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想ひ出

1992年
作詞 吉田拓郎 作曲 吉田拓郎
アルバム「吉田町の唄」

愛の無常について

 1992年発表のアルバム「吉田町の唄」の一曲。このアルバムは拓郎本人も自信作と語るように「捨て曲」というか「トホホな曲」が一曲もない、名曲の宝庫だと思う。名曲がひしめきあうこのアルバムの中では、この曲は地味な作品としてスルーされがちかもしれない。
 拓郎自作の詞になるこの「想ひ出」は、少しヒネって「ひ」という旧仮名使いになっている。すべてのものが移ろい、想い出になって消えていく。この世の「無常」について、拓郎の言葉で描かれ歌われている。「あの日僕らはどこに居て、何を見たんだろう~何もかもが遠い記憶になって消えていく」・・・・これは拓郎版の「無常といふこと」なのか。
 どこかに90年代を迎えて孤独に佇立する拓郎の姿がうっすらと滲む。1985年のつま恋で過去にケジメをつけた拓郎は、長い休暇のあと1988年から新たな気分で再スタートする。しかし、なかなかゆくえが定まらない。「さまよっているんだよね、この頃は・・」と拓郎は最近になってこの頃の自分の姿をしみじみと述懐していた。
 この頃のインタビューで、「85年にケジメをつけた時、あの時自分はどんな気分で、どうやって生きていこうと考えていたんだろう、必死で思い出そうとするんだけど、どうしても思い出せないんだよ。」と苦笑していた。歌詞のなかの「どんな気分でいたのかも忘れたさ」というフレーズはそのことだろうか。過去と未来の孤独な闇をさまようかのようだ。
 しかし、拓郎は、その孤独と迷いの「無常」に悩むのではなく、自分の懐に深く受け入れて作品に昇華しているところがなんとも素敵だ。哀愁を含んだメロディーなるもビートが効いていて爽快でかっこいい。演奏にもよく練られていて深い情感がある。細かい仕事だなというのは素人にもわかる。拓郎は、当時のアルバムのプロモーション・インタビューで、音楽的な「引き出し」の多い石川鷹彦と二人でスタジオで丹念に音を作り上げた喜びと自信とを語っていた。心情は、さまよっているのかもしれないが、確かな「音楽」を残してくれている。やはり天性の音楽家だ。
 そしてそのインタビューで「このアルバムが、どう扱われて、どう捨てられるか、それはもうどうでもいい」と結んだ。「捨てられる」という言葉がショックで忘れられない。そこには、さまよえる拓郎の悲愁も感じるが、過去も未来もたとえ「無常」の世界であっても、自分がスタジオで作る音楽にしか答えはないという強い覚悟を感じる。同時に、おまえたちはコレを音楽としてどう聴くのか?とボールを投げ返されている気がする。地味ながら、このアルバム「吉田町の唄」は、拓郎から真剣に放られた一球だと思うのだ。

2015.10/3