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マンボウ

1996年
作詞 岡本おさみ 作曲 吉田拓郎
アルバム「感度良好波高し」

君たちは魚だⅡ

 「マンボウ」・・・初めて聴いた時は思った。なんじゃ、これは。今でいえばギョギョギョ!だろうか。ヒーローでありスターであるあなたが、なぜマンボウなんて魚のこと歌うのか。で私らもなんで聴かにゃならんのだ。もっとカッチョエエ、ロックなりバラードを聴かせてくれよぉ。こんな風に拓郎ファンでいるということは、名曲名演に打ち震える瞬間ばかりでなく、時に、こういうトホホな脱力感におそわれることも覚悟しなくてはならない。
 魚をテーマにした作品として思いつくのは松本隆作詞の「虹の魚」だ。このニジマスは、身重の体で激流を遡っていく。打ちのめされ、傷ついても、息切れても泳ぎ続ける。しかし「マンボウ」は、海の中を漂い、卵を食べられようと下半身が無くなろうと自然の摂理を受け入れ努力も向上心のカケラも見せない。人に捉えられ水槽の中で見世物になっても同じで、淡々としたまま悲しみも怒りも見せない。
 このコントラスト。聴くものが勇気づけられる「虹の魚」に対し、「マンボウ」は、聴く者に、だから何なんだと心の底から思わせるだけだ。そのせいか、「虹の魚」は、ライブでも多演されついに2007年にはアンコールのオーラスと言う栄光の座を手にする。まさに出世魚だ。これに対して、マンボウはライブで歌われず、どっかの岸辺に打ち上げられたまま放置されているかのようだ。
 しかし、不思議だ。アルバム「感度良好波高し」は、ロスアンジェルスで名うてのミュージシャンたちとのセッションで作り上げられたが、この「マンボウ」だけがロスと関係ないコンピュータ打ち込みだ。しかも、シリアスな作品が多いかなで、この作品だけが、なんとも牧歌的で浮いている。なんでこのアルバムに入れたのか。疑問は尽きない。以下は当然のごとく思い込みと下種勘だ。
 歌の一番最後にマンボウは水族館の観客にむかってボソっと呟く。「そういう君は安らぎに縁がないね」。 この作品を思い込みを極力捨てて聴くと、どこか温かな気持ちよさのようなものを感じることに気づく。心地よく刻まれていくリズムに、悠久な流れにおだやかに身を任せているような演奏。その穏やか流れを、音符という船にたくさんの言葉を詰め込みながら漂うような拓郎の歌唱。ファンには懐かしく心に響く。そうだ、こんな拓郎の作品の雰囲気が、こんな拓郎の唄いっぷりが好きだった。吉田拓郎の基本をやわらかく提示してくれるかのようだ。
 このアルバム自体を太平洋または水族館として、他のシリアスな作品たちを魚たちとすると、この作品自体が、まさに「マンボウ」だ。自然の摂理に逆らわず、進化とも縁がない。人の目にさらされてもストレスすらも感じずに、たゆとうように生きている。だからこそ得られる安らぎ。 というわけでは、このアルバムに入れ込んだ一点の「安らぎ」なのではないか。
 次の作品は?、ヒットは?、作品の意味は?、名曲か駄曲か? 、戦線恐々とあるいは鵜の目鷹の目で作品を待つファンに対して、この作品は、そういう君らに「安らぎ」はあるのかい?と問いかけているかのような気がしてくる。もっというと音楽を聴けども心豊かになれない人への小さな避難場所とでもいうべきものか。これが御大が「マンボウ」を入れた意味ではないか。

・・・・・・・わかっている。それこそファンの思い込みであることも。
「瀬尾ちゃん、9曲じゃなんか足りないし、もう一曲、あ、この岡本さんのヘンテコな歌、打ち込みで入れとけば10曲になるじゃない」 というのが実態に近いのではないかということも。

2015.12/12