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この歌をある人に

1980年
作詞 松本隆 作曲 吉田拓郎
アルバム「アジアの片隅で」

80年夏のとある少女に

 草原を跳ね回る無垢な少女を眩しく見つめる松本隆の詞。明るく弾むようなメロディーと歌唱はまさに拓郎の独壇場だ。拓郎には欠かせないギタリストの一人、ドクターKこと徳武弘文が珍しく、拓郎作品のアレンジに挑んでいる。
 1980年7月。あの「ローリング30」のレコーディングから2年、同じ箱根ロックウェルスタジオでアルバム「アジアの片隅で」のレコーディングでこの曲は収録された。この時もスタジオからラジオで中継され、そこに松本隆もいたから、たぶん例によってロックウェルスタジオで急遽つくられた可能性が高い。
 アルバム「アジアの片隅で」のラストナンバーとなった。さすがにアルバム発表から30年以上経ったので違和感も薄れたが、当初この曲はこのアルバムの中では妙に浮いている気がしてならなかった。
 アルバム「アジアの片隅で」は、拓郎と岡本おさみが四つに組んで、この社会に異議申し立てをするという・・・拓郎にしては珍しいコンセプチュアルなアルバムだ。その最後の一曲に突如として松本隆のほんわかした少女の歌が入ってくるのは違和感が強い。激辛のチゲ鍋のシメにチョコレートパフェを喰わされるみたいなものだ。・・・いや結構ウマイかも。
 拓郎によれば、このアルバムは、尺の長いタイトル曲「アジアの片隅で」が、果たしてレコードに入れられるかどうか等、アルバムの構成には悩んだというし、もともと最後の曲は「証明」の予定だったということだ。 推測だが、音楽家である拓郎としては、アルバムを作りながら時節柄「アジアの片隅で」「いつも見ていたヒロシマ」等の持つある種の政治色のみを抽出されてこのアルバムが語られてしまうことを恐れたのではないか。それでは音楽家ではないアジテーターにされてしまう。まるで岡林信康のような世界になってしまうことを恐れたのではないか。
 そこで拓郎は、あえて急遽、松本隆を投入してポップな曲で締めくくり音楽的バランスをとったのだと思う。それがこのアルバムにとって正解だったかどうかはむつかしいところだが。
 草原の無垢な少女=あの人とは誰なのかは不明。ただ、ちょうどこの頃、松本隆はテレビでデビューしたての松田聖子を観てこの人の詞を書きたいと念じていたと語っていた。そして実際に松本隆は70年代の太田裕美にかわり、80年代は、松田聖子という最強のパートナーを得ることになる。
 「苦しい胸の早鐘を 空が寂しく観ているね」・・・切ない名フレーズだが、そう思ってこの松本隆のこの詞を読むと、80年代アイドル作詞家としての牙城を築こうとする松本の野望の炎がチラチラ覗く気がしてならない。・・・いかん、いかん雑念は捨てて、明るいポップな拓郎の歌声を楽しもう。
 徳武さんの息子さんはギタリストになられていて、80年9月生まれ・・・ということは、この作品がレコーディングされた直後にご出生のようだ。他人様のことながらとても感慨深い。

2015.11/21