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今日までそして明日から

1970年
  作詞 吉田拓郎 作曲 吉田拓郎
シングル「今日までそして明日から」/アルバム「青春の詩」「TAKURO TOUR1979」「感度良好波高し」「豊かなる一日」「18時開演」 DVD「吉田拓郎コンサートインつま恋」「吉田拓郎90」「感度良好ナイトin武道館」「吉田拓郎 101st Live」「TAKURO & his BIG GROUP with SEO 2005 」「Forever Young 吉田拓郎・かぐや姫 Concert in つま恋 2006」DVD/CD「TAKURO YOSHIDA LIVE 2014」

I live on,carry on,on the road

 デビューアルバム「青春の詩」以来、まさに今日まで吉田拓郎とそのファンに添い続けてきた定番曲である。既に半世紀=50年が過ぎようとしている。ファンのみならず多くの人に広く愛されてきたこの曲は吉田拓郎の代表作のひとつでもある。
 この歌に人生まで変えられた人というも多い。このサイトでは宿敵とされる音楽評論家富澤一誠だが、若い頃ラジオから流れてきたこの歌に衝撃を受けて東京大学を中退し音楽ライターの道に進んだという。すばらしい。だが残念ながらその後ダークサイドに落ちてしまったというのが私の評価である。若き小田和正もこの歌を聴き、凄い歌だと震撼した想い出を語っている。また桑田佳祐は、Act Against AIDS '00 桑田佳祐が選ぶ20世紀ベストソングコンサートの第1曲をこの曲で飾った。さらに広島県立皆実高校の後輩奥田民生によるカバーなど枚挙に暇がない。

 音楽の世界に限らない。メディアでは最近はサントリーBOSSのCMでの使用が記憶に新しいが、映画での活躍がこれまた凄かった。「百万人の大合唱」(72)では、劇中"吉田たくろうとフォークを歌おう"という催しに若き拓郎本人が出演し歌う。その会場の外では若林豪が殴られて出血しているというシュールな場面だった。次に同年、家出少女の鮮烈なロードムービー「旅の重さ」(72)の主題歌にも抜擢された。ママ、驚かないでね"今日までそして明日"からって72年に二度も映画に使われたのよ。そしてアニメの名作「クレヨンしんちゃんのモーレツ大人帝国の逆襲」(2001)のラストシーンに流れて吉田拓郎なんて知らない世の老若男女たちを泣かせることとなった。トドメの「恋妻家宮本」(2017)では、劇中はもとより最後のエンドロールで出演者のカーテンコールの大合唱に驚いた。個人的には中学の教室を思い出して涙ぐんでしまった。このシーンは原作者重松清の暗躍に違いないと睨んでいる。かくして時代を超えたスタンダードとして今の世にまで刻まれている。

   何より吉田拓郎の音楽活動の大切な舞台で常にこの歌は一緒だった。それは当然、ファンにとっても同じだ。そもそもはデビュー間もない1970年小室等のコンサートのゲスト出演の際に披露されたのが初演かもしれないが、このころはまだ作品としては後半部分が未完成だった。
 1973年6月、金沢事件で逮捕・勾留され、その後不起訴で釈放された直後に敢行された「魔の神田共立講堂」での劇的な復活ライブ。ラジオの録音を聴いただけだが、それでも鳥肌が立つ。オープニングで、柳田ヒロのピアノをバックにこの歌を歌い始め、事件の顛末を語りやがてフルバンドの演奏がが拓郎を包みこむ。満身創痍から立ち上がる拓郎のテーマのようだった。
 75年のつま恋ラストの荒くれたシャウトはカッコ良かった。"一緒に歌おう"と初めてフルのビッグバンドで心温まるアレンジで歌われた篠島。84年にはなぜか1番(力を借りて、しがみついて)をカットして歌ったこともあった。96年の感度良好では凝ったアレンジでリメイクされて登場したこともあった。
そして2003年10月、大病から復帰した国際フォーラムのビッグバンドのライブの一曲目も忘れようとて忘れられない。私たち観客が固唾をのんで見守る中、弾き語りで歌い始め、そこに突如ビッグバンドの演奏が砲撃のように始まり、やがて拓郎の歌を大きく包み込んでいくあのドラマチックな演奏は涙なしには観られなかった。
 続くつま恋2006。そのラストステージで本編フィナーレのリフレインのかけあいのエンディング。さらに2009年の最後のコンサートツアーのオーラスでは、この歌と「ガンバラナイでいいでしょう」がメドレーとなって締めくくられた。単なるメドレーではなく二曲が見事に一つに呼応していたのも忘れられない。いくらでも名演とそのときの景色が浮かんでくる。いつしか弾き語りのシンプルな小品というイメージからフルバンドの荘厳な大作に進化している。やはり吉田拓郎の大いなるマイルストーンだったのだと思う。

 しかし作品自体は実に素朴でシンプルである。人によっては誰でも作れそうなカンタンな歌と揶揄する向きもあるが、そのカンタンな歌が唯一無二のものとして何故にかくも多くの人の心を捉え続けてきたのだろうか。

 2006年のつま恋をたまたまテレビで観ていたノンフィクション作家の柳原和子さんがそのブログ「南禅寺だより」の日記にそのことを書いていた。末期癌で闘病中だった柳原さんは自らの長い闘病の経験を通じて癌治療に関する様々な著作や講演など精力的に活動されていた。拓郎ファンではなかったが、転移の激痛の中にこの歌を聴きながら衝撃を受ける。"今日までそして明日から"のエンディングの唱和が続いてゆく中「番組がフェイドアウトしてゆくまで、延々と延々と滂沱の涙をぬぐうこともなく、声をあげて泣きました。 」とある(南禅寺だより2007年1月26日より)。
 この歌に深く共感した柳原さんは自分と同病に闘うすべての人々に向けて医療講演会の場で「最後にこの歌を歌いましょう」と投げかけた。"吉田拓郎"という意外な提案に、多くの人は一瞬たじろいだがすぐに皆歌い始める。「唄いました。すごかった。会場の隅々まで皆、唄った。「わたしは今日まで生きてみました」と。なんの力なのか、あの痛みがとうとう消えたままだったのです。」と記されている。
 いくつかの奇跡と大切な著作を残して柳原さんは翌2008年に天に召された。彼女の亡後の末期癌に関するシンポジウムではその後も柳原さんを偲んでこの歌が流されているという。遅まきながらこのことを知ってから「100万回の永訣」等の著作を読ませていただき、末期の闘病記ながら生きることの瑞々しさが漲っており、私のようなヘナチョコは打ちのめされっぱなしだった。むしろこの歌のほうが柳原さんに選んでいただき救われたのかもしれないとすら思えてきた。音楽が聴き手を救い、音楽もまた聴き手に救われる。音楽のチカラというものを思わずにいられない。
その柳原さんは、拓郎とこの歌について先の日記でこんな言葉を残している。~「二十四歳の若く破竹の勢いにのって、おそらくはいまだ傲岸だった吉田拓郎はこの歌詞を書いたとき、それが六十歳のがんを患った彼のこころを深く揺り動かすほど含蓄の深いものになっているとは想像もしなかったにちがいありません。」~「彼は生きてきた、と言い切るのでなく、生きてみました、と書いている。」~「裏切られたわたしだけでなく、あざ笑った自分を素直に晒している。」…まさしくそのとおりだ。ここに、この簡単な作品が多くの人の心を掴んだことのひとつの答えがあるような気がする。

 思うに、それまでの歌は大別すると"元気出せ系の応援歌"か"一緒に涙する系の哀歌"しかなかった。しかし応援歌は時に道徳の押売りみたいに息苦しく、哀歌は気分が沈みこんで浮上しなくなってしまう。しかしこの歌は不思議にも、人に向かって元気出せとも、哀しいですねと同情の言葉も言わない。だが、そこに散りばめられている場面は、今までの歌の世界にはなかったものばかりだ。他人のチカラを借り、時にはしがみつく、人をあざ笑い、また脅かされもする。ある時は裏切られ、それでも手を取り合う。決してキレイ事だけではなく偽りのない人生の清濁や虚実が配されている。被害者だけでなく加害者であった自分もそこにいる。応援歌も哀歌もウザいと思っていた人々も、なんらかの自分を投影することができた。この歌にはそれぞれの居場所がある。自分の置かれた状況である幸せも不幸も喜びも悲しみも天国も地獄も広く抱擁してくれる器に、私たちは自分の人生とか経験のすべてを投影できる。そして憑き物を落としたように、ひとり静かに進もうという思いが湧いてくる。

 「音楽とは自由なものなんだ」という拓郎の御拓宣を思い出す。自由な音楽は、その時々の人生に、肩を抱き一緒に歩いたり走ったりしてくれる。柳原さんは24歳の吉田拓郎には作ったときは予想もしていなかっただろうと看破したが、だからといって決してこれは偶然の産物ではなく、見えない将来の含蓄に堪えるだけの「器」を作り、それを育て続けて来られたのは拓郎だけが持ち得た「才能」だ。もっというとその才能を使って音楽神様が作らせたのではないかと思う。

 CBSソニーのシングルにはなぜかラベルのところに英訳表記がついていた。"今日までそして明日から"には"I live on"とあった。"生き続ける"という意味だ。拓郎のみならず、いろいろな人々の思いと経験を湛えながら、この歌の旅はまだまだ続く。神は必ず旅を許される。信じてまいりましょう。

2020.1.13