uramado-top

しのび逢い

1990年
作詞 吉田拓郎 作曲 吉田拓郎
アルバム「176.5」

距離感に惑う拓郎の愛のエッセンス

 例えば、拓郎ファンがマスターの店があったとして、身も心もボロボロになった客が訪れ「マスター、頼む。胸沁みるヤツを一曲」と頼んだとき、心あるマスターは、きっとこの曲をかけるはずだ。・・・どういう例えだ、そりゃ。
 つまりは地味ながらこれほど繊細で愛に満ちた歌はあるまい。 「吉田拓郎」といえば、どうしても世間的には「女癖の悪い人」というイメージがしぶとく残っている。そもそも「しのび逢い」というタイトルからして何かイケないものを連想させる。しかし、この作品からにじみ出てくるのは、とてつもなくピュアで繊細な心情の結晶だ。吉田拓郎の愛の歌のエッセンスがコンソメの素のように凝縮している。「女癖の悪い人」にこんな歌は作れまい・・たぶん。
 「ちょっと切ない感じの偶然が好ましいけれど」「君の最初の言葉を思うと怖い気もする」「会話が止まる一瞬こそが後悔の始まり」・・・ まるで純情な中学生のように、相手との距離をみつめ、逡巡する拓郎がいる。 「君の年月が僕と同じでないから困ってしまう」・・ どうしても距離を縮められない失望と限界という哀しみを見つめながらも、静かに相手を思いつづける。
 拓郎の歌はやさしく聴き手の心にしみいるようで実にうまい。拓郎も自分のボーカルの威力をちゃんとわかっていて、セクシー系ボーカルにきちんとギアを入れている。
 「風が吹いてきたようだ」「今夜の雨は少し人生を変えてくれるかも」・・・風が吹き、雨降る中に終電車を見送りながら切なくひとり佇んでいる姿が胸に迫る。
 コンピュータによる打ち込み三部作の最終作であるこのアルバム「176.5」から、アナログ盤は制作されず、CD盤に一本化されたため、収録時間の制約がゆるくなり、一曲一曲にゆったりと時間がとってある。
 そんな中でのジェイク・コンセプションのクラリネット/ソプラノサックスのたっぷりとしたイントロがたまらなく美しい。このジェイクのイントロだけで美しい短編映画を一本観たような気分にさせてくれる。
 打ち込みの機械的で無機質な感じが、かえって、拓郎の切ないボーカルとジェイクのクラリネットを際立たせている気さえする。長尺の詞のうえ、特にドラマチックなメロディー展開があるわけではないが決して飽きさせずに、まるでおだやかに流れていく川のようであり、いつまでもこの川の流れに身をまかせていたい・・そう思わせるような名曲だ。
 この曲をそっと聴かせてくれるようなマスターの店を待っているのだが。

2015.10/10