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吉田町の唄

1992年
作詞 吉田拓郎 作曲 吉田拓郎
シングル「吉田町の唄」/アルバム「吉田町の唄」/アルバム「TRAVELLIN’ MAN LIVE AT NHK STUDIO 101」/アルバム「18時開演」

家族の「再結」とフィールド・オブ・ドリームス

 この作品は、間違いなく御大の最高傑作群の一角に佇む不滅の三拍子である。1991年に新潟県吉田町の有志団体“若者共和国”から“吉田”つながりで「町民の皆さんにとって心の糧になるような唄がほしい」との依頼で作られた。最初はカセットで配られ、翌年にはシングルに、そして8月にはアルバム「吉田町の唄」としてタイトル・チューンにまでなった。
 御大が書きあげたのは単なる「町おこしソング」ではなく、自分の中の家族と故郷への数々の思いを撚りあげ、集大成させたような魂のスタンダードだった。たくましき父、温かき母、心優しき祖母、大好きだった姉、憧れの兄、心通う友の姿をていねいにトレースしながら心の故郷を描き、時代をつないでいく子供たちを大切に愛でる美しき一篇になった。
 しかし、しかしだ。単に昔の家族と故郷を懐古するだけの唄であればこれほどまでに心を揺さぶられまい。この作品には家族に対する愛とともに悔恨のようなものが滲んでいる。
 御大はこの作品の発表のとき、家族の「再結」を歌った作品だと語った。かつては理解しあえず、すれ違ったまま別れた家族への後悔。フィンランドの諺によれば「後悔とはかつてそこに愛があった証明である。」そんな悔恨の中で、再び家族を見つめ直し自分の中で結びつける「再結」。それは特に御大のファンならわかる。若き御大の「おやじの唄」に覗く父親に対する敵対と反発。それがゆえに素直になれない家族観。御大は、ことあるごとに父親を「最低の家庭人」と明言していた。
 しかし、この作品の発表に際して御大はこう語る。「女系家族で育ったから、母や祖母や姉からオヤジの悪口しか聞いていなかった。でも、よく考えたら俺はオヤジの口から何の言い分も聴いていないんだ。」。反目していた亡き父との和解を描く映画「フィールドオブドリームス」が御大の背中を押したようだ。あらためて父親の「声なき声」に想いを馳せる、そんな時間が御大に訪れたことが当時のエッセイやインタビューの御大の発言で窺える。
 そんな時間を経て、この作品は、父親の託した夢と遺志を中心に、自分の中の家族と故郷をあらためて描き直しているかのようだ。赤子を抱いて「故郷を開拓しろ」と名前を授ける父親から始まる家族のストーリー。ステージで御大は「母の手を握り去りゆく祖母のくだりは泣かないように」とMCで注意していた。確かに。しかし、落涙のポイントは全編に満ちているといっていい。特に最後に「昔その人が愛した場所に若い緑たちが目をふきはじめ」のところで、わかりあえなかった父の夢と足跡を静かに感じ取るところこそ最大の落涙ポイントか。そして父への思いは、やがて「清流」に受け継がれていく。
 そんな家族の「再結」は個人的でありながら、聴く者自身の家族の想い出や悔恨のような辛さとも重なり、ともにドラマを共有するかのように響く。だからこそこの唄は一層深く胸に響くのだと思う。

 最初にカセットで吉田町関係者に配られたバージョンは、翌年にCDになった時、ボーカルを差替えられている。微妙な違いだが、最初のボーカルは、感情を前に押し出すような、力の入ったタイトなボーカルだった。それだけ御大の思いが強かったということだろう。それに対して91年の45本(実際は43本)のツアー経た後に、録音されたCDのボーカルはどこまでもおだやかにしみじみと歌われている。下種勘だが、ツアーで繰り返し歌ううちに父との心の対話が出来、作品への思いがより高みの心境に至ったのではないかと思う。

 「日本の父よ、母よ、吉田町の唄」というのがこの作品の宣伝コピーだったが、まさに「町民の心の糧」どころか「すべての人の心の糧」となる作品だ。惜しむらくは、紅白歌合戦こそ、この唄のふさわしいお披露目の場所だったと思う。まさに日本中の老若男女がこの唄を聴く格好のチャンスだった。おそらく拓郎ファン以外の多くの日本人の心にもこの作品は届いたに違いない。山岡久乃さんは大好きだったが「ミツカン酢」だけじゃもったいなさすぎである。

 吉田町は統合されてしまったが、この作品の歌碑を残してくれた。この歌が歌い継がれ人々の心にどこまでも広がりますようにと祈らずにいられない。

2016.4/10