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夕映え

1992年
作詞 石原信一 作曲 吉田拓郎
アルバム「吉田町の唄」

ねぎらいと振り返りの向こうに見据えた明日

 アルバム「吉田町の唄」。石川鷹彦の鷲づかみのギターのイントロダクションに続き、この作品がドーンと始まったときに「神盤アルバム」たることを確信した。そんな大傑作であるにもかかわらず、どうも扱いが日陰すぎやしないか。「落陽」に替わるスタンダードになっても不思議はない。
 かつてのファンクラブマガジン「T」の石原信一の連載エッセイにこの作品の出自が残されている。石原信一と御大とのミーティングを兼ねた対話の中で、御大が「ねぎらい」と言う言葉を提示する。・・いろいろあったけれど俺達は、よくやってきたじゃないかという人生へのねぎらい。そして過去を振り返る時は、ナナメでなくまっすぐにしっかりと振り返ろうと共感しあったことが記してあった。そこから石原信一は、この詞を起こした。
 確かに、急ぎ足で移りゆく時間の中で、私たちは人生の「夕映え」という黄昏に向って進んで行く。潤沢に時間があった若い頃とくらべれば、時間はナンバードになり、黄昏にかなり近づいてしまった。その中で、この詞は、自分の過去を汚れ物と切り捨てたり、責めたりするなよと温かく諭す。時は夕映えに燃えてしまって、人生の黄昏になろうとも、愛する君のそばにいるという決意とねぎらいを書き上げている。
 前記のマガジンの別のインタビューで、御大本人は、この詞を見た時、直感的に「これは曲がすぐできちゃうわ」とメロディーが瞬時に浮かんできたという。かつて松本隆が語った3分の曲を3分で創るという天才ワザをここでも発動したようだ。
 最初のAメロの地を這うような悲しげなつぶやきが、曲の進行とともに徐々にドラマチックに昂まっていく。このアゲアゲのメロディー構成がたまらない。そして「僕は誰にも奪われない」の絶唱のところで頂点に立つ。「愛する君を振り返る」「愛する君のそばにいる」と決然と歌われるときの高揚感がもう無敵である。
 しっかりと過去を振り返っているが、そこには「懐古」の甘ったるさもなければ、人生の黄昏の悲しみや哀愁は微塵もない。夕映えの黄昏を見据えながら、しっかりと仁王立ちする御大の姿が浮かぶ。爽快で勇躍胸躍るようだ。聴いている自分も、そんな御大の隣りで並んで立っているような意気高い気分になる。あらためて吉田拓郎のメロディーと歌唱力の凄さを思い知る。
 したがって、話は最初に戻って、この傑作がなぜ事実上とはいえ封印されているかがわからないのだ。東映映画「継承盃」の主題歌になったものの、なんで御大の名曲はいつもこんなショボイ映画の主題歌にばかりなるのか。大森一樹は、せっかく真田広之と緒方拳を主演にするなら、この歌を聴きこんで堂々と「夕映え」という映画を創ればよかったのだ。・・・って、うっかりすると昔の歌謡映画みたいになって困るけどさ。
 また唯一ライブで歌われたのは、93年のNHKのスタジオライブ、トラベリンマンの時だが、通常のライブとは違うシチュエーションで、どうも気勢があがらなかった気がする。あらためて満場のライブでガチの絶唱が聴きたい。  夕映えの黄昏にしっかりと立ち向かっていく今の私達、いや世間の人々にとって必要な作品であるに違いない。アルバムのキャッチを借りれば、日本の人々よ、いつも心に「夕映え」を。
 さらに言わせてもらえば「愛する君」は私達にとっては御大自身でもある。誰にも奪われず、いつでも私たちは愛する御大を振り返り、愛する御大の傍にいるのだ。・・・御大本人は迷惑で嫌かもしれないが。いると言ったらいるのだ。

2016.3/12