聖なる場所に祝福を
作詞 岡本おさみ 作曲 吉田拓郎
アルバム「月夜のカヌー」
誰か聖地を思わざる
2006年のつま恋のオーラスでこの作品が演奏された時、みなさんはどう思っただろうか。私は「えっ?、この曲なのか?」という意外な驚きと「そうだな、この曲はまさにそういう曲だよな」という妙な納得感が、行き来するような不思議な気分だった。
つま恋の前に拓郎はインタビューで「お客さんが全部を聴き終わって「人間なんて」が聴きたいと思ったらそれはオレの負けなんだよ」と語っていた。吉田拓郎としては、入魂の選曲だったのだということがわかる。その結果、勝ち負けを超えた素晴らしいイベントとなったことは私なんぞが言うまでもない。この歌を歌う拓郎の眼はうるんでいて、拓郎が好んで使っていた「豊かさ」という言葉が心にしみるようなフィナーレだった。生きててよかった、この日まで拓郎ファンでいて本当に良かったと心から思った。
後に「ぬるい連中だ」と甲斐よしひろが批判していたようだと聞いても不思議と怒りもわかず、「んじゃ オメーやってみろよ」と穏やかな気分でいられた>って怒ってるじゃん。
2003年のアルバム「月夜のカヌー」に収められたとき、どちらかというとメロディアスながら地味な一曲としてひっそりと佇んでいた。作詞の岡本おさみは「聖なる場所」として「つま恋」のことをどこまで意識したのだろうか。いずれにせよ間違いなく、この歌は、2006年9月23日のつま恋において魂と命を吹き込まれたのだと思う。それぞれの名場面が脳裏を駆け巡る。
つま恋は、吉田拓郎とそのファンにとって「聖地」である。世界の歴史をみると、「聖地」は、聖なる出来事が起こったというだけでは不十分だ。離れていても常に「聖地」を思い、巡礼する人々によって「聖地」となる。この点が足りずに「篠島」は、聖地たりえず遺跡となってしまった(あ、島が遺跡ということじゃなく、あのイベント会場が・・ということね)。というわけで、真剣に拓郎を愛した者同志、常に「聖地」を思おう。新幹線では必ず「聖地サイド」のシートに座って、つま恋の看板に祈りを捧げようではないか。 時々心配になるのは、つま恋を巡るミスチル桜井、南こうせつらの動きである。聖地つま恋の覇権を狙っているのではないか。その時は同志よ、戦いに立ち上がろう。世界の歴史上、ほとんどの戦争は「聖地」をめぐって起きているのもうなづける>おいおい
閑話休題・・・・以前から密かに考えているのだが、YAMAHAが経営に苦しくなったりした場合、敷地の一部を「つま恋霊園」として分譲してはどうか。御大のステージ形の墓碑を中心に、つま恋参加者に優先分譲。ひとつひとつの墓碑に、通し番号のかわりに「落陽」「イメージの詩」などの曲名が付される。人気曲は入札制だ。全曲揃ったところで第一期分譲は完売。墓参者がいるかぎり聖地は安泰だ。同志よ、命尽きてもつま恋でまた会おう。 この話をメールでラジオANNDXに出したら読んでもらえたのだが、実現の知らせはまだない。
2015.9/21
拓郎は、つま恋2006のラストナンバーをどうするか悩む中で「聖地」というコトバに惹かれてこの作品を選択したと語った(ラジオでナイト第62回ベストテイク)。岡本おさみさんは、この聖地はつま恋ではなく、自分が関わった演劇の楽日の打上げを聖なる場所として描いたということだった。
それは岡本さんが関わった新潟市の市民ミュージカル「シャンポーの森で眠る」のために制作された曲だった。小学生を含むアマチュアの市民たちが本格的なミュージカルを苦闘のすえ作り上げる。そのプロジェクトに音楽家の宮川彬良さんとともに岡本さんはかかわった。公演は成功を収め高い評価を受けその後何度も再演された。すべてをなしおえた会場での最終日の打上げの場所を「聖なる場所」と歌ったのだった。
原作は、フランスの作家ジョルジュ・サンド「愛の妖精 小さなファデット」。これはむかーし読んだか、あるいは映画で観たのかもしれない。岡本さんはその舞台こんな詞を書く。
明日の朝、神様がいらっしゃるよ
(作詞:岡本おさみ 作曲:宮川彬良)
明日の朝 神様がいらっしゃるよ
森の木立をぬけて注ぐ
光の道を通って
明日の朝 神様がいらっしゃるよ
遠い約束 果たすために
光の中へ もうすぐ
苦しみはもうない
悲しみはもうない
ロバを連れて、迎えに行こう
風が走る 草原に
風が走る 草原に
明日の朝 神様がいらっしゃるよ
愛を汚した 罪人たちに
剣の裁き下しに
明日の朝 神様がいらっしゃるよ
野いちご齧(かじ)る 唇で
歓びの歌 歌おう
明日の朝 神様がいらっしゃるよ
欅のような足で踏みしめ
あの丘の上に登ろう
嵐はもう来ない
吹雪ももう来ない
ロバを連れて、迎えに行こう
風が走る 草原に
風が走る 草原に
明日の朝 神様がいらっしゃるよ
涙の跡を癒すために
血が流れた草原に
血が流れた草原に
ロバを連れて、迎えに行こう
風が走る 草原に
そしてその10年後の2008年、岡本さんは、おなじ市民劇団の「大いなる遺産」という新しい舞台のために再び協力して詞を書いた。
「星の数ほどの天使たちが」
星の数ほどの天使たちが
こんな静かな夜には
星の数ほどの天使たちが
天空をとびかい
人のありさまをつぶさに見ては
救い主に告げ知らせている
あゝ気づきながら犯した罪と
気づかないまま犯した罪が
どうか 許されますように
どうか 許されますように
岡本さんは、地下水脈のようにどこかでつながった「魂の囚人たち」の詞だと語っていた。晩年に向う岡本おさみさんの境涯が覗けるかのようだ。「聖なる場所」は、まさに地下水脈のようにいろいろなものとつながっている。拓郎は「聖なる場所に祝福を」はつま恋のことを書いたんじゃないんだよ、と、いかにも、がっかりだろ、と言う感じでのたまったが、とんでもない。私ら詞の真実なんてわかりっこない。誤読や勘違いの思い込みを投げかけていくしかない。それらをも受け止めてくれる器が名曲というものではないか。そんな中で覗いた真実。岡本さんの地下水脈とつま恋と吉田拓郎とそして自分が繋がれている。それはそれは心の底から誇らしく嬉しいものだ。
2019.8/15