狼なんか怖くない
作詞 阿久悠 作曲 吉田拓郎 編曲 鈴木茂 唄 石野真子
シングル「狼なんか怖くない」
あなたが作曲者なら怖くない、大いなるアイドルの旅路
☆提供曲スター誕生
キャンディーズが引退した1978年春。近所のレコード店に見知らぬ女の子の等身大とおぼしきパネルがあった。ははあ新人歌手のデビューか。美人がどうかは微妙だが、トテモ愛くるしい笑顔で、デビュー曲「狼なんか怖くない」とあった。そしてそのタイトルの下の大きな文字のクレジットに息をのんだ。
作詞 阿久悠 作曲 吉田拓郎 編曲 鈴木茂
おおお、すげえ。「作曲 吉田拓郎 編曲 鈴木茂」の文字が輝きながら浮き上がって見えた。・・・それが石野真子とのファースト・コンタクトだった。まさに引退したキャンディーズと入れ替わるようなデビュー。本当はキャンディーズがバトンを渡したのはトライアングル(キャンディーズJr)という三人組だったのだが残念ながら浮ぶ瀬がなかった。
学校に行くと「ああ、石野真子ね。スタ誕で勝ち抜いてたの観てたよ。」と既に有名だった。かなりチカラの入ったプロモーションが展開されており「100万ドルの微笑」というキャッチコピーでテレビの露出も多かった。「他のアイドルと差別化するために吉田拓郎を起用した」と阿久悠も語る(「歌謡曲の時代」)。
ちょうど折も折、78年春から始まった吉田拓郎の深夜放送セイヤングでも早速紹介されたしゲストにも招かれた。
それまでのいわゆる気位の高い美少女系アイドルのスタンダードとは少し異なり、なんというかいろんな意味で微妙な境界域にあったアイドルだったと思う。
拓郎がデビュー前の写真を見て「女子プロレスに行ったほうかいいんじゃないか」と驚いたというのも有名なハナシだ。八重歯も当時としては鮮烈な印象だった。当時の学校でも、ものすげーカワイイという絶賛派とどこがカワイイのかわからないという否定派が結構拮抗していた。
拓郎が立会ったデビュー曲レコーディング中にスタジオで爆睡してしまったなどエピソードに事欠かない。しかし、そういう屈託のない強靭な愛くるしさがあった。ツッコミどころ満載だけれど、そこがまた可愛いという感じがあり、自分も個人的にはかなり惹かれてゆくのだった。
拓郎も、写真で観た時と違って実際に石野真子に会ってみるとその可愛さにヤられてしまったと述懐していた。境界域というのは、え、この娘のことオレは本当に好きなの?と自分で認めるまで少し時間がかかるが、それを超えると、もう何もかもがメチャクチャ愛おしくなる深みにハマる。そんなところがある。自分もそうだった。セイヤングにゲストに招いた時は、拓郎は、すでにデレデレ、ウキウキで、八重歯がチャームポイントであった石野真子に対して「フキを食べるときスジが歯に挟まったりして困りませんか?」と尋ねて困らせていた。・・・それにしても拓郎どんだけフキが好きなんだよ。
☆吉田拓郎の元祖ハロープロジェクト
実際に「狼なんか怖くない」に続く第2弾シングル「私の首領」、ファーストアルバム「微笑み」の収録曲も「詩生活」「いたずら」「ひとり娘」そして拓郎のタンタタタターンのデモテープでメロ先と発覚した「ジーパン三銃士」。さらには、セカンドアルバムに収録され、もとはデビュー曲候補だったという「ぽろぽろと」と全7曲が書き下ろされている。こんなにたくさんの曲をいつの間に書いていたんだ社長。吉田拓郎は単なる作曲者だけでなく、プロジェクトの枢要の位置づけであったことを感じる。こういうプロジェクトの関わりは、拓郎には後にも先にもこの時以外ない。その後になって、いろいろでてくるアイドルプロジェクト系のまさにさきがけである。
☆それは先生~
「ハイ!この曲も吉田拓郎先生が書いてくださいました。」と石野真子はテレビでもどこでもハキハキと言ってくれるのが嬉しかった。いつもアイドルからは「拓郎さん」と呼ばれてしまうと嘆いている拓郎。「先生」をつけて呼んでくれた数少ないアイドルではないか。
☆絶対聴いてないだろ
しかも気配りも凄かった。忘れられないのは、デビュー当時の雑誌のインタビューで”マコちゃんのお部屋訪問”みたいなグラビア特集があった。いかにも女の子っぽいお部屋にわざとらしく置いてある当時の拓郎の最新アルバム“大いなる人”(爆)。インタビューでは「今マコが一番気に入っているレコードは“大いなる人”」って答えていた。感謝すべき拓郎ファンの私ですら、”アイドルがそんなもん聴くわけねぇだろぉ!”と魂の底からツッコンだものだ。どうなんでしょうか、"カンパリソーダ"とかを聴いて、ああシブいわ、切ないわぁ、と16歳の石野真子が感じていたのだろうか。そうは思えない。
☆よくぞ言った!!
しかし、決して吉田拓郎に忖度ばかりしていたわけではない。拓郎のセイヤングに石野真子がゲスト出演した時に発覚したのだが、歌番組のリハーサル中に音程を間違えた石野真子は
「だってぇ、あの人の歌って歌いにくいんですものぉっ!」
とスタッフに逆ギレしたらしい。ああ、それを言ってしまわれたか。しかもそのハナシが巡りめぐって拓郎の耳にも入っていて、拓郎は「真子ちゃん、聞いたよ。そんなこと言ったんだって?聞いてるよ。」と問い詰めた。するとマコちゃんは小賢しい言い訳など一切せずに「でへへへ」といたずらが見つかった子どもみたいに笑ったのだ。その天真爛漫なリアクションのその瞬間に・・・私は落ちたな。
その後、私はもう高校生の煩悩の命ずるままレコードを買い、映画館にも通った(高橋三千綱の「九月の空」だったか)。そういう意味では私にとっての最後のアイドルだったのだが、そんなことはどうでもいい。
☆ この素晴らしき作品に
さて、ここからが本題だが”歌いにくい”といわれた吉田拓郎のメロディーはどんなもんだったのか。
まず詞先で阿久悠の歌詞ありき。「少女よ自衛せよ!」というテーマでこの詞を書いたというが(「歌謡曲の時代」)、フツーの人だったらジジイがする説教みたいな詞になるところを、少女のとキュートさをみずみずしく描いてみせて、だからこそ、そこから溢れ出てくる危うさが心配でたまらない、そんなふうに聴く人の心を震わせる詩作。失礼ながら、さすが阿久先生、あのゴツイ顔でなんと可憐な歌詞を書かれるのだろうか。イングリッド・バーグマンまで登場する。
そして、その言葉のひとつひとつが、満面の笑顔でウキウキと飛び跳ねながらホップするようなメロディー。いいねぇ。そしてホップしながらそのまま空に登ってゆくような伸びやかなメロディー展開。そして、聴き手の心をどこまでも追いかけてくるようなサビの印象的なリフレイン。ああ、これはもう名曲ばい。天才だ…と叫びたくなる。拓郎は”やさしい悪魔”のメロディーを評して「こんなメロディを日本人が作れるかっ!」と豪語したが(ラジオでナイト第92回)、こっちのメロディーもまったくそうだ。実際に大ヒットしたし、拓郎ファンに限らずこのメロディーの評判も高かった。
ところで4曲目のシングルで「日曜日はストレンジャー」という作品を筒美京平が提供するのだが、まったくの邪推だが、この曲は、完全に"狼なんか怖くない"を意識して挑んできている感じがする。天才は天才を知る。イントロなんてフォートップスだし筒美先生のメラメラと燃ゆる炎の対抗心を感じる。気のせいだったらすまんが。
でさ、忘れてはいけない、間奏に切り込んでくる鈴木茂先生のギターフレーズがまたカッチョイイんだよ。ポップスサウンドもアレンジもすんばらしい。
☆ 歌唱力再考と絶賛
そうなるとこの名曲を”歌いにくい歌”と捨てセリフを吐いた石野真子は歌唱力が乏しかったように思うかもしれないが決したそうではない。確かに石野真子はその可愛さばかりがクローズアップされ、歌唱力で評価されていたという印象はない。
しかし、あらためてこの”狼なんか怖くない”を聴いてみると実に震撼とさせられる。・・・うまい。この瑞々しくも危うい歌詞を体解した歌い方、そしてポップなメロディーを実に情感たっぶりに、達者に歌いこなしていることに驚く。
スタジオで寝てしまうような、まだ西も東もわからない少女のデビュー曲だ。しかし、そのボーカルは清々しく、可愛らしいだけではなく、強靭で盤石の安定感がある。まさに全力歌唱である。ああ、石野真子って、すげー歌がうまいなぁと今さらながら嘆息する。今頃になって実にすまんこってす。
アイドルであるがゆえに、どうしてもメインとなるのは、ビジュアルとしての石野真子であり、作品はそのアクセサリーとしか見られていないことが多いが、超絶素晴らしい詞とメロディーと歌唱がよりあって見事な音楽作品が出来上がっていたのだ。
☆それからの石野真子
さて、それからアイドルとして君臨したことは周知のとおりだ。その頃、"吉田拓郎が提供したアイドルは引退する"という有名なジンクスがあった、セイヤングの最終回で「石野真子ちゃんは元気だし、そのジンクスは当たらなかったなぁ、おかしいな(笑)」と拓郎は笑っていた。その数か月後にとんでもない事実が発覚する。ジンクスは厳然と生きていたのだった、ああ涙のセレナーデ。・・・気が付くと、拓郎がハワイの教会で媒酌人を勤めるワイドショーのニュースを茫然と眺めている自分がいた。・・・なんてこったい。お幸せにという気持ちが10%で、90%は”こんなことなら篠島で野次り倒しておくんだった”という悔恨であった。おい。
しかもその華やかなりし時はそう長くは続かない。急転直下、たちまたち悲しい事態になって、家を飛び出した石野真子が今度は拓郎の自宅に匿われるというワイドショーのニュースに胸を痛めるのであった。
その後の復帰、そして広岡"太郎の青春"瞬との新たな愛とそしてまた別れ・・その後も彼女を襲う試練。いつしか私も心離れて、あまり気にも留めなくなっていった。誠に申し訳ない。苦境の時に応援しなかった私は石野真子ファンだったと過去形ですら名乗る資格はない。まるで厳しい奔流に打ちのめされ傷つきながら遡る"虹の魚"のような石野真子を遠くから眺めていただけだ。
☆大いなる名曲の旗のもとに
そして幾星霜を経た2017年11月。作詞家阿久悠のレスペクトコンサートで、私は石野真子とはからずも再会した。いや、コンサートで歌うのを観ただけなんだけどさ。
幾星霜と風雪を超えて、エレガントな大人の美しさも加わった石野真子は、フォーラムのステージで、なんと”狼なんか怖くない”と”日曜日はストレンジャー”の2曲を熱唱してくれた。このたまらない選曲。"嵐の中にも懐かしい歌が聴こえてくるだろう"という感じで歳月をたたえながらも歳月に負けない美しさがあった。ハラショ。どれだけ私の魂が揺れたか、もう、としまえんのパイレーツくらいグイングイン揺れまくった。石野真子は石野真子のまま、芸能界を川の流れを遡るようにチカラ強く泳ぎ今日に至ったのだ。思わず頭をよぎる"いずれの道も避けるな いつでも自分を確かめろ 大いなる人生手助け無用"‥‥もしかすると本当に石野真子は"大いなる人"を聴きこんでいたのではないか。…とすら思った。
ステージに映された阿久悠の縦書きの詞を読みながら、作品としてあらためて味わう"狼なんか怖くない"。居並ぶ阿久悠の名曲たちと肩を並べても遜色はない。ポップス史上に残る堂々たるスタンダードだ。このメロディーが、石野真子を石野真子とたらしめ、その石野真子の歌唱がこのすんばらしいメロディーの美しさを世に顕揚している。
あの日のたかが高校生の煩悩が、実は素晴らしい音楽的クオリティに裏打ちされていたことを知ってあらためて誇らしかった。
この日の主役であった阿久悠はかつて、この曲を「時代の壁に貼っておきたい名曲」と評してくれた(確かに読んだのだが、出典は探索中)。御意。ということで阿久さん、インターネットの片隅の吹けば飛ぶよなサイトですけれど、ここに不肖ワタクシもしっかり貼っておきたいと思うのです。
2019.8.30