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私は誰でしょう

1985年
作詞 吉田拓郎 作曲 吉田拓郎
アルバム「俺が愛した馬鹿」

私も何でしょう

 1985年のつま恋を最後に吉田拓郎は引退する…本人や事務所がそう明言したわけではないが、かといってそれを打消しもしなかった。「これで最後だ」という重たい空気がもう濃霧のように立ち込めていた85年5月。アルバム「俺が愛した馬鹿」の一曲として発表された。それまで拓郎が"もう歌わない","これが最後"と発言したことはもちろん何度かあった。それは今にもつづく吉田拓郎の伝統芸能みたいなものだ。でもこの時は、単に拓郎の意思というだけでなく世の中の全体の流れのようなものがあった。極論すると世間的に吉田拓郎は遺物になり つつあるという大きな流れだ。終わるというより終わらざるえない、消えるというより消えてしまうというような空気だった。
 そして私のようなファンは"ファンなんか勝手にしろ"とヒールな発言をかまし、ひたすら恋愛に耽溺する自堕落な歌ばかりの拓郎に失望していた。それまでのように何が何でも辞めないでくれ!!というすがりつくような気持ちよりも、フェイドアウトを眺めるあきらめ感のような気分が強かった。拓郎もおそらく私のように音楽よりメッセージやイベントを拓郎に求める自立していないファンにウンザリしていたに違いない。若気の至りで拓郎には申し訳なかったと少し思うが決してこちらが一方的に謝罪することでもあるまい。ともかくこの悲しすぎるすれ違いの中で吉田拓郎を覆っていた重苦しい空気とこの作品は同期している気がしてならない。

  やめましょう 消えましょう
  眠りましょう こそこそと
  私は誰でしょう

  死にましょう 消えましょう
  かくれましょう こそこそと
  私は何でしょう

 なんなんだこりゃ。ジャケット内側の墓石の写真とも結びつき、すべてが消尽し抜け殻になって終わりゆくような詞。敵に果敢に立ち向かってゆく真剣白刃のような拓郎の姿はない。そして何がどうなろうと吉田拓郎を追いかけるぞという気概の自分もいなかった。

  この身一つで どこへ行く
  隣の女房は 夜逃げする
  近所の子供は 色気づき
  ベッドで息をのむ
 このアップテンポでタタミかけてくるサウンドは、現在あらためて聴くと目茶苦茶カッコイイ。やさぐれた孤独の影を背負って歌う拓郎の姿も魅力的なナンバーである。傑作の部類に入るかもしれないと今は思う。しかし1985年当時には、迷走という言葉しか浮かばなかった。隣の女房がどうした、近所の子供がどうした、それよりこのオレをどうしてくれるのだとタダレるような思いだった。しかしこの曲は軽快なテンポで走り去り、私がしみじみと感傷的になる暇すら残してくれなかった。そういう恨めしい思いは、まさに石原信一が「俺たちが愛した拓郎」に寄せた一言に凝縮されている。

  1985年7月28日夜明け、拓郎はものの見事にぼくや、ぼくらを切って捨てる。そして拓郎の生き様をこちらがかぶる。

 すべてはすれ違いの80年代前半の終着点だった。あれは何だっんだろうね。しかし吉田拓郎が音楽を捨てられるわけがない。そして、そんな私とて吉田拓郎のいない世界にいられるわけがない。すれ違いながらも残り火に身体を寄せ春を探すような冬の旅がそれから長く続くのであった。

 ところで、"コーヒーカップは今日もまたトマトジュースで溢れてる"とあるが吉田拓郎はトマトジュースが好きだったことが窺える。ロックウェルスタジオの近くのレストランでトマトジュースをわきに置いて詞を書いていたというファンの目撃談を読んだことがあるし、野菜不足になるといつも慌ててトマトジュースを飲むというラジオの発言などもあった。密かに拓バカにとってのおしゃれアイテムである。拓郎を思いながらトマトジュース飲み、トマトジュースを飲んでは拓郎を思う。なみなみとコーヒーカップに注ぐのだ。すれ違おうと何があろうと拓バカは一生治らないのだ。 その幸せを味わおう。

2020.4.18