚くほど出来ていると興奮していましたね。後年のラジオ番組で、松本隆さんが曲を速攻でつけてゆく拓郎さんにつぶやいた心の本音「ホントにそれでいいのかよ、もっと考えないのかよ」…松本さんの当時のご心配はわかりますが、それでよかったんですよね。後日、松本隆さんは「拓郎と(筒美)京平さんは、もう身体ごと音楽の塊だ」と評してくださったのが嬉しくまた誇らしかったです。

 作詞→作曲の流れ作業にとどまらず、そのまま隣接するスタジオに持ち込んでアレンジしてあのサウンドに結実されてゆくという…まさに魔術のような箱根ロックウェルの奇跡を見る思いです。
 この箱根ロックウェルチームの作品群に、東京で、ほぼティンパンアレイチームが、ガチンコしているところもまたこのアルバムの層の厚さの凄いところです。

 個人的に忘れられないのはロックウェルのラジオの生中継で石山恵三さんが「うるせバカ!!」とカマすところ。45年経った今でも録音を聴き返すたびに抱腹絶倒します。言うぞ〜とわかっていても涙がでるほどおかしくて…もう古典落語の域でしょうか。音楽的名盤というだけでなく、ラジオのおかげでいろんなものが佃煮のように詰まっている、あらゆる意味でかけがえのない大作なのです。
                         敬具
                      ご自愛専一に  星紀行

2024. 7. 11

 拓郎のブログ「ラジオの青春」が始まった。貴重な写真付だ。 
 「あなた方の1人1人に、もしかしたら存在するかも知れない作曲能力をチェックしたいと思います」っていう中学の先生も凄いが、その教室に吉田拓郎がいたというのもまた凄い。で、先生はそれだけの才能を目にしながら見落としてしまうというのもさらに凄い(爆)。もっともそこでジュリアード音楽院とかに推薦されたりしたら、現在の私たちの吉田拓郎はいなかったかもしれないか。

 おもねるわけではないが、私の吉田拓郎推しの青春もやっぱりラジオとともにあるんだよ。当たり前か。ということで配達も読み手もない私の手紙は明日もつづく。

2024. 7. 10

☆さて、ここからDISC2になります☆☆☆
  
14 裏街のマリア 曲はアレンジによってその運命が左右される
 

吉田拓郎様
再拝啓
 この松本隆さんの詞は映画のシーンのようにドラマティックです。たまたまこのアルバムの発売と同時期にテレ朝で放映していた「判決」という地味だけど大好きだったドラマがありました。主演の高橋英樹さんが満員電車で不良女子高生に鞄の中身を抜き取られる回があって、最後はお約束で「キミはホントはいい娘だったんだ」という結末で、どこかこの歌と似かよったテーマでありました。その不良女子高生役がかの「森下愛子」さんで、私はどうしてもこの歌を聴くとPVのようにあの森下愛子さんの姿が浮かぶのです。
 そしてこの迫力あるダンサブルなサウンドにカッチョエエなぁ〜とシビレタものですディスコを意識したという拓郎さんの言でしたが、まさにナウなヤングにゃディスコティックですばい。

 編曲といえば、このベスト盤には、編曲者のクレジットがありません。原盤では後藤次利さんが編曲者となっていましたが、なんか最近になってラジオで、レコーディングの日に次利さんがスタジオに現れず、ヘッドアレンジで急遽創ったというような話をされていましたね。なんでスタジオに来なかったか…それは昭和芸能事件史のひとコマであり、もう遠い昔の東京メルヘンということでいいでしょう。

 萩田光雄さんと馬飼野康二さんのお名前がまぶしいです。本当ならラストアルバムに編曲をお願いしたいと熱望されていましたよね。コロナ禍のためとはいえ残念です。
 ここのところこのライナーに刺激され、拓郎さんの提供曲でお二人の編曲作品を聴いていますが、多数の名作ばかりで幸せな気分です。吉田拓郎のファンになるということはシンガー&アーティスト吉田拓郎の世界だけでなく、提供曲界というもうひとつの大きな宇宙を手にいれることになるのです。大いなる幸福です。そのもうひとつの吉田拓郎の世界を彩ってくださった編曲家の皆様に心の底から敬意を表します。

 たぶん「歌ってよ夕陽の歌を」が初タッグと思われる萩田光雄さんですが、太田裕美さんの「失恋魔術師」は白眉です。アルバムバージョンでの鈴木茂さんのアレンジも素晴らしいのですが、ここは萩田さんのひまわり畑をウキウキ弾んで走るようなPOP感に一票!!。ここまでくると「木綿のハンカチーフ」と「しあわせ未満」は萩田さんのイントロだけで泣く自信があります…やっぱ最高峰は久保田早紀の「異邦人」のイントロでしょうか…あ、話の方向が違いますね。

 馬飼野康二さんによる拓郎さんの提供曲の編曲はあまりに数が多くて、昨今通勤電車の中でベストテンをひとり脳内で絶賛投票中です。うっかりすると馬飼野俊一さん編曲(「襟裳岬」など)もあり、間違いやすいので受験生は注意です。
 かつて拓郎さんがラジオで言われていたことですが、キャンディーズと梓みちよの…それぞれのバージョンの「銀河系まで飛んでいけ!」は同じ馬飼野康二さんがアレンジしていながら各シンガーの特質に対応して全く異なるアレンジになっているところが確かにすごいです。それに馬飼野さんは拓郎さんのデモテープのギターフレーズを大事にしてくれる方でしたよね。「アンドゥトロワpartU」…最高です。
 
         ご自愛専一に。            星紀行


追伸
 なので提供曲を体系としてなんとか形にして残して欲しいのです。「よしだのうた」とか一、二枚のCDのセレクトではなく全曲/全集という覚悟のあるかたちで何とかならないでしょうか。拓郎さんは、みんな子どもたちだと言いました。どの子もわが子。有名どころだけではなく、それこそのシングルのB面だったりアルバムの一曲からとにかくぜんぶ。私たちも必ず大事にしますから。

2024. 7. 8

13 午前0時の街 さて…恋も酒も友も若さも何もかもが…あの生き方しかできなかった…か
 

吉田拓郎様
信啓
 「午前0時の街」…深夜の夜風の中をたゆとうような歌です。聴いているうちに本当に闇にまぎれてしまいたくなります。こういう歌を作った人が一番偉いですが、その次くらいに偉いのが、40年経ってこの歌を掘り出して世界に向かって放った人です。歌をつくることが仕事とすれば、それ受け取る側もひとつの大切な仕事だと教えてくれます。おかけでこの世界の片隅にいたこの曲はこれからも生き続けることでしょう。
 
 六本木もかまやさつんも町中華も時空を超えて、同じ星をあおぐすてきな午前0時がありました。この歌に導かれて私もはしくれで幾度か経験しました。最近はちょいとキツイです。

 この歌にからめ、ひとりひとり名前を挙げての「王様バンド」を追憶するライナーノーツが嬉しいです。東京駅で解散してもさよならが言えないでどこまでも歩くというか飲み歩く。この別れがたい身体がよじれるような思い。
 このバンドは、わたしにとっても永遠の憧れです。そのみなさんがこういう絆で結ばれていたことを知るのは嬉しい限りです。彼らは十分なスターですので、今でも、いろんな場所で観客としてお目にかかりますが、その一挙手一投足から、あの拓郎さんのバンドは特別だ!!という思いが知らず知らずに身体から溢れています。ひと声かかれば、すべてをなげうって馳せ参ずる魂が漲っているのです。

 昔、ジャイアンツの定岡正二投手が引退したあとも過酷なトレーニングを続けている理由を問われたとき「すべてはいつか長嶋監督が復帰したときのためです」と語っていました。人々はそれを嗤い話にしていましたが、一ミリもおかしくありません。身にしみついた愛に生きる人をわらうべきではありません。
 現実に帰ってくるか来ないかという問題ではないのです。帰ってきたらいつでも馳せ参じられるような日々の生き方をするかどうかというのその人の問題です。バンドメンバーだけでなく私も一緒です。たかがファンのはしくれですが、いつでもステージに立った時は馳せ参じ「人間なんて」だろうとなんだろうと対応できるだけの"独りグルーヴ"を保っておきたいと思って生きております。きっとこの世にそういうバカはたくさんおられましょう。なので、こっちはだいじょうぶです。いつでもどうぞ、やさしいあの娘と一緒に待ってます。
 ご自愛専一に。 敬具。
                           星紀行
                              

2024. 7. 7

12 あの娘に逢えたら そういう店にはかならず若い素敵な女性が働いていて「東京ひとりぼっち」を演じる僕の精神的支えになってくれた
 

吉田拓郎様
畏啓
 若き日の四谷三丁目〜新宿御苑〜新宿あたりが舞台ですね。ラジオやライブのMCで話してくださった、無名時代に深夜の中野坂上を息を切らして自転車をこぎ、新宿の双子の女性の店まで用心棒に駆けつけるというエピが好きでした。つい最近も、この娘がいるから東京で歌っていけるとまで思ったデビュー当初の女子高生のファンの話も胸にしみました。彼女がひとしれず消えていった話も切ないです。新宿ではないけれど京都の関西フォークの牙城で、周囲が敵ばかりの中のお店で、唯一中山ラビさんだけが優しくしてくれた話を思い出します。その後の安井かずみさんといい、拓郎さんの大切なところで素敵な女性が手を差しのべてくれるのですね。広島から出てきたなんのバックもない兄ちゃんがシンガーとして立ち上がってゆく見果てぬ夢を支えてくれた素敵な女性たち。いいなぁ、拓郎さんは「母性本能」ならぬ「姉性本能」に恵まれる。やはり天性のスターなんですね。

 「あの娘と逢えたら」1977年11月のアルバム「大いなる人」の一曲目。結構衝撃でした。時は社長全力投入期です。そこにいたのは、もう長髪にジーンズではなく、髪を切ってスーツにネクタイのいでたちの拓郎さんでした。そこに鈴木茂のゆったりとしたメロウなサウンドで、なんかとてもオトナの余裕を感じさせる作品群でした。また若者の旗手ではなくなった吉田拓郎さんは、もう歌手はやめて経営に専念するという発言もあり当時は悶絶させられたものです。
 
 「あの娘に夢を返そうと」…シンガーの夢はもうコンプリートして、今度は俺は裏方の経営者になる。だからシンガーとしての立志の夢はもういらなくなったんだよ。そう言っているように聴こえます。創ったご本人に講釈するのも失礼ですが、もともと失礼なことしか書いていない手紙なんですよね。

 さて爾来、半世紀も近くなり。そういうことも全部終わって、今聴くとめちゃくちゃいいです。なんてのびやかなボーカルなんでしょうか。シャウトする拓郎さんも素晴らしいけれど、この艶とゆとりと豊かさのあふるる歌声がたまりません。♪夜が明けまぶしさが目にぃぃぃしみる ここのボーカルの伸びと美しさがなんとセクスィーなのでしょうか。やはり今聴いても「詞を読みながらアレンジした」という鈴木茂さんのアレンジにはそこはかとない品格があります。

 吉田拓郎を支えたすべての「あの娘」のみなさんにファンとしても心の底から感謝を捧げます。ありがとうございました。そしてみなさまご自愛専一に。            星紀行

2024. 7. 6

11 いつか夜の雨が ブッカーTがアレンジしてくれるという嬉しいニュースに喜び勇んでロスアンジェルスに飛んだ
 

吉田拓郎様
畏啓
 ライナーノーツには「海外録音にさして関心がなかった」と書かれていますが、既にその3年前の1977年から吉田拓郎がモータウンでレコーディングする!!という企画があり、当時モータウンの意味もわからなかった自分もひたすら楽しみに待ち続けておりました。モータウンに限らず、R&B、フォーク、ロック、ボサノバ、ボブ・ディランにキース・リチャーズに城卓矢、バーボンにレモンスライスに砂肝のニンニク醤油炒めに至るまでみんなみんな拓郎さんから教わったのでした。そしてこの作品で私は"レゲエ"を教わったのです。

 ライナーには、広島時代の拓郎さんが愛していたR&Bの世界でブッカーT著名なアーティストだったことや「あの当時のソウルミュージックはほとんどの音源をキャッチしてギターの奏法を研究していた」というくだりがあります。つまりはこのときの海外録音は拓郎さんのルーツに向う旅であったことがわかります。
 そこで思いあたるのは、これからロスにレコーディングに行くという直前に"セイヤング"で聴かせてくれた「いつか夜の雨が」のフルサイズのデモテープです。拓郎さんがひたすらひたすらソウルなギターを弾きまくっており不思議な気迫がありました。当時はよくわからなかったけれど、これがライナーにいう若いころの拓郎さんが研究していたソウルの奏法だったのかと合点がゆきます。この放送の時に拓郎さんは「これはブッカーTがやったら良くなるんじゃないかという自信があります」と抱負を語りました。つまりこのデモテープは拓郎さんの出自にあるR&Bとソウルをどんだけ好きかという愛をブッカーTに届けんとする渾身のラブレターだったのかと思うのです。

 さてどうでもいいことですが、このデモテープをラジオで聴いた時、私は大学入試の真っ只中でした。高3の夏なのに篠島、秋になっても渋谷公会堂と騒いでいたおかげで私の大学受験は崖っぷちのズンドコ状態でした。そんな切ない日々、このデモをひたすら聴いたものです。

 やがて春になって、転生したようなシャングリラでの完成版を聴いて、ああ、これが"レゲエ"というものなのか、これが本場の"ソウル"というものなのか、米帝もやるもんだと唸りました。それでもあのデモテープは忘れられませんでした。どこか悲しく、どこかやりきれなく、心の深奥が疼いて、身体が揺れてくる。そこがしっかりと完成版と通底していると気がしました。
 例えば♪過ぎ去るものたちよ そんなに急ぐな…ここがデモテープの歌い方だと♪過ぎぃ〜去るぅものたちよ〜 そんなにぃ急ぉぐなぁぁ〜と切ない歌いまわしになっていてこれはこれで好きです。それこそがソウル、それがレゲエというものなのでしょうか。だとしたら私は最良の教科書から教えて貰ったのだと信じております。

 デモテープには作り手の無垢な思いとともに、さぁ、これから旅立つぞ、さらに良くなってやるぞという希望がみなぎっているような気がします。その不思議な気迫が、拓郎さんのデモテープの魅力だと思います。Youtubeでは聴けるのかな…いやなんとか「Tからの贈り物第二弾」でお願いします。
 そうそうその年、大学は奇跡というかまぐれで合格しました。あの篠島の復活のドラマが背中を推してくれて、この気迫のデモテープがお守りになったのだと思います。あまりに嬉しくて6年もいっちゃいましたが。
         ご自愛専一に。            星紀行

 

2024. 7. 5

☆☆☆Not foundからcoming soon☆☆☆
 エイベックスでブログが再開するのかな。昨夜は酔って「あんだけキッパリ閉じといて二度と帰ってくんじゃねぇ」と悪態をついた記憶があるが、周囲の心ある人に「今、拓郎さんがブログを始めることがどれだけ尊いことか」諄々といさめられた。御意。すまん、撤回する(爆)。楽しみにしているぞ。はじまりもおわりもないこの道をサイのツノのようにただ独り歩め。

2024. 7. 4

 ラビさんの命日。はしくれの私でも思い出すことがいっぱいある。あちこちでディランとかペニーレインとかユイとか凄そうなフレーズも飛び交いながら、素敵な賑わいで盛り上がっている。ああ、いい夜だ。ラビさんもこんな素敵な空気を信じて疑わなかったに違いない。そんな気がして、ちょっと泣きそうになるがオトナなので我慢する。
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 2004年の京都公演の拓郎さんのMCで「関西フォークはみんな敵だったけど、唯一中山ラビだけが優しくしてれた」…これをラビさんに伝えたら「フン!」と言いながら、まんざらでも無い嬉しそうな表情をしておられたことを思い出した。…やっぱり泣くかな。
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2024. 7. 3

10 この歌をある人に 彼から届いた作詞を目にした瞬間に僕はメロディーがあふれてくる楽しさを何度も体験した
 

吉田拓郎様
畏啓
 "苦しい胸の早鐘を 空が淋しく見ているね"…このフレーズがかなり好きです。そんな「この歌をある人に」は、名盤「アジアの片隅で」のラストナンバーですが、当時から私にはこの置き場所について微妙な違和感がありました。曲は好きなのですが、このアルバムのトーンからは浮いている、ぶっちゃけ取ってつけた感のようなものを感ずるのです。拓郎さんだって昔のラジオ「ヤングタウン東京」でこのアルバムの最後は「証明」にしようと思っていたと言っておられたとおり、当初の予定外の選択だったと思われます。

 違和感というとキレイですが、私には身も蓋もない感じすらします。このアルバムは「いつも見ていたヒロシマ」「アジアの片隅で」など岡本おさみさんとの久々に四つに組んだガチンコ盤です。なのにその最後の最後に松本隆さん。例えば勝負下着をつけてシャワーも浴びて臨んだ大事なデートで食事してワイン飲んでダンスもしてさあ!と店を出たら、相手は青山に住む慶応出身の都会の人とスポーツカーに乗り込んで「じゃ〜ね!」と消えてゆく…そんなおきざりにされた悲しみを感じます。あんまりじゃないですか。ということで私は40年間その理由を考え続けておりました。

 T 中和説
  このアルバムはシリアスで重たい社会派トーンになってしまったので最後に清涼感が欲しかった。
 U 引継ぎ説
 次回(「無人島で」)からは松本くんと作ります〜という最終回での新番組の予告のようなものです。昔、"オバケのQ太郎"の最終回に"パーマン"が出てきたり、"マジンガーZ"の最終回に"グレートマジンガー"が登場したのと同じ…って知らんですよね、とにかく引継ぎ予告ではないかと思うのです。
 
 決め手がないまま時が過ぎましたが、このライナーノーツを読んで新たな説を考えました。岡本おさみさんは字余りや字数がめちゃくちゃだが、松本隆さんはロックのドラマーだから字数が均一のうえ言葉にリズムがあると激賞しておられます。
 そういえば武部聡志が以前、"関ジャム"で「拓郎さんが『松本隆から詞が届くと読む前から良い詞だとわかる』と言ってた。文字の並び方からして美しいんだって。」と述懐しておりました。今回のライナーは、松本隆の詞は見るだけでメロディーが湧いて楽しかったとまで書いてあります。
 久々に岡本さんの歌詞のガチの字数不整合に苦闘したであろう拓郎さんは、最後に均整とれた文字並びで気持ちよくなりたかった、その快感が欲しかった…という「V 快感説」が正しいのではないかと思いました。
 このライナーだと字余り王の岡本さんがなんか気の毒ですが、別に拓郎さんは彼をクサしているのではなく、これは素敵な言葉を紡いでくださったすべての作詞家の方たちへの拓郎さん特有のバランスなんだろうと思う次第です。
             ご自愛専一に。            星紀行

 追伸  そう、喜多條忠さんのことも書かれていました。喜多條さんは歌謡曲畑でいろんな作曲家さん相手に仕事をしていたので、やはり歌詞の字数がキチンと整合していたのですね。先日の田家秀樹さんと重松清さんの蔦屋のシンポジウムで、かつて岡本さんも田家さんもラジオ局で若者担当だったけど、喜多條さんはガチの歌謡曲担当だったと述懐されていました。そういうこともあるのでしょうか。なお喜多條さんのフレーズが熱いものを湧きあがらせるという拓郎さんの評には心の底から納得です。ああ、Uramadoで書いた「メランコリー」の新幹線の電話事件を思い出すと…泣けて〜くるじゃな〜いかぁ〜。

2024. 7. 1

9 流れる 僕は最後まで「ステージではバンドである事」をミュージシャンたちに求め続けた。そして自分はそのバンドのボーカリストなのだ!と
 
吉田拓郎様
啓上
 350もの曲の中からこの「流れる」を選ばれたことを知った時、心の中で快哉を叫んだのは私だけではないと思います。いや、たくさんいたはずです。拓郎さんが以前に言ってらした「この歌が好きな人は"拓郎ツウ"です」という言葉のとおり、私の周囲でもこの曲が好きなファンは多いです。地味な小品ながら、心の深奥にふれる作品といえましよう。
 拓郎さんがどのような思いをこめてこの作品を創られたのかは一切謎ですが、私には、先日もラジオでお話くださった75年のオールナイトニッポンの最終回の最後の曲という鮮烈な印象がぬぐいされません。人は哀しみの中で生きている。時に極北のような嵐の中を黙って固く心を結んで乗り切って行こう。そう聴こえるのです。
 そのころ、設立したばかりのフォーライフレコードのフォーライフフェアで拓郎さん直筆のパネルが展示されていました。殴り書きのような勢いのある書体で大きなパネルに書かれていました。

   今は黙って静けさだけを愛せばいい

 これが忘れられません。いまでも辛いことがあったとき、拓郎さんがこのパネルを高く掲げて応援してくれる声が聞こえてくるのです。こだまでしょうか?いいえ誰でも。
 ライナーでは、拓郎さんがスタジオ人ではなく、Live人であると宣言しています。ライブで育てられた身としては嬉しい限りです。でも、この曲はライブ未演ですよね。かつてのかつてラジオで何度か「この歌(「流れる」)を今度ステージで演るかな〜」とおっしゃいましたが、ついぞ実現しませんでした。
 山田さんのペダルスチールが多用された2014年あたりには、こりゃ「流れる」の環境が整ったなと密かに思いましたが、残念。まだ残念というには早い。はっ。こだまでしょうか?いいえ、いつか最強のバンドで、最高のボーカリストとして。
                       ご自愛専一に。   拝具
                                 星紀行

2024. 6. 30

8 もうすぐ帰るよ 専門的にいうと「音が廻っている」状態なのである。実は僕はこんなサウンドが大好きだったのである。
 

吉田拓郎様
尊啓
 1977年の4月、山田パンダ&イルカのラジオ番組に新作「ぷらいべえと」のプロモーションのために出演した拓郎さんは帰り際にこう言い残しました。「こんど7月に久々のシングル盤を出すので、曲をつくりに明日から軽井沢に行ってきます」。それから4週間くらいして小室等の音楽夜話に出演した拓郎さんは完成間もない新曲「もうすぐ帰るよ」を史上初公開してくださいました。今回のライナーノーツは、その間のレコーディングスタジオでの制作プロセスと苦闘の様子が詳しく記されています。ちょうどプロモーションフィルムも残っているのでその様子が目に浮かびます。赤いラガーシャツも当時買い、これを着ていつか僕も軽井沢に行こうと夢を見ました。

 そしてここでのキモは、ミュージシャンを集めて、あえてLiveの現場のように音が廻っている状態を再現しようというトライだったのですね。私たちがこれまで幾多の拓郎さんの作品で味わい身体に馴染んできた臨場感あるサウンド。それを専門的にいうと"クリアなサウンド"="デッドなmix"ではなく、その対極にある「音が廻った」Liveのサウンドという言葉で表現できるのですね。勉強になりました。
 そういえばラストツアーの前後、拓郎さんはよく「バンド集めて一発録りをしたい」と言っておられましたね。2019年の名古屋、2022年のWANGANをあらためて聴きたくなります。

 さて、ここまで書いておいて何ですが、それでは正直に偽らず言わせてもらいます。そういうことで当時このシングルに期待していましたが、がっかり感が強かったです。前作の鮮烈なシングル「たえこMY LOVE」に続く期待の打席です。意気込み十分の美しいスイング、…ああ〜だけどセカンドゴロかぁぁという感じです。不遜にも高校生の私は、もうすぐ帰るよ…だからどうした、帰るなよ、どっか荒野に向かって旅立っておくれよ、と不満でもありました。あくまで個人の感想です。しかしあのオオタニさんだって凡打の日もあるじゃないですか。
 ただし、そのかわりと言っては何ですが、79年のLiveの「もうすぐ帰るよ」。こちらは超絶すんばらしいと思いました。アレンジは大幅に変わりましたが、Liveの現場で魂をこめて歌い上げるところ、そしてジェイクのサックスがこれでもかと拓郎さんのボーカルをガチで支えるところもたまりません。これは堂々とスタンド入りの傑作です。"のごころ"より"やしん"ですばい。
 やがて私達は「家へ帰ろう」という魂の熱唱に出会うことになるのですが、それはまた別のお話…でしょうか。
  ご自愛専一に。  暴言多謝。          星紀行

2024. 6. 28

7 たえこMY LOVE 暴走がいつの間にか「暴」ではなくなって単なる「走」へと変化して行く自分に気が付いていたのも事実だ
 

吉田拓郎様
畏啓
 中学生の時、ニッポン放送のラジオ番組日立ミュージックインハイフォニックで当時発売したての「たえこMY LOVE」を初めて聴いてちょっと驚きました。拓郎っぽくない…なんてドラマチックでスタイリッシュな歌なんだろう…あ、"スタイリッシュ"なんて言葉は当時知らないや、"カッコイイ"だった。まるで映画みたいな様式の歌に感動したものです。特に「若かったころの自由さが今も…」という歌詞が印象的で、ああ若者だった拓郎さんもオッサンになったんだ…もとい成熟したオトナの歌だなぁと感じ入りました。

 それにしても、このライナーノーツは、どこが「たえこMY LOVE」と繋がるのかもよくわからずトテモ難解で…わかんないです。曲を聴きながら読み返し読み返し、それでもわかんなくて「たえこMY LOVE」の姉妹作「雨の中で歌った」とそのライナーノーツを含めて行きつ戻りつしていたので手紙がずいぶん遅れてしまいました。遅れた…って誰も待っていませんが。まあ急ぐわけなどあるじゃなし。

 そもそも「たえこ」というと私世代はどうしても「フィンガー5」がチラついてしまうのですが、拓郎さんの「雨の中で歌った」のライナーの解説に従って女優エルケ・ソマーの写真・映像を脳内にジュッ!と焼き付けました。神秘的でクレバーでそして強そうで…私なんぞ話し相手すらなれなそうな女性です。
 この難解なライナーは、六本木のエルケ・ソマーと過ごしたころの拓郎さんの側の心情と境涯を記したものなのでしょうか。そう思うと少しはなんかわかる気がします。いや、わかんないけれど勝手に映画でも観るように思い込みます。

 新旧がせめぎ合う東京になかなか馴染めず、それでも負けまいと心を燃やす「ローカル」な若者。いろんなものと闘い「暴走」しながらも決して誰かと肩を組みたくない孤高の若者。「東京って失礼な街なんだよね」…「時代の先端を疾走するような」彼女の言葉が、ローカルな若者の胸をわしづかみにしたであろうことは想像に難くありません。「いつか消えるかもしれない」という隠された心の傷跡や家族との愛憎らしき彼女の闇…きっと、その若者=あのときの拓郎さんだったからこそ、音叉のように響き感じ取り、静かに共鳴したのに違いありません。そしてやがて拓郎さんの暴走の"暴"が消えてゆく変化に呼応するようにぷっつりと消えてしまう人。すべてがわかるからこそ黙り込む人々。
 拓郎さんの言う「パーソナルな揺れ」…たぶん家族の末裔でありたいし、家族に関係なく独りの自分でありたいという意味でしょうか。社会的な自分の証明とは何を言うのかわかりませんが、ひとつだけ確信するのは「パーソナルな揺れ」があるからこそ拓郎さんの歌は私たちの胸に刺さり「取り返しのつかない財産」なのだということです。

 「雨の中で歌った」のライナーでは、恋心のことはハッキリと書かれていなかったけれど、今回のライナーには仄めかすように記されています。そう、恋。恋というしかありますまい。ってお前が言うなと怒られそうです。人の恋路を覗くものは馬に蹴られて死んじまえと言われますし。とはいえ「たえこMYLOVE」「雨の中で歌った」を行きつ戻りつ深く味わう今日このごろ、雨の中でエルケ・ソマーが「バイ」と消えてゆくシーンが不肖私の頭にも浮かぶのです。

 末筆ながら石川鷹彦さんのアレンジも素晴らしいです。フォークギターの名手とばかり思っていると、このぶっ飛ぶようなゴージャスなアレンジに打ちのめされます。「作詞・作曲:吉田拓郎 編曲:石川鷹彦」、なんだフォークかよ…とこの曲を聴いてもへーきで言えるヤツも馬に蹴られて雲の上に旅立ってしまえと思います。

 追伸
 石川さんとアコギをいくつも重ねて創ったというB面の「チークを踊ろう」これも絶品です。是非入れていただきたかったです。いつかまたどこかで。

  ご自愛専一に。            星紀行
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2024. 6. 25

6 I'm In Love  「極悪バンド」この時代の僕のRec・ツアーメンバーほど心優しく、熱く、人間味のあふれた連中は居なかった
 

吉田拓郎様
恭啓
 "バンド"という言葉を聞くと、この「極悪バンド」「王様バンド」のことが反射的に浮かびます。特に正式に結成されたバンドではないですが、それでもどこのバンドよりも最強のバンドとして心に刻まれています。
 私は、拓郎さんのファンとしてはライブ73もつま恋75もリアルで体験しておらず、世代的には遅れてきたという思いがいつもつきまとうのですが、それでもこのバンドを若き日にどまんなかで体験できたことは大いなる幸せだと感謝しております。
 ステージの真ん中に島村英二さんが座しドラムで砲撃し、両側にエルトン永田さんと中西康晴さんがダブルキーボードを奏で、ものすげえ存在感の青山徹さんがギターを縦横無尽にうならせ、そしてどこか飄々とした武部秀明さんがベースを刻んでいる…もちろん常やんもジェイダも忘れちゃいません。そのバンドの風景が実はとてつもなく贅沢なものだったのだとあらためて思います。
 サウンドが固まりになってステージから押し寄せてくるあの波動。そにに全幅の信頼のうえすべてを預けてシャウトする吉田拓郎の姿。ライブを観るたびにバンドの「心・技・体」がどんどん練り上げられ成長していっているのがよくわかりました。もう82年の後期では、中西さんがギター型のキーボードを抱えてステージ中央に躍り出て、拓郎さんの目の前で青山さんのギターとバトルするあたりは、もうすげえのなんのって。

 そしてバンドが絶好調のときの作品がこの「I'm In Love」でした。珠玉のラブソングと現在は言えるのですが、申し訳ありません。1983年当時、吉田拓郎を人生の師と仰ぎ、その唄を人生の羅針盤にして生きていた私はすんなりとこの曲を受け入れられませんでした。世間的にはスキャンダルですっかりヒールになっていた拓郎さんが"みんな自堕落に生きようぜ"とうそぶき「このまま世界の終りが来ても構わない 君と一緒にに死んでゆけるならすべてを許そう」と歌うことがどうしても腑に落ちなかったのです。生硬で青臭かった自分を思います。こんなファンばかりだったとしたら拓郎さんもさぞや孤独だったでしょう。とにかくどんどんバンドが練りあがってゆくものの、皮肉にも拓郎さんの歌と聴き手の私とのすれ違いの交差が深くなってゆくのが切なかったです。
 しかし、拓郎さんは身をもってこの歌を大切に歌い続け、この歌は歳月をかけて深められ変化していったものと少なくとも私には感じます。2019年のラストツアーに至るまで、歌うたびに輝きが増してゆくようでした。不肖私も人並みの経験を経てラブソングの美しさがわかるようにもなったのかもしれません。あああの頃はガキですまなかったなと思いますが、人間というか自分はそんなもんです。後悔はありません。
 しかしこのライナーノーツを読んで、唯一後悔のようなものがあるとすれば、フィルインから始まってイントロ、間奏、アウトロのギターソロを作りあげ、弾きあげた青山徹さんのステージでのプレイに、もっともっともっともっと惜しみのない拍手を贈りたかったということです。何度も青山さんのプレイを目にしていたのにもっと魂を込めて絶賛すべきだったと思うのです。いまごろどうしておいでだろうか、今夜は煙が目にしみます。この後悔は、拓郎さんが「ペニーレインでバーボン」のライナーに書いたとおり、あの時でしか解決できないものなのでしょうか。それともどこかで遅ればせながら表すことができるものなのでしょうか。
                ご自愛専一に。       謹白
                                 星紀行
              

2024. 6. 23

5 風邪  初めて目の当たりにする石川鷹彦の奏法はまさに華やかでメロディアスでそして時には力強くてスタジオにいた僕のハートを激しく撃ったのだった


Monsieur Takuro Yoshida,
 昔の雑誌記事で若き日の拓郎さんが「高田渡のスリーフィンガーはウマいよな〜」と絶賛しているのを読んですこし不思議でした。そりゃそうでしょうが、拓郎さんだってフィンガー奏法が超絶ウマいじゃないですか。このライナーノーツはそんな私にとってその謎解きの物語でもありました。
 
 R&B系のロックバンドでエレキギターを抱えていた若き主人公には、縁も興味もなかったフォークギター、フォークソング、スリーフィンガーという違和感の世界。しかしそこで神=石川鷹彦の華麗なるフィンガー奏法に出会い、師のアドバイスのもと猛特訓に励み、たちまち超テクを身に着け、さらに誰もやっていない自己流のスリーフィンガーテクを確立する…このくだりがドラマのようです。ちょうどキリストに出逢ったパウロ、スナイプ先生とハリーポッター、丹下段平と矢吹ジョーの物語みたいで…んーちょっと違うかもしれないが、とにかく胸熱です。私がファンになった時の拓郎さんは既に神技を会得した後で、もはやかつてのスリーフィンガーへの憧れを卒業していたのですね。

 その後、アコースティックギターのフォースと魔法を我がものにした拓郎さんは、R&Bのコード転回のメロディ―やアドリブを多用した歌唱を持ちて打つべし、打つべしと席巻します。私がリアルに体験したのはこの独壇場だったわけですね。かくして私たちを虜にした、もはやフォークの枠からははみ出した数々の名作たちやあのギター一本でロックンロールのようにドライブする弾き語りが生まれたのだ…そう思うといっそう感慨深いというものです。ああ♪生まれてくれてウェ〜ルカ〜ム〜
 その成果物のひとつのこの「風邪」は、流れるように美しく、それでいてけだるくてどこか不安をも感じさせる異世界なメロディーとギターテクを感じます。それがディミニッシュとオーギュメントなのだというご拓宣は、音楽音痴の自分もしかと胸に刻みました。
 それにかねてより思うのはこのメロディーと演奏にはなんかフランス語が合いそうなそんな気がするのですがシルブプレ。さすが自称アランドロンですメルシー。
 ということでまさに「吉田拓郎はいかに創られたか」(The Evolution Of Takuro Yoshida)、フォークに拠りてフォークをの上へ行かんとする吉田拓郎の明日はどっちだ。ご自愛専一に。
                    Au revoir. フランス語ゼンゼン知りません。

2024. 6. 22

外回りで桜坂。紫陽花の咲きたる。ここを通る多くの人々の頭の中には福山雅治の歌声が流れるそうだ。しかし「その人は坂を降りて」を口ずさみながら坂の下まで歩いてやった。…勝った。
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2024. 6. 21

4 ペニーレインでバーボン あのときの後悔はあの時でないと解決できない…It's too late.

吉田拓郎様
  一筆献上
 ライナーノーツにはペニーレインの"ぺ"の字もなく「人間ってのは後悔する生き物だと思う」という話で「後悔」との格闘のことが綴られております。「ペニーレインでバーボン」とこの「後悔」との関係がよくわかりません。
 得意の下種の勘繰りをしてみると@この時期に話が立ち上がった「フォーライフ設立」のことかAあるいはもっと深く切実なプライベートのことかBもしくはこの歌を自粛・封印したことか…あれこれ無い頭で考えてみますが、どれも拓郎さんに「違う!」と言われそうです。何で読み手にわかんないことを書くのかと文句を言おうものなら「何を書こうと俺の勝手だろ!」と返されるにきまっているので言いませぬ。

 こちらも勝手に言わせていただくと「ペニーレインでバーボン」は私の運命の一曲でした。他人様にはどうでもいいことですが私の推し人生はココから始まりました。その前にシングル「シンシア」は聴いていましたが、このペニーレインの時のカミナリに撃たれたような衝撃はまさに空前絶後の体験でした。その日、珍しく歌番組に登場した拓郎さんは、付添人のようなかまやつさんに見守られながら、唐突に「ペニーレインでバーボン」「暮らし」「襟裳岬」を絶唱しはじめました。当時、わけわかんないながら、すげーもんが始まったことは感じました。カメラを一瞥もせず怒ったように拓郎さんは言葉をマシンガンのように叩きつけていました。早口でこの世界のすべてに異議申立てをしているようで、ああ〜この世にはこんな歌詞があるんだ、こんなことを歌う人がいるんだと驚きました。歌が波動になって押し寄せてくるのを固唾をのんでただただ見つめるしかありませんでした。一体これは歌というものなのだろうか、いや叩きつけられた言葉たちが躍っているし弾んでいる…ってことはこれは間違いなく歌なんだ。ああ、すげえ。この世にはこんな歌があるんだ。
 後日、学校でこれを観たtくんと二人で「すごかったね」「すごかった」と貧弱な語彙で確認しあいながら、tくんからこのテレビの録音を聴かせてもらいました。カセットで聴いてもやっぱり凄かったです。聴く度に胸がしめつけられるようでした。そこから私たちの旅が始まったのでした。

 なので吉田拓郎の最大の不幸とは最高傑作が廃盤になっていることだと思っていました。この曲を一曲目に頂く最強アルバムが廃盤という極北に私たちは長い事おきざりにされていました。しかし、おかえり!ただいま!どこに行ってきたの?ということでアゲイン、アゲインもう一度…ようやく再発に至りました。拓郎さんはラジオで生きてるうちに再発されてよかったとしみじみと感激し既に齢60歳を過ぎた私も本当にそうだなぁと心の底から思いました。しかしこのアルバムにとっては50周年のこれからがまさに再スタートで世に出でるわけです。まだまだ冥途の土産には早く、このアルバムを宣揚してできる何かがありそうな気がします。It's not too lateであります。

 ということでこの曲に導かれファンになったことに私は一ミリも後悔なぞありません、というより僥倖を手にしたと誇っています。しかし、いちファンとしての来し方とあり方については数多くの後悔があります。懺悔の値打ちもないけれど。そんなとき是枝裕和のドラマ「ゴーイングマイホーム」に出てきたフィンランドの古いことわざ
  「後悔とは かつてそこに愛があった証明である」
 これが静かに背中を押してくれるのです。拓郎さんがハワイに行きたいと願っているように、私は生涯に一度フィンランドに行きたいと願っております。拓郎さん、一緒にフィンランドに行きませんか。>何様だよ。失礼しました。
             ご自愛専一に。       
                            星紀行

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2024. 6. 19

3 君が好き そろそろ我々がレスペクトしながら聴いていたR&B風のロックテイストな演奏も聴いてみたい

吉田拓郎様
前略
 中学生のときに家でライブ73を大音量で聴いていたら、ちょうどこの「君が好き」のあたりで「やかましい!」と父に怒鳴られ「こんなのが歌なの?」と母にも罵られました。♪初めの敵になるのは両親だ(「家族」)とはそのとおりでよく歌ったものです。音楽のことなどわからない両親でしたが思えばこの二人が「やかましい」と耳を塞いだことは吉田拓郎がフォークソングなどではなかったことのひとつの証明といえましょう。

 このライナーによれば、ビッグバンドによるライブ73の実現は、ダウンタウンズのリーダーMさんのリクエストが頭にあったのですね。拓郎さんは自分のキャリアの出自を語られるとき、プロとしてのレコードデビューではなく広島のダウンタウンズからはじめることがほとんどです。

 僕がもの心ついた時から拓郎さんは過去のいろんなことをバッサバッサと切り捨てながら進んでゆく人でした。もう「人間なんて」は歌わない、「水無し川」を最後にもう他人に曲はかかない、もう歌は辞める、古い歌はもう歌わない…そのあざやかなまでの切り捨ての度にヤキモキしながらも、ああ〜かっこいいな〜と憧れたものです。あとでよく考えてみると捨てたものをいつのまにかちゃんと拾ってたりすることも多いのですが、そこもまた人間らしくていっそう好きになるのです。話がそれました。

 しかし拓郎さんはダウンタウンズという起点は決して切り捨てたりせず、むしろ大切なキャリアとして今日までブレる事はありませんでした。そしてそれがライブ73にマイルストーンのように結実していたのですね。

 いうまでもなくライブ73は奇跡のようなアルバムです。年齢にして拓郎さん27、瀬尾26、松任谷正隆22、高中正義20、田中清司25、岡沢章22、石川鷹彦30、後藤由多加24、恐るべき若造たち。そう考えるだけでこのアルバムがよりいっそう愛しく思え、力が湧いてきます。
 すこしまえにこのライブの完全版をブートで売っていたという事件がありました。法律違反そりゃいけません。拓郎さんのアーティストとしての意向に反するそれもいけません。ましてやそこで金儲けなんて唾棄すべきことです。
 しかし、しかしこのライブ73の全部を聴きてぇ、死ぬほど聴きてぇと私の魂は何度でも叫びをあげます。今回のライナーを読むと、一日目と二日目という一晩で演奏はどう進化したのかそれを肌で感じたくて仕方ありません。ああ二日間とも聴きたいと悶絶するのです。

 これはひとつのライブアルバムという作品であると同時に、もはや文化財であり制作プロセスも含めて一大叙事詩といえましょう。コッポラ監督がゴッドファーザーの三作品をアウトテイクもすべて入れて時系列で再編集した壮大な「サガ」という作品がありますが、そういうのもアリではないか、どうなんでょうかと野ウサギのように怯えつつ申し上げます。そんな壊れやすい午後に。
                                   草々
              ご自愛専一に
                         星紀行

2024. 6. 18

 いや怒られるとかそういうことではなく、私にとって「拝啓吉田拓郎様」とあの文章群は不可分一体のものなので、タイトルがかぶるということは例えば藤井フミヤが「落陽」という題で別の曲を歌ったのと同じで、それはないだろという気がするのです。

2 せんこう花火 あーそうか、じゃあ、おまえのは本物のフォークじゃないんだな

吉田拓郎様
謹啓
 本道はずっとR&Bのロックバンドだったが、余技のフォークでひょんなことからこんなことに…と告白した時の前田仁さんのリアクションが素敵です。ぶっきらぼうながらも、すんなりと拓郎さんの心情というか本質を理解してくれているのは小学校の同級生だからでしょうか。

 私がファンになった1974年ころには、既に拓郎さんは超絶うまいアコースティックギターの名手として有名でした。R&Bという出自のことなど知るよしもなく、きっと学生時代からフォークに傾倒しアコギの鍛錬をされていたものと信じて疑いませんでした。それがプロになってから石川鷹彦さんのようなギターを弾きたいということで取り組みが始まったという話は実に意外でした。

 そこで今回観直した93年頃のテレビでの石川鷹彦さんと拓郎さんとの対談。これまで拓郎さんの七三チックな髪型がなかなか強烈でそっちに気を取られて話が入って来ませんでした。きっと河合楽器のピアノのセールスマンになっていたらこんな感じだったのですね。すみません、話がそれました。
 拓郎さんのJ-45を懐かしいなと手にした石川さんに、拓郎さんが加藤和彦から譲ってもらった話をすると、石川さんはドノバンのカラーズを嬉しそうに弾いてみせます。まさに昨日の手紙「どうしてこんなに悲しいんだろう」のライナーでエレックに現れた加藤和彦さんがこのギターでドノバンのカラーズを弾いて魅せてくれたという姿と重なります。音楽家はこんなふうに時空を超えて繋がることができるんだとうらやましく思いました。

 中学生の時、同級のtくんとこの「せんこう花火」を聴いて「短いな」「短い」「なんかいいよな」「いいよな」としかお互い言えなかったのを思い出しました。中学生のボキャブラリーの限界です。
 短い詞なのに言葉の行間が奥深くて、短い曲なのにメロディがドラマのように展開して、短い曲にもかかわらずサウンドが豊かで情感に溢れている…なんでもないのに〜ああ泣けました。

 石川さんはずいぶん経ってからラジオのインタビューで、アルバム「元気です」のときにスタジオに拓郎と二人だけで入り、ギター、マンドリン、ドブロ、バンジョーあらゆる楽器をチューニングしてズラリと並べて、拓郎と二人で音を重ねていった、拓郎も嬉しそうだったけれど、石川さんもこんなに楽しかったレコード作りはなかったと述懐されていました。この曲もその成果物のひとつと思うと感慨深いです。

 そのレコーディング中、ずっと卓球をしていたという前田仁さんが亡くなった時、多くの関係者の追悼の声を読んでアーティストに愛された名ディレクターだったことをあらためて思い知りました。そういえば80年のNHK-FMの「拓郎105分」の収録当日の明け方まで前田仁さんと倒れるまで飲んでいたという話をしておられましたね。バディ感がいいなぁと勝手に憧れました。そんなお二人が谷山小学校の同級生というご縁は驚きましたし、そこにさらに西郷輝彦さんまでがいたとなるともう鹿児島の堀越学園と言ってもいいでしょう。

 吉屋信子さん、田口淑子さんは市井のリスナーだったかもしれませんが、この言葉運びの世界はあらためて超絶天才と思います。ライナーには「リスナー全国の若者たちも多くの才能が眠っていた」とあります。そこに加藤和彦がいたように、そこに吉田拓郎さんがいてラジオがあったこと、だからこそ歴史が見逃さなかったのだと思います。来るべきラジオのアルバムの完成を祈っております。
             ご自愛専一に。       謹白
                            星紀行

…手紙が長すぎですね。次回よりもう少し簡潔にします。

2024. 6. 17

 せっかくのAnother Side。一曲一曲とそのライナーノーツに手紙を書こうと思う。
タイトルは「拝啓 吉田拓郎様」…って老舗サイトのパクリだろ…うじゃ「配達されない25通の手紙」…これもどっかにあったかもしれない。それでは「あの人への手紙」…いろいろダメだろ(爆)。ということでタイトルもなく心をこめて手紙を書きたい。

1.どうしてこんなに悲しいんだろう あの時、加藤和彦との出会いがなかったら…僕の音楽人生はどうなって、どこへ向って行ったのか

吉田拓郎様

拝啓 僕はとても残念でした…すまん、避けて通れないお約束だ。

 そうなるとあなたの姿だけ追いかけてきた私の"へ"のような人生もどうなって、どこへ向って行ったのか、と不遜にも考えてしまいます。

 加藤和彦さんがJ-45を見つけてくれた話はもはや伝説ですが、具体的にお二人の間でどのような会話がなされ、どのような顛末で届けられたのかはこのライナーノーツで初めて知りました。映画「トノバン」を観たばかりなので、あのヒョロッとした若い加藤和彦がエレックを訪れて拓郎さんの前でギターを弾いてみせている絵が浮かびました。
 この「どうしてこんなに悲しいんだろう」を聴きながら、加藤和彦さんが亡くなった時の追悼のラジオで、松任谷さんのピアノにつづく加藤和彦のギターのテクニックのうまさを絶賛していたことを思い出します。そのまま、この時のレコーディングの斬新さに目を開かれた話を熱心に語っておられました。
 私もずっと加藤和彦さんが、拓郎さんをフォークソング業界の不遇な片隅から連れ出してくれた恩人と思っていました。恩人の恩人はもはや偉人としか言えますまい。しかし、加藤和彦のサディスティックミカバンドの復活に寄せた文章にこうあります。


 僕達は、数多くの偶然と幸運が重なって成り立っているのだ
 70年代初頭にロンドンで幸宏に初めて会わなかったら
 拓郎のレコーディングで小原に最初に出会わなかったら
 成毛滋と見に行った「アマチュアなんとか〜」に高中が出ていなかったら
 ロンドンでブライアン・フェリーニ会い、クリス・トーマスを紹介されていなかったら
 …僕達はあの夜NHKホールにいなかった


 加藤和彦さんにとっても、拓郎さんという貴重な原石を見出したこと、高中正義や松任谷正隆という天才を見つけ出したこと、そして彼らを結びつけたことは至福であり、大切な偶然と幸運だったに違いないと勝手ながら思います。要はかつて富澤一誠も珍しく誉めていたあの歌(「街へ」)です。

   時代を変えるのは常に青春で
   老いた常識よりはるかに強く
   例えば嵐に呑み込まれても
   歴史はそれを見逃さないだろう


 結局、たとえあなたが、この世界の片隅のどこにいようと、どんな極北にあろうと、決して歴史は見逃さない。見出されるべくして見出されたのだと思います。貧しく不自由で不遇の極みにいた一少年の野口英世がちゃんと世界に見出されたように、見えない歴史のチカラの法則を「野口英世理論」というらしいですが、たぶんそれです。エラそうに申し訳ありません。そんなお二人の音楽の風景を垣間見れたそれこそが私の人類はしくれとしての幸福でありました。

 そうそうまだ思い出したことがありました。あのギターはもともと西岡たかしのところにあって、それを加藤和彦が貰い受けたという話はホントなんでしょうか。まぁいいや紙が残り少なくなりました。またお手紙します。
                   ご自愛専一に。敬具
                                星紀行

2024. 6. 16

☆☆☆陰に日向に女子高生☆☆☆
 東京ではじめて自分のファンとなってくれた女子高生たちと新宿御苑に行く話は何度かラジオでもしてくれた。いい話だ。しかしエレックの社長からそんなふれあいを反対されたという話、その瞬間にこんな会社やめてやると思ったというくだりは初耳だった。

 そこで思い出すのは、昨年12月1日の日記で取り上げた「ラジオデイズ」の拓郎の話だ。

「売れない頃のミュージシャンを支える女の人って必ずいるでしょ。…有名になると、その人と切れちゃうっていうパターンがあるよね。」
「僕もいましたもん。『結婚しようよ』を出す直前あたりは『帰れ!』が結構あったんですよ。その頃ね、僕を支える女の子がひとりいて、名前も忘れちまったけども、僕のレコードが売れた瞬間に忽然とね、姿を消したんですよ。高校3年生だったですね。それはもうホントに陰になり日向になり、支えてくれてるなって気がして『東京にこの娘がいてくれれば俺、大丈夫かな』っていうのが、あったね。」
「その娘が例えば『結婚しようよ』みたいな詞を書いた時に『こういう明るいのってイイかもしれないね』とか言うと、そうか…っていう気になって、何万人が「帰れ」って言っても怖くないっていう」


 拓郎の告白に、武田鉄矢が
「歌っていうのはたった一人、よき理解者である女性がいれば成立する世界なんですね。」
とめずらしく的確なリアクションをした(爆)。失礼だろ。

 女子高生ファンとの交流を禁止されたからエレックをやめようと思ったという言い方は
ともするとなんかいかにも"ナンパ"で"軽い"印象にとられがちだが、この拓郎のかつての語りとあわせて考えると、もっと拓郎の心の奥底にかかわる切実なことだったのではないかと思えてくる。大切な理解者のことを無神経に踏みにじるようなことを拓郎は何より嫌う。おまえに拓郎の何がわかるかと言われても、そんなことは歌を聴いていればわかるんだよ!

 みずから姿を見せなくなった女子高生の心はいかばかりか。そちらから電話を切ったから君はもっと他のことも言おうとしてたんだろう。そちらから姿を消したからこそ、いろんなあふるる思いがあったのだろう。今はあの"花嫁になる君に"のあの歌詞がとてもよくわかるよ。私も少しオトナになった…ってもう老人だろ。

 そういえは安井かずみは、きっと岡本おさみの歌詞を酷評したんだろうな…なんとなく察しがつく(爆)

 あとさ「春だったね」という詞のすごさをあらためて思うよ。あれは、女子高生のリスナーの投稿かもしれないけれど、あんな詞は100年に一度しかないような、もう神様が作らせたとしか思えない。若きよしだたくろうに起きたひとつの奇跡ということで。まとめてどうする。

 

2024. 6. 15

オールナイトニッポンゴールドのあらすじ
 2024.6.15 吉田、アルバムつくるってよ 

脚本裁断事件
 ご無沙汰しました吉田拓郎です。コロナの時二年間自宅で録音していたとき、何を話すか自分で台本を作っていた。今回もライターではなく自分で作りたいとメモを持ってきた。エイベックスのディレクター竹林君に会った瞬間に自宅からゴミも一緒に持ってきたのでこれを処分してくれ、自宅では捨てにくいのでとお願いしたら、すぐ実行してくれる人なので一分も経たないうちに裁断してくれた。そのあとすぐに台本がない、廃棄物の中に入っていたことに気が付いた。「馬鹿野郎、竹林」、冨山もみんなで張り合わせること五時間。やっとよみがえった。番組の三倍くらいの時間をかけた。それだけで感激して涙が出た。
 ここにその台本が再現されている。それには「ご無沙汰です吉田拓郎」と書いてある。

 冨山が届けてくるクリームソーダが抜群にうまい。どこのだ。いつもは垣花のまずいものなのに。

早朝の異景
 早朝ゴミ捨てに行く習慣になっている。生ごみ、燃えない、プラスチックとゴミを分別してそこから外に出て5分から10分くらいウォーキングする習慣ができた。近所は緑ゆたかなので、いい空気を肺に入れて「Hi!」(笑)。

 そこで僕が観た世間の景色を話したい。僕にとっては不思議。朝八時半、幼稚園が二つくらいある。子供たちを手をひいて連れたパパがスーツ着た景色に出くわす。こういう風景はあまり見たことがなかった。

 チャリで子どもを幼稚園に届けるママ。自転車の前と後ろに乗っているのもある。チャりがすべて電動。子どもを幼稚園に届けている。パパは子どもを連れて、ママは自転車で届けて帰る。坂道なのかな。
 こういうのは俺の時にはなかった。ママチャリに二人乗っけてビニールシートでガードされている。毎朝、そういうのがたくさん走っているとここは何処かと思う。
僕の子どものころはあり得なかった。
 家内・・・佳代じゃなくて家内だって、どうかない(笑)と話すと結局「時代は変わったんだろうね」ということになる。

 ゴミ捨て場の風景もあんなに細かく分けなくてはいけないことはなかった。現代はどうなの。例えば歯磨き粉のチューブ、蓋はプラスチックとチューブはどっちだろう。残った中味はどうなの? 管理人に相談する。東京に来た時はひと袋でポンと捨てていた。もちろん地球環境のためとはいえ、あそこまで細かくしなくてはならないのか。うちのマンションでもゴミ捨てはだいたいお父さん。奥さんと会わない。すげーな。

タイトルコール
 いろんなことの景色が変わったなということで今日も自由気ままにお送りしたい<吉田拓郎のオールナイトニッポンゴールド>

僕がエレックを辞めた理由
 広島から東京に来て、東京中心の音楽でいいのかというテーマというかだいそれた夢を持っていた。それでも生きてみなけりゃ、やってみなきゃわからないという楽観主義に押されて、友だちの車で上京して最初にマイナーな会社入って心身で疲労する不安な毎日となった。その頃にたった三回だったけれど、マンスリーコンサートというのを会社がやらせた。三か月やって、四か月目には持ち歌がそんなにないというのでやめた。

 1回目が紀伊国屋ホール・・・まだあるのかな。2回目がホール安田生命、どっちもキャパ200〜300名くらいかな。3回目が新宿厚生年金会館の小ホール。これで400人くらいかな。最初のチケットは会社の連中がタダでばらまいた。誰も吉田拓郎のことなんて知らなかった。そこで面白いと思った人が第2回のチケット買ってくれるようになって、そして3回目になると拍手が違ってきた。「拓郎〜」と言う女の子のかけ声と熱い拍手が起きるようになった。「あ、俺のことわかっているな」ということで俗にいう所の人気が出てきた。3回目のチケットが売り切れ「ファン」が出来つつあった。吉田拓郎に興味を持ったのは女子高生だった。当時の女子高生10人くらいの固定のグループが、当時、四谷三丁目に訪ねてくるようになった。社長らも嬉しく思って、もちろん 僕も気持ちが喜んで嬉しかった。彼女らと親しく話すようになって新宿御苑という素敵な公園に出かけて、10人くらいの女の子とくっちゃべってギターで歌ったりした。

 ♪喫茶店に彼女と二人で入ってコーヒーを注文することああそれが青春

 彼女達も喜んでくれて「ファンクラブを作ろうか」と言ってくれた。広島では人気があったけど東京ではさっぱりだったから、嬉しくて、新宿御苑で時々集まるようになった

 ある時に社長から話があると言われて、おまえはこれからヒットシンガーを目指しているんだろう、当分は女の事は忘れろ、あんなふうに女の子と会うことは控えろ、音楽だけに専念しろといわれた。ここ2〜3年は女子禁制だと。その瞬間、この会社やめようと思った(笑)。世間的には音楽的なこと、音楽わかってくれない、変なミュージシャン呼んでくるとかいい音楽が出来ない、そういうことをメインにしているが実は女人禁制・・・そんなことを言う社長のもとでは働けないということでこのマイナーな会社をやめることになった。

ハワイを祈る
 ご存じのように大好きなハワイだが、愛してやまないマウイのラハイナが全焼、キヘイの町も復活に時間がかかるようだ。なかなかマウイにも行けない悲しい思いをしている。みなさんに是非頑張って欲しいということで、ハワイアンバージョンになっております。

M-1 全部抱きしめて トロピカル  吉田拓郎  

(CM)

<コロナ時代の毎回の佳代さんの声を思い出しましたという投書>

 あと三回くらいありそうだから考えてみる。

<整形はやめてくれ、昔ツアーで濃い化粧はあったけどという投書>
 なんで整形と決めつけるんだ。

また来て幸拓
<坂崎とやるラジオ「幸拓」が楽しみという投書>
 幸拓で坂崎が先でいいのかと当時言われたが、別にいいと思っていた。
 石川鷹彦、今、病気で身体が不自由になっているけれど、先日二人で尋ねた。目の前で漫才をやって鷹彦もすげー喜んでくれて、ご家族もまた来て、「幸拓」で来てと(笑)

生き物たちの進化論
 東京から1000キロの小笠原諸島の話を知った。日本列島と小笠原諸島は離れていたので、島は固有の進化している。動物が日本列島とは違う生き方をしている。例えばウグイスは、小笠原には天敵がいないのでこの環境に特化している。
 ホーホケキョと鳴くところ、小笠原では、スズメのように「チュッ」、またメンドクサイのでホーだけ(笑)そういう暮しをしている。 生き物はそうだよな。僕も鹿児島から広島に来て感化されて鹿児島人間が消えてしまったし、今度は東京きたら広島県人の生き方がわからなくなってしまった。そういうもんだな。進化が違っちゃっている。
スイーツの思い出
<スイーツ会、好きなスイーツは何ですかという投書>
 ショートケーキを買い集めて いろいろ品評しつつ 糖尿を気にしながら続けている。「あんみつ」が好きなんだ。あの寒天。みんな自分で作んな。昔、家でお茶会のときにおふくろに頼まれて作った。寒天を溶かしてみかんやパインや桃の缶詰の身をいれてかき混ぜて冷やす。これがうまいんだよ。お砂糖とかは入れない。果物の甘みで十分。それを冷蔵庫で冷やしておくとうまいよ。あと中華料理の杏仁豆腐・・・好きなんだ。 冨山 あれでもいいぞ。
 なんでこんな甘党になったのか。若いころは大酒のみで甘いもの食べているのを張り倒そうとしていたのに 女子もデザート食べだすと、そんなんじゃなくてもっと飲みに行こうという感じだったのに。先日、篠原と食事に行ったらチョコレートをくれてこれが美味しい。甘いものに目がない。趣味嗜好が変わってきたな。俺って軽いな。

M-2   雨の中で歌った   吉田拓郎

(CM)

ギタリスト礼賛/矢島健
 広島の学生時代。R&Bをメインとするロックバンドを作っていて、どっちかというとギタリストをしていた。ボーカルはMくんだった。何かとサム&デイブとかを歌っていた。うしろで僕はギターを弾いてテクニックを覚えた。グループサウンズではなくて、ちよっとツウぶっていた。岩国の米軍キャンプで好評だった。アコースティックギターではなくて、リッケンバッカーの改造モデルを弾いていた。あのギターどうしたかな。

 東京でソニーに入ってレコーディングが本格的にできるようになっていろんなギタリストに逢うようになってギタリストにいろいろ注文が多かった。ギタリストばかりと仲良くなった。
 一番最初にギタリストとして真価を発揮してくれてテクニックとかメロディメーカーとしても魅せてくれたのが矢島健ということで今もう天国ですが、非常にテクニックがあって小柄でギタリストには見えなくて髪だけは伸ばしてたけど。すごいテクニックがあった。

♪髪と髭を伸ばして

 ちょっと聴いてみようかな。矢島健の不滅のギター。

M-3 ビートルズが教えてくれた   吉田拓郎

 懐かしいツインリード。これはその場で弾いてくれた。あの頃は予備知識なくその場で作ってくれた。今は面倒くさい。鳥山も(笑)

ギタリスト礼賛/高中正義
  文句なしに天才だと思ったのは高中正義だった。当時19歳だったと思うけど、こんなにうまいのか。びっくりした。彼はベースも弾いていた。とにかくフレージングが粘るのが凄く良くて天才的だったな。いろいろな作品で聴けるけれど、彼らの作った例えば「春だったね」の高中のギターのフレーズは今のギタリストもみんなコピーしたくなるくらい。
 アレンジではなくその場でギタリストが作ってくれていたフレーズだから。
 ここ20年だと鳥山と仲良くしているけれど、この鳥山を引き合わせてくれたのが加藤和彦だった。ある日CMソングで加藤に高中を呼んでと頼んだが、忙しかったので来れなくて、高中っぽいギターをオーダーしたらそこに現れたのは鳥山雄司だった。なるほど、当時はまだ高中の域ではなかったが、「ぽいな」と思った。先見の明があったんだね。

トノバンの先見性
 鳥山もそうだが、最初に松任谷正隆、ミッチー林立夫、小原礼もまだ学生だったものを連れてきた。加藤にはそういう先見の明はものすごいものがあった。
 私生活の面ではいろいろ不満あったのだが、もう言わないが、一生秘密、もっとなんとかしろ!というのはあった。

 音楽のブロデューサーとして見つけてくるのは凄かった。

わがこころの青山徹
 もっとも癖の強かった、忘れられないギタリスト、僕はその癖が凄く好きで愛していた。長い人生で忘れられない。青山徹というギタリスト。もともと浜田省吾たちと愛奴と言うグループだったのだが、いろいろあって脱退してフリーのギタリストとして凄い売れっ子になって、青山だとすぐわかるギターだ。
 ある日「拓郎はんもうやめます」とギターをポンと置いて突然やめて広島に帰ってしまった。
 ツアー中に王様達のツアーの頃、ツアー先で僕と青山と中西がムッチャ酒が好き。中西が一番強い 僕と青山はすぐ酔う 酔ってからが長い。酔った時に青山が歌う時歌うのは演歌なんだ。コブシがぐるぐる回る。カラオケで青山あれ歌えとみんなが言うと
歌い始めると涙が出るくらい。うまい。おまえギターじゃなくて歌手になれよというくらい。俺は原曲を知らなかった。その曲を青山が旅先で歌う。大演歌歌歌手大メジャー北島三郎さんの歌だけど、酔った時に聴くとうまいんだっ。泣くよ。ステージのギターなんてもんじゃない。

M-4  ギター仁義      北島三郎

 これなんだよ。想像つかないでしょ。髪と髭を伸ばしていたあの青山がこれを歌うとうまいんだ。これが好きだったな。北島さんよりうまいかもしれない。ライブも楽しかったが、これも楽しかった。

午前0時の街
 ちょっと俺も唄おうかな。これテレビのある番組のテーマソングになっているんけどさ。

 M-5   午前0時の街 (生歌)

 そよぐ風が僕の髪を通りすぎて
 街がいつもの静けさにつつまれる頃
 思うがままに足をはこべば靴音のメロディ−
 やさしいあの娘の店はもう近い

 顔なじみのお酒好きで女好きな
 愛をふりまいて のし歩く あこがれの君
 今夜はどの娘の腰に手をまわしてうかれて踊る
 楽しきかな今宵夜がまわっている

 疲れた街並みに お酒を一滴
 胸のかわきが うるおったなら
 可愛い君を さそってみよう
 闇にまぎれちまえ

 想い出話も聞かせてやりたいが
 時が行くのも何やらおしく くちびる寒い
 心はいらない街にとけこんで男と女
 夜ふけの恋なんて誰かの落とし物

 疲れた街並みに お酒を一滴
 胸のかわきが うるおったなら
 可愛い君を さそってみよう
 闇にまぎれちまえ

 午前0時の街はいかがですか
 似合いの服をえらんで着るように好みの店に
 ブラリと歩けば体も足まかせ今夜をどうぞ
 やさしいあの娘といっしょに待ってます

六本木と言う交差点
 どうだったかな?「午前0時の街」は、場所が六本木がテーマで、かまやつさんが主人公。かまやつさんと一緒に六本木にいることで、文化に触れて良いことも悪いことも。教わることが 東京人に広島人/鹿児島人が刺激になった勉強させられた  
いわゆる人生の交差点を彼が引っ張って行ってくれた。
 原宿しか知らなかった僕に六本木を教えてくれて、かまやつさんのおかげで作詞家の安井かずみがいて、ZUZUの出会いもあった。それは大きくて安井かずみからもいろんなことを教わった。

 当時の相棒の岡本おさみの詞の視点についての彼女からの話も聞いた。なるほどと思った。都内のZUZUが住んでいた高級ラグジュアリーアパートでの深夜パーティ  これがもう空前絶後 この世とは思えない。プールがあって夜中に飛び込む…もう映画の世界だった。
 ZUZUとかまやつひろしから聴いた男と女エピソードや体験を教わってため自分にとってはためになった
 人とももうこの世にはいないけれど今頃二人で遊んでいるでしょう。時々ふと思い出して会いてぇなと思うのはこの二人。

 (CM)

ラジオとの絆
 ニッポン放送は、今年で創立70周年ということだ。ラジオの青春ということで、僕にとっての青春もラジオとともにあった。特に深夜放送をやっていたので、大きな存在だった。
 ラジオからもらった勇気とか涙とか希望とか現実も含めてラジオから助けられたというのは大きな要素だった。

 70年代フォークソングのブームでメディアが突然取材にくるようになった。僕なりに勉強したフォークの説明をする。正直フォークというのはよくわからない。広島時代、アコギも弾いていなかったし、それでも僕なりに勉強して答えた。
 例えばアメリカではボブ・ディランがシンガーソングライターとして若者たちを引っ張っている。新しいリーダーになっている。そういう話をしたのに、雑誌には雑誌に載っていない
 なぜなの?一生懸命に熱弁ふるったのに吉田拓郎のプライベートの話ばかり。ディランのことを書けよ。一生懸命話しても無駄になってしまう。そういうことから、だんだん嫌気がさしてきて取材拒否をするようになった。するとマスコミが自分の敵となった。非常に良くない印象を持ち始めた。
 ヨーロッパでパリの空港で撮影があったが、いちいちあの場所でこういうポーズでと注文されたので、そんな好き勝手しているところを勝手に撮ってくれよと言った。するとカメラマンが、コラおまえな、みんなの有名人がパリに来たらそうして写真撮って有名になっているんだから、そうしろよ、と言われてぶざけるなとケンカになった。結局、写真は撮らせなかった。
 ローマの和食レストランで、自分はあまり美味しくないのでそう言うと、あんた誰?  ここはメディアの人がたくさんくる、みんな美味しいって言ってるよと、あんたも美味しいと言わなきゃダメだよ。
 なのでヨーロッパは印象が悪い。芽の出てきたフォークというものをバカにしまくっている。

 ニッポン放送、バイタリスフォークビレッジ、TBSバックインミュージックの深夜放送ゆやるようになってラジオの生放送を信用するようになった。生放送だし、嘘をついたらばれるし。ラジオで本当のことを話すことにした。そういうラジオが好きになって、ラジオとの関係を大事にするようになった。そうなると他のメディアから総スカンとなった。
 その後ある事件にまきこまれて、また私生活を破壊してしまったこともあったが、
それをボロクソに書かれた。あいつをやっけよう。シロだとわかっても誰もフォローしない。ラジオが一番の救いの場所だった

 家庭が壊れた時に、悪意あるメディアがたくさんいたので、当時のディレクターの中川さんに、記者会見いやなのでラジオですべて本当のことを話したい、そのかわりこれを最後に番組はやめるからと頼んだ。
 すると中川さんがやめていいよ、言いたいこと言って、あとは俺に任せてと言ってくれた。いろんなことがあって家庭を破壊してしまいますと話して放送が終わってそのまま逃げるように家に帰ったけれど、それから中川さん取材陣に囲まれてえらい目にあったと言われた。
 だからラジオが俺を助けてくれた。だから宝物だった。そもそも広島でラジオはFENで音楽を知った。ラジオが青春だった。テレビじゃないの。だからテレビに出なくてもいいし、ラジオで音楽がかかればいい。

 ラジオと付き合いながら来た。ラジオは友達だし、そのラジオに対して何か歌をつくりたい、70周年にラジオと僕との思い出のために作っている。

吉田、募集やめるってよ
 みなさんにも詞を募集した、みなさん「春だったね」のような詞が書けませんか、あれはTBSのパックインミュージックで来ていたある女の子の詞だった。
 ですが、みんなの詞を全部読んだ。読んだんですが。例えば「やさしい ラジオ」 さとしくんという人の詞。長すぎる。ブログみたいに長い。みんなとめどもなく長い。時代も変わったんだから。こいつの詞にいいフレーズがある。

 机の右にあるラジオ

 あのころひとりできいていた

 寂しがりやが聴いていた

 もう聴かなくても平気だね

 机の右にあるラジオ

いいフレーズだね。でも前後がとてつもなく長い。惜しいな。補作して俺がつくろうかな。

 ピカデリー沖縄と言う人の「名もない橋まで」。これもイイの。だけどオマエの歌も長いのなんの。

 君にいつ告白したかなんてまったく覚えていない

 君にあげたカセットに誰の曲が入っていたかまったく覚えていない

 名もない橋の手すりにもたれて 君と何を話したかも覚えていない

 ウチに帰ってごはんを食べて君にダイヤルしたけど何を話したかも覚えていない

 約束に遅れてどうやって謝ったかも覚えていない

 彼女のいろんなことを走馬灯のようになんも覚えていない  

 これは目のつけどころはいいよ、面白いよ。でも惜しいんです。前後が長くてフレーズを中心に前後短くまとめてほしい・もう時間的に無理です。みんな却下です。長いんだよ おまえら。

アルバム構想
 こんどのアルバムのレコーディングがいよいよ始まる。必ず入れたいのが、「バイタリスフォークビレッジのテーマソング」。当時は1番か2番しかなかった。そのあとに3番まで作って、他のCMソングとあわせて鳥山とレコーディングした。しかし、バイタリスフォークビレッジ単体で4、5番も作って今のサウンドにしてもう一回レコーディングしたい。

 「ぷらいべえと」で青山徹がギターの「夜霧よ今夜も有難う」・・・浜口庫之助さんが作りましたがこれをカバーした。ああいうのをカバー一曲したい。旅先で必ず歌う。

 ♪生きてる限りは どこまでも

 (鼓舞し回さず、「骨まで愛して」をロックバージョンで歌う)。後ろに僕のコーラスをつけて楽しいアレンジにしたい。

 新曲も作ります。かつて加藤和彦に詞だけ書いた「5月の風」という作品だが、加藤和彦が僕の詞とあっていない。当時加藤に、こういうの?と聞くと、こういうのしかできないということだった。ということで「5月の風パートU」ということで詞も曲も書き換えて作りたい。

 いろいろアイデアがあるので楽しみだ。近々発売したい、このラジオでも聴いてもらいたい。

あいみょんのシャッフル
 それから時代が変わってしまって日本のテレビって面白くない。誰かとやりとりするのに同年代の人はいない。メールも使わない。ショートメッセージとかライン。ショートメッセージを使うのが、菅田将暉、 あいみょん、堂本光一それと篠原ともえ。先日は、篠原と光一とはゆうごはんを朝までたべたけど。

 あいみょんが変わった曲を作った。おもしろいことやったねとメールした。リズムでいうと4拍子、3拍子、16拍子。そしてレゲエのリズム。
 3拍子  (吉田町の唄)   こういうのはない。若い人はつくらない。
 16拍子  バラードも作らない。
 今の人はヒップホップのダンサブルなものばかりだ。なのにあいみょんが新譜を送ってくると、いわゆるシャッフルのリズム。楽しいリズムでこれを使っている人は今殆どいない。おまけにあいみょんはその中に楽器としてバンジョーを使っている。
 シャッフルとバンジョー。これは6-70年代のアメリカンのカントリーだよ。
 あいみょんのシャッフル+バンジョーを聴いてベッドに倒れた。「わーやりやがったー」とすぐにあいみょんにメールした。すぐに「ベッドに倒れた拓郎さんが好きです」というメールが来た。夏だしあいみょんとビール飲みに行きたいな

M-6  眠い    あいみょん

(CM)
俺が愛した韓流
 最近テレビが、面白くない。ついついネットに行ってしまう。我が家もそう。連ドラはあまり見ないが、佳代さんが出ている関係で観ていたクドカンは面白い。映画は昔から好きだけれど、ハリウッド映画も最近は面白くない。例えば「バービー」、ライアンゴズリングも出ていたけれどあんまり面白くない。

 かつて韓流ブーム、おばさんたちが大騒ぎするヨン様ブームがあったけど、何がヨン様だ、こっちは拓様がいるじゃないかと、わりとセンス悪いなと思って観ていた。最近、大いなる反省、おばさんたちはなんて先見の明があったのか。

 韓国ドラマ、映画、音楽という韓流エンタメが凄い。二人で朝からいろいろ探して観ている。夫婦で一日中、韓流の話になっている。寝る時も明日何見ようかという話をしている。皆さんにもおすすめしたい。韓流なんてと言ってるのは、だいたい頑固で意地っ張りの人だよ。

行きつけのヘアサロンの女性から騙されたとおもって観て欲しいといこうとで推薦されたドラマ「梨泰院クラス」。これは日本でも「六本木クラス」ということでドラマ化された。日本が韓国をマねているんだよ。これは想像できなかった。負けを認めたくなかった。

 オープニングで、大金持ちのバカ息子がおとなしい子をイジメている。主人公がその
バカ息子をやっける。バカ息子のお父さんが主人公の父に「土下座しろ」という。
主人公の父は自分の息子は間違っていない、土下座はしないと断るが、その父がバカ息子の運転に轢き殺される。・・・バカ息子とその父親に仕返しをする。全16話のドラマ。

 主演のパク・ソジュンが好きで、吉田パク郎と呼んで欲しい。

 その出演映画でサッカーがテーマの映画「ドリーム ねらえ人生逆転ゴール」という
ブラジルでホームレスのサッカーチームの実話映画。面白かった。

 映画「七番房の奇跡」これは泣かされる。最初から最後まで泣かせる。

 国家権力が間違って実刑となった男と小さい娘との物語。獄中の仲間がなんとか娘と会わせてやろう。いいやつなんだ、その娘が弁護士になって父の無罪を晴らす。これが涙無くして観れるかよ。

 あり得ない話だけれど、あり得ないからこそエンタメだと思う。日活映画で石原裕次郎が出る映画もあり得ない話から楽しかったけれど。あまりにリアルになってしまう。「不適切にもほどがある」というクドカンのドラマがあったけれど、今の時代はテレビがこういうことを言ったらいかん、こういうテーマはいかんということでドラマが作りにくい現実があると言っていた。それが韓国にはないのではないか。あれだけ国家権力をボロクソにいうドラマが作れるか? 無理だよね。エンタメ王国ハリウッドが勝てないものを作っている。騙されているかもしれないけど遅れてきた韓流ブームだ。

 (CM)

旧友再会
 広島でギター教室をやっていたときスリーフィンガーとか弾けなかった。東京へ来てもフォークと事務所を作ったりしたけど、やっぱりR&Bが好きだった。
例えば、事務所も一緒に作ったけど南こうせつ・・・神田川、妹、赤ちょうちん・・・暗いな。好きじゃない。
 実は、それでも70年代のある曲にハマっている。いま生きていたらどうやってパクったんだといいたいが、どこからもパクっていない。
 正真正銘いい曲だ。詞が凄いというより、このメロディーをよく作ったな。大ヒットしたのもわかる。その頃は高く評価していなかった。いい曲作っているじゃない。今は天国いるけれど、あれいい曲だな、アルバムに入れると思ったら大間違い。寝る前に必ず  これを聴いている。

M-7 岬めぐり   山本コウタローとウィークエンド

エンディング 次回は幸拓 

 長かった全国ツアーが終わったけれど全国各地を知ることができた
札幌ラーメンうまいなと思った。長崎の皿うどん、チャンポン、東北に行くと炉端焼きホッケがうまいな
 沖縄の島焼酎…シークワーサーを入れなければ二日酔いしないと信じて
次の日にステージ出られなくて、座って歌った。
関東のうどん。  関西だと透明なのにまっくろでうどんが見えないのにのびっくりした
いい思い出だ

 これから僕の人生の中ではハワイ、マウイにもう一度だけ行きたいと思っている。


 次回は幸拓。11年ぶり。石川鷹彦のご家族も拍手して喜んだ。僕の番組で3年9か月の史上最長記録。松田聖子の知らない曲を歌ったり、どうしようもない、とにかく楽しみの反面、なんでやんなくてはならないんだという気もする。とにかく坂崎は、そのあとどこで飲むんですか?とかメールがうるさい。なんか一緒にいようとするのが気持ち悪い。
 最後の曲は、いま好きなテイラー・スイフトとエド・シーラン

M-8   エヴリシング・ハズ・チェンジド  エド・シーラン、テイラー・スウィフト

☆☆☆思いつきと感想☆☆☆☆☆☆

☆ご無沙汰も何もいきなり竹林君が可哀そうだ。そのうえシュレッダーの復元て、警察か国税の査察か。凄い。

☆そうか高級住宅街では珍しい光景なのか。一般Pにとっては、子どもの手をひき、チャリで町を駆け巡る、あまりにあたりまえすぎる光景だ。下町の蒲田あたりに来てみろ、チャリ同志のデッドヒートしたり、登園が嫌で父の手を振りほどいて脱走する子どもたちがいたりとマッドマックスのような光景が観られるぞ。

☆それにしてもお元気そうで何よりだった。何より「朝まで夕食を食べた」「夏だからビールを飲みたい」こんな言葉は久しく聞けなかった。心身のフットワークの軽さを感じる。

☆韓流がどうというより、韓流にここまで心酔できること、またあいみょんのシャッフルで思わずベッドに倒れてしまうというそのみずみずしいまでの感性がすばらしい。すばらしく元気である。

☆幸拓復活か。石川鷹彦さんのお話も嬉しかった。昨年の大晦日に国技館で、石川鷹彦さんとご家族のお姿を拝して、雨畑が「拓郎さんをよろしく」と言う声かけに皆さん笑っていただいた、あの姿が忘れられないので感激ひとしおだ。幸拓でまた来てくださいって(笑)

☆坂崎君と一緒だと拓郎はまた別のスイッチがONになる。南こうせつを前にしたときに入るようなスイッチだ。結構これが大きいのだ。それも楽しみだ。

☆「午前0時の街」…ついに即興とはいえはじめて違うバージョンが出来た。すんばらしい。町中華に足を向けて寝られない。しかし、せっかく唄ってくれたことは心の底から感謝するが…もうちょっとちゃんと唄ってみようか(爆)、もう少し頑張ってもいいぞ!!

☆確かに、あのときはあまり考えなかったが、中川さんはじめあの時代のラジオ関係者のある種の気骨はすばらしいと思う。マスコミの多くが忖度と提灯持ちのようになってしまった現在に「あとは俺にまかせて自由に話せ」といえるメディアはあるのだろうか。そのすばらしさも是非音楽にしてほしい。

☆そうかみんな応募していたのか。ま、俺が応募していても速攻で没だったことは明らかだ。紹介された詞は確かに面白い詞だった。心に響いたフレーズならご本人たちにリライトして貰えばいいのではないか。とにかく御大のこれから書かれる詞はどうなんだ…頼むぞ。

☆老舗の先達が、今回のライナーノーツで青山への愛を確認していちはやく指摘していたが、まさに青山を愛していたと明言した。そりゃ嬉しい。
 それ以上に、山本コウタローの復権が嬉しかった。良かったな。何があったのかはわからない。こうしてコウタローが拓郎の中で再評価される。寝る前に毎日聴いているとは天国で喜んでおられよう。

☆ハワイに行けますよう、マウイが1日も早く復活しますよう祈っております。

☆あんみつかぁ、加賀まりこ行きつけの老舗神楽坂「紀ノ善」は閉じちゃったしな。

☆☆☆今日の学び☆☆☆
 もはや吉田拓郎は引退したり、隠居リタイアした人ではなく。自由に歩きだしている。老いたりとはいえ、その自由な感性で動いているのだ。爺さんを静かに見届ける態勢に入ろうと思っていたが、とんでもねぇ、古いのはこっち=私やこのサイトの方だ。うかうかしているとこっちが置き去りにされるな。ということで元気を出してまいりましょう。

2024. 6. 13

☆☆☆豪華化粧箱入出来☆☆☆
 豪華箱盤の装丁からして素晴らしい。これがかつてあの試供品のような手抜きジャケットの「ザ・ベスト・ペニーレイン」を作った会社だろうか。とにかく嬉しい。
 「FromT」も素晴らしいベスト盤だったが「FromT」になくて「Another Side」にあるもの。それは写真集。初見の魅力的な写真が満載だ。これだけで気分があがる。爺の夢は身体を離れ故郷のような日々をさまよう。こんなに写真があるんだったら、いつも同じ写真ばかりでなくもっともっといろいろ使ってほしかった。吉田拓郎はビジュアル系のアイドルであることを忘れてほしくない。個人的には81年の体育館の初見写真たちが嬉しい。もっと個人的には、フォーライフ社長になって篠島で復活するまでの'77〜78あたりの雌伏の時の写真たちが好きだ。特に2010年のTAKURO展で買って毎朝祈りを捧げているご尊影のパネルと同じ写真が胸アツだ。
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 ベスト盤についてはいろいろ意見はあろうが、これはコメンタリティーのついたディレクターズカット盤の映画みたいなものか。「FromT」とこの「Another Side」は、選曲、曲順、ライナーまで渾然となったひとつの作品のようにガチで訴えかけてくるものがある。私としては、知ってる、何回も聞いた、を脇に置いてゼロの気分でいきたい。しょせんは音楽という冥土の旅の一里塚じゃあないの。

 それにしてもこのライナーノーツ、誰か朗読してくれないかな。Youtubeで就寝前に聴いている小川未明の朗読番組のアナウンサー窪田等さんとか(知らんよね)。落ち着いた声で静かにライナーを読みあげてもらってそれにつづけて曲を聴きたい。そして恍惚と眠りたい>寝るのかよっ!

2024. 6. 12

☆☆☆心が届いた☆☆☆
 置き配には一瞬肝を冷やしたが無事に手に入った。特にカラスと野良猫という宿敵も行き交うのがわが玄関先だ。安堵。考えてみれば人生とは運命という置き配の連続のようものではないだろうか>意味わかんねぇよ。
 美しい音源、初物も多い写真集、そして拓郎本人が書くUramado(おい!)とこのベストアルバムはガチ勢に向かっての吉田拓郎からの置き配みたいなものかもしれん。取るも取らないもあなた次第。お客さん、もうすぐ初夏が来ますね。とりあえず銀の河で踊ろうじゃないか。
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2024. 6. 11

⭐︎⭐︎⭐︎おきざりにした悲しみは⭐︎⭐︎⭐︎
 置き配の写真届きて わが心 乱れに乱れ もうすぐ帰るよ
[解題]
 好きな歌手のアルバムが、はからずも置き配で届いてしまい、早く聴きたい、盗まれたらどうしよう、早く帰らなきゃ、と乱れる心根を謳った作品である。
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2024. 6. 10

☆☆☆感激のテーマ☆☆☆
 あまりに感動して「俺たちの勲章のテーマ」を繰り返し繰り返し観てしまった。原曲を邪魔しないように添えられる松本孝弘の独自のギターワークがまたたまらない。Bravo!!このテーマが「あゝ青春」とは全く独立したスタンダードであることをあらためて確認させてくれた。俺たちの勲章のテーマが細胞分裂するように両曲が生まれそれぞれの旅をしている。この名曲の旅路が誇らしい…観ながら仕事のレジュメ作っていたら手につかずこんな図を作っていた(爆)
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 この図、試験に出るから覚えろと若者たちを脅してやろかいな>ヤメロ!最低だよ!

 そして松本氏のギターを聴きながら詮無く思ってしまうのだ。頼む。あゝ、この感じで「ローンウルフのテーマ」,「黒いウルフのバラード」を弾き倒してくれまいか。

2024. 6. 9

☆☆☆ああ青春は燃える陽炎か☆☆☆
 いろいろ悩んだ末、アナザーサイドの予約を完了した。遅い。ホントは予約しないでフラリとレコード店に入り「すみません、吉田拓郎の新作ありますか?」とわざとらしく尋ねて「あ、あれが拓郎の新作だ。アナザーサイドだ。…ください!」という粋でいなせなファンを演じたかったのだが>バカなのか やはり特典に目がくらんで予約した。予約したお友だちのみなさんはどの特典を選びましたか。

 かくしてアルバムもライナーもそしてラジオも静かに待つだけとなった。

 昨日のシオノギ「ミュージックフェア」。B'zの松本孝弘の"俺たちの勲章のテーマ"。いやあ、泣きそう。ギターの音色に涙しながら、やっぱり吉田拓郎は天才だよなと確信する。それにしてもインストなんだし「作詞 松本隆」は要るのか。もう何も考えまい。愛することのわずらわしささえ。この魂にしみとおるような演奏を抱きしめよう。

 ではみなさま良い初夏をお迎えください。

2024. 6. 8

☆☆☆会いに行くのにU☆☆☆
 吉田ルイ子さんのご冥福をお祈りします。写真家としてご高名のようだが、あの映画「刑事物語」の同時上映だった映画「ロングラン」の監督をされていた。主演は永島敏行。当時まだ森下愛子さんとご結婚前の吉田拓郎は永島敏行のことを大変嫌っておられた。理由は共演が多すぎて羨ましいというただそれだけのことだった(爆)。その彼が独りでアメリカ大陸をローラースケートでひたすら走るというロードムービーにもほどがある映画だった。「刑事物語」の最後の「唇をかみしめて」のあのシーンを何度でも観たかった俺は、その分何度もローラースケートの永島敏行を観なくてはならなかった。
 ところで私の老母の昔話で学生時代に同級生だった吉田ルイ子さんと一緒にデパートにアルバイトに行った「ルイ子さん話」をときどき聞かされていた。そこにチラ、チラと石原裕次郎が出てくるのだが、ホンマかいなと思う。それはそれとして。しかし同級だったルイ子さんの亡くなった原因が「老衰」と読むとぞわっとした気持ちになる。しばらく足が遠のいていた実家に帰ってみるかなという気分になった。帰るときっとまたいろいろとむかつくに違いないのだが(爆)
 ああ、そうだ「ロングラン」の主題歌は悲しいけどいい曲だったな。時任三郎の「ウェディングリバー」だ。♪朝からの雨が俺を昨日に走らせる…

2024. 6. 7

☆☆☆さよーなら、またいつか☆☆☆
 NHK「虎に翼」は激熱で観ているのだが、これについて言い始めると止まらなくなるので控えてきた。かといってこの魂の共感を語りあえる人や場所があるわけでなし。
 「確かに私は家制度に守られてきましたが、個人の尊厳を抜きにした保護は大きなお世話です」…寅子、よく言った。「個人の尊厳を抜きにした保護は大きなお世話」…たぶん吉田拓郎はこのことを手を変え品を変え歌い続けているといっても過言ではない。過言かもしれないがたぶん殆どそうである(爆)。そんなふうに僕は思う。

 恩師であり恩人である穂積重遠先生。普通のドラマのように100%の完全な人格者とは描かず、差別の残滓や凡庸な悪から自由ではないところを残しているところがいい。彼ほどの素晴らしい人間にも拭いきれない差別意識が残っている。いわんやおや…と身に詰まされる。

 そして今ココ→花岡…おまえだったのか。いや、あなたでしたか。言葉がない。
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 個人の自由も尊厳もどうしようもない絶望と悲しみの中から立ち上ってくるものなのだということをあらためて教えてくれる。

   安らぎのない旅を終えた 見知らぬ若者よ
   愛に飢えた獣のように牙をむかないで
   今日からおまえのからだはおまえ自身のものだ
   今日からおまえの心はおまえのからだに戻るさ
   もう争はないで もう戦わないで
   そう自由の風に酔え そうすべてを解き放て

 今日の自分だけのテーマ曲。

2024. 6. 6

☆☆☆会いに行くのに☆☆☆
 それにしても医療ドラマが多すぎといいながらもドラマ「アンメット-ある脳外科医の日記」を観てしまう。…交通事故後、常に記憶が一日で消えてしまうという不幸を背負い込んだ脳外科医。杉咲花、安定の名演だ。
 「私が記憶障害になってひとつだけ良かったのは、記憶の蓄積がないだけ今の気持がよくわかることです」
 刺さる。その直後、田家さんのラジオのAnother side of Takuro Yoshidaの特集を聴きながらもそのセリフが頭から離れなかった。そんなふうにAnother side を聴いてみようじゃないの。今さらネタバレもありますまい、どこまで深く味わえるかがすべてどす。紹介を聴きながら垣間見えるライナーノーツが楽しみになってきた。記憶の蓄積なんぞは横に置いて、曲とライナーを行きつ戻りつしながら、聴きこんでみよう、読みこんでみようじゃないの。

2024. 6. 5

☆☆☆幸せな結末きっと見つける☆☆☆
 昨日は言い過ぎた。同じ吉田拓郎でも1位はあれだろう、これだろうと同志の異論があるかもしれない。いやファンたるもの最新作こそ最高傑作であるという見識もあろう。どれもごもっともだ。この点について同志と議論するつもりはない。なので訂正したい。みんな同率一位としたうえで10位くらいじゃダメですか?>そろそろ怒られるぞ。すまん。
 永い廃盤期間から満を持して再発売されたのが2022年。私は愛で方が足りなかったかもしれない。愛しても,愛しても,愛しても,愛しても,愛しすぎることはない。50周年の今年老人は何かをせずにはいられない。何をしていいのかわからないが。
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 とはいえ光一くんのインスタのあの幸せそうな笑顔を観ていると、もういい、もう静かに眺めているだけでいい、それだけでいい…かとも思う。

2024. 6. 4

☆☆☆誤解なきように☆☆☆
 私は決してアンチ「はっびいえんど」ではない。むしろ逆だ。自分ごときが言うまでもない神のごときミュージシャンたちを心の底から尊崇している端くれだ。音痴ではあるが昔からカラオケの十八番はずっと大瀧詠一だ>知らねぇよ 
 ただ「はっぴいえんど」🟰「風街ろまん」🟰「JPOP/邦楽史上最高の名盤」という風潮にちょっと言いたいだけだ。
 名盤だけど2位じゃダメなんですか?だってそうじゃん。例えば最近ようやく廃盤から再発になった、お兄さんがアンプに腰かけているジャケットのあのアルバムを凌ぐとはとても思えんのだよ。

2024. 6. 3

☆☆☆この道が大好きだから☆☆☆
 田家秀樹とスージー鈴木の対談記事を読む。かねがね音楽評論家であるスージー氏の慧眼に感服していた。思っていたより若い、後輩なんだな。しかし当たり前だがそのプロとしての見識と面白さには平伏するばかりだ。
 最近彼の発言や文章を読むたびに彼の中での吉田拓郎に対する評価が高まり深まってゆく気がしていたが、ことここに至れりという感じだ。
 「世の中に残した功績が語られていないというギャップの度合いは吉田拓郎が一番大きいと思います。あれだけ多くの人にギターを持たせて、あの歌い方を発明して。」
 ありがとうございます第1位に選定していただき。それになにより以前から「はっぴいえんど史観」に疑問を投げかけているところも胸アツである(爆)。…とはいえお好きだったのか…いや、だからこそ説得力がある。
 ともかく先日の田家&重松のシンポジウムといい、この対談といい、最近孤独になりかけていたこの道をゆくものに元気と勇気をいただいた。どんな道だよ。

2024. 6. 2

☆☆☆don't worryと言ってくれる人☆☆☆
 80年代のバブル経済の隆盛とともに一線を退いていった吉田拓郎とそこからまさに栄誉栄華の世界に突入したユーミン。眩しかったですわ。そのあたりで筑紫哲也による「若者たちの神々」のインタビューでユーミンは、こんなふうに拓郎のことを語った。
 「同じことをしているのだけど拓郎はその社会の時代によって、もの凄くアグレッシブに見えたり、反対にもの凄く低迷しているように見えたりする。頑張ってほしいけどね。」(記憶だけで引用しているので少し不正確かもしれない)
 2〜3年前のオールナイトニッポンゴールドのユーミン特集で拓郎は意外にも「守ってあげたい」をベスト曲に選んだ。いわく自分が辛かった時「悩まなくてもいいのよ」と歌いかけてくれた気がしたからというものだった。

 神々のインタビュー発言と悩まなくていいのよと聴こえた守ってあげたい…関係しているかどうかはわからないが、自分の中ではなんとなくつながった気がした。何の確証もないので自分の中だけでつなげただけだ。

 後年になって薬師丸ひろ子が「守ってあげたい」をカバーしたけれどこれが最高で、これを聴くと俺にも「悩まなくていいのよ」と歌いかけてくれているような気になる>おめぇの話はいいんだよ

 インタビューといえば、昔、吉見佑子が雑誌の企画でユーミンに対談をオファーしたらユーミンが「対談じゃなくてインタビューだろ」とクレームした話、俺すごく好き。レスペクトという言葉が氾濫しているけれど、ホントのレスペクトというものはそんなにはない(当サイト調べ)。だいたいが政治と経済のツールにしか思えない。

2024. 6. 1

☆☆☆トノバン☆☆☆
 映画「トノバン」。不世出の天才。超絶なカッコよさ。次々に多くの天才ミュージシャンを見出し、惜しむことなく手を差し伸べる。そもそも推しの恩人はこちらにとっても大恩人である。仰ぎ見るように観て胸に刻んだ。ついでに小学校1年の時、家に下宿していた浪人生の親戚の兄さんが、コレが「帰ってきたヨッパライ」の次の歌だよと買ってきたばかりの「悲しくてやりきれない」を聴いていた姿を思い出した。B面の「コブのないラクダ」がメッチャ怖かったのも思い出したよ。そんなことはいい。
 それにしても…この映画を観てもよくわからない。ものすごい才能と卓抜したセンスを持ったこの人はいったいどういう人で、何をしようとしたかったのか。なんであんな悲しい言葉を残して去って行ったのか。映画の深浅の焦点が定まっていないからか、常人にははかりしれない謎の人だからなのか。もう少し違う方向からの光も当てた方がより良かったような気もする。んまぁ俺ごときにはわからなくて当然なのかもしれない。ただ北山先生のミュータントと言う表現が一番よくわかった。あと映画にはなかったが、亡くなった直後に拓郎がこうせつに言った言葉は、ちょっと物議もあったが、拓郎の言うとおりかもしれないとも思った。

 この映画の最後はどうしたもんだか。前後左右の見知らぬオジオバ、涙すするか、小さく唱和するか、あるいは両方か…だった。ヘタレの俺もそっと口ずさんだ。加藤和彦よ、永遠なれ。

 えーと、曲ですね。家帰って思わず聴き直したサイモン&ガーファンクルで「ボクサー」。
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2024. 5. 31

☆☆☆過ぎてゆくばかりだな僕の旅☆☆☆
 迫る初夏と思っていたらホントに初夏だった。6月14日(金)22:00 オールナイトニッポンゴールド。そのあと坂崎くんと一緒を含めた何回かのラジオも企画されているようだ。めでたい。まさに六月の春が一度に花開くとはこのことだ。
 それにしても「ラジオのアルバム」企画はまだ生きているのだろうか。送り場所の告知もなかったので詞を書いていない。不覚。もちろん詞なんか書いたことないが、拓郎さん、箱根で一緒に合宿してくれたらなんか俺も書けそうな気がするんだけど(爆)>何様なんだよ。すまん。そういうくだらねー話ではなく、ともかくご本人が忙しい日々を送っているというのが何よりの朗報なのだ。自分が歌うこと以外はあらゆることをやっているというのもちょっと複雑ではあるが(^^ゞ
 
 今日は5月の最後の風。今日からだ。映画館行くよろし。
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2024. 5. 30

☆☆☆心臓の底からの本音☆☆☆
…ああ、デモテープが聴きたい…
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2024. 5. 29

☆☆☆肺でみる夢☆☆☆
 「心臓」,「肺」,「胃」,「呼吸器」,「消化器」,「血液」そして「脳波」と人体の諸器官のはたらきの意味についてこれほどまで真剣に考えた日はなかった。考えても結局よくわからなかった。難しい。安倍公房のシュールな小説を読んでいるかのようだ。

 確かに二人とも世の中から過重な期待を背負わされてきた。栄誉栄華の時が過ぎると、容赦なく叩かれる。胃もたれどころではないかもしれない。そんな二人の音楽を通じてのmind melld〜以心伝心が出来たのだろうか。

 吉田拓郎が提供曲で作曲だけでなく作詞まですることはとても珍しい。思いつくだけだが「チークを踊ろう」(1973),「風になりたい」(1976),「あなたを愛して」(1977),「いいじゃないか」(1978),「放課後」(1979),「危険な関係」(2012)>…あの…なんか不安なんですけど。 大丈夫だ。必ず名曲・名作に決まっとるわい。なんであれ冥途の旅の一里塚。新曲に導かれて僕らの音楽の旅も続く幸福。こういっちゃなんだがベストアルバムよりはるかに希望の脳波が出てくる。いいのかこういう使い方で。

2024. 5. 28

吉田拓郎、木村拓哉のニューアルバムに作詞・作曲で提供と言う超絶なニュースが届いた。
 ニューアルバム「SEE YOU THERE」 2024.8.14発売。
    "君の空気に触れた瞬間"
 おいおい提供曲ながら吉田拓郎の新曲が聴けるんだぜ。ああ、生きていて、生きててよかったと。



☆☆☆OKな日々☆☆☆
 シンポジウムの話題に出た「NHKサウンドストリート」…これも懐かしいな。

 確かに松任谷正隆、森永博志、甲斐よしひろ、渋谷陽一。渋谷陽一なんかムツカしくては聞かなかった。アルバム「ローリング30」の発売のときに森永博志の担当日に拓郎がゲスト出演した神回と甲斐よしひろが「破れたハートを売り物に」のデモテープをかけてそのカッコよさに感動したことが特に忘れられない。

 それとなんといっても松任谷正隆先生だ。サウンドストリートの番組内で、吉田拓郎のツアーでの出来事を愚痴ると、それをリスナーが拓郎のセイヤングやオールナイトにチクって、拓郎の怒りを買う(笑)という黄金のパターンがあった。例えば…

→松任谷(NHKサウンドストリート)
 仙台の打ち上げで30人の女の子が集まるということで、拓郎もバンドもみんなそそくさとお風呂に入ったり身だしなみを整えたりしていてあきれた。しかしいざ打ち上げが始まると女子たちは全員彼氏連れだった。それをいいオトナたちがみんなで奪い取ろうと大騒ぎ…ついてゆけない、ツアーのあり方を考え直したい。

→拓郎(セイヤング)
 そんなこと言ってましたか、許せませんですね(笑)。松任谷、そんならおまえはもう打ち上げに来るな。いつもいつも率先して打ち上げに参加して来て最後まで帰らない…昨夜も最後までおりましたよ。最近ユーミンが言ってるらしい「いつ電話しても出ない」って…ハハハハハ、知らんぞ(笑)

 30人の女の子というと令和の時代からすると不適切にもほどがあるのかもしれないが(爆)、この自由闊達な空気、悪いけれどそんな気持ち察して欲しい。

2024. 5. 27

☆☆☆俺たちのとんだ失敗は☆☆☆
 "ロールモデル"に励まされた若者は、やがて年齢とともにそのロールモデルから独立したり卒業したりして、年相応の距離をとってゆくのが一般的なようだ。それが成長というものかと思う。そう意味で自分は独立と成長に失敗してしまったわけで、考えはじめるとそこそこ凹む。「おめーいつまで拓郎聴いてんだよ」とあざけられそしられて理解を生まなかった経験はないだろうか。ある。私は日々ある。
 しかし田家さんはかつて、モーパッサンの『女の一生』に例えて「吉田拓郎は『男の一生』を歌おうとしているのではないか」という名フレーズをかましてくれた。そうだ生まれてから死ぬまでの「一生」という作品なのだ。それなら未知の途上で独立したり卒業したりしていった連中は落伍したり中退したりしたのも同然(爆)だ。ずっと推し続けることこそが成長なのだ。…とかなり都合よく牽強付会な解釈で自分を励ました。
 しかし何十年経っても蒸し暑い距離感のままのファンというのは、あのロールモデルご本人様もさぞやウザイに違いない。しかしこれもあなたの人徳、我慢してください(爆)。♪ここまで来たら一生しごとさ〜とあなたも唄っているではないですか。すみません。阿久悠に免じてお許しください。

2024. 5. 26

☆☆☆誰がために鐘は鳴る☆☆☆
 もうちょっとだけシンポジウムの話をさせてくれよ。田家さんが自身の大きな転換点として真っ先に挙げられたのが1975年のつま恋だった。6万人の「人間なんて」を観て足がふるえて仕方なかった、音楽のチカラを知ったと語ってくれた。
 その後の時代の変遷の中で、浜田省吾、そして尾崎豊に出逢ったことが、音楽ライターの田家さんにとって大きな事件だったことも語られた。なるほど。
 吉田拓郎詩集「BANKARA」(角川文庫)の小池真理子のあとがきを思い出した。
 「吉田拓郎は、時代の怒号と喧騒のあとににじみでるようにして生まれた、時代と時代を結ぶ若き熱血漢だったのだと思う」
 吉田拓郎、浜田省吾、尾崎豊、年代も音楽も違えど時代と時代を結ぶ若き熱血漢というと何かよくわかる。自称「難民」として居場所を探し続けてきた田家さんの魂のマイルストーンだったのかもしれない。

 大学教授でもある重松氏は、日々就活で心を削られている若者たちに接しながら、彼らに、どんなものでもいいから憧れのロールモデルがいて欲しいし、それが必要だと切々と語ったところが胸にしみた。御意。若いころこんなオトナが傍にいて欲しかった。「毎日毎日、拓郎ばかり聴いているとばかになるぞ」というオトナしかいなかった(爆)。しかし自分もあのお方がロールモデルとしていてくれたからこそ、ここまで生きてこられたとつくづく思う。
 昨日写真を載せた重松清氏の阿久悠の伝記ドキュメンタリー「星をつくった男」…これまた名著なのだが、その話はまた。その最終章のタイトルに重松氏はこの一節を引用している。
 
   あなたに逢えてよかった
   あなたには希望の匂いがする
   つまづいて 傷ついて 泣き叫んでも
   さわやかな希望の匂いがする
            (あの鐘を鳴らすのは あなた)

 ああ、これだよ。まさにこれがわが心のロールモデルの姿なのだよ。いつも和田アキ子の歌唱と姿に注意がもっていかれてしまうが、実にいい詞だったのだな。

2024. 5. 25

☆☆☆まだ足りない、まだ足りない☆☆☆
 田家・重松によるつたやの二階シンポジウムは実にいろんなことを思い起させ、また多くのものを教えてくれた。目に見えている世界の裏には俺なんぞが知らないものがわんさとある。当たり前といえば当たり前だが、なんか小さな元気が湧く。
 重松清氏が繰り出す愛の証拠物件提出に刺激されてオイラも手持ちのものを出してみる。
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 「オンザロード・アゲイン(上・下)」は、田家さんが1990年の浜田省吾の全国ツアーのすべてに同行した迫真のドキュメントだ。アルバム「誰がために鐘は鳴る」も90年のライブにも感動したのでリアルタイムで買って何度も読み返したものだ。田家さんの全箇所同行制覇の記録である。最初はツアートラックに乗って移動するのだがさすがにギックリ腰で電車移動も併用するようになる。とにかく身を挺しての取材だ。これは浜省の物語であると同時に、ミュージシャン、ツアースタッフや裏方さんの仕事や全国のコンサート会館の様子までつぶさに描かれる。これが「コンサートツアー」というものなのかということが魂でわかってくる。大作だ。この全箇所ドキュメントを91年のエイジツアーでやってくれればと思ったりもしたが詮無いことを言うまい。
 このドキュメントがずっと憧れで、身の程知らずにもいつか素人なりに真似事をしてみたいと心の片隅で思っていた。はからずも、あ、2019年のLive73の日記は、つま恋、篠島にも寄り、このオンザロードアゲインな気分で書くことができた(Reverence)。もちろん本家とは比ぶべくもない>あったりめぇだろ。そんなことはいい。

 とにかく一昨日のシンポジウムで、この「オンザロードアゲイン」の偉業のルーツがどこにあったかということが話題になった。
 さすがの重松氏がサム・シェパードがボブ・ディランのローリングサンダーレビューに全同行したときのドキュメント「ローリング・サンダー航海日誌: ディランが町にやってきた」なのではないかと指摘した。
 しかし田家さんによれば、ボブ・グリーンがミュージシャン、ボブ・シーガーに密着同行したドキュメント「アメリカン・ビート」の影響ということだ。うーむ、不明にもオリジナルを知らんかった。
 そしてそのうえ足立倫行のドキュメント「日本海のイカ」の影響もあることもカミングアウトされた。日本海側の各地の漁港を訪ね、イカ釣り船に乗り込んでイカを追う渾身のレポートとのことだ。これもまた知らんかった。
 そうかイカだったのか。大きなイカが手ですくえた気分だ。…ああ深い。オリジナルをたぐっていかずにいられない。さっそく密林をポチした。こうしてどこまでも防波堤を走っていきたい夜だった。

 えー、曲ですね。吉田拓郎さんで「都万の秋」。おやすみなさい。

2024. 5. 24

☆☆☆つたやの二階☆☆☆
 不肖この星紀行、蔦屋書店の田家秀樹と重松清のシンポジウムに行ってきた。
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 80年代に活躍したミュージシャンはみんな大嫌いだという小学生みたいな私と違って、80年代の音楽現場に生きたお二人の話は深く音楽愛に満ちていた。重松氏は数々の証拠物と時系列整理を見事に繰り出しながら田家さんの話を聞き出し、田家さんは田家さんで重松氏にいつもの感じでしみじみと問いかけ、インタビュアー同志が静かにぶつかりあった(爆)。おかげでお互いのとてもいい話がたくさん聞けた。
 一度は音楽ライターの仕事を得ながら、そこに違和感を感じ小説の世界に向った重松氏と放浪の末に得た音楽の世界を楽しみながら生きてゆく田家さんのそれぞれの違い。それでも二人とも音楽「で」生きるのではなく音楽「に」生きている、そんな感じがしてとても素敵だった。
 ウロ覚えですまんが、かつて村上龍が「ポップコーンをほおばって」の文庫解説で、テロルを決行するゲリラはみんな田家のような目をしているというくだりがあったと思う。民衆が海ならゲリラは魚。音楽界が海なら私は魚と…どんなに世代や時代が違おうとも悠々と泳いでゆくそんな田家さんの姿を垣間見たようだった。
 まだ配信があるようなのでネタバレになってしまうかもしれないので詳しく書かないが、重松氏のああ僕の時計はあの時のまま…ちょっと泣きそうになった。

 これから90年代ノートさらにその先へと続くらしい。お二人ともどうかお元気でご活躍ください。私もがんばろう。何をがんばるかわからないが。こんな風に歳を取りながら「見届け人」のはしくれに連なろう。

 マニアなツボとしては、話しながら「とことんマイウェイ」とか入れ込んでくる重松氏に田家さん気づかずにスルーするところがなんか面白かった。

 もうひとつツボは、田家さんが編集長だった「タイフーン」と言う雑誌。当時、創刊号のインタビューが吉田拓郎ということで、高校生の俺は、お茶の水の三省堂から地元の書店まで探し回ったが見つからなかった。見つからなかった理由が昨夜わかった気がした(爆)。

2024. 5. 22

☆☆☆80のバラッド☆☆☆
 数年前に新星堂で浜田省吾のベストアルバムに付された店員さんの手書きのPOPがあった。
 「バブルの絶頂期にバブルの崩壊を見抜いていた稀有のアーティスト」
 まるで経済書の書評みたいで思わず唸った。浜省といえば拓郎の言うナイーブなメロディーに裏打ちされた美しいラブソングも数多いために、そこばかりが目立たなかったのだが、世はあげてバブルの宴の中で現在のこの世の中のインチキさとそれに対する苛立ちが繰り返し歌われていた。反骨や反体制というのは少し違う、この身が削られるような悲しみが滲んでいた。そういうところが浜省の真骨頂だと門外漢ながら思う。この世の居心地の悪さを音楽的なハイクオリティを維持したまま体現していたところに当時アブレ者だった自分も惹かれたのかもしれない。

 1986年9月4日二枚組アルバム「J.BOY」がレコード店の店頭を席巻した。その翌日5日に静かに片隅にひっそりと入荷されていた「サマルカンドブルー」。忘れられない光景だ。世代交代をまざまざと見せつけられているようで拓郎ファンとしてはなんかさみしーな…と言う気持ちも確かにあった。しかし88年だったか、武田鉄矢のラジオにゲストで出演した拓郎は、浜田省吾がチャート1位にいてくれることが実に誇らしい、救いだとチカラをこめて話していた。そんなふうに拓郎は見ていたのか。
 今にしてみれば「J.BOY」と「サマルカンドブルー」が共にそれぞれ出航する。あれは80年代の美しい景色のひとつだったのかもしれないと思う。このあたりの話を涙ぐみながら呑んだくれたいんだよ。

2024. 5. 21

☆☆☆わたしの80年代ノート☆☆☆
 田家秀樹の80年代音楽ノートを読んでいる。私の勝手な妄言だが、読んでいて、なんかひたすら悲しい気分になる。80年代はまさに自分にとっても20代という青春時代であるはずだ。言うまでもなく80年代はいろんな音楽が成熟し開花した時代として高く評価されるのもわかる。しかしすまん。この80年代に活躍したミュージシャンたち、浜田省吾以外はみんな嫌いだ。大嫌いなのだ(爆)。>小学生かよ

 まさに1985年のプラザ合意の年に85年のつま恋を終えた吉田拓郎はステージを降りてゆく。つづくバブル景気の中、ずっと吉田拓郎は切なく低迷する。空を飛ぶより地を這うような雌伏の時が続いた。もちろん拓郎は別に意図して雌伏していたわけではない。その間も音楽の旅を誠実に続けていたことは、このサイトで振り返った1988年創刊の公式ファンクラブT'sにも記録されている。しかし時代と世間からは思い切りシカトされ続けた。師の不遇は即我が身の不遇と痛みでもある。
 
 かくして80年代というと壁の向こうの豪華で晴れやかなパーティーを横目でチラ見しているようなどうしようもない悲しみを感じるのだよ。

 やがてバブル経済が破綻し暗い世相の中、バハマから「Long time no see」を抱えて帰ってきた拓郎がLOVELOVEという異世界に果敢に飛び込んでいったとき、長かった雌伏の時は、静かに終わってゆくのだ。しかし、それはまだずっと先の話だ。もっともそれは別の意味でバブル時代の始まりだったのだが(爆)。
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2024. 5. 20

☆☆☆すべてのヒューマンに捧ぐ☆☆☆
       父「待てヒューマ、おまえのことじゃない」
       子「え!?」
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 アルバム「マラソン」の発売前日の1983年5月20日は武道館公演だった。このツアーで初めて「今夜も君をこの胸に」がコンサートのオーラス・ナンバーとなった。当時としては甘く軟弱な曲としか聞こえず、大いに不満だった。切ないすれ違いの日々の始まりだった。
 しかしその36年後。吉田拓郎最後のツアーLive73のオーラス。まさかこんな満ち足りた想いとともにこの曲に送り出されることになるとは予想もしなかった。それにしても36年といえばその時に生まれた子供が中年のオッサンになるくらいの時間だ。いろいろあっても楽しかったな。思えばいととしこの歳月、仰げば尊し我が推しの恩。今こそ別れめ いざさらば,はいいじゃないかのA面。
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2024. 5. 18

☆☆☆83年ものの極上酒☆☆☆
 私の偽アップルウォッチが現在どうなっているかというと>別に知りたくないんですけど…。
 確かに時計を出すたびに誰もが面倒くさそうな顔をする(爆)…んなことは構わない。
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 ということでこの頃は5.20〜21の「マラソン」記念日に祈り向けられております。自堕落でスキャンダラスな風に吹かれていた1983年に生み出されたこのアルバム…当時はなんだかなぁと思ったが、歳月を経るごとに、どんどん深くいい味になってきている。妙味の一枚だと思う。
 拓郎がステージで「マラソン」を歌うと神様が降りてくる率が高かった(当サイト比)。ああ、もう一度聴きてぇ。時が経てばわかることでもその時はもう遅すぎる。思いつきだが、二宮愛さん、渾身で歌ってみてはくれまいか。

2024. 5. 17

☆☆☆自由も平和も逃げ足が速いんだ☆☆☆
 ♪不味い酒飲みすぎた 嫌な事が多いから〜と久々にツラいな。酒が合わなかったのもあるが、ノー天気に生きているヘタレの自分なのだが、それでも"共同親権"はじめ、とんでもないとしか思えない法案が、超拙速で、ちぎっては投げちぎっては投げするかのようにどんどん通過している。せめてもうすこし熟慮というものをしろよ。

 急いでないのに いつの場合でも 通りすぎてるだけで
 見つめ直したり 考え込んだりする事だけがない

 おお、なんか歌詞がハマった。とにかく、流れ流される,泣かされる,涙は出ないが泣かされる。

 そんな敗残気分の昨今、よく存じ上げぬままYouTubeでしばしば聴いている二宮愛(AI NINOMIYA)さんの唄。いい声だ。多彩なカバーがあるが、今日は「ファイト!」だよ、全員集合。
 なんといっても吉田拓郎/中島みゆきと書いているところ。そこだ。ふるえてしまう。ファイト!/中島みゆき…じゃないんだよ。そこに吉田拓郎の魂をガッツリ入れこんで出来上がったファイト!を歌いこんでみました!(すまん俺の勝手な思い込みなのだが)という"気骨"がたまらない。こっちの方は涙が出ながら泣かされる。
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2024. 5. 16

⭐︎⭐︎⭐︎トノバンモード⭐︎⭐︎⭐︎
 昔のパイロット万年筆の加藤和彦が出演するCM。草原をサイクリングしている加藤和彦の絵に彼の歌が流れる

 One day
 One night
 今日こそは何かイイこと…(以下不明)

ポケットから万年筆を出した加藤和彦が

 「Enjoy yourパイロット!」

と笑顔でしめる。

 拓郎がアルバム「ぷらいべえと」のプロモでラジオ番組に出たとき、万年筆のCMでおなじみの加藤和彦という話をして「彼の歌ですが今回僕が歌っています。"悲しくてやりきれない"」と言ってたから、たぶん1977年のことだ。

  これがYouTubeでも見つからない。見つからないとどうしてももう一度見たくなるサガ(爆)
 それにしても万年筆って昔は憧れの一品だったけれど、とんと使わないよな。

2024. 5. 15

☆☆☆いつもあなたが灯す光が時を超えて今も☆☆☆
 昨夜のNHKうたコンの二葉百合子の「岸壁の母」。すんばらしかった。もうずいぶん前に引退されたと聞いていたし、失礼ながらご存命なのかも知らなかった。92歳で生放送のステージに降臨された。なんという声量、なんという歌いっぷり。横で静かに寄り添う坂本冬美。歌い終わったとき自宅でひとりスタンディングして拍手してしまった。引退して10年以上のブランクなのに、とか、92歳なのに、とかいうのと少し違う。身の置き所のないような愛と哀しみを全身で表現し切っているところなんだよ。ソウルだよ、おっ母さん。それが音叉のように伝わって坂本冬美もふるえている。
 …坂崎、もしその時がくることがあったら、そんときゃ頼む。坂本冬美になってくれ。

2024. 5. 13

☆☆☆なにもかも愛ゆえのことだったと言ってくれ☆☆☆
 紫式部と清少納言。前にも書いたが、この二人の大天才は、もう今で言えば、松任谷由実と中島みゆきみたいなものである。お互いの才を畏れながら認めつつ、決して張りつめた緊張感の糸を緩めあうことはない。紫式部が清少納言を厳しくこきおろしたことも有名だ。それは好き嫌いではなく、お互いの才能がぶつかり合う火花のようなものだと昔、古文の先生に教わった。もっともユーミンとみゆきの罵りあいなんて清水ミチコの芸でしか見られないけど(爆)。
 とにかくそんな二人の偉大な才女から熱い秋波を送られた唯一の男、それがわれらが拓ちゃんだ。ヒューヒュー! ああ光源氏かアナタは!!…何にしてもファンとしては誇らしい。っていうか吉田拓郎ファンであるということは、紫式部、清少納言、松任谷由実、中島みゆきに連なるセンスの持主だと言って良い。かぁぁぁ盛り上がって来たな、飲み行くかっ!!
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 そういう話ではない。大河ドラマ「光る君へ」以上に楽しみにしているのが、片渕須直監督が清少納言を描く映画「つるばみ色のなぎ子たち」だ。予告編というかパイロットフィルムだけで息を呑んだ。楽しみだ。かれこれ予告から1年だ。いつ公開なんだろう。
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2024. 5. 12

☆☆☆あの人のことをもう少し考えていたいから☆☆☆
 2013年の「クリスマスの約束」で、小田和正から「同時代のミュージシャンていうと誰?」と尋ねられた拓郎は間髪入れず「加藤和彦」と即答した。人と人との友人関係に他人の俺がどうこういえる立場にはない。それでもこれまでラジオで拓郎は、友人であり恩人でもある加藤和彦のことを何度も話してくれた。時に辛くなるような話もいくつかあったが、拓郎の深い愛情から発しているだろうことは聴いてるこちらにもよくわかった。
 広島から上京したての西も東もわからない同年代の男のために、ギブソンJ-45を見つけてきてくれたり、松任谷正隆らを引き合わせてくれたり、音楽テクニックを惜しみなく教えてくれた。松任谷正隆は「僕は加藤和彦に見いだされ、吉田拓郎でデビューした」といったが、それは拓郎も同じかもしれない。「希望の国のエクソダス」という村上龍の小説があったが、さしづめ拓郎にとっての加藤和彦はフォークからより広い音楽という希望の世界への脱出口=エクソダスへと導いてくれた恩人ではないか。とにかく推しにとっての恩人は、推す私のグランドな恩人でもある。

 いつも思うんだよ。こんな私ごときと比べるのもおこがましいが、自分が本業の仕事で、優秀な才能が傍らにあらわれたとき、つまりトノバンみたいな立場になったとき、私はそこまでできるか。器の小さい私は、きっと自分の食い扶持を持っていかれるかもしれないそいつ…邪魔してやるかもしれん(爆)。いや邪魔はしなくとも、ギターを探したり、才能ある誰かをどんどん紹介したり、いろんな手ほどきをしたり、そんな親切までするか自信がない。
 しかも加藤和彦は、これまた世間でよくあるような、面倒見た男を、自分のファミリーの子分、舎弟みたいな扱いをしたりもしなかった。繰り返すように吉田と加藤の関係は二人にしかわからないので、しょせん下種の思い込みでしかない。それでも世の中の損得のラインとは違うところで音楽の旅をされていたのだなと思う。なんとなく嬉しくなる。

 今「5月の風」を拓郎の唄で聴きたい…という言葉をいただいた。ああ、同志よ、まったくだ。おかげさまで原曲を久々に聴き直してみたけれど、でもきっと歌うも聴くも滂沱の涙になってしまいそうだ。昨今は「だいじょうぶマイ・フレンド」ですら昔のような平常心ではもう聴けない。

 とにかく生きてるうち、元気なうちに、いろいろやっておかなきゃならないし、感じておかなきゃならない。あらためてそう戒める。
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2024. 5. 11

☆☆☆黄色いロールスロイスと緑のジャガー☆☆☆
 加藤和彦のインタビューで一番印象に残っているのは、24,5歳の頃、ロンドンで観たビンテージのロールスロイスが忘れられなくて、わざわざロンドンに買いに行くところだ。ロンドンの車屋が驚くなか、いきなり「コレください」と買ってしまう。しかもトノバンは当時免許は持っていない。しかも彼が免許を取得するのは、その15年後の40歳のころというから、ハナから自分で運転するつもりはなかったらしい。運転は誰かがすればいいと思っていたとのことだ。すげえ。それ以来、免許ないままガンガン気に入った自動車を買うわけ。
 この感覚…根っからのプロデューサー感覚とでもいうべきものかな。わかんないけど。すんばらしい。

 やはり吉田拓郎が二十代の頃、通りすがりに、外車ディーラーの店頭で見かけたジャギュワー…後に唄にも出てくる"緑のジャガー"'( 今度はいったい何回目の引越しになるんだろう )を値段も聞かずに「コレください」買ってしまったというカッコイイ逸話も思い出させるね。

 ひるがえると私は、家族ともう遠出もしないし軽自動車にしよう、リースでいいんじゃないかとチマチマ話し合っているところだ。いや、それでいいのだ。心のふるえるままに、心ふるえる美しい自動車を買ってしまう。そういう人がこの世にいることはそれだけで良いことだ。ましてそれが自分の推しならなおのことなのだ。

2024. 5. 10

☆☆時が経てばわかることでも、その時はもう遅すぎる☆☆☆
 もうすぐ映画が近い。門外漢もいいところの自分だが、映画に向けて少しでもトノバンモードに近づきたい。思えば加藤和彦関連の本が家に結構ある。
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 これらの本のいくつかに加藤和彦の未完の仕事のひとつとしてセルフカバーアルバムのことが書いてある。例えば「パラレル」をトノバンの本人歌唱でレコーディングする予定だったらしい。いや、もう既に音源は完成しているかのような書きぶりでもある。
 トノバン曰く、拓郎のバージョンが先なのだが、拓郎が加藤和彦のオリジナルをカバーしたようなタイムパラドクス感を出そうと楽しんでいるようだ。

 加藤和彦が唄う「パラレル」って俺にはどうしても想像がつかない。拓郎のシャウティな歌いっぷりが決定版すぎて、あのヒョロヒョロの独特なボーカルに脳内変換できない。
 "もしも加藤和彦が「パラレル」を歌ったら"ってきっとラジオ番組にリクエストしたら坂崎幸之助はやってみせてくれるような気がするのだが、さすがに失礼というものだ。なんか勝手に気安く親しみをもって感じているが、坂崎幸之助という人は超スターであることを忘れちゃならない。

 加藤和彦ならサウンドも含めて拓郎とはまったく交わらないパラレルなパラレルを聴かせてくれたに違いない。ああ聴きてぇ。

2024. 5. 8

☆☆☆ただの感想だけどさ☆☆☆
 その1979年の篠島の世紀の復活の興奮冷めやらぬ翌1980年5月。80年代の幕開けの第一弾アルバム「Shangri-la」から「あの娘といい気分」がシングルカットされた。あくまで私の個人的感想だが「えっ?あの『Fの歌』をシングルにしちゃうの?」とひるんだ。もちろん佳曲だしブッカーのアレンジでオサレな仕上がりになっていたが、それにしてもこれを勝負シングルとするのってどうよ?
 しかもコンサート会場で配られたチラシには、タンクトップにホットパンツの女の子のイラストで「あの娘といい気分」の振付が描かれていて「あの娘といい気分イメージガール募集中!」とあった。あの頃は、不適切にもほどがある、拓郎いったい何がしたいんだ?と理解できなかった。すまん、こうして今考えてみてもよくわからないが、面白い時代だったな。…そういえば、イメージガールに応募したねーさんが近くにいらした。すみません、そういう意味ではないんですm(__)m。

 そういうことでいろいろ微妙な「あの娘といい気分」だったが、自分としては、82年の「王様達のハイキング」に所収のライブバージョンの歌と演奏を聴いて、おお〜こりゃすげぇ!!とそこでど肝を抜かれ見事に落とし前をつけられた感じがしたものだ。いろんな人に会うさ、いろんなことがあるさ、僕らの旅は過去に未来に果てしなく続く。

2024. 5. 7

⭐︎⭐︎⭐︎306は、と若い少女が⭐︎⭐︎⭐︎
 当サイトのわかりにくい地味なコーナー「僕の旅も小さな叫び」。その1979.7.26その3の篠島望郷編2005のくだり。
「旅館の仲居さんは、「はい、はい、はい拓郎さんね」と喜んで、御大の泊まった部屋を特別に見せてくれた。306号室という和室だった。」
 この記述に対して篠島グランドホテルには306号室はないはずだというご指摘をいただいた。
 早速この再訪のときのビデオを引っ張り出して見直す。ああ、仲居さんと番頭さんが「西の13」と確認しあっている。6階まで登り、拓郎さんの部屋は西館の一番奥ですと案内してくれている。ということで正しくは西館613号室だった。
 案内される途中でホテルの陳列ケースに飾ってある拓郎のサインを見つけて舞い上がってしまっている私の様子が残っている。いや言い訳はすまい。すまん。長らくご不安なまま惑わせてしまったか。この爺も306号という誤記憶を抱いたまま死んでいくところだった。
 まいまい様、ありがとうございます。
 それにしてもかくもお若いかたに教えていただけるとはなんとも心強い。未来は明るいかもしれないぞ。篠島よ永遠なれ。
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2024. 5. 5

☆☆☆♪今日から君はひとりじゃないんだね☆☆☆
 今日、5月5日は大安だ。
 私の知り合いの若い二人が入籍する日だ。
 奇しくもアルバム「Shangri-la」が発売されたのは1980年の5月5日だった。「Shangri-la」にはこんな歌があった(「ハネムーンへ」)。

 いずこも同じ 大安の日に
 めでたく生まれた ひとつがい
 夢にまで見たふたりの暮らし
 汝、生涯、夫と妻を誓うや


 なんか、この歌が初めて役に立った気がするぞ>おい。いやカッコいいレゲエサウンドと醒めた披露宴の詞がなんかミスマッチな気がしてあんまし聴かなかったのよね。若いお二人に贈るにはちょっとシニカルな歌すぎるか。
 
  二人の本当の行く先はね
  誰も知らない遥かな旅さ


 とにかく遥かなる旅のお幸せを心の底から祈っております。

※ところで5月5日ON SALEのチラシ。保存状態が良くなかったのでだいぶヘタっている。うつむいて歩いてるだけで、なんと絵になることよ。
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 田家さんのキャッチコピーが、なんかカッコイイのかダサいのかよくわかんないけどさ…いいぞ。とにかく、79年の復活の熱気のまだ冷めやらぬ中、さぁ!ゆくぞ怒涛の80年代という勢いがやたらといいのだ。

2024. 5. 3

☆☆☆水面に浮かぶ月影をすくうがごとく☆☆☆
 今日の「虎に翼」。良かったねぇ。判決理由を読む声で気づいたが、裁判長はドラマ「ER」のDr.カーターの声の平田広明さんだ。さすがにすぐにわかったのは森次晃嗣と古谷敏。今回のダンは黒幕の悪役で、かつて「アマギ隊員がピンチなんだよ」と命がけで馳せ参じたあの姿はなかった(涙)。こっちも年寄りだからあんまり悲しいダンの悪役は観たくないし、あと古谷敏は是非ともその美しい全身を映してくれ。
 …そういうオタク趣味だけから良かったのではない。「法は盾でも武器でもなく、きれいな水の湧き出るところなんじゃないのか」と主人公に言わしめたセリフだ。奇しくも今日は憲法記念日。改正こそ正義と叩かれ、またボブ・ディランの「戦争の親玉」みたいになっていきかねない世の中の空気の中で満身創痍の憲法。その憲法の誕生日に清々しい言葉を聞けた。それが拠って立つ究極の目的である「個人の尊厳」それを湧き出づるきれいな水という。湧水というと、なんとなく今日は「清流」を聴きたい。

2024. 5. 2

☆☆☆KK listening☆☆☆
 さすがに連休で仕事場も閑散としていたので、ラジオの「加藤和彦オールタイムリクエスト」を聴きながら机に向かってだらけていた。途中何本か仕事の電話がかかってきたが、すまん、そういうわけなので不機嫌なうえに話を早く切りたがって申し訳ない(爆)>最低だよ

 大好きな「だいじょうぶマイ・フレンド」のトノバンの本人歌唱は特にグッときた。加藤和彦と安井かずみが笑ってそこにいるかのようだ。俺は吉田拓郎になった気分で聴いていたら泣きそうになってしまった。すまん、怒られるぞ。
 そういえば昨年、某所で広田レオナさんをお見掛けして、俺がどんなにこの曲が好きかを言いたかったが、ヘタレなので何も言えなかった。とにかくこの曲が好きなのだ。映画はメチャクチャだったけど。

 だいじょうぶマイ・フレンド
 だいじょうぶマイ・フレンド
 あなたを信じてる人がいる
 だいじょうぶマイ・フレンド

 加藤和彦バージョンのシングルのB面に「街に風が吹くとき」と題するやはりトノバンとZUZUコンビによる同じテイストの曲が入っている。こちらの一節もつながって思い出される。

 時にはすれ違い
 時には淋しい
 おんなじ街に住み
 時代を共に行き
 それぞれの胸に唄流れて
 一日が終わる
 だいじょうぶ だいじょうぶ マイ・フレンド

 いいな。ラジオが終わってからも、慣性の法則であれこれとトノバンの曲を聴きたくなり中山ラビの「グッバイ上海」(中山ラビ作詞/加藤和彦作曲・編曲)を聴く。

 グッバイ上海 グッバイ上海
 ジャンク浮かべて 帰る日 遥か

 ちょっと裏返る声がとてもセクスィーだ。たまらん。ああ、みんなどこかに行っちまったけど。ということで、しみじみしながら、当然の如く机に向かえど仕事はしていない。してないけど疲れた。さて帰るか、ゴンジーゴーホーム。

2024. 4. 30

☆☆☆君の時計を止めてみたい☆☆☆
 さてゴールデンウィークといっても暦どおりで仕事には出にゃならんし、他に何もすることがないなんて。他人にはそれぞれの生き方があって誰もこっちを向いてはくれません。そんな立ちつくす私の最近のお気に入りの買い物。アップルウォッチとはいろんな意味で無縁の私だ。しかしスマホと連動するそれっぽいものをスリーコインズで買った。消費税込みで3000円ときたもんだ。これでつまらない日々に少しはハリが出る。
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 他人様に見せると例外なく「イイ歳してバカじゃないか」と嗤われる。しかし、いいじゃないか…は"さらば"のB面。人間の夢はそういうもんでしょう。
 これで随時写真を変えて日々の暮しの中でアルバムやライブの記念日を寿ぐ。これぞ明るい日常だ。
 とりあえず現在は5月5日(1980年)アルバム「Shangri-la」記念日に向けて生きております。あなたの人生はいかが、若さも老いもほろ苦いね。…大きなお世話だが。
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2024. 4. 28

☆☆サマープレイスブルースが聴こえる☆☆☆
 坂本愛江さんのお尊父様はカントリーシンガー坂本孝昭さんということだ。父伝来のカントリースピリットであられるのか。そして御母堂様は朱由美子(あけゆみこ)さんというエレックからデビューしたフォークシンガーであられる。以前、拓郎がラジオでチラッとエレックの同期として朱さんの名前をあげていたことがあった。伺うとデビューしたてのころ拓郎さんと一緒にキャンペーンを回ったという話を母から聞いてましたということだ、きっといろいろなエピソードをお持ちなんだろうな。
 奇しくもその坂本愛江さんは「避暑地の出来事(夏の日の恋)」をカバーしておられた。バシーフェイスオーケストラの演奏で我々の身体にしみこんだ名曲だ。この曲に歌詞があるとは不覚にも知らなかった。映画の主題歌なのかな。"本日のコンサートはすべて終了いたしました"…それは詞じゃねぇよ、アナウンスだよ。
 YouTubeで「坂本愛江」「避暑地の出来事」で検索すると出てくる。本場テネシー仕込みの英語とソウルで聴かせてくれる。いいな。バシーフェイスの定番とのローテーションで聴きながら散歩する。太陽がまぶしい。夏のような陽気だ。どうかみなさま良い連休をお過ごしください。
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2024. 4. 27

☆☆☆つながりゆくもの☆☆☆
 ときどき島村英二のドラムが無性に聴きたくなる。昨夜はカントリー、あ、カントリーといっても、八掛けのじゃなくて…ヤメロよ(爆)。
 カントリー・シンガーの坂本愛江さんの魂の歌声を聴きながら、島ちゃんのドラムで身体を揺らした。ああ、これがカントリーなら俺はカントリーが好きかもしれない。そしてまた坂本さんには特別なライブでもあったことがあとでわかった。

 島ちゃんは、中島みゆきの絶賛ツアー中で、大阪公演から帰ってきたばかりだそうだ。なんというタイトなスケジュール、なんという元気さなのか。相変わらず、あの曲前のカウントと笑顔がたまらなくいい。
 そういう時節柄か客席では中島みゆきツアーにご参加の方からライブの様子も伺うことができた。話を聴きながらつい涙ぐむ。大阪フェスに行きたかったな。てかもう一回来月のフォーラムに行きたくなった。

 図らずも昨夜のカントリーのステージも客席で話題になったみゆきのツアーの話も、どちらも大切な人を失った時、人はどう生きるのか…そういうことだ。坂本愛江さんの最後の歌のときにスタンディングしてカウボーイハットを胸にあてて黙祷しながら聴いておられた方の姿が忘れられない。また坂本愛江さんのことをよく知らないものの歌い切った彼女をそっとしっかりハグした雨畑、あなたはきっと正しい。
 大切な席は空席のままそれでも進まんとするみゆきツアーの話も一緒に思い出しながら、ああ音楽っていいな、人っていいなと久々に思ったわい。

 
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2024. 4. 25

☆☆☆男らしいはやさしいことだと☆☆☆

 今日の"虎に翼。九州出身の"男尊女卑のカタマリで武骨な大学生が、当初は忌み嫌っていた女子学生たちに心を開きはじめる。

 俺はあの女性(ひと)たちが好きになってしまった
 あの女性(ひと)たちは男だ
 俺が男の美徳だと思っていた強さ、やさしさ、すべてをもっている
 俺が男の美徳だと思っていたものは
 男であることとは関係ないものなのかもしれん

 …すんばらしい。これは吉田拓郎のスピリットでとあると俺は思う。
 男らしい男の代表のように祀り上げられることが多い吉田拓郎。反対に身勝手な男代表として中ピ連のような方々にも攻撃された(なんかなつかしー)。確かに拓郎は男らしさ、バンカラ、男のエゴ、男の甲斐性などを賞揚するような歌もたくさん歌ってきた。しかし、同時に男らしさというものの嘘臭さ、ずるさ、そして男らしさに酔ってしまった後悔のようなものも拓郎は歌っているし、何よりわかっている。そここそが吉田拓郎の魅力のツボだと勝手に思う。

 昔、区立の図書館に「よしだたくろう気ままな絵日記」があって、裏表紙に悪質な落書きで「この男いつでも発情中」って書いてあって、ファンとしては複雑な気持ちだった。いや正直に言う…ちょっと面白かった(爆)。ある時期の世間様の吉田拓郎像である。

 吉田拓郎のラブソングはずっと続いているが、同じラブソングの範疇の中で若いころの"発情系"から歳とともに"深い人間愛系"にシフトチェンジしていっているように思える。時に逆らわずに深まりゆく、そこが美しいし、またそれは自分の中にしみついている尊卑をも教えられる気がする。俺の道は遠いかもしれないが。

2024. 4. 24

☆☆☆さよーなら、またいつか☆☆☆
 NHK朝ドラ「虎に翼」。かなり本気視聴モードだ。好きすぎてドラマのウンチクと考察を頼まれもしないのに仕事で会う若者たちに語って多分トテモ嫌がられている。すまん。ドラマのストーリーもそうだが、特にディテールがいい。極北を行かんとする者たちだけでなく、そうではないものたちにもひとしく愛情と敬意が注がれている。
 でもって主題歌だよ。毎朝、米津玄師「さよーなら、またいつか」が流れるたびに躍り出したくなる。踊らないけどさ、身体は小さく揺れる。さまざまな女性たちがみんなで元気に踊っているシーンでうっかりすると泣きそうになる。同じように胸熱くなる既視感があったと思ったら、あれだよ、「いくつになってもHappybirthday」のPVだよ。胸が躍るこの感じっす。
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2024. 4. 23

☆☆☆この歌をあの人に☆☆☆
 同じ回の坂崎幸之助のラジオ(K's TRANSMISSION)で吉田拓郎本人歌唱の「メランコリー」(アルバム"ぷらいべえと"所収)を流したら、リスナーから「吉田拓郎さんの曲だったんですね!!」という反響がたくさん届いていて驚いた。布教担当者(>誰も頼んでねぇよ)としては、こりゃイカン、周知徹底が足りないと一瞬思った。しかし、しかしだ。2024年のこの時期にそういう発見に新鮮に驚いている人たちがおられる。梓みちよの「メランコリー」っていい歌だなと思っていたところ、はからずも、あ、これ吉田拓郎が作ったんだ!!という小さな心のふるえを感じている人がいる。そのこと自体が何かとても嬉しいじゃないか。

2024. 4. 22

☆☆☆僕はチークを踊ろうが好き☆☆☆
 坂崎幸之助のラジオ(K's TRANSMISSION)によれば、最近吉田拓郎と一緒に石川鷹彦宅を訪ねたらしい。その話を聞くだけで嬉しくなる。石川さん、拓郎のことをよろしくお願いします。嬉しい気分で"リンゴ"を聴く。もう無形文化財だ。その勢いで"チークを踊ろう"も聴く。"ラジオでナイト"で、石川鷹彦とアコースティックギターだけを何本も重ねてこのサウンドを作ったと教えてくれた。このサウンドのキラキラ煌めく感じのゆえんだろうか。いつ聴いてもウキウキしてくる。みなさんとにかくお元気でご活躍ください。

2024. 4. 20

☆☆☆股旅2024☆☆☆
 昨年、歌手を引退した橋幸夫が復帰するということで謝罪会見を開いて「反省しきりでした」とお詫びしたとのことだ。
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 私には何もいう権限も資格もないが、謝罪も反省もいらないと強く思う。考えて考えて決めた引退という決断も、再び魂が湧き上がってきて歌おうという決断も、私らの想像を超えた本人のみが知るものであり、反省・謝罪とは無縁のものだ。私はこれからまた音楽の旅を続けようとするお方をただひたすらに歓待するだけだ。ああ、なんて素敵なセニョリータ!!
 たとえ仮にそんな日が来ても拓郎さんあなたは反省も謝罪もしなくていい。心配しなくてもぜってー、あやまったりしないだろうけど(爆)。で、きっと俺も↓こんな悪態をついてしまうのだ。
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 橋幸夫といえば若き日の御大の"潮来刈り"の師匠であり、「メキシカン・ロック」とか「スイム・スイム」とか「シトシトピッチャン」とか「股旅'78」とか時にちょっと恥ずかしい歌(※個人の感想です)を歌う人というイメージだったが、すまん。しかし昨日、朋輩に言われて、そうだ名作「いつでも夢を」の御大のカバーがあるじゃないかと思い出した。
 例によって今になって聴き直すと武部聡志のアレンジが少しうるさいだけで、実に清々しくていいなと思うのだ。なんか昨今の私の心にとてもしみる。ちょっと泣きそうにもなる。これライブステージでみんなで歌ってもきっと楽しかっただろうな。「♪言っているいる お持ちなさーいなー」の原曲の譜割りを「…お持ちな、さぁーいなぁあぁぁ〜」と拓郎節をどこまでかまして歌えるかが勝負ポイントだ。何の勝負だ。

2024. 4. 19

☆☆☆正気のかけら☆☆☆
 ノルマンディー上陸の話をするまでもなく現代もガッツリと悲惨な戦争は続いている。最近イレギュラーの仕事で、たくさんの十代の若者たちと顔を合わせることが多くなった。ハッキリ言って若者は苦手だ。通じあうすべがなかなか見つからない。ああLOVELOVEに飛び込んだ拓郎はホントに偉かったなといまさらながら思う。それでも俺はついつい偉そうに「何よりも平和が大切でありました」とか説教を垂れてしまう。しかしもし若者たちから「アンタは60歳も過ぎて今まで何をやってたらこんな世の中になったんだ!?」と問い詰められたら何も答えられないな。🎵鏡に今の自分を写してみれば、人に何が言える、黙って俯けよ。…
 イランとイスラエルで報復の連鎖 中東情勢、さらに緊迫の恐れ…などというニュースが席巻するとやりきれない。イラン中部イスファハンと北西部タブリーズで19日、相次いで爆発が起き、イスファハンや近郊のナタンツにはイランの核関連施設があるという。
 イスファハンにあるのは金の腕輪とペイズリーじゃなかったのか。もう殺戮も破壊も止めてくれ。、この爺は、そう祈るしかないのか。

2024. 4. 17

☆too many people have died☆
 NHK「映像の世紀バタフライエフェクト〜史上最大の作戦 ノルマンディー上陸」を観た。「史上最大の作戦 ノルマンディー上陸」「史上最大の侵略(前編後編)」「史上最大のプロテストソング 基地サ」が私にとっての"史上最大"の御三家だ…すまん不謹慎にもほどがあるか。
 番組ではノルマンディー上陸にまつわる暗澹たる映像と淡々としたナレーションがひたすらつづく。もともと史上最大の作戦というと米英連合軍がナチスを討伐する勧善懲悪の物語のイメージがあった。しかしその後、映画「プライベート・ライアン」でそこがどれだけ凄惨な地獄だったかを知った。そしてこの番組はあの映画のショッキングなシーンが決して映画ゆえの大袈裟なものではなかったことをあらためて突きつけてくる。上陸前に一斉に掃射されてしまう若き米兵たち。遺体になって海に浮かぶもの、激痛で悶絶するもの、もう見ていられない。従軍写真家だったロバート・キャパは恐怖で手が震えカメラのフィルムの入れ替えが出来なかったほどだったと述懐する。

 この作戦は紆余曲折を経ながらも成功をおさめ、そこからナチスの敗走が始まる。しかし予想より少なかったとはいえ4500人もの米兵が亡くなったことが語られる。同時にこの作戦での連合軍の無差別爆撃により、占領された無辜のフランスの市民の4万人が亡くなったという事実も番組は告げる。ナチスの撃退のためとはいえ、いったいこの作戦は何だったんだというフランスの犠牲者の方々の叫びが辛すぎる。これは今につづく戦争にまつわる永遠の問いかけでもある。

 番組では当時の米兵のひとりとして若き日のJ.Dサリンジャーに注目する。作戦当時の写真も映る。ちょっと面長の端正な顔立ち…ああ、わが青春のサリンジャーだ。この戦争によるPTSDで彼は生涯隠遁生活を送ったのではないかと語られる。そして帰還後に彼が書いた短編「最後の休暇、最後の日」の一節を示してこの番組はしめくくられる。

 出征直前の若き兵士がかつての戦争で功績をあげた自分の父親に向かってキッパリと言う。

「そのおかげで青年たちが一人前になったみたいに聞こえる・・・。みんな、戦争は地獄だなんて口ではいうけれど、・・・戦争に行ったことをちょっと自慢にしているみたいに思うんだ。」
    (中略)
「この前の戦争にせよ、こんどの戦争にせよ、そこで戦った男たちはいったん戦争がすんだら、もう口を閉ざして、どんなことがあっても二度とそんな話をするべきじゃない〜それはみんなの義務だってことを、ぼくはこればかりは心から信じているんだ。もう死者をして死者を葬らせるべき時だと思うのさ。」
   (中略)
「でも、もしぼくらが帰還して、ドイツ兵が帰還して、イギリス人も日本人もフランス人も、だれもかれもがヒロイズムだの、ごきぶりだの、たこつぼだの、血だのと話したり、書いたり、絵にしたり、映画にしたりとしたら、つぎのジェネレーションはまた未来のヒトラーにしたがうことになるだろう」

 何を語り何を語るべきでないのか。語らずに行かねばならないときもある。誰もが口閉ざせ愛する者のために。もちろんこの拓郎の歌とは関係ないのだろうが、そんなフレーズが頭をめぐるのだ。

2024. 4. 15

☆☆☆80年代という同窓会☆☆☆
 田家秀樹「80年代音楽ノート」を読んでいる。世代的にはドンピシャで実際に青春時代に耳にした音楽ばかりだ。しかし何だろうか、このしみじみとしたアウェー感は。すべては"あの人だけが音楽だ"と思い詰めた青春を送ってしまった報いである。ちょうど友人も殆ど無く孤立していた高校のクラス会に何十年振りに出席したみたいな感じだ。みんなは盛り上がるが俺は誰とも話もできない。唯一のたのみは、80年代半ばで退職してしまった吉田先生と陰キャな俺にも優しくしてくれた浜田くんと坂崎くんくらいのものなのだ。

 でもさ、この80年代のノートの中で既にメインストリームから外れて退場しようとしている吉田拓郎がチラリと登場するのだが、そこがまた一番カッコよく見えるんだよ。降りて行かんとする背中がたまらんのだ。ということで私の病はあらためて深い。いや病なら治りもするが、これは性癖なので治療不能だ。…結論、それで本人がしあわせだから、そのままいくしかない。
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2024. 4. 14

☆窓☆
 「夏に恋する女たち」をダラダラと観ながらのつづき。言うまでもなくすべては俺の勝手な思い込みなんだけど「あいつの部屋には男がいる」と同じアルバムの「今夜も君をこの胸に」も当時は同じイキフンに聴こえた。

  窓からあふれる星の数
  君の白い身体によく似合う

 この「窓」はやはり六本木・青山あたりのただれた高級マンションの窓のイメージだった。濃密な夜を過ごした田村正和と名取裕子の二人が窓から六本木の街と夜空を眺める。どこかに自堕落な香りが残る、ぶっちゃけ、岡本信人な俺には"いけすかない曲"だった。しかもこの曲が「ファミリー」や「アジアの片隅で」に代わってコンサートのオーラスを飾るのも大いに気に入らなかった。当時はコンサートはシャウトとグルーヴの発散系で終わるものと信じていた。

 そしておよそ35年ぶりで、2019年のラストツアーのオーラスにこの「今夜も君をこの胸に」が返り咲いた。あんだけ悪態ついといて誠にすまないが、これがメチャクチャ圧巻だった。心の底から美しいと思った。最後かもしれないコンサートのいちばん最後に、この曲で会場から送り出してもらえたことがなんか誇らしかった。わがファン人生に悔いなし。
 2019年の「窓」は六本木とか青山とか祐天寺とかの高級マンションだけではなく、愛しあうすべてのひとに向って開かれた窓のようだった。どこであろうと、そして過去・現在・未来いつであろうと、大切な人と星を眺める窓の歌になっていた…と思う。

 いしいしんじの「プラネタリウムのふたご」の大好きな一節を思い出す。

"でも、それ以上に大切なのは、それがほんものの星かどうかより、たったいま誰かが自分のとなりにいて、自分とおなじものを見て喜んでいると、こころから信じられることだ。そんな相手が、この世にいてくれるってことだよ" 

 窓からあふれる星はそのアイコンだ。ということで個人的な思い込みで勝手に嫌ったり、持ち上げたりしてなんだが、現在にして思えば、よくぞこの歌を作っておいてくれました、また最後の最後によくぞこの曲を持ってきてくれましたと心の底から思う。その間歌い続けてくれた時間とともに感謝申し上げたい。

2024. 4. 12

☆☆☆#425☆☆☆
 配信で昔のドラマ「夏に恋する女たち」(1983年制作)を観ている。いわゆるトレンディドラマのハシリで、六本木の高級マンションを舞台に田村正和(ヌード専門カメラマン)、原田芳雄(ホスト)、津川雅彦(サラリーマンであり闇画商)らウサンクサイ住人たちの織り成すスキャンダラスな恋愛ドラマだ。いわゆるバブル時代の退廃した空気に満ちている。初見当時は学生だったのでまったく別世界のようなドラマだった。だいたい蒲田あたりに住んでたら六本木なんてニューヨークと同じくらい縁遠い。ドラマの登場人物の中で唯一自分が感情移入できたのはカタブツで小者のマンション管理人=岡本信人だけだった。
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 現在になって観なおすとそれこそ不適切にもほどがあるのオンパレードなのだが、それでも田村正和、原田芳雄、津川雅彦それぞれに異なる色香の溢れる男たちのカッコよさといったらない。そうだ、梓みちよも出ていた。ああ、もうみんな亡くなられてしまったというショックがじわじわと来る。まさに人生はビールの泡に浮かびはじけるうたかたの夢なのか。

 そういう話がしたかったのではない。このドラマを観るといつも「あいつの部屋には男がいる」を思い出すのだ。当時も今もだ。時期もほぼシンクロしている。そうだ劇中、津川雅彦が「僕笑っちゃいます」を口ずさむシーンがあった。そこいらも含めてこのドラマが体現するバブリーで自堕落な空気と「あいつの部屋には男がいる」の世界観は通底していると思うのだ。六本木と青山とちょっと場所は違うが、こういう背徳的な高級マンションに彼女の#425はあったに違いない。そんな一室で津川雅彦に背中から抱きつかれながら萬田久子が受話器に向かって「今日は遅いからまた明日…」と困ってる様子が浮かんでくるのだ。かぁぁぁぁこのイカレタ不道徳なヤツらめが!!という嫉妬もこもった思いが頭をよぎる…俺はやっぱり生涯岡本信人だったのだ。それでも観終わるとポケットに手を突っ込んで歩いている自分が切ない(涙)。
 この曲は結構ポップな名作ではないかと頭では思いつつ、いまひとつ心で共感できないゆえんではないかと思う。
 ということでスキャンダルの中で「自堕落に生きよう」とうそぶく吉田拓郎を遠く感じ始める、すれ違いの80年代中盤の幕開けのような曲でありました。
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 ああ原田芳雄が第6回でガッツリと「僕笑っちゃいます」を歌っておった。

2024. 4. 10

☆欲望〜Another Side Of Desire☆
「Another Side Of Takuro 25」予約特典クリアファイルTypeA〜TypeDとか言われても心は動かなかった。さすがにこの爺はもう枯れました。そういうあざとい特典商法に燃える気力は残っておりませぬ。
…と思って、公式から出揃ったA〜Dの見本を観てみた。
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 なんだこりゃ、全部欲しいぞっ!!…手に入れるまでは死ねない強欲爺なのだ。それにしても、おい4枚セットとかにできなかったのかよ。そんなにこの世界は甘くはないか。どうすりゃいいのか思案橋。かくして欲望をめぐる熾烈な戦いは老いようと倒れようと白い灰になるまでつづくのだった。

 あれフォーライフ時代の写真が無くね?

2024. 4. 9

☆記憶のありかを確かめている☆
 このTOUR79の「伽草子」の思いっきり振り切ったアレンジもカッコ良すぎてシビレた。篠島の3曲目、ようやく日はとっぷりと暮れたところだった。この換骨脱胎のようなドラマチックな「伽草子」を聴きながら当時の俺は心の中で叫んだ。勝った。ああそうだよ、音楽に勝ち負けなんて馬鹿らしい。でも勝ったと叫んばずにはいられなかった。時はニューミュージック全盛時代、このときもつま恋でアリスのイベントが耳目を集めていた。もう拓郎は古い、そんなの聴いているオマエはダサイという有象無象の空気。そんな極北にいた俺の思いを見事に吹き飛ばしてくれた。吉田拓郎のボーカルだけではない。鈴木茂と青山徹のギターにジェイク・コンセプシオンのサックス、微笑して揺れながらアシストしている松任谷正隆とエルトン永田、島村英二の重厚なドラム…今ここに最高至福の音楽がある。ここが天国だ。この曲を聴きながらそう確信したのだった。忘れられへん。

 この話は何度かしたし書いた。また書いてるだとかネタ不足とかいわば言え。ホントにそうだし(爆)。しかしこれは記憶のありかを確かめる大事な点検作業なのだ。ガスの元栓、水道の蛇口の締め忘れを昨日点検したから今日はしないという人はおるまい。ガス水道の確認を毎日点検してるヤツがいると嗤う人がいないのとおんなじだ。大切な記憶こそ何度も何度も表現して確かめなくてはならない…と作家の吉田篤弘が教えてくれたとおりだ。

 ということで過去に今日に明日に何度もループしながら元気にまいりましょう。

2024. 4. 8

☆☆☆振り切る感じ☆☆☆
 なので「Another Side Of TAKURO」に文句つけているんじゃなくて「伽草子」(1973)ってやっぱりいいな〜そこだ。久々にしみじみと聴き入ってしまった。もうマイブームの小川未明の世界のようだ。そしてこの「伽草子」(1973)からのTOUR1979の「伽草子」(1979)への思い切り振りきる感じ、このスイングがまたたまらないんだよ。ああ至福。感動できなきゃ人間ヤメだ。
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2024. 4. 7

☆人にはそれぞれの☆
 「Another Side Of Takuro 25」所収の「伽草子」は"みんな大好き"(1997)のバージョンなのか。やっぱり「伽草子」はシングル/アルバム「伽草子」(1973)でしょうと思う。いや「みんな大好き」の♪ズンズンッチャンという武部聡志のバージョンが良くないという意味では…ある。大いにある。ってすまん、もうそういう悪態をつくのはやめにしたんだ。なので言い方を変えれば「伽草子」(1973)はあまりにも素晴らしい。あのイントロの音色からして別世界に誘われるかのようだ。奇跡のように美しい演奏とボーカルは、もう神様が作ったとしか思えないのだ。そんなふうに僕は思う。
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2024. 4. 6

☆☆☆未明☆☆☆
 昨夜は拓郎ファン3人と集まり、拓郎の誕生日を寿ぐ乾杯のあと「武蔵野未明読書会」(仮称)をおこなった。なんだそりゃ。「未明」といっても「7月26日未明」でなく作家の「小川未明」である。未明全集を所有している彼の指導のもと不可思議な短編作品たちについて語り合った。もはや童話の域を超えた「なんなんだこの話は!?」と時に苛立ちが胸を突き身体をねじらせるような謎の短編たちの虜になってしまった私たちなのである。
 吉田拓郎は、今回のベストアルバム「Another side of TAKURO」のために300曲を聴き直したという。未明も1200作ともいうべき膨大な作品がある。共通するのは、代表作、著名作以外の作品に魂の作品が散りばめられているところだ。だから気が抜けない。得体のしれないダンジョンに入ってゆく感じがなかなかよい。
 なぜか拓郎ファンたちが読む「未明」と言うことで通底するものが見つかったらまたお便りします。
 そうそう「未明」というのはずっと明け方に近い夜中だと思っていたが、午前0時から3時の間のことだと昨夜教わった。ちょうど御大が深夜放送をやっていた時間なんだな。

2024. 4. 5

☆Happy78years☆

  お誕生日おめでとうございます!

 この日があるから現在がある。追いかけましたあなたの姿だけ。だから一線を退こうが、何歳になろうが、私の人生のフロントラインは、あなたの現在いるところ…そこだ。ここで一首

   退けど 旅する背中
        いつだって
           そこが私の最前線

                   星紀行、心の短歌

 ん〜我ながらイイ歌だなぁ(爆)…イタくてすまんな。 
 とにかく拓郎さん、また拓郎さんだけでなく拓郎さんに深くつながるすべての皆様、どうかどうかお元気でお過ごしください。

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2024. 4. 4

☆背中合わせのランデブー☆
 桜が咲き始めた。老いも若きも、住民も旅行者もみんな一様にツルツルしたものを掲げて写真を撮っている。裸眼でただ眺めている人がいない。異様といえば異様な光景だ。
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 >っておめぇも撮ってるんじゃないかよっ。
 桜の下を通ると、どうしたって毎年、太田裕美の「花吹雪」が脳内で流れる。「拓郎さんが作ってくださいました」と太田裕美のヤンタンでのアナウンス付きだ。

 桜吹雪が散ってます こころの画面いっぱいに
 卒業式で泣く人が このごろんほんの少しね
 淋しい顔で あなたが言った
 ともだちでいようよ ともだちでいましょう

 それにしても松本隆は"卒業後の遠距離悲恋"で何曲書けば気がすむんだ。悔しいが、どの曲を聴いても胸が切なくなるんだよ。

2024. 4. 3

☆語りかけてくるSONG LIST☆
 自選ベストといえば2018年の"FromT"。この選曲は凄いなぁと唸ったものだ。それは今、見返してみても選曲の妙味が凄すぎるとしか言いいようがない。曲の選択から曲の順番からその行間のようものすみずみまですんばらしい。
"FromT"
disc 1
1 春を待つ手紙
2 僕の道
3 流星
4 いくつになっても happy birthday
5 恋の歌
6 金曜日の朝
7 Oldies
8 シンシア
9 ウィンブルドンの夢
10 水無し川
11 清流 (父へ)
12 花の店
13 戻ってきた恋人
14 アゲイン (吉田拓郎 LIVE 2016)
disc2
1 風の街
2 ガンバラナイけどいいでしょう
3 おきざりにした悲しみは
4 君のスピードで
5 消えていくもの
6 春だったね
7 元気です
8 歩道橋の上で
9 歩こうね
10 朝陽がサン
11 夏休み
12 慕情
13 マークII’73
  "Another Side of TAKURO"も同じ妙味を感じる。これはもしかして"FromT"に対して"Another Side"なのか。なんかリスト自身が語りかけてくるよね。この二つのベストアルバムのソングリストを眺めているだけで一晩お酒が飲める…いや飲まずとも語り尽くせそうだ。って、それは拓郎はファンはみんな同じだと思う。
"Another Side of TAKURO"
disc1
1 どうしてこんなに悲しいんだろう
2 せんこう花火
3 君が好き
4 ペニーレインでバーボン
5 風邪
6 I’m in Love
7 たえこMY LOVE
8 もうすぐ帰るよ
9 流れる
10 この歌をある人に
11 いつか夜の雨が
12 あの娘に逢えたら
13 午前0時の街
disc2
1 裏街のマリア
2 冷たい雨が降っている
3 夜霧よ今夜もありがとう
4 Y
5 大阪行きは何番ホーム
6 とんとご無沙汰
7 マスターの独り言
8 全部抱きしめて
9 伽草子
10 車を降りた瞬間から
11 吉田町の唄
12 気持ちだよ
ボーナストラック
13 純情(吉田拓郎・加藤和彦)

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2024. 4. 2

☆☆☆発送をもって発表にかえるということ☆☆☆
 フォーライフの告知。
 6月12日にリリースされる吉田拓郎のALBUM「Another Side Of Takuro 25(FLCF-4536)」の
“初回生産分”にのみ封入されている専用応募ハガキに必要事項をご記入の上、ご応募ください!
  Another Side Of Takuro 25 オリジナルTシャツ
  Another Side Of Takuro 25 オリジナルトートバッグ
を抽選でそれぞれ30名様にプレゼントいたします!
 これを見てふと思った。
 2022年12月21日にリリースされる吉田拓郎のALBUM「COMPLETE TAKURO TOUR 1979 完全復刻盤(FLCF-5089)」の“初回生産分”にのみ封入されている専用応募ハガキに必要事項をご記入の上、ご応募ください!
TAKURO TOUR 1979 オリジナルTシャツを抽選で20名様にプレゼントいたします!
 …これは結局、俺、ハズレたってことだよね。>あったりめぇだろ!!

2024. 4. 1

☆☆☆"後悔していない"と"新しいこと"☆☆☆
 高円寺にバレエ公演を観にいった。昨年、もう踊りきったからとヨーロッパの州立バレエ団を退団し帰国してきた彼女の最後の踊りだ。開演前にとなりの席の安曇野から駆け付けた家具職人Pさんとボソボソと話した。あの小さかった子がなぁ…とか、よく一人ドイツに渡ってプロになったものだとか、最後に日本で見た時は後ろの席がエルトン永田さんだったとか、ローザンヌのネット中継を二人でしがみつくように観たこととか、いろいろと話してみたが、今はそういう話しをするときじゃないというのがなんとなくわかった。これから始まる舞台に魂がすべて持っていかれた状態だった。

 公演が始まるとそこだけが光り輝いて見えた。ちょうどフォーラムで客電が消えて拓郎がゆらりと登場した時のように胸がしめつけられるオーラだ。アーティストが凄いのは、それまでの歴史とかドラマとかそういう思い出やストーリーもその短い時間で凝縮して表現しえてしまうところだ。巻けば数十分、広げりゃ十何年という技ができるのが藝術というものだ。Pさんもそして俺もそれぞれの時間を思っていた。近しい方々には何十年分ものもっともっと深い万感だったろう。おっかなびっくり"Bravo!!"と叫んでみた。"タクロー"と同じ要領だ。彼女はすべての結晶のように見事に踊りきった。それは素人の俺にもわかった。

 しかしご本人の言葉のニュアンスは少し違う。
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 本人は清々しく言い切る「後悔していない!」。そして驚いたのは最後といわれるステージなのに「新しいことした!」と言う喜びの叫びだった。全然、自分のこれまでの歴史とか思い出とか後ろを観ていないんだよ。
 思いきり感傷でいっぱいになって観ているこちら側と違って、ステージ上のアーティストには全く違う景色が観えているようだった。
 そうなのか、そういうものなのか。まだできる!とか、もう一度観たい!とかではなく、心の底からありがとう、どうかあなただけに観えている景色を大切に!と言って差し上げたい。…あのお方に対してもそう言えるように俺もがんばってみよう(爆)。これがダメなんだよ、よーしスバラシイ選曲だ、そのanother sideの25曲でライブやってみようかっ!なっ!とか言いたくなっちゃうんだよ。
 

2024. 3. 31

100分de名著「マガジンT(第12号)」を読む  第10話(最終回) さらば は いいじゃないかのA面
 
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☆さよならが言えないで☆
 アルバム「吉田町の唄」が完成し、さあ!これから"ALONE TOUR"に出るぞっ!!と立ち上がった吉田拓郎。加えて会報最後の”続挽歌を撃て!”の最終回にこんなくだりもあった。
「50歳になった時、つま恋でもう一度歌うのも悪くないかもしれない」きらりと拓郎の目が光った。
 OK松任谷!!いいじゃないか!はさらばのB面。こうして吉田拓郎の新たなる旅立ちを祝福しつつ公式ファンクラブT'sは終了した。いや正確には、ニフティサーブのパソコン通信「自分の事は棚に上げて」として切り替わるのだが、当時PCなど無縁だった私はココで脱落してしまった。面目ない。めくるめくような電脳ファンクラブが展開していたのかもしれない。もしそうだったらどなたか教えてください。

☆わが心の暗夜行路☆
 ずっと書いてきたようにT'sは、1988年〜1992年というぶっちゃけ"不遇な時代"をともに生きた公式ファンクラブだった。そしてこの不遇の時代は、このT's終了以後もまだまだしばらく続く。例えば、水差すようですまないが会報最終号で自信と期待のもとに送り出されたアルバム「吉田町の唄」について、翌93年の別雑誌のインタビューで拓郎はこんなふうに振り返った。
いくら自分でこのアルバムは気に入っているといっても世間の評価をあまり受けなかったものを後生大事に聴いていても、ということには気づくようになっているよ。(略)僕は「吉田町の唄」のアルバムは好きなんだけど、いつまでも言ってても仕様がないし
           ぴあBOOK「吉田拓郎ヒストリー1970-1993」
 悲しいだろうみんな同じさ。この身の置き所のないような悲しみ。その悲しみいずこに向けるだろう。スポニチのニュース記事にもなった"50歳になったらつま恋"企画もいつの間にか沙汰やみになった。どこまでも暗夜行路は続くように思えたものだ。このまま吉田拓郎がフェイドアウトしてしまうのではないか。真剣にそんなことも考えたものだ。

☆いつでもどこでもおまえがいたのさ☆
 しかし、そんな心配は一ファンの思い上がりに過ぎなかったことはその後の歴史が証明してくれた。いつでもどこでも吉田拓郎はファンの思い入れや思い込みを飛び越えてやってくる。…まさか2024年になってフォーライフからライナーノーツ付きのあんなツボな選曲のベストアルバムを出すとは。…って、その話じゃない。
 拓郎は不遇だろうと何だろうと音楽を愛する旅をずっと続けてくれたのだ。長い歳月の中の日常・非日常、好調・不調、順境・逆境、ハレの日・ケの日、どこを切り取っても吉田拓郎は吉田拓郎だった。いつだってその深奥にはいきいきとした音楽があった。90年代に駄作無し、それ以後もたぶんほとんど無し(爆)。あのつま恋だって15年かけて60歳を超えてから約束を果たしてくれた。

☆雌伏と至福、二つの"しふく"☆
 今頃、昔の会報なんか読んで何になるという勿れ。今この会報を振り返って教えられたのはそんな不遇な時代の心の持ち方、処し方だ。いや楽しみ方といっていい。雌伏のときもまた至福のときに変わることを教えてくれた。
 渋谷さん陣山さんはじめ新旧スタッフの方々、ミュージシャン、音楽ライター、写真家の皆さんがよってたかって吉田拓郎という灯火を支え、そして何より拓郎本人の総力をも結集して出来た12冊の会報。当初のマリクレール路線から魂のファン路線への進路変更に試行錯誤された、あなたの苦闘が今になってよくわかります、藤井てっかん氏。楽しゅうございました。今頃に申訳ありませんが、心よりご冥福をお祈りします。中学生の頃からさんざんお世話になりながらいつの間にか消えてしまった「八曜社」。あらためて深謝申し上げます。
 拓郎がリタイヤしてしまった今は不遇な時というのかどうかはわからないが、ハードな時であることは確かだ。それでも音楽の旅は続いていると拓郎は明言する。だったらおまえも信じて旅を続けることだとこの会報たちは語り掛けてくれる。ベストアルバム…御機嫌じゃないか。映画「駅STATION」の中での根津甚八の辞世の句

   “暗闇の 彼方に光る一点を
        今 駅舎の灯と信じつつ行く”
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 カッコつけるとそんな気分だねぇ。まだ辞世したくないけれど。

 ということで、こんなウザイ拙文にお付き合いくださった方、励ましてくださった方、心の底からありがとうございました。これからなにかきっといいことがあることを信じて、この道をご機嫌でまいりましょう。

2024. 3. 28

☆another side☆
フォーライフからの拓郎自選ベストが出るというニュース。ライナーノーツまでも書いてくれるのか。嬉しい。あ〜「流れる」が入ってる! 以前"ラジオでナイト"でどういう曲だったか思い出せない…と口走っていたが、思い出したんだな。良かった!!(涙)

2024. 3. 26

100分de名著「マガジンT(第12号)」を読む  第9話 ほんもののアコースティックを抱きしめる
 
☆前回までのあらすじ☆
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 えーっと何の話だったっけ? おお、そうじゃ、会報マガジンT最終号の最後の特集記事"吉田拓郎インタビュー"じゃった。観音崎スタジオで、シンプジャーナルの大越元編集長がインタビュアーだったぞな。ダウンタウンズの再結成でリフレッシュし何かを掴んだ吉田拓郎はここ観音崎でニューアルバムのレコーディングに入った。言わずと知れた名盤「吉田町の唄」である。このアルバムは石川鷹彦と二人三脚で制作された。"元気です"、"ローリング30"と石川鷹彦が重要な役割を果たした参加作品はいろいろあれど一枚のアルバムをフルでつきあったのは、この「吉田町の唄」が初めてだそうだ。楽しそうなこぼれ話がたくさんあったようだ。
 今度のこのアルバムの「あれ宣伝したい」とか「これ売りたい」とか「ここ、俺のコマーシャルな部分」というのは何にもないけれど、石川鷹彦ですよ。
===ああ大活躍ですね
うん、石川鷹彦がいい。で、石川鷹彦はやっぱり、改めて言うのもおこがましいくらいのギター弾きで、言うのがおこがましいくらい歴史を持ってて、そりゃ俺なんかが太刀打ちできないくらいのいろんなノウハウ持っているんだけど、でも俺に言わせると、みんな石川鷹彦を使えていないんだよね。石川鷹彦を全然使いこなせていない。
 このアルバムは吉田拓郎が石川鷹彦を存分に使いこなした作品ということだ。無限の音楽引き出しを持つ石川鷹彦とのドラマは、これまでラジオでも何度も語られてきた。あ、最近、同じような無限の音楽引き出し対する絶賛を聴いたことあるなと思ったら松任谷正隆だった(ラジオ「松任谷正隆のちょっと変なこと聞いてもいいですか?」)。
 拓郎は、いつも彼らの自在な音楽の引き出しから次から次へと出てくるものが嬉しくて嬉しくてたまらない様子だった。そこには拓郎のスターとしてのマウントや高慢なものは一切なく、ひたすら石川鷹彦や松任谷正隆らの豊富な音楽の引き出しをレスペクトしながら楽しんでいることが伝わって来た。この人は本当に音楽のことが大好きなんだなぁと思うところだ。アコギ、エレキ、ドブロ、マンドリン、ブズーキ、バンジョー、シタールと八面六臂の活躍だ。石川鷹彦さんの活躍ぶりは次のとおりだ。
  イントロダクション:Bouzouki, Acoustic Guitar
  夕映え:Acoustic Guitar, Dobro
  夏・二人で:Acoustic Guitar, Mandolin, Bouzouki
  いつもチンチンに冷えたコーラがそこにあった:Acoustic Guitar, Electric Guitar
  そうしなさい:Acoustic Guitar, 12-Strings Guitar, Mandolin, Dobro
  今度はいったい何回目の引越しになるんだろう:Acoustic Guitar
  ありふれた街に雪が降る:Acoustic Guitar, Bouzouki, Electric Sitar
  想ひ出:Acoustic Guitar, Banjo:
  吉田町の唄:Acoustic Guitar, Banjo, Dobro, Mandolin, Bouzouki
  僕を呼び出したのは:Acoustic Guitar
 多彩なサウンドの中で石川鷹彦がレコーディング中に拓郎に言った言葉が意味深だ。
「だいたいアコースティックということをみんな勘違いしてんだよな」
 もちろんこの私に何がどう勘違いしてるのか説明できるものではない。ただ生ギターで弾き語ればアコースティックという定見は間違いだと仰られているのかと…それぐらいはわかる。

      今までのアコーステック
      あれは
      マチガイでした


 …あ、このコピーは怒られちゃうんだっけ(爆) 裏を返すとこのアルバムにこそ「ホンモノのアコースティック」があるということだ。石川鷹彦先生のこの言葉を胸に、あらためてこのアルバムをじっくりと聴き直してみようではありませんか。とにかく聴きどころ満載なのだ。例えばほんの一例だが「ありふれた街に雪が降る」の間奏のブズーキはもうすんばらしく胸にしみる空のかがやき。今日、山手線で聴いてて泣きそうになったよ。

☆時はためらいもなく夕映えに燃えて☆
 「ソウデス、ワタシガ"ブズーキ"デース」という自己紹介のように奏でられる"イントロダクション"。これはアルバムのイントロダクションなのだろうが、私は次の"夕映え"のオープニングのように聴こえてしまう。イントロダクションと夕映えを一体として聴くとこの曲のスケール感がより一層アップして聴こえる。ちょうど「ローリング30」の「英雄」の前の松任谷正隆の鎮魂のピアノイントロと同じくらい効果的だ。
 インタビュアーの大越元編集長が、この"夕映え"(発売前なので「あの曲」とボカシている)に感動しシングルにするように進言しているが、拓郎も力作であることを認めている。シングルにゃせんかったけど。最後にこの会心の詞作をものにした石原信一は、会報の連載「続挽歌を撃て」最終回の…は最後に「夕映え」の全詞が載せられている。そのあとのしめくくりの石原信一のキメフレーズがたまらない。
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そして海に一面の赤を投げかけて、今日のなごりの陽が燃え広がった。拓郎の唄は、その海の赤を突き抜けて、明日より遠い彼方へ向って行った。(石原信一「新挽歌を撃て/「夕映え」」マガジンT P.21)
 キャーっ!!カッコいいったらありゃしない。石原信一先生、素晴らしい連載、そして最高の詩作をありがとうございました。

☆少しねじれたけれど☆
 とはいえ蛇足を承知で言いたい。「夕映え」とともにこのアルバムで忘れちゃならない名作は「僕を呼び出したのは」である。私の近くにいる拓郎ファンでもこの曲を強く推す人がたくさんいる。まったくだ。この凄絶で切なくてそれでもどこか誇らしささえも感じる魂の傑作である。この当時、いつもお世話になっていたT'sのテレフォンサービスに電話すると、自動音声告知のうしろに「夕映え」が流れていたが、そのうちに「僕を呼出しのは」に変わった。それだけ高評価だったのではないか。
 さて名曲揃いのアルバムだが、その中の筆頭格の「夕映え」「僕を呼び出したのは」の2曲の扱いは、いまひとつだ。「そうしなさい」なんて2019年に見事に蘇生したというのに。 この二曲はガッツリとコンサートで歌いこんで欲しかったし、練り上げられたライブバージョンも残して欲しかった。いや、欲しいところだ。

 こうして石川鷹彦とともにガッツリ組み合って名盤出来。90年代に駄作無し。終わりゆく公式ファンクラブT'sへの最後のはなむけとなった。

 さて次回はいよいよ最終回>今回じゃなかったのかよ。
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をお送りします。

2024. 3. 24

100分de名著「マガジンT(第12号)」を読む  第8話 いつも遠くからヒロシマ
 
☆誰も書かなかった吉田拓郎☆
 この当時は世界全体が政治の季節だったし、また被爆地広島だったこともあるのだろうか、社会は殺気立ち、それはただ音楽と青春を謳歌しているだけのダウンタウンズにも容赦なく押し寄せた。この小説では、吉田拓郎たちの音楽活動だけでなく、例えば山本コウタローの「誰も知らなかった拓郎」でも書かれなかった当時の社会との軋轢にまで話が及んでいてとても興味深い。

☆深い祈りと深い悲しみ☆
 前々回に書いたとおり、拓郎たちのバンド(このときはバチェラーズ)は「若者の新しい音楽こそが亡くなった人々に対する慰霊になる」という拓郎の発案のもとに平和記念会館で前代未聞のスタンディングライブを打った。その結果、平和記念館を出入り禁止となってしまう。しかし拓郎たちの心情は決して薄っぺらな若気の至りなどとは違う。そのことは例えば石原信一「挽歌を撃て」の一節からもわかる。
 拓郎は自分が育った町、広島で幼い日に見た戦争を思い出した。それは原爆記念日のことだった。毎年日本中の平和主義者が集まって来た。だが何万人もの集会で拓郎が見たものは社会党、総評系の原水禁と共産党系の原水協との激しいなじり合いであり、いさかいだった。「おれの街を直接関係のない奴等が何故荒らすんだ…」(石原信一「挽歌を撃て」P.135)
 このような拓郎の子供の頃の思いが、やがて成長して音楽を始めたころからひとつの信念のようなものに成熟する。
 「愛する広島を『原爆を落とされたかわいそうな街』と見られることが拓郎さんには許せなかった。彼は広島をビートルズが生まれたリバプールのような音楽の街にしたいと願っていました」(2020.11.17「女性セブン」)
 前にも書いた通りこの平和記念館のライブに向けた拓郎達の心意気には感動する。痛快な気分にもなるが、しかしこの小説では単純な武勇伝では終わらせない。
 バンドの面々もそれぞれに家族・知人に原爆にかかわる経験や思いを抱えている。例えば睦月さんがライブ演奏中に窓の外に夕暮れの原爆慰霊碑が目に入って「こんなことして大丈夫か?」と一瞬ひるむ様子も書かれている。
 また平和祈念館は「出禁」になったものの怒鳴られたり面罵されたりしたわけではなく、最後に会館の担当者が静かに告げたという。「私は若い人のやることには反対しないようにしているつもりだ。でも、ここはエレキには二度と貸さんけ。」…この担当者には彼なりの深い思いがあったことが想像される。なので公権力vs若者という武勇伝ではないし、勝者も敗者もない。どちらの人々にも共通して流れる悲しみのようなものをきちんと拾い上げているところに感動する。

☆誰が国を売るのか☆ 
 第1回のライトミュージックコンテスト広島大会で優勝したダウンタウンズは、本当なら秋の全国大会に出場するはずだった。しかし大会関係者=YAMAHA側から辞退を強いられた。山本コウタローの「誰も知らなかった拓郎」でもこの全国大会辞退の事実はスッポリと抜けている。翌年も広島大会に優勝し、全国大会で4位になった事実しか書いていない。この小説にはその事情が悲しみの光景とともに記されている。
 ダウンタウンズが岩国の米軍キャンプで演奏していたことを大会主催のヤマハ側に抗議したものがいた。時はベトナム戦争の時代だ。その戦地ベトナムに赴き侵略戦争の手先となる米兵たちのところに入り浸っている奴等は「売国奴だ!」という中傷が大会側に届いた。全国大会が混乱することを怖れたヤマハ側からダウンタウンズに対する出場辞退の要請だった。このときの拓郎たちの怒りと悔し涙のくだりは、読んでいるこっちも心が痛い、心がつらい。
 吉田拓郎という人は誰よりも戦争を憎み、何よりも戦争を嫌う人だ。何の権限もない私だが断言する。そんなことはファンだったらわかる。歌を聴けばわかる。魂でわかる。だからこそ悔しい。悔しすぎる。僕が泣いているのはとても悔しいからです。人の尊さやさしさ踏みにじられそうで。

☆このアジアの片隅に☆
 小説では拓郎たちの怒りと悲しみだけではなく、米軍キャンプの米兵たちの様子にも触れている。米軍キャンプでのダウンタウンズの聴衆は、明日にも戦地ベトナムに送られるかもしれない米兵たちだ。だが兵士たちも生身の人間である。ベトナム戦争でのアメリカの大義も地に堕ちていたし、戦況は厳しく帰還できる可能性も高くはない。そんな米兵たちの不安と混乱と悲しみも描かれている。ダウンタウンズの音楽を評価してキャンプでの演奏に抜擢してくれたFENのDJもやがて戦地に応召されることになる。祖国から遠く離れたアジアで、ダウンタウンズのライブが人生最後のライブとなった米兵もたくさんいたと思われる。ここでも単に加害者、被害者とか、侵略者、被侵略者という対立軸ではなく、戦争という蛮行によって、立場の違いを超えたあらゆる人々の身の置き所のない悲しみが描かれている。

☆人の自由ってなんだったい?☆
 反戦、反核兵器は切実かつ大切な人類の願いである。しかし、それが政争の具となったり、大きな運動体に組織化されたりすると、ときに排他的になりそこからアブレた人々を排撃することがある。ひとりひとりの人間の自由と平和を守るために始まったはずが、かえってその人間を攻撃するという"ひずみ"が生ずることを歴史が証明している。ダウンタウンズはその"ひずみ"に痛めつけられたのだ。
 これは俺のまったくの思い込みと勝手な憶測だ。吉田拓郎は戦争を憎みながらも反戦歌や例えば広島の名のもとに平和を唱えるイベントとは距離があるように見える。まさに"いつもいつも遠くから遠くから見ていたヒロシマ"というフレーズのとおりに見えるのは、そのせいもあるのかもしれない。
 また拓郎が昔から常に少数者のことを気にかけ、音楽は自由なものだと口にすることもすべては一筋に繋がっているような気がしてならない。1986年のことだが拓郎のこんな言葉を思い出す。
 反戦わかる。反核わかる。全部わかるよ。そんなの人間だからわかる。戦争は。いやだよ、わかる。わかるけど、だからといって俺の最後の自由くらい許してくれというさ、おれとしてはこれが普通なんだよ(月刊PLAYBOY 137号/1986年)
 この小説の中で一番好きな場面は、工場で働く小松さんと年長の班長さんとのくだりだ。かつて原爆で家族全員を失ってしまった班長のおじさんは毎年8月6日が近づくと目に見えて憔悴する様子を小松さんは目にする。それでも今は小学生の子どももいる班長さんは、ザ・タイガースが大好きだという小学生の息子の写真を小松さんに見せて目を細めながら語り掛ける。
       「音楽はええのう、平和の象徴じゃ」
 ホントの自由も平和もそして音楽もこのオジサンの魂の言葉の中にこそ生きている…そのことを拓郎は肌でわかっているのだと思う。

 最後にもう一度、ダウンタウンズを語ったあの文章をかみしめたい。
 語り、遊び、悩み、ギターを弾き、歌い、そして成長する何と素晴らしい季節だった事か。毎日がまさに風のように流れ僕たちを包み込みながら「どうだい、自由っていいだろう?」と語りかける。
    (吉田拓郎「広島という季節がその時そこにあった」中国文化賞受賞に寄せて/中国新聞)


 ということで思いっきり会報最終号の話からズレて、いつの間にか"100分de名著「いつも見ていた広島/ダウンタウンズ物語」"になってねぇか。もっとキチンと読みこんでから書くべきだった。とはいえ、いよいよ…って誰も読んじゃいまいが、"100分de名著「マガジンT(第12号)」を読む"も次回で最終回だ。たぶん(笑)

2024. 3. 21

100分de名著「マガジンT(第12号)」を読む  第7話 色あせなかったのは四人の若者だけ
  
☆これまでのあらすじ☆
 しょせんは他人様の友情とか真実などが私ごときにわかるはずもない。ましてや「小説」なのでどこまでが事実かもわからない。いや、すべてが事実であってほしいけど。勝手に実在する人たちの姿に重ねながら、勝手に感動し勇気や元気をいただくしかない。なので物語を読み進むうちに、拓郎のみならず、ダウンタウンズのメンバーの方々にも熱い親近感と共感が湧いてきてしまう。

☆リーダーよ、永遠なれ☆
 昔からラジオなどで拓郎はダウンタウンズの創設者にしてリーダーの睦月さんのことを広島大卒の秀才だと喧伝していたのでクールな優等生タイプを想像していた。しかし広島商業高校からの初の広大合格というユニークな経歴と、自分でアンプや機材を作れる器用さ、そして拓郎にR&Bを指南するなど音楽ツウでもある。ちょうど後の松任谷正隆のようなポジションなのかとも思った。東京で失意の拓郎に「広島に帰ってきてバンドやろうぜ!」と睦月さんが言ってくれなかったら、拓郎は河合楽器に勤めるお茶の先生のまま、私たちは「吉田拓郎」に逢えなかったかもしれないのだ。そう考えると感謝してもし過ぎることはない。
 睦月さんが大学の4年生のときに女手一つで育ててくれた御母堂に初めて広大のキャンパスを案内して歩く。そのときにプロの音楽の世界ではなく企業に就職することを自然に決意する。このシーンがまた深く胸にしみる。

☆彼の背中と夢枕☆
 中学生のとき虚弱な拓郎を後ろに乗せて毎日自転車通学をしてくれた親友にして、後に銀行員ひいては支店長になるベーシストの小野さん。最後のオールナイトニッポンゴールドで、中学生のとき孤独だった拓郎は「この小野君とずっと一緒に友人でいたいと思った」とその思慕の気持を述懐していた。その意味が今はよくわかる。また彼は彼で早くにご両親を相次いで亡くし若いうちから天涯孤独の身となった。だからこそ後年、拓郎は、彼の結婚を応援する。しかし、それがゆえに彼もまた音楽の世界からは離れることになる。それでも彼を祝福する拓郎がとにかく素敵なのだ。
 拓郎の母朝子さんが小野さんの夢枕に立って「ギター一本のライブが観たかった」という拓郎にアローンツアーを急遽決行させたエピソードがあったが、なんで小野君の夢枕なのか?とずっと思っていた。拓郎が上京で長期不在の時も小野さんは拓郎のお母さんを心配して見舞っていたし、拓郎の母も息子の親友で両親を亡くした小野さんのことを我が子のよう大切に気にかけていた。そんな様子がうかがえる。夢枕に立ったという話もむしろ自然なことに思えてくるのだ。

☆夕焼けに向って走ってゆく、あいつ☆
 家柄も裕福で喧嘩も強い藤井さんと拓郎の二人が、バチェラーズ時代、広島のクソバンドのメンバーたちから急襲され大立ち回りのフルボッコ状態になる。さしづめ鶴田浩二と高倉健の世界と思いたいが、腕っぷしの強い藤井さんは相手を叩きのめしていくものの、拓郎の方はいとも簡単にやられてしまう(爆)…なので俺は思った。これは「0011ナポレオン・ソロ」のロバート・ボーンとデビット・マッカラムなのではないか。拓郎はハンサムだけれど、すぐやられてしまうイリヤ=デビット・マッカラムだ。そんな頼もしい藤井さんの活躍を読みながら"AKIRA"が脳内に流れ始めるのだ。

☆チャンプ小松☆
 この小説を通して俺として小松さんに惚れたね。年下の小松さんにとっては拓郎たちはバンド仲間であると同時にあこがれの先輩たちでもある。ボクシング部出身で一匹オオカミだった小松さんは、このバンドで仲間の素晴らしさを知る。先の拓郎、藤井の乱闘に加勢に現れ最後に全員を叩きのめしたのも小松さんだ。かといって極度のあがり症でステージ前が大変なことになるのもかわいい。失礼ながら、小松、なんてイイやつなんだろうと唸るシーンが何か所もある。
 ドラムの素人だった彼は、レコードの回転数を落として、どんな音を叩いているかをつぶさに聴き取り、毎日家の布団を叩きながら練習する。それから工場の夜勤の時以外は、深夜に河合楽器の練習場で朝までドラムを叩くこともたびたびあった。これは映画「ロッキー」で冷凍肉の倉庫でぶら下がってる肉を叩きながらトレーニングしていたロッキー・バルボアと重なる。実際、小松さんは、ライトミュージックコンテストで、ドラムで優秀賞を貰うのだ。
 そして最後にメンバーの就職、結婚で解散の風が吹いてきたダウンタウンズの将来に対して、拓郎に泣きながらバンド愛を訴えるところが、もうこっちももらい泣きしてしまう。

☆蒼いフォトグラフ☆
 松本隆の作詞で松田聖子が歌った「蒼いフォトグラフ」と言う作品がある。松本隆はイケ好かないと悪態をつく俺だが、カラオケでこれを歌うたびに泣きそうになる>情ねぇ

   みんな重い 見えない荷物
   肩の上に 抱えていたわ
   それでも なぜか明るい顔して
   歩いてたっけ

 ダウンタウンズの面々もそれぞれにそれぞれ大変なものを負っていたようだった。それでも明るく音楽に打ち込む…というか音楽があるからこそ彼らは明るくいられたのかもしれない。

 とにかく魅力的な登場人物がバンドメンバー以外にもたくさん登場する。わたしたちファンの元祖的大先輩にあたるダウンタウンズの親衛隊のねーさんたちの推し活は気骨に溢れていてすんばらしい。またマネージャーだった泉さんの誠実さも心に残る。そんな泉マネージャーの姿を観ていたからこそ、拓郎は、2〜3年後にコンサートに行っても何にもしないで寝ている後藤由多加に対して「おまえマネージャーに向いてないんじゃないか」と言えたに違いない(笑)

 すっかり会報から離れてしまった。しかし、ここまで読み込むと、当初はわからなかった会報最終号の拓郎インタビューのこのくだりの意味が身に染みてわかってくるのだ。
僕等の感覚でいうと下手とかつまんなくないわけ。「うん、いいな、悪くないな」ってところがあってね。それはやっぱり一個一個の楽器が巧いとか下手とかいうのと全然関係ないところでさ、なんだろうな…なんか4人、俺達4人だからね、4人だったら4人の気が知れているいうかも気分が合っているっていうか、そういう問題なんだろうなと改めて思ったわけ。(会報第12号)

                          次回につづく。

2024. 3. 19

100分de名著「マガジンT(第12号)」を読む  第6話 独身&下町組血風録
  
☆これまでのあらすじ☆
 そこまで吉田拓郎の深い思いがこめられた「ダウンタウンズ」とはなんなのだろうか。主が姿を見せなくなり、この世の闇路をひたすら迷う今の自分にとって、そこには何か希望の光があるかもしれない。「いつも見ていた広島/ダウンタウンズ物語」は、吉田拓郎のデビュー前日譚、今的には「TAKUROストーリー "エピソード0-ZERO-"」みたいな前史の物語だ。スター誕生前だから旧約聖書みたいなものか(爆)>怒られるぞ! 神よ、さもしい心の私を許したまえ。

☆バチェラーズの船出
 1960年代の広島は、時代的にも地域的にも音楽情報が圧倒的に足りなかった。12弦ギターなど河合楽器ですら取り扱い無しの楽器も多く、ビートルズの新曲ですらも満足に手に入らない。そんな苦境の中でも、若者たちは音楽を愛し求めて、ひたすら練習と演奏を繰り返す。しかしそれは悲壮な努力とか苦労とかではなく、音楽への憧れが彼らを生き生きとつき動かしている。そんな清々しい風が全編に吹いている。
 拓郎が大学生になって最初に組んだバンドである"ザ・バチェラーズ"は、腕を磨き広島での人気をほしいままにする。バチェラーズとダウンタウンズの関係がよくわからない…という方には、俺もわからないが、たぶんそれは"エイプリルフール"と"はっぴいえんど"みたいなものだ。何ならシャネルズとラッツ&スターみたいなものか…>ってどんどん遠ざかっているだろ。
 
☆慰霊と希望とロック
 バチェラーズ編で、胸を打たれたのは、広島の平和記念館でのライブのくだりだ。聖地平和公園の中にある記念館でロックバンドのライブをするなんて前代未聞のことだったことは想像がつく。広島を被爆した悲劇の街ではなく音楽の街リバプールにしようと拓郎は発案した。
「広島の象徴ともいえる場所で、新しい広島の若者たちの音楽を演奏する。それが亡くなった人たちに対しても、もうあの時代には戻らないという意思表示にもなるだろうし、追悼になるのではないか」(田家秀樹「いつも見ていた広島」小学館文庫P.61)
 そこで座席を取っ払いスペースを作り、狂熱のスタンディング+ダンシングライブを挙行した。その結果、バチェラーズは平和記念館から思いっきり出禁をくらう。誤解をおそれず言ってしまえば、なんて素敵な若者たちだろうか。この若者のファンになれて幸せだったとをあらためて誇らしく思うのだ。
 
☆かすかに聞こえたやさしさの歌声は☆
 広島での破竹の勢いそのままにバチェラーズは東京の渡辺プロに売り込みに行く。しかし無念な結果に終わり、バンドはそこで自然解散となってしまう。
 それでも音楽に目覚めた拓郎は止まらない。ひとりコロンビアレコードのフォークコンテストにも応募して「土地に柵する馬鹿がいる」で入賞する。そして拓郎は単身上京し、もはや伝説となった千葉のお寺・広徳院に居候し、日々曲を作りながらプロの音楽界に挑む。しかし、ここでも残念ながら好機は訪れず、かわりに東京でもてはやされるクオリティの低いグループサウンズやウサン臭い音楽業者たちに失望する。
 おそらくは挫折感と孤独で失意のドン底にあったであろう拓郎に対し、"帰っておいで"という母からの便りと"帰って来いよ、広島でまたバンドやろうぜ!"という友である睦月さんからの手紙に帰郷を決意する。切なくも読んでるこっちも胸が熱くなる。後年の名曲「元気です」(1980)の"友や家族の手招きほど懐かしく"という歌詞が浮かぶんだよな。当時から、なんでこんな泣ける詞が書けるんだろうと思ってきたが、その答えが垣間見えたような気がする。また拓郎は気に入らないことがあるたびに「だったらオレは広島に帰るよ」と啖呵を切る、そのルーツもここにあるのか(爆)

☆ダウンタウンズという無双☆
 これがダウタウンズができるまでの前史だ。つまりダウンタウンズ結成の時点で、既に吉田拓郎は幾多の試練を経て音楽家としての大いなるフォースに覚醒していたのだ。プロの音楽界デビューには挫折していたが、それは自分たちが未熟だったからではなく、覚醒したフォースの持ち主から見れば、プロの音楽界の魑魅魍魎どもの薄っぺらさが透けて見えてしまったことによる失望に違いない。自分たちの音楽がダメなどとは1ミリも思っていなかったはずだ。わからないけど勝手に断言する。ということで、ダウンタウンズはある種の覚悟においてもテクニックにおいてもハイスペックなバンドだったのだ。
 実際に、ヤマハライトミュージックコンテスト広島大会で2回連続で優勝し、全国大会でも4位と言う実力だった。これまでのラジオやYouTubeの当時の貴重音源を聴いてみる。ハング・オン・スルーピー,渚のボードウォーク、ホールド・オン・アイ・カミングなどなど…うまい。拓郎のシャウトも若竹のように強くしなっているし、ドラムもビシッとキマッてる。もはやアマチュアバンドのそれではない。
 岩国の米軍キャンプからも声がかかった。日本の中にもアメリカがあってさ、国内で海外遠征していたようもので、アメリカンポップスもR&Bも、本場アメリカ人からもその演奏とフィーリングが受け入れられたことの証でもある。本格的ガチウマバンドだった。
 オリジナル曲もあり代表曲「好きになったよ女の娘」は今やロックのスタンダードである「たどり着いたらいつも雨降り」であり、もう無敵である。

☆その深みと高み☆
 拓郎が竹田企画の「拓つぶ」を閉鎖するときの最後のエッセイにこんなくだりがあった。
キャンディーズ「やさしい悪魔」を聴いた時に睦月からの手紙
  「タクロウ、これダウンタウンズでもやれたなあ」
  …嬉しかった
 この何気ないやりとりにこのバンドの深みと高みが覗ける気がしてならない。そして小説の中で、ドラムの小松さんが、ザ・タイガースとダウンタウンズが後楽園で共演する夢をみる場面がある。吉田拓郎と沢田研二が二人並んで、瞳みのるとのアイコンタクトで小松さんがドラムセットに座る。ここが泣けるぜ、小松さん。でもそれは決して夢の絵空事ではなかったということだ。ザ・タイガースに比肩してプロとして遜色ないクオリティだったのである。
 「ダウンタウンズ」は分類こそアマチュアバンドであったが、吉田拓郎にとっての魂の音楽キャリアなのだ。広島フォーク村がプロデビューの大切な基点だったことはわかるが、それはダウンタウンズから広がった音楽キャリアの音叉みたいなものかもしれない。広島フォーク村=吉田拓郎前史というこれまでの俺のような理解は不本意なことなのだろう。「ダウンタウンズがすべてのはじまり」ということは「俺はフォークじゃないんだ」という叫びと表裏のものだ、たぶん。

 もちろんこの本が語り掛けてくるものはそれだけではない。つづく

2024. 3. 16

100分de名著「マガジンT(第12号)」を読む第5話  広島という季節

☆若者のアマとプロにかける橋☆
 吉田拓郎のアマチュア時代というと"広島フォーク村"一択のように思ってきた。アマ活動の集大成"古い船を今動かせるのは古い水夫じゃないだろう"が評価されデビューに至るというイメージだ。とにかく"広島フォーク村"があまりに有名なので、"バチェラーズ"や"ダウンタウンズ"については勝手に部活や趣味の延長みたいなものかと軽く考えていた。これが大間違いだった。面目ない。

☆ダウンタウンズの季節☆
 しかし最終章のラジオ(ラジオでナイト、オールナイトニッポンゴールド)でも、広島フォーク村の話に比べてその軽く100倍は広島時代のロックバンド、R&Bバンド時代の話が頻出していた。そして極めつけは、2020年に中国文化賞の受賞で吉田拓郎その人が中国新聞に寄せたエッセイだ。
 僕が広島で過ごした高校、大学時代こそが その後50年以上も続けて音楽をやって行く事になる 言わば「すべての始まり」であり「僕を生み出した季節」である。
 (略)…ある日、中学時代にできた数少ない友人の通う県立商業高等学校の文化祭へ招かれた僕の目に映ったのは彼らがエレキバンドを組んで演奏している姿だったのだ。
 僕は自分の心に「火がついた」のを覚えている。
 「これだ!」と確信したのだ「僕もこれをやろう!」
 その後僕は広島商科大学(現広島修道大学)へ進学したが学業や就職の事などまったく頭の中に描く事なくひたすらに「バンドをやりたい、作りたい」の一心で心の通じ合える仲間を募るのに時間は要らなかった。
 ビートルズを真似た4人編成のロックバンド「ザ・ダウンタウンズ」は僕のその後を決定づける事になる素晴らしい出会いとなるのだ。
 僕たちは「音楽を通じて心を通わせる友人」となった。
 青春という「面映ゆい」言葉も、このバンド時代には通用する。
 ポピュラー音楽に「異性との交流」は不可欠である(僕の持論だ)
 お互いに多くは語らなかったが僕は彼らの「秘密」を知っている(笑)
 語り、遊び、悩み、ギターを弾き、歌い、そして成長する何と素晴らしい季節だった事か。
 毎日がまさに風のように流れ僕たちを包み込みながら「どうだい、自由っていいだろう?」と語りかける。(略)
  (吉田拓郎「広島という季節がその時そこにあった」中国文化賞受賞に寄せて/中国新聞)
 読み返すたびに涙ぐみそうになるこの文章は、吉田拓郎の魂の置きどころが「ダウンタウンズ」であることを全力で訴えているような気がしてならない。
 先日、ダウンタウンズだ、広島フォーク村だというわれてもわけわかんないと言われた。俺だってわかんねぇよ。なので極めて雑にだが年表にしてみた。この矢印の部分がダウンタウンズの時代だ。もっと広くバチェラーズとかも含むのかもしれない。
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☆積読本を引っ張り出す☆
 ということで自分としてもよく理解をしていない時代のことなのでこの作品を読んでみることにした。
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 田家秀樹著「いつも見ていた広島 ダウンタウンズ物語」(「ダウンタウン物語」と聞いて桃井かおりと川谷拓三のドラマが思い浮かんだ人はそれはそれでどこか別に熱く語り合いましょう)。この本は、確か田家さんの執筆が遅れたため「田家は裏切り者」と拓郎やダウンタウンズのメンバーに謗られながら(昔、ハワイツアーで聞いた)出来上がった作品だという。単行本は引っ越しで行方不明で文庫を買い直してもさらに積んでおいた。もうデビュー前の昔話はいいやと放っておいたのだ。ほうっておいてくれてありがとう…じゃないよ、不孝者にもほどがある。今さらすまん。
 だからといって別にヨイショするつもりはないのだが、読み始めたら止まらなくなった。黄昏に、真夜中に、明け方の空に、街角で、仕事場で、地下鉄の中で読み耽った。もう重松清のあとがきまでがいとおしい。「誰も知らなかったよしだ拓郎」(山本コウタロー著)が歴史の教科書としたら、こちらは歴史の大河ドラマみたいだ。
 …ドラマといえばこれって、登場人物の名前が微妙に変えてあるけれど殆ど実話(based on true story)ということでいいんだよね? もうそう信じちゃうからね。読みながら、知らなかったこと、誤解していたこと、そして何より昔話ではなく、今日と明日につながるスピリットが漲っていた。 その話はつづく。

2024. 3. 14

 中島みゆきは凄かった。2階席の自分にまであの歌声がストレートに届いてきて心がふるえた。無敵。衰えというものがない。瀬尾一三が指揮をとり、島村英二がドラムを叩き、古川望、富倉安生、宮下文ちゃんのプレイを観ていると違う世界にトリップしそうになるが、おおっとイケねぇ。それにしてもあれやこれやの定番を極力外して、ご本人の歌いたい世界を作られているのが、門外漢の自分にも何となくわかった。そして門外漢であるがゆえにふるえるようなサプライズが起きてもウロタエない心の準備もして行った。だって体温だけが頼りなの。サプライズはなかったが途中でホンモノノ地震はあった(爆)。やっぱりライブは素晴らしいな。フォーラムのステージも帰りの長すぎる階段も何もかもがいとおしい。
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2024. 3. 13

⭐︎ライブ⭐︎
 久々のライブ、久々の東京国際フォーラムが嬉しくて、前呑みが過ぎた。久々過ぎて、もはやライブというものの勝手がよくわからない。もう体温だけがたよりなの。ああ、楽しみだ。>もう呑むなよ! フォーラムでスパークリングワインを飲まずして私のライブはない。
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2024. 3. 11

 黙祷。Under Cotrolなど程遠く、科学の糸に操り釣られ悪魔の斧にふるえて眠るこの国はJapan。そんな中でも"君たちはどう生きるか","ゴジラ−1.0"の受賞は嬉しい。奇しくも両作品とも"オッペンハイマー"のアンサーみたいな映画になっているのが希望だ。個人的だが、tくん、今度はいったい何回目の鑑賞だろう?

2024. 3. 10

100分de名著「マガジンT(第12号)」を読む  第4話 恋のダウンタウンズ

☆大越元編集長リターンズ☆
 会報最終号の中心記事である「吉田拓郎インタビュー」。最後にふさわしくインタビュアーには大越正実シンプジャーナル元編集長が降臨する。競馬の世界から帰ってきてくれた(爆)。拓郎も「よぉ、ひさしぶり」とか言ってて阿吽の呼吸が感じられる。

☆リフレッシュなんて☆
 まずインタビューの最初に、前年に全国45か所を回ったエイジツアーのことから問いかける。
拓郎 …その土地でみんなやってるんだなーって思うじゃない? くるもんあるよね…
---そういう面のリフレッシュっていうのは?
拓郎 ところがリフレッシュはしないんだな、これが(笑) 
 こういう拓郎のミもフタもないところが好きだ。いいじゃないか。そこですかさず大越編集長は、ダウンタウンズの再結成に話を向けると拓郎は急にイキイキと語り出す。

☆ダウンタウンズへ繰り出そう☆
 91年の11月5日にエイジツアーが終わると拓郎はすぐに毎週末に広島へ帰郷し、12月のダウンタウンズの再結成公演を目指してリハーサルに励んでいた。いわずと知れた吉田拓郎が広島時代に組んでいたR&Bのバンドだ。
---皆さんは「かたぎ」っていうか普通の仕事を
拓郎 うん。医者を開業しているヤツ、銀行の支店長、ひとりは不動産屋とか無茶苦茶よ(笑)
---今でも楽器は
拓郎  全然やってない。もう大変だった。
 拓郎以外みんなアマチュアで、旧交をあたためる同窓会のようなものなのだろうが、それでも拓郎はリハも真剣に積み重ね熱く取り組んでいた様子がうかがえた。拓郎は、自分としてはズルいかもしれないが…と前置きして言う。
あいつらと練習して一か月位するとなんか忘れてたものが出てくるかもしれないって…。で、あったんだよ、これが。彼らからは「こうすれば?」ということは別になかったんだけど、あいつらと一緒にいただけで「なーんだ」みたいなことって結構あったんだよ。
 拓郎はその一例として、自分がアルバム作っていても、たとえば10曲中随分Gの曲か並ぶな、なんて思うと「こりゃマズイや」って「一曲Aにしよう」とバラエティさを意識してしまうという。しかし、このバンドではまったく勝手が違った。
 俺は東京来てからFの曲って結構あるんだけど、プロのミュージシャンでFの曲を嫌がるヤツはいないけど、Fのキーってアマチュアはやっぱり嫌いなんだよね。「あれ?Fもなかったっけ?」って調べたら一曲もなかった。(略)「たいしてギター弾けないんだからやるわけがない」(略)「馬鹿タレが、俺達がFなんかで曲やるわけがないだろう」てその通りなんだ。しかもそれでアマチュアの頃は世界を制覇しようとしていたんだぜ(笑)。
 自分の音域に曲をあわせるのではなく、既成のキーに自分の音域を必死にあわせてゆく。拓郎は苦笑しながらそんなバンドの姿を振り返る。
…違うキーの曲を入れてバラエティつけて…でも、もうそんなもんあまり関係ないな、と。そんなことで神経使うヒマがあったら、いい曲創れっていう感じだな(笑)
 エイジツアーよりも今回の再結成で得たものが、より直截的に拓郎を揺り動かしているのかもしれない…と僭越ながら思った。

☆ひとりシンポジューム/ダウンタウンズとはなんなのか☆
 この会報の記事を読んていた当時は、ああ、プロ野球選手が昔の仲間と草野球したら新鮮だった的なハナシかと思っていた。しかし腑に落ちないものもあった。なんたって天下の吉田拓郎である。石川鷹彦をタカヒコと呼び、高中正義、松任谷正隆、武部聡志らをアゴで使い(爆>すまん使ってないよね)、島村英二、エルトン永田らがいつでもバディのように馳せ参ずる。そんな最高の音楽環境を手に入れた拓郎が、なんでアマチュア時代のバンドに執心するのかという不思議もあった。その後のラジオ…特に後年の最終章という"ラジオでナイト"."オールナイトニッポンゴールド"でも「広島のロックバンドの時代」というフレーズが繰り返し繰り返し登場した。
 これは単なる青春時代の懐古というだけではおさまらないではないのかと遅まきながら思うようになった。最後の会報を読み返しながら、実は大切な部分を俺はまったく理解していないのかもしれない。いやもともと俺に理解なんかできないが、理解できないものがあるということすら理解できていないのでないかと思うようになった。ややこしいな。ということで連載日記もそろそろ最後だというのに、まだまだつづく。

2024. 3. 9

☆不存在にもほどがある☆
 ずっと観ていたけれど第5回で完全にハマってしまった。いいドラマだ。それはそれとして、1986年=昭和と2024年=令和をタイムリープといわれても、進歩のない私にはあまり隔世の実感がない。そればかりか、1986年はワンラストナイトつま恋85で拓郎がステージを去った翌年だし、2024年は"ah-面白かった"を最後に拓郎がリタイア状態なのは周知のとおりだ。どっちの時代も拓郎いないじゃないかよ(爆)。阿部サダヲが「え、なんだ?、この時代でもまた拓郎は休んでいるのか?」と目をむいている姿が浮かぶ。

 そうはいっても、いないけど、いる、生きている。そして音楽の旅がまだ続いているという希望をかみしめよう。
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2024. 3. 1

☆☆☆ありがとう若子内悦郎さん☆☆☆
 拓郎のコーラスに参加されたとき、かつて「ステージ101」をご覧になっていたねーさんたちは、ああ「ワカ」だ!!とときめいていらした。私は観ていなかっただが、そんな私世代には「はじめ人間ゴン」のエンディングでかまやさん作曲の「やつらの足音のバラード」の歌声が若子内さん初体験だった。いい歌だったな。
 ビッグバンドでは本当におなじみになった。つま恋のジョインでとなりのテーブルになったことがあった。コーラスグループの皆さんに、ものすごく専門的な「歴史」の話を語っていらした。歴史がお好きなんだと知った。
 2003年のドキュメントで拓郎の病後復帰のリハの初日に、拓郎と握手しながら「もし歌えなくなったら私が歌います」「OK!」と二人笑っていた姿が大好きだった。
 ありがとうございました。心の底からご冥福をお祈りします。「やつらの足音のバラード」を聴いたらなんか泣いちゃいそうなので、「真夜中のタクシー」を聴くけど、こっちはこっちで泣けそうだ。

2024. 2. 27

100分de名著「マガジンT(第12号)」を読む  第3話 日本の父よ、母よ、拓バカたちよ 今も「吉田町の唄」

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☆それを創れば彼は来る☆
 前年の91年に新潟県の若者共和国の依頼で「吉田町の唄」を創った拓郎は映画「フィールド・オブ・ドリームス」に魂を射抜かれる。亡父の声なき声を聞くために鹿児島に出かけた。この経緯は、当時連載中のビックコミックオリジナルの「自分の事を棚にあげて」(オヤジの言い分が聞きたくて)に詳しい。当時、私も父親を亡くしたばかりだったのでこの映画にはメチャメチャ泣かされたものだ。
 僕の父だが、テレ屋の彼としては、遠回りなようだが、新潟に住む若者たちを使って僕への接近を試み、まず歌を作らせる。ちょうど映画も封切られ、いやがおうでも関心がさっちに向けられる。予定どおりこのテーマに気づいた僕は、故郷を三十年ぶりに訪ねることになる。
 そんな拓郎にさらに母の声が時空を超えて届く。かつてご母堂が、親友のダウンタウンズのベーシスト小野さんの夢枕に立たれて「いつかギター一本のコンサートを観たかった」と呟かれたことを知る。まさにアローンツアーの啓示である。
 そういう流れだと思ったのね。もうそれをやるしかないって
                 (「吉田拓郎ヒストリー1970-1993」Pia Mook)
 とうもろこし畑を掘り返すように、チケットまで刷り上がった2日間コンサートをキャンセルして、あの拓郎が宇田川社長に頭を下げて頼んだということだ。ということで企画変更に悪態をついたが、この事情を知れば、俺がどうこういうものではない。それがどちらであれアナタの決断以外に正解はない。
『吉田町の唄』を創った時からすべてが運命的にさえ感じる
                 (「自分の事は棚にあげて」親父の言い分が聞きたくてA)
とまで拓郎は語っていた。それにしてもご両親ともに本人に対してダイレクトにメッセージを送るのではなく、まるでピタゴラスイッチの仕掛けのように遠回りしながら運命に影響を及ぼすのが面白い。そこがまたいい。送り手がそっと忍ばせたメッセージを受け手が思わぬところから見つけ出す。送る方にも、それを受け取る方にも深い信頼と愛情があればこそだ。運命とはストレートではなくツイストなものなのだろうか。

☆再結しようよ☆
 「吉田町の唄」が完成した時に、ビックコミックオリジナルの91年春のTAKURO NEWSで拓郎はこの歌は人と人との「再結」がテーマだと語っていた。「再結」なんて言葉は調べても辞書には出てこない。拓郎がその時の自分の想いをこめた造語だと思う。父、母、そしてダウンタウンズとミニバンドの友たち。それが拓郎にとっての過去を真正面から振り返るということだったのだろう。アローンツアーで、意表をついて歌われた「おやじの唄」の後で「今まで家族はロクなもんじゃないと歌ってきたが、申し訳ないがこの際全部撤回したい」と会場を笑わせた。
 ということで、とにかく92年はどこを切っても「吉田町の唄」である。この歌はやがて「清流」にそして「ah-面白かった」にまでつながる。このとき拓郎は「過去を振り返る」と言いながら実は未来に向かって壮大な種を植えていたのだ。さすが私たちが人生を賭してファンになったその人だ。たぶん私たちの営みはその大きな成育の流れとともにある。苗木が育ちこっちも歳をとるたびにより深く心にしみてくるゆえんだ。君と君を好きなやつらが100年続きますように…

 さて「幻の2日間コンサート」「大河ドラマコンサート」のアイデアは、その12年後に2004年に「precius story この貴重なる物語」に生かされた。あのコンサートも実に長い盛りだくさんのすんばらしいライブだった。確かに1992年では早すぎたかもしれないと思う。とはいえ2004年も20年の昔である。だから、今こそ、やってくれてもいいっすよ(爆)

2024. 2. 24

 昨夜のドラマ「不適切にもほどがある」(第5回)は不覚にも泣いた、泣いたこらえきれずに、泣いたっけ。背広の採寸と肩幅のリフレインだけで人はここまで泣けるのだ。特に阿部サダヲの表情だけで語る名演技がたまらなかった。たぶんこの展開を予測していた人も多かったんだろうし、あざとい展開だと感じた人もいたと思うが、それらをすべて巻き込んで、それでもあんなふうに泣かせてしまうドラマはさすがクドカンすごいなと思ったよ。
100分de名著「マガジンT(第12号)」を読む  第2話 幻の2日間公演始末記
☆正面から振り返る人たち☆
  91年のエイジツアーの打ち上げでオールナイトニッポンの拓郎担当だった中川公夫氏と拓郎と石原信一たちのこんな会話があったことが記されている。
 打ち上げを終えるときに彼(中川氏)は「俺達が作っていた文化や時代というものがあるのなら、それを振り返って残すべきなんじゃないだろうか」 彼の言葉を受けて僕(石原信一)は「真正面に自分の過去の姿と向かい合うのはいいかもしれない」というと拓郎も「ありかもしれない」とうなづいた(石原信一「続挽歌を撃て」P.18)
 「真正面に自分の過去の姿と向かい合う」という言葉を思いながら石原信一は「夕映え」の詞を書いた。拓郎の答えともいうべき92年の総力企画「吉田拓郎2日間コンサート」が発表されたのは春のことだった。当時のT'sのテレフォンインフォメーションサービスのテープで「全国6大都市で、2日間連続、1日目が古い曲、2日目が新しい曲で合計40〜50曲、うち1曲も重ならず「2日間聴いてこそ吉田拓郎のすべてがわかる!」というアナウンスが耳に残っている。田家さん曰く"男の一生"を歌い上げる「大河ドラマコンサート」である。

☆企画は変わる☆
 東京はNHKホール2日間公演だったが、当時、静岡に住んでいたのと東京でのチケット激戦が予想されたので名古屋市民会館2日間公演に挑むことにした。挑むといっても当時の同僚の兄が静岡のテレビ局に勤めており、91年の浜松も彼からチケットを取ってもらったので、再びなんとかならないか同僚を通じて頼み込んだ。
 同僚「そのコンサート2日間両方とも行くんですか?」
 俺「そう。これは2日両日じゃないとダメなの。絶対。そこんとこくれぐれもお願い。」
 同僚「星さんて、ものすごい吉田拓郎ファンなんですね」
 俺「えっ!?、いやいや、別にファンてほどじゃないけど…」
 …ああ、人間は、いや俺はどうしてこういうとき瞬時に嘘をついてしまうんだろう。しかも明らかに嘘とバレるみえみえの嘘だ。
 …およそ一か月後
 同僚「なんか…1日しかやらないみたいですよ、しかも浜松で。」
 俺「いーや、そんなことはない、2日間なんだ、それに浜松ではやらないんだ。それは誰かの違う公演だ、俺は公式ファンクラブの情報で動いているんだ、俺が間違えることは考えられない(俺を誰だと思ってんだ!)」
 同僚「…星さん、怖いですよ、目が血走ってますよ……」
 …ほどなくしてこの会報の最終号の巻末にはこんな記事が載った。
         CAUTION!
先にお知らせしました2日間コンサートは、企画変更により会員の皆様にはご心配とご迷惑をおかけして誠に申し訳ありませんでした。新企画は「TAKURO YOSHIDA ALONE TOUR'92 90分一本勝負」全ツアー弾き語りコンサートで全国20か所を回ります。
 オーマイガー!!ホントにご心配、ご迷惑このうえねぇよっ!…俺は穴があったら入りたい気分で同僚に陳謝した。すまなかった。以来チケットのお願いはできなくなってしまった。

☆僕の想いはむなしく☆
 なぜ急遽企画変更になったのか、この時点では理由はわからなかった。吉田拓郎の弾き語りライブといえばそりゃあ楽しみではあるが、全50曲の大河ロマンライブとの引き換えと思うとがっかり感も残った。しかもアローンツアーは「90分一本勝負」と謳ってる。要は「90分歌ったらボクちゃん帰るからね」ということだ。もともと量こそすべてのセコイ俺にとってはただでさえ短すぎる。「企画変更」というからには、変更前後で質量保存の法則みたいなものがないか? 楽しみにしていたホテルの一泊二日の"超豪華食べ放題バイキング"が、行ってみたら突如企画変更されて"流しそうめんの夕べ[90分入れ替え制]"になっていたらどうだろうか。いや、流しそうめんはかなり大好きだが、それでも、ええーと思うでしょうが。
 「真正面から過去を振り返る」という話はどうなったんだ。しかし後にその変更理由を知ることになる。それこそがこの1992年だったのだ。
                                 つづく

2024. 2. 23

100分de名著「マガジンT(第12号)」を読む  第1話 それでもなんとか絵にはなりますぞい
 
 いよいよ泣いても笑っても最終号だ。泣きこそすれ笑うわけないだろ。当時は終わってしまったらもう公式FCも会報も今生の別れだと思っていた。まさか、後にマハロだタブロイドだとあれこれ生まれては消えるにぎやかな時代が来るとは思ってもみなかったのだ。その最終号はエイジツアーが終わってから半年後の初夏に届いた。
 この時期が、どんな時期だったか、ひいては1992年がどういう時期だったか…喋り疲れてしまいました、何もかもに疲れて今日が来ました。なので、図解してみた。

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 俺の文はクドくてウザイとよく言われ申し訳ないのだが、図は図で中学生の文化祭の発表みたいで情けないな。そもそも今さら1992年を図にして何になる>って、もともとこのサイトは何にもならないんだよ!
 とにかく会報最終号は、間近に迫って来た新作アルバム「吉田町の唄」の発売と弾き語りのアローンツアーに夢を託すかたちで終わりを告げる。最終号の中心は、吉田拓郎のインタビューである。ということでつづく。

2024. 2. 22

☆☆☆旅立つ人☆☆☆
 "ひとりgo to"を久々に聴く。いいな。いいぞ。やっぱり91年ばかりでは生きていけない。
  黄昏の1日を 僕は今日も生きている
  遥かなる旅人は 終わりなき夢の中で
 二人がセッションしているプロモ映像とかが欲しかったけど…いや今からでも遅くはないか。時は過ぎる命短し。残念ながら亡くなられてしまった山本陽子さんがなぜか両国予備校を応援していたように、おじさんも遠くから応援しております。

2024. 2. 19

☆もやい綱を切るなら、それは「夜明け」☆
 村上春樹が朝日新聞に書いた小澤征爾の追悼文「夜明け前の同僚」が達意の文章だった。さすが春樹先生。最近はこの文章を寝る前に読み返している。私の場合、誰も読み聞かせしてくんないし。お酒が好きだった小澤は夜は酔っぱらってしまうので、いつも夜明け前に起きてスコアをさらっていた。村上春樹もこれにならって夜明けに小説を書いていたという。
「僕がいちばん好きな時刻は夜明け前の数時間だ」と征爾さんは言っていた。「みんながまだ寝静まっているときに、一人で譜面を読み込むんだ。集中して、他のどんなことにも気を逸らせることなく、ずっと深いところまで」 そんなときの彼の頭には音楽だけが鳴り響いていたのだろう。
 会報第10号でつま恋で合宿していたときの吉田拓郎はひとりとんでもない早朝から起きていてアレンジや譜面のチェックをしていたという鎌田清&裕美子夫妻の言葉があった。また後のFC会報「マハロ」ではフォーライフの南ディレクターが深夜明け方近くに「起きたらご覧ください」とレコーディングの情報をFAXしたら速攻で「もう起きてるよ」と拓郎から返信が来た話をしていた。同じだ。
 その昔、俺が受験生のころ、早朝の小澤の話を別の本で読んでいたので、夜は酒を飲んで早起きして勉強してという小澤スタイルをマネていた。ヘタレなので眠すぎてはかどらなかったし、結局、俺は音楽家にも小説家にもなれなかった。それでも「夜明け前の同僚」の端くれのつもりだ。
 そういえば拓郎がラジオで口走っていたペンネーム「入江剣」は小澤征爾の奥さんベラさんのモデル時代の「入江美樹」から拝借したそうだ。とにかく拓郎好きな「夜明け前の同僚」よ、みんなでなんだかんだで夜明けに目覚めたら心つながろうじゃないか、おまえだけが命あるものよ。

2024. 2. 17

100分de名著「マガジンT(第11号)」を読む  第8話 今日までそして明日から

☆ああ愛しきものよ☆
 会報第11号では、エイジツアーの総括&打ち上げの様子について、石原信一と田家秀樹が競作のようにレポートを書いていてなかなか濃ゆい。
 原宿で打ち上げがあった。その時彼はポロリと「地方ではボロボロなこともあった」と話していた。つまり客が入らないということだ。そんな時彼はイベンターに「いい曲を書けなくてゴメン」と謝ったのだそうだ。いい曲をたくさん書けば、こんなこともなかったのにということだろう。(田家秀樹・会報第11号「ライブレポートin NHKホール」P.25) 
 仙台の中止も単に客の不入りだけが理由でないことは、拓郎のイベンターに対するこの親身な心の寄せ方からも明らかだ。むしろ全ての原因はいい作品を書けなかった自分にあると一身に引き受け、他の誰かや何かのせいにしていない。そこに吉田拓郎の気骨を感じる。

☆闘う君の歌を☆
 それでも切ないのは次のくだりだ。
 打ち上げを終えるときに彼は「いい曲を書く、絶対にいい曲を書くからな」と何度か口に出していた(田家秀樹「会報第11号「ライブレポートin NHKホール」P.25) 
 私はこれを読むたびに泣きそうになる。少し酔って歩く拓郎の孤独な背中が目に浮かぶようだ。♪…やりきれないね、一人で酒におぼれた夜 ふらつく〜♪と「古いメロディー」が勝手に私の脳内に流れる。
 だって、そうだろ、いい曲は書いてるじゃん。例えばチョイと思いつくだけで「俺を許してくれ」,「車を降りた瞬間から」,「星の鈴」「たえなる時に」「裏窓」そして「吉田町の唄」…枚挙にいとまがない。30年経った今も色褪せず輝いている曲たちがこの当時にたくさん生まれている。世間様、他人様にわかっていただけない事に慣れてはきたけれど、われらが身内である拓郎ファンの間にまで、たちこめているフェイドアウト感がたまらなく寂しかった。いや、私だって偉そうに言えたもんじゃない。もっともっとこの素晴らしさを宣揚できたはずだ。リクエストハガキを書くとか、リクエストハガキを書くとか…リクエストハガキを書くとか。しかし結局何にもしなかった。もちろんこの暗夜行路にも不滅の灯火をともしつづけた多くのファンの方が多くおられたことも確かだ。私もそんなにいさん、ねぇさん、同志らに支えられてここまで来られたようなものだ。

☆君が先に背中を☆
 だからこそ今さらながら私も声を大にして叫びたいのだ。90年代に駄作なし。順風満帆とはいかない長い暗夜行路だったが、それでも拓郎、あなたはいい曲をたくさん書いて歌ってくれた。そして私は救われた。そのことを世界に訴え、何より吉田拓郎に心の底からエールを贈るために、私はこのサイトを始めたのだ。…始めたのだが、こと志と違い、ダラダラと悪態をつくウザいサイト、たぶん吉田拓郎が一番嫌うだろうサイトになってしまった。いや、もうそんなことはいい。だって拓郎は後に決然とこう言い切っているのだから。
 1000人いると思ってたのに500人に減っていると思ったときは、ショックを受けるし悩むけれども、1000人に増やせばいいじゃん、また、と思っているから。1000人に増やすための曲を作っていないということでしかない。いい曲を作ってないということでしょう。大いに反省しろってこと。(大いなる明日 P.465)
 私ごときのおこがましい思いとは別に、拓郎は引きずることも屈折したりもせずにただ新しい歌をつくることで清々しく前に向わんとする。本当にこの人は音楽を愛し音楽と結縁されているのだ。たかがファンの端くれとしては、それがいつかはわからないけれど常に「新曲」という背中を追い続け待ち続けることしかできることはないのかもしれない。

☆この胸いっぱいの「ありがとう」よ☆
 会報11号の石原信一は地方の最終打ち上げでの拓郎のスタッフへのあいさつを拾っている。
拓郎はツアースタッフの前に正座していた。「こんなことを言ったことはないが、45本のツアーも無事終了できそうなのは、みんなのおかげ。そしてみんなもえらいが俺もえらい。」と頭をさげた(石原信一「続挽歌を撃て(会報第11号)」P.18)
 このくだりが大好きだ。そしてツアー最終日の1991年11月5日の朝刊には次のような広告が載った。
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 その意気やよし。明日から勝手にしますって1991年もじゅうぶん勝手だった気もするが(爆)どうか思い切り勝手になさいまし。拓郎さんはこのツアーのことがきっとあまりお好きでないかもしれないけれど、それでも素晴らしい91年だったことの感謝と、本当に魂の底からお疲れ様でしたと言いたい。ということで会報第11号はおしまい。次回からいよいよ最終号である会報第12号につづく。

2024. 2. 15

100分de名著「マガジンT(第11号)」を読む  第7話 エイジ −2.0

☆幻の2公演☆
 会報第11号のツアーの総括記事で、45歳=45か所のツアー日程だったが「途中、天候などの理由で43本になった」(石原信一「続挽歌を撃て」P.16)と記されていた。調べてみると中止になったのは、8月2日の仙台サンプラザと9月28日の那覇市民会館の2本だ。那覇は台風直撃のためだったが、仙台の理由はずっと不明だった。んまぁドタキャンが珍しくて拓郎ファンはやってられない(爆)。

☆奥の細道をゆく暗夜行路☆
 しかし時が経ち2010年の田家秀樹のドキュメント「大いなる明日」の中で、東北のイベンターの代表の佐藤寿彦氏と拓郎が二人で過去の吉田拓郎の東北公演の歴史を振り返るくだりがある。
 "中止"と記されていたのが91年8月2日の「detente」ツアーのサンプラザだった。(略)「前の晩、みんなで飲んでいたら、明日、チケットが売れてないんですよって、イベンターが言うんだよ。バカヤロー、こんなところで飲んでる場合かって怒って、次の日リハーサルだけやってクルマで帰ったんだ」(略)佐藤寿彦は廊下に出てから「マネージャーに対しての教育的措置だったそうですよ」と付け加えた。(田家秀樹「大いなる明日」P.175-176)
 教育的措置とかいろいろ事情がありそうなので、客が不入だから中止にしたという単純な話ではないようだ。しかし集客が厳しかったという事実はショッキングだ。自分が行った浜松市民会館は超満員だったし、行こうと思った和歌山紀南会館も即日完売だった。何より私には2003年の手術復帰後の美しい半円形の仙台サンプラザでの公演、そこでの満員のスタンディングオベイションの景色があまり鮮烈に焼き付いてるので不入りの想像ができない。拓郎は続けて打ち明ける。
「LOVELOVE」をやる前までは東北は結構大変だったんだ。札幌も危なくて2階席が空いているのが見えたりしたこともあったよ。LOVELOVEの後からだね、また変わったのは(同P.176)
 …そうか、そうだったのか。こういう厳しい事実までをも率直に話してくれる拓郎に敬服する。それを忖度することなく活字する田家さんに対してもだ。田家さんは次のようにトレースする。
 浮き沈み、というほど大げさではないかもしれない。でも吉田拓郎といえども常に順風満帆だったわけではない。もし50歳を機にテレビに出たりしなければ、どうなっていたのだろうか。(同P.176)
…ホントにどうなっていたのだろうか。順風満帆ではなかった時代…この会報の発行期間は頭から尻尾までこの時期にスッポリとハマっている。会報は、吉田拓郎の精力的な活動を応援してきたが、どこか言いようのない悲しみがつきまとうと私が何度も書いてきたのはそのためだ。

☆俺だけ、わかるさ俺を☆
 考えてみると同僚ともいうべき田口清氏を亡くし、場所によっては観客動員とも戦わなくてはならない全国ツアーというのは、きっとご本人にしかわからない孤独な道行だったのではないかと勝手に拝察する。2003年の翌年、2004年の"この貴重なる物語ツアー"で超満員の仙台サンプラザに参加した知人の話では、拓郎はこの仙台サンプラザのステージに立てることについてのしみじみとした感慨を述べていたという。当時は病気や体調不良のことかと思っていたが、かつての仙台中止のことが頭にあったのではないかとも思われる。わからん、結局はすべてあの人の頭の中だ。

☆幻の道はいくつにもわかれ☆
 それにしてもLOVELOVEの持つ大きな意味をあらため思い知る。もちろん当時はそんなこと知る由もなく、LOVELOVEという灯りも見えない暗夜行路をゆく私たちだった。そんな中で拓郎が非難覚悟で何の保証もないテレビの沼に果敢に飛び込まなかったら、たぶん私たちはつま恋もその後の活躍も得られなかったのである。これまで「テレビ(LOVELOVE)に出てる拓郎は認めない」と上から目線で宣うベテランファンの方々と何人も会った。その思いは各人の自由だが、じゃあおまえ二度とライブに来るなよと思ってきた。いや、他人に何が言える、黙って俯けよ。自分だってこのエイジツアーはファンとしてもっともっとできることがあったはずだと悔いる。
 切ない話になってしまったが、さらに切ない話が明日もつづく。

2024. 2. 12

100分de名著「マガジンT(第11号)」を読む  第6話 あなたが教えてくれた季節

☆突然の訃報☆
 このdetenteツアーの前半にあたる1991年7月17日にあの田口清氏が交通事故で急逝された。あの「猫」の田口清、あなたは回るルーレットの田口清、ライブ73で手だけ動かしていた田口清、その後はユイ音楽工房のスタッフとして活動していた田口清氏の突然の訃報だった。特に拓郎ファンには気のいい兄ちゃんのような親近感があった。
 アルバム「デタント」は拓郎の作曲した「猫」のヒット曲「地下鉄にのって」が入っていた。田口氏は自分達の曲の復活を喜んで渋谷公会堂に駆けつけ、打ち上げの堰にも同行して拓郎と久しぶりに話をしたばかりだった(会報第11号/石原信一「続挽歌を撃て」p.16)
 渋谷公会堂の公演は6月30日だからそれから僅か2週間ちょっと後のことだ。なんてことだ。そして今回のツアーパンフにはこんなことを想像だにしていない拓郎がインタビューで話している。●はインタビュアーで〇は拓郎だ。
 ●「地下鉄にのって」と言う曲はどうして収録することになったんですか?(略)田口(猫のボーカリスト)さんが好きだったとか?
 〇田口はね、好きなんだよ(笑)
 よりによってまさかこんなときに、突然…というのが拓郎やご関係者のお気持ちだったろう。

☆死んでしまうに早すぎる☆
 田口氏が病院で意識不明だった7月16日の神戸国際会館のMCで拓郎は「今、田口が死にそうなんです。ありったけの念力をつかってなんとかしてくれと祈っているのですが…」と真剣な面持ちで語ったことを後に教えて貰った。そしてその甲斐もなく17日に亡くなる。
 ツアー先で拓郎は田口氏の死を弔った。神戸のステージでアンコールの弾き語りでは「地下鉄にのって」をワンコーラス歌い、名古屋では田口氏のために「祭りのあと」を歌った。(石原信一 同P.18)
 当初のセットリストにない「祭りあと」が記録されているはそのためだ。

☆君は流れて☆
 フォーライフの新人として1977年にデビューした小林倫博氏。78年の拓郎のツアーのゲストだった。その小林倫博氏のブログに田口清氏の最後のくだりが記されていた。
  ある日、昔のマネージャーから電話をもらい、田口さんの死を知った。亡くなってから1週間ほどたっていた。当然、葬儀もとっくに終わっていた。「 なんですぐに知らせてくれなかったんだ! 」 わたしは元マネージャーにつかみかからんばかりの剣幕で言った。言い訳など一つも受け入れたくなかった。

  田口さんの死因は自転車での事故死だった。子供用補助席に我が幼子を乗せ、坂道を下っている途中、なにかにつまづいて自転車ごと、親子ごと転倒したのだ。田口さんは子供をかばい、無理な姿勢のまま倒れ込み、その結果頭を強く打って亡くなった、ということだった。
  らしいなあ……といえば故人に失礼になるのかも知れないけれど、じつに「 いい人、田口清 」らしくてわたしは柔らかい気持ちになって涙をながした。
 この魂が悶絶しているような小林倫博の文章を読むたびに私も何度も涙を流す。ファンというのもおこがましい遠巻きにいた私までもが田口清氏のことをいっそう好きになってしまう。あってはならない、いかなる意味でも承服できない不慮の死だったが、それでも「地下鉄にのって」がまるで手向けのように用意されていたような気もしてしまう。深い徳のある人だったのだな。

☆あなたが教えてくれた季節☆
「猫」解散後の田口清のソロシングル「あなたが教えてくれた季節」(松任谷正隆先生のアレンジだ)の一節を思う。

  あなたを見て季節を感じていた私
  今は逆に季節を感じあなたを思い出す

 ああ、つま恋75の「雪」は一番田口清、二番拓郎の歌唱だったよなぁとか、2019年の「わたしの足音」には天国の田口清もびっくりしたろうなとかふと思ったりした。何より、町で子どもを乗せた親子の自転車を見るたびに…見るたびというのは大袈裟だな、時々だけど田口清のことを思い出して、うかうかすると泣きそうになったりもする。30年以上も経ってしまっているけれど心の底からご冥福をお祈りします。

 会報第11号が記したように、この全国ツアーは祝福と祈りを交えながらの長い歌の旅だったのだ。
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2024. 2. 11

100分de名著「マガジンT(第11号)」を読む  第5話 愛でない場所はあるはずがない

☆浜松セレナーデ☆
 それならさぞや浜松は良くなかったのかと問われればそれは断じて違う。
 "町起こしソング"というから「オバQ音頭」みたいな歌を想像…いや、せいぜい「アイランド」くらいかな>って失礼だろ。そんな先入観をはるかに超えて「吉田町の唄」があまりに感動大作であることに驚いた。歌う前のMCで拓郎は「これを聴けばきっと泣いてしまうに違いありません」とか言うので、これまでの経験上「んなわけねぇだろ」(爆)と思っていたらホントに初めて聴くそばから涙ぐんでしまった。さすが期待しないときに名作を書く男である>怒られるぞ!
 クソ恥ずかしい詩だな〜と敬遠していた「青空」がライブ空間で共鳴するギターとともに心に染み入った。
 「アジアの片隅で」ではスタンディングしなかった観客たちも「男達の詩」の鎌田清のオープニングのドラムソロで突き上げられるように立ち上がり、ノリノリの激しいロックに燃えていた。CDよりワイルドで数段スバラシイ。
 ワイルドといえば「裏窓」の荒くれた歌いっぷりにも痺れた。粗忽に歌えば歌うほど魅力的になる歌というものが拓郎にはある。これはそれだ。
 そしてなんといっても「たえなる時に」は圧倒的だった。"愛でないものはあるはずがない"で始まった歌が、最後に念押しのように「愛でないものはあるはずがない」に還ってくるこのところでなぜか泣きそうになる。"今 君はあの人を心から好きですか"のリフレインが会館帰りの坂をおりるときも頭から離れなかった。ちょうど91年秋、静岡けんみんテレビのCMになっており、毎朝テレビで流れていたので特別に感慨深かった、
 ビッグコミックオリジナルの"自分の事を棚にあげて"で、このコンサートは「胸がキュッとなるから」とご本人が言っていたのはまさにそのとおりだったよ。
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☆深謝、ツアーを支えてくださった素晴らしき方たち☆
 会報11号には、コンサートスタッフの方の感想も載っている。
▽ライティングプランナー&オペレーター 堀井義春
 大倉山のライティング・テーマとしては、自然を感じるようなものにしたかったことと、自然の中にも調和するようにと心掛けました。結果的にも大自然に負けないくらいの素晴らしいものが出来たと思います。
▽ライティングオペレーター 大西哲郎
 メニューはツアーと同じでしたが、「この指とまれ」はすごく盛り上がりましたね。
 くぅぅぅ、どこまでも観たかったと悶絶させてくれる。大自然に負けない「この指とまれ」…こりゃあたまらん。
▽トランスポートマスター 大野重勝
富山のコンサートの弾き語りで「落陽」をやったときにサビの部分で会場が大合唱になったとき胸がジーンとしましたよ。あー。この仕事やっていてよかったと。
 そこまで言わせるか富山・新湊市中央文化会館。このたびの被害の息災とご復興を心からお祈りします。
▽舞台監督藤丸昌也
今回のツアーで特に印象深いのは10月30日の高知県民文化ホール。とにかく良かった!!感動しました。
▽楽器チーフ 吉村和幸
地方最終公演の高知県民文化ホールは実に感慨深いものがありました。
 そんなに良かったのか、高知県民文化ホール。…ありゃ浜松の僅か10日後じゃないか。

☆あしたのために(その2) とにかく行くべし!行くべし!☆
 あらためて、それぞれの地にそれぞれのドラマがあふれていたことを知る。1か所だけとは実に惜しいことをしてしまった。このころは、1ツアー1か所が当たり前だと思っていたし、これまでフリーターで受験生だった俺はなぜかこの頃は国家公務員になっており、配属の静岡から出るのには庁の届出手続きが必要だった。いーや、そんなのは言い訳に過ぎない。「拓郎を観なきゃ死ぬ!!」という拓バカ魂が赤々と燃えていればなんの障害もなかったはずだ。俺にはやはり何かが足りなかったのだ。ああ行きたかった自分と行けなかった自分と2つに引き裂かれながら永遠に悔いよ、自分。

 なあ、みんなの参加公演はどんなだったんだい?黙り通した年月を拾い集めて温め合おう。そんな気分になる。

2024. 2. 10

100分de名著「マガジンT(第11号)」を読む  第4話 このアジアの〜さらにいくつもの〜片隅で

☆吉田、アジア歌うってよ
 当時、どっかの音楽誌に載ったツアー序盤の渋谷公会堂の最新レポートで、久しぶりに「アジアの片隅で」が歌われ観客が総立ちになったことを知って驚いた。えっ!?「アジア」を歌うのか!?。いわずと知れた煽情的な歌詞に拓郎のシャウトと観客の唱和のグルーヴが織りなすソウルの塊だ。少し遅れた拓郎ファン世代の自分にとっては「アジアの片隅で」はソフィスティケートされた「人間なんて」だった。燃え立つ渋谷公会堂の客席が目に浮かび、野外の札幌大倉山を想像すると85年つま恋で観客の振り上げた拳の壮大な波が脳裏をかけめぐる。覚悟を決めて私のその日を待った。

☆失われたシャウト
 ようやくライブに参加できたのはツアー終盤の91年10月20日の浜松市民会館だった。いきなり三曲目に、あの聴きなれたギターのカッティングとともにそれはやって来た。急なことすぎて俺もたぶん他の客席も即効でスタンディングしそこなった。歌い始めた拓郎はあのサビ♪このままずっといきていくのと思うのだがぁあぁあぁあぁあ(叫)のフェイクのシャウト部分をまるっと歌わなかった。4番まで全部シャウトの前に寸止めだ。ええー。拓郎のシャウトもなく、そのまま観客の唱和もないまま、最後のアジアの片隅でのリフレインもあっさりと流しそうめんのように終わってしまった。こんなアジアは初めてだ。観客が即スタンディングしないから拓郎が流し運転にしたのか、反対に拓郎が流したから観客がノらなかったのか、とにかくあの魂のグルーヴはなかった。頭の中でさまざまな妄想が駆け巡った。

 @拓郎が体調不良だった説
 A地方の小会場だったので手を抜いてみました説
 Bさすがに日々40回も唄ってきたに飽きたし疲れていた説
 Cこの歌に情熱がなくなってしまったアジア・オワコン説

 どれひとつとっても幸せにはなれそうになかった。しかし後に田家氏も会報11号のツアーレポートにはこう書いてあった。
「アジアの片隅で」が歌われたときの「おお」という客席のざわめきや一気に加速されてゆくようなステージの勢いもそうだ(田家秀樹「会報第11号「ライブレポートin NHKホール」P.25) 
 ホラどうやら熱狂の会場もあったようだ(爆)。それぞれの会場にそれぞれの様相の「アジアの片隅で」があったということだ。とにかく浜松のあの夜の俺はもう終わりゆく「アジアの片隅で」の死に水をとったような気分だった。これが私にとって最後の「アジアの片隅で」となってしまった。各地のアジアはいかがでしたか? 

☆終わりなき日々
 しかし誰がなんと言おうとこの歌は決して色褪せた古きオワコンにはなっていない。
 「アジアの片隅で」の歌詞が、91年の今になって、以前よりもリアリティを増して聴こえる事にも驚いた (同P,25)
 激しく御意。それからさらに33年経った現在もそれは変わらないことにさらに驚く。
 すげ変わる政治家の首とあわてふためく子分ども、闇で動いた金…って今、毎日毎日、新聞が書き立てているじゃないか。国境の戦火も止まる気配がない。道路に座り込みたくなる働く人々がたくさんいる。どうやら年寄りに乾杯の朝はやってきそうにない。この身が滅ぼされてもそれでも政治などアテにしない人々。ああ悲しいくらいピッタリじゃないか。
 他方でツッコミどころもあろう。噂の鳥を放つのは女たちだけでなく男たちもそれ以上であるとこは明らかだ。女まがいの歌と言う表現は不適切にもほどがある。性別の問題ではなく薄っぺらな愛の歌があふれ出して安いやさしさが叩き売られているという意味では正鵠を得て居る。それに甘ったれた子ども達だけでなく大人達も含めてみんな何かに忖度して権利主張すらできなくなってしまっている気がする。いろいろあるが、それでもこの歌の大切な核心は揺らがない。

☆あしたのために(その1)シャウトに備えるべし
 この歌は、今こそ必要だし、今のために作られていたと言ってもいい。誰かがカバーできるかって絶対できやしないし(すまんm(__)m、川村ゆうこ)、誰かが似たような歌を作れっていっても誰も作れやしまい。こんな歌を作って音楽的なクオリティと迫力と高揚感をもって歌いきれるのはこの世界に吉田拓郎ひとりだけしかいないのだ。で、この歌に不可欠な魂の唱和ができるのは、なぁみんな、俺達だけだよな(爆)。拓郎がスタジオ録音盤を残さなかったのもそういうわけだ。

 限りなく可能性が少ないが、もし拓郎が発心して「アジアの片隅で」を歌うぞなんてことなったとき、私達ジジババの拓郎ファンの存在は不可欠である。きたるべきXデーに対応できるようにとにかくみなさん心身ともに元気でいようではないか。自分もいつでも浜松市民会館のお返しが出来るように常に怠りなく生きていたい。

 ということでそれならさぞや浜松市民会館のライブは良くなかったのかと言われれば断じてそうではない。それについてはつづく。
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2024. 2. 9

☆☆☆あなたの旅は大いなる叫び☆☆☆
 小澤征爾氏がご逝去。音楽ましてやクラッシックなんかちんぷんかんぷんの私もこの人にはずっと憧れていた。
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 特にこの本は、失意の受験生だったころ何十回も読んだ。日本の音楽界でサッパリ評価されなかった若き小澤はやむなく海外を目指す。さりとてお金もコネもスカラシップもない。そこでスクーターで世界を旅するという条件で富士重工から宣伝名目の資金を得て片道旅費だけで海外に飛び出してゆく。これは、あれよ、無名時代にパイオニアのステレオのCMの前座で全国を歌って回った、あの人みたいなものよ。あ、富士重工って共鳴レックスだ。僕らの旅ははてしなくつづく。そして海外のコンクールを転戦してその名をとどろかせてゆく。その旅の過程の清々しさとみずみずしさに圧倒的に元気づけられるのだ。もちろん海外に修行など行ったことのない無才の私も、オイ!人生って捨てたもんじゃないぞ!と肩を叩かれるような気がするのだ。
 なのでジャンルを問わず海外に挑む若者は俺にとってはみんな若き小澤征爾で、心の底から応援したくなるのだ。
 どうか、ゆっくりとおやすみください。魂の底からご冥福をお祈りします。

2024. 2. 8

100分de名著「マガジンT(第11号)」を読む  第3話 虹と雪ととっぽい男のバラード

 ツアー日程表をみると名古屋市民会館が7月24日で、次の札幌大倉山競技場が7月28日ということで間隔が中3日間しか空いていない。この間に名古屋から札幌に移動して野外コンサートの設営と準備をする。しかも天候は大雨だった。その準備の苦闘の様子が会報にはドキュメント形式で載っている。プロジェクトXみたいでチョッと胸を打つ。スタッフの皆様、実に大変だったのだな。つま恋2006と同じで最後には"晴れ男"吉田拓郎の念力でギリギリコンサート当日に冷たい雨があがったのだった。
 個人的には、なんてったて大倉山ジャンプ競技場と聞くだけで笠谷のジャンプとトワエモアの「虹と雪のバラード」が脳内に流れだす。自然に身体が前傾姿勢になる。札幌五輪の最中に小学校の音楽朝会で音楽担当の痩せたD先生、"通称ドレミファがいこつ"💀>知らねぇよ!の指導の下で「虹と雪のバラード」を歌わされた。しかし小学生には上パート・下パートの区分が難解過ぎてガタガタになってしまった。するとドレミファがいこつがタクト叩いて怒りだして結局一回だけであきらめたはずだ。でも難しいけれどカッコイイ曲だと思っていて、それ以来大好きな心の名曲なのだ。それにしても何で91年にココに行かなったのか、人生で後悔していることのひとつだ。
 会報11号に札幌のセットリストつまりはこのエイジツアーのグランドメニューとなる曲目表が載っている。
札幌大倉山セットリスト1991.7.28
 冷たい雨が降っている
 シリアスな夜
 アジアの片隅で
 ひとりぼっちの夜空に
 レールが鳴ると僕達は旅をしたくなる
 友あり
 恋唄
 素敵なのは夜(メンバー紹介)
 神田川
 青空
 裏窓
 放浪の唄
 吉田町の唄
 悲しいのは
 男達の詩
 enc.1(弾き語り)
 準ちゃんが今日の吉田拓郎に与えた多大なる影響
 enc,2
 この指とまれ
 たえなる時に
 「春だったね」もなければ「落陽」もない。「外は白い雪の夜」も「今日までそして明日から」も「人生を語らず」だってない。そしてオープニング三曲目になんと大作「アジアの片隅で」がセットされている。乾杯のあとにいきなり1350gの3ポンドステーキの肉塊が出される結婚披露宴みたいなものだ。…おっふ!食えねっす。そのくらいとにかく攻めてるセットリストだぜ。文句を言い出すと「ウェーイ神田川」はもうたくさんだとかあるが…いろいろあってもそれはそれ。
 しかも最後の本日のデザートは弾き語りという日替わりメニューだ。「蒼い夏」、「こうき心」、「ハートブレイク・マンション」、「Voice」、後半は「落陽」も弾き語りで加わった。
 このメニューに基づいて実際に出された料理はどうだったのか。札幌の地はかなりドラマチックに盛り上がっているように見える。なんたって野外だし。この映像は全編観たいものだ。しかしセットリストはほぼ同じでも俺の実際に観た浜松市民会館とはずいぶん空気は違っていたような気がする。
 この重量級のメニューとは裏腹にこれに基づく実際のライブはその土地と状況に応じて独自の独特な雰囲気が展開していたのではないかと思われる…ということを考えてみたい。つづく

2024. 2. 7

100分de名著「マガジンT(第11号)」を読む  第2話 なのにあなたはハワイへ行くの

 ツアー日程表をみると7本目の福岡サンパレスが7月5日で、次の神戸国際会館が7月16日ということで間隔が11日間も空いている。この貴重なひとときを拓郎は何かをせずにはいられない。会報11号で石原信一は書いている。
7月に拓郎はツアーの途中でハワイに飛んだ。所属する宇田川オフィスの宇田川幸信社長の結婚式だった。拓郎夫妻が挙式の際の立会人になったのだ。…拓郎がハワイに行ったらもうツアーを続ける気がなくなるかもしれないと言って宇田川社長をおどした。45本という拓郎にとって前代未聞の長期ツアーが、自分の結婚式のため、早々に緊張の糸が切れる可能性が多分にあると宇田川社長も不安がった。しかしハワイから拓郎は元気で帰ってきた。(会報第11号 石原信一「続挽歌を撃て( TIME)」より)
 当時、若かった俺は、この記事を読んでこの大変なツアーの途中に行くか?、終わってから行けばいいんでねぇの?と思ったものだ。あれから30年…歳をとった今は、しみじみと素敵なことじゃないかと思う。陰口いってる人もいるでしょうね、長い休暇を取りました休んでいると落ち着かないってのは知らぬうちに病んでるんですね…というのと同じ世界ではないか。
 わりと最近になってこのころのことを拓郎はラジオでボソッと語っていたことがあった。媒酌人を頼んできた宇田川氏に対して、拓郎が俺を媒酌人にしたいなら、ハワイへ連れてゆけということで、このツアー中にハワイ挙式を押し込んだらしい。
 こっからは俺の想像と妄想だ。媒酌人をお願いした宇田川社長は、まさかそんなツアー中にめっそうもない…せめてツアーが終わってからというと固辞したに違いない。
 もちろんハワイ好きの拓郎だ。半年間もの長いツアー、途中でハワイでも行かにゃあやってられんという気持ちもあったろう。
 でも結婚という人生の祝福を、遠慮したり、先延ばしにしたりするのではなく、ベストシーズンのハワイで迎えてあげたい。その深い愛情がツアーの途中にぶっこんでもやろうじゃないかということになったに違いない…と思いこむ。
 音楽、コンサート、生活、祝福と祝祭、そしてハワイ、すべてが人間にとってひとしく大切なものなのだという吉田拓郎の人生観のようなものを感じる。また音楽はそれだけ日常の傍らにあったことの証左ではないか。ああ素敵だなと今は思う。これはあるべき働き方改革の先取りだったのではないか(爆)。なぜにあなたはハワイへ行くの、ハワイの島はそんなにいいの…YES!と拓郎は答えるに違いない。この頃の私はこれからの吉田拓郎の歴史においてハワイがかなり重要な場所になってゆくことを当然まだ知らないわけである。
 

2024. 2. 6

☆☆☆ありふれた俺にも雪が降る☆☆☆
 雪だ。大変な思いをされている方々を思えば手放しでロマンチックだなどと言えない。それでも窓から眺める深夜の雪あかりの景色は胸にしみる。こういう時に一緒に聴くのが"青春の詩"の「雪」だと厳しかったが、現在の私には"ah-面白かった"の「雪さよなら」がある。イイ。ちょいとおしゃれな気分になる。そのうちに「あぁ、しばれるねぇ」と言いながら倍賞千恵子の小さな居酒屋で熱燗を呑みたくなる…そして歌い出すのさ「舟唄」を〜>結局、舟唄なのかよ。
 ♪Shimijimi drinking, Shimijimily Only memories go on by

2024. 2. 5

100分de名著「マガジンT(第11号)」を読む  第1話 はーしれ、はしれ、ツアーのトラック

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☆さよならだけ残して
 会報第11号の巻末の小さなお知らせが刺さった。
 誠に勝手ながらプライベートマガジン「T」は次号のNO.12をもって終了とさせていただきます。
 …運命みたいに僕にも悲しみが湧いてきた。正確にはこの後でニフティサーブのパソコン通信「自分の事は棚にあげて」として継続してゆくという告知が続くのだが、当時パソコンなんかとは無縁だった俺にはこれにて終了と言う宣告にしか聞こえなかった。そちらから刊行を切ったから、君はもっと他の事も言おうとしてたんだろう。
☆気をとりなおして…あと2号
 さてラス前の会報11号は、91年エイジツアーの総括特集号だ。特に7月28日の札幌大倉山ジャンプ競技場での野外ライブのドキュメンタリーが中心記事になっている。前代未聞の45本ツアーは、6か月にわたり挙行された。11号の裏表紙に注目。ツアートラックがあった。SATETOの時にはサッポロ★ドライをデザインしたツアートラックがあったが、それに次いでこれが最後のツアートラックではなかろうか。
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 私が参加した浜松市民会館の公演の翌朝、浜松コンコルドホテルの前にこのツアートラックがでーんと止まっていたのを発見した。会報の写真は、残念ながらモノクロだが、コンテナ部分は水色に近い青地にペイントされていて白抜きの文字でデザインされていた。それが朝の光に輝いていてそれはそれは美しいツアートラックだったのよ。
 運転席のフロントガラスのところに無造作にコンサートパンフが立てかけてあった。当時、いまの世に普及している あのツルツルしたもの(阿部定@「不適切にもほどがある」)があったら写真撮りまくっていたのだが。
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 もし現在の世の中だったら、きっと誰かが、全国45か所のツアートラックの写真をスマホで撮影して集めて写真集を作ってくれるかもしれない。かもしれないじゃない、絶対そうする、ある種のクォリティーをもってそうするに違いない拓バカを個人的に何人か知っている。吉田拓郎のツアートラックが全国を走り回る…想像するだけで素晴らしい。もう私のような爺ちゃんが死ぬ前に観る走馬灯なのだよ(爆)。

2024. 2. 4

☆☆☆ひとりごとです 気にとめないで☆☆☆
 いま、TYで有名な東横線に乗っているのだがミッフィー一色だった。
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 すごい。ミッフィーといえば、「うさこちゃん」なのか「ミッフィー」なのかという問題があるのだが、福音館が「うさこちゃん」で講談社が「ミッフィー」と呼び分けられている。そもそも「よしだたくろう」と「吉田拓郎」みたいなもので別に排斥しあうものではないのでどっちでもいいといえばいいのだが。原典のオランダ語の「ナインチェ」が最初の福音館版では「うさこちゃん」と訳され、英語圏では「ミッフィー」と訳されていたところ、日本でも英訳のミッフィーが広く定着してしまったようだ。私は福音館というブランドが好きだし体験的にも「うさこちゃん」派なのだが、今ではアメリカと講談社という帝国と巨大資本に屈服してミッフィーなどと口走る、何か違うと悔やみつつ。
 ムーミンの人気キャラの「スナフキン」も原典は「スヌス・ムムリク」といい、日本では最初「嗅ぎタバコ君」とか直訳されていたものもあったが、英訳の「スナフキン」が完璧に定着している。こっちはアメリカと講談社に最初から従っており、我ながら一貫性がない。…って何を書いているんだ。

 そうだ、講談社版のミッフィーの翻訳者にして「魔女の宅急便」の原作者の角野栄子のドキュメンタリー映画「カラフルな魔女」を先日観に行ったばかりだった。御年89歳にして溌溂とした美しさ。現役であられる。小さな勇気が湧いた。
 2014年の吉田拓郎のライブのMCで「歳をとって引退とか言ってる人も、まだ今からできる何かがあるかもしれないですよ…」という拓郎のメッセージを思い出した。そうだ、もう残り少ないようで、まだ先は長いかもしれない、欲しいのは答えじゃないんだ。…そうじゃなくてとにかく大切に過ごそうという殊勝な気持ちになった。この貴重なひとときを老人は何かをせずにはいられない…と思うたまでだ。そうそう拓郎、おまえもな(爆)ああ〜フェイドアウトしないでと願いたくなるようなすげえソロをまた聴かせておくれよ。

2024. 2. 3

100分de名著「マガジンT(第10号)」を読む  第6話 愛でないソロはあるはずがない

 さて会報のインタビューは続いておなじみのギターの稲葉政裕の登場だ。最近では2009年のHave A Nice Dayツアーと2002年のNHK101での活躍が忘れられないところだ。しかし、おなじみといえば、むしろ小田和正のツアーや「クリスマスの約束」の方がよっぽどおなじみかもしれない。一昨年、大分県の日田に行った時に「進撃の巨人」に関わっていらしたことにも驚いたものだ。
 1991年当時30歳そこそこの若さだった彼は、アルバム「detente」のレコーディングも全国45か所のコンサートツアーもたったひとりのギタリストとしてフル回転してみせてくれた。先日も引用した「ギターの稲葉君はいっぱいダビングがあって一日中弾いてた日には手がボロボロになって…(鎌田裕美子)」とあるとおり大変だったようだ。本人も語る。
バーッてリズムトラック録ってその後に「ギター何かイントロない?」っていうシリーズがいっぱいあって(笑)(稲葉政裕のインタビューより 会報10号P.12)
 この音が欲しいっていうことになれば、ギター持ってきてアンプも変えて、そのチューニングにして合わせて、で歪みもこのくらいっていうのにあわせて、でソロになったらまた違うアンプを持ち込んで違うギターでやり直すんですよ。だからギターでいうとあのアルバムで6本から7本のギターが入ってますよ。全部機種の違う、同じ機種でも年代が違ったり、アンプが違ったり。(同P.13)
 まさに、八面六臂の活躍だ。やっぱりイナバ、何本あっても大丈夫、わーー>意味わかんねぇよ! しかしもちろん拓郎はムチャぶりしていたわけではない。コンサートの最後の「たえなる時に」のリハーサルで拓郎はこんな言葉を稲葉にかけた。
 「セミアコを弾こうよ」っていうのはありました。…最後は二人でセミアコでっていうのはありました。そういうのは最近はみんなナンセンスだと思って考えたりしない人が多いじゃないですか。でも、結構、大切だったりするでしょう。拓郎さんはそういうこだわりを持っている人ですね。
 フルアコやソリッドじゃないセミアコだと音的にどうなるのか…そこいらは悲しいが俺にはよくわからない。しかし拓郎と稲葉のプロ同志の心がしっかりと結び合っていたことはよくわかる。それだけで嬉しい。それに、わからないなりに大倉山の「たえなる時に」のギターを観ていると少しだけわかった気にもなる。それでいいのだ。その稲葉が拓郎の教えをさらに語る。
 拓郎さんに「メロディアスじゃないとだめだ」って最初に言われたんですよ。「ギターソロっていうのは"ホテル・カリフォルニア"みたいなのが頂点にあって、それに、あーっ、もうフェイドアウトしないでっていうものがないとだめなんだ」って。「メロディがしっかりあって、そこにいくと何度でも感動するっていうものじゃないといけない」みたいなプレッシャーをどんと与えられて…」(同P.13)

 拓郎はラジオでも"ホテル・カリフォルニア"は何回も流してそのたびに大絶賛していた。ソロプレイのイデアのように拓郎の頭の中に理想形としてこの曲があるのかもしれない。思わずdetenteや大倉山の映像を聴き返し観返したくなる。すぐに頭に浮かぶのは「時には詩人のように」…あのギターは顕著にたまらん。
 このアルバムに限らず拓郎のあまたある楽曲のソロプレイの中で、
 ・メロディアスなメロディがしっかりある
 ・聴くたびに何度でも感動する
 ・ああ〜もうフェイドアウトしないで、いつまでも聴いていたい

…そんなソロってあるだろう、君たちだって。あぁあぁ君の好きなソロはなんですか。
いろいろ考えてみるだけでなんかしあわせだ。そのうちそんなソロが泣ける、こんなソロがあるもんねーとお互いに語り合いたいものです。
 ということで素敵なソロに思いをめぐらせながらよい週末をお過ごしください。次回からはいよいよラス前の第11号、怒涛のエイジツアーに突入した吉田拓郎の明日はどっちだ!?

2024. 2. 1

100分de名著「マガジンT(第10号)」を読む  第5話 いなたい雨が降っている

 アルバム「detente」についてのインタビューで、拓郎はミュージシャンらに対して「余計なことはさせなかった」と言い「"いなたい"ことをどれだけやるか」などと語っていた。直接は読んでいないが、田家さんや藤井てっかんの文章に、このことが繰り返し出てくる。どっかで言ったんだろう。鎌田清も言う。
 「いなたいことを平気でやる」っていうのを僕もインタビューの記事で読んだときに初めて「ああ、そうだったんだ」って分かった…(鎌田清のインタビューより 会報10号P.10)
…そもそも「いなたい」ってなんだ? どういう意味なんだ?私はそこから始めなくてはならない。ネットで調べると「いなたい」とはミュージシャンの間で「泥臭い」「ブルージー」さらに「へたうま」といったニュアンスで使われる俗語である。関西のミュージシャンや音楽ファンを中心に良い意味での田舎臭さを表現した…と記されている。わかったような,わからぬような。今までのコンピュータの打ち込みを中心としたレコーディングからシンプルなバンド演奏中心に転換したことが関係するのだろうか。続く鎌田清のインタビューから少しだけ見えてくるものがある。
「70年代っぽいああいう感じ」っていう、そういうアドバイスを受けながらできる限り近づく努力をして。こっちはさそれこそ「あ、いなたいな」と思いながらやってるんですよ、本心は。「あーいなたいな、いいのかなー、こんなんで」っていう。」
 この"いなたさ"に戸惑う夫・鎌田清の発言を受けて妻・鎌田裕美子が先日も引用した答えを投げ返すのだ。
 私なんかシンセのダビングの日とか、ギターを拓郎さんが入れている日とか歌入れの日とかずっと居たから、拓郎さんがギターをダビングしていけばいくほど、何故そのドラムを入れたかっていうのが非常に明確になるのね。あとで拓郎さんがこれを入れたかったからこれが入ってるんだなっていう。
 いいな〜素敵な夫婦だな。やっぱり喜びも悲しみも幾歳月を捧げよう(爆)。鎌田裕美子の言葉からは、拓郎の緻密な設計や計画…という言葉は少し違うかもしれないが、その種の深い考えが窺える。考えに考え抜かれた音楽センスとその格闘によって完成するものが「いなたい」ということなのかもしれない。
 いなたい…というとダサいイメージにも受け取られがちだが、拓郎の「いなたい」はそういうものとは違う。いなたいがゆえに誤解され損したこともあれば、いなたいがゆえに誇りたくなるようなすばらしいことがある。かなり深い言葉ではないか。この「いなたい」の深奥を極めるのがこのサイトに残された仕事ではないか、なーんて、思いつきでテキトーに言ってるだけだが。人間のい、いなたいのい、これからもい。

2024. 1. 28

100分de名著「マガジンT(第10号)」を読む  第4話 喜びも悲しみも幾歳月

 会報10号には、ドラム=鎌田清と一緒に伴侶のキーボード=鎌田裕美子のインタビューも載っている。たぶん、好きな人はみんな大好きだった鎌田裕美子。しかし彗星の如く現れた鎌田夫妻のことについてはいまひとつよく知らなかった。もともとは女性キーボードグルーブCOSMOSのリーダーであられた(旧姓は田中であられる)。キーボード界のキャンディーズあるいはキーボード界のジェイダか、どっちかでずいぶん違うけどさ。
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 いずれにしてもどうりで東京ドームで拓郎と一緒にステージを疾走した魅惑のステージングは、ただのキーボーディストのものではない。納得だ。
 夫はSATETOツアーから、妻はひまわりツアーから参加したが、このインタビューでは鎌田家の食卓にお邪魔しているようなアットホームな感じで、拓郎と鎌田夫妻との出会いから今までが語られている。
 主人から「結構優しい人だよ」とか「みんなに気をつかってくれるんだよ」とか、そういうのを家で聞いていて…すごい気さくにいろんなお話とかしてくれて、おもしろい人だなぁって(会報第10号 鎌田裕美子インタビューP.8)
 主人が実際に会う前に吉田拓郎に対してどんなイメージを抱いておられたのかが何となくわかる(爆)。それにしても気遣いのある優しい人柄…というのがファンとしても嬉しい。
 最初とにかくびっくりしたのが、自分でコンピュータを打ち込んでデモテープを作っているというのを聴いた時に「えっ、そういう人だったの!」って。昔のフォークのイメージだけを持っていたから。シンセの音色もこんな音とかあんな音とかって、そういうのもすごい詳しい…(同P.8)
 人柄の次に音楽家としての琴線に触れる。拓郎の精巧なデモテープや音楽の知識の深さのことはファンにとっては当たり前のことだ。しかし「フォーク」というレッテルによって音楽家吉田拓郎の真の姿が世間からはとても見えにくくなっていることがわかる。「俺はフォークじゃない」という何万回も聞いたこの言葉の意味をあらためてかみしめよう。
 自分の譜面というのも意外だったし…最初はびっくりして「直筆の譜面よ!」とか言いながら感激してたんですよ。「えーコード譜なんて書くんだ」とか言って二人でもう家で盛り上がっちゃって(同P.8)
 いいな。楽譜を書く拓郎のことが嬉しくて盛り上がっちゃうご夫婦がとても素敵である。
 ピアノの音色、シンセの音色、あとダイナミックスとか、プレイもこういう感じのニュアンスのことも「あまりここはジャージーにいかないでほしい」とかっていう時もあるし…とりあえずはプレイヤーが好きな自分のいいと思っているやり方でやるんだけど、それに対しての「僕はもうちょっとこうして欲しい」っていうのは言われる…(同P.9)
 ミュージシャンの個性と自由をきちんと認めたうえで、自身の要望を伝えてゆく…なんかとても理想の上司じゃん。こういう話が聴けることも嬉しい。
 私なんかシンセのダビングの日とか、ギターを拓郎さんが入れている日とか歌入れの日とかずっと居たから、拓郎さんがギターをダビングしていけばいくほど、何故そのドラムを入れたかっていうのが非常に明確になるのね。あとで拓郎さんがこれを入れたかったからこれが入ってるんだなっていう。(同P.10)
 もう拓郎への尊敬の念がにじんでいる。怖いイメージ→やさしい人柄→音楽家としての驚き→そして尊敬・敬愛というようにインタビューの中に吉田拓郎に対する心境の発展的プロセスがキチンと現れているのが面白い。勝手な思い込みだが、読みながらこちらもまるで鎌田夫妻と心を打ち解けていくような柔らかな気持ちになるってもんだ。
 とにかく鎌田清・裕美子夫妻は人柄的にもサウンド的にもある種の安心感と頼もしさがあった。この頃の音色も大好きだ。このご夫婦の事を考えると俺は佐田啓二・高峰秀子の灯台守の夫婦の映画「喜びも悲しみも幾歳月」を思い出す。しかも映画の舞台は観音崎灯台だぜ(爆)。ぴったりじゃないか。あー♪オイラ岬の〜灯台守は〜主題歌もイイのだ。カラオケで練習して鎌田夫妻に捧げたい>いらねぇよ!
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2024. 1. 27

100分de名著「マガジンT(第10号)」を読む  第3話 なかなかたどり着かない雨降り

 会報第10号は、アルバムdetenteとエイジツアーに参加したミュージシャンへのロングインタビューがメイン記事になっている。最初はドラムス鎌田清だ。SATETOツアーから参加した彼は、キーボードの鎌田裕美子とご夫婦であられる。今回のツアーミュージシャンは、鎌田清が選抜したというバンドマスターでもある。
 矢沢永吉のバックをはじめロックンロールご出身で、1957年生まれというので武部聡志と同年でありんす。初めてのドラム体験についてこう語っていた。
 高校の時に初めて叩いた曲が「たどり着いたらいつも雨降り」だったんです
         (鎌田清のインタビューより 会報10号P.8)
 これを聞くともう一人思い出す人がある。
 拓チャンを初めて意識したのは「たどり着いたらいつも雨降り」だった。ビアガーデンでやり始めた時…彼らのステージであの曲だけ叩かせてもらったことがあったの。
       (島村英二のインタビューより 田家秀樹「豊かなる一日」ぴあ P.147 )
 奇しくも二人ドラマーとの縁がある。しかし二人とも拓郎と組んで以後、ついぞそのプレイの機会がなかった。いや、鎌田清は、SATETOツアーのメドレーの中で部分的に叩いたが完全なプレイではない。島村英二は、「拓郎と出会って以降何度となく「あの曲叩かせてよ」と言っているそうだ。」(田家秀樹「豊かなる一日」ぴあ P.147)
 …これはあれだね真正"天邪鬼"だね。叩かせてと言われるたびに、そこまで言うなら絶対叩かせてやるまいと思っちゃうんだよ、きっと(爆)。

 なるほどロックの古典ともいうべき「たどり着いたらいつも雨降り」だ。ロックンローラー吉田拓郎の入り口の機能を果たしている。ちなみにフォークの入り口は「今日までそして明日から」あたりか、ポップ・アイドル系の入り口は「結婚しようよ」…多彩なジャンルに向って扉が開かれている吉田拓郎だ。
 ロックンロールとしての「たどり着いたらいつも雨降り」は意外と吉田拓郎による決定版がない。「みんな大好き」はシャウトと怨念が足りないのよ(※個人の感想です)。俺はつま恋75がベストだと思うが、FMで放送されただけで公式ではない。やっぱりこれって瀬尾ビッグバンドでガッツリ演っておいて欲しかったな。どうでっしゃろ島村英二と鎌田清のツインドラムで。

2024. 1. 26

100分de名著「マガジンT(第10号)」を読む  第2話 日々旅にして旅をすみかとす

 これまで私はエイジツアーだ!、45公演だ!、と軽々しく口にしてきたが、会報にも載っているツアースケジュールをいまいちどしっかりと眺め直してみる。怒涛のツアーだ。ビッグコミックオリジナル連載エッセイの「TAKURO NEWS」で拓郎本人が「あまりの本数と長さに驚きました」と書いていたように、よくもまぁここまで公演旅程を組んだものだ。あらためてこのスケジュール表に宿っている魂、そして語り掛けてくる魂の発露に耳を澄まし目を見張ろう。
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 TAKURO YOSHIDA TOUR '91 〜detente〜 
 1991/06/16 (日)鹿沼市民文化センター (栃木県)
 1991/06/20 (木)サンシティ越谷市民ホール (埼玉県)
 1991/06/26 (水)藤沢市民会館 (神奈川県)
 1991/06/28 (金)浦安市文化会館 (千葉県)
 1991/06/30 (日)渋谷公会堂 (東京都)
 1991/07/03 (水)長崎市公会堂 (長崎県)
 1991/07/05 (金)福岡サンパレス (福岡県)
 1991/07/16 (火)神戸国際会館 (兵庫県)
 1991/07/18 (木)京都会館 第一ホール (京都府)
 1991/07/20 (土)紀南文化会館 (和歌山県)
 1991/07/23 (火)土岐市文化プラザ (岐阜県)
 1991/07/24 (水)名古屋市民会館 (愛知県)
 1991/07/28 (日)大倉山ジャンプ競技場 (北海道)
 1991/08/03 (土)白河市民会館 (福島県)
 1991/08/05 (月)花巻市文化会館 大ホール (岩手県)
 1991/08/08 (木)三沢市公会堂 (青森県)
 1991/08/09 (金)青森市文化会館 (青森県)
 1991/08/20 (火)熊本市民会館 (熊本県)
 1991/08/22 (木)宮崎市民文化ホール (宮崎県)
 1991/08/26 (月)新潟県民会館 (新潟県)
 1991/08/27 (火)佐渡市会館・公民館 両津文化会館 (新潟県)
 1991/08/30 (金)立川市市民会館 (東京都)
 1991/08/31 (土)茨城県立県民文化センター (茨城県)
 1991/09/05 (木)伊勢崎市文化会館 (群馬県)
 1991/09/07 (土)新湊中央文化会館 (富山県)
 1991/09/13 (金)神奈川県民ホール (神奈川県)
 1991/09/17 (火)千葉県文化会館 (千葉県)
 1991/09/19 (木)調布市グリーンホール (東京都)
 1991/09/20 (金)大宮ソニックシティ (埼玉県)
 1991/09/24 (火)鹿児島市民文化ホール 第一 (鹿児島県)
 1991/10/03 (木)岡山市民会館 (岡山県)
 1991/10/05 (土)広島郵便貯金ホール (広島県)
 1991/10/07 (月)徳山市文化会館 (山口県)
 1991/10/12 (土)舞鶴市総合文化会館 (京都府)
 1991/10/14 (月)長浜市民会館 (滋賀県)
 1991/10/17 (木)大阪厚生年金会館 大ホール (大阪府)
 1991/10/18 (金)浜松市民会館 (静岡県)
 1991/10/21 (月)知多市勤労文化会館(愛知県)
 1991/10/23 (水)名古屋市民会館 (愛知県)
 1991/10/26 (土)徳島市立文化センター ホール (徳島県)
 1991/10/29 (火)高松市民会館 (香川県)
 1991/10/30 (水)高知県立県民文化ホール (高知県)
 1991/11/05 (火)NHKホール (東京都)
…首都圏日帰り5公演に慣れてしまった昨今(いやそれはそれで素晴らしかったよ)、どうしたってこのラインナップには圧倒される。こういう時に、したり顔で昔はもっと本数やってたよとか他のシンガーはもっと公演数やってるぜとか言う人もいるかもしれないが…うるせぇよ。1991年の吉田拓郎その人の話をしてんだよ。
 本数ももちろんだが、札幌大倉山の野外ライブもあるし、佐渡ヶ島に渡ってのアイランドコンサートまでもある。それに公演ではないが、7/5の福岡から7/16の神戸の間に、拓郎はハワイに渡航して宇田川社長の結婚式に出席している。もう吉田拓郎のすべてが象徴的に収められているツアーだ。…いやそんなヘリクツを無理して付け加える必要がないほど、このツアー日程だけで十分にすんばらしいことが伝わってくる。
 あぁ現在だったらどうだろうか。これだけのツアーをもっともっと楽しむことはできたかもしれない…と悔やまれる。しかし後悔とはかつてそこに愛があった証拠である(by 是枝裕和)。とにかく33年も昔のことだが、今あらためて心の底から誉めよう、そして讃えよう。拓郎あなたはホントによくやったよ。ありがとう&お疲れ様でした。

2024. 1. 24

100分de名著「マガジンT(第10号)」を読む  第1話 ツアーが決まると僕等は合宿がしたくなる

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☆選抜と合宿の91年
 会報の終りが見えようとも、世間の風が冷たかろうとも、さあ、拓郎が、いよいよニューアルバム「detente」をひっさげて怒涛のエイジツアーに進撃するぞ。Go for it!

 91年の特徴として少数精鋭ミュージシャンたちとの徹底的な合宿があげられると思う。鎌田清が中心になって集めた若手ミュージシャンつまりは…
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   鎌田清(ドラム・34歳)
   鎌田裕美子(キーボード・31歳)
   稲葉政裕(ギター・31歳)
   青柳誠(キーボード&サックス・30歳)
   榊原雄一(ベース・27歳)
           ※年齢はツアー当時のもの
 彼ら五人がニューアルバムのレコーディングから全国45本のコンサートツアーまで一貫して回してゆくことになった。あの伝説の王様=極悪バンドと同様のフォーミュラである。そして制作・リハーサル・準備活動がすべてが長期合宿形式でおこなわれた。合宿大好きの拓郎さん…ということもあるかもしれないが、吉田拓郎を体解したあの極悪バンドの境涯に達するためには、文字通り寝食を共にする共同生活が不可欠だったのではないだろうか。14日間であなたも名ドライバー!!伊豆大島・波浮港自動車教習所の合宿免許みたいなものだ。>知らねぇよ

☆突貫レコーディング合宿
 1991年3月、アルバムdetenteレコーディングのため観音崎スタジオの隣接ホテルで20日間の合宿が挙行された。観音崎マリンスタジオで全13曲のオケ録りからトラックダウンまで20日間でを一気に完成させた。早朝から深更まで世界記録並みのレコーディングスピードだったらしい。タイムテーブルはとにかく怒涛のレコーディングだったようだ。以下は会報10号のあちこちから拾って整理したものだ。

 9時 朝食(ワカメの味噌汁)
 10時 スタジオ音出し
  〜以後18時の夕食までぶっ通し、1日3曲ペース
 深夜1時ころ スタジオ終了
 その後もチェック・修正作業


(人々の感想)
・レコーディングはしんどかったよね…とにかく朝から夜までやってますからね。次の日は全然違う曲が3曲待ってますからね。僕は凄く頭が混乱したな。(鎌田清)
・ギターの稲葉君はいっぱいダビングがあって一日中弾いてた日には手がボロボロになって…(鎌田裕美子)
・拓郎さんのギターに対する情熱がヒシヒシと伝わってきて指がとても痛かったです…精神的には一日が長かったですね(稲葉政裕)
・拓郎さん!朝が早いんですよね 夜遅くまでべったりおって、朝が早いんです(青柳誠)
・いいかげんワカメ(の味噌汁)ばかりじゃ飽きるよね(石原信一)

☆そして聖地つま恋リハーサル合宿
 1991年5月〜6月、コンサートツアーリハーサルがつま恋でおよそ30日間かけて挙行される。

 午前中 各ミュージシゃン音色などの調整
 11時30分 食事
 12時 リハーサル・スタート
   ぶっとおしで、途中10分程度のトイレ休憩を挟んでつづく
 18時 夕食
 19時 リハーサル再開
 21〜22時まで
 23時から飲み会


(人々の感想)
・5日間くらい合宿してあと都内でというのはあるんですけど、全部合宿というのはなかった(榊原雄一)
・拓郎さん朝早起きだからちゃんと日光浴して(鎌田裕美子)
・ 僕らとはもう5時間くらい生活の時間差があるんですよ(鎌田清)
・ 楽器によっては音色作ったりするから リハーサルの前の午前中をキープしたり
スタッフは朝から晩までリハーサルスタジオにいて(鎌田裕美子)
・夕食の時に拓郎さんが酒の誘惑に負けちゃうとその日はないですね(鎌田清)
・拓郎さんが「まぁ飲めまぁ飲め」とい言うんですけど…甘えて飲んでいると記憶がなくて(稲葉政裕)

☆合宿の帝王
 会報のミュージシャンインタビューでは、ハードな完全合宿にみんな戸惑っているようだが、それでも率先して切りまわしてゆく吉田拓郎の真摯な凄さに惹きこまれてゆく様子が窺えた。
 吉田拓郎の合宿好き、合宿力の凄さが伝わってくる。そうそう雲仙普賢岳のスーパーバンドのドキュメントで、つま恋で合宿でリハーサルしようと提案して、苦笑されつつ却下されるシーンも思い出す。どんだけ合宿が好きなんだ。
 しかし私たちは知っている。古くは「ローリング30」の箱根ロックウェルのレコーディング合宿、ライブ/イベントのメイキングビデオなどでの恒例のつま恋など名作、名ライブの歴史は合宿によって作られてきたのだ。
 典型的なインドア派で外出嫌い、旅嫌いという拓郎だが合宿は別のようだ。合宿においていかんなく発揮される才能の瞬発力たるや凄まじい。きっと合宿には何かが降りてくるのだ。ちょうど神楽坂の旅館にカンヅメになって書き上げる夏目漱石か伊集院静みたいなものだろうか?それともいつかラジオで言っていた「モータウンスタジオ」が理想としてあるからなのか。とにかくここは仰ぎみて吉田拓郎を合宿の帝王と讃えたい。
 
 とりあえず言っておく。今度ライブをすることがあったら、つま恋でファンも含めて合宿をしよう。リハから何から全部つきあう、合宿つきライブというのはどうだ。

2024. 1. 22

☆☆☆パリピ後藤☆☆☆
 自分で書いといてなんだが、2023年10月22日のa dayの会報5号の後藤由多加のインタビュー。学生時代、借金が膨らんだ後藤が起死回生、大学でフォークイベントを催す話。

「後藤は早稲田大学内の数十ものサークルを回って、サークルの人が呼びたいミュージシャンをリサーチし、そのミュージシャンを呼ぶから、チケットを捌くよう依頼する。その際、採算ラインを計算したうえで500枚以上売ったら、一枚につきチケット代のおよそ25%を取っていいという条件を取り付けた。これによって、各サークルはお目当てのシンガーが観たいため、また利益のためにチケット捌きを頑張り、それによってコンサートの制作コストの回収を確実にできるという計画だった」

 なんかメチャメチャ既視感があるな(爆)。

2024. 1. 21

100分de名著「マガジンT(第9号)」を読む  第8話 すれ違うような時が行く

☆背中合わせのランデブー
 さて、この会報にはあと3号で廃刊となる運命が待っていた。この時はまだそのことを知る由もなかった。それでもなんかしっくりいかないものは感じていた。
 前にも少し触れたが、会報第6号の巻末に「編集部ステイトメント」と題して藤井てっかん氏が、次号から紙面刷新を図るので会員の声を聴かせてくれと呼びかけていた。しかし翌7号の編集後記はこう記されていた。「悲しいかな本誌に関する反響は一通も来なかった。どうなってんだ、いったい。変革をとげようとする「T」に皆さんは何も感じないのでしょうか!?」…怒ってはる、てっかんはん、えらい怒ってはる。ファンを叱るファンクラブの会報って言うのも凄いな。
 しかしつづく会報8号では次号で「どうなる来年の巨人軍」という特集記事のために会員のコメントを募集したところ、会報9号では「悲しいことにほとんど集まりませんでした」ということで、イベンターの宮垣さんとか、こすぎじゅんいち、石原信一、ユイのスタッフとか身内のコメントで紙面を埋めていた。まぁ敢えてこの会報で巨人軍を特集してどうすると言う気もする。
 とにかく公式ファンクラブの会報と会員とのまるで背中合わせのような空気…これはいったい何だったのだろう。

☆祭りのあと
 公式ファンクラブの会員数とかその増減はまったくわからないが、ともかく会報と読者の間に静かなすれ違いが見え隠れしていた。その理由を思いつくままに勝手に考えてみる。

 @会報がスタイリッシュ≒よそよそし過ぎて参加しにくい
 Aファンの多くが仕事、結婚、子育て等々で日々拓郎どころではないライフサイクルに突入していた
 Bバブル真っ盛りで世界はもっと楽しい宴に溢れていた
 CたぶんAとBも関連して「何が何でも拓郎一択」という拓バカの絶対数が減少した
 Dファン同志の交流・情報交換は、さあくる、軍団という私設FCの方が充実していた

…他にもいろいろあるだろう。当時、俺みたいなヒマだったフリーターとは違い、大人のファンは切実に忙しかったのかもしれない。もうかつての"拓郎祭り"はあらためて終わってしまったことを痛感する。そしてこれは公式会報とファンとの関係だけではなく、吉田拓郎とファンとの間の熱度をも反映している気がしてならない。そこいらあたりが91年前後に漂う切ない哀しみの要因のひとつではないかとも思うのだ。

☆黄昏彗星群あらわる
 そこに彗星のように登場したビックコミックオリジナルの「自分の事は棚に上げて」によって会報はトドメを刺されたのではないか。なんてったて2週間に一度、毎回、吉田拓郎本人のエッセイに加えて最新のご尊影写真と「TAKURO NEWS」なる最新活動情報までがもれなくついてくるのだ。特にTAKURO NEWSは小さなはみだしコーナーだが、拓郎本人によるレコーディング、ツアー、メディア出演、最新提供曲などの告知であり「元祖拓つぶ」といえる。当時、私は雑誌を買うと真っ先にこのTAKURO NEWSからチェックし、次に写真を味わい、それからエッセイ本文を流し読むというかなり失礼なルーティーンだったことを思い出す。いずれにしてもこの雑誌連載は普通のファンクラブの持つ情報の速報性と充実を凌駕してしまっている。ということで公式ファンクラブへの期待は、チケットの会員優先販売があればいいということで矮小化してゆく流れが加速していったのではないか。

☆それでもついてくわ 手を離さないで
 しかし、例えばスポーツ観戦を楽しむには、スポーツ新聞だけなく、雑誌Numberのような考察系・掘下げ系解説媒体も不可欠であるように、この会報の存在意義も大きかったはずだ。実際にこうして読み返してみると素晴らしい記事や貴重な論考が満載だった。これらを熱く歓待できなかった状況こそが、やはり90年前後のそこはかとない哀しみなのだ。
 というわけで、この会報のリアタイでの「不幸」と受け手側の側のいたし方ない「不孝」を悔やみつつ、もう別れが近づいていった。止めないで!と八曜社に励ましのお便りを書きたいところだ。でも、あなたの読者でいたことを誇りに思える今だから、かなわぬ願いは求め過ぎず運命の河を流れよう。
 さて、あふれる涙いをぬぐいもせず、次回10号からはエイジツアーの開始である。このロングランツアーどんな内容でどう展開してゆくのか楽しみだ…けどもう知ってるよな(爆)。ともかく頑張れ、会報、骨は私が拾う。

2024. 1. 19

100分de名著「マガジンT(第9号)」を読む  第6話 思い出そうよ、あの時の君

☆おしえてハワイ、思い出してマウイ
 "暫定マウイ島"とか、会報9号の表紙やdetenteのジャケットがどこであろうと、マウイといえば吉田拓郎だ。あれから拓郎はハワイに行けたのだろうか。なんなら剛くんがハワイで挙式して拓郎夫妻が…ん…それはいいや、撤回。でも拓郎はハワイに行って欲しいなと心の底から思う。
 昨年末、さだまさしのカウントダウンコンサートin両国国技館に行った時、入り口では、さだが旗を振る「風に立つライオン基金」を始め、いろんなチャリティが広がっていた。その中に、マウイ島の復興のための基金があった。原田泰治のマウイのジャガランダの木の素敵な絵がチャリティのシンボルだった。
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 昨年のマウイの大火災は記憶に新しい。新しいとはいえ、あのときは募金をしたり悲しんだりした俺も、国技館に行った時にはすっかりその惨事を忘れていた。面目ない。しかしさだは忘れずにマウイのために復興の運動を静かにしっかりと続けていた。おかけで俺も思い出すことができた。
☆忘れかけたこと、忘れないこと
 今も能登半島のことはショックだし怒ってもいるしできることは他にないかとあれこれうすっぺらな頭で考えてみてはいるが、そんなことも僕はきっと忘れるだろう、それでもいつか〜ではなく、そういうとき昔の吉田拓郎の文章の一節を思い出す。
 何でもそうなんだ。当事者以外が、その場では目の色を変えても、次の何かが起きると狂ったようにそっちに飛びつく。大韓航空機撃墜事件はいまどこへ行っちまったんだ。亡くなった人たちの悲しみをいまでも同じように憤っている人間ているのか。
        (吉田拓郎「俺だけダルセーニョ」集英社 P.162)」
 拓郎にガッツリ怒られているような気分になる。文豪カミュもたぶん吉田拓郎のこの文を読んで小説「ペスト」にこんなことを書く>読んでねぇよ。ペストが大流行した死の街で闘ったリウー医師の心根をこう描く。
リウーが勝ち得たのは、ただ、ペストを知ったこと。そしてそれを忘れないこと。友情を知ったこと。そしてそれを忘れないこと。愛情を知ったこと。そしていつまでもそれを忘れないに違いないということだ。ペストと命の勝負で、人間が勝ちえたものは、認識と記憶だった
       (カミュ「ペスト」新潮文庫 P.431)
 何もできないが、せめて、できるだけ忘れないでいよう。忘れないことそれ自体が何かのチカラなのかもしれない。
☆懐古趣味と人はいう
 昔のことばかり書いている、特に33年前の昔の会報をまたダラダラと誰も読みやしねぇのに書いている。バカじゃねぇの。あざけられ、そしられて、理解を産まない。そのとおりだ。しかし、忘れないこと=記憶こそが、自分の何かだ、言えない何かだと思う。俺ごときの記憶だけでなく、ひとりひとりの頭と心の残っている例えば拓郎の記憶それこそが人間を生かしてゆくんじゃないのか。自分が体験した吉田拓郎のいる世界のこと、そしてマウイのことも今起きている悲痛事もせめて忘れないで記憶しておこうぜ。>馴れ馴れしいんだよ…すまん
 なんか今日は引用が多すぎるが、いいのだ、そういう日なのだ。
   記憶とは、死に対する部分的な勝利なのです
        (カズオ・イシグロ『動的平衡ダイアローグ』木楽舎)
 ということで、それぞれの忘れない拓郎の記憶を抱えてがんばって生きてまいりましょう。いつかパッチワークのように糾合できたらいいですね。つづく。
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2024. 1. 18

100分de名著「マガジンT(第9号)」を読む  第5話 教えてハワイ
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 会報9号の表紙の海辺でスラリと伸びた長い脚を投げ出している拓郎、アルバムdetenteのジャケットの海をバックに空がこんなに青いだなんて…と見上げる拓郎、91年のツアーパンフの風吹く丘に立つ拓郎…たぶん同じ場所だと思うのだが、これはどこだろうか? 今回ちょっと気になって調べても
みたが、調べ方が悪いのかどこにも書いていない。気になりだすと気になって仕方がない。そこで、旅行代理店で仕事していた経験のある知人に見せて意見を聞いた。

(旅)これは野生のポインセチアでハワイとかによく観られます。よくはわかりませんが、なんとなくこれは昔のマウイ島じゃないかなと思います。
(星)そんな昔じゃないんですよ。
(旅)いつごろの写真ですか?
(星)1991年です
(旅)…思いっきり昔じゃないですか、33年前ですよ。
(星)………<ちょっとショックで絶句>
 私の脳内で"かまやつひろしさんが♪古き時代と人が言う、今も昔と俺は言う…"と歌い始める。求む!アルバム「detente」をわりと最近のアルバムじゃんと自然に思っている感覚の人。

…ということで、確証はないが、暫定マウイということで、本当のところをご存じの方いらしたら教えて欲しい。つづく。…つづくのかよっ!

2024. 1. 16

100分de名著「マガジンT(第9号)」を読む  第4話 個人的なことに感じる個人的なこと

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☆さまよえるファンごころ
 会報9号に「個人的なこと。」と題する田中ぜんとうよう氏のエッセイが載っていた。"男達の詩ツアー"武道館公演の感想文だが、"田中ぜんとうよう"…誰なんだ。しかしその文章から拓郎に歴戦の熱いファンであられることは十分にわかった。そしてその熱き拓郎ファンの田中氏が苦しんでおられることもヒシヒシと伝わってきた。曰く、いつの頃からか拓郎はファンの恋心には応えてくれなくなり、自分のデスクには仕事が山のようにたまり、世界は戦争の殺戮や政治の危機で煮えくり返ってる。「疲れた」という田中氏の言葉がやるせない。
 当時はこの記事のセットリスト部分だけしか読んでいなかったが、こうして現在あらためて読んでみると切々と胸にしみる。それは時も人も違えど現在とまったく同じ状況だからだと思う。還暦過ぎての仕事はキツイし、肝心の拓郎は第一線を退いてしまい、世界は殺戮と命の危機に満ち、気持ちの悪い政治家どもは勝手なことを言い合うだけでは足りず、自由な批判すら封殺しようとしている。毎日能天気な日記を書いているだけの俺がエラそうに言えたものではないが、それでも田中氏の懊悩は心に響く。
 もういい加減にしてくれないかな。それがそのまま武道館に向う気持ちだった。日本に生まれたこと、東京で暮らしていること、そして自分がここにいることすらすべてがネガティブなことだった。期待するもの、期待できるものが思いつかなかった。ねぇ、拓郎もういいよね。そんな風にして僕は武道館の門をくぐった。(田中ぜんとうよう「個人的なこと」会報第9号P.8)
……なんかもう悲鳴のようにも聞こえる。
☆人は人の生き方をすればいい
 そんな田中氏が武道館のステージで短髪のいでたちで歌いまくる吉田拓郎の姿を目にする。「されど私の人生」「もうすぐ帰るよ」「ひらひら」「東京の長く暑い夜」「ロンリーストリートキャフェ」「春だったね」「ペニーレインでバーボン」「君去りし後」…一部だけどいいセットリストだね。「自分の居場所」をテーマに選曲されている。このライブを味わいながら田中氏は雲の切れ間の光が照らすように何かを掴む。
自分が信じたことをやればいいんだと拓郎は叫んでいた(ように思う) この馬鹿馬鹿しさの真っ只中で犬死しないための方法はひとつしかないんだと、拓郎は教えてくれた。人は人の生き方をすればいいんじゃないか。(同P.10)
 「馬鹿馬鹿しさの真っ只中で犬死しないための方法」…ああ、これは俺が高校生の時ボロボロになるまで読んだ庄司薫「赤頭巾ちゃん気をつけて」の一節に出てくる「馬鹿馬鹿しさのまっただ中で犬死しないための方法序説」のことだ。"みんなを幸福にするにはどうしたらいいのか"という問いを抱えた主人公薫くんは、馬鹿馬鹿しい世の中で犬死しないために悩み、そして闘う決意をする。その問いと悩みが多くの若い読者に投げかけられ導きとなった。しかしやがてその庄司薫も沈黙してしまった後、たぶん多くの人々が精神の路頭に迷うことになったはずだ。だから村上春樹は庄司薫の後継として書き始めたという説もあるけれどそこまではわからない、やれやれ。しかし、その庄司薫の永遠の問いの答えを吉田拓郎に見つけた人がいるということになんか妙に勇気づけられた。
☆たぶん旅はどこからでも始まる
 見ず知らずの田中氏に深く共感するが、たぶん当時の田中氏は20〜30代だろうが、今さら気が付いた私は60を超えてしまっている。でもいいのだ。さまざまに生きるだけ。人は人だもの。喜びも悲しみも遅れないうちに確かめろ。ということで、いかに現在の世の中が混沌として危うかろうとも、こたえはたぶん吉田拓郎の唄の中にある。わからないが、たぶんきっとある。だからこそ私の旅もまたここから始まるのだ。>さっぱり意味がわからないかもしれないが、すまんな。何を謝ってるのかもよくわからないが、やれやれ。
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2024. 1. 14

100分de名著「マガジンT(第9号)」を読む  第3話 振り出しに戻る旅に馬が飛んでゆく

🌟永遠の音楽雑誌と永遠の編集長

 音楽雑誌「新譜ジャーナル/シンプジャーナル」は拓郎ファンにとってバイブルだった。巨人に報知新聞、阪神にデイリースポーツ、吉田拓郎にシンプありだ。何が何でも吉田拓郎という80年代当時ですら既に偏った音楽雑誌だった。日本の音楽界は吉田拓郎と浜田省吾とふきのとうで回っているという世界観に浸ることができた。大越正実編集長は「この方針で一定の数字を掴んでいるから編集方針は変えない!」と啖呵を切り、吉田拓郎偏愛の旗を守ってくれた偉人いや神だったのだ。そのシンプジャーナルが廃刊してしまって1年以上経って、会報9号に久々にその大越正実元編集長の署名記事が載った。しかし…
 音楽雑誌の生存競争に敗れ去り、そしていささか音楽”業界”ってやつに疲れてしまった情けない僕は、全仕事量の7割がたを 競馬雑誌や書籍づくりにあてている。もともと競馬には並々ならぬ打ち込み方をしていて(略)かけた費用(つまり損した馬券代)は計算している途中に気持ちが悪くなるほどだった。(大越正実「拓郎の単勝をありったけ」会報第9号P.26)
…実にショッキングな告白だった。あのシンプの大越編集長が、音楽雑誌の競争に敗れ、音楽業界に疲れてしまったというのだ。こんな悲しいことがあろうか。その記事は競馬の調教師で熱心な拓郎ファンのKさんと知り合い、二人で飲んだくれ拓郎の話で盛り上がる内容だった。私は競馬をせずギャンブル一般に偏見があるので、すまないが、勝手に競馬に溺れ、やさぐれたイメージを描いてしまい余計に切なかった。
🌟すってんてんのあのじいさん
 ホラあれだよ、賭け事に身をやつして、有り金無くして、すってんてんのあの爺さんが出てくる歌があるじゃない。あの世界だよ。失礼お許しを。呑んだくれながら、二人は、いよいよ迫って来た@フォーライフが総力をあげプロモーションするというニューアルバム(detente)の発売とA本当に実現した45歳45本のエイジツアーに熱い思いを馳せる。いつだって、どこにいたって新作とツアー決起は眩しい眩しい希望なのだ。
🌟ボビーに首ったけ、単勝にありったけ
調教師の最後の言葉が熱い。
 拓郎って、やっぱり肌にあうんだよ。地ベタはいずってさ、耕して収穫しているじゃん、拓郎って。ドロンコになって失敗したりさ…そういう血みたいのを感じちゃうんだよ。血とか性とかさ、宿命でもいいんだけど…(前同P.29)
 やさぐれた空気にちょっと引きながらも落陽を聴いているようなソウルを感じた。確かに、この国ときたら賭けるものなどないさ…これを書いている今現在も本当にそのとおりだと思う。こんな世の中と自分を捨ててみたくなる。だからこうして競馬の事がわからない自分も
    拓郎の単勝をありったけ
 という叫びに妙に共感してしまうのだ。大越正実さん、どこかで逢おう生きていてくれ。
 というわけで今日は久々に「落陽」を聴く。'93の石川鷹彦とのアコースティックバージョンでどうでっしゃろ。
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2024. 1. 13

100分de名著「マガジンT(第9号)」を読む  第2話 魂のReverence

🌟"エンディングおじぎ"の史的展開
 会報9号に載った石原信一による90年年末の「男達の詩ツアー」の最終公演のレポートにこんなくだりがあった。
 彼のフィナーレはこのところ長いおじぎだが、この日は本当に時が止まったかと思えるほど拓郎は深々とおじぎをして動かなかった。「あのおじぎ、ツアーの最初の頃はギャグでおってると思ってたんだ」ギターの松尾一彦が髭をなでながら言った。「ギャグか、まいったな…
       (石原信一「横浜ベイブリッジの畔で」会報第9号P.16)
 俺はこの公演を観てはいないが、それに関係なくすべての拓郎ファンにはその姿がありありと瞼に浮かぶに違いない。今となってはもうおなじみすぎる"フィナーレのおじぎ"だ。この記事を読み、目が覚めてふと思う。もうこの会報のころ(1990年末)には定着していたとすれば、拓郎はいつからフィナーレのおじぎをするようになったのだろう。
 75年のつま恋では「春だったね」のエンディングでおじぎをしているシーンがある(エンディングとあわなくて大変だったと後日拓郎談)が、最後の「人間なんて」でおじぎしている様子はない。70年代後半から80年中盤までは、コンサートの最後は、両手を高々と挙げてヒラヒラ振って投げキッスというのが基本だったと思う。85年のつま恋のフィナーレがその意味では圧巻だ。
 映像でフィナーレのおじぎがしっかり確認できるのは、東京ドーム`89のオーラスの「英雄」の最後だ。ここで深々と頭を下げる。次の90年の"人間なんてツアー"も「俺を許してくれ」の終わりにていねいなおじぎをしてステージを去る。となるとやはり88年の休暇明けの「SATETO」あたりがフィナーレおじぎの転換点だったのではないかと推測される。
🌟美しき芸術品
 いやいや大切なのはいつからおじぎが始まったかではなく>ってオマエが言い始めたんだろ!、コンサートと歳月が重ねられてゆく中で、いかにこれが深化していったかということだ。
 コンサートのたびにあのフィナーレおじぎは胸に刺さる。その日のライブの拓郎の気持と観客の思いの結節点みたいなものだ。最高のライブだった時には、あそこでガッツリと絆のようなものが結ばれる。そうでもなかったとき(爆)…陳腐なセットリスト、客に対する悪態などで多少不満があったときでも、あのフィナーレのおじぎで、すべてOKな気分に説得されてしまう。
 そして歳月がすすむにつれて、怒り、喜び、哀しみ、そして病などいろんなことが起きた。それによってどんどんおじきにこめられるものが深められて、おじぎそれ自体が美しい作品のように彫琢彫拓されていった。
 そしていわずと知れた2019年に頂点に達する。「今夜も君をこの胸に」のリフレインの流れる中、文字通り時が止まったような深い深いフィナーレのおじぎから顔を上げたときの吉田拓郎のあの表情…ああもうたまらん。続きはそれぞれお好きなDVDで。
🌟わたしたちの幸運
 今の世の中でおじぎという所作は、形式的なポーズだったり、謝罪会見のお約束だったり、はては支配者への服従だったりと、なんかいろいろ微妙なものであることが多い。しかし、私たち拓郎ファンは、魂のこめられた美しい所作としてのおじぎというものを確かに知っているのだ。
 拓郎はいつからか拳を振り上げる分をおじぎにかえたのではないだろうか。その頭を下げる姿は決してへつらってはいない。歌い切ったものが胸を張るのではなく、内側に思いをこめて観客にアピールしているのだ。あの長いおじぎをしている間、何を考えているのだろうか。(同上)
…それは誰にもわからない。でも観る者それぞれの中にたぶん無数にあるのだ。
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2024. 1. 12

🌙🌙🌙月下氷人🌟🌟🌟
 さすがにびっくらこいた堂本剛&百田夏菜子お二人のご結婚のニュース。年始に国技館の「生さだ」で「生百田」を観たばかりなので感慨深い。心の底からおめでとうございます。剛くんもついに結婚か。結婚のご報告文に「世界平和」が出てくるところがなんともいいな。
 吉田拓郎が応援してきた堂本剛、さだまさしが推してきた百田夏菜子…もし結婚式があったら媒酌人は吉田拓郎&さだまさしでどうだっ!>どうだじゃねぇよ。私も端くれから、お二人のお幸せと世界の平和を魂の底からお祈り申し上げます。

2024. 1. 11

100分de名著「マガジンT(第9号)」を読む  第1話 1991年とはなんだったのか

 会報第9号の発行は1991年だ。73年とか75年とか79年とか85年とか教科書に載るような年号と違い「91年」と言われてもピンと来ない。地味にスルーされてしまいがちな91年だが、この年の吉田拓郎の活躍は概略こんなんだった。

<通年>
 まず年明け早々"ビックコミックオリジナル"91年3号(1月19日)から、見開きでエッセイ「自分の事は棚に上げて」の連載が始まった。キャッチコピーは"時代に選ばれた男"だったと思う。この連載はなんと3年以上もつづき2冊の単行本にもなった。当時、毎号100万部を超える人気雑誌の豪華執筆陣となり、おなじ1946年生まれの景浦"あぶさん"安武とレギュラーチームメイトとなったのだ。
<上半期> 
 1月からホテルに缶詰めになって曲を作り始め、3月にアルバム「detene」(全13曲)を打ち込みではなくバンドサウンドによって一気に3週間で作り上げて6月に発売。いろいろ意見はあろうがこのアルバムの代表曲は名作「たえなる時に」だ。俺は「裏窓」が好きだが。とにもかくにも名盤ばい。テーマは「男が空を見上げる時」。なんたって13曲も入っているところが嬉しい。「ひまわり」なんて8曲だぜ。量ではない質だというご意見もあろうが、量だって(笑)。スーパーで100g増量と書いてあるとそれだけで買ってしまうじゃないか。それに量が閾値を超えて質に転化するものだとあのクボリ先生も言っておられた。いみふ。
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<中期>
 これらの上半期と下半期の狭間に若者共和国の依頼であの名曲「吉田町の唄」が完成して、レコード未収録曲としてエイジツアーでも歌われ、この曲が翌92年にブリッジをかける。
<下半期>
 エイジツアー。といっても島村英二はいない。エイジツアーってなんじゃい。手っ取り早くこれだ。
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 6月から11月までの超絶ロングランで45本(予定)のコンサートツアーを完走した。実際は43本になってしまったことにも注意だ>なんの注意だよ。まぁ、今日まで生きてきた拓郎ファンにとって2本の中止くらいはかすり傷だ(爆)。とにかく旅が嫌いな拓郎がむっちゃ旅をしまくった1年間だ。
 当時、和歌山に住んでいた友人から「1000人ちょっとしか入らない田辺の紀南会館に拓郎が来るらしいが、そんなに困ってるのか?」と心配の電話があった(爆)。またある時は佐渡ヶ島にも渡ったらしい。ジェンキンスさんか。何気にアイランドコンサートここに再びである。そんぐらいの気合をこめて拓郎は旅をしていたのだ。

 まさに「歌は労働だぜ」というかつての拓郎の口癖を思い出させる働きぶりだった。この1991年1年間を漢字一文字で表すと「旅」だと思う。 物理的な旅だけではなく、父親の声を聴かんとする時空を超えた心の旅があったからこそ「吉田町の唄」も生まれた。
 このように名作を発表し、精力的なコンサートツアー、人気雑誌の連載という「91年の旅」は破竹の大進撃といえる。しかし、しかしだ。それと同時に俺には,91年の旅は、そこはかとない悲しみと背中合わせになっているような気がしてならないのだ。あのとき、世間を吹く風、ライブ会場の空気、それは拓郎だけでなくファンも含めて言葉にできないさまよいの中にあったように思う。このことをなかなか共感してもらえないのだが、求む、居酒屋で涙ぐみながら91年の愛と哀しみを話しあえる人(爆)…そこら辺をそろそろエンディングが近い会報から読み取って書いておきたい。
 しかし現在に思えば、その悲しみも含めて本当にすばらしい旅だったのだとあらためて思っている。では、つづく。

2024. 1. 10

☆☆☆しばれるね☆☆☆
 今年は年明け早々に両国国技館で石川鷹彦先生の笑顔にお会いできて最高にハッピーだった。なのに、その後はなんともやり切れない事態が続く。
 そんな中に八代亜紀さんの訃報に驚く。俺もいちばん好きなのは映画「駅station」の「舟歌」だな。でも、あそちゃんの追悼文があまりにすばらしすぎてもうそれ以上に言うことはない。映画の主題歌なのか映画が舟歌のプロモーションフィルムなのかわからないくらい印象的だった。

 1980年の春に拓郎が夜のヒットスタジオに「あの娘といい気分/いつか夜の雨が」で出演したとき、司会の芳村真理が「拓郎さんて凄くチャーミングなのよね」とつぶやくと横から八代亜紀がいきなり手をあげて「ハイ!私もそう思う!」と切り込んできた姿が忘れられない。嬉しかったなぁ。

 2017年の阿久悠トリビュートコンサートで生の「舟歌」を聴けたのが私の冥途の土産のひとつです。遠くからですがありがとうございました。心の底からご冥福をお祈りします。

2024. 1. 7

☆☆☆闘うキミを嗤うヤツら☆☆☆
 昔、吉田拓郎は「馳せ参ずる」という言葉をよく口にしていた。魂をもって駆けつけるという意味で使っていたように思う。
 ただ現場に行けばOKというわけではないが,やはり魂をもって現場に「馳せ参じた人たち」がいる。彼等を嗤うな。ましてやホントは馳せ参ずべきだった連中と一緒になって石を投げるんじゃないよ。
 「偽善」なんて言葉も目にするが、そんなとき泉谷しげるの「おい!さだ!一緒に偽善に行くぞ!」という言葉を思い出す。胸がすく。いいぞ!泉谷☆。そんな泉谷のもとに拓郎も馳せ参じたんだよな。ということで当然、曲は吉田拓郎の「ファイト!」。よくトチってしまうので(爆)完成版は意外と少ない。やはり'96の感度良好ナイトかな。ふるえながら登ってまいりましょう。

2024. 1. 4

☆☆☆文春砲☆☆☆
 拓郎ファンの朋輩から元旦に発売中の週刊文春最新号のキャンディーズ特集のことを教えて貰った。スージー鈴木とマキタスポーツの対談で、キャンディーズにおける拓郎メロディーへのレスペクトが凄く良かったということだ。今世間で話題になってる例の記事が載っている号なので残っているかと心配だったが、一般書店で余裕で買うことができた。
 朋輩はきっと俺が新年早々仕事場で「紅白のキャンディーズ観ましたかぁ」とか話しかけられていきなり相手をぶん殴ってしまう「とんび」の"ヤス"になってしまうことを心配したのだと思う。すまん。
 だいじょうぶだ。わが心のキャンディーズ。拓郎メロディーが無かったからって、文句や不満などありえない。しかしもちろんこれが森進一紅白スペシャルメドレーでもし「襟裳岬」が入っていなかったら、そのうえ「冬のリビエラ」だけは入っていたりしたら俺は川内康範先生以上に骨まで怒るに違いない。そんときゃ虎屋の羊羹でも許さない。ま、俺が怒ったところで「ヘ」にもならんが。

 しかし、この文春の記事は運命の出会いと思うくらい嬉しかった。私にとってこっちの方がよっぽど文春砲だ。朋輩に感謝したい。昔から思い続けていてこのサイトで何回も書いたが、殆ど共感を得られなかった「夏が来た」=拓郎節そのもの説。同じことを胸に強く抱いておられる方に会えた。しかもこのスージー鈴木は「ペンタトニック」という音楽理論を用いて「年下の男の子」も拓郎節であるという…俺も思ってはいたが怖くて言いだせなかったことを見事に喝破している。なんとクレバーな。
 なので拓郎のメロディ―であろうとなかろうとキャンディーズの楽曲は、鰹節のように拓郎節がいい出汁を出している世界なのだ。拓郎の曲が無かったから不満だとか、そういう小さいところじゃ俺は生きていないよ(爆)

2024. 1. 3

☆☆☆運命のひとひねり☆☆☆
 地震の被害がどんどん詳らかになってゆく切迫したニュースのうえに、航空機が羽田で炎上したニュースをリアルタイムで観て、もう器の小さい俺はキャパ超えでわけがわからない。しかも被災地救援のために海保の方々を乗せた飛行機だったというからもう神も仏もありゃしない気分になる。それに観えないところで原発は本当に大丈夫なのかということも不安になってくる。まさにわたしたちは運命のひとひねりの中で木の葉のように舞うだけ舞うしかない。

 これを超える悲痛事があちこち盛大に頻発してゆくのが戦争だと思えば、戦争は許すまじだとあらためて思う。何といわれようと命を救う営みこそすべてだ。

 お世話になった和倉の旅館はかなりの被害だったようだが、従業員たちが宿泊客を身を挺し庇うようにして的確に避難させてくれたという書きこみをいくつも読んだ。
 すごいスピードで鉄道や空港を回復させる人々、乗客を一人残さず守った航空機の乗務員の方々、現地の救援のために走り回る人々、関西からも駆けつける消防隊、やっぱ人は人でしか救えない。冗談ではなく日本トレーシーアイランド化計画(>なんだそりゃ)に向けてがんばりたい。 
 ジェフ・トレーシーのように資産も救助隊装備もないので、今のところ僅かの募金くらいしかできていないが、これも多種多様過ぎて、どこにどう配分してゆけばいいのか謎が多い。ともかくみなさまの息災を祈ります。

 今日はこの曲かな。T&ぷらいべえつ「運命のツイスト」。なんか活力が湧いてくる。

2024. 1. 2

 地震で被災された皆々様に心の底からお見舞い申し上げます。だれもが新年を迎えて希望に満ちたおだやかな日にこういう事態が待っているというのは全くなんというこの世なのか。
 われらが吉田拓郎も必ずや深く深く心を痛めているに違いない。勝手に断言するが、あの人はそういうお方だ。
 さだのコンサートに行ってみて、あらゆる悲痛事に対して何といわれようと自分にできることからどんどんカタチに実行していく姿にも恐れ入ったばかりだ。
 おれは何処へゆこう君は何処へゆく…何もできないがそれでもヘタレの自分にも何かを感じ何かできることはあるのか。とにかくご無事をお祈りします。

2024. 1. 1

☆☆☆僕らの音楽の旅ははてしなくつづく☆彡☆彡☆彡
 新年おめでとうございます。ここのところ初夏、初夏とウルサ過ぎたか。ともかく昔から正月は冥途の旅の一里塚、めでたくもあり、まためでたくもなしなどと申します。

☆だって日本青年館がないんだもん
 年末年始、いろいろあって行き場所のなかった私は、さだまさしの両国国技館のカウントダウンライブに初めて参加した。大晦日夜8時開演で、落語、紅白の中継、カウントダウンを経て、そのまま「生さだ」観覧に至り、結局元旦午前2時30分までという長丁場だった。しかしながら一瞬たりとも飽きさせなかった。「元・色男」島村英二先生もお元気で踊りまでご披露されていた(爆)。そこでは、ホームもアウェーも何もなく、門外漢の私も含めて音楽に歓待されている気分で最高に楽しかった。またジジババのファンがメインなのだが、彼らが子孫や若い世代を連れてきて思い思いに升席で和んでいる様子はそれだけで素敵なものだった。

☆ホントのエースが出てこない
 なので、紅白での伊藤蘭のキャンディーズメドレーの内容を知っても穏やかな気持ちでいられた。ただ「ラストシングル『微笑がえし』を除くとキャンディーズ一番の売上枚数シングルは『やさしい悪魔』なんだぞオラぁ!」とチョッと思っただけだ。>怒ってんじゃん。いや、いい。それでもいいのだ。

☆石川鷹彦先生の背中
 私が書きたかったのは、昨日生さだの中でさだ本人も話していたようにこの日の国技館には石川鷹彦さんが観覧にいらしていたことだ。
 たまたまツレが、カウントダウンが終わって生さだ収録が開始する前のインターバルの時にちょうどお帰りになられる石川鷹彦さんとご家族をみつけた。飛んできて私に教えてくれたので転げるように玄関口に走った。ああ、石川鷹彦さんだ。出口に向かわれる石川さんの背中におそるおそる声をかけさせていただくと笑顔で振り返ってくださった。顔色もよくて、あの石川鷹彦さんだった。先日の拓郎のラジオの話が忘れられないツレが「拓郎さんのことをお願いします!」と叫ぶと今度は大笑いして頷いてくださった。ご家族も会場の係の人もさすがに笑っていらした。ここはさだのコンサートだ。でも、いいじゃないか…はさらばのB面。玄関口で石川さんは振り返るとまた手を振ってくださった。嬉しさ、感激、言葉にならない純粋経験だ。俺らも涙ぐみながら思いきり手を振った。書いている今もまだ気分が高揚している。

 とにかくSPも一般Pも拓バカもすべからくみなさんお元気でいらしてください。心の底からそう思う。音楽のことなんぞわからない無明の俺だが、端くれとして音楽とともにいたい。それが生きる"よすが"だ。ということで今年もよろしくお願いします。
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2023. 12. 31

☆☆☆また歳月が行ってしまうから☆☆☆
 年始年末はただの通過点と言っときながら大晦日は感慨深い。ホントだったら、大晦日は、日本青年館に行って、篠島アイランドコンサートの映画を観たあとで、ライブを満喫して「ファミリー」を泣きながら唱和する予定だったのに残念だ>いつの大晦日だよ。で、古い唄は捨てたといって、すぐ翌年、お祭りだからと言ってまた拾うのだ>よしなさいっ!…だからこそ今日まで、そして明日の初夏があるのだ。
 ということで拓郎が唄ってくれないのでちょっと音楽の旅に出ます。探さないでください>探さねぇよ!知らねぇよ!

 ホントに皆様、平和で自由な初夏が迎えられますよう心の底からお祈り申し上げます。よいお年をお迎えください。
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2023. 12. 30

⭐️⭐️⭐️バックアップするぞ〜⭐️⭐️⭐️
 紅白の伊藤蘭「キャンディーズ50周年 紅白SPメドレー」はどんなメドレーだろうか?予想してみる。

 やさしい悪魔〜あなたのイエスタディ〜銀河系まで飛んでゆけ〜アン・ドゥ・トロワ

 どうだっ!>どうだじゃねぇよ、ありえねぇよ。…あぁ、笑わば笑え悟りし人よ。こんな馬鹿なことが言えるのも明日になるまでさ、それでいいよね。

 しかしメドレーでまとめて聴くとこの拓提の4曲。まったくカラーが違う名曲4曲を見事に描きわけている。並べ方によって起承転結になったり序破急になったり組曲になったりと多彩だ。天才かおまえは(爆)。
 「あなたのイエスタディ」だけはチョッと今ひとつかなと思ってきたけれど、メドレーに落とし込んで聴くとこの曲のたゆとうような美しさが映える。もうミキちゃんが拓郎のメロディーを切なく歌っているだけで魂が震える。って、出るのは蘭ちゃんじゃん。

 えーい、かまわん。外れてもかまわん。拓提も非拓提も含めてすばらしい世界がそこにある。GO!GO!キャンディーズ!

2023. 12. 29

☆☆☆ゆく年、くる年☆☆☆
 結局、忘年会もせずに今年も暮れてゆくが「初夏」が頭に刻まれた奇特な私には、年始年末など単なる通過点にしかすぎない。吉田拓郎が何年も前から「元旦の朝からウチはトーストを食べる」とラジオで語っていたが、そういう感じでゆきたい。
 映画監督の小津安二郎が

  どうでもいいことは流行にしたがい
  重大なことは道徳にしたがい
  芸術のことは自分にしたがう

 という名言を残したが

  どうでもいいことも重大なことも芸術のこともすべて吉田拓郎にしたがう

 ということでシンプルに生きたい。いいのかそれで。いいじゃないか…はさらばのB面。ということで、ちょっと早いが、ええ唄やね。

     「夏が見えれば」(作詞・作曲 吉田拓郎)

 七月が見えたら 言葉にしてみよう
 もう一度この僕に 時間をくれないか

 夏が見えたら あなたに逢いたい
 見つめたい 話したい 生まれ変わって

 夏が見えれば あなたをこの腕で
 今一度抱きしめて 夏が見えれば
 夏が見えれば 窓を開けて
 あなたに逢いたい 夏が見えれば

 みなさまも御身体にご留意のうえ、良いお年を…じゃない良い初夏をお迎えください。明日も書くけど。

2023. 12. 28

☆☆☆風は向かい風☆☆☆
 森永卓郎氏の病気のニュースがショックだ。ごく最近のインタビュー記事で、老後の楽隠居生活を捨てて、この世界の闇と命がけで闘うという決意を読んだばかりだった。以前、俺は「ポンコツな"人間なんて"をラジオで歌うなよ」とか悪態をついたこともあったが誠にすんません。自由や命が粛々と削られてゆく理不尽な世界の堰にならんとする森永卓郎の覚悟に勇気を貰ったところだった。どうかご快癒され、活動が存分に続けられますように。吉田拓郎のフォースとともにあらんことを。そして長寿と繁栄を。

 最近はこればっかだな。もうこの曲、好きすぎる。

       純

 僕が泣いているのは とても悔しいからです
 人の尊さ優しさ 踏みにじられそうで
 力を示す者達 しなやかさを失って
 ウソまみれドロまみれ じれったい風景でしょう
 より強くしたたかに タフな生き方をしましょう
 まっすぐ歩きましょう 風は向かい風
 どけ どけ どけ 後ろめたい奴はどけ
 有象無象の町に 灯りをともせ
 どけ そこ どけ 真実のお通りだ
 正義の時代が来るさ 希望の歌もあるさ
 僕の命この世に 捧げてしまっていいさ

 どけ どけ どけ どけ 情をなくした奴はどけ
 生きる者すべてが 愛でつながれる
 どけ どけ そこ どけ 正直のお通りだ
 アナタの為の僕さ 悔し涙のままさ
 たぎる情熱の僕さ ゆれる心のままさ
 僕の命アナタに 捧げてしまっていいさ
 僕の命この世に 捧げてしまっていいさ

2023. 12. 25

100分de名著「マガジンT(第8号)」を読む  第9話 街を出てみよう 汽車に乗ってみよう 
 
 NACK5の9時間ぶっとおしラジオ放送の最後に拓郎はこう語った。
 ツアーを生まれて初めて60本か80本やってやるよっていう。死ぬかもしれませんけども、80本やってみようかっていう気分でいるんですよ。
 続くツアーの武道館でも「来年は歳の数だけやる!」と宣言したというニュースがこの会報にも記載されている。その発言聴いた四国のイベンターデュークの宮垣睦男社長の文章が寄せられている。拓郎のラジオの話題にもたびたび登場し、先日(2023.12.15)のラジオでも小田和正とも深いつきあいがある名物イベンターとして名前があがったお方だ。 
  吉田拓郎は嘘つきです。「古い歌はもう歌わない」「アンコールなどやらない」「コンサートはもうやらない」等など数え上げたらキリがありません。その度に僕はがっかりしたものです。がしかし御存知のようにそんなこといつ言ったのかなんて顔しながら元気にステージをやってます。
 最近は真面目になったのかと思っていたところ、先日の武道館でナント「来年は歳の数だけコンサートをやる。」「俺の行ったことのない街でもコンサートをやる」などと大嘘をつくではありませんか、しかも一万人のファンの前で。ツアー本数45本以上、終演後の夜の街が寂しくてもかまわないなんてことは今までに一度たりともあったでしょうか。僕は不安でたまりませんが、本人の決意は固いようです。
 いろんな意味で心に染みいるような宮垣さんの文章だ(爆)。ということで会報8号は、怒涛の91年のエイジツアーへの期待を盛り上げて終わる。いよいよ会報も大詰めだ。どうするどうなる1991年、吉田拓郎と俺達の明日はどっちだ!ということで、会報9号につづく。

2023. 12. 24

☆☆☆星は光っちゃう☆☆☆
 「諸人こぞりて」聴いてますか? 何百回聴いてもすんばらしい。このボーカルの艶とカッコよさ。しぼめる心の花を咲かせ、めぐみの露を置く、主は来ませり、主は来ませり、主は初夏の頃には来ませり

<これまでのあらすじ>
 さてT's会報シリーズをつづける。1990年、デビュー20周年を迎えて短髪になった拓郎は"自分の居場所"というシンボリックなテーマのコンサートツアー「男達の詩」を挙行し、自身の20年を振り返る9時間連続ラジオ、ライブビデオボックス'70-'90の発売など祝祭モードにあった。会報でもライブビデオボックスをガッツリ応援する特集記事が組まれた。その中のひとつを拾う。
100分de名著「マガジンT(第8号)」を読む  第8話 音量を下げるな

 会報のライブビデオボックスの関連記事に吉田拓郎のコンサートのPAを長きにわたって務めた伊沢俊司氏のショートインタビューが載っていた。

1.ホントは怖いユイ音楽工房
「アメリカで32チャンネルのミキサーを買ってきた」という誘いに設立間もないユイ音楽工房に入社した伊沢氏だが、入社してみたら「アメリカ製だけどオモチャみたいな8チャンネルのミキサーが4台あるだけで、(8×4=32)ということでだまされた(笑)」という結構悲惨な入社経緯を語っておられた。
 また83年の豪雨で中止になった後楽園球場サウンドマーケットでは、球場の排水溝にまでシートを敷いたため雨水がたまり溺れそうになって死を覚悟したという。
 わたしたちの憧れとは裏腹に実はとんでもないブラックじゃないのかユイ音楽工房(爆)。

2. PAに望むものは
 伊沢氏は、当時の拓郎はPAにどんな注文をしていたのでしょうかという質問に対してこう答えた。
 とにかくドラムのキックとベースが体にズン!とこなきゃ嫌だって人です。それから激しい曲が続いたあとでスローな曲になっても「音量を下げるな」って注文されたのを覚えています。静かな曲でもガーンて声が聞こえていましたね。
 いいねぇ。なんかとてもよくわかる気がする。ああ、拓郎のライブってそうだったよな。伊沢氏は例えばどのライブのどんな曲かは言ってないので想像するしかない。なんとなく思いつくのは、「王様達のハイキング」→「悲しいのは」→のあとの「S」。 これなんかそうじゃないのかと思う。王様バンドの砲撃のような演奏が終わって、中西のピアノが流れて
  とても長い間君は 愛なんて嘘ッぱちだわと
  強い女が一番似合うんだからと
  意地っぱりでいたんだよね 一人で居る時は
  きっと涙も隠して 空を見ていたんだね…

 まさに上気した武道館で「静かな曲でもガーンて声が聞こえていた」。ああ、いいよな〜ライブは。いろんなライブにあちこち出かけてはみるけれど、結局どこにいってもアウェーなんだもんよ。悪魔のひとやを打ち砕きて捕虜を放たんと主は、主は来てくださらんか。 

2023. 12. 23

☆☆☆季節の花☆☆☆
 ドラマ「いちばん好きな花」が終わった。ドラマの世界に没入するには年齢的にちょいと難しかったので静かに黙っていたが、毎回、誰かと感想を語り合いたくなるような実に深いドラマだった。人の自由って何だったい?、少数派よ魅力的であれ!という昔からの私にとっての教えをゆるやかに表現してくれていた傑作だった。脚本も演者も申し分ない。今後も繰り返し観つづけてしまうドラマに違いない。
 最終回で出てきた「いちばん好きな花は、ひとつでなくていい」というフレーズは、吉田拓郎が2003年の春先に語った「思い出はひとつでなくていい」「あの思い出が一番で、それを超えるとか超えられないというのでなく、思い出はたくさんあればいい」という言葉を思い出させるね。
 好きになればなるほど「いちばん好きな曲」「いちばん好きなアルバム」「一番好きなコンサート」「いちばん好きなサポートミュージシャン」…ひとつになんか絞れなくなってくる。それでいいのだ。それがいいのだ。たぶん好きになるということは「いちばん好きな」何かを選別し突き詰める作業ではなく、「いちばんすき」と言いたくなるようなものでこの世界を敷き詰めてゆく作業なのではないか。
 「明日の前に」は松任谷正隆のアレンジと瀬尾一三のアレンジがある、「リンゴ」は石川鷹彦と鳥山雄司のバージョン、「落陽」は高中正義と青山徹、どっちが好きか、なにがいちばんかではなく、これだけ多様多彩ないちばんがある世界こそが幸福なのだと思うのだ。
 そうそう"バラ"でも"スイートピー"でも"さくら"でもなく「季節の花」とするのもそういうことなんでねぇのか。

 拓郎がご推奨の藤井風の歌う主題歌も良かった。最終回でピアノを弾いている姿…なんか原田真二かティモシー・シャラメかという感じで…んまぁ、なんだな。

2023. 12. 22

☆☆☆初夏の頃☆☆☆
 寒波が押し寄せてきたが拓バカの頭の中はたぶん「初夏」一色である。初夏とはいつなのか? 暦を調べたりしても無駄である。大事なのは、あの人の頭の中にある「初夏」がいつなのか?だから。ということで次のとおりライブ73のライナーノーツが手がかりになる。
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 「1974年初夏…新しい唄を聴いてもらう事になるだろう」と記されている。これはシングル盤「シンシア/竜飛崎」のことだった。「シンシア」の発売は1974年7月1日。ということで、あの人にとっての初夏とは7月1日あたりのことを指すものと思われる。…もし違っても知らねぇけど。
 ということで泣きたい気持で冬を超え気がついたら春も過ぎていた六月の風の中で、せまる初夏、地獄の軍団。わが友よ、イヤ、どなたさまも、それまでは、がんばって生きてまいりましょうぜ。
 ということで聴くべき曲は「初夏'76」なのだろうが、頭の中では愛奴/浜田省吾の「初夏の頃」がずっと鳴っている。好きだあ。

   蒼い雲が河を流れる
   此処は僕等の最後の世界
   木立に透けて見える
   初夏の陽差しと甘い憂鬱
 

2023. 12. 21

☆☆☆半世紀生きた犬の気持ちで☆☆☆
 NHK「ジブリと宮ア駿の2399日」を観た。盟友であり師である高畑勲を失った宮ア駿の苦闘の様子には門外漢の私でも涙ぐんだ。あと宮ア駿と鈴木敏夫Pとの間で写真を撮ってもらっただけで泣いてしまう、あいみょんの気持ちも痛いほど刺さってもらい泣きしてしまった。あれはきっと例えば吉田拓郎と小田和正の間に入って写真を撮ってもらう犬の気持ちだ。>いや違うだろ

 不謹慎だが、このドキュメントの興味のもうひとつは、引退宣言と撤回を繰り返すアーティストの心情とそれに対する周囲の人々の接し方にある。あの方のことを考える時にいろいろ参考になる。
 なぜ毎回、これで終わり=引退だというのか。宮ア駿はこう答えた。
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 …使える。あの方にはこんなサイトもタタリのひとつかもしれないが。宮ア駿のインタビューでは「引退は引退なんだよ」と答えながら「忘れちゃう」「どうでもいいこと」とうそぶく。
 側近中の側近である鈴木敏夫Pは「宮さんは嘘つきだもん。もう辞めると言っておいて、またやる」「でも作る人ってそうだよね。それも才能のひとつなのよ。」という魂のアシストをする。…そういう言葉にかぶせて、作業中の宮ア駿が♪平気でウソをつく〜と鼻歌を歌うシーンが映る(爆)。そういうものなのだ。生まれ出ずる作品を前にウソもホントもない。しかし、ちっ!またウソつきやがってと思う時が不肖私にはある。宮ア駿と吉田拓郎は違うが、同じと言えば同じだ。「吉田拓郎は嘘つきだ」と他人から言われたり、自分で思ったりした時の便法としてひとつの参考にするよろし…

2023. 12. 19

 寺尾関=錣山親方が亡くなった。相撲には疎いが、男前の"つっぱり"力士の勇姿はもちろん知っていた。5年ほど前に生まれて初めて友人に連れられて国技館の相撲見物に行ったことがあった。このときは相撲協会の特別な時期だからか、受付の切符のもぎりがなんと寺尾関=錣山親方ご本人だったので驚いた。当然ガッツリ両手で握手してもらった。慣れない様子で、はにかんだように「中で引き換えて、どうぞ楽しんでいってください」と言う姿がとても素敵だった。
 間近で見てもやっぱり男前だった。そのとき「あ、この人、顔が後藤由多加に似ている」と思った。いや似てねぇよという反論があるかもしれないが、少なくとも後藤由多加系のハンサムだと思った。寺尾と拓郎ってなんかゆかりがなかったろうか。
 それにしても若い。早すぎる。身近な方々、ファンの方々のお気持ちはいかばかりか。心の底からご冥福をお祈りします。
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2023. 12. 18

☆☆☆愛と哀しみのワンハーフ☆☆☆
 ワンハーフでしつこく書いておきたい。同じ1975年、堺正章が吉田拓郎の提供曲「明日の前に」をテレビで歌う時は、必ず「ワンハーフ」というか「中抜き」で1番と4番を歌っていた。なのでそういうシンプルなサイズの歌なのだと思っていた。これまたtくんが「今度のマチャアキの歌、拓郎は手を抜いてるよね」「だよな」と教室で話したのを憶えている。

    明日の前に(テレビサイズ)

 どれだけ歩いたのか 覚えていません
 気づいた時は 風の中
 涙がひとしずく 頬をつたう頃
 淋しい夜だけが むかえに来ました
 あ〜あ人生は 流れ星
 いつ果てるともなく さまようだけです

 時には自分をふりかえります
 話しかけます 涙のままで
 あふれる悲しみを笑いに変えて
 さすらう心根を 歌にたくして
 あ〜あ人生は めぐりめぐる
 いつ安らぐのかも夢の彼方へ

 あーそうっすか、と言う感じの歌として聴いていたのだが、後になってアルバム「明日に向って走れ」を完全版を聴いて、ああああ、実は2番と3番があったのかと知ってすんげー驚いた。鎌倉の大仏が立ち上がったくらいの驚きだった>見たことあんのかよ。フルサイズで聴くこの歌の全容に感銘を受けた。

     明日の前に

 どれだけ歩いたのか 覚えていません
 気づいた時は 風の中
 涙がひとしずく 頬をつたう頃
 淋しい夜だけが むかえに来ました
 あ〜あ人生は 流れ星
 いつ果てるともなく さまようだけです

 いろんな言葉にまどわされました
 枯葉の舞う音も 覚えています
 一人でいてさえも 悲しい町で
 愛をみつけても 言葉がないんです
 あ〜あ人生は 一人芝居
 いつ終わるともなく 続けるだけです

 貧しい心で生きてみます
 こわれた夢も抱きしめて
 傷つけあうよりも たしかめあって
 やさしい鳥になり 空へむかいます
 あ〜あ人生は はぐれ雲
 いつ消えるともなく 流れて行きます

 時には自分をふりかえります
 話しかけます 涙のままで
 あふれる悲しみを笑いに変えて
 さすらう心根を 歌にたくして
 あ〜あ人生は めぐりめぐる
 いつ安らぐのかも夢の彼方へ

 あ〜あ人生は めぐりめぐる
 いつ安らぐのかも夢の彼方へ

 素晴らしい。テレビサイズとは別曲といっていい。この2番と3番があることで、4番の「さすらう心根」が実に深みをもって迫って来る。これは最初はワンハーフだったからこそ一層深く味わえた感激なのかと思ったりもする。

 昨日、ワンハーフの不本意な引き合いに出した「外は白い雪の夜」。これもセイヤングのロックウェルスタジオの初お披露目の時には3番までで終わってしまい、そういうサイズの歌だと思っていところ、完成版にはあの4番があって驚いた。長年3階建てと思って住んでいた家に実は広大な地下室があったことを知ったような驚きだ>ってそれ怖い話だろ、そういうのもういいから。んまあ、だからこそ4番がいっそう愛おしく感ずるのかもしれない。

 「ワンハーフ」「中抜き」のケガの功名とともに、拓郎が言うとおりキチンと全力でつくりこんである楽曲はやはりそれとして味わうべしというお話でした。

2023. 12. 17

☆☆☆O.Hは恋のイニシャル☆☆☆
 あの事件で特によくなかったのは司会者が「ワンハーフ(One+Half)は岡林だってやってんだよ!」と他人を引き合いに出したことだと思う。他人を引き合いにモノを言うことがいかに人を悲しくさせてしまうかということをこの歴史は教えてくれる。「あの人はこうなのにあなたはどうして…」…俺もつい言いたくなってしまうが注意したいものである。…そういう話ではないか。
 とにかく昔は一番+サビの「ワンハーフ」が多かった。「ワンハーフ」がよくないのは、例えば「外は白い雪の夜」をワンハーフにするとよくわかる。たぶんこうなる。

      外は白い雪の夜

 大事な話が君にあるんだ 本など読まずに 今聞いてくれ
 ぼくたち何年つきあったろうか 最初に出逢った場所もここだね
 感のするどい 君だから 何を話すか わかっているね
 傷つけあって 生きるより なぐさめあって 別れよう
 だから Bye-bye LOVE 外は白い雪の夜
 Bye-bye LOVE 外は白い雪の夜

 席を立つのはあなたから 後ろ姿を見たいから
 いつもあなたの影を踏み 歩いた癖が 直らない
 だけど Bye-bye Love 外は白い雪の夜
 Bye-bye Love 外は白い雪の夜
 Bye-bye Love そして誰もいなくなった
 Bye-bye Love そして誰もいなくなった
                           (以上)
   
 なんかミもフタもない唄になっちゃうでしょ。

 ワンハーフやフェイドアウトが当たり前だった1975年秋のラジオで「全曲最後までかけます!」というのを売りにした音楽リクエスト番組があった。ココで、当時のヒット曲「となりの町のお嬢さん」が流れたのだが、なんと2番をカットして1番と3番をつなげて編集した曲を「最後まで」流したのだった。たまたま一緒に聴いていたtくんと「あれ二番歌ったか?」「オレ意識失っていたかもしれない」と中2の俺たちはショックを受けた。
 何日か後の朝日新聞にこの番組が全曲かけるといいながら実はカットしていたということで苦情が殺到し、吉田拓郎さんサイドから番組にクレームがあったとの記事を読んで得心したものだ。
 それにしても「となりの町のお嬢さん」で2番を抜いてみ? ♪となりの町のお嬢さんが僕の故郷へやってきた(1番)の次に♪となりの町のお嬢さんは僕を残して行っちゃった(3番)〜早っ!となりの町のお嬢さん通過しただけかっ!早すぎだろ。
 
 ということで「ワンハーフ」も「中抜き」も誰も幸福にしないものなのでいけません…という話だが、明日につづく…って、つづくのかよ。
         

2023. 12. 16

オールナイトニッポンゴールドのあらすじ
 2023.12.15 僕の音楽の旅はまだつづいている 

<おかえりなさい、待ちわびていました、深夜ラジオといえばTHE ALFEEの覆面バンドのビートボーイズ、40周年記念の時の拓郎さんの温かなお言葉、最近のコンサートのグッズが「おかきのうなぎあじ」、拓郎さんからのTHE ALFEEの曲のコメントが欲しいという投書>
 コンサートグッズでおかきとか作るなよ(笑)。アルフィーについて音楽的コメントは言いたくない(笑)、差し控えさせていただきたい。高見澤の楽曲は勝手にすればと言い
たい(笑)

カポタストのハメ方わからない、チューニングはこれでいいのかな

M-0  僕らの旅 (生歌)
 ふりかえってみるのもいいさ
 道草くうのもいいさ
 僕らの旅は
 果てしなくつづく

 時には疲れたからだを
 木かげによこたえて
 想いにふけるのもいいさ
 旅はまだつづく

 いろんな人に逢うさ
 いろんなことがあるさ
 僕らの旅は
 果てしなくつづく

 知らない街で愛をみて
 ふと立ちどまり
 心の置き場があれば
 それもまたいいさ

 なんでこの歌を歌ったかと言うと、自宅で何もしない生活が始まって約1年。ぜんぜん何にも変わらないんだ。

 家でいろんな人からメールが来たり電話がかかってきたり、曲作ってくれないかという依頼があったり、あまりヒマになっていない。相変わらずPCに向って打ち込みをしたり、 後に話すけれど、あるギタリストの家を訪ねて懐かしかったり、あるヤツとスイーツ会をして散歩してみたり、僕の音楽好きの旅はまだつづいているなと言う気がして、振り返ってみるのもいいさ、道草くうのもいいさと歌ってみた。

 何も変わらないというが・・・自分の顔が変わってきた。自信があったわけではないけど、顔がよくない。こんなはずがないくらい顔がよくない。嫌だなー年齢か。

 久々のイマジンスタジオ。好きだな。この広〜いところで冷たい自家製クリームソーダを食べながらやるのが嬉しい。

 深夜放送やラジオが何周年という時を迎えるらしい  

 開局70周年って、そんなにあらたしいの?広島から東京に来たのが50年だし。深夜放送はどのくらいだろう?概ね50数年かな。
 ラジオにご縁があった。当時のマスコミには不信感のかたまりで、テレビも取材も嫌だったラジオだけがそばにずっといてくれて、僕はラジオからは裏切られていない。
テレビ、雑誌からは裏切られたけどラジオはずっと愛していた。
 そういうニッポン放送が70年、深夜放送も何十年というならば、ご縁があるし自分の青春もあるので、何にもしないのではなく、なんかしようかな?と思い、冨山プロデューサーやエイベックスの竹林君になんかやりてぇなと言ったら、アルバムやるしかないじゃん、ツアーやるしかないじゃんといわれて、ツアーするのはツアーはアレだけどライブ?
まずは、深夜放送とかラジオをテーマについてアルバムを作ってみようかな 詞を書いたり曲を書いたりしたら楽しそうだ。ここのところミーティングしている。

 ラジオは僕の青春そのものだし、僕を裏切らなかった、僕はラジオでいっぱい嘘もついたけれど被害届が出るほどのものではない(笑)。思い出深いのは、後半テレビにも出たけれどやはりラジオだ。ラジオをテーマに何か作ってみたい。

 今夜も自由気ままにお送りします吉田拓郎のオールナイトニッポンゴールド


<深夜放送といえば中島みゆきの玄関少年少女の出待ちをして、数秒間、幻の中島みゆきさん、私服にメガネで「おはようございます」という生声を聴けて大興奮したという投書 >
 中島みゆきは普段はわからない。スターのオーラ消しているね、溶け込んでいる。
 出待ち入り待ちって、待っていて楽しいのかな。あちこちくっついて出待ち入り待ち…楽しいのかな?俺にはとてもできない。すげーな。ファンになるってそういうことなのかな。他人事だよ(笑)
 解散したあとのオフコースの清水と松尾とバンドに入れてツアーをやったことがあった。 二人とも唄うまいし。どこに行っても僕の出待ち入り待ちはないなのに、松尾と清水にはいる。くそったれだったな(笑)。なんで俺にいないのに、おまえらの出待ちがいるんだよ。

 一度だけ青森県で楽屋からホテルまで何キロにわたって雪道沿いに列が出来ていて手を振りながらタクシーで通ったことがあった。あれ一回こっきり。

<スイーツ会しましたか?小田和正さんと拓郎さんは後期高齢者とは思えないという投書>
 後期高齢者…小田はこういうハガキ読まないな、アイツはカッコつけているから。夏の終わり小田和正の事務所にスイーツ会に行った、アイツとはほぼ同じ歳で僕の方が少し上なのかな、だけど向こうは拓郎と呼び捨て(笑)。デビューもほぼ一緒だけど僕の方が先にヒットした。小田はなかなかヒットしなかった。ここはハッキリさせよう(笑)。
 そのころは小田と鈴木のデュオだった。三人いたらしいけどそれは観ていない。TBSの深夜放送で、この曲をかけてくれとこのフォークデュオのシングル盤をスタッフがよく持ってきた。綺麗なハーモニーだけど、ビートやリズムは弱いなと思って「売れないだろうな」と思った。ごめんね小田君。当時は男性デュオだと、BUZZとかビリー・バンバンとか、あの弟は六本木の交差点とかで車が止まると窓を開けて歌うという有名な話がある。フォークデュオが流行っていたが、深夜放送の頃は下火になりつつあった。
 ある日、違う友人が「新生オフコース」のレコードを持ってきた。それを聴いた時、ぶっ飛んだ。これ小田達たちなの?ロックバンドに生まれ変わっていた。この展開に驚いた。小田やったな!と思った。これはカッコイイな。コーラスをきかせるロックビートというのは日本にはない。外国だとイーグルスくらいか。それでライブにも行ってみた。コンサートで男は俺くらいで全部女性だった。「いいな〜こいつら〜俺もオフコースに入れば良かった」と思った(笑)

 四国のイベンターのデュークの主催、ここの社長は小田とも親しいが、野外フェスを一緒にやってことがある。あとは前代未聞のIYYというフェスのオープニングでオフコースと「YES  NO」を一緒にジョイントした。♪君を抱いていいの〜が歌いたかったんだけど、そこを小田は歌わせてくれない(笑)ガックリしたのを覚えている。

 泉谷の普賢岳、日本をすくえ!も小田とやったり、それからLOVE2にもスペシャルゲストとして出てくれたし、NHKの対談番組YOKOSOも出てくれた。あとは「クリスマスの約束」…今年はやらないみたいね。そういう二人がスイーツ会をやるようになった。

 で、あいつの事務所でスイーツを食い過ぎて気持ち悪くなって、「運動がてら歩いて帰る」と言ったら小田が一緒に歩こうということになって、小田の事務所から僕んちまで歩いた。港区を二人で歩く。凄い光景。犬を連れたおばさんに「あ、小田さんと拓郎さんですか?」と気づかれて「写真撮っていいですか?」と言われてOKしたら、おばさんが僕と小田の間に犬を入れて、犬と俺と小田スリーショットを撮った(笑)。こんなときに俺はどうするの?犬と一緒の(笑)。小田のマネージャーもいたので一緒に写真も撮れたんだけけれど、おばさんは私はいいんですと言って去って行った(笑)。笑ってーって笑えないよ(笑)。この記念すべき写真をコンサートの一か所で出したらしい。客席は湧いたらしい(笑)。年明けまたスイーツ会をやろうな。

M-1  雪さよなら    吉田拓郎(cho小田和正)

(CM)

 熊本うささんの投書<長年、拓郎さんのラジオ、ずっと聴いてました。熊本から東京のラジオを聴くのは本当に大変でした。拓郎さんのラジオ、まずはパック・イン・ミュージック。途中から聴き始めたのですが、中学時代でした。兄がカセットテープに録音してくれて、翌日聴くというパターンでした。その中で拓郎さんの本プレゼントがあり、忘れもしない1972年9月14日、土砂降りのなか学校から帰ると届いてました!「気ままな絵日記」サイン入りです。
 そして、待ちに待ったオールナイトニッポン。こちらは地元でも聴けました。毎週ノートにオンエアメモを書いてました。オンエアした曲名、何を話したか、ゲストのお名前などです。
 次はセイヤング。
これは聴取するのに苦労しました。でも、セッセと聴いてましたよ。リスナーとの電話募集で選んでもらったときは突然だったので、動揺しまくり。全身ガクブルで、声も震えてたので、篠島行った話に「遠くからありがとう」と言ってくれました。ただ、その前のリスナーが10代だったので「年齢的にちょっとー」と笑われたのは心外でしたよ(笑)まだ21歳だったのに>

 「篠島遠くからありがとう」そんなこと俺が言うかな? すごいいいやつに聴こえる。 21歳なのに「年齢的にちょっとー」、ひでーやつだな(笑)。それはいかにも言いそうだな。

 深夜放送は、TBSパックインミュージック、ニッポン放送オールナイトニッポン、文化放送セイヤングと三つをやった節操のない男だけれど、三つは記録だ。各番組で味が違う。

 TBSは頑固な感じで実直なんだという姿勢をみせようとする
 文化放送は冒険しないよ、普通でいいというジェントルマンな感じだった
 ニッポン放送は、歴代のディレクターが、やってみないとわかんないよ 一か八かやってみようという感じだった。
会社のキャラなのかしら。

 僕も広島で、ゲルマニウムラジオだとさっきのメールのように聴くのが大変だった。でも東京のラジオと比べると広島では音楽の選び方が物足りなかった。
岩国のFENがあったので広島の歌番組は違和感があり、その点では東京のラジオは先をいっている気がした。コニーフランシスの「可愛いベイビー」を中尾ミエが日本語でトレースするように、当時の日本はまだアカ抜けない。ディランやビートルに影響を受けてシンガー・ソングライターが登場して活躍するにはまだまだ時間がかかる。そういうところに僕の音楽の入り口がある。


<つま恋のあと精魂つきはてて泉谷にラジオを任せているときに神田広美を知って学園祭にも来ていたという投書>
 神田広美…ドンファン好きだな。松本隆が原宿で飲んでいる俺をイメージしていたというが、オレは違うよ。

 冨山の結婚式での坂崎との生歌披露というのがあった。「IF I FEEL」を歌っているけれどハモれていない。ヤッコといわれていた冨山さんがNHKのテレビで部下を引き連れて出世したなと思った。出世した人、出世に失敗した人いろいろといる。あの結婚式から今の部下を従えたプロデューサーの姿は想像しにくい。
小池さんはすげー偉くなっていめけれど、歴代で一番ダメな人だった(笑)、クビになると思ってた。人間は好きなんだけど能力とは別問題。でも、小池さんトントン拍子で出世した。

 ニッポン放送のバイタリス・フォークビレッジのテーマ、この番組の佐良直美との引継ぎニンニクの臭いが忘れられない。

M−2 バイタリスフォークビレッジのテーマ   吉田拓郎

(CM)

 70年代の初期にソニーに移籍して、そこで才能あるミュージシャンと出会い、それで磨かれた。
 例えば松任谷正隆の「どうしてこんなに悲しいんだろう」のオルガンのソロ。また大学生  なのに、びっくりしたな。こういう若者がいるんだ。こいつとつきあいたいと思った。
 高中がアドリブで「春だったね」のフレーズを弾いて魅せる。彼も18か19歳だ。こんなアドリブが弾けるなんて、ああ、コイツとつきあいたいなと思った。
 また加藤和彦の「結婚しようよ」のアレンジのウマいこと、アイデアの豊富なこと…これをやればいいんだともの凄い勉強になった。
 自分の望んでいたレコーディングが出来た。スタジオ・インすることで幅が広がった
いろいろな財産となった。

 先月、ある方の自宅を訪問した。音楽の友人であり、恩人であり、時には先生だった。酒飲み友達だった。アコースティックから、ドブロ、ブズーキ、エレキも弾ける。俺は彼のギターで勉強してスリーフィンガーを引けるようになった。

 ※ガラスの言葉(実演)

 スリーフィンガー奏法のお手本で、ベース、ピアノのキーボードもこなす石川鷹彦。2016年に脳梗塞に倒れて大変な思いを体験された。現在も右半分は不自由 、言葉も自由に発するのは困難という日常を過ごしている。みんな石川さん、鷹彦さんとか呼ぶ中で、僕はいつしか「鷹彦」というようになった。そういう気分でいたい人なんただ。そういうやさしい人だった。笑顔が素敵だ。「元気です」というアルバムは、松任谷正隆と石川鷹彦という中心人物になってくれて二人の現場でのヘッドアレンジでできた。タカヒコもマンタも本来やりたかったレコーディングを実現してくれた。

 彼の紡ぎ出す音色のあたたかさは天下一品だ。アコースティックギターを弾く人はたくさんいたけれど、鷹彦みたいにスムーズ、なんというか極意を見せてくれた。凄いアイデア。いろんなヒット曲、あの素晴らしい愛をもう一度、神田川、旅の宿のドブロかフラット・マンドリンとか、こんなに弾ける人もアイデアのある人もいない。彼がいなければ、今の日本のシンガー・ソングライターの文化はないというくらい。僕はエレキギターしか弾いてなくて、広島のギター教室では、スリーフィンガーが弾けないのでピッキングで女子高生に教えてウケていたけど。東京に来てたら石川さんに本格的にアコギを教わった。
 倒れた時にファックスを送った。「早く良くなってブズーキ…ギリシャの楽器で、フラットマンドリンを大きくした感じで、『拓郎これいい音がするんだ』…かまやつひろしの水無し川で活躍している…あれはフラットマンドリンだったかな、ドブロかな。
 数年前に、電話もしたが、言葉は発せられなかったけども、オーと言う言葉に、ああタカヒコ変わってないなと思った。家に行ってみたいなと思って行った。

 出がけに、ファッションに悩んだ。タカヒコの奥さんはなんかファッションにうるさそうな気が勝手にして、これでいいかなとカミさんに見せたりして、プラダのロングコートを着て行った。
 プラダとかグッチなんだコートは。下は相変わらずGAPのジーンズ。俺GAPのジーン素好きだな、カタチが好きだな。ミスマッチで行った。
 「鷹彦来たぞー」と言うと鷹彦は、オーオーと迎えてくれた。人となりが以心伝心で奥さん娘さんも心優しい人で楽しい三時間だった。ここでも美味しいスイーツ、スイーツばっかり食べてる。甘いものが大好きになっていた。
 ずっと鷹彦の横で肩組んだり、こづいたりしていて「俺はアイツ嫌いだったんだよ、あのギタリスト嫌いだったんよ」と言ったらアイツもオーって意気投合していた。やっぱ俺達浮いていたんだな。嫌いなものが一致していた(笑)。右手が不自由なので、左で打ち込みをしていて聴かせてもらったら、スイートなインストルメンタルだった。これが出来るんだったら、PCでやりとりしようというと娘さんがパパにメールを教えますと。今好きなアーティストの情報を交換しようと。このことを坂崎に伝えたら、僕も連れて行ってくださいよと言われた。
 次回はグッチのジャケットで下はユニクロ、GAPかな。鷹彦がいっぱい楽器を弾いてくれて大ヒットしました。

M-3  旅の宿    よしだたくろう


11時

<あいみょんとやりとりしててますか?という投書>
 あいみょんとは時々ショートメッセージのやりとりをしていて映画の話していた。映画がすごく好き。映画の「ハウス・オブ・グッチ」で、息子がアダム・ドライバーその奥さんがレディ・ガガ。大熱演のベッドシーンは一度見ておくといいと言ったら、「凄かったっです」って。
寝癖があると何だか生きてるって感じ。こういうのをめっけるんだ。電柱に初恋がぶら下がっているとか。あいみょんの現実的な景色の中に展開してゆくところが絶品だ。

年齢的に顔が違ってきている。
まず朝の髪の毛がペタッとなっている。寝る前はふわってしているのに。
量も減っているしボリューム感がない。もともと多い方じゃないけど、まとまらんな。

奥さんに念をおしたけど、眉毛が、もともと西郷さんのように男らしい眉ではないかったものの、眉毛がタレ目になっている。目じりが下がっている。

それから鼻の穴が気にいらない。若干大きくなってきている気がする。そんなに突っ込んでいないのに。そのうえ鼻の穴が少し正面に向いつつある。

口も笑顔な自身あったけど、 最近はへの字になって笑ってる。洋服を買った時など、奥さんと写真とりっこするとき、いくらニッコリでも口がへの字になっている。
とにかく一個一個の個体がヤダナ。
かといって整形というのも、「拓郎さん整形やりましたね」と冨山に言われるの嫌だな。

自分のこと棚に上げてなんだが、テレビのCMは、特にBSやCSで、お年寄りが多くて、あれを飲め、こうしろとか俺の勝手だろと言いたい。しかも、そのジジイ・ババアが素敵でない。心躍るようなものをやってよ。つまんねーよ。だからテレビ離れするのかな。あいみょんの寝癖は救い。

M-4  あのね   あいみょん

(CM)

 家では二人でテレビを観ながら悪口を言う。ウチの奥さんは、テレビで好きになるという癖がある。古くはサッカー遠藤ヤットさん。アッと言う間に醒めて、スケボーの堀籠くん、バドの桃田くん、アダム・ドライバーそしてサッカーは三苫、田中くん。最近は、相撲の熱海富士よくない? チャーミングでいい。相撲観に行ったらきっと手を振ってくれると言っている?   


 来年は、アルバムを作ってみようと思う。ラジオと深夜放送の青春をテーマにした
アルバムを、例えば松任谷正隆に頼んでアレンジしたりプレイして貰ったり
ということで、みなさんも詞を書いてみないか。もともと「春だったね」「せんこう花火」は、リスナーの書いてきた詞だった。自分とラジオの青春テーマに書いてみてください。

 来年もその進行状況についてのラジオをすることに、40%位あるな。思い出青春を書いてみませんか  

M-5 ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン シンディ・ローパー

<深夜放送で往復葉書を送ると拓郎さんのサインをくれるという企画があって今でも家宝ですという投書>
昔、オールナイトニッポンで、引っ越し記念としてガラクタをプレゼントしたことがあった。 洗濯バサミとか引っ越し出てたガラクタをあげた。こういう企画をするのは名前言わなくでもわかる。

<矢沢永吉、浅川マキ、遠藤賢治…拓郎さんの会話を引き出す術が職人的だったという投書>
 別に聞き出すのがうまくはないと思う。ただインタビュアーが音楽はわかっていない
なと思うことはあった。おまえそんなこともわかんないで聞いているのかということもあった。
 その時代に全国ツアーを始めることになった。それまでは地元の有志とか鑑賞団体が主催していた。終演後、楽屋に集められてミーティング反省会をさせられたことがあった。席上で拓郎さんの「イメージの詩」はよくわからないとイチャモンつけられて大いにシラケた。

 全国の音楽好きに声をかけて、もっと俺たちのためになる団体ができないのかということでイベンターが登場して全国ツアーに出られるようになった。このイベンターたちに感謝している。
 彼らは同年代だし、旅先で打ち上げも楽しい。飲んで騒いで遊んで、でも気が付くとそういう馬鹿なことをしているのは僕だけになってしまった。みんなファーストフードで食事して帰るらしい。それなら俺は迷惑かと尋ねたら、そうはいわないけど拓郎さんだけなんですと言われた。
 だんだん打ち上げをしなくなって健康を大事にするようになった。打ち上げが楽しくてツアーをやっていたので味気なくなってしまった。そのことが全国ツアーから足を洗う原因にもなった。時代の推移。昔は、売上を散財してしまうような気持ちでいたが、後半はホテルから出ないでルームサービスで食事をするようになっていった。旅から足も洗って終わっちゃったな。健康的になっていいことかもしれない。しかし、ちっとも面白くない。撤退もやむなし。全国の美味しい空気を吸って回ることが楽しみだったのに。

ニッポン放送は来年で70年。なんで有楽町なんでしょうね。

M−6   有楽町で逢いましょう  フランク永井

 ワンハーフと言う言葉がある。東京のテレビの歌番組はみんなそれだった。一番を歌った後二番を飛ばして三番のサビに行く。そうすると一人の曲が一分半でおわる。これがすっげー嫌だった。「イメージの詩」とかどうすんだよ。
なので歌謡曲・演歌は一番しか知らないとか二番、三番が韻を踏んでいるだけの手抜きだったり、吉田拓郎さんテレビ出てくれないかと言われてもそれでは嫌だった。ヒットするようになってフルコースが徐々に増え始めてきた。シンガーソングライターたちが強く言って変わってきた。当時の歌番組がいかに息苦しいかったか。 

M-7 かくれましょう

<坂崎と拓郎のオールナイトニッポンが好きだった、北京放送と混線していたという投書>
 坂崎とのオールナイトニッポンゴールド。あんな馬鹿な番組はないね。なんにもポリシーのない。でも一番長い4年間も続いた。真面目にやってたら疲れるのに、ああいうのだといくらでも続くんだ。いまいちばん聴きたくないラジオ(笑)
来年あたり坂崎を呼んでやるかな。石川さんのところに一緒に行きたい言ってるし。
今夜は久しぶりでキツかった。70周年ということで敬意を表して、作詞を募集します。  今決まりましたが、来年の…初夏にもどってくる。今決まるわけはない…前から決めていました。それまで生きてるかな

 目じり、まゆげ、鼻の穴、口いろいろ変わってきている。みなさんの詞も待っています。レコーディングも総動員で、曲づくりも頑張ります。
 みなさん良いお年を。最後の曲。

M-8  Cruel Summer テイラー・スイフト

オールナイトニッポンゴールド 2023.12.15 
 とりあえずの思いつきと感想 

☆おかえり ただいま どこに行ってきたの♪…お疲れ様でございました。
 実はどうせ「24年の展望」なんかありゃしねぇよとやさぐれていたのだが「展望」…確かにありました。
 なんら遜色のないボーカルで「僕らの旅」をフルコーラス唄ってくれて、
「僕の音楽好きの旅はまだつづいている」…もうこの言葉があれば他に何も要らない。いや、よく考えたらいろいろ要るのだが、今はこの言葉の前には、何も要らないといわなきゃ失礼にあたる。

☆ そしてニューアルバムの胎動。松任谷正隆…名前を出すと言うことはもうガッツリ密約が出来ているのだろう。「おい去年"ラスト"アルバムって言ったよな」という皆様、私が代わって平伏してお詫びします。ごめんなさい。どうか作らせてあげてください(爆)。

☆ うささんの投書。いい話だった。深夜放送がただの一方的なコンテンツてはなく、それを聴いているリスナーのひとりひとりの日常が、不即不離でひとつに溶けあっていることがよくわかった。つまるところラジオってそうものだよね。

☆ 石川鷹彦さんの話、拓郎は明るいエピソードのトーンで話てくれたけれど、どれだけ鷹彦さんに対して深い思いを抱いているのか、もちろんそれは拓郎しかわからないことだが、とにかく行間からひしひと溢れて伝わってきて、それだけで胸がいっぱいになった。肩抱き合う二人。新しいお二人の関係の展開や新しい作品が聴ける日が来ることを楽しみにしていたい。
 あと話を聴いていてとにかく石川鷹彦のブズーキが聴きたくなった。すげー聴きたいけどブズーキというものが俺にもよくわからない。ひとつ確かなのは「ありふれた街に雪が降る」の間奏。とりあえずこれだ。いい。

☆オールナイトニッポンの引っ越しガラクタプレゼント…おれは吉田家の「ヒューズ」に応募したのだが外れたのを思い出した。洗濯ばさみ、植木鉢、歯ブラシそしてヒューズ。浅野さんではなく拓郎本人が喜んで率先していたように思う。「君はヒューズさえもくれない」という詞を書くことにした。昔、さだまさしの作詞通信講座ってなかっただろうか。受講したいと思うのだが。

☆コンサートの時に私に限らず多くのファンが拓郎の出待ち入り待ちをしてきたのだが…きっとあれじゃ足りないということなのだな。わかった。めくるめく出待ち入り待ちをやってやろうじゃないか。先日観た永ちゃんファンの白いスーツの背中に縦書きで{吉田拓郎}と大書したヤツを仕立てて、犬を連れて、沿道を埋めてやりましょうぞ。

 それにしてもチラッと「ライブ」と口走ったのを聞き逃さなかったぞ。今は聞こえなかったふりをして生きよう。いつかは開き直る時が来る時期を待ちましょう。

「ワンハーフ」といえば布施明だ。「バカヤロー、ワンハーフだよ!」。単に曲がカットされるだけではすまない怒りが拓郎の言葉ににじみ出ていたのは、それが理由ではないかと思う。やはりこの世界に布施明がいる限り、歌いつづけようじゃないか。>面白がってるだけだろ!

☆とにかく拓郎の音楽の旅が続くことは否応なしに推しの旅も続く。 ああ推せば命の泉湧く。がんばっていきまっしょい。

2023. 12. 15

☆☆☆街をゆく背中☆☆☆
思わず「かっけー」と見とれてしまった。愛と自信と幸せのオーラが出まくっていた背中。きっと最高のライブだったんだな。いいなぁ。こちらも今夜である。
IMG_4354 (1).jpg

2023. 12. 14

 あれから1年。死んだも同じの今になり、つまづくことを恐れてる なぜだよ 未練じゃないかよ それもこれもこの番組があるからだ。
 吉田拓郎『オールナイトニッポンGOLD』 12月15日 22時

「ニッポン放送から吉田に、2023年を振り返り、24年の展望を語るラジオ特番をオファー。吉田もいろいろ考えていることがあるとのことで、オファーを受諾した。」というふれこみだが「24年の展望」…ああ身もだえするような眩しいこの言葉。拓郎、この戦乱の世の中に魂のキックバックを頼むぞ!…んなもの頼まれねぇよ。…ともかく楽しみにしております。

2023. 12. 13

☆☆☆ラジオのつづき☆☆☆
 小泉今日子がゲストの浅田美代子にいきなり「『あこがれ共同隊』が大好きでした」と切り出してビックリした。(え!?それ言う?)と叫んだリスナーは少なくなかったはずだ。もっと凄かったのは浅田美代子の返答「あ、キョンキョン、出てたよね?」。(出てるわけねぇだろ!)とキョンキョンと一緒にさらに大きな声で叫んだリスナーも多かったに違いない。たぶんその地雷に気づいていない小泉今日子は「主題歌が山田パンダさんで…」と深堀をはじめて(あぶねー)と緊張したリスナーもたくさんいたことを確信する。そういう魔送球の投げ合いのような臨場感が最高だった(爆)。

 それから蘭ちゃんはシンガーとしての新しい今を生きていることがよくわかった。キャンディーズ時代を大切にしているものの、目線は現在の現在にフィットしながら歌おうとしている。その落ち着いたエレガントさが素敵だった。

 とにかく面白いラジオだった。いいなぁアイドルは。そうだよ「純愛」だよ。いちいちの小泉さんの選曲に共感する。ということで今日は山田パンダの主題歌を聴こう。

2023. 12. 12

☆☆☆まだまだラジオは途中だが☆☆☆
 70年代アイドル…やっぱりいいなぁ。小泉今日子GJ!!。久木田美弥…いた!、いた!ど懐かしい〜。やっぱり木之内みどりは"東京メルヘン"もいいが"横浜いれぶん"でしょう。すまん。あの時代のことがテーマになると名前こそ出なくとも、確実にそこかしこに吉田の存在というか君臨が透けて感じられる。たまらん。
 それにしても石野真子よ、幻のデビュー曲候補の「ぽろぽろと」をこんなにも大切に思っていてくれたとはありがとう。そもそもフォーライフの社長で音楽から離れていたといいながら石野真子のデビュープロジェクトだけでも実にたくさんの曲を作っておられる。誇らしい実に誇らしい。…つづく。

2023. 12. 11

☆☆☆航海日誌☆☆☆
 代々木体育館でユーミンのライブを観た。50th Anniversary 松任谷由実コンサートツアー「The Journey」。デビュー50周年…航海をテーマにしており、アリーナ中央に巨大な海賊船型ステージが設置され、ドラマチック&サーカスチックに展開するユーミンらしい豪奢なコンサートだった。航海といえば、どうでもいいがココは「体育館」というがそもそもオリンピックプールだったし、さらにどうでもいいことだが俺が小学生の時、水泳の東京都選抜大会の男子自由形で出場し、ぶっちぎりで最下位になって世界の広さを知った場所でもある。

 そして世界を知ったといえば、やはりユーミンのライブはひとつの「世界」を魅せてくれる。ああ、凄いもの見たわ〜と言わしめる。と同時に俺になんかいわれたくないだろうが、ここまで必死で生きてきた…というしみじみとした情感が滲んでいた気がする。
 個人的には、かつて某歌謡祭で毎月Yねーさんが歌って聴かせくれたおかげで楽曲はかなりフォローできていたので特に味わい深かった。
 「守ってあげたい」を聴くと、もはや「ねらわれた学園」の薬師丸ひろ子ではなく、御大のことが浮かんでくるようになった。「傷つかなくたっていいのよ」…あの拓郎が翻案していたフレーズを思い出す。
 個人的な圧巻は、最後の最後。いやスペシャルアンコールがあったので、ラス前か。わが故郷の島に刻んでくれたあの歌。曽爺さんから繋がるあの島のガサツな親戚の人々を思い出しながらしみじみと泣けた。
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 こうして俺みたいな不埒なアウェー者まで歓待してくれたユーミン。この混沌とした世界。「最後は人の知性を信じる」と言う言葉が刺さった。俺も信じるよ。今からできることをしたい。

 ※それにしても拓郎ファンの人は、客席とかで「松任谷が」とか「武部が…」とかつい口にしてまいがちで注意が必要だ>おめぇだけだよ あちらの世界の人々は会長、社長くらいの深い敬意を抱いている…あの世界以外でもフツーにそうだよな。なんかイキっているおぢみたいになっている俺が恥ずかしかった。

2023. 12. 9

100分de名著「マガジンT(第8号)」を読む  第7話 わが魂の玉手箱

1 フリーター、ボックスを買う
 90年初冬に長丁場だった試験がようやく終わると、すでに90年秋の"男達の詩"コンサートツアーも拓郎関係の催し物関係もすべて終わってしまっていた。俺はもう抜け殻の燃えカス状態で、それでも地を這うように新宿駅西口のNSビルの新星堂に向かった。予約してあった吉田拓郎ビデオボックス「吉田拓郎79-90」を受け取るためだ。俺と吉田拓郎をつなぐ唯一のものがシワシワになったボックスの予約票だけだった。
 「ボックス」…ああ、この重厚な響き。この頃は拓郎に限らずいわゆる「ボックス」モノはかなり珍しかったと思う。わけてもこの拓郎のボックスは、拓郎ファンの俺にとっては魂の玉手箱というくらいもの凄かった。
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 当時は家庭用ビデオデッキの普及から日が浅く(少なくとも俺には浅かった)、映像ソフトが1本2万円前後と超高価で少なくとも俺には手が出なかった。ボックスはほぼ同じ金額でビデオがたっぷり5本分だ。なによりこれで自分の部屋で好きな時に好きなだけ吉田拓郎のライブが堪能できるのだ。
 しかも伝説のビデオグラフィーの映像特典集がついている。72年の神田共立講堂から、セブンスターショーからごく最近の短髪ツンツンの"男達の詩"のプロモまで恐悦至極。ありがとう!やればできるんじゃんかフォーライフ。あるとこに行けば、ちゃんとあるんじゃんか各種秘蔵映像。

2 至福
 現在、これだけ映像、動画のソフトや配信が溢れんばかりに普及した社会で、この当時の至福をどうしたらわかっていただけようか。いつ実施されるかわからない「動く拓郎」の上映会を観るために、あるときは電車を乗り継ぎ、あるときはドブの中に身を潜め、およそ犯罪以外のすべての手を尽くさねばならなかった日々。それを思えば「いつでも家で観られる」ことは、もうワットの蒸気機関を超える発明いや革命である。…いいや、わからなくていい、とにかく爺ちゃんは幸せだったんだよ。必要もなく朝から「もうすぐ帰るよ」のPVを観てみたり、眠いのに深夜に起きて「篠島」を観始めたりして、そのたびに、おーーーホントにいつでも家で観られるよぉと涙ぐんだものだ。拓郎三昧、酒池肉林。このボックスのおかげでたちまち心身ともに拓バカの私は蘇生した。これまで何十回観ただろうか。もう暴れ方も覚えたのでパイプ椅子を持ってエキシビションホールに行きたくて仕方なかった(笑)。

3 年号という管理の功罪
 このボックスのひとつの特徴としては、ライブを1979,1982,1985…年号で統括していることがある。それまでは「篠島」というが「1979」という人はいなかったし「ハイキング」「武道館」と呼んでも「1982」とは言ってはいなかった。このボックスあたりからライブを通し年代で年号管理することが一般的になり始めている気がする。この道をゆくものには便利なカスタマイズである。
 ただ、制作側は、データ管理という感覚が徹底されすぎたからか、それぞれの映像ソフトから、MCやバックステージの様子といったドキュメンタリーという生々しい部分がそぎ落とされてゆくという困った傾向が始まる。あたりまえだが、混然一体すべてを含めて一本のライブ映画である。削るな。戻せ。なんなら増やせ。例えば、79年というタグを使うのだったら、篠島に限らない79年のすべてをここに寄せて来ておくれよ。

4 会報もがんばる
 ボックスには、貴重写真満載の吉田拓郎クロノロジーとコンサートデータの解説本がついていた。写真が結構というよりかなり良い。本文は、ここで田家秀樹の"男の一生"というフォーマットが完成したのではないか。読みごたえがある。
 他方で会報も頑張っている。5ページものボックス特集を組み、藤井てっかんによる各ビデオに即した詳細な解説や逸話も載っていて、これはこれでボックスに付属させてほしい出来栄えだ。

 家に吉田拓郎がやってくる。ダサいキャッチコピーのようだが、ほんとにそのとおりであり、それはものすごいことだったのだとあらためて思う。しかし、それは至福であると同時に、いろいろ功罪もあったのかと思ったりもする。それでもいいじゃないか。とにかく「吉田拓郎'90」をはるかに超えて「吉田拓郎'23」…思えば遠くへきたもんだ。
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2023. 12. 6

100分de名著「マガジンT(第8号)」を読む  第6話 自分の居場所
 さて追い詰められた試験のためにすっ飛ばしてしまったコンサートツアーはどうなったのだろうか。この会報などを手掛かりに探り、妄想するしかなかった。会報には、「続・挽歌を撃て」で石原信一氏がツアーの概略をレポートしており、これは当時の私にとって貴重な文献だった。
 珍しくもひとつのコンセプトを持ったコンサートであることに驚いた。これまでの拓郎のコンサートはどんな転がり方をするかわからないところが彼らしかったと言ってもいい。ところが福岡で「今日のテーマは"自分の居場所"です」と冒頭MCでふられてしまったから、こっちも拓郎の唄を聴きながら自分はどのあたりに身を置こうかとついつい考えてコンサートを観てしまった。
 吉田拓郎、居場所を歌う。というテーマがツアーに行けなかった俺には眩しく降り注いできた。そうか。行けなかったライブほど眩しくみえるものはない。
 オリジナルの弾き語り「東京の長く暑い夜」で歌っているように<東京の長く暑い夜は私に消えちまえと言うんでしょうか>という、実態のつかめない自分への怒り
 そうか、弾き語りの新曲があって、それは「東京の長く暑い夜」というのか、そう思うだけで胸が震えた。<東京の長く暑い夜は私に消えちまえと言うんでしょうか>この一行だけで十分に泣けた。
 今のようなネット社会ではないし、私設FCにも入っていなかったので、次号の会報や他の雑誌で少しずつ情報を拾い集めて温めあいながらセットリストのピースがわかってきた。
 ■1990年男達の詩ツアー
  抱きたい
  爪
  されど私の人生
  もうすぐ帰るよ
  Life
  大阪行きは何番ホーム
  ひらひら
  旅立てジャック
  神田川
  中の上
  東京の長く暑い夜は
  ロンリー・ストリート・キャフェ
  春だったね
  ああグッと
  ペニーレインでバーボン
  君去りし後
  男達の詩
  encore
  ハートブレイクマンション
  男達の詩
 「自分の居場所」。セットリスト全体がひとつのメッセージになっているし、個々の曲も通底する何かを背負っていることになる。こうなるとセットリストはメニューであるとともに、大切なレシピでもあるのだ。このセットリストを眺めているだけで何時間でもひとりで酒が飲めるってもんだ。

 物理的、地理的な場所が居場所であることはもちろん、心魂の置き所という意味の居場所に、時空を超えた思い出という居場所。それに男女という性別もひとつのかりそめの居場所かもしれない。そして居場所を求めてさまようのもまたひとつの居場所だ。このリストは、なかなか行間が豊かだ。あなたはどんなふうに読み込むでしょうか。

 あと会報の中の貴重なショット。たぶん武道館のゲネの休憩時間にキャッチボールをしている拓郎。スローイングする拓郎の腕がしなっていて、なかなか美しいフォームだったりする。
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2023. 12. 5

☆☆☆今がその時、ためらわないで☆☆☆
 ということで砂漠でオアシスを見つけたが、もうひとつラジオの情報が。
『小泉今日子のオールナイトニッポンPremium』12月11日(月)18時〜21時50分 今回は、70年代アイドルソング特集 ゲストには小泉今日子自身が会いたいと熱望した3人、伊藤蘭、浅田美代子、石野真子が生登場。
 よりによって、すごい3人だな。あの人の話題が出るかもしれない…というかあの人のことに触れずに会話を進めるのが困難なくらいのお三方ではないか。いろんな意味でこちらもオアシスだと嬉しい。

2023. 12. 2

☆☆☆砂漠の都会に☆彡☆彡☆彡
 思えばこの1年間、吉田拓郎を失った私は、バルカ共和国の広大な砂漠にひとり放り出されてしまったようなものだった。日照りは容赦なく、砂の嵐の吹き荒れる砂漠をひとりさまよってきた。さすがに心も身体も渇き尽くし、古い会報の束を抱いたまま行き倒れようとしていたところに…ああ、水だっ!オアシスが見えたっ!…という気分である。ありがたい。神は必ず旅を許される。どうか紫の蜃気楼でありませんように。
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2023. 12. 1

☆☆☆"拓"朗報☆☆☆
 2023年12月15日、拓郎一夜限りのオールナイトニッポンやるってよ。え、2024年の展望って…え、あんの?

100分de名著「マガジンT(第8号)」を読む  第5話 「誰がために鐘は鳴る」

 ということで2023年12月15日のラジオが決まったところで、1990年のラジオの話は、おしまいにしたい。最後にもうひとつ心に残ったくだりがあった。吉田拓郎と武田鉄矢との会話の中で、デビュー間もない頃の苦節の時代のことが話題になった。

1 陰日向に咲く
「売れない頃のミュージシャンを支える女の人って必ずいるでしょ。…有名になると、その人と切れちゃうっていうパターンがあるよね。」
と拓郎が語り始める。
「僕もいましたもん。『結婚しようよ』を出す直前あたりは『帰れ!』が結構あったんですよ。その頃ね、僕を支える女の子がひとりいて、名前も忘れちまったけども、僕のレコードが売れた瞬間に忽然とね、姿を消したんですよ。高校3年生だったですね。それはもうホントに陰になり日向になり、支えてくれてるなって気がして『東京にこの娘がいてくれれば俺、大丈夫かな』っていうのが、あったね。」

 最近の"オールナイトニッポンゴールド"や"ラジオでナイト"でも、デビュー直後、女子高生のファンと一緒に新宿御苑あたりを散歩して、そこで新曲を聴いてもらったりしていた思い出を懐かしく語っていたことがあった。しかしその彼女が自ら忽然と姿を消したという話は初めて聴いた。彼女がどのような気持ちで消えたのか知るよしもない。しかし思うてみるだけでもう切ない。関係ない歌であるが♪そちらから電話を切ったから、君はもっと他の事も言おうとしてたんだろう…この意味が今は痛切にわかるよ。

2 たった一人の世界
 「その娘が例えば『結婚しようよ』みたいな詞を書いた時に『こういう明るいのってイイかもしれないね』とか言うと、そうか…っていう気になって、何万人が「帰れ」って言っても怖くないっていう」

 拓郎のいわば告白に、武田はしみじみと「歌っていうのはたった一人、よき理解者である女性がいれば成立する世界なんですね。」と応え、拓郎も「 そう。」と頷いた。
 この日のラジオでの、ささやかなれど忘れじのシーンのひとつだ。若き日に陰日向に支えてくれた女子高生がいたのと同じように、たぶん後年の高齢の拓郎も音楽も、たったひとりの女性の支えによって成立していたのかと思う。

3 二隻の舟
 リタイヤ間際の拓郎がインタビューで「僕はファンをあまり信用していない」と言っていて悲しかったが、他方で確かに…とも思う。総体としてのファンは海のようなものだ。愛に溢れながらも、ときに風が吹き波が高く嵐にもなる、水が浅くて座礁したり、クラゲにも刺されたり、サメだっているかもしれない…ああ、わかる。>メメクラゲのようなお前が言うな。すまん。いくら海が美しくてもそこに身を任せるのは普通に危険だし怖い。
 そんな中で、この人がいれば、この人の声さえあれば…という"よすが"だけが支えとなるのはただの一般Pの私にも少しわかる気がする。♪それだけのことで私は海を行けるよ たとえモヤイ綱が切れて嵐に吞まれても…ああ、なぜ中島みゆきになるのか、よくわからんがそういうことだ。

 それにしてもその女子高生の方、いまごろどうしておいでだろうか。               

2023. 11. 26

☆☆☆ライブ73記念日☆☆☆彡
 吉田拓郎ライブ'73から50年だ。…半世紀だよ。半世紀たぁ砂を吐いて横になりたいくらいの年月だ。振り返りながら走って半世紀、さよならが言えないで半世紀、手だけ動かして半世紀、てんではっぴいになれない半世紀、バネが軋んで半世紀、黙ってイカを洗って半世紀、何も思わず立っていよう半世紀、サイコロころがし半世紀、しっかりしてるよ半世紀、雨が空から半世紀、何十年に一度の半世紀、またくる人生の街角で半世紀、笑ったような笑わぬような半世紀、コップでお茶を飲んで半世紀、そのうち狙われ続けて半世紀、そしてホントに最後は嫌でもひとりになってゆく半世紀。半世紀たっても色はあせず聴くたびに胸はふるえる。

 あらためて年齢にして吉田拓郎27歳、瀬尾一三26歳、松任谷正隆22歳、高中正義20歳、田中清司25歳、岡沢章22歳、石川鷹彦30歳、後藤由多加24歳、渋谷高行23歳…恐るべき若造たちが作り上げた世界。中野サンプラザは解体され消えようともこの音楽たちは永遠のものだ。

 何度でも言う。これは完全盤を出すべきだ。ディランだって武道館の完全版BOX出したじゃん。このボーカル、このシャウト、このビッグバンドの演奏。もはや無形文化財の域である。
 そして当時のリアルを生きられた諸先輩のみなさま、どんな些細な事でもいい、あの日を語りつないでおくんなさいまし。それはもう単なる思い出ではなく、未来に向かって播かれる貴重な種なのだ。

 魂の底から記念日おめでとうございます。
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2023. 11. 25

 伊集院静氏が亡くなられた。熱心な読者ではなく申し訳ないが、とある機関誌のエッセイをずっと楽しみで読んでいた。美しい文章だった。ご病気で一時中断し、復帰されてからの文章はよりシンプルでその分、詩情が豊かで、ああ〜こういう文章が書けるようになりたいと身の程知らずに思った。心の底からご冥福をお祈りします。


100分de名著「マガジンT(第8号)」を読む  第4話 「ホントは怖い人たち、ホントに怖い人たち、ホントに怖いホントB」

 1 アイドル提供曲の怖いジンクス
 ラジオの話の中で今になってしみじみと"怖い"と思った話がある。それは拓郎が語った松田聖子への幻の提供曲の話に始まる。
 かつて(たぶん1984年ころ)松本隆から拓郎に「松田聖子が結婚するんで、拓郎、最後の曲作ってくれない?」と頼まれた。その時に松本隆から「しかしアナタが曲作る女の子ってみんな引退しちゃうね」と言われたそうだ。
 これは松本に指摘されるずっと昔から存在する有名なジンクス、今でいう拓郎あるあるだ。俺が思いつくだけでも、キャンディーズ、木之内みどり、石野真子…神田広美なんかもそうかもしれない。今回のラジオでも「おかげで女の子の作曲依頼がめっきりと減ってしまった」と拓郎は嘆いていた。

2 ジェットコースターロマンス
 しかしこの松田聖子の提供曲は複雑な運命をたどる。楽曲は完成したものの結局、レコードには採用されなかった。お蔵入り=アウトテイクというやつだ。拓郎はこのラジオでも不採用の原因は明言しなかった。
 そこでココからは俺の下種の勘繰りだ。ネット界隈や知り合いの松田聖子ファンに対して調査したところによれば、当時の松田聖子をめぐる状況が、拓郎の表現を借りれば"すったのもんだの状態"に激変してしまったことが原因らしい。
 最初の拓郎への依頼時は、たぶん結婚・引退の予定だったが、その後突然の破談。「生まれ変わったら…」は世間的にも衝撃的だった。そこで急遽、松本は切り替えて、薄っぺらな結婚の幸せに背を向けて一人で旅立つ女性の詞を書いた。これに拓郎が曲をつけて楽曲は完成しニューシングルの告知まで出されていた。ところがその発売前に聖子の突然の電撃結婚が決まり、状況は僅か数か月で「失意」から「幸福の絶頂」に激変した。まるでジェットコースターのような有為転変…たとえば後楽園ゆうえんちで乗ったジェットコースターが一回転して着いた時には富士急ハイランドだったみたいな感じだ>よくわかんねぇよ。もちろん松田聖子には彼女の切実な人生があって、彼女の切実な事情があったに違いなく、それをどうこう言うつもりは1ミリもない。
 とにかく楽曲が現実にそぐわなくなってしまって別曲に差し替えたというのが不採用の経緯だ。この経緯は最近まで松田聖子ファンの間では真偽不明の半ば都市伝説だったらしいが、現在は元スタッフ関係者も、経緯はともかくこのアウトテイク曲が存在したことだけは認めている。
 
3 ホントに怖いホント
 その松田聖子の幻の曲が「幸福なんか欲しくないわ」という作品で、これが後に酒井法子に提供されたことがラジオで拓郎の口から語られた。
 もちろんこのラジオの当時では、結局、幻の松田聖子の提供曲は今は人気アイドルのノリピーが歌ってます~ということで終わるのだが、21世紀の未来に生きる私たちはその後のマンモスかなぴー歴史を知ってしまっている。俺は例のジンクスについては、あまり信用していなかったけど、なんかこれはジンクスというより呪いのようで怖いなとすら思うのだ。

4 甦れ、入江剣 
 しかし21世紀の科学の未来に生きる私たちはジンクスだ呪いだなどと怖がっているのも恥ずかしい。そう思って「幸福なんかほしくないわ」、この歌をあらためて聴き直してみる。正直、楽曲のクオリティとしてはイマイチで特に松本隆にしてはこの詞はどうよと思う。でもこの詞からは、松本が幸せな結婚・引退に躓いてしまった当時の失意の松田聖子を応援しようとする温かい思いが行間ににじみでている。

  これが愛だと 自分の胸に
  嘘をついてる いつも"かわいい女"だった
  … 
  幸福なんてほしくない みせかけの
  幸福なんていらないわ 退屈な
  今は自由の風に
  今は風に吹かれていたいの
  …
  幸福なんてほしくない 偽りの
  幸福なんていらないわ ちっぽけな
  今は本当の愛を
  今は愛をさがしてみたい

 みせかけの幸福、偽りの愛から解き放たれて旅立ち、自由に生きようとする女性の姿が浮かんでくる。まことに大きなお世話で申し訳ないが、長すぎる人生の繰り返しの中で松田聖子も酒井法子もそれぞれ人に隠れて泣いて、泣きたい気持で冬を超えてきた人たちの一人だろうと思う。
 この歌は、一周回って、そういう極北を味わった彼女たちにも引き続きチカラ強いエールを贈っているように聴こえてくる。"あきらめという名の鎖を身をよじって解いてゆく"(ファイト! 中島みゆき)系のスピリットを感じる。こうしてひとり決起して進まんとする歌の前に、ジンクスも、呪いも、ホントに怖いもなにもない>っておめえが言ったんだろ!  …すまん。

5 全ての彼の子を抱くものたちよ
 かつて拓郎はすべての提供曲は「自分の子どもたちだ」と宣った。松田聖子も酒井法子も含めて、拓郎の子どもたちを抱くすべての歌手の方々には末永く頑張っていただきたい。あんなジンクスは嘘っぱちだと証明してほしい。特にかつてはジンクスの筆頭格だった、蘭ちゃんよ、できれば今年の紅白にt.yのメロディーを。今がその時ためらわないで。

※あ、思い出したよ。このラジオで拓郎が、提供曲(「今夜は星空」)を書いたのに、いしだあゆみさんはお会いしても知らんふりだった…と悲しんでいたが、それはきっとあなたが殴りあって曲を引き上げたショーケンの奥さんだったからではないだろうか。

 ああ、今日もダラダラ書いちまったよ。

2023. 11. 23

100分de名著「マガジンT(第8号)」を読む  第3話 「ホントは怖い人たち、ホントに怖い人たち、ホントに怖いホント➁」

 
「ホントは怖い財津和夫」につづいて「ホントは怖いオフコース〜海辺の殺意」(爆)という話もあったのだが、こっちはウィキペディアにも載っている有名な話のようだったので割愛するっす。

1 ホントに怖い人
 ホントは怖いどころかホントに怖い人が吉田拓郎だ。…昨今のKinkiらと一緒のときの好々爺な流通イメージのためについ忘れがちだった(爆)。このラジオでも拓郎自らが語っていた。昔、双子姉妹の新宿の飲み屋に迷惑な酔客がいると高円寺から自転車で駆けつけてぶっとばすという用心棒だった拓郎、日比谷野音で帰れコールを叫ぶ客をステージに引っ張り上げて殴り合いをした拓郎、そしてあの芸能界の暴れん坊と恐れられた萩原健一ことショーケンに「おまえになんか曲やらねぇよ」「ああ要らねぇよ」と殴り合い「さらば、うるわしのかんばせ」となってしまった拓郎…どの話を聴いてもフツーに怖い人じゃないか。
 武田鉄矢も「キャンディーズの蘭ちゃんが、拓郎さんのことを『怖かった』と言ってましたよ」とチクっていた。そのとおりで怖い人というイメージがかなり強固にあったのだ。

2 武勇伝を遠く離れて
 こういう話は笑えるし懐かしくもあるのだが、少なくともイメージ的に暴力的で怖い人だった=吉田拓郎はたぶんもういない。すべては昔日の武勇伝か。「ホントに怖い拓郎」に対してカッコイイな~と憧れていた自分もおなじだ。怖かった拓郎あるいは拓郎の怖さは歳月とともに変化していったのではないか。それがどんな変化だったのか。ただ年老いただけかもしれないし、よりおだやかな境涯に達したのかもしれないし、よくわからない。しかしもしかすると人類がいかに暴力を克服し進歩するかという壮大なテーマと細い糸でつながっていることかもしれない。そういうところから拓郎の歌を時代を追って聴き直してみるのも面白そうだ。

3 ところで蘭ちゃんだ
 そうだ、蘭ちゃんといえば、この放送でわかったのは、蘭ちゃんのことが大好きだった武田鉄矢は、最初、映画RONINの「うの」役に伊藤蘭をオファーしていたようだ。しかもこのラジオの放送当時は蘭ちゃんが出産したばかりで、そのことにも深いショックを受けていた武田鉄矢。…その赤ちゃんがさ、2023年いまやブギウギだ。時の流れを悔やむじゃないぞ。それにしても紅白は何を歌うんだ蘭ちゃん。ああ私たちの望むものは…。

2023. 11. 22

100分de名著「マガジンT(第8号)」を読む 第3話 ホントは怖い人たち、ホントに怖い人たち、そして怖いホント@


 生放送でしかも全国ネットでないからか、やや危ない話もいくつか出てきた。

1 ホントは怖い財津和夫
 武田鉄矢が語る福岡のライブハウス"照和"での逸話が面白かった。"照和"といえば陽水、チューリップ、甲斐よしひろ、海援隊らがデビュー前夜に集っていた伝説のライブハウスだ。中でも図抜けた天才だったデビュー前の財津和夫が、東京進出のためにチューリップをロックバンドに再編成しようと、博多のいくつかのバンドのミュージシャンたちを引き抜いた。武田曰く「チューリップの近代化のために潰れたバンドが少なくとも三つはあって海援隊もそうだった」ということだ。
 武田を始め財津から選ばれなかったミュージシャンたちはみんな恨み骨髄。「財津憎し」を胸に刻みそれがその後に音楽を続けるエナジーだったという。音楽に厳格だった財津は、アマチュアバンド時代、メンバーが演奏を間違えると終わってから平手打ちしていたという驚きのエピソードを披歴する(爆)。怖い。その話を聞いた拓郎の「…モップスだ」という反応、また鈴木千夏アナの「えーそんな話聞きたくなかった、先日ライブ行ったばかりなのに…」という反応が面白かった。たぶん武田鉄矢のかなり盛った話だと思うけど。

2  憎しみのエナジー
 私がこの話を聞いて思い出したのは1978年頃の武田鉄矢のラジオ番組"文化放送の青春大通り"でのことだった。ちょうど甲斐バンドが「HERO」でセカンド大ブレイクをしていたときだ。リスナーの葉書で「鉄矢さんの後輩の甲斐よしひろさんですが『オレは財津の考え方って間違ってると思うよ』とこれまた大先輩の財津和夫さんを呼び捨てでヒドイこと言ってましたが失礼だと思いませんか?」という趣旨の問いかけがあった。これに対して武田は「いいんですよ、そうしないとずっと財津に負けたままになってしまうから。だって甲斐クン、君はHEROなんだからっ!」と甲斐を擁護した意味が今になってようやく腑に落ちたワイ。

3 音楽という海のノーサイド
 拓郎は「財津さんて、とんでもない人ですね〜」と笑いながら、決して財津をディスるのではなく、財津の音楽的才能が起爆剤になって数多くのミュージシャンが誕生したことの素晴らしさをたたえていた。武田もあらためてそれが自分達のビューティフル・エナジーだったと賛同していた。
 
 俺も思うのだ。「歌う敵と歌う真実」(いつも見ていたヒロシマ)と岡本おさみは書いたが、不倶戴天の敵同士と思われたさまざまなミュージシャンたちも、時間の経過とともにゆるやかにノーサイドになってゆく。ファンも同じだ。最近流行の「クラウドファンディング」という言葉を耳にするたびに、俺は「シアターフレンズ」を思い出してムカついていたのだが、先日カラオケでアリスを歌ったらなんか胸が詰まり泣きそうになって困った。もう終わったのだ。いくつもの川の水が海に出るように心のままに〜…60歳すぎて偏った無明の俺もようやくそう思うようになれた。
 ひとつの大きな才能に触発されて次々と違う才能が思い思いに花開いていくのが音楽であり、またそれぞれがぶつりかあいながらもひとつの大きな海に収斂してゆくのもまた音楽のチカラなのかもしれない。音楽は自由なものなんだ、そして平和なものなんだという拓郎の言葉をかみしめる。ああ、戦争と殺戮よ一刻も早く終わっとくれ。

 ということ今日は甲斐バンド「ビューティフルエネルギー」を聴きたい。松藤さんには申し訳ないが、甲斐よしひろのボーカルバージョンで。

 次回も怖い話のつづきでまいります…

2023. 11. 21

100分de名著「マガジンT(第8号)」を読む  第2話 愛よ、こんにちは

1 わが心の小室等
 今日は11月21日で、1978年11月21日といえば名盤「ローリング30」の発売日にして、同年同日、小室等の23区コンサートの目黒区民センターで吉田拓郎がゲストで登場した日でもある。「君に会ってからというもの僕は」生誕記念日と勝手に呼ぶ。
 その小室等は、この9時間のラジオ生放送にも重要なゲストとして駆けつけていた。この頃も二人は深い蜜月にある。この関係がその後どうしてどうなったか、たかがファンには知る由もないし、ましてや二人とも仲良くしてほしいだのなんだのと言える立場にもない。しかし、俺には俺でいち拓郎ファンとしての小室さんへの思いは確実にあってそれは大切にしていたい。
2 この広島の片隅に
 このラジオでも例の金持ちのお坊さんの3億円から始まるフォーライフ問題について小室さんと拓郎は侃々諤々とやりあうのだが、何度聴いても面白い。まるで古典落語の域じゃないの。
 それはいいのだが放送途中で拓郎のお食事ブレイクの間は小室さんがひとりトークでつなぐというターンになっていた。小室さんは、当時つまりは90年の夏の原爆の日に拓郎の故郷広島に行った話をしていた。拓郎のご家族のお知り合いかけられて話をしたそうだ。  
 小室さんは、これは拓郎が聴いたら怒るかもしれないけれど…と前置きをして話す。敬虔なクリスチャンであられたお母さんのために、拓郎が教会にやってきてボブ・ディランの歌を歌ってくれたという話に、「そういうのを頑なに拒むタイプの人間」と思っていた小室さんは驚いたという。またあの例の事件のときには「拓郎はそんなことをする人間ではない」と教会で署名を集めたという話も仄聞したという。「誰が信じてくれなくても自分のお袋だけは信じてくれている」という思いがどれだけ大切なものかと小室さんは感じ入る。そして拓郎にとっての広島とは即ち「母」のことなのではないかという。
 確かにこの種の話は、拓郎としては余計なこと言いやがってと怒るかもしれないが、こちらには深く心にしみいる話だ。そしてこの話は、昨今2021年〜22年のオールナイトニッポンゴールドで拓郎が「吉田家は吉田朝子の歴史である」と断言した言葉、それを実写化したような名作「ah-面白かった」…とひとすじに重なる気がする。
3  愛よ、こんにちは
 そうそう面白かったのは、拓郎がラジオの最後に小室等について「小室さんてね、実は彼が兄貴分に見えるでしょ。ほんとは僕が兄貴分なんですよ。彼は僕を慕ってるだけなの」というくだり。ああ、そうなのかと言う気もする。ああいう広島の拓郎の話を聞きこみ、ちゃんと拾い上げるのは、確かにもう愛というか慕情の世界だもんね。ということで「愛よ、こんにちは」…小室等フォーライフレコード第一弾…なつかしい。♪愛よ、こんにちは〜微笑みの言葉は〜今日から明日へ〜明日から永遠へと〜続いてい行く言葉〜って何となく歌えちゃうぜ。しかしこれってアルフィーの前身コンフィデンスが歌っていたとは知らなんだ。

 ということで、会報からは少し離れてゆくが、もう少しだけこのラジオについて話させてくれよ。
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2023. 11. 18

100分de名著「マガジンT(第8号)」を読む  第1話 過去をたずねて三千里

1 会報8号の時代背景
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 会報8号が届いたのは1990年12月。KANの「愛は勝つ」が大ヒットしていたころだ。老若男女がみんな唄える最後の流行歌だったかもしれない。心の底からご冥福をお祈りします。
 ということで会報は90年の秋までの情報がメインである。9月に始まった"男達の詩ツアー"と10月10日NACK5で放送された吉田拓郎本人9時間ぶっ続け生放送番組が二本柱のトピックとなっている。
2 耐久9時間のマラソンラジオ
 「10月10日、ずっとラジオの前を離れられなかった者へ、そして運悪く聞けなかったみんなへ。NACK FIVEで行われた9時間ライブDJ「吉田拓郎20mアニバーサリー"元気です”」の模様をお届けします。」という会報のフレコミのもとにラジオのレポート記事が載っている。拓郎本人による9時間ぶっつづけラジオが実施されたのだ。すげえ。あらためてすげぇと感嘆する。

 にもかかわらず、当時の俺は翌週から始まる地獄の試験のためにリアルタイムのリスニングはあきらめてしまった。何度でも言うが、この時期コンサートツアーも参加せずラジオも聴けないという悔恨の日々だった。
 せめてもの善後策としてこのラジオの録音を弟に頭を下げてお願いしておいた。しかし、もともと仲の良くない兄弟なので(爆)真剣さに欠けていたうえに、9時間もの放送だったので、テープの時間を間違えて途中ごっそり録音出来ていなかったり、既に録音したテープに上書きしてしまったりというポンコツぶりでついに全編を聴くことはできなかった。当然に弟とは今も仲が悪いままだ。
 ずっと後になって、奇特なファンの方のおかげで、欠けた部分をあちこち補綴しながら全編を聴くことができた。深謝。結局、放送当時20代だった俺が全編を聴けた時は既に60代になっていた(爆) だから、とにかくこの会報8号のラジオ特集は貴重なものだった。

3  元気ですの心意気
 それにしてもこの時はコンサートツアーの真っ只中だ。翌々日が群馬公演なのに、9時間もの耐久マラソンみたいなラジオをよくやったものだ。ディレクターがわが心のセイヤングの田中秋夫さんだったからだろうか。
 前夜、大宮に泊まって"スナックふれあい"で自動車のセールスマンとして楽しんだというのハイテンションのまま番組は始まった。内容的には20周年ということで自分の半生を語りながらすすめるという、最近のオールナイトニッポンゴールドの長尺版というところだ。先達サイトの言葉を借りればまさに「元気です」の心意気がみなぎっている。
その番組、重厚長大につき
 番組の概要は次のとおりだ。
主演 吉田拓郎
アシスタント 斎藤千夏
ゲスト
武田鉄矢
小室等
松尾一彦
鎌田清、由美子夫妻
坂崎幸之助
(以上登場順、数称路)
 おなじみの安定ゲストで固められている。鎌田清、由美子夫妻は、浦和のスタジオの近くにお住まいということで、差し入れがてら生放送に遊びに来たらしい。
 そしてON AIRされた曲目は次のとおり。
M1.イメージの詩
M2. 青春の詩
M3. 今日までそして明日から
M4.マークII
M5.夏休み
M6. 友へ〜今、青春がくれてゆく
M7.結婚しようよ
M8.春だったね
M9.旅の宿
M10.ペニーレインでバーボン
M11.風に吹かれて
M12.マンボNo.5
M13.ハウンド・ドック
M14.小さい悪魔
M15.渚のデート
M16.シンシア
M17.我が良き友よ
M18.歌ってよ夕陽の歌を
M19.やさしい悪魔
M20.いつか街であったなら
M21.ルームライト
M22.雪
M23.たどりついたらいつも雨降り
M24.あぁ、グッと
M25.愛よこんにちわ
M26.明日に向かって走れ
M27.どうしてこんなに悲しいんだろう
M28.となりの町のお嬢さん
M29.たえこ MY LOVE
M30.面影橋
M31.人間なんて
M32.君が好き
M33.ああ青春
M34. 落陽
M35.冷たい雨が降っている
M36.つめ
M37.いつも見ていたヒロシマ
M38.ビートルズが教えてくれた
M39. I saw her standing there
M40. Can't buy me love
M41. Strawberry files forever
M42. Twist and Shout
M43. Starting Over
M44. Imagine
M45. There's no shoulder
M46.元気です
M47.あいつの部屋には男がいる
M48.唇をかみしめて
M49.ショック! TAKURO
M50.サマータイムブルースが聴こえる
M51.俺が愛した馬鹿
[m:461] 弾き語りのコーナー(花嫁になる君に)
M52.すなおになれば
M53.俺を許してくれ
M54.流星
M55.舞姫
M56.男達の詩
M57.落陽
M58.祭りのあと
…さすがに9時間というと曲もこんだけの曲数かかるのだな。しかし今だったらこれだけじゃまだ足りないだろう。斎藤千夏アナウンサーのしっとりしたいかにもFMな曲紹介は拓郎も絶賛しており「その曲が喜ぶような曲紹介」だった。しかし、斎藤さんは、その後、いつもの拓郎特有のガサツなノリに影響されてしまって大変そうでもあった。お疲れ様でした。
4 リアルタイムに宿るもの
 聴けなかったラジオで何を喋ったか、どんな曲をかけたか、行けなかったコンサートツアーで何を歌ったか…それは後で情報としてトレースできる。しかしリアルの空気はそうはいかない。怒涛のコンサートツアーの真っ最中という空気感や、その中でこういうデスマッチのようなラジオをやってのけ…最後に来年は歳の数だけツアーをやるぞと宣言までしてしまう吉田拓郎。間違いなく彼の中で大きな胎動が起きていた、そのエナジーまでをリアルに体感するのはむつかしい。そういうエナジーの躍動を見逃してしまったのではないかという悔いがあるのだ。だから、このときリアルタイムで拓郎のコンサートやラジオ体感した人よ、その具体的な空気や気分みたいなものを教えてくれないか?教えてくれなきゃ、こっちから尋ねてゆくぞ!>誰に言ってんだよ
 
 さて肝心のトークは、ファンにとっては既におなじみの話、今となってはおなじみになった話も多かったが、何度聴いてもそれはそれでまた味わい深いものだ。それでもえっと驚く話題やしみじみと心にしみるイイ話も多々あった。次回は、このラジオの聴きどころをメモしておきたい。

2023. 11. 16

🔥🔥🔥はらたつわー🔥🔥🔥
 そりゃあ毎日ノウ天気な拓バカ日記ばかり書いている俺が世の中にエラそうに言えたもんじゃない。それでも、それでも、ああ〜ほんなこと腹ん立つ〜。

 僕が泣いているのは とても悔しいからです
 人の尊さ優しさ 踏みにじられそうで
 力を示す者達 しなやかさを失って
 ウソまみれドロまみれ じれったい風景でしょう
 より強くしたたかに タフな生き方をしましょう
 まっすぐ歩きましょう 風は向かい風
 どけ どけ どけ 後ろめたい奴はどけ
 有象無象の町に 灯りをともせ
 どけ そこ どけ 真実のお通りだ
 正義の時代が来るさ 希望の歌もあるさ
 僕の命この世に 捧げてしまっていいさ

 どけ どけ どけ どけ 情をなくした奴はどけ
 生きる者すべてが 愛でつながれる
 どけ どけ そこ どけ 正直のお通りだ
 アナタの為の僕さ 悔し涙のままさ
 たぎる情熱の僕さ ゆれる心のままさ
 僕の命アナタに 捧げてしまっていいさ
 僕の命この世に 捧げてしまっていいさ
            (吉田拓郎「純」)

 2019年のライブverでは“より強くしたたかにタフな生き方をしましょう”の歌詞が
 ”したたかに強くなりタフに生きてみせましょう”
 と微修正されている。強(したたか)かに強くなり”生きてみせましょう”…思えば2019年のラストメッセージか。この心意気でまいりましょう。

2023. 11. 15

100分de名著「マガジンT(第7号)」を読む  第2話 きっと僕らに女神は微笑む

1 真夏の夜の夢
 会報6号の第2話で「1990年秋、サッバリ断髪した拓郎は、その髪をツンツンと逆立てて、"男達の詩"コンサートツアーに出ることになる。」と書いたがそれは嘘だった。その前の90年夏に、JTスーパーサウンド90の横浜アリーナ、南こうせつのサマーピクニック・ファイナル、武田鉄矢の軽井沢音楽祭にゲスト出演している。JTとサマピは10曲前後を歌う秋ツアーのパイロット版のような本格的ステージだった。これらのステージが短髪でのライブデビューである。
 
 他人様にはどうでもいいことだろうが、当時の私は背水の陣の試験が続いたため、この夏のイベントも秋のツアーもすべてを吹っ飛ばした。わが拓バカ人生の痛恨のひとつである。半年の間つづく試験の沼でもがきながら、遠く切なく拓郎のライブのことを思うていた。
 JTスーパーサウンドは「男達の詩」と「いつか街で会ったなら」、サマーピクニックは「神田川」、軽井沢音楽祭は「夏休み」が地上波で放映された。特にサマピとスーパーサウンドは繰り返し悶絶しながら必死で思いを馳せたものだ。会報の今号と次号の"男達の詩ツアー"の界隈は遠くから見ていた吉田拓郎となる。

2 女神の現場
 会報7号ではサマーピクニックのファイナルの様子が石原信一によってレポートされている。
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会報からわかるセットリスト
 1.春だったね
 2.あの娘といい気分
 3.抱きたい
 4.ああ、グッと
 5.今夜も君をこの胸に
 6.ペニーレインでバーボン
 7.君去りし後
 8.男達の詩
 9.神田川
 くうぅうう。行けなかったライブは特に眩しく見えるわな。この中からNHKで放映されたサマピの「神田川」を会報と併せて観ることで、少しでも当時の様子を知ろうとがんばったものだ。

 "ボウズ"頭の慣れない風貌、すまないがどうしても工事現場を思い出してしまう衣装(爆)
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そして歌うは"神田川"。そんなハンデがまったく気にならないくらい、素晴らしいプレイをみせてくれる。90年1月と比べるとはるかに機敏でしなやかな吉田拓郎がいる。動きがいい、換骨奪胎の神田川も魂のロックナンバーとして見事に転生している。後に90年ツアー、91年ツアーと重用されていく「ウェーイ神田川」の誕生である。

 やはり野外は特別だ。一瞬だが画面に映る野外の観客たちも実に素晴らしい。こうせつのサマピというアウェーでありながら、ちゃんと最前列にTAKURO旗(大型バスタオルか)を掲げてノリ狂う大勢の観客たち。ああ、ありがとう(涙)。もちろん俺なんかのためなんかじゃない。拓郎のために拓郎の野外を身体を張って盛り上げている人々がいる。それは希望でしかない。そしてそれがまた拓郎のことを大きく鼓舞しているのがわかる。テレビを通して垣間見るほんの一曲だけからでも魂の入り方が違うことが伝わる。それは、石原信一のこんな言葉に結びつく。
 だからもう僕はきっと拓郎に「オールナイトはいかが?」の安直な質問は投げかけないだろう。それよりも、拓郎が一曲をすさまじく歌いきることに賭ける、女神が微笑む下で拓郎がいつも歌っているならそれでいい。
 いつかまた女神が両手を広げ、拓郎をどこか巨大な場所に誘い込むことを遥か夢見ながら。
 石原信一はとても正しかった。そのとおり、やがて巨大な場所にまた誘いこまれる運命が待っている。但し、ちょーっと時間がかかるのよね…16年くらいかな(爆)。それまで、生きよ、生きて抗え、敷島>いみふ

3 そして、こうせつさんへ
 歌い終わると拓郎は珍しく南こうせつの肩に手を置く。するとすかさずこの貴重なツーショットを逃してなるものかと(※私の想像です)こうせつは肩にかかった拓郎の手をしっかり掴む。拓郎はちょっと手を置いてすぐに離れるつもりだったようだが、こうせつが握っているので離れられず、一瞬、ちぐはぐになる二人。このシーンがたまらなく好きだ。
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 この出演は、こうせつのサマーピクニックに拓郎がゲストにかけつけてくれたという図式ではある。1987年に続き二度目だ。しかし1987年の復帰前夜、そして今回の90年の短髪スタートという節目の拓郎のために、こうせつが前哨戦たる場所と時間を提供してくれたように俺は思う。いや違うと言うかもしれないが、俺はそう思うことにしている。だから南こうせつに対して、心の底からありがとうございましたという気持ちで常にいるのだ。

 ということで7号はこれまで。次回は会報8号で。

2023. 11. 11

 声優の北浜晴子さんが亡くなった。子どもの頃「奥様は魔女」が大好きで観ていたが、今俺の耳に残っている北浜さんの声は拓郎105分 いまなぜ拓郎か。ああリフレインが叫んでる。ご冥福をお祈りします。

100分de名著「マガジンT(第7号)」を読む  第1話 何処へ行くT's会報、何がしたかった藤井徹貫の巻
1 新装会報出来!
 会報7号は予告どおり版型も内容も刷新された。藤井徹貫の編集指揮のもとの改革だった。写真の通りデカくなった。
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2 拓郎がいない
 問題は中身だ。既に会報6号からその兆候はあった。特に吉田拓郎ファンではない各界のプロたちが、特に吉田拓郎と関係ないエッセイを寄せ、特に吉田拓郎とは関係ない音楽業界者が、特に吉田拓郎が関係していない現代の音楽業界のウンチクを語る記事で満ちている。実質的に拓郎に関係しているのは石原信一先生の連載「続・挽歌を撃て」だけだ。この赤枠以外は、ほぼ吉田拓郎は出てこないし、関係もしない。
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 吉田拓郎ファンクラブの会報でありながら、ここまで拓郎ファンの読み手をアウェー気分に落とし込むのはもうお見事というほかない。
 なんじゃこりゃあ、拓郎の記事が全然無いじゃないか!と頭にきたが、当時、個人的に90年夏から年末まで人生最後の賭けともいうべき事象に忙殺され怒るヒマがなかった。それは俺の個人的都合だが、それでも他のファンの間でも当時不満が湧きおこらなかったのは、既にT's会報よりも、別便で送られてくるT'sNEWSの会員チケット先行販売に会員の関心が集中していたからではないかと思う。
 それはそれで切ない。しかし、コアに拓郎を語り深めたいファンの方々は、たぶん「たくろうさあくる」か「拓郎軍団」に参加していたのだろうと推察する。
3 てっかんの決意
 このファン・アウェーの"てっかん"こと藤井徹貫の編集方針はどこから来たのか。会報6号の編集部ステイトメントと7号の編集後記を読むと少しわかる。当時は別に何とも思わなかったが、今になって読むと妙に心にしみる。
 基本的には個人の主義主張。それがたとえ独断と偏見と他人には思えても、それを一番大事にする。多勢なら言えるけど一人じゃ言えないことは一生言わなくていい。一人でも言えること、一人になっても言いたいことで満ちた誌面を志す(中略)
 哲学者であり思想家である鶴見俊輔氏は"政治のあらゆる出来事はすべて生活の中にもある"といった主旨のことを述べられている。つまり生活とはそれほど大きな存在ということである。発想はその氏の発言に起因する。

 ここからは私の勝手な解釈だ。一見すると吉田拓郎とは関係しないさまざまな世界を生きる個人の主義主張の記事を集める。それは世界であり生活の縮図だ。世界や生活にはどこかに必ず吉田拓郎的なスピリットが宿っているはずだ。拓郎ファンは小さな殻に閉じこもらずに、そんな世界や生活に目を広げよう、そしてそこに散在する吉田拓郎の結晶を見つけ、また結晶が無い所に拓郎のスピリットを散りばめてゆこう。
 俺の憶測だが、たぶん徹貫は、そうやって吉田拓郎と世界の紐帯を固く結びたかったのだと思う。世界とともに吉田拓郎もそして拓郎ファンも生きてゆく。そんな大胆な挑戦だったのではないか。
 私の座右の銘である「すべての道は拓郎に通ずる。拓郎があればすべての道を行ける。」と共振するような気がしてならない。
4 夢また一つ
 もともと藤井徹貫のことは良く知らない。しかも今年卒然と亡くなられてしまわれた。会報6号のステイトメントに読者の反応がなかったと7号の編集後記で嘆いている。今から魂こめて送りたいが>遅すぎるだろ!

   おまえが死んだ後で青空はいっそう青くなり
   おまえが死んだ後でようやく僕はおまえを信じ始める
   残された悔しさの中で僕らは生き続けひとりぼっちだ
             (おまえが死んだあとで 谷川俊太郎作詞/小室等作曲)

 さて次回は、会報7号の中で唯一の拓郎記事「続挽歌を撃て」を深堀してみたい。

2023. 11. 10

🌟🌟🌟武道館よ屋根の梁を高く上げよ🌟🌟🌟
 なので自分は1978年の武道館(ライブアルバム"Bob Dylan at Budokan"も含め)でボブ・ディランにとりあえず入門した。武道館では弾き語りやアコースティックセットはなく全曲ソリッドなバンドサウンドだったので、ああそういうものなのかというのが初印象だった。
 そこからさかのぼって原曲や他のバージョンを聴くことになった。例えば、武道館で初めて聴いた"I Want You"は、聖歌のような美しいバラードだったので、後に原曲を聴いて♪が元気に跳ね回るようなウキウキポップな歌と演奏にびっくらこいた。ああ、自由だ、と思った。なんという自由自在な振り幅なのだろう。…まるで吉田拓郎みたいだ。
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 こういう入門の仕方って、拓郎で言えば、例えばいきなりライブアルバム「王様達のハイキングin Bodokan」から入門するみたいなものかもしれない。実際、自分の身近にそのとおりの「ハイキングから入門」というファンの方がいらした。その方も拓郎の弾き語りとかアコースティックに対してはあまり執着がなく、アルバムでいえば「大いなる人」とかのサウンドにしきりに感激していた。同じ音楽であっても、どっから入門して、どんなルートを辿るかでずいぶん大きく好きのカタチが違ってくるものだ。面白い。

 「王様達のハイキングin Bodokan」における「王様達のハイキング」と同様に当時未発表でライブ初披露目の新曲が入っている。"Is Your Love in Vain?"
いい曲なんだ。もう大好き。居並ぶ代表曲の中に入っていても全く遜色はない。確かにアルバム「大いなる人」系かもしれない、ちょっと「未来」に似ている。美しいバラードだと、知らないなりにライブの現場でも思った。

 しかし"Bob Dylan at Budokan"に腰をおろしていたら、ディラン先生は、たちまちそこからあっという間に違う世界に旅立ってしまった。その背中を見失ってしまった俺は入門したはいいが、今も永遠の見習い中の研修生みたいなものだ。

2023. 11. 9

⭐️⭐️⭐️何度弾丸の雨が降れば⭐️⭐️⭐️
 やあ、みんな。毎日拓郎ばかり聴いてるとばかになるぞ。>おまえが言うか
 高一のとき、今は遠くで暮らしている叔母がそう言って心配して、ボブ・ディランの初来日公演のチケットを買ってくれた。もっと世界を広げなさいと。これが私の人生初のコンサートだった。武道館では10日間くらい公演があったが、このたび俺の行った1978年2月28日の音源がコンプリートで発売されるらしい。45周年記念だそうだ。
 まことに感慨深い。あのディランの武道館に行けたからこそ、翌79年の吉田拓郎の武道館では道に迷わずトイレの場所もわかり安心だったし(爆)、なにより魂を込めた吉田拓郎の歌いっぷりが世界水準でもどんだけすんばらしいものかがよくわかった。世界が思い切り広がった。吉田拓郎の世界が。余計ばかになってしまって叔母さん申し訳ありません。近く箱根にまた行きますね。もうディランのこともわかんないかなぁ。
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2023. 11. 4

100分de名著「マガジンT(第6号)」を読む第2話 髪を切ったら20年が過ぎていた…それから30年が過ぎていた


1 短髪ライジング
 前髪を気にしない人生っていうのかな。たかが髪だけど大きい。そこんとこあまり気にならなくなった分、少し楽になったような気がしてね
 石原信一のインタビューでは髪を切って身軽になった吉田拓郎の新しい始まりを予感させてポジティブに結んでいる。いいインタビューだ。ということで、今回の100分de名著もココで終わればいいのだが、すまん。そうはいかないのだ。

2 愛と哀しみの短髪ビギニング
 正直に言って、当時、私は短髪の拓郎にはかなりショックを受けた。例えば菅田将暉が長髪にしたり、アフロにしたり、そして坊主にしたりと頻繁に髪型を変えるのとはワケが違う。これはピンチだと思った。
 会報6号の石原信一によれば拓郎本人が短髪のイメージとして描いていたものを聞き出している。
 どう髪型を変えるかについては、オールバックがいいかとかジャック・ニコルソンやフィル・コリンズなどの頭を思い浮かべて美容院に行ったそうだ
 ジャック・ニコルソンは世紀の名優でありフィル・コリンズも偉大なミュージシャンであることは知っている。しかし吉田拓郎は、音楽家であると同時にアイドルでありビジュアル系スターでもあるのだ。とすれば、んーどうだろうか。
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 この2人とも、そのまま磯野波平に向ってカウントダウンが始まりそうな不安がある。もちろんそれは私も含めて誰にでも訪れる加齢変化であり恥ずべきことではない。仮にそうなったとしても吉田拓郎の音楽も歴史も人品骨柄も含めて決してゆらいだりしない。ファンの気概も同じだ。しかし、しかしだ。やはりビジュアル系のアイドルでもあるがゆえにファンとしてはどうしたって苦悶してしまうのも事実だ。吉田拓郎は、ジャック・ニコルソンでもフィル・コリンズでもましてや磯野波平などでもなく、吉田拓郎としてカッコよく美しいビジュアルでいてほしいと願う。

 あの長い髪をひるがえして肩で風を切って飛んで行く姿が鮮烈だったしその期間も長かった。なのでなかなか短髪に慣れないことも大きかったのかもしれない。そのうえ観るたびに短髪の状況がいろいろ変化し、それがまた私を戸惑わせた。ツンツンに立てる"男達の詩"はまだ良かったのだが、
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 その後、怖すぎたり、七三分けのリーマンみたいな意味不明な時期もあったりして私を苦しめた。
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そもそもファンが慣れないのだから、世間や市井の人々はもっと慣れていない。「あれ誰?」「え、吉田拓郎?すいぶん老けちゃったのねー」と容赦がない。うっかりすると「あの人は今」のアイコンになってしまいそうな短髪だった。…ああ切ないぜ。ともかくしばらくビジュアル試練の旅が続く。男達は黙って進む。

3 短髪ビジュアル系リターンズ
 この試練が解消されるのはいわずと知れた「LOVELOVEあいしてる」以降だ。毎週毎週、短髪の拓郎が登場することに目が慣れてゆく。短髪=拓郎という刷り込みが完成する。そのうえで全国の国民に観られているということが大きかったはずだ。新人アイドルがテレビに出て注目されることでどんどんキレイになってゆくのとたぶん同じ原理(「石野真子理論」とも言われている)だ。そして何より、精神的にあの若者たちの大きな薫陶を受けて転生したという拓郎だ。その内面に新たに湧き立つ生命感が容貌やルックスに現れ、どんどんスタイリッシュになっていった。特にLOVELOVE中盤あたりからのルックスの洗練されてゆく勢いはすばらしい。最終的にはあの若き長髪時代と比べても遜色なく、短髪は短髪なりに心の底からカッコイイと思えるようになった。
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 これこそがLOVELOVEの偉大な功績だと私は心の底から感謝している。KinkiKidsや篠原ともえにアタマが上がらないゆえんだ。その後の拓郎は若干の経年変化はしたものの、ビジュアル系スターとしてそのままステージを全うしたことは記憶に新しい。かくして私たちは永遠にあこがれ続けることができるのだ。

4 短髪フォーエバー
 「髪を切ったら20年が過ぎていた」…それから33年が過ぎている。拓郎のキャリアでは短髪期間の方がはるかに長いのだ。今も昔と俺は言う。それなりに衝撃な事件だったのだよ。

 さて1990年秋、サッバリ断髪した拓郎は、その髪をツンツンと逆立てて、"男達の詩"コンサートツアーに出ることになる。何度も言うように90年代に駄作なし。進撃は続く。しばらくビジュアル冬の時代も断続的に続くが、それももう少しの辛抱だ。大丈夫だ、必ずビジュアル系の吉田拓郎は帰ってくる、心配するな…当時の自分をそう励ましてやりたい。

 そして、さんざん文句を言った会報6号だが、次回7号から会報が大刷新されて新たなる展開をする。

2023. 11. 3

100分de名著「マガジンT(第6号)」を読む第1話 髪を切ったら20年が過ぎていた
 会報第6号は個人の感想だがあまり面白くない。ファンクラブ会報としては熱度が低すぎる。理由はシンプルだ。"吉田拓郎"がいないのだ。いや、いちおういるけど圧倒的に足りないのだ。

第1 会報6号がなぜつまらないか
 1  表紙
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 なんだこの表紙は。これまでは、表紙と裏表紙は、吉田拓郎の豪華な近影、ご尊影、スナップで飾られていた。いい写真も多かった。しかし、なんだこれは。区民美術展か。…こんなふうに大事な場面で、近影不在のジャケット等が時々ある。古くは「流星」「春を待つ手紙」、後には「心の破片」「気持ちだよ」もそうだった。それがどんなに優れたアートだとしても本人のご尊影に勝るものはない。なんたって、なんたって十八…ちゃう基本はアイドルのファンクラブというメンタリティの会報なんだから。違うか。

2 写真がない
 表紙同様、中身にもこれまで満載していた新旧の吉田拓郎の写真が殆どない。「男達の詩」プロモーションビデオ撮影レポートの2ページだけだ。石原信一のインタビューにも今まではいろいろな拓郎の写真が散りばめられていたが今回はゼロだ。↓こんなイラストだけが載っていて…私にどうしろというのでしょうか。
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忘れること勿れ、あくまでも吉田拓郎は元祖ビジュアル系スターなのである。

3 意味不明の特集記事
 ファンクラブの会報なのに、いきなり80年代と90年代の日本の音楽界の動向についての長い論考、その次はスペイン名所ガイド…吉田拓郎は1ミリも出てこない。そんな記事が巻頭から25ページも続く。意味がわからない。会報の総ページが48なのにだぜ(爆)。せめてバルセロナを散策する拓郎の写真と紀行文とか…それは無理か。

第2 それでもある会報6号の存在意義
 それでも会報6号はビジュアル系スターにとっての衝撃の事件をリアルタイムで記録している。…それは断髪だ。
 主力記事である石原信一の連載「続挽歌を撃て」の話題は吉田拓郎の短髪実施である。タイトルも「髪を切ったら20年が過ぎていた」。1990年2月ころ、吉田拓郎はそれまでの長髪、カーリーをバッサリ断髪する。石原信一の連載の冒頭はこのように始まる。
 拓郎が髪を切った。極端に短い。何というヘアースタイルなのかと聞いたら「ボウズだ」と彼は笑った。
 いまやベテランファンですらも髪の短い拓郎を当たり前に受け入れているが、劇的なイメチェンであり大事件だった。
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…当時は驚いた。書店の店頭で「男達の詩」のジャケ写を雑誌で観たのだが、最初誰だかわからなくて写真の下の「吉田拓郎」という文字を見つけ「嘘だろ」と思わず声を上げたものだ。

第3  断髪前後
 90年1月10日の武道館ライブのバックステージ・楽屋の会話で、よく聴くと拓郎は坂崎に髪を切る話をしている。この時は断髪は既に決定事項だったようだ。

 坂「いっぺんボウズにするのもいいですよ、髪のためにも」
 拓「いや髪のためじゃないんだ、気分が…」

 そして90年3月後半の男達の詩のレコーディングのドキュメント(放送は90年8月のNHK「吉田拓郎ライブ&トーク」)では、短髪でスタジオに姿を現した拓郎が「もう1か月経ったよ」「その間に3回切った、早いんだよ」とツンツンの髪をつまみながら談笑している。なので断髪は2月ころと推察される。

第4 後藤、長髪やめるってよ
 そもそも拓郎の説明では、後藤由多加が、#前髪をかき上げる人"と"前髪を押さえる人"では、見える世界も違ってくるのではないかと説得し、二人で一緒に髪を切ろうと説得したとのことだ。しかし後藤はこの約束をドタキャンしたため、ひとりボウズになった吉田拓郎。会報6号の編集後記では、その時間、後藤社長は六本木の寿司屋でおねーさんとしっぽり二人でイイ感じだったらしい…とのことだ。ホントだったら、やっぱりいろいろとすげぇ人である後藤由多加。
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 10年以上前に拓郎にパーマをかけた美容師に「パーマを落とすのも責任もってやってくれ」とまかせたところ短いカットの髪にされたという。
 この顛末はエッセイ集「自分の事は棚に上げて」の「もうやめた」に詳しい。この美容師は後のヘアスタイリスト益子さんの師匠である畑さんと言う方らしい。

 拓郎本人も語るとおり長髪は「歴史ある髪型」だ。やはりこの断髪にはご本人もとよりファンの俺もいろいろと気持ちが複雑にうねった。ねぇ、あの短髪観た時みなさんはぶっちゃけどう思いましたか? 俺にとっては愛と哀しみの短髪だった。「どんな髪型をしようが俺の勝手だろ」と拓郎は怒るだろうが、いや拓郎さん、そういうもんじゃないんだよ。それについてはまた次回。

2023. 11. 2

🌟🌟🌟今日も明日もあなたに逢いたい🌟🌟
 こんな自分でも国会中継をよく観る今日この頃。外出先の待ち時間などにスマホで観ていると"帰ってきたあの曲"の"あの一節"がどうしても頭に鳴り響く。

 テレビはいったい誰のためのもの
 見ているものはいつもつんぼ桟敷
 気持の悪い政治家どもが勝手なことばかり言い合って
 時には無関心なこの僕でさえが
 腹を立てたり怒ったり

 殺戮をやめろ、停戦しろという決議を棄権する我が祖国。Noと言えない。何がバランスだ…誰かの顔の色も気にかかるんだね。また輸出した兵器の使用態様を問われて、平和のために使っていますと薄笑いしながら答える。そこには苦渋の陰もない。
 たぶん今の多くの政治家が心の中では大嫌いな憲法。憲法の人権とは、どんなに強力な権威、どんだけ圧倒的な多数決をもってしても絶対に奪えない個人の尊厳のセットリストのことだ。政治家にはきっとメンドクサイことこのうえない。しかしあなたたちの仕事は、このセットリストを守り、誰もがひとしくセトリの曲を奏でられるよう尽すことだ。断じて自分勝手な都合でこのリストを削ったり切り刻んだりすることではない。任期中に改正実現とか血道をあげるところを絶望的に間違えている。
 反戦歌もプロテストソングもあんまり好きではないが、殺戮に対する態度も個人の尊厳についてもいろんな意見がありますよねぇ…と有耶無耶にしながら楽しむ音楽なんて俺にはありえない。

 …ということで腹を立てたり怒ったりしながらスマホで中継を観ていたので、声をかけられてもまったく気づかなかった。すまん。きっと拓郎の歌なら気づくだろうと"人間なんてララララララララ〜"と阿佐ヶ谷姉妹のように斉唱してくださったご婦人方(爆)ありがとうございました…不肖ワタクシとても幸せでした。

 「人間なんて」といえば、大黒摩季の名作「ら・ら・ら」は"人間なんてラララ"にインスパイアされて作られたということだ。諸説あるのかもしれないが、大黒摩季のプロデューサーである長戸大幸が自ら明言していた。長戸大幸…知る人ぞ知る幻のフォーライフ新人だった御方だ。
 なので「ペニーレインでバーボン」の"テレビはいったい誰のためのもの"と「ら・ら・ら」の"テレビやマスコミはいったい誰のもの?"はたぶん兄妹フレーズみたいなものだ。
 本当に誰のためで、誰のものなんだよ。そういう俺も気づくのが遅すぎたな。
  

2023. 10. 31

⭐️⭐️⭐️新曲の輝き⭐️⭐️⭐️
 ローリングストーンズの新作「Hackney Diamonds」が出た。今やネットでストーンズと検索するとミックでもキースでもない若者たちがズラっと出てきて戸惑った。今はこういうご時世なので尻馬に乗るみたいで心苦しいが、すまん、キミらはシックストーンズじゃダメなのか。わしにはストーンズはストーンズだけなのよ。…ひとりごとです気に止めないで時にはこんなに思うけど。
なんにしても新曲だ。80歳のロックバンドの新曲である。いや年齢もキャリアも捨象してとにかく新しい曲だ。ストーンズファンとして底の浅い俺でもワクワクする。新しい車に乗って、サンディエゴフリーウェイを南に走っているような気分になった。我ながら例えが嘘臭い。
 衰えないミックのボーカル、"Whole Wide World"で心が躍る。爽快。"Mess It Up"…おもしれえ。身体が揺れる。これがチャーリーワッツの遺作なのか。"Tell Me Straight "ああ、しみる。変わらないミックのボーカルに対してキースのボーカルは聴くたびに深く沁みてくる。そばよし本店のかき揚げうどんの出汁のようだ。

 これを聴いていると「ah-面白かった」の特にWanganが聴きたくなった。イイ。比べるべるもんじゃないが、比べても遜色はない。どちらも清々しい。

 なんだろうこの加齢な人々のピュアな自由さは。どっちも痛快。

2023. 10. 29

100分de名著「マガジンT(第5号)」を読む  第7話 [NG:3 ] あこがれ運動体 西へ


 …時々考える。金沢事件の時に、もし俺が拓郎ファンだったとしたらどうしたろうか。そりゃあ拓郎を信じてファンを続けたに決まってる…と断言したいが正直その自信がない。それは例えば戦争が終わってから、実は俺もあの戦争には反対だったんだと威張り出すオトナの姿とどこか重なる。ヘナチョコな俺には胸張って言える自信がないのだ。
 だからこそ金沢の嵐から逃げ出さずに、推しとしての極北をのり超えたすべての当時の
拓郎ファンの方々を俺は心の底から尊敬する。
 後にいろんなファンから当時の話をうかがった。例えば当時、女子高生だったファンの方は、拓郎の悪口で持ちきりの学校には行きたくなくて、金沢に駆けつけることもできず、かといって家にいるのも苦しくて、毎日、ずーっとユイ音楽工房のビル前にタムロしていたそうだ。そんなファンがたくさんいたという。こういう話を聴くだけで胸がしめつけられるようだ。
 いわば世界中が敵になるような中で、拓郎ファンでいつづける孤独の身空には、いろんなことがあったでしょう、人に隠れて泣いたでしょう。そして、そういう方々がいればこそ私はこうしてファンの端くれの末裔でいられるのだ。

□ いつも見ていた後藤由多加
 さて後藤由多加インタビューのつづきだ。普通は、事務所やプロダクションの社長は、フィクサーとして表舞台には姿を見せたりしないものだ。しかし後藤由多加はいつも最前線のフロントにいた。金沢事件の時だけでなく自らも前線に突撃していくイメージがあった。例えば拓郎や長渕の離婚記者会見等の時など荒れそうな場所には必ず横に座っていた記憶がある。表裏を問わずタレント=アーティストを守るために社長が身を運んで当然という気概が伝わってくる。
 少なくともタレントを矢面に立たせて自分達はその後ろに隠れ責任を逃れるようなことは絶対にしなかった。
 このインタビューに登場する70年代初頭の吉田拓郎の軽井沢での結婚式の逸話がまたいい。
G:あの軽井沢の教会で。…ボクはなんかの夏のコンサートで肩を脱臼して包帯をして軽井沢に行った覚えがあるもんな。これ片手だったら、何かトラブルがあったときやばいなぁっていうんでバットを持っていたんですよ(笑)
 この話もメチャ好きだ。普通、包帯してバット持って結婚式行くか(爆)? 俺が拓郎アニキを守りますという任侠の世界か。

❑ つま恋は燃えているか
 また、つま恋75のビデオで好きなのは、拓郎2ndステージのオープニング。「夏休み」のイントロが流れる舞台袖でスタンバっている拓郎。後藤は、その前にしっかりと立って、周囲を睥睨し、よし行けとばかりに先導して拓郎と一緒に階段をのぼっていく。うっかりすると後藤もステージに出ていきそうな勢いだ(笑) そもそも社長がボディガードみたいにそこにいる必要があるのか?という素朴な疑問を超えて、観る者を感動させずにはおかない。
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 つま恋といえば85年。午前2時ころか。騒音苦情が殺到したというときに、後藤は自らステージに上がってマイクを握りしめて「ここでやめるわけにはいきません、音量は多少下げるがわかってくれ」と啖呵を切った姿も忘れられない。後藤はいつも大事な場面のフロントにいてくれた。

 ユイは会社と言うより、後藤の語っていたとおり「運動体」だったのかもしれない。少なくとも70年代前半はそういう気持ちで後藤はじめみんなが動いていたのかもしれないと思う。石原信一の言う通とおり「運動体」だったと考えるといろんなことが腑におちる。

❑ そこにある原点
 会報6号のインタビュー後半の言葉の先取りになってしまうが、後藤のこんな言葉が刺さる。
 唄も唄えない、曲もかけない、詞もかけないスタッフがどういうふうに頑張らなきゃいけないか、という所を僕に教えたのは拓郎でしたね。ボクにとっては原点なんです。原点というか、そこしか僕にとってはないわけです。
 吉田拓郎を愛するように、たぶん多くの拓郎ファンが、渋谷、陣山、常富、そして後藤由多加に対しても深い敬愛を抱くゆえんである。前にも書いたが矢沢永吉の自伝インタビュー「アー・ユー・ハッピー?」を読んでその凄絶さに胸が苦しくなりながら、俺はユイ音楽工房のことを思った。あなたたちでよかった、あなたたちがいてくださって本当によかった。この胸いっぱいのありがとうよ、君に届いておくれ。

 結局、長話になってしまったよ。読んでいただいた方、すみませんね。でもありがとうございます。会報5号はこれまでです。

2023. 10. 26

100分de名著「マガジンT(第5号)」を読む  第6話 [NG:3 ] コロンブスのゆで卵

 このインタビューではやはり金沢事件のことは避けて通れない。
石:74年の金沢の時にはユイはつぶれると思いました?(※だから73年だって:星紀行注)
G:うん、最初は思いましたね。コンサートはできない、もうやけっぱちでしたからね。
警察を訴えてやろうと思ってましたからね。それで警察官に言ったしね、絶対に訴えてやるからって。あの時はホント大変だったなぁ。
 警察に啖呵を切り、権力&警察と戦う覚悟を固める後藤。もうこの言葉だけで俺は小一時間泣けるぞ。前号で連行される新幹線に同乗していった渋谷マネージャーからの連絡を受けて、自分も金沢に向かう。
 すぐ行くって、新幹線で大津かなんかに出て。春だったけどまた結構寒くても日本酒を一本電車の中で買って。それと卵ね。ゆで卵を買って。夜行だったのかな、一睡もしないで金沢に行きましたよ。拓郎の存在はどこかできり返さなきゃないけなかったし、それは何なのかっていう。具体的には権力を警察を訴えることをしなきゃね。
 最近まで借金を抱えた単なるペーペーの学生だった後藤には、自分の「生活の不安はなかった」という。しかし「拓郎の存在をどこかできり返すために」戦わなくてはならない。
 それにしても…「ゆで卵」。イヤミではなく、後藤氏は年号・年代は忘れても「ゆで卵」のことは覚えていた。多分、後藤にとって夜行列車で金沢に向かうその時の心象がいかに厳しいものだったかが窺える。その景色ごと強烈に心に焼き付いていたんだろうなと思う。

□ 帝国の逆襲(良い意味で)
 事件は、不起訴になったが、潔白が証明されたにもかかわらず、拓郎のイメージは酷く悪化したままだった。事実、由紀さおりの「ルームライト」は放送自粛となり、これひとつとっても拓郎のみならずナベプロもかなりの打撃を受けたはずだ。こういうとき芸能プロは、とっとと拓郎から手を引いて"干す"のが自然だろう。しかしナベプロは手を引かず、様子見すらもせず、事件直後の73年の秋に森進一のために曲提供を吉田拓郎に依頼した(後の「襟裳岬」)、それだけでなく小柳ルミ子の「蛍の河」「赤い燈台」と依頼を続けていった。ゆくゆくはキャンディーズに至るまで、ナベプロ主力スターへの作曲依頼を続けてゆくのだ。当時、森進一もいわれなきスキャンダルに苦しんでいたというが、普通だったらなおさらイメージの悪い拓郎は使わなかったはずだ。
 ここにナベプロの吉田拓郎に対する固い応援の意思を感じざるを得ない。矜持というべきか。後藤がアポなしで渡辺晋に挑んでいったあのときのエピソードが思い出される。ユイとナベプロの間にはそれこそ信頼の固い絆が出来上がっていたのではないか。
 この頃の音楽界は、新興ユイVSナベプロ帝国という対決図式で総括されがちだが、当時の音楽界で吉田拓郎の才能を誰よりも高く評価し支援していたのはナベプロだったんじゃないかとすら思うのだ…まー、しょせんシロウトの思い込みだ。

□ ちょいとマッチを擦りゃあ炎上しそうな

   用心しろよ、用心しろよ、ああ、そのうち君も狙われる
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 50年前の冤罪事件と思う勿れ。この危険な闇は、なんにも克服されないまま、インターネットだSNSだという高度情報社会の中で私たちの足元まで広がっている。今も誰かが炎上し、いわれなき中傷に痛めつけられる。ああ、何て事だ、何て世の中だ。

 警察が連行する新幹線に飛び乗る渋谷氏、警察と戦う覚悟で日本酒とゆで卵を抱えて夜行で向かう後藤氏、プライベートジェットで駆け付ける久保利弁護士、そして金沢中署を人間の鎖で囲み歌うファンの方々、すべては「吉田拓郎」奪還のため、青春の河を超え、青年は、青年は金沢を目指す。…あ、五木寛之、嫌いだったんだ。そして忖度も様子伺いもせず潔白なる才能を堂々と支援するナベプロ。
 どんなにネット世界、情報技術社会が偉そうな顔して高度化しようが、最後は人間の力だ。人間の魂に根差した言動でしか人は救えない。その当たり前すぎるくらい当たり前なことをこの事件をめぐる人々の一挙手一投足が教えてくれている気がする。

…あららら話がそれたな。いよいよ次回会報5号最終回。

2023. 10. 24

100分de名著「マガジンT(第5号)」を読む  第5話 [NG:3 ] 後藤由多加、天下をとったヤツまともににらみつけ

□ 君臨すれど仕事せず
 ユイ音楽工房の設立当時は、後藤由多加がマネージャーを兼務していた。その際の有名な伝説がしっかり実話だったことがインタビューで確認される。石は石原信一、Gは後藤由多加だ。
石:そういうとき(※注:地方のライブに行った時)の拓郎はどういう感じなんですか。
G: もう、すごくよく仕事しましたよ、自分で照明の打合せして、僕なんかが寝ている間に仕事が終わって。
石:全部そういう仕事を自分で…
G:それで仕事おわったら「後藤、おわったから帰ろうぜ」みたいな。ある時拓郎が「後藤おまえ、マネージャーに向いてないんじゃないか」って(笑)
 (笑)この話メチャ好き。おそらく拓郎は後年、渋谷氏がマネージャーになってつくづくと確信を深めたのではないかと想像する。

□ 天下を取った人
 メチャ好きな話といえば、マネージャーには向いてなかった後藤氏の名誉のために、このインタビューにはないけど一番好きな話を書いておく。出典は、野地 秩嘉「「芸能ビジネス」を創った男 ナベプロとその時代」(P.160〜)
 天下の渡辺プロの渡辺晋社長と後藤の初対面のくだりだ。
「(私=後藤は)芸能というより我々の世代だけを相手にした運動という意識だったのです。ところが仕事を続けていくうちに責任が芽生えてきた。事務所を作ってお金の出し入れをちゃんとやらなきゃならない。そんな時にふと渡辺晋さんを訪ねてみようと思いました。」
 長髪でジーパン姿の後藤は、…渡辺プロへ出かけた。受付で「ユイ音楽工房の後藤です」と名乗ったら誰の紹介でもないのに社長室に通された。
 ああ、もうカッチョエエと本屋で立ち読みしながら悶絶したのを憶えている。アポなしでナベプロ帝国に単身乗り込む後藤も、黙って社長室に通す渡辺プロもすげえ。両者の頭の中には名前を出さずとも、たった一人の若者の姿があったに違いない。たぶんこういう人↓
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 晋社長は室内に流れていた音楽を止めさせて二人の社長の話が始まる。
晋は、尋ねられるまま、何でもオープンに話した。著作権管理のシステムから、コンサートチケットの効率的な売り方、金を預ける都市銀行はどこがいいかまでざっくばらんに話した。後藤が驚いたのは「なんでも隠さずに教えてしまう」晋の懐の大きさである。…晋の仕事に比べれば自分たちがやっているのは「子どもの遊びみたいなものだ」と感じた。
 この息詰まる感じ。さらに凄いなと思ったのは次のくだりだった。
芸能ビジネスの話を晋から聞いた後、後藤は自分たちのビジネスについて、お礼のつもりで説明したという。後藤が強調したのはメディアの力だ。テレビ出演を拒否し、ライブとラジオ出演だけで、ファンを獲得していくことは、時間はかかるけれどファンとの間に強い絆を持つことができると、後藤は自分なりの考えを述べた。
 ああ、またまたすげーカッチョエエ。俺は立ち読みしていたこの本を迷わずにレジに持って行った。>どうでもいいよ。相手の懐の深さに感謝こそすれ決して卑屈にはならず、堂々と切り返す。ここに静かな真剣勝負がある。真剣勝負の果てにある信頼関係が窺える。そしてここから怒涛のニューミュージックの進撃が始まるのだ。ライブとラジオのおかげで絆をつないできた端くれとして心の底から誇らしさを感じる。

□おそるべし、向いていない人
 この後藤の無敵感はなんなのだろうか。借金を抱えて逃げ回りながら、起死回生のイベントを打つ胆力、後年に、後藤はロスアンジェルスに渡り、吉田拓郎のバックバンドに「ザ・バンド」をアサインし契約寸前まで事を運ぶ気骨。すげえ。それは「若さ」だというかもしれないが「若さ」だけでやりおおせられることではない。
 確かにマネージャーには向いていなかったのだろうが(爆)…後藤由多加、ああ、おそるべし。このインタビューはつまらないといいながら、すまん、あともうひとつだけ書かせてくれよ。つづく。

2023. 10. 22

100分de名著「マガジンT(第5号)」を読む  第4話 [NG:3 ] 後藤由多加、愛と青春の旅立ち

❑ 軍司・後藤由多加
 吉田拓郎のことを好きになればなるほど後藤由多加に対する敬意は深まってくる。もちろん俺はただの一般Pなので事実や実態はわからない。それでも、矢吹丈に丹下段平が、渥美清に山田洋次が、秀吉に黒田官兵衛がいたように、拓郎ありて後藤あり、後藤ありて拓郎ありとでもいうべき不即不離の関係を感じる。
 その後藤に対する石原信一のインタビューが会報5号の目玉企画である。しかし、残念ながら陣山氏(会報3号)、渋谷氏(会報4号)に対するインタビューと違って、年代とか昔の経緯と事情についてかなりグダグダしている。

❑ 明日はどっちだ、昨日はどっちだった
 例えば、インタビュアーの石原は、エレックがらソニーへの移籍に後藤とユイ音楽工房は関わっているのかどうか、エレックで録音された「結婚しようよ」の原盤がソニーからシングルで出たことの経緯はどのようなものか、前田仁の役割はあったのか、…このあたりを尋ねたかったようなのだが、どうも記憶がまだらでハッキリしない。

 それに年代についても時系列がごっちゃになって混沌としている。あの狂乱の「人間なんて」のフォークジャンボリーが72年、その72年の暮れに「元気です」、その頃にユイ音楽工房が設立、73年に全国ツアーが始まって、74年に金沢事件…というように年号が全部間違っている(爆)。マルチバースか。もちろん歴史のテストじゃないし、音楽と音楽活動の大いなる展開に正確な年号記憶は必要ではない。しかし、こういうのって気にならない? 俺は気になる。なので、つい第一印象でポンコツ認定してnot so goodに分類してしまった。

❑ エピソード・ゼロ
 しかし、このインタビューは、なぜ後藤がユイ音楽工房を設立したのか、よくある設立の理念とはまた別な運命のひとひねりのようなものが語られている。いわばエピソード・ゼロの部分を教えてくれる泪橋を逆にわたるような貴重なインタビューだった。NGに分類してすまん。

❑ この広い負債いっぱい
 ユイ設立当時、陣山氏も渋谷氏もまだ大学生だったように、後藤その人もまだ早稲田の学生だった。これは学生ベンチャーのハシリといっていいのか。「企画構成研究会」というサークルだったそうだが…実際にはダンパやフォークソングのライブを主催して小金を稼ぐ、軟弱なサークルだったようだ。後藤氏は、森山良子のコンサートを何度か催しては失敗し、その後に渡辺貞夫のコンサートを主催してはまた大失敗し(あの神田共立講堂で観客80人だったということだ)、実に数百万円からの負債を負っていたらしい。
 「渡辺さんのいた事務所にずーっと借金をおっかけられて、みんな家に住めなくなった…」というからかなりヤバい。後藤、奥山という、ユイの原始メンバーは、みんな借金から逃げ回っていたようだ。

❑ ラブラブ起死回生
 後藤は、追い詰められたあげくの借金返済のために、まだ無名だった吉田拓郎やフォーク歌手らの伝手を利用して、早稲田大学の記念会堂(8000人収容)の「ラブラブ・フォーク・カーニバル」という音楽イベントを打つ。まさに最後の賭けだ。ラブラブ=LOVELOVEとはなんか今にしてみれば象徴的だね。

 後藤は早稲田大学内の数十ものサークルを回って、サークルの人が呼びたいミュージシャンをリサーチし、そのミュージシャンを呼ぶから、チケットを捌くよう依頼する。その際、採算ラインを計算したうえで500枚以上売ったら、一枚につきチケット代のおよそ25%を取っていいという条件を取り付けた。これによって、各サークルはお目当てのシンガーが観たいため、また利益のためにチケット捌きを頑張り、それによってコンサートの制作コストの回収を確実にできるという計画だったらしい。…これって、後に全国にいる若者のイベンターの協力を仰いで、チケットを捌き、コンサートツアーをおこなうというシステムと通底しているよね。さすがっすね。

❑ 旅立てG
 その結果、いいようにハメられた早稲田のサークルのおかげで無事に記念会堂は満杯となり、拓郎の名司会もあってコンサートは大成功となった。資料によれば次のとおりだ。 
1971年6月27日 東京:早稲田大学記念会堂「ラブラブ・フォーク・カーニバル」
【出演】吉田拓郎(司会)、高田渡、加川良、遠藤賢司、加藤和彦、小室等と六文銭、浅川マキ、長谷川きよし、ジローズ、ソルティーシュガー、西岡たかしと五つの赤い風船
 このように記念会堂はまさに聖地といっていい。そして余談だが、この記念会堂は2015年に取り壊す前に卒業生の小田和正が報謝のライブを催したことでも聖地となっている。
 結局、後藤は500万円以上の利益を得て無事に借金を完済した。もっとも早稲田周辺の印刷所のチケット、チラシ印刷代金は、うやむやにして踏み倒したらしい。おい(爆)。…あと関係ないけど、この直後に中津川フォークジャンボリーでインチキなフライドチキンを売ったという話も面白かった。…早稲田大学、ぶっちゃけロクなもんじゃありません。拓郎が後に、松本隆、松任谷正隆、中村雅俊、鳥山雄司などの親・慶応派に傾いてゆくのもなんかわかるところだ。それはどうでもいい。そんなこんなで後藤は決意する。
 ボクは数百万あった借金を全部返して、それで手元に二百万円弱残ったんですね。…このままお金使っちゃうとまずいから早く会社作ろう

 ということでいよいよユイ音楽工房が誕生するのだった。1971年のことである。そこには音楽に対しての青雲の志とともに、どうしようもない借金苦という背景事情があったのだ。後藤が森山良子と渡辺貞夫のコンサートで借金を負わなければ、ユイ音楽工房はなかった。やはり「今日の吉田拓郎があるのは森山良子のおかげだ」という定説はここでも実証されるのだ。

❑ 新宿の空
 そして森山良子と渡辺貞夫とくれば、勘のするどい君だから何を話すかわかっているね。ユイ発祥の地でもある新宿で催されたTONYミュージックフェスティバルだ。http://tylife.jp/chiisanasakebi.html#19801004
 こうして考えるとこのイベントは後藤由多加が一番万感胸に響いたのではないかと思うのだ。
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借金を作り、追われ、返済した機縁の三人の揃い踏みを観て、どんな気持ちだったのか尋ねてみたい。忘れちゃってるかな。

 良子姐さんが唄うTONYのテーマ曲「TONY MY FRIENDS」、あの日、待ち時間に50回くらい聴かされて今でも歌える。なんかぴったしだな。

  お元気ですか? 幸せですか?
  Are you happy, My Friends?
  合言葉はそうよ“TONY”
  T・O・N・Y LOVE!
  つよく結んだ心の糸
  そのむこうには あなたが

…ということで、あまりに、いいインタビューだったので次回「一寸の闇にも後藤の魂」(仮題)につづく。>言ってること違うじゃん

2023. 10. 20

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☆☆☆サビシィ〜ッ&キビシィ〜ッ日々☆☆☆

 相次ぐ訃報、爆撃に殺戮と鬱々とした日々だ。なんだこりゃ。

 高校生の頃、テレビドラマのエキストラのバイトをしたことがあった。寒空にTシャツ&短パンで一日いなきゃならなかったが、ミーハーの俺は芸能人を近くで観られるだけで幸せだった。鈴木"たどり着いたらいつも雨降り"ヒロミツは、現場に外車で乗り付け、撮影をササッと終えると、頭を下げるスタッフたちを背にして、また車で風のように消えて行った。おお〜スターだと感激したものだ。
 出番の長かった坂上二郎さんと財津一郎さんは、カメラが回っていないときも、二人でミュージカルみたいに歌の応酬を繰り返していて実に楽しそうだった。ああ、歌が好きなんだな〜とても素敵な光景だった。
 やがて撮影が終わると財津一郎さんは、俺のようなエキストラのガキのところにもやって来て「お先に失礼します。寒いけど頑張ってチョーダイ!」と声をかけてくださってコレまた感激した。感激というか、高校生の俺はその時なにかを学んだ。それが何だかはわからない。少なくとも高校の化学や数学や保健体育の先生たちからよりもはるかに大事なことを教わった気がする。
 それ以来、ずっと財津一郎さんのファンである。i-Podには「花のピュンビュン丸」を必ず入れているし、"こてっちゃん"やあのピアノCMを観るたびに小さな元気が湧いた。「頑張ってチョーダイ」と言っていただいたわりには、ガンバッテないけどいいでしょう。ありがとうございました。どうか安らかに、心の底からご冥福をお祈りします。

2023. 10. 19

100分de名著「マガジンT(第5号)」を読む  第3話 [NG:2 ] もっと讃えよ、仰ぎ見る等身大

❑ 誰も話さない、語らない
 会報5号には新作アルバム「176.5」についての特集記事は見当たらない。最近の拓郎のアルバムでは、拓郎自身によるライナーノーツが載せられていたりするが、そういう拓郎自身の言葉も、音楽ライターなどがレビューしたり誰かが深く鑑賞したりするような記事もない。この「176.5」が名盤だと思うだけに淋しい。

❑ この素晴らしきアルバムに
  失礼を承知で何度でも言うが「マッチ・ベター」「ひまわり」がまるで試作品だったと思えるような完成度の「176.5」である。一言でいうとこのアルバムはシュッとしている。ああ、こういうのをスタイリッシュというのか。
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 10階のテラスの夜景が見えるような「星の鈴」はホントに胸に鈴が鳴るようだし、高速をひたすら走ってゆく走馬灯(>なんだそりゃ)に同乗しているかのような心地よさの「車を降りた瞬間から」、イントロから胸がしめつけられる「しのび逢い」、大人の恋愛映画のけだるい1シーンのような「憂鬱な夜の殺し方」そしてこのアルバムのスーパー・ヒトシ君ともいうべき「俺を許してくれ」…ファンとしては、このアルバムをもっともっと解題して欲しいし、この素晴らしさを誰かと分かち合いたかった。その思いはネットなど存在しなかった当時はひとしおだった。そうだ、ちょうどこの頃にシンプジャーナルは休刊になってしまったのだった。なのでもうこの会報しかなかろう。そこが今号のnot so goodなところだ。

❑ 冬の旅
 それでも会報5号の石原信一のインタビューで、拓郎はこの「176.5」について、短くこう語っている。
ミュージシャンてヨイショがなきゃやらないもんだよね。『いや、さすが』『天才』とか言われないと、やる気は起きないもん。まわりからもちあげられて、有頂天になってアルバムを作るわけ。今回それが少なかったな。でも今度のアルバム 俺 売れるかもしれないと思っている。すごくポップで聴きやすくてずうっと飽きなくて、次はどんな曲?って感じにさせる
 この拓郎の言葉が刺さる。心が痛い、心がつらい。ひとりぼっちで佇む拓郎の背中を観ているかのようだ。そうか…ファンクラブという媒体がありながら、ヨイショが足りなかったか。俺も「176.5」を聴くまではコンピュータの打ち込みはキライだったし、その打ち込みシングルの「落陽」も応援しようとは思わなかった。

 でもそんな中で拓郎が作り上げたこのアルバムは「売れるかもしれない」…と俺も当時は考えた。期待した。確かにポップだし新しい。なんといっても、いつもの土着的(Yuming said)ではない、前記のとおりのスタイリッシュさが真骨頂だ。そこに"とらばーゆ"の余勢や"世界・ふしぎ発見"のチカラも手伝って…世間からは新生・吉田拓郎として絶賛されてもいいはずだと思った。
 世間…が何かはわからないが、バブル全盛期の世間から吉田拓郎はもう終わった人としてゆっくりフェイドアウトしつつあったのだと思う。拓郎の新曲とかそういうのはとりあえず要らないからと(※個人の感想です)。こういうときこそのファンなのだが、ファンはファンで、それぞれのライフステージの中で人生の重大局面を迎えて(※その後の星紀行の調べによる)、推し活どころではなかったファンも多かったようだ。偉そうに書いているこの自分にしてからが、人生に思い切り蹴躓いていたころで、いろんな拓郎の応援機会を逸していた。

❑ 同行二人
 かくしてこの頃から、いかに名曲を作り、傑作を歌えども、誰もこっちを向いてはくれません、立ち尽くす私…な冬の時代が静かに始まる。いや既に始まっていたのか。ファンにとっては、木枯らしの道を歩くようだった。拓郎がどうだったかは、わからないが、君の歳月が僕と同じでないなら困ってしまう。

 しかし世間の冷たい風の中なれど拓郎は素晴らしい音楽を紡ぎ、ファンとしてはそれを身体に浴びて心は暖かった。いろいろあっても幸せな時間であったことに間違いない。
 若者よ、推し活にはこんな風雪のときもある。この風雪の貴重な記録としてこの会報の意味は大きいのだ。ということで、孤独な背中を追いかけてまいりましょう。我も行く蒼白き頬のままで。

2023. 10. 18

☆☆☆縁☆☆☆
 谷村新司氏の追悼の気持で「地球劇場」の吉田拓郎のゲスト回(2014年)を観なおした。こういうことになってしまったから、ということもあるかもしれないが、実にいい番組だった。よくぞこんな番組を残してくれたものだとあらためて思った。
 二人の距離をあざとく詰めたりせずに、そのままの自然体で二人が打ち解けて語り合う。ここの距離感が絶妙だ。どこかでしっかりと距離を守る拓郎もすごいが、そのままで心許した話を引き出してしまう谷村新司もまたすばらしい。
 谷村「やっぱり僕らは"縁"があったんですね」
 吉田「…いや縁はないよ」(キッパリ)
…笑ったわ。いいな。
 「純情」を歌う時、谷村が作詞の阿久悠さんも、作曲の加藤和彦さんも亡くなってしまったね…としみじみつぶやく。そのあとの話題にした筒美京平さんも現在は亡くなってしまったし、なにより、そう言っているアナタが。
 最後に谷村が番組進行表にその場で書いた詞を拓郎にプレゼントする。谷村が好きだという「おやじの唄」のアンサーソングだという。その詞が「弔辞」。なんてことだい。どんな詞で、谷村は何を考えたのだろうか。
 さっきは笑ったけれど、拓郎さん、これは縁だよ、やっぱり。

2023. 10. 16

☆☆☆帰らざる日々☆☆
 あの日の夢が浮かんでくるよ。高校生の頃、クラスの殆ど全員が「アリス」のアルバムを持っていて教室であーだこーだと語り合い、また全員が「チンペイのセイヤング」を聴き「天才・秀才・バカ」の話題で笑いあっていた。拓郎ひとすじだった俺はとても孤独で内心「けっ。こんな曲よりも…」と思いながら生きていた。
 それでも一度だけ拓郎がラジオにゲスト出演したとき、谷村は拓郎に敬意と人懐っこさをもって語り掛け、話は盛り上がった。少年時代の二人の『ヰタ・セクスアリス』話で谷村に乗せられた拓郎が「廊下の平泳ぎ」体験を告白させられて笑ったものだ。ああ、谷村新司…なんかいい人だなと思った。

 しかし、その後、思い詰めた拓バカの俺は、ハンド・イン・ハンドとかシアターフレンズとか、ずいぶんと彼に悪態をついた。篠島に行くときは、翌日におこなわれた宿敵アリスのつま恋コンサートに敵愾心を燃やし、アイツらにだけはに負けるもんか挑むような気概があった。
 この勝手に屈折した思いはその後もずっと続いた。でも「昴」を聴きながら「ああ〜ヤメロー!谷村、拓郎よりいい曲を歌うんじゃねぇ!」と悶絶したこともあった。浮世の義理という名目でアリスの再結成ライブにも足を運んでアウェーのスリルと感動を味わった。

 時を経て、2014年の東京国際フォーラムで、開演直前に、客席に谷村新司が入って来たとき、気づいた多くの拓郎ファンがスタンディングして拍手と歓声で迎えた。谷村新司は微笑んで深々と頭を下げてからゆっくりと着席した。
 その時、俺はちょっと驚いて「おめーらホントに拓郎ファンかよ」と一瞬思ったが「どっちがどうなのよ」。ああ、そうだ時代はとっくに変わったんだ、もう戦争は終わったんだと思い知ったものだ。

 そして突然の訃報。どうしてこんなに悲しいんだろう。わかんないけど。なんかすごく泣きてぇ。なんだこりゃ。カラオケ行って愛憎をこめて泣きながら思い切り歌いてぇ。喜びも悲しみも、悪態も称賛もすべて生きてこそあれ谷村新司。byebyebye私の貴方、不肖の私も片隅からご冥福をお祈りさせてください。

2023. 10. 14

100分de名著「マガジンT(第5号)」を読む 第2話:NG1〜ライブ記事が甘すぎ、もっとしなやかに、もっとしたたかに

❑ライブをしてライブを語らしめよ
 会報5号では、石原信一先生、大越元シンプジャーナル編集長、それから調べたらオリコンのお偉いさんだった垂石克哉氏という錚々たるお方が、このライブについていろんな視点から寄稿しているのだが、舞台裏とか人物論とか歴史論とかばかりで、こと「このライブのとてつもない醍醐味」についての掘り下げが薄い。ここが不満なのだ。

❑拓郎老いず、弾き語りは朽ちず
 「昔を思い切り懐かしんで明日から90年代へゆこう」という旨の拓郎のMCに導かれるこのツアー。拓郎にしては珍しく"懐かしさ"を解禁する。その圧巻は弾き語りコーナーの復活だろう。実に80年の秋ツアー以来だから9年ぶりである。前ツアーの「ロンリーストリートキャフェ」でその片鱗を見せたが、やはり拓郎の弾き語りは圧倒的でなおかつ懐かしい。
 しかしだからといって懐かしい=レトロなライブではないのだ。このライブではバンド部分の歌と演奏こそが真骨頂だと思う。

❑温故より知新
 「人間なんて」「イメージの詩」「落陽」「祭りのあと」=懐かしい系の曲は、コンピューターを使った"リアレンジ"でただの旧曲のトレースではない。拓郎が、コンピューターに通暁して作ったデモテープをベースにすることによって、一見すると懐かしさを感じるどの曲も、あらたな"生気"を得ている。新しい詞で哀しみを湛えて「人間なんて」も蘇生している。懐かしさとの「ズレ」が、好き嫌いは別として実に気持ちいい。

❑盤石のバンドで映える歌たち
 バンドは、松尾一彦、清水仁、鎌田清、鎌田由美子、小島俊司と少数ながらガッツリとした盤石感がに満ちている。特にいろんな曲で、小島俊司のサックスが厚みを加え表情はとても豊かなものにしている。
 例えば「パラレル」のアウトロにサックスがインサートしてくるところが超絶カッコイイ。
 また、レア曲「街角」。幻の曲がここで引っ張り出されてきて驚いた。アウトテイクではなかったんだ。ここもサックスのチカラで無敵の装甲で聴かせてくれる。
 そして個人的にハイライトと思うのは「ひまわり」だ。原曲や89年ツアーの初お披露目Verよりも情感に訴えてくる。イントロの松尾一彦のギターの美しさ、そしてアウトロでは松尾のギターを引き取るようにサックスがリリカルに語りかけるように響く。圧巻。これが「ひまわり」のベストテイクだと確信する。アウトロを静かに聴き言っているような拓郎の立ち姿もいい。
 さらに、忘れちゃなんねぇ「人間なんて」や「俺を許してくれ」の鎌田清のドラムソロ。このブレイクがゾクゾクするほどカッコいい。島村英二のドラムがボディーブロウだとすると鎌田清のは連続平手打ちのような…やめろよ暴力は。とにかくズシっ!ではなくスコン!スコン!と気持ちがいいのが鎌田系だ。

❑新しいクライマックス
 最後のアンコール♯2の「言葉」から「抱きたい」に昇りつめてゆくホップするような爽快感。そしてオーラス「俺を許してくれ」になだれ込む。最新の傑作が最後の最後にでーんと控えているところ…これがこのライブの肝だ。この曲に向かってセットリストがすべて収斂されていくようなそんな存在感がある。未知の新曲がオーラスであることになんの不満もない、観客も総立ちで歓待している。拓郎が、ただ懐かしいだけのライブなんてやるはずがない。

❑僕の欲しかったものは
 ということですまんがシロウトの感想では書き尽くせない。弾き語りのみならず、懐かしさのみならず、このライブは清々しい新しさに満ちている。これぞ大人の風格あるロックだ。せっかくの会報なんだから、ここんところをプロが掘り下げて欲しかったんである。

 いやあ、秋の夜長、90年武道館のビデオを観なおしてしまうぜ。いい。何度観てもいい。…あれ観るとチャーハンが食べたくならない? つけあわせのアレは"八宝菜"だろうか。町中華へ行こう。

 ということで次回「第3回 NG:2 "176.5"等身大を高く掲げよ」(やっぱり仮題)を

2023. 10. 13

100分de名著「マガジンT(第5号)」を読む  第1話 さよならカーリー&よろしく90's

 「100分de名著 T's 会報シリーズ」もあまりにダラダラと書き過ぎて、今どのあたりを歩いているのかサッパリわからなくなっている。今回の会報5号からは簡潔にビシッと行くことにしたぜ…たぶん(爆)。
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【会報5号当時の背景】
 1989年11月から始まった人間なんてツアーが90年1月10日の武道館公演を持って終わり、同月にはニューアルバム「176.5」がついに発売。その余韻と余勢のうずまく90年3月にこの会報5号は発刊した。さぁ90年代だ。

ということであくまでも全体的な個人的感想だ。

GOOD〜会報5号の良いところ
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 G1.ライブの写真が豊富(ただし凄く小さい)
 G2.ライブスタッフのほぼ全員の写真と一言が載っている
 G3.歴代スタッフインタビューでついに後藤由多加(上)が登場

(以上 第一話)

NOT SO GOOD〜会報5号の残念なところ
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 NG1.あのライブの素晴らしさが深められていない
 NG2.名盤「176.5」について解説もレコード評も全く載っていない。ほぼ無視。
 NG3.後藤由多加、渋谷氏とは異なり時系列がグチャグチャでいろんな史実がよくわかんね(爆)


[G1] ライブの写真が豊富だがどれも小さい。とはいえ良さげショットが多い。なんたって、あーた、これが長髪カーリーの見納めだよ。それと"人間なんてツアー"の進行表の写真があって拡大してみた。たぶん神奈川県民会館のものかな。
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 ・本編は11曲で、弾き語りからはもうアンコールという構成だったのね。
 ・高円寺〜リンゴのサブで僕の唄はサヨナラだけが用意されていたんだな。

[G2] ライブスタッフのほぼ全員の写真と一言が載っている
・森野さんもまだお若い
・ビデオで映るスタッフ人の名前と仕事がわかって楽しい
前から気になっていた原田真二にちょい似たスタッフ PAモニター小渕さんが語る「…60歳になっても素敵なLIVEを続けてください」…って73歳までやったんだよ、素敵なLIVEを。すごいっすね。

[G3] 歴代スタッフインタビューでついに後藤由多加
・これはNG3と一緒に第3回「がんばれ、ますらお派出夫会」でお送りいたします。なおインタビューにツッコミや文句を言うも、後藤由多加への俺の尊崇は揺らがないので念のため。

 会報5号は、これまでと違って、やや残念感が強い。しかし、いよいよ始まった90年代の新風は感じられる。いろいろなことが起きる90年代ではあるが、私はここで魂を込めて言いたい。90年代に駄作なし。

 次回は、第2回 「もっと掘り下げろ人間なんてツアー、もっと持ち上げろ176.5」(仮題)をお送りします。

2023. 10. 12

☆☆☆やりきった人たち☆☆☆
 前にも書いたがドイツで10年間がんばってきた知り合いのプロ・バレリーナがこの夏退団して帰国された。バレエなんぞ無縁の俺だったが、ローザンヌのネット中継に手に汗握り、オーケストラピット付の新国立劇場に感激し、舞台を降りると気が良くておバカなダンサーの兄ちゃんたちに来日の折に遊んでもらったりもした。この10年、無縁なりに存分に楽しませていただいた。

 引き留められ惜しまれつつの退団だったし、まだ20代なので、日本でもあちこちから踊って欲しいというオファーがくるらしいが、彼女は頑なに「踊らない」。踊れる喜びをいつも口にしていた彼女だけに、もったいない気がするのだが、彼女はもう「やりきった」そうだ。決心は固く結ばれている。
 俺も生活ができるなら仕事はとっとと辞めたいのだが、それはただ怠け者だからで「やりきった」などという境涯は全くわからない。「やり切った」と言える人の涼やかな心根を思うてみるだけだ。

 この日どこそこで踊ってくださいと言われて、当日チョコチョコと出かけて行って踊れるものではなく、何か月も前からその日のためにトレーニングし身体を作り上げて、リハーサルを繰り返し、当然、健康にも気をつけて、舞台環境も含めてその日にマックスの踊りを提供しなくてはならない。どんなに短い踊りでも、そういう全身全霊プロジェクトになってしまうとのことだ。その場で軽くでいいから、ちょっと踊って見せてよ…なんて、それはプロには到底できない相談だ。
 なので、彼女に会っても、ありがとう、お疲れ様という言葉を超えて「もう踊らないの?」「また踊るの観たいな」「これからどうするの?」のような無神経な言葉はとても投げつけられない。外野は静かにこれまでを胸に刻み、これから起きることを受け入れるしかないのだ。

…と、こんなふうに他人のことならよくわかるのだ(爆)。いや吉田拓郎も思い切り他人だ。しかしこれが拓郎のことになると「もう歌わねぇのかよ」「また歌うのが観てぇよ」「これからどうすんだよ」「シャウトしなくていいから軽く弾き語ってくれよ」という無神経なことをへーきで言ってしまう。言うだけでなく

  筆も使ひ果てて、これを書き果てばや。
                  (枕草子 清少納言)

 とことんしつこく書いてしまう、書き切ってみないとわからない鬼畜な俺なのだなぁ。

2023. 10. 11

☆☆☆今このときめきは☆☆☆
 「証明」というと奈緒だ。昨年1月のオールナイトニッポンで「凄い曲ですよ」といってこの「証明」をかけた。オフィシャルには「今日までそして明日から」が大好きで、この歌に励まされたと語っている奈緒。それはそれで本当なのだろうが、その彼女が「証明」をかけるところで、まるで本気で真剣を抜いてきたような殺気を感じたものだ。
 その奈緒が先月「徹子の部屋」に出演した際の録画を遅まきながら観た。生い立ちから経歴から知らないことばかりだった。苦労人なんだなぁ。亡くなられたお父様が名づけるあたりで「吉田町の唄」が浮かんだ。そしてもちろん拓郎の話は、ファンであるお母様の影響、今日までそして明日から、ah-面白かったのつま恋でのエピソードへと及んだ。
 そんな中で一番心に響いたのは、お母様と二人で拓郎のライブに行った話だ。開演前から二人でもうたまらなくて客席でボロボロ泣いてしまっていたという話だ。開演前のあの待ち時間に泣いたことはないが、あのときのファンの気持ちを純度を高めて増幅させれば、結局そうゆうことになる。…そうだった。開演前の客席での胸の高まり、そして開演して本人が登場した時の立ち姿のシルエットの衝撃、もう本人が歌う前からの、このいきなりクライマックスな盛り上がりこそがライブの醍醐味だ。ああ。
 あと、奈緒は、つま恋での拓郎との時間を「この一日があれば、これからどんな辛い事があっても生きていける、そんな一日」と評していた。奈緒ほどの体験はなかなかないが、それでもある、そんな貴重なとき。そんな僅かな時をつなぎせ合わせて僕は生きてる…それは浜省の歌か。
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2023. 10. 9

☆☆☆1970年のこんにちわ☆☆☆
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 このたびようやく初めて「太陽の塔」を見ることができた。「ようやく」というのは、この塔には20世紀少年の端くれである自分には特別な感慨があるのだ。小学校3年だった。ああ心の底から行きたかったぜ"EXPO'70"。"1970年のこんにちは"から53年。万感胸に迫るとはこのことだ。そうなんだよ、1970年だから、この塔は吉田拓郎のデビューと一緒なんだよ。
 近くで観ると適度に歳月感がにじんでいて、それがまた美しく、とにかくデカイ。ホラもう吉田拓郎と一緒じゃないか。昔、万博の開催中に、この高い塔のてっぺんの顔の部分に侵入して立てこもった男がいたよね。いやあ…この高さ、勇気あるな〜とあらためて思ったよ(爆)。私も吉田拓郎という高い塔に不法占拠しているみたいなものだ。あの勇気を見習いたい>見習うな、言ってる意味わかんねぇけど。

 そして後ろからのフォルムがまた素晴らしい。ぺギラみたいだ。知らんがな。
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 この背中はまた表の塔の威容とはまた別の何かを語りかけてくるような気がしてならない。太陽の塔に背を向けて…ああ今日の曲はこれで決まりだ。

 「証明」 (作詞・作曲 吉田拓郎 Sg「元気です」B面所収)

  太陽に背を向けて走れ
  風に向って逃げるもいいさ
  今を今と感じるならば 光も闇も 狂おしいほどだ
  闘えるだけでいい すべてを燃やせ
  負け犬になったら 路地へともぐりこめ
  消え入るような そんな生き方もある
  それも自分の何かだ  言えない何かだ
  確かめてみるがいい

  暗い暗い 路地が見える
  野良犬さえも臆病がって
  何処へ続く道かは知らぬ
  行ってみよう おのれの足で

 例えばいろいろ鬱屈した気分から聴いていたここのところの「Life」〜「純」〜「証明」。やっぱりすばらしい歌たちじゃないかとあらためて思う。それがまた砂浜に打ち上げられた流木のように殆ど知られずにひっそりとある。太陽のもとにあってほしい傑作たちだと心の底から思う。たとえ御大の旅は終わってしまったとしても、俺は拓郎とともに始まったこの太陽の塔の背中を見つめながら旅を続けるのだ>だから意味わかんねぇよ

2023. 10. 8

☆☆☆NG式☆☆☆
 もうカオスだな。まるで政治の劣化コピーじゃないか。そのうち自由なモノ言いもできなくなるような気味の悪さ。戦地動員の怖さも怒りも悲しみも表現できなくなった先達らの世を思い憂鬱になる。
 自分の気分を拓郎の歌に勝手になぞらえるのは、拓郎さんがどう思ってその歌を作ったかとは全く違うので、まことに失礼だとは思う。すまん。しかしイカレた俺の場合、金太郎飴のように、どこを切っても、ポキン、拓郎、ポキン、拓郎、拓郎の歌しか出てこないので許してくれ。ごきげんよう、達者でなァ。

 こうなってくると俺の気分は「Life」から「純」だ。過去何度かのトライの末よくぞ諦めずに2019年のステージでに歌ってくださった。いい歌だねえ。

 『純』  作詞 吉田拓郎

僕が泣いているのは とても悔しいからです
人の尊さやさしさ 踏みにじられそうで
力を示す者達は しなやかさを失って
ウソまみれドロまみれ じれったい風景でしょう
より強くしたたかに タフな生き方をしましょう
まっすぐ歩きましょう 風は向かい風

どけ どけ どけ 後ろめたい奴はどけ
有象無象の町に 灯りをともせ
どけ そこ どけ 真実のお通りだ
 
正義の時代がくるさ 希望の歌もあるさ
僕の命この世に 捧げてしまっていいさ

どけ どけ どけ どけ 情けをなくした奴はどけ 
生きる者すべてが 愛でつながれる
どけ どけ そこ どけ 正直のお通りだ

あなたの為の僕さ 悔し涙のままさ
たぎる情熱の僕さ ゆれる心のままさ

僕の命あなたに 捧げてしまっていいさ
僕の命この世に 捧げてしまっていいさ 

2023. 10. 5

☆☆☆この肩の重き罪を☆☆☆
 どうしたってあの記者会見のニュースには気持ちが萎える。俺ごときがエラそうに言ってもなんの意味もないが、かといって黙ってもいられないのでひっそりとコソコソ書く。

 とにかく478人という数は衝撃だ。もちろん数の問題ではなく、ひとりひとりの被害の深さこそが問題なのだが、それでもひとりひとりの深い被害が478人分というのは驚愕でしかない。全てが事実かわからないかもしれない。しかし全ての被害者が申告しているかだってわからない。だから怖ろしく、また心の底から気持ちが悪い。

 あそこで478人と聞いてまず記者団がひぇーっ!!とひっくりかえってどよめいて驚け。えらいこっちゃ、未来とかスマイルとか語ってる場合かよ!ともっと騒然となるべきだった。もっともっと取り乱す必要があったと思う。そうやって大人がみんなで阿鼻叫喚する姿をしっかり見せるほうが子供たちのためになるんじゃないか。しかし、さすが、多くの会見場のみなさんがルールを守って粛然としていらっしゃる。ルールというより脚本なのか?


 あれだけの巨大事業を営む大型企業だから、アーティスト/タレントに切り盛りできるレベルのことではない。昔、本気で会社の社長になったアーティストの大変な様子を一瞬垣間見たから想像がつく。あれだけ大規模の会社を動かすためには経営に熟達したオトナたちがガッツリ大挙して存在しているはずなのに、なんでアーティスト/タレントを盾にしてひとりも出てこないんだ。すべては裏にいる狡猾なオトナたちの描いた策略であるとしか思えない。
 
 とはいえ、この事件とは関係ない所属アーティスト/タレントには罪はないというが俺は全然そうは思わない。同じ事務所の仲間たちの悲劇を見て見ぬふりして、あるいは自ら口をつぐむこと、それはひとつの罪であり傷だよ。犯罪にあたるかあたらないかは別にしてそれは罪だ。もちろん情状は超絶あるんだろうけれど情状は罪の先にあるものだ。
 しかし罪人だから出てくんなとは思わない。アーティスト/タレントにはその罪と言うか傷を抱えたまま、なんというか活躍して欲しい。自分も被害者ヅラするのではなく、反対に被害者に寄り添うとか救済するとかそういう思いあがった上から目線でもなく、この罪とこの傷をどうしていいかわかんないまま抱え込んで右往左往したながら活動して欲しい。俺だって、いろんなことに見て見ぬふりをして生きてきてそうさオイラも罪人のひとりさ。
 それでも罪や傷を抱えてどうやって生きていゆくのか、それを模索する、それを心のどこかで忘れないアーティスト/タレントがいることは、たぶん俺のような罪人を含め迷える人々にとって、ひとつの大きな希望になるかもしれない。そこからより深い音楽やパフォーマンスが生まれるかもしれない。その結果、政治も世の中も含めて、少数派やひとりぼっちが脅かされない世の中に近づくかもしれない。だから今はこらえろ、いとしい君よ。ああ人生は回り舞台だ。

 それにもまして、被害者たちを守らなかったことはもちろん、その他のアーティスト/タレントたちをこんな見て見ぬふりの罪に追いやったオトナたちの罪こそ大きい。

 ここのところ、ずっと吉田拓郎の昔の会報を読んで、陣山さん、渋谷さん、そして後藤さんらスタッフの来し方を思うにつけ、いかに彼らがアーティストを守ろうとし、音楽のためにすべてを捧げようと奮闘していたかが伝わってくる。もちろんシロウトの俺には詳しい事情はわからないが、しかし少なくとも彼らは、アーティストを盾にしたり、アーティストを傷つけたり、アーティストとは別の帝国の権益を守ろうとするような姿には見えなかった。それはマネジメントだ、エージェントだという議論以前のことなのだ。彼ら先達のことを思うと、隠れているオトナたちに「アンタたちも音楽が好きでこの仕事に入ったんだろう!!」と言ってやりたい。ああ、亡くなったKくんの言葉だ。

 こんなときやっぱり聴きたくなる。この曲にすがりたくなる。ああ名曲ばい。そう、勝手なルールを押し付けないでくれ。人が人として息づいているんだ。もちろん作者の意図とかは別にして、なんか俺には妙にハマるのだが。

    Life

 僕は間違っていたんだろうか
 その日1日にすべてをかけて
 ただひたすらに走り過ぎれば
 生きる事くらいうまく行く筈だと

  河の水が海へ出る様に
  心のままに人ごみをすりぬける
  そんな自分を許し過ぎたんだろうか

 愛を巧みにあやつる人よ
 お前の心に住みついた悪魔は
 いともたやすく人生をもて遊び
 正義の仮面を素顔に塗り代える

  裏切りの日々に酔いしれて
  愛するわずらわしさも知らないで
  多くを語るな 何処かへ堕ちて行け

 思い通りに生きていたい
 誰もが願っているけれども
 ただ気がついたら肩を落として
 レ−ルに添って歩いているだけ

  横道にそれる者をあざ笑い
  仲間同志で傷をなめあって
  1人じゃ何も出来ない みんな美しいね

 仕組みがあるから生きるわけじゃない
 勝手なル−ルを押しつけないでくれ
 こちらを向けと言われて背いても
 人が人として息づいているんだ

  やるせなさも通わない世の中に
  いつまでも流されてなるものか
  悲しみの河に今漕ぎ出よう

 あゝ自由をこの身で感じたい
 失ったものは記憶の中にいない
 遥かな旅を今終えた人よ
 僕に逢って話してくれないか

  淋しさが今日も又
  一つずつ消えて行く
  誰のせいでもないんだろうけれど

2023. 10. 2

☆☆☆柿食えば杮落として時はゆく☆☆☆
 
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 急遽行けなくなったチケット持主に代わって"ゆず"の「横浜Kアリーナ」の"柿落とし"ライブに行った。新設された未来空間のようなアリーナ、2万人の若めの観客にすっかり気圧されてしまった。
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 今までは他のライブに行くたびに「ああ、ここで拓郎が演奏してくれたらな…」と必ず妄想したものだが、このKアリーナで吉田拓郎が歌う姿が思い浮かばなかった。もちろん聴衆としての自分も含めてだ。少し切なくなる。
 ということでアウェーもいいところで、淡い青の公式Tシャツで揃えた若い人々の間で、申し訳なくてホラちぢんじまってるだろう〜。はっ。このTAKURO YOSHIDAとYUZUが並んだこのTシャツ着ていけばよかったと後悔したがもう遅かった。
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 とはいえ、ゆずの歌はどれも涼やかな風が吹いているかのようで、アウェーの俺にも音楽が心にすんなりと入って来て気持ちよかった。そのうえ照明もショウアップも豪華で、俺までが歓待されているような気分になった。そもそも、ゆずはメジャーデビュー時は、松任谷正隆のプロデュースで島村英二のドラムという…いわばこの2万人の観客に対して俺は兄弟子みたいものじゃないか(爆)。なんとなく元気になり、長年培った兄弟子のライブ魂をみせてやろうと調子にのって、テンポのずれた手拍子とタンバリンを叩きまくって…多分周囲の顰蹙を買ったはずだ。すまん。しかし、楽しい…すげー楽しいじゃないか。いいなぁライブって。いいなぁ推しって。

 ♪だから友よ老いていくためだけに生きるのはまだ早いだろう(REASON)

 今夜、ゆずが俺に向けて歌ってくれているのだと確信した>いや、絶対違うと思うぞ

 最後の最後は「栄光の架け橋」。これも原曲は島ちゃんのドラムなんだよな。耳に馴染んだ名曲だ。このあたりでもうおっさんは泣きそうだった。

 悲しみや苦しみの先に それぞれの光がある
 ……
 いくつもの日々を越えて 辿り着いた今がある
 だからもう迷わずに進めばいい
 栄光の架橋へと
 終わらないその旅へと
 君の心へ続く架橋へと・・・

 これは、拓郎を失い(いや生きておられるけど)、自分もどん詰まりになり、やさぐれているこの俺へのまさに励ましじゃないか。俺に旅を続けろとゆずは伝えたかったのだ>いや、だから違うって
 2万人が魂に刻みながら歌っている。外様の俺にもよくわかった。ああ、こんな光景は久しぶりに観た。俺も一緒に歌いながら、勝手にあのライブたちの日々が走馬灯のように巡った。
 ここのところずっと渋谷氏のインタビューを読みながら、コンサートツアーの草創の時代のことを考えていたが、彼らが身を挺して撒いてくれた種が、しっかり生きていて、ここでも美しい花を咲かせている。感傷ではなくてそう確信した。そう思うと…ああ生きていて、生きててよかったと心の底から思った。俺はまったくなんにもしてないだんけどさ、我が人生に悔いはナシと誇らしく思うのだ。

 
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2023. 9. 30

100分de名著「マガジンT(第4号)」を読む
第四話 渋谷高行 あんたのバラードD 渋谷事件簿

☆こころに残る渋谷事件簿第1位 「事件としてのライブ'73」

1 ライブ'73の決心
 何から何まで一人で現場を切りまわす日常のうえに、例えばギター盗難事件、例えば金沢事件と災難のようなアクシデントが次々と降りかかる。しかも渋谷氏の当時の月給は3万5000円だったと本人が語っている。これだけ有能な大学生なんだから大企業の就職もたくさんあったはずだ。なぜ渋谷氏はマネージャーの道を選んだのか。まぁ大きなお世話だといえばそのとおりなのだが(爆)。インタビューから渋谷氏の言葉を探してみる。

 '73,'74,'75っていうこの3年間でなんか全部決まったんだろうね。きっとね。
 ただ'73年のその「ライブ'73」っていうのがきっかけだったことは確かだね。あれはなんかこう決心させるものがあったね。

 
 「『ライブ'73』」で決心をした」と渋谷氏は語る。この会報4号のインタビューは、では「ライブ'73」の何が渋谷氏を決心させたかを問い詰めていない。詰めが甘い。なぜそこを聞かないんだインタビュアー。
 …とインタビュアーに悪態をつく俺だが、2014年にライブスポットで渋谷氏をお見掛けし握手していただいたことがあった。突然のことにテンパッた小心者の俺は渋谷氏に「拓郎さんの亡くなったお父さんに顔が似てらっしゃるって本当ですか?」と尋ねると渋谷氏は「いや、もう今は似てないでしょう」と少し笑って去って行かれた。あ゛〜貴重な機会に俺はなんてくだらねー質問しちまったんだ、あ〜この会報を読んでいれば、もっともっとお伺いすることがたくさんあったのに、ムキーーーと後悔で悶絶した。

2 あんたがくれた愛の日々を
 まぁ俺の話はどうでもいい。インタビューに当時の渋谷氏の心根がうかがえる言葉を探してみる。

 やること、やることが全部新しくってさ…あの時加藤和彦さんが初めてPAを日本に持ってきてシステムでやり始めて、すごいなぁーっと。…じゃあユイでPA持とうっていう。…自分たちで考えて自分たちでやっていくそういう楽しみがあったんじゃないかなぁ。

 もしかするとライブ'73は、初めて本格的にユイのPAシステムが稼働し新しい音楽世界が広がった記念すべき事件だったのかもしれない。

 端的に言えば吉田拓郎のファンだった自分が吉田拓郎の仕事をしているってことなんだろうね。やることがみんな新しいっていうか珍しいっていうかなあ。トラブルひとつにもなんか新鮮だったというか、本質的に嫌いじゃなかったんだろうね


 12年を超えるマネージャー生活を経ても、なお自らを「吉田拓郎のファン」だと何のてらいもなく口にする。当たり前かもしれないけれど、吉田拓郎のことが本当に大好きだったんだという事実が胸をゆさぶる。そしてトラブルまでもが新鮮だったという言葉に心の底から打たれる。 

 照明にしてもPAにしてもねぇ舞台美術にしても拓郎の場合(略)3か月くらいしてツアーが終わるとね、ものすごく成長しているのね こりゃあやっぱり楽しみだったね、人が育つという…


 「成長」っていいな。同じ事象であっても渋谷氏の目に観えていた人や景色はまた違った輝きを放っていたのかもしれない。結局、マネージャーを本職として選んだ渋谷氏の気持はたぶんこんな↓だったのではないか(爆)。
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 日常が大変だろうが、困難な事件が起きようが、給料がいくらだろうが知ったことか。拓郎が目の前で真っ二つに切り開いてくれた新しい海…さぁこの海の中の国境を超えて怒涛の進撃を始めようぜ!…そんな気分だったのではないか。あくまで個人の感想です。それこそすべての根底にあるのは渋谷高行の「ah-面白かった」…なのかもしれないと勝手ながら思うのだ。

3 魂のワンラストナイト
「奥さんは変わってもマネージャーは変わらない」ということで、1973年から1985年まで渋谷氏は吉田拓郎のマネージャーとして勤めた。その最後の大舞台は"つま恋'85"だった。渋谷氏は拓郎にいわば最後の企画書を提出した。

 俺なりに「ワン・ラスト・ナイト・イン・つま恋」ってタイトルをつけて企画書作って出したら、このタイトルいいじゃないかっていってくれたしね、まぁこっちにしてみれば「どうだ!」っていう自分の意見がこの中で力になっている…


 「ワン・ラスト・ナイト・イン・つま恋」これはマネージャーの渋谷氏の命名だったのだ。

   あんたの歌う あの歌を
   今夜は あたいが 歌ってあげる
 
 これは渋谷氏の拓郎への渾身のお返しだったのか。渋谷さん、どうかいつまでもお元気でご自愛ください。ライブ'73の何かあなたの決心を結ばせたのか、いつかどこかで語ってください。♪あんたがくれた愛の日々を今さらありがとうと叫びたい。
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      (「Takuro Yoshida One Last Night In Tsumsgoi1985」八曜社 p.13)
 さて長かった「会報4号」も今回で終わりだ。4号はなかなか充実した記事が多くて時間がかかってしまったが、まぁこんな思い込みだけの長ウザ日記(謙遜だ)、別に先を急いだところで何が待っているわけじゃない。それではまた。

2023. 9. 29

100分de名著「マガジンT(第4号)」を読む
第四話 渋谷高行 あんたのバラードC 渋谷事件簿

☆こころに残る渋谷事件簿第2位 "翼よ、あれが金沢の灯だ"

1 新幹線はうんと速い
 すまん。事件といえば金沢事件は避けては通れない。言うまでもなく陰惨な事件である。何度も言うように当時の渋谷氏は、拓郎のマネージャーになったばかりの大学生だった。これまで観たとおり超絶有能な若者だったが、刑事事件であり社会的事件でもあるこの金沢事件に対峙するのはどれだけ厳しいことだったか。しかしそれでも渋谷氏はあえて突撃した。

 ある朝、本人から電話がかかってきて警察が来たって。「金沢に護送される」っていうからさ「なんだそりゃ」って。で、同じ新幹線で一緒に乗って行って、金沢までずっと一緒で…


 拓郎が護送される列車に果敢に突撃してゆく渋谷氏。マネージャー魂というか、もう魂のマネージャーである。車中で拓郎と話をするが、いったい金沢で何があったのか、何の容疑なのかが二人ともまったく思い出せない。渋谷氏は言う。

 (金沢では)一緒にいましたよ、ずーっと。芸能界でいう付き人みたいなもんだからね。あっちのステージのバラシが終われば、すぐに拓郎のところっていう、だからずっとべったり一緒でしたよ。そういう意味では一番状況はずっとみてたんじゃないかな。だから全然なんだかわからなかったのねあの金沢事件っていうのがね。


 結局、二人でいろいろ話してもわからない。きっと酔ったうえでのケンカじゃないか、だったら謝らないとなぁ…身に覚えのない二人だからそれほどの緊迫感はなかったという。
 しかし金沢中署に着いて拓郎は勾留され、渋谷氏も被疑事実を知らされ驚天動地の事態となる。「どう考えてもあり得ない話」だと渋谷氏は愕然として警察署に立ち尽くす。

2 吉田拓郎を奪還せよ
 すぐに夜行列車で後藤由多加が着き、他方でCBSソニーが依頼した久保利英明弁護士がソニーのプライベートジェットで警察署に駆けつけた。…ジェット機か、すげえ。高須クリニックの院長みたいだ。>あれはヘリだ。
 警察署で待ち続けていた渋谷氏は、久保利弁護士に会うなり、これまでの経緯と新幹線の中で拓郎とトレースした金沢での状況を伝えて、そんな容疑はあり得ないと久保利弁護士に訴えた。久保利も「なんだそれは!」と核心を理解し、弁護活動が開始された。

 俺が偉そうに言うことではないが、刑事事件は時間との勝負だ。まして遠隔地である金沢だし、久保利弁護士も拓郎たちとは面識はなかった。だから普通だと最初の事情把握には時間がかかる。しかし渋谷氏が新幹線に飛び乗って、拓郎と二人で金沢の状況の記憶を喚起して整理し、その情報をいちはやく久保利氏に伝えたことで、どれだけ無駄な時間が省かれたことか想像に難くない。何度でも言うが、それをひとりの大学生がやってのけたのだ。渋谷氏、アンタはなんて頼りになるヤツなんだ。>失礼だろ、すまん。

 新幹線に飛び乗った渋谷、追いかけて夜行列車で金沢入りした後藤、プライベートジェットで駆け付けた久保利弁護士、そして金沢中署を取り囲んで歌ったすばらしきファンの方たち…こうして「史上最大の吉田拓郎奪還作戦」が展開した。そしてその甲斐あって勾留満期を待たずに拓郎は不起訴で釈放された。そして釈放後の吉田拓郎が挑み仲間が迎えた神田共立講堂ライブとそれを支えた亀渕昭信氏そして拓郎からの逆告訴を諫めた御母堂の言葉…もうここでは書ききれねぇ…ああ…拓郎には怒られるだろうが、この顛末、だれか映画にしろよ。タイトルは「金沢は燃えているか」でどうだ。>どうだ、じゃねぇよ すまん。他人様の不幸を面白がるみたいでいろいろ不謹慎だとは思う。しかし、この件で垣間見えると人々のドラマは封印して忘れてしまうにはあまりに素晴らしすぎる気がしてならない。

3  ひとりぼっちの渋谷氏
 会報4号の渋谷氏のインタビューの金沢の話はそこまでだが、それとは別に石原信一の吉田拓郎ドキュメント「挽歌を撃て」の中に、渋谷氏に関する切ない一節があって、俺は忘れられない。石原信一が「事件後、金沢から戻った渋谷マネージャーと飲み明かした」というくだりだ。渋谷氏と石原信一は旧知の仲だったらしいが、それでも渋谷氏は事件の詳細については部外者である石原信一にもほとんど語らなかったという。しかし、その夜、渋谷氏はただひとつのことにしきりに苦悶していたという。

「女性週刊誌が、ぼくの拓郎に対するコメント、嘘を書いたんですよ、嘘なんですよ」

 酔っぱらった渋谷氏は何度もこの話を繰り返していたという。それは週刊誌の取材に「自分は拓郎のマネージャーになったばかりなので、すべてを知っているわけではない」と答えた発言を「拓郎の言動には時々理解できないことがある」と改変されて拓郎のマネージャーの発言として喧伝されたのだ。「こういうのは告訴できないんでしょうか?」…苦しんでいる渋谷氏の様子が痛々しい。

 若き敏腕マネージャーとして凄い仕事をやってのけていた鉄の男=渋谷氏だが、…それでもひとりの傷つきやすい脆弱な若者だったのだ。そんな素顔がのぞく。やはりひとりの大学生が背負うにはあまりに過重な荷物だったのだと思う。…渋谷さん、あなたは本当によくやってくださった。だから後世のファンがこうしてファンとしていられるのだ。渋谷氏はもとより史上最大の奪還作戦に関わられた方、応援されていたすべての当時のファンの方々に心の底から敬意を表するものであります。
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2023. 9. 28

100分de名著「マガジンT(第4号)」を読む
第四話 渋谷高行 あんたのバラードB 渋谷事件簿

☆こころに残る渋谷事件簿第3位 おきざりした楽譜たちは
 とあるツアー(1979年)で、スタッフが拓郎とバンドの楽譜を一式袋にいれたまま前の会場に忘れてきてしまう事件が起きた。気づいた時はコンサート当日で、これから送ってもらっても間に合わない。どうすんだこりゃとオーマイガー!という大事件だ。…これを読んでおられる大多数の俺を含めたジジババの皆様は>すまん、おわかりでしょうが、もし万が一、若い方が読んでいらしたときのために説明しよう。

Q: 楽譜がないのはそんなに大事件なのですか?

A:もちろん大事件です。特に拓郎の場合は大変です。お近くのジジババに聞いてごらんなさい。ステージで一曲歌うたびに譜面台からハラリと譜面を捨てるあの姿…すげーカッコ良かったんだから。たまに次の曲も一緒に捨てて拾う姿(爆)…これもまたチャーミングだった。とにかく譜面がないとダメなのよ。

Q: メールとかフアックスで送ってもらえばいいじゃないですか?

A: 時は1979年です。メールもファックスもまだありません。ファックスの普及は80年代の中盤以降になります。1989年の作品「30年前のフィクション」で"サヨナラがその後ファックスで届いたよ"という歌詞がありますが、あれはファックスが時代の先端をゆく文明のアイコンとして使われています。その10年も昔のことなので存在していません。当時はテレックスでしょうか。これで楽譜を送るのは難しいと思われます。"A♭、B♭、C、C"みたいな歌だったらよかったかもしれませんが、まだ26年も先のことです。


 楽譜は、電話で読み上げて書き取って本番までに総動員で全部再現したらしい。すげえ。ということで譜面が袋ごとまるっとない…この大事件は「吉田拓郎・終わりなき日々」 (田家秀樹著・角川書店/2007)でも、忘れたご本人ステージ舞台監督の宮下氏が、若き日のやらかしとして述懐している。楽譜がなく困り果てたバックミュージシャンに不穏な空気に満ちた。宮下氏は拓郎にぶっ飛ばされることを覚悟していたところ、なんと拓郎は彼を連れてミュージシャンたちに自ら深々と頭を下げてくれたという。宮下氏のみならず読んでいる俺までもが涙ぐんでしまう胸に刺さる話だった。

 それは現場でこの顛末を経験した渋谷氏も同じだった。

 その時に拓郎がそのスタッフをメンバーのところ連れて行って「申し訳なかった」って「俺のスタッフだから許してやってくれ」って。この人すごい人だなぁと思ったんだよね。


 四六時中表裏ともにアーティストを観ているマネージャー。とくに拓郎さんは大変そうだ(爆)。でもそのマネージャーが「この人すごい人だなぁ」とつぶやくその言葉の重さを思う。渋谷氏は続ける。

 みんなそれぞれあるんじゃないかなぁ、スタッフとしてついていることによって、あの人からなんか…

 きっと吉田拓郎の周囲と現場はそういう瞬間が溢れていたんだろうな。

 照明にしてもPAにしても舞台美術にしても、拓郎の場合(略)3か月くらいしてツアーが終わるとね、ものすごく成長しているのね こりゃあやっぱり楽しみだったね、人が育つという…


 拓郎の周りに集まって人々が拓郎をとおして成長してゆく、その様子が「楽しみだった」と渋谷氏は語る。あのおっかない怒れるマネージャーはそんなふうに拓郎のことを観ていたのだ。「事件」は「事件」として大変だったのだろうけれど、渋谷氏にとっては苦難や苦痛ではなかったのかもしれない。楽しかったって。飛躍するが、やっぱり僕らが吉田拓郎を選んだのは間違いなかったのだ…そういう晴れがましい確信が、渋谷氏の言葉と行間に満ちている。
 いいな。吉田拓郎っていい。たぶんすごくいい。
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2023. 9. 27

100分de名著「マガジンT(第4号)」を読む
第四話 渋谷高行 あんたのバラードA 渋谷事件簿

☆こころに残る渋谷事件簿第4位  篠島沈没事件
 79年の篠島アイランドコンサートの時に渋谷氏は、都合2か月間も島にいたらしい。とにかくステージ設営から島民、漁民との根回しや関係各方面の窓口業務に至るまで渋谷氏は大奮闘だった。
 それにしても人口2000人の島に、実際に3万人くらいの人間がうじゃうじゃ乗り込んできたのを目の当たりにしたときには島の皆さんは卒倒したらしい。

 「島が沈む」ってばーさんがいるしさー。お寺行って「なんみょーほーれんげーきょー」っているばーさんもいるしさー。「おばーさん島沈まないから大丈夫だよ」って


 ご苦労様でした。良かったです沈まなくて。渋谷氏がコンサートの制作とミュージシャンとファンと島民の方々とあらゆるものの板挟みにあったことは想像に難くない。思い出す渋谷集会 http://tylife.jp/chiisanasakebi.html#19790726
 これはセイヤングでの拓郎の話だ。篠島の準備会議で拓郎が、もう忙しくてテンパっている渋谷氏に対して「なあ、前乗りでやってくるファンの宿泊やトイレの世話とかどうするんだ?」と聞いたら、渋谷氏はそんなの知るかっ!!そんなやつらは野宿して一緒に働けバカヤロウ!とブチ切れたらしい(爆)。さすが怒れる渋谷。
 これもセイヤングでのハナシだが、篠島コンサートが終わっても、渋谷氏は一週間、島に残ってゴミをずっと焼却していたらしい。炎天と火に長時間あたりすぎて頭に血がたまって倒れて病院に行っているとのことだった。もはや笑いごとではない。わが心の篠島のことを思う度に心の中でありがとう渋谷さんと唱えることを忘れないでいたい。ある日、篠島の桟橋に渋谷氏の銅像が建立されていても俺は驚かない。

 今日の聴きたいこの一曲。「アイランド」(シングル「流星」所収)
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2023. 9. 26

100分de名著「マガジンT(第4号)」を読む
第四話 渋谷高行 あんたのバラードA 渋谷事件簿

[前回までのあらすじ]
 73年1月に大学生のままマネージャーとなった渋谷氏は、ユイの創設メンバーとともに新しい音楽の日常を構築するために奮闘していた。そこにさまざまな事件が吉田拓郎とマネージャーとスタッフに襲いかかってくる。このインタビューに出てくる事件だけでも数多いので小出しに拾ってゆくことにした。

☆こころに残る渋谷事件簿第5位  楽屋で拓郎のギターが盗まれる
 渋谷氏が初めて拓郎について地方に行った四国で本番前に拓郎のギターが盗まれた。マーチンD-35だ。渋谷氏が楽屋に戻ったら、子どもが楽屋の窓から飛び出していくところだったらしい。あわてて追いかけるが夜の闇に見失ってしまう渋谷氏。楽屋に戻ると「ギターがない」。拓郎は共演者の小野和子のギターを借りて歌ったという。ラジオの松山放送がギター盗難事件を報道してくれて、ギターケース抱えて走ったよ…というこの子どもは1週間後、母親に付き添われて返しに来たらしい。マーチンD-35は戻った。
 呼びかけてくれるラジオ、お母さんにつきそわれて返しに来る子供…なんかすごく昭和らしい落ち着きでうっかりすると心が和んでしまいそうになるが、初めてのツアーで起きたこの事件に渋谷氏は前途多難さを感じ空を仰いだらしい。がんばれ渋谷。

 今日の聴きたいこの一曲。
    「戻ってきた恋人」(アルバム「今はまだ人生を語らず」所収)
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2023. 9. 24

100分de名著「マガジンT(第4号)」を読む
第四話 渋谷高行 あんたのバラード@
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1  怒れる渋谷降臨!
 連載の歴代スタッフインタビューは、会報3号での陣山俊一氏に続き、渋谷高行(元)マネージャーである。俺にとってマネージャーといえば、どうしたって「渋谷」なのだ。「なぁ、渋谷」「おい、渋谷」…拓郎の声が耳に残っている。渋谷氏が♪あんたに あげ〜た〜愛の日々を〜 今さら 返せ〜とは言わないわ〜と歌いながら、意味もなく怒りまくる(爆)という深夜放送セイ!ヤングのコーナーも大好きだった。たった3回で終わってしまったけれど。
 鉄壁のマネージャー、怒れるマネージャー、死んだ父親に顔がそっくりだと拓郎さえも恐れるマネージャー、金沢、つま恋、篠島、草創期の数々の事件を最前線で戦ったマネージャー…もはや生きた伝説だ。しかしその素性と素顔は殆ど知らないままだった。その意味でこのインタビューはためになった。

2 若い人
 もともと拓郎のファンでもあった渋谷氏は立教大学法学部在学中の1973年に草創期のユイ音楽工房に入社し、大学4年生で拓郎のマネージャーとなった。えっ、あの金沢事件の時とかライブ73の時は、まだバリバリの大学生だったのか。思えば陣山俊一、後藤由多加、みんな学生だった。ただ渋谷氏だけはガサツな早稲田ではなくオサレな立教というところが意外だ。1974年2月の大学卒業試験と拓郎に同行するボブ・ディラン&ザ・バンドのロス公演が重なったために渋谷氏はそこでカタギの就職をあきらめユイに骨を埋めることになる。

3 道なき道を行くキャラバン
 陣山俊一のインタビュー(会報3号)にもあったとおり、前例のないところをごくわずかの若者たちだけで手探りで切り開いてきた、そういう気骨がヒシヒシと伝わってくる。道なき道をゆくアーティストのマネージャーもまた道なき道をゆかなくてはならない。しかも一人でだ。

 …会場は押さえました。神田共立講堂です、というとそれに目指して じゃあチケットはいつ発売していくらにしよう。ポスターは何枚作ってどういうポスターにしよう、チラシはどうしようっていうのを全部一人でやるのね。

 (拓郎から)こういう形でやりたいからっていうのをもらって、で電話をしてね。だから松任谷君のところなんかもよく電話したもんね。いついつからまたコンサートやるんでお願いできないかと。マンタがやってくれる場合は、じゃあドラムは誰、ギターは誰、ベースは誰とかいってマンタが集めてきてくれる…


 そしてライブの日の渋谷氏のa dayが俺には刺さった。胸が熱くなって仕方なかった。

 …一人で全部やらなきゃいけないってことがあるじゃない? まず朝全員起こして、羽田に集合させて会場連れて行って。会場に連れてく前にホテルとか旅館に連れていって待機させて、で自分は会場に行ってセッティング手伝って、セッティングが出来上がった頃にみんなを連れてまた会場にいって、でリハーサルをさせて、出前を取ってあげてごはん食べさせて、で、そんなことをとどこおりなくやって(笑)終わって着替えさせてホテルに連れて帰って、ちょっと30分ぐらいまってもらって、会場にもどってバラシをやって積込みをやって、それでホテルに戻ってね。その時はもう、主催者の人と食事に行ってるわけじゃない?で、あとを追っかけて行ってそういう生活だからさ… 

 後はチケットの販売とその精算。まだ全国すべてに今のような発券システムがないわけですから、事前にレコード店とかを廻ってチケットを預けるわけですよ。そしてコンサート終了時にチケットの精算。当時は現金精算でしたから、その日のうちにホテルで収支計算をするわけです。そんな日々の繰り返しでした。(※ヤングギタークロニクルP.180)


 一学生、一若者にここまでのことができるのか。自分の同年代の頃を省みてとても考えられない。

4  そして世界はつくられる
 現場の苦闘はやがて音楽界のシステム改革にもつながってくる。これは、会報のインタビューではない別の雑誌の渋谷氏のインタビュー記事からの引用だ。

 年間150本以上のコンサートやイベントに出演していて、それも、今日が北海道だったと思うと、明日は四国とかね。そしてその合間にレコディングする。と言うムチャなスケジュールだったんですよ。ようやく自分で拓郎のスケジュールを管理できるようになってやったことが、ライブを春・秋に『コンサート・ツアー』として組むと言うことと、夏に『レコーディング』というローテーションを決める事でした。(※ヤングギタークロニクルP.180)

 コンサートツアースタイル『演奏者やスタッフ、PA機材、照明機材、楽器などをひとつのパッケージにまとめて同じチームで各地を廻る』そんなスタイルをとったのは日本では拓郎がはじめてでしょう。機材の搬入、搬出の手順から全てにお手本がないわけですから手探り状態でしたね。また、ドラムを高くするとか、舞台上にステージを組んだ演出をはじめたのも拓郎が最初だったと思います。同じチームで各地を廻ることで日程的にも無駄のないコンサートスケジュールを組むことができるようになったんです。(同P.137)


 吉田拓郎が始めたコンサートツアー。但し、それは拓郎や後藤由多加の号令一下で作られたものではなく、アーティストとスタッフの現場で泥沼のような格闘の中から生まれ落ちたものなのだと思い知る。

 この渋谷氏のインタビューに胸が熱くなるのは"昔の人は偉かった"、"創業者一族"は素晴らしかったという美談だからではない。たぶんない。ひとりぼっち、アブレ者、少数派が、本気で描いた音楽と世界の美しさみたいなものに感動するのだと思う。
 そして、なによりも私たちが愛してきた吉田拓郎だけでなく、彼を粉骨砕身で支えた人々の営みもまた素晴らしいものだったのだということが嬉しい。数あるミュージシャンから"吉田拓郎"を選んだ私達は、間違いなく素敵なLuckを引いたのだ。誇らしいじゃないか。

 さて、このような熾烈な「新しい日常」の構築のみならず、数々の事件が吉田拓郎とマネージャーとスタッフにこれでもかと襲いかかってくるのであった。つづく。

2023. 9. 23

☆☆☆和菓子の足音☆☆☆
 私も"おはぎ"は"こしあん"です。ブログでお彼岸のしみじみとしたお話を読んで、私もたまらずに近所の和菓子屋に行ってみた。"こしあん"のおはぎはあったが、なんと"すあま"がなくなっていた。この和菓子屋では製造中止とのことだった。昔も書いた気がするが、私にとって和菓子の帝王は"すあま"だ。"すあま"が"吉田拓郎"だとすれば、"こしあんのおはぎ"は"南こうせつ"くらいに位置づけられる>意味わかんねぇよ
 和菓子屋の主人によれば売れ行き不振だったとのことだ。この近所で"すあま"を好むのは自分くらいだったらしい。子どものころから"すあま"好きの自分は変なものが好きな変なヤツだと冷笑され続けてきた。だから孤独なのは平気であるが消えるのは悲しい。数を注文すれば作ってくれるとのことだが、注文生産してもらったら、それはもう"すあま"ではない。やはり店頭にさりげなくあってこその"すあま"なのである。

 和菓子といえば吉田拓郎のかつての著書の一文で
 「ツルの玉子」という菓子がある。死んだ親父の土産物はいつもこれ一点ばり。そのせいで、いつの間にか甘いものがダメになったような気がする」(吉田拓郎「明日に向って走れ」より)

 というくだりがいつも気になっていた。
 実際に「つるの玉子」という岡山の銘菓がある。まさにつるの玉子のまあるいお菓子だ。これのことだろうと思っていたが、はたして鹿児島から広島にやってくるお父上が、岡山の銘菓を買うだろうか。時は昭和20年代である。デパートの全国物産展なども催されていたとは思えない。
 ここで博多に「鶴乃子」というこれまた銘菓がある。こちらも玉子を彷彿とさせるお菓子だ。これだとちょうど鹿児島から広島への中継地点である。どっちなんだ。それとも両者とも違うものだったのか。既にファンの間で議論された問題かもしれないが気になるところではある。

 ということでお彼岸だ。何はともあれ和菓子をお捧げして向こう岸に行ってしまわれた人々のことをしみじみと偲びたい。

追)…って、おーっとこの日がすぐに出てこないなんて、俺もヤキが回ったぜ。こっちは彼岸じゃなくて此岸だ。
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2023. 9. 17

100分de名著「マガジンT(第4号)」を読む
第三話 観音崎よ、どてっ腹をぶちぬかれちゃったね

1 謎の仮タイトルたちを追う
 会報4号には「観音崎日記」と題するレポート記事が載っている。観音崎マリンスタジオでのニューアルバム「176.5」のレコーディング風景が記されている
 気にかかるのは、完成した「176.5」では見ないタイトルの曲があることだ。たぶん仮タイトルかアウトテイクのどちらかだと思われる。

・「星の鈴/蜜の糸」…コレは「星の鈴」に違いない。

・「消えた街」…え?
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…それは「狙われた街」だろ>特定の人向けのネタはヤメロよ。すまん。たぶん"30年前ならSFの街〜"という「30年前のフィクション」のことだと思われる。

・「LAST SONG」…これはものすごく時間をかけて作られている様子だし、ステージのラストだったこともあって「俺を許してくれ」のことだと思われる。

・「DEAR MY FRIEND」…これがわからん。日記のヒントから探ると@森雪之丞の作詞A男同志の友情Bバラード…ということになるが、該当作はこのアルバムには不見当である。…この条件をクリアしそうな曲は、1994年にJリーグのサンフレッチェ広島のテーマ曲として西城秀樹に提供された「女神が微笑む時」(作詞:森雪之丞/作曲:吉田拓郎/編曲:渡辺格)〜おおー格さんだ〜ではないかと思うが、ずいぶん時間が経っているし自信はない。

2 DEAR MY FRIEND
 観音崎日記で胸が熱くなったのは島村英二のくだりだ。このアルバムはドラムはすべて打ち込みなので、島ちゃんのプレイするパートはない。それでも島ちゃんは激励にやってきた。

 この日、島ちゃんこと島村英二が突如スタジオ来襲。来る途中、車が第3京浜でエンコしたのにもめげず、なんと電車に乗り替えて夜11時過ぎに現れた。もちろんこのあとは深夜までパワー全開の盛り上がり。翌日仕事のため島村氏は午前中に東京に戻る。寸暇を惜しんで、わざわざ遠くまで来てくれた島村氏の拓郎さんに対する友情を感じました。


 このさりげないくだりがしみじみと心にしみて、うっかりすると泣きそうになる。翌日仕事なんだから、車がエンコしたら普通行かないだろ。
 そうだ、観音崎スタジオのことは「ラジオでナイト」でも語っていた(第73回 2018.9.23の放送より)。

 この隣のホテル、京急ホテルだったか、このスタジオからホテルのプールが見える。夏とかは、若い女の子の水着姿で溢れていて、みんなレコーディングどころじゃなくて、「おおお」とか言って、スタジオの窓にすずなりになって点数つけたりしている(笑)。

…はーーそれで島ちゃんは寸暇を惜しんで来たのかもしれない(爆)

 モータウンスタジオも、専属アーティストがいてサウンドが固定化している。そのサウンドを希望するミュージシャンがそこに行く。こういうのは日本にはないな。例えば島村英二、エルトン永田、中西が観音崎スタジオに住んでいたりとか。そこのスタジオでは、どんなミュージシャンでも、彼らが迎えてくれるという。そうなると観音崎マリンスタジオの音というのが歴史に残っただろう。どうして居座らなかったんだよ、自分じゃないから言うけれど(笑)、島村、エルトン、おまえら観音崎に住めよ。


 島村、エルトン、おまえら観音崎に住めよ。…俺なんぞにはわからない深い絆を感じる。拓郎の理想の音楽環境が垣間見える。拓郎はそういうスタジオが好きなのか…そういうスタジオにいる拓郎が俺も好きだ。
 まさに「DEAR MY FRIEND」…可能性なきにしもあらずということで「女神が微笑む時」を聴いてみよう。

 僕らはそっと星空に抱かれる
 未来に運ぶ箱舟のように
 ……
 Heart to Heart この胸に声は響く
 Dream to Dream 夢を信じあえば
 きっと 僕らに女神は微笑む

…とにかくすべての推しも推さるるも含めた吉田拓郎に関係する皆皆様に女神が微笑みますように。

さて会報第4号 次回最終回
  第四話 「渋谷高行…あんたのバラードに涙する」をお送りします。

2023. 9. 15

100分de名著「マガジンT(第4号)」を読む
第二話 "人間なんて"のとらばーゆA

 会報4号でのリメイク話ばかりに反応してしまったが、この時期、吉田拓郎は打ち込みリメイクの"落陽"や"人間なんて"に勝負を賭けていたわけではない。それだけ打ち込みに熟達してきたということであり「コンピューターの打ち込みに習熟することは、ただの技術の取得と向上ではなくて、音楽とのあらたな結縁だったのだ。」と自分で書きながら良い事を書くなと自分に感心した(爆)。
 この時はまだわからなかったが、私は、打込みの習熟の成果物にして、あらたな音楽との結縁としてのアルバム「176.5」という傑作にもうすぐに出逢うことになるのだ。

 「俺を愛した馬鹿」から「マッチベター」,「ひまわり」という長かった"打ち込み実験期間"。次から次へと凡打のようなアルバム(※あくまで個人の感想です)が続いたが、ようやくこの「176.5」に至って、スコーンと目の覚めるようなクリーンヒットを打ってくれた気がする。ココに、もどかしい打ち込みの実験時代を抜けて、あらたな音楽との結縁を感じるのだ。ここからの快進撃を私は「90年代に駄作なし」と総括する(※これも個人の感想ですが)。
 したがって「落陽」「祭りあと」、あと収録されていないが「人間なんて」のセルフカバー群はあまり関係がない。これらは凄腕のシェフが、休憩時間に身内をねぎらってササっとこしらえた"まかない飯"みたいなものだ。これらリメイクがなかったとしても「176.5」は 新曲だけで堂々たる名盤である。「星の鈴」「車を降りた瞬間から」「30年前のフィクション」「憂鬱な夜の殺し方」そしてああ我が心の「しのび逢い」…そうなると「はからずも、あ」までが愛おしい。そして何よりアルバムでメインを張り、コンサートのラストを飾る「俺を許してくれ」が素晴らしい。

 会報4号には「TAKURO SPECIAL ESSAY」という連載コーナーがあって、拓郎のショート・エッセイが載っていたのだが、会報4号ではこのコーナーに「俺を許してくれ」の詞だけがドーンと見開きで掲載されていた。これだ。これぞファンクラブの会報なのだ。「これが新曲だ、どうだ」といわんばかりのお披露目が嬉しい。今観るとなんか泣きそうになる心意気だ。
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 前にも書いたが、セルフカバー「人間なんて'89」はとことん切ない、なんでこん鬱な詞にしたんだと恨めしく思ったりもした。しかしこの鬱なところがまた胸にしみるのだ。

 からっぽになっちまう前に
 せつなさをあきらめる前に
 オイラの心を満たしてよ
 身体を何かで突き刺してよ
 人間なんてララララララララ

 はるかに叫ぶ声が届かない理由はなんだろう
 愛してるって答えてくれ 旅する人に伝えてくれ
 迷ってしまってもここにいる
 遅れてしまってもそこにいる
 はぐれるものを忘れないで 行方知らずを見捨てないで
 オイラの心はどこに捨てよう
 疲れた魂をどこに置こう
 昨日の風に預けた夢が かなわないものなら投げ返してよ

 …大きな何かに吸い込まれて
 やるせない隙間を埋められない
 何がどうしても足りないよ
 人間なんてと言えないなら
 オイラを命がけで殺してよ
 人間なんてララララララララ


 ここからは俺の思い込み&邪推だ。>これまでもそうだろ
 この人間なんて'89は、とことん心の奥底に沈んでゆく「鎮魂」のようでもある。しかし、そこで燃え尽きるのではなく、この魂の底から「俺を許してくれ」に繋がってゆく、いやもっと言うと新たに立ち上がってゆくのではないか。"人間なんて"→"人間と呼ばれてるけど"…これはバトンだ。"人間なんて"から渡されたバトンだ。あるいは燃え尽きた"人間なんて"の「とらばーゆ」といってもいいかもしれない。「俺を許してくれ」も「人間なんて'89」同様かなり悲観的な詩だが、それでも、この新曲には生きてゆくチカラがみなぎっている。聴けば一発でわかる。メロディー、サウンド、ボーカル、すべてに横溢している元気。

  この命ただ一度
  この心ただひとつ
  俺を許してくれ 俺を許してくれ

 ここだ。ここがたまらないのだ。中島みゆきの「ファイト!」の"あきらめという名の鎖を身をよじってほどいてゆく"のところと同じように聴く度に心が昂ぶる。なんで中島みゆを例にするかは横に置く。
 
 かくしてラストナンバーの殿堂だった「人間なんて」から魂を受け継いだ新しきラストナンバー「俺を許してくれ」を迎えたのである。ああ、だから原題は「LAST SONG」なのか。
 そして忘れもしない2019年のラストツアーの本編ラストをこの曲で締めくくったこともある意味でとても感慨深い。

 次回は第三回「観音崎よ、どて腹をぶちぬかれちゃったね」をお送りします。いやあ、会報4号…いろいろ充実しておるわ。あなどれない>あなどっていたのかよ。

2023. 9. 13

100分de名著「マガジンT(第4号)」を読む
第二話 "人間なんて"のとらばーゆ@

1 突然のCMカバー出来
 1989年には「落陽」だけでなく「人間なんて」までも復活して驚かされた。リクルート/とらばーゆのTVCMでいろんな就活女子の表情豊かなアップのバックで女性ボーカルの♪人間なんてラララララララ〜ラがお茶の間に突如流れだした。「落陽」のセルフカバーはパッとしなかったが、とらばーゆの「人間なんて」は世間を席捲してかなり話題にもなった。
 たぶんこれが起爆剤になって、秋の拓郎のツアーのタイトルは「89-90 人間なんて」と冠され、そのステージではこれまたセルフカバーで換骨奪胎の切ないブルース調の「人間なんて」が披露されることになったのだと思う。
 ただし自分にとっての"落陽"と"人間なんて"といえば、やはり血沸き肉躍る、こんな感じのイメージで↓まさに怒涛の進撃の歌なので、
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…CMのどこかコミカル調なカバーは少し寂しくもあったが、それでも世界が"人間なんて"で包まれているのは大変気分が良かった。CMはバージョンも曲調も微妙に変わっていって、いいCMだったなと今でも思う。
 ひとつだけ言いたいのは、この流行は、CFの巧さと楽曲の魅力もさることながら、俺は密かに"志村けん"のアシストのチカラが大きかったのではないかと思う。当時、志村は自分のコント番組でこのCMにあやかって"人間なんてララララ"というオチを積極的に多用していたのを覚えている。この当時の志村けんのお茶の間に対する影響力は絶大だった。この盟友の温かい援護射撃は観ていてとても嬉しかったし心強かった。今さらだが、ありがとうございました、志村けんさん!
…一度、心の底から御礼を言いたかった。

2  拓郎、セルフカバーするってよ
 で、コンサートツアータイトルが「人間なんて」と言うことは…すわ、ツアーで歌うのかよ!?、想像がつかなかった。このCMでちょっとした時の人になった拓郎へのサンデー毎日のインタビューがあった。「"人間なんて"が話題になっているし、今度のコンサートでは燃えているのですか?」との質問に「え、全然燃えてないよ、仕事していないと世間に肩身が狭いから歌っているだけ」と答えていて、あの狂熱の人間なんてが再現するとは思えなかった。実際にもそのとおり意表をついた内向的なブルースとしてステージで披露されたのだ。

 俺は会報4号をリアルタイムで読んでいなかったので、そのあたりの心情が今読むことでなんとなくわかってくる。

 「人間なんて」もリメイクやっちゃったんだよ。「イメージの詩」も今やってるの。全部打ち込みでね。
 気持ちいいよ。「人間なんて」って曲がえらく楽曲的。うちのスタッフはみんな喜んでいるよ。いいって。市場に出す、出さないは別として、遊びでいろいろ古い曲を打ち込みでやって聴かせてるの。


 打込みを自家薬籠中のものにした拓郎が音楽を楽しんでいる様子がわかる。そしてその手は禁断の"人間なんて"にも及んだ。リメイクに際して、あらたに"人間なんて"の詞を書き上げ、しみじみブルースな"人間なんて"の生誕である。

だって、あの曲 詞がないんだよ「何かが欲しいオイラ それが何だかわからない」って歌ったあと ワーッと言ってるだけだもんね(笑)だから打ち込みでやり直そうと詞を探したら、ない。それで詞が無い曲だったってわかったんだ。
 それでデモテープ作ったら評判いいから、ステージでもやっちゃうおうかなとも思っている。ギャーギャーいうんじゃなくて、サラっとね、


 なんか鬱な詞だな〜暗いな〜と当時は思ったけれど、本人はかなり清々しい気分でいたのだなというのが会報のインタビューからわかる。そしてその理由もなんとなくうなづけてきた。コンピューターの打ち込みに習熟することは、ただの技術の取得と向上ではなくて、音楽とのあらたな結縁だったのだ。しかしこの会報4号は懐かしのセルフカバーだけでは終わらない。つづく。

2023. 9. 12

☆☆☆それでも生きてゆく☆☆☆
 風間俊介…そうだ拓推しドラマだった「純と愛」に主演し、LOVELOVEの最終回では吉田拓郎の傍らで"硝子の少年"を踊っていた風間俊介だ。「まず被害者のことを第一に考えるべき、事務所が新たに生まれ変わったんだっていう姿をどう見せるかよりも前に、静かに冷静に、被害者の方々と向き合う必要があると、私は思っています」「今、被害があって訴えられていない人たちが話しやすかったり、話そうと思えたりする体制を、早くうちの事務所は整えるべきだと私自身は考えております」…苦悶しながらも少数派たる被害者への思いを語った。批判はあろうとも…まさにそのとおりだと思う。この難題、難状況。いまは真摯に苦しみ迷い迷える者こそ信用したい。…立派に更生したな三崎文哉!(爆)…ということで今日の頭の中のテーマ曲ベスト1は、昨日までの「人間なんて'89」から小田和正の「東京の空」に交代した。それでもファンなのか。すまん。

    自分の生き方で 自分を生きて
    多くの間違いを 繰り返してきた
    時の流れに乗って 走ったことも
    振り返れば すべてが同じに見える
    がんばってもがんばっても うまくいかない
    でも気づかないところで 誰かがきっと見てる

 …いい。悔しいけどいい。人間なんて'89に負けないくらいイイ。

2023. 9. 11

☆☆☆誰が音楽を殺すのか☆☆☆
 いろいろあって気分が落ちる。近いところでは例えば100年前の虐殺事件について記録がありませんからと軽くスルーする政府の記者会見、それとは反対に4時間以上もかけながら、忖度とポーズの佃煮のような記者会見。どちらも多数派のための段取りにすぎない。いつだって少数派やひとりぼっちの個人は実質的には置き去りにされる。
 「少数者やアブレ者は多数派によって排除され、やがて社会から抹殺される」…というかつての御大のお言葉を思い出す。俺が偉そうに言えたものではなく、自分もその多数派の傘の中に出たり入ったりフラフラしているだけかもしれない。そうやって指弾する人々もされる人々も、そしてまたそれを眺めているだけの人々もみんな一緒に深い沼に沈み込んでゆくような気持ち悪さがある。一億人が見せかけだけの豊かさのなか沈みゆく島とはまさにこのことか。

 こんな還暦過ぎのオッサンでさえ、あそこの若者たちを通じてかけがえのない思い出とある種の希望をいただいた。「音楽やアーティストに罪はない」というのは心の底からそのとおりだと思う。しかし罪はなくとも無傷、無垢ではいられないのも事実だ。自分や自分の思い出が容赦なく削られてゆくかのような気分になる。
 少数者やアブレ者やひとりぼっちの尊厳が守られてこそ、はじめて音楽は自由なものだ、音楽って素晴らしいと言えるんだとあらためて思う。そこにしか、そこからしか途はない。
 そういう鬱屈した気分で、次の"100分de名著・会報4号"のために89年ツアーのリメイク版「人間なんて」を通勤の電車の中で聴いていた。当時はこんな暗い鬱な詞で地味なリメイクをしやがって!と思っていたが、今こうして聴くと絶妙に心にしみいる。いや、かなり良くないか? 今頃遅いな、すまんな。

  人間なんて (refit 1989)
           作詞・作曲・編曲:吉田拓郎

 何かが欲しいオイラ それが何だかはわからない
 だけど何かが足りないよ  今の自分もおかしいよ
 空に浮かぶ雲は いつかどこかへ飛んで行く
 そこに何かがあるんだろうか
 それは誰にもわからない
 本当の事を話してよ 本当の声を聞かせてよ
 黙り込んでしまうなんて
 臆病者になってしまうよ
 からっぽになっちまう前に
 せつなさをあきらめる前に
 オイラの心を満たしてよ
 身体を何かで突き刺してよ
 人間なんてララララララララ

 はるかに叫ぶ声が届かない理由はなんだろう
 愛してるって答えてくれ 旅する人に伝えてくれ
 迷ってしまってもここにいる
 遅れてしまってもそこにいる
 はぐれるものを忘れないで 行方知らずを見捨てないで
 オイラの心はどこに捨てよう
 疲れた魂をどこに置こう
 昨日の風に預けた夢が かなわないものなら投げ返してよ
 人間なんてララララララララ

 かすかに震える声で 人間なんてと叫んでみるけど
 大きな何かに吸い込まれて
 やるせない隙間を埋められない
 何がどうしても足りないよ
 人間なんてと言えないなら
 オイラを命がけで殺してよ
 人間なんてララララララララ

 

2023. 9. 6

☆☆☆ブドウ畑でつかまえて☆☆☆
 浮世の義理で、同じ仕事をしている高校の先輩と甲州方面に車で出掛けた。先輩は年に2回しか運転しないと後に知ったが、免許を取ってから2回しか運転していないんじゃないかと思うような破滅的運転で、何回も命の危険を感じた。ガソリンスタンドの兄さんたちが一斉に後ずさりして飛び退く光景を初めて観た。ah-怖かった。おまけに虫が大嫌いな私が、昆虫採集の手伝いをさせられたり、イナゴを食べさせられたりして、そのたびに失神しそうだった。「男(の子)はみんな昆虫が大好き」と言う決めつけは立派な性差別だと思う(涙)。とにかく1秒でも早く帰りたかったのだが、先輩がどうしても知り合いの果樹園に寄りたいということでやむなくお相伴した。ブドウは好きでもないし嫌いでもない僕達見知らぬ他人のようだ。
 でも旬のシャインマスカットが実っている景色を見渡すと心が少し躍った。そんなことってあるだろう君たちだって。
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 ああ、あの方は今年もうシャインマスカットをお食べになっただろうか、ああ住所がわかれば送って差し上げたいとすら思った。
 キツネが王子に言った言葉。「ボクは小麦畑に何の興味がないが、キミがボクをなつかせてくれれば、キミの髪色と同じ金色に輝く小麦畑を見ただけで、ボクはキミを思い出すようになる。麦畑をわたっていく風の音まで、好きになる…それが絆というものだ。」…それな!
 それにしても無事に帰って来られたことを神様に心の底から感謝したい。

2023. 9. 2

 「T's会報」…ちょっと飽きたので、しばしお休み。映画「君たちはどう生きるか」の2回目を鑑賞したのだが、やはり私には難解すぎる。おまけにとなりのポプコーン野郎がうるさくて集中できなかった(爆)。ということでとりあえず浅い感想文をメモしておきたい。ああ思いっきりネタバレっす。

勝手に拓郎に結び付ける映画評
「君たちはどう生きるか」
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1 二人の"mother(母)"
 不肖ワタクシは映画「君たちはどう生きるか」を観ながら思った。これは宮ア駿の「ah-面白かった」ではないか。「君たちはどう生きるか」と「ah-面白かった」は通底している。…いきなり各方面から怒られそうだ。宮ア駿の集大成作品といわれているが、そもそも私は宮ア監督のことがよくわかっていない。吉田拓郎のことも知ったかぶりしているが結局のところそれだってよくわからない。えーい思い込みと言わば言え。だからこそ勝手に拓郎に結び付ける映画評なのだ。

 まず似ているのは、どちらも、もうやめる、もうやらないが口癖の両巨匠の最終章の作品(最終作とはあえて言わない)というところだ。
 次に、どちらも"mother(母)"が主題であり、"二人の母親"が大切な役割を果たす。そこから、そこはかとない心情において共通する点を感じてしまうのだ。

 映画の舞台は昭和18年頃の戦時中。主人公の眞人(まひと)少年は、火災で実母・久子を亡くす。その翌年には父は久子の妹夏子と再婚し、夏子は既に妊娠している。実母と継母という二人の母がドラマを動かす。吉田拓郎の場合は、実母の吉田朝子さんと義母の竹田美代子さんというお二人の母親の人生の旅路が歌われる。
 なお映画には守り神のような7人のおばあちゃんたちとキリコさんという頼りがいのある姉のような女性が登場する。このあたりも拓郎と同じで、主人公を庇護するように女系家族が回りを固める。
 そんでもって、どちらも父親はあんまし役に立たない。もちろん立派な人物だし、特に映画では木村拓哉に声をあてられているのだが、本編では役割が薄い。他人様の父親に対して役立たないなんて申し訳ないです。

2  母の声をたどりて
(1) 託された君たちはどう生きるか
 実母と継母の二人の故郷に家族で疎開したものの、眞人は再婚した父と継母に心を閉ざしたままやさぐれる。自損の怪我を装って学校もドロップアウトし孤独に沈む。どうしても断ち切れぬ亡き母への思いのさなか、母が残した一冊の本「君たちはどう生きるか」(昭和12年の初版本)を偶然に発見する。巻末には「大きくなった眞人へ」と母の署名があった。眞人は母が遺してくれた手紙だと思いむさぼるように読みふける。そしてポタポタと涙を流す。
 落涙箇所はたぶん「凱旋」の章だ。主人公コぺル君が友人達を裏切ってしまった罪悪感から苦悶のあまり病に臥してしまう「雪の日の出来事」、そんなコペル君に母がひとりごとのように語りかける「石段の思い出」につづく最終章だ。基本的にコペル君とおじさんの対話で進められていく本書の中で、唯一、母が苦しむ息子に静かに語りかける「石段の思い出」の章は白眉で、きっと眞人はこの章を自分の母の言葉として読み、感極まったに違いない。

「大人になっても、ああ、なぜあのとき、心に思ったとおりしてしまわなかったんだろう、残念な気持ちで思いかえすことは、よくあるものなのよ。潤一さんもね、いつかお母さんと同じようなことを経験しやしないかと思うの。ひょっとしたら、お母さんよりも、もっともっとつらいことで、後悔を味わうかも知れないと思うの。でも、潤一さん、そんな事があっても、それは決して損にはならないのよ。その事だけを考えれば、そりゃあ取りかえしがつかないけど、その後悔のおかげで、人間として肝心なことを、心にしみとおるようにして知れば、その経験は無駄じゃあないんです。(略)それから後の生活が、そのおかげで、前よりもずっとしっかりとした、深みのあるものになるんです。だから、どんなときにも、自分に絶望したりしてはいけないんですよ。」(吉野源三郎「君たちはどう生きるか」〜石段の思い出より)


(2) 拓された拓ちゃんはどう生きるか
 以上のシーンから、オールナイトニッポンゴールド2022年4月8日でのこんな話を思い出す。

 僕は、子どもの頃から非常に身体が弱くて学校も半分くらいしか行けなかった。家にいることが多い。母親が与えてくれた雑誌とか漫画とか小説を楽しみに日常を家にいて過ごしていた。一人で家にいる子ども時代。学友や友だちもいない。読み漁っている本の世界に入り込んでいくことが多かった。(略)時々病気の枕元に来て話をしてくれた。母親の信念、テーマとして常に自分に正直でいることだった。

「もし拓ちゃんあんたがみんなとは違う考え、違うなと思うとしても、みんなにおかしいと言われても、自分はこういうふうにしかできないと思う時がくる。できないことはできない、自分の心に嘘をつかない。できないこともできるといって仲良くする必要はない。できないから仲良くできないのならしょうがない。自分に正直に生きなさい。」

 当時は意味がよくわからなかったが、この言葉が後に大きな支えになる。


 なんとなく眞人と通じるような環境だし、ここでも拓郎少年の心にも母の言葉がいかに深く響いていたかが伝わってくる。

(3) 決起する子どもたち
 拓郎はアルバム「ah-面白かった」について語りながら、この母の言葉を反芻する。

 僕も紆余曲折ありながら音楽人生を歩いて来られた、これらはすべて母親が敷いてくれたレールだったと思う。母親への愛は非常に深いものがある…今日僕がここにいて歌っていること…その気持ちのもとは母の理解だったと思いたい。


 映画「君たちはどう生きるか」で母の託した本書を読んで決起した眞人も、妊婦のまま姿を消した義母を救おうと決意して、詐欺師のようなアオサギに導かれるままに、先祖伝来の不気味な幽鬼の塔の中へと挑んでゆく。この詐欺師で後のバディとなるアオサギの声が菅田将暉ね。二人の巨匠は、ともに父親の背中から学ぶのではなく、母親の言動の中に心のよすがを見出している。

3 若き日の母たちとの出会い
 眞人は、さまざまな時空とつながった大叔父の君臨する謎の塔の中で、この世界に迷い込んだ少女時代の自分の母親と出会う。"ヒミ"と呼ばれる彼女は火を扱う特殊能力を持った快活で心優しい少女だった。彼女の実妹であり眞人の継母でもある夏子の救出のためにこころよく協力する。その魅力的な少女ヒミの声が"あいみょん"なんだよ。なんか嬉しくなる。二人の心通わす冒険が始まる。

 いうまでもなく若き頃の母との出会いは「ah-面白かった」と通ずる。拓郎は「佳代と僕のお母さんが現代に今若者としていたら、若々しい希望に満ちて自分の未来を描きながら女性としていたら…」という同じコンセプトでアルバムを制作したと語っている。そしてこちらでは、そのヒミの役目をアナログ盤ジャケットでつま恋を闊歩している奈緒が見事に体現している。
…ついでに、この映画の若きキリコさんは篠原ともえではないかと思うのだが、まぁそれは置いておく。
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4   信頼という大いなる存在肯定
 少女時代の母親との出会い、継母の救出の大冒険とともに、この世を統べるという塔の住人である大叔父から、その地位の継承を求められる眞人。十三個の石をバランスをとりながら積み上げて世の中の平和と安定を目指してほしいという大叔父の頼みに対して、自分には「悪意」がありその資格はないと拒否する。現実世界で友達をつくり生きてゆくと宣言する。たぶん石は原子力=核の暗喩だと思われる。そうこうするうちに内乱によって瓦解を始める塔の中の世界。
 若き母であるヒミは眞人に、もとの現実世界に継母をつれて脱出するドアを教え、自分も別のドアから少女期の現実世界に戻らんとして別れを告げる。しかしヒミが現実世界に戻ればやがて火事で死んでしまうからと必死で止める眞人。しかしヒミは明るく答える「眞人おまえいいやつだな」「平気だよ、だって眞人を産めるんだよ!」とまるで遊びにでもでかけてゆくみたいに嬉しそうに自分の世界に戻っていった。ここで不肖星紀行は涙ぐんでしまう。となりのボブコーン野郎の雑音も聞こえなくなった。「だって眞人を産めるんだよ!」これは"ah-面白かった"というセリフに比肩する名シーンだと思った。
 若いころの母親は、成長した息子を観て、また自分のこれからの運命も知ったうえで、それでもあなたを産みたいと、もう一度自分のことを選び直してくれたのだ。これにまさる存在肯定はあるまい。

 他方で拓郎は二人の母のことをこう語っていた。

 佳代のお義母さんも僕のお母さんも既にあちらで楽しくしていると思う。夫婦で互いの母親のエピソードを話すが、なぜか笑ってしまう。想像できない苦労があったはずだ。時代が時代だから相当に大変だったはずだ。人知れず泣いたこともあったと思う。そういう厳しい体験はことさらのようには話さなかった。2人の母親は人間として苦しい人生を体験したにもかかわらず、できる限り伝えない人生を選んだのではないか。


 そして「ah-面白かった」のライナーノーツは最後は次のように締めくくられている。

 母たちは、それぞれの悲しみや苦しみを私達に見せる事なく心の中にそっとしまったまま永遠の地へ旅立たれた
 我々夫婦もいずれ同じ道を歩いて行くことになるだろう そしてその時もまた
「僕達は彼女達と一緒に笑顔で過ごしたい」と願っているのだ


 母たちとのお互いの幸福な信頼感とお互いに対する全面的な肯定感を感ずる。これはどちらの作者と作品にも通底していることだと思う。

5  前進する老巨匠たち
 大叔父の塔が瓦解するということは、現実世界には、混沌とした…核兵器や原子力のリスクという地獄のような現実が待っている。しかし、眞人は父、継母、生まれた弟ら家族と毅然と東京に戻ってゆく。そこで映画は終わる。

 拓郎の方はラジオで最後にこう語りかけた。
 
 あなたのご家族を思いながら、お互いの母上のことを話し思いながら、しょせんみんな人間はひとりぼっち。ひとりだからこそ誰かとの愛を、誰かとの言葉を、誰かとの気持ちを求めて生きてゆく。例えば僕は間違っていても〜と書いたけど、そのことを誇りにして今後は半歩でもいいから歩いて行こうと思っている。


 どちらもキャリアの集大成であるにもかかわらず、最後がポジティブで清々しい。大団円でもなければ、悲観でもない。懐かしの走馬灯で終わるものでもない。あくまでも前に進もうとする。やめる。やめると言う二人の爺ちゃんは実は最後まで前進せんとする。僕達はそうやって生きてきた〜君たちはどう生きるか〜僕達は…問いが答えで答えが問いになって連鎖してゆく。

 拓郎は「一人の人間の真実の景色、みなさんにエールを送るつもりで書きました。」という。この映画も同じだ。宮ア駿がどういう人かは知らないけれどたぶん同じだと思う。私たちへのエールでもあるのだと思う。

 それでもって、この映画を観たあとの心の叫び…
       あなたに逢いたい あなたの声を聴きたい

2023. 8. 30

☆☆☆行き止まりまで走ってみたい☆☆☆
 というタイトルのラジオの単発番組が1983年の春にありました。内容は「マラソン」のレコーディング中の吉田拓郎に対する田家秀樹のインタビューだった。これは私にとってかなり大切なインタビューだった。田家さんが「フォーライフは負けたんですよね?」と拓郎に突っ込んでしまい拓郎が一瞬絶句するやつ。それだけに限らない。父ちゃん(T)、出しゃばり(D)、買ってきた(K)、TDKのカセットテープが擦り切れるくらい聴いて、ホントに擦り切れて聴けなくなってしまった。最後に「もし行き止まりがあるのなら、行き止まりまで走ってみたい」という拓郎の言葉で終わる。全編に漂うどこか切ない空気が忘れられない。

 ということで、私はおかげさまで竜飛崎から無事帰還しました。ありがとうございました。
 道中、半ばおつきあいで太宰治の生家とか記念館をめぐりながら知った。彼の帰郷を綴った小説「津軽」の中に竜飛崎まで歩いて行ったというくだりがあったのだ。

 『竜飛まで海岸伝ひに歩いて行くより他は無い。(略)「竜飛だ。」とN君が、変った調子で言った。
 「ここが?」落ちついて見廻すと、鶏小舎と感じたのが、すなはち竜飛の部落なのである。兇暴の風雨に対して、小さい家々が、ひしとひとかたまりになって互ひに庇護し合って立っているのである。ここは、本州の極地である。この部落を過ぎて路は無い。あとは海にころげ落ちるばかりだ。路が全く絶えているのである。ここは、本州の袋小路だ。読者も銘肌せよ。諸君が北に向って歩いているとき、その路をどこまでも、さかのぼり、さかのぼり行けば、必ずこの外ヶ浜街道に到り、路がいよいよ狭くなり、さらにさかのぼれば、すぽりとこの鶏小舎に似た不思議な世界に落ち込み、そこにおいて諸君の路は全く尽きるのである。』(太宰治「津軽」より)


 こんな情景は残っていなかったけれど、かの歌に描かれた叙景に近い気がする。

 丸太で囲った家族が からだ寄せる
 この漁村には 寒く灯りがついている
 やさしい夕暮れ 賑わいうすい船着場には
 ああもう野良犬が住み着いた


 マントを羽織った太宰治とコートの襟を立てた岡本おさみの同行二人の旅姿を夢想する。おさむ&おさみ…それじゃお笑いコンビか。

 で本州の道は、どこまても歩くとこの竜飛崎で尽きるのだ。星紀行の大好きな「極北」のひとつだ。ちゃんと海辺に、ここが道の最端という行き止まりの碑が立っている。
 行き止まりまで走ってみたい…ったぁココのことか。今はオレ還暦超え初めて知る行き止まりの路地裏で…ってそれは浜田省吾だろ。
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2023. 8. 29

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🎵竜飛崎よ どてっ腹をぶちぬかれちゃったね…ということで青函トンネルの記念館にも行きたかったがさすがに時間がなかった。せめて、どてっ腹の入り口、青函トンネル隧道を見に行く。
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新幹線はうんと早い。高速でどてっ腹に突っ込んでゆく。付近には貫通石を祀った小さな神社があった。どてっ腹をぶちぬかれた竜飛崎とトンネル工事で命を落とされた34名もの方々に手を合わせる。岬は石川さゆりと阿久悠に先占されてしまったが、ここ現在地に岡本おさみの歌碑かあってもいいじゃないかと勝手に思う。
 🎵どてっばらぁぁあをぉぉ〜のかまやつさんの歌声が頭の中を流れ続ける。2007年のツアーのために二人でリハまでしながら、…ああもう言うまい。おかげさまで充分にしあわせだったじゃないか。さよならあなた私は帰ります。
 
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2023. 8. 28

☆☆☆悲しみでさえも海のシミか☆☆☆
 旅に出るとかカッコつけても実際のところは義母一族との旅行の最中に「死ぬ前にどうしても見たいんです」と親戚達に頼み込んでコースアウトしてもらったのだ。あまりに遠すぎるとブーイングの嵐の中たどり着いたこの岬には「津軽海峡冬景色」の巨大な歌碑(大音量の本人歌唱音源付)が待っていた。
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しかし、それ以外…ない。ないぞ。求めるものの痕跡すらない。なにもないのです。
 義母らに「そんなに石川さゆりが好きだったのか、ムコ殿」と笑われようとも構わない。孤独で結構。岬も私の心も最北端なのだ。
 49年前の夏に初めて買ったわが心のシングル盤。ひと夏聴きまくったこの曲。例の歌碑から離れて竜飛崎灯台の下で1人イヤホンで聴き込む。色褪せることなし。秋に咲く紫陽花、海峡の向こうの室蘭、どてっばらをブチ抜かれた青函トンネル。実写版人生である。ここまで生きて来られて、身と心を運ぶことができた幸せを噛みしめる。
 それにしても歌碑ってすごいよなぁ。歌碑のチカラをあらためて思った。吉田町にも、広島修道にも谷山にも歌碑が出来たことのありがたさがしみる。
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2023. 8. 27

☆☆☆旅に出てみた☆☆☆
しょせん帰りゆくこの旅なのに。
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2023. 8. 26

100分de名著「マガジンT(第4号)」を読む
第一話 あの落陽に抱かれたいA
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1 岡本おさみの気持ち 
 拓郎がどんな気持ちでこの「落陽」をリメイクしたのか。この会報第4号の石原信一のインタビューで少しうかがえる。

 岡本さんに電話して『落陽』入れ替えるよって話してね。作詩した岡本さんの思い入れとしては「落陽」というのは、前の曲は延々ギターソロがあってすごい歌になってしまって、自分の本意ではないところがあったんだよ。彼の思いとしてはしっとりとした情景が浮かんでくるものだったらしい。その分では今度の『落陽』は岡本さんの本意に大分近づいたというのはある


 そうか、リメイクに当たって岡本さんに連絡をしたんだ。岡本さんのためにアレンジを変えたとは思えないが、先の88年の日清パワステのMCでは「落陽」について「こんな(すばらしい)詩に曲をつけさせてもらえることが幸せ」と語り「その曲がひとり歩きして、いつから花見になってしまったんだろう。この歌は花見にするのはもったいない。」と語っていたことを思い出す。こっちには見えない二人の関係性のようなものが覗ける気がする。

 しかし、このリメイクバージョンでも後奏になるとギターはやはり元気にうねっている。岡本おさみの求めた「しっとりとした情景が浮かんでくるもの」…これは93年のNHKの101スタジオで石川鷹彦とのアコースティックバージョンによって実現されるものかと思う。この93年の落陽を聴き直してみたけれど、いいわねぇ。
 
2 そして拓郎の気持
 話を戻して、リメイクと原曲とどちらの落陽が好きかと問われた拓郎は答える。


「俺はもうどっちでもいいね、皆さんがお喜びなら(笑)」「そんなに大それた曲だと思っていないんだよ。岡本さんにもそんなにこだわるほどの曲じゃないよと言ったんだけどね」


 そんなふうに拓郎はうそぶく。これは俺の完全な思い込みだが、拓郎が「どっちでもいい」っていうときはどっちでもよくないし、「大それたことじゃない」「こだわるほどのことはない」というときは、実は大それたことで、こだわり続けてきた苦悩が横たわっている。"なんとか超えなきゃ"と拓郎はんの苦しんではる姿だったりする。

 石原信一が"とらばーゆ"のCMの「人間なんて」といい「落陽」といい、なぜ世間が89年になって、かつての楽曲をリバイバルするのか、若いころ聴いてたやつがオトナになって社内等で決定権を持つようになって、あいつらの若き日の追憶ではないかと考える石原に対して拓郎は言う。

 追憶よりも鎮魂だな。あんときは魂をなかなか休めることも出来なかったけど、これでもう俺は卒業できるって。あいつらそうだよ。
 もう俺はいらなくなる。あの頃のフォークだなんていうのもいらなくなるし、ギター覚えたって思い出もいらなくなる。


 ちょっと切なくなる答えに対して石原がたたみかける。

石原)リメイクして「落陽」を歌った吉田拓郎は、やっぱりこれも卒業式なのか。
 俺は駄目だよなあ。私は一向に変わらない。

3 音楽の自由と自由な音楽
 なんかこうしてこういう言葉だけ抜くと暗いのだが、むしろインタビューの次の発言の方が真意に近いのではないか…と思う。

「人間なんて」もリメイクやっちゃったんだよ。「イメージの詩」も今やってるの。全部打ち込みでね。
 気持ちいいよ。「人間なんて」って曲がえらく楽曲的。うちのスタッフはみんな喜んでいるよ。いいって。市場に出す、出さないは別として、遊びでいろいろ古い曲を打ち込みでやって聴かせてるの。


 コンピューターを自家薬籠中のものにした拓郎にとって、これまでの楽曲をアレンジしなおすことがかなり楽しかったんじゃないか。歴史やら因縁やら因業からも自由になって、ひとつの楽曲として音楽として歌いなおすことの御機嫌さ、明るさが伝わってくる。

 歴史的スタンダードナンバー「落陽」についても、かつての拓郎には「歌う」か「歌わない」という二択しかなかった。どちらも釈然としないものが残るのかもしれない。だいたいどちらにしても私のように鬼畜なファンから文句を言われるに決まっている。
 しかし、歌う、歌わないではなく、自由なアレンジをして歌ってしまう…という第三の選択肢をやってみせた。まるで呪縛を解き放つかのようだ。好き嫌いや優越を超えて「落陽」はひとつじゃなくていい。そんなゆるやかな快活さを感じる。

 あの時、俺がすべきことは、ライトな落陽のアレンジ変更に失望したり悪態をつくことではなく、面白れぇなあ〜と楽しんで、もっともっと違うアレンジでもカバーしてくれよ、と快哉を叫ぶ事だったのではないかという気がしている。すまなかったな…とちょっと思うがもちろん反省はしない。だって拓郎はこうも言っている。

 (レコード)買っといて、今度は良くない、とか最低とか言うなって(笑)。買ったらそっちの責任なんだから。買ったというところでもう絆が出来たと俺は思っているからさ。


 そうか…最低って言われたのか(爆)。いいじゃないか、何もかも「絆」が出来た俺たちの間のことじゃないか。

4 あの落陽に抱かれたい
 89年の夏は暑かった。親父の葬儀の日もそうだったな。個人的には失意に沈んでいたが、それでも空はくっきりと青く雲もむくむくとチカラ強かった。今もこういう夏空を見上げると、さんざん悪態をついた「あの夏に抱かれたい」のOPを思い出してしまう。するとあのホルンの「落陽」のイントロが流れ出す。
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 晴れた青空の落陽。矛盾しているか。しかし真夏に「外は白い雪の夜」に聴き入り、厳冬の中にも「夏休み」で盛り上がる。拓郎ファンはすでに時空も天候をも超えているのだ。
 そんな景色にもカスタマイズされた「落陽」がある。それでいいのだ。たぶん。 

 次回、第二話「わが心の人間なんて」をたぶんそのうちに。

2023. 8. 24

100分de名著「マガジンT(第4号)」を読む
第一話 あの落陽に抱かれたい@
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1  ひとりシンポジウム〜1989年の落陽を考える
 会報第4号が発刊されたのは秋だった。まったりとした会報3号の頃とは違って、11月下旬からのコンサートツアー89-90も決まり、ニューアルバム「176.5」の発売も見えてきて心湧き立つときだ。しかしそれらの全国ツアー&アルバムを待つ私の前に静かなる一波乱が起きた。思ってもみなかった「落陽」&「人間なんて」が、これまた思ってもみなかった姿で登場したのだ。

 超絶個人的な話だが、その頃の俺はといえば89年の夏に父親を亡くし、背水の陣で臨んだ試験にも落ち、アルバイトまでも失うという失意の時だった。しかも住まいを追われたドサクサでT'sの会報も届かなくなっていた。ということでリアルタイムでは会報第4号を読んでいない。なのでこの会報はつい先週くらい初めてキチンと読んだ(爆)。そういうわけでバイアスというか、思い入れ、思い込みで、この日記は歪んでるかもしれない。ま、別に客観的な評論をしているわけでなく、もともと個人的なイカレたことを書いているだけだからいいわな。

2 封印は花やかに
 88年のSATETOでも89年のドームツアーでも「落陽」は歌われなかった。つま恋85で高中正義&後藤次利の歴史的名場面が最後の「落陽」だった。SATETOのスピンオフの日清パワーステーションで拓郎は「落陽」の出だしだけを歌い、燃え上がらんとする観客に向って「この曲は花見で盛り上がるにはもったいない曲。もう二度と歌ってやるまい。」と言った。つまり拓郎は観客とのすれ違いの象徴ともいえる「落陽」を意図的に封印していたのだ。

3  いきなり主題歌
 それが突然89年の9月に日テレで野村宏伸、紺野美沙子主演のいわゆるトレンディ―系ドラマ「あの夏に抱かれたい」の主題歌として新録音の「落陽」が採用され、シングル盤として発売されることになったのだ。なんじゃそりゃ。「なぜいま「落陽」なんだ」と会報4号で石原信一先生も口走っている。
 とはいえトレンディドラマ隆盛期の当時だ。そこにリスキーな書き下ろしの新曲ではなく(>おめぇ失礼だろ)、不滅のスタンダード「落陽」が主題歌とくれば、もしかしたら…ヒットチャートを駆け上るのではないか、ああ、これからフェスティバルが始まるんじゃないかしら。鬱屈していた俺だったが、そう思うと胸が踊ってドラマの放送を楽しみになった。…んまぁこの道はそんなに甘くはないのだが。

4 そのドラマ微妙につき
 「野村宏伸」…イケメンとはいえ既に当時いろいろ微妙だった気がする(個人の感想です)。演技はお世辞にも上手ではなく、その彼がイキってバイクを乗り回すドラマは俺には辛かった。すまんな。しかしその24年後、重松清原作の日曜劇場「とんび」で野村が和尚の役で登場した時はしみじみと良かった。しかし24年も待てない>当時は知らねぇし。
 何より「あの夏に抱かれたい」は全5回だぜ…短っ!。「拓郎が主題歌だって聴いたから観てみようと思ったらもう終わってたよ」と友人が言っていたのを思い出す。話題になるもならないもアッという間に終了。そいつは突然現れてプツンと消えていっちまったよ。今Youtubeでかろうじて観られる主題歌部分の映像を観てごらんなさい。心の底から申し訳ないけれど、カラオケの背景映像みたいで「ロケ地 東京」というテロップを探してしまう。いろいろ切ないドラマだった。

5 シン・落陽の当惑
 それよりなにより驚いたのはこの「シン・落陽」の換骨奪胎のアレンジだった。原曲のドラマチックな勇壮感とはうって変わって、ここ数年馴染みの打ち込みサウンドだ。この機械感と電脳感、当時流行していた「マックス・ヘッドルーム」みたいな落陽だと思った。>知らねぇよ。
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 それに打ち込みチックでありながら、冒頭のホルンは新日本紀行のテーマを思い出してしまうような古色なイメージ。。あ〜なんなんだよ。
 そして肝心の拓郎のボーカルには、怨念もこもってなければ、シャウトすることもなく、淡々とそしてセカセカとテンポよく流れてゆく。どこにもひっかかりがない。なにもかもがミスマッチな気がして戸惑った。
 先の石原信一先生ですらシン・落陽を次のように評していた。
 以前のように前のめりに挑んでゆくような攻撃性はない。むしろ乾いた声が続くことによって、行き場のないような哀感と自虐性さえ感じる。

 ドラマは風のように消え、主題歌もヒットチャートを駆け上がることなく、祭りは一瞬で終わった。悪態をついているのではない。俺は泣きながら書いているのだ。

 89年の落陽。1989年に拓郎がショボいドラマの主題歌で、ショボいアレンジの落陽を歌ったことがあった…それでいいのか、それだけでいいのか。そういうことなのかもしれないが、個人的に失意のドン底にいたあの夏を一緒に過ごした落陽をそういうことで簡単にスルーしてしまっていいのだろうか。89年の会報4号は今になってそのあたりを突き付けてくる。 …Aにつづく。
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2023. 8. 23

☆☆☆野球ボールを手に握り観た☆☆☆
 慶応義塾高校が甲子園の決勝進出とな。テレビもそうだが、周囲にいる慶応関係者が大いに盛り上がって騒いでいて面白くない(爆)。ただ、松本隆作詞/松任谷正隆作曲という塾高の応援歌は歌われるのだろうか。それはちょっと聴いてみたい。
 慶応は野球部の監督を「さん」づけで呼ぶという話題が好感をもたれているが、関係者によれば、あそこは教師も教授も「さん」づけで呼ぶ。それは「先生」と呼ばれるのは福沢諭吉ただ一人だけだからだそうだ。
  けっ。そういうものなのか…と思いつつ、この世界で歌手とよべるのは吉田拓郎しかいないと信じている俺も似たようなものか。
 とにかく狂熱の炎天下、みなさんお身体だけは大切になさって、…でもって私からできるだけ遠くで盛り上がってください。

2023. 8. 20

☆☆☆なぜか寂しい夜だから☆☆☆
 すっかり夏バテ気味だ。「君たちはどう生きるか」の2回目鑑賞に行こうと思ったがよして、家でひとりダラダラと小津安二郎の映画「秋刀魚の味」を見てしまう。わが心の笠智衆。この映画には秋刀魚が全く出てこない。映像にもセリフにもモチーフにも1ミリも秋刀魚は関係していない。これって、あれだよ「マークII」にはマークIIはおろか自動車のことなんか全く出てこないのと一緒だ。天才たちはすごい。何が凄いのかわからないけど、たぶんすごい。
 
 ああ、80年武道館のマークIIを聴かせてくれながら、秋刀魚を食べさせてくれる店はないものだろうか>ねぇよ

2023. 8. 17

100分de名著「マガジンT(第3号)」を読む
第四回(終) フォーライフの真実
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1  あなたを呆れる日
 そうでした。「憧れのハワイ航路」は、岡晴夫の歌で、陣山俊一さんがレコードを出しているわけではありません。陣山俊一がセイヤングでエピキュラスの公開放送の余興で歌っている「憧れのハワイ航路」がある。これがどうしても聴きたくなってネットを検索したが見つからない。その流れの中でエピキュラスの公開放送の番組本編はあり、久々にコーナーの「陣山俊一の奥様お手をどうぞ」を聴いた。前回までの陣山さんへの尊敬と追慕の気持が全部ふっ飛びそうなくらい…陣山さん、アンタ最低だよ(笑)。

2 フォーライフの真実
  宇田川さんが執筆する編集後記「Mr.Uの路上観察日記」が面白かった。宇田川氏がフォーライフレコードの新入社員時代に社員の宴会があって、出席はしないけれどあの取締役の4名にカンパを求めに行った話が書かれている。

 小室さん「そうですか。皆で楽しんでください。」と会費8千円をキッチリ下さった。
 吉田さん「へぇ、いいな」と言いながら1万円札を出しツリは要らないとのこと、
 井上さん 何も言わずGパンの尻のポケットからクシャクシャの1万円札の束を出し「ハイ、ツリの2千円。」(この方の名誉のためにケチではなく、きっと5万円と言えば5万円出したのだろう)
 最後に泉谷サマ「バカヤロー、他人にくれる金があったら、唄なんか唄ってねぇー」と怒られて逃げ帰った。


 「フォーライフの真実」とか言っても所詮ネタみたいなものだし、それで人品骨柄を云々するのもなんだ。それでも俺は心の底から叫びたい拓郎ファンで良かったぁ!。あなたのいうとおりフォーライフは、あなたしかいなかった…と思う。さあ友よ、顔をあげて旅を続けよう。

2023. 8. 15

100分de名著「マガジンT(第3号)」を読む
第三回 君がそにいた風景こそが
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1 永遠の大学生
 セイヤングでは[早稲田大学中退の常富]と[早稲田大学を10年かけて卒業した陣山]のいがみあいというお約束みたいなものがあって面白かった。なにかにつけてこの二人が対立する(笑)。ちようど歌丸と小円遊…わからんか…Mr.スポックとDr.マッコイ…もっとわかんねぇよ…C3POとR2D2…アラシ隊員とイデ隊員…みたいな関係だ。ああ、もういいや。
 陣山さんが10年かけて大学を卒業したというのは大袈裟なネタかと思っていたが、このインタビューで真実だったことがわかる。除籍ギリギリの8年まで留年してその間に2年間休学したそうだ。まるでマカロニほうれん荘の土方さんときんどーさんのようだ>知らんがな。
 つまり陣山は1976年3月に大学卒業したことになる。1976年というと「セブンスターショー」で踊らされていた時だ。あの時、まだ陣山さんは28歳にしてギリギリ大学生だったのだ。

2  魂の船出
 インタビューの後半では、希望に満ちたユイの草創期の話から一転、現在(1989年)の音楽状況とそれに対する陣山さんの気持が語られる。

 今までの芸能界みたいなやり方の部分とか、体制みたいな部分にとって代わると確信していたね。それもすごく良い形でね。新しい形でのミュージック、ビジネスが確立するだろうとものすごく希望に燃えていたね。ところがなかなかそうはいかなかったけど。
…我々がうまい形で、それまでの芸能界に利用されちゃったとか
…取り込まれちゃったね。良かったのか、悪かったのかっていうと、僕はもちろん悪かったと思うけど…
 やっぱり歌が歌えない人が歌手として売れてるってこと事態がね、そういうミュージック・ビジネスっていうか、音楽産業楽って世界中にないんじゃないかな。


 切ない。桑田佳祐が「川の流れを変えて自分も呑み込まれ」(吉田拓郎の唄)と歌ったような、時代の変化の哀しみを陣山さんは率直に語ってくれる。そして陣山さんは、ユイ音楽工房を退社し、1987年に独立してZ'sというスタジオ経営を中心とした音楽会社を興す。時代の趨勢に沈まこまず40歳にして新たな旅立ちをする。

 レコードを作る為に必要なすべてのものを、クオリティーの高いものを、自分たちで持っててそれで質の高い音楽を作っていける集団になりたい。
 いいスタジオを設計したり、いい楽器を揃えて、いいマニュピレーター、優秀なプロデューサーを育てる。それからブッキング・マネージャーをきちんと育てる。そういうことをやっていければいいなと思ってる。そのための制作会社だって考えています。


 俺は音楽の専門的なことはわからない。悲しいくらいわからない。それでも、この陣山さんの言葉を今2023年の今日読んで泣けてくる。西も東もわからず吉田拓郎の音楽制作を始めたその日々をいかに大切にしているかが俺にもわかる。草創期の音楽のために捧げた魂をさらにすすめようと陣山さんは船出したのだ。
 不覚にも俺はそのような陣山氏の旅立ちもその後の航海も知りもしなかった。アルバム「ひまわり」は、陣山さんのスタジオで制作された。

3 陣山俊一という旅路
 インターネットで検索した株式会社ジィーズのHPには、陣山さんの簡単な経歴が記載されていた(株式会社ジィーズ Z's inc ホームページより)。

 1973年
 ユイ音楽出版 取締役として入社
 吉田拓郎、南こうせつ、イルカ、長渕剛各氏他多数アーティストの音楽プロデューサー
 1987年
 株式会社ジィーズ、株式会社ジィード設立
 最高の音を目指した制作集団とレコーディングスタジオを設立・経営
 2000年
 株式会社ミュージックエアポート設立
「より多くの音楽との出会いを」実現すべく、音楽配信事業開始
 2001年
 理学博士号取得
 アメリカの大学院にて音の研究、論文が認められ授与される
 2004年
 甲状腺癌発病
 2008年10月30日
 前日まで仕事に取り組み、自宅にて安らかに永眠

 博士号まで取得していたという陣山さんの旅路はどんなものだったのだろうか。社訓には、次のような言葉が捧げられている。

  音楽と共に 情熱と共に そして人と共に
 「一人一人がプロデューサーであれ そして音楽文化に貢献するプロフェッショナルであれ」
  創業者 陣山俊一の言葉を忘れず未来に進んでいきます。

 何の事情もわからない端くれのファンの自分だが、俺も忘れずに進みたい。どこにも行けやしないが。ということで万感の想いと敬意をこめて聴きたい。もちろん2019年のライブ・バージョンだ。歌詞refit版だ。

       あなたを送る日
               作詞・作曲 吉田拓郎
 あの頃わからなかった事が
 胸にしみるようになった
 君は人に笑われながら
 自分をつらぬいていた
 生真面目なんて流行らないと
 誰もが口をそろえたけれど
 気がついたら 今の時代
 君こそキレイに生きていた
 群れを作り 大きな声を上げて
 そうする事で強がっている僕は
 本当の自分さえ知らないで
 流されていただけのこと

 激しく恋に焦がれた時も
 叶わぬことに腹を立てて
 やさしいだけじゃ物足りぬと
 行方も知れない 船の中

 小さな春を見過ごしている 
 馬鹿な自分に気がついた時
 胸に溢れるこの喜びを
 今こそ素直に伝えたい

 流されないで心の思うままに
 君がそにいた風景こそが
 一番大切な事なんだと
 今日から心に刻み込む

 人は何を観てどこへ帰る
 たった一度の旅の中で
 君と知り合えて良かったよ
 今日の別れは辛いけど

 君が示したようには生きられないが
 もう求めすぎる僕もそこにいない

 あの頃わからなかったことが
 今は胸にしみる

 僕はきっとあの日、心の中を忘れ
 過ぎ去った日々を愛しすぎたようだ
 あの頃うわの空の夢が
 今は胸にしみる 
 今は胸が痛い


 陣山俊一さんよ永遠に…と〆ようと思ったが、それもらしくない。俺が一番好きだったのは、79年のエピキュラスの公開放送で陣山俊一が歌ってくれた「憧れのハワイ航路」だ。悲しいときにつらいときにあれをカセットで繰り返し聴いて一緒に歌ったものだ。もうカセットはないけど、それでもあの歌唱は焼き付いている。

   あこがれのハワイ航路 

            石本美由起 作詞 江口夜詩 作曲

 晴れた空 そよぐ風 港出船の ドラの音愉し

 別れテープを 笑顔で切れば 

 望みはてない 遥かな潮路

 ああ あこがれの ハワイ航路

 波の背を バラ色に 染めて真赤な 夕陽が沈む

 一人デッキで ウクレレ弾けば 

 歌もなつかし あのアロハオエ

 ああ あこがれの ハワイ航路

 陣山さん、ありがとうございました。

…ということで次回、100分de名著「マガジンT(第3号)」を読む「第4回 フォーライフの真実」をそのうち。

2023. 8. 14

100分de名著「マガジンT(第3号)」を読む
第二回 若い人
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1  そして歴史が始まる
 大学を留年しながらサークルで音楽活動を続けていた陣山俊一は、昭和47年に同じ大学の後藤由多加から勧誘を受ける。
 
 早稲田の校庭で後藤社長に会って、実は今度こういうかたちでプロダクションをやって 拓郎とかそういうのをやることになったんだけどそれについて原盤制作とかやる音楽出版会社を作るから一緒にやらないかと言われて。
 ユイ音楽工房に入ったというかまだ会社組織になっていなかったんですけど、ちょうど僕が入ったころに僕と奥山が書類を集めたりなんかして会社組織にしたんですよ。

 「早稲田の校庭」…キャンパスじゃないのかってそれはどうでもいい。このあたりの話は何度読んでもワクワクする。後藤由多加も陣山俊一もみんな学生だった。「よしだたくろう」というダイヤモンドの原石を見つけた、彼らの静かな興奮が伝わってくるような気がするのだ。学校の校庭の片隅で、音楽の歴史が大きくうねり出す。歴史はどこからでも始まる。そしていつだって等身大から始まるのだ。

2 歌う敵と歌う真実
 僕がユイに入ったのが昭和47年だったと思うんだけど その頃に並行してCBS/SONYと原盤契約を結ぶ契約をしていた。まぁいいようにだまされていた気がしますね(笑)  今思うと信じられない契約書だったけどね(笑)


 エレックでの扱いがひどかったという話は拓郎からよく聞くけれど、巨大資本のSONYはまた別な意味で手強かったのだな。しかし、彼らは学生ながら原盤契約とか音楽出版社という発想を持っているあたりで、エレック等とは違い、アーティストサイドいやアーティストと一体になった音楽ビジネスに挑もうとしている意思が窺える。
 このインタビューにはないが、学生だった後藤がアポなしで、ナベプロに乗り込んでいって、渡辺晋社長に、これからプロダクションを作るからビジネスのノウハウを教えてくれと挑む話も思い出される。若さの眩しさとともにそこはかとない勇気を感じる。時代を変えるのは常に青春で老いた常識よりはるかに強く…という歌詞が思い浮かぶ。
 同じくインタビュー外の余談だが、巨大資本のSONYを相手にアーティストの権利が確立したのは、もちろん拓郎らに対するファンの大きな支持みならず、久保利英明弁護士のチカラが大きかったのだと思う。彼の功績は金沢事件からの拓郎の奪還だけではなく、音楽界の権利システムの構築にあったものだ。その話はいつかまた。

3 すべてはアーティストのために
 組織・権利というだけではなく、その彼らが尽力した音楽の現場の話がいい。スタジオで音楽を制作する環境をどのように作り上げるのか。陣山らは苦闘する。当時からあったインペグ屋というミュージシャンの斡旋の専門業者や、楽器レンタル屋など楽器調達・配送業者なども知らなかった彼は文字通り手作りで奮闘する。


 スタジオ・ミュージシャンとは自分で電話して集めて、すべてそのギャラは現金払いでなくてはならないと思っていた。いつもお金をたくさん持って、領収書をもって、終わったらお金を払って領収書をもらうことをやっていた。


 原始的かもしれないが、この直接現金払い=取っ払いのおかげで助かったミュージシャンはたくさんいたと思う。若き日の松任谷正隆もそんなようなことを言っていた。この方法は、ミュージシャンの拓郎サイドに対する信頼感を深めたに違いない。

 スタッフとさ一緒に事務所の近くにあった御苑スタジオってところに自分たちで出掛けて行って、B-9というベースアンプ、ツインリバーブっていうギターアンプ、それにフェンダーのローズ、エレキピアノとハモンドオルガン、この4つは必ず車で運んでセッティングしていた、あの頃のディレククターって、インペグ屋と楽器レンタル屋なんかを全部兼ねてたね。


 本当にチカラ作業だったのだな。しかし、音楽環境を作るというところに身を粉にしている様子が伝わってくる。ただ愚直なまでに音楽のために捧げ尽くしている。

4 そして生まれ出ずる名曲たち

 (拓郎が)レコーディングの間際にならないと曲が出来なくてね、今でもそうだけどね(笑) そのうえスタジオで曲をどんどん変えちゃったりとかね。…それはそれで良かったんだと思いますけどね。
 自分たちだけのメンバーでヘッドアレンジ的にみんなでワイワイガヤガヤやっていくみたいなレコーディングって当時はほとんどなかったみたいね。そういう意味ではすごく新しくって変わったやり方をしていね。


 拓郎が「ラジオでナイト」のベストテイクや「オールナイトニッポンゴールド」でよく話していた名曲誕生のエピソードで「ヘッドアレンジ」だけで、ミュージシャンが自由に創意をふるって作品を作り上げていく様子を語っていた。ワイワイガヤガヤの中で、拓郎が熱弁するように松任谷正隆の天才的な発想や石川鷹彦、高中正義、青山徹の珠玉のプレイが生まれたという。そういうレコーディングは当時としては決して当たり前のことではなかったことを知る。確かに「制作コストの管理」という企業視点から考えれば効率的ではない。しかし、制作側はあえて何より音楽を最優先して自由な環境を捧げていたことが窺える。

 拓郎が『旅の宿』をレコード(シングル)にしたいと言い出したもんで、前田仁が「いやそんなのダメだ」って…えらい激論を交わしたことを覚えている。…弾き語りでやっているようなゆったりとしたレコードになるんじゃないかと思ってた。それじゃつまらないよって…
 でも拓郎はその時すでに頭の中に、もっとポップな仕上がりにするってあったと思う
(仕上がりを聴いて)すごいなーさすがだなーって思った記憶がある。

 
 すべて拓郎と音楽に対する深い敬意で動いていたことが陣山さんの静かな言葉の端々からにじみ出ている。かくして名作は誕生する。ここで、吉田拓郎、石川鷹彦、陣山俊一、前田仁などすべての方に心の底から感謝しつつあらためて「旅の宿」シングルバージョンを聴き直してみたくなる。

 すべては吉田拓郎の才能と音楽に対する情熱があってこそだ。しかしその拓郎と音楽を信じて、なんの前例も保証もない海に飛び込んでいった彼らスタッフを忘れちゃならない。何より音楽を第一に考えようとした彼らがいなかったら、僕等は拓郎の歌を味わえなかったかもしれない。
 もっとえげつなく言わせてもらえば、誰も吉田拓郎を騙したり食い物にしようとしなかった。矢沢永吉の自伝「アー・ユー・ハッピー?」を読んでいて苦しくなるのは、矢沢永吉という無垢の天才の側近に集った関係者の中から、彼を騙したり、不誠実な所業や、金銭を掠め取ったりする人間が一人ならず出てきて矢沢を苦しめ痛めつける…そんな歴史のくだりだ。 
 知りもしないでといわれるだろうが、自分が知る限りで、吉田拓郎支えたスタッフたちの素晴らしさと敬意を忘れないでいたい。なんか評論家気取りで書いてしまったけど、まだまだつづく。

 

2023. 8. 13

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100分de名著「マガジンT(第3号)」を読む

第一回 あなたを送る日、あなたに出逢う日

1 とくに何もないのです
 会報3号が発刊されたのは89年の夏。会報1,2号の主眼だった新作「ひまわり」と東京ドームも終わり、何もない穏やかな日々が続いていた。拓郎は次回アルバムの準備に潜航しつつ、NHK「愉快にオンステージ」に出演しTHE ALFEE/BEAT BOYSと共演したりしていた。とらばーゆの「人間なんて」の衝撃的なCMが席巻するのもそろそろオンエアされるころだったかな。
 とりあえず藤井徹貫の拓郎インタビューも拓郎が子どもの頃からの「テレビ」の思い出話や、自分が歌い始めたころテレビの向こうに巨大な芸能界帝国があったという話で、さして新鮮味がなかった(個人の感想です)。
 ただ何かを大仕事を終えて次の新作に向う、リラックスした吉田拓郎の姿が清々しい。大川装一郎氏撮影のイイ感じの写真が並ぶ。このあたりの写真を次作「176.5」に使えばよかったのに…とかねがね思う。あの「176.5」のジャケ写をみるたびに「拓郎さん具合悪いんですか?」と聞きたくなってしまうんだもん(爆)
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2 愛と善意に満ちた日々 〜歌手だったね
 で、今回の目玉は「陣山俊一インタビュー」だ(歴代スタッフインタビュー「陣山俊一氏に聞く」P.32〜)。そう、あのユイ音楽工房のディレクターの陣山さんだ。「セブンスターショー」で拓郎に騙されてヘンテコな衣装で踊っていた陣山さん、「セイヤング」では常富・陣山というお笑いコンビとして、毎週、くだらねーけど大爆笑のコーナーを担当していた陣山さん、ロックウェルスタジオで、石山恵三に「うるせ、バカ」と言われてしまう陣山さん…コメディリリーフとしての姿ばかりが印象に残る。でも私は陣山さんのことはよく知らなかったに等しい。このインタビューでようやく私は陣山さんに出逢うのだ。

 まず陣山さんが昭和22年生まれということすらも知らなかった。拓郎とほぼ同年だったのだな。早稲田大学のフォークソング部で常富嘉男、田口清、内山修と一緒で、そうそう後に東芝のプロデューサーとして加藤和彦やオフコースを手掛けて、ファンハウスの社長となる新田和長も在籍していた。このサークルを母体としたバンド"ザ・リガニーズ"の「海は恋している」がヒットし、これに続けと、陣山俊一がボーカルの"ジ・アマリーズ"を結成し実際にレコードを出していたことも知らなかった。陣山氏は拓郎との出会いを語る。

 拓郎がユイ音楽工房に入る前ですけどね、ニッポン放送のバイタリスフォークビレッジの司会をずっーとしていて、アマチュア団体としてゲストで出演させてもらったのが彼と話した最初かな。

 これが拓郎と陣山さんのなれそめのようだ。これとあわせて私が思い出すのは1982年3月の「ライオンフォークビレッジ」の最終週での拓郎の述懐だ。

 拓郎「陣山俊一っているじゃない。あれがゲストだったんだよ。」

 南こうせつ「ええ〜っ」
 かまやつ「あの人、歌ってたの?」
 拓郎「『にほんごのうたを歌う会』っていって女子大生を何人か引き連れて『会長の陣山です』って来たんだよ。」「で、陣山俊一は音楽の話をしようと思ってきたのに、のっけから俺に『やってますか?』と尋ねられてがっかりして帰った(笑)。でしばらくたってユイに行ったら、事務所にいるじゃない…あれぇーみたいな感じ」

 南こうせつ「やっぱり縁があったんだね」

 確かに「縁」のような出会いである。拓郎が大学生の音楽サークルをどんなふうに観ていたかもよくわかる(爆)。

 ということでとりあえず歌手だった陣山さん。後に拓郎はラジオで「陣山君は声が小さいんです。だから歌手として大成できなかったんです。」と言っていて、ああ、そんなもんか…と思ったものだ。しかし、陣山俊一さんの声は、落ち着いていて優しい。魅力的な声だ。誰よりもそのことをわかっているから拓郎は、後に"陣山俊一とoils"というコーラスグループを作り、拓郎のレコードのバックコーラスとして重用する。拓郎によれば、陣山がコーラスをすると売れるという逆ジンクスまであったらしい。
 
 ということで陣山さんのやさしいコーラスが偲べる一曲として聴きたい。

       「アイランド」(sg「流星」B面所収)

 …一回でサクッと終わらせるつもりが、終わらない。次回につづくよ、どこまでも。

2023. 8. 12

☆☆☆その名も故郷も静かに生きる☆☆☆
 谷山小学校に「夏休み」の歌碑が建立された。子どもたちの心に「吉田拓郎」「夏休み」が未来にわたって刻まれる。尊い。マウイのニュースのショックもあって切に思う。「夏休み」の歌詞が、郷愁とか詩情を超えて、もはや壊れゆく地球の最後の祈りみたいに聴こえる。
 ニュースでは「11日は建立式が行われ、吉田さんの「谷山小学校と姉さんのようにやさしかった先生は僕の中で永遠に生き続けています」というメッセージが紹介されました。」
 なんなら拓郎少年を背負った姉さん先生の銅像も建ててはくれまいか>よしなさい。すまん。↓写真はイメージです…ってあったりめぇだろ。
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 世の中は甲子園大会だ。谷山小と甲子園からダブルで思い出すのは、2005年の四国・九州シリーズのときに、谷山小学校の校庭の土を微量だが持ってきてくれたKくんのことだ。彼も僕らの中で永遠に生き続けています。

2023. 8. 11

☆☆☆生きていなけりゃ☆☆☆
 尋常とは思えない炎天下を歩きながら、スマホでマウイ島のニュースを知った。目眩がした。あのラハイナが、あの大木たちが、海岸沿いのfishが。なんてこったい。ささやかなれど大切な思い出が。心の底からお見舞い申し上げます。申し上げながらもう他人事ではない、このまま世界の終わりが来てもおかしくない気分になる。なんだこりゃ。それでも生きていなけりゃ、生きていかなけりゃ。

2023. 8. 10

☆☆☆穴を掘る人、捨てる人、それまた拾って喜ぶ人☆☆☆
 長崎といえば"さだまさし"だ。そのさだまさしが産経新聞のインタビューで吉田拓郎について語っていた。

 拓郎さんですか? 僕にとっては「最初に穴を掘った」人。その穴には、みっともないものを捨ててもいいんだ、と教えてくれた偉大な人です。( 産経新聞 2023年7月28日)

 穴を掘って、みっともないものを捨てる…とは面白い表現だ。さしづめ俺なんかは捨てたものをありがたがって拾っている奇特な人ってとこか。

 昔、フォークシンガーが多数集まるイベントに拓郎さんを出させようとして、武田鉄矢さんと南こうせつさんと一緒に口説きにいったことがある。「出ないよ」とゴネている拓郎さんに僕はとうとうキレて「穴に汚いもんを捨ててもいい、って言ったのはアンタでしょ。出ないのはおかしいだろう」と詰め寄りました。結局、拓郎さんは出てくれましたけどね。 その後、僕がパーソナリティーを務めるラジオ番組の代打≠ナ拓郎さんが、出てくれたことがあって、冒頭で「さだって、ケンカっ早いな!」だって。そんな拓郎さんが僕は好きです。向こうはそうでもないかもしれないけれど…(苦笑)。

 うーん、さだまさし、気骨がある。俺の長崎の親戚のジジババはみんな"さだまさし"のことが好きだった。いや好きと言うより尊敬に近かった。同じ長崎出身の福山雅治よりも"さださん"の方がカッコイイと絶賛していて、俺はアンタらみんなどうかしているよ、と密かに思ってきたが、わからないでもない。稲佐山の無料コンサートをはじめ、彼がやってみせたこと、やり続けたことは、それだけで人々の胸を打つ。

 そのさだの痛恨のミスは武田鉄矢と南こうせつと一緒に拓郎のところに行ったことだ。この二人を前にした拓郎には確実に変なスイッチがはいる。いじりモード、天邪鬼モードがマックスにふれる。
 武田やこうせつに対する拓郎のイジリや天邪鬼には根本にやはり愛がある。しかし、そんなものは、ユイ、フォーライフ、アルフィー等の関係者と一部の拓バカあたりにしか通用しない。さだの目には、さぞや尊大な、何様だよ、おめーな人と映ったことだろう。
 さだひとりで行くか、一緒に行くなら島村先輩と行けばよかったのではないか(爆)。「そんな拓郎さんが僕は好きです。向こうはそうでもないかもしれないけれど…」、俺には何の権限も資格もないが、拓郎は絶対なさだのことが好きだと思うぞ。きっとウチの親戚のジジババくらい一目も二目も置いていると思う。たぶん。

2023. 8. 9

☆☆☆長崎昼想曲☆☆☆
 今日は長崎の日だが九州は台風がやってくるようだ。どうかお大事になさってください。それしか言えず申し訳ない。

 長崎は母方の実家だから、広島の日のように敬虔な気持ちになれず、どうしてもいろいろ余計なことを思い出す。夏のお盆や法事に親戚が大勢集まると他の親戚縁者の噂話と陰口とともに決まって原爆の話になりそこから喧嘩が始まるのがお約束だった。
 大体が、原爆投下の日にたまたま五島列島に片思いの人を追いかけに行って難を逃れた大叔母と終戦の翌週に引き揚げてきて焼野原の長崎で放射線など知りもせずボランティアを続けその後長いこと原因不明の体調不良に苦しんだ伯父との「原爆手帳」の有無をめぐる嫌味の言い合いから始まる。
 別な親戚が「広島は平日の午前8時、長崎は午前11時、なんで子どもが学校に行きよる時間、みんなが仕事に行きよる時間に原爆落とすとね」と怒ると「日曜日の夜なら良かったとね?」とまた口論が始まる。
 ここじゃ書けないようないろいろな恨みつらみで盛り上がり、それでも最後は「生きててよかったい」という雑だけど、ごもっともな収束で、続きは次回となる。…子どもの頃から、この親戚の法事ライブが嫌でしかたなかった。

 それでも長崎に帰るたび、それぞれの親戚が原爆資料館や永井隆博士の家とかに子どもだった私達をマメに連れて行ってくれた。何かを解説してくれるわけでもなく、ただ自分たちがそこで泣いていただけだった。夏になるとザボンとカワハギの干物と一緒に長崎の学校の原爆の副読本「原子野のこえ」とか原民喜の「夏の花」とかを送ってきてくれた。
 ♪子どもらに俺たちがあたえるものはあるか〜、この歌に近いものが、あの人たちの頭の中にもあったのだろうと今は思う。もうその親戚も殆どいなくなってしまった。てか殆どじゃないゼロだ。

 といろんなこと考えながら歩いていたら、あらら11時に近い。思いついて職場に行く途中にあった「長崎物産館」に飛び込んだら、式典中継が流れていて、11時2分、お店の方たちと一緒に黙とうすることができた。…亡くなった親戚のジジババのおかげか。悪態ついてすみませんでした。心の底からご冥福をお祈りします。
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2023. 8. 7

100分de名著「マガジンT(第2号)」を読む
第四回(終) Thank you Monsieur, see you Cynthia

1 いつも見ていたかまやつさん
 会報(2号)にはムッシュ=かまやつひろしのインタビューが載っている。拓郎のコンサートツアーの大阪公演に観覧に行ったムッシュのスキマ時間に、これまた公式ファンクラブの強みでサクッとインタビューをしている。おなじみのムッシュなのだが、今回はコンサートの振り付けアドバイザーとして参与しているとのことだ。

 このコンサートツアーの衣装はジーンズでもスーツでもなく、まさにグループサウンズ系のきらびやかなもので、おそらくは東京ドーム=映像化を意識していたのかもしれない。メインが鮮やかなブルーのキンキラキンで、アンコールが少しシックなグレー系となる。…ところで竹林厳論先達の「藤正樹」には笑わせていただきました。確かに。あの娘が作った塩むすび。結構好きでした。

 ステージには自信があるが、ステージングは全くわからん、いつも怖い。
                              (会報No.2.p.26)


 拓郎は会報のインタビューにそう答えていた。…そうか怖かったのか。相談を受けたムッシュはその経緯を話している。

 初め「スパイダースみたいに」っていうから「やめてくれ」って言ったの。40男の動きと、あと、かわいさが出ればいいと思った。
 「この曲は息が切れるまで走れ」とか、あと「バックミュージシャンは若いから、あいつらをうんと動かして、自分は仁王立ちになってアイデンティティを出せ」とか
                               (会報No.2.p.9)


 ハイ、ハイ、ハイ。東京ドームの映像を観ると「春だったね」の間奏で、鎌田由美子と広いステージを端までむやみに疾走する貴重なシーンが観られる。おでこで風を切っている。…これはムッシュのアドバイスだったのか。

 結構かわいかった(笑)。でも動いたりするの、下手だねぇ〜(笑)器用じゃないね、不器用。その不器用さがかわいさに結びついたんだけど。あんまりあの人が洒落て動いてくれると困るんだよね。
                                (会報No.2.p.9)

 さすがムッシュ、すべてをわかっていらっしゃる。そのうえでの温かな見守り。「春だったね」のステージ疾走もどこかぎこちないけど、確かにかわいかった。不器用というか、拓郎はステージングにテレと迷いがある。例えば浜田省吾がステージでキレキレでことごとくビシっとポーズをキメているのに対して、拓郎のポーズは悪く言えば「逃げ腰」、よく言えば「恥じらい」がある。
 しかし、そこがいいのだ。ステージに登場した立姿だけで観客を打ちのめしてしまう稀有なお方だ。洒落て動いてくれないところに覗く「含羞」が魅力なのだ。かまやつさんはすべてお見通しだったのだな。
 ああ、こういうインタビューを読むと、ライブが観たい。「今」のライブが観たい。ムッシュのいう「70男の動きと、かわいさ」を体感したいと思えてくる。

2  ひとりぼっちのシンシア
 もうひとつムッシュ関連でいえば、アルバム「ひまわり」収録の「シンシア」の拓郎のひとりセルフカバーだ。当時はなんでこのアルバムで「シンシア」なんだと思ったものだ。経緯としては、その頃、拓郎がシンガポールで篠山紀信と会って一緒に酒を飲んで話していたときに、当然に奥様=シンシアの話にもなったらしい。そういえば東京ドームには篠山紀信、南沙織夫妻もいらしていて…そこから「黒い瞳」に繋がるのかもしれない。…話がそれた。拓郎は篠山紀信と話していて思うのだった。

 「そういやあ『シンシア』って、俺、かまやつさんと歌ってるんだ、やだな」って(笑)、俺の名曲なんだけど、かまやつの声が出てくるのは今となっては嫌だ、と。申し訳ないけど、かまやつさんには。ひとりで全部やりたい。
                        (会報No.1.p.13)

 ずいぶんなことを言う(爆)。しかしこのバージョンはアレンジも原曲と殆ど変わっていないので、確かにそうなのかと思えてしまう。同じ藤本真がインタビュアーだったので「拓郎さんがかまやつさんの声が出てくるが嫌だと言ってました」とチクる。するとムッシュはオトナな雰囲気で切り返す。

 あの時点で気づかなかったあいつが悪い(笑)。俺は気がついていたよ。
                              (会報No.2.p.9)

 (笑)いいぞムッシュ。それにこの「ひとりシンシア」はそんなに成功しているとは思えなかった。とはいっても、あのアルバムの不思議系の曲たちの中を漂うとき、唯一、救命ブイのようにしがみつくと安心できる曲ではあった。 

 「シンシア」は、俺が中学一年生の夏に生まれて初めて買った吉田拓郎のレコードだ。ひと夏、聴きこんで心に刻み込んだ魂のスタンダードだ。確かに拓郎が一人で歌ったらもっとカッコいいかなと思ったこともあった。しかし、実際の「ひとりシンシア」を耳にするとちょっと印象が違った。
 これは武田鉄矢のハナシだ。子どもの頃、ひとつのスイカを家族兄弟で奪い合って食べながら、いつか一人でたらふく食べたいと思い続けた武田は、大人になって単身上京していざ望みどおり一人でまるまるスイカを食べ始めたら、もの凄く寂しくなって涙が止まらなくなった…という話があったが、それにたぶん近い。ムッシュとシンシアは思わぬほど深く一体化していたのだ。

3  さよならムッシュ、さよならシンシア
 それから16年近く時間はかかったが、僕らはつま恋2006で「よしだたくろう&かまやつひろし」の「シンシア」を聴くことができた。ああ、こんな連中で悪かったな。でもこんな連中は最高に幸せだったよ。
 翌年の「Country」でもショット・ガン・チャーリーとしてツアーを伴走してくれて「シンシア」を聞かせてくれた。ホントは「竜飛崎」の予定が二人とも技術的に歌えなかったらしい(爆)。熊本公演の翌日のホテルの朝食会場で、ムッシュとすれ違った。俺はその一瞬に永遠の思いをこめて「かまやつさん、ありがとうございました、おつかれさま」と叫んだらムッシュは「ハーイ」と手を振ってくれた。これが永遠の思い出になってしまった。

 ずっと生きている人だと思っていたムッシュは2017年に卒然と亡くなられた。翌2018年のベストアルバム「FromT」には、ちゃんと「シンシア」の原曲が収録されていた。

 そして今年2023年、かまやつさんの七回忌公演に行った。森山直太朗が、ひとりでシンシアを歌っていた。これぞ「シンシア(独唱)」だ。やっぱり名曲だよな…と感じ入りながら、同時に拓郎がリタイアしムッシュも天に召されてしまって再現不能となった「今」をあらためて思い知った。
 直太朗の「シンシア(独唱)」を聴きながら、同時に頭の中では、別の歌が鳴っていた。

  さくら さくら 今、咲き誇る
  刹那に散りゆく運命と知って
  さらば友よ 旅立ちの刻 変わらないその想いを 今
  泣くな友よ 今惜別の時 飾らないあの笑顔で さあ

 まるで独唱が二重唱を送っているようだ。Thank you for かまやつさん、ありがとう「シンシア(二重唱)」。永遠にさんざめく光を浴びて さらば友よ またこの場所で会おう。

…こりゃ100分de名著じゃなくて、ただの感想文だな。すまんな。

2023. 8. 6

☆☆☆いつも見ていた さらにいくつもの ヒロシマ☆☆☆
 ロケ地MAPを観ながら広島の町を歩いた夏。映画の冒頭で描かれているにぎやかな街並みと同じ場所に現実に残されている呉服屋さんの地下遺構。ずいぶん時間が経ったが、今日は、すずさんの拡張版を観ようと言ってくるということは、心には残ってくれているのだな。子どもらに俺達が与えるものはあるか。すべては俺を含めた大人の責任だ。
 ご冥福をお祈りします。そして祈りがつづきますように。

2023. 8. 5

100分de名著「マガジンT(第2号)」を読む
第三回 ひまわり畑を超えてゆけ

1 吉田拓郎 3.12インタビュー
 アルバム「ひまわり」の発売直後、東京ドームの公演もあと3日と迫る時期で、コンサートツアーの移動中の新幹線でのインタビューだ。こういうスキマ時間にサクッとインタビューが出来てしまうというのは公式ファンクラブの強みか。
 短くてサラリと読んでしまっていたが、実にいいインタビューだ。そこでは「ひまわり」という楽曲をこんな風に語っている。

 (アルバム「ひまわり」には)「約束」とかいろんな曲があってね、でもこいつらって結局「ひまわり」という曲が無いと存在しないんじゃないかという気になる。
 …「ひまわり」が全てを支配してて、それが唄えるということは他の曲は何でも唄えるという自信とかにつながっててね。

 「ひまわり」という一曲が、また新しい曲を生み支え、さらに他の曲をも呼び寄せ、吉田拓郎にとってかくも大事な原動力になっていたことがうかがえる。この曲自体は、個人的には特別に好きでもないし、かといって嫌いというわけでもない。…たぶん俺だけではなく、概ね凡作の代名詞のように扱われることも多い「ひまわり」だが、この歌がSATETOから始まるストーリーをチカラ強く牽引していたことがわかる。好き嫌いというだけではなく「ひまわり」という楽曲のひとつの真価はそこにもある。

 (ひまわりは)唄ってて気持ちいいもん。とにかく「どうだ」って感じだもん。俺、唄ってて、これは気持ちいいもんだよ、そういう曲ってなかなかないもん。

 ということで俺もあらためてカラオケに行って歌ってみた。聴いていて難曲だが、歌ってみてもさらに難曲だ。歌えねぇよ。
     ゆうべのたわいなく わけもない
     いらだちが胸を突き 身体をねじらせる
 この早口言葉のような譜割りをつっかえずに、情感をこめて歌えればさぞや気持ちがいいだろう。
     ふり切った愛を 語りながら
     記憶のありかを 確かめている
     そこに 天使なんか いるはずがない
 今の環境に浸ったまま過去に生きて、動こうともしない死屍累々の人々に向って「どうだ」と言い放つような痛快さ。
 そしてこの「ひまわり」の牽引は、次回作への確信へと結ばれている。だからこそ短いけれど希望の光り射すようなインタビューになっている。

 ・次のアルバムも あれが出来れば出来ちゃう
 ・次のアルバムというのも どんな方向に向かっていくのかは分からないけど、いい曲はできると思う。
 ・5月くらいから、やろうかという方向に向かっているの
(曲は出来ているのですか?というか質問に)全然。でもほら、今上昇志向だからさ、すぐ出来るって。

 吉田拓郎にあふれる自信が漲っている。もちろんこの時はわからなかったが、この後に吉田拓郎はいよいよ名盤「176.5」を完成させる。なのでこの確信は本物だ。
 つま恋後の3年間の不在から、SATETOでスタートした拓郎。手応えのなさに彷徨いながらも、コンピューターによりてコンピューターの上に音楽を作り上げるべく「マッチベター」と「ひまわり」を完成させる。ぶっちゃけこの二作は壮大な実験作だったのではないかと思う。すまん。名盤「176.5」に至るための大いなるホップ、ステップみたいなもの。
 とにかくこのインタビューからは「見えた!」という拓郎の声が聴こえるかのようだ。このアルバムのひまわり畑の向こうに広がった青い空が見えたのではないだろうか。吉田拓郎の「上昇志向」と言う言葉の意味がなんとなくみえてくる。
 
2 カオスと上昇志向
 ここで、あらためてカオスの東京ドームである。カオスの主因は、東京ドームを例えば静岡市民文化会館などの会館のひとつとして使ってしまうこと、しかもそこで定番の人気期待曲をほぼ外してニューアルバムまるごと歌ってしまうところにある。
 例えば「ああ青春」あたりで幕開けして「落陽」「アジアの片隅で」でドームが揺れるような狂熱のドーム公演にもできたはずだ。実際、この翌年1990年の2月にローリングストーンズがこの東京ドームで初来日公演を打つ。"サティスファクション"など往年の名曲が中心にならぶセットリスト。大興奮した亀淵昭信元ニッポン放送社長がポツリとつぶやいたという「なぜ拓郎もこれをやらなかったんでしょうね」の一言が忘れられない。それと同じだ。
 反対にそれをしないということは、たぶんアーティストにとっては、不安で怖いことでもあったはずだ。しかし拓郎はそうはしなかった。その理由を語っている。

 今ステージでも『ひまわり』の中の曲は全部やっているわけじゃない。そんなことはまず無かったの。全曲やっぱり歌いたいという気分にさせているのは何かというとやっぱり「ひまわり」という曲なんだよ。

 利害打算ではなく、保険を掛けるのでもなく、自分の直観と心の向かうところに従ったのだと思う。カオスのドームで、しかし吉田拓郎は勇敢で、俺は臆病者だったのだ。
   こだわりだけは 残したままの
   抜けがらになれそうで 幸福だね
そんな「ひまわり」の歌詞が俺に対して向けられていたかのようで痛い。

3 上昇志向という名のもとに
  東京ドームの公演の特集を組んだ田家秀樹のFMラジオ番組で、アシスタントの女性が「拓郎さんが『上昇志向』なんて言葉を使うのにびっくりした」と言っていた。同感。このころには「天才に向上心はいらない」という拓郎の名言もある。「向上心」と「上昇志向」は違うのか。勝手な決めつけだが、拓郎のいう向上心とはつらいものを努力と頑張りで乗り越える克己心のようものをいう。また上昇志向とは、心がふるえる大きな流れがあったらそこに身体ごと飛び込んで全身を任せてゆくようなものではないかと思う。
 そういう意味で、ドームの拓郎は勇敢だったけれど、こうしなきゃならないという計算や努力と無縁で、思い切って信じるものに全身をまかせた、そういうものだと今は感じる。
 観る方も上昇志向の中に飛び込んでみないとわからないものだ。カオスに心揺れているような俺ごときにゃあわからんものだったと思う。
 ともかく「ひまわり」によりて「ひまわり畑」の向こうの青い空に僕らの旅はつづくことになる。

 次回は「マガジンT(第2号)」「Thank you for かまやつ」をお送りします。

 

2023. 8. 4

☆☆☆暑い☆☆☆
 尋常ではない暑さ。皆様ご無事でしょうか。さすがに外回りで死にそうだ。事件は現場で起きてるので現場に行かにゃあならない。
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久々にカラオケにいったらあった。やった。
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嬉しくて3回歌う。♪人生キャラバン〜の後の歌詞にはない"ウオウオウオウオ〜"を歌う自分に酔う
(爆)
 あとは「ひまわり」〜「雨の中で歌った」のメドレー。手強い。"苛立ちが胸を突きカラダをねじらせる".ほとんど早口のリハビリの世界だ。これをある種のゆとりと重みをもって与える吉田拓郎は凄い。「雨の中」は息継ぎがわからない。

2023. 8. 2

☆☆☆8月2日の太陽は拓郎に惚れていたので☆☆☆
 つま恋75行けなかったに行けなかった俺は、にーさん、ねーさんのあの日の数々の武勇伝を聴きながら、しみじみと思いを馳せるのが好きだ。♪あの日の武勇伝が五万本、サバ言うなコノヤロー、ってサバ言ってねぇっす。真実っす。

 あの日俺は中学生でt君らと裏磐梯のキャンプに行っていた。深夜のラジオで興奮したアナウンサーが「いま静岡県で大変なことが起きてます」ってアナウンスいた様子が耳に残っている。はるか遠い国に胸を躍らせた。行った経験には及ばずとも…

 行った旅行も思い出になるけど、行かなかった旅行も思い出になるじゃないですか
               (ドラマ「カルテット」…満島ひかり)

 つま恋よ、永遠なれ。
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2023. 8. 1

☆☆☆カミナリ☆☆☆
 仕事場の付近はものすごいカミナリだ。久々だな、こんなに豪快なヤツは。87年の南さんの海の中道のゲスト公演は観られなかった。しかしその後FMでの放送で一部を聴くことができた。カミナリの効果音のあとでたぶん拓郎の生ギターのソロが流れて「冷たい雨が降っている」が始まる。このカミナリの残響をぬうように流れるギターがなんとも素敵で繰り返し聴いたものだ。だからカミナリを聴くともう条件反射である。「冷たい雨が降っている」…さあ聴こうではないか。

2023. 7. 30

☆☆☆そこにも天使なんかいるはずがない☆☆☆
 <100分de名著 番外>

 T'sの座談会で酷評されていた雑誌ダカーポのアルバム「ひまわり」のレコード評がひっかかる心の狭い私だ。

「 …メッセージ・ソングにおいての言葉は全くといっていいほど時代の洗礼を受けていないし変容もしていない。マスターピースであるボブ・ディランはともあれ、歌詞のみを目で読んだときのメッセージ・ソングの現状は悲惨である。時が完全に止まっているのだ。」(ダカーポ 1989年2月15日号 より)

 しみじみとムカつくじゃないか。ボブ・ディランという権威の威を借りて、あとはみんなディランの劣化コピーだという態度が噴飯ものである。新人の歌手に対して「バカ野郎、フォークだか何だかしらないが、岡林だってちゃんとやってんだぞ」と罵倒したのと同じだ。
 ということで、あらためて「ひまわり」をじっくりと聴き返してみよう。

  ひまわり 
           作詞 吉田拓郎
これで いっそついでの事に
雨のひとつも 降ってくれるなら
ふさいだ気分のままで いられるさ
誰かと よろしくやっても いいんだから

ゆうべのたわいなく わけもない
いらだちが胸を突き 身体をねじらせる

こんな 意気地なしの 男達が
追いかけている あてどない長い夢
使い古し 赤くさびた言葉で
まだ時を器用に あやつれるつもりさ

女になればいい
愛されるのを 待てばいい
女になればいい
愛されるのを 待てばいい

まるで 少女の長い髪と たわむれる
毒のない花には なれるだろう
道化師は いつも涙を隠したままで
人生を おどけて演じ続ける

ふり切った愛を語りながら
記憶のありかを確かめている

そこに 天使なんか いるはずがない
現在を殺せば うそも一つ増える
目をつむるのは 聴きたくないからさ
真実の刀が こちらを 向いている

女になればいい
愛されるまで 待てばいい
女になればいい
愛されるまで 待てばいい

逃げもしないし 追いかける事もない
とどまる勇気など ましてあるわけがない
ただ偶然のような 外の景色と
降りそうな 雨のせいで そこに居るだけ

こだわりだけは 残したままの
抜けがらになれそうで 幸福だね

こんな 意気地なしの 男達が
追いかける あてどない長い夢
使い古し 赤くさびた言葉で
まだ 時を器用に あやつれるつもりさ

女になればいい
愛されるのを 待てばいい
女になればいい
愛されるのを 待てばいい

女になればいい
愛されるまで 待てばいい
女になればいい
愛されるまで 待てばいい


 ダカーポのライターは本当にこの詞を読んで、この歌と音楽を聴いたのだろうか。
 使い古し 赤くさびた言葉で
 まだ 時を器用に あやつれるつもりさ

 これはダカーポ、あんたのレコード評みたいなことじゃないのか? ディランをマスターピースとされる筋合いはないぞ。…おい、もう四半世紀昔のことだろ(爆)もう恨むまい、もう恨むのはよそう。

 そういうムカつきを離れて、あらためて聴き直す「ひまわり」…いいじゃないか。いろいろ思うところはあってもいい。それにアウトロもこってりとして素敵だ。http://tylife.jp/uramado/himawari.html
 つづきは、そのうち第三回「ひまわり畑を超えてゆけ」で。
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2023. 7. 29

100分de名著「マガジンT(第2号)」を読む
第二回 失われゆく媒体

1 「ひまわり」を眺める人々を眺める人々を眺める
 宇田川社長、こすぎじゅんいち、フォーライフの関係者、フリーライター、T'sの編集の方たちという親拓派メンバーが集まって、いろんな雑誌に載ったアルバム「ひまわり」のレコード評を品評するという座談会記事が面白い。

 個人的には中学生の頃から、拓郎のアルバムがリリースされるたびに、いろんな音楽雑誌のレコード評を書店で立ち読みしまくるのが俺の恒例行事だった。嬉しくて雑誌に頬ずりしたくなったり、逆に床に叩きつけたくなったり、どちらも犯罪ですが…とにかく書店の店頭はパラダイスだった。
 しかし時の経過と共に吉田拓郎のレコード評の扱いスペースが小さくなり、新作にもかかわらずスルーされることも多くなってきた。アルバム「ひまわり」はそんな頃のことだ。狭い字数制限の記事の中で次のようなレコード評が掲げられていた。

  [ダカーポ] 文芸作品と比べてディラン以外のミュージシャンの詞はみんな時代遅れ
  [オリコン]  好きな人には一生モノの作品、吉田拓郎を失ってはならない
  [AVハウス]  キング・オブ・フォーク「シンシア」のニューアレンジ 
  [CDでーた]  素朴で粗野で温かい余韻
  [月刊歌謡曲]  昔はフォーク小僧で拓郎が大好きでした
  [FMステーション] 気負いのない自然体、身体の中からポカポカと温まってゆく

 座談会ではこれらのレコード評に対して、ていねいにツッコミと議論が重ねられている。ダカーポはもはやレコード評たりえないと皆の怒りを買い、オリコン・ウィークリーの暑すぎる共感にほほえみ、AVハウスは「シンシア」しか取り上げないところ、吉田拓郎=キング・オブ・フォークというとらわれに対して宇田川社長が違和感を示す。なお宇田川社長は、みうらじゅんは昔話が長すぎるとまで言っておるぞ(爆)。
 フォークの過去の伝説に拘泥し、吉田拓郎の今の音楽を聴こうとしていない多くのレコード評に対して全員がやるせない思いを抱いている。

 なお座談会や記事では論じられてない、俺の勝手な意見だが、アルバム「ひまわり」は温かな余韻があったり、心がポカポカしたりするような作品ではない。体温は低めで、しかも難解で、なんだこりゃぁというのが当時の多くの印象だったのではないか。たとえば「このアルバムなんかショボくね?」という声も欲しかった。

 総じてこれらのレコード評を前にした親拓系の座談会には、どこか寂しい、切ない風が吹いていた。それには二つの原因があるように思う。

2  悲しみの原因@ 変質するレコード評論というフォーラム
 座談会のライターが、音楽雑誌でとある他のアーティストのレコード評で批判的なことを書いたら、スポンサーが広告を取下げ、記事が掲載されなくなってしまったと告白する。これは今にも通ずる忖度と圧力の根深い問題であり、息苦しさをひしひしと感じる。
 そうに考えると昔の音楽雑誌のレコード評は、辛辣なものも含めて多種多様だった気がする。昔は良かった…ではなくて、例えば俺が覚えているのは「ローリング30」の発売時、雑誌では「『ローリング30』は明らかにつまらない曲もあるので一枚に取捨選択して欲しかった」、「ミュージシャンが多すぎてサウンドが厚くなり、それが裏目に出ている」とか厳しく批評してあって大いにムカついたものだ。しかしそれも含めて音楽雑誌には思想の自由市場としての活況があった。
 悪口・批評は書けないという忖度の下で評論はどんどん広報に近くなってくる。いや俺が偉そうにいえることか。こんな場末のサイトですら、ヘタレてしまうこともある。そもそも表現というのはかくも脆弱なものであり、たちまち萎縮してゆくものだ…だからこそ「表現の自由」は死守されなくてはならないのだ…って話がそれた。

3  悲しみの原因A  忘れられてゆく人を忘れられない人
 「吉田拓郎」という存在が過去のものになってゆく…その大いなる流れの中にあった。世間も媒体も、みんなもう吉田拓郎に感心はもっていない。85年のつま恋を
区切りに「もう吉田拓郎はいないってことでいいんすよね?」という声なき声が聞こえてくるようだ。だから吉田拓郎を書いていても殆どの評論に脈打つものがない。魂のかけらもない。たぶんこの座談会では、みんなこれらの記事を読んで消えゆく吉田拓郎の哀しさを感じ取っていたに違いない。
 
  死んだ女より もっと哀れなのは 忘れられた女です
          LE CALMANT Marie Laurencin
  …これは「忘れられた男」も等しく同じことだ。

4 フランス人になりたい
 この座談会では、それでは、これからはどんな雑誌媒体が吉田拓郎にとって必要なのだろうかと宣伝会議みたいな話になる。
 宇田川社長がズバリ「マリクレール」だと宣言する。そうきたか。吉田拓郎の音楽だけははなく、着ているもの、身につけているものまでをトータルに評価する、そんな雑誌が好ましい。SATETO以降の拓郎がブランドなスーツを着ていたり、この会報がやたらおしゃれだったりするのは、宇田川社長の「マリクレール」戦略だと思われる。もしかしたら拓郎が「アラン・ドロン」でいきたいと言い張ったのかもしれない(爆)
 「マリクレール」かぁ〜。パリは燃えているか。翼よ、あれがパリの灯だ。

5 そして
 新聞は日々のことに流されて、君の名は片隅へと消えるけど、この会報には、世間の雑誌媒体がだめなら俺たちでやってやろうじゃないか…という気骨を感じる。だから会報の記事はかなり充実している。いろいろあっても、がんばれT'sと今も言いたい。

 ということで当時「忘れられてゆく男」を観ているのは切なく哀しかったが、この7-8年後、その吉田拓郎が、マリクレールどころか「ポップティーン」や「セブンティーン」にまで登場することになるとは誰が予想できただろうか。冬のリビエラ、人生ってやつは思い通りにならないもんだね。いみふ。だから面白い。

 次回、100分de名著「マガジンT(第2号)」「第三回 ひまわり畑を超えてゆけ」でお会いしましょう。



  
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2023. 7. 28

☆☆☆僕達もそうやって生きてきた☆☆☆
 映画「君たちはどう生きるか」は正直わかんないことだらけだった。ネットで読んだプロ・アマを問わぬ人々の評論の深さにおそれいった。やっぱり私はダメな人だと考えながら、それでも観て良かったと思うし、わからないなりに好きな映画だ。あれこれ読んでいたこの映画評論の中で、宮崎駿のこんな言葉を見つけた。

「ある種の気分、かすかな情景の断片、なんであれ、それは君が心ひかれるもの、君が描きたいものでなくてはならない。他人が面白がりそうなものではなく、自分自身がみたいものでなくてはならない」
(宮崎駿「発想からフィルムまで(1)」『月刊絵本別冊アニメーション』1979年7月号より)

 この言葉を読んで、ああココだと思った。昔から大好きだったあの一節。

「…まず肝心なことは、いつでも自分が本当に感じたことや、真実心を動かされたことから出発して、その意味を考えてゆくことだと思う。君が何かしみじみと感じたり、心の底から思ったりしたことを、少しもゴマ化してはいけない。…ある時、ある所で、君がある感動を受けたという、繰りかえすことのない、ただ一度の経験の中に、その時だけにとどまらない意味のあることがわかって来る。それが、本当の君の思想というものだ。これは、むずかしい言葉でいいかえると、常に自分の体験から出発して正直に考えてゆけ、ということなんだが、このことは、コペル君!本当に大切なことなんだよ。ここにゴマ化しがあったら、どんなに偉そうなことを考えたり、言ったりしても、みんな嘘になってしまうんだ。」(吉野源三郎「君たちはどう生きるか」岩波文庫P53〜54)

 宮崎駿はこの一節をきちんと胸に抱いている。なんか宮崎駿と友達になれたような気がした(爆)。そりゃ大きな勘違いだろうが。俺が何かというと「心の底から」と言うのは、このコペル君のおじさんの影響なのだと自分で気づいた。

 それはいいとしてこの一節は、吉田拓郎のスピリットともしっかり通底していると思わないかい?。違うかもしれないけれど俺はそう思う。そこからしか、ものは始まらないとこの文章は言っている。この一節を読んでいるだけで、あれこれと拓郎のいろんな歌が頭の中を交錯し収拾がつかなくなるくらいだ。
 
 そして薄っぺらついでの俺の感想なんだけど、映画「君たちはどう生きるか」を観て、ああこれはアルバム「ah-面白かった」だと心の底から思った。これらはお互いに、宮崎駿の「ah-面白かった」であり、吉田拓郎の「君たちはどう生きるか」だ…と思った。それは…なんかこれ以上書くと怒られそうだから、そのうちどこかでひっそりとこそこそやろう。
 
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2023. 7. 25

☆☆☆打ち上げ花火、上から観るか下から観るか☆☆☆
 燕市の花火。HPで拝見しただけだが、花火にもそのメッセージにもさらに先達サイトの名を冠したところにも感激した。ハラショ!!
 「しょぼい」というが、そうは思わない。メッセージの思いが、カタチになって空に打ちあがったことに比べればなんてことはない。それに長年拓郎ファンをやっていて、見事に空いっぱいに広がった豪勢な花火を何度か観たが、こういう花火も何度も何度も観せられたじゃないか。すまん。それだって吉田拓郎だ。
 なんか元気出たよ。ありがとうございました。来年、そうですか。
 

2023. 7. 23

☆☆☆おはようおやすみ日曜日☆☆☆
 本日は燕市の花火大会だ。天候が問題なさそうで良かった。今日は"吉田町の唄"を聴きこみながら、遠くから打ち上げをお祈りしております。
 懸案の映画を観た。ネタバレは禁止なのかな、よくわからんが。とりあえずテーマ曲にも挿入曲にも「僕達はそうやって生きてきた」は使われていなかったです>あったりめぇだろ
…観てよかったと思う。もう一度観たい。爺ちゃん割引が背中を押してくれる。
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2023. 7. 22

100分de名著「マガジンT(第2号)」を読む
第一回 一枚の写真とともに上昇せよ
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1 東京ドームというカオス
 今となっては自分が体験できたライブはどれも美しい思い出だ。わが谷は緑なりき。しかし、東京ドームはちょっとだけ違う。わがドームはカオスなりき。あらためて「カオス」の意味を調べたら「『混沌』、無秩序で、さまざまな要素が入り乱れ、一貫性が見出せない、ごちゃごちゃした状況」とあった。ぴったしである。

 まず、これだけ巨大でイベントフルな会場なのに、つま恋、篠島、武道館のときのように拓郎側からの心構えも気概も情報すらも事前に殆ど伝わってこなかった。どんな心持で行けばいいのか見当がつかない。どうしても場所柄からイベントを期待してしまう。「人間なんて」とか「アジアの片隅で」の心積もりもしとこうかとついついスケベ心が出る。
 実際には、アルバム「ひまわり」の全曲を含めた新曲中心のツアーのセットリストそのままで、もはやドームをひとつの県民会館として扱うものだった。今にして思えば拓郎の勇敢な気骨に感心するが、この特別な場所で特別な夜になることを全力で期待していたのは俺だけではなかったはずだ。
 しかもアルバム「ひまわり」の全曲をこんなに大勢の一般老若男女の前で歌っちゃうことの不安もあった。このアルバムが悪いというのではない。しかし例えば「今はまだ人生を語らず」の全曲を歌うというライブならば俺はあまねく全国民に見てほしいと思う。だが、この「ひまわり」は、わざわざ知らない人には聴いてもらわなくてもいいんでねぇのと思えた。…それ悪いってことじゃん。んーそうかもしれない(爆)。「最後まで新しい歌でやります」という拓郎のMCに俺の席付近からは失望のどよめきというか悲鳴が起こったのが耳から離れない。
 そういう意味では拓郎の孤高なまでの覚悟と観客の深い情念は例によって壮大にすれ違っていた。
 しかも拓郎が開口一番言ったとおり、音がワンワンワンワンと回ってさすがに音に無頓着な俺でも聴きづらいったらありゃしなかった。俺が辛いんだから拓郎本人の苦痛はいかばかりか。そのうえスタンド席2階は客さえまばらなのも気勢をくじかれるようで切なかった。43000人はいなかったと思うぞ。
 そして何より住友生命の招待チケットで来ていた多くの一般人=拓郎に興味ゼロ=完成間もない東京ドームの見学にきただけの連中の醸し出す雑念たるや凄かった。早く帰ろうよとぐずる隣席のどこかのお子さまたち、演奏中なのに切れ目なく通路を無神経にぞろぞろ歩く人々の列。そのうえ途中で堂々と帰り始める人の群れ。俺は、そのまま○○に行くがいいと呪った。すまん。とにかく雑念と怨念が空中でバトルしあいながら充満していた。…そうですか先輩はビール臭にも我慢なりませんでしたか。大変でしたね。
…『混沌』、無秩序で、さまざまな要素が入り乱れ、一貫性が見出せない、ごちゃごちゃしたという状況がぴったしのカオス状態だったのだ。

2 表紙の一撃
 スポーツ新聞等では「拓郎ドーム、熱唱、熱狂」いう無難な記事ばかりだったが、俺の心はかなり荒んでいた。ライブへの不満というよりも、このカオスの中で俺は味わうべきもの味わえなかったのではないかという悔恨というか自己嫌悪のようなものに近かった。
 このカオスに満ちたドームをファンクラブの会報はどう報じるのだろうか。もちろん期待などしていなかった。そんな君の会報第2号が着く。
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 この表紙の写真だ。俺は個人的にこの写真に打ちのめされた。会報には石原信一先生が特別寄稿された東京ドーム公演のレポート「Distance(距離)」が掲載されているが、すまんが、それよりもこの写真が圧倒的だ。但し、これまで何人かの身近な拓バカにこの写真を見せたけど「え、この写真がどうかしたの?」というクールな反応ばかりだった。なのでそこに主観と客観の違いがあることはわかっている。ここからはあくまで俺の思い込みに限っての話だ。

 本番前のゲネプロか音響や照明チェックをしているところだと思われる。苛立ちを含んだような真剣な眼差し、ロダンの考える人より深い沈思黙考、全身に漂う剃刀のような孤独感、声をかけるのは憚られるような強烈なオーラが伝わってくる。これって映画「ゴッドファーザーPARTU」のラストシーンで深い闇の一線を超えたマイケルが独り腰かけて、ありし日の家族の食卓を思い浮かべる鬼気迫る孤独を彷彿とさせる。拓郎の場合には、鬼気迫ると同時に透明な何かを感じる。あのカオスの泥沼から抽出された結晶体のようだと思った。この写真でいい、これがいい、これだけでいい。ということで、当時はこの表紙だけを眺めながら日々は過ぎてゆき、今日も暮れてゆくのだった。

3 表紙から始まった感慨
 時間の経過につれて「チェック・イン・ブルース」というOPの凄さ「夕陽は逃げ足が速いんだの」の重量感、「望みを捨てろ」「その人は坂を降りて」「Woo Baby」「七つの夜と七つの酒」「帰路」…カオスの中でもうずうずしたあの日の演奏曲たちをもう一度聴き直したいと思うようになった。「ロンリーストリートキャフェ」の弾き語りはドームを瞬間的に制圧するほどの凄いものだったが、あれは学校の先生が騒がしい教室で急に大声で怒って一斉にシンとするみたいなもので、このライブの真骨頂はそこにはないと俺は思う。それも含めてあのステージを是非、県民会館クラスのホールで体験しておくべきだったな〜と悔いた。当時の経済状況じゃ無理だったけどな。とにかく音楽的にしっかり聴き込んでみたかった。
4 くもの糸
 このときに「上昇志向」と拓郎はMCで言った。「天才に向上心はいらない」と言った拓郎が口にする「上昇志向」。向上心と上昇志向の違いも今はなんとなくわかる。
 「僕は上昇志向でいます。諸君も上昇志向でいてください。そうすればまたいつか会えると思います。それまで幸せに。」…このMCを思い出すほどにグッときた。カオス状態のドームの天井から垂らされた一本の蜘蛛の糸が思い浮かんだ。拓郎は独りでそれを悠然と昇ってゆく。昇りたいヤツはさぁ昇ってこい、昇れたらまたそこで会いましょう。ということで俺も後に続いてチカラの限りその糸を昇ってゆく。カオスの沼から抜け出すように。ああ神よ「打ち水を通過する」と言うのはなかなかハードなものなのですね。…昇るとまた次の沼だったりするのだが、まぁいろいろあってもそれはそれ。
 ということで第2号は表紙だけで十分だ。…というのもゴーマンか。すまん。中味もちゃんと読もう。

 次回「100分de名著:会報第二号」は第二回「ひまわりを眺める人を眺める人を眺める」…をお送りします。

2023. 7. 18

100分de名著「マガジンT(創刊号)」を読む
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第三回 残された悔しさの中で僕らは生き続けひとりぼっちだ
1 昔の会報が語るもの
 ファンクラブの会報に限らず、昔の文章を読む場合、読み手はその後の歴史で起こる事実を既に知ってしまっている。知っているからこそ、あらためて当時は凄いことだったなと感心することもあるし、また思わぬ悲しみを感じることもある。

 創刊号「TAKURO LONG INTERVIEW」のインタビュアーは藤本真氏によるものだが、このインタビューの最後に、こすぎじゅんいちの「インタビュー観察日記」という小さな文章が付されている。「こすぎじゅんいち」…俺のような一般Pにはご素性は詳しくは存ぜぬとも雑誌媒体でさんざんお世話になったお名前だ。拓郎ファンにとって「こすぎじゅんいち」と「田家秀樹」は助さん、格さんみたいなものだ。拓郎と同年齢の田家氏の文章からは同志的な共感が溢れ、年下のこすぎ氏からは「兄貴ぃ〜」的な憧れが透けている。
 この会報のコラムの中で、こすぎ氏の「あと二年も経って僕も今の彼と同じ歳になったら…」というくだりに目がとまり固まった。こすぎ氏は、このおよそ二年後に44歳の若さで卒然と亡くなってしまうのだ。当時も驚いた。T'sでも訃報が回ったし、さだまさしは、「聖域(サンクチュアリ) 〜こすぎじゅんいちに捧ぐ〜」という唄を書いた。
 こすぎ氏のエッセイで、氏が深夜に酔って歩いて帰る途中に、拓郎が車を止めて「おい遠慮しないで乗ってけよ」と声をかけてくれた喜びを静かにかみしめる話がとても好きだった。ああ、少し泣きたくなる。

 この会報の編集長として、また宇田川オフィスの社長として陣頭指揮をとっていた宇田川幸信氏も、もう天国に召されている。毎回の編集後記「Mr.Uの路上観察日記」も楽しみだった。

 あと思い出したよ。この会報の記事には出てこないが、このアルバム「ひまわり」は、あの陣山俊一氏の経営していたスタジオを借りて作られていたとオールナイトニッポンゴールドで拓郎は述懐していた。そうだった。「あなたを送る日」と「ひまわり」が静かにつながる。

 そして創刊号には、ブレイクする前の「ナンシー関」が小さなコラムを書いている。無名時代にせよ、あの寸鉄人を刺す筆致は既に顕在だ。ナンシー関を見出したのは、あの「えのきどいちろう」だ。だからかナンシーの文章には拓郎のことも「拓郎ファンの知り合い」の話も時々出てくる。

2 僕らは生き続けひとりぼっちだ
 あれこれ会報を読みながら、ああ、みんなみんな天国に逝ってしまったんだなぁと切なくなる。みんなみんな吉田拓郎よりも年下だぜ。拓郎ご本人はどんなお気持ちだろうかと勝手ながらに思う。大きなお世話だよな。
 1978年の11月、吉田拓郎がゲスト出演した小室等の23区コンサートの目黒区公演で小室等は「おまえが死んだあとで」(作詞:谷川俊太郎)という新曲を披露した。♪おまえが死んだあとで青空はいっそう青くなり〜で始まる追悼歌は、最後に
  ♪残された悔しさの中で、僕等は生き続け〜ひとりぼっちだ〜

 〜という絶唱でしめくくられる。このときからこのフレーズがずっと頭から離れない。慕っていた人の訃報の度にこのフレーズが脳内をめぐる。ということで昔の会報を読むのはそういうところが辛いな。

3 そして「ひまわり」ってなんなんだよ
 そういうことを考えていると思い致すのは「ひまわり」だ。こすぎ氏のインタビューでも、本編の藤本氏のインタビューでも拓郎は「なぜ、ひまわりかって俺にもわからないんだよ」と答えている。本人がわからないなんてことはあるのだろうか?…と下種ファンの俺は思い、当時いろいろと考えてみた。例えば「ひまわり、夕立、セミの声」とか「バスは今、ひまわり畑を」とかあれこれと無い頭で悩んでみた。もちろん正解がわかるはずがない。それに万万が一、それが正解だったとしてもあのお方は絶対に「違う」と認めないだろう。あのお方はそういう人だ。>ホントにファンなのかよ

 あのとき映画好きの拓郎なので、そこにヒントがあるかもしれないと思い、ソフィア・ローレンの映画「ひまわり」を観てみた。実は昔の雑誌フォーライフ創刊号のコラムで田口清が映画「ひまわり」を絶賛していていつか観たいと思っていたのだ。話しを田口清氏まで広げてしまうので俺の話は長いのだ。映画は、戦争ですれ違う恋人の悲劇だが、そこに出てくる一面の見渡す限りのひまわり畑の美しさはそりゃあもう圧巻だった。「この下にたくさんの兵士たちが埋まっているんだよ」と地元のロシアの老婆が教えてくれて、ソフィア・ローレンは立ち尽くす。
 そして、ひまわり畑と兵士というとどうしても映画「幕末青春グラフィティRONIN」の最後の方で高杉隊がガトリング銃で殲滅されてしまう、ひまわり畑のシーンを連想する。ひまわりの花とともに散ってゆく死屍累々の中に、へたりこんで動けない高杉拓郎。あの撮影は炎天下で長時間にわたったそうで、あの時の拓郎の目には、ひまわり畑が強く焼き付いていたはずだ。

 ということで、ひまわりは失われた命と失くした夢の「墓標」であり、同時にそのうえに咲きほこり太陽に向かう「生」をも象徴していると思う。死と生、悲しみと希望の間を回り続けるのが「ひまわり」…「神様、生きることはひまわりなんですよね」と問いかける…というのが当時の考えだったのだが、…えーい言うな、違うよな。それでもいいじゃないか、すべては冥途の旅の一里塚、神は必ず旅を許されるのだ。

 ということで「100分de名著マガジンT(創刊号)」を読む」はこれまで。長い、うざい、しつこい日記>いつものことだろ!をお読みくださりありがとうございます。

 不定期連載、次回から「100分de名著 マガジンT(第2号)を読む」をお送りします。>もういいよ
 ついにリリースされた不思議なアルバム「ひまわり」、前代未聞のカオスの東京ドーム公演をこのファンクラブ会報はどのように迎え、どのように報じたのか。ひまわり発売前から次のアルバム制作をぶちあげていたこの次回作はどうなってゆくのか、俺は知りたい。いや歴史は知っているのだが、もっと詳しく歴史を知れば歴史は変わるかもしれないじゃないか。

2023. 7. 17

☆☆☆そうだ忘れていた☆☆☆
 会報のLONG INTERVIEWで、アルバム「ひまわり」のレコーディングの際に、コンピューターの打込みとミュージシャンを入れてのスタジオ作業がしっくりいかない苦悩を語っていた拓郎。同じ問題を最近のオールナイトニッポンゴールド(2020.7.29)では、拓郎はこんな風に話す。

 コンピューターを使って打ち込みというのは、音楽的なセンス…アレンジ能力とかアンサンブル編曲能力が求められる。技術に熟練すると同時にどうやってデータに人間が実際に演奏する楽器をイメージしてミックスするか。コンピュータの打ち込みサウンドとヒューマンサウンドとどうミックスさせるかが問われる。


 いいね。「ひまわり」の暗中模索から30年余り、熟練した技術者のような語り口がカッコイイのである。

2023. 7. 16

☆☆☆はやく観に行きたい☆☆☆
 徹底した秘密主義によって、なんの事前情報もないので、とりあえず原作とこの歌を復習しておいた。>拓郎は関係ないだろ。いやいや、もし万が一アンサーソングとしてこの歌がテーマ曲に使われていたとしても驚かないよう用心のためだよ(爆)。>ぜったいねぇよ。いや、わからない、この世界のすべては網の目のようにつながっているのだよ、コペル君。
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2023. 7. 15

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100分de名著「マガジンT(創刊号)」を読む

第二回  暗中模索の打ち水を通りて

□肩透かしと打ち水
 記念すべき公式FC会報の創刊号のメイン記事は吉田拓郎ロングインタビューだ。しかも翌月にニューアルバム「ひまわり」のリリースと東京ドーム公演を擁する全国ツアーが始まる。ファンとしてはこのうえない盛り上がりの時だから、例えば"最高のニューアルバムをひっさげて東京ドームでつま恋を超えてやるぜ!"みたいな燃える系インタビューを期待してしまうところだ。しかし、俺の感想では、これが完全な肩透かしだった。まるで中途半端なカーリーヘアーのようにフワフワつかみどころのないもので、燃え要素はほぼゼロだった。個人的にはこの言葉だけが妙に印象に残った。

  お茶でお客さんを迎えるときに、きれいな水をまいておくわけ。
  その「打ち水」をしたんだ。この「打ち水」を通過してない客は、無礼な客なの。

 …結局、この「打ち水」の意味をずーっと考えさせられることになる不思議なインタビューであった。ということで、もう一度2023年の今にあらためて読み直してみたい。

□変われないこっちとあっち
 インタビューの冒頭で、前回のコンサートツアー'88 SATETOの感想を問われた拓郎は、活動休止直前のつま恋85の時に「まぁ飽きたな」「この連中ともそろそろ縁を切りたい」と思っていたファンたちと2年半ぶりに相まみえた感想をこう語った。
「それほど斬新な気持ちになれなかったし、こっちが新しかったのかといえば俺もそうでもなかった…こっちもあっちも大して進歩してないという確認ができた。」

 …オイ、それがこの3年間なんの保証もなく待ち続けたファンに対して言う言葉かっ!と大いにムカついたものだ。
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 しかし2023年の今この時にあらためてこの言葉を読み直すと印象がまったく違う。「なぁ、俺達は結局、変われなかったよなぁ」「これからどうするかねぇ」…なんとなく拓郎にそう語りかけられていたような気がしてくる。今ならわかる。こぶしを振り上げ「やるぞー!」「おー!」の時代はとうに終わった。そこにもう天使なんかいない。吉田拓郎も拓バカの私たちも、どんなふうに生きてゆけばいいのか、ひたすらの「暗中模索」状態で彷徨っていたのだな。

□打ち込みに打ち込む推し
 アルバム「ひまわり」はレコーディングが遅れ、当初の1988年11月発売日が89年の2月に延期された。「すごく優秀なレコード作り人間で、期限にはびったり間に合うようにしていた」「期限前にできる人なの」と無念を語るったそこかよ、と当時は思ったが、まさにそこだ。「ah-面白かった」の制作、前倒しペースは記憶に新しい。こういうところに吉田拓郎の矜持があることがわかる。
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 遅延の原因は、吉田拓郎が当時傾倒していた"コンピュータ"だったことを明かす。拓郎はコンピュータの打込みで精巧なデモテープを作り上げた。「デモテープを聴くとすごくいい」しかしそれをスタジオで再現しようとすると「自宅で作ったニュアンスが出ない」「死んだような音になってしまう」「なんでこのニュアンスが出ないんだ」と呻吟し難航してしまったようだ。
 スタッフからは精巧なデモテープそのままでいいじゃないか、スタジオでの作業は無駄じゃないかという意見もあったようだ。インタビュアーの藤本真氏(初めての吉田拓郎のインタビューとのこと)からもコンピュータが使いこなせれば、"人は要らないですよね"…との質問に対して拓郎はキッパリと「必要なのよ、人間は必要なんだよ、本当に必要な人間が最小限…」と切り返した。
 拓郎の言葉には、コンピュータの打ち込みだけではなく、そこに優れたミュージシャンの手をいれてこそ、より良き音楽が完成するんだという固い信念を感じた。
 そして苦闘のすえ「あれも欲しいこれも欲しい」とスタジオで加えた音から「贅肉を削ぎ落してゆく作業」に変えてゆくことによって、デモテープよりも良い作品にすることができたとその完成プロセスを語る。

…んん、俺にはムツカシイ。ただ俺は当時も何もわからないくせにコンピュータにも打ち込みにもかなり否定的だった。あの"俺が愛した馬鹿"の「風になりたい」や"マッチベター"の「いくつもの夜が」の機械音がたまらなく嫌だった。それにバンドを集めてセッションすりゃ全てすむことじゃないか。
 しかし今になってこのインタビューのくだりを読むと拓郎はコンピュータの虜や奴隷になっていたわけではなく、クールにより良い音楽のステップを登るひとつの過程に過ぎないと考えていることがわかる。よりよい音楽に近づくため、あるいは楽しむためのツールとして、コンピュータを自家薬籠中のものにしようと熱心だったのだ。コンピュータによりてコンピュータのさらに上へ。そんな拓郎の音楽的格闘が垣間見えた。

□ひとりぼっちの暗中模索
 気勢が上がらないため、たぶんインタビュアーが盛り上げなきゃということで"「マッチ・ベター」以降、拓郎さんは新境地を目指している気がするのですが?"…という質問に対して、拓郎は「暗中模索」しているだけで「新境地なんてめざしていない」とキッパリ答える。いいね、拓郎のこういう虚飾のないところがなんとも素敵だ。
 しかし、拓郎は、それだけでなくニューアルバムが完成したばかりなのに「今作っているLPもそう「これだあ」なんて思っていない」と言ってのけてしまう。「市場に出始めてある種の共感を得たとするじゃない…そこをバネにして何かやるかもしれない。これがまた共感がなくて(笑)ね そうするとまだ俺の暗中模索は続いていくんだな」…実際にそのとおりだっただけにちょっと切ない。
 インタビュアーは、たぶん困って「「マッチベター」ではそういう手応えはある程度なかったですか」と尋ねると「ないですよ」とこれまたキッパリ答えた。新境地とは無縁で、共感も得られず一人で暗中模索する拓郎。ああ、ひとりぼっち、孤独だったのだな…今になって思う。

□聖なる経年と老いに祝福を
 そして、「ひまわり」の意味は「自分でもわからない」と一蹴し、アルバムのコンセブとらしきものを語る。
 「「ひまわり」とか「約束」とかでいっこ気にしていることがあってさ、それはやっぱり『衰え』じゃないかな、肉体も精神も含めていろんな意味で、それが枯れていくってことをどう自分で処理していくかってことが結構あるね。衰えみたいなことが開きなおりではなくて、決してわるくないと。いいかもしれん。」

 この頃から拓郎は老いと衰えを率直に口にするようになる。もう自分には昔のようなバイタリティも才能の煌めきもなくなりつつあると自認することが多くなる。
 いくつになっても若くて元気なことが美徳であるこの国の呪縛の対極に立つ。しかし、そういう拓郎には暗さや哀しみはみられない。諦念もない。当時はよくわからなかったが、今読むと、堂々と坂を降りていきながら、それが同時にどこかへ陽の当たる高みへと上昇していくような、そんな清々しさを感じる。

 進歩しないファン(悪かったな)、見えてこない新境地、新しいツールを駆使して音楽の高みにトライしてもなかなか「共感」にも「これだ」という手応えにもたどり着かない、心身は否応なく衰えてゆく…そんな彷徨いの中、孤高に「暗中模索」を続ける拓郎。
 このインタビューの希望は、吉田拓郎がアルバム完成直後にもかかわらず、快活に「また春先にやりたいという気持ちがあって、また始まるでしょ」「3月くらいから俺は次のアルバムに入るよ」と心を決めていることだ。陽気でしたたかな暗中模索はつづく。今にして思うのは、この人はこんなにも本当に音楽のことが好きだったんだなというシンプルな事実だ。
 それにひきかえ、ここまで孤独な放浪を続ける推し、誠実に暗中模索の中にいる推しに対して、俺は誠実だったろうか。その音楽をちゃんと味わっていただろうか。今さら昔のインタビューを引っ張り出して、おそらく誰も読んでいないだろうこんな駄文をダラダラ綴る意味はそこにあると思っている。

□そして水は打たれた
 最後に、東京ドームあるいは「ひまわり」という「打ち水」を用意したことを語る。この「打ち水」を通過してない客は、無礼な客なの。と私たちに投げかけてきた。
 インタビュアーのコンサートの内容についての質問に「コンサートの事、全然考えてない…お正月に温泉つかって3〜4日で間に合うでしょう」…と答える。これは嘘だ。まずもって吉田拓郎は温泉が嫌いなはずだ。それに2月8日からツアーなのにこの時期に内容が決まっていないはずがない。
 このインタビュー時には、ああいう「予想外のドーム公演」の内容も決まっていたはずだ。あの公演が多くのファンの期待をあらためて突き放すことも決めていたに違いない。ファンクラブとはいえ安易な「共感」は拒否して孤高の道をゆく吉田拓郎。暗中模索とは決して気弱に彷徨うことを意味しない…断固として彷徨うべくして彷徨うのだという覚悟…吉田拓郎が撒いた「打ち水」の本当の意味が今はようやくわかりかけてきたような気もする。

 ということで万感の思いをこめてアルバム「ひまわり」を聴き直したい。34年前のニューアルバム、なんか曲が少なくね?、機械っぽくね?、暗くね? 、中身よりもジャケットが一番よくね?とさんざん悪態をついたアルバムを聴き直してみよう。

 次回第三回 「残された悔しさの中で僕らは生き続けひとりぼっちだ」

2023. 7. 14

☆☆☆ひとりぼっち☆☆☆
 いろいろなニュースがやりきれない。それらはすべて俺を含めた大人の責任である。だからこそ、やりきれないのだ。このことに関連するのかしないのかわからないけれど、昔(2020年)の吉田拓郎のオールナイト・ニッポン・ゴールドでのこんな言葉が思い出されていた。

 アーティストはワン・エンド・オンリー。孤独な生き物であることを感じ取ってほしい。僕も本当にひとりぼっちです。70何年間、僕らはひとりぼっち。
 僕らの仕事、生きざまはひとりぼっち、孤独で厳しい環境で音楽を作っている。孤高のメロディーメーカー。あの人もこの人もこうやっているんだからとそれが一番野暮で失礼なことだ。そういう言い方、あの人のようにというのは通用しないんだ。その人の世界観なんだから。その人の世界観を愛しているなら。みんなが左に行きました、でも私はこっちに行きたいということがある。それを、あの人はこうなのにどうなの?と非難するのは大きな間違い。ひとりひとりが孤高のアーティストなんだ。
 他の人との比較ではなく見つめてあげてほしい。映画とかのエンターテイナーに対してもそう。そういうのは失礼なことだ。(吉田拓郎のオールナイト・ニッポン・ゴールド 2020年11月13日放送)


 あなたもわたしもアイツもコイツもみんなひとりぼっちなんだと心の底に落としてからそれぞれの営みを始めたいものだ。「個人の尊厳」「個人として尊重される」という言葉は「ひとりぼっちの尊さ」「ひとりぼっちとして大切にされる」といいかえるとよく伝わるかもな。こっちのことですが。

2023. 7. 8

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100分de名著「マガジンT(創刊号)」を読む

第一回  SATETOから始まる物語(ストーリー)
 吉田拓郎初のオフィシャル・ファンクラブ「T's」。その名前には愛しさと共に一抹の哀しさも感じる。愛と哀しみのT's。今あらためて会報を読み返すとき、そこに何があるのか、あるいは何もないのか。100分de名著、今月はマガジン「T 」創刊号を読みこんでまいります。

1  遅すぎた春
 吉田拓郎初のオフィシャル・ファンクラブT'sが発足し会報のマガジン「T」が発刊されたのは1989年1月。デビューから約19年後のことだ。遅い。かなり遅い。
 遅くなった理由はたぶん明白だ。例えば78年ころのセイヤングで拓郎本人が明言していたように、吉田拓郎自身がファンクラブに否定的だったからだ。徒党を組んだり、肩を組んだり、そういう仲間意識が嫌いな拓郎のポリシーがゆえんだ。…とはいえ自発的な私的FC「たくろうさあくる」「拓郎軍団」に対しては温かい目で見ていた気がする。特に篠島なんかは「拓郎軍団」がひとつの大きな支えになっていたのではないかとすら思う。
 むしろ拓郎は自分が公式にFCを作ることで出来上がる「徒党」の加入者、非加入者というファンの分断を嫌ったのだと思う。ファンはひとりひとり自由であるべきだ、しかし自発的なファン同士の交流には何も言うまい…そんな拓郎の思想が覗けた。
 それにそもそも当時の拓郎には深夜放送という無敵のラジオ媒体があった。そこいらのFCなんかよりも拓郎を深く味わい、心を交わすことができたからFCの必要性も低かったのかもしれない。かくしてファンクラブのないまま19年が過ぎて行った。

2 1989年の吉田拓郎の実際 ある種の極北
 ということでFC不要の19年の間に、破竹の70年代が過ぎ、艶熟の80年代も本人自らつま恋85で終わらせ、その後3年間も世間の表面から消えていた吉田拓郎。世間も多くのファンですらも吉田拓郎はもう「終わった人」だと思っていた。
 そんな拓郎が1988年"サッポロ☆ドライ"のTVCMに現れ、打ち込みアルバム"Much Better"をひっさげて"SATETO"ツアーで復活を遂げる。その"SATETO"の後にこのT'sは発足した。
 しかし俺の独断だが、1988年のこの復活は、俺を含めた奇特な拓バカ達は喜んだものの、決して華々しい復活ドラマとはいえず、どれもこれも大してパッとしなかった。サッポロドライのCMはトットと広岡監督に交代し、打ち込み主体のアルバムに人々は戸惑い、ツアーも熱狂禁止=座って聴かにゃならん不完全燃焼なものだった。当時の音楽雑誌のレコード評で「もはや吉田拓郎に現役感はない」との悲しい言葉もあった。
 こんなにも世間の風が冷たく切ない時期に、公式ファンクラブは船出したのだ。これがもし70年代、80年初頭の時代だったら諸人こぞりて盛り上がり劇的に違ったものになっていただろう。とにもかくにも祭りのあと、そんな祭りすらも世間が忘れ、その名が過去のものになったとき、息をひそめ漕ぎ出るように始まったT'sというcaravanなのだ。

3 どんな会報だったのか
 かくして遅れてきたファンクラブと会報は、徒党を嫌う拓郎のポリシーを反映したように、ファンとの交流をシャットアウトしたアーティストのみからの発信=送り手本位という方針だった。それだけに会報には力一杯、活字が満ち溢れていた。こういうところはそこらの会報とは違う矜持があった。

[創刊号]1989年1月
[サイズ]13p×21p…小さい。老眼じゃ読めない。
[表紙]アルマーニを着た吉田拓郎の後ろ姿、裏表紙は同じく宇田川さんのスーツの後ろ姿。スタイリッシュな吉田拓郎を打ち出すという宇田川編集長の戦略が覗く。当時はなんかこそばゆかったし、今観るとバブルの香りがむんむんする。
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[メイン記事]吉田拓郎インタビュー。アルバム"ひまわり"の制作と来るべき"東京ドーム"に向けてのおはなし。写真も文章もここから抜粋されたものがそのままコンサートツアー1989のパンフに転用されている。これはこれで貴重なインタビューなので次回に読み込みたい。
[コラム]拓郎ファンからのおたよりとか交流とかを拒否し、一方的にニューヨークの話とか、吉田拓郎とは直接関係のない映画とか、クルマとか、ファッションとか、アートとかおしゃれな生活とかのコラムが提供される。…必要なのか。それはいいけど、どの記事も面白くない…特に吉田拓郎のエッセイを英訳した「TAKURO ENGLISH ESSAY」という英文記事に至っては誰が読むんだよ、宇田川さんアンタどうかしているよと叫びたくなった。ただし今になって読み返すと、創刊号にはまだ無名の頃の「ナンシー関」が小さなコラムを書いていてこれだけは嬉しかった。

4 SATETOからALONEまで
 会報の中でフリーライターの生方迷氏の小さなコラム記事で、「"SATETO"から始まる物語(ストーリー)」という言葉があった。イイ言葉だ。そういうことだ。結局このT'sは、1989.1〜1992.8までおよそ3年間にわたって続いた。それは"SATETO"から始まって3年後、"ALONE"ツアーに出掛けてゆくところで終わる。92年だから「LOVELOVEあいしてる」の夜明けまではまだ遠く、俺たちの孤独な雌伏の旅はまだまだつづく。でもそういうところがいい。歴史とは華々しいイベントや出来事だけで組み立てられているものじゃない。静かなる日々の営みを結んで続く歴史もある。地を這うように始まり、地を這いながら、地を這うように流れてゆく、それも愛しい歴史だ。それがT'sなのだ。

5 埋もれし魂の輝き
 あれれ、なんかさんざんディスってしまったみたいだが、誤解しないでくれたまえ。世間や多くのファンに見向かれなかったかもしれないが、断じてこの時期の吉田拓郎の音楽的クオリティ低かったわけではない。その真逆だ。このさまよえる時代に、数々の素晴らしい音楽を紡いでいたことは、ここを読んでくださっている先輩と同志の方々はおわかりでしょう。俺が読み込みそして書きたいのは、この切ない不遇の時代にもかかわらず、この時の吉田拓郎とその音楽がどれだけ美しくドラマチックでとことんすんばらしかったかということだ。
 SATETOから始まる物語(ストーリー)、それは光のあたらぬ行軍(caravan)の輝きをみんなで確かめ合うような、そんな道ゆきである。
 この時期は、ラジオのレギュラー番組もなく、ほどなくして新譜ジャーナルもなくなり、もちろんテレビにも出ない。ネットだってない、世間の話題にもならない。そこを単身バックアップしていた公式ファンクラブとその会報のおかげで、潜んでいた吉田拓郎の魅力をあらためて胸に刻むことができる貴重な文献なのだ。ということで「マガジンT」を読み直すことは、吉田拓郎を好きになり直すこと、ひいては吉田拓郎を選び直すこと、そんな旅路なのだ…と思うよ、たぶん。

 とはいってもリタイアした歌手の昔の会報を読み直してるイタイ奴だとバカにしてくる人々もいるかもしれない。じゃあそういうおまえに何がある、どこにある、誰がいる…一部おしまいです。

 第二回は 「打ち水を通りてわれはゆく」…創刊号のロングインタビューを読み解いてまいりましょう。読み解くなんておこがましい、読ませていただきましょう。

2023. 7. 7

☆☆☆7月7日☆☆☆
 今日は七夕かぁ。あまり気にしたことない行事だ。でもふと思い出した。1979年7月7日のセイヤングの冒頭で「流星」のピアノのイントロが流れて「えー今日は七夕ですが、僕も誰かに逢いたい…そんな気分ですな『流星』…」。あぁ、俺も誰かに逢いたい…そんな気分ですな。

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2023. 7. 2

☆☆☆あなたのdestinationはまだ遠く☆☆☆
 知り合いのドイツのバレリーナが今月で退団して帰国するそうだ。思えば12年前にわずか16歳で単身ドイツにわたり見事にプロとして身を立てた。いろんなことがあったでしょう、人に隠れて泣いたでしょう。
 16歳だ。本人も親も超絶心配で日本の家族とドイツで毎日skypeで生存確認を続けたそうだ。日本は午前6時でこれから出勤,ドイツは一日を終えて夜11時…とにかく毎日毎日skypeをつなぐ。ホームシックなお互いから、やがて自立をはじめると親が疎ましくなり画面はつないでも「ん」しか言わなくなる、しかしやがてそれも超えて向こうから日本の親の安否を心配するようになる。静かなる変化と成長。

 こんだけ遠く離れていても顔を見て話せる…skypeという文明のチカラにはおそれいるが、でもしょせんツールにすぎない。最後は毎日毎日そこに血を通わせた人間のチカラだ。向田邦子の「字のない葉書」や村上龍の父親が東京に出て行った息子に毎日葉書を書いた逸話の世界だ。

 そんな12年のskypeも最後となった。その記念すべき最後に彼女は記す。
   「始まれば終わる」
 ああ、あのお方の歌詞にもなった口グセと同じだよ。西田幾多郎先生に「時間はただ流れているものではなく、人が絶対的な自由意思をもって動く瞬間に初めて動き始めるものだ」という趣旨の言葉があった。俺のようにけじめもなくさしたる意思もなくダラダラと生きている人間にはピンとこないが、吉田拓郎にせよ、彼女らにせよ、何かを魂をこめて始めた人には深い実感として「始まれば終わる」と言う言葉がしみ出てくるのかもしれない。
 とにかくお疲れ様でした。「始まれば終わる」…あ、英語でそういうんだ。

  Everything has its beginning and ending.

2023. 7. 1

☆☆☆雨の中で並んだ☆☆☆
 駅前の雨のタクシー乗り場に並んだ。…なかなか来ない。結構長くジリジリと待っていた。こうしていると昔の武田鉄矢の話を思い出す。若き吉田拓郎が福岡でのフォークコンサートのゲストとしてギターケース抱えて単身でやって来た時、まだシロウトだった武田鉄矢が空港に迎えに行った。拓郎と武田が二人でタクシーのりばで順番を待っているとき、拓郎は、終始ずっとブスっとして口もきかない。武田はその不機嫌な様子に思い切りビビる。しかし、やがて順番が来て乗り込もうとすると、拓郎はすかさず自分の後ろに並んでいた杖をつきながらフラフラとようやく立っているお爺さんに「どうぞ」と順番を譲ったのだった。武田はその刹那…あゝ〜カッコよかね〜と思わず唸ってしまったというお話だ。
 俺も時々吉田拓郎にムカつくことがあるが>あるのかよ、その時にこの話を思い出すと気持ちが持ち直す(爆)。
 この話を聞いて以来、俺もタクシーに乗る時は、一応、後ろを振り返ってしまう。今日も振り返ってみたら後ろは俺より若くて強そうなご婦人二人連れだったので、オイラお先にちょいとゴメンと心の中で呟いて乗り込んだ。やれやれ。

 そうそう、武田の話の続きで、その日のステージで拓郎はずっと不機嫌なままで、客の手拍子があってないと怒って歌を途中でやめたり、最後の歌を歌う前に、とっとと片付けを始めたりして「今日はアンコールしませんよ」と捨てゼリフを吐いて、実際に歌い終えるとそのまま帰ってしまったという。やっぱりひどい人だなぁ(笑)

 もちろん昔日の話で、最近の拓郎はファンに基本的にずっとやさしかった。あくまで基本的な。これが結局、歳をとるとみんな好々爺になってしまう説が出てくるゆえんだ。あ、もちろん良い意味で。

2023. 6. 30

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☆☆☆歳とることは避けられぬから☆☆☆
 家人が小田和正のライブに行ってきた。思ったとおり美しい歌声だったと感激していた。観客の情熱も熱く燃えていて、最後、客席にヒト型の散華みたいなものが降り注いだ時には周囲にどつかれまくって死にそうだったらしい(爆)。とにかく堪能したようで良かった。それにしても肩で風切るオフコースの印象が強かった彼女には「あんなにファンにやさしくサービスするような人だったかしら…」と不思議がっていた。最近になっていろいろライブを観ている感想を突き合わせてみると、吉田拓郎、井上陽水、谷村新司、さだまさし、小田和正…結局、歳をとるとみんな同じような好々爺になってしまう説…が一瞬頭をよぎったが、何かミもフタもない学説なのでまだ確信はしていない。

2023. 6. 25

☆☆☆ロストフの長い一日☆☆☆
 まったく昨夜は下手したら核戦争が起きるんじゃないかと手に汗を握った。こんなロストフの14秒はごめんだ。まったく戦争は本当に勘弁してほしい。

 「八曜社」「マガジンT」というとなつかしの「T's」だ。デビュー約20年目にして初めてのオフィシャル・ファンクラブだった。その前にユイ・ミュージックファミリーというのもあったがあれは事務所会報だったし。

 やはりファンクラブといえば、私設の「たくろうさあくる」「拓郎軍団」だ。よくは知らないが、会報をいくつか見せてもらったが、その熱度、攻め方、そして長い歴史すべてにおいて素晴らしい。こんな弱小個人サイトとは根本的に質が違う。私が処女作執筆中の椎名桜子とすれば、あちらは紫式部と清少納言みたいなものだ。わかりにくいか。こちらが「日ペンの美子ちゃん」とすれば、むこうは「ガラスの仮面」と「ジョジョの奇妙な冒険」みたいなものだ。もっとわかんねぇよ。

 二大私設ファンクラブにはアンタッチャブルなので、初の公式ファンクラブ会報「T」を読み直してみる。昔の会報読み返すなんて他にすることねぇのかよ…ねぇよ!ねぇんだよ!
 ということで、近日中に「100分de名著 マガジンT 創刊号」(仮題)を開始する予定。しないかもしんないけど(爆)。

2023. 6. 24

☆☆☆電車がレールを鳴らすたび☆☆☆
 今日は仕事でかなり遠くまで行くために長らく電車に揺られていた。「太陽の子」を読み直しましたという、とある拓郎ファンの方の嬉しいお言葉に、自分も読み直したくなって何十年ぶりかで引っ張り出してみた。若い頃よりも明らかにいたたまれないツボが増えている。お父さんの発作の描写はもう胸がしめつけられるようで泣けた。最後の方で"ろくさん"という爺さんが戦争時代の自分の凄絶な過去を刑事に語り問い詰める場面がある。この話がショッキングで、これを描いたところがこの小説の凄みだと思う。映画ではこの鬼刑事は大滝秀治だったな、高飛車だった刑事が最後に打ちのめされたように「どうか服を着てください」とろくさんに言う言葉があの大滝さんの声で蘇えってきた。
 電車の中ではどこかの元気なお子さまたちがホントにお元気そうたったが、今日はこの本のおかげであまり気にならなかった(爆)。そうして、あれこれと思いも飛んで、そうか「太陽の子」は「理論社」だったのだなと気づく。子どもの頃、ずいぶんとお世話になった出版社だ。今も残っていると言えば残っているし小宮山量平さんの「理論社」はもうないといえばない。
 そして、いろいろ言っても結局は、ただの拓バカなので「理論社」といえば、そういえば「八曜社」ってどうなったのかなと思いが飛んだ。確か公式ファンクラブマガジン「T」までは八曜社を確認した記憶があるが。ああ、わが青春の八曜社はいずこへか。…ってまだあったら申し訳ないけど。
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2023. 6. 23

☆☆☆太陽の子☆☆☆
 沖縄慰霊の日だ。この日をついつい通過してしまうことも多い。申し訳ないです。沖縄といえば昔、灰谷健次郎の「太陽の子」という小説が好きで、大竹しのぶ他の出演で映画化もされて観に行ったことを思い出した。もうすぐお別れの聖地中野サンプラザでの上映会だった。小学生の一群が観にきていて、大騒ぎするクソガキお子さまたちを注意したりしていて十分に味わえなかったのが残念だった。最近の配信サービスでは「太陽の子」というと同題の別の映画しか出てこない。こっちが観たいのは「太陽の子 てだのふあ」だ。
 小説も映画も"ちむぐりさ"という沖縄の古い方言が心に妙に刺さる。"肝ぐりさ"…心が痛い、心がつらいという意味のようだ。市街が戦場になるとはどれほど陰惨なことなのか、そういう怖さの深淵を覗かせてくれた。そこに蓋をして自分の心の中だけで格闘しながら生きる人々。闘いつづける人の心を誰もがわかってるなら。自分の不明をあらためて思いつつ、心の底からご冥福をお祈りします。

2023. 6. 21

☆☆☆ちっぽけな花をひとつ咲かせておく☆☆☆
 「見出し人間2023」の打ち上げ花火の話には恐れ入った。ああ、思いつきもしなかった。書いたご本人は否定するかもしれないが、とてつもなく深い拓郎愛がうねっている。すんばらしい。比べて自分で解約したwowowについていまごろブチブチ言ってる俺なんぞとは器の大きさが違う。花火…来年こそは実現してほしい。

 花火…花といえば、去年、職場の引っ越し祝いで友人からいただいた蘭が一輪だけど花をつけた。仕事場のスタッフが一年間、密かに丹精をこめてくれたおかげだ。
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 これまで花になんか1ミリの関心もなかった俺だし、花もそんな俺のことが嫌いだったはずだ。それでもこの一輪はなんかとても嬉しくて、迷惑を承知であちこちに写真を送った。この花は私です、やっと綺麗に咲いたのです>ってヤメロよ。僕も少し変わったでしょう。

 そうなると名作「季節の花」だ。ああ〜この歌はライブで聴きたかったよな。いや、今からでも遅くはない、是非歌ってくれまいか。…って、いつまでもしつこいか。あなたがライブをしてくれなくても魂でCDを聴けばいい。はっ!あなたがしてくれなくても…そうか、タイトルを聴くたびに赤面していたが、そういう推しレスの意味のタイトルだったのか、さすが奈緒さん。ちげーよ。
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あなたがしてくれなくても
また雨が降り また風が吹き
またウソをつき また夢を見る
またウデを組み また歩き出す
あなたがしてくれなくても
また陽が昇る また涙する

あなたがしてくれなくても
また会えるまで また別れても
また迷っても また探す道
また背伸びして また立ち止まり
あなたがしてくれなくても
またほほえんで また口ずさむ

ん〜なんか繋がった。いま酔っぱらってるだけかもしんないけど。

2023. 6. 18

☆☆☆あとの祭り☆☆☆
 昨夜は、いちおうWOWOWにチャンネルをあわせてみたが映らなかった。あったりまえだ。DVDは持ってるし何回も観たし、もういいやと思っていたが、この今という時期にWOWOWが世界に向けてここまでのプログラムを催していることの重さを考えなかった。ありがたいじゃないか。…かくして仲間外れのような、Sold outで入れなかった渋谷公会堂の前にひとり立ち尽くしているような寂しい気分になった。
 ああ、持ってるし見たからイイだなんて。"僕は、正しく傷つくべきだった。本当をやり過ごしてしまった。"…と映画「ドライブ・マイ・カー」の西島秀俊になりきって悲しんでみた>バカじゃねぇの
 やはりWOWOWに入るべきか。…そうだ、今後は未公開カットを入れてくれるということで手を打とうじゃないの>何様だよ

"ah-面白かった"のリリースからもう一年だよ。なんだかなぁ。

2023. 6. 17

☆☆☆それほど豊かでもなくなった中、沈みゆく島☆☆☆
 その映画「日本沈没」で、東京大地震による大火災の中逃げ惑う被災者の大群が皇居の前に殺到して、入れろ!ダメだ!という緊迫状態になる。避難民の制圧という意見も出る地獄絵図のような中で、丹波哲郎演ずる山本首相が「門を開けてください、総理大臣の命令です。直ちに宮城(皇居)の門を開けて避難者を入れてください」とキッパリと指示をかますシーンは子どもながらに感動したものだ。…ああ、それに比べて(略)…つづきは居酒屋で。
 この映画の予告で正確な表現ではないが「日本にノアの箱舟は現れるのか!?」という趣旨のテロップがバーンと出てきたのも衝撃的で忘れられない。
…その2年後、名前は忘れたがとあるミュージシャンの歌の歌詞に"ノアの箱舟が笑って消えた"というフレーズが出てきてびっくらこいた。なんて詞を書きやがる。聴くたびにあの予告編のテロップが浮かんできて困った。このフレーズは、あの歌の持つ、そこはかとない悲しみを倍加させてくれる。
 ということで沈みゆく島を思いながら今日のソウルメイトな曲は「明日に向って走れ」(アルバム「LIFE」のリミックス・バージョン)でお願い。

2023. 6. 16

☆☆☆沈みゆくもの☆☆☆
 ここのところ仕事でよく逗子方面行の京浜急行にゆられる。途中で「本牧」の駅を通過するたびに「旅立てJACK」が浮かぶ。"♪でも本牧のディスコへ行けば アイツのステップに星もたじろぐ"…どんなステップなんだ。ということではなく、高2の時に初めて聴いて以来、"1億人が見せかけだけの豊かさの中、沈みゆく島"というフレーズが胸に刺さったままだ。松本隆の見事な一撃なのだ。

 「沈みゆく島」というと小学生の時に大ブームになった映画「日本沈没」を思い出す。大地震、天変地異が繰り返されボロボロになった日本から、散り散りばらばら海外に大挙して脱出してゆく日本人たち。どこの国も受け入れに嫌な顔をし、子どもながらにも行った先で幸せな生活が待っているとは到底思えなかった。それがたまらなく怖かったのだ。
 最近の一連のニュースを観ながら、例えばこの映画で、命からがら避難した外国の入管で難民申請が認められずに沈みゆく日本にドシドシ強制送還されたとしたら…と妄想したら再び鬱な気分になった。諸外国からはこの国のメリットになる日本人しか要らない、それはあなたがた日本の入管法と同じことしているだけだから問題はないでしょ…といわれたりしないか…ただの妄想だろうか。
 日頃から国際ツウとか国際化とかグローバル化とかをドヤ顔で標榜されているたくさんの専門家の方々よ、教えてくれ。端的にこの入管法でいいのか。私らが、日本沈没のように難民になったり、なんぞあったときに諸外国が、いつもフレンドリーでクールなジャパニーズよ、ウェルカム はあと…と両手を広げて迎えてくれるのだろうか。それとも鎖国には鎖国返しとか厳しい仕打ちをされないのだろうか。…俺は政治論をぶちあげたいのではなく、ひたすら怖いだけなのだ。

 1977年ころのインタビューで「日本が沈没したらどうしますか?」というインタビューで、拓郎はギターをつなげて船にして俺は絶対生き残ると豪語していた。んーやっぱり拓郎だけだな信用できるのは>ホントにそう思ってるのかよ。思ってますとも。
 

2023. 6. 13

☆☆☆それでも、生きてゆくH坂元裕二受賞記念☆☆☆
 名セリフを強引に拓郎関係に引き寄せてしまう牽強付会な罰当たり企画も今日が最後だ。それにしても坂元裕二さんには珠玉の名言がありすぎてとても絞れない。そんな中で個人的な第一位はこれか。

<第1位>
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                (ドラマ「大豆田とわ子と三人の元夫」…松たか子)
[解題]
 3回結婚し3回離婚した大豆田とわ子。「離婚も結婚も両方お好きなんですね」と相槌を打たれてしまう大豆田とわ子。娘が二番目と三番目の元夫のことをを「Season2とSeason3」と呼んでいる大豆田とわ子。そんな彼女が中学の頃の「一匹狼」という謎の習字を見つけてしみじみと呟くこのセリフがいい。
 ああ中学の卒業作文も高校の卒業作文も吉田拓郎だったことを思い出す。そうであろうとなかろうと、まさにこの道を来た私たちと重なる。私たちって、勝手に連帯しているが、私は違うというあなたは入っていないのでご容赦ください。私たちは、人生は一歩の道だったはずなのにそこで迷う。どこへ行くのかこの一本道、西も東もわからない…ってそれは友部正人だろ。そして一本の道がありました、一本の道がみえました。私は私だったんだから私はそこを進みます。

 坂元裕二さんには失礼ばかり書きましたが、あらためて受賞おめでとうございます。数々の名セリフに心の底から感謝申し上げます。レモンをかけてしまった唐揚げのようにもとには戻れない、この不可逆な一歩道をまいりましょう。
 

2023. 6. 12

☆☆☆それでも、生きてゆくG坂元裕二受賞記念☆☆☆
 今回はいよいよ第1位のはずだったが、いろいろ迷ったあげくとりあえず1位は次回で今日は
<第1.5位>
「前向きに生きよう」って言われると死にたくなりました。「人を愛そう。 前向きになろう」そう思った5分後に「みんな死ねばいいのに」と思ってました。

                  (ドラマ「それでも、生きてゆく」大竹しのぶ)
[解題]
 穏やかではないセリフだ。幼女を殺された被害者家族と加害少年の家族の間の凄絶なドラマ。なんでわざわざこんなものを観ているのかわからなくなるくらい、そんな身を切られるようなドラマだ。魂の脚本に大竹しのぶと満島ひかりという二大天才女優がかかわると、とてつもないものが出来上がる。
 このセリフは娘の死から逃れられない大竹しのぶが、彼女のことを気遣う自分の身内の家族に対して抑えきれない自分の本心を爆発させてしまう約5分間の長セリフのシーンだ。
  私、みんな私と同じ目に遭えばいいのに、と思ってずっと生きてきました。
  優しくされると「あなたに 何が分かるの?」って思いました。

…鬼気迫るとはこのことだ。このシーンに限らず何度観ても泣けてくる。それはこのストーリーはもちろんのこと、演ずる大竹しのぶにはもう神様が降りてきているとしか思えない、その演技の美しさに泣くのだ。満島ひかりにもそういうシーンがいくつもある。どうかしちゃってるような天才の美技に、ただただふるえるのだ。
 そうそう忘れちゃいけないのは、犯人役の風間俊介の背筋が寒くなるような演技もそうだ。静かな殺意と狂気が漲っていて心の底から怖い。昨年のLOVELOVE卒業スペシャルで、Kinkiのバックとして拓郎の近くでキレキレに踊っていたが、観ていて怖くて仕方なかった(爆)。あの冷たい眼で金槌握って「…拓郎さん『純と愛』での僕の事、好きじゃないって言いましたよね」とか言い出したらどうしようと心配だった>言わねぇよ

 で、また悔しいことに小田和正の主題歌の「東京の空」がまた神がかりに良いのだわ。

 ネタにするのは不謹慎かもしれないが大竹しのぶに背中を押され>押してねぇよ、でもわりと正直な気持ちで言います。

 「拓郎さん引退しちゃいましたね」と言われると「あなたに 何が分かるの?」って思いました。
 「始まれば終わる」「音楽生活のアウトロを弾いている」と言われると死にたくなりました。
 他の歌手をみるたびに「みんな引退すれはいいのに」と思ってました。
「俺はフォークじゃない、おまえたちはわかっていない」と説教されるたびに、うるせぇよと思っていました。あれ?

 

2023. 6. 11

☆☆☆雨の松本楼☆☆☆
 といっても松本隆のことではない。今日はお世話になっている鍼灸の先生の出版記念パーティーがあったので、雨の日比谷公園の松本楼に出かけた。
 雨だ。堂本剛君のレギュラーのラジオで

 「雨のときに車の中でワイパーを動かさずにずっと雨を眺めている…いいもんだ…そんな中で音楽を聴く…それは吉田拓郎さんに教えて貰った」

 と語っていた。ああ、拓郎と剛くんは、そういう話をするんだな。いいな。

 雨の日比谷公園…しかも六月というと「木田高介追悼ライブ」を思い出す。吉田拓郎がまだ公式発表前の「アジアの片隅で」を熱唱した伝説を思う。
 …しかしコレには俺は行ってないんだ(爆)。チケットを買えなかった。俺はああ行きてぇと悶絶しながらラジオにかぶりつき、雑誌の記事を読み漁り、行った人の話に耳をそばだて、6月の雨の日比谷公園の「アジアの片隅で」を俺の心に落とし込んだのだ。…ということで
☆☆☆それでも、生きてゆくE坂元裕二受賞記念☆☆☆

<第2位>
 行った旅行も思い出になるけど、行かなかった旅行も思い出になるじゃないですか
               (ドラマ「カルテット」…満島ひかり)

[解題]
 私は木田高介追悼ライブはもとより、ライブ73もつま恋75も行っていない。てか当たり前だが行けなかったライブの方が殆どだ。
 行くことができたライブは最上の思い出だが、行けなかったライブは行けなかったがゆえに一層強く思いを馳せる。どんな曲を,どんなふうに歌い,どんなMCがあって,どんな客席の空気だったのだろう。悶絶しながら思いを深める。
 最近、篠島に憧れる若い女性のSNSを教えていただいたが、彼女が生まれる遥か昔の篠島のことを、したたかな愛情をもって、とことん詰めていくその熱度に眩暈がした。すばらしい。彼女の魂は、例えば実際に篠島に行ったわれわれの経験を凌駕して、しっかり篠島にある。行けなかったライブであっても、ここまで深く堪能できることを彼女は教えてくれる。心の底から勇気が湧く。

 体験できた者は体験した珠玉のライブを語り、その眩しい片鱗をかきあつめて体験できなかったライブを追体験する。行ったライブも思い出になるけど、行かなかったライブも思い出になるじゃないですか。そういうことだ。

2023. 6. 10

 藤井てっかん氏の訃報を知る。詳しくは存知ないが、吉田拓郎のインタビューやかつてのT'sなどで健筆をふるわれた魂の人だということだけはわかる。お若かったんだな。心の底からご冥福をお祈りします。
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 さて第4位でもうやめる、こんな世の中と自分を捨ててみたが、やっぱり書く。

☆☆☆それでも、生きてゆくE坂元裕二受賞記念☆☆☆

<第3位>
 泣きながらご飯を食べたことがある人は、生きてゆけます
               (ドラマ「カルテット」…松たか子)

[解題]
 生き別れの父が危篤になり病院に呼び出される満島ひかり。しかし幼い頃から彼女の人生を台無しにしてきた毒父のトラウマに病院の前で立ちすくむ。彼女を心配してかけつけた松たか子が病院の前の蕎麦屋で「カツ丼食べたら病院に行こう」と説得する。毒父に苦しめられた日々を打ち明けながら苦悶する満島。すると松は突然、満島の手を握って「いいよ、行かなくていいよ、カツ丼食べたら帰ろう、みんなのところに帰ろう。そこがあなたの居場所だよ。」とキッパリと言う。安堵したように満島がハラハラと泣きながらカツ丼を食べる時に松のこのセリフが胸を打つのだ。

 「泣きながらご飯を食べたことがある人」。この言葉を言う方も、言われる方もどちらもきっと身の置き所のない悲しみを経験をしてきたに違いないことが伝わってくる。実に見事なセリフだ。

 俺のようなヘタレにはそんな経験はない。ない…けど、らしいものはあった。
 2007年8月、吉田拓郎の多摩センターのライブが当日中止になった。俺はショックでそのまま電車で折り返して新宿駅に戻った。そしてふらふらと新宿駅の小田急デパートの階上の食堂街に入り、確かヤキソバみたいなものを食べながらビールをあおった。我慢していたが、相方が「…大丈夫よ、大丈夫、拓はだいじょうぶ」というと俺は堰を切ったように泣けてきた。デパートの食堂街でひたすら泣く、もう明らかにどうかしているおっさんとなった。…あの夜、みなさんはどこにいてどうしてました?

 もちろん、このセリフが措定しているのは俺なんかより、もっと切実な苦しみかもしれない。吉田拓郎は泣きながらご飯を食べたことがあったろうか。何の根拠もないが、何回もあったんじゃないかな。そんな行間が拓郎の歌にはある。

2023. 6. 9

☆☆☆それでも、生きてゆくD 坂元裕二受賞記念☆☆☆
 大好きなセリフ、胸を打つ名セリフは、まだまだたくさんあるのだが、もう前回の第4位で終わりでいいかな。とりあえず今日は圏外の番外編だけ。

<番外@> 流れる星は
「カノンさん。今、流れ星が見えました」
「地球も流れ星になればいいのに」

          (ドラマ「anone」…カノン)
[解題]
 イヤ、なっちゃダメでしょ、それって地球最後の日ですから。「流星」は名曲ですが、実写化しちゃダメ(爆)「妖星ゴラス」じゃないんだから>知らねぇよ。

<番外A> どけどけどけ!
 負けんなよ。社会性とか協調性って才能の敵だからさ

               (映画「花束みたいな恋をした」…菅田将暉の先輩)
[解題]
 クリエーターを目指して苦闘する菅田将暉に対して同業のちょっとイキった先輩がアドバイスします。「天才に向上心はいらない」という誰かの言葉が身体をかすめます。

<番外B> ああ、それが行間
 絶対怒らないからホントのこと言って。」ってホントのこと言ったらめっちゃ怒られるでしょ?
それが「行間」。

[解題]
 自らラジオで「嫌いな吉田拓郎の歌」を募集しといて、いろんなハガキを読みながら、ごっつ怒ってる吉田拓郎、スタンディングしている観客に「座って聴け」と座らせながら、その後の別のライブでは「なぜ座ってる」と怒り出す吉田拓郎…いろいろ理不尽フェスティバルな吉田拓郎なのですが、それらはすべて私が「行間」を読んでいなかったからだ。…と思うことにします。

<番外C> 別離
 判断力が足りないから結婚する、忍耐力が足りないから離婚する。

                 (ドラマ「最高の離婚」…市川実日子)

[解題]
 「離婚の原因が何かわかりますか?結婚です。結婚するから離婚するんです。」という同番組の名セリフと相俟って胸にしみる空の輝き。とはいえ「一番最初に思い出す人だよ。一番最初に思い出す人たちが集まってるのが家族だよ。」という救われるセリフもあったりする。家族、この複雑なアポリアよ。

<番外D> ロマンチックを送って
 ロマンチスト最悪。ロマンはゴハンだと思ってるんですよ。ロマンはスパイスなんですよ、主食じゃないんだな〜

                   (ドラマ「大豆田とわ子と三人の元夫」)
[解題]
 わかる、わかる。吉田拓郎のロマンチックはスパイスなのよと俺も思う。切ない状況や殺伐とした風景やささやかな人と人の営みの中に、そこはかとなく効いている極上のスパイス。それが吉田拓郎。たまに「ロマンチック王道」みたいな歌があるけれど、だいたい松本隆あたりによるものである。主食にしない吉田拓郎の矜持を感じるのだ。

2023. 6. 7

☆☆☆それでも、生きてゆくC坂元裕二受賞記念☆☆☆

<第4位> 
 過去とか未来とか現在とか誰かが勝手に決めたことで、時間て別に過ぎていくものじゃなくて、場所っていうか別のところにあるものだと思う

 人間は現在だけを生きてるんじゃない。5歳、10歳、30、40。その時その時を懸命に生きてて、それは過ぎ去ってしまったものじゃなくて、
あなたが笑ってる彼女を見たことがあるなら、今も彼女は笑っているし
5歳のあなたと5歳の彼女は、今も手を繋いでいて
今からだっていつだって気持ちを伝えることができる。

人生って小説や映画じゃないもん、
幸せな結末も悲しい結末もやり残したこともない。
あるのはその人がどういう人だったかっていうことだけです。

           (ドラマ「大豆田とわ子と三人の元夫」…オダギリジョー)
[解題]
 ああセリフ長すぎたよな…だけどこのセリフをどこかだけ切り取ってチョイスすることができない。子どもの頃からの親友・市川実日子を失った松たか子がその後悔と苦悩から抜け出せないことを初対面のオダギリジョーにこぼすと、彼が静かにこんな話をする。このドラマの屈指の名場面だと思う。

 過ぎ去ってしまった消えモノではなく、私たちがそれぞれ経験した20代、30代、40代のあの日の吉田拓郎は、今でも歌っていて、そこで熱狂している自分は今も熱狂している。例えば、俺は今もt君と篠島の炎天下でジリジリと灼かれながら拓郎の登場を待ち、拓バカ達とつま恋のノースの前でバスに乗った拓郎に今も思い切り手を振っている。今からだっていつだって気持ちを伝えることができる。結末もやり残したものもなく、その人がどういう人でどういう唄を歌っていたか…そして私たちがどう聴いたかということだけである。…そう言われているかのようだ。

 このセリフに続いてオダギリジョーはこうしめくくる。

 だから人生にはふたつのルールがあって、ひとつは亡くなった人を不幸だと思ってはならない。生きてる人は幸せを目ざさなければならない。人はときどきさびしくなるけど人生を楽しめる。楽しんでいいに決まってる。

 そう、決まっている。

2023. 6. 6

☆☆☆それでも、生きてゆくB坂本裕二受賞記念☆☆☆

<第5位> 両手でこぼれるほどの

 だってこぼれてたもん。人を好きになることって勝手にこぼれるものでしょ?                 (ドラマ『カルテット』…満島ひかり)

[解題]
 「好きじゃない」と言葉では断固否定する松たか子に対して、満島ひかりはこう言って1ミリも動じなかった。溢れる好きは抑えても抑えても湧き上がりこぼれてくる。

 第6位で書いた通り、俺ごときが偉そうに言えることじゃないが、拓郎ファンは実に多種多様で、お互い様だが感じ方が対極な方々も少なくない。名作か凡作か、感動か,がっかりか、終わってしまったか,いやまだまだこれからなのか、拓郎ファン同士で話すとき往々にして緊張をはらむことがある。

 それでも俺が会った拓郎ファンはどんなに意見が違っても例外なくみんな「好き」があふれ出しこぼれていた。たぶんみんな日常で多かれ少なかれ拓郎好きを隠して生きているに違いない(当サイト調べ)。背中に鮮やかに彫られた「拓郎命」の透明なタトゥーを隠して生きているはずだ。しかしどんなに隠しても好きはこぼれる。めんどくせーヤツとお互い思いながら、そのこぼれているところに共感とか尊敬とかバディな感情が湧く。このこぼれた「好き」に嘘はない。
 ライブの魅力は、ステージの拓郎だけではなく、客席の前後左右、四囲上下、こぼれている人たちが、溢れるものを解放するところにある。WANGANは素晴らしいがそれがない。たとえ50人でも、こぼれている連中を入れるべきだった…と思う。もし次があるならよろしく哀愁。

2023. 6. 5

☆☆☆それでも、生きてゆくA坂元裕二受賞記念☆☆☆

<第6位> 同じだけれど違う曲

 音楽って、モノラルじゃないの。ステレオなんだよ。イヤホンで聴いたらLとRで鳴ってる音は違うんだよ。片方ずつで聴いたらそれはもう別の曲なんだよ。
               (映画「花束みたいな恋をした」…菅田将暉)

[解題]
 ファミレスでひとつのイヤホンに左右で耳をあててイチャイチャしている見知らぬ若いカップルに菅田君が「あの子たち音楽好きじゃないね」と文句をつける。ん〜カッコいいんだからもう。
 この名セリフで目が覚めてふと思う。同じ吉田拓郎ファンで、同じ拓郎の同じ歌を聴いているのに好き嫌いを含めて感じ方が正反対だったりすることがよくある。まったく別の曲を聴いているかのように反応や感じ方が別れることが多い。こういうことってよくあることなのだろうか。しかしたとえばマイク真木のファンの間で「バラが咲いた」の意見がわかれたり、小田和正のファンで「ラブストーリーは突然に」の好き嫌いでモメているという話を聴かない。
 結局、俺が変なだけだという気もするが、それを言っちゃおしまいよ。でもホラ、オールナイトニッポン・ゴールドで「嫌いな吉田拓郎の歌」をリスナーから募集したら実に多彩な曲が出てきて盛り上がったじゃないの(爆)。吉田拓郎という旗の下に集う人々はそれぞれ結構バラバラなんじゃないのか。
 これは、あらゆる感性を包容する吉田拓郎の音楽的なフトコロの大きさを示しているのではないか…って、まとめてどうする。

2023. 6. 4

☆☆☆それでも、生きてゆくセリフたち@☆☆☆
 カンヌ映画祭で坂元裕二が脚本賞を受賞した。おめでとうございます。このサイトでも再三力説してきた神ドラマ「それでも、生きてゆく」が彼の脚本だが、その後「最高の離婚」「カルテット」「Woman」最近では「大豆田とわ子と三人の元夫」、今をときめく菅田将暉の映画「花束みたいな恋をした」…俺が引っかかったドラマと映画はすべて彼の脚本だったと知る。どれも俺的には名セリフが多くてツボなのだ。…ていうかここまで揃うと、単純な俺は完全に彼の掌中で転がされていただけみたいな気がする。
 ということでカンヌ映画祭受賞記念「拓郎ファンだから心に響く坂元裕二名セリフベスト7」といきたい。…ほぼ、ひとりよがりだけどさ。

<第7位>   不在
 いなくなるのって消えることじゃないですよ?
 いなくなるのって、いないってことがずっと続くことです。
 いなくなる前より、ずっと側にいるんです。
             (ドラマ「カルテット」…松たか子)
 
[解題]
 夫役の宮藤官九郎が失踪してしまい、ひとりぼっちの松たか子。彼女が自分に心よせる松田龍平に決然と放ったセリフ。…そうだ、吉田拓郎ファンも大いなる不在を生きて行かなくちゃならない。推しは去ろうとも、その姿を側に生きていなけりゃ、そう生きていかなけりゃ。
 このセリフに続けて
「今なら落ちるって思ったんですか?いない人よりも僕を。捨てられた女舐めんな!」
 と啖呵を切る。いいぞ。「リタイヤされたファン舐めんな!」と誰だかわかんないけど誰かに向って叫びたい。

2023. 6. 3

☆☆☆Tからの贈り物☆☆☆
  iTunesで「オーボーイ」を聴こうとすると並んでFromTのデモバージョンも出てくる。いまさらだけど、いいねぇ、このデモテープの精度というかインパクト。リー先生はじめむこうのミュージシャンとの大いなる紐帯となったであろうことは想像に難くない。ミュージシャンがデモバージョンに対して深いレスペクトを持って演奏しているのがよくわかる。ということで、完成品とデモとの間を行ったり来たりさすらう。完成品とデモの照らし照らされ合う関係がたまらん。
 んまー考えれば、よくぞあの拓郎さんがデモテープを公式音源化したりしたものだ。そのレアさを思う。まさに贈り物か。

2023. 6. 2

☆☆☆師曰く…☆☆☆
 ということで電車の中でイヤホンを耳にさし、目をつぶって頭をしみじみと振っている男をみかけたら、それはリーランド・スカラーか俺のどっちかだ。例のYouTube以来、すっかり敬服している。「オー・ボーイ」を聴きながら高校時代のダンパに思いを致すリー先生。この曲をダンス・ミュージックとして聴いたことはなかった。そう思って聴くとまた格別な味わいを感じる。てか、すまん。そもそもリー先生にも高校時代があられたのか、どこの高校だ、ホグワーツか。
 96年秋のインタビューでリー先生が、あなたにとって音楽とはという質問に"Happiness"と答える。御意。それとは直接関係ないが「ハピネス」という曲があった。
☆☆☆今日のソウルメイトな歌☆☆☆
「ハピネス」(作詞:吉田建/作曲:井上慎二郎/編曲:武部聡志/アルバム「Hawaiian Rhapsody」所収)
 吉田拓郎作じゃないからか、あるいは吉田健の作詞だからか、わからんが何となく省みられることのないこの作品。実はかなりいい出来だと思う。聴くと元気が出る。空に向かって闊歩していくよう明るさは吉田拓郎の天性のボーカルの威力だと思いたい。リー先生のハピネスと通底しているような気がしなくもない。

2023. 5. 28

☆☆☆わけもなくリーさん☆☆☆
 あの外人バンドの髭のベーシストLeland SklarのYouTubeチャンネルで吉田拓郎のことを語っている回(1348 吉田拓郎)をVientoさんのVつぶで教えて貰った。ありがとうございます。
 リーさんは律儀に吉田拓郎のプロフィールと「Long time no see」のクレジットを英語で紹介している。…そうか。それにしても吉田拓郎は日本のジェイムス・テイラーなのか。よくわかんないけど、いいのかそれで。また日本でのツアーの思い出も語っている。俺の拙い英語力なので怪しいが、鎌田由美子さんはちっちゃくてキュートなのに大食漢で、ホットドッグ大食いコンテストに出したいし、ワディ・ワクテルは日本のホテルの初めてのシャワートイレで水浸しの惨事に遭ったらしい。彼らにも印象的で楽しいツアーだったことがわかり嬉しい。
 りーさんのセレクト
 @オー・ボーイ
 Aとんとご無沙汰
 B君のスピードで
 C淋しき街
 これらを聴き入るリーさん。目を閉じて、しみじみと揺れている。魂に響いているその聴きざまが素敵すぎる。涙ぐむ。ああ、こんなふうにしみいるように拓郎の音楽を聴きたいものだ。言葉と文化を超えて、なんか通じた、音楽で通じたぞ〜と思える。

2023. 5. 26

☆☆☆ネットを開けたらいつもの笑顔☆☆☆
 久々の吉田拓郎の近影は嬉しい。お元気そうな笑顔を眺めながらあれこれとひとり想えば時は行く。
 吉田拓郎のリタイアで俺の心にあいた穴は深くマントルまで到達しそうだ。しかしその反面で、最近はしみじみとした「自由」も感じるようになってきた。例えばユーミンのツアー開始のニュースで武部が変テコな衣装でプレイしていても,もう心は揺れない。俺はもう虎の穴の覆面ワールドリーグ戦(>知らねぇよ)にひとり挑むようなチケット争奪の戦いに身を削らなくてもいい。アレを歌ってくれよと悶絶したり、残念な選曲に居酒屋で荒らくれたりすることもない。新曲が微妙だった時に夜空を仰いで祈るようなあの気持ちも不要だ。何より忖度なくこんな無礼な好き勝手を言っても、ラジオやブログやライナーノーツで怒られたりすることもない。ああ自由をこの身で感じたい。
 そして当たり前だが吉田拓郎は亡くなってしまったのではなく、何よりあの写真のとおり、清々しく元気で生きておられることがあらためてわかる。だから追悼、追慕のような悲しい故人美化モードに縛られることもない。僕らは今も自由のままだ。

 それにもし拓郎が今も現役だったら、あんなふうに長渕の曲をしみじみ聴き直したり、THE ALFEEのペンライトが楽しかったりもしなかったろう。自由な気分で聴き直すときっと拓郎の聴き慣れた曲たちもまた違った様相と輝きを教えてくれそうだ。そう自由の風に酔え、すべてを解き放て。

 もちろんファンはどこまでもファンのままだが、個人的に昨日までのつづきではなく、まったく異質のファンとしての第二章が始まっているのではないかと思う。もう皇帝のいない第二章である。どう過ごすのかはわからない。前例のない道を行くアーティストの場合そのファンにもまた前例がないのだ。
 …「思えば第二章はまだ序章に過ぎなかった」とあとからほのぼの思うような、やがて僕達は不思議な夢を思い出すに日に向かってすすむのだ…ってこの歌を思い出した↓。
☆☆☆どうしたってソウルメイトな歌☆☆☆
「渚にて」(作詞/作曲:吉田拓郎 「detente」所収)
 この地味な歌もなんか妙に象徴的で心に響いてくるよ。それとこのとても丁寧なイントロが好きだな。

 渚にて  

 波がひいて行く 別れの時だ
 君は今日から きれいになれる
 短い夢を 急いだけれど
 このまま居ては 沈んでしまう

 偶然なのに 淋しいからと
 若い命を燃やした事が
 互いの道を せつなく しばる
 本当の事が 言えなくなった

 恋人達は どこへ行くんだろう
 3年前なら僕等も同じ
 男と女が 友達ならば
 愛し合うより 道徳的だね

 二人で歩く事は もうないから
 今 自分の足音は
 早過ぎはしない 遅過ぎはしない
 ふり返る 道もない

 僕のあやまちは 一人のひとに
 ひとつの愛を つらぬけぬ事
 君の悲しみは 愛があふれて
 とまどう男を 読みとれぬ事

 嘘をつくたび 言葉が消える
 許し合うから 心は痛む
 罪と知りつつ 抱きしめ合った
 傷つく夜が またひとつ増える

 二人で歩く事は もうないから
 今 自分の足音は
 早過ぎはしない 遅過ぎはしない
 ふり返る 道もない

 波がよせてくる 別れの時だ
 君は今日から 悩ましくなる
 やがて僕たちは 不思議な夢を
 思い出す日に 向かって進む

……んー魂だ

2023. 5. 25

☆☆☆推し帝劇にあらわる☆☆☆
 堂本光一くんの「Endless SHOCK」をご夫妻で観に行かれたという目撃情報が届いた。拓郎さんはどこから観ても拓郎さんで、背が高くシュッとしていたそうだ。これだけで私の胸は十分すぎるほどに震える。…そのニュースを聴いた時の私↓
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               (水島新司「ドカベン」第31巻・少年チャンピオンコミックス 秋田書店刊より引用)

2023. 5. 20

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☆☆☆東京ドームなう☆☆☆
 久々の野球観戦だあ。岡本以外の選手は殆ど知らないし、ドレッドヘアーの選手がいることに驚き、千円札振ってビールのおねーちゃん呼んだら現金が一切使えなくて恥かいたし、もう浦島太郎状態だ。ここで一首。
【心の俳句】

  試合より想うは彼(か)の事ばかりなり

【解題】
 ああ東京ドームは吉田拓郎がコンサートをしないときは野球場として使っているのだなぁという感慨を歌ったものである。>野球に失礼だろ

2023. 5. 19

☆☆☆カンゲキ☆☆☆
 「うたコン」の西城秀樹特集で、ゲストのTHE ALFEEを観ながら思い出していた。思い出したけど口にするとまた言っていることがうるせぇよと思われるので黙っていた(爆)。
 昔、アルフィーの三人が拓郎の横浜の家に遊びに行った時、拓郎が自慢げに「これから西城秀樹に作った曲(デモテープ)を聴かせてやる」といって自宅スタジオに連れていかれて機械をいじりだしたら…あれ音が出ない…というエピを思い出していた。いわずとしれた「聖少女/夕陽よ俺を照らせ」である。デモテープ、めっちゃ聴きてぇ。「聖少女」…これはなかなかイケていたのではないかと思う。メロディ、テンポ、カッコ良さどれも秀逸だ。なんといっても真骨頂は、詞では「Say it 少女」なのだが、メロディーと溶け合うと♪セイエイエイエイ少女…となるこの部分である。ああリンゴとハチミツとろーり溶けてる。「やさしい悪魔」の♪やがてひとつのォウオウオウオウくらい天才だと思う。なんともいえない心地良さを感じる。そこがひときわ輝いてみえるから拓郎ファンなのだ。
 この「聖少女」は身の程を省みず当時、大学生のころのカラオケの俺の持ち歌だった。よく恥ずかしげもなく他人様の前で歌ったものだ。でも俺にも若いころはあったのだ。爺になった今では「女神が微笑む時」のゆったりテンポがしみじみとあっている。いいじゃないか、きっと女神は微笑む。

2023. 5. 16

☆☆☆女神が微笑む時☆☆☆
 NHKの「うたコン」の観覧に行ってきた。5月16日は西城秀樹の命日だそうだ。前説でいきなり「YMCA」を練習させられて、もちろん俺は思いきり踊った。ああ、夕陽よ俺を照らせ。次に「THE ALFEE」が登場すると、会場に散在していたファンの方々が思いきりファン専用のペンライトを振り始めた。すげえ。俺も彼女らの振りをまねてNHKから支給されたペンライトを振った。いやあ、楽しかったんである。THE ALFEE…いいじゃないか。こんな高揚感は久しくなかった。ALFEEとそのファンが心底羨ましくて俺もライブに行ってみたいと思った。こんな俺を嗤えるのは、これから再び歌い始めた時の吉田拓郎だけだ。
 高揚した気分で原宿駅前の「さくら水産」に行くと、折しも代々木体育館のももいろクローバーZのライブがはねたあとのファンたちでいっぱいだった。このろくでなし感満載の盛り上がり。かつて俺達拓郎ファンとともにあった熱気だ。イイ。推しってイイ。たぶんいい。その熱気を孕んだ飲み会がたまらなく眩しく見えた。

 かくして推し去りし後、死んだも同じの今になり、俺ははからずも長渕剛や浜田省吾やALFEEや篠原ともえらに救ってもらった気がする…こんな感じで(写真はイメージです>あったりめぇだろ)。
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2023. 5. 15

☆☆☆どうでもいいっていえばいいのだが☆☆☆
 WOWOWは3月で退会しちまったぜ。もともと2014年のライブのために加入したが、もはや推し去りし後に用はない。それでU-NEXTに加入して小津安二郎三昧の日々を送っていたところだ。それに6月の特集放送は、もちろんソフトは全部持っていて繰り返し観たものだ。だから別にいいやと思うがどこか後ろ髪ひかれるものがある。頭が小津映画になっているので俳優たちが勝手に脳内で会議を始める。

 杉村春子「ちょいと兄さん、全部持ってるのにわざわざまた金払って観るなんて、どうかしているよ。およしよ。」
 有馬稲子「そうやって叔母様みたいに損得のそろばんばかりはじいているのってナンセンスだわ。拓郎さんが観たけりゃ観るしかないわ。」
 佐分利信「そうはいってもこないだ辞めたものを、失敬、また入ります…というのは何ともバツが悪いものだ。」
 中村伸郎「そうだよ、ボクなんか細君に何と言われるか。」
 加東大介「こういうときは未公開映像とか、せめて別アングルとかなんとかちょいとした工夫が欲しいわなぁ」
 原節子「ごめんなさい…あの私、思うんですの。観たことがあるかないかじゃなく、この星空のずっと上の衛星から拓郎さんの歌う姿が送られてくるのかと思うと(涙)…私、そのときそこにいてしっかり受け止めて差し上げたい、それだけで幸せだと思いますの。」
 笠智衆「…そうじゃなぁ。ほんに節子さんの言う通りじゃなあ。わざわざ拓郎さんを届けてくれる衛星が気の毒でならん。」
 杉村春子「また兄さんたら。衛星のことなんか知りもしないで。だいたい兄さんが衛星のことどんなに思おうが、衛星の方は兄さんのことこれっぽちも思っちゃいませんからね。」
 
……ということで悩んでいるのだ。

2023. 5. 12

☆☆☆ドライブ・マイ・カー☆☆☆
 長渕剛の「JEEP」を聴いていたら「車を降りた瞬間から」が聴きたくなった。まるで武部聡志が車窓から楽譜を投げ捨てるように(爆)、悲喜こもごも思い出を惜しげもなくふり捨てながら走る吉田拓郎が浮かぶ。そうなると浜田省吾の「夏の終わり」も久々に聴きたい。なんか免許を返納する前に、もう一度だけ車を運転してみたくなってきた。疎んじていた長渕が今さら心にしみたりするのは、推し去りし今、長渕とそのファンが羨ましいんだろう。推しが去った後は、てんではっぴいになれないんだよ。 映画「ドライブ・マイ・カー」の「僕は正しく傷つくべきだった。本当をやり過ごしてしまった。見ないふりを続けた」という西島班長のセリフが胸にしむ。

 拓郎も一時期JEEPに乗ってたよね。JEEPといえば、かまやつひろしさんも愛乗していたらしい。昔「ミエと良子のおしゃべり泥棒」にムッシュがゲスト出演した時に「荒れた道をジープでガタガタしながら飛ばすのが楽しい…」みたいな発言のあとで、森山良子が小さな声で「…ズレちゃったりして…」と呟いたのが忘れられへん。  

2023. 5. 11

☆☆☆本当の距離☆☆☆
 「JEEP」は良い曲だなぁ。長渕は珍しく情念をあまり表に出さずに、淡々と景色を描写してゆくその行間ですべてを表現する。少し投げやりな歌いっぷりがまた絶妙に素晴らしい。

 ところで、いつも思う。拓郎ファンである俺の陥りやすい悪弊というか勘違い。つい吉田拓郎本人のスタンスですべてを捉えてしまうところがある。長渕剛、浜田省吾をまるで自分がお世話した後輩のような感覚で観てしまう。あの桑田佳祐を「オー桑田君、相変わらず頑張ってるな〜」という気分で観ていたりする。坂崎幸之助なんかは殆どダチみたいな感覚でいる。松山千春よ「拓郎」じゃない「拓郎さん」と言え…んな勘違いは俺だけだな。いずれも俺なんぞは影をも踏めない超絶なスーパースターであることは言うまでもない。この身の程知らずの倒錯した距離感は心の底から戒めなくてはならないと思う。
 それは何よりたぶん吉田拓郎ご本人にしてからが、彼ら後輩に対してそんな尊大な距離感では生きていないと思われるからだ。そこだ。そこなんだよ。吉田拓郎の他者への畏れある距離感こそ学ばなくてはならない…と俺は思うのだがぁぁあぁぁ。

2023. 5. 10

☆☆☆拓郎ではない歌手☆☆☆
 このサイトのポリシーは簡単だ。この世界には「吉田拓郎」と「その他の歌手」の2種類の歌手しか存在しない。…偏愛を超えて,そもそも人としてどうかと自分でも思う。そんな人としてどうなのかな拓バカと二人で新しい行きつけの居酒屋で飲む。
 二人とも長渕剛は苦手なのだが、相方は先日NHKラジオで9時間にわたる「長渕剛」三昧を聴いてしまったという。僕はと言えば、篠島もあり、長渕剛は遠いようで近く、近いようで遠く、やっぱり遠くでいいやと思ってきた。この心情は、むかし子どもの頃遊んでくれた近所の優しい兄ちゃんが、しばらく見ないうちにイカツイ極〇になって現れた時の気分に近い(爆)。なので触らぬ神に祟りなし。すまんな。

 そんな門外漢二人でベスト50曲のランキングを眺め、放送内容をリフレインしていると意外にも妙にしみじみとした気分になっていった。俺たちを基準にしても何の意味もないが、そういえば大好きだった曲を見つけるたびに胸が疼いた。そしてそういう俺らでも知っているような有名スタンダード曲よりも上位には、俺らが知らない曲も多かった。それは長渕も長渕のファンもたぶん過去と苦闘しながらも新しい歌の旅を続けてきたことの証のように思えた。その知らない曲をその場でスマホで検索すると心に響く曲が結構あった。かつてのNHK出禁事件の顛末のくだりも、そりゃあ、あまりに長渕が気の毒だよな…となんか知らんが意気投合してしまった。
  
 ということでspotifyで「JEEP」と「素顔」と「何の矛盾もない」を聴きながらひとり夜道を帰った。長渕や長渕的なものを疎んじてきたことに後悔はないが、なんだろうか、寛解してゆくような,それでいてちょっと切ないこの気持ちは。気が付くと僕はいま何をしてるんだろう、夜空を見上げると、多くの夢が、星になり風になり踊って見える…最後はやっぱり拓郎か。ああ、なんかはかないぜ。

2023. 5. 8

☆☆☆色褪せなかったのは4人の若者だけ☆☆☆
 サイトでお世話になっているNinjin design officeの画伯から「ずうとるび」が再結成したことを教えてもらった。同時に1975年〜6年のアイドル雑誌「近代映画」のファン投票で「ずうとるび」は西城秀樹、郷ひろみ、沢田研二らをおさえて、女子部門の山口百恵、桜田淳子と並んで第一位に輝いている資料を見せていただいた。俺と同じ年齢の画伯から「当時、ずうとるびは新御三家を凌ぐ人気があったのだろうか?」という真摯な問いかけをいただいた。うん確かに「ベイシティローラーズ」は流行していたよな。そのころ俺は蒲田の日本電子工学院で収録していた「学校・そば屋・テレビ局」は観ていた記憶があるが、75年といえばフォーライフにつま恋にと拓郎ファンにとっては吉田拓郎しか見えないめくるめく日々だったため、そのあたりの記憶がない。
 2020年、もともと4人組だったずうとるびは再結成して5人組になっていた。山田隆夫が脱退して交代した池田喜彦メンバー(すまん知らなかった)も一緒に再結成に参加しているためだ。2013年のローリングストーンズの公演で、ロン・ウッドとミック・テイラーが一緒のステージに立っているみたいな贅沢さだ>ホントにそう思っているか? いや、それでも「ずうとるび」と聞くだけでどこか心はみかん色になってくるんじゃよ。それも自由だとずうとるびは教えてくれた。
☆☆☆どうしたってソウルメイトな歌☆☆☆
「ビートルズが教えてくれた」(歌:LISA 作詞/作曲:吉田拓郎「吉田拓郎トリビュート〜結婚しようよ」所収)
 LISAのこのカバーはすげえ魅力的だ。LISAといってもたぶん若者に今人気のLiSAとは違うらしいが、もう爺ちゃんにはLISAもLiSAも、な〜んもわがんね。とにかくピアノでの清冽な弾き語りの「ビートルズが教えてくれた」がたまらない。

2023. 5. 7

☆☆☆思い出になんかしないよ☆☆☆
 ウチの方は久々の雨だ。車の中でバラバラという雨音の中、遠くでかすかなクラクションが聴こえると♪た,え,こ,MY LOVEと歌い出したくなりませんか?>ならねぇよ。…そうですか。私は歌いたくて仕方なくなります。
 そういえばステージで「たえこ MY LOVE」を聴いたのは1981年の体育館ツアーが最後だったっけ?と考えていたら、そうだ1999年の20世紀打ち上げパーティーのメドレーでフルサイズではないものの結構ちゃんと歌っていたことを思い出した。2021年からの最後のオールナイトニッポンで、「もうこの歌は歌えないだろうな」と弱気な様子を見せた拓郎だったが、果たしてそうだろうか。試してみてもいいじゃないか,はさらばのB面。恥ずかしかったら、俺の前でそっと歌ってみなよ>知り合いかよ
☆☆☆どうしたってソウルメイトな歌☆☆☆
「たえこMY LOVE」(作詞/作曲:吉田拓郎 「セイ!ヤングでオンエアした1979篠島バージョン」) 
 出だしを2回間違えるところは伝説級の面白さだ。しかし、この時の最後のボーカルの岩石落とし=「のぉぉぉ〜なぁぁぁ〜ないやぁぁぁぁ〜おおぉぉぉぉぉ 」という絶唱の終わり方にも度肝を抜かれた。魂だ。最初だけでなく、最後もいろいろ凄い1979の「たえこMYLOVE」である。ココ大事。

2023. 5. 6

☆☆☆♪あなたに逢いたい、あなたの声が聴きたい☆☆☆
 石川県、能登半島の地震、知り合いは無事でしたが、被害はかなり大きかったようで御見舞申し上げます。いちはやく収束しますように祈るしかない。こんなときにいつも短くも心のこもった言葉を送る御大であった。表白しないだけで、今も変わらずおられることと思う。あなたもどうしておいでだろうか。

☆☆☆どうしたってソウルメイトな歌☆☆☆
「ここに幸あり」(歌:大津美子/作詞:高橋掬太郎/作曲:飯田三郎 ) 
 先日、同窓会の手伝いでつきあわされた飲み会で、私よりさらに爺な大先輩が歌うのを聴いて胸に響いた。ああ、これは拓郎推しの歌ではないかと。「女」を「推し」に変えたらぴったりだ。

 嵐も吹けば 雨も降る
 推しの道よ なぜ険し
 君を頼りに 私は生きる
 ここに幸あり 青い空

 命の限り呼びかける
 こだまの果てに 待つは誰
 君によりそい 明るくあおぐ
 ここに幸あり  白い雲

…いいじゃないか,いいじゃないかはさらばのB面。とにかくこの困難で理不尽な世の中、この歌を胸に推し無き日々を元気にまいりましょう>おまえひとりでいけよ

2023. 5. 5

☆☆☆私はありふれた恥ずかしい人間だから☆☆☆
 …気になることを話してみます。いつも考えるのだが「女たちときたら("FromT"のデモテープ所収)」と「東京の長く暑い夜(1990年男達の詩ツアーでのみ演奏)」との先後関係はどうなのだろうか。どっちもほぼおんなじ詞で、結局どっちもアウトテイクとなってしまっている。なのでどっちが先でも大きな違いはないので、まぁどっちでもいいかといつも考えるのをやめてしまう。
 どちらも1990年の夏が舞台だ。イラクがクウェートに侵攻したのは、90年8月2日だ、…なんて日に戦争しやがる。絶望的な世紀末のような悲しみに、拓郎は「東京の長く暑い夜」で苛立ちをぶちまけるようにステージでシャウトする。そしてツアーが終わって、たぶん「detente」の曲作りに向けて、かの歌を少しクールダウンして日常の景色に落とし込んで音楽的にまとめてみたのが「女たちときたら」になったものか。
 逆にあの夏と自分の暮しを最初に「女たちときたら」でデモテープにまとめたが、こりゃあ、なんかアウトテイクだなと判断して、ぶち壊すように換骨奪胎で弾き語りでシャウトしたのか。それにしてもこのデモテープのアレンジは秀逸だしな…
 というわけでどんなに考えたところで本人しかわからないし、どっちでもいいじゃねぇかというご意見こそごもっともだ。しかし、どっちでもいいじゃねぇかなこと、ここに幸あり白い雲。知らねぇよ。
☆☆☆どうしたってソウルメイトな歌☆☆☆
「東京の長く暑い夜」(作詞/作曲:吉田拓郎 ) メインロードには乗せなくとも、どこかでこういう魂の唄が聴けるような環境はできないものか、なんかとならないか。♪東京の長く暑い夜は 私に消えちまえと言うのでしょうか〜このフレーズがあまりに魂すぎる。

2023. 5. 4

☆☆☆箱根の山は天下の剣☆☆☆
 ♪箱根に行きたいと思っているよ、心が洗えれば幸せだから(「女たちときたら」)…ということで箱根に行ってみたが、連休の激込みでそそくさと退散してきた。芦ノ湖でボートも漕がず、大涌谷の黒いゆで卵も食べず、温泉も入らず…ロープウェイは最初から乗るつもりなく撤収した。あ、断じて高所恐怖症なのではなく、子どもの頃「ウルトラQ」(第2話「ゴローと五郎」)の冒頭で、ロープウェイに乗ってると、巨大猿のゴローがロープにぶら下がって近づいてくるというすげー怖いシーンがあってトラウマになっていまだに怖いのだ。>高所恐怖よりそっちが恥ずかしいだろ(爆)
 とにかく、どこもかしこも75年8月2日の多目的広場状態である…参加していないけど。よほどのこと=吉田拓郎が歌うのでもない限りもう人混みはなるべく避けたい。よほどの吉田はあるのだろうか。
☆☆☆どうしたってソウルメイトな歌☆☆☆
「Baby」(作詞:松本隆/作曲:吉田拓郎 「ローリング30」所収) やはり箱根といえばロックウェルスタジオだ。聖なる場所に祝福を。最近好きなのが「Baby」。まるで映画を観ているような叙景とPOPなサウンドに気分が弾む佳曲だ。昔は埋め草のようなテキトーな曲だと思っていたが、すまん。すまんといってもそもそも松本隆にしてからが「ローリング30」の殆どが捨て曲だと言っていた(ミュージックマガジン2015年7月号インタビュー)。当時の音楽雑誌のレビューでも一枚のアルバムに取捨選択しろと批判されたりして、当時はそうかもなと思ったりもした。しかしどうだ、今となっては、このアルバムに捨て曲が一曲もありゃあせん。どれを削っても成り立たないとさえ思う。ロックウェルの魔術は永遠なのだ。

2023. 5. 3

☆☆☆何十回目かの記念日☆☆☆
 「これは、どれだけ圧倒的な多数決でも絶対に奪えない個人の自由のセットリストみたいなものだ」だからこそ「少数者のための最後の防波堤なんだ」と熱弁していた恩師の授業を思い出す日。
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…もっと真面目に聴いておきゃよかった。多数派の政治家には鬱陶しく邪魔なものであることは当然だ。だから彼らの喧伝する改正の機運や大義など知ったことか。ささやかな個人の生命、自由及び幸福追求と並んだ平和があればこそ、それがすべてだ。
 …ということで若者よ、世界の果てで愛する人のために自転車をこげ! どこまでもひたすらにこぐべし!、こぐべし!。いみふ。
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☆☆☆どうしたってソウルメイトな歌☆☆☆
「Life」(作詞/作曲:吉田拓郎 「FOREVER YOUNG」所収) 
 しくみがあるから生きるわけじゃない
 勝手なルールを押し付けないでくれ
 こちらを向けと言われて背いても
 人が人として 息づいているんだ
くぅぅぅ、何度聴いても名作ばい。拓郎さんご本人の意図はわからないけど、自分の思い込みとしては、どこまでも個人の尊厳を体現した歌に聴こえ、ひたすら胸にしみる空のかがやき。先生の授業はあまり真面目に聴かなかったけれど、大切なことはすべて吉田拓郎から教わってきたのだ。

2023. 5. 2

☆☆☆女優系☆☆☆
 ということで俺一人で盛り上がっていた小津安二郎映画祭も昨日の「浮草」をもってほぼ終了した。「東京暮色」の陰のある有馬稲子も実に素敵だったが、この映画では若尾文子が素晴らしい。もうオーラが違う。
 仔細あって旅芸人一座の先輩である京マチ子から、真面目でカタブツな好青年の川口浩のことを誘惑しろと命じられて、ホントはそんなことしたくない若尾文子がしぶしぶ彼に接触する。もう川口浩がイチコロだ。たぶん観ている男性もみんな川口浩だ。まるでアマゾンの秘境でアナコンダに呑み込まれてしまう探検隊の隊長のようである。
 ということで吉田拓郎がなぜ若尾文子に惹かれたかがわかる気がする一作だった。共演できたときの拓郎の喜びはいかばかりか。…なのに怒らせちゃったんだよね(涙)
☆☆☆どうしたってソウルメイトな歌☆☆☆
「おはよう」(作詞/作曲:吉田拓郎 「今はまだ人生を語らず」所収) いいねぇ、爽快。
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2023. 5. 1

☆☆☆ウェルカムの心意気☆☆☆
 小津映画に出てくる言葉遣いで次に気になったのが「おいで」だ。笠智衆が娘や家族に朴訥だがやさしい口調で言う「こちらにおいで」「お父さんのところにおいで」。これは別に今でも一般的に使われる言葉だけど、ちょっとアレって思ったのは、笠智衆の職場に杉村春子演ずる妹が不意に訪ねてくるシーン。「兄さん,こんちは」、兄さんは笑顔で「あ〜、おいで」…この「おいで」はcome onではなくwelcome=歓待の意味になっている。「おいでやす」に近いのか。そもそも言葉というより笠智衆の言い方の温かみも大きい。
 ということで、ここまで書くとこの爺めが何の歌を聴きたくなってくるかがおわかりでしょう。そうだ。「おいでよ」(作詞/作曲:吉田拓郎/編曲:鈴木茂 「大いなる人」所収)。77年秋、毎日のようにラジオ番組にこの当時のニューアルバムのプロモーションに出演していた拓郎はこのアルバムで一番好きな曲だと宣っておられた。…正直、高校生の俺はそれほどの曲か?と当時は思った。
 当時拓郎は、かまやつひろしのレギュラーラジオ番組にも出演したが、ムッシュが「この『おいでよ』って拓郎の口癖だよね。『ムッシュ〜、これやってるから、おいでよ』ってよく言うよね」と話していたことを思い出した。笠智衆のしみじみとした歓待、吉田拓郎のウェルカムな思い、それをちゃんとわかっているムッシュ…ということで、たったいま、この曲はそれほどの曲に昇格(爆)>怒られるぞ
☆☆☆ソウルメイトな曲☆☆☆
「おいでよ」(作詞/作曲:吉田拓郎/編曲:鈴木茂 「COMPLETE TAKURO TOUR 1979」所収)
 Uramadoにも書いたが、"帰ればもとままさ 時計もあの時のまま"のあとの中華なメロディーで気が散ってしまうので、今日はTOUR79のライブバージョンを聴く…が,同じじゃん!…"すいません、サンラータンメンと春巻きお願いします!"と叫びたくなる。とはいえTOUR79には拓郎の「おいでよ」の肉声紹介が入っているところがおトクです。
"僕の部屋には小さいけれど 君が旅立つ何かがあるよ"…御意。

2023. 4. 30

☆☆☆ちょいとしたマイブーム☆☆☆
 ジャケ買いした「東京暮色」以来、小津安二郎の映画に超ハマりして10本くらいたてつづけに一気に観てしまった。ゆったりとしたセリフとその間あい、美しい構図、土間、縁側からの画角、そして昭和の街…ああ蒲田に多摩川に五反田だ、この雑司ヶ谷の坂は知っている…今さら俺ごときが言うまでもなく、いろいろ素晴らしい小津映画の世界。しかし人を見れば、君はいくつだ、嫁にはいかんのか、男なら身を固めて、申し分のない家柄…などなど70%くらいがセクハラと差別で出来上がっている気がする(爆)。武田鉄矢ではないが確かに昭和は輝いていたけれど、ひどいこともいっぱいあったもんだ。だからこそ笠智衆の孤独がいっそう胸にしみる。
 
 映画の中で、気になった言葉がいくつかあった。拓郎はかつてラジオで古い日本映画の「細君」という言い方に反応していたことがあった。そのひとつは「ちょいと」だ。映画のセリフに実によく出てくる。老若男女問わず、セレブたると否とを問わず、公式の場であっても、みなさん「ちょいと待って」「ちょいと考えさせて」「ちょいと時間が」「ちょいとさ」…当時はかなり広く深く浸透していたことが窺えて面白い。今は死後ではないもののあまり使わない。あの頃の人々は「ちょいと」の間合いにその時の気持ちをこめて暮らしていたのかもしれない。そして、あのお方の歌にはそこそこ登場する。ちょいと思いつくだけで…「吉田拓郎"ちょいと"ベスト3」

   第3位 ちょいと地球へ遊びにやってきた(たくろうチャン)
       遠い星から地球にちょいとだけ(together)

   第2位 気取って見せよう、ちょいとした気分さ(悲しい気持ちで)

   第1位 オイラお先にちょいとゴメン、オイラとにかくちょいとゴメン(この指とまれ)
 
 >「ちょいと」ベスト3に何か意味があるのか…ねぇよ。あっても、なくてもやるんだよっ(怒)     
☆☆☆どうしたってソウルメイトな歌☆☆☆
「悲しい気持ちで」(作詞/作曲:吉田拓郎/編曲:鈴木茂 「大いなる人」所収)
  地味ながら、いい歌です。幸福と不幸の紙一重の谷間。何を探してる魔法の杖かい? 足元の石ころでも拾え。結構元気づけられたものです。鈴木茂のアレンジの品格が素晴らしい逸作でもある。

2023. 4. 29

☆☆☆ゆうづうのきかぬ自由に乾杯☆☆☆
 拓郎の泉谷への手紙をどう思うかは個人の自由だ。しかしそこから音叉が共振するように「泉谷しげるの見た吉田拓郎」があちこちで浮かび上がってくる。それらは俺にはとても大切で必要なものなのだ。泉谷から見える吉田拓郎は、笑いの中にも、どうしようもない切なさとやさしさが満ちている。そんな泉谷の貴重なつぶやきを教えてくださった同志の方ありがとうございました。…なんとなく思い出すのが何回も引用したあの一節だ。

「ほんものを見る、ってのもな、むろん大切なことだよ」泣き男はつづけた。「でも、それ以上に大切なのは、それがほんものの星かどうかより、たった今誰かが自分のとなりにいて、自分とおなじものを見て喜んでいると、こころから信じられることだ、そんな相手が、この世にいてくれるってことだよ」(いしいしんじ 「プラネタリウムのふたご」より)

 それにしてもわかったようでわからない…と言いつつ、わかりかけたような気がしたけれど、やっぱり永遠にわからないのが吉田拓郎だ。だからファンはやめられないし終わらない。終わりようがないのだ。
☆☆☆どうしたってソウルメイトな歌☆☆☆
「街を片手に散歩する」(作詞/作曲:泉谷しげる 「クリスマス」所収) 作品もいいけれど、それにこたえるようなボーカルが実に素晴らしいっす。これが共振ってやつっす。

2023. 4. 28

☆☆☆ホームにて☆☆☆
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 中野駅のホームからサンプラザと並んだ中野区役所の垂れ幕を眺める。区役所もエールを贈っている。
 「最後の中野サンプラザはじまる」
 「さよならNAKANO SUNPLAZA」
 ああ、いよいよ終わってゆくのか。ありがとう中野サンプラザ。
 その下にある「憲法を生かそう くらしに まちに」…このエールも一緒に胸にしみる。そうだ、先生諸兄含めたすべての公務員の仕事は渾身で尊重し擁護することであって、改正に血道をあげることではない。なんだかんだで、ひとり胸が熱くなり、ああこのまま駅を降りて「第二力酒蔵」で昼呑みしたいと思った。聖なる場所に祝福を。
☆☆☆どうしたってソウルメイトな歌☆☆☆
「望みを捨てろ」(作詞:岡本おさみ/作曲:吉田拓郎 「よしだたくろうLive'73」所収)
 さよならNAKANO SUNPLAZA、この最高のシャウトと最高のサウンドを残してくれた聖地よ。

2023. 4. 26

☆☆☆あなたと私は子どものように☆☆☆
 拓郎の「好きだよ」で終わる手紙を読み上げられると、泉谷は一瞬の間のあと「…よく喧嘩したなぁ」とつぶやいた。そのしみじみとした感じがまた胸をうった。俺もしみじみと思う。
「吉田拓郎と泉谷しげるが喧嘩した」というニュースを聴くと原因も経緯もわからないが「…きっと拓郎が悪いんだろうな」と思う。そういうのない? 俺はある。きっと拓郎が何か言って怒らせたんだろうな…という(爆)。すまんな。なぜだろう。それもこれも、いいじゃないかと思わせてくれる素敵な手紙だった。
☆☆☆どうしたってソウルメイトな歌☆☆☆
「ああ青春」(作詞:作曲:吉田拓郎  「吉田拓郎ライブ コンサート・イン・つま恋'75」所収)
 何度でも書くぞ。かつて地球ZIGZAGにゲスト出演したとき、ロックミュージシャンを目指す若者のドキュメンタリーを観た泉谷が「ロックってこんなもんじゃねぇよ」と悪態をついた。高橋リナさんが「それでは泉谷さんにとってロックとは何ですか?」と尋ねたところ泉谷はキッパリと言った。
「吉田拓郎がよ、つま恋に6万人だか集めちゃってよ、本人は大観衆を目の前に緊張してビビっちゃってよ、目はうつろ、声はヘロヘロでうわずっちゃってボロボロなのよ。それでも、こうやってギター抱えて『歌うぞ』ってググッ、ググッて身体を前に出してゆく、俺に言わせれば、そういうところに本当のロックがあるんだよ」 泉谷、好きだよ。今日はこれを聴こう。

2023. 4. 24

☆☆☆二人の本当の距離☆☆☆
 昨夜は久々にtくんとサシ飲みしてご機嫌で帰って、ねーさんから教えて貰っていた「篠原ともえの東京プラネタリー☆カフェ TOKYO FM 2023/4/23(日) 」をradikoで聴いた。まだ聴けるぞい。吉田拓郎の泉谷しげる宛ての手紙が、昨夜のことだったので特に胸にしみた。

泉谷しげるさん
大変ご無沙汰しています。
私はずっと昔、あなたとはじめてお会いしたころから
この人は自分にとってきっと長い人生においても本当に数少ない
心を開いて話し合える存在となる人だと確信していました。
そしてそれはやはり現実になりました。
私は振り返るとその時々に数多くの仲間たちに囲まれて、それこそその時々に親しくお付き合いした人々が存在しましたが、結局はその時だけのビジネスライクな存在でしかなかったと断言できます。
今この瞬間につくづく思うことは、泉谷さんと私の説明不要の距離感こそが人生において実に大切なものだったということです。
お互いもう少人生を味わいたいですよね。
これからもこの距離感のままでもう少し楽しみましょう。

好きだよ。
                  吉田拓郎


「愛情が三倍か四倍になって返ってくる、ここまでも返さなくてもというくらい、愛情のかたまり」という泉谷の返しの言葉も良かった。

 説明不要の距離感。最後はそれしかない。そうそうセブンスターショーでこの二人は距離について話し合っていたよな。二人の姿を説明不要の距離感をもって眺めていたファンも勝手ながら一緒に祝福されているかのごとく嬉しい。
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☆☆☆どうしたってソウルメイトな歌☆☆☆
「寒い国から来た手紙」(作詞:作曲:泉谷しげる) オリジナルと吉田拓郎のカバー、両方聴くよろし。

2023. 4. 22

☆☆☆何もかも求めすぎずおだやかに☆☆☆
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 昨日、献杯のために初めて入ったお店で出てきた「フキとタケノコ」。これだけでどんだけ元気になるか、どんだけ嬉しかったか、おそらく料理を出したお店の人でもわかるまい。ありがとう。献杯。
☆☆☆どうしたってソウルメイトな歌☆☆☆
「フキの唄」(作詞:作曲:吉田拓郎 「午前中に…」所収)「何よりも平和が大切でありました」…この歌詞が尖ってきこえてしまうほど今の世の中はささくれだっている。ただの拓バカのヘタレおじさんだが、この多数派の流れにはのれない。ちょいとゴメン。

2023. 4. 21

☆☆☆何度でもアゲイン☆☆☆ 
 文字通り生涯をささげた真摯な拓郎ファンだったK君の命日がまたやってくる。昨年は拓バカが集まって盛り上がって楽しかった。ああやっていろんな話を聞くと、毎年殊勝なことを書いているこの俺も、いろいろ彼に気を遣わせたりして迷惑をかけていたこともあったようだ。すまなかったな…でもそういう話を聞くと後悔というより、いっそう彼のことを好きになる。これこそが彼の人徳だ。

 彼と二人きりでどこかに行ったのはたぶん一度きりだ。渋谷のライブハウスに甲斐よしひろを観に行った>拓郎じゃねぇし。会場で二人で開演まで缶ビールを飲んでいると館内にBGMで流れていたアグネスの歌。K君が「これ!これ!松本隆の作詞家デビュー作で、細野晴臣、鈴木茂、林立夫、松任谷正隆…キャラメルママの演奏なんですよね。」…彼が嬉しそうに言うとなんか俺も嬉しくなって周囲に客がいなかったことも手伝って酔っ払いの俺たちは小さく歌いながら揺れた。
 いつもはビッグバンドの「どうしてこんなに悲しいんだろう」を聴くのだが、今日はなんかこっちだ。よければみなさんご一緒に。
☆☆☆ソウルメイトのソウルメイトな歌☆☆☆
「ポケットいっぱいの秘密」(歌:アグネス・チャン/作詞:松本隆/作曲:穂口雄右/編曲 キャラメルママ、東海林修)

2023. 4. 19

☆☆☆ディラン暮色☆☆☆
 先達のブログに書かれていたが、ボブ・ディランの来日公演の絶賛記事があちこちに溢れている。「あぁ行けばよかったかな…」とちょっと後悔したがもう遅い。運命みたいに僕にも悲しみが湧いてきた。
 運命といえば今はすっかり呆けてしまった叔母が、当時高校生だった俺に「絶対に本人をこの目で観ておくべきよ」とディランの初来日のチケットを買ってくれた。初めての武道館に舞い上がり、ひょっとしたら吉田拓郎が来ているかもしれないと待ち時間の客席でも落ち着かなかったが、そもそも拓郎はこの時あえて観には行かなかったのだと後で知った。しかしその次のトム・ペティとの来日公演は堪能したらしい。そもそも拓郎は「血の轍」あたりからディランがわかんなくなったと言っていたが、むしろ自分は「血の轍」あたりからすげーカッコいいなと思い始めたので、拓郎の影響で聴き始めたとはいえ拓郎の思いとは俺はズレている。

 最後にディランのライブを観たのは2001年のパシフィコ横浜だった。ずいぶんライブのインパクトが変わっていた。偶然同じ公演に行っていた拓郎ファンの同志だった亡K君も「…ヘリウムガスを吸って歌ってたのかと思いましたよ」とちょっと悲しそうだった。ディランはステージで終始、笑顔もなくMCもなし、ご挨拶すらもしなかった。当時の大好きな逸話で、ディランが孫の幼稚園に行って園児らの前で歌ったことがあって、園児たちが「怖いおじいさんがやって来て、怖い歌を歌って帰って行った」と震えていたらしい(爆)。それと近いものがあった。
 ディランはとにかく音楽だけをキッチリ提供するつもりなのか、サービスとか客のグルーヴとかはとにかく完無視しているかのごとくだった。これが例えばストーンズのライブだといつだって熱狂してしまうのは、やはりそこにはあくなきサービス魂が漲っているからではないかと思う。…怒られるかもしんないけど。吉田拓郎もまたライブではサービスとグルーヴの人だ。というわけでなんとなくライブのディランは敬遠してしまうのだが、今年はどうだったんだろうか…と気になるが、拓郎がリタイアしてしまった今、あきらめられないものもない、現在の現在。
☆☆☆今日のソウルメイトな歌☆☆☆
「Sara」(歌/作詞/作曲:BOB DYLAN  アルバム「欲望」所収)
 叔母は昔から吉田拓郎のことが大嫌いで、当時高校生の俺を必死で更生させようと頑張っていた(爆)。"となりの町のお嬢さん"を「気の抜けたビールみたい」、"明日の前に"を「…ですぅ〜、…ますぅ〜しか耳に残らない空虚な歌」等と悪態をついては俺をいつも怒らせていた。しかし俺の部屋にあったディランのアルバム「欲望」を勝手に持ち去って「夕暮れ時にひとりで"Sara"を聴いているととめどもなく涙が流れてくるわ」としみじみと語っていた。だからチケットを買ってくれたのかもしれん。

2023. 4. 17

☆☆☆ジャケ買い☆☆☆
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 この女優さんがどなたで,誰が監督するどんな内容の映画なのかも全く知らずに、この写真にイチコロになって「ジャケ買い」してしまった。まだこの写真にドキドキする自分でいられて良かった>知らねぇよ。買ってからこの女優が若き日の有馬稲子さんであり、小津安二郎監督、原節子主演の「東京暮色」という映画であると知った。人は哀しみで出来ているという我がソウルメイトの口癖が思い出されるような映画だった。しかしこれを観ることができて良かったと心の底から何かに感謝したい。吉田拓郎がリタイヤし人生のお手本を失ってしまった今、笠智衆をあらたな目標に飄々と生きてゆこうと誓った(爆)。いみふ。

 ジャケ買いといえば、吉田拓郎ファンになってしまうとレコード・CDを買うことと呼吸することは同じ当たり前のことなので、ジャケットにつられて「ジャケ買い」をしたことはない。とはいえ最近ご無沙汰の居酒屋で、拓郎ファンのマスターは、中学生の時にアナログの豪華箱盤の「TAKURO TOUR 1979」のジャケットがあまりがカッコよすぎて思わずジャケ買いしたことがファンになるキッカケだったと語っておられた。また小中学校の同級生で南こうせつのファンになっていたHさんから「もう可愛くて可愛くてたまらなくて」ということでアルバム「ONLY YOU」を衝動買いしてしまったという話を聞いたこともある。
 しかし拓郎の場合、まるでジャケ買いを拒否するかのような残念なジャケットも多い(※個人の感想です)。アルバム「無人島で」をジャケ買いする人がいるだろうか。いたとしたらどんなヤツだ。「王様達のハイキング」もあのモデルの方にはすまんがジャケ買い拒否案件としか思えない。シングル盤でも「流星」,「春を待つ手紙」,「心の破片」あたりをジャケ買いする人はおるまい。…「気持ちだよ」に至ってはもうこりゃ試供品か何かかと思ったぜ。 あくまで吉田拓郎は元祖ビジュアル系の人だと思うので、本人のいないジャケットはかねてから認めたくない。
 しかし、しかしだ。本人がいないのに、それでも胸熱くなってジャケ買してしまった一枚があることを書きながら気が付いた。最後の最後のこれがあった。
☆☆☆どうしたってソウルメイトなアルバム☆☆☆
「ah-面白かった」[アナログ盤]
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これがなかなかどうして、最後がジャケ買いだったとはオツなものですな(笠智衆のフシで)

2023. 4. 15

☆☆☆ひとりよがり☆☆☆
 またマニアな話ですまんな。スタートレックピカードseason3の第9回「声」には泣けた。"All makes me cry!"ということで,どうやら世界中のオタクたちもみんな滂沱の涙を流したようだ。米国では今回と最終回の来週回はIMAXで劇場上映するらしい。さすが米帝、やるもんだ。うらやましい。…と言っても殆どの人がなんのことかおわかりにならないだろう。例えれば、今年、フジロック2023に行ったら、吉田拓郎がサプライズで登場し、しかもバックバンドで松任谷正隆、鈴木茂、高中正義、島村英二、エルトン永田、岡沢章という面々が揃って、拓郎の「さぁ新しいのを演ろう!」という一声のもと島ちゃんのカウントでバンドが鳴り出す瞬間…そんな感じだ。

 これもひとりよがりだが、昨日から個人的脳内ヒットチャート独走中の「海の底でうたう唄」。どうしたってモコ=高橋基子さんを思い出す。「マクセルユアポップス」とか「ニューサウンズスペシャル」とか…高橋基子と話す拓郎はよかったなぁ。話が弾んで面白かった。まるでおねえさんと話しているみたいに心を許しあう信頼感を感じた。それでいて結構、真剣な話もきかせてくれたりもした。安井かずみ、コシノジュンコ、落合恵子…母性ならぬ姉性愛の通底みたいなものを感じるのだ。モコさんお元気だろうか。

☆☆☆どうしたってソウルメイトな歌☆☆☆
「無人島で」(作詞:松本隆/作曲:吉田拓郎  「無人島で」所収)
「無人島で君を抱きたい」というけれどそれじゃ無人島じゃなくなるじゃないか(「俺だけダルセーニョ」P.204)というツッコミを拓郎に入れたのは「ニューサウンズスペシャル」でのモコさんだ。それじゃ矛盾していると。慌てた拓郎の「ムジュン島で」という切り返しも笑った。すべて幸福な日々よ。

2023. 4. 14

☆☆☆私たちが逢ったのは☆☆☆
 とはいえ私の身体もガタがきていて鍼灸の先生に定期的にお世話になっている。前にも書いたが銘医だ。毎回、待合室にある棋士の先崎学の「うつ病九段」(まんが版)を少しずつ読んでいる。それはまた。時間が来て施術台にあがると院長先生は必ず「拓郎さん」の話をふってくれる。だいたいが、「私も高校生の頃、初期の吉田拓郎さんを聴いていました」というお話からなので、思い切って「初期ってどの辺までお聴きですか」と尋ねてみた。すると「ペニーレインあたりまでは聴きました」「あ、ずいぶんお聴きになったんですね。お好きな曲は?」「…前にも言いましたけど『わしらのフォーク村』ですかね」…まだ言うか(爆)。「元気です」から「今はまだ人生を語らず」のソニー黄金期を聴きながら『わしらのフォーク村』をベストに挙げる。どれだけお好きなのか。やはり神は細部に宿るのだ。
 昨日は施術台に寝るといきなり「まにあうかもしれない」が流れていて、音楽をフォークチャンネルにしてくれていたとのこと。ありがとうございます。フォークチャンネル、拓郎はフォークが嫌いというものの,やはりすげーなフォークソングのめくるめく世界。例えば、何故このタイミングで山崎ハコの「呪い」なんだ。♪コン、コン、コン、コン釘を刺す、藁人形の釘を刺す…ただでさえ凄い歌だが、鍼灸の施術台で聴くとこりゃまた格別だ(爆)。君も経験するといい。
 あれこれフォークな世界の曲が流れたが、昨日一番胸にしみたのはモコ・ビーバー・オリーブの「海の底でうたう唄」。

 私達が逢ったのは静かな海の底
 私の長い髪を愛してくれた人

 私達のゆくえは誰も知らない

 釘…ちゃう鍼を打っていただいて陶然となったあと夢心地で聴いた。なつかしくて、幻想的で、コーラスがなんといってもうつくしい。
☆☆☆今日のソウルメイトな歌☆☆☆
「海の底でうたう唄」(詞:尾崎きよみ、曲:関口直人、編曲:青木望)。…ねぇ貝殻になりたいね、海の深くで眠りたい…そんな気分になる。

2023. 4. 13

☆☆☆一枚の写真☆☆☆
 奈緒さんがインスタに挙げたという拓郎の写真をネットニュースで観た。たぶん昨年のつま恋のものか。いい写真だ。当たり前だが俺が庵野監督がなんだとかダラダラ綴ったところで、すべてはこの一枚の写真でキレイに吹っ飛ぶ。この僕とつま恋と青い空なショットがたまらない。…青い空といえば、御腰の方は大丈夫だろうか。俺も腰痛持ちだが、俺なんぞよりはるかに重そうだ。どうかお大事になさってください。
 「腰」と言えば吉田拓郎も1993年ころからしばらくひどい腰痛に苛まれていたようだ。93〜96年は、ステージでは基本ずっと座って歌っていたはずだ。しかしその後、98年のツアーからはstand upに復帰する。ステージであの重量のギターを抱えて3時間くらいずっと立って運動をするくらいだから盤石で強靭なはずである。どうやって腰痛を克服したのか、昔から切実に関心がある。教えて拓郎。
☆☆☆今日のソウルメイトな歌☆☆☆
「ショルダーバッグの秘密」(作詞/作曲:吉田拓郎 「ah-面白かった」所収)…なんかこれかな、あの清々しいつま恋の写真のイメージは。

2023. 4. 11

☆☆☆Contrast☆☆☆
 そのNHKの庵野秀明のドキュメンタリーの中で庵野監督は俳優やスタッフらに敢えて詳細な指示は出さずに、現場で実際に作り出されるものから着想を得ようとする。庵野監督はアニメ出身だから詳細で秀逸な絵コンテを多々作り上げてきたはずだが、それでは自分を超える面白いものは出来ないということで新しい刺激の種を現場に投げかける。

 これを観ながらイカレている私は例によってついつい吉田拓郎のことを思ってしまう。拓郎も精緻なデモテープを作りあげる一方で、レコーディングやリハーサルではミュージシャンたちが現場で出す音を探りながら作品を作り上げてゆくシーンがしばしばみられる。
 例えば1990年4月の新曲「男達の詩」のレコーディングのドキュメントでスタジオに入ってミュージシャンたちに初めて譜面を渡す。「俺が描いたのは…」とギターを抱えて歌おうとして「あ、いいや、描かない(笑)」と思いとどまるシーンがあった。その後に現場のミュージシャンたちと「これは違う」「やっぱ戻そう」と右往左往しながらまさに心血注ぐようにサウンドを作り上げていたのが忘れられない。

 庵野監督と吉田拓郎はジャンルこそ違え現場のスタッフやミュージシャンのことを信じて現場に託す…という意味で同じことを考えていたのだと思う。

 しかし現場に委ねるということは、現場が四苦八苦して作ったものに監督が非情なダメ出しをする可能性も当然に含んでいる。実際に庵野監督は現場の作るものに「段取りにしか見えない」「必死さが伝わらない」と.とりつく島もなくことごとくNGを出しまくり多くのシーンが没テイクとなった。その結果として現場に大きな軋轢を生んでしまう。ドキュメンタリーの視聴者の中にはこれは庵野監督のパワハラだと非難している人も多い。このドキュメントだけでパワハラと断ずることはできないと思うが、重く沈痛な現場の空気であることは確かで、観ている自分も苦しくなってくる。

 単純な比較はできないが、これを観ているとテレビのドキュメンタリー番組やDVDで垣間見てきた吉田拓郎のスタジオワークでの魅力をあらためて思わずにいられない。すまん、庵野監督の現場が悪いという意味では断じてない。空気の明暗と陰陽がくっきり分かれているというそのことだ。拓郎にも時に厳しいダメ出しをしたり不機嫌でおっかなそうだったりするシーンが多々あった。しかしそれでも最後は拓郎の差配によってある種の明るい活気をもってスタジオの空気が収斂されていくように見えた。それは吉田拓郎という人の陽性な人柄とともに、彼がいかに人知れずに気配りとていねいなコミュニケーションを張り巡らせているかということを示している。そういう拓郎の人柄の威力なのか、それともそれが「音楽」というものの持つチカラなのか…たぶん両方だ。

 こうして天才たちの二つの異なる現場を勝手に比べながら、同じモチベーションであってもアプローチはずいぶん違うものなのだなと感じ入る。そうだcontrastだよ。
 昨日も書いたが庵野監督が舞台挨拶で「いろいろ言われるのは正直辛かった」とこぼしながら、それでも観客に心救われたことを素直に感謝し、あの長く深いお辞儀したところが深く刺さった。異なるアプローチの到着点が同じだったことがえらく感慨深い。

 そうそうこれが大事なのだが、庵野監督のこの映画は門外漢の私にも超絶面白かった。なんといってもヒーローである1号の池松壮亮がコミュ障で内省的なところが良かったし、対する柄本佑の陽気で明るいところも魅力的だった。まさにここでも明暗・陰陽のコントラストの魅力というべきか。

☆☆☆今日のソウルメイトな歌☆☆☆
「男達の詩」(作詞:作曲:吉田拓郎 )
 短髪の拓郎の初露出ということもあってあのドキュメンタリーは印象深い。そうはいってもデビュー20周年のシングルなのに目玉カップリングの「イメージの詩」をリハの途中で「これ止めよう、やる気がまったくしない」と放り投げるように却下して、宇田川さんが「弱ったな、このシングル」とショックを受けるところ…かなり好きです(爆)。

2023. 4. 10

☆☆☆シン・reverence☆☆☆
 週末に一番胸に刺さったのは、ニュース動画で観た庵野秀明の映画「シン仮面ライダー」の舞台挨拶(4月9日)だった。映画も観たし特に先週のNHKのメイキングのドキュメンタリーがかなり衝撃的だった。映画は賛否両論で、ドキュメンタリーでは庵野監督の所為についてパワハラではないかと騒がれていた。私は私でいろいろ思うところはあったが、なにせ庵野秀明も仮面ライダーも門外漢だ。今度詳しい友人と居酒屋でいろいろ教えてもらったり、とことん語り合ってからと思っていたが、昨日のニュースにはやられてしまった。
 ちょっと沈痛な様子も湛えた庵野監督は、胸いっぱいという感じで観客にていねいに感謝を述べ、退場の際にひとり残って、頭を深々と下げ、長い事その頭をあげようとしなかった。こういうお辞儀をする人をよく知っている。ああ、あの方のお辞儀だ。カタチだけではなく、あの方のお辞儀と同じ魂のふるえのようなものが伝わってきた。たとえ毀誉褒貶あろうともこの人を信じようと思った。 
☆☆☆今日のソウルメイトな歌☆☆☆
「S」(作詞/作曲:吉田拓郎 「王様達のハイキングin Budokan」所収)
 人を信じるってことは泳げない僕が船に乗るみたいに 誰にもわからない勇気のいることだから…んまぁ俺が信じたところで何の役にも立たないし、ヘのようなものだけどさ。
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2023. 4. 9

☆☆☆それでも誕生日☆☆☆
 昨日は森下愛子さんの誕生日だけではなくお釈迦様の誕生日でもあられた。あちこちの仏教のお寺では降誕会=花祭りがおこなわれていた。さすが阿弥陀如来の森下愛子さんである。
 99年のシングル「心の破片」がリリースされたときこのアレンジは花祭りをイメージしているという武部聡志だかの解説があった。当時の俺はなんでこの歌とお釈迦様の誕生が関係あるのかよく理解できなかった。そしたら仏教ではなくて、アンデスのフォルクローレの名曲「花祭り」のことだったのだな。随分あとになって知った。恥ずかしい。この音楽の「花祭り」を聴くと、むしろKinkiのあの曲「ボクの背中には羽根がある」が先に浮かぶ。とりあえず吉田拓郎と松本隆との最後の共作「心の破片」…これもいい曲だと思う。…ちっ。どっちも松本隆か。「花祭り」は「春の祭り」ということだ。今の季節にはぴったりではないか。
☆☆☆今日のソウルメイトな歌☆☆☆
 「心の破片」(作詞:松本隆/作曲:吉田拓郎  編曲 武部聡志)〜「ボクの背中には羽根がある」(作詞:松本隆/作曲:織田哲郎  編曲 家原正樹)
 つなげてループで聴くと結構いい感じだ。松本隆と吉田拓郎の最後の共作ということでしみじみとした殊勝な気分になるが、その後に確か二人で2004年に布施明のために作って何故かお蔵入りしてしまった幻の作品があったはずだ、ああ、どんな曲だったんだ聴きてぇ、そもそもなんでお蔵入りしたのか、どこまで続くワンハーフの呪い…というプラチナゴールデンな邪念が入ってくる。そんなことばかり考えている俺には羽根も生えやしない。

2023. 4. 8

☆☆☆誕生日はつづくよどこまでも☆☆☆
 今日は森下愛子さんの誕生日だ。おめでとうございます。
 何度も書いたが、学生時代、山手線の高田馬場駅のホームで赤いワンピース姿の森下愛子さんとすれ違ったことがある。バレエをされていたからか背筋が美しく伸びて姿勢がよく尋常ではないオーラがあった。生で女優さんを観た初めての経験だった。俺は茫然として立ち尽くし、振り返ったまま、階段を降りてゆく可憐な後姿をみつめていた。テレビ版「ああ野麦峠」に主演されていたころだ。そうそう「ああ野麦峠」は映画版の大竹しのぶも名演だが、森下愛子のドラマも傑作である。吉田拓郎ファンであれば両作おさえておきたい。

 それにしてもこれほどの女優でありながら、なぜか佳代さんという本名でも違和感なく親しまれている。こういうのって他に
ないよね。浅丘ルリ子のこと信子さん、松田聖子のこと法子さんて言わないもんね。

 ちなみに生で初めて観て握手してもらった歌手が小室等(爆)、生で初めて観た男優は、財津一郎だった、ギビシィィィィ。なので森下愛子で良かったと心の底から思う。すまん。
☆☆☆今日のソウルメイトな歌☆☆☆
「I'm In Love」(作詞/作曲:吉田拓郎 ビデオ「1996年 秋」所収」
 若いころ反発したこの歌に、今は聴いているこちらも見守られている気持ちになる。「96年秋」のバックステージでのご夫婦の姿が素敵すぎる。とくに最後の二人の後ろ姿がフラッシュアウトするところは涙ぐむような名ショットだと思う。久々に観てあらためて感動した。どうかお二人いつまでもお元気でお過ごしくださいと魂の底から思わずにいられない。

2023. 4. 6

☆☆☆どうしたってソウルメイトな歌☆☆☆
「いくつになってもhappybirthday」(作詞:作曲:吉田拓郎  「こんにちわ」所収)
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 昨日の誕生日はあちこちと賑やかだった。昔から拓郎ファンにとって4月5日はお祝いを表明するしないにかかわらず、ひとしく大切な日である。しかし今年はそれだけではなく、音楽関係者やライターやラジオ番組などで吉田拓郎の誕生日を寿ぐ人がことのほか多かった気がする。いいぞ、いいぞ、忘れるなよ、その気持ち(爆)。

 で何万回でも同じことを言うがこの誕生日ソングは超絶名作だ。拓郎ファンはきっと、4月5日のみならず、それぞれの大切な人の生誕の日が来るたびに心にこの曲が流れるはずだ。
 この歌が祝うのは、ただ君が君になったことそれだけだ。出自はもちろん、性別も才能も実績もルックスもチカラや資産の有無もなんにも関係ない。人に隠れて泣いたり、くじけないで生きてきたことそれだけをひたすらに讃えてくれる。嬉しいじゃないか。人生というのは本来そういうものであるべきじゃないか。
 そんなこの歌を拓郎ファンだけのものにしておくのはもったいない。拓郎に関係なく、広く世界の子どもたちからジジババに至るまで人類みんながこの歌を愛で、お互いの日に歌い合うようになれば、少しはこの世の中も風通しがよくなりそうな気がする。
 とはいえ私ら一般Pのファンには限界がある。こんなとこを読んじゃいないだろうが、音楽関係者のみなさん、なんとかこの歌をあまねくに広げていく試みをお願いします。あなたがたが、おべんちゃらじゃなくて本当に吉田拓郎をリスペクトしているならば>それが人にものを頼む言い方か!…すまん。とにかくお願いします、はあと
この歌はLOVELOVEの最終回で一度だけ歌われた。ああ、LOVELOVEがもう少し続いてくれたならなぁ…と詮無いことを思ったりもする。
 

2023. 4. 5

☆☆☆SUNRISE77☆☆☆
お誕生日おめでとうございます
 「77」ということは喜寿。ここまで来たらもう喜びしかありません。77…なんかいい数字です。77というと拓郎さんが昔のラジオでさらに昔のアメリカドラマ「サンセット77」が好きだったという話をされていたのを思い出します。ここは縁起ものなのでサンライズ77でまいりましょう。まだ見ぬ朝が来る、それぞれの日が昇る。
 それにしても今頃どうしておいでだろうか。どこかで逢おう生きていてくれ。どうかお元気でお過ごしください。
☆☆☆今日のソウルメイトな歌☆☆☆
「Contrast」(作詞:吉田拓郎 /作曲:吉田拓郎 「Live at WANGAN STUDIO 2022 -AL “ah-面白かった” Live Session-」所収)
 よくわかないままだが、ストリーミングというやつを購入してみた。これを聴きながら通勤する。ああ、花粉も胸もしみてくるぜ。まさにこの世に出でたあなたがこの一本の道を歩いてくれたからこそすべてがあります。あらためて吉田拓郎さんと吉田拓郎さんにつながるすべての皆様に心の底から感謝とともにおめでとうございます。
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       …いやそれ逆でしょう(爆)

2023. 4. 4

☆☆☆ラストエンペラー☆☆☆
 坂本龍一で思い出した。35年くらい昔のこと私が資格試験に立て続けに惨敗しどん底のとき、師匠の伊藤先生(知らんよね)が励ましてくれた。「先日、アカデミー賞を受賞した坂本龍一さんが受賞の感想を訊ねられて『賞とは終わった仕事に与えられるもので、私には次の仕事しか頭にない』と言っていた。さすがだ。合格も不合格も終わった過去のことだ、これから次に向って頑張ろうじゃないか」…確かに勇気づけられた。
 しかし坂本龍一に勇気づけられるというのも拓郎ファンとしてどうなのよと思って、直近の吉田拓郎のインタビューを読んだら「向上心が旺盛なヤツは才能がないんじゃないか?天才には向上心が要らないんだよ」と豪語していて、こりゃ役に立たねぇよと思った(爆)。
 勇気づけられるからファンになるわけではなく、勇気づけられるためにファンになるものでもない。そういう普遍の真理がただそこにあるだけだ。
☆☆☆今日のソウルメイトな歌☆☆☆
「人生キャラバン」(作詞:安井かずみ/作曲:吉田拓郎/編曲:加藤和彦 「Samarkand Blue」所収)
 あのインタビューを読むと紐づけられた当時のアルバム「Samarkand Blue」を思い出しその中で最高に好きなこの曲が聴きたくなる。慰められたり、勇気を貰ったりする実利・功利はなくとも例えばこの歌は生涯、俺のことを見守ってくれている気がする。目指す泉は枯れ、砂の嵐に、日照りは容赦なく、そして推しはリタイアしようとも(涙)、人生キャラバン道なき道を行く。

2023. 4. 3

☆☆☆♪過ぎ去るものたちよ、そんなに急ぐな☆☆☆
 坂本龍一氏の訃報。俺なんぞは思い切り外様なのでおこがましいとは思うが、忘れられない言葉がある。
 「彼とは一度会った。暴力的だと聴いていたが、そうは感じなかった。むしろ自分でもコントロールできないくらいのシャイネスを持っているように見えた。彼とはそれっきりだが、妙に記憶にあるのはよく通るダミ声。」(坂本龍一・ブックレット「"TAKURO"」FORLIFEより)
 「自分でもコントロールできないくらいのシャイネス」…素敵な言葉をありがとうございました。悲しいのは、音楽を始め、いなくなられてしまったことすべてにおいてだが、特にこのウサン臭くキナ臭い時代に「平和の大切さ」をきちんと発信し続けてくれた人がいなくなってしまったことだ。年齢もよく知らなかったが1952年生まれということは浜田省吾と同年なのだな。まだまだ若かったのだな。
☆☆☆今日のソウルメイトな歌☆☆☆
「ALL TOGETHER NOW」(作詞:吉田拓郎  作曲:小田和正とか)
 坂本龍一はあの日の「お前が欲しいだけ」のことを言っているのかもしれないが、坂本龍一と同じステージで歌われたというそのダミ声…あ、俺はダミ声でなく透明感あるボーカルと思っているのだが。
   でも君の瞳は美しい そう 君の命は永遠なのだ
 お疲れ様でした。心の底からご冥福をお祈りします。

※ブックレット「TAKURO」とは、アルバム「サマルカンドブルー」発売の時にフォーライフから出版されたブックレットというかパンフレットのことです。
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2023. 4. 2

☆☆☆腕から時計を…☆☆☆
 4月1日というといろいろ思い出すことがある。なにをなんで思い出すかは略す(爆)。
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 この時計は「ah-面白かった」の特典映像の中で拓郎が奈緒に贈った腕時計と同一モデルの時計とのことだ。持主の方がコロナに倒れたときの療養給付金で買ったらしい。倒れても何かをつかんで立ち上がるあくなきファン魂に頭が下がる。見せていただいて感謝です。写真を見ているだけでなんか胸ときめく時計だね。
 はずしたままの腕時計…というと浮かぶのはこの曲だ。
☆☆☆今日のソウルメイトな歌☆☆☆
「ソファーのくぼみ」(歌:テレサ野田/作詞:白石ありす/作曲:吉田拓郎  アルバム「彼が殺した驢馬」所収)&(歌:増田けい子 アルバム「戯れる魚達」所収)
 これは隠れた名作だよね。吉田拓郎のソングライティングの才がみなぎっている。そしてテレサ野田と増田けい子(以下「ケイちゃん」という)、この二人のねーさんの歌唱が放つ色香がこれまた甲乙つけがたくたまらないのだ。別に甲乙つけなくていいのだが、個人的には大事なワンポイントがある。
 テレサ野田は「♪あなたがつけたソファーのくぼみ〜」と歌うのに対して、ケイちゃんは「♪あなたがつけたソファーのくぼぉぉみぃ〜」という譜割りで転がすように歌うのだ。昔ラジオで流した吉田拓郎のデモテープではやはり「♪あなたがつけたソファーのくぼぉぉみぃ〜」とタメを入れて歌っていた。かくして拓郎のデモテープを聴きこんで歌いあげているのがケイちゃんというところで、優劣ではないが甲乙はつく。
 腕時計の写真を眺めながらながら「ソファーのくぼみ」を聴き比べる…だからどうしたと言われそうな日曜日の午後です。

2023. 4. 1

☆☆☆永遠に嘘をついてくれ☆☆☆
 某なるさんのつぶやき「高度なAI技術によって、AI拓郎と自然な会話ができるチャットサービス=膨大な歌詞やエッセイ等から拓郎の言葉を学習した[拓チャットGPT]…」ってマジで一瞬信じちゃったよ。あ〜もうこれが実現してしまったら、こんなサイトはおしまいだ、もうやめよう…とまで思いは飛んだ。やられたよ。うそがおじょうず@松本伊代。ということで今日から愛と哀しみの4月だ。
☆☆☆今日のソウルメイトな歌☆☆☆
「4月になれば彼女は(April Come She Will)」(歌:Simon & Garfunkel 作詞:/作曲:Paul Simon)
 TBSの「お喋り道楽」でゲストの細川直美が、拓郎に「ギター弾いてほしいですぅ」っとおねだりダレダレしたら、デレデレの拓郎が「いいですよ」と言ってこの歌を弾き語ったというシーンがあった。「けっ。」と思った(爆)。いろいろご意見はあろうが。それでも弾いたあとの拓郎の「…これが何にもならないと思うと悲しい」という言葉に救われた。それ以来4月になると「4月になれば彼女は(April Come She Will)」を歌う拓郎を思い出す。

2023. 3. 31

☆☆☆僕の好きな場所☆☆☆
 今日で八重洲ブックセンターが閉店だ。開店したのは僕が高校2年の秋、深秋のアルバム「ローリング30」の発売を楽しみにしていた頃だ。大型巨大書店のハシリで当時はすげー時代になったものだなと驚いたのを憶えている。あれから読書家ではない俺でもいろいろお世話になった。ブックセンターでサイン会をした作家たちのパネルコーナーに庄司薫さんの笑顔の写真が長い事飾ってあって行く度に眺めていた。たぶん同じ場所で、昨年の岡本おさみ「旅に唄あり」の写真展を観たのが最後の思い出だ。…そうだ永井みみの「ミシンと金魚」もこのブックセンターでやっと見つけたのだった。最後の砦みたいなものでもあった。
 町からどんどん書店が消えゆくのは寂しい。興味にあるなしにかかわらず書店に行くとたくさんの本と否応なく出会う。本屋に行かなければ、いしいしんじにも吉田篤弘にも会えなかった…俺が見つけたんじゃないけどさ。
 あたりまえだが本にはどれも「装丁」というものがある。いまごろになって思うのだが「装丁」はそれ自身がひとつの芸術作品だ。たくさんの背表紙や表紙やポップが思い切り語りかけてくる。そして「手触り」と「質感」がある。こうして書店が少なくなってみるといかに幸福な場所であるか心にしみてきた。遅い。とはいえAMAZONの利便性からはもはや逃れられない。やっぱり、すげー時代になったなと思うしかないのである。
☆☆☆今日のソウルメイトな歌☆☆☆
「ひらひら」(作詞:岡本おさみ/作曲:吉田拓郎  アルバム「よしだたくろうLIVE'73」所収)
 ブックセンターのあの写真を思い出したら、やはり無性に聴きたくなった。縦書きだったのですね。「用心しろよ、用心しろよ、ああ〜そのうち君も狙われる」…誰も彼も炎上し血祭にされる現代の世界を予知していたかのごとくの作品だ。
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2023. 3. 28

☆☆☆このオタク世界の片隅に☆☆☆
 殆どの方々には心の底からどうでもいいことだろうが、AMAZON PRIMEで配信中の「スタートレック ピカード season3 (final)」が毎週、圧巻すぎる。こちらもある意味でスタートレック・サーガの壮大なアウトロ=エンディングである。老いたピカード艦長をはじめ一緒に歳をとってきたクルーら関係者が再集結する。それは視聴者も同じだ。こちとらも一緒に歳をとってしまった共感、哀しみ、だからこそ感じるささやかな希望が混線する。さすがトレッキーといわれるマニアが全世界規模で佃煮のようになっている世界なので、庵野秀明どころではないレスペクトとオマージュのテンコ盛りに悶絶するしかない。
 これは譬えて言うのなら、拓郎が「ah-面白かった」で呼びたかったという歴代ミュージシャンたち全員をつま恋あたりに集めて、レコード未収録曲とライブ未演奏曲ばかりのマニアな曲のセッションを見せられているのとたぶん近い。>よくわかんねぇよ
 
 30年前のテレビシリーズでピカード艦長が可愛がってきたひとりの異星人の女性の部下が、いわば反政府ゲリラに転向して出奔してしまうという小さなエピがあった。今回、その彼女が役者もそのままに再登場する。かつての裏切りを責めるピカードとそれが自分の信念だったことをわかって欲しかったと超絶すれ違う二人。しかしやがて彼女の命を賭した恩返しを目の当たりにしてピカード爺さんは涙ながらに語りかける。「今はすべてを理解した。許してほしい、それが今で。(I do see you. Everything. Forgive me. It's only now)」このシーンは切な過ぎてもう涙も追いつかない。
 ちょっと待ってプレイバック、今の言葉プレイバック。「今はすべてを理解した。許してほしい。それが今で。」…ああ、そういう後悔を帯びた思いが何回もあったものだ。
☆☆☆今日のソウルメイトな歌☆☆☆
「今夜も君をこの胸に」(作詞:作曲:吉田拓郎  「Live 73 years- in NAGOYA」所収)
 今はすべてを理解した。許してほしい、それが今で。…2019年のライブの帰り道で心の底からそう思った。特にオーラスのこの曲。

 とはいえそのことを今僕は後悔していない。いや正直いえば後悔もしているが、このサイトで5万回は引用したとおり「後悔とはかつてそこに愛があった証拠である」(是枝裕和「ゴーイングマイホーム」より)。なので反省も悪びれもせず、そういうもんだということで歩いてまいりましょう。
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2023. 3. 24

☆☆☆一番が消えていたころ☆☆☆
 「今日までそして明日から」を聴いていると時々思い出す。といってもあくまで私の記憶なので、もし勘違いだったらごめんな。1983年の秋の「情熱」ツアーでバンドサウンドの「今日までそして明日から」が歌われたとき、拓郎はなぜか1番をカットしていきなり2番から歌い始めた…と記憶している。横浜も武道館もそうだったと思うのでミスではないと思う。あれは何だったんだろうなと今でも時折考える。どんなに考えても本人しかわかんないけどさ。

 つまりは1番の歌詞「時には誰かの力を借りて」「時には誰かにしがみついて」を歌いたくなかったのだと考えるほかない。あのツアーにはそこはかとない深い悲しみが満ちていたと思う。当時、スキャンダルの渦中にあり、自堕落がイイとうそぶく拓郎に俺はかなり不満だったし、拓郎もそういう口うるさいファンに相当に苛立っていたはずだ。ささくれだった日々だった。…これも俺の印象に過ぎない。そう思い込むと、1番のカットには「俺は誰の世話にもなっていない」「俺はひとりなんだ」という当時の拓郎の孤高な心の叫びが聞こえてくるような気がしてならんのだ。

 次にこの歌が歌われたのは…たぶん89年の人間なんてツアーの弾き語りだったが、ちゃんと1番から歌われていて安心したものだ。拓郎もスキャンダラスな香りが消えて、マイルドなおじさまになっていた。
 こうして1番がもしなかったらと考えながらこの歌を味わうとあらためて感じる。力を借りる、しがみつく、あざ笑う、脅かされる、裏切られる、そして手を取り合う、これらひとつひとつの人の営みのチョイスが絶妙であり、それらがすべて散りばめられているところでこの歌は世界の深奥を描き出している。ひとつでも欠いたらそれは違うものになってしまう。何を今さら当たり前のことをと思われる人もいるだろうが、ホントに今さらだ。そもそも超絶有名なスタンダードになったし、もう飽きたなと思っていても、それでもこの歌からは逃げられないゆえんだ。

☆☆☆今日のソウルメイトな歌☆☆☆
「今日までそして明日から」(作詞:作曲:吉田拓郎 『Forever Young Concert in つま恋 2006』所収 )
 個人的にはいろいろあって気分も体力も落ち気味だ。そういうときつま恋2006のオーラスバージョンを聴くのは体力がいるな…と敬遠していたが、聴きながら蘇えってくる気力と体力があるとわかった。この歌のシンプルだがマントルに届きそうな深みを感じる。

2023. 3. 23

☆☆☆いま生きてるということ☆☆☆
 ♪生きているということ いま生きているということ
  書店で思わず手に取ってしまうこと
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  1ミリも関係ないとわかること
  そそくさと書棚に戻すということ
  いくら凄い詩人でも一言くらい断ってくれないかとイジイジと思うこと
☆☆☆今日のソウルメイトな歌☆☆☆
「今日までそして明日から」(作詞:作曲:吉田拓郎  DVD「NHK101」所収)
 これを聴くと次の「流星」までつい聴いてしまう。イントロのエルトン永田のピアノで思わず拍手がわくところが好き。

2023. 3. 21

☆☆☆聖なる酔っ払いな夜☆☆☆
 吉川忠英、島村英二、中村哲、河合徹三・・・人呼んで「ドランカーズ」のライブを楽しむ。
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 伝説のギタリストとその名を聞く吉川忠英をはじめて目の前で観た。このお方か…と感慨深い。アコースティックギターもすばらしかったが、ボーカルもしみじみとよかった。なんという深い含蓄のある存在感。曲中で中村哲さんがサックスのソロをプレイせんと立ち上がっているのに、忠英さんがそれを忘れてすっ飛ばして歌ってしまい、戸惑った哲さんが…およびでない…とそのまま着席するシーンがあり(笑)、おちゃめな人でもあった。…惜しむらくは勇気がなく持ってったCD「岡本おさみアコースティックパーティ」にサインが貰えなかったことだ。
 門外漢の私なので申し訳ないが、それでもお世話になっている作品が数限りなくあることをあらためて知る。
 吉田拓郎のサポート作品で一番鮮烈なのは「英雄」。松任谷正隆の鎮魂のピアノのあとで狼煙のようにかき鳴らされるあのギター。この緊迫した煽情的な音色は初めて聴いた時から虜になった音だ。
 そして今回知ったのは、中島みゆきのあの「悪女」のイントロでなっているギター、ユーミンの「やさしさに包まれたなら」のオープニングの美しいギターも忠英さんの手になるものだった。やさしかったり、時にささくれ立っていたり、なんて表情豊かで素敵なプレイたちなのだろうか。この三曲をアコースティックギターの観点から今、ヘビロテで聴き直している。なんかこういう時って幸せだ。
 そういえば昨日のゲストのカントリーシンガー坂本愛江という方は、エレックで吉田拓郎と同期だったフォーク歌手、朱由美子さんの娘さんということだった。そうなのかあ。人類はみな親戚である>どういう結論だよ。いや親戚だから滅ぼし合ってはいけないのだ。
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2023. 3. 18

☆☆☆空よりも青い群青☆☆☆
 久しぶりに「卒業式」というものを見た。個人的に卒業式にはあまり良い思い出がない。小学校は別にして後はスゴスゴと逃げ出すような気分のものばかりで最後には出席もしなかった。
 だから卒業ソングの定番名曲たちにも,なんだかな〜といまひとつ燃えなかったのだが、昨日聴いた「群青」(作詞:福島県南相馬市立小高中学校平成24年度卒業生/作曲:福島県南相馬市立小高中学校音楽教諭 小田美樹)の合唱は心にしみた。ひとりの先生が、毎年決まっていた定番の卒業ソングの代わりにこの歌をどうしても歌いたいとさんざん頑張ったあげく、とりあえず今年だけ採用されたとのことだった。
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 東日本大震災で被災し、仲間の命も失い、全国に散り散りになっていった福島県南相馬市小高中学校の生徒たちの声を紡いで、同校の音楽の先生が曲として完成させたという。言葉に尽くせない出来事から作られている。そのため定番の卒業ソングにもありそうな言葉だけれど、ひとつひとつが背負う切実な思いが伝わってくる。
 これはあの悲痛事を経験した生徒たちの切実な言葉であると同時に、ひとしくこのコロナ禍での日常を生きた目の前の子どもたちの歌でもあると思う。すべてはつながっている。
 この歌を卒業式にと必死に格闘した若い男の先生は、合唱の時ボロボロと泣いていて、こっちもうっかり…でなく、しっかりともらい泣きしてしまった。話したこともない先生だが、アンタすげえよ、よくやったよ、と心の中でエールを飛ばした。卒業式で涙したのは初めてだった。
 群青とはどんな色だったかと思ったが、空よりも青いサマルカンドブルーの色のことらしい。空の青より青い青だ。

☆☆☆今日のソウルメイトな歌☆☆☆
「僕の一番好きな歌は」(作詞:作曲:吉田拓郎  未収録)
 「群青」に感動しながらもその歌詞の「あれから2年」というフレーズについ反応してしまう。すまん。1978年の3月18日にこの歌を神奈川県民ホールで初めて聴いた。「自分の叫びをいつでも持ったヤツ、自分のアワレを慰めたりしないヤツ」…座右の銘。「群青」を選曲したその若い先生に捧げたい。

 そして今日は、海の向こうで踊る若い友人の誕生日だ。おめでとうございます。震災の年に向こうに渡ったんだからもう13年目だ。よく頑張ったねぇ。ここでもエールを送りながら爺も頑張ります。
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2023. 3. 17

☆☆☆あいつの部屋は散らかっている☆☆☆
 これまでのいろんな発言や写真・映像から察すると吉田拓郎という人はかなりキレイ好きで整理整頓、片付け上手な人だと思われる。断捨離ブームのずっと前から引越しのたびに断捨離を繰り返し、家財や衣類などをラジオでリスナーに気前よくプレゼントしたりしていた。ああ、吉田家のヒューズを貰った方、お元気でしょうか。
 したがって拓郎は、松本隆の文字並びが整序されている、キレイに片付けられた部屋のような詞が本能的に大好きなのだと思う。きちんとリズムに裏打ちされて整序されているからメロディーがとてもつけやすいと絶賛しているゆえんだ。

 さて、これとは正反対に、字余り字足らずでメロディーがつけにくいと拓郎が不満をたれるあの作詞家のことを思わずにいられない。一番と二番で余裕でサイズが違う混沌とした吐き捨ての詞。松本隆の詞が片付けられた部屋ならば、岡本おさみの詞はさしずめ散らかり放題の部屋なのではないか。すまん。散らかってはいるがそこに光る原石がゴロゴロしている。その混沌とした詞にメロディーをつける拓郎は、あたかも子どもの散らかった汚部屋を「…ったく仕方ねぇな」と怒りながら必死で片付けるお母さんの気分に近いのではないか(爆)。

 松本隆が「外は白い雪の夜」の詞に拓郎が3分で曲をつけてたのを驚いたというが、それは松本の詞がリズム感をもって整序されていたことも大きいのではないかと思う。要するに、この世の部屋はいつも二通りさ、片付けが楽なキレイな部屋と片付け難い散らかった部屋と、君は両方扱ってるんだよね。
 
 しかし散らかっている部屋に住む、断捨離嫌いの私は切に思うのだ。拓郎のその片付けこそ絶妙なワザだと思う。思い切り散らかっている言葉たちを時にねじ伏せ、時に磨き上げるように愛でることで、言葉が躍動し、卓抜したメロディーとして整序されてゆく。そこにこそ吉田拓郎の真骨頂があると思う。この拓郎の片付けのワザは、もう、音楽界の「こんまり」と言ってもいい>いや、よくねぇだろ。
☆☆☆今日のソウルメイトな歌☆☆☆
「君去りし後」(作詞:岡本おさみ/作曲:吉田拓郎  「よしだたくろうLIVE'73」所収)
…かなり散らかり放題の部屋を見事にFUNKなブルースに昇華させた片付けワザの典型かもしれない。

2023. 3. 16

☆☆☆文字で描かれる絵☆☆☆
 昔、大江健三郎が小学校を訪れて子どもらに文章の書き方を教えるドキュメント番組を観たことがあった。ウロ覚えで残念なのだが「たくさんある言いたいことを、ひとつひとつ小さなカタマリにして…(と黒板に大小の〇を書いて)、それを接続の言葉でていねいにつなげて、大きなカタマリにして相手とどけるんだよ」と語りながら黒板にはシンプルでわかりやすい絵が出来上がていった。まだフローチャートもマインドツリーも一般的ではない時代に図・絵で文章の美しさを理解させようという説明は新鮮だった。

 で、一昨年のことだか、関ジャムの松本隆の特集の中で、武部聡志が「吉田拓郎さんは松本隆さんから詞が届くと『読む前から良い詞だとわかる』と言っていた」と語った。要するに「文字の並び方からしてキレイなんだって。それだけで良い詞だとわかると。」
 別の機会に拓郎も「松本隆の詞は、きちんとリズムに裏打ちされて並んでいる」とも語っていた。
 言いたいことのカタマリがきちんと切り分けられて整序された言葉の並びはそれ自体が美しいということだろうか。そう思うと松本隆の詞を言葉の並んだ絵として、眺め直してみるのというのも面白そうだ。そのうち酒でも飲みながら鑑賞会、品評会でもしましょうや。
☆☆☆今日のソウルメイトな歌☆☆☆
「恋唄」(作詞:松本隆/作曲:吉田拓郎  「ローリング30」所収)
…ということで、まず思いついたのがこの唄。字並びがとてもキレイだ。繰り返されてゆく「あなた」に途中で「面影」「この愛」「永遠」がインサートされてゆくこの見事さ。あ〜なんてあざとい美しい言葉の並び方なのだろうとしみじみ思う。

  恋唄  

あなたのくちびるの風と雨
あなたのまなざしの絹の糸
あなたのゆびさきの花の色
あなたのみみたぶの銀の夢
面影を描くのに筆はいらないよ
あなたが暗闇から呼びかけてくれれば
面影を描くのに筆はいらないよ

あなたのかなしみの青い海
あなたのさびしさの暗い夜
あなたのぬくもりのハンカチ−フ
あなたのよろこびの星の渦
この愛を告げるのに言葉はいらないよ
あなたがぼくの腕によりかかってくれれば
この愛を告げるのに言葉はいらないよ

あなたの細い手の逆さ時計
あなたの肩までの夏の服
あなたのせつなげな眉の線
あなたの舌足らずな言葉たち
永遠のまごころをあなたに贈りたい
あなたが伏せ目がちに微笑んでくれれば
永遠のまごころをあなたに贈りたい

2023. 3. 15

☆☆☆わが心のバックスクリーン☆☆☆
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☆☆☆今日のソウルメイトな歌☆☆☆
「チェック・イン・ブルース」(作詞:作曲:吉田拓郎 「情熱」所収)
 毎年、何度でも言う。この日のハイライトは「ロンリーストリートキャフェ」だという意見もあろう。確かに圧巻の弾き語り&シャウトであった。しかしこの大舞台のオープニングによりによってこの歌を持ってきたのにはびっくらいこいたものだ。よほど深い考えあってのことか、あるいは何も考えていなかったか(爆)、どっちかだ。それにしても今にして思えば圧倒的にカッコよすぎるオープニングである。吉田拓郎の本能だ…というのが自説。

2023. 3. 13

☆☆☆われらの時代☆☆☆
「ライブ作品を順次ストリーミング&アラカルトDL配信させていただきます♪」。ありがたい。ありがたいけれど意味がよくわからない(爆)。やっぱり「キミのスマホに拓郎がやってくる」とか「いつでもどこでも一曲でもライブ会場」とかダサイけれども,わかりやすい表現で説明してくんないと俺なんかはわからない。面目ない。
☆☆☆今日のソウルメイトな歌☆☆☆
「いつも見ていたヒロシマ」(作詞:岡本おさみ/作曲:吉田拓郎/編曲:青山徹  「アジアの片隅で」所収)
 作家の大江健三郎が亡くなられた。正直言って、小説は難しくてよくわからなかったし,その世界設定もなじめなかった。でもノンフィクションの「ヒロシマ・ノート」だけは別だ。いつも見ていたヒロシマ・ノート。徹底して平和を希求されていた姿はまさに仰ぎみる世代の代表のように見えた。ご冥福をお祈りしつつも、これから世の中どうなっちまうんだろという不安も大きい。安らかに笑う家はいつまであるか。俺の歌ではないけれど>あったりめぇだろ、この歌をお捧げします。どうか安らかに伊丹十三さんとゆっくりお酒を酌み交わしてください。

2023. 3. 12

☆☆☆僕達の大好きな場所☆☆☆
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 幻の1号車。その乗員予定だった人とは毎年のように話す。12年前の震災は身の置きどころのない悲痛事だったが、私達みんながハワイに行っているときではなかったこと,また拓郎が震災のほぼその日のうちにハワイツアーを決然と中止としたことが、せめてもの救いだった。不謹慎な言い方だが、それらは不幸の嵐の荒れ狂う世の中でのささやかなLuckのひとつだったと今でも思う。もしそうでなかったらと考えると暗然とするしかない。
 ウクレレもバウリニューアルも幻になったり、思い切り遠のいたりしてしまったけれど、おかけでハワイは今も変わらずにまぶしい憧れの場所としてありつづけている。だからこそ切に思うのだ。拓郎にはハワイに行ってほしい。もともと俺は自分のことをさておいて他人様のことを願うような殊勝な人間ではない(爆)。だけど俺は行けなくとも、拓郎、あなたはハワイに行ってくれよと思う,というより願う。
☆☆☆今日のソウルメイトな歌☆☆☆
「憧れのハワイ航路」(歌・陣山俊一 作詞:石本美由起作曲:江口夜詩  「セイ!ヤング 渋谷エピキュラス 公開録音」より)
「僕の大好きな場所」(作詞:篠原ともえ/作曲:吉田拓郎  「AGAIN」所収)
…この歌を聴きながら翻意した。やっばり万万が一にも機会があったら、そんときゃ万難を排してでも頑張ってみよう。推しを求めて三千里。その気概だけは持っていたい。そんときゃ、幻の一号車で逢ひませう。
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2023. 3. 11

☆☆☆今日の特別にソウルメイトな歌☆☆☆
「春を待つ手紙」(作詞・作曲 吉田拓郎 「FromT」所収)
 その出自とは関係なく,この歌は3月11日のための祈りの歌だ。何の権限もないが私は勝手にそう思う。震災の復興支援のオールナイトニッポンの特別放送で、吉田拓郎は人前で初めてこの歌を歌ってくれた。忘れられない。もともと吉田拓郎という人はこういう生放送の特別番組で、初めての歌を披露してくれるような殊勝な人ではない(爆)。たいがい歌い慣れ,聴き慣れた歌をチョロっと歌い済ますのが常だ(※個人の感想です)。しかしこの日の拓郎は違った。静かな決意を感じた。CMが入るたびに客席に背を向けてコードとフレーズを何度もそっと確認していた。緊張がヒシヒシと伝わってきた。かくしてあの魂の初演に至る。
 大した被害もなくのうのうと生き延びてきた私だが、たくさんのみなさんがそれぞれにかけがえのない大切なものを失われたに違いない。私とても遠いつながりだけれど,ひとつのご家族のことをずっと祈らせていただいてきた。そして、そのことと一緒に数えるのは不謹慎かもしれないが、わしらのハワイツアーもこの日消えたんだよな。
 泣きたい気持ちで冬を超えてきた人、心の底からお祈り申し上げます。
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2023. 3. 10

☆☆☆吉田拓郎「日本ゴールドディスク大賞」受賞☆☆☆
 受賞おめでとうございます。どういう賞なのかよくわからないけれど,くれるものはもらってしまえ、そして祝ってしまえ。ブラボ!!
 受賞のコメントがいつもながらまたいい。
「笑顔が困難な世界情勢は心が痛みますよね。音楽が少しでも人の心をやわらげる事ができれば・・小さな応援を続けたいと思います。」
 どこにもチカラが入っていない。飾り気もないささやかな言葉だが、魂がある。実は昨今テレビはいったい誰のためのものかとメチャクチャ腹を立てたり怒ったりしていて「ペニーレインでバーボン」をヘビロテしようと思っていたのだが、この受賞の言葉「小さな応援を続けたい」というくだりを読んですこし我に返った。自分はさらにこのうえなく微少だが、そんなこの一般Pにも続けられる応援があるに違いない。
☆☆☆今日のソウルメイトな歌☆☆☆
「ひとりgo to」(作詞・作曲 吉田拓郎 DVD「Live at WANGAN STUDIO 2022 -AL “ah-面白かった” Live Session-」所収)
 思ってた世界じゃない、傷つく夜もまだつづくけど、終わりなき夢の中、黄昏の中にあっても旅を続けてまいりましょう…という歌だと勝手な解釈をしながら愛でる。

2023. 3. 9

☆☆☆倶に☆☆☆
 「体温」のクレジットで「吉田拓郎」と「島村英二」が並んでいるとそれだけで心の底から嬉しくなる。理屈抜きで胸が熱くなるのだ。大谷とダルビッシュが並んでいるオーダーみたいなものである。ジャン・リュック・ピカードとウイリアム・ライカーが揃ったUSSタイタンのブリッジみたいものでもある>それは知らねぇよ。とにかく何も背負う必要はない、みなさんそれぞれ存分にご活躍を。
 こちらも、あと10年間は存分に活動できるような肉体改造というテーマで,とある鍼灸の先生にお世話になっている。久々に名師に逢えたという感じだ。施術の最中に先生が「ワタシも世代的に拓郎さんはよく聴きました」と言うので「どんな曲がお好きですか?」と尋ねたら「うーん」とさんざん考えたうえで答えられた。 
☆☆☆今日のソウルメイトな歌☆☆☆
「わしらのフォーク村」(作詞・作曲 吉田拓郎 「人間なんて」「AGAIN」所収)
 まさか予想外の選曲…ピンポイントで鍼がツボに入った感じだ。効く。もっと名曲はたくさんあるぞと拓郎さんは怒るかもしれない。イヤイヤ、2014年にrefitしたバージョンをぬかりなく出している拓郎さんアナタも凄いですからと思う。

2023. 3. 8

☆☆☆今は黙って風の音を聴け☆☆☆
 田家さんのラジオに出演した瀬尾一三さんは中島みゆきのレコーディングの参加について「拓郎さんが自分でバラしちゃいましたね。あの人ホントに黙ってらんない人で(笑)」と苦笑していた。確かに。こと音楽に関しては「ホントに黙ってらんない人」だと思う。
 しかし「黙ってらんない人」であるところに私の幸福があったのだ。曲ができるとデモテープの段階から聴かせちゃうアーティストってあんまり知らない。コンサートも決まるとリハの段階から自ら全力でレポートして何か月も前から私たちを燃え上がらせてくれた。79年の篠島のセットリストを事前にラジオで片っ端から読み上げていったのには驚いたものだ。そして、ゆっくりと時間を取って予告してくれたおかげでアウトロの旅路も私らは目に耳に焼き付けることができた。なにもかも「黙ってらんない人」のあくなきサービス精神のおかげである。

 なので密かに思う。「やってみなければわからないという今の幸せ」も深くなればなるほど黙っていられなくなるのではないか。それからサイトやSNSで私たちが奔放に語れば語るほど、ネットに真実はないと怒って黙ってらんなくなるのではないか。このまま悪態をつきつづけよう(爆)。「味方のいない世界なら将来だけが非常口(中島みゆき・体温)」とはそういう意味だっんだな、すげーな、みゆきねーさん>いや全然違うと思うぞ。
☆☆☆今日のソウルメイトな歌☆☆☆
「アウトロ」(作詞・作曲 吉田拓郎 DVD「Live at WANGAN STUDIO 2022 -AL “ah-面白かった” Live Session-」所収)
 そんなこんなの思いで聴くとあらためていい曲やね。拓友が、WANGANが出てからはこっちばかり聴いてしまうと言っていたが…御意。

2023. 3. 7

☆☆☆with Seo☆☆☆
 瀬尾一三といえば忘れられない言葉がある。2003年の拓郎の病=手術でビッグバンドのツアーが延期になった時だった。手術を終えリハビリをかねてラジオに復帰した吉田拓郎に瀬尾一三がメッセージを寄せた。「すべてがあなたが休まれる直前の状態に戻っていますのでどうか安心してください」と呼びかけた。前代未聞のビッグバンドのコンサートツアー、しかもそれを急遽リスケすることは大変な作業だろうと想像がつく。それでも全部処理したから大丈夫、安心して戻って来いと両手を広げるような瀬尾一三の言葉に涙した。俺もこの人に一生ついてゆこうと誓った>おめぇはただの一般人だろ.
☆☆☆彡今日のソウルメイトな歌☆彡
「今日までそして明日から」
(作詞・作曲 吉田拓郎 アルバム「豊かなる一日」所収)
 弾き語りからビッグバンドになだれ込むこの劇的な展開。その刹那、拓郎がサッと両手を広げる。病からの帰還でありビッグバンドwith Seoの船出の瞬間だ。ここを聴く度、観るたびに、俺はモーゼの「十戒」でモーゼが海を真っ二つに割るシーンを思い出す。真っ二つに割られた海の道をゆく御大のうしろから俺も着いていくようなそんな晴れがましい気分…妄想も大概にしろ言われるだろうが。
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2023. 3. 6

☆☆☆瀬尾爺の味わい☆☆☆
 大阪のラジオで瀬尾一三が、中島みゆきの「体温」のレコーディングの様子を話す部分を聴かせていただいた。すでに拓郎のラジオで、中島みゆきのレコーディングに参加して、中島みゆきにハグして、瀬尾にギターの譜面を書きかえさせて、思いついてウー、アーのコーラスを瀬尾一三とともに急遽付け加えた顛末は知っていた。同じ事実を瀬尾サイドから聴くとまた面白い。「俺ギター弾いてもいいよ」というメールに始まって、どうせまた来ないだろうと思っていたら本当に来ちゃって驚いたし、難しい曲だと文句言われるだろうから「悪女」とコード進行が似ている「体温」を選んだ。ご本人はハグするわ、譜面のコード変えさせるわ、コーラスまで一緒にやらされて、とにかくかき回すだけかき回して嵐のように去っていったとのことだ。引退なんて半分くらい信じていないとも言う。こういう肝胆相照らす愛のツッコミをしてくれる側近が数少ないので妙に嬉しかった。

 たぶん吉田拓郎にはツッコミが必要だ。拓郎という人はどこまでも孤高の人でOKなのだが、時々しかるべきツッコミがないと、まるで田中のいない爆笑問題の太田のように、行くあてのない才気だけが暴走して辛くなりすぎてしまう気がする。そこでは側近やファンという見えない相方のツッコミがあって初めてバランスよく建つ構築物みたいなものではないか。
 とはいえファンのツッコミをフトコロ深く受け止めてくれるような人ではない(爆)。みゆきねぇさん、拓郎に何もかも愛ゆえのことだと言ってくれ。

☆☆☆今日のソウルメイトな歌☆☆☆
「悪女」(歌・作詞・作曲 中島みゆき 「ラストツアー 結果オーライ」所収 ) ここに吉田拓郎のギターが入っていたのかと妄想し悶絶しながら聴くよろし。

2023. 3. 5

☆☆☆ソウルメイトの体温☆☆☆
 ということでムッシュかまやつモードから中島みゆきモードにゆっくりシフトしてゆく日々。中島みゆき&そのファンの方々には誠に失礼千万だが、中島みゆきの歌を聴く時、どの曲も吉田拓郎へのラブレターに思えてしまうし聴こえてしまう。いや思えなくとも無理矢理強引に読み込んでしまうのだ(爆)。その人のひそやかな恋心に気づいてしまった疼くような気持ち。ああ、そうだよ、それを「下種」というのだな。すまん。ただその思いは確実に推しにリタイアされてしまったファンの思いとどこか通底しているのだ。    

          「体温」
    あなたは確かに他人でも あたしはあなたが懐かしい
    生者必滅 さとってみても さみしさは羅針盤
    味方のいない世界なら 将来だけが非常口

  あ〜、みゆきねぇさん、またなんて珠玉の言葉を紡ぐのでしょうか。ただれるような淋しさとかすかな希望でしっかりと拠られていらっしゃる。

     体温だけが 頼りなの
     体温だけが すべてなの

 そうなのだ、リタイアしたけれど吉田拓郎は生きている。どこかでポジティブに体温を持って生きている。以前にも引用したファンの方の言葉が思い出される。

私たちが何といおうと拓郎は今生きているのだ。そのことにさえ私は感動する、と言ったら私の思い入れは強すぎるというべきなのだろうか…
           「吉田拓郎大いなる人」(P.89 八曜社 小久保明子さん )

 この方の言葉はこの道を行く私に>どんな道だよ、とにかく大切な言葉としていつも心の底にある。こんなふうにありたいと思う。この言葉を左とすれば、「体温だけが すべてなの」とこのフレーズは右ということでもしっかりと結びついている。

2023. 3. 4

☆☆☆春よ来い☆☆☆
 森山直太朗の「さくら(独唱)」が心にしみる。拓郎がリタイアしてしまった俺に、さくらは咲くのだろうか、春は来るのだろうか? んまぁ…とりあえず花粉だけはしっかり届いている。それにしても今年の花粉は凄くないか? どこかでマンモスフラワーが咲いて毒花粉を撒いているとしか思えない>知らねぇよ。官民学の総力をあげて阻止して欲しい。
 この「さくら」のタイトルには必ず「(独唱)」がついて「さくら(独唱)」と表記されている。このタイトル表記をみると「アゲイン(未完)」を思い出しませんか? そうですか、思いませんか。
 ☆彡☆彡☆彡今日のソウルメイトな歌☆彡☆彡☆彡
「アゲイン」(作詞・作曲 吉田拓郎  「From T」所収)
 思い出したんで聴く。2014年のアンコールでオール・スタンディングした客席にしみわたるように歌われたあの光景が忘れられん。スタンディングしつつ、みんな拓郎の「完」の歌詞を耳をそばだてて聴き入った。名場面のひとつと思う。"僕らは今も自由のままだ"…このフレーズの素晴らしきこと。

2023. 3. 3

☆☆☆直太朗胎教理論☆☆☆
 昨年のラジオで、拓郎は松任谷正隆に「これからもボーカリストが必要だったら声をかけてくれ」と言っていた。今回のムッシュかまやつの七回忌ライブは、松任谷正隆の演出で武部聡志の主宰だったから登場してもおかしくないと思っていたが…ココではなかったか。ムッシュかまやつ編の最後にこれだけは言っておきたい。ハーモニカホルダーまで下げて「シンシア」を歌った森山直太朗を観ながら万感の思いがあった。
 Uramadoにも書いたと思うが、1975年12月31日大晦日のNHK紅白歌合戦で、森山良子は「歌ってよ夕陽の歌を」を歌った。そしてマチャアキは「明日の前に」を歌った。森山直太朗は1976年4月生まれだから、この時に良子さんのお腹の中にいたことになる。これを胎教といわずして何という。その直太朗が「シンシア(独唱)」を歌う。拓郎ファンとしては感慨深かった。森山良子がわたしたちのねぇさんだったら、直太朗はわたしたちの甥っ子である。他人ではない>いや思いっきり他人だろ。
☆☆☆今日のソウルメイトな歌☆☆☆
「さくら(独唱)」(歌・森山直太朗/作詞・森山直太朗・御徒町凧/作曲 森山直太朗)
 もともと涙が出るほど感動的な歌であり熱唱であるのだが「吉田拓郎胎教理論」を意識してあらためて聴くとまた世界が違って見える>だから勝手な思い込みで言うなよ

2023. 3. 2

☆☆☆やつらの足音が聴こえてくるんだ☆☆☆
 ムッシュかまやつ七回忌ライブに行ってきた。渋谷公会堂はすっかり様変わりして現代的で素敵なホールになっていた。「ココは渋谷区役所があった場所で、渋公はもっと向こうにあって…」と頼まれもしないのに語る俺は「昔この辺はみんな畑だった」とか繰り返す爺ちゃんと同じだ。
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 こんな素敵な七回忌は観たことがない。老若男女それぞれのミュージシャンやリスナーの中に生きている"わが心のかまやつひろし"が自由に行き交う宴のようだ。特に,そんなにも大切な人だったのか、武部聡志。武部の言葉にうっかりもらい泣きしそうにもなった。
 それでも楽しい一夜だった。マスクこそしていたけれど、歓声、唱和も制約がなく、森山直太朗の♪シンシア〜に「Hu!Hu!」の合いの手も気兼ねなくできた(客席で自分もいれて4名ほど確認)。それだけで気分はアがる。ラストの「バン・バン・バン」「フリフリ」あたりでの久々のスタンディングは、ああ〜ライブに帰ってこられたのだと思えた。
 FUNKな「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」…そうかこの歌はこうしてソウルが歌い継がれてゆくのか。ああ、マチャアキと井上順。損得を考えない魂のサービス精神。期待していたことを全部やってくれた。「なんとなくなんとなく」も素敵だったよ。
 そして不在の吉田拓郎の歌は森山家で処理してくれた。なんでこの歌をといいつつ「我が良き友よ」を熱唱してくれた良子ねーさん。やはり今日吉田拓郎と私達があるのは森山良子のおかげである。
 音楽って自由なものなんだという拓郎の言葉が何度も身にしみた。君と会ったその日からなんとなく幸せ。もっともっとライブに行きてぇと叫ばずにいられない。
 ☆彡☆彡☆彡今日のソウルメイトな歌☆彡☆彡☆彡
「どうにかなるさ」(歌・かまやつひろし/作詞・山上路夫/作曲 かまやつひろし」所収)
 昨日のマチャアキの話。「これハンク・ウィリアムスの曲に似てない?」「いい曲はみんな似てくるものなんだよ(笑)」このやりとりも含めていっそういとおしくなるこの歌、このボーカル。

 WOWOWで放送するらしいけれど去年で退会しちゃったよ。
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2023. 3. 1

☆☆☆体温だけがたよりなの☆☆☆
 ということで今日はムッシュ=かまやつひろしさんの命日。七回忌だ。あなたは確かに他人でも あたしはあなたが懐かしい。すっかり中島みゆきとシンクロしてしまっている。
☆☆☆今日のソウルメイトな歌☆☆☆
「体温」(歌・作詞・作曲 中島みゆき アルバム「世界が違って見える日」所収)〜「なんとなくなんとなく」(歌・作詞・作曲 かまやつひろし アルバム「Classics」所収)
 行方知らずの願いのカケラ…ああ、聴こえた、聴こえたよ。なんとなくなんとなくしあわせ。

2023. 2. 28

☆☆☆らしい心で生きて☆☆☆
 セブンスターショーでユーミンが見守る中、ティン・パン・アレーをバックに「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」を歌うムッシュ。カッコイイったらありゃしない。「我が良き友よ」は自分らしくないと悩んだムッシュが、B面は自分の好きにやらせてくれということでこの歌が完成したという。確かに男臭いバンカラの世界とムッシュは対極のようだ。
 しかしムッシュはいいのだがこの言説がひとり歩きすると「吉田拓郎=バンカラ=下駄野郎」というイメージが根深く定着してしまう危険がある。せっかくのサイトなので強く言いたい。バンカラの世界がムッシュらしくないように、吉田拓郎もまたバンカラらしい人ではない…と俺は思う。この歌のおかげで吉田拓郎は下駄を履いて歌い、昨年末に下駄を履いたまま引退したと信じている国民がかなりいるという悲しい現実がある。
 そんな歌を自分で作ったから自業自得だと言う意見もあろう。しかし「宮本武蔵」を書いた吉川英治先生が剣豪だとは誰も思わないだろうし、石ノ森章太郎先生が改造人間かサイボーグだと信じている人もおるまい。たぶん拓郎が広島商大の応援団の時の一瞬の経験を膨らませたストーリーテリングがあまりに見事だっただけだと思う。
 なので吉田拓郎=バンカラというイメージはたぶん拓郎も不本意だろう。いや正直にいうとそれは吉田拓郎のためというより、俺自身が下駄と手ぬぐいの世界を愛してファンサイトまでやっている輩と思われるのが我慢ならんのだ(爆)。俺は、もっと耽美で洗練された世界を応援しつづけてきた、結構イケてる人のつもりなのだ(爆爆)。そうだろう君たちだって。

 この歌はバンカラの世界を描きながら実はその種の世界観とは違う。それは松任谷正隆や高中正義を配したサウンドも含めて。そしてやはりその種の世界にありがちなものとは違うムッシュのやわらかくて品のある個性的なボーカルが妙味を出している。事実「我が良き友よ」は演歌系の方々が競ってカバーしているがあきらかに別の曲になってしまっている。「らしくない」人が作って「らしくない」人たちが演奏して「らしくない」人が歌う。その結果できあがる歌にはバンカラの世界とは違う「煌めき」が宿っていると思うのだ。そのあたりはまたいつか。

 と、ここまで書いてUramadoを読んだら、随分昔におんなじことを書いていることに気づいた。http://tylife.jp/uramado/wagayoki.html ああ爺ちゃんは何度も同じ話を繰り返す。ちょっと悲しくなったが、大事なことは何度も指差し確認するように繰り返すのだ。昨日、戸締り確認したから今日は確認しないという人はおるまい。これでいいのだ。

 そうそう1999年の20世紀打ち上げツアーのメンバー紹介では、武部、鳥山、それこそ「らしくない人たち」が、それぞれ独唱させられていて面白かったな。

☆彡☆彡☆彡今日のソウルメイトな歌☆彡☆彡☆彡
「我が良き友よ」(歌・吉田拓郎&かまやつひろし/作詞・作曲 吉田拓郎  DVD「Forever Young 吉田拓郎・かぐや姫 Concert in つま恋2006」所収)
 つま恋2006のリハでムッシュが「拓郎、"我が良き友よ"の歌い方ヘタだよね」「ヘタだよ、でもアンタに言われたくないよ(笑)」という二人のかけあい、そして本番で歌うムッシュに寄り添う拓郎。…すべてがイイ。そして今となっては泣かせる。

2023. 2. 27

☆☆☆その狭き門☆☆☆
 そろそろムッシュかまやつモードに入ってゆく。このモードの入り口は、勝手知ったる勝手口から入ると意外と入りにくい。
 中学1年の春に聞き始めた「かまやつひろしのライオンフォークビレッジ」がきっかけで初めて買ったEPの「シンシア」は俺にとっては登竜門で、すぐに「我が良き友よ」という晴れがましい凱旋門が開いたし、「水無し川」は教育学部の裏の西門みたいなものだ>知らねぇよ。そんな門から入ったつもりが、気が付くと門外漢になっていたりするのだ。
 それよりもあのときは、うわ〜こりゃ難しい歌だな〜となかなか理解できなかった「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」。こっちこそが彼の深奥に向かってまっすぐに開かれた正門だったことに気が付く。裏門こそが正門だったのだ。ああ〜誰か私をパリに連れてって。フランス人になりたい(爆)。
☆☆☆今日のソウルメイトな歌☆☆☆
「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」(歌・かまやつひろし/作詞・作曲  かまやつひろし  シングル「我が良き友よ」所収)
 ♪君はたとえそれが小さなことでも 何かに凝ったり狂ったりしたことがあるかい?  そうだ何かに凝らなくてはダメだ。くるったように凝れば凝るほど、君は独りの人間として幸せな道を歩んでいるだろう。…かまやつさん、そのとおりでした。

2023. 2. 26

☆☆☆アイツのマシンは☆☆☆
 愛のスカイラインといえば、ケンとメリーのスカイライン。その名を聴くと、とある拓郎ファンの方を思い出す。リアル狼のブルースよろしく深夜放送帰りの拓郎の車を溢れる愛で追いかけて東名をカーチェイスしたという彼の武勇伝は、拓郎もラジオで忘れじの思い出として語っていた。追っかけと言えば、コンサートの入り待ち出待ちしか浮かばないワシらとはギアの入り方が違うな〜と感心したものだった。お元気だろうか。
☆彡☆彡☆彡今日のソウルメイトな歌☆彡☆彡☆彡
「狼のブルース」(作詞・松本隆/作曲 吉田拓郎 DVD「吉田拓郎アイランドコンサート」所収)
 これは個人的には、数あるバージョンの中で、篠島のバージョンがスピード、スリル、サスペンス揃い踏みで格別にイイんだわ。島村英二のドラム炸裂。ああ青春に続いてぐいぐい行きまっせ感が最高。

2023. 2. 25

☆☆☆それでもついてくわ手を離さないで☆☆☆
 ラビさんの「愛のスカイライン」は本当にすんばらしくて、YouTubeでも聴けるので、ゆかりの人たちとわかちあい聴きながら泣いている。うーん、もろもろ後悔あとをたたず。でも言いたい。「ありがとう、ラビ」って、それは昔の国語の教科書の「一切れのパン」だ。
 当然のことながら、だからといってBUZZが良くないというのではない。そうだ、BUZZといえば「あなたを愛して」を忘れちゃいけない。あの歌はさ、♪唇まどろむシーサイドホテル〜…このメロディーと詞と譜割りの快感。歌ってみてよし、聴いてみてよし、小気味よさ。この歌はココ一択だね。あくまで個人の感想です。
☆☆☆今日のソウルメイトな歌☆☆☆
「こんなに抱きしめても」(作詞・岡本おさみ/作曲 吉田拓郎 「COMPLETE TAKURO TOUR 1979」所収)
 BUZZは篠島でもお世話になりました。この歌はビッグバンドによる篠島バージョンがもう圧倒的にカッコイイよ。BUZZのコーラスが思いきりbuzzってる…ってしつこいぞ俺。

2023. 2. 24

☆☆☆今が通り過ぎてゆくまえに☆☆☆
 昨日にかけて身体のあちこちをメンテしていただいて、帰りに中山ラビさんの店「ほんやら洞」に立ち寄った。物静かな息子さんがあのままの状態で店を続けておられる。カウンターには常連さんが並んで談笑し、テーブルには若いお客さんがくつろいでいる。不在のラビさんは小さな写真で鎮座しておられる。不在は不在であの人の不在は埋めようがないが、みんなが折り合いをつけて、それぞれの日常を生きているようなそんな空気が素敵だった。ラビさんの思い出話の中に、たまに登場する若くてやんちゃでちょっとシャイな吉田拓郎を思い出しながらチョイ飲んだ。息子さんがなんかのインタビューで「おのが仏の三回忌」と語っていたが、あ〜今年はもう三回忌かな?
☆☆☆今日のソウルメイトな歌☆☆☆
 「愛のスカイライン」(歌・中山ラビ/作詞・山中弘光、高橋信之(補作)/作曲・高橋信之)ケンとメリーのスカイラインのCMでBUZZが歌ってbuzzったw名作だが、中山ラビバージョンもあるのだ。高中正義、小原礼、高橋幸宏という、おまえの足音が聞こえてきそうなサウンドだ。とにかくラビさんの歌いっぷりが素晴らしいです。こっちの方がいいと思います(当サイト比)。

2023. 2. 23

☆☆☆一人だけの流行語☆☆☆
 昨日の「天衣無縫」は、吉田拓郎の本質のひとつではないかと思っている。 「天人や天女の着物には縫い目がないことから、文章や詩歌がわざとらしくなく自然に作られていて巧みなこと」…この言葉が、ひとり自分の中だけで大流行している。

 この言葉が最初に浮かんだのは初めて"いくつになってもhappy birthday"を聴いた時だった。このメロディーには、こしらえたり、ツギハギしたりした縫い目がまったくない。そこから湧いてくる心地良い幸福感。吉田拓郎まもなく55歳の時だ。その歳でよくこんなにも素朴で屈託のない自然なメロディーが出てくるものだという衝撃があった。いや、歳を重ねたからこそ可能になる巧みなのか。もちろんこれより完成度が高かったり名曲だと胸を打つ拓郎のメロディーはたくさんある。ただこの「天衣無縫」というインパクトはまた別ものだ。

 二度目に「天衣無縫」を感じたのは"ぼくのあたらしい歌"を聴いた時だった。70歳を超えてもこんなのびやかなメロディ―が出てくることに今度は安堵したものだ。康珍化の詞は、まるで拓郎夫妻のラブリーな日常を描いているようで、拓郎はインタビュアーの桑子真帆さんに「歌っててとても恥ずかしい」と語っていた。大丈夫だ拓郎、聴いてる俺ももっと恥ずかしい(爆)。しかしこの縫い目のない自然なメロディーだけで十分に心をウキウキとホップさせてくれる。

 そしてアルバム「ah-面白かった」だ。これより凄いアルバムや凄い名曲はいくらでもある。ぶっちゃけどの曲も既存の名曲を超えるものではない。すまん。それでもなぜ妙に心に刺さってくるのか。ラストアルバムとかジャケットとかそういうバイアスを除くとやはり「天衣無縫」感が全体に満ちているからではないかと思う。自然に作られていて巧みがある。それが心を静かに弾ませてくれる。だからどの曲もいとしい。拓郎が、曲がどっからか降りてきたというのは本当ではないか、まさに天女が降りてきたんだと思う。

☆彡☆彡☆彡今日のソウルメイトな歌☆彡☆彡☆彡
「ぼくのあたらしい歌」(作詞 康珍化・作曲 吉田拓郎 DVD「LIVE2016」所収)
 映像しかないのでアクセスしにくいったらありゃしない。いちいち武部の顔から入らなきゃならない(爆)なんかのCDに入れとくれよ。
 そうか〜"いくつになってもhappy birthday"と"ぼくのあたらしい歌"は曲相もよく似ている。"岸井ゆきの"と"古川琴音"くらい似ている(爆)。この二人すっかり混同していたわ。…ああ老いを感じるわい。爺ちゃん、目を澄まして。

2023. 2. 21

☆☆☆合言葉は天衣無縫☆☆☆
 「たっちん」「ともりん」「なーたん」…いつもだったらオイラをナメちゃいけねぇよという荒んだ気分になるところだが今回は違った。ふっ切れたような拓郎の元気さがとても眩しかった。自由だ。歌で言えば
  ♪今、君は解き放たれて 自由へと翼広げる 
   英雄の名に縛られずに 閉じこもる館さえもいらない
 こんな感じだ。元気で生存している人に,この歌でなぞらえるのは失礼かもしれないが、アナタが自分で作って,さんざん歌ったんだからいいじゃないの。

 高齢化してからの吉田拓郎を観ながら「天衣無縫」という言葉がときどき浮かぶ。今回のラジオでもそうだった。「天衣無縫」とは、辞書によれば、 天人や天女の着物には縫い目がないことから、文章や詩歌がわざとらしくなく自然に作られていて巧みなこと 。人柄が飾り気がなく純真で無邪気なさま。天真爛漫なこと。

 そして自由で天衣無縫な吉田拓郎は「もう俺の後ろ影を追うな」そう言っているような気がした。たぶん言ってないだろうけど(爆)。でも、ひとつ言えるのは、こっちはこっちで解放されたのだと思う。こっちも自由だ。…解き放たれた歌手と解き放たれたファン。これからが面白いんでねぇの。
☆彡☆彡☆彡今日のソウルメイトな歌☆彡☆彡☆彡
「夕映え」(作詞:石原信一/作曲:吉田拓郎 「吉田町の唄」所収)
 けれど自分の後ろ影を責めるなよ、笑うなよ、僕は誰にも奪われない、愛する君のそばにいる…亡くなった大森一樹監督にはすまないが、あんな映画にゃもったいない珠玉の名曲だ。個人の感想です。

2023. 2. 19

☆☆☆そして誰もいなくなった役員室午後3時☆☆☆
 これは俺の勝手な思い込みというか妄想だ。これに限らずこのサイトはみんなそうだけどさ。
 これまで吉田拓郎がさまざまなインタビューでフォーライフの社長時代のことを語ってきたが、もっとも凄絶さが伝わってきたのは、経営危機のときにスタッフを整理=切らなくてはならなかったというくだりだ。
     「応援できない人には辞めてもらう」と言ったよ。地獄だったね、本当に。
      …全員辞めてもらった。それが大変だった。
             (吉田拓郎「もういらない」祥伝社・P.110〜111)

      切った。それはもう今でもほんとに悲しいくらい切った。
      その人は恨んでるでしょう、その家族もみんな。
             (「月刊PLAYBOY」第137号」"吉田拓郎インタビュー"集英社P.43)

 読んでいるだけで辛くなる。一緒にフォーライフに夢をかけて参加してくれた人たちを自ら切る。切られた人々が一番大変だったろうが、切る方も平気でいられるわけがない…赤い血が見えないか。その人たちの家族にまで思いを致す拓郎。どれほど辛かったのか、俺なんかには想像もつかない。そう思うと昨日のラジオで「こんなことをするために東京に出て来たんじゃない」という言葉も悲痛な叫びのように響いてくる。

 たとえ今、すべてが昔話になったとしても、偉業だったとか、革命だったとか、青春の思い出だったとか「吉田拓郎」が賛美されるような歴史には絶対しない、してはならないという、吉田拓郎本人の固い決意を感じるのだ。だからこそ完膚なきまでフォーライフへの参加を間違いだったとキッパリ断言するのではないか。…あくまで根拠なんてない勝手な邪推だけどさ。

 ともかく吉田拓郎はフォーライフについてはもうすべてを語り終えたに違いない。吉田拓郎が残酷なまでにキッパリと総括する背中を見つめながら、いや,それでもフォーライフの描いた夢も数々の素敵な音楽もそして何よりフォーライフのために苦闘した吉田拓郎の素晴らしさも、こっちにはちゃんと届いているぜ、と静かに心に把持しつづけたい。

☆☆☆今日のソウルメイトな曲☆☆☆
「流れる」
(作詞・作曲 吉田拓郎/編曲 松任谷正隆 Sg「となりの町のお嬢さん」所収)
これがはじまりの唄。思い出すな荒野の朝を、今は黙って静けさを愛せばいい。
「気持ちだよ」(作詞 康珍化/作曲 吉田拓郎/編曲 瀬尾一三)
 そして最後の唄。気持だよ、気持ちだよ、君から貰ったものは。

2023. 2. 18

☆☆☆オールナイトニッポン55周年記念吉田拓郎のオールナイトニッポン☆☆☆

 前番組の最後に山下達郎の「拓郎さんお身体お大事に、なかなかお目にかかれませんが」とのお言葉があった。そして始まった、たっちん、ともりん、なーたんのまとまらない三人のオールナイトニッポン。通りすがりのおじさんとおねーさんたちの井戸端会議みたいである。
 とにかく何事もなかったかのように極めて自然に始まった。相変わらず声がいい、滑舌もいい、そして何より自由闊達な感じがまたいい。まったく衰えていない。むしろ衰えたのは俺の方だ。書き起こしをしようと思ったらもうこの爺は手も頭もついていかない。もともとこの声の質感やゲストとの自由軽妙なやりとりは文章に起こせるものではない。なのであきらめた。

☆篠原がバラした色分けした台本を丹念に作っている吉田拓郎。どうしても昔の天衣無縫キャラの印象が強い篠原だが、実はかなりクレバーで、目ざとくて、それで結構しつこい(爆)。油断がならないタイプである。いい意味で、だ。

☆スポーツ、学業万能の好漢A君、C君。写真部、帰宅部、悶々として日々を送る今でいうと陰キャのB君とD君。映画「桐島、部活やめるってよ」が思い出される。若き日の残酷なヒエラルキーだ。やっぱり若いころのこういう鬱屈した気持ちって大人になっても引きずるし影響するのはとてもよくわかる。それでも吉田君は吉田拓郎になったからいいじゃないか。吉田拓郎になれなかった私も含めてたくさんのB君、D君が吉田拓郎に超絶あこがれてしまうのかもしれない。蜘蛛の糸を独り登るカンダタを追いかけて登ろうとする地獄の人の群れ、私もそのひとりだ…って陰惨な例えだな。

☆病弱な少年が立浪部屋の時津山にファンレターを出したら「大きくなったら訪ねてきなさい」…初めて聴いた話でちょっと胸が熱くなる。

☆「私が不健康だとお酒の印象を悪くしてしまう」,「ウコンのチカラを借りればどこまでもいける」…拓郎は奈緒さんとは酒を飲みたくないというが、特に半沢直樹とメフィラスが出てくるビールのCMの奈緒の飲みっぷりがいい。俺はかなり好きになってしまった。 

☆フォーライフへの参加を深く後悔する吉田拓郎。社長になるために東京に出てきたんじゃない。そこまで後悔しているのか。確かにあのままソニーの環境にいたら音楽もまた違っていたのだろうか。それはファンとしても気になるところだ。しかし、それでもフォーライフの設立そして再建に粉骨砕身取り組んだ吉田拓郎を誇らしく思う。もうそんな拓郎のことを喧伝したりはしないが、密かにあの素晴らしさは心の中で思い続ける。

☆「自分は何かを頑張った気がしない、ラックは持っていたが、なんとなくレールに乗っていた。ホメてやりたいような決断や努力はない。運が良かった、自分から飛び込んだ気もしない」
 私から見れば自分から荒海に飛び込んで抜き手をきって泳ぎ、身を削りながら頑張って、大いなる成果を成し遂げた立志伝中の人にしか見えない。たぶん世の人々もそう見ているはずだ。拓郎の主観と傍目の客観の大いなるズレ。そこで出てくるのがあの「天才に向上心はいらない」というかの名言なのだ。それは吉田拓郎が本当に骨の髄まで音楽家であり、魂の底から音楽を愛しているからなのだとあらためて思う。

☆「これからのことは佳代と二人で決めるのでここでは言わない。毎日楽しい、以前とは違う楽しみ方があるということをお伝えしておきたい。生きてみないとわからない。今は凄い楽しい」
 去年のadayに書いたけど映画「コーダ・あいのうた」は実にいい映画だった。確かに、主人公は、あいみょんに似ている。そしてあの父親は高田渡に似ていると思う。
 あいみょんの2018年がもう古いというこの感覚は確かにショックだ。LOVE2の開始も2006年のつま恋もつい最近のことだというのが肌感覚だ。だからリタイアして正解だったのか、本当にそうなのか、これは深めてみるに値する問題だ。

☆彡☆彡☆彡今日のソウルメイトな歌☆彡☆彡
 「僕の一番好きな歌は」(作詞・作曲・歌 吉田拓郎 1979年ラジオ音源)
 「僕の大好きな場所」を「僕の一番好きな」と言ってしまうから、久々に聴きたくなった。遠い昔の合戦を観ているような、いや今だからこそしみるものなのか、それはこれから生きてみなきゃわからない。しかしこのソウルは永遠のものだ。

 リタイア後これからどうなっていくのかわからないなかで、こんなふうに通りすがりのように突然あらわれる吉田拓郎がいる。推しがリタイアしてしまったファンの明日はどっちだ。さしづめ「吉田拓郎ファン」もやりつづけてみなきゃわからないということだろう。ということで、また通りすがってくれんさいや。

2023. 2. 16

☆☆☆原宿は今日も雨だった☆☆☆
 「たえこMY LOVE」といえば、あの雨音の効果音だ。クラクションが小さく鳴ると雨音を切り裂いて♪た・え・こ・MY LOVE 雨のぉ中をぉ踊るようにぃひぃ〜消えてい〜〜った…何度聴いてもこのドラマチックな導入がたまらんぜ。うまい。うますぎるぜボーカルが。
 「雨の中で歌った」のおかげで、たえこMY LOVEの舞台が原宿・表参道であることがわかった。そうするとどうしても思い出すのが、

 どしゃぶりの雨の中、タクシーを降りて僕は一人
 想い出のたくさんしみこんだ 表参道を歩いている
 あれはそうもう何年も前 やるせない思いを友として
 都会に自分を馴染ませようと 原宿あたりへやってきた
 その日も雨模様で かすかに山手線を走る電車の音は心地よく

 ああ〜町中華見逃しちゃったよ残念。それにしても名曲ばい。最初はたぶん山手線で西も東もわからず来た街に、数年後にはタクシーで乗り付けてやったぜという出世の歌だ>まったく違うだろ
 そう吉田拓郎の原宿は「雨」なのだな。雨の原宿…「雨の西麻布」は、とんねるずだった。あれもいい歌だった。♪双子のリリーズ〜 ザ・リリーズといえば10年くらいの前に原宿ラドンナで二人揃ったお姿をお見掛けした。ああ、サインをいただきたかった。ご冥福をお祈りします。ちゃんと原宿に帰って来た。  

☆彡☆彡☆彡今日のソウルメイトな歌☆彡☆彡☆彡
「街へ」(作詞・作曲・歌 吉田拓郎 編曲 ブッカー・T・ジョーンズ「Shangri-la」所収だが、セイヤングで流したデモテープを)
 「街へ」はデモテープがメチャ好きだ。キーもあっていないラフなデモテープなのだが、街も自分も雨の中にとろけてしまうような抒情的な感じがなんともいえずにたまらない奇跡のバージョン(※個人の感想です)。あと何万回でも言うが1980年の武道館のゴージャスな松任谷アレンジバージョンを公式音源化して欲しい。
 「好きよキャプテン」(歌・ザ・リリーズ/作詞・松本隆/作曲・森田公一)
…松本、おまえだったのか。中学の時、テニス部のキャプテンもちだ君が女子たちにこの歌を歌ってもらっていてすげー羨ましかったのを覚えている。拓郎の言うとおりスポーツできなきゃ女子にはモテないよな。…いちおう水泳をやっていたのだが、そんなんじゃダメ、やっぱり、やれ野球やれ、サッカーやれじゃないと。

2023. 2. 15

☆☆☆雨の中で俺も歌った☆☆☆
 冬の雨の中を仕事でトボトボ歩いていると切なくなるくらい寒い。切なさは孤独感というよりもう自分が用済みのようなやさぐれた気分に近い。”冬の雨”って歌(アルバム「ひまわり」所収)はカッコイイけれど、実際に歩いていると芯から凍えて気持ちも荒んでくる。しかし歩きながら「雨の中で歌った」が脳髄の奥底から湧いてきて、ずっと小声で口ずさんでいた。なんだろう、このメロディーの気持よさというか心地良さ。ちょっと温かな気分になってウキウキしてくる。いつまでもこのメロディーにずっと浸っていたいと心の底から思った。

 「ah-面白かった」の中で一番最初にデモテープを聴かせてくれたのがこの作品だ。その時の俺の印象は正直に言うと「こりゃ凡作ばい」だった。可もなく不可もないとても平凡な拓郎節。すまんな、こういうときは拓郎ファンとしては「どこか懐かしい感じ」とか「拓郎らしさを感じる」と表現すべきかもしれないがそれでは拓郎に失礼である。>凡作の方が失礼だろ。

 でもこうしてレコーディングされた完成品を聴くと音楽からしみじみと湧いてくる幸福感を感ずる。そしてWANGANの実写版になってくるとまたライブだからこその演奏と歌いっぷりのラフさにまたあらたな命が弾んでくる。名作じゃん。この平凡を心から愛している自分に気づくのだ。そしてそこにはささやかな幸せがある。
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これだ。…怒られるぞ。あくまで個人の感想です。
☆彡☆彡☆彡今日のソウルメイトな歌☆彡☆彡☆彡
 「たえこMY LOVE」 (作詞・作曲・歌 吉田拓郎 「ONLY YOU」所収)〜「雨の中で歌った」 (作詞・作曲・歌 吉田拓郎 (作詞・作曲・歌 吉田拓郎 「ah-面白かった」所収)
「たえこMY LOVE」の後日譚ソングということなのでループしながら聴く。たぶんONLY YOUバージョンの方が組曲的一体感でしっくりとつながるような気がする。…と思いつつ石川鷹彦アレンジのシングル盤のあとに聴くと映画でいえば回想シーンからの劇的な場面転換みたいな感じがしてこれもまたいい。どっちがいいかじゃなくて、どっちもいい。

2023. 2. 14

☆☆☆東京駅地下道のひとごみの中、ああ〜☆☆☆
 東京駅地下のムーミン・ショップが今日で閉店ということで驚いた。かなしい。壁のソフィア・ヤンソンのサインはどうなるんだろう。一昨年に吉田拓郎のファンクラブであるTYISが終了した。昨年末にムーミン公式ファンクラブも閉じて、ついに私はどのファンクラブにも属さないこととなった。その矢先のこの愛用ショップの閉店である。これがホントの推仕舞(おしまい)である。
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 最後の品出し福袋を買って、おねぇさんたちに長い事ありがとうございましたと礼を言った。正直、福袋の中は要らないものばかりだったが(爆)、そこは気持ちだよ、気持ちだよ、君にあげたいものは。
☆彡☆彡☆彡今日のソウルメイトな歌☆彡☆彡☆彡
 「まるで孤児のように」(作詞岡本おさみ/作曲吉田拓郎/編曲青山徹「アジアの片隅で」所収)
 なんだか俺たち荒れ果てた土地に取り残された、行く場所のない孤児みたいだな…なぁ今こそ静かなるファンクラブが必要なんじゃね? 

2023. 2. 12

☆☆☆どこで自由を手にすればいい☆☆☆
 なんだか世間が息苦しい。例えば同性婚制度は、現行憲法では「想定されていない」というのが政府見解だという。確かに想定はしていなかったにせよ、断じて禁止はしていない。
 憲法24条「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立する」…この規定は「愛し合う二人の思いが全てです。それ以外は「家」だろうが「しきたり」だろうが、誰にも何にも邪魔はさせません」という愛し合う二人へのエールだ。だから、愛し合う同性婚を禁止するだなんて言うはずがない。音楽に魂=ソウルがあるように法にも魂=ソウルがある。愛でないものはあるはずがない。…これから社会的な議論を深めたいと薄っぺらな口上を耳にするが、その議論に愛とソウルはあるんかい。
 この問題に限らず、総じて少数者をこの経済社会のために少しずつ粛清していくような流れが感じられて息苦しいし、怖い。ジョン・レノンが亡くなった時、アブレ者は抹殺されると泣いていた拓郎の言葉を思い出す。もちろん拓郎さんが今この問題をどう考えるかは知らないし、わからない。それでも私は、拓郎の歌はすべての愛し合う二人を応援する歌だと勝手に思い勝手に理解している。そしてこれまた勝手にこういうときの応援歌だと思う。
☆彡☆彡☆彡今日のソウルメイトな歌☆彡☆彡☆彡
「Life」(歌・作詞・作曲 吉田拓郎「FOREVER YOUNG」所収)
 しくみがあるから生きるわけじゃない、勝手なルールを押し付けないでくれ、わかったな愛を巧みに操る者たちよ。いいわぁ。原曲はもちろん85つま恋の凄絶なバージョンもいい。惜しむらくは2000年代の深みのある歌声でのバージョンも欲しかったと…これも勝手に思う。

2023. 2. 11

☆☆☆ラジオはハッピーな友達です☆☆☆
 あらためてラジオと吉田拓郎の絆の強さ、やっぱり吉田拓郎にとってのラジオってすげぇものなんだなぁと思った。もちろん説得にご尽力いただいた皆様方に深謝申し上げます。貴重な近況確認であり、また引退してしまったわけではない状況証拠でもある。なーんてことを超えて、ただひたすらに楽しみである。とにかく18日までは、死んだふりしてまだ生きられる、おまえだけが命あるものよ〜
☆彡☆彡☆彡今日のソウルメイトな歌☆彡☆彡☆彡
「oldies」※バイタリスフォークビレッジのテーマ(作詞・作曲・吉田拓郎「Oldies」所収)
 ラジオといえばコレだ、神田共立でのサプライズも記憶に新しい、♪ここに一人でいる僕を 夜空のどこかに記しておきたい 愛する人に 届けと〜ココがいいんだよな。

2023. 2. 10

☆☆☆祝・2/18 am11:00 オールナイトニッポン出演☆☆☆

「もう帰って来やがって」と涙ぐむ
              天邪鬼推すもまた天邪鬼
                        星超空
…俺も長山短歌賞に応募しようかな>短歌じゃねぇし

☆彡☆彡今日のソウルメイトな曲☆彡☆彡☆彡
  「誕生」(歌・作詞・作曲 中島みゆき/編曲 瀬尾一三)
    ♪私いつでもあなたに言う、戻ってくれてWelcome\(^o^)/
       ※原詞は「生まれてくれて」です。

2023. 2. 8

☆☆☆挟まれる吉田拓郎縁起☆☆☆
 昨日はアグネス・チャンの「アゲイン」を聴きながら、ああ〜こりゃあ名曲ばい…とあらためて感じ入った。僕らは今も自由のままだ>だからそっちじゃない。そっちも名作だが。
「作詞・松本隆/作曲・吉田拓郎/編曲・松任谷正隆」…このクレジットが醸し出すなんとも言えない盤石感。そして神々しさ。字面的に「作曲吉田拓郎」が「作詞松本隆」と「編曲松任谷正隆」に両脇を挟まれると名曲率は100%である。以下に表にして検証してみた(爆)。
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…ほ〜ら無敵だ。「吉」の字が両側の「松」に挟まれて名曲出来。こいつぁ縁起がいい。これを吉田拓郎=門松理論と名付けたい。意味わかんねぇよ。
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 引退したわけではなく曲はこれからも作り続けると拓郎はラジオでも言っていた。いつかまた気分が乗ったら「門松」で作ってみてくださいな。
☆彡☆彡今日のソウルメイトな歌☆彡☆彡
「英雄」(作詞・松本隆/作曲・吉田拓郎/編曲・松任谷正隆 「ローリング30」所収)
  門松はしみじみとした名作が多い中でのハード路線のこの歌。詞もメロディも歌もそしてこの素晴らしきアレンジも、すべて魂が燃え立つ感じがすげーいいぞ。聴いているこの爺もこのままじゃダメだ、俺も決起して何かをせねばといてもたってもいられなくなる。何もしないけどさ。

2023. 2. 7

☆☆☆愛と哀しみのオメダ☆☆☆
 「カンパリソーダとフライドポテト」はなんといってもあのケーナのイントロがすばらしい。美しくて悲しい音色とメロディーの寂寥感があの歌を象徴している。ケーナという楽器だというのは当時のフォトブック「大いなる人」(八曜社)に書いてあった。しかし当時はネットもない高校生だったのでどんな楽器かはわからずじまいだった。後年、俳優の田中健がテレビに出てあちこちでケーナを吹き始めたおかげで初めて本物のケーナを観ることができた。ご存じのとおり田中健のケーナは趣味などではなくプロのレベルということだ。
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 なにせ田中健は家でケーナを吹き過ぎでウルサイということで家族から追い出され多摩川の川原で吹いていたと芸能ニュースでも報じられていたほどだ。こんなふうにケーナの音はどこまでも悲しみでできているのだ。※念のため田中健がカンパリのケーナを吹いているわけではないから(爆)、小出道也という笛奏者の方である。

 いやいや歌に話を戻そう。あのケーナのイントロのメロディ―が、今度は間奏では鈴木茂の見事なギターでトレースされる。このギターはがまた美しく東海林太郎の国境の町とのブリッジが胸を打つ。あ〜鈴木茂、天才と思わず叫びたくなるゆえんだ。

 この名作が1978年の春のツアーでは最初の数本で歌われただけで、セットリストから外されてしまったのが残念だ。チリチリパーマとともに幻のテイクになっている。

 同じくケーナ(だと思うけど違ったらごめんね)が印象的なイントロの名曲がもう一曲ある。こっちは松任谷正隆先生のアレンジだ。
☆彡☆彡☆彡今日のソウルメイトな歌☆彡☆彡☆彡
 「アゲイン」(歌・アグネス・チャン/作詞・松本隆/作曲・吉田拓郎/編曲・松任谷正隆)
 この(たぶん)ケーナのイントロも切なく疼くようで、悲しみのブレンドされた拓郎のメロディーとリンクとしている。そして松本隆が見事に描く映画のような情景…最初の機関車を降りるところ、これって赤毛のアンのプリンス・エドワード島がモデルではないかと思っているのだが。

2023. 2. 6

☆☆☆t.yを愛する諸国民☆☆☆
 昨夜はtくんらと目黒の坂の途中の店に集まり禁酒の誓いを思い切り破った。禁酒の誓いなんて破られるから美しい。
 当然の如く一線を退いた吉田拓郎の話になった。tくん曰く「これが逆だったらどうだろう。先にこっちが聴けない身になってしまったら、それはそれで心残りなんてもんじゃない。」…切ない話だが十分にありうることだ。我なき後にごっつすげー新作出したり、ごっすげーライブやったりしたらと思うと超絶悔しいわな。今は亡きk君の顔が浮かんだ。その無念たるやいかばかりか。「拓郎がココまでだよという線を自分で引いてくれたことは、こちらにとってもありがたいことかもしれないと思う」…酔ってたんでtくんの言葉の主旨をちゃんと捉えていないかもしれないし、もっと他のことも言おうとしていたのかもしれないが、ああ〜そういう考え方もアリだなと思った。

 一線を引いたことで、正しい表現なのかはわからないが吉田拓郎は肉身ではなく法身となった。あるいは我が幻の兄弟の言葉を借りれば「文化」そのものになったのかもしれない。
 例えばtくんはまだ買っていないアルバム、買ったけど聴いていないアルバムをこれから辿るとのことだ。ミッツ・マングローブが2022年は拓郎元年でこれから一枚ずつアルバムを聴き始めるというのとスピリットは一緒だ。それは楽しいだろうな。
 文化のいいところは、永遠でしかも自由なところだ。忖度もキマリもなく、それぞれがそれぞれに自由に文化を味うだけだ。文化になった吉田拓郎を前に、健康で文化的な最低限度の生活を営み、平和のうちに個人として生命、自由及び幸福追求に生きる。それは保障しますって、ちゃんと憲法にも書いてある(爆)。

 それにしてもtくんは心の底からカンパリソーダにハマっていて飲みっぷりが見事だった。最初から最後まで食前酒を飲みつづけるもんじゃないと注意されたそうだが(爆)。そんなにカンパリが好きになったのか、tくん。ということで。
☆彡☆彡☆彡今日のソウルメイトな歌☆彡☆彡☆彡
「カンパリソーダとフライドポテト」(歌・詞・曲 吉田拓郎 アルバム「大いなる人」所収)
 思い切り逆風の吹く中を木の葉のように舞いながら進む二人、切なくも力強いラブソングだ、拓郎の素晴らしさと共に、鈴木茂…アナタは天才!!

2023. 2. 5

☆☆☆君の欲しかったものはなんですか☆☆☆
 タイトで骨太なドラムに導かれたLIVE2016「僕達はそうやって生きてきた」が終わって余韻に浸っていると「流星」が始まる。ついついそのまま聴いてしまう。CDで聴くと正直こんなに良かったのかとあらためて思う。ほぼピアノだけの下支えで拓郎のボーカルを思いっきり真ん中にフィーチャーして始まる。心にしみいる拓郎のボーカルの威力が胸を打つ。やがてバンドサウンドにつつまれてもそのまま拓郎のボーカルだけが強く刺さってくる。いいぜ。だから、あの最後の最後が、際立つ。これだけの演奏なのに惜しい、残念という気持ちと、これはこれで拓郎の魂の発露で、これを含めて凄いじゃないかという気持ちが交錯する。どちらにしても絶品のひとつであることは間違いない。

 それにしてもよくまあこれだけの曲が、1979年のTOUR79/篠島から1999年の20世紀打ち上げパーティまでの20年間も放置されライブで歌われなかったものだ。それって凄くないかい。それよりもそれでも人々の心にこの歌が静かに生き続けて広がっていったことの方がすごいかもしれない。それだけでもこの歌のチカラを思わざるを得ない。

 歌われなかったといえば、先日久々にお会いした拓バカ同志の「なぜつま恋2006で『流星』は歌われなかったのか?」という問いを思い出した。世界で一番「流星」を聴いていると自負する彼にしてみれば問いというより心の叫びのようなものだ。確かに追及に値する疑問点だ。1999年以降ライブの定番スタンダードになった「流星」にもかかわらず、なぜあの大舞台で歌わなかったのか。「落陽の花火のあとは"a day"じゃなくて、そこで"流星"だろ」という彼の言説はもっともだ。
 …なぜかはわからん。もともとよくわからないのが吉田拓郎だ。…ただあのつま恋のラストステージの圧巻で流星が歌われた日にゃ、それこそ2016年のようなことになってしまうことを懸念したのではないか…と2016を聴いていて思う。袖にみゆきねーさんもいるしそうなったらちょっとな…と思ったか…すまんただの下種勘繰りでしかないが。
 
 そして反動のように2019年の「流星」はチカラ強く攻めていた。センチメンタルなモードを打ち消すような気概をハーモニカにこめて、最後はハモニカごと放り投げた。あれはあれでまたカッコ良か〜。
 幾多の流星たち、もう生の流星は見られないのか。
☆彡☆彡☆彡今日のソウルメイトな歌☆彡☆彡☆彡
 「流星」(歌・作詞・作曲 吉田拓郎 DVD「吉田拓郎 LIVE 2016」附属CD所収)〜「流星」(DVD「吉田拓郎 LIVE 2019 -Live 73 years- in NAGOYA 」)
  名古屋もこんなにうまかったっけと思うが、とにもかくにも70歳を過ぎても進化する「流星」にしびれる。

2023. 2. 4

☆☆☆俺だって風の中に立ってる☆☆☆
 WANGANで久しぶりに河村"カースケ"智康のドラムを観た。どことなく青山徹系の顔立ちには親しみを覚えるのだが、カースケ氏の全身から放たれるヨガの修行中みたいな雰囲気が気になって仕方がない。2014年の拓郎のツアーでは、メンバー紹介の時にスティックを宙高く舞わせていたが、もう何か術を使っているようにしか見えなかった。
 ということで先入観のカタマリになってちゃんと音を聴いていなかったが、最近になって、なんとタイトなドラムなのだろうかと深く感じ入る。遅いな、すまん。特に2016年のライブDVDに附属しているCDを聴いているとビシビシとリズムが響いてくる。大して好きじゃなかった作品でもこのサウンドで聴いていると有無を言わさず説得されてしまう。2016年のライブはこのサイトではそこそこの酷評をした気がするけど、このドラムの凄さを気づかなかったのは不覚の至りだ。
☆彡☆彡☆彡今日のソウルメイトな歌☆彡☆彡☆彡
 「僕達はそうやって生きてきた」(歌・作詞・作曲 吉田拓郎 DVD「吉田拓郎 LIVE 2016」附属CD所収)
 なんとなく Kinki・シノハラ世代を意識した優しいおじさんからのメッセージ的な歌詞(小爆)、なんか展開の凡庸なメロディー(中爆)、まるで好々爺のロックンロールじゃねーか(大爆)、とさんざん悪態をついたものだが、カースケのドラムがビシバシくるこのライブ・バージョンを聴いていて思わず「おお、すげぇ」と声が漏れてしまった。こちとらは、ははーっとひれ伏さんばかりだ。勝手ながらこれこそがベストテイクではないか。魂の律動を感じる。

2023. 2. 3

☆☆☆三番目に大事なもの☆☆☆
 いやなニュースが続いていて、三日に一度くらい「ああ、忌野清志郎が生きていてくれたらな」と思ってきた。すまん、ファンでもないくせに何かおこがましい。そもそも昔、清志郎は吉田拓郎が大嫌いだと公言していた拓敵だった。俺にとっては敵ということで、拓郎はずっと彼のことが大好きだったようだ。でも清志郎の方にも後年から晩年にかけて静かな変化があったように見えた。いずれにしても敵であっても味方であってもいい。「忌野清志郎が生きて歌っていてくれたらな」とただ切に思うのだ。

☆彡☆彡☆彡今日のソウルメイト☆な歌☆彡☆彡☆彡
 「心のボーナス」 吉田拓郎 (作詞・作曲 忌野清志郎 「Hawaiian Rhapsody」所収)
     ♪大人のクセに自分のことで精一杯だったから…恥ずかしながら御意。 

2023. 2. 2

☆☆☆素敵なintermission☆☆☆
 そういえば2005年の瀬尾ビッグバンドのツアーだったな、途中の「夏休み」で会場が大合唱の中、拓郎だけ一時退場して小休止するという構成があった。ここぞとトイレ休憩に立っていた人もいた。しかし後で拓郎が出てきて「おまえら、歌わないで席を立った奴ら、モニターで全部チェックしているからな!」と怒っていらっしゃった(爆)。見てやがんな〜。そういう大きくて小さい拓郎さんが好きです(笑)…あぁなんもかんも楽しかったなぁ。

 そもそも休憩が悪いというのではない。2000年代によく足を運んだ浜田省吾のライブは必ず休憩があったが、これがあるがゆえになんか前後編たっぷりと見せてもらった充足感が凄くあった。そもそも「休憩」という言葉がなんかアレだな。バレエとか演劇とか映画でいうところの「intermission=幕間」というのが適切だしオサレかもしれない。
 今度ライブやるときは途中intermissionでフォーラムのスパークリングワイン飲んだりしてゆったり過ごせるのもいいかもしれない。ゲストには女性シンガーを呼んで、女性歌手提供曲たとえば「ステラ」「風の中で」「ラブ・カンバセーション」とかを歌ってもらったり。
 デスマッチ型をとことん極めたので、今度は回帰して、より豊かなゲスト・休憩ちゃうintermission型ライブを…やってくれてもいいよ(爆)

2023. 2. 1

☆☆☆気分はデスマッチ☆☆☆
 そういえば大野真澄は1976年のコンサートツアーのゲストだった…行ってないけど。私が初めて参加した78年のツアーでは小林倫博、是非とも行ってみたかった憧れの74年はバックバンドもつとめた愛奴がゲストだった。かつてのコンサートツアーにはゲストがつきものだったようだ。
 拓郎が登場して歌い、ゲストと交代し、休憩を挟んで拓郎の演奏が再開して全長2時間前後というのが70年代中期のパターンだったようだ。たぶんそれ以前には前座型とでもいうべきものがあったと推察されるが私は体験していないのでわからない。
 今思えば、拓郎とともに浜田省吾や大野真澄が聴けるというのは贅沢な話だが、当時はゲスト・休憩の中入りは微妙なところもあった。ゲストの小林倫博が「次が僕の最後の曲です…って言うと凄い拍手がくるんです」と言ったらホントに盛大な拍手が起こって…すまなかったなと今はちょっと思う。しかしどうしても中入りで熱が醒めてしまうことは否めない。

 しかしこれが翌79年からは大転換する。ゲストなし休憩なしで「2時間半ぶっ続けで行きまっせ!」(79年7月2日)と拓郎が言ったように自ら「デスマッチツアー」と冠する新しいパターンが披露された。時間も2時間30分と延長されている。79年はそれでも途中で3〜4分程度の島村英二のドラムソロが入り(「君が好き」の間奏)、その間に拓郎たちは一時退場するという給水ポイントが作られていた。島ちゃんのすげえドラムソロはブラボ!!
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 78年から79年のこの転換と変化は正直びっくりしたものだ。わざわざ図にすることか(爆)。いいじゃないか。やがてはソロプレイのワンポイント時間も無くなり、ホントにぶっ続けの公演になる。かくして、このゲストなし、休憩なしの完全デスマッチ型が末永くその後の拓郎のライブのデフォルトとなるのはご存じのとおりだ。

 私ごときが偉そうに言うことではないが、それでも何度でも言いたい。今まで普通に観ていた吉田拓郎が登場して最初から最後までずっと歌うというコンサートを当たり前だと思ったらバチがあたる(爆)。それは拓郎の並々ならぬ覚悟と心血注いで作り上げられたフォーマットなのだ。
 そしてこのデスマッチ型のコンサート総時間は途中に増減はあったものの2004年の瀬尾一三ビッグバンドとのPrecious-storyでは総時間が3時間にも及ぶことがあった。齢60歳を目前にしてのことである。こうして自分も同じ年代になってみてつくづくその凄さに感嘆せざるを得ない。そんな拓郎さんに対して何がどうだとかグチグチ悪態つくのはやめようぜ>それは、おめぇだろ(爆)はい。

☆彡☆彡☆彡今日のベスト☆彡☆彡☆彡
  君が好き    吉田拓郎(豊かなる一日より)
      若き日の島村英二のあの超絶なドラムソロを湛えて。

 何を言いたいのかというと、私も年齢とともに日々疲れやすくなって、つい他人に任せたり、休憩したくなることも多いが、そこはそれ、わが師が身をもって示してくれた、気分はデスマッチの気概でまいりましょう…ってこと。

2023. 1. 31

☆☆☆悲しみを口ずさむ時☆☆☆
 それにしても訃報が多い。なぜか悲しい夜だから、昨日の余勢をかって大野真澄の「空に星があるように」を聴く。しみる。今頃になって心の底から申し訳ないが、素晴らしいボーカルだ。ちょっとロックっぽいアレンジもいい。これってフォーライフ時代の吉田拓郎のプロデュースだった。軽井沢に合宿した拓郎が奮闘していた記事が今は無き雑誌「フォーライフ」にあった。
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 そういえば荒木一郎は金沢事件の時にマスコミで拓郎を擁護してくれた数少ない一人だったんだよな…とか余計なことも思い出す。とにかくとにかくみなさんお元気でいらしてください。
☆彡☆彡今日のベスト☆彡☆彡☆彡
 大野真澄「空に星があるように」からの同じ大野真澄のカバーする「ああ青春」
  このボーカルだともっともっとカバー映えする拓郎の曲がありそうな気がするんだが、なんだろうか。

2023. 1. 30

☆☆☆今夜は酒で酔えない☆☆☆
 これは俺の勝手な思い入れなのだが「ドン・ファン」ときたら「ダンディー」(大野真澄)なのだ。前にも書いた気がするが、どちらも松本隆&吉田拓郎のタッグの手になる同じ1978年の提供曲だ。あえて対称的に作られた作品のような気がしてならない。それくらい見事な対極だ。
 勝ち組、負け組という言葉は嫌いだが「ドン・ファン」が勝ち組のモテ男なら「ダンディー」を負け組のフラれ男の歌だ。松本隆はドン・ファンは吉田拓郎をイメージして書いたと言うが、ダンディーはさしづめ自ら「ふられ虫」と宣言していた「武田鉄矢」あたりではないか(※松本隆はそこまで言ってません)。
 まず詞のcontrastが見事だ。♪レミーマルタン水で薄めてはプレイガール達の輪の中で踊るドン・ファンに対して、♪ジンの瓶、逆さに一滴飲み干す、みみっちいダンディー。特に♪貧しい俺でも背広はホワイト…ここらがとても切ない。とはいっても自分を省みると部類としては後者に共感せざるを得ない。
 このcontrastは詞だけでなくメロディーにも表れている。ドン・ファンのどこか攻めている感じのメロディーとサウンドに対して、ダンディーのメロディーは、やさぐれた悲しみを湛えていて、どこまでも心優しい。よくできたメロディーだ。
 間奏に♪酔いどれ酔いどれ〜というブリッジのメロディ―がかかっているところが素晴らしいと当時の知り合いの方が熱弁していた。御意。
 そして末筆ながらボーカルこと大野真澄の懐の深いボーカルが実にいい。これは仮に拓郎が本人歌唱したとしても、よしんば武田鉄矢が歌うよりも、この大野真澄のボーカルの「粋」な感じに一択だ。永らく幻のシングル盤だったのだが、わりと最近FORLIFE CLASSICS」というフォーライフレコードの記念盤に収録された。ということで崖落ちを逃れた。良かった。
 
☆彡☆彡☆彡今日のベスト☆彡☆彡
  ダンディー  大野真澄
   1978年の溢れるような拓郎の数々の名曲群に乾杯だ。

2023. 1. 29

☆☆☆なんだかんだのドンファン☆☆☆
 昨年末のミッツ・マングローブのラジオの「吉田拓郎提供曲特集」で、EVEのカバーした「ドン・ファン」を初めて聴いた。ダンサブルでイイ感じだった。そういえば昔、男性ばかりの広島出身のバンドがカバーしていたよな〜と思って調べたら…「ザ・ベアーズ」というグループが1978年12月にシングル盤でカバーしていた。神田広美がリリースしたのが1978年7月だから僅か半年後のカバーだ。ちなみにEVEの発表は1980年。この短い期間に3組のシンガーが競作するのって凄くないか?でもってどれもヒットしなかったというのも、もっと凄くないかい?(爆) すまん。売れなかったものの、どのバージョンもなかなか聴かせるのはやはり楽曲のチカラが大きいからだと思う。よくできた曲だとあらためて思う。

 やはり本家は神田広美のオリジナルだ。77年から78年は社長業に忙殺されて音楽の第一線から離れていた…と自分もよく言ったり書いたりするが、フロントに出たり、ライブをしなかっただけで、実にたくさんの本人歌唱と提供曲を作っていることは刮目すべきだ。音楽から離れていたと言ってしまうのは雑かなと我ながら思う。社長時代にも名曲をたくさん残しているのだ。http://tylife.jp/sideways.html#NINENKAN

 話がそれたが、当時のセイ!ヤングで、拓郎は、神田広美の「ドン・ファン」のレコーディングに立ち合った話をしていた。彼女が歌い方で損をしていると思った拓郎は、もっと口角を広げてイーって感じで歌うようにと熱心に歌唱指導したと語っていた。
 そして少し経って別の音楽番組に出演した神田広美は「吉田拓郎さんの歌唱指導のおかげです」と感謝を語っていて、ああとても誠実な人だなと感心したものだ。普通は「うるせぇよ」とか思うじゃん>それ普通じゃないから

 神田広美は、その後作詞家に転身し、あのキャンディーズの「春一番」「年下の男の子」などで有名な作曲家穂口雄右と結婚しアメリカに渡った。最近はジャズシンガーとして復活しておられる。復活と書いたが、過去は切り離した「転生」かもしれないので、安直に"「ドン・ファン」の神田広美さん"とか言うのは失礼かもしれない。

 ということでなんとなく、行き場のない名曲という感じだったが、わりと最近松本隆がコンピレーションアルバム「新風街図鑑」に自選したりしてくれて、崖っぷちには立たずに今も生き続けている。

 ☆彡☆彡☆彡今日のベスト☆彡☆彡
 ドン・ファン  神田広美
   油断して口ずさんでいると♪プレイガール達の輪の中で踊る〜のところで口が回らなくなるので注意が必要>知らねぇよ

2023. 1. 28

☆☆☆ダダダで生きる☆☆☆
 ダダダといっても人間標本5・6ではない>知らねぇよ。
 武道館の「知識」はいつ聴いても熱い。それは人それぞれによって思い入れはあるだろうが、俺にとっては何といってもこのミュージシャン陣が好き過ぎるからだ。
     吉田拓郎
     松任谷正隆
     鈴木茂
     島村英二
     石山恵三
     エルトン永田
     青山徹
     常富喜雄
     ジェイク・H・コンセプション
 この9人が永遠のベストナインとして脳裏に刻まれている。

 「知識」の2番の♪語り尽くしてぇみるがいいさぁ〜 のあとにバンドサウンドがカタマリになってダ・ダ・ダッダァ〜と合いの手みたいなのが入る。これは音楽用語でなんかあるのかもしれない…オブリガートっていうのか?俺にはわからん。とにかくココが超絶燃えるのよ。理屈抜きに気分がアがる。

 同じような合いの手が篠島の「ああ青春」にもある。1番の最後♪ああ青春は燃える陽炎かぁ〜ダ・ダ・ダッダダァ〜と合いの手が入り間奏になだれ込んでいく。これもメチャ燃える。荘厳な世界に入ってゆく感じがたまらない。
 これらのダ・ダ・ダッダァ〜とダ・ダ・ダッダダァ〜のアレンジは、やはり松任谷正隆先生の手になるものであろうか。

 それから篠島の「ああ青春」では最後のしめくくりの♪ああ青春は〜のリフレインのところにドゥルルルルルルという島村英二のドラムロールが入るところがもう胸にしみる空のかがやき。これから繰り広げられるバトルの狼煙のような感じだ。

 ということで人生の節目、節目はこのダ・ダ・ダッダダァ〜とドゥルルルルルルに背中を押されながら生きていきたい。どういう人生だ。

☆彡今日のベスト☆彡☆彡
 「知識」(TOUR1979)からの「ああ青春」(TOUR1979)
    ダ・ダ・ダッダダァ〜とドゥルルルルルルで気分上げよ。

2023. 1. 27

☆☆☆推しが武道館いってくれたら俺だって死ぬ☆☆☆
 「推し」といえば、作者も内容も全く違う漫画で「推しが武道館いってくれたら死ぬ」という作品があることを知った。地下アイドルを応援する若者を描き、アニメ、ドラマ化そして今度は映画化にもなるらしい。知らなかったが有名なんだな。こっちは内容は殆ど知らないが、もうこのタイトルだ。魂すぎる。このタイトルを唱えるだけでチカラが湧いてくる。…この心意気、この気骨こそ「推し活」の真骨頂だ。

 俺の場合は、どうしたって1979年の初ソロ武道館に向かって魂が飛ぶ。吉田拓郎が武道館をやる…と知ったのはその年の春先のセイヤングでのことだ。結構驚いた。正直云うと、え、武道館?できんの?と不遜にも不安が走った。フォーライフの社長として音楽の現場から離れている間にニューミュージックは若手ミュージシャンの百花繚乱状態になり、既に「吉田拓郎」はもう過去の遺物というイメージだった。
 武道館直後の当時の週刊明星の記事がある。「今、拓郎で武道館、もつかいな」…という空気は確かにあった。当の拓郎本人までもがその不安を口にしている。
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 当日、俺はワクワクしながらも、もしかしたら悲惨な光景を観るかもしれないという不安にもさいなまれていた。しかし「俺が行かなきゃ誰が行く」と生意気をカマしつつ、討ち入りでもするような気分で九段下のお堀を渡って門をくぐった。
 いざ蓋をあけてみるともう武道館は超絶満員の客席、開演前から燃え立つ熱気、つま恋の映像でしか見たことのなかった怒号と拓郎コール、大音響で響き渡るローリング30、そして縦横に走り回り「拓郎」と描くレザー光線…そんな狂乱の中に始まった松任谷グループの「知識」にいきなりぶちのめされた。ぶちのめされながら…勝った!と俺は心の中で叫んでいた。たかがガキの一観客にすぎないのに。
 「推しが武道館いってくれたら死ぬ」…俺にはこの武道館のすべてが凝縮したフレーズに思えてしまう。んまぁ俺は死なずにそれからも恥を晒しながら生き続けているが。そして「推し」は「いってくれたら死ぬ」…ようなかけがえのない体験を何度も何度も、60歳、70歳を超えてからも味あわせてくれた。それを思えば時々来なかったり中止になったりしてもまぁいいじゃないか(爆)。とにかく感謝しかない。誰がどう言おうとも、推し有りて我ありと1ミリの後悔もなくいえる。

☆彡本日のベスト☆彡
 「知識」(TOUR1979)
   一曲目にして圧巻のクライマックス。推し武道の魂が凝縮された一曲。

2023. 1. 26

☆☆☆人がそこにおるんよね☆☆☆
 「推し、燃ゆ」を推す昨日の続き。推しの解散・引退ライブが終わると彼女はトイレにこもって「冷や汗のような」涙を流す。

「終わるのだ、と思う。こんなにもかわいくて凄まじくて愛おしいのに、終わる。」「やめてくれ、あたしから背骨を奪わないでくれ。推しがいなくなったらあたしは本当に、生きていけなくなる。」「この先どうやって過ごしていけばいいのかわからない。推しを推さないあたしは、あたしじゃなかった。推しのいない人生は余生だった。」(宇佐美りん「推し、燃ゆ」P.111〜112)


 この17歳の叫びは、そのままこの爺の心の叫びだ。
 深夜にライブの映像を観てブログを途中まで綴った彼女は、呆然自失で明け方の街を彷徨う。これまではそういうことは禁忌としていた、推しの住むマンションにたどり着く。すると推しの妻となる女性がベランダで洗濯ものを干している。

「あたしを明確に傷つけたのは、彼女が抱えていた洗濯物だった。あたしの部屋にある大量のファイルや、写真や、CDや、必死になって集めてきた大量の物よりも、たった一枚のシャツが、一足の靴下が一人の人間の現在を感じさせる。引退した推しの現在をこれからも近くで見続ける人がいるという現実があった。
 もう追えない。アイドルでなくなった彼をいつまでも見て、解釈し続けることはできない。推しは人になった。」(同P.121)


 「推しは人になった」…このくだりに心が痛い、心がつらい。どうしたってこっちの推しのことを思わずにいられない。ラジオの最終章を謳う「ラジオでナイト」あたりから佳代さんの話が増えていった。佳代さんのことを語る拓郎。その話は面白かったし、感動もしたし、平穏な日常を送る拓郎を祝福したい気持ちも湧く。湧くのだが、そのたびに心の奥底に走る何かがあって、この文章はそれを表現してくれている。佳代さんのことを語ること、それは拓郎が意識するとしないとにかかわらず、「俺はもう人になるんだよ」というメッセージを発し続けていたのだと思った。それが佳代さんの話のたびにこっちの心に走る何かの正体なのかもしれない。

 ここからの小説の最後までが切なく深く、なかなか平常心では読めない。この作品のいろんな書評や感想を拾い読んだが、最後に「彼女が推しから自立した」「彼女が自分の人生を歩き始めた」というものが散見された。つまんねぇ、正しいのかもしれないけど心の底からつまんねぇ。あんたらイカれるほど本気で推しのファンになったことのない人たちだろうと心の中で悪態をついた。…んまぁイカれてるからといってひとつも偉くない、むしろその逆なのである。

2023. 1. 25

☆☆☆君たちはどう推すか☆☆☆
 私は恥ずかしい人間だから気になることを話してみます。つま恋のことを"夏フェス"と言われると腹が立ち、拓郎ファンの営みを"推し活"と言われると目まいがして「一緒にすんじゃねぇよ!」と叫びたくなる。こういう症状に長いこと苦しんできたが、最近になって宇佐美りんの芥川受賞作「推し、燃ゆ」を読みはじめたらどうやら治りはじめた。これが山を下山する寛解か。

 ベストセラーなので今さら言うまでもないかもしれないが「推し、燃ゆ」はアイドル推しにすべてを賭けた女子高生の物語で作者自身も当時21歳だ。主人公には自分の人生の背骨であると断じ全てを賭けて推す「推し」がいる。その生きる支えの推しがスキャンダルで炎上し引退してゆく。彼女はどうあがき、何を苦しみ、どうなってしまうのか? 文章も行間もすべてが瑞々しくだからこそ詠んでて苦しくもある。
 最初は、自分がモデルかと思うほど(爆)"あるある"の共感、しかし読み進むうちに彼女の身を切るような「推し命」を仰ぎ見て、いかに自分はヘタレで中途半端でズルかったかということに気づかされた。そして最後には主人公の女子高生と作者の女子大生に、この哀れな爺はこれからどこへ行ったらいいんでしょうかと問いかけている自分がいた。これは俺にとっての「君たちはどう生きるか」だ(爆)。ということで…そうよ、私ゃ"推し活"で結構、年寄りの"推し活"で構いませんよ。

 「病める時も健やかなる時も推しを推す」…文中のフレーズに触発されて通勤車中で「ファミリー」を聴く。ひとつになれないお互いの愛を残して旅にでろ。推しよあなたは何処へ。

2023. 1. 22

☆☆☆マックイーン慕情☆☆☆
 「タワーリング・インフェルノ」はとにかく消防隊長のスティーブ・マックイーンが超絶カッコイイ。スティーブ・マックイーンとポール・ニューマンの共演というだけで当時の大事件で、言ってみれば矢沢永吉と吉田拓郎が共演するくらいの出来事だった。俺はどちらかといえばポール・ニューマン派だったのだが、それでもこのマックイーンの隊長にはふるえた。マックイーンのファンの方にすれば他の代表作の方がもっと素晴らしいというご意見かもしれない。しかし門外漢の俺には、孤高のアウトロ―というイメージと違って、消防隊長というカタギの地方公務員のちょっとくたびれたところもあるおっさんという設定で、それでいて隊員を率いてあの大活躍をするところにいたくシビレるのだ。最後に設計士のボールニューマンにニヤっと笑って「今度は建てる前に俺に聞きに来い。あばよ建築屋!!」と声をかけて去る。ああ、なんてカッコイイの。あなたはどうしてそんなに美しく微笑むのだろう。

 マックイーンといえば、86年ころ古舘伊知郎と影山民夫がホストを務めるアメリカテレビ映画特集の深夜番組に吉田拓郎がゲストで登場して「スティーブ・マックイーンが大好きだ」ということでドラマ「拳銃無宿」を推していた。昔から、マックイーンに憧れて主人公ジョッシュ・ランドルのランドル銃の模型を買った拓郎少年は、自分でガンベルトを作って銃を差して広島の町を歩き回って笑われたという。心温まる危ない話だ(爆)。ボブ・ディランのハーモニカホルダーが日本にはまだ売っていなかったので、自分で見よう見まねで針金を曲げてこしらえていた話は有名だ。
 このように吉田拓郎は音楽だけではなく、実に器用なモノ創りの人だということも忘れてはなりますまい。

2023. 1. 21

☆☆☆愛する全てのものを二人でわかちあおう☆☆☆
 ネットで尾崎紀世彦がカバーする映画「慕情」の主題歌を聴いた。あまりにすんばらしくて、俺には「おめぇごときが歌える曲じゃねぇよ」というメッセージを感じた。もちろんだ。拓郎とみゆきの「慕情」も含めて俺のゼロ歌唱力ではおぼつくものじゃない。
 この映画「慕情」のテーマは、たぶん世界中が知っているスタンダードの中のスタンダードで超絶美しい曲だが、映画本編の方はそれはそれは悲しすぎる話だった。そして主演のウィリアム・ホールデンとジェニファー・ジョーンズの二人が、その20年後に「タワーリング・インフェルノ」で共演していたことを最近知った。最近といってもつい昨日だけど。ああ不覚。
 「タワーリングインフェルノ」は多分俺ら世代にとっては忘れじの衝撃的パニック映画だ。渋谷の東急文化会館で立ち見の苦痛も忘れて悶絶しながら観たものだ。今でも「タワマンに住みたい」という人々の夢をきっとこなごな打ち砕いてくれる傑作だと思う。俺なんかおかげで「星の鈴」は大好きだが10階のテラスでも暮らせない自信がある。
 その映画の中でフレッド・アステア演ずる詐欺師の老人と富豪の未亡人との小さな切ないロマンスが描かれる。最後に小さな子を救ってエレベーターから転落しショッキングな最期をとげてしまうその未亡人が、あの「慕情」のジェニファー・ジョーンズだとは気づきもしなかった。もう俺の中では「タワーリングインフェルノ」は「慕情」の続編といっていい(爆)。慕情の最後に香港のビクトリアピークに立ち尽くした彼女は、20年後に高僧タワーの開館式に招待される。…悲しすぎる話か。得意の思い込みでもう「慕情」はこの映画をも包み込むテーマ曲だ。
 ジェニファー・ジョーンズといっても殆ど名前だけでよく知らなかったが、調べるとこの「タワーリングインフェルノ」が最後の映画出演となり、2009年にカリフォルニア州のマリブの自宅で90歳で亡くなったということだ。…マリブ。マリブといえばシャングリラだ。「慕情」のお返しに吉田拓郎がマリブで歌った「愛の絆を」をお捧げします。なんで俺が捧げるのかわかんないけど。
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2023. 1. 20


☆☆☆言うだけ野暮だよ飲めぬヤツ☆☆☆
 病気ではないのだがしばらく禁酒することにした。飲まないと決めると途端に心が叫び出す。あ〜俺も限定「ペニーレイン」に行ってバーボンが飲みてぇ〜、したたか酔って帰りに原宿のカラオケ館でコスプレ衣装借りてタンバリン打ちながら拓郎の「慕情」とみゆきの「慕情」を泣きながら歌いてぇよぉ〜。いっそのことコレも練習して慕情三部作を歌えるようマスターしておきたい。いみふ。
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2023. 1. 19

☆☆☆それぞれの慕情☆☆☆
 昨日は元猫のベーシスト石山恵三さんの命日だったのか。石山さんというと個人的には「慕情」が浮かぶ。2014年に原宿ラドンナで突然にこの拓郎の「慕情」を歌い出したときの印象は鮮烈だった。俺には伝説の「石山、『慕情』歌うってよ」事件として刻まれている。その選曲に驚いたし、声も素敵で、ちょっとルーズな歌いっぷりまでが胸を打った。
 吉田拓郎の本家本人歌唱の方はボーカルにピカピカな艶があり、壮大なアレンジも素晴らしく文句がない。傑作だ。それでも石山さんのカバーが胸を打ったのは、この歌は「拓郎が歌う」というより「拓郎に向けて歌う」とよりしっくりくるからだろう。作者の拓郎の真実の思いがどこにあろうとも、俺には「あなた」は「吉田拓郎」としか聴こえない。永遠の一択だ。
 
 その拓郎の本人歌唱は2019年のセットリストから途中で姿を消した。その前の歌唱がキツそうだっので、もう歌わないのかと思っていた。しかしWANGANの最後の最後になって、その姿を現した。サラリとした歌いっぷりが余計に圧巻だった。機を待つように現れるべくして現れた感じだ。

  あなたがいなくなることはありえない
  あなたを見失えば 世界の終り

 ああ、この因業な歌詞(爆)…あまりに刺さり過ぎて「拓郎おめぇが自分で歌うなよ」と言いたくもなる。そんなとき別の方角から歌声が聞こえる。

  甘えてはいけない
  時に情けはない
  手放してならぬはずの 何かを間違えるな
               (中島みゆき「慕情」)

  もういちどはじめから あなたと歩き出せるのなら
  もういちどはじめから ただあなたに尽くしたい

 もいちどはじめから、があるのなら、そりゃもっともっと尽くすってば。…たまんねぇ。みゆきねーさん、ちょっと怖いけど、あなたの胸で泣かせてください(爆) 

 吉田拓郎の「慕情」、石山恵三の「慕情」、WANGANの「慕情」、そして中島みゆきの「慕情」。俺の中では無理なく自然に繋がっている。というかしっかりと因果の縛で結ばれている。向田邦子さんの言う「糾える一本の縄」みたいなものだ。
 …ということでも今日も元気でイカレているぜ。

2023. 1. 18

☆☆☆そうか君はいないのか☆☆☆
 日程的にぺ二ーレインへは行けない。昨日のライブハウスで、ああ〜やっぱりアーリータイムズはもう無いのだな。島ちゃんのドラム、松田幸一さんのハーモニカで聴く「この素晴らしき世界」にいろいろ黄昏れる。
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2023. 1. 17

☆☆☆フィルムは生きている☆☆☆
 WANGANのリハーサルで、拓郎が"雪さよなら"の後奏のアイデアを出すシーンがある。俺には専門的過ぎてサッパリわからない。先日の拓バカ集団鑑賞の時に誰かが「アレで(ミュージシャンは)わかるのかな?」とつぶやき俺も大いに共感した。
 鳥山と武部は戸惑いながらも拓郎のアイデアの真意を真剣に追い詰めてゆく。こういう光景にシビレる。

 同じようなシーンを思い出した。TAKURO & his BIG GROUP with SEO 2005の「 RARE Films」のつま恋エキシビションホールの舞台裏のシーン。楽屋にいる島村英二に拓郎がカウントのリズムについて相談する。島村英二はすぐに「それじゃ叩いてみよう」と楽屋を出てフットワークも軽く歩き出す。ステージに向って通路を抜けて並んで歩く二人の背中がとてもいい。ドラムセットに座った島村は、ここでも拓郎の真意を探るように何回か叩いてみせる。拓郎が「それ決定で!」とアイコンタクトした一瞬の二人のバディ感がまた素敵なのだ。それが「ハートブレイクマンション」のイントロに結実する。

 「上司は思いつきでものを言う」という橋本治の本があったが、俺も仕事では上司の思いつきに振り回され、反対に俺の薄っぺらな思いつきでスタッフに迷惑をかけてきた。おそらくどこの職場にも似たようなことが多々あって、だからさこうして裏町の酒場はいつも正直者の男女でいっぱい。
 しかし彼らミュージシャンたちは、拓郎の閃きの一言を1ミリも疑わず、何とかそこに近づこうと真摯に挑んでいることがわかる。そしてそれが音楽に結実されてゆく。そこには魂しかない。そういう信頼の世界があることが、ささやかな希望だ。自分もそうありたいと思うがうまくいかない(爆)。だからこそこれらのシーンが胸にしみるのだ。

2023. 1. 16

☆☆☆推し燃ゆ☆☆☆
 高橋幸宏氏が昔「東京イエローページ」で竹中直人と組んで流しのドラマーという不条理なシリーズコントをやってたことを思い出してネットを探した。するとあれだけのミュージシャンでありながら、音楽だけではなく、結構いろんな番組におちゃめな出演をされているものがたくさんあった。どれも真剣に体当たりでやっておられた。今頃になって申し訳ないが、素敵だな〜、カッコいいな〜と魅入ってしまった。
 その中に昔の番組タモリの「今夜は最高」の中で、高橋幸宏、森下愛子、タモリのお三方で「フライデーチャイナタウン」を歌っている動画がすこぶる良かった。ダンディなユキヒロ氏と一緒に歌っている森下愛子さんの二人は素敵な雰囲気だった。そもそも歌を歌っている森下愛子さんを観るのは初めてだ。キラキラしておられた。
 それ以来ずっと頭の中で「フライデーチャイナタウン」が鳴っているが、この曲を懐かしいと感ずるのは、間違いなく拓郎のヤンタン=サタデーナイトカーニバルを聴いていたからだ。今月の歌とかゲストの歌とかで番組推しだったはずだ。
 番組推しと言えば、岩崎良美がよく出ていた。岩崎良美といえば「タッチ」なのだろうが、ヤンタンの頃の「涼風」がとても好きだった。♪優しい人、心に涼風そよきだす〜 いかん。完全に懐かしモードに落ちている。

 えーい、ここまで来たらアレだ。ヤンタンで吉田拓郎が松田敏江になって岩崎良美に歌唱指導していた迷作「青いくちなしの花のワルツ」だ。ⓐ青い山脈ⓚくちなしの花ⓗ星影のワルツ

  ⓐ若く明るい
  ⓚまわるほど〜
  ⓚ痩せて やつれた
  ⓐ花も咲く〜
  ⓚくちなしの花の〜
  ⓐ雪割桜〜
  ⓐ空の果て〜
  ⓚ白い花〜
  ⓐ今日もわれらの
  ⓗワルツを歌おう〜

 …まだ覚えていたぞ。それにしても見事なつながりだ。良美ちゃんに「ワルツを歌おう」の前に一拍おいてはイケませんという拓郎の歌唱指導まで思い出した。…高橋幸宏さん、こんなときになんか不謹慎かもしれず申し訳ありません。高橋幸宏さんというと吉田拓郎関連で個人的にどうしても忘れられない光景があるのだが、それはまたいつの日にか。

2023. 1. 15

☆☆おまえの足音は自由の足音☆☆
 高橋幸宏氏の訃報。ご病気が大部回復されてきたというニュースを聞いていただけに驚いた。心からご冥福をお祈りします。
 俺が言うことではないが、YMOにあっては細野晴臣と坂本龍一というトテモとっつきにくそうな二人の中にあって唯一「親拓な人」というイメージがある。"はっぴいえんど"の鈴木茂みたいな感じだ。拓郎本人のエッセイの中にもパーティーで久々に顔を合わせた高橋幸宏が嬉しそうに人懐っこく拓郎に寄り添ってくるというシーンがあった。それを読んで、ああ〜いい人なんだなと思った。
 なんにしても高橋幸宏氏といえば「わたしの足音」の"走るドラム"だ。お蔵入りしていることを少し悔やみつつも、それでも何とか手に届く形で残っているこの名演をドラムのリズムを愛でながら聴く。遠くにいた俺ごときが生意気ですが、お疲れ様でした。どうか安らかにお休みください。

2023. 1. 13

☆☆☆拓郎の背中を見つめた男☆☆☆
 日課のビデオ鑑賞だが、今夜は「ON THE ROAD "FILMS"」で渚園の野外ライブを観た…ってそれは浜省だろ!(爆)。
 つま恋PARTUで一瞬だけ映る浜田省吾を観ていたら、折しも1988年8月20日、静岡県浜名湖畔の「渚園」で行われた野外ライブ『A PLACE IN THE SUN』が劇場公開されるとのニュースが重なりつい観たくなってしまった。

 超絶個人的な話だが、かつて俺の親爺が亡くなって一か月も経たないとあるクソ暑い夏の日に、友人のFくんがふらりと家にやってきた。当時たぶん発売して日の浅かった「ON THE ROAD "FILMS"」のVHSビデオを持ってきて一緒に観ようと言う。浜省は「路地裏の少年」くらいしか知らないままお相伴した。Fくんとはもともと近所のうえ高校、大学と一緒で、ついでに今は同じ業界の同業者という腐れ縁だ。
 浜省は予想以上にスピーディでパワフルな歌いっぷりなことに驚いた。既に篠島、つま恋もはるか遠く野外イベントにご無沙汰していた俺にはこの渚園に満ち溢れた躍動感とグルーヴがとても眩しかった。
 観終わって、彼の好物だった出前の天津飯を食べ、二人で何も言うことなく二巡目の鑑賞に入った。オープニング直前の「A PLACE IN THE SUN」が流れる中で、緞帳の後ろで膝をついて必死に祈っている浜省が印象的だった。今度は「AMERICA」とか「丘の上の愛」などの静かな曲のメロディーの美しさがたまらなかった。かつて拓郎が「浜省のナイーブなメロディ」と言った意味が胸にしみて二巡目も終わった。

 二巡目が終わるとFくんは言葉少なに、先週終わった二次試験の最中に「おまえの親爺が夢枕みたい立ってミスを教えてくれた」と話し、そして今日のビデオの中の「DARKNESS IN THE HEART」という曲は闘病しつつ亡くなった父親を思いながら浜省がツアーを続ける歌だと言い残して帰って行った。
 俺はその年に勝負を賭けていたが一次試験で門前払いになってしまい彼のように二次試験は受けられなかった。そんな苦渋の中に父親が死んでしまい、弟もまだ学生ということでもうあきらめようと考えていたところだった。
 Fくんの励ましであったことは当時もよくわかっていたが、今思い出すと余計に胸にしみてくる。最近ヤツとはご無沙汰してしまって申し訳ない。

 その年の夏から浜田省吾をレンタル店で借りてきて繰り返し聴き始めた。「DARKNESS IN THE HEART」の「思い出す病室で痩せてゆく父の姿を」というくだりが心に痛かった。そして「走り始めた1974年」というフレーズが刺さった。拓郎のコンサートツアーを浜省のツアーキャリアのスタートとしているところにふるえる。俺の拓郎ファン歴も1974年からなのだ>おまえはどうでもいいよ。「…Carry on  覗かないで 勝利もなく敗北もなく横たわっている心の奥の暗闇」…御意。よく意味はわからないけれど不思議に勇気づけられた。最後にもうちょっとだけ続けてみようと思えた。
 それからはわりと欠かさずCDを聴き、ライブにもたまに足を運んだ。ライブに行くとそこはそれこそ命を懸けたファンの方々の熱き世界なので、俺ごときが浜省ファンですとは言えない。それは今も同じだ。しかしこんなふうに渚園の話が出てくると、あらためてあの夏の日を思い出してあの時はお世話になりました…とちょっと背筋を正してしまうものなのだ。

2023. 1. 12

☆☆☆誰がオスカーやねん☆☆☆
 深夜の映像鑑賞が日課になりつつある。そうだ!本場アカデミー賞授賞式も近いので、優れた吉田拓郎の映像作品を対象にしたt.yアカデミー賞をやろうか…と思ってみたが、何があっても主演男優賞はたった一人しかいないことに気づき無理があるのでやめた。徒然なるままにひとり静かに観るしかないっす。ひとつの時代ばかりではなく、いろんな時空を行ったり来たりさすらって観たいと思うが、85年といえば「PartU」を避けては通れない。いきなり「サマーピープル」のコーラスを歌う島村英二、なんじゃこりゃ(爆)
 なんつっても高中正義と後藤次利がアシストする「落陽」は屈指の名場面だ。歌が終わってアウトロに入ると拓郎は静かに後ろに下がり、高中と次利が中央に残りバトルのようなプレイが始まる。水戸黄門でいえばご老公が「助さん、格さん、存分にこらしめてやりなさい」というシーンと重なる>…ホントかよ。ということで俺は二人にさんざん打ちのめされて恐れ入りましたとなるしかない。その様子をご覧になっているご老公…ちゃう拓郎の笑顔がまた素敵なのだ。
 よし!高中と次利に助演男優賞だ!。いや、しかし加藤和彦と石川鷹彦の「ガラスの言葉」の熟成アシストはどうなんだ。これはこれでたまらん。パイプ椅子に片足をのっけてギターを弾くトノバンのシルエットが美しい。今観ると万感あふれて涙が出そうなシーンだ。ということで、あちこちいろいろ素晴らしくて、やっぱりアカデミー賞は選考不能だ。
 あ、エキシビションホールで暴れる御大にアカデミー・ウィル・スミス賞は決定。ねぇだろそんな賞。(写真はイメージで実物とは関係ありません)。
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2023. 1. 11

☆☆☆in 1985☆☆☆
 「サマーピープル」につられて85年のつま恋の映像とラジオの音源を久々に少し味わった。つま恋は75年や2006年の映像や音源は時々観直したり聴き直したりするが、85年はとんとご無沙汰だ。個人的に85年はどんよりと鬱な気分になるからだ。どんなにアレンジが秀逸で、どれほど演奏のクオリティが高かろうが、どんだけ豪華メンバーが揃おうが、あのときの「吉田拓郎が撤退する」という終末感に満ちた重たい空気を思い出してちょっと気が引けるのだ。それにあの頃は自分の私生活も結構悲惨だったからかもしれん。
 しかしさすがに今のリタイアの現実の方が切実に淋しいので、なんとか85年の映像も平気で観られるようになった。するとこれがいいんだわぁ。吉田拓郎はしなやかで軽やかでカッコ良い。色香が吹きこぼれるように溢れている。今頃すまんな。撤退という衰えの影がどこにも射していない。そのまま秋のツアーに出ろよという気がしてくる。
 それは程度の差こそあれWANGANを観た今もそうなのだが。
 
 つま恋のゲストの武田鉄矢のMCで活動停止するという拓郎のことを捉えて
「大丈夫です。これだけのファンを放っておいて独りでいられるほど吉田拓郎という人は強い人ではありません」と語っていた。…どうか強い人でありませんようにと祈るしかない。

2023. 1. 10

☆☆☆思い出はモノクローム☆☆☆
 自主上映会で「サマーピープル」のプロモが流れた時、誰からともなく「ああ、これはヒットすると思ったのになぁ〜」というため息がもれた。たちまちほぼ全員がそのため息を共有した。なんでもかんでも共有するのって好きじゃない…と拓郎は年末のラジオで苦言を呈したが、このため息は共有せずにおられようか。いい曲だしCMソングだったし、なんでヒットしなかったんだろう…と無念の空気をわかちあう。ファンにはファンのささやかな夢というものがあったのだ。

 この「サマーピープル」はフィル・スペクターのウォール・オブ・サウンドを意識して作り上げた自信のサウンドだと拓郎は一昨年のANNGで語ってくれた。御意。同じウォール・オブ・サウンド系の曲としてその時一緒に拓郎がとりあげたのが大瀧詠一の「君は天然色」だった。ほぼ同時期の作品なのだが、あちらの曲はなんか輝ける王道を歩いている気がする。
 で俺は勝手に思うのだ。「君は天然色」にあって「サマーピープル」にないもの…それはズバリ「松本隆」だ。すまん。俺はかなり徹底した岡本おさみシンパのつもりだが、若い女性をターゲットにした夏の資生堂の化粧品のキャンペーンであるのならばココは万難を排して松本隆だったんではないか。岡本おさみの詞をクサするつもりは1ミリもないが(あ、この詞については5.6ミリくらいあるかな)、時はバブル全盛期、ドレスアップした女性を誘ってバネのきしむ喫茶店に案内するみたいな危うさがある。

 さすがに40年前の思い出の原因をいろいろ考えても詮無いことだ。こういう時は、85年のつま恋の「サマーピープル」の映像を観ることにしている。そんな切ない歴史などに関係なく、実にチャーミングで楽しそうにこの歌を歌う拓郎がいる。拓郎が笑顔で手を振るシーンがあるのだが俺もテレビに向ってつい手を振ってしまう。>ロンパールームかっ。
ヒットも勝ち負けもいいじゃないか、とにかくファンに生まれてきたんだ〜愛してるぜウォウウォウオオという気分になるというものだ。

2023. 1. 9

☆☆☆WANGAN上映会の夕べ☆☆☆
 コンシェルジュのいるカラオケVIPルームでの熱血自主上映会に参加させてもらった。拓郎オンリーで5時間。おそるべし拓バカたち。WANGAN、サンタクの落陽、2019、あいみょんにしか見えない70年代、万感のつま恋2006、ジジババの魂は身体を離れ時空を自由にさまようのだ。ええなぁ。映像は観るたびに尽きせぬ何かを必ず語ってくれる。
 外から見ると引退した歌手の映像を老人たちが集まって懐かしんでいるように見えるかもしれない。んまぁ実際それもあるもしんないけれど、実はあのライブの感触を忘れないように、万が一これからいつ御大が決起したとしてもすぐライブ人として対応できるように、ファンとして心と身体とを作り込んでいるのだと思っていただきたい。
 参加させていただいてありがとうございました。心の底からうれしゅうございました。

2023. 1. 8

☆☆☆Hold on me☆☆☆
 昨日は妄想が過ぎた。すまん。といっても俺の人生は日々妄想しかない。年末も紅白歌合戦の「時代遅れのRock’n’Roll Band」を観てやっぱり世代だし胸が熱くなった。桑田佳祐と佐野元春の二人の姿を観て別の意味で感慨深く妄想の世界に入った。

 79年か80年の初め、ニューミュージックのシンガーたちが所属事務所の垣根を超えて集うJAM系のイベントが結構あった。もちろん拓郎は出ない。ただ拓郎が当時のラジオで、その種のイベントで誰がトリを歌うかで事務所相互で大モメしたというニュースについて語っていたことがあった。拓郎は、怒るのでも、冷笑するのでもなく「そんなことになっちゃってるの?」とひたすら悲しそうだったのが忘れられなかった。ユイ音楽工房も当事者のひとつだったしね。

 その数年後、拓郎も肝入りで参加した85年のIYY ALL TOGETHER NOWでは、オフコース、ユーミン、サディスティックス、はっぴいえんど、財津和夫、坂本龍一、さだまさし…錚々たるビッグネームのミュージシャンが総出演するなかで、グランドフィナーレの前の本編のトリは当時の若き桑田佳祐と佐野元春の二人の共演だった。トリ=重鎮というとらわれを退け、生きのいい若手ミュージシャンにラストを〆てもらう。拓郎もオフコースもオープニングでとっとと歌ってしまい拓郎は司会という裏方役に徹していた。
 ああ、これがいつかラジオで嘆いていた吉田拓郎の出した答えなんだとしみじみと思った。別に拓郎の発案・指示という証拠はない。本人に尋ねたところでこないだの広告ではないが拓郎本人も「俺は知らないよ、みんなで決めたんだよ」というに違いない。しかし証拠はないが確信はある。そういう人でしょう。そこが好きなわけであります。

 てな妄想に誘われた紅白でありました。

2023. 1. 7

☆☆☆They shall be released☆☆☆
 1980年の武道館の音を聴きながらあまりにもったいないと五万回くらい悶絶する。シロウトの俺が勝手にアレを出せ、コレ出せをと言うのはさもしい気もするが、オイラは元来さもしい人間だ。そんなの出るわけねぇじゃんというあきらめもチラつくが、あきらめなんてずっと先でいい。
 もういいじゃないか。素晴らしい音源たちの大解放を願いたい。お蔵の中にしまっておいて誰かが幸せになるというのか。それなら解放したら誰かが幸せになるのかと問い返されれば自信をもって言える。俺だ(爆)。俺が間違いなく救われる。J-POPや音楽文化のためとかファンの総意だとかそんなことは言わない。ファンにもこれまで公表しなかった拓郎さんの意思を慮るべきだという心根の方もいるに違いない。しかしそういう心根を1ミリも持ち合わせていない自分は、ひたすら「俺に幸せあれ!」 と傲岸に叫びたい。

 えーい妄想ついでに、とりあえずこんな妄想企画はどうだ。

 武道館ライブ全曲収録 CD11枚組 

   吉田拓郎武道館BOX「武道館よ屋根の梁を高くあげよ(仮)」

   帰れの怒号に消え入りそうな「帰らなくていいのよ」の声に導かれて武道館伝説は走り出した

Disc 1: 1979 初ソロ武道館デスマッチ 恩讐の彼方に(※「僕の一番好きな歌は」初音源化)
Disc 2: 1980 ブッカー・Tシフト=「アジアの片隅で」完成披露レゲエの夜
Disc 3: 1981 体育館ツアー 新曲発表大会&松任谷正隆最後の大仕事
Disc 4: 1982 王様達のハイキング 極悪バンドがゆく!(※「風に吹かれて」収録)
Disc 5: 1983 マラソンツアー 風になった拓郎と今夜も君をこの胸に
Disc 6: 1984 情熱ツアー  I'm In Loveの誰も知らない旅立ちだから
Disc 7: 1985 FOREVER YOUNG くり返し旅に出る男(※スペシャルアンコール「人間なんて」収録)
Disc 8: 1990 89-90ツアー”人間なんて” さらば80's、さらばカーリー
Disc 9: 1990 男達の詩 俺の居場所を探してる(「東京の長く暑い夜」「中の上」初音源化)
Disc10:1996 感度良好ナイト 50歳から始まる音楽の至福と挑戦 
Disc11:2006 ミノルホドコウベヲタレルイナホカナツアー そして聖なる場所に祝福を

[特典CD]
1972 フォーク・オールスター夢の競演 音溺大歌合より「祭りのあと」(モノラル会場録音)
1994 日本をすくえより 「ファイト」
1997  高中正義 虹伝説Uより 「春だったね」「落陽」

 ああ聴きてぇ、誰か出しちくり〜
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          ※ジャケットの装丁は変わることがあります…自分で書いててくだらねーな(T_T)
  

2023. 1. 6

☆☆☆だから断捨離は終わらない☆☆☆
 1980年の武道館は、冠だったFM東京を中心にNHK-FMの拓郎105分やヤングタウン東京でもオンオアされた。ブッカー・T・ジョーンズ・シフトの敷かれたバンドだけあって、この音源から「アジアの片隅で」「証明」「ファミリー」がレコード化された。「アジアの片隅で」の間奏はレコードではあれでも多少短く編集されている。CDの時代になったのだからオリジナル全長版でもいいのではないか。それよりなにより昔から不満なのは「ファミリー」の最初の松任谷のピアノがフェイド・インということで事実上カットされているところだ。FM東京ではちゃんと入っている。短いピアノソロだが大事じゃね?と思う。
 オープニングだったんだよな。満場の武道館に前哨曲「ローリング30」のテープが流れ終わって燃え立つ観客の大歓声の中をぬって流れる松任谷のピアノ。歓声がそのピアノの音色に、なんだ、なんだ〜と吸い寄せられて行ったところで、あのイントロがガツンと始まるのだ。怒涛のように波打つ大歓声。あれは「おわ〜すげ〜1曲目から『ファミリー』かよぉ!」という驚きのどよめきでもある。
 さぁ今日は「ファミリー」(アルバム「無人島で」所収)聴く。あれぇあの日女性コーラスいたっけ?とかツマラナイことを気にしている場合ではない。静かに眠れるこの大作にいまいちど魂を。愛を残して旅に出ろ。

 

2023. 1. 5

☆☆☆わが心のマークU'80☆☆☆
 年末からiTunesの整理をしていたのだが、もともと整理が苦手なうえにあれこれ気が散る性質なのでかえって混沌と混乱を深めてしまった。え〜い、くたばれ断捨離!
 昨年のラジオの「吉田拓郎は『マークU』なんだ」といういきなりの御拓宣がひっかかっていた。整理といつつひっくり返しながら久々に1980年武道館の「マークU」を聴く。数あるバージョンのうえに様々なお好みとご意見があろうが、俺はこのマークUがベストだな。魂の底から突き上げてくるようなリズムと演奏、これがレゲエというものかしら。とにかくカッチョエエったらありゃしない。80年武道館〜TONY〜秋のツアーとこのアレンジだったがやはり武道館がベストだ。なんたって松任谷正隆を筆頭に「ブッカー・T迎撃シフト」の布陣が敷かれているこのバンドが最強だ。年老いた男は何度でも言うぞ。FMでも放送したしキレイな音源があるのは確かだ。かくも素晴らしい演奏が眠っていて良いものか。時ここに来たら、もういいんじゃないでしょうか。だから眠れる貴重音源を大解放してください。J-POPからのお願い。>よしなさい。とりあえずYouTubeにはあるぞ。
 そういえばあの武道館、ブッカー・Tご本人が出てくるまでキーボードの住野裕之がブッカー・Tだと思ってずっと拝みながら観ておった。汗顔の至り。無明とは恐ろしいものよ。ああ何もかも懐かしい。

2023. 1. 4

☆☆☆抗いへの贖い☆☆☆
 最初にあの新聞広告を読んだ時「時代に抗うことなく、時代を歌った」という言葉に対して、いや時代に抗ったからこそ今のJ-POPがあるんだろ…と思った。俺は中学生の頃から「抗う吉田拓郎」にシビレ続けてきたからだ。
 しかしよく読めば、この文章の「抗う」は「権威への批判」や「反抗」のことだとわかる。確かに拓郎がやってきたことは批判でも反抗でもなく、この広告が讃えるように自分の信ずる音楽を貫いてきたことただそれだけだ。それが時に関係各方面との軋轢を生んで結果的に時代に抗うドラマのように映った。しかしそれは決して批判や反抗のためではなく、あくまでも自分の愛する自由な音楽をやりたいためだった。それが今となってはよくわかる。ご本人じゃないのに断言しちゃうけどさ。

 そこらへんを解らないまま「抗う拓郎」というファッションにシビれていた俺は、事あるごとに歓喜と失望を繰り返し、そのうちだんだん失望の方が多くなり、よく拓郎に悪態もついたものだ。かつて「帰れ」と石を投げた方々の心情とそんなには変わらないかもしれない。…申し訳なかったなという贖いの気持もあるが、まぁそういう迷いも自分の何かだ、言えない何かだ、確かめてみるがいい。それに真摯に音楽を貫いた拓郎といえども途中あれこれブレたことはなかったとはいえまい(爆)。
 それこそれも昇華してのあの新聞広告の素晴らしさだったと思う。評価は人それぞれだし朝日が嫌いという意見もあろうが、俺は「ポーの歌事件」を今も許していないので読売でなくて良かったと思う(爆)。
 
 「抗い」といえば♪わが友のあがらいあらがいに〜の名曲「RONIN」だ。個人的にはずっと「贖い(あがない)」だと思ってきた。

  今日からお前の体は お前自身のものだ
  今日からお前の心は お前の体に戻るさ
  もう争わないで もう戦わないで
  そう自由の風に酔え そうすべてを解き放て
 
 詞とメロディとボーカルの心技体の素晴らしさ。これだ。…今の今こそ心の底からしみるってもんだ。

2023. 1. 3

☆☆☆互いの生きる気配☆☆☆
 「拝啓 吉田拓郎様」の新聞記事を繰り返し眺める。眺めながら同じ拓バカのクリエイターの方のつぶやきを読んだ。

「『私を生み出し育んでいただき、ありがとうございました』なんて美しい言葉 〜2023年1月1日にこの世に放ったこと忘れません avex書いた方本当にありがとうございます こんな企画とおすの大変だったでしょう 本当に喝采 また写真がね 落陽の拓じゃなくてよかった 最新だもの それもカッコいい 相当なファンの方だよね いつかお会いしたい これだけで二晩飲める」「全面広告2面あたえられたら 何をするか 何にするか 狂おしいよ BGの色といい構成といい完璧です しつこいけど クリエイターとして絶賛です どこへでもどっちにでも持って行けたもの」

 業界関係の方から見ても心・技・体あわせてすばらしい広告だったということだ。
 
 同じく正月解禁の中島みゆきのアルバム「世界が違って見える日」の吉田拓郎ゲスト参加の告知。ああ。、これぞ互いの生きる気配。

 テレビでは奄美の海岸をさんまと木村拓哉が「イメージの詩」をオリジナルと稲垣来泉verを聴き比べながら車を走らす。木村拓哉の「落陽」。いい声っす。この男そつがない。それにしても「心から憧れていました」という…それは俺の拓郎へのセリフだってんだ。

 ということで気が付くとなんとも豪華で素晴らしい新年だったじゃないか。同じことが去年の年の瀬ではなく、今年の新年に起きているというところが、ものすげー救われる。そして心の底からありがたいのだ。

2023. 1. 2

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☆☆☆朝日が載せるから誉めるんじゃなくて☆☆☆
 元旦の朝日新聞の見開き二連広告には驚いた。昨日のやさぐれ日記を書いたあとに、拓友ね〜さんから元旦のコンビニを走り回ってゲットした顛末を教えて貰った。俺も聞くやいなや午後3時過ぎに近所のコンビニを4件ほど駆け回ってやっと手に入れることができた。そして俺が教えた同志もたまらずに、もう夕方近いコンビニに朝刊確保のために家族を走らせたそうだ。もうニューイヤー拓バカ駅伝の世界である。
 これぞサプライズだ。もし岡本おさみさんが生きていたらバネの軋む喫茶店でトースト齧りながら朝刊を読んでびっくらこいたに違いない。
 まさに魂のレスペクトだ。こういうものをずっと待っていた。おかげさまで昨日の日記のとおりいろいろ鬱屈していた胸のわだかまりがキレイに晴れた。すべてのJ-POPが吉田拓郎に感謝を贈り讃える、しかもいつもここ一番で後ろに隠れてしまう奥ゆかしい吉田拓郎のことを慮っている文章が泣かせる。
 とにかく世の中捨てたもんじゃない。捨てる神…いや辞める神あれば、拾う紙あり。王様達のピクニックのなるさんに教えていただいたところによると、朝日新聞のサイトでバックナンバーも買えるらしいぞ。
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 同志は、新聞を拡げて家に貼ったということだ。正しい。たぶんとても正しい。ネットと新聞のような紙媒体はどこかで違う。この讃嘆文というソフトが新聞というカタチある物体になる。その巨大さ、活字、折り目、手触り、インクと紙の匂い、古い人間かもしれないが手で触ってその存在が確かめられる。そして物として残る。やがて今日も移ろいセピアに変色すれば、それはそれでまた貴重な何かを語ってくれるに違いない。

 このエイベックスの英断に心の底から感謝と敬意を表したい。心の底からありがとうございました。しかし、すまんが、エイベックスだけではなく、拓郎の恩恵を受けたいろんな業界関係がこぞって、もっともっとあちこちに打ってくれてもいいと思う。もちろんそのたびにこちらも何度でもどこへでも走り回るし、スタンディングしてBRAVO、ハラショと叫ぶ。♪それだけのことで私は海を行けるよ たとえ舫綱が切れて嵐に呑まれても…と歌ってくれる中島みゆきの話や木村拓哉の話はまた明日。

2023. 1. 1

☆☆☆謹賀新年☆☆☆
 レコード大賞を観ながら何か賞を作ってでも出せよ!、紅白を観ながら達郎じゃねぇだろ拓郎だろ!と身悶えし、あいみょんが妙に眩しく見え、SKYE=松任谷、鈴木茂こっちも頼むよと理不尽な思いにふるえ、ちょっとハラハラする加山雄三に拍手しながらもあの人のことを想い、初日の出の海の中継を見ながら、もうコンサートもアルバムもラジオすらも待っていないんだよと思うとはるかな水平線に向ってひとり海を泳がねばならない切なさに襲われ、こんな今年を生きるってことは泳げない僕が船に乗るみたいに誰にもわからない勇気のいることだから、と、ただれるような思いを抱いている…そんな皆様にだけ、あけましておめでとうございます。いえ、そうでない皆様もおめでとうございます。

 希望と寂しさがさまざまに混濁したこの複雑な思い。そんなにストーンズが好きだったのか、拓郎…そのストーンズが励ましてくれる。

 そして海を漂流している船はおまえだけじゃない
 寂しいのはおまえひとりじゃない
 複雑な思いでいる