アジアの片隅で
作詞 岡本おさみ 作曲 吉田拓郎
アルバム「アジアの片隅で」/ビデオ「王様達のハイキング」
時の暗がりに葬られぬために、再び強烈に突きつけてくれてOKよ
この作品は80年代を代表する大作であり、拓郎が70年代の伝説のヒトで終わらなかったのはこの作品に負うところも大きいと思う。当時リアルに体験したファンには、ひとつの曲というより、絶唱する拓郎がいて、鉄壁のバンドがいて、「♪ア~ジアの片隅で~」とシャウトする自分ら観客がいる、それらが三位一体となった「グルーヴ」として追憶する人も多いのではないか。普通の曲を一幅の絵とすれば、これは3D体感映画のような作品だ。その点では、あの「人間なんて」と同じだし、まさに80年代の「人間なんて」の役割を担ってもいた。
飢え、戦争、疲弊した社会と荒んだ人の心、そんな社会に対峙するアグレッシブな詞。そして曲も演奏も重厚壮大で、何より拓郎のシャウトが神がかりのように存分に力を発揮する。こんな歌は他の歌手には作れないし歌えまい。ファンとしての誇りと至福だ。
1980年初頭のロスでの「SHANGRI-LA」の海外録音の時にこの作品は既に完成していたそうだが、あえてレコーディングされず、作詞の岡本おさみは不満だったという。ちなみに最初のタイトルは「アジアの片隅で、日本」。拓郎は帰国後に始まった全国ツアーの代表曲としてライブだけでこの作品の演奏を続けた。当時、レコードになっていないすごい新曲があるらしいと噂になり、どんな曲なんだとヤキモキしたものだ。ツアーの途中、6月の木田高介の追悼ライブにて、小雨そぼ降る日比谷野音での演奏が、ラジオの「フォークビレッジ」で流れもしたが、全部ではなかった。そして、ツアーの最終特別公演の1980年7月の武道館で、ゲストのブッカー・Tも参加した演奏が披露され、そのライブ録音がそのままレコード化され、ついにその全貌が明らかになったのだった。
拓郎には、この作品はスタジオの音として固定してまうのではなく、ライブで歌いこみ演奏を練り上げ、いわば「生き物」として完成させるべきだというビジョンがあったのだろう。特に、初演のツアーバージョンは、拓郎のオベイションのリフが繰り返される中、静かに地を這うようなベースと地鳴りのようなドラムが、まるで地の底から這いあがってくる生き物のように立ち上がり、壮大でしかもソウルフルな演奏への発展していく。松任谷正隆最後の大仕事というべき素晴らしいアレンジだった(松任谷正隆も拓郎の最も好きな作品に挙げていた)。それを引き継いだ王様バンドのライブでは、さらに進化し熟成されていったと思う。観客のうねるようなグルーヴと拓郎のシャウトの見事な掛け合いも年々熟練し、ついでに間奏の拓郎のギターもうまくなり(^^ゞ、作品の完成度を高めていった。
一方で大作ゆえの厳しい対立も生み出した。この「アジアの片隅で」の次回作について、岡本おさみはこのまま社会派路線を進むことを希望した。しかし拓郎は一個人の自由な生活、恋愛を歌うべく、松本隆をパートナーに選んだ(アルバム「無人島で」シングル「サマータイムブルースが聴こえる」」)。失望した岡本おさみは「拓郎との歌作りは終わった」と宣言して袂を分かちその後15年間、二人の本格的な共作は途絶えることになる(「Last kiss night」 ごめんね)。そのせいとは言わないがこの作品は、ステージ映えする割には、どこか孤独に佇立した淋しい影がつきまとっていたように思う。あくまで個人の感想だが。
しかし、この歌の壮大さとスピリットは誰も否定できない。直近では91年ツアーで歌われたのが最後だが、この時はバンドが全員初演のためか、やや物足りなかった記憶がある。それに自分が観た浜松市民会館では、拓郎も気合が入ってなくて、サビの部分歌ってなかったし。こらこら。
87年年末には、「夜のヒットスタジオ」でも歌われた。素晴らしい熱唱だったが、やっぱり観客がいないとどこか物足りない。万単位の観客が燃え立つ時に最も輝く。遠慮しなくていいから今度歌うときは、われわれファンを呼んでくれ。この作品は、まさに歌、演奏、観客の気骨が三位一体となって成り立つ曲だ。観客としては、いつ本人から召集がかかってもその一角としてのパワーが出せるよう、常にこの歌のスピリットだけは忘れずに持っていたいものだ。
そういえば、88年のシシンプジャーナルの御大へのインタビューで、岡本おさみと「アジアの片隅で'89」を作ると言う話があったが、なかなか出来ない、まだ創っている最中なのか(^^ゞ
残念ながら、この作品が、過去のものになるほど、日本は進歩しちゃいない。必要な歌である。
2015.4/22