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まァ取り敢えず

1996年
作詞 阿木耀子 作曲 吉田拓郎
アルバム「感度良好波高し」/DVD「1996年、秋」」

歌うのが億劫な神様に

 「・・・さて、もうじき出番です。さて、もう一度歌わなきゃ。」という特異なサビからリアルな拓郎の姿が浮かんでくる、この作品。
 それにしても、ファンはさすがに慣れてしまったが、「歌うのが億劫だ」「歌うのが面倒だ」と公言して憚らない歌手って他にいるのだろうか?
 どんな歌手であれ歌手である以上は、常に「歌う喜び」「歌う使命」とともにあるのがフツーな気がする。それは、もし消防士が「火を消すのが億劫だ」、医師が「今日は治療する気分じゃない」と言った場合を想像すればよくわかる。にもかかわらず御大は、へーきで「歌うのが億劫だ」、「億劫」なのに「歌ってあげた」と観客に向かって放言する・・よく考えるとトンデモない歌手だ。
 さすが天才・阿木耀子、よくぞ御大のこのアメイジングな本質を拾って、詞にしたものだ。

 アルバム「感度良好波高し」のラストに収められた作品であり、前作アルバム「ロングタイムノーシー」の一曲目に収められた阿木の作品「とんとご無沙汰」と表裏のような趣がある。そう思うと外人バンドとの共作は、「とんとご無沙汰」で始まり、「まァ取り敢えず」で締めくくられていることになり面白い。
 この「まァ取り敢えず」も、レコーディングの時の外人バンドとのツアー「感度良好ナイト」でワン・ツアー演奏され、それ以来、久しくなりを潜めていた。

 それが、2007年Country Tour 初日、越谷市民会館のオープニングでテープで流されて驚いたものだ。結果的には、この時ただ一度流れただけだったが、「歌うのが億劫だ」という歌をオープニングに流した時点で、このツアーの行く末が運命づけられていたと言えなくもない。というか、拓郎の何かのマイナス・サインだったのだろうか。

 しかし、自分で延々と語っておいて何だが、この歌の本質は、そこではない。やわらかな言葉でつづられているが、この詞は拓郎の音楽と生き方の本質を描き出しているところに意味がある。
 「CDはリズムに騙される」「ロックほどヤワじゃなく」「レゲエほど重くなく」「ラップほど軽くなく」・・というレトリックで、人を信じ愛しはじめている自分を語っている。
 つまり、御大の唄は、リズムで聴き手を騙したりせず、ヤワなロックでもなく、重苦しいレゲエでもなく、もちろん軽薄なラップとも違う・・・そんな繊細で強靭な音楽である。その音楽で、人を信じ、愛する営みを静かに歌わんとする御大の姿が力を抜いて描かれている。

 歌うのが億劫だ面倒だと放言するトンデモない歌手にもかかわらず、私たちファンがいかに彼を愛し、そして誇りに思っているか・・・そんな御大の魅力を、さりげなく、しかし、しっかりと立体的に切り取っている阿木耀子の慧眼にひれ伏すしかない。 「阿木耀子にはすべてお見通しだ」と語った拓郎の言葉も思い出す。

2015.8/21