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イメージの詩

1970年
作詞 吉田拓郎 作曲 吉田拓郎
シングル「イメージの詩」/アルバム「古い船を今動かせるのは古い水夫じゃないだろう」/アルバム「青春の詩」/アルバム「よしだたくろう オンステージ ともだち」 /アルバム「TAKURO TOUR 1979」/アルバム「LIFE」/アルバム「Hawaiian Rhapsody」/DVD「吉田拓郎 '79 篠島アイランドコンサート」/DVD「吉田拓郎LIVE~全部だきしめて~」DVD「Forever Young Concert in つま恋 2006」

何度でも魂を入れ直す、大いなる初めの一歩

 デビュー作がその作家のすべての資質を語ると言われる。この作品には、人生の指針があり、叫びがあり、恋愛があり、他者への愛があり、社会への風刺があり、そして人の心に巣食う欺瞞への皮肉があり・・・と人間のあらゆる営みが、幕の内弁当のように詰め込まれている。ボブ・ディランの「廃墟の街」にインスパイアされて作ったというが、ラブソングからメッセージソングまでまさに拓郎独自の広大な作品世界を縮図のように体現している。それにしてもハタチそこそこの若者に、これだけ老成した作品が書けたことにも驚く。

 言うまでもなく、この作品は常に拓郎と長い旅を共にしてきた。この作品によって吉田拓郎と広島フォーク村は世に知られ、やがて、ブツ切り、リズムが裏の無許可レコードが出回り、抗議に出向いた拓郎は、澤田駿吾らと録音をやり直し(シングル「イメージの詩」)、そのままなし崩しにプロになってしまう。まさに運命を切り開いた一作だ。
 拓郎は、この作品を引っ提げて、ある時はミカン箱の上で営業し、ある時は子供審査員に審査され、またある時はNHKのオーディションに落とされるなど、デビュー直後の嵐を乗り越えてきた。そして、拓郎がスターダムにのし上がるのとともに数多くのステージで演奏され、たくさんの人々の人生に多大なる影響を与え、愛されてきた。
 この作品にびっしりと詰め込まれた煌めく言葉たちは、常に私たちファンと一緒だった。例えば、「戦い続ける人の心を・・」の詞によって孤独な戦いを強いられる人達の心中に思いを馳せることができたし、「自然に生きる不自然さ」「孤独をさびしがり屋と勘違いして」という詞によって、自分や社会に深く巣食う欺瞞にも用心しなくてはならないと教えられた。そして、この作品の洗礼を浴びた私たちは、皆、拓郎とともに新しい海に出る「水夫」なんだと思うと、不思議な勇気とチカラが湧いてきた。

 この長い詞に、時に応じてさらに「鳥が空を飛ぶのは鳥に羽があるから・・・」「人の命が絶えるときが来て・・・」という二つの詞が加えられる。つま恋75、篠島、そして最近では、つま恋2006で、この二つの詞が歌われた。たぶん特別の旗日には料理のおかずが2品目増えるようなものか。もともとこの作品は原曲が42番まであるということなので、そもそも私達が聴いているのはダイジェスト版ということらしい。いずれにしてもこの作品は、拓郎ファンが海を行くときの大切な海図であり地図なのだと思う。

   詞が多様であるように、その時々で作品の相も多様だった。ミニバンドによるフォーキーなバックで歌われた「オンステージ ともだち」の迫力。♪古い船で湧く完成と拍手、歌い終わって息があがっている拓郎の様子も含めて迫真の演奏だった。
 74年、愛奴の演奏は、粗削りながらもタイトなフォークからロックへの転生となった。灼熱の太陽のような汗だくのつま恋75でのトランザムとのバージョン。「朝まで思いっきり行くぜ」のシャウトに続いて印象的なベースのフレーズが忘れられないファンキーな篠島バージョン。83年の武道館で「マラソン」のテープに続いてオープニングでカマされ魂がうねるような、荒涼としたロックンロールも凄かった。・・・ああ、枚挙に暇がないとはこのことだ。
 その後、1990年になってデビュー20周年の記念シングル「男達の詩」は、「イメージの詩」がカップリングされるはずだった。NHKのドキュメント番組中、レコーディングスタジオで「イメージの詩」を録音するシーンがあるが、歌いながら拓郎の表情がだんだん険しくなり、ついに「止めよう。オレこの曲にもう情熱がない。気持ちがのらない。こういうのは止めよう。」と録音が取りやめになるショッキングなシーンがあった。
 いくら優れた作品とはいえ拓郎にはデビュー曲を歌い続ける葛藤というものがあったのだろうか。マイク真木が「バラが咲いた」を歌いつづけるのとはワケが違うのだろう。
 もしかすると拓郎は、こんな風にこの歌を何度か捨て、また拾うという作業を繰り返してきたのではないか。拾うという言い方がよくなければ「魂の再入魂」を繰り返してきたのではないか。由緒あるお寺の仏像も、魂を入れっぱなしにするのではなく、魂を天にお返しして、その間にメンテをして、再入魂を繰り返すという。

 90年に捨てられたこの歌が再び拾われたのは「世の中」からの「お返し」ではないかと思う。つまりは「イメージの詩」に救われた人々からの数々のエールが、この作品を蘇生させたのだと思う。
 武田鉄矢は、かつて博多の伝説のライブハウスで、今に名をなす一流ミュージシャンたちが、若き日にこのイメージの詩を聴いて全員が衝撃で打ちのめされた話を何度も語っていた(・・財津和夫だけは例外だったそうだ・・キビシィィィ。それは一郎だ。)。
 96年「日本のロックはこの曲から始まった」と断言した浜田省吾のカバーは文句なしにカッコイイし、シングル盤として発表した彼の気骨も嬉しい(あ、でも昔は、単調なドラムなんで拓郎のバックで叩きながら居眠りしてたこともあるんだって)。
 明石家さんまは、バラエティー番組にもかかわらず、ことあるごとにこの歌の素晴らしさを取り上げて語ってくれた。バラエティ番組のロケで、木村拓哉とさんまがボートで夕焼けの海を進みながら「古い船には・・」と二人で口ずさむシーンには胸が熱くなった。
 船舶業界では「水夫」という言葉はもはや死語だが、中島みゆきも未だにいろんな作品に「水夫」という言葉を使うのも間違いなく拓郎への レスペクトだ。そのうえ泉谷しげるまてカバーしたから大変だ。
 ミスチルの桜井和寿もBank bandで、カバーした。彼は才気あふれる若者だが、この作品は、歌唱力やテクニックではなく、愛ある魂の入魂がなければカバーできる作品ではないことを憶えておけ若造。おいおい。
 これらのエールを受けて、LOVE2では、明るいスタンダードとして出演者らによって大切に歌われた。そして、98年のツアーと「Hawaiian hapsody」のセルフカバーで蘇生し、再入魂されたのだと思う。
 これからも拓郎によって、この作品にどんな入魂がなされていくか楽しみだ。お互いに、いくら老いようとも私たちは「水夫」として、拓郎とともに新しい海をゆくのだ。

2015.10/3