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話してはいけない

1973年
作詞 岡本おさみ  作曲 吉田拓郎
アルバム「伽草子」

讃えよ、旅路を照らしたもう愛の人、柳田ヒロ

 この作品は、どうしても「新六文銭」のナンバーという印象が強い。レコードでは拓郎がオーバーダビングでハモっているが、これは、もともと、「新六文銭」での小室等とのハモりをトレースしたのだろう。また76年の単発テレビ「ミュージックスペシャル」で、「新六文銭」の再結成セッションがあり、この作品が歌われたこともあった。

 この作品の収められたアルバム「伽草子」の制作時期は、「日本初のコンサートツアーの挙行」と「新六文銭」の結成活動時期とほぼ重なる。この三本の激流の中心にいたのが、キーボーディスト柳田ヒロ先生だ。以下は柳田ヒロご本人の説明を要約すると(坂崎幸之助のラジオから)・・。

 ・・・「はっぴいえんど(エイプリル・フール)」の前身バンド「ザ・フローラル」(小坂忠、細野晴臣、松本隆ら)を細野さんと衝突して辞めた柳田ヒロは、あちこち音楽活動の末、「はっぴいえんど」から引き継いで「岡林信康」のバックバンドをつとめることになる。
 その岡林の日比谷野音を観た拓郎は、これから日本初のコンサートツアーを始めるにあたって、柳田ヒロを直接口説き一本釣りした。ツアーバンドを組織しなくてはならなくなった柳田は、知り合いのギター少年の高中正義を誘い、ベースの小原礼を呼び寄せる。
 ドラムは林立夫の予定だったが、当時、松本隆には詞だけ書かせてドラムをクビにする計画を進めていた細野さんが林を離さなかったため(おいおい)、チト河内に白羽の矢が立った。とにもかくにもこの豪華な「柳田ヒログループ」でツアーはスタートする。
 そして同時並行でギターを弾きたいととう拓郎の希望で「新六文銭」が組織されるが、高中と小原は加藤和彦のミカバンドに引き抜かれたため、柳田は、青学の学生で無名のベーシスト後藤次利を抜擢したのだった。そして後に、後藤次利とチト河内は、トイレも一緒に入るほど絆を深め(爆)、トランザムへと進む・・・・。

 まさに激動の群雄割拠の音楽戦国時代、柳田ヒロ、アンタは軍師官兵衛か。この優れた軍師を得た風雲児吉田拓郎は、魑魅魍魎の跋扈する音楽界をまさに白馬に乗って駆け抜けるのであった。

 柳田ヒロは、コンサートツアーの確立だけではなく、コンサート後の打ち上げの充実にも貢献する。拓郎は、今でも「人生の意味」と「遊び」を教えてくれた神様と慕う。
 柳田曰く豪快に「アンダー」(爆)な打ち上げ、つまりは酒池肉林系の打ち上げの祖であった。   要は、コンサートツアーは、「音楽」と「ハチャメチャな打ち上げ」を両輪に回っていくというシステムを定番化させた功労者だ。まさしく当時のことは「話してはいけない」ことのオンパレードのようだ。聴きてぇーー。

 このようなツアー、アルバム、新六文銭の三つの怒涛の奔流が、最後にブチ当たるのかあのいまわしき金沢事件。こう考えると冤罪とはいえ、おこるべくしておこった感が強い。>あのな。
 それでも金沢まで接見に来てくれ、釈放直後のドラマチックな神田共立講堂のライブ支えてくれた柳田ヒロ先生はどこまでも愛の人だ。

 「(ヒロさんの)愛ある日常や優しさに満ちた『遊び』を経験する中で、僕は紙に書く歌ではなく、頭に浮かぶ歌や目に見えるメロディー作ろうと決心した」(2007ツアーパンフより)。

 拓郎の恩人は、ファンにとっても恩人である。柳田ヒロの愛に満ちたこの作品たちをいまいちど聴き直そうではないか。

2015.4/5