uramado-top

春を待つ手紙

1979年
作詞 吉田拓郎 作曲 吉田拓郎
シングル「春を待つ手紙」/アルバム「LIFE」

冬を越えんとするすべての人々にこめられた祈り

 「落陽」「外は白い雪の夜」「旅の宿」のような世間に認知された著名なスタンダードではないが、密かに多くのファンが固く支持する作品群がある。私が勝手に「サイレント・スタンダード」と呼ばせて頂きたい。そのひとつが間違いなくこの作品だ。

 なにはともあれ最初は「水中翼船」だ。青い海を波しぶき上げながら篠島めがけ て突き進んでくる水中翼船。船首デッキにすっくと立ち両手を上げるその人に「追いかけました、あなたの姿だけ」の歌がかぶる。映像と音楽が混然一体となって、心がウキウキ踊りだすような篠島のビデオフィルムの屈指の名場面である。
 やがて発売されたシングル盤の歌詞カードは、当時のディレクター陣山俊一さんの実体験をもとにしたということで「俊一」と「直子」の手書きの書簡形式で書かれている。
 「約束なんて破られるから美しい」「待つ身の辛さがわかるから急ぎ過ぎ」と永すぎた春を逡巡する二人のやりとりが切ない。そして最後に違う筆跡で「人生だからこそ一人になるんだね」という拓郎の総括で締めくくられる。

 1979年8月、松任谷正隆らのバンドメンバーでレコーディングされた。間奏の煌めくようななキーボード。拓郎がポロッと話たとこによると、松任谷正隆が、ビブラフォン(鉄琴)を指で叩いた音が効果音として添えられているらしい。コンピュータ以前の時代の手触りを感じる。

 しかし大成功したその年の篠島のイメージで、ハードな作品を期待されていた当時の拓郎にとって、このようなほんのりとした作品は肩すかしで歓迎されなかったのだろうか。評論家の吉見佑子の当時のエッセイ「芸能界でコーヒーブレイク」の中で拓郎本人につまらないシングルだとクレームしたかのような記述がある。だからというわけではないだろうが、79年の秋ツアーでも演奏されずに長い眠りにつく。

 名曲は、時間の経過とともにファンの心でもリフレインされ、ちょうど音叉が広がるように静かに広がる。それぞれの体験とあいまって、この作品は時間をかけていわば発酵したのではないか。まさにサイレント・スタンダードとして生き続けてきた。

 拓郎にとってもおそらく大切な作品であり、決して捨て置いたわけではないと思う。なので途中幾度か封印を解かれかけたことはあった。
 85年のつま恋の当初の拓郎本人の手書セットリストでは、第1ステージにアップされていた(2009年タクロニクル展の展示で確認)。また拓郎本人は歌わなかったが、「LOVE2」で鶴瓶がこの曲をリスエストしたことも偉業のひとつに数えられよう。
 また、2009年のNHKスタジオライブでは、瀬尾一三ビッグバンドでの演奏が、ほんの一部だけBGM的に流されたが本体はお蔵入りした。このすげー寸止め感にファンは身もだえしたものだった。

 初めて封印をとかれたのは、2011年4月、東日本大震災のオールナイトニッポンチャリティー放送の中でのことだった。もともと拓郎という人は、ラジオの生放送の番組で初めて演奏する曲を歌ってくれるような殊勝な人ではない。あのな。
 しかし、あえてこの作品に挑んだのは、やはり「祈り」の歌だからだろう。あの日、拓郎は、相当緊張し、CMの間何度も、真剣にコード確認し、小声で歌唱チェックをしていた。万難を排して今こそ「歌う」という意思がそこにあった。
 この時この歌が泣きたい気持ちで冬を超えるすべての人々に向けられた春への祈りの歌として転生したのだと思う。
 いつか必ずやまた堂々とお目見えする日が必ず来るだろう。その時に堂々とスタンダードになるに違いない。だからファンは止められない。

 あらためて陣山俊一氏に合掌。

2015.4/10