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まだ見ぬ朝

1994年
作詞 吉田拓郎 作曲 吉田拓郎
シングル「まだ見ぬ朝」/アルバム「LIFE」

あの場所で何度でも逢いましょう

「晩餐」風に言えば、♪僕らは朝食時だったぁぁ、つけっ放しのテレビ東京にソイツは突然現れてきてぇぇ・・・。ゆっくり歩く大きなメガネの男性の横顔・・・似てる。♪まだ見ぬ朝が来る・・・あの場所でもう一度逢いたいネ・・新曲だがこの歌声に間違いない。最後に聴きなれたあの声がつぶやく「オートレースに行こう」・・・がぁぁ本人出演CMじゃん。予備情報もなくこの突然遭遇した時の衝撃が忘れられない。ほぼ同時期セルラーのCMも関西で流れていたことを知るが、観る手立てはなかった。
 93,94年は、厳しかった。アルバムもコンサートツアーもなく、唯一のレギュラー・テレビ「地球ZIGZAG」も終了。世間から吉田拓郎が消えゆくような、そんな寒々とした時期に現れたCMと新曲だった。
 しかし、そんな時にもかかわらず、この作品全体に漲る「清々しさ」がたまらない。何度も言うように、腰を痛め音楽活動も制約され、静かに世間からフェイドアウトするような冬の時代。そんな苦境にもかかわらず、この伸びやかな唄はなんだろう。「等身大」という言葉が浮かぶ  「等身大」であることは、「176.5」なんてアルバムを創るほど、当時の拓郎には切実なテーマだった。「等身大」とは何かなんて、たぶん本人もよくはわかっていなかったのではないか。それは世間やファンの過剰なイメージと期待の重圧との果てしない闘いという背景があったのだと思う。しかし、この作品は心の底から「等身大」という気がする。余計な力が抜け、派手な飾りも喝采もなく、静かにひたすら新しい朝を待つ一人の男性の歌が胸を打つ。
 「等身大」が、世間やファンの抱く過剰なイメージからの自由であるとすれば、世間が拓郎を忘れつつあった状況は、世間の重圧が軽くなる分、皮肉にも、本人はとてもラクになったところがあったのでないか。ファンや営業サイドは辛かったけれど。それがこの作品では、はからずも御大が望んでいた「等身大」が実現してしまった、そんなことから降ってきた清々しさのような気もする。
 デモテープから丁寧に紡がれたシンプルだが清々しい音楽。この手作り感も大きい。後年のアルバム「AGAIN」でのセルフカバーは、凝りに凝っていて音楽的なクオリティは高いのかもしれないが、どうもその等身大の「清々しさ」を感じない。

 「あの場所でもう一度逢いたいね 新しい関係で」・・CM的には、オートレース場にかけたのだろうが、この頃、「50歳になったら「つま恋」をやる」というのが、本人の公言する目標だった。つま恋で新しい関係でまた会おうという意味もあったのかもしれない。50歳のつま恋は実現しなかったが、吉田拓郎の50歳の越え方は、もっともっとドラマチックだった。そして、その先に60歳の素晴らしいつま恋があった。
 作品は、等身大の男が清々しく歩く、あのCM映像ともシンクロする。・・ただ第二弾のCM映像は、御大がバイクの整備工場で技師の説明を受けているもので・・社会科見学かアナタは・・というツマンナイものになってて残念だったが。ともかく作品は、今聴いても清々しい風が心に吹くかのようだ。

2015.10/11