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ファミリー

1979年
作詞 吉田拓郎 作曲 吉田拓郎
アルバム「無人島で・・・」/DVD「吉田拓郎 ONE LAST NIGHT IN つま恋」

愛を残して旅立つロード

 篠島の大成功の興奮冷めやらぬ79年の秋のコンサートツアー。この「ファミリー」は、そのラストナンバーとして披露された。篠島の成功の陰で、拓郎は「80年代になったら本格的に音楽をやらなきゃ」と焦慮していたという。それは、ひとつには「人間なんて」からの脱却を意味していたのだと思う。「落陽~人間なんて」という、古典的な必勝フォーミュラをどう打ち破るかが大きなテーマであり、実際、80年代前半は、そのことで苦悶することにもなる。そして「人間なんて」の代わる作品の第一弾として登場したのが、重・厚・長・大で観客参加型というコンサートのラストにうってつけの「ファミリー」だった。

 しかしこの作品は「人間なんて」の直情的な魂の解放モードとは趣が違う。全編に満ちている重たい愛と苦悩。拓郎は当時「この歌は、難しい詞だからよく聴いてほしい。」とコメントしていた。確かに難解な詞だ。勝手な思い込みもこめて味わうしかない。
 拓郎は、内省的に問いかける。人生の喜・怒・哀・楽、そして、勝利、恋愛、病臥、情熱、様々な局面の想いをどこに向けるのか。人生のすべてを分かちべき合う家族(ファミリー)。拓郎は、人一倍、家族愛に恵まれたことを自認し、誰よりも家族愛に敏感な人である。しかしそれゆえに家族の絆が時にしがらみになる危うさも知っていた。
 小さな例だが、石原信一の「挽歌を撃て」に79年頃の拓郎と実母との小さな諍いが記してある。人を攻撃するような拓郎の言動や近年の音楽活動に苦言を呈する母との衝突かあったようだ。拓郎は「母親はずっと広島で変わらないが、俺は都会で変わってしまっているから。」と家族だからこそのすれ違いを切なく語っていた。もしかするとこの作品の創作の遠因のひとつかもしれないと邪推したくなる。
 家族であっても、いえ家族だからこそ越えられぬ一線があり、あるべき距離がある。拓郎は、この時期に「人は結局一人なんだ」という確信を口ぐせのように繰り返していた。それは時に家族との相克をも意味したのではないか。そのどうにもならない苦悶の中から生まれたのが「ひとつになれないお互いの 愛を残して旅に出ろ」というフレーズに違いない。
 この珠玉のフレーズは、軽々しいメッセージでも作られた教訓でもない、まさに、苦渋の果てに絞り出され、こぼれ落ちた悲痛な叫びのようなものだ。
 「愛を残して旅に出ろ」と拓郎は、自分の心に言い聞かせるように歌う。そこには、所詮一人であるという現実と深い家族愛との矛盾と相克を抱えたまま、旅を続けて行くしかないという覚悟を感じる。そして拓郎だけでなく、聴いている私たちも同じように立たされているそれぞれの隘路に思いを致す。
 かつて1984年、冨澤一誠が自著でワザワザ「マイ ファミリー愛を残して旅に出ろ」という章立てをして、この詞は甘い、説得力がないと批判していたが、甘いのはおまえの生きザマではないのか。・・と今は確信をもって言える。

 重厚な1,2番が歌が終わると、短い静寂(ブレイク)が訪れ、ピアノが荒んだ心をなでるように優しく流れる。松任谷正隆、エルトン永田らの名手のなせる技で、この静寂に見事なブリッジをかける。すると次の瞬間に激変、拓郎の超絶シャウトとともに作品全体が激しく立ちあがっていく。このドラマチックな劇転がたまらない。まさに臥していたライオンがゆらりと立ち上がって咆哮を始めるかのようだ。
 「誰にも話せない、語れない」「ひとりであることに変わりなし」と振り切るように叫び、苦渋の旅路を鼓舞するかように何度も何度もリフレインする。「愛を残して旅に出ろ」はやがて「愛だけ残して旅に出ろ」と歌われもする。この最後の怒涛のリフレインの圧倒感といったらない。観客も怒涛のうねりに巻き込まれていく。そして、圧倒的な勇気をもらいながら、御大とともに苦難の旅に出ている自分に気づくのだ。当時の新譜ジャーナルにあった名文句「あなたと同じ時代に生きられてよかった」と心から思わせてくれた。
 後半のシャウト部分の歌詞には若干の変遷がある。79年では「つながりだけでは悲しくて」というフレーズが、公式音源となった翌80年のバージョンでは「笑顔の中にも悲しみが」に変わっている。しかし、その後のバージョン83年バージョンでは、両者とも併記して歌われているが85年のつま恋ではなし。「つながりだけでは悲しくて」これは、この作品の根幹ともいうべきフレーズだと思うので是非復活を。

 残念ながら80年代の「人間なんて」の地位は、翌年、同じく重厚長大・観客参加型の作品「アジアの片隅で」にとって変わられ、どこか行き場のない歌になってしまった感もある。もっとも80年の武道館でオープニングで歌われたのは衝撃だったし、83年ツアーで、中盤の演奏なれどもコンサートの核となって、そのチカラを発揮してきた。
 そして85年のつま恋では、セカンドステージの終盤に絶唱され、会場を見事に制圧した。ドラマチックなオープニングのピアノソロ。たぶん観客は一瞬「外は白い雪の夜」と勘違いしているに違いない。そして鉄壁の演奏と野太いボーカル。唱和しながら、涙ぐむ拓バカたちの群れ。「ファミリー」という作品のモデル・フォームが映像に残ったのは幸運だ。
 但し、当時の公式本のレポと読みあわせると、この「ファミリー」の時の御大は体調不良で倒れる寸前だったようだ。モニターで観ていたスタッフが御大の異常に気づき緊張が走る様子が書かれている。確かに、映像でも最後の方になるにつれて、明らかに体調がきつそうで、目の焦点が定まらずウツロになり、フラフラなようでもある。思わず「拓郎、しっかりっ!!」とまるでボクシングのセコンドにいるような気分になってしまう。
 ウツロな様子で、でもしっかりと観客のグルーブを目に焼き付けておこうとするかのように立ち尽くす御大の姿が忘れられない。人によってカタチこそ違え、あの姿は「愛を残して旅をする」彼に続かんとする、いつの日かの私たちの姿でもあるに違いない。

2015.10/17