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夏が見えれば

1985年
作詞 吉田拓郎 作曲 吉田拓郎
シングル「ふざけんなよ」/アルバム「俺が愛した馬鹿」

私が切って捨てられる夏に

 「夏が見えたら 心の窓を開けて緑の空気を胸いっぱい吸い込むよ」…いきなり拓郎の屈託のないボーカルで清々しく始まるこの作品は、甘さと爽やかさに満ちている。新緑の青が目に浮かび、そこから覗く夏の予感が生き生きと伝わってくる。うーん見事なラブソングばい。
・・・しかし、しかしだ。この作品が発表された1985年4月にリアルタイムで聴いた時は、そうは素直に喜べなかった。その当時に「夏」といえば、まさに3か月後に控えた「1985年のつま恋」のこと。その年の夏のつま恋で吉田拓郎が「引退する」という情報というか風説は既に広がっいた。決意を結んだような拓郎の姿には、パワフルに活動していてもどこか重苦しい空気がたちこめているようだった。「1985年夏、吉田拓郎は見事に僕たちを切って捨てる。」という石原信一の当時の文章があったが、そのとおり。ああ、拓郎無くして自分はこれからどう生きて行ったらいいのだという深い闇の中を彷徨うの私であった。
  しかし、そんなことにおかまいなしに拓郎は、のびやかに歌うのだ。

「素直に求めよう 心をつなごう」
「夏が見えれば あなたをこの腕で今一度抱きしめて」
「もう振り向かないで 高く抱き上げたいよ」

 夏になったらすべての呪縛から解き放たれて、愛するあなたと過ごす希望を歌う。この、のびやかな求愛が、置いていかれるファンにとっては辛かった。御大には、そんなつもりはなかったのだろうが、そもそもファンとはこういう勝手な思い込みで勝手に落ち込むことができる人のことをいうのだ。  そう言いつつ、愛するあなたとはやはり森下愛子のことなのか。いや、「もう一度この僕に 時間をくれないか」というのは浅田美代子との復縁ではないか。などと当時の拓バカの間で議論になったこともあった。ご本人や関係者様にとっては大きなお世話だ。しかしファンというものは大きなお世話に命をかける人のことをいうのだ。
 秀逸なラブソングでありながら、「拓郎に置き去りにされるファンの悲愁」という記憶と結びついてしまうのだ。私だけか。いや私だけだからこそ私にとっては大問題なのだ。いみふ。というわけでこの作品には禊(みそぎ)が必要だ。簡単なことだ。春先にライブで「実は今年の夏、またつま恋で歌います。夏にみなさんと会えればということで、この歌を歌います」とMCをふってこの歌を歌ってくれればいい。その瞬間にこの曲は、心に残る神曲となろう。>どこが簡単なんだよ。
 ファンとは常に勝手な妄想を手放さない人のことを言うのだ。

2015.11/29