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男の交差点

1985年
作詞 吉田拓郎 作曲 加藤和彦
アルバム「俺が愛した馬鹿」

交差点は注意して行き過ぎよう

 1985年のアルバム「俺が愛した馬鹿」に所収だが、かなり地味な一曲かもしれない。この時代にコンピュータの打込みで作られているという先進性、拓郎が詞だけを提供して加藤和彦が曲を作っている異色性・・・・そういう特色にもかかわらずどうしようもなく地味な印象が否めない。おなじアルバムの「抱きたい」も、拓郎の詞、加藤和彦の作曲だが、こちらは、後に定番のナンバーに昇格した。
 この「男の交差点」は、主人公がバーでたまたま隣に座った男の魅力に惹かれ、意気投合するというドラマの一場面のような、拓郎にとっては珍しい詞だ。しかし、その隣の男が具体的にどう凄いのか、どんな魅力があるのかが、いまひとつ詞が抽象的に過ぎるからかインパクトが弱い。加藤和彦のヨーロッパ系のオシャレな憂鬱を感じさせるメロディーは出色だし、それを歌いこなす拓郎のボーカルにも陰影がありうまい。自作曲とは違った、ヨソイキの哀愁感がだっぷりと出ていてる。それだけに、詞の薄さが実にもったいない。
 同アルバムの「俺が愛した馬鹿」とこの「男の交差点」あたりのドラマ仕立ての詞にはたぶん原因がある。前年のシンプ・ジャーナルの岡本おさみとの対談で、拓郎は詩作について、岡本さんからいろいろと意見をされた。岡本さんいわく、自分はこうだ、自分はこう思っている、自分はこうして生きていく。・・・こういう詞ばかりだと「スピリットばかりで聴いてて辛い」。そのスピリットを誰かドラマの主人公に託して、そいつをいろんな状況になげこんで、そいつに何かを語らせればいい。そういうアドバイスを受けた詞作の試みがあったのではないかと推測する。その後、拓郎の手になるドラマチックな名詩は幾多もあるが、この詞については少し裏目に出たか。
 「男の交差点」というタイトルは、弘兼憲史の当時の人気劇画「人間交差点~ヒューマンスクランブル」からヒントを得ていることは間違いない。当時、弘兼憲史が「吉田拓郎がこの作品の大ファンだ」という話をラジオで自慢していたからだ。妻の柴門ふみともども何かとかかわりが深い。弘兼憲史は、妻柴門ふみが拓郎との対談する前に「拓郎って乱暴者で怖そうだが大丈夫か?」と言ったらしい。とはいえ弘兼憲史も原発推進PR漫画を描いてたり、バリバリの男尊女卑論者であるという、ある意味結構コワイ人らしい。まったく余計なお世話だが、拓郎はそういう男の交差点はさりげなく通過してほしいと思ったりする。
 「男らしく」あることに縛られず、臆病だったり、ひ弱だったり、情けなかったりする部分を大事にしている拓郎こそが魅力的だと個人的には思う。

2015.10/3