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僕の旅は小さな叫び

1971年
作詞 山川啓介 作曲 渋谷毅 
非売品シングル

始まりはここ、すべては彼の叫びから

 御大のCMソング第1号である。1971年、御大はデビュー翌年で、おそらくまだ「結婚しようよ」のヒットも出ていないほぼ無名の新人だったはずだ。松下電器産業「Technics」の立体オーディオ「4チャンネルステレオ」。そのステレオのテスト用試聴盤の一曲である。御大の歌声、ドラム、ストリングス、♪テクニークスがきれいに各チャンネルから響いてくる組み立てになっている。
 最近(2017.6.7のラジオでナイト)も、御大は、無名だった自分が、なぜこの作品に抜擢されたのかと不思議がっていたが、関係者によれば、「今の若者が共感できる鬱屈した心情を歌い、それを救済するような"Technics"の声がリアスピーカーから流れる」という設定のため、拓郎しかいないと決まったらしい。つまりは若くて鬱屈してそうな御大だったからなのか。
 まず何より、ひとつは新人でギャラが安かったことも大きいのではないか。テレビ番組「Ryu’s Bar気ままにいい夜」で後藤由多加が明かしたところによれば、当時のギャラは「2並び」。「2,222,222円ということはないだろうから、…222,222円かな。だったらいいねぇと話していたら、22,222円。よくあんな安い仕事しもんだよね(笑)」但し、当時のTechnicsのご担当の言によれば、当時としては社命をかけた破格のCMプロジェクトであり、作詞期間だけで4週間、制作費約100万円といわれている。とすると977,778円はどこに行ったのだろうか。
 またこのステレオのプロモーションの全国行脚に、御大は前座として出演し一緒に全国を回った。「ステレオの前座をやった歌手は自分だけだ」と後々何度も語っていた。今だからネタだが、当時の本人としてはお辛かったろう。ともかくこの作品は、新人時代のハードな状況とも深く結び付いているかのようだ。
 しかし抜擢の本質は、作曲者である渋谷毅さんの強い推挙とのことだ。ジャズの大御所で盟友だった沢田駿吾がアルバム「青春の詩」に関与していたことから、たぶんこの無名の若者について渋谷氏も知っていたのだろうと推測する。そして、渋谷さんは始まりから二節以降、サビから先はアドリブ、拓郎の表現力に任せるという指示を出した。まさにジャズの即興の世界。オケまで出来上がっていてしかも譜面はなかったと御大も述懐する。渋谷さんのアーティスティックな狙いとしては、おい若者よ、このアドリブをこなせるかというチャレンジだったのではないか。コイツならきっとできる…とジャズの鬼才が挑んだ勝負だったのだと思う。
 新人御大が、このアドリブに挑んだ結果が本作である。御大は、このシャウトはフォーキーだったと悔いており、今ならもっとうまくできたのにと先のラジオでは悶絶していた。しかし、そんなことはない。やがて「人間なんて」「アジアの片隅で」に至るようなシャウトの萌芽というか導線がハッキリと窺える。これはこれで気持ち良い若さに満ち溢れた見事な熱唱だと思う。
 なおFMで流れたというショートバージョンには、♪テクニクス~テクニクス~テクニクス~とこれでもかと入っている。♪テクニクス…は要するに鬱屈した若者への”救済”の響きという設定とは、さすが経営の神様松下幸之助、立派な上から目線だ。しかし、ゆくゆくはLOVE2でお世話になるので文句は言うまい。

 ともかく若き御大が、大企業にも負けず、安いギャラにもめげず、ジャズの鬼才の挑戦にも堂々と向こうをはった作品がこれだ。誇りもて歴史に刻まれん。「大滝詠一の名作「サイダー’73」から始まった、CM音楽の新時代」という記事がネットにあったけれど、間違いなく新時代が始まったのは71年のこの曲と72年の「Have A Niceday」からだと思う。「はっぴいえんど」を讃えておけば安泰だという御用学者に歴史をゆがめられてたまるか。若き日の吉田拓郎のこの小さな叫びこそ歴史は見失ってはならない。

2017.7/2