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歌にはならないけれど

1977年
作詞 吉田拓郎 作曲 吉田拓郎
アルバム「大いなる人」

苦悶の円熟にいつか救われる日

 1977年11月発売のアルバム「大いなる人」の最後を飾る作品。フォーライフレコードの社長に就任して会社再建のために、ステージを離れ社長業に忙殺されボロボロになっていた頃だ。拓郎自身も「地味で評判が悪かったアルバム」と述懐する。その中でもこの曲はかなり地味な一曲かもれしない。この曲に限らずこのアルバムの曲はどれも今までの作品とは違うムーディで大人の「成熟」の香りがする。特にこの曲の鈴木茂のアレンジはゆったりと壮大な雰囲気を醸し出している。間奏の鈴木茂のギターは雄弁だが優しくどこか品がある。作品全体に今までのような攻撃性・能動性はなく、拓郎は「安らげ心を癒せohhhh」と、まどらかに歌い上げる。「円熟の癒し」だろうか。当時、これを聴いて富沢一誠が「拓郎は終わった」と評した一枚でもある。「終わったのはおまえだ」と言いたいがそれはまた別の話だ。
 この曲調の変化は、この時期の拓郎の精神状況を色濃く反映していると思う。この頃の社長業の辛さは、本人からも繰り替えし語られる。要は今でいうリストラ、給料の減額査定を行う厳しさに、加えて泉谷脱退、陽水逮捕という事件まで重なるという不幸の佃煮のような時期。いわゆる首切りはことのほか辛かったようだ。86年のインタビューで「切った。悲しいくらいに切った・・・その人は恨んでいるでしょう。その家族もみんな。」と告白する。また後に拓郎は自著「もういらない」で「・・・本当に大変だった。毎晩セックスしたかった。「悲しいっ」て言いながら。・・」なんつうか比喩はよくわからないが、どんだけ辛かったかは切実に伝わる。
 もうひとつは「年齢」ではないか。2012年初頭のラジオで「流星」の誕生秘話を語ったとき、79年33歳にして既に自分はもう若くはないという現実を意識して作ったと心情を吐露していた。敢えて、老け込んだ円熟した歌を作らなくてはいけないという使命感があったのではないかと推察する。今でこそ30歳過ぎでアイドルをしてることが不思議ではないが、当時の先例ない拓郎はとしては「そもそも音楽をやってていいのか」と自問するくらいの思いがあったという。
 その翌年79年篠島の第一ステージのラストで披露されたが、この時は苦悶の社長業からもそして年齢のプレッシャーからも解放されていたからか、歌声は原曲の癒し系とは違い、パワフルな若々しさがあり、曲の様相はずいぶん違っていた気がする。
いずれにしても、聴き手の自分がホントに疲れ果ててしまったとき、この歌の円熟な演奏と歌声に救われることとなろう。

2015.9/21