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兄ちゃんが赤くなった

1970年
作詞 吉田拓郎 作曲 吉田拓郎
アルバム「青春の詩」

逆説でしか語れないかくも深き情愛

 デビューアルバム「青春の詩」に収められているが、まだ十代の頃に作られた作品だという。拓郎は、兄である哲朗氏を歌にしようと作り始めたら、実在の兄とは正反対になってしまったと述懐する。純情実直で女性にウブな歌の中の兄の姿と違って、実際の兄は、東京でジャズピアニストになり、いつも新しい恋人を連れて広島に帰ってくる、まぁ今で言えばチャラ男だろうか。  拓郎が、兄について語るときはかなり手キビシイ。もともと14歳年上ということで兄弟という実感に薄く、実家や実母をあまり省みない兄の放蕩ぶりを容赦しない。後年、拓郎のお母さんへの仕送りをちょろまかしていたり、寝たきりになった母への無責任な行動ぶりに怒った拓郎が何度かぶっ飛ばしたなどという、困ったエピソードばかりである。
 特に立身出世主義の厳格な父親とその過剰な期待を重荷とする兄とはことごとく衝突していた様子も語られていたが、拓郎にとっては、どちらも「根無し草」で、家庭人としても男としても尊敬できない二人であると断ずる。
 このような男たちをアテにせず自立する母と姉によって「吉田家」は維持され、拓郎は母と姉の苦労を目にしながら、その庇護の中で育つのだった。・・・って何、他人様の家庭を語っているのだ。

 しかし、父と兄に対する悪態は、本人のテレ隠しや対メディアに向けたある種のサービス演出ではあることは間違いないと思う。本人も語るように「東京で独学でピアノを学び、ビアニストとして女の人に恵まれている兄」の音楽家としての姿が、今の「吉田拓郎」の誕生の大きなきっかけになっていることは言うまでもない。「兄の進む道はたくましそうで憧れのように眩しく映る」と名曲「吉田町の唄」で歌われるとおりである。
 また2002年ころに兄哲朗氏が重篤な病気に倒れた時、拓郎は自身のブログに「身内が不治の病になったので仕事をしばらく休みます」と書き込んだこともあった。狼狽したようなつぶやきに拓郎の兄への本当の心情をうかがい知ることができる。
 そして2010年の「すばる」での重松清のインタビューは、拓郎本人の口から家族の系譜と思いを語らせた。もちろん身勝手な父と兄の奔放なエピソードの披露とともに、厳しく対立しながらも実は兄が父親のことをとても慕っていた話が語られる。父と兄が、戦時中に大陸で共有した生活体験から、二人がともに抱いていたであろう放浪への憧れにも思いを馳せる。
 さらに後に兄哲朗の子は京都大学に入り、立身出世の父の夢が静かに孫に継がれて、吉田家の物語が今も続いていることを語る。「愛憎」というロープで結ばれた家族への拓郎の深い思いが窺い知れる貴重なインタビューだ。
 映画「ゴッドファーザーpartⅡ」のラストで、孤高のマイケルが、在りし日の兄弟家族が揃って、兄弟げんかをしながら父親の帰りを待つ食卓を回想する、あのシーンを思う。
 そんなこんなの話しをループして、あらためてこの歌を聴き直す。実在の兄とは正反対というが、この歌に託されている気持ち、この歌の行間から滲み出てくる兄への情感こそ、この歌の本質ではないだろうか。

2015.9/26