uramado-top

永遠の嘘をついてくれ

1995年
作詞 中島みゆき 作曲 中島みゆき
アルバム「Long time no see」/DVD「Forever Young 吉田拓郎・かぐや姫 Concert in つま恋 2006」

叫ぶ女と蘇生する男の10年間の奇跡と軌跡

 1994年深秋、拓郎は中島みゆきに次回アルバムのための作品を依頼する。「日本を救え」の「ファイト!」のカバーがキッカケだということだったが、この二人の間にはもう少し深い通底があるのではないかと思う。もちろん真相はわからないが。当初は詞だけの依頼だったようだ。代々木の無国籍レストランでワイングラスを傾けながら、拓郎の近況を尋ねる中島に対して、拓郎は「逗子の家で庭を愛でながら、百舌鳥が飛んでこないか空を気にしたりしながら暮らしている」と答える。そして「遺書のような詞」が欲しいと頼んだ。90年代前半の拓郎の冬の時代。迷いの中ゆっくりとフェイドアウトしていくような拓郎の心象が見て取れるかのようだ。それを中島が見逃すはずがない。バハマの出発直前に、中島から送られてきたデモ・テープはピアノの弾き語りだった。ヒステリックに泣き叫ばんばかりの中島の歌いっぷりだっという。なお中島と拓郎の橋渡しをしたピアノはあのエルトン永田氏だったということも感慨深い。拓郎は今の自分を激しく叱責するような攻撃的なものすら感じた。そのためバハマ出発の朝、拓郎は発熱し、めまいがするので飛行機に乗らないと大騒ぎになったらしい。
 バハマでも他の曲のおだやかな雰囲気でのレコーディングとは違って、この曲だけは、何度も撮り直し結局バハマでは完成せず苦闘を重ねた。トラックダウンに寄ったロスで新たに作られたオケも拓郎はボツにした。拓郎は、アメリカ人にはこの作品を理解できまいと語っていたが、たぶんこの世で拓郎しか真に理解できないものだったのだと思う。結局、帰国後拓郎は観音崎スタジオで一人打ち込みで完成させた。そのバハマ→ロス→日本と続く苦闘の様子に、ディレクターの常富は「ボロボロになって蘇生しようとしている」と語った。まさに冬の時代の迷える状況、フェイドアウトしそうな危うい自分から「蘇生」する歌だったのだと思う。

 そして2006年、つま恋。私たちは、忘れられない名場面をそれこそ永遠に胸に刻むことになる。この中島みゆきとの共演は、間違いなく日本の音楽シーンに残る屈指の名場面だ。ステージとビジョンを見やりながら、ああいつまでもこの瞬間が終わらないでくれと祈ったものだ
 「みゆきは凄かったね、後光が差していた、卑弥呼みたいだった」と拓郎は後のインタビューで語る。でもさすがの卑弥呼も、最初の「ニューヨークは粉雪の中らしい」のところで声が危うくひっくり返りそうになっているのが映像ではわかる。拓郎は続けて「観客も大感動して大歓声。この裏切り者ども(笑)」と文句をたれてるが、それは違う。あの観客の大歓声は「卑弥呼」をステージにまで降臨させるほどの「男」への大喝采だったのだ。自分達の信じてきた男の素晴らしさと誇らしさ、そしてこの場面に立ち会えたこと、つまりは音楽の神様の恵みの分け前を私達もいただけたことに感謝しての大歓声だったのだ。なので感謝してあの映像を何度でも観直そう。そして「うわぁ、ホントにみゆきが出てきた!」と何度でも驚こう。
 そして、それは、あの名場面であると同時に、かつての冬の時代、凍りつきそうな男に、女がまさに氷を叩き割るように叫び声を届け、男がそれと必死に格闘して、やがて大いなる蘇生を果たす、その10年間の物語なのだと・・・さらに思い込みを深めてみる。
 当日の中島みゆきの登場は、厳格な箝口令が敷かれていて当然私らファンは知りようがなかった。そんな中で、最前列で「永遠の嘘をついてくれ」のプラカードを用意していたファンの凄さには感嘆するほかない。お見事。

2015.8/21