子供に
シングル「金曜日の朝」/CD「歌草子」
水夫よ、この魂を未来に運べ
1973年12月発売のシングル「金曜日の朝」のB面として収録された。同月にはあの神のごとき名盤ライブ73も発売されている。そして愛娘のご生誕とも時期を一にしている。ライブ73のライナーノーツには、1973年という狂気の一年と生れくる子どもへの祝福の思いが記されている。魂のライナーノーツであり、おそらく多くの拓郎ファンが胸を熱くして熟読玩味したであろう。他人様に何をしろという意思も権利も私にはないが、アルバム「元気です」と「ライブ73」のライナーノーツだけは、これはもう作品の一部だと思って読むべきだ。そしてそれはそのままこの「子供に」という作品のライナーノーツにもなっている。なのでここでくだくだしく述べまい。…とは言ってみたが、せっかくなので述べてしまうが。
「この狂気のような年を子どもはどう受け止めるだろうか」「否。子供は自分で立ち上がるに違いない」と胸に迫る言葉たち。そして「子供よ 新しい船に乗り込み帆をはる新しい水夫であれ(詞 岡本おさみ「子供により」)」と記されている。
アレ?と思った。"新しい船に乗り込む新しい水夫"という岡本おさみのこのフレーズは、明らかに拓郎の「イメージの詩」である。パクったとかいうことではなく、もう岡本おさみは吉田拓郎になりきって書いているような気がしてならない。普通の職業作詞家だったら自分の領分というところで線を引くところをあえて岡本おさみは乗り越えている。そしてこのライナーで拓郎もそれを岡本おさみの詞として引用表記している。私はここに、二人の魂の共有、音でいえば共振のようなものを感じる。思い込みかもしれないが、どっちのフレーズかなどという領分に関係なくいかに作品を創り上げるかというところで二人のスピリットはお互い一体だったのである。いつもとは言えないが。そういう詞が時々ある。
「夢はいつでも抜け殻なので夕焼けの美しい時はいつも寂しいだろう」…ああ、なんて素晴らしい歌いだしなのだろうか。そしてしめくくり「今は眠れ、君が今人生に欠席しても誰も咎めない」この悲哀に裏付けられた愛に溢れたフレーズの鮮烈なことよ。
地獄のような悲しみと生誕の無常の喜びという、まさに禍福あざなえる糸でよられている吉田拓郎のボーカルは、"凄み"すらたたえている。最醇の唄声である。それだけではない。たぶんまだ10代だった高中正義のギターが実に煽情的に唸っている。たまらん。詞と曲と演奏とボーカルがひとつの音楽の魂のカタマリになっている。すんばらしい。いいのか、こういうものをシングルのB面だけにひっそりと置いておいて。
レコードも素晴らしいが、圧巻なのはライブ73の本番でステージで、いわゆるビッグバンドで絶唱されているバージョンだ。拓郎の張りつめたシャウトが問答無用に私達を打ちのめす。間違いなく日本最高峰のシャウトと演奏がここにある。いいのか、こういうものを蔵に入れっぱなしにしておいて。それで誰かが幸せになるのか。
しかしあまりに具体的なものを背負った歌なので、さすがに拓郎にこれを今リメイクしてくれとかステージで歌ってくれとか希望するのは無礼で鬼畜な私でも気がひける。全く見ず知らずのお子さんではあるが、おそらく私を含めてファンの多くはその幸せを遠く陰ながら祈らずにはいられない。これは拓郎ファンの業というかひとつの矜持のようなものではないか。せめてこのスタジオとライブの音源だけはキチンとした形で後世に残ってほしいと願う。
その後、数あるベスト盤に収録されたもののここで「歌草子」を掲げたのは冒頭の「ハイどうぞ」が 入っているのはベスト盤ではたぶんこれだけだから。
2020.1.12