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a day

2016. 6. 29

あと89days.「ライブの日」と「ライブを待つ日」の2種類しかないと前に書いたが、日程が決まると「ライブを待つ日」が俄然輝き出す。もうライブは始まっているのだ。この貴重なひと時を中年は何かをせずにはいられない。超個人的にこれが聴きたい20選。御大はそういうのぜってー嫌いだろうが、そもそも御大は読んでないしこんなサイト(笑)一曲でも当たれば幸せだ。こういう勝手な妄想も今だからできること。
 阿久悠さんの名著「なぜか売れなかった愛しい歌」にちなんで「なぜかご無沙汰している愛しい歌」。

<なぜかご無沙汰している愛しい歌 第1曲>

♪流れる

 ああ、ステージで是非聴きたい。御大の結晶のような静かなる名曲。御大も名曲と讃しつつ、なぜかステージでやらない。この彫琢された深みある詞は、今の御大の声でこそ聴きたい。聴くまで死ねないぞ私は。
 uramadoにも書いたが「今は黙って静けさを愛せばよい」の御大の忘れられない自筆パネル。今度は私が自筆のプラカードにして会場に臨んでもいい。いらないだろうが。

2016. 6. 30

<なぜかご無沙汰している愛しい歌 第2曲>

♪季節の花

 私はこの作品のおかげで今生きているといっても過言ではない。いや少し過言か。天才は60歳をとうに過ぎても、こんなに清々しく心躍る歌を創れるものなのか。ああ御大を聴き続けてきてよかった。自分もこの歌を胸に、また迷っても、また探す道、またほほえんで、また口ずさんで、またウデを組み また歩き出し、50代を超えて生きていこうと思った。
 雲が切れて青空が広がるようなギターのイントロから鷲掴み。なんといっても、「また雨がふり また風が吹き、またウソをつき また夢を見る、またウデを組み また歩き出す、また陽が昇る また涙する・・・」リフレインのすべてのひとつひとつが美しく愛おしい。高揚する観客のグルーヴとしっかり組み合ったライブバージョンが是非是非欲しいのだ。

あと88days。

2016. 7. 1

<なぜかご無沙汰している愛しい歌 第3曲>

♪僕を呼び出したのは

 「残酷な季節」「あれからはどうしていたの」「叫ぶ絵」「光る指輪」・・・二人の再会のドラマに聴き入りながら、間違いなく聴き手はそれぞれの青春を思い出しそれぞれにとって大切だった人を心に描くはずだ。そういう名作だ。だからこそこの歌がライブで歌われるとき会場に5000人いれば5000の切ないドラマが疼いていて、そのドラマがたち御大に向って集まり寄り添う。人それぞれテンデバラバラな5000のドラマは、「少しはぐれたけれど今日まで生きてきたよ」というフレーズに結ばれてひとつになって会場を静かに揺らすのである。こんな歌のチカラを持っているのは御大しかおるまい。ライブでの熱唱が待たれる作品だ。是非会場でそれぞれの魂をゆさぶってほしい。

<なぜかご無沙汰している愛しい歌 第4曲>

♪Fの気持ち

 あれこれ言ってもこの陽気でご機嫌でテキトーなロックンロールこそが御大の真骨頂だ。いいねぇ。「コード」を歌うとは、そこいらのミュージシャンとは発想の原点からして違うのだ。
 「音楽言語」を真正面から歌ったのは世界の音楽史上「ドレミの唄」と「Fの気持ち」の2曲だけだ。しかも「ドレミの唄」は「ドはドーナツのド、レはレモンのレ・・・」と稚拙だが、こっちはコードを歌いながら人生のスピリットを歌っている分、先を走っているぞ。
 世界の最先端を走っている気分で「A♭B♭CC」と観客がスタンディングして身体文字作りながらノリノリで唱和すれば、西城秀樹のYMCAも武田鉄矢のJYODANも恐れるに足らず。別に恐れてないか。そんな解放感のある盛り上がりをライブで体験したいのだ。

あと87days
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2016. 7. 2

<なぜかご無沙汰している愛しい歌 第5曲>

♪春を待つ手紙

 これは泣きたい気持ちで人生の極北を超えようとするすべての人々の祈りの唄だと思う。
おそらくすべてのファンが待ち焦がれる名曲にしてライブ未演のまま。2009年にはテレビ番組「大いなる明日」でビッグバンドの演奏したものを最後の部分だけBGMとして流す。なんなんだこの寸止めは。かつて吉見佑子が文句たれたのを怒っているのか。東日本大震災のチャリティ放送で初めて弾き語りでお披露目されたが、さらに私たちが待つのはライブのフルバンドの初演だ。

<なぜかご無沙汰している愛しい歌 第6曲>

♪風になりたい

自他ともに認めるこの美しき名曲。アルバム「俺が愛した馬鹿」に収録されてはいるものの、
失礼を承知で言う。御大よ、お願いだから、ちゃんとした演奏で、もう一度ちゃんと歌ってくれまいか。

あと86days


7月2日は武道館記念日。79年初ソロ武道館。

「ずっと歌う」という約束を今も守ってくれている御大。

武道館よ、屋根の梁を高く上げよ。丈高き男子にまさりて誇り高き歌手きたる。
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2016. 7. 3

<なぜかご無沙汰している愛しい歌 第7曲>

♪月夜のカヌー

船を下りた水夫は、大海に一人乗りのカヌーで漕ぎ出していく。灯台もなければ、同僚船も護送船団もない暗い海。「月夜のカヌーで夢の続きへ漕ぎ出そう 息を潜め漕ぎ出よう」これは岡本おさみさんが残してくれた珠玉のメッセージだと思うのだ。心の底から勇気づけられる。ライブで、御大のちょっとラフでワイルドな歌いっぷりで、今こそ聴きたい。

<なぜかご無沙汰している愛しい歌 第8曲>

♪僕の好きな場所

アルバム「AGAIN」を聴いてこの陽性のポップにしびれた。高木ブーさんも大好きだが、やはり御大は歌がうまいなぁ。今更だが。どこにも縫い目がない、まさに天衣無縫なメロディーと歌唱が、心をウキウキと弾ませてくれる。ハワイの日差しとか空気とかが持つ幸福なエッセンスがすみずみまで行き渡っている。しばし会場をマハロな世界に包み込んでおくれよ。

あと85days
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2016. 7. 4

 ファンにはファンの数だけ理想のセットリストがあるに違いない。御大のセットリストの選択の苦しみをお察しします。しかし、こうしてどうせかないっこない勝手なリストを考えるときの至福たるや。まさに今だけ味わえる楽しみだ。


<なぜかご無沙汰している愛しい歌 第9曲>

♪RONIN

 御大は奥ゆかしいからA面の「ジャスト・ア・RONIN」しか歌わないけれど、このRONINこそ傑作である。

  愛に飢えた獣のように牙をむかないで
  今日からおまえの心はおまえ自身のものだ
  もう争わないで、もう戦わないで
  そう自由の風に酔え そうすべてを解き放て

 こんなにも深くてチカラ強い愛の唄があろうか。最後のリフレインとシャウト。これはライブを想定して作られたとしか考えられない。この暗い世の中の灯火をともすようにステージで歌ってほしい。1985だけでなくRONIN FORVER!!

<なぜかご無沙汰している愛しい歌 第10曲>

♪ステラ

 大好きな歌だがこんなん歌うはずがないと思い記憶の片隅に飛んでいた。しかし2012年に突如「ふゆがきた」が歌われたとなると黙ってはいられない。乙女な世界だけれどおそらく誰もが密かに共感してしまう詞。それよりなにより御大のメロディーがすんばらしい。ドラマチックなメロディー構成、しかも清々しくあたたかい。こりゃ名曲ばい。なぜ捨て置くのか理由がわからない。もしかして御大の豪華作詞陣の中にビックネームの松本隆と松本明子の名前が並んでしまうのは失礼という配慮だろうか。いみふ。そんなことはあるまい。御大の本人歌唱で泣きたい。

あと84days

2016. 7. 5

そうかテレキャスターを特注されたのか。御大あなたは本気だな。私も本気だ。今年のラッキーカラーは黄色で行こう。

絶対やるわけないセットリスト妄想にも拍車がかろうというものだ(笑)。

<なぜかご無沙汰している愛しい歌 第11曲>

♪愛の言葉

中村雅俊への提供曲。ずいぶん前に、慧眼を持った当時の知り合いがイチオシしていた。中村雅俊への提供曲はどれも素晴らしいが、このポップでロックな作品は特にカッコよさが際立つ。よく練られたメロディーもたまらん。これ御大が、ちょっとラフな感じで本人歌唱したらゼッテー、カッコイイぞぉぉ。御大、思い出そうよ。


 さて昔の話で恐縮だが、あれから37年。篠島をひかえ初武道館の偉業をなした御大のデスマッチツアーが、この日、金沢でフィナーレを迎える。あの事件から7年ぶりの金沢が最終公演て、ずいぶんスゲーコンサートツアーだ。

 週刊明星や当時のラジオを総合するとこうなる。
 7年前に理由はともあれこの静かな街を騒がせてしまったことを悔いる御大。どんな風に金沢は迎えてくれるのか不安な御大。
 しかし、開演前に大歓声で三々七拍子が始まる大歓待。胸詰まらせ涙が出た御大。バンドに向って「頼むから、おまえたちの持っているすべてのフレーズ、全部出せ!」と檄を飛ばし、燃えに燃えたライブだったらしい。

 いまさら昔のライブも金沢もないだろうと怒られるかもしれない。しかし、いつだってライブは人生と同じ波乱に満ちた熱い生き物なのだ。苦難を乗り越えてステージに挑んできた御大。それが幸福にもあと83daysでまたやってくるのだ。乗りおくれてはなるまいぞ。
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2016. 7. 6

<なぜかご無沙汰している愛しい歌 第12曲>

♪あれふれた街に雪が降る

 御大の雪の歌には名作が多い。というか名作しかない。幻想的で抒情あふれる「雪」、悲しみに満ちてドラマチックな「外は白い雪の夜」。そして、忘れてはならない、美しい日常のささやかな幸福を歌った「ありふれた街に雪が降る」。この仄かにあたたかで、美しいメロディーと御大の繊細な歌唱がたまらない傑作である。聴きたい。聴き惚れたい。たまには、誰もいなくなる別れの悲しみではなく、小さな幸せに満ちた美しい雪の唄を。

<なぜかご無沙汰している愛しい歌 第13曲>

♪裏窓

 ねぇ御大、聞いてくださいよ。その時、俺、まだCDデッキ持ってなかったんで、アルバム「detente」はミュージックカセットで買ったんすよ。そしたら「裏窓」入ってなかったんすよ。ひどくないっすか?
「Bonus track on CD」ってCDに書いてあっても意味なくないっすか?カセットじゃ曲の存在も知りようがないし。しかもこんなカッチョエエ傑作を。可哀想っすよね。可哀想と思うなら、私が行ったライブの時だけBonusで歌ってくださいよ。ちゃんと手風琴つけて荒くれた感じでお願いするっす。

<なぜかご無沙汰している愛しい歌 第14曲>

♪チークを踊ろう

 大学生になって初めてディスコに行った。この時、新宿のニューヨーク・ニューヨークに行くまで、「チークダンス」というのはこの曲のような軽快なテンポで男女が頬を寄せて踊る踊りだと信じていた。どっかの民族舞踊だろ、そりゃ。
 思想性がないとか軟弱とか一瞬思ったこともあったが、この曲にこそ御大の広大深遠な音楽的才能が凝縮しているといってもいいと思う。人の心と身体をウキウキと弾ませ揺らさずにおかない音楽の魔力に満ちている。これぞ御大の魅力。思想は岡林信康に任せればいい。アンコール一曲目あたりでいきなりやってくれないか、ノリノリで盛り上がりたい。

あと82days!

2016. 7. 7

暑い、うっとおしい、水が足りない。でもあと81days。

<なぜかご無沙汰している愛しい歌 第15曲>

♪又逢おうぜ、あばよ

 「命絶つほどの狂気ではなく 命救うほどのチカラでもないが 諍いと和みのはざまに流れてゆけ 流れてゆけ 私の歌たちよ」。たまらん。ここのフレーズでこの作品はまさに光り輝く。この作品だけではなく、御大のすべての作品を照らすかのようだ。
 歳をとるということは人と別れることだと思い知る。ここ数年だけでも素晴らしいミュージシャン、音楽関係者が次々と亡くなられた。そして一緒に聴いていたファンの方たちの何人もが卒然と旅立ってしまった。なんてこったい。もはや、こうしてライブを待ちライブを満喫することは奇跡のような事かもしれないとガラにもなく思う。「また逢おうぜ そうさ また逢おうぜ」、若いころと違いこのリフレインがより切実に心に響く。もともとコンサートのラストナンバーとして生まれたこの作品。何度も何度も「また逢おうぜ」と確認してから会場を後にしたい。そして絶対にまた逢おう。

<なぜかご無沙汰している愛しい歌 第16曲>

♪しのび逢い

 「逢引」「逢瀬」を歌っているにもかかわらず、この作品から溢れ出る崇高さは何だろうか。「君の年月が僕と同じでないから困ってしまう」それは人目をはばかる逢瀬なのかもしれないが、御大は、相手の気持ちと相手とのあるべき距離を真摯に思い悩む。この御大の繊細な逡巡が、人間の美しさという高みにまで至っている気がしてならない。御大の唄はすべて、人間と人間の距離感を探しさまよう歌なのではなかろうか。カタチだけだと単調で長い歌だが、御大がライブで語りかけるように歌うとき、間違いなく会場全体は奥深く引き込まれていくに違いない。そんなことになったら至福のひと時ですぜ。

2016. 7. 8

 あと80days。どうか当選しますように、そして座席が1ミリでも御大に近い席でありますように。

<なぜかご無沙汰している愛しい歌 第17曲>

♪この風

 アルバム「午後の天気」には「僕の道」という傑作があるが「この風」を聴いたときにもいたく感動した。実に素晴らしいメロディーだ。
 作詞の銀色夏生さんは、「尊敬する方の声で、その人のために書いた私の言葉が歌われる! 感無量です。もし拓郎さんに歌ってもらう詩を私が書くならば、とものすごく集中して考え、すぐに浮かんできた、これしかないという詩を書きました」と語る。
 それに見事に応えた、哀愁あるドラマチックな珠玉のメロディーと艶のあるボーカル。その上メロディーにも歌唱にも、まるで初対面の人にきちんとした礼装で応接するような「品のあるよそゆき感」がある。当時68歳にして、御大のこの仕事の素晴らしさ。比べるのも失礼だが、おいらのじいちゃんは68歳の時もうヨイヨイだったぞ(爆)。若者なんぞに全くひけをとらない御大の音楽力に感嘆するほかない。最後にハジケまくる、たぶんエルトン永田氏のピアノがまた扇情的でたまらん。

2016. 7. 9

 あと79days。御大、当選しました。これで御大とお会いできますね。もし一か所だけで寂しいなと思われたら、一緒に他会場のチケットも入れて送ってくださって構いません。必ず行きます(笑)。


<なぜかご無沙汰している愛しい歌 第18曲>

♪Not too late

 稀代のヒットメーカー織田哲郎は言う「吉田拓郎さんってボーカリストとしても最高だと思うよ。なにしろ声が素晴らしい。拓郎さんはホント色々な意味で、凄いところで戦い続けてきた人だと思うよ。」織田さんの心からの絶賛が嬉しい。お願いだからもっともっと褒めて(笑)。この作品で、織田さんのメロディーを得て、御大は、ボーカリストとして、そして詩人としてそのチカラを見せつける。
 歳をとるとともに限られていく時間、その中でいずれは別れなくてはならない愛する人へのただれるような思い。しかし、限りある時間だからこそ「Not too late」〜遅すぎることはないう言葉を高く掲げる御大。聴く方も年齢を重ねるたびに、身につまされるような思いが深くなる傑作だ。ああ、ステージで今の御大によるさらに深みを増したであろう絶唱が聴きたい。

2016. 7. 10

あと78days。

<なぜかご無沙汰している愛しい歌 第19曲>

♪よせばいい

 あらゆるしがらみを振り切って自由になろうと御大は歌っているのだろうか。解放の歌に聴こえる。それでいて御大の言葉は限りなく優しい。
 「どうしてこうなったなんて気づかないままがいい」「心が薄っぺらだとしても今は痛むときだから」自らも深く傷ついたことがあるからこそ出てくるであろうこのフレーズの細やかさが泣ける。
 「何もできないからなんて アワレを慰めないで」のフレーズは、私にとって青春の支えだった「僕の一番好きな唄は」を彷彿とさせ嬉しい。「ああ、それだって、よせばいい」という御大の歌唱が解放しくれるものは大きいはずだ。

 そういえば「僕の一番好きな唄は」は聴いたなぁ。

  会社の社長さんなど偉いと思うなよ
  ましてや歌い手さんなど先生諸兄など
  一番偉いヤツ そいつはこんなヤツ
  自分の叫びをいつでも持ったヤツ
  自分のアワレを慰めたりしないヤツ
  戦いに負けたと嘆くじゃないぞ
  強者に立ち向かえば逃げるじゃないぞ

今日は選挙だ。どんな世の中になってしまうのだろう。というか、してしまうのか。この歌に恥じない生き方をできなかった大人として行く前から慙愧に堪えない。

2016. 7. 11

<なぜかご無沙汰している愛しい歌 第20曲・完>

♪Life

 どうしようもない絶望が見えそうな時。例えば天を仰ぎたくなるようなこんな朝。多数派のストリームには絶対に乗りたくないと思うこんな時。でも人間だけは信じていきたいと思うそんな時。この作品は静かに傍らにいてくれる。「こちらを向けと言われて背いても 人が人として息づいているんだ・・」この剥き出しのスピリットで作られたようなこの作品は、悲しみの川に漕ぎ出すオールのようなものかもしれない。明け方のつま恋に響き渡ったような御大の絶唱をもう一度、いやいや何度でも聴きたい。

・・・それにしても当然のことながら20曲じゃ足りんわな。

 このサイトは一個人の勝手な妄言で、言うまでもなく御大吉田拓郎さんご自身のお考えとか、御大の今のお気持ちとも全く何の関係もない。ただ御大がかつて言っていた「少数派」という言葉をすがるように思い出す。

「少数派の必須条件。1 魅力的であること 2 行動的であること 3に、そう最後に優しい者たちであること」(「俺だけダルセーニョ」P.196)

♪やるせなさもかよわない世の中にいつまでも流されてなるものか という御大の咆哮を思う。 

あと77days

2016. 7. 12

 元気を失っている時に訃報が重なるともうギブアップという感じだが、それでも御大のライブが待っていると思うと自分も上を向いて歩こうという気分になる。あと76days。

 アルバム「detente」の時、御大は「『見上げてごらん夜の星を』が大好きで、こういう歌を創って歌ってゆきたい」と語っていた。もっともっとロックを!と思っていた自分には少し意外だったが、今はその気持ちが身に染みてわかる気がする。永さん私もいろいろお世話になりました。

 ピーナッツとキャンディーズの話は素敵な話だなぁ。御大は、ナベプロを始め既成の芸能界と戦った立志伝中の人だったが、実はナベプロに行きたかったと告白して昨今話題になった(前からずっと言ってましたよね(^^ゞ)。でも前の日記にも書いたけど、ナベプロも御大のことがとても大好きだった。
 このちょっと屈折した相思相愛の中で素晴らしい音楽が生み出され、その中で僕らは育まれたのだ。この時代をともに過ごせて実に幸せではないか。
 

2016. 7. 13

 あと75days。ライブを待つこれからの貴重な日々。どう過ごそうか。あれこれ考えて、カウントダウンしながら、これまでのライブの至福な日々を自分の心にとめておこうと思う。ひとそれぞれ、いや後発の私なんかよりもっとすごい体験をされてきた方もたくさんおられるだろうから恥ずかしい限りだ。ライブの中身は、いつかこのサイトのReverenceで書くとして、ホントにささやかなライブにかかわる当時の暮らしの個人的備忘録だ。しかし、ささやかな日々だけれど、積み重なって確実に来るべき日につながっていると思うのだ。

<僕の旅も小さな叫び 1>

1978年3月18日「大いなる人コンサートツアー」 神奈川県民会館

 初めての御大ライブ。蒲田のレコード店でチケットを買った。レコード店で買えるとは隔世の感。「ぴあ」といえば、今みたいな非情なチケット抽選結社ではなく、ただの隔週刊のタウン誌だった。
 関内駅で降りて、道に迷って交番で尋ねて、やっとたどり着いた神奈川県民会館。おい海だぜ、港だぜ。
 18時開演。吉田拓郎ってホントにいるんだという驚き、ホントに最初に春だったねを歌うんだ、ホントに楽譜を床に捨てるんだ、ホントに弾き語りはギター一本で絶唱するんだ、ああこれが「人間なんて」か・・・小林倫博歌いすぎ(爆)、とにかく一挙手一投足に引き込まれ、あっという間に2時間弱の夢の時間は終わっていた。

 単身の高校一年生なので終わったら打ち上げもなく即帰宅。まだ「8時だよ全員集合」がやってる時間だった。

 前月2月23日のボブディランの武道館公演と3月の御大。とにかくこの世にはライブという得体のしれない空間があることを初めて体験したのだった。

 ■この日の一曲■

♪僕の一番好きな唄は

"自分の叫びをいつでも持ったヤツ 自分のアワレを慰めたりしないヤツ"

・・・・ああ、身体がふるえたわい。
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2016. 7. 14

 あと74days。カウントダウンしながら、これまでのライブの至福な日々を自分の心にとめておこうと思う。あくまで個人のささやかな備忘録ということで。しかし、ささやかな日々は、細々ながらも確実に来るべき日につながっているのだ。

<僕の旅も小さな叫び 2>

1978年3月21日「大いなる人コンサートツアー」 渋谷公会堂 昼の部

 初めての御大ライブから3日後。渋谷公会堂昼夜公演の昼の部。東急文化会館でカレーを食べて、公園通りを登って渋公へ。初めての渋谷公会堂。それはフォークの殿堂であったり、紅白歌のベストテンであったり、公会堂の中の公会堂として私を威圧する。この時の黄色いチケットは行方不明だが、午後2時開演だった。
 出がけに父親から「また行くのか、内容は同じじゃないのか」と聞かれ「拓郎さんは二度と同じライブはしないんだっ!!」と啖呵を切って出てきたが・・・同じだった(爆)。
 しかし、さすが聖地渋公。客席の張りつめた熱気が違う。チケットが買えなかった夜の部では観客が盛り上がって帰らずに「落陽」を再演したらしい。

 当時、昼夜公演って凄いなと思っていたが、それから25年後、私は、病に倒れた御大の復帰初日のフォーラム昼夜公演というもっと凄いものを目撃することになる。

 5時前には終り高校生はまっすぐ帰宅、家族の夕餉の食卓についた。しかし、なんだろうこの気持ちは。ついさっきまで僕は「人間なんて」の狂乱の中にいたのだ。それがこうして普通に食卓にいる。でも血は燃えたぎったままだ。至極の非日常と平凡な日常に挟まれてもだえ苦しむ自分であった(笑)。


 ■この日の一曲■

♪夜霧よ今夜も有難う

「ぷらいべえと」のアレンジもカッコよかったが、さらにぶっ飛んで南国調のダンサブルなアレンジに驚く。この自由さ、このうまさ。松任谷正隆のアレンジだろうか、音楽家ってすげーなぁと素直に感嘆する。

2016. 7. 15

あと73days。

<僕の旅も小さな叫び 3>

1978年11月21日「小室等・23区コンサート東京旅行」 目黒区民センター

 Reverenceで書いたとおり、小室等の23区コンサートの目黒区民センターのゲストに碑文谷からやってきた御大。チケットは六文銭ファクトリーに郵送で申し込んだ。生御大しかもストレート長髪バージョンに至近距離での初遭遇に大感激。この日は、名盤「ローリング30」の発売日。前日には、大好きだった作家庄司薫の随筆「僕が猫語を話せるわけ」が発売。いろいろと濃かった。
 小さなライブだが、そこには音楽に向う御大の大いなる胎動があった。社長業のために音楽から離れていた御大が再び立ち上がる前夜だった。終演後、自分まで大きな何かに背中を押してもらうようにウキウキした気分で上った夜の権之助坂よ。

 コンサート会場では詰襟の学生服の自分がまるでガキのようで心の底から恥ずかしかった。私は後発世代で、70年代前半の黄金伝説の日々も経験していないし、ライブ73もつま恋75にも行っていない、あの事件の時、金沢中署を人の鎖になって囲むこともできなかった。
 しかし、70年代後半、ここからまた立ち上がって行かんとする御大を心の底から応援してゆこうと心に誓うのだった。

 ごく最近このライブに行った方を知った。昔あの小さなライブに一緒にいたということだけでなく、それから幾星霜を経て今も第一線で御大を応援している姿に胸が熱くなる。同志よ。

 ■この日の一曲■

♪外は白い雪の夜

 御大がこの日、この作品を初めてライブで演奏。しかも弾き語りの絶唱。この時、高校生は、まさか50歳を超えてからもステージで聴くことになろうとは思いもしなかった。
・・・「君に会ってからというもの僕は」も素晴らしかったことはもちろん。

2016. 7. 16

あと72days。

<僕の旅も小さな叫び 4>

1979年5月1日「セイヤング公開放送」 渋谷エピキュラス

 最初に言うがこれには落選して行っていない(爆)。セイヤング公開録音。なので後日ラジオでも放送されたが、御大、石川鷹彦、常富喜雄の三人編成の垂涎のアコースティック・ライブ。 
 小学校からの友達でこれぞ元祖拓友のT君は当選した。終わって興奮したT君はつぶさに報告してくれた。御大はテンガロンハットのような帽子を被って歌ったらしい。ラジオ放送と合わせて聴いているとなんか自分も行ったような気がしてくる。
 Tくんは繰り返し語っていた。「拓郎、本気だよ。凄ええ良かったよ」。何かが始まりつつあることを僕達も肌で感じつつあった。そして間もなく忘れられない夏を迎えることになる。その後85年つま恋までT君とは御大のライブを一緒に転戦するのだ。

 それにしても、この時、最後のリクエストコーナーで、「僕の一番好きな唄」をどーしても演奏してくれと御大に執拗に喰い下がって、とうとう歌わせた兄ちゃん、あなたは偉人だ。

 ■この日の一曲■

♪僕の唄はサヨナラだけ

Tくんのこの日の絶賛お薦めだ。

次点
♪憧れのハワイ航路 by 陣山俊一
ラジオで聴いた。あの朗々としながらもて少し恥ずかしそうな陣山さんの熱唱が忘れらない。

2016. 7. 17

 あと71days。
<僕の旅も小さな叫び 5>

1979年7月2日通称「デスマッチツアー」 日本武道館

 Reverenceで書いたとおり渾身の御大ソロ初武道館。嬉しくて嬉しくてTくんと開場の4時半には着いていた。グッズ「みょんみょん」のキャップを買う。1500円。高いぞパンダ!!
 チケット獲得戦は長蛇の列の銀座プレイガイド本店をあきらめ穴場の浜松町のプレイガイドに賭けたらアリーナ正面3列目をゲット。やった!めちゃ近いぞ!
 御大は決死隊のような白装束に赤い腰ひも。嵐のようなライブ。最後の「人間なんて」の熱狂のあと、「See You again Shinojima」の電光掲示板。
 撤収作業になってもいつまでも居残りあちこちで万歳三唱が湧き上がる会場。御大が社長業に忙殺され不在の2年間。ニューミュージックの連中が我が物顔で音楽界を占領する中、きっとみんな辛い日々を生きてきたのだろう。そんなこの世の闇時を照らしたもう主は来ませり。それが今日の偉大なる復活だ。
 去年、ボブ・ディランで初めて来た時とはまったく別の会場のような武道館。ああ、だから武道館よ、屋根の梁を高く上げよ、丈高き歌手たちに勝りて志高き歌手来たる。
 
 外に出ると雨だ。帰りの京浜東北線で興奮醒めやらず「すげぇ」「凄かった」を繰り返す私とTくん。そのまま蒲田の「中華つけ麺大王」でビールをガンガン飲む。餃子と大王つけ麺。そしてまたビール。テッテ的に飲んだくれる高校生。「篠島行こうな」「おお行くとも」…これが人生初の打ち上げだった。

 ■この日の一曲■

♪祭りのあと
 御大がハラハラと涙を流している姿を初めて見た。

2016. 7. 18

 あと70days。夏本番か。夏のといえば御大のイベントの夏。「夏フェス」なんかより泥臭く、そしてはるかに気骨があった。・・と昔の人は思うのだが。

<僕の旅も小さな叫び 6>

1979年7月26日 吉田拓郎アイランドコンサート・イン・篠島 アクセス編

 篠島本番の二週間くらい前、御大がラジオで「早く島に行かないと船に乗れなくなるぞ、急げ」という大誤報を流した。すぐに「当日ゆっくり来ていただいて大丈夫です」と訂正情報が出たが、もう遅い。火に油とはこのことで、いてもたってもいられなくなった若者たち。というわけで24日早朝にTくん、私、Fくん三人で篠島へ出発。Fくんは陽水ファンだったが、フォーライフつながりで陽水も出るらしいと騙して連れ出す。ごめんな。

 御大はまたラジオで、リハが盛り上がってハイになったのか、当日のセットリストの予定をほぼ全曲バラしおった(笑)。今ならネタバレだと怒りの大炎上だろうが、昔の人たちは豪胆というか単純なので(笑)、かえって、そんなの演ってくれるのっ!?と嬉しくなってさらに気分が燃え立ったものだ。

 東海道線で名古屋。名古屋から名鉄で師崎。おい、名鉄「拓郎号」はないのか。後日、知り合ったKくんから、ショボイ電車に「拓郎号」という紙が貼ってあったと聞いた。
 師崎から船で篠島へ。拓バカでいっぱいの本船。桟橋にでっかい拓郎のパネルが。

 到着。下船と同時に渡された整理番号360番代。そのまま関係者に拉致されて野宿禁止なので強制的に素泊まり3000円の民宿に行けと言われる。6畳に5人詰め。収容所か。「素泊まりもんはシャワー禁止」と怖い民宿のおばさん。仕方なくシャワーは海水浴場のものを使う。という苛酷な状況で見知らぬ兄さんたちと同室で暮らす。喫茶店のカレー、おにぎり、ラーメン、屋台のたこやき(砂がジョリジョリ)で命をつなぐ。

 25日拓郎が桟橋に到着の知らせ。見逃した。ビデオに映りそこねた。その日の夕方、鬼の「怒れるマネージャー渋谷高行氏」から宿泊しているファンの代表者たちに召集がかかる。これが後の世にいう「渋谷集会」だ(笑)。御大も自分の父親に顔がそっくりだと恐れていた渋谷さんから「これ以上島の人に迷惑かけるな、いい加減にしなさい」といきなりファンの蛮行の数々を怒られる。そして、諸注意のあと最後に一喝「・・・ということで明日は、予定を早めて午前5時開場。それまでに桟橋の前に整理番号順に全員集合っ!」。カリスマアーティストはマネージャーもまたカリスマである。

 とにかく寝過ごしたら大変だと緊張し、宿の殆どの人たちが徹夜するしかなかった。

 ■この日の一曲■

♪流星

 篠島の収容所ちゃう旅館のテレビの前に街頭テレビのように集い、ドラマ「男なら」を観ながら、知らない兄さんたちとみんなで国歌斉唱のように主題歌「流星」を唱和した。劣悪な環境だったけど、なんか幸せだった。
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2016. 7. 19

 あと69days。「昔のお江戸に住めたならもっと長生きできただろうに 長屋でゆっくり昼寝して夜になったら一杯やって」。これぞ理想だ。そこには平和しかない。平平平平さん、間違っても兵兵兵兵さんになりませんよう。

<僕の旅も小さな叫び 7>

1979年7月26日 吉田拓郎アイランドコンサート・イン・篠島 本番

 午前5時に開場したが、それから夜の開演まで炎天下の会場で照り焼き状態。しかしも多くの人々は前日ほぼ徹夜だ。死ぬぞ、普通。どうしても御大に逢いたいという執念で人々は命を繋いでいたのだ。

 そして、私の記憶では、午後7時ではなく、6時50分に「ローリング30」が鳴り響いた。予定より早く開始したと思う。おそらく最終の連絡船が着いてしまうと、島は完全隔離。盗人だってここじゃどこにも隠れられない。ということで、遅れて来るやつなんぞはいないので、いいや、みんな燃えてるんで早く始めちゃえということではないかと拝察する。
 いよいよ「ああ青春」のイントロで湧き立つ観衆。キターーーー。「やるぞぉ」と颯爽と登場した御大の姿に、見知らぬ隣のねーさんが「・・ああ、カッココイイぃぃぃ」と嘆息したのが耳に残っている。ホントにカッコよかったのだ。そして朝までの狂乱の宴が始まる。
 凄かったね。苦節6年やっと生で聞けたぞ「朝までやるぜ」。松任谷正隆、鈴木茂、瀬尾一三らによってブラッシュアップされた音楽とともに、「OK松任谷」「おまえらもう客じゃねぇ」「ソウルだけは負けねぇ、ソウルだけで戦っていく」「た・え・こ・マ・・違うなこりゃぁ」「俺の中に入ってこい」「今度はおまえたちの街に行くぜ」・・・音楽だけでなく印象的な言葉も刻まれていく。いつかちゃんとReverenceで書こう。
 客席も結構荒くれていた。「旅の宿」で「さっきの連中も歌えるかぁぁ」・・・あれは、それだけ客席も殺気立っていたことの証跡である。

 それにしても長渕剛は、大袈裟だな。帰れコールなんて聴こえなかったぞ。ただあの時聴いた当時の新曲「祈り」が泣きそうになるくらい美しかったのを覚えている。
 
 最後の最後に声をふりしぼって「人間なんて」。ほぼ燃えカスになった自分。午前4時半終焉。♪夜明けだね、青から赤に・・・ってそれは大瀧詠一だ。♪防波堤の上に朝日が射すよ。帰船の整理券番号が早く、午前5時前の船で島を離れる。まだ嵐の余韻の残る島から、ただボロ雑巾のように精根尽きた私たちは明け方の海に船出していったのだった。
 とにかくありがとう、愛してるぞ篠島。

明日は、篠島の総括編「シンポジウム篠島とは何だったのか」の予定です。って誰に言ってるんだ。

 ■この日の一曲■

♪落陽

 世間はニューミュージック一色。この翌日もアリスとこうせつのつま恋イベントがあり、世の話題はそちらがさらっていた。けっ。
 そんな中、離れ孤島の御大と私たち。山本コータローが御大に言ったという。「『篠島を日本』そして『日本全体を世界』だと思って篠島で歌ってほしい」。
 こちら陣営が世界に挑んでいくときの有力な武器のひとつが「落陽」だった。過去、これほどまでに落陽が必要だった時期はないと思う。

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2016. 7. 20

 あと68days。

<僕の旅も小さな叫び 8>

1979年7月26日吉田拓郎アイランドコンサート・イン・ 篠島 追憶編

 それから26年経った2005年に篠島を再訪した。島はどこか淋しげで、私もすっかり老人になっていた。かつて御大の泊まった「篠島グランドホテル」に向う。送迎バスのおじさんに、あの日のライブの話を振ると「ああ、デビューしたころの長渕剛が出たやつね。長渕、いじめられて、きっとこの島のことあんまり良く思ってないよね」・・と勝手に長渕剛の話を語り出した。そんなこと聞いてねぇっす。

 旅館の仲居さんは、「はい、はい、はい拓郎さんね」と喜んで、御大の泊まった部屋を特別に見せてくれた。306号室という和室だった。「なんか拓郎さんのことで覚えていることありますか?」という質問に「コンサートの休憩時間のたびに部屋に帰ってきてシャワーを浴びられて、そのたびにお湯の出が悪いととても怒っておられました・・・」って、どういう思い出なんだよっ!!
でもあったぁぁぁぁ、旅館に残された当日の御大のサイン。S54.7.26まさに当日。1979ではなくS54。

 ところで、2009年のツアーバンフのインタビューで御大は「篠島」について結構ショッキングな述懐をしていた。

「79年篠島をやった時に、自分のやっている音楽がそんなに新しくないということをすごく思った。自分は新しいことをやってるわけじゃ全然ないと篠島で気付き始めて。」

 青春と篠島がシンクロする私には少し寂しいが、大切な発言である。篠島は、御大の復活を賭けたかけがえのないイベントではあったのだろうが、音楽家としての御大はまた違う地平を見つめていたのだ。・・その年の暮れに古い曲を全部捨てると言ったのもここに原因があるのか。

 「過去の素晴らしい栄光」と「過去に囚われない新しい音楽の追求」、この二つの間の矛盾と相克。このアポリアこそが御大とファンの難しさではないか。そして歌い続ければ続けるほど、御大の栄光の過去は膨らんでくる。例えばつま恋2006は私たちのつい最近の最高の思い出であるが、たぶん御大は、もうそことは違う地平を見つめているに違いない。だから御大はこの歳になっても新曲に挑み、新しいライブを目指す。
 そうやって私たちは、時に御大とすれ違い、御大の背中を見失ってしまうのだ。音楽家とファンが仲良く過去の思い出に安住することはない。それがファンには時に寂しくありまた誇りでもあったりする。

 ■この日の一曲■

♪春を待つ手紙

 桟橋に立って遠く海を見つめていると、燃える陽炎の中に、この歌が流れて、御大が両手を突き上げながら水中翼船でやってきそうな気がする。昔に生きるのではなく「ここは何かの記念にしとこうな」と言った御大の粋なMCを思い出す。
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2016. 7. 21

 あと67days。
「フォーエバーヤングってアルバム出したらしいけど、それは『いつまでも若くいたい』という意味なのか『いつまでも若い女性を愛したい』という意味なのか、どっちなんだ」
と御大につっこんだ巨泉さん、ご冥福をお祈りさせてください。ちなみに御大は「前者です」とまじめに答えていた。

<僕の旅も小さな叫び 9>

1979年9月22日 篠島フィルムコンサート 九段会館

 まだ終わらないぞ篠島。〆は、九段会館での篠島ライブフィルム上映会ときたもんだ。7月26日に本番で、9月中旬にフィルム公開だから、かなりの超特急で制作されたことになる。監督ダーイシー、助監督山本コータロー。
 土曜の放課後にダッシュで行ったが、九段会館の前には幾重にも列ができている。小さな会館だが威厳があり、堀を挟んであの武道館と向き合っている。九段会館から眺める武道館は美しい。桜の時期なんて最高ですぜ。
 結局、自由席だったので、二階の通路に座って観た。それもイベントっぽい。とにかくテレビ放映もビデオもDVDもない時代だから映像の御大は大変貴重なのだ。これを逃したらもう観られないかもしれないという気持ちで食い入るように見入る。そんな貴重な機会だし、つい最近のことだし、みんな拓バカだから、もう会場は、拍手喝采は当然のこと、大声で歌うわ、叫ぶわ、泣くわ、「あーっあれオレだ」とか叫ぶヤツがそこここに溢れていて、威厳ある会館は、まるで宴会場だった。

 最初、篠島の景色に御大の姿がチラチラとインサートされるこのビデオのオープニングは興奮するなぁ。またセルビデオではカットされているが、冒頭に九段会館で対談する小室等と御大が出てくる。「ふりあげたこぶしを自分に降ろす」。
そして最後には、「人間なんて」がフェイドアウトすると御大が一人、篠島の岸壁に立って海を見つめるシーンがあった。なんか変だった(笑)。みーんなカットされたけど。一度ノーカットで出してくれよ。

 その晩は興奮して、例の蒲田のつけ麺大王でビールと大王つけ麺で一人打ち上げをして、翌日の旺文社模試に大遅刻したのを覚えている。

 そして、2011年悲しく残念な最後ではあったが、長い役目を終えた九段会館。亡くなられた方々を含めて哀悼の意を表させていただきます。

 ■この日の一曲■

♪ローリング30

 コンサートの前奏曲として、そしてこの映画の主題歌として、「ローリング30」は、このために作られたかのように実に見事にハマリこんでいる。生では一度も歌われなかったが、まるで79年のライブシーンの集大成のようで、すべてを巻けばこの一巻に納まるがごとき結晶作だ。この詞を松本隆が書いているというのも驚く。「はっぴいえんど」のまるで低体温の寝言みたいな詞とは全く別人のようだ。おい。多才とはこういう人のことを言うのか。
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2016. 7. 22

あと66days。

<僕の旅も小さな叫び 10>

1979年11月6日 吉田拓郎コンサートツアー 渋谷公会堂

 ライブ上映会のあとは、ライブアルバム「TAKURO TOUR1979」が豪華箱入で発売され、怒涛の秋のコンサートツアーが始まった。春ツアーがあるんだから秋ツアーがあって当たり前だと思うかもしれない。しかし声を大にして言いたい。かつてビッグイベント75年つま恋の後で御大は燃え尽き、コンサートが久しく途絶えてしまうというとても不安なひとときがあった。しかし今回は違う。篠島のビッグイベントの後、秋にも元気で堂々とツアーを決行してくれる。このことが当時どれだけ心強かったことか。

 こんときチケットは、浜松町では取扱いがなく有楽町交通会館のプレイガイドでかろうじて取ったが、渋谷公会堂2階の最後列だった。武道館と違って、渋谷公会堂は各プレイガイドへの配券枚数が少なかったりゼロだったりするので要注意だ。今注意してどうする。

 御大の衣装は、パイロットシャツに銀のネクタイ。スタイリッシュに見え、憧れたもんだ。大人になったらああいうカッコでキメようと思っていたが(笑)。基本的には、篠島のウイニングランのような進行だったが、「Fの唄」、「この次はこの街で」という印象的な新曲が配され、そしてオーラスはあの「人間なんて」が封印されていた。そしてその代わりに新曲「ファミリー」が初めて披露された。既に80年代への胎動が始まっていたのだ。伝説のベース武部チー坊はこのツアーからの参戦だ。コーラスがいなかったので、鈴木茂とチー坊がピンのマイクで、♪バーイバーイ、ラーブ、♪マイファーミリーと一所懸命コーラスをつけていたのがなんかプリティだった。

 少しゆとりを感じさせる盛り上がりの終演後、T君と私は、渋谷の安い唐揚げの店に入って、イッチョ前にビールを飲みながら今後のことを話し合った。

 このあと12月には小室等・西岡たかしとの「10年目のギター」、大みそかには日本青年館ライブが控えていたが、そういえば私は、来春の大学受験を控えた高校3年生だった。受験の天王山の夏は篠島で燃焼しつくし、秋はライブフィルムだ、ライブアルバムだ、秋のツアーだと盛り上がり受験生としてはかなりアウトだった。就職組のT君も就活に悩んでいた。ということでこのライブを最後に、受験終了、就活終了までライブの参加は封印することにした。二人で今年のライブの幸せを振り返り、来年春のライブ参戦を誓って別れたのだった。もちろんテレビやラジオはそれこそ真剣に見聞きし続けたが。

 今からの受験は無理だとか周りからは否定的なことばかり言われたが、79年の御大の大復活を目の当たりにした僕とおそらくT君も、だからこそ、やってやろうじゃないかという・・まぁ屁のようなものにせよ(笑)勇気と気概があった。

 御大は、年末の日本青年館で古い歌を全部捨てると宣言。真剣に80年代に向おうとしていた。自分も自分なりのショボイ未来をそこに重ね合わせていたのだった。


 ■この日の一曲■

♪ファミリー

 「むづかしい歌詞だからよく聞いてくれ」と御大は言っていた。「ひとつになれないお互いの愛を残して旅に出ろ 誰にも話せない 語れない」この詞に当時、子どもなりに震えたものだ。「人間なんて」「アジアの片隅で」よりも私はこの作品が好きだった。含蓄ある言葉と深い行間で出来上がっているこの名作は、今も自分の支えだ。
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2016. 7. 23

あと65days。

<僕の旅も小さな叫び 11>

1980年7月17日FM東京開局記念 吉田拓郎ライブ 日本武道館

 死闘の末、運良く大学の合格通知を貰った3月初旬。御大のおかげだと今も思っている。しかし既に「古い歌を捨てた新曲だけの80年春のツアー」の渋谷公会堂のチケット発売は終わっていた。痛恨。就職組のTくんも会社の新人研修で忙殺されプレイガイドに並ぶどころではなかった。TYISもぴあのインターネット販売もない時代、完敗であった。
 奇特な音楽雑誌に渋谷公会堂のセットリストとMCを全部反訳した記事があって、繰り返し読みながらライブを夢想したものだ。

 そして5月下旬だったか、夏に追加公演の武道館があるというので、Tくんと二人そこに僕らのライブ復帰戦を賭けることにした。もはや私は自由な大学生だったし、Tくんも一か月で会社を辞め自由人のフリーターになっていた(爆)。早っ!
 ともかくヒマ人二人で頑張って、アリーナ正面の3列目をゲットしたのだった。ありがとう浜松町チケットビューロー。

 Reverenceで書いたとおり、昨年のようなあらゆる逆風を突破することを目的としたイベントチックな武道館ではなく、音楽的重厚さとクオリティに照準をおいたかのような成熟した武道館だった。
 観客がスタンディングしたのは、たぶん中盤の「落陽」だけだ。しかし、意表を突くオープニングの「ファミリー」から「おきざりにした悲しみは」「マークU」のカッコ良さに痺れた。また春ツアーを逃した私らは「アジアの片隅で」というレコードになっていない大作があるらしいという噂に身もだえしていた。ブッカーTを招聘し、その完成版の全貌を現した「アジアの片隅で」。この大作感が半端なかった。
 今思えば非の打ちどころのない素晴らしいコンサートだったが、当時の会場の空気には「え、なんで『人間なんて』やらないんだよ」という声なき声、いや実際に怒ってた客もいたな。そういう不満な空気があったのも確かだった。御大とファンのすれ違いの萌芽のようなものがこの時から確かにあったと思う。御大とファンのある意味厳しい80年代前半の戦いがはじまる。

 終演後のTくんとの打ち上げも、蒲田の「つけ麺大王」から「サントリー館」に昇格していた。このサントリー館でこの日生まれて初めてカラオケを歌った。武道館の興奮で舞い上がった二人で「舞姫」をデュエット。レコードでは最後に「・・運命という糸にひかれて踊るのさ」の最後に「舞姫ぇ人は死ぬまで・・・」と歌を重ねてシンクロさせている。一人カラオケでは再現できないのだが、二人でデュエットしパートを分けるとそこを再現できるのだ。・・・だからどうした。おまえら阿佐ヶ谷姉妹か。

 ■この日の一曲■

♪二十才のワルツ

 弾き語りのコーナーでこの日初めて聴いた新曲。その場で初めて聴く歌ながら、哀愁に満ちたメロディーと御大の情感溢るる見事な唄いっぷりに涙が出そうになった。御大のボーカル力の素晴らしさが結実していた。今更だけど歌うまいよなぁ。
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2016. 7. 24

 あと64days。森下愛子さん、徹子の部屋いつ放映だろうか楽しみだ。愛子の部屋には徹子がいる、逆か。

<僕の旅も小さな叫び 12>

1980年10月4日TONY 新宿西口5号都有地

 今、都庁の建っている土地は、もともとでっかい空き地だった。東京ニューヨーク姉妹都市記念なんとかで ”TONY”と銘打って、渡辺貞夫、吉田拓郎、森山良子らが共演する野外ライブが催された。
 この日10月4日の深夜1時、御大二度目のオールナイトニッポンの初回。中村雅俊と草刈正雄がガチ酔っぱらいで乱入に大笑い。その放送が終わってから、T君とともに始発電車で新宿に向った。午前6時に会場到着。御大のピン公演ではなかったからか、さほど待合の列は長くなく先頭の方だった。西口の高層ビルもまだまばらで、そこで午後2時の開場午後4時の演まで待つ。長い時間だが、なんせ街中、篠島よりは楽だった。お昼頃、御大が「あの娘といい気分」でマイクテストと発声練習をしているのが聴こえてきた。
 おかげさまの最前列。都有地は満員。ニューヨーク関係だからか外人率が高い。定刻開演と思ったら、まずは鈴木都知事のご挨拶(爆)。知事は「これからの歌と演奏、第三者の厳しい目で審査いただきたい」と語った。嘘だ。ってくだらない。

 最初に、原信夫とシャープフラッツをバックに森山良子ねーさんの美声。「歌ってよ夕陽の歌を」が素晴らしかった。黒人の青年が感動して拍手しながら泣いていた。「吉田拓郎さんが作ってくれました」とのMCにさらに大歓声。「アタシの他の曲にもそんぐらい拍手しろよ」と怒ったザワワねーさん。
 そして、二番手にテンガロンハットをかぶった御大が気さくに登場。「こんちはー」。一時間弱のリラックスしたステージだった。「あの娘といい気分」「マークU」と快調にとばす。予定にはない「落陽」をワンフレーズ歌う。
 いいーなー野外は。空に抜けていく感じがいい。御大は野外がよく似合う。最後の「アジアの片隅で」の時に、ほぼ夕陽が落ちた感じで、近所の高層ビルにも色とりどりの照明が反射して、まるでビル群がUFOから攻撃を受けているかのような幻想的空間を作り上げていた。スタンディングして「アジア」をシャウトする観衆。しかも、歩道橋や陸橋に人が鈴なりになっていて、タダ見していた(笑) ああ、この至福の何十分かで長かった待ち時間も含めてすべてが満たされてゆく。
 最後のナベサダさん。ナベサダさんに「つまごい」って曲があるんだね。たぶんあれとは関係ないけど。オーラスに最後に三人で出てきたときは、御大は白いスエットに着替えていた。始終にこやかで、適当に抜いている感じがたまらなく素敵な御大であった。
 本当に東京ですごす一日はこの街の一年のようだ・・・ってそれは甲斐バンドだろ。甲斐バンドも後にこの会場でやったよね。

 で、終わってそのまま新宿の確か「北の家族」でT君としこたまビール。「拓郎たち来ないかなー」って来るわけねぇだろ(笑)とあの日の自分の頭をハリセンで叩きたい。

 ■この日の一曲■

♪いつも見ていたヒロシマ

 たぶんこの日がライブの初演。ファンのくせにあまり御大を誉めないT君が珍しく「ああ、これはいい歌だなぁぁ」と感慨に耽っていた。それほど名曲である(笑)。この時は、メンバーにジェイク・コンセブションがいたので、レコードのイントロのアコギのあとのストリングスのメロディーをフルートで奏でていたのが特に美しかった。アルバム「アジアの片隅で」発売まで一か月を切っていた。
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2016. 7. 25

あと63days。

<僕の旅も小さな叫び 13>

1980年11月4日吉田拓郎コンサートツアー 渋谷公会堂

 んでもって、TONYで喜んでいるうちに、すぐに秋のコンサートツアーだぜ。アルバム「アジアの片隅で」をひっさげてのツアーだ。既にシングル「元気です」は、宮崎美子のドラマとともに発売中。

 渋谷公会堂の座席には、大学のアジビラみたいな手書きで「シングル「元気です」発売中、どんどんリクエストしてTBSベストテンの1位にしよう」と書いてあった。やる気があるのかないのかよくわからないフォーライフ。この作品も心の底から名曲なれど、後年評価が上がった部類ではないか。もっともっと売れてよかった名曲。

 席は関係者席のすぐ後ろ。なぜかというと前の席が浅田美代子さんとご関係者様のお席だったから。興奮した私は、Tくんにサイン貰おうよと言うと、いさめられた。「既に引退して、家族とのひと時を過ごしている人には失礼だよ」。偉いぞTくん。でも、MCの時にTくんが「ダイエーっ!!」と叫んだら、振り返って笑ってくれた美代ちゃん。

 この日、王選手が引退。御大は凄く怒っていた。楽屋でスポーツ紙のインタビューがあったけれど「絶句」とだけ答えたと言っていた。

 キーボードは松任谷正隆もエルトン永田もおらず、中西康晴一人だった。後にラジオで渋谷高行さんがこの年のニュースを問われて、近年初めて松任谷さんのいないツアーだったことを挙げていた。中西さんは一人のためえらく忙しそうだった。しかし最近の武部さんは一人でもそう観えない。やはり現代テクノロジーの威力なのか。

 「あの娘に逢えたら」が珍しかった。確か「ヤンタン東京」で初日に行ったファンから「ベストヒット吉田拓郎」みたいな構成でつまらなかったというハガキが来ていた。渋谷でもそのハガキのことをちらっと話していた。気にしていたのか。これもファンとのすれ違いの萌芽なのか。
 しかし、このステージはどうしたって、「いつも見ていたヒロシマ」と「アジアの片隅で」が圧倒的に素晴らしかった。「アジア」でスタンディングするラストがこのライブで定着する。「わざとらしいアンコールはやらない」という御大のご託宣で、アンコールなし。客席もとっとと引き上げだ。スタンディングしてノッていた美代ちゃんが終わってから「疲れるコンサートだわ」とつぶやいたのを聞きのがさなかったぞ。

 終演後、会場で買ったアルバム「アジアの片隅で」(発売前日の先行)を抱えて、途中で牛丼弁当と缶ビールをしこたま買い込んで、そのままTくんの部屋に直行し、大音量で聴いた。「すげぇいいよね」「なんかチカラ湧いて来たよ」俺たちはいいけど深夜に近隣は迷惑だったろうな。

 ■この日の一曲■

♪家族

 この日は弾き語りコーナーが長かった。御大のライブでの弾き語りコーナーはこの日を最後に、9年近く封印されることになる。
 「ファミリー」のサワリを歌い「この歌の続編です」と紹介して歌い始めた。「家は出たけれど」この切ないさすらいの詞は、岡本おさみの手になるものとはずいぶん後で知った。「初めの敵になるのは両親だ」そしてさまよいの中に「家族が死んだと聞かされて溢れてきた不届きな涙達」、「サラリーマンは急いでいくのに何もすることがないなんて」、最後に「長い寒さに訪れた人恋しさ」「一人の女と棲みついてしまった」「家を出たはずなのに」というつぶやきでしめくくられる。抜き身の刀のような壮絶な詞と絶唱に驚いたものだった。
 公式には、御大のソロライブでは、このツアーでしか歌われていない。このゆくあてのない名曲にもう一度光を。
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2016. 7. 26

 あと62days。お、7月26日だ。

<僕の旅も小さな叫び 14>

1981年7月23日「体育館ツアー」日本武道館

 もし神様が一度だけ今までのライブをもう一回体験させてやると言われたら、迷わずこの日の武道館を選ぶ。・・あ、でもかなり悩むかな(笑)。真夏だけれど春の風が吹き渡るような清々しい武道館だった。この三度目の武道館の時は、浜松町のプレイガイドが知れ渡ってしまったため、席はアリーナ後方と今までより後ろだったが、どんな席でもいいからあの空間に再び身を置きたい。

 中近東な衣装や女性コーラスを配した構成は、翌82年の王様達のハイキングのプロトタイプのようだ。但し「青山徹」がおらず「鈴木茂」がピンのギタリストとして君臨する(常富さんごめん)。青山徹も素晴らしいが、私は、あのギリシャ彫刻のような面持ちでギター奏でる鈴木茂がたまらなく好きだった。そして名手松任谷正隆の復活。

 オープニングのジェイダの「夏休み」のアカペラに制圧され、そこにいきなり新曲「この指とまれ」が歌われる。
 レコードにもなっていない数々の新曲たちがメインストリームになった見事な構成。「春を呼べ」「Y」「サマータイムブルース」「風のシーズン」・・・これらの初めての新曲たちは、どれも音符が弾んでいるかのように、いきいきと迫ってきた。どの曲にも清々しい透明な風が吹いているようだった。後にレコードになった時は、まるでいけすの魚のようだったが、このライブの現場ではどの曲もピンピンと跳ね回っていた気がする。ライブ73もそうだったのだろうか。
 新曲たちが自らだけではなく、過去の曲たちをも照らしているようなあの現場の雰囲気をゼロの気分でもう一度体験してみたい。

 会場には「ONLY YOU」のジャケットの大型ポスターが売られてたが、このポスターは「原宿ペニーレイン」にも貼ってあったし、パネルは、原宿駅にも飾られていた。社会派プロテストの「アジアの片隅で」とは対極のファッショナブル路線のように見えた。

 しかし、御大のMCはショッキングだった。「次いつ会えるかはわかりません。」「しばらく休みたい」「次会えるのが何年後だとしても今と同じ叫びをできるバイタリティを持っていてくれ」「オレよか先に老け込むな」・・このまるで遺言のような不穏なMC。
 実際81年の秋ツアーは、一部チケット発売までなされながらキャンセル。ツアーキャンセルというと最近のことが想起されるが、ワンツアーまるっとすっ飛ばしてしまうこっちのほうが凄いかもしれん。このところラジオでも「気分が優れない」「お尻の肉がげっそり痩せた」など苦悩の様子が窺えた。御大はここで何に悩み苦しんでいたのだろうか。当時のラジオを何回も聴きなおし、インタビューを読み込み、自分なりの下種の勘繰りはあるのだが、それはいつかReverenceで書いておこう。

 しかしそんな不安がありながらも新しい曲たちの作り上げる音楽の爽快さは素晴らしかった。しかもコンサートのラストに「アジアの片隅で」(御大はギター思い切り間違えたが)と「ファミリー」が配されていて、客ともどもたっぷりシャウトする充足感。

 「自分の悩みを音に反映させないだけディランより拓郎の方が素敵だ」という亀渕昭信さんのコメントが胸にしみる。
 
 武道館の門をくぐりながら、「拓郎、どうするんだろう、やめちゃうのかな」と言うとTくんは「そんなわけないよ、面倒くさくなっただけだよ、アイツいつもそうじゃん」と笑っていた。どっちみち御大がいなくなるなんてありえない二人であった。しかし、次のステージで御大に会うのは、この1年後。この時期の1年は長かったよ。

そういえば、当時のラジオで御大は、このツアーの札幌のビデオ映像を観ていたよね。あるんだよね、映像が。出せ、出してくれ。


 ■この日の一曲■

♪この指とまれ

 一曲目にハードな新曲でカマす御大。あまり軽快とはいえないステップ(笑)でステージに現れた御大。それに呼応して総立ちになる観客。この美しい蜜月。「出まかせ言うな 愛など語るな オイラとにかく大っ嫌いだね」。この胸のすくような叫びがたまらなく愛おしい。
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2016. 7. 27

 あと61days。中川さんの訃報。御大のライブはもちろんユーミンの苗場での優しいお姿も忘れられない。確かスキーの腕も凄くて国体級だったと聞いたけど、そんな凄さをも決して表に出さない、御大のいうとおり静かなるギタリストだった。青山さんとそんなに年齢は変わらなかったはず。まだ若い。素敵な音楽をありがとうございました。心よりご冥福をお祈りします。

<僕の旅も小さな叫び 15>

1982年7月27日通称「王様達のハイキングツアー」 日本武道館

 ああ、今日だ。あれから34年。

 私には実に一年ぶりのライブとなった。ラジオは熱心に聴いていたけれど、前年の秋に「ヤンタン」が終り、その年の春に「オールナイト」も終了しレギュラーはゼロになった。置き土産のように生まれた名曲「唇をかみしめて」。

 当時私のつきあっていた彼女も一緒に行くということで、それはそれは気合いを入れて、蒲田に新設されたプレイガイドに並んでアリーナ三列目を取ったが・・・巨大スピーカーの真ん前だった(爆)

 ちょうどこのころ武道館は、オフコースの10日間公演というのをやっていたはずだ。そのOFFの日にこのライブが設定されていた。よく考えると面白くないが(笑)、それ以上に御大の武道館への「帰還」が嬉しかった。
 また、当時は、翌83年は、79年篠島から4年のオリンピックイヤーでオールナイトイベントが噂されていた。この時「佐渡ヶ島」説が有力だった。御大関係はそれはそれで盛り上がっていたのだ。

 「王様達のピクニック」改め「王様達のハイキング」というツアータイトルにも驚いたものだ。昨年の武道館の時の引退すら匂わせるような「迷えるMC」からは完全に吹っ切れており、独自の世界があった。社会派路線でもメッセージ路線でもなく、愛と自堕落とロックンロールの世界とでもいうべき世界だった。
 ファッショナブルなレノマの衣装に身を包み、モニターをステージ下に埋め込んだシンプル・ビューティーな白亜のステージ。本当に御大のライブなのかと見紛う別世界のコンセプトだった。

 そして何より「最強バンド」だ。強固なカタマリとなったサウンドは圧倒的だった。おそらくどんなバンドよりバンドだったのではないか。今聴いてもそのサウンドは素晴らしい。この鉄壁のバンドが御大の歌に命を与えているのが分かった。出力のパワーだけでなく、「祭りのあと」の青山の泣くギター、思わず身体が揺れるポップな「風に吹かれて」、おまけと言いながら聴かせてくれた「マークU」の繊細な美しさ、実に達者な素晴らしいバンドだった。

 というわけで、ビーチボールやウキワが舞い飛んだりしたまさに真夏の夜の夢だった。

 何かの路線を選択することは何かを切り捨てること。いろいろややこしい気分もあったが実に素晴らしい一夜であった。

 当時付き合っていた私の彼女とTくんと私という異例の三人体制で臨んだのだが、「フォーク=吉田拓郎=ジンーズ」という知識しかなかった彼女は、特にびっくらいこいて「すごーい、スターかアイドルみたい」と感嘆し、Tくんが「いやぁ、それほどのもんじゃないですよ」と権限なく謙遜していたのを覚えている(笑)。

♪悲しいのは

 特に凄いよね、この鉄塊のようなカタマリ感。まさに魂の律動。キーボードの一音一音に魂がこもっていることがわかる。惜しむらくは、この島村さんのドラムソロと御大のパーカッションもノーカットでレコードにしてほしかった。無敵のバンド。今でもこの演奏を聴いて気を取り直す。

チケット捜索中・・・
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2016. 7. 28

 あと60days。

<僕の旅も小さな叫び16>

1982年10月15日通称「王様達のハイキングツアー秋」千葉県文化会館

 7月27日の武道館のあと9月末から文字通り怒涛の秋のツアー。ハイキングどころか強行軍のようだ。鉄壁のバンドが、場数を踏めば踏むほど、練り上がっていくのがシロウトにもわかった。
 秋ツアーは、当時お付き合いしていた彼女の地元の千葉に二人で、渋谷は相棒Tくんと二人で行くことになった。

 千葉県文化会館。小湊鉄道で来る彼女と千葉駅で待ち合わせしひたすら歩いた。この時も歩きながら「吉田拓郎がどれだけ凄いか」を語っていた気がする。二十代の一般女性にはさぞや迷惑だったろう。すまん。
 でもその後も女性と付き合うたびに、好きになってくれなくてもいいから、「吉田拓郎」が世間のイメージなんかより、どれだけ凄くて、どれだけで繊細で、どれだけ魅力的か、わかってほしいとひたすら苦闘していた気がする。趣味の押し付けというより価値観の共有のつもりなのだが、いつもむなしい戦いだった (笑)

 7月の武道館のあと、そのまま松山千春のライブに参戦した島村英二さんは無理がたたって倒れられたというニュースが入っていた。その負担を慮ってか、ドラムは、島村英二と田中清司のツインドラムという、今思うとすんごいシチュエーションになっていた。
 基本的なライブの構成は、春ツアーとほぼ同様だが、ファッショナブルな装飾的な要素がとっぱらわれ、白亜のステージは真っ黒に塗られ、より骨太なロックになっていた。「春だったね」で始まり「春を呼べU」で終わる。「春を呼べU」は、コンサート最後を締めくくる曲にも適任なんだなぁと感じた。「来年のイベントまではもう止まらないぜ」という御大の扇動的なMCもあったりした。本当に止まらない暴走機関車のような不良オヤジたちであった。

 なかなか一般女性に共感していただけるような内容ではなかった。「なんでオフコースとかじゃなくこんなもの観てるんだろうアタシ」という心の声が聞こえるようだった(笑)。でも彼女も、御大のMCで、売れない頃の御大が湘南の不良をやっつけて、双子姉妹の用心棒になって中野坂上から自転車で駆けつける話には抱腹絶倒していた。
 その後、彼女と別れて随分たって再会したら、熱烈な浜田省吾のファンになっていた。「あ、知ってるかな浜省って、拓郎の・・」と言いそうになったが、もはや他人の人生だ、いや最初から他人か。お元気で。

 ■この日の一曲■

♪狼のブルース

 決して好きな歌ではないのだが、この曲でのバンドの疾走感というか暴走感がハンパなかったので忘れられない。間奏で、ステージの中央にギターの青山徹とショルダー・キーボードを抱えた中西康晴が出てきて、ソロ・バトルをするのが凄かった。2009年のツアーバンフの御大のインタビューで、このバンドは青山と中西の衝突によって音楽的なクオリティが維持されていたという発言があったが、この時の象徴的な光景が浮かんできたものだ。
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2016. 7. 29

あと59days

<僕の旅も小さな叫び 17>
1982年10月29日通称「王様達のハイキングツアー秋」渋谷公会堂

 で渋谷だ。二日間公演の二日目。今は無き浜松町のチケットビューローで買った最後のチケットだ。老夫婦二人でやっていた。時間になると夫婦でやってきて、面倒くさそうにシャッターを開けて、不愛想なおじいちゃんがフトコロの小さなショルダーを開いて大事そうにチケットを出して数えるのだ。確か渋谷のチケットは5枚しかなかった。これまで貴重なチケットをいただいた。あらためて感謝したい。最後のチケット、みんさいや、かっこええじゃろ。

 セットリストは同じだが、ドラムが島ちゃん一人になっておる。御大もメンバーも化粧しておる。などなど微妙な違いはある。そういえば、坂本龍馬のテレビ版の放映が近かったこともあって、その収録秘話のようなMC。バンドはすっかり結束が固まってしまったようで、演奏中は、まるで悪ガキがふざけ合っているような盛り上がりだった。ベースを弾いている武部チー坊に、常富さんが後ろから膝カックンをして、御大が笑ってマイクオフになってしまうシーンもあったように記憶している。もうバンドの結束と演奏は無敵状態だった。

 御大はこのバンドとともに愛と自堕落路線で突っ走ることを決めたかのようだった。しかし、反面で指の間からこぼれ落ちていくものもあった。「チェっ!サウンド志向になっちまったな。」と帰り際にどっかの兄さんが呟いていた。自分もそう思った。御大のメッセージに力を貰って生きてきた自分のようなファンには、ロックの凄さはわかっても、シリアスな御大の言葉や歌いかけがもっともっと欲しかった。凄いサウンドなれど微妙な物足りなさが残ったのも事実だった。そして不幸なことにその気持ちはどんどん広がっていくことになる。

 終演後、Tくんと地元蒲田のサントリー館で飲むとTくんもつぶやいた「俺はこういう拓郎が聴きたいんじゃない」。でも、自分聴きたい拓郎とTくんの聞きたい拓郎は違うだろうし、拓郎本人もっと違う。この決して誰とも交わらない交差交流がどこまでも広がっているようで、俺たちは突如、不安で悲しくなり、いてもたってもいられなくなった。そして意を決して御大の当時の所属事務所オフィスUFOの辻さん宛に、こういう歌が聴きたいんです、例えば「流れる」と「ファミリー」を歌ってください・・・と勝手な手紙を書いた(爆)。Tくんとの連判状だ。まったく若いということは始末が悪い。本当にすまなかったな御大。しかし我々だけでなくきっといろんな不満やクレームが御大の下に届いていたに違いない。
 「ファンだからって偉そうにすんじゃねぇ」「これが気に入らないなら離れるなり何なり勝手にすれば」雑誌のインタビューとかでそういう発言が増えてきたのもこのころではないか。御大は冷徹なヒールを演ずることが多くなっていった。

 いまごろになってようやくあの時の御大の孤高の心の闇みたいなものが理解できる気がする。遅いか。というか、永遠につづく御大とファンの宿命なのではないかと思ったりする。

 ■この日の一曲■

♪情熱

 疾走するバンドが、一時、この曲で歩を緩める。ゆっくりとゆっくりと御大の言葉を丁寧に拾い上げ磨き上げるように演奏が流れていく。悠久の流れのような演奏。「まだまだ二人は苦しまなきゃね」「まだまだ二人は一人一人だからね」。翌年の公式レコーディングでのアップテンポはどうしてもなじめない。アップテンポは、4分ちょっとだが、このライブのスローは、同じ詞曲を実に倍以上の9分間かけて歌う。しかしこのスローでこそ、人間のどうしようもない孤独とそこからしか始まらない他人との距離という御大の哲学が心に染み入るように伝わってくる。どうしても必要な9分間なのだ。
 ただ当時の自分はこれを理解するには若造過ぎたけれど。
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2016. 7. 30

あと58days。ホントに草野球のキャッチャーのような個人的半生日記が続く。
え、「おきざりにした悲しみは」歌ってくれるの?

<僕の旅も小さな叫び 18>
1983年5月20日通称「マラソンツアー」日本武道館

 83年の初頭に御大は「今イベントやっても自分に満足感は残らないだろう。それより今の音楽シーンを集めた夢みたいなイベントをしたい」と語った。前年から楽しみにしていたイベントは無し。盛り上がっていただけに残念。音楽シーンを集めて・・というのは、いつか御大がラジオで口走った第二ジャスラック運動やオールトゥギャザーに繋ながるのだろうか。

 例年より少し早い5月20日の武道館。蒲田のプレイガイドでチケットゲットしT君と臨む。
 この日、オープニングの前哨曲として発売直前の「マラソン」が流された。この時に初めて聴く。満場の武道館は、いつものように開演前から大熱狂となる準備は万端だったが、客電が落ちて、漆黒の闇の武道館に流れ始めたのは静かで切ないキーボードのメロディーだった。肩透かしを食う観客たち。 いきなり御大のボーカルが 響く。レコードなのだが、御大は切々と歌い上げる。
 はじめて聴くこの曲が、ちょうど霧のようにたちこめて、やがて武道館は霧で一杯になるようだった。一万人の「マラソン」試聴会だ。

 そして身体に一撃打ち込まれるようなベースとドラムのビートがはじまり「イメージの詩」、そしてなんと三曲目にして「アジアの片隅で」。銀紙を粗忽に貼っただけのような装飾のないステージ。うちっぱなしのコンクリートの建物のように無骨に進行していくライブだった。もはやバンドも御大のボーカルも最高潮だった。ボーカルに保険かけてもいいと御大も笑っていた。
 「酒に女に、君らもテキトーに生きたほうがいいよ」というデカダンスなメッセージには御大から突き放された気がしたものだ。御大は確実にある方向へ向かおうとしていたけれど、いいよ、お前は来たくなきゃ・・と言われた感じがしたものだ。

 この日の武道館で実に久々にアンコールに歌われた「僕の唄はサヨナラだけ」が圧巻だった。なんと拓郎が上半身裸でステージに出てきて驚いた。 はっ、この時、森下愛子さんが初めてステージを観に来ていたことと何かカンケイが・・!?

 森下愛子さんといえば、既にマスコミの攻勢は始まっていた。たぶんこのコンサート帰りを直撃された愛子さんが取材記者に対して「いやぁ良かったですよぉ。あなた観た?観たことないの?観たほうがいいですよぉぉぉ」と切り返している姿がテレビに映って、今でいうなら「愛子さんカッケーなぁぁぁ」と感嘆したものだ。

 Tくんは既に蒲田というか東京を離れて住み込みで働いていたので、車で武道館に乗り付け、打ち上げ無しで車で戻っていた。途中、蒲田で落としてもらった、車中でTくんも「拓郎のライブ行くのも結構大変になってきたなぁ」と呟いていた。そういう人生の時期に差し掛かったのだった。

 ■この日の一曲■

♪今夜も君をこの胸に

 この作品が初めてラストナンバーになった。この後のライブのフィナーレの定番になる。甘く美しいナンバー。たゆとうような「今夜も君をこの胸に」のリフレイン。この傑作にもかかわらず、熱狂と燃焼とは遠いラストに不満だった。このイントロを聴くたびに、ああまたこれが最後か・・トホホな気分になったものだ。この作品に心から詫びたい。
 ラブソングを歌って怒られるのは古今東西、ディランと御大だけだろう。ラブソングにこそ御大の音楽の真骨頂があることを知るには自分にはまだ時間がかかった。今になってラブソングOK、スーパーウェルカムな気分になったら、今度は御大が「恋はどこへ行った」「今さらI Love You」とか歌ってて、・・・すまなかったな御大。
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2016. 7. 31

あと57days。

<僕の旅も小さな叫び19>

1983年6月10日SUNTORY SOUNDMARKET‘83 後楽園球場


 雨のため中止。


■この日の一曲■

 ♪スターズオン23 By BEATBOYS 

 吉田拓郎・南こうせつ・武田鉄矢の後楽園でのフェス。「た・こ・て」。大阪球場では御大は前飲みで暴走のため泥酔して歌ったという伝説が残った。
 こっちは御大出演前、武田鉄矢の時に記録的な大豪雨で皆避難。やがて電光掲示板に「中止」。すんげー豪雨でアンプがプカプカと球場で浮いていたとエルトンさんも後日語っていた。
 売れ始めたALFEEの♪スターズオン23のロングバージョン(こうせつ・谷村新司入り)を聴けたことが唯一の穫。もっとも最高の決定版は85年のつま恋だが。ライブだと野に解き放たれた状態の坂崎幸之助。無敵だ。
 あとラッツ&スター。鈴木雅之さんが、「襟裳岬」を歌います(大歓声)・・・♪北の湖は、横綱 ・・すみませんでした・・♪北の富士は、親方・・・(爆笑)
・・・そんなもんばっか見せられた(笑)けど、チケットは全額返金だったので得したっす。だからチケットが残ってない。

 付き合っていたものの別れ話の寸前だった彼女と二人、豪雨で電車が止まった町に放り出され困った。どこへ行く若者よ。ああ、それも青春。

 それにしても後楽園球場で歌う御大の姿を観たかったよ。

2016. 8. 1

あと56days。

<僕の旅も小さな叫び20>

1983年11月11日 通称「情熱ツアー」川崎市産業文化会館

 彼女とは疎遠になり、T君も仕事で遠くへ行ってしまった。というわけで一人の男であったはずだと、単身、川崎のプレイガイドでチケットを買った。最後列だったはず。

 アルバム「情熱」をひっさげたツアー。このアルバムが私には厳しかった。スキャンダラスな恋愛を歌う御大。もともとスキャンダラスな人なのでスキャンダルは勲章みたいなものだ。 しかし、もはやファンにメッセージを語りかけるでもなく、どうぞご勝手にという御大の姿勢に戸惑いと不満が募っていた。
 今なら「I’m In Love」というこの美しい絶品を心の底から讃えることができる。しかし当時は「もう明日をどうして生きるかどうでもよくて」「世界の終わりが来ても構わない」・・なんて軟弱で退廃的な歌を歌うんだと苦悶したものだ。「明日をどうやって生きるべきか、世界の終わりをどうやって救うか」そんな歌を歌ってくれるのが御大だと思ってた自分は、例えば御大の苦悩に思いを馳せるほど大人ではなかった。てか、ウザい子どもだよな。

 ピンクのタンクトップに白のパンツは、たぶんストーンズの映画Let’s spend nightのミック・ジャガーを意識している。かっけー。アルバム「情熱」の作品群に、「マークU」のイントロで歌う「旅の宿」などなど。特にオフィスUFOに連判状を書いたくらい聴きたかった「ファミリー」を2年ぶりに聴く。嬉しくてスタンディングしたが、2階席では自分ひとりだった(笑)。「つながりだけでは悲しくて」の歌詞が復帰していてささやかに嬉しかった。そこらへんはUramadoに書いた。

 オーラスの「今夜も君をこの胸に」が頭にリフレインする中、蒲田まで一人で帰って、あまりの寂しさに、御大と関係ない地元の友人と飲んだ。そこで「拓郎どころじゃないだろ、将来どうすんだ」と説教された記憶がある。大学留年が決定し、企業の就活も放棄して、さまよえる自分であった。資格試験を受けて自由人になろうと夢見ていたのだが、人生そう甘くはなかった。そういう自分の精神状態も良くなかったのか。そんな不甲斐ない自分は、御大に代理戦争をしてほしかっただけなのかもしれない。
 あー、このあたりは暗いな。当分明るいことは無いんだけど。

■この日の一曲■

♪Woo Baby
 というわけでアルバム「情熱」も、そのトップを飾るこの作品も、なんだかなぁと打ち捨てていた。すまなかったな、御大。もし、今年Woo Babyが聴けるのならば、あの時の分も含めてありったけの「はあと」で迎える。Woo Babyの僕と君を心から祝福させてほしい。
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2016. 8. 2

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あと55days。

 「8月2日の太陽は拓郎に惚れていたのでつま恋の空で燃えてくれた」岡本おさみさんの名文句をどうしたって思い出す。
 ウルフのテーマは、御大のファンキーなデモテープでしか聴いたことがない。瀬尾さんアレンジの完成版を聴きたい。

<僕の旅も小さな叫び21>

1984年1月11日 通称「情熱ツアー」日本武道館

 ツアーファイナルは、武道館。御大初の2days公演、その1日目のチケットをたぶん蒲田のプレイガイドで買った。ここもお一人様参戦だ。
 現場に着くと開演時間になっても基本的にアリーナにしか客はおらず、1階席、2階席ほぼほぼ空席なのに愕然とした。率直に言うと空っぽだ。Vacantで客のいない武道館はとても寒いこと初めて知る。
 アルバム「情熱」やここ最近の御大に不満はあったものの、一ファンの私でも、心の底からショックだった。特に「武道館」にはどれだけの思いがあったろう。人からは笑われるが、いまだに、この時のVacantの武道館を夢にみてうなされることがある。汗びっしょりで目が覚めて「ああ夢か」と安堵する。自分にはそれだけの事件だった。

 ここが場末の超個人的サイトであるにしても、こんな誰もハッピーにならない昔のことを書いていいものか不安になって、サイト運営のNinjin Design Officeに相談したら淡々とした回答が来た。「よくわかりませんが、書くべきです。武道館はガラガラ、それでも拓郎さんは歌ったんですよね。それなら書くべきです。空席の武道館という事実、それでも歌ったという事実。書くべきです。」

 「イェーイ、あけましておめでとう」。御大はそれでも爽やかに出てきて川崎と同じツアーセットリストを熱唱した。
 大好きな「ファミリー」。ここでもスタンディングしたが、ほぼ空っぽの2階席の通路で二人の女性がぽつねんと立って歌っている姿が見えた。私たちはみんな何かの生き残りみたいだった。シャウトしながら御大の視線が、空席にチラチラと行っているのがわかった。しかし、そのシャウトのテンションは変わらない。シャウトというより咆哮に聴こえてきた。

 そして熱唱したライブの最後に御大はこう言ったのだ。

「みんな今年はいい年でありますように。少なくとも俺よりはいい年でいてくれよな。」

・・・この言葉を思い出すたびに泣けてくる。御大、たとえどんなに嫌われても愛しているからな。

 翌日の武道館の最後に「秋まで休みたい、考えてみたいことがある」と発言したらしい。たぶん翌年のつま恋85まで続いていく重苦しい「ラスト」が始まっていたのだと思う。
 私たちは、愛と哀しみに満ちたロードを歩いていくことになる。しかし、すべては、こうして今に繋がっているではないか。ライブを指折り数え待つ今がある。なんと愛しい日々だろうか。
 
 ついでに何度でもしつこく書く。この空席の武道館の話を喧伝し、とりわけ「ファミリー」の「愛を残して旅に出ろ」を「甘い」と言い放った冨澤一誠の著書「僕らの祭りは終わったのか」が当時、時を経ずに出版された。何度でもしつこく言いたい「終わったのは、おまえの祭りだけだ。」


■この日の一曲■

♪若い人

 アルバム「情熱」らはそういうウエルカムではないバイアスがかかっていたので、この作品も、まぁいい曲かもなぁぁくらいのテンションだった。この日のライブのちょっとラフな熱唱がとても素敵だった。2階席通路のたった二人の女性も、この作品でブイブイ踊っていた。「大切なものをどこかに置き忘れ気が付くと僕は今何をしてるんだろう 夜空を見上げると多くの夢が星になり風になり踊って見える」
 歳を重ねて聴けば聴くほど身に染みる。御大がまるで未来に向けて歌っておいてくれたかのようだ。

2016. 8. 3

あと54days。

<僕の旅も小さな叫び21>

1984年10月4日 通称「FOREVER YOUNGツアー」神奈川県民ホール

 あの衝撃の武道館以降、沈黙に入った御大は、やがて離婚しマスコミは待ってましたとばかりに御大を叩いた。そんな中、翌85年のつま恋のニュースが発表される。待ちに待ったイベントなれど、もうそれは手放しで喜べるものではなく、「ジョンレノンの亡くなった40歳まで」というデッドラインを始め、いろんな状況から「引退」の文字が滲み出てくるような重苦しい不安の翳りも見えた。

 当時、住み慣れた蒲田を離れ、御大と同じ横浜市青葉区(当時、緑区)に転居したこともありツアー初日の神奈川県民ホールに一人参戦した。
 ダークなジャケットをキめた御大が、アルバム「FOREVER YOUNG」の作品を中心に歌う。初日神奈川の時には、まだアルバムは発売されていなかったので、このステージで新曲を初めて聴くことになった。今からはちょっと考えにくいが、このころのライブでは御大のMCは殆どなかった。それが御大の意思の表れだったことになる。しかしこの日は、MCこそないが、御大の心境を語りつくすような「君が先に背中を」「ペニーレインへ行かない」「Life」「大阪行は何番ホーム」「7月26日未明」が披歴された。今まで待ち続けていたようなメッセージフルな名曲たち。今頃こういうときになって、こんな名曲をたくさん書きやがってもう(涙)。
 しかも意気軒高な「ペニーレインでバーボン」の次に「大阪行は何番ホーム」で長い月日を走馬灯のように歌ったあと「ペニーレインへは行かない」に至る・・・この構成の妙味。また「人生を語らず」から「7月26日未明」に繋がっていくラスト。新しい歌たちの素晴らしさとともに、どこか終末・脱出を見据えたような空気とが交差してなんとも不思議な気分だった。
 オーラスは「今夜も君をこの胸に」・・ああ、やっぱりこれなのかと思いつつ県民ホールを後にした。

 そして同年12月19日はラストの武道館公演だったが、行かなかった。その武道館公演で、御大は、「今夜の君をこの胸に」の後に、突如「人間なんて」を歌ったのだった。当時はネットもないから、その事実を翌月の新譜ジャーナルで知った。「さよなら美しい女たち さよなら優しい男たち さよならみんな笑顔で」という御大の叫びを活字で見る。

 ショックだった。「人間なんて」を聴き逃したショックというより、御大がそこまで覚悟していながら、自分が戦列を離れた不甲斐なさへのショックだった。情けないがあの1月の空席以来、武道館に行くのがとても怖かった。しかし御大は、おそらく自分とてトラウマであろう武道館のステージに向い、最後に「人間なんて」を歌ったのだ。そんな覚悟の御大を自分は見捨てたのだ。かつて金沢署を取り囲んだファンがいたように、あのガラ空きの武道館にショックを受けながらも、絶対自分が客席を埋めなければと再びこの日の武道館に向った気骨あるファンもたくさんいたに違いない。それから比べれば自分はただの卑怯者にすぎない。こうして御大について偉そうなことを書いて、ファンでごさいと言ってる自分だが、屁みたいなものだとつくづく思う。暗いな。

 何かが終わろうとしている、そんな気分のまま翌85年のつま恋に向って行く。

■この日の一曲■

♪ペニーレインへは行かない
 このショッキングなフレーズ。「ペニーレインでバーボン」こそがファンになったキッカケだっので、その意味は個人的にも大きい。私が「中華つけ麺大王蒲田店」へはもう行かないと言っているのとはワケが違う。あったりまえだ。この日、初めて聴いたとき、「どうしてこんなに悲しくないんだろう」が鮮烈で耳を離れなかった。御大にとっては別れというより決死の脱出(エクソダス)だったのではないか。
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2016. 8. 4

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あと53days。

<僕の旅も小さな叫び22>

1985年7月27日から28日 吉田拓郎 One Last Night in つま恋 アクセス編

 当日が近づくにつれて「最後のライブ」「現役での最後のステージ」という言葉が躍るようになってきた。御大も「生涯最良の日にしたい」と語っていた。
 アルバム「俺が愛した馬鹿」のジャケットには墓石が載っていたうえに、ライブ近くには御大はオールナイト、セイヤング、パックと古巣の番組の挨拶に回っており、まるで討ち死を覚悟した浪士のようだった。
 6月の「オールトゥギャザーナウ」は、ちょうど資格試験の時期にドンピシャなので参加できなかったが、つま恋だけは死んでも行くという不退転の思いで相棒Tくんとともに参加した。

 主催者からは、会場前の前日からの泊まり込みが固く禁止されていた。なので掛川駅着の始発で行くしかない。東京方面からの始発より、名古屋方面からの始発が早く掛川着くということで、深夜に名古屋まで行き、そこから戻る形で掛川に向った。わけわかんねーな。ともかく掛川駅着一番乗りの団体に入りこみ、シャトルバスで西ゲート入り口へ。
 しかし、泊まり込み禁止にもかかわらず、泊まり込みのたぶん何百人かの列が出来ていたぜ、オーマイガー。怒った始発組が、「泊まり込みは違法だから、始発組が優先だ」、「なんだそりゃ勝手に決めるな、後ろに並べ」と争いになった。ユイがルールを守った方を始発組を優先入場すると言ってるとの噂も乱れ飛び、昼ごろまでもめごとは続いた(笑)。たくさんの人の拓郎愛はゲート付近で、もつれあい、もがきながら結局先着順で入場した。

 ビデオの映像で、入場と同時にどっかの兄さんが走ってきて芝生に大の字になって場所を確保し「早う来ぉぉぉい」と絶叫する名シーンがある。きっとあの兄ちゃんは、溢れる愛のまま我慢できずにゲート前に泊まり込み、もどかしい愛のまま全力疾走し、命燃やして多目的広場のあの芝生に.ダイブしたのだ。ルールとか優先とかとても正しいことだが、あの溢れる愛の実力行使には勝てないのだと思う。

 私らもささやかな愛を燃やして左側前から10列目くらいの場所をゲット。開演までの長い時間を篠島の時のように炎天下照り焼き状態になって過ごす。既に正式な会社員となって女性と暮らし始めていたTくん、バイトしながら資格試験の勉強を始めた自分、それぞれの厳しい身の上話をしながら、これで拓郎も最後なら、俺らももうライブは最後だなぁとしみじみと終わりゆく季節のことを語りあった。

 昨年の武道館の記憶があったので心配でならなかったが、客入りは、順調であの多目的広場がどんどんと埋め尽くされていく様子は、嬉しく、また誇らしかった。
 やはり横のテントで客入りをじっと観ているおっさんがいたが、後藤由多加だった。「よかったな後藤」と心の中で声をかけた(笑)。
 また会場を腕を組んでウロウロしているひょろ長い男性・・ああ田家秀樹さんだ。村上龍の文章で、自由のために戦うゲリラ兵士は、みんな田家のような眼をしているという一節を思い出した。確かに今もそうだが、田家さんは静かで優しい眼をしていると思った。

 兄さんに連れられて行ったというNinjin officeの雨畑氏は、浅田美代子の近くの席だったということだ。
 とにかくあらゆる人があらゆるスタンスで開演を待っていた。

■この日の一曲■

♪夏が見えれば

 この「夏」はどうしたって、85年の「つま恋」としか思えない。自分にとっては、御大が消えてしまうという最後の夏、不安の夏だった。それを御大はまた、こんなに美しくそして清々しく歌いおって・・・いまいましい。なんて素敵に歌いやがる。

2016. 8. 5

あと52days。第1部の最後?、久しぶりの曲? 絶対当るわけないが、この身悶えするような幸福な時間をいただいているので、ありがたく身悶えしよう。

<僕の旅も小さな叫び>
1985年7月27日から28日 吉田拓郎 One Last Night in つま恋-本番編

 思いつくまま自分だけのつま恋85の名場面をピックアップ。

第10位 僕の唄はサヨナラだけのぶっ飛びアレンジ
 この作品に限らないが、こりゃなんの曲だ?という斬新な換骨奪胎のアレンジが多かった。僕の唄はサヨナラだけは顕著だったねぇ。カッチョエエ。懐かしい思いに浸るのを阻止するかのような攻撃的なアレンジが嬉しかった。

第9位 愛してるぜ
 登場の第一声が「愛してるぜ」。満場の大観衆に向って投げかけた。あと♪I’m In Loveのforeverの最後にアドリブで「愛してるぜ」。たまらん。俺も愛してるぞ(笑)。

第8位 Life
 明け方のステージに仁王立ちになり、身体をよじって身体全体から絞り出す絶唱。声は掠れガラガラだ。しかし、この痛めつけられた声でこそ初めて表現しうる音魂がある。もう、この歌の完成版といっていい。

第7位 後藤由多加の檄
 最終ステージの前に後藤由多加が登壇し「近隣から騒音の苦情が出ています」。ああ75年から10年、掛川の地も変わったのだ。「しかし、ここでやめるわけにはいきません。少し音を小さくして、でもコンサートには影響しないようしてに続けます。いいでしょうか。」。大歓声。お詫びに来たのか、釈明に来たのか、はたまた檄を飛ばしに来たのか・・よくわかんない後藤由多加。よくわかんないけど感動した(笑)。御大が神なら、後藤由多加あたりは司祭みたいなものだ。

第6位 リンゴ三人衆よ永遠に
 加藤和彦、石川鷹彦、御大の三人。アルバム「元気です」の神曲「リンゴ」は、加藤和彦が御大に提供したJ-45を石川鷹彦大先生が弾いて録音された。ということはギターを提供した人、そのギターを弾いた人、作って歌う人。この奇跡の3ショット。額に入れて永遠に飾っておきたい絵だ。

第5位 立て!立つんだファミリー
 ファミリーの時、御大は相当に体調が悪そうである。最後なんか倒れそうだ。「御大しっかり!!」セコンドから声をかけたくなるような熱唱。泣いてる拓バカたち。もちろん自分も泣いていた。「ファミリー」ここに決定版を残す。

第4位 ああ青春という走馬灯
 つま恋、イベントといえば「ああ青春」。戦闘の狼煙のようなものだ。しかし、このイベントでは、コンサートの中盤、「ファミリー」の絶唱のあとで静かに歌われる。これまでの御大の歴史映像をフラッシュバックさせるかのように。映画「ゴッドファーザーV」で最後に哀しみのマイケル・コルレオーネが幸福な日々を走馬燈のように追憶するときに流れる「カヴァレリアルスティカーナ」。そう、つま恋でもまるでこの「間奏曲」のようだった。

第3位  もうひとつの愛奴
 つま恋にドラマーとして再び臨んだ浜田省吾。「デビューのきっかけを作ってくれた人だし、下手くそなドラムでも決して傷つくようなことを言わなかった。感謝している。」とこの時の心境を語っていた。でも怖かったので島村英二さんに隣に座ってもらっていた。浜田省吾と島村英二。マニアにはたまらない幻のツインドラム。結局、島ちゃんは叩かなかったけど。

第2位 夕陽よこの落陽を照らせ
「高中だぜぃ」・・んでもって後藤次利、この二人がステージの中央に出て繰り広げるプレイの素晴らしさ。後ろで嬉しそうに見守る御大。いいなぁ。サウンドも一級ながらなんと美しい情景だろうか。もう屈指の名場面である。

第1位 必ずや必ずや又逢おうぜあばよ
  なんといっても最後に御大が、この歌を歌いながら[※以下の記述は、秘密保持義務に違反のため抹消されました]。この歌の素晴らしさをこの時あらためて思い知った。


・・・・終わった。横浜駅で別れた僕とT君は、この日を最後に30年間会うことはなかった。それぞれにファンの道を歩くことになる。

  正確な引用ではないが、石原信一「俺たちが愛した拓郎」の一節「つま恋で拓郎は見事に僕たちを切って捨てる。そして、その生き方を僕たちがかぶる」がとても身に染みる。「皇帝のいない八月」どころか「御大のいない三年間」の始まりだ。
  
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2016. 8. 6

 あと51days。広島の日。深い祈りと深い悲しみ。ご冥福をお祈りします。「この世界の片隅に」は映画化されるようだ。
 今、ドラマで話題の「暮しの手帖」が市井の人々の戦争体験を集めた「戦争中の暮しの記録」という本がある。昔から何度読み返しても読み切れず、読むたびに胸に刺さる。花森安治の「まえがき」だけでも何度繰り返して読んだことか。戦争の公式記録は誰かが残す。しかし、戦争に翻弄された普通の人々の暮しは記憶とともに消え去るだけであると訴える。
 
 とても僭越だが、a dayもこれを真似してみた。ライブの詳細な記録や評論はプロの評論家やもっともっと詳しい慧眼のファンの方々が残してくれると思う。しかし、ただの普通のファンがどんな気持ちで、どうやってチケットを買って、どんな風に御大のライブに臨んで、どんな喜怒哀楽があったか。それを残しておきたいと思った。それは、何でもない一個人のしょうもない話だし、手を取り合って感動したこともあれば、人々と傷つけあったり、裏切ったりという罪深い歴史であったりもする。しかし、いずれは消え去ってしまう。戦争もライブもとどのつまりみんな暮しの中にあると思う。御大の素晴らしさも、その時の暮しと空気、その時吹いていた風を通じてこそ、よりハッキリするものもあるのではないか。なので、いつかたくさんの方々のa dayを聴かせていただきたいと思う。


<僕の旅も小さな叫び>

1988年6月8日通称「通称SATETOツアー」神奈川県民ホール

 あれから3年。御大はステージに帰ってきた。前年の「海の中道」という前触れがあったにせよ、本格復帰である。しかも、コクがあるのにキレがあるサッポロ★ドライのCM出演までしてびっくらこいた。

 こっちは3年も経ったが、その間、資格試験に落ち続け何も変わらなかった。いや父親が病で倒れるなど、私の状況はすこぶる悪くなっていた。このライブも当然の如く断念していた。久々のTくんからも電話で「俺も今回は行けそうにないね」「それにしてもサッポロドライって水みたいで薄くて美味しくないよね」と相変わらずの声を聴いて少し元気が出た。
 そんな時、バリバリのキャリアウーマンになっていた昔の彼女から、アタシは行けないけどアタシの彼が取ってくれたチケットが1枚あるという連絡があった。こういう相当に屈折した経緯で神奈川県民ホールのチケットを入手した・・・というか恵んでもらった。浜省ファンになっていた元カノだが、御大のSATETOツアーの千葉にも行ったとのこと。その時「なんか昔(王様達のハイキング)と全然違ってついていけなかったし、会場も戸惑っていた」ということだった。なんにしてもありがたい。

 初めて御大のライブに行った思い出の神奈川県民ホールは、ずいぶんと古びてしまった感じがした。
 それにしてもスーパースターの帰還。神の復活だ。本来大熱狂をもって迎えられるべきところであるが、御大が「座って聴きなさい」と制する、もの静かな音楽空間だった。セットリストもマイナーな作品を集め、曲順も乱数表で決めたとしか思えなかった。そんなことはないか。御大も曲ごとにバックが変わってもいいくらいだとランダムぶりを認めていた。
 コンサートとして何かのテーマとか流れとかを意識せず、音楽的に一曲一曲を愛でてゆこうとするのかようだった。
 「冷たい雨が降っている」の強烈なインパクト、フルバンドによる「制服」があり「明日の前に」があり「マラソン」の絶唱があり、「やさしい悪魔」までが歌われた。「すなおになれば」「Mr.K」も素晴らしかった。御大の意図は、「お約束の熱狂の拒否」にあったのかもしれない。
 ・・・と今では思うが、リアルタイムでは、この静かなる復帰には結構戸惑った。特に、最後のメドレーが厳しかった。絶賛している人々もたくさんいた。それは「メドレー」というものの考え方の違いだ。「いろんな曲がたくさん聴けて嬉しい」という考えと「曲のブツ切の一部しか聴けなくて悲しい」という考え方があり得るが、私は明らかに後者だった。
 ともかく帰還した御大は、両手を広げる私たちの前を素通りして全く違う音楽の海へ出て行ったようで、嬉しくも少し寂しい気持ちで神奈川県民ホールを一人あとにした。

 御大は確実に変わっていた。珍しいことに現在の音楽をきちんと聴き、コンピュータも使いこなし、「ライブハウス」にも挑み、米米CLUBや他の若いアーティストの共演イベントにも積極的に打って出てっていた。

 おそらく「伝説」とではなく「音符」とともに生きていくそんな静かな決意なのかもしれない。一身上の事情で、このツアーのあとのライブハウスや夏の御大の各種課外活動を追いかけられなかったのが残念だ。

 それにしても元彼女さん、ありがとう。チケット送ってもらったままでお礼も言ってない。


 ■この日の一曲■

♪うのひと夏by 高杉
 稀代の名曲と思っている“RONIN”のメロディーにつづいてこの作品が始まる。この作品は高杉晋作であり、Uramadoで書いたとおり石原裕次郎・まきこ夫妻でもあるという。つま恋85の終了後と今回の帰還を結ぶ橋頭保のような作品だった。これはライブでの荒れたボーカルがとてもいい。だからステージでガンガン歌いこんでほしい作品なのだが。
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2016. 8. 7

 あと50days 。 「白い回転木馬」は白石ありすの作詞で瀬尾一三さんのアレンジだったので、「伽草子」や「素敵なのは夜」など想像していたが、全く違った情念溢れる曲で驚いた記憶がある。それにしても提供曲が消えていくのは文化財の喪失でしかない。「崖っぷちのメロディー」を一曲残らず集めて是非、提供曲全集BOXを創るべきです。みんな御大の「子どもたち」じゃないですか。

<僕の旅も小さな叫び> 

1989年3月15日 住友生命サウンドコミュニケーション吉田拓郎コンサートツアー‘89 東京ドーム

 88年末に東京ドーム公演がアナウンスされた。6月にライブハウス公演、12月には、池袋文芸地下で浅川マキと共演しながら、一気に東京ドームにまで行ってしまう。何というふり幅の大きさ。
 88年の復活からの数年間の御大はどこか捉えどころがなかった。とにかく、よく言えばコンピューター打ち込みを含めて、いろんなことにチャレンジし実験しているかのようであり、悪く言えば、なんか、その時の行きあたりばったりでちゃらんぽらんな感じがしたものだ。でも、それこそが自由な音楽家というものか。
 御大は、後に「彷徨っている時期」だと総括していたが、御大本人が彷徨っているのだから、御大につかまっているファンも遠心力で、グワングワン振り回されるからたまらない。
 
 ドームといえばイベントだ。しかし、正確には、コンサートツアーの最終日が東京ドームということだ。ココが大事だった。御大も「イベントではない」ということをいろんなところで事前にアナウンスしていた。
 とはいえ完成間もないあのドームでライブしますと言ったら、「落陽」「人間なんて」「アジアの片隅で」「外は白い雪の夜」「人生を語らず」「今日までそして明日から」。これらのスタンダードを一曲もやらないとは誰が考えよう。その代り、あの難解な新作アルバム「ひまわり」を全曲歌うのだ。アルバム全曲歌うライブってそれまで無かったはずだ。
 御大「新しい歌ばかり歌っていますが、最後までそれで行きます」観客「えー」みたいなシーンがあった。ファンのご機嫌お構いなしの気骨もここまで来ると凄いとしかいいようがない。ドームを渋谷公会堂くらいの感じて使っている。東京ドーム公演史上、もっとも「無欲」な公演だったに違いない。

 しかし、その内容は素晴らしかった。オープニングが痛快な「チェックインブルース」、「望みを捨てろ」、「Woo Baby」、ライブで初めて歌われた「恋唄」、原曲よりスケール感のある「七つの夜と七つの酒」。
 そういえばコンサート前の週刊プレイボーイのインタビューの写真にリハーサルスタジオ風景で「セットリスト全曲」がかなりハッキリ映り込んでいた。二曲読み取れなかったのがまさに「夕陽は逃げ足が速いんだ」「六月の雨の中で」だった。どの演奏もていねいに練り上げられていた。

 あ、あとおそらく私だけではない多くの男性ファンが、このツアーから参加した女性キーボーディスト鎌田裕美子さんに惚れてしまうことになる(笑)。

 それにしてもドームの無意味なデカさ、音が回る最悪の音響、中途半端な解放感等々ハードの問題点。アリーナ席とかだったら良かったのだろうか。このチケットは当時、大学生だった弟に頼んだ。大学の近くのプレイガイドに買いに言ったら店の人が親切に「いま渋谷店に行ったら、まだアリーナ席あると思いますよ」と教えてくれたそうだが、弟は「どうしてもアリーナ取ってくれとまでは言われていないし、どーせ吉田拓郎だし、いいだろと思って行かなかった」そうだ。いうまでもなく弟と私は仲が悪い。それを忘れて頼んだ私が悪い(笑)。というわけで優しい弟のおかげで一階スタンドの最後列だった。

 さらには客の態度という面も厳しかった。生保がスポンサーだったので、そこそこ客は入っていた気がするが、御大には全く関心がなく、ただドームを見に来たという、ご家族連れみたいな招待客もたくさんいて、そういう連中が演奏中、ゾロゾロと平気で歩くは、席を立つは、私語をするは、ともかくこやつらの雑念が飛び交い、いつものライブの結界された雰囲気を汚すことこのうえない。

 ライブを聴きながら、これは是非、普通のホールで聴きたかった、いや聴くべきだったと後悔した。それほどのクオリティだっただけに残念だった。

 最後のMCで「今上昇志向にあるので諸君も上昇志向でいてください。そうすればまた会えます。それまで幸せに。」「幸せに」が胸に響いた。「お元気で」ではなく「幸せに」。ココが御大である。

 私は、このあと例年はパスしていた資格試験の一次試験で落とされ、その一か月後父を亡くし暗澹たる日々が続くことになる。人生、背水の陣となったが、この時の御大の「幸せに」がまるで暗い海のかなたの灯台の明かりのようにチラついていた。

■この日の一曲■

♪ロンリーストリートキャフェ

 凄かったねぇ。迫力の「ロンリーストリートキャフェ」。不遇な音響環境、無礼な招待客、イベントを期待していた一部の失意のファンのがっかり光線、こういったものを御大はこの弾き語りで一気に制圧した。御大の追い詰められたときの反撃力の凄さをあらためて知る。これが国から無為文化財に指定されても驚かない。・・いや、ちょっと驚くかも。とにかく素晴らしい。この時の「だぁぁぁれからも」のアトの観客の合いの手の叫びまでもが絶妙だった。「ロンリーストリートキャフェ」が、その後も続く御大の有力な武器となった瞬間だ。

2016. 8. 8

あと49days。今週から音出しだそうで・・楽しみだ。

<僕の旅も小さな叫び>

1989年11月26日 吉田拓郎コンサートツアー‘89-90 人間なんて 神奈川県民ホール

 試験は落ち続けるは、父親は死ぬわで悲惨な私も、いや悲惨な私だからこそライブに臨んだ。
 懐かしの神奈川県民ホール。開演前に、入った近くの店で「タラコスパゲッティ」がなくて、どんなものかも知らず生まれて初めて「カルボナーラ」を食べて感動した。今、コレステロールが高いのはそのせいだ。またこの日、大相撲で小錦が優勝を決めた千秋楽の日で、御大は登場するなり「こんばんは小錦です」とカマしていた。

 今回は、御大にしては珍しく「昔を思いっきり懐かしんで90年代へ行こう」というテーマで「懐かしさ解禁」な構成になっていた。9年ぶりに、弾き語りコーナーが復活した。「人間なんて」が「とらばーゆ」のCMで世間を席捲しており、ツアータイトルに「人間なんて」まで付されていた。ええーっ、もしかして「人間なんて」やっちゃうのか、アドレナリン上げなきゃと思っていたところ、当時、サンデー毎日かと思うが、この「人間なんて」ブームに拓郎さんも再び燃えてコンサートに臨むのですか?というインタビューに対して、「え?全然燃えてないよ。仕事していないと肩身が狭いから歌ってるだけ」と答えていた(爆)
 実際にステージで歌われた「人間なんて」は、あのファイヤーな感じではなく、どこか沈痛で内省的な詞がつけられ、焚火のようなしみじみとしたものだった。まるであの「人間なんて」の鎮魂歌のようだった。
 機械仕掛けの「落陽」はどうかと思ったが、「まにあうかもしれない」をインサートした「祭りのあと」は大好きだった。雪空を見上げる「恩田三姉妹」のバックでこの「まにあうかもしれない」が流れるフジテレビのCMスポットが良かった。

 バンドに小島俊治というサックス&キーボードが入っておりこれが印象的だった。いつものアレンジの「パラレル」の後奏にもサックスが入ってくるところは鳥肌ものだったし、「ひまわり」の長い長いサックスパートは、これでもかと情念に畳みかけてくるようで、それに聴き入りながら立ち尽くしている御大の絵も素敵だった。アンコールの「言葉」から「抱きたい」への流れも魅せられた。

 弾き語りは嬉しかった。坂崎幸之助も言っていたが「旅の宿」のあのエンディングを聴くと観客はどうしても、おおおおおと唸ってしまう。

 そして最後の最後に新曲「俺を許してくれ」。この曲は未発売の新曲でありながら本編のラストを堂々と飾った。初めて耳にする曲でありながら観客も魅了されていたはずだ。回顧色の強いコンサートだったが、この自信の新作があるからこそ、御大も懐かしいモードにあえて踏み切れたのではないか。
 自分の心根、そして自分から見た社会への苛立ち、悲しみが、掘り下げられて歌われている。御大の魅力を再確認できた傑作だった。

 ■この日の一曲■

♪俺を許してくれ

 まさに人生に躓いた夜(笑)。「心が痛い 心がつらい」のフレーズはこの時の自分にぴったりだった。関内の駅までの道すがらずっと追いかけてくるようだった。試験はもう来年で最後にしよう・・というよりせざるを得ない、そしたらどうしようか、あれこれ頭を巡っていた。
「この命ただ一度この心ただひとつ 俺を許してくれ」このフレーズにどれだけ勇気づけられたろうか。

2016. 8. 9

 今日は長崎原爆の日。平和公園には、長崎市原子爆弾無縁死没者追悼祈念堂があります。誰にも見つけていただけなかったり、一家族全滅した名前のわからない方々が祈念されています。心よりお祈りさせていただきます。もし平和公園をお訪ねの時は、こちらにも是非。
http://nagasakipeace.jp/japanese/map/zone_negai/muen_shibotsusha_kinendo.html



 あと48days。御大、このサイトのUramadoの「赤い燈台」と「ルームライト」を読んでくだせぇ(笑)。
 伊藤咲子さんも「友達になろう」。凄い難しい曲だったとおっしゃってましたが、「蛍の河」「赤い燈台」「ルームライト」と並びどれも珠玉の名曲です。御大の本人歌唱いただけたら望外の喜びっす。

<僕の旅も小さな叫び>

1991年10月26日 通称「エイジツアー」浜松市民会館

 背水の陣で臨んだ試験をようやくパスすることができた。死んだ親父のおかげか。5月から11月までの長丁場の試験なので夏の「横浜アリーナ」「こうせつのサマピ」「軽井沢音楽祭」も行けず、「男達の詩 コンサートツアー」も涙ですっ飛ばす。かくも長き痛恨の欠席。
 そんなふうに試験に忙殺されている間に、御大はいつの間にか坊主頭になり、夜の街が寂しかろうと歳の数だけ=全国45か所を歌って回るという「エイジツアー」を宣言していた。

 91年春、自分は、研修のため静岡でようやくささやかなれど給料をもらい自由な生活を得た。静岡では、会館の道路挟んだ向かい側のアパートに住んでいたので、静岡公演は、まさに御大が家まで歌いに来てくれる状態になった。なんという至福。
 しかし、生まれて初めての静岡生活でチケット買い方がわからない。地元静岡出身の研修の同僚が「オレの兄貴、地元のテレビ局だからコンサートのチケット取れるよ」と言っていたのを思い出し、おそるおそるお願いしたら、軽く「いいっすよ、“吉田拓郎”ですね」と言ってメモ用紙に「吉田卓ろー」と書き留めた。・・・コイツ本当に京大を出てるんだろうか。そして数日後前から3列目のチケットを持ってきてくれて驚いた。今まで愚直にプレイガイドでチケットを取っていたけれど、大人になるとこういう世界があるのか。

 古びた小さな会館で迎える御大ライブ。申し訳ないが近所の町会の集会所みたいな雰囲気だった。この近さがたまらない。
 何より実に2年近くご無沙汰していた御大のライブである。アコースティックギターが静かに響き「冷たい雨が降っている」のオープニングが始まるともういきなり涙腺堤防決壊、泣けて泣けて仕方なかった。他人にはどうでもいいことだが、これは私の心身ともにライブへの帰還だった。
 3曲目で久々の「アジアの片隅で」。凄いのはサビで「思うのだがぁぁぁぁぁ」のところのフェイクのシャウトを省略してた。おい。

 「50歳になったらつま恋をやろうと思います。ここのみなさん、えーとここどこだっけ、よければ、つま恋に遊びにきてください」・・・浜松だよ。日本で一番つま恋に近いコンサート会場だっつーの。

 大好きなニューアルバム「detente」の作品が歌われてゆく。あの「裏窓」も聴くことができた。ライブだと荒っぽくてかっけーよ、。そして、まだ公式CDにもなっていない「吉田町の唄」に震えた。そして「たえなる時に」が圧巻だった。2年ぶりの私の帰還をあたたかく、あたたかく迎えてくれた。ありがとう。そんなに気を使ってくれなくていいのに。

 幸福な気持ちで会館を出て、一人、豪勢に大国屋でビールとうな重で打ち上げをした。今思えば何で出待ちしなかったのか、打ち上げ場所を探索しなかったのか、何とも甘いぞ。
 翌朝、周辺ホテルを探すとホテルコンコルドの駐車場に「detente」とブルーにペイントされたツアートラックが止まっていた。ここか。ということでロビーで2時間くらい待ったが気配なく、気が付くとツアートラックも無くなっていた。追っかけは、ハズレだったが、なんというかライブに帰ってこれた安堵感の方がひたすら大きかった。

■この日の一曲■

♪たえなる時に

 最後にたたみかけるように歌いこまれた「たえなる時に」。「今君はあの人が心から好きですか」が胸に楔を打たれるように響く。「静岡けんみんテレビ」では、テレビ局のスポットでこの作品が使われていたのも忘れられない。落ち葉の舗道で、よちよち歩きの子どもをお母さんが抱き上げる映像のうしろで御大の唄声が流れる。大事にしても大事にしすぎることのない名曲だ。「愛でないものはあるはずがない」。何度でも聴きたい。

2016. 8. 10

あと47days。

<僕の旅も小さな叫び>

1992年9月1日 「ALONE ツアー」浜松市民会館

 明けて92年、御大からぶっ飛び企画が発表された。その名も「二日間コンサート」。初日が古い曲、二日目が新しい曲という二部構成で通算40曲以上、二日両日観てこそ吉田拓郎のすべてを味わうことができる・・・そんな触れ込みだった。なんと意欲的なコンサートだろうか。静岡では開催されなかったので、例の同僚の兄さんのコネが及ぶ名古屋市民会館のチケットを二日間お願いした。
 しばらくすると同僚からは「あ、静岡とれましたよ」「え、静岡ないだろ」「静岡ですってよ」「二日間とれたの」「いや一日だけですね」「いや、二日間じゃないと困るんだよ」
・・・というわけで二日間コンサートがキャンセルされて弾き語りのALONEツアーになったことを知った。
 弾き語りライブも十分魅力的だが、バンド志向で、特にここ最近は弾き語りにはあまり積極的に見えなかった御大がなぜ企画変更してまでこだわったのか。あれだけ世間にアナウンスした「二日間コンサート」を撤回するのはさぞや大変だったろう。

 後になって知るのは、御大のご母堂が、親友の枕元に立たれて「ギター一本のコンサートを観たかった」と呟かれたことが原因らしい。
 この時のアルバムは「吉田町の唄」。家族との再結がテーマだった。意表をついて歌われた「おやじの唄」の後で、「今まで家族はロクなもんじゃないと歌ってきたが、申し訳ないが全部撤回したい」と明言した。御大の家族への愛は、おそらくファンは誰でもわかっていただろう。それを直視した御大に驚いたのだ。このALONEツアーでは「吉田町の唄」こそ歌わなかったが、ご母堂の件といい、この歌がこのライブの大きな屋台骨になっていることをひしひしと感じた。

 弾き語りコンサートの空間は楽しかった。オープニングの「親切」。そういえば、みうらじゅんと泉麻人がこのライブの一曲目の「親切」を聴いて、御大が現役であることを確認したというエッセイがあったな。「ハブアナイスデイ」に狂喜し、「Voice」の巧さに唸り、「ハイライト」「問題の詩」に抱腹絶倒、「後悔していない」に感じ入り、「リンゴ」に打ちのめされる。あらためて御大の弾き語りの威力を思い知った。あっという間の90分だった。90分一本勝負と銘打ってあっても、あまりに短かすぎる時間だった。終演アナウンスと同時に観客の「もう終わっちゃうのぉぉ」というガッカリ・ブーイングが館内に満ちた。

 静岡の研修もほぼ終わりで、この時下宿も引き払い、この日は最終の新幹線で東京に戻らなければなかったので御大の追っかけもできなかった。1年ちょっと続いた至福の見習いの静岡時代が終わる。新幹線で一人、打ち上げをしながら浜松を後にした。東京で自由業の人生が始まる。

 御大はこのままミニバンドとの再結成ライブに臨むことになる。

■この日の一曲■

♪後悔していない

 このツアーは、まさにこの曲だ。走馬灯のように過去の出来事を赤裸々にフラッシュバックしながら、振り切るように前へと進む。それにしても御大の人生は大変だったなぁと思わずにいられない。後悔しない、苦しくなったら元気を出そうというフレーズが心に刻まれる。この日の帰りの新幹線ではずっとこの歌が脳内で鳴っていた。このツアーだけではもったいない傑作である。「後悔とはかつてそこに愛があった証である」とはフィンランドの諺だ。
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2016. 8. 11

あと46days。

吉田拓郎 TOUR '95 Long time no see 放っておいてくれて、ありがとう 前夜
 
 前回のALONEツアーから、このLong time no seeツアーいわゆる外人バンドツアーの開始まで3年間かかっている。放っておかれたのはこっちもだ(笑)。かくも長き不在。重症のギックリ腰が原因だと御大は語っていた。
 かといってその間、御大が仕事をしなかったわけでもない。地球ジグザグ司会、NHK のTRAVELIN MAN スタジオライブ、オートレース、宝焼酎CM、「日本を救え」、紅白出演等々むしろ活動は派手だった。
 しかし、うまく言えないが、この頃、スーパースターとしての御大が静かにフェイドアウトしていくような空気があったと思う。
 提供のない深夜放送「CLUB25」で覗ける御大は、何より逗子での夫婦の静かな日常の暮らしを大切しており、宇田川オフィスとの契約を打ち切り自宅でファックスで仕事依頼を受けているとも語っていた。
 たぶんファンはファンで、個人差はあろうが、年齢とともに仕事・家庭・人生のそれぞれの重大な・忙期を迎えていて、御大の活躍を希求するパワーが全体的に減速していた感もあったような気がする。
 世間もファンもそして誰より御大自身もスーパースターでいることを欲しない、そういうエアポケットに落ちたような静かな空気が確かにあったと思うのだ。私はこれを勝手に「拓郎氷河期」「冬の時代」と読んでいるが(爆)。お互いにみんながみんな「放っておかれた」時間だったのだと思う。

 85年つま恋あたりから御大が求めながらなかなか実現しなかった「等身大」がこのあたりで図らずも実現したような気がする。夫婦で一緒に空を眺めながら自分のひいた「Luck」の幸せをしみじみ語る御大は、素敵だった。寂しい気持ちもあったが、英雄の鎧を脱いだ等身大の御大の姿はそれはそれで魅力的でとても愛おしく感じたものだ。

 しかし、声を大にしていいたいのは、だからといって、このころの御大の音楽作品のクオリティが低いとか、御大の音楽への情熱が薄かったというわけではないことだ。AKIRA、まだ見ぬ朝、決断の時など名曲はこの時期に生まれたし、満場の武道館を唸らせたという伝説の「ファイト」の神熱唱も忘れてはならない。スーパーバンドは御大の音楽家としての神髄を見せてくれた。

 そして放っておかれた等身大の御大は、バハマに向いリユニオンともいわれる一時代を画した外国ミュージシャンとのレコーディングに向う。CLUB25の中継で、かつてあんなに海外レコーディングを嫌がっていた姿とは打って変わり、真摯に音楽に取り組む御大の姿を垣間見ることができた。等身大の御大の何度目かの旅の始まりだったのかもしれない。

 ■この日の一曲■

♪ファイト
 「日本を救え」でのこの弾き語りを生で聴いたものこそ幸せもので、選ばれしものではないかと思う。もちろん私は行ってない(爆)。後で音だけ聴いたにすぎない。しかし、御大が中島みゆきをチョイスしただけで一大事であり、それを伝説に残る熱唱で歌いこなしたことでもうこれは歴史的重大事件である。
 生で観た知人によれば、御大は歌の後、自分の歌い方が不満でとても悔しそうだったという。しかし、小田和正が「これで全部、拓郎が持っていきやがった」と呟いたという熱唱は大絶賛だった。この熱唱こそが、エアポケットに落ちた氷河期の氷をやがて砕いて、Long time no seeへ、そしてさらなる御大の新しい音楽の旅へとつながっていく。勝手な推測ながらこの歌の果たした役割はとてつもなく大きく深いと思う。てか、中島みゆきが、氷を叩き割って御大を救出したのではないかとすら思う(笑)。

2016. 8. 12

 あと45days。「トットてれび」を御覧になってたのか。嬉しい。三木のり平を好演した役者小松和重さんを応援しているので是非お見知りおきを。それにしても「一回どう?」とは。今度のライブで観客から声がかかりそうだ(笑)

1995年9月26日吉田拓郎 TOUR '95 Long time no see 放っておいてくれて、ありがとう  神奈川県民会館
 
 バハマで作られた「Long time no see」は名盤で。バハマの様子やコンパスポイントの顛末をラジオで聞いていたファンには、特に愛着が深まった。ロックウェルのラジオを聴いたがゆえに「ローリング30」への愛が深まるのと同じだ。

 しかし、そのミュージシャンが揃って来日してツアーをやるという話にはかなり驚いた。いてもたってもいられずに、神奈川とNHKホールを上野松坂屋のプレイガイドで確保した。当時の仕事場から近かったからだ。神奈川2階席、NHK3階席・・・ふ、武道館アリーナ3列目なんぞは昔の話、ヤキが回ったな俺も・・・

 勝手知ったる神奈川県民ホール。ここのところ浜松市民会館ばかりだったので、あらためて観るとデカイな神奈川県民ホール。

 放っておいて放っておかれた3年ぶりの御大のステージを待つ。オープニングにキーボードが聖歌チックなメロディーを奏でながら、「とんとご無沙汰」になだれ込む。幕が上がると、御大は中央の椅子に座り、外人たちが御大を取り囲んでいた。ああ、やっぱり彼らと演るのだと感激する。「慌ただしい・・・」ああ、ボーカル健在だ。
 静かに歌い始める御大。かつての「熱狂」とは異質の音楽会のような雰囲気で滑り出す。外人有名ミュージシャンということでバイアスがかかっているのかもしれないが、それにしても音がとてもマドらかに感じた。尖った部分、角張った部分を丹念に磨いて、磨いて、丸く仕上げた木工細工のようだ。こけだれの外国人が、みんな御大のボーカルにかしづくように、丁寧に奏でているのもわかった。

 御大は上機嫌で心から楽しそうだった。途中で観客が「拓郎、おかげで今夜はうまい酒飲めるぜ、ありがとうっ!」と叫んだところ、御大はていねいに頭をさげて「どういたしまして」と答える。御大、そんなにいい人だったっけ(笑)

 となりの席の知らない兄ちゃんは、いちいち心に浮かんだことを言葉にしないと気が済まないらしく、コンサート中、ぶつぶつうるさいったらありゃしないが、「今度は一体何回目の引越し・・・」の間奏で御大が椅子から立ってギター弾きながらステップすると「ああ、立った、立った、踊ってる、ああ、やっぱりカッコイイよぉおおおお」と唸っていた。うるさいが共感してまう。
 アンコールを入れて90分あっという間だった。ALONEに続いて、ここでも90分かと思ったが、まったく新しいライブのカタチが始まったのだと自分に言い聞かせた。

 終演後、仕事でも関内に来ることが多くなっていたので、知ってる地下の居酒屋で独酌して打ち上げた。そういえば節目節目の神奈川県民ホール。こんなにゆったりした大人の気分で訪れたのは初めてかもしれない。お店の人に「コンサートですか?どなたですか?」と聞かれて「ああ、ええ」とだけ答えた。こういう時なんで「吉田拓郎」とハッキリ言えないのだろうか。私の敵は私です。って違うか。

♪君のスピードで
 この作品は御大最後のラブソングではないか。といったら怒られるか。ともかく究極のラブソングだ。御大の歌はすべて人と人との「距離」を歌っていると思う。あるべき距離に悩み、あるべき距離より遠いことを悲しみ、あるべき距離を踏み越えて近づくものと戦う。その「距離」のエッセンスがこの作品には凝縮している。「やがて今日も移ろうけれど時に逆らわず君の名を呼ぶ」ああ、涙が出るほど天才だ。その見知らぬ隣の兄さんが音痴に唱和するのが迷惑だったが、このライブの旗艦のような作品であり演奏だった。

2016. 8. 13

 あと44days。酷暑に、リハに、オリンピックにと御大はお元気だろうか。ご自愛ください。あと私たちファンも自愛他愛で本番を待ちたいものです。

1995年10月8日吉田拓郎 TOUR '95 Long time no see 放っておいてくれて、ありがとう NHKホール

 渋谷から坂を上り思い出のたくさんしみこんだ渋谷公会堂を抜けてNHKホールに向う。この時は、初めて御大のライブを観る家族連れつまりは奥さん同伴で参加した。
 NHKホールは巨大なホールたが、ここが「紅白歌合戦」の会場だと思うと随分小さなところでやってるんだなぁとも思う。しかしさすがNHK。会館専属のきちんとした身なりの座席案内係がおられた。
 どうでもいいことだが、昔の映画館の売店で売っていた紙の箱に入ったレトロなサンドイッチが売られていていて感激した。あの具が薄くて、作り手の愛情も気負いもなく、素っ気ない昔ながらのサンドイッチが嬉しい。ホントにどうでもいいが、NHKホールではまだ売っているのだろうか。

 三階席は急傾斜でステージを見下ろす感じだ。上から見ると神奈川では気づかなかったが、御大が茶髪になっているのがよくわかる。欧米か。初日の神奈川よりもステージの和気あいあい度が高くなっていた。間奏になると御大は椅子を離れて、ミュージシャンとアイコンタクトをとり、ソロプレイを眺め、かつての王様バンドの時のようにバンドを愛でていた。
 そして、「永遠の嘘をついてくれ」の出自を話してくれた。「ファイト」を歌った体感が忘れられず、中島みゆきに詞を依頼する。酒席で穏やかな日常という御大の近況を話すと、中島みゆきから送られてきた、叱りつけるようなデモテープ。この難曲に、バハマでは完成できず、トラックダウンに寄ったロスでもダメで、結局、帰国後、観音崎スタジオで完成させたという。そしてこのツアーの鬼門は、「永遠の嘘をついてくれ」をどうやって噛まずに歌うかだったらしい。あの超早口名曲「親切」を歌いこなす御大にしてここまで苦闘させるとは凄い。
 そういえば芸能音楽関係者の皆さんはこのNHKに観覧に来たらしいが、みゆきさんだけは、広島公演を見に行ったようだ。広島に行くというこの女神の心意気。

 さすがに90分は短いかなと思いがもたげたが、もしかすると名残惜しさを一番感じていたのは御大本人かもしれない。最終公演の大阪が終り、そのまま帰国するミュージシャンたちと別れ、ホテルの自室に戻って寂しさに涙したという御大。
 御大は、自分の音楽的居場所を見つけたかのようだった。そして、再会を求めてロスに渡り、外人2ndシーズンとでもいうべき「感度良ナイト」が始まるのだった。彷徨える冬の時代をこえて新生御大の誕生である。

 90分で終わるライブだったので、外に出るとまだ7時前の渋谷だった。渋谷でワイン+パスタで静かな打ち上げ。うーむ、中華つけ麺大王時代から随分大人になったな自分(笑)。

■この日の一曲■
♪永遠の嘘をついてくれ
 バハマ→ロス→日本と続く苦闘の様子に、ディレクターの常富さんは「ボロボロになって蘇生しようとしている」と語った。まさに「蘇生」する歌だったのだと思う。そして次にライブでこの歌を聴くのは「つま恋2006」。「ファイト」「エモーショナルなデモテープ」から始まる御大と女神との10年かけた大河ドラマを私たちは目の当たりにすることになる。

2016. 8. 14

あと43days。

1996年10月28日吉田拓郎 TOUR '96 感度良好ナイト 神奈川県民ホール

 ついに50歳を超えた御大。50歳。結構衝撃だった記憶がある。だって昔は20代だったぜ、て当たり前か。ハワイでファンと迎えたようだが、羨ましい。遠くから憧れているだけで、応募すらできなかった。でも50歳おめでとう。これを書いている今、御大は70歳になっていて、さらにおめでとう。

 そして50歳の御大から届けられた外人バンドのセカンドシーズンのアルバム「感度良好波高し」は名曲揃いで感動した。Long time no seeのメロディーをさらにブラッシュアップしたような、よそゆき感のあるカッコイイメロディー。拓郎節の少ない普遍的なメロディーというべきか。だから拓郎っぽくなくてつまらないという評価もあるが、50歳を超えてこんなに凄いメロディーが作れる御大にこそ括目すべきだ。ともかく前年に外人ミュージシャンに貰ったものを豊かに育て上げ「さあどうだ」と投げ返したような感じがした。

 で、御大は、スーパーバンドの神戸2daysに、新番組「LOVELOVEあいしてる」と俄然元気に動き始めた。ただ、ラサール石井との「里帰り」のドキュメント番組で、Vを観て涙する御大・・あの路線はどうかと思ったが。
ちょうど仕事で疲弊していたので、武道館は、チケット並び代行屋さんを初めてお願いした(爆)。代行さんちゃんと並んでるのか心配になり、見に行きたいところだったが、だったら自分で並べよ。いちおうアリーナをゲットしたが、こういう取り方はなんか気分が荒むので最後にした。
 初日のリリア川口の様子をワイドショーで観て、例によっていてもったもいられなくなって、神奈川県民ホールを追加購入。三階の後ろから数列目。

 「感度良好ナイト」とは素敵なタイトルだ。昨年よりも確実にグレードアップしていた。時間も90分から120分に伸びたぞ。瀬尾一三のアレンジのもとで、矢島賢、鎌田裕美子、コーラス隊らがアシストに加わり、外人バンドと見事に融合していた。そして御大は、バンドを自家薬篭中のものにして、のびのびと御しているような気がした。
 いきなり「ジャスト・ア・RONIN」のドラマチックで荘厳なスタートと「ベイサイドバー」に続くオープニングのカッコよさといったらなかった。
新曲群のセットリストにインサートされる「たえなる時に」「I’m In Love」「マークU」「水無し川」の既存曲のチョイスがまた嬉しい。そしてようやくとライブで目の前にした「ファイト」。重厚感たっぷりの新曲「遥かなる」。そうそう、その月から始まった「LOVELOVEあいしてる」のテーマ曲を全編聴くこともできた。
 椅子に座っていたので腰にはまだ不安があるのかもしれない。しかし、間奏になると立ち上がって跳ね回る回数が昨年よりも増えていた。「拓郎、もっと立ってー」というファンの声が妙におかしい。
 しかしライブの印象としては、「勢い」と「爽快」の二文字がふさわしい御大の胎動を感じさせてくれるものだった。
 進化した外人バンドとのセカンドシーズン。いいじゃないか。これで存分に武道館を迎えることができる。

 後に知ったのだが、音信が途絶えていたT君もこの神奈川ライブに久々に参加したとのことで、会場で私のことを探してくれたらしい。さすがに会えなかったが。T君はこの頃、御大との嬉しい遭遇があったとのこと、それはT君の許可を得てまた次の機会に。

♪水無し川

 出た。ムッシュ・バージョンのアレンジでの本人歌唱。「明日に向って走れ」のどこか沈痛な本人歌唱とは違い、どこまでも陽気でポップな歌いっぷりが嬉しいぜ。ひとつ残念なのは、「ああ、人生は回り舞台だ」のところをコーラス隊にまかせて歌わないこと。そりゃないでしょ。魚がはねて勢いよく流れていくようなこの水無し川は、このコンサートの勢いを象徴しているかのようだ。そして「ファイト」の魚たちに続く。このコンサートの隠しテーマは「君たちは魚だ」ではないか。…古いてか、知らないよな。

2016. 8. 15

あと42days。
 終戦の日。昔、杉田二郎との対談で「夢は何か」と問われて「夢なんかないよ。でも戦争が無くなってほしい。戦争は大嫌いだ」と答えた御大の言葉を思い出す。あらためて彼我の戦争で亡くなったすべての方々のご冥福をお祈りします。

 昨日の日記で「矢島賢」さんの漢字を間違えていた。どなたのお名前も大切ですが、とりわけこんな大事なギタリストのお名前間違えちゃいけません。すみませんでした。ご指摘ありがとうございました。

1996年11月1日吉田拓郎 TOUR '96  感度良好ナイト 日本武道館

 で、武道館だ。実に久しぶりだ。50歳を超えた御大と30代も半ばを過ぎた自分がこうして武道館で会える。こうして久々に訪れると、武道館は、ずいぶん古くなっていて、こんなに小さかったっけと不遜にも思う。しかし厳粛な気持ちになる。悲喜こもごもあったが、やはり武道館は聖地だ。
 WOWOWの生中継ということで、丁度、目の前にカメラが(爆)。んー大丈夫だ、お客さんは入っていることを確認する。

 客電が落ちて、ジャスト・ア・RONINのコーラスが、響き渡り共鳴すると、やはり武道館という空間は特別で身体がふるえるようだった。セットリストもわかっているので、一曲一曲味わい深く聴き入ることに集中した。
 神奈川では気づかなかったが、ギターのワディ・ワクテルは、キース・リチャーズのソロライブに参加した、ちょっと不気味なおっさんだと気づく(笑)。すまん。それにしてもキースの後ろでストーンズのナンバーを弾いたギタリストが、「水無し川」のイントロを弾いているというのは実に感慨深い。
 「淋しき街」は、「わけもなくTOKYO」という安井かずみの詞のタイトルにインスパイアされている。「サマルカンド・ブルー」でアウトテイクになった幻の作品だ。安井かずみさんはどんなふうにTokyoを描いて、御大はどんなメロディーで歌ったのだろうか。ああ聴きたい。この作品を聴くとどうしても安井かずみさんを思ってしまう。
 それと神奈川で聴いたときコンサートの最初と最後が「ジャスト・ア・RONIN」というセットリストが、一曲損したみたいで(笑)、不満だったが、こうして聴くと、実に美しい構成だ。それにもしかすると安井かずみさんへの弔意のようなものがあったのではないかと下種の勘繰りをしてしまう。
 「ファイト」はいわずと知れた中島みゆき。このライブの「ファイト」は良かったねぇ。映像にも残ってめでたしめでたし。
そして、「I’m In Love」は、奥様。
 御大にとって大切な三人の女性が交錯しているセットリストなんだなぁ。・・・なんで関係ない私がしみじみしているのかよくわからないが。

 ともかく爽快な雰囲気で武道館は終了した。良かった良かった。

 当時は、白山に住んでいたので、終演後の人混みを避けてぷらぷらと水道橋方面に歩きながら、水道橋駅付近の地下の居酒屋で一人打ち上げた。日本酒をしこたま飲んでふらふらと帰った。帰り道、まさか「LOVE2」がこんなにブレイクするとはつゆも思わず、どうせすぐ終わる思っていたので、むしろ来年の外人バンドのライブに思いを馳せていたように思う。本当に御大はファンの思うようになったためしがなく、そこが魅力なのだからややこしい。

■この日のこの一曲

♪I'm In Love

 かつてリアルタイムでこの作品を歌う御大が気にいらなかった。御大ともあろうものがなぜこんな軟弱で退廃的なラブソングを歌うのだと思っていた。10年以上経って、外人バンドの演奏で聴き、迷妄が晴れたようにこの歌の美しさに胸を打たれた。クレイグ・ダーギーが「奥さんを歌ったこの歌が実に美しい」と語っていたとおりである。
 ビデオでは、この演奏に、たぶん武道館のバックステージでの愛子さんとの様子がインサートされる。田家さんもライナーノーツで書いていたが、二人が並んで歩いてドアの外に出て行く後姿の映像。光ある世界に向うような美しさ、神々しさといったらない。涙が出そうになる。
 「武道館よ屋根の梁を高く上げよ」の元ネタのサリンジャーの小説(御大とは全く何の関係もない)のフレーズでは、こう続く「汝の麗しきミュリエルと何卒、何卒、何卒おしあわせに。これは命令である」。そう声をかけたくなる後姿だった。

2016. 8. 16

 あと41days。いよいよリハーサル開始ですか。ステージはもちろん、バックステージの御大の一挙手一投足もみたいのでしっかり撮影よろしくお願いします。
 それにしても「もう一回どう?」とはまたファンを悶絶させやがる。

1997年9月5日 高中正義 Tour 1997 虹伝説2 日本武道館

「LOVE LOVEあいしてる」は予想外の大人気番組になった。外国に留学していた弟が、このころ日本に帰ってきて「何が驚いたって、吉田拓郎がお茶の間の人気者になっていてびっくらこいた」とひっくりかえっていた。

 但し、この番組開始から、御大がコンサートツアーに出るまでは実に2年以上の時間がかかっている。さすがに毎週御大にテレビで会えるので放っておかれたわけではない。丁寧にリハーサルをして臨む音楽番組ゆえ御大も大変だったのだろう。そもそも毎週、御大を観られるなんて、ファンとしては昔は考えたこともなかった至福だ。
 しかし、御大は、番組ではスマイリー小原的なスタンスなので、ファンに向けて直接語りかけたり、燃え滾るように歌うというシーンはそうは多くはなかった。いや全くなかったかな。おじさん、おばさんは、ちょっとバブリーな女子高生人気を後ろから眺めながら、ああ、テレビもいいけど、早くライブ演ってくれよと渇望する日々だった。

 そんな御大が高中正義のツアーにゲスト出演するというので、それでいい、とにかくピンで歌う御大が観たいということで武道館にかけつけた。バンドの構成は、武部・鳥山・吉田建というラインで、さまざまな高中ゆかりのゲストが客演したり、フライドエッグが再結成されたり、篠原ともえが乱入したりと、LOVE2の高中特番みたいなライブだった。

 高中が、チリンと風鈴を鳴らして「夏休み」を歌うと、それを合図に御大が「こんばんは、篠原ともえです」と陽気に登場して、「落陽」と「春だったね」をあの高中のギターで歌ったのだった。黄色と黒のボーダーのミツバチみたいな恰好で飛び出てきた御大は、毎週のLOVE2の静かなる御大ではなく、私らがかつて熱狂したあの軽やかな姿で、ノリノリに2曲立て続けに歌った。アゲアゲな感じが素晴らしかったねぇ。去り際にギターを弾く鳥山雄司の肩を労うようにポンと叩いて行くところがまたカッコイイ。
 ともかく、あっという間だったが、とてつもない充足感があった。たった2曲だったのだが、まるで一陣の春風のように現れて去っていく、そんな御大がたまらなく素敵だった。高中が「フットワークの軽い方ですね」と感心すると客席の高中ファンからから「おまえも負けるなー」と声援が飛んだ。

 大丈夫だ。御大は元気だ。テレビじじいにならずに、必ずライブに帰ってくる。凄いライブを魅せてくれる。そんな確信を抱いたライブのゲスト出演だった。

■この日のこの一曲

♪春だったね

 やはり高中正義ありて「春だったね」「落陽」ありというのが正しい歴史認識なのだろうか。高中もライブ73を大切にしてくれているところがさらに嬉しい。キンキの横に座っている物静かなおじさんが、アゲアゲで歌う「春だったね」。LOVE2バブルの真っただ中に生きる若者よ、どんなもんだい。これが吉田拓郎だ。
 武道館を白馬に乗って駆け抜ける御大を括目して観よ。そんな躍動する輝きある「春だったね」であった。

2016. 8. 17

 あと40days。

1998年11月22日 LIVE '98 全部抱きしめて パシフィコ横浜国立大ホール

 この頃、仕事の修業のために行っていたロンドンからの帰国直後だった。カッコつけているワケでなく、言葉の壁を乗り越えられず、壁にしがみつくだけだったので、すっかり失語症になって敗残兵のようになって帰ってきたところだった。チケットは、横浜とフォーラムを家族が「マハロ」で取っておいてくれた。ファンクラブはありがたい。ああ日本はいいなぁ。というわけで、さぁ、いよいよライブだ。

 とにかくこの日一番驚いたのは初めて行った「パシフィコ横浜国立大ホール」だ。横浜国大みたいなタイトルだ。いままで神奈川公演といえば、神奈川県民ホールが定番だった。しかし今回は、桜木町駅でおりて移動エスカレーターにのって巨大なコンチネンタルホテルを抜け、現代的なモールをしばし歩くとあらわれる白亜の巨大な未来的建物。「スタートレック」に出てくる23世紀の惑星連邦の本部みたいだった。すげー。

 いよいよ、久々のソロライブ。武部聡志のバグパイプのようなファンファーレが響く。バクパイプを聴くとどうしても渋谷の映画館を思い出すが、どうでもいいか。
 出ました「春だったね」。御大がスタンディングしてノリノリで歌っていることに何より感激した。座っていた御大が直立して歌唱する。それだけで気持ちが奮い立つ。
「春だったね」から切り返すように「心のボーナス」。「みんな大好き」「ハワイアン・ラプソディー」を中心に進行する。去年の高中正義の時と一緒でLOVE2のスピンオフのような感じのライブだった。
 それだからか選曲は標準的なものでマニアックな作品はなかった。このライブは、おそらくLOVE2で御大を知った方々に向けた名刺代わりの選曲だったのではないか。私のような頑迷固陋なファンには少し不満だったが、それでも久々にバリバリの御大のソロツアーが始まった喜びの方が大きかった。御大は居心地よさそうに軽快なテンポで歌っていった。

 このツアーから「全部抱きしめて」が、オーラス定番曲となる。当時既に、キンキのカバーが超絶大ヒットになって席捲していた。ファンにもこの作品の好き嫌いはそれぞれにあろうが、この超絶ヒット曲という誇らしさ、エヘンな気分(笑)。どうだ世間という気持ち。ああ、リアルタイムで大ヒットするとファンというのはこういう爽快な気分なんだということをたっぷりと味わせてもらった。
 こういう時代を席捲しているLOVE2のアゲアゲ気分というものが確かにあった。終演後、帰る道すがらも、みなとみらいのおしゃれな環境も手伝って、心なしか凱旋するような気分だった。
・・・ま、それでも結局、駅前のボロい居酒屋に入って落ち着くのだが。

■この日のこの一曲

♪僕達のラプソディ

 なんつってもこの御大の詞がいい。この時期の爽快な気分を見事に体現している。仙台坂を何回降りたことだろう。左に曲がったことだろう。いつもいるのは志村けんさんだったが(笑)。
 「夢までの道を最後まで一緒にさまよって行きましょう」「夕焼けの空をどこまでも一緒に追いかけていきましょう」「これからの日々も最後まで一緒に抱きしめていきましょう」この胸をしめつけられるようなフレーズ。おそらく御大は最愛の伴侶のために書いたのだと思われるが、そこは思い込み一発、御大と自分に置き換えてしみじみと聴く俺を許してくれ。

2016. 8. 18

 あと39days。

1998年12月17日 LIVE '98 全部抱きしめて 東京国際フォーラム

 さて初めての東京国際フォーラム。今じゃすっかりおなじみだけど、このフォーラムも最初その近未来な佇まいに驚いたものだ。もう「会館」とか「市民ホール」とは全く別の範疇のようだった。すんばらしい。フォーラムとパシフィコがあれば、確かに武道館の利用は遠のくかもしれない。

 そして何気に2日連続公演だったことも忘れてはならない。連チャンは、当時でもかなり久しぶりだったのではないか。御大は2日目も全然元気で、パワー全開だった。 ・・・まぁ後にこのフォーラム昼夜公演というもっと凄いものを観ることになるにしても。

「LOVELOVEあいしてる」と4つに組んだ蜜月時代。御大は、番組でも口にしていたが、kinkikids、篠原も含めてLOVE2まるごとツアーを希求していたようだ。その下準備的な意味もあったのかもしれない。ドーム会場で繰り広げられるLOVE2ツアー、実現したらそれは凄かったろうな。
「全部抱きしめて」で、最後のリフレインで吉田建が突如拡声器を持って叫んでいた。「拓郎はkinkikidsが大好きだよ」、なんだったんだ、ありゃ。

 確かに御大が「LOVELOVEあいしてる」を番組としてプロジェクトしてバンドとして仲間として何より大事にしていることがよくわかった。
 そういう時の、御大というのは、「○○ファミリー」「△△軍団」「■■一家」のように親分やリーダーとして率先目立つことは決してしない。自分は、目立たぬように1歩も2歩も3歩もウシロに引いて、愛するkinkikidsやミュージシャンやグループの土台に徹しようとする。思えばフォーライフもスーパーバンドもそうだったと思う。強引な親分肌という世間のイメージとは全く違う。
 リオのオリンピックで日本の入場行進で役員が先頭集団だったということがニュースになったが、御大はああいうときに絶対に先頭を歩いたりしない。社長であろうとリーダーであろうとバンマスであろうと、後ろを目立たずトボトボと歩くに違いない。そもそも歩かないだろうとファン方から指摘もされた。そのとおり。

 ちょうどこのころ故ナンシー関のテレビ時評で「LOVELOVEあいしてる」について、「橋田ファミリー」に代表されるような「吉田拓郎ファミリー」になっていないところの不可思議さを指摘していた。まさしく何とも不可思議なリーダーなのだ。

 なのでファンとしては、もっともっと前面に出てきてくれよと歯がゆく思う。しかし、この静かに後ろに引く御大の素晴らしさにも魅せられる。この一見矛盾する隘路こそがファンにとっての悶絶するツボなのだと思う。

 さて、そんなこんなをつらつら思いながら、ライブは終わる。今日のライブは終わっても、番組もツアーも当分続くという安心感があった。いいじゃないか。この時代がくれた幸運をとことん味わおうではないか。有楽町は、やっぱり「ニュートーキョー」か「ライオンビアホール」だなぁ・・ということで祝杯を上げに行った。

■この日のこの一曲

♪ともだち

「みんな大好き」のアレンジがベースなのだが、一番を切々と歌いこんでから、イントロが盛大に始まる。このアレンジがたまらなくイイ。御大のシックなボーカルが暖かく存在感をもって響いてくる。この心地良い泰然としたバージョンは傑作のひとつだと思う。ああ、あらためて美しい歌だなぁと感嘆することしきり。

 そういえばSMAPの中居くんがカバーしたなぁ。ああなんか時節柄とても切ないぞ。

2016. 8. 19

 あと38days。

1999年10月2日 LIVE'99 〜20世紀打上げパーティ 千葉県文化会館


 当時「20世紀打上げパーティ」というタイトルに、20世紀の最後は2000年だから1年早いのではないかという物議が醸された。確かにそうかもしれん。しかし、LOVE2でのブラザートムさんのキレ芸「うるせぇな、拓郎さんがそう言ったら、そうなんだよ!!」をお借りしよう。

 千葉県文化会館。確かツアー2日目なので、早く観たかったのと妻が生まれてこのかた千葉に行ったことがないというドメスティックな理由で千葉に決めた。もちろん東京も行くが。

 随分、久しぶりの千葉県文化会館は、マハロのおかげで、4列目だった。いい席が来た。

 LOVE2の2年目のツアーということで、選曲などはさして期待もせずに臨んだのだが、大いに裏切られるツアーとなった。
 客電が消えた一瞬の燃え立つ感じこそ、ライブの真骨頂なのだが、この時は、客電のままゾロゾロと御大とバンドが現れ、一曲目「イメージの詩」を歌いながら、電気が消え、照明とセットが整っていくという無茶苦茶な演出だった。

 御大は、サングラスに腕まくりしたジャンパー、ジーンズといういでたちで全体に近年になく洗練されていた。イケてる。首からSTAFF PASSを下げたまま歌うのもカッチョエエ。75年のつま恋で山田パンダが警備の腕章をしたまま歌ったのとは大違いだ(笑)。なぜ比べるかもわからん。
 そして縦横無尽のメドレー攻撃。曲がブツ切りになるメドレーは苦手だと前に書いたが、だったらもっとメドレーにしてやるぞといわんばかりに、オープニングのイメージの詩からメドレーになっていて眩暈がした(笑)。
 毅然として進むコンサート。「拓郎、明後日までやれー」のヤジに「おまえ1人でやれ」と凄む御大。
 しかし、そのあとの「どんなもんだいこの選曲攻撃」がまた泣かせるのだ。前年のライブについては、LOVE2対応の標準的なつまらない選曲とか書いたが、申し訳ない。私もまだ若かった。

 切ないキーボードのメロディーとともに始まった「襟裳岬」。うわーーーいつ以来だ?たぶん「篠島」が最後だろう。一緒に行った妻は、「え゛りぃぃぃものぉ゛」ではない作曲者本人歌唱を聴いて、なんて綺麗な歌だったのと感激していた。
 そして「流星」、「マラソン」、「大阪行きは何番ホーム」の波状攻撃。当時かなりのお久しぶりだった。「流星」なんて79年以来だから20年ぶりだ。
 また懐かしの切り口だけでなく、Kinkikidの「フラワー」のカバー。どんだけ彼らが好きなのか。本来、貴重な一曲を、カバーで消費しおってと怒るところだったが、あまりにピッタシの素晴らしいカバーに言葉を失った。
 「我が良き友よ」で歌詞カードが配られる。さすがにオトナだからこういうことで怒ったり動揺しない(笑)
 一緒の妻は、当時、御大のことは、ほとんど知らなかったが、それでもたまたま耳にした「AKIRA」が大好きだとずっと言っていた。ライブ前に今日は、「AKIRA」は歌うかしらと言ってたので、(これだからシロウトは)と思いつつ「まず歌わないでしょう」と諭していたところ、本編を締めくくるラストでいきなり歌われて大恥をかいた(爆)
 アンコールは「新曲」と「全部抱きしめて」で、明るく閉幕した。ともかく意外なセットリストに翻弄され、またたく間にライブは終わった。

 余韻に後ろ髪をひかれつつ、千葉駅まで戻り、千葉とは何のゆかりもない「かに道楽」で夫婦打ち上げをして帰った。初めての千葉がこれで良かったのだろうか。

■この日のこの一曲

♪フラワー
 「流星」「マラソン」に胸揺さぶられたが、やはりこのライブのこの一曲は「フラワー」だ。御大のウクレレのイントロダクションに続いて、南国の風が湧き立つようなポップな演奏が始まる。老若男女、偏屈もミーハーもみんな身体を揺らすしかない。
 御大の歌いっぷりは見事で、どこにもカバーという作為の縫い目は見えなかった。「ファイト」のように御大の作品のごとく自然に歌われていた。今でも夏が近くなると御大のボーカルでのこの曲が頭に鳴り出す。映像なり音源はないものか。愛に溢れたベストカバーだ。

2016. 8. 20

 あと37days。

1999年11月3日 LIVE'99 〜20世紀打上げパーティ NHKホール

 とにかく落ち着いてもう一度このステージを観ようとNHKホールに向った。

 心を空にして落ち着いて聴いても「イメージの詩」「親切」「マークU」「こうき心」「落陽」を細切れにしてメドレーでつなぐことに意味があるとは思えなかった。

 そうこうするうちに突然に御大はMCで「フォーライフを辞めた」と宣言し、こっちは椅子からころげ落ちるくらい驚いた。どっかーん。えええーー。そもそも「辞める」って意味がわからない。だって「御大=フォーライフ」じゃないか。詳しい理由は語られなかった。しかも移籍先もまだ明らかではなかった。どういう事情があったのか、どういうことなのか、未だにわからない。誰か「御大フォーライフ辞めるってよ」という映画にでもして説明してほしい。
 「フォーライフ脱退」宣言をしたあとで、フォーライフに捧げるということで「いつか夜の雨が」を歌った。御大にとっては、この作品がフォーライフ時代の一番の思い出だったということだ。そう意味での選曲だったのか。

 メドレーの文句ばかり言ってきたが、この脱退発言の後では意味合いがガラリと違ってきた。コンサート終盤のメドレー第二弾では、たえこMY LOVEから始まり、明日に向って走れ、元気です、もうすぐ帰るよ、あいつの部屋には男がいる・・などフォーライフの作品たちが歌われるたびに、あの日の情景や思い出が風船のように、あっちこっちに浮かんでは飛んでいくようだった。「フォーライフの走馬燈」あるいは「フォーライフのフラッシュバック」のように頭をかけめぐり胸が詰まった。うーむ、見事なメドレーだぜ。現金なものだな自分(笑)。

 御大は、いつもと変わりなく清々しく歌っていた。こっちは、混乱、動揺しつつも、この時期の御大と御大を取り巻く空気から、これは決して悲壮なことではなく、より新しいスタートなのだということは肌でわかった。

 それにしても御大あなたという人は。50歳をとうに過ぎて、人は定年に向けて準備を始めるというときに、御大、あなたはどこへ行こうとしているのだ。

 東急文化会館の裏手のお店で、一人ビールを飲んだ。ああ、こんな時、「フォーライフ脱退」という衝撃の事実を分かち合い、語り合う相手が欲しいと心から思ったものだ。

■この日のこの一曲

♪いつか夜の雨が

 御大がこの作品を”愛に満ちた名曲”として深く愛してきたことは、いろいろな発言から伺ってきた。その断片のひとつが、フォーライフとの日々のことだったのか。「過ぎ去る者たちよ、そんなに急ぐな。」このフレーズが胸にしみる。ああ、「フォーライフ」とても過去のものになってしまうのか。
 そして今やあなたが急いで過ぎ去ってしまってどうするんだ岡本さん。フィンランドの諺をもじれば「いつか夜の雨が」とは、まさに、かつてそこに愛があった証である。

2016. 8. 21

あと36days。

1999年11月24日 LIVE'99 〜20世紀打上げパーティ 東京国際フォーラム
 冒頭のMCで「こないだNHKホールでもやりましたが来た人いるかな…(観客から行った!、行った!)…馬鹿だねぇ、同じ事しかやんないよ」・・家を出るときにも同じことを言われた。私には同じだから行かないという発想の方がわからない(笑)。

 「フォーライフ脱退事件」は、ボディブローのように効いてきた。あの日、中学生坊主たちが教室で「凄いレコード会社が出来るんだぜ」と大騒ぎしたフォーライフ、音楽の流れを変えたフォーライフ、矢沢永吉までがアーティストの夢と讃えたフォーライフ、御大がアーティスト生命をかけて救おうと奔走したフォーライフ。
 そんなフォーライフにもかかわらず、50歳をとうに過ぎて、颯爽と新天地を求める御大にシビれる。しかし、どう考えても、あれほど繊細な御大が平気でいられるワケがないはずだ。だからこそ御大のこの出立は凄いのだ。だったら何が御大をそこまで・・というように下種の勘繰りの堂々巡りになっていた(爆)
 ファンである以上、ある一線から向こうはわからない。御大本人でもないし、親族でもないし、友人でも仕事仲間でもない。遠くから、思い込みと下種勘を繰り返しながら勝手にありったけの愛を深める迷惑な人種をファンというのだ。

 そういう思い込みの前提で言えば、「メドレー」が「走馬燈」のような特別の意味を持ったように、この日のナンバー「流星」「マラソン」がまた違った深いい意味をもって迫ってくるような気がした。

「例えば僕が間違っていても正直だった悲しさがあるから」「人はいつか走れなくなるまで遥かな夢を抱いて旅を続ける」ひとつひとつに御大の哀しみと逡巡が滲み、それでも孤影悄然と旅をする姿が浮かぶようだった。
 このツアー3回目にしてやっと発見したのは、サングラスをかけて歌っていた御大は、この「流星」「マラソン」を歌う時にはサングラスを外すのだ。どんな意味があったかは謎だが、裸眼で歌うというスペシャル感がたまらん。
 そしてAKIRA。「尊敬するアキラとの別れだ 自信はないけど1人でやってみよう」「生きていくことに戸惑うとき、夢に破れ流離うとき、明日を照らす明かりが欲しいとき・・・」どれもとこれもが格別な意味を持って聴こえてくる。

 いくら20世紀の打ち上げとはいえ、またどえらいことをしてくれたもんだと思った。
 結局、私らに出来ることは、御大の背中を見失わないようにすることと、この気骨を忘れないことの2つだけなのかもしれない。

■この日のこの一曲

♪気持ちだよ
 この頃「フォーライフ最後のシングル」となることを知った。「となりの町のお嬢さん/流れる」で始まったフォーライフはこの「気持ちだよ」で終わる。
 重たい荷物は背負ってしまえば両手が自由になるだろう。かつて会社の危機を救うべく社長という重い荷物を背負い、会社ゴッコだと揶揄されたり、もうアーティストとしては終わったとかさんざん批判されたりしながらも言い訳ひとつせず快活に奮闘していた御大の姿と重なる気がした。

2016. 8. 22

 あと35days。大型の台風連続直撃がたまらない。晴れた日にも必ずスコールのように土砂降りが襲う。日本の夏も変わってしまったのだろうか。セミは鳴いているので地球は終わらないだろうが。とにかく被害が出ませんように。

2000年7月1日 夏と君と冷やしたぬき 府中の森芸術劇場

 御大の移籍先は、意外にもテイチク=インペリアル・レコードだった。第1弾シングル「トワイライト」の発売とぬぅあんと全国30か所近いコンサートツアー開始。つま恋でのリハ見学ミーティングもあり、行けた人が羨ましかった。新天地でのスタートにファンの景気も上がる。
 しかも、ひと夏を超える「サマーツアー」だぜ。これで条件は揃った。コンサートツアーの始祖の御大が、夏と言えばサザンだチューブだと妄信している日本国民を啓蒙してくれよう。ツアータイトルも「夏と君と冷やしたぬき」だぞ、どうだっ!。・・・え?「冷やしたぬき」???もうちょっと考えてよ、というか考えすぎじゃないのかと当時は思ったものだ(笑)。

 それに「冷やしたぬき」がうどんなのかそばなのか解らないとファンとしても対応のしようがない・・・と思っていたところ、「徹子の部屋」で、黒柳”一回どう?”徹子さんのおかげで「うどん」と判明。爾来、夏は、ファンは「冷やしたぬきうどん」に決まりだ。

 府中の森。ホールまで続く並木道がなんともクラシカルな雰囲気で素敵だった。LOVE2シフトも三年目でバンドも練りあがった感じだ。武部聡志がユーミンのツアーにいったため、裏バンの吉田建と鳥山雄司が牽引する。
 オープニング「君去りし後」。おお思ってもみなかったけど、いいじゃないか。そして「サマーツアー」のシンボルのように歌われた夏の作品たち。
 「夏二人で」(おおーステージでも歌うんか)「KAHALA」(ああ憧れのハワイ)は眩しい夏の日差しが溢れるようなウキウキとした夏が描き出す。
 そして対極にあるかのような「いつも見ていたヒロシマ」で祈りの夏が歌われる。そして蔭からアシストするように「Life」。素晴らしい。
 日本の夏に宿っている「解放感」と「祈り」が、見事にひとつのステージで溶け合っている。ここなんだよ。海の家周辺の色恋沙汰を描くだけのサザンにもチューブにも、この深みのある夏は描けまい(あくまで当社比だからね)。本当の夏王は御大だと思う次第だ。

 メンバー紹介の「コラソン」は笑った。ギターと寝てる鳥山雄司、早くレベッカに帰りたい小田原豊、遭わなきゃよかった吉田建・・・大爆笑だ。

 例によってのメドレーのあと、トワイライト、OSSAN、君が好き、英雄、今日までそして明日から と怒涛の一気歌唱をみせてくれて、一番最後に、これも徹子さんに自慢していた七分丈パンツに黄色いTシャツで現れた御大は、陽気なゆとりで「全部抱きしめて」を歌って去って行った。

 いよいよ夏の始まり、サマーツアーの始まりにときめいたものだ。

 このツアーあたりから、ネットやチャットの普及で、ファン同士のサークル的な結びつきが増え始めていた気がする。「オフ会」全盛時代の始まりか。私は門外漢だったので、そのまま新宿に行きビアホールで打ち上げた。

■この日のこの一曲

♪カハラ
 夏テーマにピッタリの「カハラ」。ステージ初演なれども、ツアー中盤でセットリストからは消えてしまった。残念。83年当時はチャライ歌を作りおってと快く思っていなかった。そこに行こうが行くまいが、万人の心に「陽射し」と「空気」を届けてくれる、御大による「憧れのハワイ航路」なのだと今は思う。

2016. 8. 23

 あと34days。

2000年8月13日 夏と君と冷やしたぬき パシフィコ横浜国立大ホール

 サマーツアーを追いかけての中盤戦。横浜では、武部聡志らLOVE2オールスターズで、ユーミン・ツアーのためにこのライブへの出演ができなかったミュージシャンの方々が観覧しており、華やいだ雰囲気があった。

 本編。8月という月に、しかも6日〜9日〜15日と続く時間の中で「いつも見ていたヒロシマ」の生歌唱が聴けたことの意味はとてつもなく大きかった。自分は長崎がルーツなので、小さい頃から、原爆と戦争と精霊舟はセットで、すごく薄っぺらなレベルにせよ身体に刷り込まれていた。そういうシンパシーがあるので、昔から、アリスも松山千春もさだまさしも敵陣と思って生きながら、アリスと松山千春は心の底から嫌いだと断言できるが(笑)、さだまさしについては心の底ではかなり好きかもしれない(爆)という迷いがある。ともかくこの日の「ヒロシマ」は格別に心にしみた。

 そんな横浜でもうひとつぶっ飛んだのは、大胆なセットリスト変更だった。府中の「KAHALA」はカットされ、「Ossan」「トワイライト」「君が好き」「英雄」「今日までそして明日から」とエンディングになだれ込む怒涛の5連発の曲の一部が差し替えられていた。横浜では、「Ossan」「トワイライト」「人生を語らず」「たどり着いたらいつも雨降り」「今日までそして明日から」にチェンジされていたんでびっくらこいた。何という強力なテコ入れ。御大にしては何という大きなサービス。
 「人生を語らず」でかなりの観客がスタンディングしたが、そのあとの「たどり着いたら」のあのギターのイントロで、残らず完全スタンディングとなった。そうなると最後までは一瀉千里のごとくだった。興奮したなあ。

 後日の吉田建の発言によれば、ツアー途中に、スタジオでリハーサルをしたらしい。そんな御大の意気込みと気迫が漲る「成長型ツアー」だったのだ。すげー。

 興奮冷めやらぬパシフィコからの帰り道は、桜木町の駅に向かってフラフラ歩いてるだけで、何か得したような気分になる。夏の海風に吹かれて、高揚した気分で歩く。そういえば「帰路」という素敵な歌があったことを思い出した。「こんな小さな僕達はいつか夜空の星になるのだから 覚えたメロディーを唇で確かめて・・・」今思えばそんな気分だった。

■この日のこの一曲

♪たどり着いたらいつも雨降り

 「たどり着いたらいつも雨降り」は、自分が物心ついてから、ツアーで聴いたのは初めてだった。「好きになったよ女の娘」のころから考えると長い歴史ある名曲だが、なかなか御大は演奏してくれない。島村英二さんがアマチュア時代からカバーしていて大好きな曲でありながら、いまだに御大とプレイしたことがないという。あの歴戦の島村英二にして驚きだ。
 ツアーの一曲として聴くとやはり燃え立つようなロックの傑作であることが肌でわかる。数多くのミュージシャンがこの作品をカバーしたことからも明らかだろう。もっと本人歌唱の光を!! 島ちゃんのためにも>って他人様をダシに使うな
 そういえばさだまさしと島村英二は、同じ高校の先輩後輩らしい。受験生、試験に出るぞ。何の試験だ。


2000年8月20日 夏と君と冷やしたぬき 新潟県民会館

 横浜から一週間後、家族旅行で新潟県の村上に行く計画に便乗して、密かに新潟公演を組み合わせた。もう徹底的にサマーツアーに付いていく所存だった。
 初めての新潟県。新幹線で長い長いトンネルを抜ける。御大も「抜けやしないトンネル」と新潟公演のMCで語っていた。

 新潟県民会館は、堂々たる会館だったが、昔の設計だからか、席密度が小さい。P3列で前から3列目だったのだが、もうヒョイとステージに上がれそうなかなりの至近だったので嬉しくかつビビった。主観的な思い込みにせよ、御大やバンドとバチバチ目が合うような感じで緊張したし、とにかく音圧が凄かった。既に3回観たステージだが、普通の映画を3Dで観なおすようで音の砲撃をおなかで受けるような感じだった。

 御大は冒頭で「夏にツアーをやれば風邪をひかないということで企画したが、夏風邪をひいてしまいました」ということだった。確かに少し声が苦しそうだし、水を飲む回数もやたら多い。
 しかし身体を捩って声を絞り出そうとする御大を間近で見られることは、それはそれで大いにトクをした感じだった。体調不良の御大には申し訳ないが。
 ちょうど「Life」の絶唱が、85年のつま恋の明け方の絞り出すような熱唱とかぶって、泣きそうになった。サマーツアーというが、「ヒロシマ」、「いつか夜の雨が」「Life」「流星」「こっちを向いてくれ」「君のスピードで」。よくラインナップを観ると、内省的で静かに聴かせるタイプの熱唱曲が多いことに気づく。だからこそ、最後の「人生を語らず」「たどり着いたらいつも雨降り」の怒涛の熱唱がコントラストで燃え立つのかもしれない。
 あとメンバー紹介の歌の最中に、ステージ後方に引っ込んだ御大が、最後の怒涛に備えて「かき氷」をかきこんでいるのが確認できた(笑)。

 最後に、スタンディングすると、ホントに御大と目が合うみたいで緊張した。ああ至福だ。アンコールの七分丈の上の黄色いTシャツには「St.Paul」と書いてあるのがわかった。ン?「立教大学」か?後で調べたら立教はSt.Paul’sなので、アメリカの都市らしい。

 とてつもない充足感を抱えて、会場を後にした。御大どうぞお大事に。新潟の町に出た。酒も魚も最高だったが、一番感動したのは「たれカツ丼」だった。今まで自分にとって「カツ丼」とは例外なく卵でとじてあった。ボンとカツを乗っけてタレとキャベツで食べるこの新潟方式のウマさに感動した。


■この日のこの一曲■

♪life

 かなり間近で観ていたため、御大が、ギター握りしめて、身体を横に傾がせて「横道にそれるぅぅ」と絶唱すると、観ている自分も身体が力みかえって、身体が傾いで微妙に震えているのを観て、家族には危ないおじさんにしかみえなかったそうだ。「感応同交」とはこのことか。ばかもん。この作品を御大がこんな間近で熱唱してくれてるんだぞ、冷静に聴いていることは失礼にあたろう。

2016. 8. 24

あと33days。

2000年10月10日 夏と君と冷やしたぬき 東京国際フォーラム

 ひと夏を超えたツアーがいよいよ終わる。「冷やしたぬき」というトホホなツアータイトルにもかかわらず、公演本数、選曲、わけても進化するセットリストなど御大の音楽家としての気迫が漲る素晴らしいコンサート・ツアーだった。バンドも鳥山雄司、吉田建、kyon、小田原豊、コーラスというコンパクトなバンドだったが、実にしっかりとした音楽のカタマリを聴かせてくれた。Kyonは佐野元春、小田原豊はその後、浜田省吾へ。あのヘンテコなメンバー紹介の歌とか歌ってるが、超絶実力派バンドであったことを今さらながら再認識する。
 そして最終日には、アンコールで「イメージの詩」が、ドカーンと追加されその意気軒高なライブの最終完成型を見せつけてくれた。

 ツアー定番のMCだった麻布の焼き鳥屋に、少年隊、志村けん、堂本光一が集まる話は何度聴いても面白かった。LOVELOVEとの蜜月が、音楽家としてもソリストとしてもアイドルとしても、とにかく御大の何かを呼び覚ましたような気がする。

 LOVE2の最初の頃「テレビに出なかった拓郎さんがなぜテレビに?」と聞かれるシーンがよくあったが、その裏には「今頃、テレビに出やがって」という揶揄というか冷笑が隠れていることが多かった気がする。で、実際に御大も、若者について行けずに常に辞表を携行していたという。観ているファンも毎週静かなる御大に手に汗握り「御大なんか喋れ!!」とハラハラしていたものだ。
 この歳になってよくわかる。50歳過ぎて、10代、20代の若者のプロジェクトの輪にはいって仕事するなんて想像を絶することだ。自分のような一般Pですらそうなのだから、ましてや功成り名を遂げた御大にとってはどんなにか辛いことだったろうか。

 しかし御大は番組を成功させ、この日もMCで「若い人から学ぶこと、その楽しさ、僕も変わりました」と屈託なく語った。私が言うのもとても何だが「成長」である。50歳を過ぎようと人は成長し人は変われるのだ・・・ん、ビジネス誌か宗教雑誌の見出しのような言い方になっちまったぜ(爆) とにかくここにこそ御大の偉大さの一端を知るべきだ。

 オーラスの「全部抱きしめて」での若き友人である堂本剛くんの飛び入り。その瞬間、あらゆる世代の女性が湧き立ち、あちこちで立ち上がりステージに向って全力疾走で殺到していったのには驚いた。今まで御大のライブで、例えばゲストで小室等やかまやつひろしが登場してステージに殺到した人はみたことない。とにかく実に見事なフィナーレだった。

 素晴らしいオーラスに帰り道の一人、そして独酌が淋しかった。Tくんと会いたいと思った。しかし居所不明になっていた。この気持ちを誰かと分かち合いたいと思った夜だった。

■この日のこの一曲

♪全部抱きしめて
 この時は、もちろん知らなかったが「LOVELOVEあいしてる」のエキスが満ちた「全抱き」は、これが最後になる。翌年番組が終わり、ステージの御大を観るのはこの2年後のことだ。
 パーカーを来た普段着の剛くんは、あの見事な歌唱力で歌い会場を沸かせた。そして、最後に御大と手をつないで恋人同士のように二人スキップしながら去って行った。実にいい絵だった。こっちも本当に心から祝福するように拍手をおくったものだ。

2016. 8. 25

あと32days

<それからとこれまでのあらすじ>

 2001年春、「LOVELOVEあいしてる」が遂にというか突然にというか終了。インペリアルの初の新作アルバム「こんにちわ」が発表され、ユニクロのシャツを着た御大は、都内に「こんにちわ 吉田拓郎」と大書された通称「拓バス」を走らせた。普通の路線バスに手を振ってしまう自分が恥ずかしい。
 次なる音楽活動として「公民館ツアー(ロックンロールサーカス)」と「ビッグバンドツアー」を模索するさなかに、フォーライフとユイの解散という悲痛事が発生。詳しい事情はわからないが、当時、武部聡志のラジオにゲスト出演した時の御大曰く「事務所が倒れてこの事態につきあうことになり」ということで音楽活動は困難を極めたようだった。「公民館ツアー」は、九州地区だけすべて決まり(・・・凄いよな、九州のイベンターって・・・)がその他の地区が難航し最終的には頓挫した様子だった。御大のコンサートの目途が立たない悶々とした時間が続いていた。

2002年10月30日「吉田拓郎デラックス」収録 NHKスタジオ101 

 そして2002年秋。突然NHKの番組の収録の観覧者募集の知らせが舞い込む。どうやら御大が音楽番組で歌うらしい。一度は落選したが、NHKから追加席での当選という連絡が来た。
 孤高の私もインターネットの拓郎サークル仲間に拾っていただき、その人々の経験と知識と愛情の深さに感嘆しながら飲み会の末席に加えてもらっていた。そこでの仲間といろいろ譲り合いながら、NHKスタジオ101の収録に参加した、同志たちと観る初めてのライブだった。

 スタジオの真ん中に管弦を含めたステージが作られ、これを取り巻くように、客席が、体育館の2階の観覧席のように設定されており、自分の席ちょうど御大の真後ろだった。なるほど、だから追加席か。いいのだ御大の後ろ姿が好きだから。
 収録前、NHKのたぶんディレクターの人が諸注意に現れて「みなさん、今日、何曲くらい演奏すると思います?」と問いかける。音楽番組なのでせいぜい1時間番組で4から5曲かと思っていた。案の定誰かが「5曲」と答える。NHKの人は得意気に「5曲? いーえ。10曲?もっと。…実は20曲歌います。」(観客思いきりどよめき)どひえーーー20曲。それは立派なライブじゃないか。番組ではなく一本のコンサートを観られるのだという想定外の事実に胸が躍った。
 大勢(総勢20名余)のミュージシャンが指定位置につく「おー島村さん」「あーエルトンさん」、まさに歴代の譜代大名に遭えたような嬉しさ。そして大歓声にこたえて御大がしなやかに登場。おお、なんと久しぶり待ったぜ。

 エルトンさんのピアノが鳴り、ストリングスが美しい音色を響かせる「とんとご無沙汰」。ほんとにまたもやとんとご無沙汰だったもんね。
 ライブは、放送とDVDのとおりだ。「外は白い雪の夜」の歌詞を間違えて悔しがるシーンがカットされたくらいか(笑)。
 御大がこだわったビッグバンドのサウンド。その質力と音圧は十分に伝わってきた。そこに依存するたけではなくライブの構成も新旧きちんととりまぜたよく練られた選曲だった。
 LOVE2が終わってしまい、ツアーも頓挫したために宙に浮いてしまった感のある「いくつになってもHappy birthday」「朝陽がサン」も演奏された。本当に「2002年のツアー」といっていい内容だった。
 特に「Y」。どんだけ久しぶりだ。昔ライブやダイエーにも付き合ってもらった彼女を余計にもふと思い出してしまった。ストリングスの間奏が胸に迫る。そして迫力の「落陽」「人生を語らず」まで一気に見せた。ものすげぇライブを見せられた感じだ。今でも繰り返し観るし聴く逸品だ。

 これは番組であると同時に、全国のイベンターにこの一座でコンサートツアーをしたいからという売り込み、プレゼン、試供品みたいなものだったらしい。やるぜ御大。 まさにこれから始まるビッグバンド時代の幕開けだった。
 そして最後に「じゃあみなさんこの次は旅の空で」という身もだえするような嬉しい言葉が御大から放たれライブは終わった。

 想定外の凄いものを見せられた充足感が観客たちの顔にも現れていた。LOVELOVEが終わってから1年半。なかなかライブが実現不安のひとときだった。

 御大が素晴らしいのは、どんだけテレビで人気者になっても、他のよくあるミュージシャンたちの例のようにテレビタレントやテレビの奴隷にならずに、ちゃんと音楽に戻り、まっとうに音楽の道を求め続けたところだ。いろいろな大変な苦難があったのかもしれない。しかし御大の音楽家として信念と力量、ソリストしての魅力、御大の素晴らしさをあらためて胸に刻む一夜だった。

 この燃えたぎる興奮を抱えたまま、渋谷の居酒屋にネット仲間とそのまた仲間で飛び込んで「ああ、吉田拓郎復活おめでとう、乾杯」と生ビールを飲みまくった。ああ、こうして感動を分かち合えるのは何と幸せなのだろうと思った。「『朝陽がサン』って最初聴いたとき何だこれは?と思ったけど今日こうやって聴いたら、すげーカッコイイんだよね」「おお、そう、俺もそう思った」話は尽きずいつまでも飲んでいたかった。

■この日のこの一曲

♪ロンリーストリートキャフェ
 
 この日、唯一の弾き語り。おい、ビッグバンドなのに弾き語りかよというかもしれないけれど、弾き語りを歌い終わると一斉にビッグバンドの美しいストリングスがこの作品を優しくトレースするように締めくくるのだ。まるで御大の歌唱をていねいにラッピングするように鳴り出すアレンジに魅了された。ビッグバンドの美しい結晶を観るようだった。強大な音圧に限らないビッグバンドならではのスケールメリットではないか。歌の前に、安井かずみさんへの思いがしみじみ語られたのも忘れ難い。

2016. 8. 26

 あと31days。
 リハ順調の便りが心の底から嬉しい。こんなときに昔のこと、しかも思い出したくもないようなことまでを毎日書いてていいのかとも思うが、「永遠」の明日が待っている今だからこそ書ける気がする。新しいライブが待っている今であれば、昔の話であっても、それは年寄りの繰り言ではなく、明日のささやかな礎石になるのではないかと思う。なーんて、力みかえってどうするんだ。

<それからとこれまでのあらすじ>
 2003年が明けて、2月に御大のハワイツアーで盛り上がり、3月にはアルバム「月夜のカヌー」が発売、ビッグバンドの全国ツアーが5月から始まることが告知されチケットも入手し、絶好調だった。しかし、4月になって突然、急転直下のような衝撃のニュース。御大の病気。後にいう「ポン」発症とその手術。ツアーは、10月に延期された。この前代未聞の出来事に私たちは不安の海に放り出されることになる。

 手術を無事終えリハビリに向う御大の声が「世界一の弱虫野郎」と謙遜もまじえて届く。不安に焦がれる私たちは、時折送られてくる御大のつぶやきやニュースを眼光紙背に徹して読み込みながら、不安を抱えたネットの仲間同士で飲み会を繰り返し支えあい、時にささくれ立ってモメたりもしていた。

 全然関係ない話だが昔の漫画「新巨人の星」で、原作者梶原一騎は、長嶋茂雄のセリフを通じてこんな文句を残した。「世間ではみんな他人の不幸はカモの味なのに、我が事のように取り乱して混乱してしまう人間もいる。君ら(星飛雄馬と伴宙太)はいいやつだなぁ。」
 それをこの時に一緒に過ごしたファンの方たちに捧げたい。それほど、この時に出会った人々は、みんな我が事のように苦しみ、心配し右往左往していたのだ。

2003年8月25日 お台場フォーク村

 出演情報を得て駆けつける。いつもと変わらないリラックスした御大が現れて、坂崎さんたちに相変わらず不遜な態度を取っていた(笑)。安心する。こういう時、ALFEEは使える・・ちゃうちゃう頼りになるよなぁ。話したり歌うことが何よりのリハビリということだった。こういうすべての人が幸せになるリハビリの機会に感謝した。
 ゆるい雰囲気の中、最後に見せた御大の「どうしてこんなに悲しいんだろう」の絶唱。
涙が決壊してしまった。素晴らしいボーカルだったが、正直、不安は拭えなかった。だって、初公演が、フォーラムの昼夜公演たぜ。大丈夫なのか。

2003年10月19日 豊かなる一日 昼公演

 前日もネット仲間と飲み会をし緊張の前夜を分かち合っていた。この御大の帰還をスタンディング・オベイションで迎えようと語り合った。
 そして当日。実際に御大が登場し拍手が起こったが、そこではスタンディングオベイションではなく、一瞬の静寂が包んだ。客席全体が緊張で固唾をのんだのだと思う。それだけ張り詰めた時間だったのだ。
 ギター一本で淡々と「今日までそして明日から」を歌う御大の野太い声だけが、フォーラムに響く。そしてご存じ「知るところから始まるものでしょう」のところでビッグバンドが一斉に鳴り出す、さあと両腕を広げる御大。照明も全開になる。まるでモーゼが海を開いて渡るときのようだった。・・・観たことないが(笑)。感動の瞬間。何十回聴いても、この「今日までそして明日から」には驚き、そして燃え立つ感じを止められない。
 そして演奏が終わるとシンクロし、感動の余韻を断ち切るように、「人間のい」がアップテンポで始まる。まるで復活の感傷に浸っている観客に「おらおら、おまえたち置いてくぞ」と言わんばかりの切り返しが素晴らしい。 ああ、もう一曲一曲書きてぇ。怒涛の2時間半。

 インターバルは思いのほか短い時間だった。みんなで、フォーラムの込み合うコンビニに行き、ウーロン杯を買う。コンビニから田家さんも出てきた(笑)。夜の部からの参加者と待ち合わせ、フォーラムの片隅で、乾杯した。無事乗り越えた、元気だった。その確認をするので精いっぱいの胸いっぱいだった。

■この日のこの一曲

♪今日までそして明日から

もうこれは永久不滅。モーゼ・バージョンと勝手に呼んでいる。はらしょ。


2003年10月19日 豊かなる一日 夜公演


 夜の部。たぶん万感の思いの観客に反して、まるでいつものライブの続きのように粛々と熱唱していた御大。観客に対して、高齢化で拍手がカサカサで乾いてるんで何とかしろとか相変わらず失礼なMCをかましていた(笑)
 しかし終盤、初めて病気のことを語り、病室の夜景で反省したこと後悔したこと。そして医療関係者を含む皆さまに『高いところから』と断って感謝を送った。客席の斜め後ろの一角には、主治医の早期発見してくださった板谷先生含め医療関係者が座っていたが、私も立ち上がって心から感謝の気持ちを伝えたかった。
 手術後のエピソードで、4月の手術後、御大が医師に「いつ頃からライブに復帰できますか?」と尋ねると「予定通り5月にやればいんじゃない?」答えたという。乱暴な話だが、しかし聴いている方は、こういう乱暴な答えの方が妙に安心できた。

 御大の歌唱は衰えることなく、昼の部と同様に進行していった。それにしても、昼夜で44曲。これはどう考えても凄いぞ。
 夜中に40曲歌って、それを命がけと讃えるのであれば、文字通りこっちの方が命がけではないか。
 ギネスとか国民栄誉賞とか人間国宝とか、なんか賞をあげなくてはいけないのではないか。本人はいらないというかもしれないが。

 この日の偉業を心の底から讃え、忘れないでいられるのは、私たちしかいない。

 終演後、いくつかのネットグループが集まって合同打上の会が、有楽町の居酒屋スペースであった。この日にかけつけた全国のファンの方々がいたと思う。結構大人数のインターな飲み会で、世界軍縮会議みたいだった。意味わかんねぇな。。

■この日のこの一曲

♪純情

 本編最後は「純情」だった。「あれ新曲だよね」という声を終演後あちこちで聞いて「修業が足りませぬ」と心の中で叫んだが、確かに全く想定外だった。「なぜか売れなかった愛しい歌」をこの大事なポジションに持ってくる御大のセンス。いつだって御大は予測不可能だ。「ONLY YOU」のフレーズがずっと頭を回っていた。

 初日は終わった。無事終わったというより「乗り越えた」という感じがしたものだ。

2016. 8. 27

あと30days。

2003年11月2日 豊かなる一日グランキューブ大阪 昼公演

 次なる大阪公演へ向かう。ここも昼夜2回公演。勝手に「大阪昼の陣、夜の陣」と呼んでいた。
 ただのファンだから何の必要もないのだが、前ノリで大阪に乗り込んだ。仲間と「明治軒」でオムライスと串カツとビールで飲んだくれ、その後に拓郎ファンの経営するバーに行った。中学生の時に初めて部屋に貼ったポスターと再会して懐かしかったのを覚えている。前夜祭のようにバーは盛り上がっていた。熱いぜ。
 そして翌日、あまりに美味だったのでまた「明治軒」でオムライスと串カツとビールで飲んだくれてから「グランキューブ大阪」に向った。そこで大阪転勤になったネット仲間の人と待ち合わせ、一緒に観ることに予定になっていた。

 二回公演にもかかわらず、御大は相変わらず元気そうだった。
 フォーラムでは夢うつつだったので、あらためてビッグバンドの威容に驚いた。ちょうど精緻な部品で組み立てられた大型プラントを目の当たりにしたような圧倒感だった。

 そして、伝説の「サマータイムブルースが聴こえる」事件が起きる。間奏のあと、「ギターケース抱えて歩いたよ」のところで突然声を詰まらせる御大。歌っているのだが、声が震えて、嗚咽になりそうである。指揮をしていた瀬尾さんが心配そうに振り返るのがわかった。すると隣の仲間の方が、突如大きな声で歌詞を一緒に唱和しはじめた。そこここの席からも唱和が聴こえてきた。それに混じって「たくろうーーー」「しっかりーーー」もこだまする。遅ればせながら、自分も一緒に思いきり唱和した。そうやって声を詰まらせた御大に対する観客全体の支援シフトが出来上がった。御大が声を詰まらせたことは田家さんの本にも書いてあるし、それを今さら取り上げるのも何だけど、この時の客席の熱い支援体制のことは是非書いておかなきゃと思った次第だ。

■この日のこの一曲

♪サマータイムブルースが聴こえる

Uramadoにも書いたが、この間奏は、美しい作品の結晶体だ。原曲は、松任谷正隆のアレンジだが、「このピアノのメロディーは僕が書いた」と御大が言っていた記憶があるのだが、真偽はどうだろうか。西城秀樹の「聖少女」の♪とまどいランデブーとメロディーが同じなんでそうに違いないと思っているのだが。


2003年11月2日 豊かなる一日 グランキューブ大阪 夜公演

 夜の公演は、さらに席が前列に。さすがに近くで観ると御大の顔には疲労の色が滲んでいる気がした。
 どういう歌が肺に負担がかかるのかはよくわからない。しかし、「君が好き」のシャウトや「言葉」の「ガラス箱にいれてぇぇぇ」の歌い上げとか「祭りのあと」のハーモニカとか、かなり肺には大変なのではないかと察し心配していた。しかし、決して弱々しかったり、不安な様子はなく、御大はしっかりとシャウトし歌い上げ、吹き上げていた

 なお、昼の陣の「サマータイム」については、「歌いながら他の事を考えれば大丈夫」と豪語していたが、いいのか?それで(笑)。
 終演後、関西でもインターな飲み会があった。関西のファンの方々はとても気さくで親切な方々で、私の方がちゃんと話が出来ずに失礼してしまったのではないかと反省している。
 その晩は、仲間の方の下宿に泊めていただいた。夜中に、彼のライブの映像や美形女性ボーカルの方のビデオを見せていただいたりした。ありがとう。ちゃんとお礼もできないままで申し訳ない。

■この日のこの一曲

♪言葉

 以前と変わらない伸びやかなボーカルが嬉しい。それと「言葉」のピアノはやっぱりエルトン永田ですばい。ビッグバンドの演奏は海原をゆったり漂う大型船のようだ。

2016. 8. 28

 あと29days。普通は夏の終わりは寂しいものだが、だんだん高揚してくるってもんだ。9月になればもうすぐだ。


2003年12月2日 豊かなる一日 グリーンホール相模大野

 相模大野。各地での順調な様子のニュースを聞きながら早くもツアーは終盤。個人的にはこのライブを音楽的に味わえるようになったのはこの頃からだ。ちょうどWOWOWの生放送があった。
 今までは、御大の体調が心配だったし、ビッグバンドの凄い威容に、どこか遠くからおそるおそる眺めていた感じだったが、このライブでは自分たちも一緒に海に飛び込んで泳ぐようなノリになっていた。個人的な試金石は「ホームランブギ」。なんで、この緊張のライブにカネヨンでっせの笠置シズ子なんだ?と不満であった。しかし、この日は、このポップなノリをご機嫌で堪能することができた。今聴いても音符が跳ね回って盛り上がる名演だ。♪御大でかしたよく頑張った!拍手拍手でお手てが痛い。

 仲間からメンバー紹介のとき遠藤由美さんにコールしようという伝令が回ってきた。ふざけるな、こっちは御大に集中しているのに、いい年してコーラスの女の子にコールなんて…ハイやらせていただきます、「由美ちゃーん!」おっ微笑んでくれたぞ!(笑)

 のびのび楽しんだ相模大野だった。

■この日のこの一曲

♪どうしてこんなに悲しいんだろう
 ビッグバンドによるサウンドの塊が心に響く。この日の演奏がたぶんアルバム「豊かなる一日」に収録されたものと思われる。今になって聴くとどうしてもハワイのファンミーティングで知り合った御大のファン仲間だったKくんを思い出す。ファンとしては、気骨も愛も自分なんかとはくらべものにならないスーパーファンの彼は、2010年に急逝した。意識がなくなった彼に、病院で奥様は、「豊かなる一日」を聴かせたら、身体の反応が違ってきたという。そして次の曲が「落陽」というときに息を引き取ったらしい。調べたら「落陽」一曲前がこの「どうしてこんな悲しいんだろう」だった。どこのファンが、このビッグバンドの「どうしてこんな悲しいんだろう」に送られて旅立てようか。やっぱり素晴らしいファンだった。しかし、あまりに早い、早すぎるぜ。御大は、これからまたツアーに出るんだぜ。

2003年12月5日 豊かなる一日 仙台サンプラザホール

 そして最後の仙台公演である。あっという間であったが、あの4月の悪夢から考えると長丁場のツアーのような重みを感じていた。 広瀬川を望み、分厚い牛タンを食べて飲んだくれて、仙台サンプラザホールに向う。
 素敵なホールだった。小さな武道館のような、はたまた小型ドームのような、円形のオペラ劇場のような特殊なつくりだった。最後にふさわしいスペシャル感がある。御大は、安定した歌唱で一曲一曲歌っていった。
 御大は「淋しくないかい?こうして歌うたびに一曲一曲、消えて行ってしまうんだよ」と最後への気持ちを口にした。きっと御大だって最初は、そんなしみじみとした感興は湧かなかったのではないかと思う。難所を乗り切り、ビッグバンドの音楽をこうして手にした今、御大の「豊かなる一日」を味わっているに違いない。違いない・・・って他人様の人生を勝手に決めつけるのも何だが。
 聴いている側にも、大丈夫だ。かならずや御大はまた歌ってくれる。そんな確信があった。そんな充足感をもってコンサートはフィナーレを迎えた。

■この日のこの一曲

♪人生を語らず

 すっかり盤石のオーラス代表曲となったこの作品。最後に、演奏が終わったと見せかけて、また巻き戻すように最後のリフレインが追加されるようになった。その瞬間が観客の寄り倒しの時だ。さぁGO!GO!とステージ下に駆けつける。ステージサイドにへばりつく。すると御大が出てきて深々と頭を下げる。
 こっちは、精一杯のスタンディングオベーションを捧げる。超えた。超えたよ、このツアー。春先のドン底の不安から始まった長い長いツアーがここ終わる。みなさんお疲れ様でした。そんな中、御大はもっとバージョンアップした来年の企画を既に練っていたのだった。

そして冒険はさらに続く…

2016. 8. 29

あと28days。

2004年7月24日TAKURO & his BIG GROUP with SEO again 〜 This precious story - この貴重なる物語 〜 つま恋エキシビションホール
 
 ドラムの島村英二さんもインタビューで語っていたが、総勢20名を超えるビッグバンド(島村さんは「吉田拓郎一座」と言っていた)でツアーすること自体が想像を絶することだ。
 なので御大が、夏に20本ものビッグバンドツアーをやると聞いたときは嬉しさ以前に度肝を抜かれた。かつて「冷やしたぬき」のサマーツアーで盛り上がったが、今度はサマー・ビッグバンドツアーですぜ。昨年の手術のあとで大丈夫なのか心配でもあったが、もうその心意気についてくしかない。自分も心を決め、とにかくできるだけ追いかけようと思った。またそういう拓バカな仲間が周囲にたくさんいたことも背中を押してくれた。
 「この貴重なる物語」というテーマ。御大は「昔のことを田家に聞かなきゃ」と言っていたが「田家に聞くな、俺(私)に聞け!」と思ったファンは少なくなかったと思う。
 しかも初日が聖地「つま恋」ですぜ。決死の覚悟でノースウィングに宿泊付で乗り込んだ。夏なので子ども連れの仲間もいた。
 何はおいてもまずは多目的広場に行く。他人から見ればただの広場だ。ただの広場を見ているだけで海より深い感慨に耽り、空よりも高く意気が上がる拓バカと呼ばれる一群の人たち。こういうのを心豊かな人々というのだ。ホントか(笑)。

 席はラッキーな前から3列目。よっしゃ!・・にしても熱さ以前にめちゃ暑いぞエキシビションホール。

 開演前のアナウンスが、本人なのが超絶嬉しかった。「ビデオで撮影する図々しい人」「思い出づくりがしたい人」「喫煙場所」の注意につづいて「ちなみに僕は昨年タバコをやめました」にどっと湧く会場。

 そして流れ出した「清流」、ええー「清流」かい。思い切りうろたえる。
 続けて「人間なんて」のインストが鳴る。おお、やはりゴージャスなビッグバンドの音。
 一瞬の静寂にエルトンのピアノでトランザムの「俺達の勲章」のメロディーが流れ、篠島バージョンのイントロに切り替わるナイスなブレンド。「ああ青春」だ。つま恋で「ああ青春」。もう胸鷲掴み状態だった。思わずスタンディング。なぜ皆立たない。
 しかもトランザムの富倉さんがいる偶然。大分、容貌は変わられた(笑)。「マークU」「結婚しようよ」「おやじの唄」というレア作品テンコ盛りのラインナップになっていた。誰がビッグバンドで「おやじの唄」を聴けるなどと考えたろうか。
 とにかくものすごいボリュームのセットリストだった。30曲に近かったと思う。ゆうに3時間以上歌ったのではないか。ビッグバンドサウンドでこれでもかと歌い続ける御大。
 蒸し暑いエキシビション。汗ダラダラ流しながら、盛りだくさんの肉をバーベキューでガンガン焼いて食べているような・・失礼かもしれないが、そんな雰囲気だった。どちらかというとライブの際には、曲数が足りない感を強く感じる気質の自分だが、さすがにこの時は充足して、おなか一杯だった。
 ただ、ここまでの渾身のライフストーリー型セットリストなのだから、最後に「純情」はないだろうと思った。もっと的確なしめめくりのような作品がたくさんあったはずだと思う。

 ともかく御大の人生そのもののような溢れ帰るメガなライブだった。

 終演後は、つま恋の大食堂で、宴会兼食事会。なーんかゴージャスだぞ。食堂が閉まると部屋で宴会の続き。いろんなファングループが大挙して宿泊しており、各部屋に挨拶周りに外交活動が展開されていた(笑)。とにかくノースウイングは、聖地でのツアー開演の活気が深夜までそこここに溢れかえっていた。

 こりゃまた凄いツアーがはじまったもんだ。

 そして次なる聖地中野サンプラザに向かう。

■この日のこの一曲

♪清流

 この作品は正史には残らないもので、忘れ去れたものとばかり思っていた。この父親・家族との真摯な絆の歌。個人的に家族や人間関係の瀬戸際に立っていた自分の当時の状況に照らしていきなり泣きそうになった。このツアーの重石のようなテーマ曲として再生した感じだ。

2016. 8. 30

 あと27days。

2004年7月29日TAKURO & his BIG GROUP with SEO again 〜 This precious story - この貴重なる物語 〜 中野サンプラザ

 つま恋のメガ・ライブの興奮冷めやらぬまま中野へ。中野サンプラザホール。またもや聖地である。とにかくこのホールのシェイプがイイ。特に後ろから見るとなだらかなカーブが美しい。「元祖ビッグバンドの聖地にビッグバンドが帰ってくる」という勝手なキャッチをつけて盛り上がっていたが、・・・大変な一日になってしまった。

 コンサート中、照明をしきりに気にしていた御大は「唇をかみしめて」の最後の部分で声が詰まって歌えなくなった。御大の「大変失礼しました」に続いて始まった「朝陽がサン」では、ギターを杖のようにして客席に背中を向けてしゃがみこんだ。そのまま歌唱部分に入っても立ち上がろうとはしなかった。これは大変だ。観客としては、どうすればいいのか。コーラスにあわせ「朝陽がサン」のコーラスをひたすら唱和し続ける。瀬尾一三が指揮をしながら御大の気にかけている。御大がようやく手でサインをするとたぶん袖から来たスタッフが走ってきて、御大を肩で支えて、袖に引き上げていった。御大の憔悴したような表情がチラリと見えた。
 演奏は続き次の「全部抱きしめて」に。どうしていいもんだかわからない。泣いているファンもたくさんいる。立ち尽くしているファンも。はからずも実現した豪華カラオケ状態。演奏が続く限り、例の振り付けを繰り返す。滑稽だったり無神経だったりと謗りを受けようが、この時はこうして観客としてのライブシフトを続けるよりなかった。
 全抱き終了後、「貧血のため休憩」が告げられ、客電がついた。確か午後9時少し前。席を離れてうろうろするもの、そのまま席に残るもの。とにかく前例のないことだけに「所在ない」とはこのことで、どうしていいかわからなかった。「中止だろ」という声がそこここで聴こえた。私もそうだろう、その方がいいとも思った。

 随分待った気がしたが20分くらいだったらしい。再開が告げられ、メンバーがステージに戻り、中央マイクに椅子がセットされた。やるのか。御大が少し照れくさそうに笑顔で戻ってきた。大丈夫なのか。そして笑顔で、律儀に「朝陽がサン」から演奏を開始した。キツそうといえばキツそうだが、全体に遜色なく歌いきった。アンコールには、スタンディングで人生を語らずと純情を歌いきって見せた。終演は、もう10時をかなり回っていたか。
 最後に、いつものとおり深々と頭を下げてreverenceをしたのだが、貧血でそんなことしちゃダメだぁぁぁと叫びそうになった。

 
 中野駅前の地下の居酒屋にワラワラと仲間やファンが集まってきたが、みんなどうしていいのか戸惑っている感じだった。何があったのか、大丈夫なのか、今後のツアーはどうなるのか、何を話しても現実感がなかった。残念ながら翌日のハードな仕事があったため、早々に引き上げたが、胸の中はわだかまったままだった。

 ともかく「御大が途中で倒れたライブ」としてこの中野は追憶されることになってしまったが、せめて正確に「御大が途中で倒れたが、最後まで歌いきったライブ」として追憶したい。

■この日のこの一曲

♪結婚しようよ

 まさかツアーで「結婚しようよ」が聴けるとは思わなかった。しかし、この日が最後になった。ポップでソリッドな演奏が嬉しかった。これが翌年のパチンコ「夏休みがいっぱい」でさらなるゴージャスなアレンジで再蘇生する。・・・なぜ「一瞬の夏」にいれてくれなかったかなぁ。


<それからのあらすじ>

 あれはアクシデントだったんだと思おうとしていたところ、山梨県民ホールが、中止(延期)となったニュースを知り、暗澹たる気持ちになった。昨年の「ポン」同様、あるいはそれ以上に、私らは動揺して混乱していたようにも思う。ホームページには「大丈夫です」というトーンで、土気色した御大の近況写真が載ったがとてもそうは思えなかった。
「皇帝のいない八月」という映画があったが、「御大のいない八月」は大いに私達をうろたえさせた。
 しかし、次の鳥取公演での復活の知らせに少し安堵した。そして自分は、その次の神戸国際会館にひとり向った。

2004年8月20日TAKURO & his BIG GROUP with SEO again 〜 This precious story - この貴重なる物語 〜 神戸国際会館

 神戸。とにかく御大の様子が心配だったが、おなかは空く。神戸といえば南京街の「老祥記」の豚まんである。ベンチに座り込んでビールと豚まんでエナジーを補給。そこから大通りに出てまっすぐ行くとすぐに神戸国際会館だ。

 まだステージに椅子があったが、途中から御大はずっとスタンディングで歌っていた。中野、山梨のニュースは、耳に入っていただろうが、神戸の観客は御大に対してスーパーウェルカムな感じで温かく狂喜していた。清々しい雰囲気が会場に漲っていた。御大も快活にMCをかまして不安の影もなかった。

 忘れられないのは、「今日までそして明日から」の時にギターの弦が切れ、たぶん磯本くんが大慌てでギターを引き取って舞台の袖に新しいギターを取りに行った。すると短い時間だったが、御大は手ぶらになった(笑)。御大は両手をもてあまし、両方の手のひらをパーにして腰のあたりでヒラヒラさせてロンパールームのお遊戯のようにリズムをとって歌っていた(笑)とってもプリティだった。

 終演後、御大が泊まっていると予測されるホテルオークラ神戸に出かけていき、ホテルのバーや周辺を覗いてみたが、気配はなく、今は亡きNo.1ファンのKくんがご夫婦連れでいた(爆)。「拓郎さん、いませんね」。彼はどんなときでも「拓郎『さん』」と言っていたな。こんなふうに彼と出会う光景が何回もあった。彼のあくなき追っかけ精神に幾度となく私や他のファンは救われることになる。

■この日のこの一曲

♪マークU

 ビッグバンドのヘビィな演奏は砲撃を受けるようにここに響く。前の席の見知らぬオネェさんが印象的だった。「あーっ『マークU』やわぁ!!」とはしゃぎながらも泣いていた姿が忘れられない。それからも一曲一曲、まるで恋人からプレゼントをもらったようにオーバーアクションで感激している様子を見ているだけで嬉しくなってきた。

2004年8月25日TAKURO & his BIG GROUP with SEO again 〜 This precious story - この貴重なる物語 〜神奈川県民ホール

 で、少し安堵して帰郷したら次は神奈川県民ホールだ。何と言っても自分にとって初めてのコンサートホール。神奈川県民だったし。ここは外せない。御大も元神奈川県民だったからと、この地への思い入れを語っていた。御大と私のこの希薄な絆よ。

 港の旧倉庫付近のような建物の2階のハワイアン料理の店に入ると、いろんなファンが集って雑談していた。ビール飲んでとロコモコを食べながら、昔の雑誌記事やパンフを見せてもらいながら雑談しつつ、本番を待つ。

 御大はもう本調子だった。中野のステージで貧血で倒れたことも既にMCのネタになっていた。どうせならステージで死んでこそカッコイイとまでうそぶいていた。
 その話を聞きながら、ちょうど1977年のドキュメントブック「大いなる人」の中で、ファンの投稿の文章に「いつか年老いた拓郎がステージ半ばで倒れてしまっても・・・」という文章があったのを思い出した。あの頃、そんな情景は、想像もつかなかったが、今こうして現実化しつつあることに少し狼狽したものだ。とにかく元気で歌ってくれている今がどれだけ貴重なことか。

 MCで、地元の興行主と決別し、イベンターによるコンサートツアーというビジネスモデルを創り上げたことを語り、そこから来年もその次もずっとコンサートを続けるという意気込みを語ってくれた。
「結婚しようよ」「朝陽がサン」などがカットされ、セットリストはややコンパクト化されたが、それでも重量感あるコンサートは、ゆうに2時間30分を超え、3時間近くでありボリューム感はハンパなかった。

 どうやらすべてはもとにもどりつつあるようだった。良かった。「皇帝のいない八月」という心配見守り方の観覧から、こっちも思いっきり楽しませてもらう「九月になれば」という堪能型観覧へ切り替えてもいいかもしれない。

 そう思って、次の北海道札幌に向かった。義姉家族との家族旅行に無理やりねじこんだ。とにかく何が何でもついていくという感じだった。

■この日のこの一曲

♪家へ帰ろう

 この絶唱。このライブの特徴のひとつに違いない。「家へ帰ろう」 家路がいかに大切な道だったかが、時の流れとともに少しずつ明らかにされる。そして最近の「僕の道」に至る。とにかくこのツアーでの再入魂するように激しいボーカルには驚いたものだ。

2016. 8. 31

 あと26days

2004年8月29日TAKURO & his BIG GROUP with SEO again 〜 This precious story - この貴重なる物語 〜 北海道厚生年金会館

 北海道といえば札幌厚生年金会館。ツアー日程告知などで昔から目にしながら一度行ってみたいと切に思っていた。たまたま義理姉の結婚相手のいとこの嫁ぎ先の親戚が小樽にいて、ご挨拶に行かんとする義理姉家族に便乗して行くことになった。今思うと理由にも何にもなっていない。しかし年賀状に『ぜひ近くにお越しの際はお立ち寄りください』って書いてあったし(笑)。

 ここの会場は幸運にも最前列の座席だった。しかし、座席とステージの間に3メートルくらいのオーケーストラピットのためと思われる空隙があって、なんか御大がかなり遠かったぞ。

 もう御大はブイブイに元気だった。とにかくいい声だ。ボーカルに盤石な安定感があって、ああ、こんなに御大は歌がうまかったっけ(笑)というくらい素敵な歌声だった。ビッグバンドとともに歌が楽器の一部のように磨かれているような気がした。

 昨年の病気の話にも及んで、ポン発覚直前にファンクラブのファンミーティングに行った話では、「おじさん、おばさんばっかりのファンクラブのハワイだった」と悪態を付いていた。悪かったな。
 全抱きの振り付けの時、御大が歌いながら客席を覗き込んだ。バッチリと目があった(たぶん)。緊張のあまり、ただでさえ下手くそな振り付けがメチャクチャになってしまい、御大は確かにそれを観て笑っていた。思い込みかもしれないけれど、笑われたことにしといてくれんさい。

 終わったあと、御大ファンの某老舗ファンのねーさんと会い、妻と三人でカニを食べに行くことになった。途中のタクシーの中で、若い運転手さんに「最近やってる?」と平気で聞くねーさんが凄かった。
 話題も、御大ネタ3割、下ネタ7割。すごいわ。ただ金沢の話に及んだ時、急に素になって「金沢の時はね、まだ女子校生で、どうしていいかわからなくて毎日毎日ユイに行ってたわ・・・」と話してくれたのが忘れられない。
 素晴らしいファンはたくさんいるが、私が一番尊敬するファンは、この世界が敵にまわってしまった金沢の時に、こんなふうに御大を信じ、支えたファンの方々だ。最敬礼。

■この日のこの一曲

♪夏休み

 豪華なビッグバンドカラオケである。ここは朗誦でしょう。一部の人々にはトイレタイムになっていて、モニターチェックした御大があとで「おまえらがトイレに行ったのは知ってるからな!」と苦言を呈するシーンもあった。大きくて小さい御大である(笑)。


2004年9月4日TAKURO & his BIG GROUP with SEO again 〜 This precious story - この貴重なる物語 〜青森市文化会館

 このツアーの私的ハイライト。仲間と青森公演を鑑賞、翌日、蔦温泉まで足を延ばして「旅の宿」見学というオプショナルツアーがついていた。もうやけくそ状態で、仕事も家庭も何もかもうっちゃり「1人の男であったはずだと」旅に出た。

 なかなか素敵なツアーだと思うかもしれないが、いや実際に素敵だったが、東京駅集合からコンサートの間だけを除いて、ひたすら飲み続けるという信じられない酒豪ツアーだったのだ。とにかくすごい奴らだった。自分も普通に酒好きだが、そういうレベルではなかった。御大への愛、行動力、酒力がマックスな連中だった。たぶん王様達のハイキングツアーの頃の御大とバンドは、こんな感じだったのではないかと感じさせてくれる連中だった。
 青森公演では「おやじの唄」がカットされていて、どうしてだろうと終演後に仲間に聞いたら「歌ったじゃん」。・・・自分が酔っぱらって意識を失って落ちてただけだった。最悪だ(涙)。

 青森といえば、かつてフォークのプリンスの頃、会場から旅館まで沿道にファンの花道ができており、その中を手をふりながら歩く御大という伝説が切っても切れない。ご巡幸か。終演後は、地元の方の手ほどきを受けて、素的な飲み屋に連れて行っていただいた。

 翌日は、奥入瀬あたりを例の酒豪たちと周遊しながら、蔦温泉へ。時間の流れが違っているかのような蔦温泉。木の香り漂う温泉に入って、しみじみと旅の宿を何回も口ずさむ。岡本おさみさんの新婚旅行の時の歌ということで、浴衣の君、すすきのかんざし、熱燗徳利、ひざまくらにうっとり・・そんな歌詞の色香とは全く無縁のおじさん6,7人が、一斉に湯船につかって「旅の宿」を心身で歌い上げる、異様と言えば異様だがそれはそれで美しい光景だった。

■この日のこの一曲

♪遥かなる
 シングルカットまでされながら何故か、あまりぱっとした印象のなかったこの作品。こうしてビッグバンドで演奏されると重厚なナンバーであり、コンサートのハイライトにぴったしであることに気づく。これでもかと分厚く畳み掛けてくる演奏。このライブで命を吹き込まれたような気がする。



2004年10月30日TAKURO & his BIG GROUP with SEO again 〜 This precious story - この貴重なる物語 〜沖縄コンベンションセンター

 このツアーの最後に臨んだのは、沖縄だった。北海道、青森、沖縄、もうメチャクチャだ。自分は何をやってるんだ(笑)。

 首里城の傍で食べた「沖縄そば」は美味かった。爾来、三か月に一度は、沖縄そばを食べたくなるが、なかなか東京ではこれだという味に出会えない。レンタカーであちこち回って、宿は、ベイスターズのキャンプ地である全日空ホテル、沖縄コンベンションセンターの近傍にとった。前日のホテルのバーには小松さんがいたので、これは御大もドンピシャと思ったが、ハズレ。またそこで追っかけのK君夫妻と遭遇して「拓郎さん那覇市内だったみいですね・・」と敗戦を語り合った。

 沖縄では、開演が遅れた。森野さんが「拓郎、体調を崩して開演が遅れそうです」。ええええー。不安の再燃。やっばり無理だったのか。どうしたって中野を思い出してしまう。そして45分遅れて、演奏が始まり、御大登場だ。
 前の席の見知らぬねーちゃんはたぶん心配と安心と感激が佃煮のようになって、もうごっつう泣いている。
 泡盛の飲みすぎの二日酔いだという事実は、本人の口から明らかにされる。・・・・良かった。
 しかし、さすが御大は、そんなことで反省したり恐れ入ったりせずに「泡盛は二日酔いしないって嘘ばっか。沖縄の人は、嘘つきだ」・・・とか思いっきり失礼な言動を放っていた。沖縄の人、怒ってないだろうか。申し訳ありません。私が代わりに謝りたかった。

 沖縄コンベンションセンターは、アリーナ様式になっていて、こういう会場はホールと違って燃え立つ感じがあってたまらない。復帰した御大は、元気に歌いきった。

 翌日は公設市場の二階の食堂街でソーメンチャンプルーとウッチン杯で飲んだくれ、那覇をあとにする。

 ちなみにK君は、那覇から帰京の飛行機が一緒だったそうだ。機内で御大を発見し狂喜した彼は、荷物収納棚を降ろして、CAさんに「お客様、こんなところで困ります」と叱られながら通路で鞄をあけてサイン帳を引っ張り出し、サインを貰ったらしい。さすが。

 この日が私の楽日となった。最終追加公演となった山梨は無念の不参加。画竜点睛を欠くとも思ったが、ここまでメチャクチャに追いかけることができ自分にとっては十分すぎる結果だった。山梨では「純情」「朝陽がサン」が再演されたらしい。そして「落陽」のエンディングがアップテンポになる篠島型だったとか・・・熱い情報をあとから聴いた。

 山あり谷ありのツアーだったが、御大のボーカルが日に日に磨かれていくのがわかった。後に御大はインタビューで「ビッグバンド」ならば何曲でも歌えると豪語していた。とにかく御大お疲れ様でした。来年以降も歌の旅が続くという確信が何より嬉しかった。


■この日のこの一曲

♪全部抱きしめて

「LOVELOVEあいしてる」とともに眠りについたかと思っていたが、このツアーで見事なスタンダード曲として蘇生した。あの例の振り付けダンスとともに、ビッグバンドのテーマ曲のような扱いになる。ファンとしては、自分も含め多くの方々が、まさかここまで来て、こんな振り付けダンスをするなどとは思ってもみなかったのではないか。まさにファンもここで小さな一歩を踏み出すというか、何かから抜け出た感じがする。

2016. 9. 1

 あと25days。いよいよ9月だ。田家秀樹さんと島村英二さんのお二人で組織する「乙女座会」があるという噂を仄聞した。私もお二人の誕生日のちょうど中日なので是非入れてください(笑)。

 PC環境が悪く、頼みのNinjin design officeも繁忙期のようなのでガラケーでの更新が続いている(爆)。むし暑い話をガッツリ書くのはまたいつかのReverenceのコーナーに譲って、ここからは、自分の備忘のメモ書きで。

2005年8月28日TAKURO& his BIG GROUP withSEO2005 to be continued広島厚生年金金会館

 ビッグバンドツアーの3年目。スポンサーは、パチンコ「夏休みがいっぱい」のSANKYO。知り合いの方から素敵なSANKYOグッズをたくさんいただいた。海より深く感謝。ビッグバンドによる御大歌唱の「結婚しようよ」の入ったCDは特に感激した。

 初日にして初めての広島。薄っぺらな意識かもしれないが、ずっと前から決めていたとおり妻と二人平和公園で鶴を折り貞子さんの像に供えさせていただく。小学校の頃から広島といえば佐々木貞子さんだった。そして初めて目の前で見るドームの威容に立ち尽くす。

 アットホームなお身内の発表会会場のような雰囲気の会館ロビー。御大の挑戦的なアナウンス。「一曲目は当たらないでしょう」。確かに。「恋の歌」「恋唄」とは当たらん。
もうビッグバンドの音が練りに練られて練り上がり実に気持ちがいい。

 終演後は広島のJ’s Barでの打ち上げ。さすが広島、気骨の打ち上げ。歌って踊って盛り上がる。Jさんが歌ってくれた御大作曲・島倉千代子歌唱の「もみじ」。いい歌ですねと言ったら、後でお千代さんのCDをくれた。そのJさんももういないし。なぜ皆急ぐんだ。

 翌日は、オプショナルツアーで県立皆実高校、ご実家付近の散策。勝手に散策すんなよ。昼食は、例の肉うどん。その後、河合楽器、福屋、天満屋の化粧品売場で自由行動した後に解散、帰京。

 このころ2006年のつま恋イベントの開催が告知された。ついに来たか。このツアーもそして日常の起居生活のすべてが、2006年に向っての準備行為となる。まず行ったのは、ノースウィングの確保。仕事場の建物の一階にある馴染みの旅行会社は、1年以上前からの予約に困惑していたがそこはムリ言って予約完了だ。

■この日のこの一曲

♪いつも見ていたヒロシマ

 8月に「ヒロシマ」で聴く「ヒロシマ」。忘れられない。この素晴らしい歌が1人でも多く人の心に広がりますようにと柄にもなく願う。


2005年9月3日TAKURO& his BIG GROUP withSEO2005 to be continuedつま恋エキシビションホール

 昨年に続けてつま恋エキシビション。来年はいよいよ多目的広場に行くのだ。御大もMCで「つま恋の決行」を正式にアナウンスする。高齢になってしまった出演者と観客をひきあいに出して、炎天下、命がけ、倒れる人続出と自虐他虐で盛り上げる。しかし、このMCは、言うまでもなく、おれもおまえたちもしっかり立ち上がっていこうぜという激に聞こえた。

 考えてみると1年以上前からの開催告知というのはとても長い。75年であれば、春先に告知して夏に開催という機動的進行ができたのだろうが、おじさん、おばさんが、開催を知り、立ち上がり、その年齢と健康と暮らしの前に立ちはだかる万難を排するためにはどうしても必要な時間だったのではないかと思う。
 そして伝説のつま恋に向うそれぞれの長いドラマを準備してくれたのだと思う。「翼よ、あれがつま恋の灯だ」彼方に灯る「つま恋」の灯を見つめながら日々を生きていくそういう時間をもらったのだと今は思う。

 そうするとこのツアーも、まるでつま恋2006年の丹念なリハーサルのようにも思えてくる。

 翌日、御大の追っかけ兼お見送りをしようと溜まっていたら、スタッフの方から「みなさん視界から消えてください」と注意をされた。とにかく御大の目に入らないようにということで全員伏せ!! 少しナーバスだったのだろうか御大は。

■この日のこの一曲
♪虹の魚

 このツアーの「虹の魚」は、絶品だ。原作は、川のせせらぎを健気に登っていくニジマスの歌だったのが、大海原の荒波を泳いでいく大魚のような力強さに満ちている。一緒に歌っていると、海の中の国境を越えていくあの「ファイト」の魚とシンクロして元気づけられる。出世魚の如き歌。

2005年9月11日TAKURO& his BIG GROUP withSEO2005 to be continuedパシフィコ横浜

 パチンコ「夏休みがいっぱい」は、面白かったのだが、夏休みが終わった9月から開始したのが時期を失した感じで少し残念だった。
 「視界から消えてください」が頭に残っていてちょっと心配だったが、御大は、元気そうで陽気だった。広島での化粧が厚すぎて、前列の観客が凍りついた話(笑)。ウシロだったので気づかなかった。「朝だ、朝だーよ、浅田美代子はどこ行った」に抱腹絶倒。

 アンコールの時に蛮勇をふるってステージ前に寄り倒し。かぶりつきの目前で「パラレル」と「落陽」を爆音で堪能する。かぁぁぁぁぁたまらん。ビッグバンドのサウンドの中にいるかのようだった。パラレルの坪倉唯子のキレていっちゃってるコーラスが、襲われそうで怖かった。

■この日のこの一曲

♪ハートブレイクマンション

 今回の選曲の目玉ではないかと思う。確か田家さんのインタビューで御大もそんなことを言っていた。ライブでは弾き語り的な演奏が多かったが、しっかりとしたバンド演奏は珍しい。心地よいサウンドが嬉しい。
 それにしても、セリフはないのだろうか。あのセリフはかなり好きなのでカットしないでほしい。松本隆は怒らないのだろうか、これが川内康範先生だったら大変なことだ(笑)。

2016. 9. 2

 あと24days。ステージの御大だけでなくスタジオで音を創っている御大の姿は最高に魅力的だ。「その先のヨロコビを考えながら1曲1曲入念に仕上げていく」・・・泣くぞ。
 そうか、太った瀬尾一三さんのようなおじさんの立っているケンタッキーがお好きか。知人のお宅にお邪魔して、みんなでケンタッキーの山盛りを食べながら御大のNHK101の「拓デラ」を観たことを思い出す。

2005年9月25日TAKURO& his BIG GROUP withSEO2005 to be continued京都会館

 義父母が京都に行きたがっていたので、これを機会にと家族旅行とセットした。強行軍だったが、日中は清水寺や醍醐寺等を一緒に参詣し、義父母も「拓郎さんの音楽会のおかげだ」と喜んでくれた。

 京都の駅前でおなじみKくん夫妻と会う。駅前のパチンコで「夏休みがいっぱい」が大当たりのフィーバーをしたんだと嬉しそうだった。「拓郎さんの歌が全部聴けましたよ」。Kくんはパチンコで儲かることではなく、御大の歌を全部聴くことに執念と喜びを見出していたのだ。美しい。美しすぎるぞ。

 京都のMCで印象的だったのは「人気絶頂の頃でも、関西フォークのメッカである大阪、京都では、歓迎されずとても冷たくあしらわれて悲しかった」という話だ。「そんな中でも唯一、中山ラビという女の娘だけがボクに優しくしてくれた」という述懐だ。

 帰郷して国分寺の「ほんやら洞」で、ラビさんにその話をした。かっけーラビさんは、スレンダーな腰に手をあて、タバコをくゆらせながら黙って聞いていた。「でもさ、アタシ、アイツに頭からビールかけられたことあんだよね、忘れないよ」。ええーっ。御大なりの愛情表現と思うが・・って御大あんたは小学生かっ!
 その翌年、ラビさんは思い立ったように御大のライブに出かけていくのだった。

■この日のこの一曲

♪恋唄

 オープニングに昇格おめでとう。逡巡する男の恋心にこの繊細なメロディーをあてがい優しく優しく歌い上げる御大。御大はすべての恋する若者の味方なのだと思う。


2005年10月2日TAKURO& his BIG GROUP withSEO2005 to be continued東京国際フォーラムA

 フォーラムはすっかりおなじみのベスト会場だ。しかし、終演後の国際フォーラムの帰りの階段は長くないかい? 降りても降りても出口階に到着しない気がする。行きはエスカレーターであっという間なのに。心の底からどうでもいいことだが。

 このツアーで生まれたというか確立した用語に「一般P」「スペシャルP」というものがある。これは今も頻用される大事な単語である。御大の事が好きで好きで好きすぎて時に一戦を超えてしまいそうになる私のようなファンを剔抉するための大事な防波堤のようなものかもしれない。

 この日御大は「うつ」ですとサラリと話した。「視界から消えてください」というあの日の小室マネの言葉と少し結びついた。SPには一般Pには見えない苦闘があるのだ。

 瀬尾一三さんの誕生日がサプライズで祝われた。「小さな会場には来ない」「中島みゆきのところにすぐ行ってしまう」などと悪態をつきながら(笑)も、この盟友なくしてビッグバンドも御大の今もあり得なかったのではないかと不遜にも思う。
 以前、夜のバーで瀬尾さんにサインをもらった時、おそるおそるペンと75年つま恋の写真集を差し出すと瀬尾さんは、大切そうに手に取ってくださり「おお、これはこれは」と顔をほころばせながらページをめくりサインをくださった。サインだけではなく、こっちの気持ちを温容に受け入れてもらったみたいで凄く嬉しかった。そんなことを思いながらハッピーバースデイと心から歌った。

■この日のこの一曲

♪大阪行きは何番ホーム

 このツアーの集大成というような言い方をしていたと思う。泣きそうになるらしい。
本当だ。

2005年10月28日TAKURO& his BIG GROUP withSEO2005 to be continued東京国際フォーラムA

 そしてあっという間の最終公演だ。撮影付きだ。前列に誘って貰ったので、映り込み十分ということでこっちも気合いを入れて行った。

 客電が落ちてから、左側の扉がぞわぞわし出す時は、必ずKinkikidsらが見に来た印だ。この日もそうだった。後に「全部抱きしめて」で「剛くん」と呼びかけていたので間違いあるまい。まさか長渕剛や利重剛や綾野剛でもあるまい。今か今かと待って客電が落ちたときの興奮を味わえないなんて人気芸能人は可哀想だ。でもかまやつさんはずーっと平気で座っていたが。
 かぐや姫も来ていたのだろうか。ともかく来年のつま恋へのアナウンスと布石が随所に満ちていた。「野外に向かないスケールの小さなかぐや姫の唄」「襖一枚持っていけ」「山田パンダの年齢詐称」などなどMCが盛り上がる。

 「今度は一体何回目の引越しだろう」で隣の仲間とフライング気味に立ち上がってしまうと、会場は私ら以外誰も立っていなかった(爆)。ここまで来て座るわけにはいかない。ずっとスタンディングして頑張っていたのだが、映像には全く使われていなかった。けっ。

 いつもツアーの最終日は寂しいが、これは終わりでなく、来年のつま恋への一里塚だと思うと気持ちには張りがあった。「to be continued」は「これはこれからも続くぞ」という意味だったのだと思い知る。

■この日のこの一曲

♪旧友再会フォーエバーヤング

 この日のスペシャル。青春の総仕上げと御大は言った。正直この歌は、山本山田バージョン、本人歌唱バージョン、いずれもピンと来なかった。しかし、2003,2004年とビッグバンドツアーでここまで歌われると、あまりにたくさんの景色が放り込まれてしまって、いつの間にかスペシャルな唄になっていた。そしてそれが決定的になるのが2006年だった。
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2016. 9. 3

 あと23days。

 つま恋営業終了のニュースに打ちのめされる。老朽化と不採算というどんな企業にとっても起こりうる宿命にしても、あの「聖地・つま恋」だ。聖地とは、単なる過去の思い出の場所ではなく、今と未来を生きていく人々の心の拠り所だからこそ聖地なのだ。あの地を心から愛する人々の端くれとして、とにかく平気でいられるわけがない。「残念」とか「ありがとう、さよならつま恋」とかいう言葉が言える状態じゃないよ。

2006年4月1日TAKURO& his BIG GROUP withSEO2005 四国九州シリーズ 愛媛県民文化会館

 いよいよ「つま恋」の年に突入。まさしく前哨戦のように始まった四国・九州シリーズ。
 松山といえば道後温泉ぞなもし。再び義父母を連れて赴く。豪華温泉旅館とは行かなかったがそれでも喜んでくれた。義父が亡くなったあとに知ったが、そこで買ったふくろうの置物の下に日付と「松山、吉田拓郎氏の音楽会旅行にて」と書いてあった。

 開演前、修復中の松山城を散策すると場内の茶屋で自由すぎるたくさんの御大ファンが飲んだくれていた(爆)、路面電車で愛媛県文化会館に向う。とにかくこの会館がデカイ。三階席まであって、3000人以上収容だそうだ。

 セットリストは同じだったが、ボーカルの気合いと充実が増していた。ああ。このボーカルならつま恋も盤石だと感じ入る。MCもつま恋シフトだった。

 終演後、居酒屋に。二次会では、遠藤由美さんの話も聞くことができた。

「多くの大御所の歌手の人は、省エネのため、バンドの演奏が仕上がってからスタジオにやってきて歌い始めるけれど、拓郎さんは、バンドのリハの最初から立ち会って一緒に何度でも歌ってくれる。バックにとっては、実感を掴みながら演奏を作り上げることができる。こんな大御所の人なのに凄いなと思った。」

 そんな話を聴けた。ステージだけでなく、スタジオで音を創っていく御大の魅力は、また別にある。そんな御大が見られるので、2016年9月の「SONGS」に期待している。

 松山の街には、坂崎幸之助のガラス展のポスターがいたる所に貼ってあった。ライブではない展覧会だ。この男は一体なのだ。芸の深さと広さにあらためて驚く。

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■この日のこの一曲

♪Y

もう歌がうまくなっちゃってたまらない。ストリングスの間奏に身体を揺らしながら涙ぐむ。

2006年4月6日TAKURO& his BIG GROUP withSEO2005 四国九州シリーズ 大分iichikoグランシアタ

 いよいよ御大が60歳を超える。ここ大分で。「還暦」という言葉はなしと言ってたし、セレモニーの嫌いな人だから、その手の喧伝も盛り上げもない。
 とはいえ誕生日はめでた。4月5日に大分のホテルに入ったら、ロビーで島村さん、田家さん、森野さんらが集まって出かけていくところだった。おおお。きっと御大との食事会だ。慌てて彼らの後を追ったが、車に乗り込みまたたく間に走り去っていった。ちっ。犯人に逃げられる刑事ドラマみたいだ。

 ということで一人静がに御大の誕生日を祝った。

 ライブ本番では、サプライズで、最初のMCの際にハッピーバースディが歌われた。御大は、それを受けてワンフレーズ、ギターの弾き語りで「いくつになってもHappybirthday」と歌ってくれた。
 確かに「還暦」も「お祝い」もいるまい。こうして歳をまたぐビッグバンドツアーを挙行し、つま恋でのイベントが待ち受けている以上、身をもって見事に60歳を超えし御大だ。

 そういえば会場でNHKの記者にインタビューされた。還暦を迎える拓郎さんへの思いを語ってくださいというので、そりゃもうスペシャルに渾身で語ってあげた。記者は、素晴らしいお言葉ありがとうございます、あとで携帯にご連絡しますと言って、それっきりだ。くそぉ。

■この日のこの一曲

♪いくつになってもHappybirthday

いや、ワンフレーズだけだったけど、いい歌だねぇ、嬉しかったねぇ。

2005年4月9日TAKURO& his BIG GROUP withSEO2005 四国九州シリーズ 鹿児島市民文化ホール

 初めて訪れた御大生誕の地。さすがに仕事が大変になってきて、いつもみたいに前乗りで楽しむことができなかった。鹿児島空港に着くとKくんからメール。「今、谷山小学校にいます。これからLOVE2で拓郎さんが行った海乃屋に行きます。場所は・・・こんな感じです。コンサート会場でお会いしましょう。」
 さすがだ。あちこち迷いながら谷山小学校にたどり着く。校舎は近代的であり、御大の頃の面影はないのだろう。校庭の空気を吸って、海乃屋に行く。ラーメン屋のカウンターに座ると店中に写真が貼ってある。しかし、なんか違う。はっ。これはみんなナギャブチっ! 御大の写真はLOVELOVEの時の一枚だけで、あとは全部長渕剛だ。長渕の聖地だったのだ。あらら。「ちょっと違いましたね」とK君もあとで苦笑していた。

 そして天文館に。「たくろう、いつか天文館のデパートをまるごと買ってやる」と豪語したお父様の話が大好きだった。他人様の父親ながらその話を聞くと涙ぐみそうだ。御大が値段が高いと文句付けた「シロクマ」も食べたかったが、この旅行はかなりタイトだったので残念だった。

 コンサートホールは、まさに桜島を望む場所。こうして生で観る桜島は圧巻だ。この島を仰いで暮らすということ、やはり特別なことに違いないと思った。

 御大は生地ゆえに感慨深そうだった。同じ出身の森進一についてもとても自由に「森進一よ離婚の慰謝料ケチるなら襟裳岬を返せ」と川内康範もビックリな冗談も言っていた。

 高台にある城山観光ホテルも素晴らしかった。かえすがえすも時間がなかったことが残念でならなかった。

 東京に帰ると、K君は、谷山小学校の土を小さな瓶につめたものと、学校前の文具店で買った谷山小の名札をみんなにプレゼントしてくれた。御大のファンを離れたとしてもホントに素晴らしいヤツだった。

■この日のこの一曲

♪流星〜せんこう花火

 この2曲メドレーは、最初とってつけたような感じがしたけれど、聴くたびにとても自然で、切なくていいなぁと感じ入るようになってきた。

2006年4月14日TAKURO& his BIG GROUP withSEO2005 四国九州シリーズ 長崎ブリックホール

 故郷長崎ではあるけれど随分と長くご無沙汰していたし、いろいろあって当時は親類縁者には顔向けできない状況だったので(笑)、そーっとお忍びのように訪れた。ともかくこの長崎の町で御大の唄をここで聴くのは初めてだ。
 早速、平和公園と無縁者慰霊碑にお参りさせていただき、「チャンポン食べたかぁ」ということで浜町に向う。うまかぁぁぁ。
 
 長崎ブリックは昔の長崎市公会堂だよね。すごくきれいになっている。スーパーバンド発祥の地でもある会場だ。
 ブリックホールの4月14日の御大ライブの翌日は、ぬぅあんと「さだまさし」のライブだった。御大のファンでありながら熱烈なさだのファンでもある雨畑氏は、御大→さだまさしというゴールデンなラインナップになっていて悶絶していた。この異色の背中合わせのランデブー。
 本当なら「無節操」と注意したいところだが、前にも書いた通り、さだまさしには心の底で微妙なシンパシーがあるので言えなかった。

 ライブの翌日、最高級のイカの刺身で飲んだくれ、さだまさしのライブが終わって、さださんのお父さんもお目にかかって超感激し夢うつつの雨畑氏も合流し、長崎関係者ならだれでも知っているさだまさしの聖地稲佐山に登り、夜景を眺めた。 

 この時は、撮影会・旅行会という別の目的があり、これはこれで至福の時間だった。翌日はハウステンボスを満喫しまるで修学旅行のような豪華なしめくくりだった。今の自分が誇らしげ気に語れる筋合いではないが、実に貴重な長崎の旅となった。

■この日のこの一曲

♪いつも見ていたヒロシマ

 昨年のツアーでは、8月の広島で聴くことができた。そして、こうして長崎で聴くヒロシマはまた格別の感慨がある。この歌の持つチカラをあらためて思った。

 このツアーが締めくくられると、いよいよ秋のつま恋本番と正面から向き合うことになるのだった。

 そしてよりによってこんな時につま恋の思い出を書くなんて厳しい。
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2016. 9. 4


 あと22days。つま恋ショックが消えない。御大の新しいステージが待っていることだけが唯一の支えだ。

<翼よ、あれがつま恋の灯だ 1>
2006年9月23日Forever Young 吉田拓郎・かぐや姫 Concert in つま恋 2006

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 つま恋に向けて、ノースの宿泊は一年以上前に確保したし、チケットも無事A5ブロックを確保し、オリジナルTシャツもグッズも幟も凄いのをつくって貰い、「一曲目に全力をこめる」という御大のメッセージに心震わせ、準備が整った。決して順調に進んだわけではなく、それぞれの準備に深い苦悩のドラマがあったが(涙)。

 面白かったのは、宿泊を予約した仕事場のビルの一階のなじみの旅行会社から6月ころに電話がかかってきた。

「あのすみませんご予約いただいたヤマハリゾートつま恋ですが、実は当日、大きな催し物がありまして、ハイ、それがかなり大規模なものでして、深夜まで相当大きな騒音が予想され、人も混み合う上に施設の多くが利用できなくなります。すみません、もっと早く気づけばよかったのですが、ご予約変更なさいますか?」

 その恐縮した物言いに、さすがにその催し物に参加して騒音を聴くために予約したとは言えずに、「ああ、我慢します。大丈夫です。」と答えるしかなかった。

 しかし9月になるともういてもたってもいられなくなってきた。それは市川の初日を待つ今と基本は同じだ。

9月16日

■つま恋の中年斥候
 例のK君らが先発調査隊として日帰りで、つま恋に赴いた。斥候だ。ステージの構造部分がかなり出来上がっており、順調な準備ではないかとのことだった。
またリハーサルのスタジオの建物は、当然立ち入り禁止だが、建物の壁に張り付いて耳を押し当てると微かに音が聴こえるらしい。さすが気骨あるK君たちは、一時間以上も壁に張り付いて耳を押し当てていたらしい。どうやらリハーサルしていたのは「僕達はそうやって生きてきた」「僕を呼び出したのは」だったようだとの報告が来た。わーお。俄かに活気づく。残念ながら「僕呼び」はカットされたことになるが、リハしていただけでも重要な情報だ。

 それにしても50歳近いおっさんがスタジオの壁に一時間も張り付く。この無心の美しさ、またおじさんどもをそこまでさせてしまう御大の魅力の凄さをわかってほしい。

9月18日

■御大活動確認
 16日の先発隊の報告を聞いて何人かの仲間がいてもたってもいられず、つま恋に向った。第二次隊から、リハを終えた御大が飲み会をしていたのを目撃したとの連絡が入る。御大は、joinの醤油ラーメンを食べていたとのことだ。

9月19日

■出発
 仕事場には、「長い出張に出ます」、家族には『長い旅に出ます、探さないでください』と書置きを残して(笑)、いよいよ自分もつま恋に向う。
 ノースの前に駐車されたボンネットバスが美しい輝きを放っている。多目的広場の会場もかなり完成している。

 さてスタジオの壁に耳を当てに行こうと近づいたら、係の人に、「これ以上近づかないでください。理由はおわかりでしょう。」と止められた。いかん、警戒が強くなっている。
 止められた位置で張り込んでいると、遠くに歩く御大の姿だ。小室マネと一緒に、コンビニ袋を下げて歩いている。最近は、ノースの売店で「ペヤングソース焼きそば」がお好みらしいという情報も上がってきた。ともかく「ただいま到着しました。私が来ればもう大丈夫です。がんばれ御大。」と遠くからテレパシーを送った。なんだそりゃ。

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 昨夜、御大がいたというjoinへ。夜8時ころだろうか、若い女性の一群が座っているところに『やーやー』という感じで、南こうせつさんが現れる。おいちゃん絶好調だ。どうやら今夜は残念ながらこうせつナイトらしい。

9月20日
■明け方のステージへ
 午前4時30分に目覚ましをセットして、多目的広場に向った。また明けやらぬ感じのつま恋。確かに誰もいない。ステージにはKeep outの柵もロープもない。おそるおそるステージの近くまで寄ってみる。デカイ。その圧倒的な威容に言葉を失う。明け始めた空に少しずつ輝きを見せ始めるスケルトンのステージの美しさといったらない。

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 そしてステージ裏に回ってみるとステージから客席を覗く視界が窺えた。あんまりズカズカ入ると建造物侵入罪になるのでステージの端にそっと立ってみた。広がる多目的広場。御大と視界の共有である。御大はここで歌うのだ。ああ、たまらん。もうオシッコもれそうな感激。

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■タムジン現わる

 そうしているうちに、後ろに人影がしたのでかなりビビった。カメラを抱えた小柄なおじさんが、ステージ周辺を徘徊するように歩いている。「あ、田村仁さんだ」。田村さんは、まるで獲物を狙うハンターみたいな鋭い怖いを目をしてステージ周辺の風景を一つ一つ確認するように写真に収めていた。凄い気迫のオーラが出ていた。
 田村さんは私たちに何にも言わなかったけれど、彼の写真の邪魔になることは明らかだった。彼は夜明けの無人ステージの風景を捉えにきているのだ。こんな一般Pが邪魔していいわけがない。少しずつ後ずさりして、私たちは多目的広場から去った。

 遠方から見ると広場に佇む工場地帯のようだった。どこから見ても美しい。霊感も何もない私だが、もうこの広場は結界されていると確信した。

■一瞬の遭遇
 早起きしすぎて昼頃、部屋でボーっとしていると、ノースの駐車場の前を、赤いゴーカートがにぎにぎしく疾走していくのが見えた。「あれ拓郎じゃないの?」「そうだ」「あの方向は多目的だ」ということで再び出動態勢と整える。ここでの敗因は、多目的広場まで、園内の循環バスを利用したことだった。このバスが来ない来ない。やっと来たバスに乗り込んで、多目的広場に近づいたところで、反対車線から反対方向に戻っていく赤いカートがやってきた。「ええー」御大とこうせつが運転している姿が一瞬確認できたが、そのままカートも循環バスも走り去っしまった。すれ違いである。無念。しかし、考えようによっちゃ「御大とすれ違ってしまう」っはまるでこれまでの自分のファン人生のようじゃないか(笑)

                             つづく
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2016. 9. 5

あと21days。

<翼よ、あれがつま恋の灯だ 2>

2006年9月23日Forever Young 吉田拓郎・かぐや姫 Concert in つま恋 2006

9月21日

■つま恋
 つま恋ボンネットバスの周囲をウロウロしていたら、坊や乗るかい?と中に入れてくれた。感激。

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■ あの帽子との遭遇
 つま恋バスの周辺で、とあるファンの方と知り合った。彼は、どっかで見た帽子をかぶっている。
「これ『今はまだ人生を語らず』のジャケットで拓郎さんが被っていた帽子です。ラジオで貰ったんです。」
 そういえば昔ラジオでItaryで買った帽子なんで勿体ないけど・・とプレゼントしておった。おおおーーー、これかあ。たぶん75年のつま恋の松任谷正隆グループとのステージでも身に着けてはずだ。つま恋で出会えるなんて。良い人で被らせてくれた。持ち回りで写真を撮った。私はじめ誰一人として似合わなかったが(笑)。しかし自分の葬式の写真はこれにしようと決意する。

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■こちらのお方をどなたと
 つま恋のバスといえば、リハーサルを終えたエルトン永田さんが、バスを観に来ていた。突然女性の方がエルトンさんに「すみません写真いいですか?」「はい」。すると女性はエルトンさんに携帯のカメラを無造作に渡した。え、撮ってくれというのか(爆)。優しいエルトンさんは気にせず「こんなアングルがいいかな」とか言いながら撮ってたが、このお方をどなたと心得るのか!。
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■ライティングテスト
 夜になって、広場に行く。きっと照明テストをしているという予測。あたりだ。真っ暗の多目的広場でライティング。繰り返される光のシャワー。本番での照明花火のテストであると後にわかる。テストなのできちんと構成された照明ではなかったが、だからこそ美しかった。暗がりで見惚れていて、一人が側溝に落ちる。おい。

■時には選手村のように
 つま恋の宿舎の中は、全国たくさんのファンが入り乱れ、ミュージシャンの方も行き交い活況を呈してきた。汗だくになりながらランニングしていたギターの土方さん。歴史に造詣が深い若子内さん、熱心に音楽を語るエルトンさん、その横で下ネタの剛速球を投げ込む宮下文一先生。そして、食堂で一般Pの友人たちが味噌汁に並んでいる、その後ろに飄々と並んでいる石川鷹彦大先生というシュールな光景もあった。
 ともかく静かなホテルではなく、興奮と緊張と活気と熱気に満ちた建物内だった。行ったことはないが「オリンピックの選手村」はこういう雰囲気だったのではないか。

9月22日

■お手振りバス
とうとう前日になる。いよいよゲネか。こちらも緊張してきた。お昼頃、ノースの周りをウロウロしていると、マイクロバスがスタンバっている。一人が見に行くと関係者の方から「ここを離れてください」と注意される。そいつが「拓郎さんが出てくるんですか?」と直球で尋ねると、係員が一瞬ひるんだそうだ(笑)。決まり!GJ!
 多目的広場でのゲネに違いない。バスの通路の至近距離でスタンバっている女性、少し離れて窺う男性たち。やがてバスは動き出した。
 マイクロバスの左後部の中途半端なカーテンが揺れる。カーテン閉じるのか。去年のつま恋で「拓郎さんの視界から外れてください」という追っかけファンへの係員の注意を思い出す。
 しかし、予想に反して、カーテンはザっと開けられ、ついでに窓までが開けられた。ああ、御大だ!! 御大は、女性たち手を振っている。キャアアアアアアアという叫び声。すぐ窓は閉められたが、私たちの前を通る時も、御大は窓越しに、笑ってしっかりと手を振ってくれた。ウォオオオオ。ここでも言葉にならない叫びがこだました。

■丘の上のゲネ
 そのあと広場の横の小山にたくさんの人が登ってゲネに耳を傾けた。会場の様子は観えないが音だけが聴こえてくる。秋の風が心地よい。心配した台風もそれたようだ。
「消えてゆくもの」「シンシア」・・・あ、かまやつさんだ。「消えてゆくもの」の歌い回しが凄く上手くて、ちょっと嬉しくなる。歌なしで生ギターが弾かれる。あ、これは「ファイト」ではないか。 ああ、もうこれ以上もったいないということで夕刻に広場付近の小山を後にした。

■いつ並ぶか
 さて次なる問題。明日は何時に入場ゲートに行くべきか。ブロック制になっているので、昔のように早々と並ぶメリットは小さい。むしろ部屋がとれたのだから、ゆっくり休んで英気と体力を養うという醒めた意見が強かった。
 その夜の9時に、偶然にもNHKの番組で中津川の御大を撮影した写真家のドキュメントがあった。中津川で熱唱する御大の写真を観ていて、だんだんと胸が熱くなってきた。ちょうどそこに偵察に行っていた調査隊が帰ってくる「おい、西ゲートに4,5人並んでるぞ!」。 即座に全員一致(たぶん)。『並ぼう。徹夜で並ぼう』と決起した。まさしく「いつ並ぶ」「今でしょ」。林修はこの時この部屋のどっかに隠れていて、後に予備校でパクッたに違いない。

 瞬時に身支度を整えると西ゲートに向った。気分は出陣である。おお、確かにいるいる4,5人の同志。彼らのウシロにシートを敷く。そして、前夜からつま恋に並ぶという聖なる儀式を終えた私達はそこで少し現実に帰り、交代で宿に帰って睡眠をとることにした(笑)。それなりに年老いていることを自覚しての英断だった。
 友達の友達の後藤由多加に顔が似たハンサムな青年が掛川駅にそのころ着いて「大量のコンビニのおにぎり」を買ってきてくれた。勢いで食糧もなく飛び出してきた私たちへの救援物資のようだった。
 交代で宿に帰る道すがら、真っ暗な山道で迷子になって遭難しかけた女性もいた。携帯に電話がかかってきて「迷った」「どこ?何が見える?」「真っ暗で何も見えない(爆)」。
以前に観たホラー映画「ブレアウィッチプロジェクト」で深夜の森で迷子になった女性が「目を開けているのが怖い、目を閉じるのも怖い」と泣くシーンを思い出したので話してあげようとしたら怒って電話を切られた。

 という冒険の森の物語を刻みつつ、当日の朝はだんだんに明けて行った。いよいよだ。

2016. 9. 6

あと20days。

<翼よ、あれがつま恋の灯だ 3>

2006年9月23日Forever Young 吉田拓郎・かぐや姫 Concert in つま恋 2006

この大いなる一日、とてもここでは書ききれない。そのことを前提に。

■開場
 西ゲートに並んでいたら、NHKおはよう日本の取材が来た。「長期出張」になっている自分は仕事関係者に見られたら大変だ。慌てて身を隠す。

 さあ開場だ。うねうねと歩きながら胸が高鳴る。座席を確保した。よっしゃあ。そしてフードコートに行ったりして開演を待つ。フードコートは魅力的な店が多かったが、時間がなく混み合っていてあまり利用できなかったのが残念だ。ap bankでは、自然食、無添加食品の屋台が並んだそうだが、こういうイベントの時は、昔ながらの添加物いっぱいの焼そばとか身体に良くないものにガッツリ食べるに限る。ねぇ御大そうですよね(笑)

■いきなりカーテンコール
 ヘリコプターが飛びかい(今だとドローンなんだろうな)、スモークが炊かれて、天気快晴、風やや強し。
 いきなりビッグバンド全員と御大とかぐや姫が登場するいきなりカーテンコールのようなオープニング。「旧友再会フォーエバーヤング」。この日の拓郎かぐや姫唯一の共同ショット。にもかかわらず、こうせつの「元気ですかぁぁぁ」にステージ花道に逃げ出す御大。
 それが終わると「いくぞぉー」というこうせつの叫び声。実は御大、怒ってたんですね(笑)
 島村さんのドラムのビートが炸裂し、いろんなものを追っ払い(笑)、ついに浮かび上がる「拓郎バンド」。ビッグバンドもいいが、機動的なバンドもええなぁ。

■渾身の一曲目
 渾身の一曲目は「ペニーレインでバーボン」だ。おおおお、予想だにしなかった。 ・・・って大丈夫なのか。三番になって急に大相撲幕下の稽古風景の映像に差し替わったりしないのだろうか。「蚊帳の外」。そう来たか。長い長いエンディング、こっちも踊る踊る。渾身の演奏に納得だ。

■朝まで
 御大は気にしていたのか「朝までやらなきゃ男じゃないというのは嘘だね」とつぶやいていた。しかしか気にすることはない。これが、たとえばロスアンジェルスの時刻だと、夜8時に開始、翌朝5時30分に終了したことになる。堂々たる朝まで公演だ。実際に、ロスでは、「TAKURO YOSHIDAが、4度目の朝まで公演!!」との話題で持ちきりだったようだ。あのな。 2006年は「朝までやった」というのに語弊があるのなら、「朝までやらなかったわけではない」というのでどうよ。

■セットリストの様相
 「知識」が印象的だった。もともとは「戦闘開始」のような攻撃的な歌がここでは少し様相が違った。イントロを聴いていると、え?コレはなんの曲だと戸惑うことしきり。歌い始めると、ああ「知識」だとわかる。あの穏やか風合いが、あの日のつま恋の青い空に溶けていくようだ。そこには知識人との戦闘色はない。しかし、この世の虚飾を鋭く深く見つめ、インチキな知識人たちはどうぞ勝手にお生きなさいという静かな覚悟が覗く。こういう座って聴く「知識」もイイ。

 1stステージ最後の「イメージの詩」「空を飛ぶのは鳥に羽があるから」「人の命が絶えるときが来て」の二つが添えられる。これはおめでたい日におかずが二品増えるようなものか。嬉しい。

■中継
 坂崎幸之助渾身の実況中継。リアルでは聞けなかったが、相撲中継に入る時の「リキシーのために」にあとでオオウケ。ともかく天才ぶりに唸る。 

■セットリストの様相
 「シンシア」が嬉しかった。個人的に初めて買ってシングルだし。かまやささん本人とのデュエットが聴けるとは。しかし御大は「こんな連中に歌うんじゃなくて南沙織の前で歌いたい」(笑)悪かったな。「吉田さん相変わらず性格悪いね、でも好きよ」。

 そして弾き語りの「ファイト!」。ミュージシャンはみんなモニターで観ていて「これじゃあ、俺たちいらないよな」と呟いたらしい。

■都市伝説
 いろんな都市伝説があるが、Gブロックで、おっさんが立ち上がって柵を掴んで揺らしながら「たぁくろぉぉぉ」と叫んで暴れていた。係員が注意に行ったら、それは「小田和正」で誰も注意できなかったという。この伝説、真偽はわからないけど好きだ。

■ああ青春
 2006年のつま恋のラストステージのトップ。たぶん御大は「つま恋=ああ青春」という「お約束」感覚で軽く選曲をしたのかもしれない。しかし、いざ聖地つま恋で歌い始めると万感の思いに感極まってしまったようで、ビデオで観ると、こみあげる感情を必死にこらえているような様子に見える。「しぇーい」とか叫んで誤魔化している。ムフフフ、甘く見おったな御大。

■永遠の嘘
 そして、私たちは、忘れられない名場面をそれこそ永遠に胸に刻むことになる。この中島みゆきとの共演は、間違いなく日本の音楽シーンに残る屈指の名場面だ。
 「みゆきっ、みゆきっ」という興奮した女性の叫びとともに忘れられない。ステージとビジョンを見やりながら、ああいつまでもこの瞬間が終わらないでくれと祈ったものだ

 「みゆきは凄かったね、後光が差していた、卑弥呼みたいだった」と拓郎は後のインタビューで語る。でもさすがの卑弥呼も、最初の「ニューヨークは粉雪の中らしい」のところで声が危うくひっくり返りそうになっているのが映像ではわかる。拓郎は続けて「観客も大感動して大歓声。この裏切り者ども(笑)」と文句をたれてるが、それは違う。あの観客の大歓声は「卑弥呼」をステージにまで降臨させるほどの「男」への大喝采だったのだ。自分達の信じてきた男の素晴らしさと誇らしさ、そしてこの場面に立ち会えたこと、つまりは音楽の神様の恵みの分け前を私達もいただけたことに感謝しての大歓声だったのだ。
 なので感謝してあの映像を何度でも観直そう。そして「うわぁ、ホントにみゆきが出てきた!」と何度でも驚こう。

 当日の中島みゆきの登場は、厳格な箝口令が敷かれていて当然私らファンは知りようがなかった。そんな中で、最前列で「永遠の嘘をついてくれ」のプラカードを用意していたファンの凄さには感嘆するほかない。お見事。

■花火
 落陽の花火、凄かったねぇ。見つめている御大の目がうるんでいるような気がした。

■聖なる場所よ永遠に
 オーラスでこの作品が演奏された時、みなさんはどう思っただろうか。私は「えっ?、この曲なのか?」という意外な驚きと「そうだな、この曲はまさにそういう曲だよな」という妙な納得感が、行き来するような不思議な気分だった。
 つま恋の前に拓郎はインタビューで「お客さんが全部を聴き終わって「人間なんて」が聴きたいと思ったらそれはオレの負けなんだよ」と語っていた。吉田拓郎としては、入魂の選曲だったのだということがわかる。その結果、勝ち負けを超えた素晴らしいイベントとなったことは私なんぞが言うまでもない。この歌を歌う拓郎の眼はうるんでいて、拓郎が好んで使っていた「豊かさ」という言葉が心にしみるようなフィナーレだった。生きててよかった、この日まで拓郎ファンでいて本当に良かったと心から思った。

■Reverence
 最後に深々と頭を下げReverenceをする御大。顔のあたりからポタっとしずくが1,2滴落ちた。汗なのか、涙なのか。
 


「Thank You Forever young」
規制退場。普段はイライラするところだが、へたりこんだ自分、そしてこの会場を去りたくない自分としては、豊かな待ち時間であった。すべてのみなさま、お疲れ様そして心からありがとうございました。


 そして「聖なる場所に祝福を」。また別の感慨を持って聴かなければならない今日である。
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2016. 9. 7


 あと19days。このうえ、かまやつさんご入院とは、もう勘弁してほしい。ご快癒される日を待っています。

<翼よ、あれがつま恋の灯だ 4・終>

2006年9月23日Forever Young 吉田拓郎・かぐや姫 Concert in つま恋 2006

 スペシャルPたちの打ち上げは、クローズドされたjoinで催されたようだが、もはや一般Pの私には、張り込む体力は残されていなかった。それでも張り込んだ女性ファンの方はトイレに出てきた御大から「どう?楽しんだかい?」と声をかけられたらしい。何という果報者。

 薬剤師だったk君の奥さんも薬剤師で、薬箱を差し入れていてくれた(朝までやってもいいけど、飲みすぎに注意してねと書いてある)。飲みすぎの薬を処方してもらい、それを飲んでしめくくって寝た。ありがとう。

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 kくんといえば、黒字に白で「拓郎」と大書された75年のレプリカTシャツを作って僕らにもくれた。またミュージシャンの方々にも差し入れた。当時はわからなかったが、後にDVDを観るとそのシャツをゲネプロの時に瀬尾一三さんが着ている。おお、やったな!K君。彼が亡くなってから、ライブにはちょっと恥ずかしいが、このシャツを着て行っている。今年はどうするか。
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9月24日

 一夜明けるともうすべてが撤収モードだ。去りゆく人々、解体されるものたち、運び出されるものたち。つま恋自身も自ら早く普通のレジャーランドに戻ろうとしているかのようだった。ステージのバラシもたちまち進んでいた。

 クロークでお世話になりましたと清算を終えると出口の送迎バスの待合に「岡本おさみ」さんが座っていらした。おお。みんなで恐る恐る近づくと岡本さんは「やあ」と笑いかけてくださった。ライブいかがでしたか?というこちらの質問に「うん、やっぱりあの歌声のパワーは凄いねぇ」とおっしゃった。
 岡本さんから「皆さんはどうやって帰るのかな?」「あ、掛川から新幹線です」「ああ、ぼくも同じだ」と気さくに話してくださった。新幹線?・・・不遜な私は、内心、旅人の岡本さんはやっぱり歩いて帰るとか在来線で帰ってほしいなと勝手に思った(爆)。許してください。岡本おさみさんとお会いすることができた短いながらも貴重な時間になってしまった。
 インタビューによるとつま恋のあと、御大は岡本さんに「岡本さん、新しい歌をつくろう」と呼びかけたらしい。

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 帰京してから、新聞記事を蒐集した。どれもトップ扱いで誇らしかった。英字新聞の「JAPAN TIMES」にも記事が載っていた。

 御大がMCで
  「みんな歳とって丸くなって良かったねぇ」
と言っていたが、それを英訳したらこうなる

“Now we’re older and mellower. I think we can enjoy this change.”
 素敵なフレーズだぁ。米帝もやるもんだ。

”we can enjoy this change”

 楽しいこと悲しいこと変わりゆくことをEnjoyするのか。・・・果ては、つま恋が無くなってしまうことまで受入れEnjoyしなくてはならないのだろうか。御大がつま恋が無くなることを語らないのは、「今」と「明日」を大事にするそんな心意気なのだろうか。


 年末につま恋の記念本が発刊された。参加者の一言が載せられている。読んでいくと、そこに懐かしいT君の名前を発見した。この日記でも書いたとおり、小中の同級生で、かつて学生時代、御大ライブをともに転戦し、消息不明になっていたT君。来ていたのか。彼のコメントは相変わらず辛口で、御大が耳に入れているモニターを「拓郎歳とって補聴器してるのかと思った」とぬかしていた(爆)

 すべてのすべてのみなさんありがとうございました。

 みなさんにも深い思い出や大切な思い出がありましょう。つま恋のあの広場は、ただの広場だが人々の海より深い思いと空よりも高い高揚感が詰まっている。だからこそ聖地なのだ。

2016. 9. 8

 あと18days。そうですか。Dへ行くのですか。意味はわからないけれどその言葉を読むだけで圧倒的に元気になる。確実に進んでいる明日はもうすぐだ。

2006年10月23日TAKURO 2006秋 〜 ミノルホド コウベヲタレル イナホカナ 〜 大宮ソニックシティホール

 なんと、つま恋から1か月で秋のコンサートツアー。まるでつま恋の「ウイニングラン」のような凱旋ツアーだった。MCの主要テーマは、「南こうせつ氏の質感」である(笑)。
 とはいっても、お疲れ様のゆるゆるライブではなく「3時間休憩なし」と宣言する怒涛のセットリストであった。同時に、4年間にわたるビッグバンドとの最後のツアーでもあった。
 「会うは別れの始まり」と当時の自分のメモにある。ミュージシャン、ビッグバンド、その他もろもろ、シビアではあるけれど、去ってゆく人、別れた人。そんな空気を感じさせられた。
 特に、お兄様が亡くなったことをこのライブで初めて知った。憎まれ口をききつつも「一度くらいハワイに連れて行ってやればよかったかな」というくだりに十分に思いが溢れていた。

 とにかくつま恋を経た御大のボーカルは素晴らしかった。この歌唱力をもってビッグバンドを牽引していくかのようなツアーだった。
 それにしても、執拗に踊りつづける坪倉唯子・・・「伊東ハトヤ」の本場ポリネシアンショーのようだ(観たことないけど)。もしあのまま唯子が、リンボーダンスをはじめても私はちっとも驚かなかったろう。

■この日のこの一曲
♪生きていなけりゃ
 空に向かって真っ直ぐに突き抜けるようなボーカル。「生きていなけりゃ」のサビのボーカルの「なぁぁぁみだ溢れてもぉぉぉぉ」という真っ直ぐな声の伸びに、身体が震えた。そのままホールの天井を突き抜けそうだった。うめーよ。


2006年11月9日TAKURO 2006秋 〜 ミノルホド コウベヲタレル イナホカナ 〜 日本武道館

 なんとちょうどあの「感度良好ナイト」以来の10年ぶりの武道館である。個人的には、武道館というとどうしても1984年のトラウマな武道館を思い出したりする。しかし、観客は超満員のSOLD OUTであった。84年の風吹く武道館に立ち尽くしていた自分に、それから20年以上経って、60歳になった御大が武道館を超満員にしていることが想像できたろうか。ああ、タイムワープしてあの日の自分と一杯やりながら教えてやりたい。

 「聖なる場所に祝福を」がセットリストに追加される。まさしく聖なる場所である武道館にふさわしい。
 
 中山ラビさんがこの日の武道館に赴いた。昨年の京都のMCのおかけではないかと自負しているのだが、違うかも(笑)。ラビさんと同行した雨畑氏によると「唇をかみしめて」の時に、ラビさんは立ち上がって、一階席の壁にもたれ、ちょうど真正面の位置から歌う御大を見つめて聴き入っていたという。その姿の神々しさ。何か御大に発信しているかのようだったという。かっけーな、西の魔女か。

■この日のこの一曲

♪永遠の嘘をついてくれ
 みゆきさんアルバム「パラダイスカフェ」の本人歌唱の際の演奏は素晴らしい。このオケで御大も歌ってくれないかとつねづね思っていたのが「つま恋」で実現した。みゆきさんがいなくともこの作品の圧倒感は変わらない。となりの席のねーさんがスタンディングしたので一緒にスタンディングしたら、私達だけだった(爆)。いや、しかし誇らしい思い出である。

2006年12月9日TAKURO 2006秋 〜 ミノルホド コウベヲタレル イナホカナ 〜 グランキューブ大阪

 いよいよ最後だ。初めての大阪グランキューブ。となりのとなりの席が田家秀樹さんだった。どうやら関係者席だったようで、全体にノリが悪かったので、急遽決意して、ファン一筋30年以上、しかも、つま恋の虚偽出張がバレて針のムシロの男の渾身のノリとはこういうものだっ!!というお手本を見せてあげた(笑)。途中チラチラ横を見たが、田家さんは、真っ直ぐ前を観たまま、私には一瞥もくれなかった。

 MCの中でも記憶に残ったのが、つま恋で観客についてのコメント。「最初戸惑っていた観客が、自分たちのノリを見せ始めた。自立したとてもいいノリをしていたこと。今日の観客は自立している素晴らしかった。そしてライトに照らされた客席の美しさといったらなかった」
 なんか久々に拓郎に誉められた気がする。私も心の中で御大に言ってやった。「御大、あんたも、なかなか良かったぜ!」(爆)

 「今日までそして明日から」を終えると、御大は振り向いて瀬尾一三と握手をした。いい光景だった。瀬尾ビッグバンドの完結だ。いよいよ来年からは精鋭サイズの「拓郎バンド」が動き出す。「瀬尾ちゃん、じゃ俺、次に行くから」と言っているかのようだった。

■この日のこの一曲
♪ともだち
 つま恋で聴けなかった完全版を味わう。いや嫌味ではない。心に沁み込むボーカルの名演だ。

 終演後、仲間を含めて大人数の打ち上げがあった。まさに「つま恋」の一年の打ち上げのようだった。みなさん心の底からありがとうございました。私が仲間を含めた大人数の打ち上げに出るのはこれが最後となった。

 仲間と別れ、帰りは、京都に寄り、嵐山の竹林を抜け、二尊院で阪東妻三郎の墓に。その年亡くなられた田村高廣さんの墓参をした。どうでもいいが、阪妻と田村兄弟の熱烈なファンでもある。そして、賀茂川に戻り、「溶けて流れりゃ皆同じ」と心の中で歌いながらどこまでも続く先斗町を歩いた。

 孤高なれど御大を求める旅はまだまだ続くのだ。

2016. 9. 9

あと17days。

2007年8月21日Panasonic VIErA Presents Life is a Voyage TOUR2007 "Country" サンシティ越谷市民ホール

 Life is voyage。巨大な護送船団のようなビッグバンドから小さなタグボートに乗り換えて、全国の小さな会場を旅する。御大のツアーの新章が始まる。特に、島村英二、エルトン永田、徳武弘文というかつての「ロックウェル伝説」を支え、またビッグバンドをも支えたミュージシャンの精鋭バンド。ああ考えるだけでワクワクする。しかもレコーディングも並行して進んでいるとのことだった。

 これまでとはいろんな意味で対極的なツアーだった。だいたい東京公演が江戸川と多摩だけってもう凄い覚悟が窺える。「さぁ錨を上げよう」という幻のCMも観たかった。

 しかし、コンサートツアーのパンフによれば、ツアーの中止まで考えた苦悩と逡巡があったようだ。もちろんその内容は一般Pにはわからない。
 このパンフには、珠玉のしかし切実な言葉が散りばめられている。「ひとつの前提を約束しませんか」・・・と問いかける御大。昨年のつま恋の余勢をかって、何かを求め続けられることへの線引きのようにも感じた。

 越谷に着くと、実に凝った円幕のステージ。「まァ取り敢えず」が流れる。そして静かに幕が開くとああ「言葉」だ。エルトンさんが左手を上げている。エルトンさん今日はとてもノってるとお隣のファンがつぶやく。後に、ビデオで小節のカウントを御大に出していたのだと気付いた。

 越谷の第一声が、「こんなに大人数じゃ去年までと変わらないじゃないか、申し訳ないけど半分くらい帰ってください。」「越谷の人が来ているわけではないんだな」というものだった。
 全国をストーカーのように思い詰めて全国どこでも追っかけてくる私のようなとんでもないファンではなく、その地に暮らしている人々に歌いかけていきたいという御大の意思なのだった。・・・自分で言うなよ。

 勝手ながら、バンドだからこそという選曲を期待していたのだが、ここ最近と変わらないセットリストも残念に思った。MCで、三拍子特集ということで「ともだち」「吉田町の唄」「明日の前に」「二十歳のワルツ」をさらってみせたが、それ!それ!それを歌ってくれよぉと身悶えした。
 しかし、これとて長くライブにご無沙汰している人々のところに歌いに行くというコンセプトであれば、「おまえたちのために歌ってんじゃない」ということかもしれない。

 ともかくバイアスがかかっているからか、全体に苦悩が立ち込めているような重苦しさがあったように思う。複雑な気分だった。

 そんな中、かまやつさんことショットガンチャーリーの登場は、ステージに陽だまりが出来たみたいで嬉しくなった。
 そして何より「歩道橋の上で」と「街角のタンゴ」という新曲披露が嬉しい。特に「歩道橋の上で」は出色の傑作だった。

 オーラスの「虹の魚」。「苦しくても息切れても」がリフレインされてフィナーレを飾った。声を絞り出す御大の姿は、ホントに苦しそうに聞こえてしまった。

 いろいろあり久々にすれ違ってしまったような複雑な気分で越谷を後にした。この気分をゼロに戻して多摩センターに行こうと思いながら帰った。

■この日のこの一曲

♪歩道橋の上で
 つま恋のあと岡本おさみさんに新しい歌を創ろうと呼びかけた成果物のひとつだ。なんという傑作だ。「奥入瀬蔦沼」「俳句を詠む人」という小さな「連結点」をヒントのようにしのばせる。この点を通じて、聴き手にはかの「旅の宿」の歌と情景が不即不離に浮かんでくる。そしてファンにとっては「旅の宿」だけではなく、自分が「旅の宿」を初めて聴いた時から現在に至るまでの長い時間までもが一緒に浮かび上がってくるのだ。実に粋で見事な「続編」である。・・・と星さんはUramadoで語っている(爆)。

2007年8月24日Panasonic VIErA Presents Life is a Voyage TOUR2007 "Country"  パルテノン多摩

 夕刻に多摩センターに向かう京王線が初台あたりにさしかかった時、雨畑さんから突然メールが来た。「中止です。多摩センターですが今から帰ります。以上。」「え?ええー?」
 後に聞くと、彼女は、もうすぐ多摩センター駅という車中で中止の一報を受けたらしい。同じ車両にたぶん北海道から来られた赤いTシャツのファン方々がたくさん同乗されていたそうだ。まさに全国から遠路をいとわずライブを楽しみに人々が向っている最中だった。中止を一瞬早く知ってしまった彼女は茫然自失の状態で、ライブに胸弾ませる人々の姿をまるで映画のシーンのように眺めているしかなかったということだった。

 私もパルテノン多摩まで行って、中止の張り紙を確認し、「ええー」と驚いている他の人々が騒がしいところを抜けて、新宿まで戻ってたぶん小田急の中の居酒屋に入った。「風邪」とかではなく何かもっと大きな不安が漠然と感じられた。

 雨畑氏は、多摩センター駅前からエルトンさんに送って貰ったそうだが、エルトンさんは黙って何も語らず、「祈るしかないです。ツアーの成功とかではなく拓郎さんを祈ってください」とだけ答えたそうだ。

 孤高のサイトとか言いながら、皆さまはあの夜をどう過ごされましたか。あの夜すべての居酒屋で、悲しみ悶絶しつつも、多くのファンがそれぞれに「拓郎さんを祈っていた」に違いない。「悲しいだろう みんな同じさ 同じ夜を迎えてる」。自分も居酒屋で涙にくれていた。

 その後、向こう一か月のライブが延期となることが通達された。航海は一か月の停泊滞船となる。航海は常に船長とともに船長の下にあるものだ。まだまだ航海はつづく。

2016. 9. 10

 あと16days。ちなみに今夜は「燃えたぎる70歳」。普通そんな70歳が周りにいたらひたすら迷惑だが、それが御大だからこそ映えるのだ。

2007年9月30日Panasonic VIErA Presents Life is a Voyage TOUR2007 "Country"  熊本市民会館

 悶々とした一か月が過ぎた。熊本市民会館から公演再開フォーエバーヤング。もともと熊本公演は予定していたが、おかけで特別にSpecialな公演になった。熊本在住の老舗(といったら怒られるな、すみません)ファンの方が、あれこれ気を使ってくださり、ファンの人々を熊本城や加藤清正そして絶品の馬刺し、イカ刺しなどご案内くださり、至福の観光。この方のおかけで「くまモン」も流行前から通じることができて、後のブームの時にも大きな顔ができた。こんなにお世話になった熊本の今年の一大事にまだ何にもできずに申し訳ない。

 客電が落ちて館内が暗くなると、大歓声。越谷の「まァ取り敢えず」もなく、すぐに音もなくあの円形緞帳が開く。するとそこにピンスポに照らされた御大が一人っている。おお、オープニングからして違う。
 ♪静かな静かな里の秋・・につづいて「ロンリーストリートキャフェ」の熱唱。この難所を「俺が超える」「ひとりで超える」という決意の跳躍のような凄い熱唱だった。「拓郎元気かな」という不安も「拓郎頑張れ」という応援も全てをいきなり制圧してしまった。

 MCは、例によって殊勝な様子はなく(爆)、もう10年はツアーはやらないので熊本にも来ません・・てな感じでいい放ち、あと「越谷はなかったことにしてください」とも。

 バンドも活気づき、特にエルトン永田の盛り上げ熱演は凄かった。朝陽がサンではえるとんキーボードの間に手拍子までしてた。「あんたのライブじゃないんだから(^.^)」というファンのツッコミがあったくらいだった。

 心配したボーカルは、快調だった。特に「大阪行きは何番ホーム」なんてすんばらしかったぞ。

 もうツアーはやらない、やらない、と言っていたが、最後のMCで「僕は嘘つきですから」とカマして観客を喜ばせる。反面でポツリと「そうやってタクローと叫んでいる、君たち、俺がいなくなったらどうすんだ」とも呟いた。確かに。

 越谷では座礁しかけた船をしっかりと立て直して再び航海に出た感じだ。見事だ。

 水無川のMCのとき
「花に酔ったらその時泣こう」
 ここの詞が特に好きだと言っていた。
 ♪いまはこらえろ愛しい君よ
 ♪ああ人生は廻り舞台だ
 ♪吹雪の後に春の日差しが
 ♪花に酔ったらその時泣こう
 辛い思いで耐えてきた、御大と私たち、ひとつの泣き場所か。
 終演後、飲み会で、わけわからず、みんなで泣いた。なんだこりゃ。ツアーの再開とか御大が頑張ったからとかいうそういう現世利益のためでなく、ともかく御大そのものに泣けたのだった。んまぁただの酔っぱらいかもしれんが。

 ホテルに帰って島村さんとすれちがった時、島村さんが「おい、良かったなぁ、今日はいいもの観れたよな」と言ってくれた。ホントだ。

 翌日のロビーでのお見送り。バンド皆さんに拍手を送ったが、御大だけはなぞの出口から姿も見せずに消えた。御大の緊張の航海は続くのだ。

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■この日のこの一曲
♪ファイト!

 この日、中島みゆきがコンサートツアーで「唇をかみしめて」をカバーしたという一報が入った。胸が躍った。もちろん深い意味は、一般Pの私にはわかるはずもないが。心の底からのエールに聞こえた。

 御大の弾き語りファイトはこの日も素晴らしかった。特にツボは、演奏が終わると、エルトン永田が、ピアノでファイトのメロディーをトレースするのだ。たった今終わった御大の歌唱の余韻を美しい結晶にして見せてくれるかのようだ。そのまま外は白い雪の夜に繋がっていく見事なブリッジが忘れられない。



 そして瀬戸を最後にコンサートは中止となった。無念。私も11月の越前と鎌倉のチケットを入手したばかりだった。しかし、この再度の苦闘のトライを前にもう自分に言えることは無い。

 2007年の成果物として「DVD+CD+雑文集 歩道橋の上で」が発売された。間に合わせの感じもするが、これは実に素晴らしいメディアミックスの作品だ。
 ほぼロックウェルのミュージシャンみなさんの生き生きしたスタジオワーク、御大の作ってきたカセットに子どもたちのように聞き耳をたてるミュージシャン、休憩時間に見事なドラムを叩くかっちょええ御大、エルトンさんにキーを確認して一人、侍のようにステージに向う御大、手をあげてカウントするエルトン、GO名古屋城、ホテルと熊本城と御大と黄色いサムソナイト、島ちゃんガニ股、ギターを抱えた磯元くん、八掛けバンド、「錨をあげる」、「歩道橋の上で」、そしてエンドロールとしての「ウィンルドンの夢」、ひとつひとつの映像が実に愛おしい。そして黄昏つつもピュアで清々しいな岡本さんの言葉たち。デザインはそっけないがツアーパンフを転写した雑文集の珠玉の言葉たち。
 今でも繰り返し観るし、聴くし、読む。

 2007年のツアーは確かにあったのだ。そして素晴らしい成果物を残してくれたと思う。
 航海では、荒天遭遇や座礁や航路の変更は、異常事態ではなく当然に起きる生理現象だ。いつかまた錨をあげてLife is voyageを見せてほしいと願うばかりだ。

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2016. 9. 11

 あと15days。SONGS。スタジオで歌っている御大を観るだけで至福だ。それにしても吉良上野介と布施明。歴史を創った二大暴言王ではないかと思う。

 ラブソングを歌って文句言われるシンガーは、御大とボブディランくらいのものだ。気の毒に。って、自分も若いころはラブソングは堕落だ、もっとメッセージソングを歌ってくれと文句を言っていた。気にしていたのですか(爆)、本当に申し訳なかった。もう文句は言わないと約束するので気にしないで80歳、90歳になってもラブソングを歌ってください。

2009年6月21日 Have A Nice Day LIVE2009 名古屋センチュリーホール

 御大は、2008年のラジオで「全国ツアーからの撤退」「それでも音楽の傍らで倒れたい」という宣言をした。音楽はずっと続けるものの、大所帯を背負う全国ツアーの重責は担えないということか。正直、ショックだった。

 かくして2009年最後の全国ツアーが宣された。

 これだけは言いたかったし、今でも言いたい。日本で最初に「コンサート・ツアー」を始めた男の「最後のツアー」である。地元の興行師という怖い人たちを黙らせてコンサート・ツアーというビジネスモデルを作り上げたことは歴史的偉業だ。
 その大いなる恩恵を受けている音楽業界、ミュージシャンたち、御大の最後のツアーにあたって、あなたたちの態度はそれで良かったのか。何かといえば「レスペクト」「トリビュート」という言葉を乱発する音楽界やミュージシャンだが、ここにそ「レスペクト」はあるべきだったのではないか。まったく薄っぺらな音楽界だ。
 その意味で、病身でありながら、このライブに行こうとした忌野清志郎は、どんな気持ちだったのだろうか、とついつい思ってしまう。

 ツアー初日の新聞の一面大広告

 先生や親の
 言うことよりも、
 拓郎の歌に
 救われた
 人生でした。

は元気でたね。

 そして何よりこのライブへの心の支えとなったのは、新作にして傑作「午前中に・・・」。この60歳をとうにこえた御大の新作が私たちの心に鋼をいれてくれた。

 当日は、昼過ぎに名古屋に到着。お約束で新幹線の「きしめんスタンド」で花かつおいっぱいのきしめんを食べる。うまい。すべてはそれからだ。
すっかり世間も狭くなり、あまり人にも会いたくないので、ゆっくりと会場入りした。最後のツアーの開幕を待った。

 ウクレレ一本で現れた御大は、サラリと「加川良の手紙」を歌ってくれた。最後のツアーだが、そこには感傷とかわざとらしいドラマとか衰えとか、そういうものとは一切無関係に、軽やかにしかし心をこめて歌う御大とそれをきれいにパッケージしてくれるようなビッグバンドの演奏がそこにあった。
 とにかく、初日は繰り出される選曲の妙に打ちのめされた。魅力的な新曲たちに、レアな名曲。凝りに凝り、練りに練られたステージ構成を感じた。もう御大の思うがまま、あっちこちに運ばれる。

 「風の街」のインストは今でも何度聞いても泣きそうになるし、そのままつながって始まる「ウィンブルドンの夢」は、まるで雲間から陽が射してくるようだ。「明日の前に」「吉田町の唄」の怒涛の三拍子攻撃。まさかの「俺を許してくれ」と「白夜」。ああ、たまらん。
 ビッグバンドの音にもかかわらず、実に細やかなサウンドになっていたのが印象的だった。とにかくも久々にぐうの音も出ず圧倒されたライブだった。

■この日のこの一曲
♪明日の前に

 これは泣いたよ。たぶん隣の人が落ち着いて聴いてられないくらい泣いたと思う。この歌が歌われたことがひとつ、そして、アレンジがアルバム「明日に向って走れ」のものではなく、マチャアキへ提供した1975年の原曲のものだったことがもうひとつ。アレンジャー瀬尾一三率いる大編成バンドだからこそ再現できた一曲といえる。
 ♪ あふれる悲しみを 笑いに変えて
   さすらう心根を 歌に託して
 ああ感動の一角だ。

コンサートが終わって会場からタクシーに乗った。元気のイイおじいちゃん運転手だった。

運転手「誰のコンサートだぁね?」
私  「吉田拓郎さん、知ってます?」
運転手「知ってるも何も大好きだね。フォーク調のいい曲がいっぱいあるよね。」
私  「あのね、新曲で「タクシー」の歌があるんですよ。タクシーの運転手さんとお客の拓郎さんが、しみじみ話しをするいい歌なんですよ。」
運転手「ええーっ!そりゃあ嬉しいね。他にも行くの」
私「いろいろと。拓郎さんの故郷広島とか
運転手「えっ!拓郎さんは広島生まれじゃないでしょ?」
私  「うん、正確には広島生まれじゃないけど」
運転手「そうだよね、拓郎さんていったら北海道出身だもんね、あの政治家の鈴木ムネオ一生懸命応援してから覚えているもんね」
私  「・・・・(それは松○○○だよ)」

やれやれ。
 
実話どす。

 北海道にあてられたか、名古屋だったが、ラストオーダーが近い「かに道楽」にすべりこんで、短時間決戦で飲んだくれた。充実の夜だった。

しかし、しかし、

そして翌日。開演前に「たえなる時に」をサプライズで歌ったことを知った。どっかーん! 悔しさのあまり悶絶、七転八倒するのだった。なんてことをするんだ!!許さんぞ!御大!
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2016. 9. 12

 あと14days。SONGS。何回も見直してしまう。ついでに黒髪の宇多田ヒカルも何回も見てしまうことになるが。見直すたびに新しい発見があり感慨が深まる。すべての熱きファンの方たちはきっと同じ週末を過ごしたに違いないと確信する。いや、私なんぞよりもっともっと深く読み込んでいるに違いない。
 これは作業的には、例えば受験生が授業と参考書を丹念に何度も何度も見直して復習し学力を高めて行くプロセスと変わらない。かくして私たちは知らず知らずに御大学力をまた高めてしまう。但し、受験生と違いこの御大学力は世間や社会での使い道が全くないのが残念だ(笑) 受験生みたいに周りが励ましてくれたり、ホメてくれたりすることも全くない。その逆は大いにあるが(涙)。とはいえ誰からも強制されず、利益にもならない作業に血道を燃やすからこそファンは美しいのだ。自分で言うな。


2009年6月25日Have A Nice Day LIVE2009 神奈川県民ホール

 名古屋の悲しみは私を復讐の鬼とさせ、私は全神経を神奈川の開演前のサプライズに集中した。午後から仕事を早退して、中華街の菜香新館でビールとエビワンタンを実施して気合いを入れて、開場前の県民ホールに並んだ。
 開場と同時に、トイレもグッズ売り場も目もくれずステージに駆け寄った。同じ狙いのファンが結構いた。会場にはいるとステージ前方正面から屈強な会場整理係たちが、迎え撃つように両手を広げて立ちはだかった。いかにガタイが良かろうが、そこはしょせんアルバイト。何十年も思い詰めて生きてきたファンを止めることはできない。右に左に逃げるファンたち。私も最前列近くまで走って左に寄った。
 そのうちにバンドメンバーがステージに。隠れるように御大も現れた。ステージ衣装ではなく、眼鏡をかけて、当時のコンサートグッズの「ガンバラ五線譜Tシャツ」を着ている。おおお、やっぱり歌うのか。一部では係員との小競りあいが続いており、「早く歌ってくれ」と御大に叫ぶ(笑)。
 そして始まった演奏。
  ♪もし寂しさがインクだったら・・
 わぁぁ「無題」だ。「無題」だ。「無題」だぜ。この時の感動といったらない。この作品への思いは、uramadoに書いた通りだ。よくまぁ最後のツアーにこんだけの掘り出し物を見つけてきたものだ。この頑張り、なぜもっと早く出さなかったか。切ない歌いっぷりもそのままの名曲の演奏に昇天した。感動にうちふるえる聴衆。もちろん自分もだ。これで本編はオマケみたいなものだ。違うだろ。

 考えてみると神奈川県民ホール。生まれて初めて臨んだツアー会場。パシフィコではなく県民ホールが最後のツアーの会場になるとは感慨深い。

■この日のこの一曲

♪早送りのビデオ
 御大のギターとエルトン永田のピアノの醸し出す美しい寂寥感。ボーカルには怨念と気迫がこもっている。たとえば「あんなやつになんか負けてなるものかと・・」に籠る気迫、そしてそれを感じとり、拍手でさざ波立つ観客たち。すばらしい。このツアーこそがベストバージョンではないか。

2009年6月29日Have A Nice Day LIVE2009 仙台 東京エレクトロンホール

 仙台日帰りは結構疲れた。特に帰りの時間に追われる感じがイケない。仙台なのに「東京エレクトロンホール」といううっかりすると感電しそうな名前のホールは、昔からの仙台宮城県民会館のことだった。

 とはいえまずは「牛タン」。地元の方々が行かれるような小さな店にはいって、午後2時ころから、牛タンと中ジョッキを少しウシロメタイ気持ちで(嘘)実施する。
 しばらくするとドヤドヤとおっさんたちが4人、隣のテーブルにやってきた。 若めの人もいたが、歳の頃55から60歳のおじさんたちで、ガテン系の人たちで、身も心もヘナチョコの私よりはるかに頑健そうだ。 おっさんたちは、ビールどころか、いきなり日本酒と焼酎を実施され、意気を挙げて、気骨の違いを見せつけられた。
 そのおっさんたちの話が聞こえてくる中に「・・・つま恋・・・拓郎さん・・甲府・・・コンサート中止・・・驚いた」などと聴きなれたフレーズがあり、耳をそばだてた。
 おっさんたちも観客になりに来たことがわかる。少しガラが悪そうなおっさんたちだが、仲間うちで話す時も、きちんと「拓郎さん」と「さん」付けで言っているのが印象的だ。

 そのうちリーダー格のおっさんが、少し東北アクセントでしみじみ語り始めた。
「今回さ、『フキの唄』いいよな。拓郎さんは昔からフキが好きでさ、フキの歌だけど、フキのことだけじゃなくてさ、もっと深いことを拓郎さんは歌ってくれているのさ。」
「ああ、あれはいいな。」「俺もあれが一番好きだな」
 おっさんたちの間に、しみじみとした感動の雰囲気が湧きあがり、それは隣のテーブルの私達にも静かに押し寄せてきた。

 正直言うと最初私は「フキ」と聞いてトホホな気分なったものだ。なんでそんなヘンテコな歌を歌うんだよ・・・と何かを恨めしく思った。
 しかし、ここで、しっかり歌を聴き、その心を掴み、しっかり生きているファンに会った。30年来の拓郎ファンと自慢こいても私もまだまだだ。
 このおやじたちにも「フキの唄」にも・・そして何より、このおやじたちに「さん」づけで呼ばせ、しみじみと感動させる御大に感激した。

 なんか名古屋のタクシーといい、今回は、いつものツアーと違っていろいろなものを見せてくれるような気がする。

 今回もサプライズ対応で開場と同時に速攻入場したら、なんと御大は、もう既に「たえなる時に」を歌ってる。最初から聴けなかったぞ。やってくれるな御大。

 このツアーでは、「春だったね」「落陽」どっちがいい?というオプションがあった。仙台ではジョークだろうが、「二十歳のワルツ」はどうか?という問いかけがあって、失神しそうになった。それそれ、それでお願いしまぁぁぁす。と叫んだが、かき消されてしまった。やはり「苫小牧発仙台行き」で「落陽」であった。

■この日のこの一曲
♪吉田町の唄
 個人的にこの日は、亡父の命日だったのでこの曲が特に感慨深かった。この三拍子の歌唱が嬉しかった。心なしか御大も歌っていて感極まりそうになっている気がした。気のせいか。あわせて御大のお姉様には、200歳まで生きてもらわなくてはならないので、サプリメントをせっせと送っているという話が胸にしみた。広島でこの作品を熱唱する御大が楽しみだった。

 さぁ次は国際フォーラムだ。

2016. 9. 13

 あと13days。

 今日はドラムス島村英二さんの誕生日だ。おめでとうございます。

 昨夜は、エルトン永田さんのライブ「L-project」。モンゴルの馬頭琴との珍しい共演。馬頭琴というと昔教科書で読んだ「スーホの白い馬」を思い出し泣きそうになる。と思っていたら「スーホの白い馬」という曲もあるんだ。実に美しい馬頭琴の音色だった。
 またピアノやバンドとのコラボがまた痛快だった。

 
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2009年7月4日Have A Nice Day LIVE2009 東京国際フォーラム

 さてすっかりおなじみになった開場サプライズ。気合十分でたくさんの人が待ち構える。しかしフォーラムは、入口から会場までが遠い。みんなが階段上って、ホールを走り抜け、エスカレーター駆け上がり、息が切れた。これは正月のどっかの神社の福男の決定レースみたいだ。しかし、御大はゆっくりと出てきてくれて。みんなで「無題」を堪能した。
 ステージも安定してきて、その選曲と曲順を味わいながら楽しめた。CD「18時開演」でまるごと記録化されているのも凄いことだ。

 この最高のライブの構成に敢えて、勝手ながら不満を言わせていただくと次の2点だ。
 @「午前中に」の名曲「季節の花」を歌わなかったこと
 A NHK「大いなる明日」で演奏していた「春を待つ手紙」を歌わなかったこと 

 文句ではない、いつかどっかで是非お願いしますと涙ながらに訴えているのだ。

 「真夜中のタクシー」の悪乗りは、ステージごとにエスカレートしていたが、楽しかった。この夜は「真夜中のタクシー」で、歌に入る直前のセリフ、「・・・・運転手さん前から○○がっ!」の時に、いつもギターから手を離さない御大が、左手を腰にあて、右手で前方を指さしており、そのままのポーズで♪真夜中のタクシーは 今夜もまたぁぁぁと・・・しばらくダンシングしながら楽しそうに歌っていた。トテモぷりてぃっす。

 なんでアンコールで「とんと御無沙汰」なんだ?と思っていたが、そうか、2002年のNHK。ビッグバンドの一番最初はこの『とんと御無沙汰』だったじゃないのか。すべては、あのストリングスとピアノのイントロから始まったのだ。

■この日のこの一曲

♪ガンバラナイけどいいでしょう

 このライブでの歌と演奏は圧巻だった。個人的には、なんだかなぁと思っていたこの曲が、予想に反して、力強くライブを高揚させ、観客を牽引していった姿は忘れられない。決して情けない歌でも撤退の歌でもない。自分の一歩を取り戻すという歌のテーマが見事に伝わってきた。
 ガンバラナイというこの歌は進むことを放棄し撤退する歌ではなく、あらゆる「しがらみ」から自由になっていくための歌であることがわかる。自分の本来の歩みを取り戻すための歌だと実感した。



2009年7月8日Have A Nice Day LIVE2009 大阪グランキューブ

 さてさて大阪に向かう京都あたりを過ぎた新幹線の中で衝撃の「中止」の第一報は来た。2年前、多摩センター行の京王線の中を思い出す。新幹線はうんと速い。止まらないのでそのまま、半信半疑で大阪へ。そそくさとグランキューブに急いだ。
 会場では、中止情報は徹底しておらず、係員のにいちゃんは開場のサプライズ用の整理券を配っていた。130番だったかな。玄関ではエイベックスがDVDの予約販売をしている。
 しかし会場には徐々に中止情報は浸透しつつあり、静かな緊張感が広がっていった。やがて張り紙等で中止の正式告示が出る。どよめく大阪グランキューブ。御大は体調不良で既に大阪を離れたとの事だった。
 知り合いの方と話して哀しみを分かち合い、会場を離れ、大阪の街に放り出された。行くあてもなく街角にたたずむ。「まるで孤児のように」という歌があったな。

 中島らもの「今夜すべてのバーで」という名著があったが、ホントに「今夜すべてのバーで」、御大のファンは、どんな気持ちで過ごしたろうか。

 放心状態であちこちうろついているうちにバックミュージシャンの方々が打ち上げ予定場所だった焼き肉店で食事会やっているところをキャッチし、ほんの一瞬だが覗かせていただいた。ミュージシャン方々に、宮下舞監、ギター扱いの磯元くんなど、このステージを作っている人々がいらした。田家さんもいらして。たぶん緊急取材中ではないか。
 島村さんとエルトンさんたちは、伝説のベーシスト武部チー坊秀明さんの思い出話で盛り上がっていた。みなさんそれぞれに御大への愛情が身体から滲み出ていて、一般Pとしてはとても嬉しかった。
 にぎやかな宴会のようだったが、やはりどこか不安な雰囲気はぬぐえなかった気がする。御大は大丈夫なのか。これからどうなるのだろうか。
 島村さんがあの爽やかな笑顔で、沈みそうな空気を「あれこれ、悪いことばかり考えても仕方ないじゃないか、な」とcheer upしていた姿が忘れられない。かっけーな島ちゃん。
 かくして大阪はいろんな意味で忘れられない思い出の夜となった。

 この時まだひとつも公演を観ていなくて福岡公演を楽しみにしていた九州の拓友からメールが来た。

『とにかく拓郎、無理しないでほしい。「午前中に・・・」あのアルバムを届けてくれたことで私はもう十分です。』

 このメールに深夜ひとり泣いた。

 一夜明けて、スポーツ新聞のトップは「拓郎また倒れる」。お昼から「明治軒」でオムライスとビールを飲んで元気を出して、東京に戻った。あれもこれもそれも旅のうちである。

2016. 9. 14

 あと12days。いよいよライブが近いというのに、ここのところかつてツアーの中止の悲しい話ばかりが続いており縁起でもない。そういう今日も中止の話だ。自分で書いといて何だが、たいしたことは書いていないし、士気が下がり気持ちは落ちること必至なのでライブに燃えている人は読まない方がいいと思う(笑)。

<翼よ、あれがつま恋の灯だ>

2009年7月25日Have A Nice Day LIVE2009 つま恋エキシビションホール

 追いかけるように福岡と広島の中止がアナウンスされた。ヒロシマのサプライズは、「いつも見ていたヒロシマ」だったらしい。

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■静かに終わるツアー
 聖地つま恋には、ライブの前日入りの予定だった。入りって・・一般Pだろ、おまえ。その前夜につま恋とNHKの中止が発表された。かくして最後のコンサートツアーは静かに幕を下ろしたのだった。

■なのにあなたはつま恋へ行くの
 つま恋の宿泊予約をキャンセルしなきゃならいところだったが、思いは溢れ勢いがついて止まらない。物理で言うと「慣性の法則」のようものだ。朝、東名の用賀インターで、やはり同じ慣性の法則によって走ってくる拓友の車に拾ってもらい、つま恋に向った。はた目にはゴルフおやぢ二人みたいだが、誰が私たちの心は悲しみを知り得よう。二人、車中で何回も「季節の花」を繰り返し聴いていた。

■どしゃぶりの雨の中
 つま恋は閑散としていた。雨の中、傘をさしてトボトボとエキシビションホールに向った。ああ、寂しさ倍増。「・・・♪おまけに雨まで降ってきた」と切なく口ずさむ拓友。>ちなみに豊川誕の歌だそうだ。
 撤収のあとのつま恋エキビジションホールは、もう誰もいないただの古びた体育館になっていた。
 前夜の中止決定の時は、ステージ設営作業が放棄されたまま具材や道具が散乱していた・・と前日から行っていたファンが教えてくれた。その中には、あのK君もいた。

■幻の花道
 K君は打ち捨ててあった具材から、ステージ設営図を発見した。そこにはステージからアリーナに向けて伸びた青い花道が描かれていた。ここでスペシャルな企画があったのだ。どこまでも大切な一夜にしようとしていた御大の気持ちが窺えた。つま恋ならではの素晴らしいコンサートになったであろうこのサプライズはひっそりと消えていった。悔しかろう御大。

 「タメイキ禁止」を全員で誓い合って何杯も実施した夜。しかし、ああちっとも酔えねぇよ。

■ホールの前で
 翌25日、本来ならコンサート当日。エキシビションホールの入口に立って、それでもつま恋にやってきた観客の方々への対応とグッズ販売をしていたハイクアウトの若い女性、たぶんWさん。中止で、テンテコマイの忙しさだろうし、普通に考えたらクレームだ、質問だ・・と厳しくなりそうなところ、笑顔でテキパキと対応していた。もちろんファンもクレームも糾弾などもなく、グッズの列に静かに並んだ。
 そんなファンの様子を写真に収める彼女。多くのファンが中止と知っても会場に足を運びグッズを求める様子を御大に届けようとしているのか。忘れられない光景のひとつだ。

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■御大ツアーやめるってよ
 自分が映画「桐島部活やめるってよ」を好きなのは、この時の大阪からつま恋の時の気持ちや人間模様と妙にシンクロするからだ。御大の不在を受ける人間模様。姿を見せない桐島は、ひとり決断してわが道をゆく。残されたものたちは戸惑い傷つけあいながら自分自身を見つめることになる。もちろんあの映画は、松岡茉優がトテモいいのだが(やはりおじさんには広瀬すずなんかより松岡茉優だ)。んまあ、同じようにこっちもいろいろあったよ(爆)

■旅の終わりは旅の始まり
 おそらく御大の「無念」は想像を絶する。一般Pにはわかるまい。こっちも不安と失意の中ではあったが、つま恋の懐に抱かれて気持ちが少し落ち着いた。やはりつま恋は聖地なのだ。

■当時のメール
 たぶんこの時、自分が友人に書いたメール。相変わらず意味不明なことを書いてて恥ずかしい限りだが(笑)、当時の気持ちの格闘が窺える。

※※※※

 2007年のツアー中止の時、そして今回の最後のツアーの中止にあたって、松尾芭蕉の句
  「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」
を思い浮かべていました。
 辞世の句なので縁起でもないと怒られそうですが、この句には真剣に旅して来た人間の無念さや誇りや夢みたいなものが深くこめられている名句です。

 大雑把に言うと、キリストもお釈迦様も松尾芭蕉も吉田拓郎も、みんな「ツアー」を続けた人たちということで共通しています。
>そりゃ大雑把すぎるだろぉぉぉ

 「奥の細道」なんて、今で言うならば
「Bashyo Matsuo Tour'89 東北・北陸シリーズ」
みたいなものです。’89は、1689ですが。

 芭蕉が記録係として弟子の曽良を連れて旅したということと、田家秀樹を伴ってツアーに出た吉田拓郎とどこが違うのでしょうか。

 芭蕉「松島やああ松島や松島や」
 拓郎「松任谷ああ松任谷、松任谷」

ね、似てるでしよ。
>意味わかんねーよ

 拓郎のツアーもまた偉大な旅だったのだと私は思います。

 そして、またとても大雑把に言うと、キリストもお釈迦様も松尾芭蕉も「ツアー」が終わってすべてが終わったわけでなく、むしろ「ツアー」が終わってから、大きな何かが始まっているところで共通していると思うのです。 「旅の終り」は「旅のはじまり」

 吉田拓郎の次を静かに追いかけてきたいと思います。目の前の旅は終わっても、大いなる旅はまだまだ続くものものね。

 私らみたいな拓バカどものことなんか忘れて、ゆっくり休んで、ご自身とご自分の音楽を大切に大切になさってください。

■この日のこの一曲

♪白夜
 まさしくこの歌のようなつま恋だった。松本隆は、ラジオのインタビューでこのツアーの「白夜」が聴きたかった、チケット貰えば良かったと残念がっていたが、ここまでいつもあなたの詞を大切に歌っているのだから毎回お来しになってはどうか。



 史上初の全国ツアーという歴史的偉業そして聖地つま恋、それらすべては永遠のものだ。御大の存在とともに、それらを深く深く心に刻み付けようではないか。

2016. 9. 15


 あと11days。いよいよだ。セットリストも充実とな。くぅぅぅぅたまらん。とにかく何よりお身体大切に。待つ身の幸福だ。

<それからのあらすじ>
 そして2009年のツアーから次のコンサートまで、実に3年3か月以上も待つことになる。3年3月、禁固刑か。いや執行猶予だ。おいおい。まさにLONG VACATION。大瀧詠一,聴いちゃうぞ。これは最長不倒記録だ。もっともこんな記録は更新しなくていいから。

 その間に、加藤和彦が亡くなり、ラジオ「オールナイトニッポン・ゴールド」ANNGが始まった。毎週月曜日の夜、「肥後ずいき」「頭の中は花畑」という能天気な放送を、「くだらねぇな」と文句を言いながら聴くのが、日々の生活の大切な一部となった。但し「驚き桃の木20世紀の吉田拓郎の歴史」は貴重なコーナーだった。

<ラヂオの時間>

2010年3月23日 ANNG 公開放送  ニッポン放送イマジンスタジオ

 公開放送。久々に目にした御大は、とても元気そうだった。居酒屋の宴席にいるような感じで坂崎幸之助と話していた。

 放送収録終了後、特別サービスということで御大の弾き語りが。

♪君のスピードで

♪花嫁になる君に

 の2曲を歌ってくれた。本人いわく、声帯が開いていないということで、キツそうな歌唱だった。しかし、熱唱も魅力的だが、こういう慣らし運転のようなテキトーな歌唱にもまた違った魅力が出てきてしまうのが御大だ。弾き語る御大の姿は、何にも替えがたい。

 至れり尽くせりのニッポン放送で、参加者全員に直筆サインのカードが貰えたし、後日郵送で収録参加の丁寧なお礼状と記念写真が送ってきた。感心、感心、また行ってやるからな・・・って、深く感謝した次第だ。 

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<また逢おうぜ、あばよ>
 それからわずか1か月。この日記にも多出した御大のスーパーファンのK君が、4月に卒然と亡くなった。公開放送の収録でも見かけなかったのは、闘病中だったのか。ショックなんてもんじゃなく、特に同じ歳の同志だったのでこたえた。たまたま前年末に彼から貰った手紙には「今度は木や緑あるところで会いましょう」と結んであった。御大はまだまだ元気で歌ってるんだぜ。
 たくさんのファン仲間が集まりただただ涙にくれた。遺影の写真が、御大とのハワイツアーでの写真だったのも泣けた。

 最後のお別れのとき、せめてもの気持ちで、公開放送で貰った御大の直筆サインカードを御棺に入れさせていただいた。K君、御大を見守っておくれ。


2011年4月18日 ANNG 公開放送  ニッポン放送イマジンスタジオ

 東日本大震災。東京に住んでヒーヒー言っているヘタレの私なんかは問題ではなく、本当に想像を絶する経験をされた方々には今も言葉がない。当然のことながらハワイツアーはキャンセルされ、重たい暗闇が街を覆った。

 その一か月後、チャリティ番組として、夕刻6:00から0:00までのロングランのANNGの合同企画番組が催された。幸運にも当選。幸運なんて言葉は不適切か。

 当時のメール日記をほぼそのまま転記。

※※※※
 私はスタジオで拝させていただきましたが、寒い中、何巡も並ばれた方々には申し訳ないです。きっとこんな私には何かのバチが当たりますので、それに免じてご容赦ください。

 しかし、いきなりスタジオ入り口で、募金箱の前にポツンと一人で佇むその人。びっくらこきました。
 私の前の整理番号の九州から来られたというおばさまが、私に「ね、あれ、ヨシダタクロウよね。ヨシダタクロウでいいのよね。」という基本的すぎる質問をしてきました。>あのな 誰なんだおまえは と言いそうでした。

 俯いた拓郎さんは募金すると、小さな声で「アリガトね」と手を握ってくださいました。
ううむ、大きくてやわらかな手。シャープな体躯。カッコイイっす。

 嬉しかったのは、なんといっても「春を待つ手紙」の弾き語りでしたね。

 誰が、この曲をやると思ったでしょう?
 本人も言うとおり初めての挑戦。
 昔だったらこんな時は「ロンリーストリートキャフェ」「君のスピードで」「花嫁になる君に」「祭りのあと」だいたいこの安全な4曲のローテーションでしょう。

  初めてのこの曲への挑戦、しかもこの歌詞を今届けたいという思い、そのうえ、ちゃんと「俊一」「直子」と陣山さんのことを確認するように歌われましたよね。
・・・とにかく、いやがおうでも吉田拓郎のまごころのこめられた本気を思います。

 しかし、この歌の本番直前のCM中、御大は相当緊張したのか、「骨まで愛して」「落陽」を観客とともに唱和させていたのも、ぷりてぃでした。

 音楽が胸に迫る感じ。間近で観ていてふるえました。あらためて御大のオーラというか、あああ、かっちょええなとシビレました。

 あと、トークの中で、中村雅俊さんは3人のいとこを失われたことを知りました。あのあっけらかんとした感じで、自分でもどう悲しんでいいかわからないという言葉には慄然としました。

 拓郎は、そんな雅俊さんの顔を見つめて、しみじみと言うわけです。

「俺はね、キミの笑顔が好きなんだ。悲しいこと、辛いことあるんだろうけど、いつも俺にニコニコしてくれるじゃない? キミの笑顔は安心するんだよ。だからときどき会いたくなるんだよ。きっと君の笑顔にたくさんの人が救われるよ。」

 雅俊さんの表情は僕からは背中で見えませんでしたが、拓郎さんの言葉が彼を包んでゆくのが明らかにわかりました。拓郎さんのまごころに泣きそうになりました。拓郎いいやつだなぁ、おまえは。大好きだぜと心の底から思いました。>おいおい

最後、「全抱き」は、歌詞カードが配られ、みんなで観ながら歌うのですが、「全抱き」を歌詞観ながら歌うなんて、私のファンとしてのプライドが許しません。 プロ野球の選手で川上哲治の「少年野球教室」を読みながらバッターボックスにはいる選手がいるでしょうか?「やさしい手術マニュアル入門」を読みながら手術する外科医がいたらどうでしょうか?

 ・・・と暗譜して歌ってたら2番で歌詞間違えまして(爆)、例の九州のおばさまがそっと歌詞カード一緒に見せてくれました>なさけねーな
(以下略)

■この日のこの一曲

♪春を待つ手紙
これしかあるまい。もともと拓郎という人は、ラジオの生放送の 番組で初めて演奏する曲を歌ってくれるような殊勝な人ではない。あのな。
 しかし、あえてこの作品に挑んだのは、やはり「祈り」の歌だからだろう。あの日 、拓郎は、相当緊張し、CMの間何度も、真剣にコード確認し、小声で歌唱チェックを していた。万難を排して今こそ「歌う」という意思がそこにあった。
 この歌が、「泣きたい気持ちで冬を超えるすべての人々」に対する「春を待つ祈り の歌」として大いなる転生を遂げた瞬間ではないか。(Uramado)

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2016. 9. 16

 あと10days。そんな市川のチケットが届く。

2012年10月22日 LIVE2012 東京国際フォーラム

 3年3か月の時間を経て、ついに待ちに待ったコンサートが挙行された。なんと日帰り首都圏ライブと来たもんだ。チケット激戦が予想された。この日のために夏の初めにフリップサイドに入会したが、会費を払ったところでフリップサイドが倒産。ひー。しかし何とかチケットを死取した。

 しかしそれだけでは終わらない。「コンサートのチケットを入手すれば、コンサートが観られる」などと考えるのはそこいらの歌手のファンにすぎない。御大ファンは身をもって知ってる。それは幻想にすぎないことを(笑)。より達観した境地にいるのが御大のファンなのだ。

 なので気が気ではなかった。当日、ある知人は、当日午後4時ころ有楽町付近を武部聡志氏が歩いていたのを目撃して、これは中止になって帰るところかと思ってビビったらしい。実際は、「マツモトタカシ」ちゃうちゃう「マツモトキヨシ」に買い物来ただけだったようだ。すまん。そのくらいピリピリとしていたのだった。
 雨畑氏は、開場しすぐに会場に駆けつけ、楽器がセットされた無人のステージを観た時、涙が止まらなかったという。こうしてステージセットがあるということは、御大が、選曲し、構成し、リハーサルを繰り返し、ゲネプロも実施し、当日の音合わせまで完了したという事実の証だ。どれかが欠けても今はない。ここまで来た事の大きさに打ち震えたらしい。あとは、本番で歌うか歌わないかという僅かの違いにすぎない。・・・いやそこが大きな違いだろ・・という意見もあるがそこまで達観したということだ(爆)

 固唾を呑んで祈る中、御大は、一人で普通にステージに現れた。杖もついていないし、椅子に座ってない。岡本おさみは昔「吉田拓郎は音楽以前に「ステージの立ち姿」が美しい」と語っていた。あの立ち姿を観て「コイツは一体どこからやってきたんだろう」と唸ったと言う。あれから幾星霜を経て今もその立ち姿は美しく健在だ。
 うまく言えないが、どこにも力みがなく、ほっそりとした身体ですうっと姿勢良くと立っている。岡本おさみの言うとおり、美しい。それだけで何かを語っている。世の中の66歳にありがちな老人の立ち姿ではない。 やはり鍛えていないとああはならないと「舞踏」に詳しい友人は語っていた。音楽に必要な限りで 見えないところを見えないように鍛えるのか。

 ご無沙汰でした、待たせてごめんね、というご挨拶も一切なく、いきなりエマニュエル(笑)そして勝負曲の「ロンリーストリートキャフェ」を切り出す。そして「落陽」。イキナリ圧巻で、何の変化もないことをも見せつけるかのようだった。

 かつての中止という記憶や長期間のブランクということで聴き手側の余計なバイアスがかかっての不安だったのかもしれないが、御大はキッチリと緩急付けながら盤石なステージをみせてくれた。
 「僕の道」と「慕情」がライブの核心を抑え「ふゆがきた」で驚かされながら進む不動のライブだった。
 ピアノから始まる「流星」の武部聡志のアレンジの素晴らしさ。このピアノをエルトン永田で聴きたかったと思うと涙がこぼれた。何の涙だ。
 
 「御大健在」の安堵と感激を噛みしめ、「純情」に身体を揺らし「外は白い雪の夜」で会場から送り出された。ああ良かったよ。

 東京駅側の地下の閉店間際のイタリア料理の店に入り込んでビールで祝杯をあげた。元気な御大の姿が、人々を活気づけていた。長い3年3か月の年季が明けて、かなたに光が差し込んできた。そんな気分だった。

■この日のこの一曲

♪慕情
 このライブのメインは「僕の道」と「慕情」ではないかと思う。同性愛ということも驚いたが、これほどまでに憧れる人が御大にいるのだろうか。この詞はまさしく御大を思うファンの心情そのものではないか。まさに、ファンは、あなたのことを、この詞のとおりに思ってるんすよ、だからもっと大切にしてね、はあと。おいおい。特に、この声の伸びが素晴らしい。ライブでも遜色なく聴かせてくれて感激したものだ。

2016. 9. 17

  あと9days。タブロイドまで届いて、黄色いギターの全容が。美しい。もうすっかりコンサートモードだ。似合わないミッキーTシャツ着て本八幡を歩いてやるぞ(爆)。次は、くまモンかムーミンで頼む。ともかくフェスティバルモードに突入である。

2012年10月25日 LIVE2012 大宮ソニックシティホール

 フォーラムの復活に安堵して、このツアー最北端の地、大宮ソニックシティホールに向う。 とはいえやっぱりエマニエル。

「ロンリーストリートキャフェ」については、安井かずみの詞を一曲目に歌いたかったと後にラジオで述懐していた。

 2009年に加藤和彦が亡くなった直後の中山ラビのライブでラビさんは最後に「偶然にも一曲目と最後の曲が加藤和彦でした」とつぶやいた。ああ、そういえばそうだ。・・・この時も、一曲目(ロンリーストリートキャフェ)と(本編)最後の曲(純情)が、加藤和彦だった。意識せず通底しあう二人。

 2003、4年の頃は「純情」のラストは、どうもと思っていたが、加藤和彦が亡くなり、阿久悠も亡くなり、特に阿久悠の「なぜか売れなかった愛しい歌」でこの作品と御大に対する思いを綴った文章を読んでしまうと、文字通りいとおしい。

 岡本おさみさんまでが逝ってしまった今、作者の方々を思って歌うと、御大はつらいだろうな。全く大きなお世話だけど。かつて岡本おさみさんは「作詞家は、作ってしまえばそれで終わりだが、歌手には歌い続けなくてはいけないという業がある」という趣旨のことを言っていたのを思い出す。
 
 ともかく、元気な御大を確認すると「白いレースの日傘」と「虹の魚」を心置きなくスタンディングでノれて実に気持ち良かった。ここのつながりは爽快だ。

 この日もいい気分でソニックシティホールを出た。御大も出待ちでお手ふりをしたらしい。
 ホールから、大宮までの僅かな道のり。”ディラン・ロード”を歩く。かつてボブ・ディランがソニックシティでコンサートの後、大宮駅までトボトボ歩いて行ったのを目撃したと知人から聞いて驚いた。世界のスーパースターが、大宮まで徒歩移動ってすげーぞ。車用意しろよ、イベンター。それにしてもディランが歩いた道、金箔で舗装して世界遺産にしてはどうか大宮市。それまで、私が勝手に仮称”ディラン・ロード”と呼んでうやうやしく歩くことにする。

■この日のこの一曲

♪僕の道
 このライブのメインは「僕の道」と「慕情」ではないかと思うと書いた。「僕の道」は切なくもウキウキするような傑作だ。CDの原曲では顕著だが、とろけながら溢れるようなギターとキーボードのサウンドがたまらない。あの海を漂うようなサウンドがまたいい。
 この時はまだ知らなかったが、「僕の道」は「家路」だと後に御大は明らかにした。勝手に「人生」とか「音楽道」のようものかと思っていた。「家路」。「僕の道」→「白夜」→「家へ帰ろう」という曲順はとても意味が深いものなのかもしれない。

2016. 9. 18

 あと8days。超個人的だが、今度のライブには、小学校の時からの友人、若き日一緒に御大のコンサート観戦を共にしたT君と、同じく小学校の友人で私にミュージックフェアに御大出演のテレビ放映の翌日、「よしだたくろう」という名前と業績を教えてくれたM君も観戦することになった。大学教授になっているM君は授業を休講にしてでも行くと燃えている。旧友恩人の御大との再会がとても嬉しいフォーエバーヤング。

2012年10月29日 LIVE2012 パシフィコ横浜国立大ホール

 横浜。いよいよツアーも後半だ。早っ。仕事を早退して前飲みの場所を探すのはそれなりに大変だ。伊勢崎町あたりの立ち飲み&昼飲みの店に突撃するには私はヘナチョコすぎる。面倒なので横浜そごうの食堂街でジョッキをあけたのだが、さすがに昼下がりのハイソなご婦人たちのひと時の中では浮いていた。いいじゃないか、何年待ったと思ってんだ。

 以前にも書いたが、同じ港に隣接しながら、神奈川県民ホール周辺とはまた違った、未来的な空間のパシフィコ。“お手ふり”で悶絶し気分を高めてから、開場だ。

 第一声の「こんばんは『ランドマーク吉田です』」がツボに入ってしまう。こういうの好き。
 もう声がどんどん伸びるようになっているのが、素人にもわかる。このまま、毎月ずーっと歌っていればいいのにと無責任に思う(笑)。

 本人は恥ずかしい、気分が乗らないというけれど「ふゆがきた」は、ステージで聴けば聴くほど愛おしくなってくる。この陽性でポップなメロディーこそが御大の天才の技の真骨頂ではないかとすらと思う。2012年以降、冬が来て寒くなると「♪ふーゆーがきたっ」と知らず知らず、脳内にリフレインしてしまう人がかなりいることが、私の独自の調査でわかった。もちろん自分もだ。

 それよりなにより、これを歌うならば「ステラ」も「ハート通信」も「友達になろう」もOkじゃないか。どうかどうか「歌うのが恥ずかしい曲シリーズ」をステージの一角に設けてくれまいか。そして忘れられようとしている天才メロディーメーカーの子どもたちを宣揚しようではないか。そんなことを思った。

 今さらなんだという感じだが、鳥山雄司のギターは上手い。まさに名手の名にふさわしい。Voiceのときのフラメンコチックで扇情的なギター。おおーと唸らされ聴いている人々の魂を躍動させずにおかない凄業だった。

 ともかくなんとういうか武部・鳥山家のパーティーにお呼ばれしてしまったようなパシフィコだった。

 パシフィコは、帰りは降り口とは反対に、海側の扉から出るように誘導される。たぶん、ホテルの入口のお客さんと混濁するのを避けるためとは思うが、扉を出たとたんに吹いてくる海風が心地良いのだ。

■この日のこの一曲

♪リンゴ
「アンコールだ」→「リンゴだ」→「ワーイ!」という感じで薄っぺらにノッテいた自分だが、これは凄いバージョンだとあらためて思う。
 「リンゴ」と言えば、不滅の「元気です」=「石川鷹彦」バージョンが基本だが、この時は、2002年の「Oldies」=「鳥山雄司」バージョンが基本になっている。ご本人にはそんなつもりはなかったのだろうが石川鷹彦に挑む鳥山雄司という絵が勝手に浮かぶ。しかし競うのではなく、鳥山雄司のギターはリンゴを巡る二人の情景をはるかな歳月を経た遠くから眺めているかのようで、原曲とはまた違った情感に胸がうずく。御大のボーカルにも成熟した美しさがあってこれはこれで貴重なバージョンだった。これがこの時のライブでは、さらにブルース色を深めながら作りこまれていることが、後にこのライブCDを聴くとよくわかる。これはこれで出色の「リンゴ」だ。

2016. 9. 19

 あと7days。おい、あと一週間だぞ。観客としての準備は大丈夫なのか>自分。

2012年11月6日 LIVE2012 NHKホール

 いよいよ首都圏ツアーの最終日。だから早いよな。この日は、九州から来られたファンの方を含む皆さまが渋谷のインド料理屋に集ってらっしゃるというので前飲みに寄せていただいた。例えば、この方にしてみれば、2007年以来なので、実に5年ぶりのライブとなる。月日の長さとこの日の重さを思う。何にしても今日があって良かったとしみじみ思うのだった。

 芸能人も多数参集したようだった。山下達郎・竹内まりや夫妻、和田アキ子、長渕剛らも観覧していたという。特に、ライブ直前のラジオでの山下達郎との急接近は忘れられない。かつて山下達郎が「風の街」のコーラスの話をしながら、御大のことが嫌いなんだろうなと推測していた。密かに拓敵認定をしていた。しかし、御大の方は、ずっと以前から、山下達郎のボーカルの素晴らしさを評価していたことも驚いた。劇的な雪解けというか急接近。大瀧詠一とも「お互い、エレックにはひどい目にあったよな」と盛り上がる日も来えたのではないか。月日は限りなきノーサイドに向って進むものなのか。次のツアーではもっと驚くことになる。

 映像収録のNHKホール。それでもエマニュエル(笑)

 最初のMCで「4本が適当。これで千葉とか一箇所でも増えると、手抜きを始めるから」とうそぶく御大。ちょっと泣きそうになった。御大よ、そんなこと言わずとも、あなたの無念さはみんなわかっている。3年も待ってここに来たみんなは、きっとわかっているのだよ。

 いろんな思いが結集した本日。イケイケで踊り楽しもうではないか。

 ツアーをまたぐMCになる「バーの話」、「若かった頃の話」は、何かの暗喩なのだろうが、この時点ではよくわからなかった。

 異論はあるだろうが、個人的には、武部・鳥山のこのバンドは、パッケージ力=安心力だと思った。食でいえば、旬の食材が盛り付けも美しくコンパクトにパッケージされた松花堂弁当、旅でいえば、食事から観光まですべて行き届いたパック旅行のようなイメージだ。これが例えば、王様バンドであれば、鮮度の高い食材をこれでもかと盛りつけた築地市場の海鮮丼、未踏の地への冒険旅行のようなイメージと対極をなす気がする。
 どちらがどうということではない。いや、あるが(笑)、このパッケージの安心はこの時は大きかったのではないか。最長不倒記録の不在から無事に帰還した御大。そして来年以降に繋がることが示された。何よりの収穫だ。お疲れさまでした。

 ライブが終わって一週間。某居酒屋で御大とすれ違った。って、追っかけだが(笑)。トイレから出てきた御大は、グレーのセーターを着て眼鏡をかけて先週のステージのあのスターではなく、普通の居酒屋にいるおじさんになっていた。「なんだい?」「どーも、ライブお疲れさまでしたっ‼」と声掛けをし、昔、一緒に撮った写真をお見せすると「ああ懐かしいね」と笑ってくれた。調子にのってサインを求めると「あーーーごめん」とこっちを振り返って言いながら消えて行った。爽やかなオーラの残り香があった。

■この日のこの一曲

♪白いレースの日傘

 この爽快なイントロで、目の前がバアッと明るくなる。ライブ自体がここで陽転するかのようだ。セルフカバーアルバム「Oldies」の「蒼い夏」の弾けたバージョンを聴と繋がっているようだ。夏の砂浜。「浜日傘」と「白いレースの日傘」。夏の時代が終わり穏やかな「秋」を受け入れようとする二人。長いこと拓郎を愛しながら生きてきたファンは、自分自身の歴史に重ねあわせ実感することができる。いいなぁ、岡本おさみと御大の時間をかけた真骨頂がここにある。清々しい秋に向おう。

2016. 9. 20

 あとdays。今日は、ゲネプロらしい。盤石の総仕上げをお祈りしています。観客がいたほうが気分が出るのであれば、遠慮しないで連絡ください。

2014年6月30日 LIVE2014 東京国際フォーラム

 あれから2年。いよいよライブ2014が始まる。首都圏ライブだけれど一箇所増えている。小さな一歩が嬉しいじゃないかぁぁぁ。ライブへの胎動のように、2013年の「クリスマスの約束」、2014年の谷村新司との「地球劇場」の出演があった。
 特に谷村新司との共演は、かなりの衝撃だった。だって、私の若き日々は、宿敵アリス、亡国のハンド・イン・ハンドという怒りを原動力に生きてきたものだ(笑)。
しかも、開場後、大歓声の中、谷村新司が客席に現れた。スタンディングオベイション
する観客たち。え、君らは拓郎ファンだろ。ううむ。いつまでも鬼畜米英許すまじと怒っているお爺ちゃんなのか私は、

 ステージの「シルエットデザイン」がいい。客電が落ちると、これが闇に青く輝くのだ。たまらん。このシルエット、このサイトのTopのイラストと似てるがこっちの方が先なんだが(笑)。

 それにしてもこの前代未聞のオープニング「人生を語らず」〜「今日までそして明日から」〜「落陽」。結婚披露宴で、乾杯のご発声前に、いきなり伊勢海老とステーキが出てきて食べさせられるみたいな重量的圧倒感だ。観客もスタンディングして疾走するしかなく、イキナリ大海原に放り投げられたような感じになってしまった。もう精も尽き果てました、さようなら(笑)

 前回のツアーは、武部・鳥山家にお邪魔しているようだったが、今回は、御大も自家薬篭中のものにしていた気がする。おそらくは、セットリストの精選と作品の作り上げは、「AGAIN」のレコーディング作業から実質的に始まっていたのではないか。ともかく昨年のライブの進化形を魅せられた感じだ

 この日の忘れられないMC。高齢の観客の乾いた拍手を揶揄した後、「・・・そろそろ引退しようとか思っている人、まだまだ今からやれることはあるはず・・」と語りかけた。珍しい御大からの直球メッセージだった。ただ説教臭くならないように「そういう人々は歌手を目指しなさい」と茶化す。御大とともに、ここから何か新しい出発を目指す。小さな希望を御大と共有する会場。嬉しい瞬間だった。

 アルバム「AGAIN」からの作品が中心なれど、「襟裳岬」「シンシア」というナンバーもあったりして心くすぐられた。

 圧倒的なライブだったが、初日だからか、声が一部こなれていないところはあったし、
それでも必死に熱唱していた姿が忘れられない。御大は、昔、よく演奏中に、バンドを振り返ってアイコンタクトしながらプレイする素敵な姿を見せてくれたが、今回は、それが全くなかった。マイクにすべての意識をコンセントレートしているかのようだった。

 アンコール「こうき心」の弾き語りに続いて、ついに完全版が姿を現した「アゲイン」。この静かなるナンバーを観客が全員スタンドしてしみじみと聴き入る。これは素敵な絵だったよ。

 あまりのライブの重量感に、御大は大丈夫か心配だったが、週刊誌で、このライブのあとで、女優と麻布の焼肉屋に行った写真を撮られていた。>それは奥さんだろ! ともかく元気な様子に安堵したものだ。

 ともかく幕は勢いよく上がったのだった。


■この日のこの一曲

♪シンシア

 嬉しい選曲だが、♪シンシア〜「フッフッ」をやる客とやらない曲かで世代が分かれる。ここは、愚直かつ盛大に「フッフッ」で決めたい。渡辺格青年のペダルスチールがメチャクチャいい感じを醸し出しているのも嬉しい。いいなぁ。ともかくペダルスチール大活躍。これならば、是非、彼がいるうちに是非「流れる」を演奏しちゃくれまいか。

2016. 9. 21

 あと5days。そうですか。ゲネ大変でしたか。お疲れさまです。ご無理なさらずお大事にと思うのですが、だからといって入魂のリハをした曲をカットしたり、サイズをワンハーフにしたりしないでほしいなぁ。布施さんが怒るぞ(爆)。

2014年7月4日 LIVE2014 千葉県文化会館

 久しぶりで懐かしの千葉公演。千葉駅で、ビールを飲んでから、会館へ歩いて向かう。会館はあの日のままだ。
 フォーラム同様、御大は、挑むような怒涛のオープニングで向ってくる。やっぱ凄いなこのオープニングは。
 断じて千葉県文化会館をバカにしているわけではないが、現代テクノロジーの粋を集めたフォーラムやパシフィコとは違う昔ながらの会館だ。決定的に違うのは、この怒涛のオープニングで、会館全体が共鳴し揺れる感じがする。会館ごと音圧の凄い爆音会場のようになる気がした。慟哭するような迫力は、こういう会館だからこそではないか。

<この日のこの一曲スペシャル・・・蘇生する歌たち>

♪気持ちだよ

 当初この作品は、しみじみとしすぎて地味というか古色蒼然とした感じがして苦手だった。例えば「重たい荷物は背負ってしまえば、両手が自由になるだろう その手で誰かを助けたい」という、康珍化の毒気の無い詞は、御大が歌うと、物足りなさと気恥ずかしさが先に立つ気もした。
 しかし、「AGAIN」とこのライブではトテモいいじゃん。アレンジと演奏の美しさが際立っていたし、歌い手も聴き手もほどよく枯れたためか、気恥ずかしさも薄れ、実に味のあるバージョンで心地よかった。自分も「両手が自由になれば、足元が安心」であることを実感する今日この頃だ(爆)。とにかく長年寝かせて、見事に熟成した感じがする99年モノのワインみたいだ。

♪僕達はそうやって生きてきた

 これも昔は、個人的には、どうもしっくりこない作品だった。「あきらめちまうと後悔するよ 今あるチカラで頑張ってみようよ」「苦しいっていえば楽になるよ 大切なのはこれからなんだよ」という聴き手を励まし、元気づける素晴らしいフレーズの数々。
 しかし、思い出そうよ。そもそも御大は、聴き手をこんなやさしく励ましてくれるような人格者ではなかったはずだ。例えば昔、ラジオで、自分から、悩み相談のハガキを募集しながら、面倒になって「もう、おまえら自分で何とかしろ」と放り出して、何の関係もないエンガチョな話でガハハハと盛り上がるような、それは、それはヒドい人なのだ(笑)。ヒドい人がヒドいことを歌って吉田拓郎のロックが成立する。
 そんな人が、こんな温かい励ましのフレーズを書いたのは、当時の時代背景からして、明らかに、キンキやシノラー、LOVE2周辺の若者を意識していたに違いない。彼ら世代に向けて歌っているのであって、たぶん私たちおじさんおばさんは関係ない。そう思うと、この作品は、どうにもしっくり来なかった。しかし、今になって御大がこれだけ熱く歌ってくれるのは、私たちおじさん、おばさんともこのスピリットを共有しようとしているからか。そう考えるとおだやかな「好々爺のロック」とでもいうべきものが胸にしみる。


 さて、帰りに初めて千葉駅までのモノレールに乗った。凄いな現代テクノロジーは。モノレールは、コンサート帰りのファンで一杯だった。私も含めておじさん、おばさんが、一様に「T.Y」の文字も鮮やかなTシャツ、ポロシャツを着ている。若いカップルの乗客が珍しそうに、ちょっとせせら笑いながら眺めているのがわかった。
 以前の私だったら「恥ずかしい」と思い、そんな若者の不遜な態度に腹も立ったろう。でも今は違った。心の中で静かに若者にエールを送った。

「 若者よ。30年後、君たちが50歳を超えたとき、今、君の好きな歌手たちが元気で歌っているといいな。そして、そこにおっさんおばさんになっても胸焦がし万難を排して駆けつける君らでいられたらいいな。私たちはそういう素晴らしい歌手に出逢い、幸福な人生を手にしたのだ。
 30年後、君の好きな歌手がいなくなって、君も音楽を聴かない淋しい中年になってるなんてことのないことを心から祈りたい。」

・・・って結局怒ってんじゃん(笑)。

2016. 9. 22

 あと4days。ゲネは市川だったのか。一週間前のゲネということは、御大にとっては、この日が初日で、渾身のツアーはもう始まっているのかもしれん。だとしたら何も言うことは無い。体調に気をつけて歌ってほしいと祈るだけだ。あえて言えば、席が後ろなので、一曲くらい客席で歌ってくれたら嬉しいが>無茶言うな、スター誕生かよっ!

2014年7月7日 LIVE2014 川口リリアメインホール

 初めての「川口リリア」。「リリア」、なんというロマンチックなホール名かと思っていた。実際、素敵なホールなのだが、川口駅に着くとビルの上の巨大ライオンのインパクトがとても強く、あっちに気分を持って行かれてしまう。なんなんだ、ありゃ。

 「そごう」の上の居酒屋(じゃないかもしれないが)の窓側に陣取って、リリアの入り口付近を眺めながら、前飲みに入った。雨に煙る街並み。違う人の歌だ。まさに「丘をのぼって下界を観ると」とシャレてみたが、人が集まってくるリリアを観ていると落ち着かなくなってすぐに会場に降りて行った。

 会場に行くと、友人が息子さんを紹介してくれた。父に似て背の高いイケメンの青年。ああ、彼と頻繁に飲んでいた頃は、確かまだ小学生だったはずだ。自分だけでは気づかない大いなる時の流れを思い知る。「どうか吉田拓郎をよろしく」なんて言われても困るよね、青年。

 怒涛のオープニングのあと、御大は、「今日は調子がいいので、あとで一曲余計にやるかな」とつぶやいた。 ・・結果的に通常通りのセットリストだったのだが、どこでボーナス・チューンが出てくるか、何が出てくるか、ドキドキしながら最後まで観ることになった。これがハイジだったら「おじいさんの嘘つきぃ!」と泣いて怒ることろだ。いみふ。

 しかし、本当にボーカルは、回を重ねるごとに磨き上げられ、川口も素晴らしかった。御大の気合とゆとりが織りなす盤石のステージだった。

 ベストを着たベストなメンバー。御意。しかし例えば「サマータイムブルースが聴こえる」は、アルバム「AGAIN」では間奏がギターになっていてユニークだったが、ライブではピアノに戻されていた。それを聴いているとつい思ってしまう。どうせシロウトの戯言だが、

例えば

 ギター   鳥山雄司 鈴木茂 渡辺格(ペダルスチール)
 キーボード エルトン永田 武部聡志
 ドラム   島村英二

みたいなメンバー構成はあり得ないのだろうか。映画「アベンジャーズ」みたいなバンド。映画は観たことないけど(爆)

 ご機嫌のステージが終わって、楽屋口で出待ちをしたファンの方に聞いたら、車に乗り込む御大はステージとは別人のようだったという。その時の全力出し尽し状態の熊のような歩き方を実際にやってみせてくださった(爆)。それを聞いて「なんだよ、一曲余計にやんなかったじゃないか」みたいな不満をかこっていた自分を恥じた。御大はまさにこのステージに憔悴するほど全力投球だったのだ。すまなかったな御大。

■この日のこの一曲

♪わしらのフォーク村

 「全部抱きしめて」から「わしらのフォーク村」への流れがたまらん。たぶん御大は、余興のようなオマケ気分でこの「わしら」を歌っているのかもしれないが、ファンにとっちゃ小さいながらも心ふるえる大作なのだ。御大が思う以上に、観客としてはこの作品に高揚感してしまう。もう盛り上がって、どこまでも登りつめちゃうぞぉぉという感じ。なのでパタリと終わってしまうのが妙に寂しい。「わしら」でブリッジかけて「僕達はそうやって生きてきた」あたりに繋がってくれると昇天モードだと思うのだが。ま、これもシロウトの戯言だが。ともかく小さな大傑作なのだ。

2016. 9. 23

 あと3days。何がdaysだカッコつけてる場合じゃない、あと3日だぞぉ。それに、今日はつま恋2006から10年。ああ万感の思いが溢れて気持ちの整理がつかない。

2014年7月14日 LIVE2014 パシフィコ横浜

 このライブの不思議な魅力は何なのか、ようやく答えが見えてきた気がした。新曲「アゲイン」だ。アンコール最後の「アゲイン」に向ってライブのセットリストの楽曲たちがすべて収斂していくかのようだ。そしてコンサートの楽曲たちが、今度はその「アゲイン」に照らされて再び輝きだすような・・見事なライブだった。

 それにしてもフツー「未完」でCDにするか。そんなことを許されるのは、世界で御大とシューベルトだけだ。未完の作品であることで、聴き手の私たちの心に向って何かが投げかけられたかのように錯覚してしまう。聴き手は、未完であるがゆえにその未完成な余白に想いを巡らせる。「若かった頃」「若かった歌」を反芻する。

 ライブに赴くと、蘇生した新しい歌たちとともに最後に「完成版」を体験することになる。固唾をのんで聴き耳を立てる完成部分。「僕らの夢は」と歌われた瞬間に胸わしづかみとなる。
 未完CDから完成LIVEへの流れは実に貴重な体験だった。アンコールでスタンディングした観客が、この歌に聴き入る。この光景は圧巻だった。もしかして意図的に未完なのか。いや、ホントに間に合わなかっただけだよな(笑)。それにしても未完成ということで、人にこんなに夢と妄想を与えられるのだからさすが御大は凄い。

「どんな若者でしたか?」というバーのMC。♪若かった頃のことを聞かせて・・・ということで、最近たまたま読んだ、久保利弁護士の文章にこんな一節があった。

「その頃は、芸能界や興業は、ヤクザがしきる世界でした。私がつきあったのは吉田拓郎です。・・・こういうフォーク歌手には、まだヤクザの手が伸びていませんでした。・・だからこの業界をしっかり守ればアーティストもヤクザの世界に行かないで済むなと思いました。・・・吉田拓郎らはフォーライフレコードを設立し、私は監査役になりました。その間には実はいろんな事件がおきました。そういう事件を一緒に戦う中で、アーティストとの間で共感が生まれました。同世代だったんです。私も拓郎も今では70代のお爺ちゃんになりましたが、当時は20代後半でした。」

 そんなふうにして、かの若者は、いろんなものと戦い、日本初のコンサートツアーやアーティストのレコード会社設立というエポックが実現したのだ。

 残念ながら、こういう点についての世間や音楽界のレスペクトはとても薄っぺらなので、私たちファンが心の底から讃えるしかない。

 その御大の70歳にしてのコンサートが始まるのだ。聖地つま恋よ、あれから10年後の御大と私たちのコンサートツアーを護り給え。

2016. 9. 24

あと2days。近づいてきちゃったよ。

2014年7月22日 LIVE2014 東京国際フォーラム

 そして最終日。有楽町のニュートーキョーで昼飲みし、寂しさをかみしめてからフォーラムに向かう。花束チェック。ハワイツアーの有志でお花を出したのも今は昔だ。「小室等の音楽夜話」からの花束が。出るのか!? プロデューサーが、宇田川オフィスの宇田川さんなので期待できるかも・・・しかし、あれから2年、気配はない(爆)。宇田川さん、「湯だめうどん」美味しかったです。

 WOWOWの撮影が入るというので、生前のKくんが作ってくれた”つま恋75レプリカTシャツ”を着て臨んだ。さすがに、これで町を歩いたり電車に乗ったりする根性はなく、フォーラムで着替える。後ろの列がカメラクルーだったので、かなり張り切ったのだが、最後の「純情」で左手が一瞬映っていただけだった(涙)。気合が足りなかったか、あるいは邪な気合が入りすぎたか、すまなかったなKくん。

 2014年のツアーもついに終わってしまう。春のツアーが終われば、秋のツアー、秋のツアーが終われば来年のツアーが当たり前に待っていると疑わなかった若き日。年齢を経るにつれて最終日がとても寂しい。“又逢おうぜ、そうさ又逢おうぜ”というあの歌詞の深さが胸にしみる。しかも、そういう言葉を吐いた岡本さんが先に逝ってしまうなんてなんてこったい。

 コンサートのたびに磨きのかかっていった御大のボーカル。最終日には、それは、それは素晴らしくなっていた。ポップなアレンジの「たえなる時に」は気に入らなかったのだが、こんなに伸びやかなボーカルで歌われると思い切り説得されてしまう。またMCで、軽く歌って見せた「旅の宿」。本人も言う通り、高いキーで歌い始めてしまったが、最後までそのまま難なく歌って見せた。おおー。ボーカル力が漲っていた。

 こんなボーカルに至りながら、今日でライブが終わってしまうなんて、ああ、勿体ないと身悶えしてしまう。このまま月イチでいいからずうっと歌い続けてほしい。

 しかし、御大は決然と踵を返して、家路に向かうのだ。

 つい最近「フーテンの寅さん」でブレイクする前の苦悶する渥美清の若き日を描いたドラマ「渥美清 おかしな男」を観た。渥美清も渥美を演ずる俳優柄本佑もイイ。

「孤立してるのはつらいから、つい徒党や政治に走る。孤立してるのが大事なんだよ。なぁ、生きずらいかもしんねぇけどさ、お互い孤独でいようや。」

というセリフが印象的だった。これって、御大のメッセージそのものだ。まるで「life」じゃないか。

 「純情」に送り出されるように、長いReverenceのあとで、ライブは終わった。フォーラムの出口で見知らぬ観客が、「ああ、夏も終わりだなぁ」と呟いていた。いや7月22日だから夏はこれからなんだが(笑)、その気持ちは実によくわかる。

■この日のこの一曲

♪AKIRA

 子供の世界のドラマを超え、私達聴き手に直接ボールを投げて問いかけてくるかのようだ。夕日に向かって家路を帰ってゆく御大の姿とも重なる。

 尊敬するAKIRAともお別れだ  自信はないけど一人でやってみよう
 夕日に向かって走っていく あいつの姿が忘られぬ
 生きていく事にとまどう時  夢に破れさすらう時
 明日を照らす灯りが欲しい時   信じる事をまた始める時
 AKIRAがついているさ  AKIRAはそこにいるさ
 シュロの木は今も風にゆれている

 ここのくだりは何度聴いても胸が詰まる。「誰の心にもAKIRAはいる」という当時のキャッチコピーは至言だ。
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 そしてそれから2年。いろんなことがあったし、あったと思う。しかし、燃えたぎる70歳となった御大は、こむら返りを乗り越えてステージに帰って来てくれる。次のa dayが待っている至福に心の底から感謝したい。注げる愛情は、ビンを逆さに振るように,全部注ぎ込もう。♪愛しても愛しても愛しすぎることはない。愛しているぞ、御大。

 追いかけ再生のようなささやかなカウントダウン日記もようやく追いつきました。孤高のサイトを気取って勝手に個人的なことを独断で書いていましたが、お読みくださった方々には、深謝申し上げます。ありがとうございました。
 読めばわかるとおり、行けなかったライブはたくさんあるし、行った方の数だけの大切なライブがあるはずです。もっともっと素晴らしいa dayが眠っているに違いありません。今度は、あなたのa dayをぜひ聞かせてください。

 そして「吉田拓郎」という人と音楽がいかに素晴らしいものであるかという楔<くさび>を、この世に、歴史に、これでもかとたくさん打ち込んで生きたいものです。
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