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いつか街で会ったなら

1977年
作詞 喜多条 忠 作曲 吉田拓郎
アルバム「ぷらいべえと」

出会いと別れを結ぶ見えない勲章

 1977年のアルバム「ぷらいべえと」に収められたが、既に1975年に中村雅俊によって大ヒットしスタンダードとなっていた。人の出会いと別れが、実にコンパクトに、しかし切実に込められている。美しいメロディーライン。湯水のようにメロディがあふれ出ている頃の才気を感じる。
 中村雅俊と松田優作のドラマ「俺たちの勲章」の挿入歌でもあり、主題歌「ああ青春」とともにセットで追憶されることも多い。それにしてもこの歌で忘れられないのは、この曲にまつわる二つのエピソードだ。
 ひとつは中村雅俊。このレコーディングの時の逸話を拓郎は後にこう語った。「雅俊は声がうわずっていてなかなか音程が決まらないんだよ。そしたら横にいたチトやん(アレンジャーでトランザムのドラマーのチト河内)が、オレに『おい、拓郎、あいつ絶対、女のこと好きになってるぜ』と囁くんだよ。」。
 中村雅俊は、ちょうどこのドラマ「俺たちの勲章」で五十嵐淳子さんとの共演が縁で恋に落ちた時だったそうだ。二人の出会いの曲ともいえる。拓郎の話に照れくさそうに目尻をさらに下げて笑う中村雅俊。また「ピグミー」と呼ばれ、風貌はとても怖そうなチト河内さん、実は繊細で敏感な心の持ち主なんだと認識をあらためた。
 もうひとつ忘れられないのは、その年の9月。拓郎が深夜放送オールナイトニッポンで突然「離婚」を発表して番組を降板した事件の時だ。番組の冒頭から「俺たち離婚することになりました」と宣言して、拓郎が自ら二時間、離婚の経緯と心情を赤裸々に語る衝撃の放送だった。勢い余ってマスコミに対して「あんたら地獄に行くよ」と怒りをぶつけ大混乱となる。いろんな意味で凄い放送だった。
 そんな拓郎の語りをアシストするように番組では拓郎の自選の曲が何曲かかけられた。この時のいちばん最初の曲が「いつか街であったなら」だった。まだ「ぶらいべえと」の本人歌唱がお目見えするずっと前だったので、この時流れたのは「デモテープ」だったと思う(ちなみに最後の曲は「流れる」だった)。「離婚宣言」の衝撃さめやらぬ一曲目に流れたこの曲は、拓郎の離婚の痛みを何より的確に代弁し、その心象風景を描き出しているようで驚いたものだった。いまだにこの曲を聴くとこの時のことが浮かぶ。
 この曲の二つのエピソードがまさに、中村雅俊にとっては「出会い」、吉田拓郎にとっては「別れ」を照らし出すこととなった。
 随分時が経って1990年の横浜アリーナで行われたJTのイベントライブで、拓郎と中村雅俊がこの作品をデュエットしたことがあった。屈託のない笑顔で歌う中村雅俊に対して、拓郎はうつむいて歌詞のメモを見ながら、こんな曲忘れたよ、みたいな気のない感じでたどたどしく歌っていたが、本人が忘れたはずはなく、本人もこの曲の背負うものに戸惑い、面はゆかったのではないか。とにかくカラオケで、昔の愛しい人を思い出して歌うとウルっとくること請け合い。大きなお世話か。

2015.9/21