ローリング30
作詞 松本隆 作曲 吉田拓郎
アルバム「ローリング30」
転石の旗の下に
「ローリング30 動けない花になるな ローリング30 転がる石になれ」。御大の荒くれたボーカルでシャウトされるこの武骨な歌を聴いたとき「こりゃ来たぜ!!」と打ちのめされた。この作品は、LP2枚組+シングルという名曲の重箱弁当の蓋にしっかりと押された「封緘」みたいな・・ホラ、ヨーロッパとかであるじゃん、手紙に蝋を垂らして家紋みたいのでうやうやしくシールするやつ・・「封蝋」というらしい。そんな家紋スタンプのようなタイトルチューンだ。
77年に、傾いたフォーライフを立て直すべく社長業に就任以来、会社業務に忙殺され疲弊していた御大。そんな動けない御大を尻目に、アリス、さだまさし、松山千春、ツイストらが大活躍しニューミュージックは全盛を極め、南こうせつ、風等もちゃっかりとその旗手の中にいた。ひとり音楽の第一線から退いた感じになっていた御大は、「過去の人」「終わった人」の代名詞のようだった。音楽家としての自由な辣腕をふるえない御大も辛かったろうが、ファンも辛かった。吉田拓郎のファンというだけで、例えば高校のクラスでは、時代遅れと嗤われて嘲られて迫害を受けたものだ。
また人それぞれ年代・世代等個人差はあるにせよ、多くのファンが、これからどうやって生きてい行くか前途多難な人生の分岐点にあったと思う。当時のラジオでもそういうハガキが多かった気がする。就活、婚活ならぬ人活。
そういう厳しい逆風が佃煮のようになっている中で、この作品は、まるでドラを強く乱打するかのように心の中に響きわたった。
「ローリング30 動けない花になる ローリング30転がる石になれ」
「身体より老けた心など持つな」
「自分の殻を突き破り、愚かな笑顔など見せるな」
「心の汗も流さずに優しさなどお笑い種だ」
「三叉路があれば石ころの道よ 躓いた痛みバネにして歩け」
梶原一騎か星一徹が書いたのかと思うようなこの詞を松本隆が書いたと知ったときは驚いた。私などに言われたくないだろうが、やはり松本隆は言葉の才人である。
当時折しも「Don’t trust over the 30」(30歳以上を信じるな!)という過去の金言に対して、魅力的な30歳以上の大人たちを称して「ニューサーティ」という言葉がブームとなっていたところにも、ハマったようだった。今にして思うとウサンクサイブームだと思うが(汗)。ただ10代だった自分には「ニューサーティ」とか言われてもピンと来ず、世代論と関係なく、「吉田拓郎」を「吉田拓郎」だから信じていただけだ。
ともかく逆風の中を、転がりながら何の保証もない荒野に向ってゆく。そんな気骨を鼓舞してくれるような歌だった。
明けて79年。いよいよ御大の「偉大なる復活」ともいうべき、ライブやイベントがスタートすると、この作品はその前奏曲として使われた。リアルで聴いた方たちの多くは、このずっしりと重いドラムのビートとギターのイントロを聴くだけで、身も心も一気に戦闘状態になってしまうのではないか。まさに決死のライブの「錦の御旗」として刷り込まれた。特に間奏で客電が落ちて二番が始まるとバンドが出てきて・・という情景まで浮かんで来よう。
かくして私たちは、79年のステージを始めとした御大の素晴らしい活躍の雄姿を胸に刻むことになる。
このライブの偉業後、私の学校の雰囲気も変わった。流行のニューミュージックに浮かれて御大を馬鹿にしていた連中が、「吉田拓郎」と聞くとササッと道を開けてくれた。その中をこの「ローリング30」を御旗に凱旋する私・・・かなり話を盛ったが(笑)、そんな79年であった。
そんな時代性を離れても。この作品はすべての極北を行かんとする人々のよすがとなる一曲である。なんにしても心と身体どっちもわからないくらい老け込み、三叉路があるならバスを待とうという今、戒めのように時々聴きたい作品だ。
随分時間が経って2000年前後の頃、パーマ屋で読んだ「週刊女性」だか「女性自身」のインタビューで浅田美代子さんが、好きな歌は?と聞かれて「ローリング30」答えていて驚いた。「え、なんでこんな曲?とよく言われるんですが、私は好きなんです」とキッパリと言い切った。事情はわからぬが、思わぬところで息づいている作品であることも付言しておく。
2016.11/12